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奈障運だより 第22号 - 奈良県障害者運転者協会

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奈障運だより 第22号 - 奈良県障害者運転者協会
目 次
40 周年記念誌発刊を祝して
発刊のことば …………………………… 奈良県障害者運転者協会会長 楢原 泰彦 1
祝 辞 ………………………………………………… 奈良県議会議員 新谷 綋一 2
祝 辞 ………………………………………… 奈良県健康福祉部障害福祉課 課長 3
40 周年に寄せて… ……………………… 奈良県立平城高等学校 校長 町田 健一 4
奈良県障害者運転者協会の 40 周年を祝して ……………………………………… 奈良大学附属高等学校 前校長 武田 博利 5
奈良県障害者運転者協会発足 40 周年をお祝いして
…………………… ( 学 ) 青丹学園 関西学研医療福祉学院 学院長 樫葉 周三 6
祝 辞……………………… 奈良県身体障害者福祉協会連合会 会長 坂下美恵子 7
生き生きと暮らせる「共生社会」の実現を………………………… 顧問 橋本 和信 8
奈障運設立 40 周年に寄せて… ………… 東京都身障運転者協会 会長 中島 浩司 9
奈障運創設 40 周年を迎えて… …………………………………… 元会員 万歳 敏夫 10
時代の変遷と障害者運転者団体の役割 ………… 立命館大学 教授 樋口 宜男 11
障害者ドライバーの先駆者たち ………………………………… 大阪 吉本 昭 12
私と電卓 ………………………………………… パソコン教室 講師 柳沼 寿徳 15
皆さんと一緒に歩んだパソコン教室 ………… パソコン教室 講師 金井 洋子 17
40 周年を迎えて
40 年間を思い出すままに … ……………………………… 元副会長 中出 邦子 19
ボランティア部の活動を振り返って ………………………… 副会長 灰藤 節子 20
40 周年を迎えて ・……………………………………………… 副会長 西村佳代子 21
安全・安心な「ノーマライゼーション社会」の実現に向けて ………………………………………… 平成 15・16 年度事務局長 清水 煌三 22
奈障運に入会して ……………………… 平成 17・18 年度事務局長 高森 敏夫 24
「奈良県障害者運転者協会」創立 40 周年にあたって … …… 事務局長 汐碇 昭義 25
奈障運と私 ………………………………………………………………… 山田 悦子 26
40 周年に思う事 … ……………………………………………………… 橋本 弘子 27
奈良県障害者運転者協会に入会して …………………………………… 南埜 淳子 28
奈良運転者協会 40 周年を迎えて … …………………………………… 木村有美子 28
私と運転免許とカーライフ
自動車生活を振り返って ………………………………………………… 磯田 恵三 29
私と自動車運転免許証の取得 …………………………………………… 保井とし子 31
安全運転フェスティバルに参加して …………………………………… 中村 重信 33
語り継ぐ心 ………………………………………………………………… 野本美代子 34
パソコン教室 ~ 新年会 ~ 日帰りレク
パソコン教室のアシスタントとして …………………………………… 山本 信義 35
私とパソコン ……………………………………………………………… 中川 公子 35
私とパソコン ……………………………………………………………… 奥田 秀 36
奈障運の仲間に入れていただいて ……………………………………… 宝田 鈴子 37
パソコンとの出会い ……………………………………………………… 澤田 孝夫 37
平成23年の新年会盛大に行われる ………………………… 副会長 齋藤 恵彦 38
淡路島への日帰り旅行 …………………………………………………… 丸田 富子 39
日本の身障者ドライバーの先駆者達(ブログより) … ……………… 野本美代子 40
ご寄附および協賛広告のお礼、功労者・団体の表彰 ………………………………… 43
役員名簿 …………………………………………………………………………………… 44
奈障運 40 年間の歩み
①総会開催 ……………………………………………………………………………… 45
②安全運転競技会 ~ 安全運転フェスティバル ………………………………… 46
③パソコン教室 ………………………………………………………………………… 48
④人権学習(車椅子体験学習) … …………………………………………………… 49
⑤奈良県障害者運転者協会と関連の歩み …………………………………………… 50
編集後記……………………………………………………………………………………… 67
発刊のことば
奈良県障害者運転者協会
会長 楢 原 泰 彦
平成7年に岡本章会長から大役を引継ぎ、皆様のご協力を得て会長を務めさせて頂いており
ます。障害者は、自動車がなければ行動範囲が制約され社会参加ができないため、免許取得や
自動車の購入及び障害者専用の駐車場の設置などを社会に訴える活動をしてきました。これら
の活動成果が着実に根付いているものと思われます。障害者に対する社会の目も大きく変わり
ました。一般の人と共存する中で障害者も社会活動していくことが創立当初からの自立更生と
の理念であります。
しかし、会員本人が外出すら出来ず、さらに、寝たきりの親兄弟を障害者が介護していて我々
が年老いて動けなくなれば、どうなるのでしょうかとの相談を受け、心を痛めています。また、
一人暮らしの高齢者が誰にも看取られることなく往生される報道がありますが、我々も高齢者
の域に達し障害者に何ができるのか。また、どのような事を若い世代に残すことができるのか
を考えた時に、それは、最近希薄になった「人と人の交流であり、絆」ではないかと思われま
す。我々40年の歴史の中で団結とボランティアを行ってきたこの精神の優しさではないかと
言えます。
行政が特別養護老人ホームを準備していますが、入居するのに数年待たなければなりません。
民間では、有料養護老人ホームや高齢者用賃貸マンションが急増していますが、高額な負担で
あり誰でも入れるものではありません。
少子高齢化の難題に対して、障害者自らができることを実行したいのです。一人ぼっちの老
後を迎えることがないような仕組みを考えました。自分が介護される側に立った優しい介護を
提供して頂きたいのです。家族を含め複数の仲間が共同で順番に介護していくのですが、決し
て、
「高齢者を一人にしない!」寂しい老後を迎えさせない障害者を孤立させない施設を作る
ことを考えました。
自分達が余暇の一部を提供することで、老後の生活に役立つことになります。今まで、自分
や家族のために生きてきましたが、これからは一人寂しい高齢者のために私たちが持っている
知識と経験を活用したいのです。障害者が高齢者の介護をし、高齢者が視覚障害者の目になる、
足の不自由な人の車いすを押す、耳の不自由な方の耳になる。このような障害者と高齢者の共
同介護は、自分の存在が人に役立つことを自覚させ、自分の生きがいを見つけることもできる
と思います。まさに一石二鳥ではありませんか。
廃校やその他の施設などの再活用などにより安心して暮らせる施設があることは、私たちが
生きていく励みにもなります。皆様が本主旨をご理解頂き、協力頂きますれば、安心して暮ら
せる老後環境を実現する飛躍の年としたいものです。皆様が日本に生まれたこと、奈良に住ん
でいることが「よかった!」と感じられる住まいづくりを立ち上げて行く決意を、40周年記
念の挨拶とさせて頂きます。皆様のご協力をお願い申し上げます。
-1-
祝
辞
奈良県議会議員
奈良県障害者運転者協会顧問
新 谷 綋 一
奈良県障害者運転者協会創立40周年を心よりお祝い申上げます。
今日まで楢原会長さんを中心に役員、会員皆様方が絆を大切にされ、信頼と団結、一致
協力のもと積極的な活動は障害者福祉の充実、並びに奈良県福祉の向上、県政発展に多大
の貢献しておられる所であり、そのご功績に敬意を表し、感謝致します。
協会を結成された昭和40年代より、我が国は車社会に突入、障害者の運転免許習得も増
加、行動も広くなり、車は便利で豊かな日常生活のパートナーとして無くてはならない存
在であります。一方、痛ましい交通事故は後を断ちません。その様な状況の中で皆様方に
は交通安全、事故防止のために県警察の協力を得て「奈良県安全運転フェスティバル」を
始め、交通マナーや、更なる運転技術の向上に講習会や研修会、高校生ボランティアの育
成、交流会を開催される等、障害者がたくましく生きる力、自立心を養い、社会連帯意識
を高め努力しておられる姿に頭が下がります。
障害者に対する国や地方行政は、措置費制度から支援費制度に、そして自立支援法にと、
ここ10年は机上による制度改正が行われ、余りにも現実離れの改正に関係団体あげて訴え
成果をおさめられた所であります。
昨年の平城遷都1300年の節目のように、法治国家、福祉、文化国家として、事の起こり、
始まり、原点に返り、みんなが助け合う明るい社会創りに頑張りたいものであります。
エネルギーが変わっても車社会は続きます。安全運転を基本に、一層のご活躍と県障害
者運転者協会が40周年を機に、ますます発展されます様に、会員皆様方のご幸福を心より
お祈り申し上げ、あいさつと致します。
-2-
祝
辞
奈良県健康福祉部障害福祉課長
「奈良県障害者運転者協会」が結成40周年を迎えられたことをお慶び申し上げます。
貴協会は結成以来、幅広い活動を展開され、奈良県の障害者の福祉の向上に大きく貢献して
こられました。
運転免許を取得する障害者が皆無に等しい時代から、障害者の運転免許取得のために尽力さ
れてきたことにより、現在では多数の障害者の運転免許取得が進み、活動の場が大きく広がり
ました。また、交通安全・交通事故防止の指導のための事業をはじめ、各種研修会や交流会の
開催、学生ボランティアの育成や啓発活動の実施などにより障害者の自立と社会参加の促進に
大きく貢献されてきたことに、深く敬意を表する次第です。
この40年間で障害者をとりまく状況は大きく変化し、県においては平成17年度に策定し
た「奈良県障害者長期計画2005∼ともに生きる」の後期計画と平成18年度に策定した「奈良
県障害福祉計画」の第2期計画を一体とした「奈良県障害者計画」を平成22年3月に策定し
ました。
計画では、
「障害のある人が誇りをもって人生を歩むことができる地域社会の実現」と「誰
もが社会の一員として包み込まれお互いに支え合う地域社会の実現」を新たな基本理念として、
福祉、教育、雇用、保健、医療、まちづくりなど、生活全般を通じた幅広い分野での施策の方
向と、障害種別ごとの取り組みや各種の数値目標について定めています。
この計画にもとづき、障害福祉の取り組みを確実に進めていくためには、行政だけではなく、
皆様方のご理解とご協力が必要不可欠であると考えておりますので、より一層のご理解・ご協
力を賜りますようよろしくお願いいたします。
最後に、奈良県障害者運転者協会のますますの発展を祈念申し上げて、お祝いの言葉とさせ
ていただきます。
-3-
40周年に寄せて
奈良県立平城高等学校
校長 町 田 健 一
奈良県障害者運転者協会発足40周年おめでとうございます。
平城高校はこれより8年遅れて創立、ことし32年目を迎えます。
「人に優しくなれるため
にどうすればよいのか?」視野の広がり、思考の深まり、そして身体的成長を通じ、子どもか
ら大人へと大きく変貌する高校3年間に、この問いに対し答を教えるのではなく、さまざまな
経験を通して自ら何かを感じてほしいと思っています。
平成12年、貴協会の平本様を皮切りに、清水様、高森様、汐碇様にご来校、講演をいただい
ております。
「障害者から見たバリアフリー」
「ノーマライゼーションの確立」等、今の個人や
社会に必須の課題への生徒たちの理解にたいへん役立ちました。併行して、アドバイスをいた
だきながらの生徒自身の車椅子介助体験学習が定着してまいりました。これらを通じ「ともに
生きる」意識が生徒、職員の心の中に、体の中に組み込まれていっているはずです。ご支援に
感謝いたします。
私ごとですが、1月に橿原の運転免許センターで免許更新を行いました。30年間東京に暮
らし(もちろんそれだけが理由ではないですが)完全なペーパードライバーになってしまって
います。免許証は身分証明書に過ぎないという情けない状態です。先日、貴協会の方から「運
転は楽しいですよ、世界が広がりますよ」と励まされました。
会員の皆様、今後ともあらゆる機会に社会へのメッセージを発信し、また健康に留意され、
楽しい日々、豊かな人生をお送りいただきたいと願っております。
-4-
奈良県障害者運転者協会の40周年を祝して
奈良大学附属高等学校
前校長 武 田 博 利
奈良県障害者運転者協会が40周年を迎えられましたことを心からお慶び申し上げます。
本校の生徒達が、貴協会の行事に参加させていただきまして、早や10年の歳月が経ったか
と思います。この間、生徒会役員を中心とした多数の生徒達が貴協会の行事に参加させていた
だき、自ら進んで社会参加していく大切さを実感するとともに、今後、社会と自己との関わり
方について、どのように受け止め実践していくかを考える良き機会になっていると思います。
以前、本校の生徒が、何回か障害者の外出支援を目的とした花の博覧会や美術館での見学等、
各種イベントに参加したことがありましたが、その折、帰校してから、
「車椅子を押しての行
動は、初めての経験で、少し緊張したけれど、すごく楽しく一日を過ごすことができました。
いろいろ心遣いをしなければならないのは自分達なのに、逆に車椅子の方に、自分達がやりや
」と言っていたのを思い出します。
すいようにずいぶん心遣いをしていただいたと思います。
また、橿原市の県運転免許センターでの、安全運転競技会では、受付や開会式、閉会式の手
伝いや自動車の誘導等での仕事をさせていただき、参加されて障害者の方々の元気な姿から、
自分たちも多くのパワーを得たようでした。
ある土曜日の昼下がり、校長室で校務をしていますと、友人の奈良市会議員のH氏から、
「今、
焼肉パーティーのボランティアで、奈良大附高の生徒が頑張っているよ。
」との電話がかかり
ました。電話を替わっていただき、生徒と会話しましたが、生き生きとした話声で、和やかな
雰囲気で楽しく交流をしてくれ、多くのものを体得していることを感じました。
このように、奈良県障害者運転者協会での様々な体験は、生徒達の意識を高め、成長してい
くための大きな助力になっていると考えられます。これからも県障害者運転者協会をはじめ、
他のボランティア活動や体験学習に参加することを広げ、多くのものを学ばせたいと思ってい
ます。
最後に、奈良県障害者運転者協会の益々の発展を祈念いたします。
-5-
奈良県障害者運転者協会発足40周年をお祝いして
(学)青丹学園
関西学研医療福祉学院
学院長 樫 葉 周 三
このたびは奈良県障害者運転者協会発足40周年を迎えられましたこと心よりお慶び申し
上げます。
一口に40年、発足から今まで多くの苦難の道のりではなかったかと存じます。障害をお持
ちになった皆様方にとり生活の拡大や社会への参加を行うことのハードルは私どもに計り知
れないものであったかと思います。
昨今バリアフリー化が叫ばれ、近代社会では徐々に生活しやすい環境になってまいりました。
しかし一歩中に入ってみるとまだまだ多くの問題を抱えております。又現在の社会にとり生活
手段として車は必要不可欠な存在になってまいりました。そのような社会状況の中まだまだ環
境面で改善してゆかねばならないかと思います。
今後様々なハードルをクリアする上で皆様方の積極的な社会への参加がその引き金になる
のではないでしょうか。
より暮らしやすい街づくりを目指し大いに社会進出をしていただきたいと思います。私ども
(学)青丹学園
関西学研医療福祉学院では医療福祉の分野で現在皆様方の生活支援に携わる
人材育成をおこなっております。まだまだ若い人材で至らぬことが多々ありますが、皆様方の
生活支援ができるよう日夜勉学に励んでいる次第です。今後皆様方とともに手を携え合い将来
の医療福祉の支援者として皆様方の生活を支えたいと思います。
最後に協会ならびに会員皆様方のご健康と益々のご発展をお祈り申し上げますと共に今後
50周年さらに数十周年を重ねていかれますことを願い、お祝いの言葉に代えさせていただき
ます。
-6-
祝
辞
奈良県身体障害者福祉協会連合会
会長 坂 下 美恵子
ここに希望にあふれた40周年をむかえられますことは、非常におめでたいことと思い一言
お祝いの言葉を述べさせていただきます。
私は昭和55年に運転免許を習得いたしました。もう30年も経過したと思いますもののそ
れよりも10年も前にこの協会ができ皆様方が安全運転を基本に今日まで過ごしてこられま
したことに対して心から感謝申上げたい気持ちいっぱいでございます。
1年に1度の安全運転フェスティバルに毎年参加させていただき安全運転の基礎をもう一
度確認の意味も含めた上の参加でございます。昨年もどうにか賞を頂くことができました。私
は年齢も高齢でもあるしできるかぎり車には乗らないようにしたいと思いますけれど、どうし
ても役員をしております関係で毎日ほとんど乗車することは多くなり、また遠方にも出ていか
なければならないことも多々ございます。そのような時いつも当協会を思い出し絶対に安全運
転でと心の手綱を引き締めて運転をいたしております。車は私たちの足でもありなくてはなら
ない物であります。
車に乗ってこそ一人前の仕事になると思います。非常な高齢ではありますがあと少し乗せて
いただきたい、そして頑張りたい、と考えています。これからもいろいろとお世話になります
がこの協会に入れてもらっている限り安全運転であると信じている私です。
これからもお世話になりますがよろしくお願いを申しあげ、お祝いの言葉に換えさせていた
だきます。
-7-
生き生きと暮らせる「共生社会」の実現を
奈良県障害者運転者協会
顧問 橋 本 和 信
奈良県障害者運転者協会が40周年の記念すべき年を迎えられことに心よりお祝い申し上
げます。設立以来毎年、奈良県安全運転フェスティバルを開催され、障がい者の安全運転技術
の向上を図ると共に各種事業を通じて社会参加を容易にし、自立更生を図られてきたことに敬
意を表する次第です。
さて、40年前の昭和46年当時は、障がいを持つ方々は家から外出したがらず、いわゆる
閉じこもりの家庭が多かった時代でありました。外出しようにも障がい者用の車も普及してお
らず、自身が運転免許証を取得するにもそのために整備された自動車学校もなく、障がい者の
ための教習所の先生を東京からお迎えし、広場に白線を引いて運転の練習をされ、苦労して運
転免許証を取得しても今日のようにバリアフリーの環境整備も整っていない中での車での外
出は、駐車場やトイレなどで不便を強いられていました。
もとより、障害者の自立、社会参加の支援は障害者基本法に則り国、地方公共団体が担うべ
きものとされていますが、協会に於いては120余名の会員とボランティアが一体となって安
全運転フェティバルや車椅子体験学習、ボランティア交流会などの独自事業を行い、積極的に
障がい者の社会参加を図られてきました。
また、ノーマライゼーションの理念のもとに、国や県、市に対して障がい者用の駐車場やガ
ソリンスタンドにトイレの整備、高速道路の障がい者割引、宿泊施設の改良などの陳情活動に
よるバリアフリー化は、障がい者にとって意義のあるものとなっています。
そして、数々のご苦労を積み重ねられて迎えられた40周年の今年は「辛卯(このとう)」
のうさぎ年で跳ねる飛躍の年ともいわれます。
来るべき次に迎える50周年に向けて会員の皆様が一体となり、共に生きがいのある生き生
きと暮らせる「共生社会」の実現を求めて大きく飛躍されることをご期待申し上げお祝いのご
あいさつといたします。
-8-
奈障運設立40周年に寄せて
東京都身障運転者協会
会長 中 島 浩 司
奈障運設立40周年おめでとうございます。
私は貴会の30周年大会に参加させて戴いた時の事を思い出しました。会場は国会議員、
県・市・町・村の多くの議員さんのご参列の外、高校生達が礼儀正しく、きびきびしたボラン
ティアの姿に感動を覚えたものでした。その身障者に対する若々しい感性に接して今の若者は
掴みどころが無く頼りないと独りよがりを嘆いていた自分を恥ずかしく思ったものでした。
奈障運は色々な事業を実施されておられて、その中で特に印象深い想いでの一つとして桜井
市の自動車教習所での安全運転競技会に参加させて貰ったことです。その事業は40周年を迎
えられた現在も継続されていて、実にすばらしい事と敬服しております。また貴会報掲載に有
りますように平城高校、香芝東中学校等沢山の学生たちに車椅子体験の事業を実施されている
事業のあり方に改めて敬意を表する所です。これ等数々の活動を通して身障者も同じ人間とし
て生きている事を多くの人々に体感して貰える人権学習に力点を置かれて居るのも奈障運の
優れた特色だと感じています。私達、都障運も何らかの行動をおこさなければと啓発されてい
る今日です。
思えば、昭和34年2月に「身障運転免許獲得運動」が産経新聞に取り上げられ、昭和35
年12月20日に身障者運転免許取得制度が実施されました。昭和39年11月1日に「駐車
禁止除外指定車」標章が警視庁より発行、現在全国で身障者用駐車場の整備が進みました。し
かし一般者が我物顔に堂々と駐車して居るのが実態です。
必要な時必要な人が利用出来ない此の現実を解決するには欧米等の罰金制度も視野に入る
事も考えられますが、その前に日本人の身障者への思いやりを高める方法の一つとして、佐賀
県が積極的に推進しているパーキング・パーミット制度を導入することも重要ではないでしょ
うか。都障運ではこの佐賀県方式を東京都でも採用して戴くように現在都議会に働きかけてお
ります。
貴県に置かれては此のパーキング・パーミット制度をご検討戴き、貴会と共に推進して実現
出来る事を願っております。
奈障運40周年記念大会の盛大なご成功とご発展を祈願して、ご挨拶を申し上げます。
-9-
奈障運創設40周年を迎えて
元会員 万
歳 敏 夫
奈良県障害者運転者協会創立40周年、おめでとうございます。この会の創設のお手伝いを
した一員として今日の姿をみて感無量なものがあります。故岡本章元会長が発起され、仕事が
終わった夜分お手伝いを頼まれた者数人が、私宅に集まって相談したことが思い出されます。
そうして昭和40年頃から具体案を計画、まず脚下の奈良市の障害者で車の免許をもち運転
されている方、運転免許を取りたい人などの調査をし、順次、他の市・町・村へと呼びかける
という手順で出発しました。現在の楢原会長さん方々も、この頃から参画して下さったと思い
ます。
やっぱり運転免許を取りたいと言う希望が多くありましたので、第一段階として、運転免許
取得の講習会を京都府に近い青山町の空き地を借りて、車3台?指導員3名?で始めました。
ところが、改造した車や専門の指導者もおりませんでしたので、普通車で取れる方を中心に
進めました。それから数か月後、場所を木津川沿いの空き地に移り、東京から障害者専門の指
導者と改造車3台を持って来て下さり、改造車で受講できるようになりました。それは昭和46
年だったと思います。
この年に免許証を取られた方や、既得者の方が中核となられ、奈良県障害者運転者協会が設
立され、ヨチヨチながら障害者自立の援け、会員の親睦と絆を拡め、堅くする第一歩を踏み出
しました。
それから40年会長を中心に各役員、会員の方々の御盡力、支援下さった関係機関の方々の
お蔭で今日の様な充実した内容と実践する会に育てて戴いたことを心から敬意と驚きの眼で
拝見致しております。
どうぞ、皆様、この会員は、ずっと無事故、無違反、安全運転のオーソリティであられると
共に、障害者の睦ましい集いと研修の場として、社会に貢献して下さいますようお祈り申し上
げます。
- 10 -
時代の変遷と障害者運転者団体の役割
立命館大学 教授 樋 口 宜 男
日本身体障害者団体連合会自動車協会理事
(日本身障運転者協会顧問)
奈良県障害者運転者協会創立40年、誠におめでとうございます。一口に40年と言いますが、
大変な努力だったことと思います。あらためて深く敬意を表したいと思います。
この40年の間に、時代は大きく変わりました。財団法人自動車検査登録情報協会のデータに
よれば、協会が創立された昭和47年には1,092万台だった乗用車は、平成22年現在で5,790万台
に増えています。自動車を欲しい人は誰でも自動車が持てる時代になったばかりか、若者たち
の自動車に対する憧れがなくなりつつあるという40年前では想像もできない状況になってい
ます。
自動車は下肢障害者にとっては「最もありがたい福祉用具」ですが、自動車が当たり前に持
てる時代になって、障害者が自動車を運転できることに対する感謝の気持ちが薄れてしまって
いるのではないでしょうか?
障害者が自動車を運転するということが最初から許されたわ
けではありません。昭和20年代の後半から、小山力太朗さん、原徳明さん、藤森善一さんなど
の多くの先達たちが、自分たちで自作の自動車を作り、正式な運転免許がもらえない状態なが
ら、警察と押し問答を繰り返して運転を続け、自動車が自分たちの生活を支えてくれることを
身を以って示し、障害者用の条件付きの運転免許を勝ち取って来られました。当時のことを知
る人たちが徐々に少なくなっている中で、先達たちが「最もありがたい福祉用具」を私たちに
残してくれたことに心から感謝し、それらの先達たちの足跡をしっかり記憶し、さらにその記
録を後世に残していく努力が必要だと思います。
藤森善一さんの足跡はフジオートのホームページ内のhttp://www.fujicon.co.jp/company/
05root.htmlでご覧頂けますから、ご興味のある方は是非ご覧下さい。
時代の変遷という観点から見ると、高齢者が激増している状況も無視することはできません。
少子高齢化が進むと、30年後、50年後には年寄りばかりの社会になってしまいます。車いすの
走りやすい歩道の整備や、「買い物弱者」と呼ばれる高齢者の買い物対策、お出掛け支援など
は一人高齢者だけの問題ではなく、障害者にも共通する問題です。
障害者の運転者の会は単に「運転者の会」に留まらず、広く「交通」という切り口から高齢
者や障害者を取り巻く社会の状況を分析し、社会と共生する道を見出していかなければならな
いのではないでしょうか。40年という節目を迎えた奈良県障害者運転者協会がまた新たな課題
に直面しているのかも知れません。会の益々のご発展をお祈りすると共に、奈良県障害者運転
者協会が新たな課題に向かって果敢に挑戦され、道を拓かれることを切に希望致します。
- 11 -
障害者ドライバーの先駆者たち
大阪 吉
本
昭
奈障運40周年ですが障害者自動車運転免許取得が認められたのは、51年前、昭和35年12月20
日施行の新道路交通法によってです。戦後10年を経て昭和30年代に入り高度経済成長下のモー
タリーゼーション(自動車の大衆化・自動車が生活に欠かせなくなった社会状況)には、戦前
からの道路交通取締法では対応できず障害者運転には視聴覚障害者の運転資格がなく、下肢障
害者は明確に規定されず、新道路交通法の成立が待たれました。原動機付自転車が普及して、
下肢障害者も手動三輪自転車に同じ原動機を取付けても殆んどの府県で認められない侭、自立
のため止むを得ず走行していたのが「障害者ドライバーの先駆者」と呼ぶべき人たちで、私も
その一員でした。
新法の施行で原付免許として漸く認められ、明記された障害者自動車運転免許への挑戦が始
まりましたが、歩行不能・困難故に日常生活(商用・通勤・通学・通院・旅行等)に必要不可
欠の自家用車の運転免許取得は、手動運転装置付AT車を用意して府県警本部で運転が見込め
るかの適性判定を受け自動車学校に持込み練習。公安委員会の厳しい試験に臨まねばならない
のが、手動運転装置は製品が無く、AT車種は僅かで高価。故障勝ちとの困難に直面していま
した。
その中で新法と同年発売の軽乗用車マツダクーペのAT車に一本のレバーを引けばアクセ
ル、押せばブレーキの手動運転装置取付車を購入。自動車学校へ持込み、練習を重ね免許を取
得する例が出始めました。価格は30万円代でした。残念ながら私は、家業で竹材を積むために
クーペには乗れず、普通貨物車に乗ろうにもAT車はなく両下肢マヒでクラッチを踏めないの
が、軽貨物車なら右足よりマヒの軽い左足で何とか踏めるので、当時キャブオール型(鼻ぺち
ゃで後部座席が長い)は富士重工の「スバルサンバー」東急くろがね工業の「くろがねベビー」
の二車種しかないのを荷台の広い「くろがねベビー」を選んだのが、同社初の手動運転装置の
製作取付に手間取り、自動車学校へ持込み教習を受けられたのは同年末で、翌37年3月27日に
運転試験合格。28歳の誕生日でした。下肢障害者の軽貨物車の運転免許第1号でした。
大阪の下肢障害者の普通乗用車免許第1号は36年3月の吹田市の福村周次氏(当時41歳)で、
戦傷で両大腿部切断の義足となり、苦学して有名病院の薬剤師となられ、原付手動三輪車を経
ての自家用普通免許は夫人(健常者)が先ず取得して協力。ダットサン中古車を改造、クラッ
チは義足で踏んで合格。全国の下肢障害者運転免許でも第1号とされ、夫妻で何度もテレビに
出演。その苦労と喜びを話されました。同じ頃、驚いたことに下肢障害者が自分用の自動車を
知人に頼んで製作。陸運局の車両認定を受け運転免許を取得されたのが新聞に載りました。阿
- 12 -
倍野区の佐々木稔氏(当時51歳)で、車は大型の三輪オートバイに似ていました。同氏の勇気
に感動して連絡をとりましたが、同氏や福村氏や私のような例が東京・大阪始め全国に生まれ
るのには、運輸省の諮問に応え新法の障害者運転免許規定の明記に尽力されたのが東京の下肢
障害者渡辺聖火氏(当時56歳)でした。同氏は新法成立10年も前から「下肢障害者の自立更生
には車両運転が必要」と厚生車両人団を設立、機関紙「足」を発行。運輸省始め関連官庁に訴え
続けられ、私は同紙上で免許取得直後の福村氏の苦心談を読むのですが、毎号のように「免許
取得を早めるにはどうすれば!!」と叫ばれていたのが東京の小山力太朗氏でした。
昭和38年正月、佐々木氏から福村氏の要望される厚生車両人団関西支部結成の相談で集まる
との通知があり、両氏と大阪市内の下肢障害の中村光氏(当時39歳)村上徳正氏(33歳〉と私
の5名が運転免許取得者で、免許取得に挑戦中の下肢障害者が5名の集まりとなり、福村氏を
支部長として同支部が結成されるのですが、「厚生車両人団」との名称が堅苦しいので「大阪
身障者自動車クラブ」とも呼ぶことに決定。席上、福村氏の「苦心して免許を得たが、駐車禁
止地点が増えて行先から離れて駐車せねばならず意味がない。救急車・医師の往診車並みの駐
車制限緩和を要望したい」との発言に共感。これが下肢障害者車両の駐車禁止除外(駐車可の
ステッカー交付)運動の始まりで、翌年の東京パラリンピックに呼応しての第1回大阪市身障
者体育大会時の選手移動の運転奉仕を行い、パラリンピック終了後来阪予定の外国選手への運
転奉仕を大阪善意銀行に預託しました。同年8月、私は初めて上京。渡辺氏を訪ねると初対面
の私を泊め積年の苦労と当面の課題「駐車可のステッカー交付」の要望を続けていることを熱
く話されました。
翌39年、私は新型コロナAT車で普通免許取得。新型ブルバードAT車に乗り代えた佐々木
氏と日野コンテッサAT車の中村光氏とで東京オリンピック後のパラリンピック見学に開会
前日上京。翌日会場で待ち合わせた渡辺聖火氏と小山力太朗氏とで見学したのですが、初対面
の小山氏は43歳。両下肢マヒでも長足・長身で眼鏡とハンチングの似合うダンデイでした。オ
リンピックと同時に東京では駐車可のステッカーが交付。大阪ではパラリンピック終了直後外
国選手の来阪に合わせて交付されました。
翌40年9月、福村氏が急逝され、厚生車両人団は同41年社団法人厚生車両協会として認可さ
れますが、同44年、小山氏主導の東京都障害者運転協会の設立時に渡辺氏が病没され、同氏を
障害者運転の父と仰ぐ小山氏等は日本障害者運転協会の設立を目指されるのが、奈障運は、そ
の過程の昭和46年に生まれたことになります。当時、東京都身障運転者協会と山梨県身障運転
者協会があるのみで、後年㈱ニッシン自動車工業関西となる広陵町の山本敏喜氏の手動運転装
置取扱の創業間もなく、利用者の増加と結束を期して奈障運設立を早められたようでした。
私は同年末購入の日産プリンス・スカイラインの手動運転装置取付を同氏に注文。以後22年
間に乗り代えた4台の内3台を同氏に1台は外国車(フオルクスワーゲン)のため埼玉のニッ
シン本社(亀田藤雄氏)の取付でしたが、下肢障害ドライバーとしての両氏は最高の手動運転装
置を製作普及されました。奈障運会長の奈良市の印刷業岡本章氏(当時50歳位)も柔和な人柄
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で親しくなり奈障運の吉野への一泊ドライブや総理大臣杯の出る障害者運転競技大会にも参
加致しました。
昭和48年、日本身障者運転者協会が正式発足。会長は山梨県障運の原徳明氏(当時53歳)で
小山氏は事務局長に就任。副会長は複数制で佐々木氏の他、都障運の畑中良三氏(当時34歳)
宮城県の平田健治氏等で、厚生車両協会関西支部は日障運関西支部として移行。佐々木氏が支
部長就任。同年秋、石油シヨックによるガソリンの高騰と供給不安に障害者ドライバーも動揺
するが翌年沈静。各地に増える有料道路の無料化が課題となり関西支部も道路公団に要望する
が、5年後の昭和54年に漸く全国で半額割引が実現。日障運は全国大会を毎年開催。社団法人
全国脊損連合会も各県に支部を設け積極的に運動を展開した結果でしたが、日障運役員が全国
脊損連合会の役員を兼ねての活動もありました。
以上、私の出会った障害者ドライバーの先駆者たちの運転免許取得後20年。奈障運発足10年
頃までの思い出を述べましたが、山本敏喜氏、亀田藤雄氏以外の方は私より年長。免許取得時、
既に中年であられて全て逝去され、山本氏も昨年逝去され、亀田氏のみ健在です。ネットで「ら
くだぞうblog 日本の障がい者・自動車運転50年のあゆみ」を検索されれば、渡辺聖火氏、
小山力太朗氏、原徳明氏、畑中伸三氏、平田健治氏、亀田藤雄氏についての記述があります。
是非お読み下さい。何事も先駆者は民間人で早くから憂い、公(マスコミ・国会議員・官庁等)
に訴え続け、漸く事が成就しても短かく楽しみ、つまり「先憂後楽」して先立たれた姿を奈障
運設立40周年を祝われる皆様に改めて知って頂ければ幸甚です。
尚、私は大阪在住ですが父祖三代奈良県出身で、親族・知己・友人が奈良県に多く、生駒に
も住居があり、自家用車で往来する生活を続けています。岡本章氏、山本敏喜氏とのご縁で昭
和時代の奈障運の行事に参加させて頂きました。旧知の本誌編集部長 高森敏夫氏からの依頼
で拙文を寄稿致しました。御判読を感謝致します。
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私 と 電 卓
講師 柳
パソコン教室
沼 寿 徳
奈良県障害者運転者協会40周年おめでとうございます。この節目の記念号に寄稿出来ました
事、大変嬉しく、又、自分の40年を振り返る機会が出来た事嬉しく思います。当奈障運に私が
パソコン講師として入会したのが平成15年。清水運営委員の下、楽しくパソコン教室が開始さ
れ、1年後の平成16年奈障運だより第8号に「パソコン教室1年間を省みて」と題して寄稿さ
せて頂きました。それから8年メンバーは余り代わらず、故に、皆さんのパソコンの腕も上が
ってきたようで嬉しいです。さて私の40年、何と言っても生涯の仕事となった『電卓』の開発
で、その思い出を2回目の寄稿として、この40周年記念号に述べさせて頂きます。
気がつくともう古希(七十歳)。小さい頃から機械いじりが好きで、小学5年生で鉱石ラジ
オを総て手作りで作製。担任の中野先生が理科がお得意で友達3人誘ってその担任にお願いし
「ラジオの作り方」の課外授業をして頂いたりしていた。小6で4球ラジオ、中2で5級スー
パーラジオ等作って遊んでいた。
高校生活はただ受験勉強のみって感じ。大学は工学部、通信関係(昭和30年代にはまだコン
ピュータは無くラジオやステレオ等は通信の分野)でした。丁度2年生の終わり頃、卒論テー
マを探していた時、後にノーベル賞を受けた江崎玲於奈博士の江崎ダイオードの論文を読んで
面白いと思いテーマに選んだのでした。この江崎ダイオードとは普通、素子に電気を流すと、
電圧を増やすと電流も増えるのですが、ある物質ではある領域で逆転し、電圧を高くしてゆく
と電流が少なくなって行く、と云うものです。自然界ではありえない現象が確かに起きる。こ
んなことが起きるのはこの領域ではエネルギーが考えもしない所に保存されており、このエネ
ルギーを使って振動(発振)するはず、と思い装置を作ると案の定、発振が起こった。後で就
職しコンピュータ開発の仕事をするのに役に立った。何故ならコンピュータは発振器で創られ
るパルス信号を基準として動作しているからです。
昭和40年大学を卒業、シャープ(当時早川電機工業)に就職。希望した訳ではないが計算機
事業部に配属、当時まだ世の中にコンピュータは一般的でなくIBMや日立が大型コンピュー
タを作っていた。上司が社長に呼ばれ、時代に乗り遅れないために新規コンピュータの開発命
令が出されたが大型コンピュータは我社の体質に合わない。小型の目新しい『電子そろばん』
で開発GOサインが出てスタートした。これが世界の電卓の始まりであった。
その1号機は昭和40年に完成したものの大きさは現在のスーパーのレジ並み、価格は50万円、
およそ「そろばん」とは縁遠いものであった。それからもう40数年、開発機種は650種を超え
ている、開発の喜び、産みの苦しみを多く味わった。奈障運と同じこの思い出深い40年間を少
し、掻い摘んで紹介し「電卓の歴史」談としてみたい。
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まず1号機それは苦労の連続、大型コンピュータの小型化に欠かせないのが回路の小型化で
あるが、当時の回路は真空管がやっとトタンジスタに変わったばかり。その回路の殆どにトラ
ンジスタを使ったが、それでも、部品点数は3千点、大きさ、価格は、上述の通りである。
小さくするためには部品点数の削減が最優先で、まず導入したのが、米国でシフトレジスタ
ー方式が発明され早速取り入れた。これは、例えば13と入力したとき、まず“1”を入力、次
の“3”を入力したと同時に前の“1”は自動的に10と位を一つずらすだけで回路は10桁の場
合10分の1に削減されたのである。次にトランジスタの複合化で数個のトランジスタを小さな
缶(シャープペンお尻の芯入れキャップ程度の大きさ)の中に数10個入れ、集積回路と呼ん
でいた。
(最近の技術は1mm²に数億個のトランジスタ入れてしまう)そしてIC化電卓CS−
16Aとして完成。
次に734プロジェクト、1973年4月目標に世界最小最軽量の電卓作りを目指した。100名程で、
各技術部から人選され1つの部を作り任に当たった。NHK番組プロジェクトXでも取り上げ
られたが、これは表示に液晶を使いこの液晶のガラスを大きくしその上にIC化された回路及
びキーも全て一枚のガラス上に載せ初めてポケッタブル電卓(上着のポケットに入るサイズの
電卓)として3万円を切って世の中に出したのである。
このプロジェクトから定年(2000年)までひたすら電卓の開発に携わり開発機種は650機種
を超えている。思い出深い新製品を何機種か挙げて見よう。盲人向けの音声電卓、ゲームウォ
ッチの流行った頃ゲーム付き電卓(6機種)太陽電池を付けた万年電卓、薄さを追求した超薄
型電卓(厚み1.6mm)これは世界一であったので、未だに大英博物館に飾られている。ど
れも思い出深い製品であった。
これらは新製品開発を技術部として取り組んだものだが、電卓は売れ行きがよく、作っても
作っても売れる時代が昭和48年頃到来。ロボット25台を使って2秒に1台出来る製造ラインを
作製したものの24時間運転では4万3千台出来る計算になるが、そうはゆかないどうしても部
品にはバラツキがあり、個人的に取り組んだ仕事として、製造ラインが止まる対策にエクセル
で推定計算をして部品は不良率10万分の10以下を要求。不良率を改善、『実験計画法による工
程設計』と題して論文(自社技術誌)に発表した。
そして定年後2005年に江崎先生が1991年に受けたと同じIEEE賞(電子工業製品開発に関
する世界的な賞)を会社として受賞する事が出来た。過ぎてしまうとアッと云う間の40年間で
あったが振り返ってみると日々充実した楽しい仕事であった。
電子式卓上計算機〈コンペットCS−16A〉
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皆さんと一緒に歩んだパソコン教室
講師 金
パソコン教室
井 洋 子
全然パソコンを触ったことがない初めての人のために、パソコンの使い方を1から教えてほ
しいと頼まれました。
「何を教えたらいいですか?」
「それはわかりません。とにかくパソコンの使い方を教えて下さい。
」
大変な事を引き受けてしまったと思いました。主人と私は色々と相談しました。
「何を教えたらいいかなぁ…」
「何をしたいか聞いたらいいじゃないか?」
でも、その時の皆さんはパソコンで何をしたいかと聞いても返事は帰ってきませんでした。
いろいろと考えた末に、第一回目のパソコン教室ではスーパーのチラシをエクセルで作って
もらうことにしました。「先生、チ・ラ・シですか?」皆さん驚きの目できょとんとしておら
れました。私は黒板に大きく『特売、牛乳158円』と書きました。
「今日はこれをメインで売っていきますよ!」
「そしたら牛乳は大きい字にせんとあかんわ」
そこで皆さんにフォントサイズを大きくする方法を説明しました。
「なんか変わった文字にしたいなあ」
色々なフォントがあることを説明しました。それから次から次へと要望が出てきました。白
黒やったら安っぽいからカラーにしたいとか牛乳の文字の周りを星形に光らせたいとかスー
パーの地図を入れたいとか…。
皆さんの希望をひとつひとつ実現していくと皆さんもコンピュータってこんなことができ
るのかということがわかってこられたようで、何だか私もうれしくなりました。
町中のコンピュータスクールのような専門用語をできるだけ使わないようにということも
心がけました。ツールバーのBはぶっとい(太い)のBですよとか、ドラッグしてほしいとき
にはずりずりしてくださいとか…。ちゃんとしたコンピュータスクールの先生が聞いたらびっ
くりするような説明だったと思います。
私は皆さんのおかげでここまでこられたと思います。最初のコンピュータ講習からずっと参
加して下さっている生徒さんは、講習会の前に事前に集まって勉強会をされたり、今も大変熱
心にがんばっておられます。皆さんから寄せられる質問のひとつひとつにお答えすることによ
って自分自身も技能を高めていくことができると思います。
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パソコン教室活動内容(平成22年4月∼平成23年3月)
開 講 日
講 義 内 容
4月11日(日)
外字について(3月に引き続き外字の登録を勉強します)
5月16日(日)
エクセル又はワードを使ってチラシを作成する。
6月20日(日)
ワードを使ってチラシを作成する。
(5月に引き続き実施)
7月18日(日)
ワードでチラシを作成
8月は休講
9月26日(日)
名刺の作成
10月24日(日) 年賀状作成(ワードを使って年賀状を作成)
11月21日(日) 年賀状作成(年賀状を作成していて困ったこと等質問を受けます)
12月19日(日) エクセルで家計簿を作成する。
1月16日(日)
エクセルで家計簿を作成する。
2月20日(日)
エクセル(1月の続きを行ないますので先月の資料をご持参下さい)
3月20日(日)
平成22年度の講座内容で解らない点を質問を受けて回答します。
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40年間を思い出すままに
元副会長 中
出 邦 子
奈良県身体障害者運転者協会40周年おめでとうございます。はじめに、会長、役員、会員
の方々、そして既に故人となられた方々に感謝いたします。
思い起こせば40年前、障害者が運転免許を取得するのは容易な事ではありません。本当に
自分が健常者に混じり運転できるのかと、一抹の不安も禁じ得ませんでした。特に下肢に障害
のある人は、車の乗り降りやパンク、故障など乗る前から不安は尽きません。しかし、車を運
転する自分の姿を思い、ハンドルを握る限り健常者と対等な立場に立てると考え、悪条件の中、
真剣に練習に励みました。やっとの思いで、車を持ち込んでの試験に、1回目が駄目でも、2
回目、3回目とみんなが諦めずに頑張りました。
免許取得者も増えた頃、岡本さんの呼びかけで、障害者が運転しやすい環境を作ろうと、仲
間達が集まりました。しかし、話し合うにも場所もなく、困った揚句、私の家で時々話し合い
を行いました。其の後、協会が設立され、県の田原本センターを拠点に様々の活動が始まりま
した。車を使い旅行に行く事も多くなりました。これは運転技術向上と親睦の為でした。私の
家が集合場所で、そこで車の台数を減らし運転の確かな方に相乗りさせて貰いました。多いと
きには車10台を連ねるという事もありました。当時は、今日ほど車も多く走っていませんで
した。高速道路もほとんどありませんでした。暫くして山梨県まで会議を兼ねて行きました。
帰りは開通したばかりの中央道を通り恵那山トンネルに入ったら、中は明るく綺麗でびっくり、
そしてサービスエリアの素敵なこと、トイレも整備され多くの先人達の運動が実を結んだ事を
目の当たりに見ることが出来ました。
全国大会となった第10回安全運転競技会は、当時開催されていた神戸博覧会に行きました。
その時に私はパンダを初めて見ました。その日は交流のため私たちも奈良の旅館に分散して泊
まりましたが、翌日は橿原の安全運転競技会準備におおわらわでした。
その日の奈良新聞の記事には、県下に障害者のドライバー700人がいると記されています。
その後、第14回日本身障運転協会定期総会が京都で開催されました。私達は舞妓さんの踊り
の歓迎を受けました。誰もが初めてのことで大感激でした。翌日は保津川下りです。こんな機
会はめったに無いからと怖がる人達もみんなで手伝って船に乗ることができました。今思い出
しても楽しい思い出です。
安全運転フェスティバルでは、大半が男性ドライバーで女性は中々入賞できません。いつも
上位に入っている方に職業を聞いたらバスの運転をしていたと言われ、なるほどと納得しまし
た。その後、私は主人の介護の為、13年余り会の活動は十分出来ませんでしたが、奈障運の
旅行には誘って頂き、主人共々3度泊りがけで皆さんにお世話になりました。障害を持ちなが
らも40年前に免許を取得したおかげで、傘寿を過ぎた今も、行きたい時に自分の思うままに
出かけることが出来る幸せを感じています。もうしばらくは、安全にこの楽しみを味わいたい
と思っています。
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ボランティア部の活動を振り返って
副会長 灰
藤 節 子
奈障運設立40周年を迎えるにあたり、設立から現在まで会を育み発展に寄与されました先
輩たちに感謝し心からお礼を申し上げます。
私と奈障運との出会いは13年前にさかのぼります。私は、変形性両股関節症のための痛み
に悩んでいましたが平成8年に人工関節置換術を受けてから不便さは残りましたが痛みから
解放されました。入院するにあたり仕事を辞め3回の入院中に歩んできた自分の生き方を振り
返る機会を持ちました。そして今日までいろいろな人たちの支えがあって生きてこれたことを
痛感し今後は「社会の片隅を照らす存在」でありたいと強く思いました。折しも奈障運でボラ
ンティア部設立の動きがあることを知り入会させていただくことにしました。奈障運で考えて
おられたボランティアは「運転技術を生かして移動ボランティアを」という計画でした。当時、
私は運転免許は持っていましたが買い物など地理的に知っている近辺を運転する程度でした。
未知の場所へ行くことは不得手でしたので奈障運のこの計画には少なからず不安がありまし
た。しかし、身の回りで病院や買い物に行くのに困っている障害者や高齢者が多数おられるこ
とを知り安全運転に努めやってみようと決心しました。
平成11年から本格的にボランティア部が動き出してからは新聞で取り上げられたり、毎日
放送の「諸口あきらイブニングレーダー」で活動状況を放送されたりで、多方面から励ましの
言葉をいただき部員一同助け合って活動しました。
介護保険制度が普及するようになってからは会員から二種免許を持たない我々が、無償ボラ
ンティアとはいえ事故を伴うこの事業を善意だけで続けることに疑問の声が上がり、依頼者も
減少したのを機に取りやめることになりました。5年間ほどの活動でしたが事故もなく終えら
れたことは何よりでした。その上ボランティアは人様のためにするのではなく自分の心を磨く
ことだということを心に刻めたことは大きな収穫でした。
この移動ボランティアをするにあたり会員同士の連絡にインターネットを使ってメールで
連絡することになりボランティア部を中心に平成12年からパソコン教室が始まりました。当
時、国も施策の中で「IT立国」を掲げていましたし、奈障運パソコン教室開設を高く評価し
ていただいた電気通信普及財団及び丸紅基金から助成を受け、またよきボランティア講師の先
生に恵まれ10年以上もパソコン教室を続けることが出来ました。今では役員会の招集、議案
書・議事録の送受信はパソコンで、またいろいろな連絡、文書作成、表計算、難しい事柄の検
索という具合に高齢者は不得手だといわれるパソコンを使える立派な団体に成長したと自負
しています。
今後は次の世代の若い人たちに奈障運の精神と事業を引き渡すことが私たちの大きな役目
だと考えています。新しいアイディアを出し合ってさらに発展してもらいたいと切に願ってい
ます。
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40周年を迎えて…
副会長 西
村 佳代子
今から、40年前に奈良県において障がい者で運転免許を取得している方は皆無に等しく、
東京の「東園(あずまえん)」より、教習車2台を持って来ていただいての出張教習が奈良坂の
「ドリームランド」近くの空き地において、白線を引いてのにわかごしらえの教習所が始まり
でした。
「障がいがあっても運転免許を取って自由に行動がしたい」
「自立のために運転免許が
ほしい」「障がいがあっても車に乗れば健常者と同じ」と、健常者が免許を取得したいと思う
気持ちの何倍もの重みをもって、遠くは上北山村をはじめ奈良県各地から免許取得のために集
まりました。
奈良坂の空き地は、雨が降ると大きな水溜りができて、白線も消えて練習が出来なくなり教
習所といえるものではなく、木津の上狛に自動車教習所の跡地が見つかり、そこを使っての教
習となりました。私も、御所から橿原神宮と西大寺で乗り換え、近鉄奈良駅からバスで上狛へ
と学校へ行きながら通いました。今思うと若かったのと、免許を取りたいと思う気持ちが強か
ったのかよく通ったと思います。
県の運転免許センターへ「東園」の教習車で試験を受けに行った時も、試験官の方が障がい
者用に改造された車を持ち込んでの運転取得になれておられずに、一回で合格させて頂いて免
許を貰ったのはよいのですが、路上運転をした事がなく皆に相当恐れられた運転でした。今で
は足以上に仕事に、遊びにと車が体の一部となっており、運転できる事が私の人生におきまし
て、大きな助けとなっております。自動車は、一歩間違えば危険な道具となりますが、私達障
がい者にとっては原動力となります。
時代の変遷と共に福祉制度もかわりますが、私たち障がいを持ったからできること、また伝
えなければならない事があると思います。
ここに、初心に返り40年の歩みと共に、更なる安全運転を誓うものであります。
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安全・安心な「ノーマライゼーション社会」の実現に向けて
平成15・16年度事務局長
清 水 煌 三
防災・減災問題に関心を持つ障がい当事者として、平成16年秋期∼17年春期に放映されたN
HK朝の連続テレビ小説「わかば」は、色々な意味から新鮮で、また登場人物それぞれの淡々
とした日々の生活態度を、好感を持って観ることができました。
阪神淡路大震災の発生から7年目をスタートとした神戸、そして建築家であった父親を震災
で亡くした主人公「わかば」(主演・原田真希)が身を寄せた九州宮崎、二つの土地を舞台に
脇役達が主人公の成長を暖かく見守るストーリーでした。
「人生、生きているだけで丸儲け」
、これは、今は亡き女優・南田洋子が演じる母方の祖母「村
上のぶ」が随所で言うセリフで、お世話になった親族・知人等との別れも多い昨今、いささか
不謹慎とは思いつつ、私(重度障害者)個人の胸の内(捨てゼリフ)でもあります。
生活の基盤を造り始めたばかりの30歳目前の昭和44年12月末、建設省(当時)の工事、測量
中に飛来(クレーンで旋回中のシートパイルの落下・下敷き)事故で脊髄損傷を負い、車いす
が離せない身体になってしまった。当時では感染症などへの対応も十分ではなく、「余命10
年・・・云々」と医者から告げられたことが昨日のことのように甦る。しかし、先輩・後輩・友
人達、そして脚代わりになってくれた女房のおかげで何とかここまで生き延びることができた。
そこで、
「人生、生きているだけで丸儲け」となる。とはいえ、
「自分には何かやるべきこと
が残されているから、生かされている」という思いもあった。
受傷した40数年前と比べて「車いす」での移動は格段に容易になった。主に手動式の改造自
家用車で移動するが、車いすでの単独での行動となると、ハード・ソフトに加えてハート(こ
ころ)のバリアに随所で遭遇するのも事実で、例えば、写真‐1は不法駐車された雨中のバス
利用の状況である。インフラ整備の一端に関わってきた者として、責任を感じる部分も多く、
技術者・障害当事者の視点から少しでも役に立ちたいという思いを持ち続けてきました。
麻痺した下半身の褥瘡(床ずれ)や疼痛などがひどく、特に排泄の面から健常者との活動は
大変でしたが、土木学会土木計画学研究委員会、日本技術士会建設部会、NPO法人都市災害
に備える技術者の会、そして本協会をはじめとする障害者団体の活動を通して、理念「ノーマ
ライゼーション(共生化)
」の実現、さらには少子高齢化社会の活性化を目標に、
「車いすの視
点からのまちづくり」に関わってきました。
ちなみに、阪神淡路大震災の発生から10年目を機に、平成17年1月18日から5日間、神戸国
際会議場・国際展示場をメイン会場として開催された国連防災世界会議・第9回震災対策技術
展においては、本協会にも呼びかけて、いわゆる「災害時要援護者(災害弱者)」の立場から
パネリストとしてシンポジウムに参加し、迫り来る東海・南海・東南海地震や直下型地震、多
発する自然災害などへの取組みをアピールしました。
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最近では、災害時要援護当事者がまず問題意識を持つことの大切さを訴えるために、平成21
年1月17日「奈良市防災講演会」(写真‐2)の講師を務め、本協会の有志にも参加・協力し
ていただいた結果、読売新聞・毎日新聞への掲載、さらには19日夕刻の「NHKならナビ」へ
の出演と、それなりに問題提起できたのではないかと思っています。
写真‐2 奈良市防災講演会
写真‐1 雨中のバスストップ
一連の活動の成果として、平成16年10月23日発生の新潟県中越地震では平常時に構築されて
いた障害者団体のネットワークを通して、十日町市で被災した障害者施設の復興に貢献するこ
ともできました。
本奈良県障害者運転者協会は健常者を含む会員構成での活動が特徴の一つでもあり、文字通
り表題の「ノーマライゼーション社会の実現」に向けて継続的な活動が大きな目標といえます。
その意味から、未来を担う高校生を対象として実施してきた「人権問題学習」
(写真‐3、4)
への関わりは誠に意義深く、これからも引き継かれていくべきでしょう。
写真‐3 人権問題(車いす体験)学習
写真‐4 人権問題(体験発表)学習
なお、現行の本協会主催「奈良県安全運転フェスティバル」の名称・形態となったのは平成
15年から(それまでは「奈良県身体障害者安全運転競技会」)であり、事務局引き継ぎを含め
た苦闘が思い起こされます。
最後になりますが、奈良県障害者運転者協会の皆様方のご健勝と、協会のさらなる発展を願
って設立40周年にあたっての所感といたします。以上、ありがとうございました。
- 23 -
奈障運に入会して
平成17・18年度事務局長
高 森 敏 夫
会員歴の長い諸先輩方のご苦労に比べれば、それ程ではありませんが、私もそれなりの経験
をしました。交通事故による昭和46年からの長期入院から退院して、免許を取ろうと思った当
時、アクセル・ブレーキを左足で操作する自動車が自動車学校なくて入学が出来ませんでした。
それで、自動車学校に通うこともなく、飛び入りで仮免を受けることを決めました。
仮免の実技試験ですが、13回目ぐらいでやっとの合格でした。受験用紙には、名前を書く欄
が10ヶ所しかないので、用紙の追加をします。これで受験のベテランの仲間入り。試験官とも
顔見知りになり、落ちる度にワンポイントアドバイスを聞いて、次回、それだけに注意を集中
して運転して・・・ その繰り返しでした。
安全運転フェスティバルの競技会では、スタート位置から終了位置まで試験官に乗って頂き
ますが、仮免の実技試験では、試験コースの半分も走行しない内に、減点が不合格の基準に達
して「スタート地点に戻りなさい」で試験が終了です。それで一日が過ぎます。
私の最初のマイカーは、昭和40年後半から50年代の当時、日本中の道路で見かけたホンダシ
ビック1200㏄です。運転するには、左足操作のアクセルが必要でした。そのため、手先の器用
な弟が右のアクセルペダルと連動する左足用のアクセルペダルを作りました。それに気を良く
して改造申請のため陸運局に持ち込んだのですが、強度が足りないような指摘をされた覚えが
ありますが、そのままで乗り続けました。
大阪府民の頃、大阪府身体障害者団体連合会カークラブに入会して、昭和56年6月の九州ド
ライブ旅行に参加。北摂方面(池田市・茨木市)から参加された中に、その後に仲人になる方
や妻になるお方がいました。カークラブではこのようなご縁を頂きました。
平成元年には、生駒市に引っ越して、奈障運に入会しました。以来23年の会員歴ですが、平
成16年に理事の指名を受けるまでは、たまに行事に参加する程度の関わりでした。
それからは、事務局長、編集部長、パソコン教室運営委員などを務めさせて頂きました。と
りわけ、平成19年から20年にかけての「駐禁除外標章」の要望活動については理事の皆様と共
に活動をさせて頂きました。奈良県身体障害者福祉協会連合会(奈身連)の理事である立場あ
るいは日身連での知己の助言などもあり、広範囲に協力を求めることができて功を奏したもの
と思っております。
記念誌編集作業では、身障者ドライバーの先駆者のお骨折りの一端を窺い知りました。更に、
駐禁除外標章の活動でも思い知るのですが、国は、いつ何時、身障者にとって、とんでもない
不条理な法律や通達を出すかも分からず、福祉向上を常に目指す必要がありますが、決して抗
議活動だけの団体にならず、親睦や交流などにも一層力を発揮する団体であることを願ってい
ます。
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「奈良県障害者運転者協会」創立40周年にあたって
事務局長 汐
碇 昭 義
奈良県障害者運転者協会(奈障運)創立40周年おめでとうございます。奈障運の設立から
40年を迎え、これまで永年に亘り協会の活動にご協力いただきました初代会長から現会長楢
原泰彦氏、並びに役員、会員各位に厚く御礼申し上げます。
私は平成14年に奈障運に入会致しましたが、入会当初は会員になったというだけで、協会
の行事には総会のみに出席していただけでしたが、平成17年に定年で会社を退職した時に奈
障運の仕事を手伝って欲しいと依頼があり、役員になった次第です。
現在、奈障運事務局長として平成23年3月で2期4年を経過致しましたが、これまででき
ましたのは、ひとえに楢原泰彦会長はじめ、役員、会員の皆様のご協力があればこそのことと
思います。
現在、
「奈障運」の重要な活動は以下の3点だと思います。
①奈良県安全運転フェスティバル
②パソコン教室
③人権学習の一環としての、高校生への講演会及び車いす実習のお手伝い
上記の活動に当っては、企画の段階から実施まで役員を中心にして、準備から関係各位の協
力があり、実施しております。
特に、奈良県安全運転フェスティバルは「奈障運」発足から毎年途切れることなく実施され
ております。このことは会場を提供していただいております奈良県警察本部をはじめ、協賛い
ただいている奈良県、各市、自動車販売会社等の皆様に感謝とともに御礼を申し上げます。上
記の活動以外にも、会員の親睦のための一泊旅行や日帰り旅行、ボランティア交流会等を実施
しております。
これらの活動を実施するには役員、会員の皆様のご協力がなければ実施できません。さて、
今後の「奈障運」の課題を少し述べたいと思います。
①NPO法人化 ②役員の補充と充実 ③会員の増加
このような点が課題として挙げられると思います。①NPO法人化については、最近2年ほど
理事会において、検討してきましたが、NPO法人化をするには課題が多くあり現時点では検
討しておりません。NPO法人化は今後の「奈障運」の大きな課題ですがそのためには②、③
の課題の克服と重点となる活動で収入が確保できること等があげられると思います。いずれに
しても、これからの「奈障運」が益々発展して、次の50周年を迎えることができるように、
微力ながらがんばりたいと思います。
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奈障運と私
山 田 悦 子
奈良県障害者運転者協会創立40周年おめでとうございます。
私が奈障運と微力ながら関わりを持つ様になったのは、かれこれ20年前、心身障害児の母
親として悩み事の相談等を当時の奈障運会長でおられた岡本章様の元に毎々伺っていました。
ある日、会長から奈障運の運営を手伝って欲しいとの依頼がありました。私は日頃お世話にな
っている事もあり快諾しました。
奈障運での初仕事は、身体障害者とその御家族計40数名を引率する沖縄旅行のツアー・コ
ンダクターでした。当時の社会状況は身体障害者に対する認識が希薄なものでバリアフリー対
策などもお粗末なものでした。行く先々でトラブルに直面、私にとっては想像以上の荷の重い
ツアーでした。
しかし、参加者の中から「本当に楽しい旅行でした、アリガトウ」と労らいと感謝の言葉を
頂いた時、疲れは一瞬にふっ飛んだのを今でも鮮明に憶えています。ツアーも回を重ねるごと
にトラブルの回避方法も会得、近年、奈障運ツアーは恒例行事の一つとなりました。
また、恒例行事として毎年3月には、高の原野外礼拝センターにて、学生ボランティアの皆
様と一般のボランティアの皆様が合流して開催する焼肉パーティーは、食べ放題、おしゃべり
放題の楽しいパーティーです。その他、日帰りドライブ旅行や新年会、忘年会などがあり、こ
れらの年中行事の全てを青年部の責任者として担当してまいりましたが、私も高齢者の仲間入
りして以来往年の勢いは失いつつあります。しかし奈障運のために体力と気力がある限り頑張
りたいと思います。
奈良県障害者福祉センター ふれあい寮
- 26 -
平成21年12月5日∼6日
40周年に思う事
橋 本 弘 子
奈障運40周年おめでとうございます。初期の頃から仲間に入れて頂いた私は感慨深いもの
があります。まだまだ障害者は車の免許が取れない時代でしたが、関東の方から講師の方に来
て頂き黒髪山(元ドリームランド)で、運転の講習を受ける事が出来ました。その時に免許を
取られた方々が発起人となって立ち上げたられたのが奈障運です。
最初の頃は、皆さんが若くて車の大好きな方が多かった事もあり、行事の旅行は今の様にバ
スを使わないで自家用車での移動でした。今では考えられない事ですが自家用車10台位、連な
って走った事もありました。私は事情で一時中断していた会を25周年をきっかけに奈障運に戻
りました。
25周年は、奈良市史跡文化センターをお借りしての「身障ドライバーのあゆみ展」奈障運
の活動を写真(パネル)と、帝塚山高校映像部の学生さんの協力で、奈障運の行事や会員の日常
生活ぶり等をビデオに撮って、会場に来てくださった皆さんに観て戴きました。
30周年は、なら100年会館大ホールにて、明日へつなぐ贈り物「昨日 今日 明日」松本
真理子さんのマリンバ演奏や創作落語、手踊り等を公演しました。その時には幼児から高齢者
迄400名余りのボランティアの協力のもとで、会場へは超満員のお客さんに来て頂きスタッフ
一同、感激したことが今もはっきりと思い出されます。
現在はリフト付バスでの旅行(沖縄・北海道 他)、安全運転フェスティバル(競技会)、パ
ソコン教室、平城高校での車椅子体験、ボランティアとの焼肉パーティ等々の行事があり楽し
んでいます。
今年は40周年を迎えて又、新たな気持ちで一杯です。奈障運は、ボランティアと会員の協
力で成り立っています。これからもよろしくお願いします。
平成9年
(1997)
3月24日
奈良市史跡文化
センターにて
(創立 25 周年)
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奈良県障害者運転者協会に入会して
南 埜 淳 子
娘が障害者になって数10年になります。当時は病院へ行く以外の外出を嫌がり、ほとんど
自宅で過ごす日々を送っていました。そんな時に福祉センターで奈障運の方にお声を掛けてい
ただき入会しました。
入会後は色々な行事や催しに参加させていただきまして、娘も少しずつですが外出に馴れて
きました。最近ではヘルパーさんやお友達と仲良く出かけられるようになり、私も自分の時間
を作って友人とランチに行って、リフレッシュしております。
小さな雑用しかお手伝いできませんが、今後とも宜しくお願い致します。また、奈障運恒例
の日帰り旅行や1泊旅行がやってくるのを娘と2人で予定を組んで楽しみにしております。
奈良運転者協会40周年を迎えて
木 村 有美子
40周年おめでとうございます。会長をはじめ、歴代の理事、会員の皆様のお陰で色々な問
題の解決をしながら少しでも会の発展にと努めてこられた40年間は貴重な経験を積み重な
った年月として今の我々に引き継がれています。
時代の移り変わりが激しい中これからも奈良運転者協会の理念を柱により充実した活動に
して行く事が今の私たちの課題になると思います。
私が当協会に入会し、沢山の尊敬できる人、努力し頑張って生きている人との出会い、皆で
一つのことを成しえた時の喜び、色々なイベントなど皆で作った楽しい思い出は私にとりかけ
がえのないものです。
交通事故のない安全な社会、より良い福祉の向上、楽しく充実した生活をするために組織を
益々発展させることが私たちの務めだと思います。
- 28 -
自動車生活を振り返って
磯 田 恵 三
私は、昭和17年、7人兄弟の一番末っ子として生まれました。健康優良児でした。昭和20年
3歳の時にポリオにかかり下半身麻痺。不運は続きました、4歳の時、母が亡くなりました。
父は元気で経済的には恵まれましたが、母を失い不自由な身体なのに甘える人がいなくなり辛
い幼少時代でした。
私は、一般の小学校、中学校に入学でき卒業しました。今だったら養護学校があるのでそこ
に入ったと思います。父は学校に改善は何も要求していません。母がいたらしたかもしれませ
ん。そのため、本人の私は学校にいる時間帯は地獄でした。朝から学校終了まで教室の椅子に
座ったままです。トイレも学校が終わるまで我慢しました。11時頃からたまらないほど小便が
したいが我慢しました。学校の帰り道端でしますが、痛くて出ません。幼少ながら朝水分を取
らない知恵もつき、毛穴が広がり水分は汗で出す体質に変わりました。朝8時に用をたすと夕
方5時ぐらいまで大丈夫になりました。
自転車屋さんに子供自転車を三輪自転車にして、ペダルを手でこぐようにしてもらい、それ
で学校まで行き、一人の学友におぶってもらい教室に入りました。その美談は中学卒業までに
何回も新聞に載りました。子供自転車と同じスピードが出ました。田んぼに落ちたり、怪我も
しましたが自転車屋さんにそのことを言いませんでした。現在では怪我をされて訴えられたら
損害賠償を支払わなければなりませんのでそんな危険なもの作ってくれませんでしょう。その
三輪車のおかげで近所の子供達と活発に遊べました。座わり相撲を考案して遊んだり、レスリ
ングも野球もして遊び筋肉隆々のガキ大将になりました。その体験が今も役に立っています。
藤森さんという方が日本で初めて手動式の自動車で免許を取得したのを新聞で見ました。早
速、父に自動車を買ってくれと頼みましたが、父自身免許取立てでミゾにはめたりしている時
でそんな危険なものダメと言われました。20歳の時、父が癌で亡くなりました。人生が真っ暗
になり、将来が不安で死にたい気持ちでした。そのどん底の中で光となったのは自動車でした。
自動車を発注しました。父が亡くなって2ヵ月後、手動式のマツダクーペが入ってきました。
今でも自動車は父が変身したものだと思っています。
車を購入したが奈良県警では検討すると言って6ヶ月間運転免許試験が受けられず、自動車
学校へも行かず、直接試験場のコースを走り合格し21歳の時に免許を取得しました。
また、独学で簿記を勉強し、兄におぶってもらい商工会議所の簿記2級まで取りました。1
級を取れば大学卒とみなされ税理士試験を受けることが出来ます。しかし、難しくて1級は取
れませんでした。
病院で岡本前会長と知り合いました。趣味で挿絵を描いていたのが私の人生に幸運を招きま
した。岡本会長は印刷の版下、写植業をしておられて、絵は生かせると言われ岡本さんのとこ
ろで、写植を修行しました。修行中、奈障運設立のため車で県庁等関連機関を回ったのを覚え
ています。28歳の時、岡本さんから独立して写植業を自営しました。
奈障運の運転競技会は最初から参加し、奈障運の車8台ほどで連なって行く旅行も行きまし
た。全車にリボンを付けて、最後の何回かは無線も付けて走りました。全車旅館に横付けした
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ときは付近の人々に大臣でも来たのかと思わせるほどで優越感を味わいました。白浜、岡山、
鳥取等を旅行したのを覚えています。鳥取の旅行は冬でした。畑か道か分らないほどの積雪の
中、チェーンを付けてもらい走りました。坂道でブレーキを掛けたため半回転したのを覚えて
います。
協会の行事で東京都小金井市から障害者専門の東園自動車教習所が奈良へ来てくれました。
それをきっかけに奈良県の障害者多数が運転免許を取得しました。その時まだ奈良県では手動
式は軽自動車しか免許を与えてくれませんでした。東京都では手動式でも1200㏄までの普通車
だったら免許を与えてくれると聞きました。東園には宿舎が有り、運転免許が取れるまでその
宿舎が面倒をみてくれます。
東園で免許証を取得したいという3人の障害者と私が運転するマツダキャロル360で東京へ
行きました。4人全員歩けません。その時代、軽自動車に載せられる小型の車椅子など有りま
せん。もしトランクに載っても誰も降ろしに行ける人はいません。エンストが起きても誰も車
から出られません。そんな危険な状況で名神高速、東名高速を小便はペットボトルにして永遠
と走って東京小金井市の東園に着きました。途中、交番で降りられないので大きい声で道順を
尋ねると降りてこいと怒られました。
私は、軽免許から普通免許に切り替えるだけなので2週間で普通免許を取得し一人奈良へ帰
りました。3人は一ヶ月後免許を取得し東園の車で奈良に帰ってきました。2回目の東京行き
は、トヨタパブリカに兄夫婦を乗せ東京足立区のホテルで妻と見合いしました。
私の免許歴は47年です。今の車は11台目です。今乗っているトヨタアルテッツァが一番古く
乗っていて13年目になります。175,000km走っています。47年間の総走行距離は600,000km
∼700,000kmの間だと思います。地球から月までの距離は384,400kmです。もう月に着きま
した。月を見て、ああもうあそこまで車椅子の人間が行ったんだなぁと思うと感無量になりま
す。今は地球への帰り道です。80歳まで車に乗っていてもおそらく無理でしょう。90歳まで乗
っていれば地球に帰れるかも。
平成9年に仕事を止め無職になりました。そして奈障運の理事をさせていただきました。ボ
ランティア部所属のときは、大勢の会員ドライバーで送迎依頼者を送迎しました。編集部所属
の時は、奈障運だよりを1号∼18号まで4人の編集部員で発行しました。そして昨年理事を離
任させていただきました。
これからは、子供の時の経験を生かし障害者と健常者の格差を無くすことに頑張ろうと思っ
ています。これからは色々な人と触れ合って障害者のパワーを見せ付けて頑張ります。色々な
人をどんどん乗せて走り回り運転競技会で賞を頂いた証を見せます。
三輪自転車で友達と前列右が私です
マツダクーペ 従兄弟とドライブ
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私と自動車運転免許証の取得
保 井 とし子
生まれながらにして体が不自由な私。誰もができる二足歩行という能力を持っていません。
移動手段はいざり動作といって、両手を足のように使いながら移動するしかありませんでした。
私が生まれた時の世の中は、今以上に偏見が横行していた時代でした。だから、外出すること
なんてほとんど考えることができませんでした。
私の生活は、編み物や家事をして家で過ごす毎日となっていました。しかし、日増しに外に
出てみたいという気持ちが高まり、「せっかく生まれてきたのだから自分で道を切り開かない
と。」と決意しました。そのときはすでに生まれてから47年の月日が経過していました。当
然、家族は猛反対。でも「ここで引いたら私の人生はこのまま、何一つ変わらない。どんなに
苦労しようが、すべて自分でします。」と両親に宣言しました。そして、しらみつぶしに情報
を集め、大阪まで出向き電動車いすを購入しました。当時、ほとんど電動車いすは普及されて
おらず、購入するのも至難の業でした。
ようやく移動手段を手に入れることができ、容易にとは行きませんが外出することもできる
ようになってきました。外出の機会が増えれば当然出会いも訪れます。近くの堤防で絵の先生
と運命的に出会い、絵画に没頭する日々が続きました。恥ずかしながら50の手習いでした。
雨が降ろうが、風が吹こうが必死に絵画教室まで電動車いすで通っていました。更に、画材な
どを持ちながらとなるとその苦労は想像を絶します。そのときに「絵を習う人には車は絶対必
要」と先生に背中を押してもらって免許を取得する決意となりました。
免許を取得するといっても皆さんのように、近くの教習所に行くといった単純な話ではあり
ません。安全運転協会にて力量、瞬発力、耐久力、判断力の適性検査を受け「眼鏡、4トンま
で、オートマチックの普通車に限る」と免許取得の条件付でした。学校も法隆寺自動車学校の
みが免許取得可能な教習所で、費用も他の人よりも高く払う必要がありました。教習所までの
交通手段として、送迎バスがあったのですが、「車椅子は無理や、自分でバスに積み込めるの
なら乗ってもいいけど」と心無い言葉を耳にしました。親の反対を押し切って入校したのです
から家族に助けは頼めず、タクシーを使うしかありませんでした。しかし、タクシーの運転手
さんの中には「車椅子を乗せたら車が汚れる、自分で積んで」と言ってくる人もいました。タ
クシー利用で費やした費用は40万円は下りません。障害を負っているのに更に追い枷(かせ)
を受けている様でした。
自動車学校での教習も必死の思いだったのが思い出されます。休憩時間がわずか10分だっ
たので必死の思いで次の教室まで移動したものでした。1日中、学科を受けたこともしばしば
でした。教習場面では、西に曲がってなどの言い回しに戸惑ったり、車のシートの高さが合わ
- 31 -
ず前が見え難い状態でも気にも掛けない教官がいたり、重いハンドル操作にてこずったりして
いました。「運転免許証を手にするまでは」という必死の思いがすべての事柄をゼロにしてく
れました。
このように必死の思いで免許取得に励んでいる私を家族も徐々に認めてくれるようになり、
学校まで送ってくれることもありました。送ってくれる弟の仕事の都合で、門が開く1時間前
に着いたこともありましたが、待つ苦労なんて微塵も感じませんでした。また、父が病変で倒
れた日と路上運転試験が重なった時も、「あとは家族でなんとかするから、試験頑張って」と
送り出してくれたときは家族愛を感じました。今まで家族の中で疎外感を感じていましたが、
そうではないと実感しました。
そして、ついに念願の運転免許証を取得することができました。免許証を受け取った時は、
その手が震え、ずっしりと重さまで感じました。思い起こせば、今までまったく外の世界を知
らなかった私が、自分の手で自分の力で成し遂げることができたのは間違いありません。なん
ともいえない達成感が体の中を駆け巡っていきました。本当に、本当に嬉しかった。
車の免許を取得して、父の病院への送迎、お花を買いに生駒のジョイフルや馬見丘陵公園ま
でこの私が連れて行くことができました。誰かの手伝いを私が出来ているという嬉しさがこみ
上げてきました。邪魔な存在だと思われ続けていた私なのに、私が私でないように思えました。
世間一般の人は、車はただの足だと思っているかも知れないけど、私のような障害者は本当に
かけがえのないものだと感じています。免許を取得して車で外に出かけるという事は、車を単
なる移動手段と捉えるのではなく、一人の人間を自立へと向かわせる道具であると今では感じ
ます。
車の免許を取得してもう10年になります。まだまだ運転がへたくそな私ですけど、方向音
痴を克服して、いろいろな美術館めぐりをしたいと思っています。この先、歳を取るごとにい
ろんな苦労に遭遇するとは思いますが、あのときの免許取得に対する意気込みを忘れずに、こ
れからも突き進んでいきたいと思っています。
車椅子は、リフトに固定して吊り上げて、車の屋根の格納庫に納めます。
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安全運転フェスティバルに参加して
奈良市 中
村 重 信
毎年秋の行事に安全運転フェスティバルが開催されます。私は4年前初めて参加しました。
約40名の参加者が、3グループに分けられ、第1グループは、マイカーに試験官が同乗して、
試験コースを運転し、採点されます。第2グループは危険予知について、講義を受けます。第
3グループは視力チェックを受けます。試験コースが済めば危険予知の講義へ、危険予知グル
ープは視力チェックへ、視力検査が済めば運転試験コースへと、それぞれのグループが交代し
て試験・チェックが終わります。
私のグループは危険予知の講義からでした。交差点での安全確認の方法、右折する場合の安
全確認の方法、左折する場合の安全確認の方法、いずれの場合もビデオで放映しながら気のつ
いた危険個所を意見発表して指導を受ける方法で、なるほどと感心した事がたくさんありまし
た。死角の怖さ、内輪差から後輪で接触する等自動車の特性をよく知り常に実践する事だった。
そして視力チェックを済ませば運転試験です。
試験コースは免許取得のとき以来ですから緊張しました。スタート位置に行って試験官が同
乗してくれるまで5分ほどの間、落ち着きが無く自分ながら情けないと思いました。試験の終
わった車が帰ってきた。試験官が採点結果を運転者に説明して車から降りて、待っている私の
車に乗ってきた。名前を確認してスタートしましょうと言った。外周を一周してから右折れで
す。
「はい」と返事はしたものの何処で右折するのか心配でした。外周を標識通り走りながら、
この交差点か?と思ったら試験官が次右へと指示してくれた。方向指示機で右折の合図をして
回り込むと信号機のある交差点だ。
「青よし」で通過すると「左折して」の指示、一時停止し
て左右の安全確認後左折、こんな調子でS字、クランク、踏切、サイドブレーキ合わせをこな
して帰ると講評を聞かしてくれた。
全般に安全運転ですが進路変更の合図が遅いのと前後左右の安全確認が漏れたところを指
摘し、減点25点で合格ですと言ってくれた。やれやれほっとして休憩しました。皆さんが終わ
るのを待つ合間に、各社の福祉車両を見学、手足の不自由な人の運転を可能にしてくれる車に
感心しました。今度買い替える時はあの車にしようかと思いめぐらしなんだか嬉しくなりまし
た。
全員全てのチェックが済んで採点発表がありました。私は17番で飛び賞のキャンプの折りた
たみ椅子が当たりました。それ以来毎年参加して11位、5位と順位を上げてまいりました。
リハビリ、買い物、写真撮影にマイカーが貢献してくれるから、一層の安全運転に心がけて
います。安全運転フェスティバルは、今年こそベストスリーだと張り切っています。
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語り継ぐ心
野 本 美代子
最近では、戦争体験・地震・災害体験を少しでも多く体験談を語ってもらい、後世に語り継
ぐ事を進められています。今後いつ起きるか解らない災害の備えとして、参考にするための礎
として、必要性を感じて社会に情報を流しておられます。
私は中途障害者でお産の後で、左足が麻痺状態となり、左足関節機能障害者になりました。
それまで乗っていた自転車が乗れなくなり、50ccバイク(ペーパー試験)で当時乗れました。
年齢と共に自動車の必要を感じて免許を取得しました。
警察の指示に従って足の機能検査を受け指定された、奈良自動車学校で障害者担当の教官に
よって容易に運転免許取得する事ができました。(但しオートマチック車に限る)条件があり
ます。
最近では機能検査をパスすれば、容易に自動車運転免許証の取得が出来ると思っています。
半世紀前から障害者の運転免許取得を叫ばれた人々は、国を動かし働きかけ、障害者が公道を
走り運転できるようにレールを曳いて下さった陰の力があったことを知ると共に、創生期に携
わった人々の貴重な体験談は時代の礎として、忘れてはならない教訓です。
私たちは作られたレールの上に乗って容易に運転免許証を手にする事ができます。「歩く
足・歩く足」を閉じこもらず、外に出で多くの人と交友関係が持てる道を、諸先輩の障害者の
人々は想像しながら夢を見て進めてくださったことでしょう「本当に有難う」と心から手を合
わせて語り継ぐ精神を養いたいと思っています。
また、交通のルールを良く守り、常に初心忘れることなく、障害者が社会生活に於いて、力
を合わせ共に不利な立場に置かれないように、身障者が活動しやすい方法の必要性を説いて行
きたいと思います。
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パソコン教室のアシスタントとして
山 本 信 義
奈良県障害者運転者協会40周年おめでとうございます。
私は創立当時に入会していましたが、自身の仕事が忙しくなり一時、休会していました。そ
の後、40年近く経ちました。40年の間には障害者の自動車に関する問題点、これは長年の
課題、即ち、障害者の足と成る自動車に関しても障害者に対する軽減処置(ガソリン税、障害
者が使う自動車の物品税、自動車税、駐車禁止除外指定車のステッカー等、数多くの課題)を
40年の月日と共にクリアーしてくれました事は、喜ばしい限りです。
先輩障害者の皆様&役員方々の努力のお蔭と感謝しています。有難うございます。現在、奈
障運では、第39回目の自動車運転技能テストフェスティバルが昨年9月に行われ、いよいよ
40回目の年です。安全運転フェスティバルには優勝を狙って頑張りたいと思っています。
また、楽しい企画も青年部が作ってくださり、リフトバスでの旅行、新年会、忘年会、焼き
肉パーティなど色々の催しをして頂き有難うございます。私は、数年前からパソコン教室のア
シスタントとして、パソコン技術の技能を生かして、修理を頼まれたり、操作の仕方を教えて
あげたり、部品購入を選んで挙げて、皆様と一緒に楽しいひと時を過ごさせてもらっています。
パソコン教室のお手伝いを頼まれ、再入会したことがきっかけで此れと言って特技は無いで
すが、皆さんに喜んで貰えるお手伝いが出来れば良いなーと思っています。
私とパソコン
中 川 公 子
私が奈障運に入会させてもらって10年余りたちます。入会した当時ボランティア部が発足
し移動ボランティアをするということでしたので運転が好きな私は何か役に立つのだったら
とボランティア部に入部しました。
部員の連絡はメールでということでパソコンを習うことになりました。その当時、パソコン
は特別な人が使うものと考えていましたので少々不安がありましたが友人の勧めもあり挑戦
しました。せっかちな私にとってパソコンは思うように動いてくれません。途中、何度か諦め
ようと思ったことはありましたが、周りのみなさんの支えで今日まで続けてこれました。
3年前兄がすい臓がんを患い私は「かけがえのない兄を何とか」とインターネットを使って
情報を収集し体験者にメールで問い合わせたりと一生懸命になりました。結果的には兄を失う
ことになりましたが、兄の友人から「お兄さんの為にすごいことをしてあげましたね。千香良
君にはあなたの愛情が十分伝わっていましたよ。」と言っていただきました。尻込みをしてい
たパソコンを続けていて良かったと奈障運のパソコン教室に感謝です。導いてくださった講師
の先生方、本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。一緒に習って
いるみなさんよろしくお願いします。
行きたい時・行きたい所に行くために一度の人生。明るく楽しくみんな元気で頑張りましょ
う。奈障運が40年∼50年へと益々の発展を希望します。
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私とパソコン
奥 田
秀
奈良県障害者運転者協会創立40周年おめでとうございます。私は中途障害者で、脳卒中を
患って彼是、早いものでもう10年余りにもなる。初めのうちはどうしたものかと途方に暮れ
ていた。自分と同じような境遇の人が沢山いる筈だ、と思って調べてみようとしたが、何をど
うしたらよいのかわからなかった。そんな折、ふと思いついたのがインターネットであった。
早速パソコンを手に入れて調べようとしたが扱い方がわからない。現役時代ワープロとパソコ
ンは我流でやっていたがワードしか使ったことがなく、使いものになるかと不安がよぎったが
自分に勝つため前進するのみと心得た。そしてパソコンを手に入れた。
平成10年当時は、大手の量販店ではパソコンを買うと1週間、無料講習受講券が貰えた。
その無料講習受講券を持って行くと店の片隅の教室で10人ほどが、7割方読み取り不能の薄
汚れたテキストを貰って受講するのだが、テキストが読み取れない、必死になって講師の話に
耳を傾けている。ところが、隣の席の人がチョッと話しかけてくると、もう後は全然わからな
くなってしまったのを思い出す。
書籍売り場でマニュアルと市販の分厚い教本を何冊も買って熟読した。すると薄っすらと向
こうに明かりが見えてきたように思えた。現役時代少しでもパソコンに触っていたのがよかっ
たのだろうか、そんな折、奈障運でパソコン教室開講となった。渡りに船とはこのことか、早
速申し込んだ。教室では受講生30人前後いただろうか、講師は、金井さんご夫婦、柳沼先生、
ボランティアの皆さん。受講者の中には全くの初級者の人もいれば、そこそこ知っておられる
ような人もいたように思う。しかし、講義は初級から始まり、始めの1歩は足並みを揃えて、
である。専門用語やタッチタイピングから始まって、ワードではチラシや地図の書き方、エク
セルでは表の作り方、表計算の仕方、その他、メール、インターネットの仕方、写真の取り込
み、加工の仕方、等々、懇切丁寧に教えてくださる。
お陰様で今では、ワードでは地図、エクセルでは毎日の血圧の管理に役立てている。インタ
ーネットでは『自分と同じような境遇の人が沢山いる』を調べ、患者会に入って活躍しておら
れることが分った。その他お買い物、友人知人とのメール、写真等を楽しんでいるとは言って
もまだまだ上辺だけ知っているだけで、パソコンは奥が深く幅も広い、日々勉強である。これ
からも講師の先生方宜しくご指導のほどお願い申し上げます。
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奈障運の仲間に入れていただいて
宝 田 鈴 子
奈障運の40周年記念おめでとう御座います。私は会員になってまだ日が浅く何の役に立つ
のかと半信半疑で余り強い意志も無く入会いたしました。大勢の会員がおられ、この40年と
言う気の遠くなる様な年月を繋いで来られた先輩方の苦労が身に迫る思いで感謝で一杯です。
何となくPCに携わって4月で3年になります。昨年は町内の老人会の役員に・・・。1年
休む羽目になり、覚え始めに休んだ為、折角習ったこともすっかり忘れてしまい、又、1から
出直しです。でも遣り掛けた事を途中で辞めたら何事も前に進めないと思い、前進あるのみ努
力あるのみと老骨に鞭を打ち日ごと衰え始めた脳を奮い立たせる為にも忘れても忘れても繰
り返し、頭に叩き込む事で回数を重ねるうちに出来るかも・・・・と希望を持っています。何
時到達するかも解からない終わりの無い挑戦に向っています。
今や海外や国内で良しに付け悪に付けPCの普及は大したもので若者の殆どの方が日常に
使いこなし近年では低学年の子供も何の抵抗も無く生活に取り込んでいます。私たち高齢者は
知らなくても恥ずかしい事ではないと思いますが、現在に生きる者として少しでも関われば日
常の生活がより楽しく暮らせるのではと思いPCを習い始めました。奈障運のPCクラブにお
声を掛けて頂き、もうこんなチャンスは無いと飛び込みました。お陰をもちまして簡単なメー
ルとかインターネットを開き疑問に思うこと知りたいことが調べられて知識が広がり毎日が
楽しく自信が付いてきました。
まだまだPCに手をつけたばかりですが奥の深さを感じています。今後とも先生方先輩方の
ご指導ご鞭撻の程宜しくお願い致します。
パソコンとの出会い
澤 田 孝 夫
パソコンを触ったのが、息子から譲り受けたお古でした。その時は何も分からずキーボード
を触りゲームを楽しんでいましたが、本格的に取り組むようになったのが、病気になり会社を
退職してからで、ボケ防止と時間の余裕ができパソコンをさわり始めました。
NHKテレビで「中高年のためのパソコン講座」を見てチャレンジをした所、一つの課題が
出来るようになり意欲が湧いて面白くなりました。我流で色々な事にチャレンジして、手始め
は写真の取り組み方・インターネット・メール等に挑戦しました。
昨年9月に奈障運パソコン教室に入り「ワードで名刺を作ろう」でした。今迄はエクセルし
か触った事がないのでワードは初めての試みでした。回を重ねる度に、年賀状・家計簿の講義
で早くマスターをしようと、一冊のノートを作り習ったことを書きながら、困った時はよく見
ています。もっともっとパソコンを奥深く知りたいので毎月楽しみに通いたいです。
これからの目標は今まで撮った写真を整理し、パソコンに取り組みまとめた写真をテレビに
接続し思い出のアルバムをスライドショーでゆっくり見ようと思っています。
- 37 -
平成23年の新年会盛大に行われる
副会長 齋
藤 恵 彦
1月30日、送迎バス13時45分JR奈良駅を出発し近鉄奈良駅経由して15時過ぎ会場
に着く。開宴まで時間があるが外は寒い。それでも散歩する人、温泉に浸る人、部屋でゆっく
り歓談する人それぞれにゆったりとした時間を過ごす。
奈障運の新年を迎える式典を18時より信貴山観光ホテルにて行われた。新たな気持ち、特
に今年は設立40周年を迎える年になるので思いもひとしおであった。ご多忙中のなか、ご臨
席いただいた 奈良県会議員 新谷綋一先生、元衆議院議員 森岡正宏先生を加え総数35名
が集まり新年を祝った。
楢原会長、新谷先生の挨拶の後、森岡先生の乾杯で宴会は幕を開く。しばらくしてから例年
のカラオケが始まる。次から次と間が空くことなく、21時過ぎまで歌が続く。おおとりは会
長の無法松の一生。何曲歌われたかクイズをし、見事、橋本弘子さんが当てられた。
21時15分閉宴となる。二次会が22時より別館で行われ、いつ終わったのかわからない。
翌日8時から朝食、10時出発まで散歩、温泉と過ごし、再び、送迎バスにて近鉄奈良駅、J
R奈良駅に11時ごろ無事着く。ゆっくりとした楽しい新年会だった。
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淡路島への日帰り旅行
丸 田 富 子
8月28日、楽しみにしていました淡路島への日帰り旅行。連日の酷暑の中、バス41名、マイ
カー4名総勢45名参加。一行は奈良をあとに淡路島へ出発進行。
世界一長い明石海峡大橋(全長3911m)を渡り島へ。ふと16年前の淡路神戸の震災の事を思
い出しました。私事ですが震災の日の夕方、姉夫婦を神戸三宮まで迎えに行きました。行き帰
りの廃墟と化した町の様子を今も忘れることはありません。高速道路の中央分離帯に赤・白の
満開に咲いている夾竹桃も震災を乗り越えて来たのでしょうネ!
たこせんべいの里にて休憩試食お買い物をして楽しみにしていた昼食タイム。淡路インター
ナショナルホテル ザ・サンプラザでの鱧づくしのフルコース、最後に鱧鍋とおじやで満腹感
を味わい。幸せ最高!
そして、又又、楽しみな大塚国際美術館は大塚製薬グループ創立75周年記念事業として徳島
県鳴門市に設立した日本最大級の常設展示スペース有する「世界初の陶板名画美術館」です。
至宝の西洋名画原寸大で一千点を日本に居ながらにして世界の美術館が体験できます。まず、
地下三階入口に入るとシスティーナ礼拝堂天井画・壁画(ミケランジェロ)本当に現地に行っ
て観ているのかと思うほど見事感激の一言です。地下二階作家ごとに作品が展示してあり「モ
ナ・リザ」の前に立つとルーブル美術館へ行っているのかと錯覚に陥るほどびっくり感動です。
又、屋外にあるモネの「大睡蓮」は風・雨にさらされても美しさを保っているのは陶板だから
出来ることですね。
限られた時間内の鑑賞でしたが美術館をあとにし、淡路島の夜景ときれいな夕日を見ながら
帰路へ。
バスの中では楽しいビンゴゲームがあり、わくわくしながら数字を開いている間にトップで
ビンゴに!わ!ラッキー。賞品(商品券)をいただき、この旅日記のお礼に神様が先に下さっ
たのかな!ありがとうございます。
今回の旅行で入会したばかりの私に皆様が声をかけてくださり、又、参加されている方々が
障害を乗り越えて明るく前向きで助け合っておられるようすを拝見し、私も出来ることからお
手伝いをしていきたいと思いました。
最後に今回の旅行の計画からお世話下さった方々をはじめ奈障運協会の皆様、本当にありが
とうございました。あったかい出会い感謝感謝です。
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日本の障害者ドライバーの先駆者達 ブログ らくだぞう 中村陽子より
まとめ 野本美代子
この度の奈障運40周年記念誌の発行に際して、ブログ「日本の障害者・自動車運転50年のあ
ゆみ」を公開している東京に在住の中村陽子さんに電話取材をさせて頂き、ご協力を得てその
抜粋を掲載させて頂きます。また、中村さんのブログでは身障者ドライバーの先駆者が多数紹
介されていますが、私なりに、特に、次の5名の方々にスポットライトを当ててみました。
①渡邊聖火 障害者運転者の父と呼ばれ障害者自動車運転の必要性を広くアピールした。
②小山力太朗 車椅子トイレの普及、高速道路施設内の車イス専用駐車場の設置に尽力した。
③藤森善一 自動車の手動装置の改造の貢献とともに身障者の免許取得の啓蒙をした。
④中村雄 自動車税の免除申請・駐禁除外許可証の獲得に貢献した。
⑤中村陽子 入念な取材活動により草分け的な身障者ドライバーの功績に光を当てた。
はじめに
今から半世紀前には、体に障害を持った人々は自動車を運転することは「夢」のまた、夢の
時代でありました。障害者の先輩たちは夢を叶えようようと、不屈の精神で幾度ともなく行政
に懇請して、最後にようやく行政を動かしたのです。昭和24年、国立身体障害者更生指導所が
設けられ、昭和27年東京都新宿区の国有地に新庁舎を建築、昭和28年国立身体障害者更生指導
所は移転しました。昭和39年、東京オリンピック開催を機に国立身体障害者センターと名称変
更。更に、昭和54年国立身体障害者リハビリテーションセンターと名称変更されました。昭和
36年∼54年にかけて、障害者の運転の条件や指導が大きく変革し、障害者の運転免許を取得す
るまでの訓練、練習等は国立身体障害者センターから始まりました。
渡邊聖火(新潟県高田市出身 明治41年∼昭和44年 両下肢マヒ)
昭和28年私財を投げ打って障害者の運転問題の根幹に貢献し「障害者の運転者の父」と呼ば
れ、障害者の自動車運転の必要性を広くアピールされ、社団法人厚生車輌福祉協会の創始者と
なられた。
昭和30年の初期は、まだクラッチ車のみで下肢障害を持つ人たちの自動車はなかった時分、
渡邊聖火は手漕ぎ三輪車イスに乗って。「足が不自由であるからこそ、自動車運転の必要性」
を基本として、その利便性を訴え続ける。
渡邊聖火の一生の業績は、在宅に篭っていた障害者を自ら出かけて行き、社会参加の必要性
を説き「私を見なさい、こうして出かけているのだよ」と呼びかけ、「自動車免許を取得する
ことで、足と成り得る」と全国に存在する障害者諸君に希望と勇気を与えパートナーシップに
富んだ友愛精神の持ち主でした。
小山力太朗(堺市出身 大正10年∼平成8年 17才で脊髄膿症による脊髄損傷)
日本身障運転者協会の事務局長を務めた。また、彼は、「自走車」で違反を覚悟で道路を走
り警察に追われ、何度捕まっても諦めることなく、更に創意工夫を重ねて道路を走った。自ら
「足権を守る」と訴え、違反承知で小山式改造車 ①軽三輪車 ②手動式三輪車イス ③エン
ジン付き三輪車イスを乗り走った。小山力太朗は、豪快な性格で警察官に向かって「私は無免
許運転だ」と無免許運転で東京から大阪を往復して、計26回も警察に検挙されている。
昭和36年、小山力太朗はマツダクーペR360ccを購入、免許を取得した。主な運動は車椅子
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トイレの普及と高速道路サービスエリア内の車椅子専用駐車場の設置および大型リフトバス
の駐車場確保。長年に渡り高速道路のモニターとなり、常に高速道路上のサービスエリアの視
察を行い、詳細に渡り不備な点を道路公団と交渉をして、常に話し合って来られた。
藤森善一(長野県出身 大正4年∼昭和61年 両大腿部切断)
身障用改造装置のメーカー有限会社フジオートの創業者。障害者用自動車の開発と教習のパ
イオニアであった。昭和28年、仕事中に交通事故で両大腿部を失ってしまった。11ケ月の入院
中、再び運転出来ないものかと考え、退院後、2ケ月位してから、米車のダッジを購入、近く
の町工場に行き、運転装置の改造を考案して依頼した。それが藤森善一の手動装置の改造を手
がけた最初である。
藤森善一は、当時、国立身体障害者センターへ運転免許を取得するため短期入所をして、東
厚生会を作り、東園自動車練習場で自動車持ち込み「東園」で身体障害者専用の練習場を使っ
て練習を重ね、多くの障害者が府中自動車試験場で免許を取得している。
また、法律の改正により、義足を装着して歩行可能な障害者は適性検査に合格となったが、
ポリオ・脊髄損傷等の歩行困難な障害者は、適性検査の段階で不合格扱いになった。車イスに
乗ったまま免許取得が出来るようになったのは、昭和40年初期である。
また、藤森善一は3回に渡り全国一周を実現して、障害者が自動車の運転が出来ることをア
ピールした。昭和38年には、リンゴ園の中に身体障害者運転教習場を作った。
国際障害年を迎えた昭和55年までの20年間で、身体障害者運転免許取得者は8万人であった
が、昭和55年から9年間で16万人に達した。一般健常者は免許証を取得しても40%はペーパー
ドライバーである。しかし、障害者の場合は免許取得と同時に殆どの人々が車の購入と就職、
結婚と社会参加に役立っている。
中村 雄(山口県周防市出身 大正3年∼平成12年)
昭和40年代に入ると世間でも障害者の運転に注目されるようになり、NHKテレビや民放か
らも取材に訪れ、認識も広がるようになった。中村雄は障害者が使う自動車の物品税、自動車
税の免除申請を大蔵省主税局へ懇請、また、昭和39年に路上駐車の特別許可制度を懇請して実
現させた。駐車禁止除外指定車のステッカーが発行されるようになった立役者である。除外禁
止ステッカーの最初はすべて都道府県別に分かられていたが、利用する障害者の請願が実り全
国共通の駐車禁止除外許可証となった。
当時、運転免許証の取得には路上運転をしなくても良かったが、経験の無いままで一般道を
走ることは危険性が高く、中村雄は路上運転に同乗して必要性を説いた。後に運転免許取得に
は路上運転、高速道路走行も義務づけられた。
中村陽子(東京都江東区出身 昭和19年生 胸椎カリエス・脊髄炎による両下肢機能障害)
ホンダN360ccから始まり、シビック、ハッチバックのアコード、アコード・エアロデッキ
で仕事を始めて、その後、逆輸入のホンダ・オブ・アメリカ・アコード、何故か、ホンダひと
すじの私にとって、最後のレジェンドは最も乗り心地よく、座席の高低の上下稼動調節もリモ
コン操作で便利で乗り易かった。中村陽子氏は平成16年に自らの健康維持のため、自宅の一部
を事務所にした。すると、自動車を運転する機会が激減した。
最後に乗った自動車はツードアの中古車、ホンダ・レジェンドハードトップを平成7年から
平成21年2月15日に車を廃車。長年よく走ってくれた愛車に労いワインをかけて「ありがとう」
と心を込めて送り出した。
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40年余りの自動車運転の日々に多くの知り合い、暖かい好意や親切に支えられて感謝の気持
で一杯。また、大きな事故もトラブルもなく、身体の一部として勇気をもらい走ってくれた自
動車、運転出来た日々に心から感謝する。
今から50年前、私たち障害を持った先輩諸氏の多くの皆さんは、体当たりの戦いと運動の歴
史を残した。それらに続き自動車の運転の発展のために尽力された方々の残した歴史が存在す
ること。その後の私たちの自立の生活がどんなに心身共に豊かに自由な生活が得られたことの
経緯は忘れてはならない。特に運動の最古たる、小児マヒであった渡邊聖火氏は、全国の障害
のある友に対して自動車の運転出来る希望と夢を情報として伝えていた。両足切断の藤森善一
氏は、事故から両足を失い、自ら手動装置の考案を重ねて、昭和35年12月20日に運転免許取得
される法改正と共に、全国に啓蒙運動を行うために自動車から燃料に至るまで協賛を受けて、
障害者の免許取得の基礎を作った。すべてのものを寄贈されて、障害を持つ仲間たちと全国に
運転による多大な実績を残した、東京都の小山力太朗氏、宮城県の平田健治氏、京都市の長橋
栄一氏などの命をかけた勇気のある戦いと運動に対して心からの敬意と感謝を忘れてはなら
ない。
終わりに
障害があるなしに限らず高齢社会の中で、先に障害になった私たちは、今、生きている人々
が世の中への還元する心も大切であると思う。長いこと、自動車にたずさわってくれた多くの
人々に「本当にありがとう」と、感謝すると共にこれからは移動や外出で友人たちやヘルパー
の皆さんにお世話になることだろうと思う。
高齢社会だけではなく、戦後の歴史と共に日本のすべての障害者のあらゆる角度からのデー
ターも立証される時代へとなることであろう。
中村さんのブログのまとめをして
障害を持った創生期に関わった先人たちは厳しい道を乗り越える、たゆまぬ努力と精神で道
を切り開き、障害者の足として車を運転し社会に参加で来る道を作ってくれた事はとても光栄
であり、今日があることを忘れない教訓として「風化」させないで伝えて行く事が、私達に課
せられた任務であると思います。
中村さんと連絡が取れた時は、嬉しくて胸がドキドキしました。彼女は、ずっと昔からのお
友達のように、沖縄の旅など話されて、きっと奈障運の方でご一緒された方がおられると思い
ます。おおらかなお方で、いろいろお話をしてくださいました。
私は、良いお返事を頂いたことで、何よりうれしいでした。「私たち奈障運は40週年を迎
えるに当たり、10年前の資料がほしいのです」中村さんのブログを読ませて頂いた事をお話
ししました。すると、
「奈障運の40周年記念誌を下さいね」のお返事にほっとしてしまって、
「奈良に来られた時には、自宅の近くにある、薬師寺・唐招提寺をご案内致しますよ。
」 の一
言を忘れてしまったのです。
一方、私ども奈障運においては、清水煌三さん(奈良市)
、磯田恵三さん(奈良市)
、中出邦子さ
ん(大和郡山市)
、西村佳代子さん(御所市)
、橋本弘子さん(奈良市)
、保井とし子さん(王寺町)
らが誇るべき奈良県での障害者ドライバーの先駆者であり、現在も奈障運の活動に頑張って頂
いております。
【出典】 ブログ らくだぞう http://rakudazou.exblog.jp/i15 中村陽子
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ご寄附および協賛広告のお礼
奈障運40周年記念総会の開催にあたり、ご寄附・協賛品を頂きました。協賛広告は、本誌
に掲載させて頂きました。心からお礼申し上げます。有難うございました。
(五十音順・敬称略)
【ご寄附】86名(1団体含む)
青木伸博・足立敏雄・油谷君枝・飯田弘子・井口やよひ・井上明・上田和子・氏田和子・
大内規美江・大竹正美・岡田敏子・小川道子・奥田秀・筧ゆり子・金野秀一・川西幸子・
川端清・岸本慈・木虎靖・木村有美子・椚原義一・小竹順子・齋藤恵彦・坂口照人・
澤田孝夫・汐碇昭義・忍美鈴・忍義雄・島津千恵・島津史男・清水煌三・新谷裕幸・
鈴木敬三・関本朋代・曾俊隆・高間成卓・高森敏夫・宝田鈴子・竹重喜美子・谷村和子・
辻本浩之・壷井三治夫・殿芝良知・中川公子・中川節子・中出邦子・中村重信・
奈良市身障運転者協会・楢原泰彦・西昭子・西井正輝・西川半次郎・西村佳代子・西本良子・
野本美代子・灰藤節子・長谷川みのり・秦広子・秦美智代・林親男・東久保信也・樋口宜男・
福田光男・増田秀子・松原寛・丸田富子・南埜淳子・宮池圭美・宮尾悦男・宮口豊子・
宮口八千代・村上信子・森和子・森岡正宏・森田融・森本和夫・矢奥誠一・柳沼寿徳・
八嶋律子・安井恵代・保井とし子・薮内章司・山鹿久美子・山田悦子・山本信義・吉村啓子
【協賛品】
小北道大・ダイドードリンコ(株)
・中川公子・西井正輝・橋本和信・橋本弘子
功労者・団体の表彰
平成12年9月14日
平成19年12月3日
平成20年4月4日
平成22年12月1日
秋の交通安全県民大会において交通安全功労団体の表彰を受ける
中出邦子(大和郡山市)
心身障害者更生援護功労者
西村佳代子(御所市)
心身障害者更生援護功労者
楢原泰彦(桜井市)
自立更生者及び更生援護功労者
春の交通安全県民大会において交通安全功労団体の表彰を受ける
このたびの東日本大震災により被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。被災
地の一日も早い復旧を心よりお祈り申し上げます。奈良県障害者運転者協会は、特に、
被災された障害者の救援に役立てていただくため、義援金の寄附を総会の議を経て行う
ことといたします。
(事務局)
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役 員 名 簿
役職名
会
氏
名
住
所
平成23年4月1日現在
担
当
長
楢原泰彦
桜
井
市
−
副会長
齊藤惠彦
相
楽
郡
企画部長・パソコン教室運営委員
副会長
西村佳代子
御
所
市
書記
副会長
灰藤節子
大和郡山市
ボランティア部・パソコン教室運営委員
専務理事
汐碇昭義
奈
良
市
事務局長・ボランティア部長・パソコン教室運営委員
理
事
秦 美智代
奈
良
市
会計・青年部・ボランティア部・パソコン教室運営委員
理
事
高森敏夫
生
駒
市
編集部長・パソコン教室運営委員
理
事
山田悦子
奈
良
市
青年部長・企画部副部長
理
事
奥田
秀
生
駒
郡
ボランティア部副部長・パソコン教室運営委員
理
事
木村有美子
生
駒
市
会計補佐・ボランティア部
理
事
島津史男
奈
良
市
青年部
理
事
壷井三治夫
奈
良
市
青年部副部長
理
事
野本美代子
奈
良
市
編集部
理
事
橋本弘子
奈
良
市
事務局次長・青年部・企画部
理
事
小林明彦
奈
良
市
青年部
理
事
南埜淳子
奈
良
市
青年部
理
事
山本信義
奈
良
市
パソコン教室運営委員・ボランティア部
理
事
大西康博
奈
良
市
理
事
薮内章司
奈
良
市
監
事
高間成卓
奈
良
市
−
監
事
中川公子
大和郡山市
−
顧
問
新谷綋一
山
辺
郡
顧
問
橋本和信
奈
良
市
−
ボランティア部副部長
奈良県議会議員
−
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回次
開催日
総 会 開 催
役員就任(会長・副会長)
事務局長
第1回
1972年(S47) 月 日( ) 矢川敏雄・
岡本章
第3回
1974年(S49) 月 日( ) 矢川敏雄・
岡本章
第2回
第4回
第5回
第6回
第7回
第8回
第9回
第10回
第11回
第12回
第13回
第14回
第15回
第16回
第17回
第18回
第19回
第20回
第21回
第22回
第23回
第24回
第25回
第26回
第27回
第28回
第29回
第30回
第31回
第32回
第33回
第34回
第35回
第36回
第37回
第38回
第39回
第40回
1973年(S48) 月 日( ) 矢川敏雄・
1975年(S50) 月 日( ) 矢川敏雄・
1976年(S51) 月 日( ) 矢川敏雄・岡金一・
1977年(S52) 月 日( ) 岡金一・
1978年(S53)7月16日(日) 岡金一・
岡本章
岡本章
岡本章
岡本章
岡本章
1979年(S54) 月 日( )
岡本章
1981年(S56)5月31日(日) 岡本章・
岡本章
1980年(S55) 月 日( )
1982年(S57) 月 日( ) 岡本章・藤田邦男・辻本幸一
1983年(S58)5月22日(日) 岡本章・藤田邦男・辻本幸一
1984年(S59)5月3日(木) 岡本章・藤田邦男・辻本幸一
1985年(S60) 月 日( ) 岡本章・藤田邦男・辻本幸一
1986年(S61)5月25日(日) 岡本章・辻本幸一・浦口秀郎
1987年(S62) 月 日( ) 岡本章・辻本幸一・浦口秀郎
1988年(S63)7月10日(日) 岡本章・芳村修・高間成卓
1989年(H元)7月9日(日) 岡本章・芳村修・高間成卓
岡本章
芳村修
芳村修
芳村修
芳村修
芳村修
芳村修
柳原貞四郎
柳原貞四郎
1990年(H2)6月24日(日) 岡本章・浦口豊一会長代行・芳村修・高間成卓
柳原貞四郎
1992年(H4)7月12日(日) 岡本章・芳村修・柳原貞四郎
平本準一
1991年(H3)6月16日(日) 岡本章・浦口秀郎・芳村修
1993年(H5)6月20日(日) 岡本章・芳村修・柳原貞四郎
1994年(H6)6月12日(日) 岡本章・芳村修・柳原貞四郎
1995年(H7)6月4日(日) 楢原泰彦・芳村修・柳原貞四郎
1996年(H8)4月21日(日) 楢原泰彦・芳村修・柳原貞四郎・上村正雄
柳原貞四郎
平本準一
平本準一
平本準一
平本準一
1997年(H9)4月13日(日) 楢原泰彦・柳原貞四郎・上村正雄
平本準一
1999年(H11)4月18日(日) 楢原泰彦・柳原貞四郎・椿本幸治
平本準一
1998年(H10)4月19日(日) 楢原泰彦・柳原貞四郎・山田悦子
2000年(H12)4月9日(日) 楢原泰彦・椿本幸治・薮内章司
2001年(H13)4月15日(日) 楢原泰彦・椿本幸治・薮内章司
2002年(H14)4月21日(日) 楢原泰彦・椿本幸治・薮内章司
2003年(H15)4月20日(日) 楢原泰彦・椿本幸治・中出邦子・灰藤節子
2004年(H16)4月18日(日) 楢原泰彦・椿本幸治・中出邦子・灰藤節子
2005年(H17)4月17日(日) 楢原泰彦・椿本幸治・中出邦子・灰藤節子
2006年(H18)4月16日(日) 楢原泰彦・中出邦子・灰藤節子・清水煌三
2007年(H19)4月15日(日) 楢原泰彦・中出邦子・灰藤節子・清水煌三・齋藤惠彦
2008年(H20)4月20日(日) 楢原泰彦・中出邦子・灰藤節子・清水煌三・齋藤惠彦
平本準一
平本準一
平本準一
平本準一
清水煌三
清水煌三
高森敏夫
高森敏夫
汐碇昭義
汐碇昭義
2009年(H21)4月19日(日) 楢原泰彦・齋藤惠彦・西村佳代子・灰藤節子 汐碇昭義
2010年(H22)4月25日(日) 楢原泰彦・齋藤惠彦・西村佳代子・灰藤節子 汐碇昭義
2011年(H23)4月23日(日)
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回次
安全運転競技会 ∼ 安全運転フェスティバル
開催日
受賞者(1位・2位・3位)
第1回
1972年(S47) 月 日( )
第3回
1974年(S49)7月21日(日) 南口純一・中大谷信二・岡本孝雄
第2回
第4回
第5回
第6回
第7回
第8回
第9回
第10回
第11回
第12回
第13回
第14回
第15回
第16回
1973年(S48) 月 日( )
1975年(S50)9月28日(日) 平本準一・乾二郎・浅川幸夫
1976年(S51) 月 日( )
1977年(S52) 月 日( )
1978年(S53)10月8日(日) 西手基雄・上田忠孝・山本敏喜
1979年(S54)9月9日(日) 平本準一・北川聡和・半田文男
1980年(S55) 月 日( )
個人の部 上田忠孝・乾二郎・岡田正司
1981年(S56)7月12日(日) 団体の部 奈良県・京都府・宮城県
女性の部 中出邦子・西村洋子・草間佑子
1982年(S57) 月 日( )
1983年(S58)7月17日(日)
1984年(S59)7月1日(日)
1985年(S60)9月16日(月) 南口純一・大津輪晃久・井堰政文
1986年(S61)9月7日(日)
1987年(S62) 月 日( )
第17回
1988年(S63)9月11日(日)
第18回
1989年(H元)9月10日(日)
第19回
1990年(H2)9月9日(日)
第20回
1991年(H3)7月28日(日)
第21回
1992年(H4)9月6日(日)
第22回
1993年(H5)9月23日(木)
第23回
1994年(H6)9月15日(木)
第24回
1995年(H7)9月15日(金)
第25回
1996年(H8)10月10日(木)
第26回
1997年(H9)9月14日(日)
第27回
1998年(H10)5月24日(日)
西手基雄・平本準一・南口純一
シルバーエイジ賞(前田杯)岡本章
稲葉実・井上淑子・池田幸子
シルバーエイジ賞(前田杯)柳原貞四郎
シルバーエイジ賞
平本準一・遠藤敏男・柳原貞四郎・沢井利代
シルバーエイジ賞 楢原泰彦
西口増弘・永渕忠良・北一敏
シルバーエイジ賞 浅田俊治
南口純一・稲葉 実・岡本孝雄
シルバーエイジ賞 奥田好子
平本準一・岡本 章・奥村三代子
シルバーエイジ賞 稲葉実
南口純一・西村佳代子・中出邦子
シルバーエイジ賞 高間成卓
薮内章司・南口純一・清水煌三
シルバーエイジ賞
岡本孝雄・清水煌三・稲葉 実
シルバーエイジ賞 仲山一郎
岡本孝雄・薮内章司・長井静男
シルバーエイジ賞 奥田好子
- 46 -
清水煌三・大久保徳之・岡本孝雄
シルバーエイジ賞 高間成卓
第28回
1999年(H11)5月22日(日)
第29回
2000年(H12)4月22日(土)
第30回
2001年(H13)6月9日(土)
第31回
2002年(H14)9月14日(土)
第32回
2003年(H15)5月3日(土)
大久保徳之・高森敏夫・磯田恵三
シルバーエイジ賞 村上信子
第33回
2004年(H16)9月18日(土)
清水保子・高森敏夫・大久保徳之
シルバーエイジ賞 中出邦子
第34回
2005年(H17)9月24日(土)
藤田恵郎・樋口宜男・清水煌三
シルバーエイジ賞 北敏一
第35回
2006年(H18)9月23日(土) 樋口宜男・高森敏夫・磯田恵三
第36回
2007年(H19)9月15日(土) 中谷和磨・高森敏夫・磯田恵三
第37回
2008年(H20)9月20日(土) 樋口宜男・西村佳代子・辻本浩之
第38回
2009年(H21)9月19日(土) 西井正輝・高森敏夫・灰藤節子
第39回
2010年(H22)9月18日(土) 西村佳代子・灰藤節子・小北道大
吉崎邦夫・辻本浩之・高森敏夫
シルバーエイジ賞 北敏一
福森洋之・岩西雄大・西村佳代子
シルバーエイジ賞 宮尾悦男
シルバーエイジ賞
注1.第10回大会は、国際障害者年と障害者運転免許制度実施20周年を記念して、25都府県70
人が参加しての第1回全国身障運転者安全運転競技大会として県運転免許試験場で開
催しました。
2.第20回大会は、奈良県障害者運転者協会創立20周年記念として、県内外の身障ドライバ
ーの参加を得て全国身障者安全運転競技会として桜井自動車教習所にて開催しました。
3.平成15年から、自動車の運転技術や運転マナーに関する身体障害者に限定した運転競技
会ではなく、ノーマライゼーションの理念に沿って、健常者や免許の取得を目指す障害
者など、多様な県民に参加を呼び掛けることにより名称を「安全運転フェスティバル」
と変更して継続しております。
4.平成18年からシルバーエイジ賞(65歳以上)や女性ドライバー賞等を略しました。
- 47 -
パソコン教室
第6期
第7期
第8期
第9期
第10期
第11期
∼
∼
∼
∼
平成15年3月
平成15年4月12日
平成16年3月13日
∼
平成16年4月26日
講師
澤井啓志・金井隆弘・金井
洋子・金井裕幸・金井良
智・東口知恵子・吉崎邦
夫・小崎誠二・中村茂生・
樋口裕章・向井聡美
澤井啓志・金井隆弘・
金井洋子・金井裕幸・
金井良智
金井隆弘・金井洋子
柳沼寿徳・金井隆弘・
金井洋子
柳沼寿徳・金井隆弘・
金井洋子
平成17年3月13日
平成17年4月24日
∼
第5期
平成14年3月
平成14年4月
平成18年3月19日
平成18年4月23日
∼
第4期
平成13年11月
平成19年3月10日
平成19年4月7日
∼
第3期
平成13年10月7日
平成20年3月15日
平成20年4月29日
∼
第2期
平成12年10月15日
平成21年3月7日
平成21年4月26日
∼
第1期
開催日
平成22年3月7日
平成22年4月11日
∼
回次
平成23年3月20日
柳沼寿徳・金井隆弘・
金井洋子
柳沼寿徳・金井隆弘・
金井洋子
柳沼寿徳・金井隆弘・
金井洋子
柳沼寿徳・金井隆弘・
金井洋子
柳沼寿徳・金井隆弘・
金井洋子
柳沼寿徳・金井隆弘・
金井洋子
運営委員会
平本準一・薮内章司・
松本尚司・灰藤節子・
中川公子・清水煌三
平本準一・薮内章司・
松本尚司・灰藤節子・
中川公子・清水煌三
椿本幸治・磯田恵三・
松本尚司・灰藤節子
椿本幸治・磯田恵三・松本尚司・
灰藤節子・山田悦子・橋本弘子・
清水煌三
椿本幸治・汐碇昭義・齋藤惠彦・
松本尚司・灰藤節子・磯田恵三・
山田悦子・橋本弘子・清水煌三・
高森敏夫
汐碇昭義・清水煌三・
灰藤節子・松本尚司・
高森敏夫・奥田秀・磯田恵三
汐碇昭義・灰藤節子・
清水煌三・磯田恵三・奥田秀・
秦美智代・高森敏夫
汐碇昭義・清水煌三・
高森敏夫・奥田秀・秦美智代・
磯田恵三・山本信義
汐碇昭義・清水煌三・
高森敏夫・奥田秀・秦美智代・
磯田恵三・山本信義
汐碇昭義・清水煌三・
高森敏夫・奥田秀・秦美智代・
磯田恵三・山本信義
齋藤惠彦・灰藤節子・
汐碇昭義・秦美智代・
高森敏夫・奥田秀・山本信義
パソコン教室は、電気通信普及財団及び(社福)丸紅基金からの助成、並びに奈良県、県教育
委員会、県社会福祉協議会、NHK奈良放送局、朝日新聞奈良支局等の後援、シャープ株式会
社のご協力のもとに「障害者の完全なる社会参加」を目指して、読売・産経新聞紙上で受講生
を募集しての始まりでした。上記の講師の外にも多くのボランティアのご協力を頂き、教室運
営が成り立っております。駐車マナー向上を目指してパソコンによるポスター作成のコンテス
トを実施して優秀作品を公共駐車場に掲示するなど実用面での取り組みも行いました。
- 48 -
人権学習(車椅子体験学習)
開催日
学 校
講師・その他
生徒42名、先生3名とともに近鉄奈良
駅、新大宮駅、大和西大寺駅周辺視察
および車椅子体験学習実施
1997年(H9)11月15日(土)
北大和高校
1998年(H10)11月29日(日)
北大和高校
1999年(H11)11月28日(日)
北大和高校
2000年(H12)6月13日
11月15日
11月20日
12月8日
平城高校
田原本農業高校
香芝東中学校
奈良女子高校
車椅子体験講習会
車椅子体験講習会実施
車椅子体験と講演
車椅子によるJR奈良駅周辺施設視察
2002年(H14)5月29日、
6月5日∼6日
平城高校
質疑応答講演
車椅子体験講習会
2001年(H13)6月5日
10月4日
2003年(H15)5月28日(水)
、
6月4日、6日
2004年(H16)6月2日(水)
、
6月8日、10日、11日
2005年(H17)
11月9日(水)
、11月15日∼18日
2006年(H18)6月14日(水)
、
6月20日∼22日、28日
2007年(H19)6月13日(水)
6月13日、18日、20日∼21日
2008年(H20)6月11日(水)
6月17日∼20日
2009年(H21)6月10日(水)
6月15日∼17日
2010年(H22)1月14日(木)
6月9日(水)
、
6月15日∼16日、18日
9月14日(火)
16日、21日∼22日
平城高校
奈良女子高校
平城高校
平城高校
平城高校
平城高校
平城高校
平城高校
平城高校
帝塚山高校
平城高校
郡山高校
- 49 -
近鉄生駒駅
生徒8名と東大寺の施設視察、法隆寺
世界遺産のバリアフリー状況の視察
車椅子体験講習会
文化祭で車椅子講習を実施
清水煌三
1年生(9クラス)対象体験学習
清水煌三
1年生(10クラス)対象体験学習
中出邦子・清水煌三・汐碇昭義
1年生対象体験学習
灰藤節子・清水煌三・高森敏夫
1年生対象体験学習
清水煌三・橋本弘子・木村有美子
1年生対象体験学習
清水煌三・保井とし子・西村佳代子
1年生対象体験学習
山本義信・中川公子
1年生対象体験学習
清水煌三 3年生一部対象体験学習
清水煌三・高森敏夫・汐碇昭義
1年生対象体験学習
灰藤節子・高森敏夫・汐碇昭義
1年生対象体験学習
奈良県障害者運転者協会と関連の歩み
年
25(1950)
34(1959)
35(1960)
36(1961)
39(1964)
42(1967)
44(1969)
45(1970)
46(1971)
47(1972)
月・日
4
2.22
10.10
12.20
11.1
10.29
7.29
5
12
6.
6.24
7
7.29
48(1973)
12.9
1.27
5.12
49(1974)
50(1975)
52(1977)
53(1978)
54(1979)
55(1980)
56(1981)
7
8
1
1.26
6.1
6.1
9.26
1
事
項
身体障害者福祉法施行
産経新聞記事 日本車椅子協会(会長渡辺聖火)が中心となって身障者運転免許
獲得に向けた運動および身障者専門自動車教習所設立準備運動の実態が初めて新
聞に取り上げられる
日本自轉車新聞掲載 小山力太朗氏らがハンドスターターで三輪を試作し試験場
に持込み1回でパスした
身体障害者運転免許取得制度施行
身障者「駐車禁止除外指定車証」の発行を要望
運転免許適性試験(運動能力)合格基準が示される
「駐車禁止除外指定車証」を警視庁が全国に先駆けて発行
第1回身体障害者自動車模範運転競技大会を府中自動車運転免許試験場で開催
身障者運転者の父 渡辺聖火氏 逝去 霊前に勲五等従六位が贈られた
心身障害者対策基本法公布
奈良県身障運転者協会(現奈良県障害者運転者協会)を設立
第1回奈良県障害者安全運転競技会を開催
全国身障運転者協会連合会(会長藤森善一)総会が奈良県公会堂において開催さ
れ全国統一を目的に東京で会合を開くことを確認した
全国身障運転者協会連合会が全日本身障運転者福祉協会、全国身障者自動車問題
協議会、
(社)厚生車輌協会(現社団法人厚生車輛福祉協会 会長山根明氏)有志、
単独の都道府県組織等に結集を促し、日本身障運転者協会の設立を呼びかける
全国身障運転者協会連合会(会長藤森善一)
、東京都身障運転者協会(会長秋山庄
伍)
、全日本身障運転者福祉協会(会長小山昌)
、全国身障者自動車問題協議会(代
表中川一)
、宮城県身体障害者交通安全友の会(会長櫻井亮英・副会長佐藤甚四郎)
、
奈良県身障運転者協会(会長矢川敏雄・副会長森房雄・事務局長岡本章)
、身体障
害者舞鶴四輪会(常任理事大村重夫)その他個人有志らが日傷会館に集い、日本
身障運転者協会設立準備委員会が結成され、昭和49年4月を目処に全国統一組織
を結成することを決議した
第2回 日本身障運転者協会設立準備委員会を東京九段会館にて開催され、山梨
身体障害者運転者会(会長原徳明)の参加が了承された
第3回 日本身障運転者協会設立準備委員会を猿沢荘(奈良市)にて開催
有料道路通行料金無料化運動を開始
障害者の「移動と交通」に関する問題にとりくむ団体として全国の諸団体を結集
して日本身障運転者協会(会長佐藤甚四郎)が発足
聴覚障害者に運転免許受験資格が認められる
二種免許についてトラブル際し脱出措置等の条件がある者に対して受験申請が受
理されることになった
運転免許適性試験実施要領が制定され全国統一される
奈障運が有料道路通行料金減免を求める全国統一運動に参加
「駐車禁止除外指定車証」全国共通使用の承認
有料道路通行料金の減免措置として割引制度(50%)が実施
日本道路公団は日障運など6団体から高速SA施設の改善について意見を聞いた
国際障害者年スタート
- 50 -
3.18
3.26
61(1986)
62(1987)
63(1988)
9.1
デイリースポーツ記事 トヨタが足で運転できる車の開発をすることを発表
東京新聞記事 サリドマイド被害者の夢実現に向けて、トヨタが改造の参考に西
ドイツから見本車を輸入して開発。西ドイツでは200台程度が実用
日経新聞記事 トヨタが足だけで運転できる試作車を公開した。運輸省および警
察庁は「免許認可について前向きに検討する」と表明
政府は12月9日を障害者の日と宣言
日本身体障害者団体連合会自動車部会(現日身連自動車協会)が発足
日身連自動車部会が第1回全国身体障害者安全運転競技大会を開催
有料道路利用割引対象に上肢障害者適用
日本道路公団道路モニターの委嘱を小山力太朗氏(日障運事務局長)が受ける
駐禁除外標章の内部機能障害への交付対象拡大 改正前1級 改正後3級まで
2(1990)
6.24
第19回総会開催 出席60名
9.22
57(1982)
12
3
6
12
7.27
3(1991)
9.20
9.23∼24
6.27
5(1993)
8.22
10.17∼19
6
7.29
6(1994)
9
11.27∼29
6.4
7.9
8.7
7(1995)
10.14
10.29∼31
11.22∼23
4.21
5.10∼11
8(1996)
5.27
6・17∼18
8.18
3.22∼3.24
9(1997)
10(1998)
4.29
5.25∼26
9.5∼6
9.23
7.12∼14
9.27
10.4∼5
第18回日障運総会開催 奈良プラザホテル(天理市)
障害者の改造自動車の消費税非課税厚生省課長通達発令
研修旅行実施 鳥取方面 参加34名
日章運役員会参加9名 諏訪市ガソリンスタンドに障害者用トイレの設置要望
新規事業 日帰りファミリードライブ実施 下市町やすらぎ村 参加60名
研修旅行 越中富山庄川峡の旅 参加32名(車8台)実施
身障運転免許取得35周年記念展示会を上越市(渡辺聖火氏出身地)にて開催
東京都障運が東京都多摩障害者スポーツセンター(国立市)で「自立と雇用 身
障者運転のあゆみ」パネル展を開催
ハートビル法(高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建設の促
進に関する法律)制定
研修旅行 土肥温泉(静岡県伊豆市)を実施 参加30名
第24回総会にて楢原泰彦が会長に就任
日障運会長 岡本章氏(奈障運前会長)逝去
日本道路公団ハイウェイ利用懇談会委員の委嘱を日身連河西会長が受ける
日帰りファミリードライブを実施 陶芸の森(信楽町)参加25名
研修旅行 沖縄 実施
故岡本章さん偲ぶ会を伊那市ロッジ吹上にて実施
会員証の発行を実施
第25回総会を開催(春日野乙女さんを迎えて親睦カラオケ大会開催)
青年部 焼肉パーティー 猪の倉温泉(三重県津市)実施
日障運事務局長 小山力太朗氏 逝去
研修旅行 西浦温泉(愛知県蒲郡市)
帝塚山高等学校映像部による高校生から見た身障ドライバーの現状をビデオ撮影
奈障運設立25周年記念行事として「身障ドライバーのあゆみ展」を奈良市史跡文
化センターにて開催。北大和高校生徒によるボランティア参加を得る
ボランティア慰労焼肉パーティー やぶっちゃランドゆうゆう鯛ケ瀬にて開催
1泊ドライブ研修会(石川県小松市)実施
青年部 焼肉パーティー 田原本ふれあい寮 実施
みんなといっしょに交通安全フェアー パネル展示(於 奈良そごう)参加
研修旅行(横浜・鎌倉)2泊3日実施
1泊ドライブ研修会(丹後半島 あじわいの郷)実施
青年部「焼肉パーティー」田原本ふれあい寮 実施1泊
- 51 -
11(1999)
12
(2000)
13
(2001)
14
(2002)
15
(2003)
16
(2004)
17
(2005)
4.18
7.3∼4
7.14
9.15∼16
7.1∼2
9.15∼16
4.15
6.24∼26
7
9.1∼2
10.8
3.24
5.5∼7
7.29∼30
9.7∼8
10.5
3.21
10.1
10.4
12.1
1.20
3.20
3.31
5.6∼8
11.7
10.6∼8
3.19
4.9
6.17∼18
10.16
3.18
4.16
18
(2006)
6.2∼3
10.29
11.25
12
19
(2007)
第28回総会にてボランティア部および青年部設立を承認
1泊ドライブ研修会(岡山県)実施
毎日放送「諸口あきらイブニングレーダー」の取材を受ける
青年部「焼肉パーティー」田原本ふれあい寮 実施
1泊ドライブ研修会(能登千里浜)実施
青年部「焼肉パーティー」田原本ふれあい寮
交通バリアフリー法(高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円
滑化の促進に関する法律)制定
第30回総会を開催
研修旅行 2泊3日北海道の旅 36名参加
欠格条項を見直す改正一括法(障害を理由に一律に免許や資格を認めない欠格条
項の削除や見直し)
青年部「焼肉パーティー」をカトリック野外礼拝堂にて実施
ボランティア部 在宅障害者外出支援事業「鶴見緑地」へ行く
設立30周年記念イベント「明日へつなぐ贈り物」をなら100年会館にて開催
ゴールデンウィークの旅 石川県周辺2泊旅行
ボランティア部 在宅障害者外出支援事業「飛騨高山」へ行く
青年部「焼肉パーティー」奈良市 実施
ボランティア部 在宅障害者外出支援事業「鶴見緑地」へ行く
青年部「焼肉パーティー」をカトリック野外礼拝堂にて実施
奈障運ホームページ公開
ボランティア部 在宅障害者外出支援事業「県立万葉文化館」へ行く
高速道路割引証を廃止し身障手帳等のみで割引適用
ETCでの割引適用
青年部「焼肉パーティー」をカトリック野外礼拝堂にて実施
日障運がメンバーに加わっている日本道路公団モニター制度が終了
企画部主催による沖縄2泊旅行
ボランティア部 在宅障害者外出支援事業「県立民俗博物館」へ行く
都障運30周年に4名参加
青年部「焼肉パーティー」をカトリック野外礼拝堂にて実施
森田福祉記念財団より助成金
道後しまなみ海道1泊旅行
ボランティア部 在宅障害者外出支援事業「私の仕事館」へ行く
青年部「焼肉パーティー」をカトリック野外礼拝堂にて実施
第35回記念総会を開催(韓国伝統舞踊祝賀公演開催)
信州大町温泉1泊旅行
ボランティア部 在宅障害者外出支援事業「花空間けいはんな」
日本身障者自動車連盟(日身連自動車協会および日障運)の設立準備委員会を山
西福祉記念会館(大阪市)にて開催
バリアフリー新法(高齢者・障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律)施行
2.6
警察庁から駐禁除外標章の対象を身障手帳の下肢障害1∼3級1にするように各
3.17
青年部「焼肉パーティー」をカトリック野外礼拝堂にて実施
5.25
6.18
都道府県警察へ通達
奈身連が要望書を県警察本部交通規制課へ提出
日身連が要望書を警察庁へ提出
- 52 -
6.2∼3
8.27
9.10
9.30
11.12
12.12
21
(2009)
22
(2010)
23
(2011)
県福祉部障害福祉課より県下各障害者団体へ通達内容を伝える
駐禁除外標章が車両特定交付から本人交付に変更となる
奈障運が要望書を県警察本部へ提出
奈身連が要望書(2回目)を県警察本部へ提出
青年部「焼肉パーティー」をカトリック野外礼拝堂にて実施
7.9
奈身連理事会にて署名活動を決議
7.20
(2008)
県警察本部職員が奈身連事務所へ来所して通達通りの施行を伝える
3.22
6.1∼2
20
南紀勝浦温泉と那智の滝1泊旅行
8.20
9.8
郡上八幡と上高地1泊旅行
奈身連と奈障運が連名で署名活動をすることを決定
日身連が要望書(2回目)を警察庁へ提出
奈障運及び奈身連は連名で、16,785名の署名を付して県議会(川口正志議長)へ
の請願書(紹介議員 新谷綋一氏、中村昭氏、畭真夕美氏、高柳忠夫氏)を仕上
げて、新谷綋一県議会議員が仲介となり県警察本部と交渉
12.26
県警察本部が駐禁除外を下肢障害4級まで適用することを公報
3.20
青年部「焼肉パーティー」をカトリック野外礼拝堂にて実施
1.30
高速道路会社(緊急避難設備実証実験)モニター参加11名
4.8
森田福祉記念財団より助成金
5.31∼6.1
3.20
6.6∼7
3.19
4.23
富士山・河口湖方面1泊2日旅行
青年部「焼肉パーティー」をカトリック野外礼拝堂にて実施
小豆島1泊旅行
青年部「焼肉パーティー」をカトリック野外礼拝堂にて実施
第40回記念総会を開催(音楽の森「あらいあつこオフィス」によるコンサート)
平成19年から20年にかけて駐禁除外標章の運用見直しの署名活動を実施して
高森敏夫
交通標識の設置などは都道府県警察本部が行うものとなっており、今般の駐禁除外標
章は自動車内に提示する「交通標識」との解釈。上部組織が検察庁に要望しても、各都
道府県が対応するとの理由で門前払い同然の扱いとのことでした。
駐禁除外標章の運用に関する「警察庁の通達」をそのまま障害者団体に流す『通達行
政』には納得できません。通達行政の弊害が如実に現れたものと思いました。各種身障
団体へ駐禁除外の適用範囲を知らせる職務において、いささかの「躊躇」や「迷い」が
なかったのかと警察・福祉行政に携わっておられる責任者の行動が不可解に映りました。
最近、非常に厳しく駐車違反の適用を受けて反則切符を切られる身障者ドライバーが
見受けられます。身障者に対しての法整備の遅れや道路整備の遅れに起因する行き過ぎ
た駐禁の取り締まりが身障者ドライバーの身に降りかかっている困難な現状を忘れられ
ては困ります。身障者ドライバーにも配慮した法整備、街づくりを進めましょう。
- 53 -
平成 12 年7月、重度の障害がある米国青年デビッド・ホランドさんが友人の遠藤恵美子さ
んを訪ねて2週間の日本旅行をされた。22 日∼24 日は、奈障運有志が飛鳥寺、法隆寺、東
大寺などを案内。当時、全国でも数少ないリフト付き車をトヨタネッツが無料で2日間提
供された。また、滞在期間中のボランティアは、延べ 100 名を超えた。
私は、落語とかマリンバ演奏とかの舞台はほとんど見ることが出来ませんでした。しかし、
フィナーレの手踊りで会場と舞台が一つになっているのがすごく分かりました。ただ、「す
ごい」その一言が感じました。
(小北道大:奈障運だより平成 14 年6月1日号より)
試行錯誤をしながらもできることを精一杯し、それが成功に秘訣だったのではないでしょ
うか。私は今回のイベントに参加して、より奈障運の方々との“きずな”が強く結びついた
と感じております。
(岩西雄大:奈障運だより平成 14 年6月1日号より)
- 54 -
平成 14 年3月 24 日 会場 なら 100 年会館大ホール
パソコン教室 平成 22 年1月 17 日
講師 金井隆弘さん、金井洋子さん
- 55 -
平成22年3月20日 カトリック野外礼拝センター
リフト付きバスでいく日帰りツアー
平成22年8月28日 淡路インターナショナル ザ サンプラザホテル 参加45名
- 56 -
- 57 -
平成11年ボランティア部発足当時
- 58 -
- 59 -
- 60 -
ネッツトヨタ奈良株式会社
(本社) 奈良市南京終町1丁目155-1
Tel 0742-61-5356
http://www.netz-nara.co.jp
定休日/毎週月曜日(祝日は営業)
9:30~18:00
法人営業部
ヴォクシー 車いす仕様
奈良市二条大路南2丁目1-8
Tel 0742-33-9010
Fax 0742-33-9028
E-Mail:[email protected]
<取扱い車種>
ヴェルファイア・ヴォクシー・プリウス・SAI
ウィッシュ・オーリス・bB ヴィッツ・iQ・RAV4
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大 阪 府 知 事 登 録 旅 行 業 第 3-1979 号
株式会社ロイヤルライフ(I .W . A . R O Y A L)
〒571-0047 大阪府門真市栄町 6 番 25 号
ロイヤルハイツ門真1階
T E L :06-6908-8146(代)
F A X :06-6908-8906
担当者 :西 谷 達 也
携帯電話(090-6917-1981)
リフト付きバスで行く旅のお供をさせていただきます
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株式会社 UT ケアシステム
住所:奈良県橿原市葛本町220-6
Tel :0744-20-3353 Fax:0744-20-3354
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平成 23 年 4 月新規開設
祝 奈障運 40 周年
損害保険・生命保険・その他
どんな事でも
わかりやすくご説明します。
一度ご連絡下さい!
取扱内容
自動車保険、火災保険、車いす保険、海外・
国内旅行保険、生命保険、新車・中古車販売、
修理・事故のご相談、ユーザー車検ご紹介他、
損保ジャパン代理店
ジャパン保険サービス 辻本浩之
携帯:0 9 0 - 8 3 7 9 - 4 6 2 7
E-mail:[email protected]
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前編集部員として
「奈障運のあゆみ」を出来るだけ正確なものにしたいという高森さんと野本さんの固い意
志に動かされて編集の追い込みの時期から編集部の前任者という立場でお手伝いをさせて
いただきました。お二人は段ボール数箱に及ぶ書類から奈障運の歴史を丹念に調べ上げま
とめていただきました。
残念ながら「不明」の部分が残りましたが、お届けしますこの冊子は「奈障運の思い出
と誇り」が凝縮されています。どのページも丹念に目を通していただき「私の大切なもの」
の仲間に入れていただければ幸いです。
灰藤節子
編 集 後 記
奈良県障害者安全運転協会のみなさま、創立40周年おめでとうございます。私は奈良県障
害者運転者協会に入会を致しましたのは2年余り前のこと、プールで出逢った灰藤さんから、
お声をかけて頂き入会させていただくことになりました。
只今、40年の歴史があると云う重みをひしひしと感じながら、これらの伝統を持つお仲間
に入れて頂き私ごとき者に何のお世話をさせて頂けることやらと不安が募っていましたが、み
なさま方の投稿される文面に、感銘を受け勇気を頂き、お仲間に入れて頂いていることをうれ
しく思います。
苦労と努力の実践が実を結び40年の歴史が出来上がったものと思われます。障害者運転の
歴史を読ませて頂き多難を乗り越え協力された皆様のお姿に感銘を覚えますと共に貴重な経
験談を後輩たちに伝え、風化することなく「奈障運40周年記念誌」として書庫を開き思いを
新たにされますことを希望いたします。
編集に当たり微力ながらのお手伝いをリードしながら突き進めて頂いた高森さんの並々な
らぬご努力と皆様方から頂いた沢山のご投稿とご協力有難うございました。
(野本)
平成22年4月開催の総会からの野本さんに新しく編集部に加わって頂きました。そのよう
な、まだ日が浅い編集部コンビが取り組む第2号目の機関紙が『40周年記念号』となりまし
た。このような大作を果たして、私どもが発行することが出来るだろうかと不安がありました。
40年間に亘る本協会の活動を記すこと。役員・会員の方々がご経験された苦しいこと、楽
しい体験などを原稿でお寄せ頂くには、どうすれば良いのか苦心いたしました。幸いにも、奈
障運活動を長きに亘り心温かく見守って頂いている多くの方々からご祝辞並びに協賛広告を
頂戴することになり篤くお礼申し上げます。役員・会員諸氏からも原稿多数頂きました。切実
と綴られた投稿には、読まれた方には感動が伝わるものではないでしょうか。
野本さんには、「日本の身障者ドライバーの先駆者達」のまとめを担当して頂きました。初
めてのことで、ご負担になったものと思いますが、かなり、時間を割いて調べて頂きました。
まだまだ、記載出来ていない先人達が多数おられます。一端でも垣間見ることができればと思
っています。最後になりますが、投稿者、広告提供者に至るまで、多くの皆様に支えられてこ
の記念誌が発行されますこと心より感謝申し上げます。
(高森)
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「奈障運だより」第 22 号 40 周年記念号
2011 年(平成 23 年)4 月 1 日発行
発 行 所 「奈良県障害者運転者協会」
発 行 人 楢原泰彦 〒 633-0062 桜井市粟殿 1030-1
TEL:0744-45-2304 メール:[email protected]
URL: http://www.nashoun.com/
編 集 部 高森敏夫 〒 630-0121 生駒市北大和 2-10-16
TEL:0743-79-3887 メール:[email protected]
同
野本美代子 〒 631-0846 奈良市平松 2-4-12
TEL:0742-43-3820 メール:[email protected]
印 刷 所 社会福祉法人ふらっと ピー・ター・パン
表紙題字 中出邦子
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