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『異教徒たちの至福』について Aut - Kyoto University Research

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『異教徒たちの至福』について Aut - Kyoto University Research
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異教の神ペルーンとサルマチア : ボブロフスキーの短編
『異教徒たちの至福』について
永畑, 紗織
研究報告 (2008), 22: 113-131
2008-12
http://hdl.handle.net/2433/134493
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
異 教 の 神 ペ ル ー ン とサ ル マ チ ア
―
ボ ブ ロフス キー の短編
『異 教 徒 た ち の 至 福 』 に つ い て ―
永
畑
紗
織
1.は じめ に
ヨハ ネ ス ・ボ ブ ロ フ ス キ ー は 、東 ヨー ロ ッパ の歴 史 を掘 り下 げ て、 ヨー ロ ッパ に お け る 民 族 対
立 につ い て考 え よ うと した 作 家 で あ る。 彼 は1917年
に東 プnイ セ ン の テ ィル ジ ッ トで 生 まれ 、
戦 時 中 は ドイ ツ兵 と して 従 軍 し、戦 後 は ソ連 軍 に よ る捕 虜 生 活 を経 た後 、ベ ル リン に 移 住 して い
た 家 族 の も とへ帰 還 した 。彼 ら東 プ ロイ セ ン人 た ち は 、戦 後 の ドイ ツ の領 土縮 小 に伴 い 故郷 を喪
失 し、故 郷 に 戻 る こ と は お ろ か 、故 郷 に対 す る想 い を 口に す る こ とに も慎 重 で あ る こ とを強 い ら
れ た。彼 は、ポ ー ラ ン ド人 ・リ トア ニ ア 人 ・ロシ ア 人 ・ドイ ツ人 ・ユ ダヤ 人 が 、そ れ ぞ れ の 文 化 ・
風 習 を保 ち な が ら も共 存 して い た 子 ど も時 代 の 自分 の故 郷 に ユ ー トピ ア を見 て お り、この故 郷 を
失 う とい う体 験 が 、彼 に 民 族 対 立 の歴 史や 自 らの 罪 に 目を 向 け させ 、そ れ らに っ い て の 熟慮 の結
果 が 詩 や小 説 とな つ て 、 読 者 た ち に も彼 の 問題 意 識 を伝 え る こ とと な っ た。
こ の熟 慮 と創 作 の過 程 で ひ とつ の ・
キー ワ ー ドとな っ た の が 、サル マ チ ア で あ る。 サル マ チ ア と
は 、 も と も とは プ トレマ イ オ ス の地 図 に も登 揚 す る古 い 地 名 で あ り、 こ の語 は 、ポー ラ ン ドの人
文 主 義 者 マ チ ェ イ ・ミェ ホ ヴ ィー タ が 著 した 『ア ジ ア と ヨー ロ ッパ の 二 つ の サ ル マ チ ア 、お よ び
そ の風 土 と住 民 に つ い て の 論 考 』 とい う書 物 に よ り、16世
紀 の ヨー ロ ッパ 知 識 人 に広 く知 られ
る こ と とな つ た。1ボ ブ ロ フ ス キ ー は この 古 い地 名 を借 用 し、現 在 の ポー ラ ン ド ・バ ル ト三 国 ・
ロ シ ア西 部 ・ウ ク ラ イ ナ 辺 りの黒 海 北 岸 地域 な ど、彼 が子 ど も時代 ・兵 士 時 代 ・捕 虜 時 代 を過 ご
し た東 欧 全 体 を包 括 す る概 念 と して 、サノレマチ ア とい う語 を用 い た。 この彼 の 心 の故 郷 と して の
サノ
レマチ ア とい う概 念 は 、 彼 の処 女 詩 集の タイ トル 『サ ル マ チ アの 時(Sarmatische
Zbt't)』に
よ つ て知 られ る よ うに な つ た。2こ の サ ノ
レマチ ア の 地 で は 、 古 来 か ら様 々 な 民 族 が暮 ら して い た
本稿で は以下のテ クス トを使 用す る。]BObrowsl[i,
Johannes:(㎞
ηθ伽 隔a
Hrsg von Ebe血d
Hau鉛.
StUttgart 1987―1999.(略記 号GWに 巻数 と頁数 を付記)な お、V・VI巻 目は注釈書 になつてい る。
1詳 し くは、小 山哲 「16世紀のサル マチア論におけ るア ジア とヨー ロッパ ー マチェイ ・ミェホ ヴィー タ 『両
サルマ チア剥 をめ ぐつて」:
〔
歴 史篇 〕
』2004年 、257∼276頁 所収 を参照v
2詳 しくは、神 品芳夫/田 中謙 司 編 『ボブ ロフスキー言
欄
l113
『
人文 知の新 たな総合 に向 けて 一 第二回報告 書I
小沢書 店1994年
l
の解説を参照v
が 、諸 民 族 が 民 族 対 立 や 国家 の 暴 力 に よ つ て 苦 し め られ て き た 歴 史 が あ る。
サ ルマ チ ア が 変 容 して い く過 程 の ひ とつ を 扱 つ た 彼 の 作 品 に 、1964年
教 徒た ちの 至 福(Die
Seligkeit der Heiden)』(GW
N,91-96)が
に書 き上 げ られ た 『異
あ る。 こ の作 品 は キ―
エ フの 地
が キ リス ト教 化 され て い く さま を描 い た もの で 、あ らす じそ の もの は ロ シ ア史 の本 を読 め ば 必 ず
載 って い る よ うな話 で あ る。 こ の よ うな 話 を戦 後 の ドイ ツ に お い て 、改 め て作 品化 した ボ ブ ロ フ
ス キー の 意 図 とは何 だ つた の か に つ い て 、 考 え て み た い。
2.『 原 初 年代 言
司
との比 較
『
異教 徒た ち の至 福 』の 舞 台 は、紀 元千 年 頃 の ウ ク ライ ナ 、 ウ ラ ジ ー ミル1世 支 配 下 の キ―
エフ
大公 国で あ る。 ウ ラ ジー ミル1世
は 、大 公 に則 立 した 直 後 に は伝 統 的 な± 着 の宗 教 を保 護 す る政
策 を とつ たが 失 敗 し、キ リス ト教 を国 教 化す る こ とを 斜 義な く され た 。 こ の短 編 に描 か れ て い る
の は 、キ リス ト教 国教 化 直 後 の こ とで あ る。 ウラ ジ ー ミル1世
の家 臣 た ち に よ っ て 、土 着 信 仰 の
神 、ペ ル ー ン を象 つ た偶 像 で あ る杭 が ドニ エ プ ル 川 へ と投 げ 込 まれ る過 程 が 、 こ こに描 か れ て い
る。
Zdenek
V舅aに
よれ ば、 ペ ノレーン は ス ラブ 神 話 の神 で 、雷 や 嵐 を 司 り、戦 士 の 守 護 神 で も あ
る。3ボ ブ ロフ ス キ ーの 詩 『
ペ ル ー ン の洗 礼 キ エ フ988年(Die
(GW
II,327 f)で
Taufe des Perun. Kiew
9881』
は、 ペ ノ
レーンは 「
火 の神 」 と も呼 ば れ て い るが 、 これ は稲 妻 の イ メ ー ジに よ
る もの だ ろ う。
ペル ーンの偶像の形状は、 『
異 教 徒 た ち の 至福 』 が 収 め られ た 短 編 集4の 表 紙 カバ ー に 描 か れ
た 図版 か らも 、知 る こ とが で き る。 ボ ブ ロ フス キ ー に宛 て た 、ペ ル ー ン の絵 を表 紙 に使 うこ と を
提 案 す る手 紙 の 中 で 、Felix Bernerは
、ペ ノレ―ン が 『異 教 徒 た ち の 至 福 』 だ けで な く、 す べ て の
物 語 の 中 に銀 の顔 を のぞ か せ てい る とい うこ と を指 摘 して い る。5実 際 に 、 この 短 編 に 登 場 す る
モ チ ー フは 、 上 記 の 短 編 集 に 収 め られ た 作 品 に 限 らず 、 こ の 短 編 よ り前 に書 か れ た もの も含 め、
多 くの 作 品 に 散 りば め られ て い る。 東欧 諸 民 族 が 暴 力 的 に変 化 を 強 い られ た 典 型 的 な 例 と して 、
ボ ブ ロフ ス キー は早 い時 期 か ら、 キ エ フ の地 の キ リス ト教 化 に 着 目 して い た の で あ る。 な お 、 こ
の 短編 と何 らか のモ チー フ を共 有 す る他 の 作 品 につ い て は 、論 考 中 で 必 要 が あれ ば 、そ の つ ど参
照 した い。
キ エ フ 大公 国 が キ リス ト教 化 され て い く様 子 は 、紀 元 約850年
か ら1110年
ま で の キ エ フ大 公
3V舅a
,Zdenek:Mythologie und G tterwelt derslawischen TJヨlker.
Stuttgart 1992,5.71.
4恥bmw血Joha㎜es:Boehlendoz$'undanderc
.Stu七tgart1965.
Johannes Bobrowslf-'oder Landschaft mit Leuten[Marbacher
Kataloge, Bd.46]. Hrsg. von Ulrich Ott
und FriedrichPf蕈lin.Ausstellung und Katalog Reinhard Tgahrt in Zusammenarbeit mit Ute Rascher.
Marbach am Neckar・1993,5.739 ff.
-114一
国 の歴 史 を記 した 『原 初 年代 言司6と
い う書 物 に 、記 録 され てい る。 ボ ブ ロ フ ス キー も この 短 編
を書 く際 、この 書 物 を 参 考 に して い る。(GW
VI,350)こ
の 短 編 の題 材 は、主 に この書 物 中 の988
年 の 出 来 事 に 関 す る次 の記 述 か ら採 られ て い る。
彼
〔ヴラ ヂ ミル 〕 は 帰 つ て来 て 偶 像 をひ つ く り返 し、 あ る もの は 切 り、 ま た他 の もの
は火 に か け る よ うに命 じた 。 彼 はペ ル ン を馬 の 尾 に結 び 付 け、 山 か らボ リチ エ フ(の
坂)を ル チ ャイUil)へ
引 つ ぱ つ て 行 く よ うに命 じ、棒 で 叩 く よ うに 十 二 人7の 家 臣
を つ け た。 〔
中 略 〕(ペ ル ン が)ル チ ャイUil)を
ドネ%/レ へ 引 っ ぱ られ て行 く と、 不
信 心 な人 々 は そ れ を悼 ん で 泣 い た。彼 らが ま だ 聖 な る洗 礼 を受 け て い な か つ た か らで
あ る。 そ して(人 々 は)引 つ ぱ っ て 来 て 、 そ れ を ドネ プ ル に投 げ込 ん だ 、 ヴラ ヂ ミル
は命 じて 、 「も し も(ペ ル ン が)ど
こか に 漂 つ て い た ら、 お前 た ち は 浅 瀬 を通 り過 ぎ
る ま でそ れ を岸 か ら突 き 放 也(通
り過 ぎ た ら)そ れ を ほ って お い て よい 」 と言 つ た。
彼 らは命 じ られ た 通 りに した 。(人 々 が)(ペ ル ン を)突 き 放 して(ペ ル ン が)浅 瀬 を
通 り過 ぎ た と き、 風 が それ を 中州 に打 ち上 げた 。 この た め に 伏 々 は)そ こ をペ ル ン
の 中州 と呼 ん だ が 、今 で も(そ
そ の ほ か 、ウ ラ ジー ミル1世
う)言 われ て い る の で あ る。8
の 治 世 が始 ま つた980年
の 出 来 事 を記 した次 の記 述 も、この短 編
や ボ ブ ロ フ ス キ ー の 他 の 作 品 に材 料 を 与 え て い る。
ヴラ ヂ ミル は一 人 で 公 と して キエ フ を治 め 始 め 、 丘 の上 の 塔 邸 の外 に偶 像 を 立 て た。
頭 が銀 で 口髭 が 黄 金 の木 製 の ペ ル ン 、 ホル ス
〔
中 略 〕で あ る。(人 々 は)そ れ らを 神 と
呼び 、 生 蟄 を捧 げ 、 自分 の 息 子 や 娘 を供 え て い た 。(人 々 は)悪 魔 た ち に 生蟄 を 捧 げ 、
自分 た ち の 生 蟄 で 大 地 を 汚 し て い た。 ル シ 〔=キ エ フ大 公 国 〕 の大 地 とそ の 丘 は 血 で
汚 され た の で あ る。 だ が 至 善 の神 は罪 人 た ち の 死 を望 まれ な か つた 。 い ま そ の 丘 に は
教 会 が建 っ て お り、(そ れ は)後
に述 べ る よ うに聖 ヴ ァ シ リー の 教 会で あ る。9
6こ の論考では以 下のテ クス トを使 用
。『ロシア原初 年代記』(國本哲夫/山 口巌/中 条直樹 他 訳)名 古屋大
学 出版会1987年bボ ブ ロフスキー が参照 したのは、DieallrussischeNestorchronik.(CTbersetztv Reinhold
TrautmaxuワLeipzig 1931.
7『 異教徒た ちの至宇
副 では、家 臣の数 が16人 と書き換え られている。 ウラジー ミル と家 臣た ちをイエ スと
12人 の弟子た ちに擬 える視 点を嫌 ったためだろ う瓜
8『 ロシア原初 年f矯剥、130―131頁。()内
は訳者 、 〔 〕内は論文執筆者 による。
9同 書、93瓦
一115一
ウラ ジ ー ミル1世
は 、 自 ら作 らせ た キ―
エ フ の丘 の 聖 地 の ペル ー ン の 偶 像 を 、そ の8年 後 に排 斥
す る こ と とな っ た わ け で あ る。 ボ ブ ロ フス キ ー は 、 上 記 の 記 述 に 基 づ い て 、銀 色 の 頭 部 を した偶
像 と してペ ノ
レー ン を描 き 、10上 記 の 記 述 を 膨 らま せ て 、ひ とつ の 短 編 を 作 り上 げ た わ けだ が 、『原
初 年 代 記1に 記 され た ペ ルー ン排 斥 の過 程 と比 べ て 、 『異教 徒 た ちの 至 福 』 の ど こ に独 自性 が あ
るか に 注 目す れば 、 ボ ブ ロフ ス キー の意 図 は 自ず と明 らか に な るだ ろ う。
『原 初 年 代 記 』には な く、この短 編 に 独 自に盛 り込 まれ た もの と して 、注 目す べ き は 、まず 『異
教 徒た ち の 至福 』 とい うタイ トル 、そ して この 作 品 の 冒 頭 と終 盤 に 登 場 す る鹿 の レ リー フ を持 つ
謎 めい た 男 と 「
光 」の 描 写 、 「
赤 」 い 色彩 で あ る。 こ れ ら につ い て 検 討 す る こ とで 、 ボ ブ ロフ ス
キ ー の 意 図 を 探 ろ う。
3.「 異 教 徒た ち の 至福1
「
異 教 徒 た ちの 至 福 」 とい う語 を 、 ボ ブ ロ フス キー は 、1773年
に ヨハ ン ・ゲ オ ル ク ・ハ ー マ
ン に よ つて 書 か れ た 『至 福 に あ ず か る ソ ク ラテ ス の 追 想録 へ の付 け加 え』uか ら学 ん 規(GW
VI,
350)ハ ー マ ン の 同 時 代 人 で あ る ヨハ ン ・ア ウグ ス ト ・エ バ ー ハ ル トは 、『新 ソク ラテ ス の 弁 明
し くは異 教 徒 た ちの 至 福 の教 義 の 研
も
izを 著 し、そ の 中で 、 それ ま で の キ リス ト教 の 「
異教 徒
は天 国 に行 け ない 」 と い う教 義 に反 駁 した の だ が 、そ れ に対 す る反 論 をハ ー マ ン は 上 に 挙 げた 文
章 の 中 で 唱 え た の で あ る。 ボ ブ ロフ ス キ ー は この 議 論 を踏 ま え て 、 『異 教 徒 た ち の至 福 』 を熱
・
た と考 え られ る。
彼 は こ の短 編 の 中 で 、異教 の神 を キ リス ト教 の 神 と 同一 視 す る視 点を 呈 示 して い る。 そ れ は、
ペ ル ーンが 昇 天 してい く記述 か ら読 み 取 れ る。早 瀬 に ペ ノ
レーン が沈 ん で い く記 述 の少 し後 に 、次
の よ うな文 章 が あ る。
あ らゆ る道 が そ こへ と向か っ て 上 っ て い るそ れ らの 塔 へ 、 ドク ソ ロギー 、そ の長 い 賛
歌 は歩 を進 め た。 天 が 開か れ たか らt
後 背 に 包 まれ2人
っ て い つ た 聖 なる方(Pan加krator)を
受 け入 れ るた め に 、 か つ て オ リー ブ 山 の 上 で
そ うで あ つ た よ うに 、 今 日、 ぽ っか り大 きな 円形 に。(GW
の 天 使 に支 え られ な が ら昇
IV,94)
10こ の短編 以外 でも、例えば、『ギ リシアの歌(刀 囲8η'echisrheLied(lfiew 986))』(GW■,275
f)の 中には
「
ペルー ンの/木 製 の碑、黄金 の髭 で/色 裡せ た銀の顔 」 とい う詩 行があ る。
il Haxnann
, Johaxui(臚org=Beylage zun Denkw digkeiten des Seligen Sokrates. ln:S舂tliche
Bd.皿Hrsg. von J(EefNadl鉱Wien 1951,5.111-121.
投Eberhard ,JohannAugust:A加
θ鋤
ゆθd飴鍮
嬬o伽
砺 鵬 α訪 ㎎(紛 伽
㎜d勧5勧
derHeiden Berlin und Stettin1778.
-116一
Werke.
蜘謡
天 が 開 か れ た こ とを 、 キ リス ト者 た ちは キ リス ト教 的 な聖 な る現 象 だ と思 い 、塔 へ と上 って い
くの だ が 、 実 際 に は 、天 が 開 か れ た の は、 ペ ル ー ン を受 け入 れ るた め で あ る。 それ は 、後 に 引用
す る箇 所 で 、ペ ル ー ン が 「
開 か れ た 空 に 向 か つ て」 「
昇 つ て い く人物 」 だ と書 か れ て い る こ とか
ら も明 白で あ る。
聖 書 中に 、 イ エ ス の 昇 天 の 際 に天 が 開 い た とい う記 述 は ない が 、使 徒 言 行 録 の1章9-12節
に
よれ ば 、 イ エ ス の 昇 天 は オ リー ブ 山 で 行 われ た。 つ ま り、 「
オ リー ブ 山 の上 で そ うで あ つ た よ う
に 」 とい う表 現か ら、 上 の 引 用 箇 所 に お い て 、ペ ル ーン の この世 か ら の立 ち去 りがイ エ ス の昇 天
に な ぞ ら え られ て い る こ とが 分 か るの で あ る。
ま た 、詩 『
ペ ル ー ン の洗 礼 キ―
エ フ988年
』 の 中 で 、ペ ル ー ン の新 しい名 がエ リヤ だ と書 かれ
て い る こ とか らも知 る こ とが で き る よ うに、イ ス ラエ ル の 民 の預 言 者 で あ るエ リヤ は、ペ ル ー ン
と同 一 視 され て い た 。 ボ ブ ロ フ ス キ ー が 参 考 に した カー ル ・ロー ゼ の 著 書 の 中 には こ うあ る。
最 初 期 の ロ シ ア の教 会 が 預 言 者 エ リヤ の名 に お い て建 て られ た こ と は非 常 に 特 徴 的 で
あ る。火 の 車 に 乗 つ て天 べ昇 つ て行 つ た預 言者 エ リヤ の 人物 象を 、稲 妻 と雷 の神 と して
ペ ル ー ン を崇 拝 す る 異 教 徒 の ロシ ア 人 た ち の 神 の イ メー ジ に合 致 させ よ うと した こ と
は 明 らか で あ る。聖 エ リヤ は ロシ ア の 民 の 観 念 の 中で は 決 して聖 書 中 の 預 言者 で は な く、
む しろ キ リス ト教 化 され た ペ ル ー ン な の で あ る。13
ユ ダヤ 教 ・キ リス ト教 の聖 典 で あ る 旧約 聖 書 中 の預 言 者 で あ るエ リヤ と、ペ ル ー ン が結 び 付 け
られ る と い うこ とは 、 異 教 ・ユ ダ ヤ 教 ・キ リス ト教 の境 目が 曖 昧で あ る とい うこ とで あ る。14
「
天 が 開 く」 とい う表 現 に つ い て 言 え ば 、 これ はヘ ル ダ リン に倣 っ た も の15で 、 『
子 ども の 頃
(Kindheit)』(GW
Kivl)』(GW
I,6f.)・ 『ユ ー ラ川(Die
I,40 f)な
Jura)』(GW
I,9f.)・ 『ア レ クシ ス ・キ ヴ ィ(Aleksis
ど、 ボ ブ ロ フ ス キ ー の 詩 の い くつ か に も登 場 す る。 聖 書 中 で 、 開か れ た
天 が 登 場 す る場 面 とい え ぱ 、イ エ ス の 洗 礼 の 場 面 で あ る。マ タイ伝 の3章16節
には、「
イエス は
洗 礼 を受 け る と、す ぐ水 の 中 か ら上 が られ た。 そ の とき、 天 が イエ ス に 向 か っ て 開 い た 」 と書 か
れ て い る。つ ま り、 この ペ ル ー ン に対 して強 制 的 に施 され た 洗 礼が イ エ ス の洗 礼 に擬 え られ て い
る こ とが 、 「
天 が 開 く」 とい う表 現 か ら読 み取 れ る の で あ る。
こ の よ うに 、ボ ブ ロ フ ス キ ー 自身 は 、キ リス ト教 的 な もの と異教 的 な もの との 境 目 を、曖 昧 な
13Rose ,K血1;6㎞d㎜d〔
伽 θ臨 曲 π溺 勲 α16肋 融 舳 圏%皿 踊
窃 旛z匹 肋 聰r1伽Be曲i
1956,S.59£
14マ タイ伝 の16章14節 や17章10節 に よれ ば、イエスをエ リヤの再来と見 なす者 もい たよ うである。
15 "、
α肋 蹴 ㎞
な ど。(GWV21)
-117一
も の と して 捉 え よ うと した わ け だ が 、 この 短 編 は 、国 家 が そ の 曖 昧 な もの に き つ ち りと線 引 き を
しよ う と した 出来 事を 描 い て い るの で あ る。
『原 初 年 代 記 』に よれ ば、ペ ルー ンが川 に 突 き落 と され た 日の 翌 朝 、 ウラ ジ ー ミル の 命 令 に よ
り、キ エ フ の 民衆 た ち は川 で 集 団洗 礼 を受 け た。 天 が 開 く とい う表 現 は 、 こ の地 に神 の 霊 が 降 り
て きて 、こ の地 が キ リス ト教 化 され る こ と を意 味 して い る とも 考 え られ る。 異 教 の 時代 か ら キ リ
ス ト教 の時 代 へ の移 行 が 、 ウ ラジ ー ミル の命 令 に よ つ て 規 定 され て い る ので あ る。
別 の箇 所 に 、ペ ル ー ン を受 け入 れ よ う と天 に開 い て い る の は 白い 円 だ とい う記 述 が あ る のだ が 、
こ の 白 い 円は 、ペ ルー ン に彼 の 時 代 の 終 焉 を知 ら しめ る。 ボ ブ ロフ ス キー 作 品 の 中 に は 、wissen
(知る)と 結 び つ い て 、 大 き な 状 況 の 変 化 を知 ら しめ る役 割 を持 つWei゚(白)が
登場す るもの
が い くつ か あ る。16さ ら に、 彼 の 作 品 にお い て 、 「白」 は キ リス ト教 の イ メー ジ との結 び つ き を
持 つ 。 ドイ ツ騎 士団 を 扱 った 詩 『ク リス トブ ル ク(α
ぬ5訪 卿
』(GW■,..;)の
中 に、 「
あ
の騎 士 た ち の マ ン トの よ うに 白い 」 とあ る よ うに 、 「白」 は ドイ ツ騎 士団 の マ ン トの色 で あ る。
さ らに 、ボ ブ ロ フス キ ー の作 品 にお け る 「
白」 は 、新 約 聖 書 中 の イ エ ス の変 容 に つ い て 記 述 した
マ タイ 伝17章2・3節
「
イ エ ス の姿 が 彼 らの 目の前 で 変 わ り、顔 は 太 陽の よ うに輝 き、 服 は光 の
よ うに 白 くな つ た。 見 る と、モ ー セ とエ リヤ が現 れ 、イ エ ス と語 り合 っ て い た 」 と強 い 関 わ りを
持 つ て い る と考 え られ る。聖 書 中の こ の箇 所 にお け る モ ー セ は ユ ダ ヤ 教 を 、エ リヤ は 異 教 を代 表
す る もの と して 、彼 は と らえ た の で あ ろ う。 キ リス ト教(国
し くは 、 異教(の
は な ん らか の大 き な変 容 を伴 うの で あ る。 ま た 、Eberhard
死 の色 で あ る(GW
の も の)と ユ ダヤ 教(の
もの)、 も
もの)の 出 会 い(衝 突)の 場 面 に 、 しば しば 、 「白」 と 「
光 」 は 登揚 し 、そ れ
V,93)こ
Haufeが
白は リ トア ニ ア に お い て は
とを指 摘 して い る よ うに 、 「白」 は 死 と も結 び つ き を 持 つ も ので あ
る と考 え られ る。 例 え ば 、『ク リス トブ ル ク』 に は、 「
そ の 古 い 民 族 、17闇 の 中の 民 族、 森 の 民 族
の 死 の 白い 歌 」 とあ る 。 『異 教 徒た ち の 至 福 』 に お い て も 、 白い 円へ と昇 つ てい く こ とは 、ペ ル
ー ン の あ る意 味 で の 死 を表 現 して い る。 つ ま り、 「白」 とい う色 彩 が 、 ペ ル ー ン の 時 代 の 終 焉 と
キ リス ト Tヒを知 ら しめて い るの で あ る。
異教 とキ リス ト教 の境 界 を曖 昧 な もの と捉 え る立 揚 を 呈 示 して い る こ とか ら、ボ ブ ロ フ ス キー
は 異教 の 神 も尊 重 しよ うとす る立 場 で あ った と考 え られ るが 、どの よ うな 意 味 を込 め て 、彼 が 「
異
教 徒 た ち の 至福 」 とい う言葉 を 用 い た の か に つ い て 、 考 えて み た い。 この 言 葉 は 、 この 短 編 中 に
一 度 だ け 登場 す る
。 そ の箇 所 を検 討 して み よ う。
16詳 しくは拙論:「ヨハネス ・ボ ブロフスキーにお ける闇 と光 ―
燗 脇 蚊 研i魅 『碗 賠 』21号 ⑳7年)。
17ド イツ騎 ±団 によって滅 まされた ブル ッセ ン旗(GWV
-118一
,365)
『
ねずみ のお まつ り』 を中心に」=京都 大学
だ が 、そ こ で ス ヴ ャ トポル ク とス ヴャ トス ラ フ は戦 い 、 ポ リス と グ レブ は 自 らを殺 害
す る者 を待 ち構 え て い た 。 そ の時 に は も う、異 教 徒 た ち の 至福 はル ー シ中 を 駆 け 抜 け
た。 火 と殺 鐵 を伴 っ て 。(GW
IV,96)
火 と殺 鐵 を伴 つて 、異 教 徒 た ち の 至 福 が ル ー シ(=キ
エ フ 大公 国)中 を駆 け抜 けた とい う表 現
は 、キ エ フ 大 公 国 中 で 、キ リス ト教 国 教 化の 方 針 に従 わ な い異 教 徒た ち が殺 され た こ とを意 味 す
る。 『原 初 年 代 訓
は キ リス ト教 の 立 場 か ら書 か れ た も の で あ る た め 、 民 衆 が 喜 ん で 洗 礼 を受 け
た と伝 え て い る が 、 ニ コ ライ ・ニ コ リス キ ー が 、 「
執 拗 に古 吋 言仰 を守 つ て い た 他 の 住 民 層 の 洗
礼 に つ い て は 、年 代 記 は 興 味 あふ れ る物 語 を 詳 細 に 書 き と ど めて い るが 、そ れ が 証 明 す る よ うに 、
家 臣 団 の 支 配 下 に あ っ た 住 民 た ち は 棍 棒 を も つて キ リス ト教 の 天 国 に追 い 込 ま ね ば な らな か つ
た の で あ る。」isと 書 い て い る よ うに 、民 衆 の 洗 礼が 暴 力 的 に 行 われ た こ とは 、『原 初 年 代 記 』の
記 述 の端 々 に も読 み 取 れ る。 想 像 力の 乏 しい 者 で も 、突 然 の 洗 礼 の命 令 を皆 が 皆 、喜 ん で 受 け入
れ る は ず の な い こ とは 容 易 に 想 像 で き る。
で は 、異教 徒 た ち の 至福 に つ い て書 か れ た 文 の 直 前 に あ る、ス ヴャ トポル ク らに 関 す る記 述 は
何 を 意 味 して い る の か?ま
ル1世
に は11人
ず 、 こ こ に 出 て く る人 物 た ち につ い て確 認 して お こ う。 ウ ラジ ー ミ
の 息 子 が い た が 、 長 男 で あ る ス ヴャ トポル ク1世 は 、 ウラジ ー ミル に 殺 害 され
たヤ ロポル ク の 息 子 で あ り、 ウラ ジ ー ミル に とっ て は継 子 に す ぎな か つ た。 合 法 的 な 公 位継 承 者
とみ な され て い た の は 、一 説 に よれ ば 、弟 グ レブ と とも に 、 ビザ ンツ の 皇 女 ア ンナ との 間 に 生 ま
れ た 息子 で あ る ポ リス で あ る 。19ウ ラ ジー ミル の死 後 、ス ヴ ャ トポ ル ク は、国 の 唯 一 の 支配 者 に
な るべ く弟 た ち を 排 除 す る こ と を画 策 し、ま ず弟 の ポ リス公 を 殺 害 した。 そ の 数 目後 に は そ の弟
の グ レブ も殺 害 され た 。 この ふ た りは 、 キ リス トの模 範 に従 い 、 自 らの 生命 を 犠 牲 に す る決 意 を
し、ス ヴ ャ トポ ル ク に抵 抗 す る こ とな く死 ん で い つた と され 、 その 行 為 のた め列 聖 され た 。 ス ヴ
ャ トポル ク は さ らに 、ドレ ヴ リャ ー ネ 地 方 を お さめ て い た弟 の ス ヴャ トス ラフ も捕 え た。20結 局 、
ウ ラ ジー ミル の跡 を継 い だ の は 、 在 位 は4年
と短 か った もの の 、ス ヴ ャ トポ ル クで あ っ た。
ウ ラ ジー ミル の 息子 た ち は 、 キ リス ト教 を 国教 化 した者 の 巳子 で あ る とい う立揚 上 、民衆 の模
範 とな る敬 度 な キ リス ト教 徒 で あ るべ き はず だ が 、そ の キ リス ト教 徒 た ちの 間 で 行 われ た の は殺
鐵 で あ つた 。21自 らの利 益 ば か りを 重 視 した公 位継 承 戦 争 を行 うス ヴャ トポル クの よ うな キ リス
18ニ コライ ・ミハ イ ロビッチ ・ニ コ リス キー 『ロシア教会 則(宮 本延治 訳)恒 文社1990年 、9頁 。
19現 代で は、ポ リス とグレブ が同一の母ア ンナ の子で ある とい う説 には異論を唱 える研究者 が多い。
凶 和 田春樹 編 『ロシア史D山 川 出版社2002年 、46頁 以 下。
21詩 『
ペル ーンの洗礼 キエ フ988年 』に は 「
戦 いは橋の上で泳遠 に続 く」 とある。 この詩 においてr橋 の上」
は ウラジー ミル がい る場所で ある。
-119一
ト教徒 と、救済 され天 に召 され る異教 徒たちの対 比に、何 を見 るこ とができるだろ う?
それはひ とことで言 えば、暴力的なキ リス ト教 化へ の疑念 であ る。 ボブ ロフス キー は、10代
の頃か ら聖書サー クル に入 って聖書 に親 しんでいた し、戦後、ベル リンに移ってか らも、熱L・な
キ リス ト教徒であ り続 けた。つま り彼 は、キ リス ト教 に対 して否 定的 だ ったわ けで は決 してない
が、国家の暴力に よってな され る国家の利 害のための信仰 の強制 には、疑問 を感 じず にはい られ
なか つたのだろ う。異教 徒た ちにとって、キ リス ト教 の天 国に行 くこ とが 「
至福」 であったか ど
う掴 ま疑わ しいが、ボブ ロフス キーは、至福 にあず か り得 る存在 としての異教徒た ち との対比に
お いて、ウラジー ミルの 息子た ちの―部 が 自分の利害 のた めの非 本質的 なキ リス ト教 信仰 者であ
ることを強調 したのである。
次 に、 「
異教 徒たちの至福」 とい う言葉 と並んで 、 この短 編に独 自に盛 り込まれたモ チーフで
ある、鹿の レ リー フを持つ謎 めいた男に注 目す る。
4.鹿 の レリー フを持つ男 と 「
光」
そ の男 は、この作品の冒頭 に登場す る。彼 は、色槌せ て灰 色 になつた毛皮 の短い コー トの上に、
鉄 でで きたよ うな顔 をのぞかせてい る。落 ちくぼんだ その眼に はr光 は も う当た らない だろ う」
と書 かれ ている し、その額へ 向かつて伸 び る灰色 の髪 は 「
光 を受 け入 れない」 と書 かれ てい る。
この男 は、駆 ける鹿 をモチー フと した銀製の レリー フを もつて いるのだが 、その金 属の上 に捕 ら
え られ てそ こに留 まろ うとす る 「
光」 を見たその男 は、 「
手 で光 を拭い去 り」、そ の銀製 品 を毛皮
の コー トの中に隠す。 まるで 「
光」か ら守 ろ うとす るかの よ うに。(GW
IV,91)
初 めの1ペ ージだけで 「
光」とい う語が3度 繰 り返 し登場す るの である。先 にも述べ た よ うに、
ボブ ロフスキー作品においては、 「
光」が重要 な役 割を果 たす ことが 多い。 この作 品において も
然 りである。まずは、この作 品にお いて 「
光」が どの よ うな意味 を持 って いるかを見てい きたい。
先 に登場 した この男は作品の後半におい て、語 りか け られ 、間 われ る。何 を見て い るのか と。
「
滲 んだ空、そ して煙 、今はひ と りの人物 を見て いる」 と彼 は答 え る。そ の続 きを引用 す る。
昇 ってい く人物、灰 色の、岸辺 の緑 色の光の中か ら、河 の上 を昇 つてい く、ひ とりの
人物を、暗い 、ひ とつの杭 、 もう飛 んでい る、猛 り狂 う鳥、翼は ないが、開かれ た空
に向かって、彼の方 に、その引きず られ し者、突 き落 とされ し者 、早瀬 の中に葬 られ
し者の方に向 かつて沈んで くる、黒 く輝 く、光 、― 彼 の銀 製 の顔 は輝 きを放 つてい
る、今、回転 しなが ら、まるで満 ちた光 が彼 に当た っているかの よ う ― その銀が滴
つて、む きだ しにな った木材 が輝 くまで、一人 の男で ある ドニエ プル川 に洗 われ て。
野の上に立 っていた あの杭 を、生賛 の脂 で輝 い て、血 で 自らを黒 く染 めた あの杭 を。
-120一
杭 は 昇 っ て い く、 い ま なお 、杭 は消 えて い く、 光 の 中で 、 天 は 彼 を受 け入れ る。
そ こか ら彼 は戻 つ て こ ない だ ろ う。(GW
IV,95 f.)
こ こで 使 わ れ て い る、人 物 ・
杭 ・引 き ず られ し者 ・
突 き落 と され し者 な どの諸 々 の語 は す べ て 、
ペ ル ー ン を指 して い る。 ペ ノ
レーン の昇 天 と、 そ の代 わ りに 降 りて くる 胱 」 が 、 こ こ に描 か れ て
い る。
話 が 重 複す る が 、 ボ ブ ロ フ ス キ ー 作 品 にお い て 、 強 い力 を 持 っ た 「
光 」 は、 大 き な変 化 、 何 か
の 終 わ り と始 ま りを 表 現 す る場 面 に 現 れ る。例 え ば 『べ 一 レン ドル フ(Boehlendor$」
』(GW
IV,
97・112)で は 、べ 一 レ ン ドル フ の葬 儀 の 日の 場 面 で 、『
ね ず み の お まつ り(ル 徽 おθ蜘 ∂』(GW
IV,
47-49)で
は 、 無 邪気 な 時 間 が 終 わ つて 現 実 が 突 きつ け られ る場 面 で 、 『立 ち去 りた い(lch溜
%rigehen)』(GW
N,61・67)で
も 、 無 邪 気 な 時 間 の 終 わ りと現 奨を 受 け入 れ ざ るを得 ない 時 間
の到 来 の場 面 で 、そ れ は 登 揚 した。22言 い 換 え れ ば 、無 邪 気 な子供 日
計 七の よ うな 時 間 を過 ごせ る
場 所 と して の故 郷 で あ る サル マ チ ア との完 全 な切 り離 しを表 現 す る場 面 に 、強 い 「
光 」 が登 揚 す
る の で あ る。 そ して ま た 、 そ の 切 り離 しに は 、必 ず ドイ ツ等 の大 国 の 影 響 が 関 係 して い る。 強 い
力 を持 つ 「
光 」 は 、そ れ ぞ れ の 登 場 人 物 た ち に 苦痛 す ら与 え る 、 も し くは、 そ れ ぞれ の登 場 人 物
た ち の 苦 痛す ら表 現 す る もの だ が 、注 意 して お か ね ば な らな い の は 、ボ ブ ロフ ス キ―
一 作 品 にお い
て 、 光 は淡 い もの で あ る 限 りは心 地 よい もの で あ る 、 とい う こ とで あ る 。
上 の 引 用 箇 所 に お い て 、 旧来 の サノレマチ ア は 既 に 終 焉 を 迎 え 、キ エ フ大 公 国 とい うひ とつ の大
国 の 色 に 染 め られ 始 め て い る。 上 の 引 用 箇 所 に出 て く る光 とい う言 葉 の うち 、 「
岸 辺 の緑 色 の光 」
だ け が 複 数 形 で あ る。 これ は この 「
岸 辺 の 緑 色 の 光 」だ け が 、 旧来 の サ ル マ チ ア に属 す るペ ノレー
ン に とっ て 心 地 の よ い 光 で あ る こ と を表 して い る。 多 神教 の、 異 教 の神 々 が君 臨す る日
計 竃の 、複
数 形 の 光 、 そ れ に 対 して 、 そ れ 以 外 の 単数 形 の 「
光 」 は 、 キ リス ト教 的 な 「
光 」 なの で あ る。 ペ
ル ー ンが 昇 っ て い くの に 対 して 、 「
光 」 が 降 りて くる こ とか ら もそ れ は 分 か る。 多様 な神 々 、 多
様 な 共 同 体 が 乱 立す る 状 況 を許 さず 、 ひ とつ に ま とめ て しまお う とす る大 国 的 な 「
光 」 と も言 え
るか も しれ な い 。
「
光 」の 中 に 消 えて い くペ ル ー ン を 見守 る 、冒頭 に も登 場 した男 が何 者 で あ る か は 、明言 され
ない。 だが、 「
光 」 を拒 絶 す る態 度 や
「
灰 色 の髪 」 とい う表 現 か ら、 お そ ら くは 異 教 徒 の ひ と り
で あ るだ ろ う と推 測 で き る。 上 の 引 用 箇 所 で 、昇 天 してい くペ ル ー ン が灰 色 の 者 と言 わ れ て い る
よ うに、 ボ ブ ロフ ス キー 作 品 に お い て は 、古 い 伝 統 に根 ざす 土 着 の者 は 、灰 髪 頭 の 老 人 と して描
か れ る こ とが 多 い の で あ る。 この 男 の 眼 に も う光 が 当 た らず 、 この 男 の髪 が光 を受 け入 れ な い の
盟 詳 しくは先 述の拙 論 を参照n
-lzr一
は 、ペ ルー ンが 支 配 してい た 異 教 の世 界 が影 の 回3の
もの に な っ た こ と を示 して い る の だ ろ う。
ペ ル ー ン には も うス ポ ッ トラ イ トが 当た る こ とは な く 、彼 は 古 い 時 代 の 亡 霊 とな る。ペ ル ー ン の
偶 像 も、 銀 が 滴 り落 ち るま で ドニ エ プ ル/ilに洗 わ れ て 、 も う銀 色 に輝 く こ とは な い 。 彼 の 「
光」
に対 す る拒 絶 は 、 キ リス ト教 的 な 「
光 」 に対 す る 拒 絶 で あ る。 杭 で あ る偶 像 のペ ノ
レーン は 「
手を
持 たぬ 」 の で 、 自分 へ 降 り注 ぐ 「
光 」 を振 り払 う こ とが で き な か つ た が 、 この異 教 徒 の 男 は 、 そ
の 手で
「
光 」 を拭 い 去 るの で あ る。
で は、 彼 が 「
光 」 か ら守 ろ う と して い る鹿 の レ リー フ は 、何 を 象 徴 して い るの か?
ボブ ロ フス キ ー の詩 『
拒 絶(Absage)』(GW
I,73)の
中に 、ペ ル ク ー ン とい う神 が登 場 す る。
ペ ル クー ン とは 、古 プ ロイ セ ン と リ トア ニ ア の天 と雷 を 司 る 最 高 神 で 、ス ラブ の 神 ペ ルー ン とは
類 縁 関係 にあ る。(GWV,76)『
拒 絶!の
中で ペ ル ク ー ン は 、 「
ヘ ラ ジ カ の 蹄 の 跡 を残 してや つ て
き た」 と言 われ て い る。ヘ ラ ジ カ がペ ル クー ン を 象 徴 して い る よ うに 、鹿 は ペ ル ー ン を象 徴 して
い る と考 え られ る。 レ リー フ が 銀 製 で あ る こ と も、鹿 の レ リー フ がペ ル ー ンの 象 徴 で あ る こ とを
裏 づ け る。 ま た 、本 文 中で 、 レ リー フに 描 か れ た 鹿 は 「
叫 ば な い 鹿 」 だ と書 かれ て 、詩 『
ペルー
ン の洗 礼 キ エ フ988年
』 の 中で 「
彼
〔
ペ ルー ン 〕 は 叫 ば な い 」 と書 か れ て い る こ とか ら も、鹿
がペ ルー ンを 象 徴 して い る こ とを裏 書 き し得 る。盟 ま た 、鹿 は 、地 と水 の動 物 で あ る蛇 と対 置 さ
れ る 、天 と火 の動 物 で あ り、 「
水 で 生 き るす べ て の も の を 火 で 、 息 も詰 ま りそ うな 日照 りで 、破
壊 す る」。25水 を 用 い て洗 礼 を行 い 、 水 を 求 め る よ うに 主 を 求 め る キ リス ト教 徒 に対 置 され る火
の神 ペ ル ー ンは 、鹿 に 象徴 され る の で あ る。
そ して 同時 に ま た 、人 間 に とっ て の鹿 の重 要性 が 高 か つ た サ ル マ チ ア に お け る狩 猟 ・採 集 の 時
代 も、 この レ リー フ は象 徴 して い る。 こ の短 編 は 、狩 猟 ・採 集の 時 代 が 終 焉 に 近 づ きっ つ あ る 時
代 を描 い てい る の だ,そ の こ とは 、 冒頭 の 男 が 立 って い る寂 しげ な 場 所 に 、 「
忘 れ られ た 道 具 、
柳 で編 ん だ か ご、弦 が切 り離 され 、 ぱ らぱ らに砕 か れ た 弓」 が あ る こ とか らも読 み 取れ る。 実際
に紀 元 千 年 頃 に 、 この 地 に お け る狩 猟 ・採 集 の 時 代 が終 焉 に 近 づ い た か ど うか が 問 題 な の で は な
く、従 来 のサ ル マ チ ア の変 容 を描 く上 で 、狩 猟 ・採 集 の 時 代 の 終 焉 を 暗示 す る こ とが必 要 だ っ た
鴉 「
影」はボブ ロフスキー作品 を読 み解 く上で重要な語の ひ とつ であ る。彼 の第二詩 集のタイ トルは 『
影 の国
河たち』である。
別 『
異教 徒た ちの至側 の草稿 の 中に 隣 みた まえの歌 が今 なお駆 け巡 り 〔
中略〕至 るところ に叫 びが あつた
,
〔
中略〕鹿 が繍 羊な水を求 めて叫ぶ よ うに、」(GW VI,348 f)と い う文 言があ るが、 これ は、旧約聖 書中の
詩編42編2節 の 「
鹿が新鮮な水 を求めるよ うに、主 よ、私 の魂 はあなた を求めま洗 」か ら取 られた もので
ある。 この箇所 にお ける 「
叫びjは 、主 を求める叫びで あ り、 このこ とと関連付 けて考 える と、 「
叫 ばない
鹿」 とい う表 現は、ペルー ンのキ リス ト教の 神に対す る拒 絶 とも考 え られ る。 だが、草稿 の段階では存在 し
た この文言が削 られたのは、鹿 にキ リス ト教 的な意味 を込め るこ とで生 じる混乱 を避 けるためだろ う。
覧 『
世界 シンボル大事則 大修館書店1996年 、448頁 。 さらに鹿は 「
原 初」の状態 としば しば関係付 け られ
ること、また、鹿 の象徴的意味 と狩 りの象徴的意味が結 び付け られ るこ とも、 この事典 ま指摘 してい る。
-122一
の で あ る。%ま
た 、 こ の レ リー フ に は 、 「
幾 重に も枝 分 か れ した 角 の あ る鹿 」 が 描 か れ てい る と
あ る が 、枝 分 か れ した角 は 肥 沃 ・豊 様 の シ ンボ ル で あ り、27こ の レ リー フは 、サ ル マ チ アの 豊 か
な 大 地 を も象 徴 して い る と考 え られ る。 さ らに言 え ば、 幾 重 に も枝 分 か れ して い る もの の 、根 つ
こ は 同 じ一頭 の鹿 で あ る そ の 角 は 、多 種 多 様 な 民 族 を意 味 し、鹿 は 様 々 な民 族 が 共 存す るサ ルマ
チ ア の 地 を象 徴 して い る。
そ の よ うな複 合 的 な意 味 を 持 つ レ リー フに 留 ま ろ うとす る 「
光
だ が 、そ れ は ど うい う意 味 を 持 つ の か?そ
を 、異 教 徒 の男 は 追 い 払 うの
れ はつ ま り、旧 来 のサ ル マ チ ア を キ リス ト教 的 な 「
光」
か ら守 ろ うとす る行 為 だ 、 キ リス ト教 世界 で は 「
光 」 は善 の シ ンボル で あ る が 、ペ ル ー ンに と っ
て 、そ れ は必 ず し も善 で は な い だ ろ う し、ボ ブ ロ フス キー 作 品に お い て は 、(淡 い光 を 除 く)胱
」
は 明 白化 を象 徴す る。 曖 昧 さを 許 さず 、事 態 を ク リア にす る の が 「
光 」 の役 割 で あ る。 そ れ は 一
見 、良 い こ との よ うに 思 わ れ る か も しれ な い が 、多 様 な民 族 が き っ ち り線 引 き され る こ とな く入
り混 じ りな が ら生 き て き た サ ノレマチ ア の 地 に お い て は 、必 ず しもそ うで はな か つた。 キ リス ト教
的な 「
光 」に支 配 され る とい うこ と は 、こ の地 が一 元 化 され 多 様 性が 失 われ る と い うこ とで あ る。
だ が 、ペ ル ー ンが コ ー トの 中 に レ リー フ を隠 し続 け る限 り、 旧来 の サ ル マ チア は キ リス ト教 的な
「
光 」 か ら守 られ る。 つ ま り、サ ル マチ ア の 多 様 性は 未 だ保 持 され て い るの で あ る。 ひ とつ の 強
大 な 力 の勢 力 の 中 に 収 敏 され 得 な い 多 様 性 が、 「
麹
こ に描 か れ た 鹿 が
キ リス ト教 的 な
「
叫ばない鹿
を浴 び る こ とな く隠 れて い るの で あ る。 そ
だ と言 わ れ てい る よ うに、 半 ば封 印 され た 形 で 、 で は あ る が。
「
光 」 の 中 に消 え て い つて 、 「
そ こ か ら戻 つ て こ な い だ ろ う」 と言 わ れ て い る
ペ ルー ンだ が 、彼 は 本 当 に そ の 地 を去 つ て は い な い の だ 、本 文 によ れ ば 、ペ ノレー ンは あの 早 瀬 か
ら逃 れ た とい う噂 が あ っ た よ うな の で あ る。(GW
IV 96)彼 は異 教 徒 た ち の 中 で生 き続 けて い る
のだ 、
レ リー フ を持 つ た 男 は 作 品 の 終 盤 で 、川 の 最上 流 の 「
もは や 道が 存 在 しな い の だ か ら、 もは や
道 に迷 うこ と も な い 場 所 」 へ と向 か つ て い つ た。羽 そ の 「
森 が 始 ま る場 所 」、 「
霧 が 舞 う場 所 」で
は 、 霧 が こ の世 界 の 曖 昧 さ を守 つ て い る。 表 面 上 、儀 式 を通 してペ ノレーンの 日
識 は 終 わ った が 、
ペ ル ーンの 魂 は異 教 徒 た ちの 中 に 生 き続 け る。 キ リス ト教 化 は確 か に大 きな 変 化 で あ った が 、 旧
来 の サ ノレマチ ア は 、 い ま だ 保 た れ て い る の で あ る。 ペ ル ー ン の 名 は 、 「
打 つ 」・「
壊 す 」 を意 味 す
る。29ペ ル ー ン の 力 は 、ひ とつ に ま とめ あ げ る方 向 で は な く、大 国 を解 体す る方 向へ と働 き、サ
ル マ チ アの 地 の多 様 性 を保持 す るの で あ る。
%狩 猟 ・
採集 が従 来の サルマ チア を象 徴す るものであるこ とは、『三つ の視 点』(GW IV,336)か ら読 み取れ る。
卿 『
世界 シンボル 大事典』、448頁,
兇 この記述 の後、草 稿には、「
なお多 くの者が彼 についてい く。ペルー ンが置 き去 りに した者た ちが」とある。
盟)V舅a ,S.71.
-123一
5.「 赤」
「
異教 徒た ちの至福」の章 で、ボ ブ ロフスキー が多神教 の異 教の神 を尊重す る立揚で あるこ と
が明 らか にされた こ とか らも類推で きるよ うに、彼 は宗教 の多様 性、ひいては民族の多様 性を尊
重 する立場 を とつて いると言 えよ う。キエ フのキ リス ト教 化は、統制 の とれ た共同体を築 くた め
に人々の意識 を統一す るイデオ ロギーが必要で、また政治的 ・商業的 にキ―リス ト教化 した方が 良
い事晴が あつたた めに、国家 か ら強制 された もの であ り、ボブ ロフスキーはその よ うな画一的 な
方 向へ と働 くカ に疑念 を抱い ていた と考 え られ る。
死後 に発見 され 、1963年1.月 頃 に書かれ た と推 定 され てい る、 ボブ ロフスキーが 自 らの文筆
活 動の方 向性を整理 した 『
三つの視 点(36蝕
肋 均oα面 θ)』(GW IV,336)と
い う文章 の一部
を紹介す る。
新石器時 代に始ま つた狩 猟民 族、漁 労民 族、採 集 民族 の定住 化、 土地の所 有、 土地 と
の絆 、それ は本 質的には現代 まで続 いた。こ うした時代 は終わ る。この日
訓ざと ともに、
故 郷、郷 愁 といつた観 念、政治的 には、愛郷 亡・
へ とつ ながつて ゆ く民族国家や 国民意
識 も消 えてゆ く。
各大陸は接 近 し合 い、工業 技術が広範 囲にお け る単一 の思想 を可能 にす る。
こうい うことを意識 しなが ら私 は、決定 的に消 え去 っ てゆ く世界 の概 観 を、生活空 間
へのこのよ うな絆 が とりわ け深 く理解 されて きた地域 として構想す る。 〔
中略〕
それが完 全に消えて しま う前 に、も う一度 、適 切 な描 き方 で描 く。
つま り、現代は世界が画一 化 され てい く日
…
監 であ り、その こ とを意識 しなが ら、自分 は失 われ
ゆく世界を、それ が完全に失 われ る前 に描 くとい う旨の こ とが書かれ てい るのであ る。画 一化 を
批判す るような言葉 はそこにはないが、画一化 され る以前 の世界 を描 くことを 自分の使命 だ と考
えていたか らには、それに対す る何 らかの執着があつ たはず だ 、また 、土地 を所有す る時 代が終
わ ると言つている ことか ら、 この文章 は、東側社 会を念頭 に置い て書かれ てい るこ とが分か る。
この 『三つの視 剣 の文章 には、1960年 代に東 ベル リンで書かれ た とい うその状況が 、如実 に
反映 されている。東 ベル リンは ソ連 と密接 な関係 にあ つたわけだが 、この頃の ソ連では、 「
宗教
はアヘ ンな り」とす る共産主義の方針 に従つて、1960年 か ら62年 まで に教会の約 三割 が取 り壊 さ
れ たと言われ てい る。共産 主義 のイデ オロギー によって 、神 なき世界へ の画一化 が図 られたわ け
で ある。 この当時 とられ ていた民族政策 も、一概 には言 えないが、民族 間の差異 を軽視 し、諸民
族 の融 合を促進 す るようなものだつた と言 われ る。共 和国の指 導部が 自立の萌 しを見せ た場 合に
は、厳 しい引き締 め措置が とられ 、民 族 自決が妨 げ られ為
一124一
ソ連 はそ の国家 の成 立以 来、諸民 族
を保護 す る政策 を とつて きたが 、少 数民族 の保護 は人材的 ・
技 術酌 ・
財 政的に困難 であったた め、
共和国 を持つ よ うな大 きい民族へ 、少 数民族が同一化 されてい くことにな り、む しろ少 数民族の
切 り捨て ・民族の規格 化につ ながってい き、 フル シチ ョフ指導下では特 に、 「
諸民族の接近 と融
合 」が強調 され、諸民 族の独 自性 は失 われ る方向へ と動いていった。諸 民族を保護す る形式 をと
ることで、社会主義化 を促 進す るこ とがで きるとい う考 えは、既 に レーニ ンの時代 か らあつたの
だが、あ らゆ る政策 は、 ソ連 とい う大国か ら各共和国が逃 げていかない よ うにするためのもの と
なつたのであ る。強烈 な力 を持っ イデオ ロギーが、各共和国 を少 しずつ ソ連色 に染め上 げよ うと
していた。30
そ うい つた動 向や 、『
共産 党宣言』の 中の 「
プロ レタ リア は祖国 を持た ない」とい う文句が、『三
つの視 削 の 中の、 この時代 とともに故郷 ・郷愁 ・民族国家な どがな くな り、各大陸は接近 し合
い、単一 の思想が 可能にな る、 とい う考 えに結びつ く。西 ドイツ との強いつなが りも持つ稀有 な
東 ドイ ツ人作 家であ った ボブ ロフス キー は、西側か ら見た ソ連や東 ドイ ツの状況 も、い くらか把
握で きていた と考 え られ る。 それ で も、東 ドイ ツに住んで いた彼 は、瑚 ざ状況的 に、共産 主義的
な画一化 を批半1ける ことはできなか った。だ が、複数の民 族がそれぞれの民族性を維持 しなが ら
共存 していた故 郷に、ボ ブロフスキー がユー トピアを見て いた ことは、彼の作品に触 れればす ぐ
にわか る ことであ る。
これ らのこ とを踏 ま えて、この論 考の冒頭 で掲げた問題 に戻ろ う。す なわ ち、千年前 のキエ フ
の地 におけるキ リス ト教化 の話 を、 なぜ ボブ ロフスキー は1960年 代 の ドイツにおいて 、改めて
作 品化 したのか、 とい う問いで ある。
ボブ ロフスキーがス ラブ神 話の神 にまつ わる話 を扱 うのは、現 代におけ る間題 について考 える
ためであ ることは明 白で 、それ は先に挙げた 『
拒絶 』が現在の 自分 自身のあ り方を考 える詩で あ
る ことや、同様 にペ ルー ンの登揚す る詩 『
ネ リー ・ザ ックスに寄 せる(An
Nelly,Sachs)』(GW
I,119f)が ナチ 時代 を扱 うもので あるこ とか らも分か る。
『
拒 絶』は、現代社会へ の拒絶 を表 現 した詩 である。2連 目でサルマ チア平原 が描かれ、3連
目にペ ル クー ンが登場 し、最終連で あ る4連 目にはこ う書 かれてい る。
そ こに
私はいた。 古 き時代に。
新 しい ことはつ いぞ始 ま らなか つた。私は夫で あ り、
妻 とひ とつ の体 とな り、
3Dソ連の民族政策については、塩川伸明 「
ソ連言語政策史再考」:『
スラヴ研究』46―
号(1999年)、155∼190
頁所収を参照した。
-125一
生 まれ た子 ど もた ち を育 て る 、
不安 な き 時 代 のた め に。31
この4連
目に 現 れ る 「
新 しい こ とは つ い ぞ 始 ま らな か った 」 とい う文 は 、 旧約 聖 書 の コヘ レ ト
の 言 葉1章9節
「
か つて あ っ た こ とは これ か ら もあ り、か つ て 起 こ つ た こ とは これ か らも起 こ る。
太 陽 の下 、新 しい もの は何 ひ とつ な い 」 か ら取 られ た と考 え られ る。 つ ま り、 こ の詩 は 、ペ ル ク
ー ンの 時 代 か ら人 類 が ―切 進 歩 して い ない こ と
、人 類 が過 去 に 犯 した 過 ち を繰 り返 して い る こ と
を指 摘 して い る の で あ る。 「
新 しい こ とは つ い ぞ 始 ま らな か つ た 」 と い う文 は 、 『
原 初 年 代 言訓 の
中で 、人 々が 洗 礼 を受 けた こ と を讃 え て 作 者 が 引 用 した 、パ ウ ロの 「
古 い もの は過 ぎ去 り、見 よ 、
新 しい もの が実 現 した 」32と い う言 葉 の ア ンチ テ ー ゼ と も とれ る。
この詩 の 冒頭 に
火 よ、
血 で で き た魅 惑 一
素 晴 ら しい 人 駄
そ して眠 りの よ うに
過 ぎ去 っ た もの 、夢 の 数 々 は
川 を下 っ て い く
水の上を
帆 もな く、 流 れ に ま か せ て。
と あ るが 、 こ の 「
素 晴 ら しい 人 間 」 は 、 「
血」 でできた魅 惑、つま り 「
赤 」、 共 産 主 義 にお け る
未 来 の 人 間 を意 味 して い る とボ ブ ロ フ ス キー は 口頭 で 説 明 した とい う。(GWV,76)こ
れ が事 実
で あ る とす れ ば 、 この 箇 所 は、 詩 の言 語 で不 明 瞭 化 され た 共 産 主 義 批 判 な の で は な い か 。 「
素晴
ら しい 人 間(der
sch
ne
Mens(,h)」
は 、 あ ま りに も皮 肉 に満 ちた 響 きを 持 つ て お り、 そ の上 、
そ れ は 血 か ら生 ま れ 、人 々 を 魅 惑 す るが 、過 ぎ去 つ た 夢 と同 列 に置 か れ る も ので あ り、方 向 さえ
定 ま らず に た だ 流 され て い くだ け な ので あ る。 ソ連 の 強 い政 治 的 影 響 下 に あ る東 ベ ル リンで 、ボ
ブ ロ フス キ ー は 現 在 と過 去 に思 い を 馳せ 、 自分 に で き る の は 子 ども を 作 り育 て る こ とだ と うた っ
て 、詩 を締 め く く るの で あ る。
31『 ボブ ロフスキー詩 剃 では、このPTIこ
つ いて 嗜寺人 の拒絶 は現 代社 会の――
切 に向け られて いる。そ して太
古の人間たちのよ うな生物 杓営み に生 き方 を限定 しよ うと望ん でい る」 とい う解釈 が記 され てい る。 また、
この詩を訳す 上で 『
ボブロフスキー詩 剣
詑 『ロシア原初 年代記』
、133頁 、
を参考 に した。
-126一
ボ ブ ロ フス キー は 、捕 虜 時 代 に ソ連 で ア ンチ フ ァ シズ ム学 校 べ 派遣 され 、長 期 にわ た って 共 産
蟻
思想 を叩 き込 ま れ た 。 そ して 、 ソ連 か ら帰 国 した ばか りの1950年
初 頭、 先 に帰 国 して い た
仲 間 た ち に、 手紙 で 、 自分 は 共 産 主 義 者 に な つ た と伝 え た。 だ が 、 そ の 後 、共 産 主 義 者 とい う自
己 理 解 は、社 会 主 義 の 中 に生 き 、そ れ を原 則 的 に は肯 定す る キ リス ト教 徒 とい う方 向へ と急速 に
変 化 し1台めた と、Eberhard
年 にCDU(キ
リス ト教 民 主 同盟)に
い も あ る が 、SED(ド
Hermannは
Haufeは
伝 え て い る。(GW
I,㎜)ま
入 つた の は、 も ち ろんUnion
イ ツ 社 会 主 義 統 一 党)入
た 、ボ ブ 畷
Verlagで
一 が1%0
の仕 事 との兼 ね 合
党 へ の 圧 力 を 避 け る た め だ つ た と 、Arthur
言 つ て い る。33ボ ブ ロ フ ス キー が共 産 主義 に つ い て ど う考 え て い たか 、正 確 に知 る
こ とは 不 可 能 だ が 、 こ うい つ た 情 報 か ら察 す るに 、 当初 は 受 け入 れ た 共 産 主 義 思想 に 、次 第 に 一
定 の 距 離 を置 きた い と考 え る よ うに な り、それ で も共産 主義 仕 会 の 中 で 上手 く生 きて い くた め に 、
そ れ を否 定 す る こ とは 敢 えて しな か っ たの だ と想 像 で き る。
『拒 絶 』 の 中 で 特殊 な意 味 を持 つ た
ラ ジー ミル1世
「
赤 」 とい う色 は 、 『異教 徒 た ち の 至福 』 にお い て も、 ウ
が 登 揚 す る場 面 で 、 強 い 印象 を 与 え て い る。 そ の箇 所 を 引用 す る。 「
ウ ラ ジー ミ
ル はか ぶ とを脱 い で 、馬 の 首 の 付 け根 の辺 りに置 い た。赤 い マ ン トを着 た 騎 士 の一 群 を両 脇 に し
た が え 、鞍 の 中 で身 を 起 こ した。 赤 い 鞍 覆 い の布 の上 で 。」(GWN92)共
産主義の
「
き」 の 字
も な い 時代 の 物 語だ が 、 ロ シ ア の 始 祖 と も言 え る キ エ フ大 公 国 の騎 士 た ちの マ ン トや 鞍覆 い を
「
赤 」 に した こ と に 、 作 為 を感 じな い で は い られ な い。 これ は 、 「
赤Jの
国 の 人 々が 周 辺 諸 民 族
を 同 じ色 に染 め上 げ よ う とす る状 況 を描 い た 物 語 な ので あ り、この物 語 は 単 な る遠 い 過 去 の 物 語
と して 読 まれ るべ き で は ない の で あ る。
噺 しい こ とは つ い ぞ 始 ま ら」ず 、千 年 前 に異 教 徒た ちが 苦 痛 を味 わ った の と同様 に 、今 も国
家 の 暴 力 に よ っ て 、宗 教 や 民 族 の 多 様 性 が危 険 に さ ら され てい る。 そ の こ とを危 瞑 して書 か れ た
のが、 『
異 教 徒 た ち の 至 福 』 で は な い だ ろ うカaO
『異 教 徒た ち の 至福 』 の 中 に 、 あ と2ヶ 所 、 注 目 して お き た い 「
赤 」 が 登揚 す る文 が あ る。 そ
の ひ とつ は 、3章
で 引 用 した
「
聖 な る方 を 受 け入 れ るた め に 」 とい う文 の 直 後 に あ る、 「
エ ドム
か ら来 る、 赤 い 服 を着 て ボ ズ ナ か ら来 るそ の 者 は 誰 か?」
書の 「
主 の復 讐 」 につ い て 書 か れ た 章 で あ る63章
とい う文 で あ る。 この 文 言 は 、イ ザ ヤ
か らの 引 用 で あ る。(GW
VI,352)イ
ザヤ書に
お け る 、 この 問 い に対 す る主 の 答 え は こ うで あ る。 「
わ た しは勝 利 を 告 げ、 大 い な る救 い を もた
らす も の」 。 さ らに 、 な ぜ服 が 赤 く染 ま っ て い る の か を 問 われ た主 は 、 こ う答 え る。
諸 国 の民 は だ れ ひ と りわ た し に伴 わ な か つ た。 わ た しは 怒 りを も って 彼 ら を踏 み つ け 、
33Hermann
,Arthur Johannes Bobrowsld und Litauen. In:AnnabezgerAnnalen,
unddeutschlitauische Beziehungen 6(1998),5.147-159, hier 5.155.
-127一
Jahrbuch
erlitauen
憤 りを もっ て 彼 らを踏 み砕 い た。 そ れ ゆ え 、わ た しの 衣 は血 を 浴 び 、 わ た しは 着 物 を
汚 した。 わ た しが 心 に定 めた 報 復 の 日、 わ た しの 瞭 い の 年 が 来 た の で わ た しは 見 回 し
た が 、助 け る者 は な く、驚 く ほ ど、 支 え る者 は い な か っ た。 わ た しの 救 い は わ た しの
腕 に よ り、 わ た しを支 えた の はわ た しの 憤 りだ 、わ た しは 怒 りを も って 諸 国 の 民 を踏
み に じ り、 わ た しの憤 りを も つ て彼 らを酔 わ せ 、彼 ら の血 を 大 地 に流 れ させ た 。(イ
ザ ヤ 書63章)
ここ に現 れ るの は、思 い 通 りにな らな けれ ば 報 復 をす る、エ ゴ イ ス テ ィ ックで 残 虐 な神 の 姿 で
あ る。 残 虐 で あ りな が ら、 自 らを 「
大 い な る救 い を も た らす もの 」 だ と考 え るそ の 姿 勢 は 、キ エ
フ の地 に キ リス ト教 を導 入 した 、キ エ フ大 公 国 の 大 公 の 姿 に 、重 ね 合 わせ る こ とが で き るの で は
な い カ㌔
ウラ ジ ー ミル を 取 り囲 む 「
赤 」 は 、 諸 国 の 民 を踏 み に じ り、彼 らに流 させ る血 の 色 を象 徴 し、
そ れ が 同 時 に キ エ フの 地 へ 無 哩や りに 導 入 され た キ リス ト教 へ の 懐 疑 を 表 現 し、 さ らに そ れ が、
ひ とっ の イデ オ ロギ ー の も と、 「
大 い な る救 い 」 の た め に諸 国 の 民 を踏 み に じる こ とに な つて し
ま っ た共 産 主 義 のイ メー ジ につ な が って い く。
この短 編 中 の も うひ とつ の 注 目 して お きた い 「
赤 」 が 登 揚 す る文 は 、ペ ノレーン の杭 が 引 きず ら
れ て い く描 写 の後 に あ る、 「
そ して 草 の 下 の 脈 を流 れ る 赤 色 が 砂 の 上 に 跳 び上 が つた 」 で あ る。鈎
詩 『
ユ ー ラ川(Die
■,315f)の
Jura)』(GW
I,9£)の
「
赤 い 鉱 石 」や 詩 『オ オ タカ(Der
Habicht)』(GW
「
草 が 始 ま る と ころ 、赤 い鉄 の鉱 石 の上 の 砂 」 な ど、 ボ ブ ロフ ス キ ー の詩 の 中 に は、
自然 の 中 の 「
赤 」 が表 現 され て い る もの が い くつ か あ る が 、 これ らの
「
赤 」 は 『異 教 徒 た ち との
至 福 』 の 中の 上 記 の 「
赤 」 と関 連 して い る こ とが 明 白で あ る。 『ユ ー ラ川 』 は、 開 かれ た 天 や 白
髪 頭 、 生 賛 の 地 の 黒 の 中に 立 ち脂 で 輝 く異 教 の神 バ トリンペ 、 砂 の 痕 跡 、 火 な ど、 『
異 教 徒た ち
の 至福 』 と共 通 す るモ チ ー フを 多 く含 ん で い る し、 『オ オ タ カ』 の上 に 挙 げた 箇 所 が 、 『異 教 徒 た
ちの 至福 』 中 の 「
赤」 が登 揚 す る箇 所 とよ く似 て い る の は 、 見 て の とお りで あ る。
これ らの詩 との 関連 か ら、 「
草 の 下 の 脈 を流 れ る 赤 色 が砂 の 上 に跳 び 上 が った 」 とい うの は 、
ペ ル ー ンの杭 が 引 きず られ た こ とに よ って 、草や 砂 が 押 しの け られ て 、埋 もれ て い た 赤 い 鉱 石 の
色 が 見 え る よ うに なつ た こ と を描 写 して い る こ とが 分 か る が 、 こ の 「
赤 」 に ボ ブ ロ フス キ ー は 、
ペ ルー ンが 引 きず られ た こ とに よ つ て流 れ た血 を見 て い るの で あ る。
訓 「
赤」は この短編 中に、も う一度だ け登場す る。 「
その男は 立ち止 ま っ為
のがあるのを感 じている。彼 は天、その 白い 円を肚
げ る。彼 断
彼 は毛皮の下の胸元 に銀製の も
の方 へ と髄 寄る。踏み に じられ 蝉 、
掘 り起 こされ た痕 跡、砂 を染 めた色槌せた赤 を越 えて。」 これ は本文中で 引用 した箇所 を受けての ものであ
る。
-128一
6.お わ りに
ここまで、キ リス ト教 に改宗 した者 たちは加害者であ り、ペルー ンは被害者で あるかの よ うな
話 を繰 り返 したが 、それが全 てでは ない。r生 蟄 の脂 で輝 いて、血 で 自らを黒 く染めたあの杭」
と表現 され てい るよ うに、35ペ ルー ンも残 虐な神 であ り、キ リス ト教 のPa煎)kratorに
擬 えら
れ てい るとい うこ とは、ペル ー ンも怒 りで民を踏み に じる神(の 子)な のだ 、ポ リス とグレブ、
ス ヴャ トスラ フが死 んでいった のは、ペルー ンの報復だ ったのかも しれ ない。だか らこそ、より
敬 虞なキ リス ト者 ほ ど先 に殺 されて いったのだ,「異教 徒たちの至福 が駆 けぬけた」 とい う表現
は、異 教徒たちが殺 され てい つた こ とを表現する と同時に、ペルー ンが報復に成 功した ことが異
教徒 たちに とつて 「
救い」で あった こ とを も表 現 してい る可能 性があ る。詩 『ぺJU-一ンの洗礼 キ
エ フ988年 』の中の 「
戦 え、彼 〔
ペルー ン〕は言 う、/戦 え、我 が子 らよ」 とい う詩 行もまた、
ペルー ンが報復 を煽 る、決 して穏や かでなレ紳 で あることを裏付けてい る。
つ ま りこの物語 には、どち らかが善で どち らかが悪 とい う単純な構図 は存在 しない。それは諸
民 族の融 合が善で あるか悪で あるか、判断で きな いのに似 ている。ひ とつにな るための暴力 、分
裂す るための暴力、 その両方が存 在す るのだ 、
ボブ ロフスキー は、多民族が入 り乱れて暮 らす東 プロイセ ンに生まれ なが ら、国家のカに よっ
て、東 欧諸民族 と ドイツ人 の問 に線 引 きがな され 、さらに東 ドイ ツと西 ドイ ツの問 にも線引 きが
な され 、東 ドイツがひ とつ のイデオ ロギーに支配 された時代に生きた。彼はその故 郷に多文化 ・
他 民族が共 存してい た時代 を知 つて い るだけに、多様 性を許 さない動 きには敏感 にな らざるを得
なかつた。キエ フの地 の強引 なキ リス ト教化 も、ひ とっのイデオ ロギー の下 に画一化 を図った共
産 主義 国家 も、多様 性に対 する不寛容 とい う問題 を孕 んで いる。そ して、共産主義国で ある ソ連
が崩 壊 した後 も、『
異教 徒た ちの至福 』の舞台であ る黒海沿岸地域では、民 鵬紛 争が続いてい る。
この短 編が扱 う、統制 をはか る国家 と多様な民族 とい うテーマ は、今 も変 わ らず重要な問題なの
であ る。
路ぺ
iニ
ー
一ンが流させた血は黒
、キ リス ト者が流 させた血を象徴す るのは赤、とい うふ うに、区別されている点
にも留意されたい。
-129一
Perun und Sarmatien
— Über Bobrowskis Erzählung „Die Seligkeit der Heiden" —
NAGAHATA
Saori
Johannes Bobrowskis Erzählung „Die Seligkeit der Heiden" handelt von der
Christianisierung der Kiewer Rus im Jahre 988. Zu fragen ist, warum Bobrowski in
den sechziger Jahren in Deutschland diesen Stoff aufs Neue bearbeitet hat und wie er
dabei vorging.
Das zentrale Ereignis der Erzählung, die Beseitigung des Götzenbildes der slawischen
Gottheit Perun durch den russischen Fürsten Wladimir, entnahm Bobrowski der im 11.
Jh. verfassten Nestorchronik, wobei er seinerseits manches neu hinzufügte, so den
Gedanken von der „Seligkeit der Heiden", die Figur des Mannes mit dem silbernen
Relief eines Hirschs, zudem licht und Farben. Diesen Zusätzen gilt das besondere
Interesse meiner Untersuchung.
Der Titel der Erzählung geht auf Johann Georg Hamanns Auseinandersetzung mit
Johann August Eberhards „Neue[r] Apologiedes Sokrates oder Untersuchung von der
Seligkeit der Heiden" (1772) zurück. In Bobrowskis Werk wird Peruns Entschwinden
aus der irdischen Welt der Himmelfahrt Christ gegenübergestellt, was heißt, dass
Bobrowski auch einer heidnischen Gottheit Achtung entgegenbringen konnte. Die
„Seligkeit der Heiden" wird dann am Schluss aus dem Kontrast zu den negativ
gezeichneten Christen, die vor Mord und Totschlag nicht zurückschrecken, abgeleitet.
Einer dieser Heiden ist der Mann mit dem Hirschrelief, der „das Licht nicht
annimmt", sich und den geretteten Kultgegenstand davor zu schützen sucht und sich
mit ihm tief in die Wildnis zurückzieht, wo „es keine Wege mehr gibt". Gefragt danach,
was er bei seinem Fortgang erblicke, spricht er sowohl von „Lichtern" als auch vom
„Licht". Die „Lichter" im Plural gehören zur Natur, in der Perun daheim ist, also zur
Welt des Polytheismus, das „Licht" im Singular aber, das aus dem Himmel
herabkommt, verweist auf die Welt des monotheistischen Christentums, das auf
— 130—
Grund
seiner
Absolutheitsanspruchs
vereinheitlichen
er aber auch
alten
Sarmatien.
heißt,
dass
Dass der Mann
er
das
erlaubt
könnte
ein Symbol Peruns
bewirkten
äußerlich
die Zeit Peruns
endet,
lebt
seine
„vielfach verzweigten
und
die
Welt
Seele
Gefüge
großen
weiter.
oder „der Zerschlagende".
auf das genaue
trotz
weiterhin
durch die in der Erzählung
dort
Gegenteil:
Der
Name
Seine Macht
des
Licht nicht aussetzen
Sarmatiens
Veränderungen
sein, gleichzeitig
Geweih" die Vielfalt
das Relief dem einzigen
pluralistische
Obwohl
sondern
Hirsch
mit seinem
Christianisierung
Schlagende"
Vielfalt
will.
Der auf dem Relief dargestellte
symbolisiert
keine
der
durch
zu erhalten
beschriebene
Perun
die
sucht.
Zeremonie
bedeutet
zielt nicht
will,
„der
stark
auf Vereinheitlichung,
Er zerteilt große Reiche und erhält
so Sarmatiens
Vielfältigkeit.
Was Religion
Bobrowski
dadurch
und
die Bewahrung
die Position
gestützt,
Wladimir
zwang
Ideologie brauchte,
Christianisierung
dass
dem
roten
eines
gemäßigten
Pluralismus.
er zum
Beispiel
den Polytheismus
uni das expandierende
vorteilhaft
für Außenpolitik
zu beiden
Satteltuch."
Bobrowski
Aufforderung
lesen,
denn
Ein
Seiten" und
Vergleich
Bewahrung
Situation
das Werk
so vertrat
Annahme
nicht
wird
pauschal
Thema
staatlicher
der sechziger
und
u.a.
ablehnte.
Jahre
Handel
war. Den Gebrauch
„einen Schwarm
sich selbstbewusst
dem
thematisch
zu beziehen
von
regierten
Prinzip
wider.
— 131 —
sechziger
man
kann
spiegelt
über
Gedicht
Jahre,
darin
in
eine
aus ferner Vorzeit zu
Vielvölkerstaates,
ist,
Reiter
„im Sattel,
verwandten
der frühen
ist, und
nicht nur als eine Geschichte
oberstes
und weil die
Bobrowski nicht gutheißen.
erhebt
mit
des zentralistisch
Einheit
Reich zu stabilisieren,
hier auf die UdSSR
verfasste,
sehen, die Erzählung
das
Diese
lossagt, hat in der Erzählung
„Absage" zeigt, dass die rote Farbe
denen
russische
solcher Ziele aber konnte
der sich von Perun
mit roten Mänteln
eines Volkes betrifft,
das Volk in der Kiewer Rus zur Taufe, weil er eine das Volk einende
Gewalt zur Erreichung
Wladimir,
der Identität
auch
für den die
die
politische
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