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昭和55年度 第3号

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昭和55年度 第3号
和渓畜目録係’
日召和55f#度 第3号
G重肩」第59号)
日召和56‘F1 月31日
新潟大学広報委員会
農学部附属村松農場
学内一 i腎研究撒免疫学部門に清水教授就任i積雪地域災害研究センターだより
一ユース i (頓)1 〔1碩)
i第3回歯学祭 (4頁) i
大学院法学研究科入学鼠験実施 i商短祭 (4頁) i
(2功 i医療技術短期大学部特別職(頓}i 文化欄など
第25回法文系四大学学部長・事務長協i本学関係者の叙勲受章について i
議会開催される (2rミ) i (・1頁) i人と研究
就職ガイダンス実施 (2頁〕 i新潟日報文化賞の受賞 (4頁) i 教養部教授 津田 禾粒(11r〔}
司法試験合格者2名 (2頁) i昭和55年度医学教育等開係業務功労者 i全学講義
細頒大学祭 (蜘iの表彰 (頓)i九司」・,ヒ大学灘部享燦
高田分校創立30周年・閉概鍼 i i マンフレ。ド・レービ・ダー
(2頁}i i (13頁)
螢光X線分析装置の紹介 (頴)… 大学だより … 財・学術無会長伏児Ll始
放射線取扱主任者試験の合格者大幅に i i {16頁)
増加 (3r〔} i評鰻会だより 〔5頁) i退官に臨んで {18頁)
日本火山学会秋季大会五十嵐キャンバi新任部局長紹介 i特別寮稿
スで開催 (3頁} ; 附楓図blF館長 f,卜藤 岩〔8鋤 i 東京都立神経病院長 椿 適、辮
動物実験施殴長に茂野教授就任 i学生部だより i 噺潟大学名誉教授) 〔24頁}
国立大学。学部長会醐催講頁M灘;繍義.学公1糊蹴、i表紙写真の闘 蹴
(3頁} i について 〔9頁) i
第14回医学祭 (3yD i保健管理センターだより 〔g則 i
断.ノく砿ご報 55−Nα3G59}
を閉じた。
レ高田分校創立30周年・閉校記念式 (高田分校)
レ大学院法学研究科入学試験実施 (法学部) 12月7日(口}午後1峙から,上越市南厚生会館にお
昭禾[156f艘新潟大獣藍蹴灘研究科の入学試験 いて,新 1 大学発足以来30周年の記念とともに・教
を法掌部において実施した。 育学部の統合移転に伴う,高田分校の閉校式が行わ
なお,合格者の発表を10月29iil(杓午前9時30分法 れた。音楽・美術・i穿道の芸能教科は56年度も高田
文学部正面玄関前[二おいて行った。 ’ に残るが,56年3月末をもって,五十嵐キャンパス
への実質的な移転が行われるため,この日の式典と
レ第28回法文系四大学学部長・事務長協議会開催さ なったものである。
れる (法文学部) 式典には.猪初男学長をはじめ,辰野千寿上越教
10月8日㈱,9日㈲の2日間にわたり,法文系四 育大学長,植木公」二越市長など,学内外の来賓,修
大学(鮒・,剛1,金沢,新潟学音阪・事務長 卒生,新1日 韻,在牲・F服小中学校の児童’生
,1、捌臓が鍬大学1・おいて1瑚催猷た。 徒ら,約1,2・0人が蹄し,皇謹大であ・た・会場の(
あちらこ.ちらには,創立30周年,高田師範掌校以来
レ就職ガイダンス実施 (法文学部) 80年に及ぶ歴史をしのび,惜別の情をくみかわす姿
第3年次学生の就職ガイダンスを12月20日(二Dに, が見られた。式典に引き続き,膏楽科学生による記
本学部331教室において実施した。 念演奏会が催され,花を添えた。
レ司法試験合格者2名 (法文学部)
昭和55年度司法試験受験者のうち,本学法文学部
関係では,2名が合絡した旨の連絡があった。
レ高田分校大学祭 (高田分校)
111.11「1(」うから4111㈹まで,第32回大学祭が行わ
れた。あいにくの雨にたたられたものの,高田分
校最後の大学祭とあって, 「出発(たびだち)」の
統一テーマのもとに,仮装行列・学生劇場・文化祭
‘
典など,多彩な企画が川意され,学lk・教職員のみ レ螢光X線分析装置の紹介 (理学部)
ならず, 般市民・子供達の参加1も多く,盛況であ 昭和55年度の文部省希斗学研究費補助金(一般研究
った。4口のバレーボール大会・後夜祭をもって幕 A)によって理学部地質鉱物学科に螢光X線分析装
1.、♂, 「騨. , 置(エ1瞠㌔.臓製ガイガーフレ・・クスIKF−3064)が
獣」’
W,,”..霜 灘・れ・・のほど・…糊・・醐韓よ・り実
一一幾.,蘭踊∫ボπ・鋤.匪・・搾験室鰹備された・
r . .・, {激の凱x線醗・ける.これ齢光淵1で分け
へ’” .一 て取り購し.そのX線強度を測定する。この強度は
≡ 1申 r’.. 試糊1の、こ素撒砒肌ているので,激のわか
一2一
新大広報 55−N。.3闘
っている試料のX線強度と比較することによって, 関する報告や映画が注目された。26日には妙高火山
未知試料の元素濃度を算定することができる。従来 で現地検討会(案内者:本挙理学部 茅原,災害研
岩石の化学分折は一週間で10個分析するのが精一杯 青木)が行われた。
であったが,この装置ではコンピューターによって
操作が自動化されていることもあって,一週間で約 レ動物実験施設長に茂野教授就任 (医学部)
10°個の試料を分析することカ1できる・本鑓の導 武翻鍛長の欄1黄了に伴い,新施設長に茂野
入によって地質鉱物学の研究・教育の飛躍的発展が 録良教授が選出され,10月1日付けで就任された。
期待できるといえる。
レ国立大学医学部長会議開催される (医学部)
第40回国立大学医学部長会議が10月8日,9日の
両日にわたって,ホテルイタリア軒及びオークラホ
テル新潟において,開催された。
今回の会議は,本学部が当番大学として,文部省
から川村医学教育課長を迎え,全国から42国立大学
の医学部長・医科大学長が出席し,医学教育の諸問
題について熱心に協議がなされた。
レ第蓄4回医学祭 (医学部)
レ放射線取扱主任者試験の合格者大幅に増加 第14回医学祭が11月1日から3日まで開催された。
(理学部) 企画展示部門としては,「胃癌」,「肥満とやせ」,
国家試験としては難関の・一つとされている放射線 「解剖展」ぽか9テーマの多岐にわたって,パネルや
取扱主任者試験が,8月20日,21日(第一種)と22日 映画,印刷物等によって,入場者にわかりやすく展
(第二種)に東京など4か所で行われ、その合格 示し,好評であった。体力測定においては,子供か
者の発表が11月17日付官報で行われた。本学部か らお年寄りまで,積極的に参加していただいた。
らの合格者は策一種10名(内学部3年6名),第二 本学部教官による「医学講演会」では,医学の深え
種8名を数え,昨年度のそれぞれ3名,2名に比較 んを見聞できるとあって,多数の入場者があり,熱
して飛躍的な増加となった。合格率も70%以上であ 心にメモを取る姿が見られた。
∋巖撚難糠:本学剖1掌生がか野離羅㍊窪ε灘繍
多数よせられ,半年前から準備を進めてきた医学祭
レ日本火山学会秋季大会五十嵐キャンパスで開催 実行委員会の諸君も苦労が報いられたと喜んでいた。
’地形学・実験岩石学など火山関係の研究者が全国
一3一
審斤ノ〈[1こ量閥 55−No,3し59}
レ腎研究施設免疫学部門に清水教授就任(医学部) 商短生の協力,友情そして団結がものをいい,11
欠員中の医学部附1蹴}研究施1没免疫学部門の教授 回目にふさわしい充実した商短祭であった。
について,医学部教投候補者選}考内夫見に基づき候補
者を選考の結果,国立公霧研究所環境生∫竪部環境病 レ医療技術短期大学部特別講義
理研究室長 清水不二雄氏が選出され,12月1日付 (医療技術短期大学部)
け発令された。 昭和55年度の全学生を対象とした特別講義が,新
潟大学名誉教授で,現在日本歯科大学教授の永井行
レ第3回歯学祭 (歯学部) 藏氏を招へいして「萬葉の魅力」と題して11月26日
第3回歯学祭が11月1EIから3日の3馴lljに亘り開催 ㈹医学i}ll第1講堂において行われ,約200名の学生
された。今回は,初めて歯学部と同附属チ爵i院内の施 教職員が聴講し盛会裏に終丁し為。.
設を利用し, “ふれあい”のテーマで新潟市民と学
生との交流の場を持つという主旨で,Ii酵演会(私の レ本学関係者の叙勲受章にっいて
歩んできた道一細田病院長,歯槽膿漏のすぺて一原 55年秋の叙勲受章賓が政府から55年11月3日付け
教授,石木教授〉,公開溝座(人れ歯人門一石岡教授, で発表があり,本学関係では次のとおり受章された。の
咬むカー島田教授,歯とは何か一小林学部長),無料 ・勲三等旭日中綬章
歯科相談,お口の模型あげます等の催し物及び各種 永井’行藏 名誉教授(元人文学部)
の展示が行われ,多くの市民の参加があった。ま ・勲七等瑞宝牽
た,学生による駅伝,茶会等も行われ,歯学祭に 景山 辰丙 (元脳研究所文部技官)
色取りを添えた。 本間 惣一 (元歯挙部文部技官)
レ新潟日報文化賞の受賞
本学の下記職員は,11月3日,株式会社新潟日報
社から,科学の分野で顕著な業績をあげたことによ
り新潟EI報文化賞を受賞した。
記
・科学部門
竹内 正七 教授(医学部)
(受賞内容)
胞状奇胎妊娠の適正管理による絨毛癌の
レ商短祭 (商業短期大学部) 発生予防に関する研究
今年で,第11回を迎えた商短祭は,暴風雨の吹き 豊島 重造 教授(農学部〉
荒れる10月25日から27日の3日問にわたって行われ (受賞内容)
た。 ノウサギによる森林被害とその生息数推
25日の前夜祭では,フォーク部,空手部等有志に 定に関する研究
よるアトラクションで,会場一杯の人々をわかせた。
本祭では,今年始めて企画された仮装行列が,峙 レ昭和55年度医学教育等関係業務功労者の表彰
折り,あられも混じる最悪の天候となったため,中 本学の下記職員は,昭和55年11月8日医学教育等
止となったが,模擬店・劇・映画「神田川」・文化サ 関係業務功労者として文部大臣から表彰された。
一クルの展示発表等が行われ,訪れた人々を榮しま 記
せた。 医学部附属病院理学療法部 種村 タネ
一4一
新大広報 55−N。。3傷9)
llllllllllllllllllllllllllllllm臆lllllIlllllmlllllllllllllllll鑓llll鈍1臆lllIllll11随1
評議会だより
川11111111111111購Illlllllllllll川llllllllMIIIIIllllllll聡lllllllllll川ll巳川IllllllI
昭和55年9月及び昭和55年10月に開催された,評 長崎同対策委員会委員長が欠席gため,学長から,
議会について,概括的に記載する。 同委員会における審議内容について,次の要旨の説
第401回評議会(55.9.26) 明並びに報告があった。
1)非常勤講師調整委員会(55.7.31)について (イ)委員長の選出について
小林同委員会委員長から6大要次の報告がなされ 同委員会の互選により,長崎評議員(農学部
た。 長)が委員長に選出されたこと。
●ω旅蜘・ついては・前回の委員会で試算がでて ◎五欄地区構内交テ愚安全繍・ついて
おり,今年度は日当,宿泊料の支給率は,27% さしあたりの緊急対策として,次のことが決
程度にしなければならないということであった 定されたこと。
ので,他大学の例も参考にしながら検討した結 ①交通の整備(構内道路の駐車禁止,一時停
果,やむを得ず今年度の日当,宿泊料の支給率 止,速度制限等交通標識の整備をはかる。)
は,旅費法の定額の27%で支給することが言央定 ②教職員,学生に対する指導(各部局におい
された。 て,自動車を運行する教職員,学生に対し,
@ 手当額については,当面,昨年度末の単価で 構内交通に当たって,交通規制標識を遵守す
実施し,55年度末で残額等を勘案の上,調整し ること,及びバイクの運行者には,ヘルメッ
追給することが決定された。 トを着用すること等,安全について指導を行
なお,日当,宿泊料が27%の支給というのは,余 う。)
りにも少な過ぎるので,今後は,この旅費の支給率 ③ 構内交通の車輔通行止(昭和55年10月12日
を改善するよう再度,委員会を開催し,検討するこ (日)正午から,構内道路の教養部前幹線道路及
ととなった。 び幹線道路から工学部学生入口に向う道路の
2)会計検査院の会計実地検査について 入口の2か所を車輔通行止めとする。)
●
事務局長から,次の要旨の説明並びに報告があっ 以上に関し学長から,この策定はあくまでも差し
た。 ・ 当たっての試行であり,次の対策の資料にもなるこ
去る8月26日から30日までの5日問,同検査院に とであり,この成果をみながら,今後更に対策をた
よる会計実地検査が行われ,最終日にその講評があ て,進めていこうということで,各部局の協力をお
り・若干の注意あるいは,今後十分検討してもらい 願いしたい旨の発言があった。
たい事項について説明があった。また,個々の検査 4)職員宿舎委員会について
の中で医員の勤務状況及び教官の兼職関係,任用の 学長から,去る9月16日及び同19日に開催された
方法あるいは職員の勤務ということについて,それ 同委員会における審議内容について,小島委員長か
それ質問等が行われたが,特に重大な指摘事項はな ら,報告依頼があった旨の説明があり,次の要旨の
かったこと。 報告があった。
3)五十嵐地区構内交通対策委員会(55.93) 第1点として,新規入居者及び入替希望該当者
について が多数いたが,そのうち10月中に入居できる者を
一5一
新大広報 55r−No.369)
対象に,種々の条件を踏まえながら選考を行った の一つと考え・今後とも続けたいと考えており・
こと。 (五十嵐地区4,西大畑地区2,関屋地区, なにぶんの協力をお願いしたい旨の発言があっ
小金地区及び中山地区各1) た。
次に新築を予定し,設置要求中め宿舎について, 6)その他
国の財政事情のひっ迫から,非常に困難であると 学長から,下記について,それぞれ説明並びに報
の情報もあったが,その後文部省との折衡の結果, 告があった。
明年中に1棟(30戸建)が,新しく建築されるこ (1》科学研究費について
とが決ったこと。いずれ,この宿舎の入居者につ 本学における科学研究費補助金の年度別,研
いては,予算がはっきりした段階で同委員会を開 究種目別の内定状況を資料として配布してある
催し,選考を行う予定であること。 が,年度別にみて若干減っており,その理由に
また,小島委員長が外国出張のため,同委員長 ついてはよくわからないどころもある。・しかし,
を辞任したい旨の申し出があり,これが了承され, 最近同研究費補助金について文部省も力を入れ
新たに農学部の霜鳥委員が委員長に選出されたこ ており,従来の配分は理科系の方が多かったよ
と。 ・ うであるが,人文・社会・自然科縣の各分野9
なお,以上に関し学長及び事務局側から,小金地 にわたっても調和をはかるとの方針であり,ま
区及び中山地区に空家が多いことも,宿舎設置要求 た一方,昨年度より今年度は,増額が予定され
に支障を来たしている原因となっており,今後空家 ていること等,申請の時期も間近いたあ,各部
については環境の整備をはかり,入居してもらうよ 局においても同研究費め申請にあたっては,積
う努力したいと考えており,各部局においてもその 極的な対処をお願いしたいこと。.
辺も含み,なにぶんの配慮をお願いしたい旨の発言 (2)在外研究員について
があった。 このことについて,各部局の教官等に注意を
5)学生部所管事項について 喚起していただきたいことであるが,同研究員
U)第29回関東甲信越大学体育大会について は,外国出張命令に基づき海外渡航を行ってい
学生部長から,同大会は,本年度本学が当番 るものであるが,最近,出張中勝手に渡航計画
校として8月5日から7日までの3日間,本学 を変更し,帰国したケースが2件あったこと。
の体育施設を中心に市内の会場において,国公 これについて,それぞれ事情があるようであ
立11大学で選手団4,800名が参加して開催され るが,自分の都合で勝手に出張国をへらしたり・
たこと。本学の優勝種目は別紙成績一覧(資料 研究機関をかえてしまったということである。β
配布)のとおりであった。 今後このようなことのないよう渡航前に十分
また,東日本の医科系の体育大会でも本学は な計画をたて,相手国の研究機関とも具体的な
総合優勝をとげ,最近の学生諸君の成績もやや 相談を願い,慎重に対処されるよう特に周知願
上向きのように思っており,先生方あるいは部 いたいこと。
局の方々の御協力に対し,感謝の意の表明があ (3)国際交流について 塵
った。 最近各大学において,国際交流について真剣
(2)公開講座について に考えているところから,本学においても,今
学生部長から,本年度同講座は,新津市,加 後どのように対処したらよいかについて,各部
茂市でそれぞれ開講したこと。各講師につきま 局の教授の方々に相談し,懇談会というような
しては,本務の多忙なことながら協力をいただ ものを作り,各大学,諸外国の事情や文部省の
き実施しているところであるが,これも教育の ・考え方等もあわせて,検討したいと考えでいる
成果を社会に還元するという大学の重要な任務 ので,なにぶんのご協力を願いたいこと。
一6一
新大広報 55−N。.369
第402回評醸会(55.1α24) 一教室外学修の指導一」
1)国大協第1常置委員会(55.10.16)について 27万2千円……(金沢大学との共同
学長から,次の要旨の説明並びに報告が行われ, 研究の本学教養分として)
これについて各評議員から,種々の質問並びに意見, or授業に〈ゆとりと充実〉を生む教材の開発」
要望等が述べられた。 ’ 67万7千円……(教育学部高田分校
昭和57年から,高等学校学習指導要領の改訂が行 要求分)
われ,60年度から,、新しい指導要領による教育を受 or導入諸機器活用と結びつけた教材開発及び
けた者が大学を受験することとなるため,これに関 授業方法の改善」
連して,共通第1次試験の見直し,あるいは入試の 131万8千円……(商業短期大学部要
あり方,大学の教育のあり方に及ぼす影響が大きい 求分)
ということで,国大協では,これについて種々の論 or患者モデルとしてのレコーダーを用いた生
議が行われていること。 . 理機能検査及び患者監視システムの基礎的教
2)非常勤講師調整委員会(5510.20)について 育のプロジェクト」
●小林同委員会委員長から洞委員会における繍 25・万円一一・(医療技術短期大学
内容について,次の要旨の説明並びに報告があった。 部要求分)
まず,本委員会の議事に先だち主計課長から,10 (2)昭和55年度新大祭について
月1日以降における旅費の支給率については,日当, 本年11月1日㈹から11月4日㈹までの4日間
宿泊料の32%支給が可能となった旨の報告があゐた の日程で新大祭が計画されていること。例年
こと。 1.5日の休講を認めているが,雰年も協議の結
また,議事については,同旅費の支給率をアップ 果,これを認めることにしたこと。
するには,今後どのような改善をはかったらよいか 《3》昭和55年度卒業式及び昭和56年度入学式につ
ということで,種々の協議が行われたが,根本的に いて
いろいろ問題もあるが,来年度の計画として取りあ 去る22日学生部協議会が開催され,本年度の
えず,’同委員会としての申合せ事項が了承されたこ 卒業式は3月20日㈹及び昭和56年度入学式は4
と。(同申合せ事項省略) ° 月10日㈹に実施することが決ったこと。
3)学生部所管事項について なお,同行事は例年新潟市の体育館で実施さ
学生部次長から,次の要旨の説明並びに報告があ れていたが,先方から同施設は工事のため,使
嚇昭和55年度教育方法等改善経費にっいて 鷺綴畿麓録鱒磐
このことについて,文部省から下記のとおり, と。しかし,両行事とも全員出席となった場合,
示達があった。 収容能力の面及び父兄の参列等諸般の状況を考
O「分析機器付設のカセットコーダーを利用し 慮し,種々協議が行われたが,1回で実施する
ての効果的外国語教育の研究」 という方向づけがされたこと。
180万8千円……(教育学部要求分) これに関し,一評議員から,現社会の実状及
O「生物学実験への生理・生化学的内容の導入」 び各大学の傾向等からして,何らかの配慮が必
228万円…………(教養部要求分) 要ではないだろうかとの意見がだされ,種々意
O「コンピュータを利用した教育工学手法によ 見交換が行われた結果,学長から,これらの意
る機械工作実習の改善」 見を踏まえ,再度同協議会で検討かた願いたい
217万5千円……(工牽部要求分) 旨の発言があり,了承された。
O「一般教育の教育方法等改善に関する調査研究 4)五十嵐地区構内交通対策委員会(55.1.17)
一7− .
脚ひく,ユこ刊芝 55−No.3吐591
について 理にあたっては,法に基づき蓄績するなり,業者に
長崎同対策委員会委員長から,同委員会での審議 委託するなどの処理をしているが,それ、も、限度にき
内容について,資料に基づき詳細な説明並びに幸1芝告 ている状況から,早く学内での処理をということで,
があった。 同処理施設の新営を昭和56年度の概算要求として提
その主な内容は,次のとおりであった。 出されているというのが現況であること。ところが
ほ1ワーキンググルーフの設置 最近その予算がつきそうな状勢であり,着工に運ぺ
〔2)実施すぺき調査)1噸 るよう計画をたてるようにとの指示があったことか
{3}本委員会の検討課題 ら,緊急に同委員会を開き,種々の協議が行われた
イ)う並路1婿」也 ロ)班E卓上易!糊連 ことo
また,今後は学内の他の委員会等の関連が起きて まず,建築場所としては工学部の隣りを決め,建
くるかとも考えており,整理しながら検討を加える 物(約375m「)は,大学の規模としては許される
予定である。 範囲の最大限のものを要求してあること。
なお,将来新潟市が道路を作る予定である部分に また,機種の選定についても長年検討が加えられ
ついても,大掌としては湿く.〔,」、を進めてもらうて肌.れ。つ、・ても瀧をみた。 .0
べく要請していきたいと考えていること。 更に同施設の配置要員であるが,通常技宮1名と
5)実験廃水・廃棄物処理委員会について いうことであるが,大学によっては運用で教官も加
斉藤(卿同委員会委員長から,去る9FIに閉催 わっているところもあること。
された同委員会における審議内容について,次の要 以上のことから,同施設ができた時点において,
旨の説明並びに齪告があった。 厳しい状況であるが,少なくとも技官1名の確保が
現在,各部局において,有害軽金属有機物等の処 できるよう配慮願うこととした。
「1川IIIill川川1111川鵬ll川1臣1田lIllll川1鵬1臨川IIIIlllllllll川【IIIIII睡il1川開lIlll川IIIIlll11川川川1臆1川1【11川11111111阯ll川1闘1川11111川川1聡ll川1川1川騨11川lll1川晦11川1田1111111111川II
す。しかし,見方によっては,図書館の実際の運営
新任部局長紹介 上での改善は,これからが本番だとも考えられます・.
例えば,図書館の増築に当たっても。大学の一つのシ
ンボルとしての図舗ということを・どのような幣
附属図書館長就任にあたって 形によって示すか,といった問題もあるかと思われ
ます。また,現在では,まだまだの参考調査の仕事
附属図.1ミ館長 伊 藤 岩
を,教官や学生の求める図書や資料についての情報
11月1日付で図書館長 提供として,いかにして充実させるかといったこと
に御挨拶をしたいと思い ” まだ,就任後わずかで勉強不足ですが,さまざま
ます。歴代の館長,図書 , な問題について,全学の皆さんの物心両面にわさる
館委員,職員を中心とす 御援助を仰いで,図書館の充実に努めたいと思いま
る全学的な努力で,分館 ¥ すので,よろしく御願いします。なお,学生にとっ
統合や運営についての基 ての図書館はどうあるぺきかについての私の一つの
本方針はぼぽ確立された . 思いつきを,図露館だより (第20号)にのせました
ので,基本問題は残ってはいないように思われま ので,御覧載ければ幸です。
一8一
新大広朝{55−No.3係91
学生部だより
レ卒業式について
191α1∼21:00
9月121.1
金
9月16日
火
9月19旺
金
1迂界繍の視点から80fF代日織済を躍する
ウ掻諌山 正
鮒捕
`かなノ澗i物献一 ヨ提 細久雄
19:00−21:00
堤代教育改革の課題11
19100∼21:⑪0
現1轍育改革の灘ar::.・冒irρ胤出棲三無聾、一
金
昭和55年度新潟大学及び同併設短期大学部の卒業
身体運動と健康
金
鞍朝1二おける母の欝
式を下記のとおり挙行します。
19:0U∼21:GO
O日 時 昭和56年3月20日㈹ 午後1時
1明7日
火
10胆日
火
19:00
`21;oo
最近の工初ギー問題について
u師 聯 修
10月21rI
火
10月210
火
人又ゴ藩
ヨ授舖荘平
工層’獅
ヨ疑川口靴二
成綱うつ韓ついて)
15:30−20:30
o場 所 新潟県民会館
敦.臨
19:〔勘一21:{旧
10月311
記
敦育学瀬
ニ授細久雄
19:00∼21:00
9月25日
葦歪済掌静
聡鰹センクー
負レ」細}論
人文学郡長
@ 1辮 章
20;30一
閉 講 式
レ昭和55年度新潟大学公開講座の開設について
う講膿麟膿型:5難大婁加入階欝公民館
記
期日
躍
明2日
火
時1昌1
18:30
`19:00
学習内容
闊 講 式
19:σo∼21:00
9月2日
火
9月3B
水
9月9日
火
燃保護と人1踊動
19:00−21:00
近 1ilの 笑 い一「醒睡知を軋・に一
趾近の工初ギー閤題について
9月19B
金
9月26日
騒 の 話
19:00
火
@ 櫛木幸明
教㍊
身体運動と催康 u師橋本 修
繊逸と臆ラ秘織O離
鼈骼樗カ凝手赫oに一
1明7日
新湾大学名勲授
近 代 の 文 学一麟搬と「白樺」派一
火
金
〔梛
19:00∼21:00
金
1明3日
ノ・κ篇
`2i:00
19:0D−21:01
鯛卸日
@ 長崎 明
Σ川口千1に
19:00−21:00
火
農学部長
X揺騰 亨
19:00−21:00
明16日
講師氏名
19:II∼ワ1:00
成 人 病 1 傷「樋より}
19:00−21:00
成 人 病 n けつ病について1
期錦
ゥ琵田中栄一
櫛’篇
P置師灘隆至
腱管理七ント
フヒ提伊東義一
1輩!建鯉センター
蕪ヨ擾塚田浩治
18;3D−20;30
lO月14H
火
正明1姻
火 20:30、
教育のモデル鋤糠
lllllrlllrll【r川IIIII川III:III賦II川II【[II1川11川1川川1川1川川111111「川1川1川11川川川1
敦育擁
wΣ斎藤 勉
閉 講 式
保健管理センターだより
会場新津市図苔館
参加人員117名 ・9臆でで.学’1,尉する検診を紺し,1。月
から職員を中心とした検診を行ってきた。これらの
朔日
曜
時間
講師氏名
学習内容
うち肝機能検査及び胃口ll接搬影の結果については,
金
明5日
開 藷 式
異常を認めた方には通知し,’1‘後処置を行っていた
la;30∼19:00
19:00
農幽.鄙長
金
9月5日
だいているが,これらの2つの検査とも第一次スク
`ワ1:00 燃{糠と人問活動
@ 長き畜 明
1偶大’.}i躊敦授
リーニングであり.兄落としを防止するため「疑わ
火
9目9日
19100一ワ1:II
騒 の 話
@ 椿木幸明
しきは異購とみなす」の姿勢で処理した。このため,
−9一
新大広判三 55−No.3591
「毎年同じように異常と言われるが,精査を受ける
と何もないと言綱、る司というような苦畑があった 積雪地域災害研究センターだより
り,本当に重症な病気(特にガン)を宣告されたよ
うな気持になられ,祖談に児えられる方があったり, 地すべり学会後援の日米合同地すぺり対策セミナ
また逆に毎年のことだからと放鍛される方など様々 一に参加したアメリカ・カナダの研究者・技術者22
である。医者が病気を診断するときにはその人の顔 名(同伴者8名)が,去る10月15日㈱午前9時に当
色,皮膚のつや,打聴診さらに他のいろいろな検査 センターを訪問した。センターでは,会議室におい
の成績等,その人のもつすべての情報を総合して行 て,新潟県の地すべりの概要説明のほか,水害,土
うものである。センターで行っている定期検診での 石流,地震などの各種災害をスヲイドで紹介した。
情報は非常に少ないため,あくまでも「病気がある 特に,今年8月に,当センターで撮影した姫川上流浦
かも知れない」との結論にとどまるものであり,本 川で発生した土石流のVTRや,昭和53年5月18日
当に病気かどうかは医療機関での籾査をまって決定 の妙高土石流のスライドなどに質問が集中した。つ
される。そのためにも,できるだけ私共の勧告にも いで,団長のプラップ博士(アメリカ地質調査所)
とついて離や髄を鮒ていただき轍ともセ.からア刈力の地詠りの概要の謝があり,テ、朔
ターでの検診に御協力いただきたい。 リカでは,地すべりに対して公共投資が行われてお
O寒くなり風邪で来所される学生・職員が多くな らず,現在,分布図を作成中との事であった。短時
ったが,感冒の原因の大部分はウイルス感染であり, 間ではあったが,会終了後,当センターにセント・
ウイルスとの戦いに敗けた結果である。この敗戦の ヘレンズ火山の火山灰が寄贈され,今後の資料交換
原因の多くは自分で自分の体力をおとすようなこと の約束がなされ,一行は,15・16両日の新潟県下の
をやってしまったことにある。一方風邪を治す薬は 地すべり見学に出発した。
未だなく,かぜ薬とは解熱・鎮痛剤,セキ止め,抗
アレルギー剤などの対症療法薬にすぎない,これを
服用してもウイルスとの戦いには勝てない。この戦
いに勝利をおさめるには,体力を回復するしか手が
ない。このためには休養が第一である。休養を体に
与えることなしに,カゼ薬だけ服用するなどは薬公
害を助長するだけであり,バカバカしいことである。
パスでは,特に防寒に心がけて欲しい。この場合, センター会議室における意見交換会
学生諸君は上半身の防寒には著すぎと思われるほど (ブラップ博士のスビーチ)
のものを着ているが,下半身はジーパンー枚とお寒
い諸君がほとんどで,下半身の防寒の方法にも一考
されることを希望する。
○前回にも述べたが,学生諸君の交通事故が多発
し,重症なけがが増加する傾向にあることは憂慮さ
れる。特にバイクによる外傷が多く,バイクで通学
されている諸君の自重を望む。
玄関前の記念撮影
一10一
新大広報 55−N。,3帽9[
富II.iが郷里であったこともあり,その後十数年間
は黒瀬谷屠の化石を勉強した。幸いなことにその貝
類化石は中新阯中期(1,500万年前)のものとして
は日木ではもっとも種類にとむばかりでなく,保存
の良いものであった。小学生のころから集めてきた
一・一一・人と研究一一一・標本を検討して二百数+醗同定したが,そのうち
50種あまりが新種であった。これらのなかには北方
日本が熱帯であった? 系の要素はまったくといっていい1まど認められず,
一マングローブ沼の調査一 ほとんど南方系の要素からなり,現在の沖縄や台湾,
あるいはフィリピン以南に分布する属が少なくない
教養部教授 ことが明らかになった。貝類化石と地磨に残された
津田禾粒 記録を手がかりにして1,500万年前の状態をかなり
正確に復元することもできた。
[ 昭和23年,当時地質調 . その後,研究のテーマを変えて,当時の深海域の
査所におられた大山桂博 古環境の勉強をしてきたが,昭和48年アフリカのナ
士が富山県下の黒瀬谷層 イジェリアの大学で一年聞溝義をすることになった。
からマングロープシジミ ル川のデルタには幅400キロに達するマングローブ
仲間は現在熱帯乃至亜熱 ンスネークとマラリヤの巣窟であるため,容易に近
グロープという植物は分類上の区分ではなく,生態 二度おとずれることができたにすぎない。
掌上の区分で,デルタの周辺のような潮間帯に生え 現地の日本の石油会社の人たちから,グリーンス
ている。ヒルキ科,ハマザクロ科に属するものや, ネークにやられたら命がないと止められもした。苦
ニッパヤシなど種類が多いが,ふつうの植物とちが 労していってはみたものの,深いマングローブ林を
い塩水がさしてきても枯れることがない。大山さん ぬけて海岸までゆくことができず,わずかに内睦部
はこのことから当時の日本が熱帯乃至亜熱帯であり, でマングロープシジミ,その他日本の化石と同じf中
マングローブが生えていたことを予言した。 問の貝の生態を少し観察した。要するにニジェルデ
地質学という学問は物理学,化学あるいは生物学 ルタへの期待は裏切られたが,ヘリコプターからの
にくらぺ歴史が浅く,当時の日本では地屑や岩石の 見わたすかぎり海水中に根をはるマングローブの鍛
状態をしらぺる,いいかえれば記載学的な仕事が主 観は感動的であった。
体をなしていた。それだけにこのように化石の発兄 ナイジェリアから帰国した49年秋,野外実習のた
から当時の気温,海水温度あるいは海水の塩分濃度 め,学生諸君とともに黒川村にでかけた。そのとき
を推定し,これらを総合して古地理や古環境の復元 胎内の大学の合宿研修所のすぐ近くで,中新世中期
が可能であるとの指摘は第三紀貝類化石の研究をめ のマッヵな土をみつけたときは全く驚いた。ナイジ
ざす学生にすぎなかった私に強い影響を与えた。 エリアでその上で一年間をすごした熱帯の土,紅土
また,それまで学んできた古生物学の上に転換期 に全くよく似ていた。教室に帰って古い野帳をしら
がきていることを知らされた。 ぺたら赤い不思議な堆積物と記録されていたが。
一11一
*斤大寛去撃艮 55−No.3{59}
熱帯の高温・多雨の地域では,永年にわたう強烈 調であったが,スマトラでは例によって船外機づき
な風化作用で岩石は化学的に分解され,軽い非金属 の小舟で行動したものの沼が大きすぎて手におえな
元素は水にとけて流される。一方,重い鉄やアルミ かった。最後のシンガポールの沼は規模は小さくて
ニウムは濃縮され,酸化物や水酸化物として残り, も,調査には理想的な場所があった。干潟に無数に
土壌は赤色あるいは赤紫色を呈する。これが紅土(ラ うごめく10cm前後のセンニンガイをみて,泥まみれ
テライト)である。アルミニウムの原料のボーキサ の1さんがおどり上って万才をさけんだが,その気
イトも似たようなものである。 持は皆同じであった。
新潟のような温帯では植物質が土壌にまざり肥沃 大山さんが植えつけてくれた夢は今現実のものに
な黒色の土をつくるが,熱帯では植物質も分解され, なりつつある。しかし,日本の化石その他のデータ
炭素が水にとけてブラックウォターとなる。ジャン ーと,現在のマングローブ沼のデーターをふやし,
グルを流れるプラックウォターは無気昧なうす墨色 これらを対比してゆくことが今後の課題である。マ
であるが,結構魚もすみ,ときにはマッ裸の原地人 ングロープ沼の苛酷な条件のためか,動物や植物に
が手づかみにしたりしていた。 関する研究はそれほど少なくはないが,環境を総合
胎内でみつかった赤色の土はred colorod bedと 的にとらえたもので,われわれの利用できるような
名づけて報告したが,その後同様のものが新潟県北 報告はない。今後も日本での調査と並行して現世の
部の各地でみつかった。これが契機となりマングロ マングロープ沼の調査をつづけるつもりである。
一プへの夢が再燃した。そして山形,名古屋,広島 日本に帰るとマングローブ沼の泥沼での苦しさを
の大学の研究者との協力で,とうとう一昨年には富 忘れるが,現地では「昔の兵隊はこんなところで戦
山,広島,岡山などからマングローブの一種である っていたんだぞ!」とおおげさにはげましている年
オヒルギ属の花粉の化石をみつけることができた。 長の私が一番ヘバることが多かった。昨年ナイジェ
貝の化石,紅土,それに花粉の発見と三つの条件が リアで数日一緒になったT博士は元来外科の先生で,
そろい,大山さんの予言が丁度30年目にほぼ実証さ 大病院の院長である。彼は大学では植物学をやりた
れた。 . かったといラだけに,熱帯植物にくわしく,教えら
ナイジェリアの石油省のオメーレ君が数年前東大 れるところが多かった。しばしば東南アジアやアブ
の修士コースを無事修了して帰国したが,彼は在日 リカにでかけ現地の医療に情熱をもやす博士には
中に地質調査の実習を新潟の油田地帯でやったので 「ある熱帯医の記録」と題する名著がある。彼は「私
その面倒をみた。昨年ふたたびナイジェリアを訪ね や君は熱帯病患者みたいものだから……」と言った
たおり,石油省の好意で彼とニジェルデルタの調査 が,マングローブ問題をはなれても,熱帯そのもの
をすることができた。しかし,マングローブ沼の本 が私をよんでいるように思われてならない。
格的な調査は単独では手におえるものでないことを
知らされた。
今年の夏はこれまでの経験にもとづき,名古屋大
学の糸魚川さん,山形大学の山野井さん,それに登
山家・探険家として有名な佐伯冨男さんの協力をえ
て,バリ,ジャワ,スマトラからシンガポールへと 艶
マングローブ沼の調査を実施した。途中で予定の飛
行機が満員でのせてくれなかったり,マングローブ
沼の泥にのめりこんで動けなくなったりして苦労も
マングローブ沼談議に花が咲いた。バリ島での出足は快 、,
一12一
新大広報 55−No.3伍9)
成績証明樽,職歴に関しては退職社名とその1時の職
種,兵役に関しては徴兵歴と徴兵予定などは質問事
項として許され,その他は,労働者のできる外国語
とか特別の知識と能力,退職した会社での給料と附
「就職をめぐる法律問題」 加給付,結婚歴と子供数なども許される質問事項で
一求人側の質問に答えるべき範囲一 ある。
. 個人的な事項でも,場合によっては許されるし,
チューリッヒ大学法学部教授 又,許されないこともある。例えば,結婚をする予
マンフレッド・レービンダー 定があるかどうかは一般に質問を許きれないが,独
(翻訳と通訳)新潟大学法学部教授 身寮に入居するためや家事手伝いとして雇入れられ
斉藤 博 るため独身者のみが採用される場合は,質問しても
よい。離婚歴や内縁関係も教会や国民倫理協会の求
期日 昭和55年10月8日 人なら許される。同じく特定宗教の信仰とか特定政
場所 法文学部 A331講義室 . 党への所属といった事項も,特定の宗教団体や政治
団体の経営する出版社とか病院の求人なら許される。
1 応募者の答えるべき事実 組合に加入しているかどうかについては,入社後,
一般に,応募者つまり労働者は就職をする過程で, 組合費を給料から差引き,まとめて使用者が組合に
求人先つまり使用者に対し,誠実である義務がある。 手渡す企業では,質問することが許される。しかし,
これは告知義務といわれるが,その内容は三つに分 組合所属の事実を質問して組合加入の労働者を差別
かれ,一つは使用者の質問に対し答える義務で,報 取扱いをすることは労働者の結社の自由を侵害する
告義務といい,第二は労働者が積極的に使用者に述 ことになるから,許されない。同様に,雇入れた後
ぺる義務で通知義務,第三は使用者から求められて も組合に加入しないことを使用者が労働老と契約し
いなくても陳述することにより使用者を欺かない義 ても,黄犬契約であって,法律上,無効である。又,
務で,真実義務という。 労働者が以前の会社で従事していた職務と類似した
労働者は,使用者に対し,その労働者が応募して 職務には,その後就職した会社で従事しない.という
いる就職先での地位と職務内容に関係する質問に答 競業避止義務を,前の雇用主との問で負っているか
えればいいのであって,その他の質問は,労働者の どうかも,質問してもよい。採用後の配属を考える
個人的な事柄であるから答える必要はない。この考 ために必要だからである。扶養者の数,借金の有無
えに対して,管理職の求人や小企業従業員の求人の についても質問してもよい。ことに借金については,
場合は,個人的な事柄でも使用者の質問に対し答え 借金の多い労働者を雇入れたことが知れると企業イ
なければならないという意見もある。それは強い信 メージに打撃を与える場合もあり,その労働者が会
頼関係を求められるからであるという。 社の現金を盗む可能性もあり,又,時には借金支払
しかし,私は反対で,この信頼関係は入社後,本 いのため,その労働者の債権者が給料を差押えに来
雇いになるまでの間の試用期間にできあがるもので て,その結果,会社の業務に支障をきたすこともあ
あるから,個人的な事柄については答える必要はな る。それに借金支払いに追われている労働者は,労
いと思う。少し法律的にこの点を説明すると,労働 働意欲も,職業訓練意欲も失っていることがある。
者は人格権をもっているのであって,使用者の雇入 妊娠の事実も質問できる。これは妊娠している労働
れの自由も,この人格権を侵害してはならず,この 者には特別な給付を使用者が負担しなければならな
両者は利益衡量されなければならない。具体的な例 いからである。病気についても質問できる。病気の
で説明すると,学歴,職歴に関しては修了学校名と 労働者は働きがわるいからである。その求人で予定
一13一
ま,〒大,」ζ・;・.艮 55−No.31591
されている職務に関連して,病気の種類まで質問し ている病気などがこれにあたる。こうした場合を除
てもよい。再発するかもしれない既往症,手術や治 いて病気については一般に告げる義務はない。妊娠
療を要する疾病についても,そのために将来,職場 の事実についても,たとえば,マネキンや踊子,ス
復帰ができなくなることが予測される場合に険り, ポーツ教師として求人されている場合は,使用者に
質問してもよい。こうした場合,使月賭はその労働 告げなければならない。前科についても前科者を採
者に医師の診察を受けるよう求めることができ,そ 用すれば企業のイメージを傷つける職種が求められ
れをことわった労働者は採用されないリスクを負う ている場合には,その事実を告げなければならな
ことになる。前科についても,就職の後に予定され い。
ている職務にその前科が実質的に関係する場合に限
り,質問が許される。例えば,会計係の募集なら財 2 告知義務に違反した場合の法律問題
1}廷犯.運転手の募集なら交通事犯の前科は質問とし 労働者は,就職に際し,侠用者から質問されるか
て許される。しかし,警察の発行する素行証明書と どうかに拘らず告げるべき事実がある。この真実義
いうのがスイスにはあるが,これは,使用者にその 務に違反したために生ずる法律問題は,刑法により
労働者についての予断を抱かせるので,質問は許さ 処駒される余地とか,民法による解凪あるいは損
れない、なお.先に述べた前科を労働者が秘してい 害賠償支払いを求められる可能性などである。
ることガわさった跨には,すでに法定期間が過ぎて まず,刑法により処濁される場合もないことはな
いたたあ慈誓謬浄ら前科歴が抹消されていれば,も い。例えば,警官の求人に対し前科を秘していた場
淳キ翠簿;二できない。前科ではなく,現に捜査され 合は,警官としての職務の遂行という労働の質が低
で之嘩.ある甥;公判にかかっている事実も,その 下してくるので,スイス刑法148条により,雇用に
ことガ藷薫麦猛事する,†.院の職務に支障をきたす 関連する詐欺に当るとして処罰されうる。しかし
馨壼二蒙奪.饗i渚はその労働者に対し質問するご 建設労働者の求人で前科を秘した場合は処罰されな
と葦できる.二のような労働者にとって不利な事実 い。すなわち,求人の対象となる職種によって違う
につ快て凄.労鋤者に報告義’務はなく,むしろ使用 のである。
者難;二そ委を琵査する義務があるといえる。 次にスイス債務法により解雇されることがある。
次に.套亥義務,すなわち使用者が質問しなくと 労働者が使用者からの質問がなくても使用者に告
も労鍛者;;誌して;まならない義務にあたる事項があ げるぺきであった事項について,労働者が秘してい
る。例えば,その求人に関する労働契約の履行に必 ることがわかってから数日の内に使用者へ通知しな
要とされる能力を欠いている事実,慢性の病気,重 い場合がある。それが故意に基づくものであることを
い伝染病の故に鋤;すない事実,働けないほどではな 使用者が裁判所で立証できればスイス債務法28条
いが将来.発病するかもしれない病気にかかってい により,不作為による詐欺に当るとして,使用者は
る事実,就職後に治獲しなければならないとわかっ 労働者との雇入れの契約,つまり労働契約を解除で
闘 . ..’“.1 きる。すなわち解雇である。もし,使用者が右の労
働者の故意に秘していたことを立証できなければ,
使用者はスイス債務法24条1項4号による錯誤に陥
っていたことになる。この場台は,雇入れの時から
1年以内なら,使用者は労働契約解除,つまり労働
者の解雇をすることができる。しかし,この1年を
経過し,その使用者と労働者の問に継続的な関係が
成り立っておれば,使用者の解雇は権利乱用となっ
て,許されなし㌔この点,スイス債務法337条によ
一14一
新大広報 55−N。.3伍9}
る特別の契約解除,つまり解雇の余地が残るが,特 な事実しか告げないなどして使用者を錯誤に陥入れ
別の猶予期間のない場合に当るとして,この条文に ても違法ではなく,従って,使用者は詐欺を理由に
基づく解雇は許されないであろう。 その労働者との労働契約を解約し,解雇することは
次に使用者が労働者に損害賠償の請求をする場合 権利乱用にあたるのである。スイス民法典第2条は
も考えられる。それは,労働者が使用者に告げるべ 権利乱用について定める。しかし,労働者に使用者
き事実を告げなか?たためにその労働者は採用され に告げるべき義務もない事項で,労働者が積極的に
たが,そのために他の応募者が採用されなかったこ 嘘の事実を悪意で告げた場合は別である。この場合
とにより生ずる損害の賠償義務である。この損害と は,労働者に正当防衛の権利を行使する条件はない
は,その事実を通知しなかった労働者が使用者に提 のであって,労働者は詐欺を働いたことになり,労
供した労働の価値が,労働契約上期待されたものよ 働契約締結過程での誠実義務に違反レたことになる
り低いことから生ずる損害,あるいは,その労働者 のである。
に代って新たに別の労働者を募集しなければならな 以上,要するに,就職の過程,つまり労働契約締
いことから生ずる損害,そして新たな労働者を採用 結の過程において,労働者,使用者共々,誠実義務
するまでの問に生じた出費などである。 を負っているのであるから,労働者は,答えるべき
以上は使用者が労働者に質問できる事実について 質問事項については嘘を述がることは許されないが,
の法律効果であるが,もともと使用者が,労働者に 使用者は就職後予定されている職務に関連しない質
質問できない事実について労働者が,事実を告げな 問をすることは許されず,この種の質問に対して労
かったり,不正確にしか答えなくとも,右のような 働者は嘘をついて正当防衛をする権利があるのであ
法的な制裁を受けることはない。労働者はそうした る。ここに労働者が個人の事項を守る人格権と,使
事項について使用者から質問を受けた場合,その質 用者が有する雇入れの自由との調和点がある。
問が不当であるとか,告げたくないと言えば,就職 (文責 法学部教授・桑原昌宏。なお,文脈
自体むつかしくなる。労働者に告知義務がないと考 を明確にするため,一部,補足したり,削
えるべき故,告知義務のない事実について質問に答 除したことをおことわりする∂
えなくとも,あるいは不正確な事実しか告げなくと
も,それは告知義務違反にならない。いいかえれば,
嘘をいう正当防衛の権利が労働者にあるのである。
むしろ使用者側に労働契約締結過程での誠実義務違
反があるというぺきである。従って,使用者は,ス
イス債務法24条1項4号による錯誤に当ると主張し
て,その労働者を解雇することは許されない。
労働者が悪意で真実を告げなかった場合はどうな
るか。まず,労働者に答える義務のない事項につい
て使用者が質問してきた場合には,債務法248条1
項に基づき,労働者に違法な詐欺があるとして労働
契約の解除,つまり解雇も許されない。このことは
口
このスイス債務法が制定される10年前にドイツで制 屠≡ヨ
わち,労働者は,その個人的な事実を知られたくな
いために,秘すことが許される事実について不正確
一i5一
新.大広報 55−No.3691
「創造性を高めるには」
li本学術会議会長伏見康治
;騨11ヨ 日召手055壬F11戸引291]
場所 教養部 260溝義室
講rilli略歴
日召禾08年 東大, 王里, オ勿王里卒
れるべきイノベーションがあまりない上に外国は日
阪大,理,物理 講師,助教授を経て
本に対して用心深くなった。日本人に教えても,利
昭和15年 阪大教授
益を結果としてうるのは日本人だけであると考えら
34年 阪大理学部長
れている。したがってこれまでのように経済成長を
36年 名大プラズマ研究所所長
続けるためには日本人自身の手でイノベーションを
48年3月 名大停年退官
しなければならない。
第9,10期 日本学術会議副会長
この不安,必要性は政府機関にも浸透しつつある。
第11期 同 会長(現在)
遜産省の工業技術院では「次llヒ代塵業基盤技術研究
開発制度」なるものを発足させ,77インセラミック
講義概要 ス,高効率分離膜,商分子等の新物質材料や種々の
わが国は戦後急速に経済が高度成長し,今では世 機能素子の開発に力をそそいだ。また科学技術庁で
界の経済大国となっている。 も同じような研究の方向を定めた。超微粒子,特殊
このような急速な発展が成功した理由の一つは, 構造物質,ファインポリマー,完全結晶素子等の闇
国民が等しく少しでも高い所にかけあがろうとして 発がそれである。
一つの方向に向って進んだからである。さて,高い 科学の研究は産業界の要請あるなしに拘らず,
水準に上ってみるとそこは平らなところであり,各 creativeでなければならない。一国の科学がcreative
人は勝手な方向に進むようになり,今後はこのよう であるかないか一つの判断はノーベル賞の受賞数と
なことは期待されない。 考えてもよい。1979年度までの阯界の国別ノーベル
もう一つの理由は,日本人が外国から教えられた 賞受賞者数をみてみると,アメリカを筆頭にして,
ことを忠実に習得することにたけているからである。 ヨーロッパ諸国が挙げられ,日本は十位にも入らな
例えば,日本の製鋼は新しい技術をどしどしとりい い。もっともアメリカが多いのは,多数の亡命学者
れて改良したが,アメリカでは短期的利潤追求を優 による貢献も考慮する必要がある。受賞条件には種
先させるあまり,技術革新を長期間おこたった。加 々の要素もあり,ヨーロ7パ文化圏に日本が位置し
えて日本人の国民性ともいうべき勤勉さが製品の品 ないことも若干不利な条件になっているかもしれな
質管理に対しても深い注意を払わせ,その結果日本 い。しかしそれにしても人口,学問の水準から考え
製品がアメリカ製品にまさることもしばしばである てみると,日本の受賞者数は少なすぎる。
ようになった。 それでは日本はどうしたらよいであろうか。日頃
日本の経済成長は,いわば外国のイノベーション 考えている所信を述べたい。結論からいうと,学問
をとり入れ消化したことに成功の因がある。しかし に独創性があるためにはどうしたらよいかというこ
今後,新技術の提供が継続してもらえるであろうか。 とである。
答は否定的であろう。というのは,外国からとり入 山本七平氏によれば,日本人の動向は「空気」に
一16一
新大広報 55−N。.369)
よって決iまる。例えば,大平洋戦争を始めるときに ば逆境に立たされた。逆境が栄光を生んだといって
しても,どう終結したらよいかを考えて始めたわけ よい。 °’
でなく,その場の「空気」で始まったといわれても しかし,これからの日本の若い人に逆境にあるこ
しかたがない。日本を動かしているのはまさしくそ とを望むことは困難である。それでは科学,学問に
の場の「空気」である。つまり冷静な判断があるわ 独創性が生まれることを可能にする条件は何であろ
けでない。 うか。創造的活動をするといっても,完全な無から
学問をする上にどういう手段をとるか,どう進め 有を作り出すわけでない。創造性を作るのは本質的
るかをくり返レ判断すべきであるが,大低の人は文 には新しい組合わせをすることである。事実,新し
献にたよる。世界の流行を追う。いわば「空気の理 い科学,学問の多くは新しい組合わせによるもので
論」に合致しているといえる。 ある。新しく組合わせるというのが創造的活動をす
古い言葉に銅鉄主義というのがある。外国で銅に るための技術的手がかりである。研究のわくぐみを
ついての研究が成功すると,日本では鉄について同 作るとき違った分野の人が集まるとよい。目的,材
じ研究をする。これが日本の研究のやり方である。 料,考え方が同一の集団では進展がなされない。換
1930年代に原子核物理で重要な研究が世界でなされ 言すれば一次元の思考集団でなく,多次元的世界の
たが,目本でも阪大や理研でも研究の大半が原子核 組み合わせであらねばならない。日本では,これま
物理であった。時流にのり遅れてはならないという では一つの研究グループ内に同じ次元の人が集まり
発想があったともいえる。しかし時流にのり遅れぬ すぎたといえるが,これからは違った角度で問題を
というのでなく,どういう風に発展させるかを考え とらえねばならない。
ないと銅鉄主義に終る。?まり「空気」に支配され 例として,折り紙細工を考えてみよう。折り紙細
るため独創的研究が少なかった。 工は芸術的サイドでその技術が発展した。しかし,
それでは独創性はどうしたら生まれるか具体例で 折り紙をしらべてみると,幾何学的条件を満たして
考えてみよう。ノーベル受賞者数1頂位ではハンガリ いる。いわば幾何学的ないくつかの条件を満たさな
一が日本よりも上位にある。加えてアメリカの受賞 いと紙が折れない。実際には折り紙細工と幾何学と
者にハンガリーからの帰化人がかなり多い。また終 は結びつけ難い。これを結びつけるのが独創性であ
戦前アメリカで原爆研究に従事し,戦後各分野です る。
ぐれた活躍をしている人にかンガリー系ユダヤ人出 違ったものから共通の要素を発見するためには,
身が多いことも興味深い。 物事を抽象化し,それを要素として表わすことが必
ハンガリーは全人口1,000万人,ブダペスト市民 要である。つまり,独創性を育てるためには,具体
200万人であるのに沢山の優秀な学者がでている。 的な事象をどのように抽象化するかが大切である。
これは何故であろうか。彼等の多くは中産階級のユ 社会にとって,和は大切であるが,学問の世界で
ダヤ人である。ハンガリー王国にあって,ユダヤ人 は,欠陥があってもいろいろな特色のある人が許容
であり中産階級に属する商人達は貴族と農民の間に される「空気」を作ることが,独創性を高める方法
あり,生活に堕落腐敗がない。また生活も比較的豊 と思われる。
かであった。これは正しく学問発展の土壌である。 (文責 理学部 田巻 繁)
ハンガリーの中産階級文化人は大低ドイツの大学に
留学した。大学生生活を祖国から離れておくり,大
一17一
宇斤ゾく庄⊂章1芝 55−No.3爆91
もたくましく若い素肌が潮と朝の光にぬれてたたか
退官に臨んで ・て・た。
○あまねかる初日のなかに声あげて
テトラポットはスクラムを締む
※
風暮がきて波がおさまってみるとテ1・ラポットは冬
』 . のたたかいに傷つきやせ細っている。しかしテトラ
粥結球光太郎 ポ。トはその身で暫磁養。漁貝の筋家をつく
遠鳴りがしてたちまち る。私はこれらの海の生きものとつき合うのがなに
嵐となり,寸分の切れ目 より好きだ。4月半ばには海に入り,10月いっぱい
た。ここに来たはじめの んだ水のなかでかがやく海藻の芽ぶきが比類なく新
るものがきたか,これが ことがあった。 「とられるなよ」と祈っていたが,
なけりゃ新潟じゃないか 5日目には1匹もいなくなっていた。こうして人は
れるようになった。あれから13年暮したことになる。 昨年のあの海牛は無事だといいな,と思ってそこ
早いものだとつくづく思う。風の吹きつける窓に頭 にもぐってみるとまぎれもなくその大海牛がいた。感
をつけてじっと見ている。テトラポットを越して天 激で,「よくもこんなに大.きくなるまで無事で……。
より襲いかかる波のジョーズは今にも人家をひと呑 大六法ぐらいあるじゃないの」と語りかけていた。
みにするかに見える。この風は生きて掃ってきたあ ○海牛は手足なければ保護色の
の地から来るのだ。 笠轟こよりて大きくなりぬ
昭和16年の1月,私はソ満国境の東北端,斐徳駐 思いかけぬところにヒトデがひとつ濃紺のチリメン
屯の自動車部隊に入隊したのだった。ここは満州で マントをきて落ちている。裾の紅があでやかである。
もいちばん寒いところで,寒暖計温度で零下35度, ○縮緬の衣裳の鑑の紅冴えて
風があれば体感温度零下50度のなかの演習となるこ 海星は受容ととのうらしも
ともしばしばだった。頭が狂ってしまうものも出る フグはこっちがいたづら気を出すと,あっちもいた
寒きである。しかし,三寒四温が規則正しくくりか づら気を出して昇先まできてはニラメ・ンコをつづ
えし,温の日は太陽がみえ.風がなく,気温は零下 ける。こっちが心を変えれば,手を出す先にサ・ノト
25度まで昇った。あそこから来る風だから「3日吹 逃げる。波の上からは魚の姿は一向に分らないが,
けばおさまるさ」と言っていたらその通りだった。 水にくぐって横からみると魚の動きが銀糸の乱舞の
吹きつのる風を孕んで襲う荒波を打ち砕いて懸 ように美しい。小さな魚は集団で,大きな魚は常に
命に闘かっているテトラポットを見るのが私は好き 単身で行動している。
だ。突進してくる波に半ば浮かされながらも組み手 海には教訓がある。
をはなすことなく雄叫び一Lげてこれに耐え,引き波 藁 ’
に呼吸を合せてごろごろっと意思を統一しっっスク 新潟といえば,新潟大掌と信濃川。私は小金町な
ラムを締め直して次の襲撃に備える。或る元旦,テ ので毎日この川を渡って通う。また逢う日のために
トラポットに会いに行くと,テトラポットはこの日 ノートの歌を三つ四つかきとめておきたい。
一18一
新火広報 55−No.3田9〕
OP帝く音仰げば遠山脈の雪明り って簡単に記してお別れの言葉と致します。
空をかかげて揚雲盆舞う 当時増設間もない工作機械科に所殿れ,「歯車」
O惜春に危うき我や花茅原 と「工具・冶具」の溝義を受け持たされ,途迷いなが
銀に濡らして吹く南風 らも以後終戦まで学生と共に勉強した。この事は後
しづ
O逆光のオブジェとなりて寂かなり 日機械工作に関する理解に非常に役立った。同年12
五百重の沖に暮るる佐渡島 月8日開戦となったが,朱だ長岡には食糧も酒もあ
O栄えゆくわが学園のイメージは り,学生とよく飲みにも歩いた。やがて戦局の思わ
清潔・静鑑・若き情熱 ぬ推移と共に急速に食糧も行きづまり,学徒動員も
始った。
O紙色の空明りかも信濃川 その後の人心荒廃甚しき有様は私には到底言い尽
水にごりして舞を来にけり せない。終には死を予知し卒業試験を無視し航空兵
O真夏日の涼を兆せる夕波に 志願,数日にして特攻隊に出撃したと言う学生,卒
しゆづら
遠雷の.切火さやけし 業後輸送船で出港直後,撃沈されたと聞く学生,惜
O見はるかす越野は枯れて信濃川 しくもかわいそうな青年の顔をときどき思い出しま
銀一文字を曳きて水ゆく す。そして20年8月1日の戦災,市街の8割方焼失,
O鏡なす川面の黒に泌む白の 幸いにも工専は焼失を免れた。続いて15日終戦,後に
冬の日の色しつかなるかも は焼野が原だけが残った。それでも漸く平和が来た,
今晩からは電燈をつけて夜を過ごせると思ったとき
(55,12.18) は無性に嬉しかった,当日夕方の思い出は忘れられ
ない。
その後校庭を耕して栄養失調の様な戦後が始まり,
24年新潟大学の発足をみたのであるカ㌔当時の我々には
上の空の話しにしか影じなかった。そして26年工専量
後の卒業生を送り出し,工専の幕は閉じる。漸く実
教育学部笠原 富 質的。大学、、移行し漱官。意識轍内容も除々
学窓を出て第一回目の 『一一一、 に変化し,各人科目別に組織され,私も機械力学教
[
就職が不本意だったため, 室を作り,始めて好きな機械振動学の講義と研究が
半年程で退職,浪人中再 出来る様になったのに満足した。然し出発が遅れた
び大学の御世話で昭和16 せいか,数年の間に工学の研究が自分の想像してい
年5月,当時の長岡高工 たものと大分隔りのある事を感ずる様になっていた。
に参りました。その就任 38年4月自分の希望で機械力学教室を当時の高野
の車中から若々しい稲葉 君(現高野英資教授)に空け渡し,教育学部に移籍さ
の春風による柔い波打ち せて頂き,以後技術科の中で機械工学概論を講ずる
の続く郷里の田園風景を ことになった。教育学部に参りまして,敦科が人文
土の中で墓されれば学生時代に取り付かれた病気も 的であると感じた。同時に会議が長くて多いこと,
自然に治って健康を取りもどされるであろうと思っ 口頭伝達ですむ様な事を総てタイプ印刷の文終伝達
た喜び,今でも彷彿と思い出します。それから40年 でされている事に驚いた。長年に亘る分校統合の会
の歳月が経過しているとは実に夢の様に思われます, 議にも途中から仲間入りさせて頂いた。過去多くの
反而その間の思い勘は無数ですが,自分の道程に従 努力を積み重ねて来られたが,満足の結果は得られな
一19一
審斤大口:幸艮 55−No.3‘59}
かった様である。今にして思えば,内部の問題では した。その頃の先輩教授は長岡では最高給者でした。
なく工学部移転と同様外部地域社会との結び着きの だんだん戦争が苛烈になり,繰り上げ卒業,工場動
問題であった様に思われる。畳重して42年頃から学 員,工場疎開などがはじまり,まともな授業は出来
園紛争が始まり,その対処にも苦悩を共にして来ま なく,校名も長岡工専と変り,私もこの間に軍隊生
したが,これは虚しい思い出である。その闇統合の 活をさせられ,広島で終戦を迎えました。長岡も空
問題は一時棚揚げの状態かと思われた時期もあった。 襲にやられ,住宅難,食糧難の時代でしたが,幸い
その後,商田・長岡に新構想の大学設立を見るに及 家が長岡市外の農家で,この点は少し助かりました。
んで,急速に統合が合意され,積年の悲願が達成さ 終載後は,教育制度もがらりと変り,挙校も大学
れる事になった。 工学部に昇格し,移転統合問題が起き,また大学紛
何のお役にも立たず,徒に年月を重ねて過ごした 争にも巻き込まれました。これらのことについては
事を申訳なく思い乍らも,全学統合の実現を見る時 書くことはやめますが,比較的新らしくもあり,私に
に至り,今後の発展を期待して去れる寧は幸いと思 とっては苦しい思い出が多くあります。晩年になり
っております。 教務担当を長くやらされましたが,幸いのことに有
(55.12.20) 能な協力者がおられたので幸運でした。入学試験も
何回かやったことになりますが,大ミスもなく,無
事に任期を終ったことを喜んでおります。当時は入
新大の想い出一わが人生の想い出一 試が終り3月末頃になると食欲が全くなくなり,体
コニ鰯安藤_弥野 重も4k・くらいへり・夏休纐またそろそろ太咄
すというパターンをくり返し,医者も原因がわかり
人間はいつまでも若く ませんでした。
はないし,定年は必ずや .・一 昭和51年11月11日の砥気工学科の火災も忘れられ
ってくる。とうとう「定 ない思い出になります。木造老朽校舎で,電気配線
私自身がその日暮しで, の原因で電気工学科の一棟を焼いてしまいました。
先々のことは深く考えず 幸い正午すぎで学生諸君も大ぜいおり,皆様の手助
たが,実感がなく.夢のように感じます。 ずい分長い年月がかかり,いろいろの問題があり
僅かの会社勤めを除けば,長岡高工時代から40年 ましたが,皆様の御努力で,本年度早々工学部の2
開,わが人生のすべてを新大で過させていただいた 年次にわたる移転も完了して,新校舎で少しでも仕
ことになります。よくもここまで来られたものと思 事をすることが出来ましたのは幸福だったと思いま
います。これもみな,皆様の御厚情によるものと, す。私は終戦前は勤労動員や食糧増産,大学になっ
心から感謝いたしております。 てからも本務以外の雑仕事?に追われて過ごしまし
40年間における世の中の移り変りは大したもので, た。体力はありませんが,病気で休んだことはない
教育制度もずい分変りました。それにくらぺ,自分 といってよく,感謝しております。
自身はほとんど成長していないように思われ恥ずか 新潟大学の統合移転もだんだん完成に近づきまし
しい次第です。 た。しかし,今後成しとげなければならぬことも多
長岡高エ時代のはじめは,とてものん気なもので くあります。真の総合大学として発展するよう祈り
一20一
新大広報 55−N。,3働
ます。長い間大へんおi止話になりました。皆様の御 改善の策は自然と見出されるでしょうし,月日をか
発展と御健康を祈ります。 けて向上するようにすべきであろうと思っています。
均て平穏になって大学統合が再検討され,各学部が
順次,五十嵐に統合整備きれ,長岡にいた私共工学
部も新潟に移転ということになりました。他大学で
退官に際して かつて行ったことのない大移転で,民族の移動と云
工学部斉藤 昇 い度い引越しを行うことになりました・’幸い靹援
助協力,長岡市の理解,学部内教職員・学生・同窓
早いもので工学部の御 会等一体になった協力があったので失敗や犠牲を払
世話になって15年,あっ うことなく完了させて項いたわけです。大変有難い
という問に過ぎてしまい ことであったと思っています。以上のような大学と
ました。思えば戦前から しても,学部としても二度とない大変な時期の15年
電気会社の研究所に勤め 問ですが,その間丁度一杯に在職させて頂いたこと
て約30年,電子管,半導 になります。従って思い出は山積して感無量のもの
技術開発をやってきまし 一方,私生活面では,東京から移って冬丈余の積
た。そんな関係で41年電 雪の中ではあるが公害のない,静かで清潔な山紫水
子工学科が創設されて間 明,自然に満ち溢れたところに住み,東京の騒音と
もなく招かれて赴任させて頂くことになり,それ以 ゴミの中で流れに従って生きてきたことから解放さ
来というわけです。当時既に全学部を新潟五十嵐に れて生き返った感じでした。また対人的には良い風
統合する話が盛んでした。しかし前途は多難で全く 習と暖かで良い方々に多く接することができたこと
見通しの立たぬ状態で私も統合の一委員として結構 で良い人生経験をさせて頂いたと思っています。
それなりの苦労をしたものです。丁度その最中,大 学生諸君とは山に川に海にそしてクラブ活動と勉
学紛争が発生,本学もその渦中に巻き込まれてしま 強の上で多く接する機会に恵まれました。学生は純
いました。 ・ 粋で素朴で頼もしいの一語に尽きると思っています。
長岡にいた私達は新潟での会議に出席のため,其 多くの学生,卒業生に接して,それから得たものは
冬雪の中,時には夜討朝駆で往復したこともありま 沢山あって一語で云うと教師冥利に尽きるとはこの
した。 ことかと感じた次第です。
当時の教職員は学長以下大変な御苦労でした。大 終りに有難い人生を送らして頂いたことを皆さん
学は一般社会の常識が必ずしも通用しない特殊性が に感謝し,教職員の皆さま方の何時までも御健廉で
あり,また紛争そのものも未経験の異状現象的な感 活躍下さること,大学が特長ある優れたものとして
もあって対処すぺき良策も中々見出されず解決に全 益々発展すること等を祈って止みません。
学一丸大変な苦労でした。しかしこれも学内全員の
努力,協力で2∼3年後,平穏な学園に戻ることが
できました。このことは私自身は勿論,学内在籍者
全体に貴い経験であったと思っています。紛争は終
考えを捨て職務に奉仕する気持を持っている隈り,
一21一
寧斤’火広朝乏 55−No,3{59[
酒に敗れる に工業界の軸’1として活躍鮒己けておられ,就職の
シーズンになると後輩を引き抜きに来学された。し
工学部大北熊一 かし,後輩に文ける舗点は執。の骸の語学
南国に生まれ,温暖な .. . 1 力では外国文献の内容を理解できないであろうと,
始めて経験する雪国の冬 1 酒豪の名に恥じないK氏もまた来岡されるたびに
の生活はもの悲しかった。 一 「おお」と声をかけてくれたが,酔うと羽化登仙の
長岡へ赴‘Jiしたのは昭 、 .1 境地をさまよわれた。いつのころであったか,胃ガ
和・・年の騰であ。たが,..1.
Dヒ触嘱’
D・.
v・の発児が手遅れとかで冷生の思咄・と注治
工学部は古い木造の建物 1 」遷∼贈 医の許可を受けて,灘の生一本を取り寄せ,毎日浴
で,積雪に痛めつけられ, ぴるように飲んでいたところ,ある日,多量の吐血
年中,雨漏りに悩まされ とともに,ガンまで退治してしまったという噸が伝
ていた。そのころ,暖房 わった。K氏の場合は,とくにアルコールに強い体
はもっぱら石炭ストーブにたよっていたが,どうい 質で,新しい神話の種にまでなったが,酒量のコン
う訳か,どのストーブも調子炉悪く,煤煙は外に出 トロールにさえ失敗し,ついにアレルギー体質にな
ないで,うずを巻いて教室の中へ逆流した。また研 るようでは,もはやお手上げである。忘年会の季節
究室では,四角い形をした火ばちに炭火をおこして を迎えるたびに,いつも後悔を繰り返している。
暖をとったが,実験着の下にちゃんちゃんこを着込 赴任以来,卒研生やII参士課程の学生が入れ代り立
んで,ふくらすずめのような格好で震えていた。 ち代り,私どもの部屋へ入室し,グラフトカーボン
歩いて大学まで20分のところに住居を構えたが, の合成法の確立や,それを利用した面発熱体の分子
積雪が1mを越えるような朝夕は,今と違って除雪 設計などの分野で立派な成果を残して工業界へ巣立
車の出動もないので,長靴の中にまで粉雪が入り込 っていかれた。今も目の前に,200人近くの若者た
んできた。そこで,冷えた体を暖めるために,晩し ちの面影が次々と走馬燈のように浮かんでくる。職
やくの味を覚え,2,3年のうちに1升びんの酒が 場を離れるに当って,新潟大学の発展を祈るととも
3日で底をつくようになった。 に,酒の思い出を綴って惜別のあいさつに代える。
やがて,忘年会や新年会を始め,酒席の皆勤者に
なり,最後まで居残った。また新入生や卒研生の歓
迎会があると,調子に乗って2次,3次と酒の席を 随. 想
移し,今は立派な道路もできているが,その当時の
飛詰へ向かうあぜ道を踏。。ず、。,田酬剛( ㈱山田覚信
田に落ち,泥まみれになって帰宅したこともある。 貴重な紙面を汚すよう
ふと気が付いたころには,体の調子が異常で,酒 な,これといった思い出
の席で急に気分が悪くなり,数年間に4回も吐血を も無く,お断りしたが一 ..、.
重ねた。またそのころから酒が入ると背中一面がは 筆とのことで記します。 ≧轡.』
れ上り,かくとみみずばれができるようにさえなっ 定年までが,短いよう 1蓋ゴ・
たが,胃袋を切り取られるのがこわくて,医院の門 でもあり,長いようでも
をくぐる勇気が出なかった。 ありました。これまでに
昭和30年代の始めは,まだ戦後の復興もかけ声ば 死線をこえたことが幾度
かりで,卒業予定者の就職先も少なく,これが悩み かあったが,その一つは
の種であったが,長岡高工時代の先糀たちは,すで 4才時の肺炎,次は第2
一22一
享斤ブく[広稿三 55一冠o.3喝91
次大戦に従軍,ここでは幾度か危険にさらされた。 にのぞんできたが,果してどうであったろうか。
そして敗戦時の20年1月1日都下田無市東大農場に 今日は12月8日,昭和16年の闇載時2度目の応召
在職中,官舎にB29,250 kg爆弾瞬発,8時間時限 で満州牡丹を工省東寧県老黒山の兵舎で,毎日19時隊
の2発命中した時である。この命は大切にしなくて 内ニュースの読み役である自分が,いわゆる大本営
はと感じたものである。 発表を読伝したのを思い出す。瑞穂の国は主食の米
私は昭和23年3月末日,農学部の母体となった中 が余って減反とは,平和は有難いものである。
蒲原郡村松町にあった旧兵舎跡の建物,練兵場を利 (1980.12.8・記)
用している新潟県立農林専門学校にお世話になった。
当時は革と汗の香ぷんぷんの建物,軍靴の跡が見え
るような練兵場跡の農場であった。この農場作りの 帰りなんいざ
ため,学生は天地返しと称して,深さlm全面掘り
商業短期大学部
起こし,表土と下層土をひっくり返す作業,これは
大橋周治
用具が鍬,鎌のため,大変な重労働であった。学生 15年の歳月が一瞬にし
の殆んどは元の兵舎の一部を寄宿舎として住み,楽 てすぎた思いです。 ・’T
しみの一つはドブロク,時々ご馳走になった。次い しかし生来,組織にな
で農学部発足後の28年4月1日,新潟市河渡に移り, じみにくい性向をもつ私
校舎と約1,000m離れた藤見町にあった市立農業高 としては,今回はじめて,
等学校の廃校による農場を譲り受け,新潟農場とさ 人なみに任をまっとうし
れた。面積は約2hα,内水田約1.2加(村松農場は て職を去ることができる
水利の便が悪く水田無し),どうやら米作県らしき実 のを,嬉しくおもってい
習が可能となった。ところが,39年6月16日の地震 ます。
で水田としての閣をなさなくなり,修復したが,附 昭和41年の春,齢50を
近の民有水田は宅地化され,一部は通水路となり, すぎて西大畑の商業短大に来るまで,私は日本の産
残った約30αの農学部の水田は雀の被害を受け,止 業・経済の現状分析という仕事を,追われるように
むなく畑地とした。地震発生時は,農学科2年生の 忙しく続けてきました。それが,新潟へ来てはじめ
実習が終って,用具,手足を洗い始めた時であった。 て,生活と充分な時間を保障され,それまでの仕事
間もなく圃場全面に水がふき出した。そのため収獲 をもう一度検討・整理して,まがりなりにも二・三
時のバレイショ,タマネギは深さ約60㎝の浸水のた の自著にまとめることができたのを感謝しています。
め,掘上げたが全部腐敗した。その後農学部も五十 また地域・地方から産業や経済をとらえる方法の大
嵐地区に統合され,校舎から直線で東南方約2㎞の 切さを知ることができたのは大きな収獲でした。こ
新通に47年,約3ぬαの水田が購入され,現在に至っ れはなお残されているであろう幾何かの歳月に生か
ている。 していきたいと思っています。
学生は,実習に対し,まじめにとりくんでいる。 教育にたずさわるなど,新潟に来るまでは夢想も
個々の作業,例えば鍬,鎌の使い方,と石による鎌 しなかったことですが,昼間働いてから学校にやっ
研ぎ,ひも,縄の結び方,鋏の使用方法等に2∼3 てくる若者たちに,何とかこたえなければと,生れ
回の修復で一応の恰好をつけ得る者,最後までぎこ て初めての仕事に全力投球したつもりです。しかし
ちなく不器用な者もいる。小学校時代に切出し小刀 いま顧りみると,学生諸君に何ほどのものを遺しえ
による鉛筆削りが実施されていたらと思われないで たのか,と臼問せざるをえません。
もなし㌔ 夜間併設短大という制度的にもむつかしい教育機
私は,農の心を体得してもらいたいと思って実習 関に,もっと改善の道はないものかと,70年代の初
一23一
豹「大広朝足 55−No.3礪591
め頃から,他の国立併設短大の諸君と共に努力した
’劇もありましたが,これは醐の教官言肚こんご一 特別寄稿一
の主体的努力を基に,母体大学の皆さんの協力をお
願いするほかありません。 東京へ移って2カ月
このように替いてくると,新潟の15年間は,私に
と・ては沸くを与えられた幸せ塒期であ・たと 鯨融神経病厳椿 忠雄
つくづく思います。が,それにくらぺて他には…… (新潟大挙名誉教授)
の感懐は残ります。 ついこの間,新潟を離 ’ 1.
だが,いまはただ,15年間ふれ合った越後の人々 れたと思ううちに,また
の心を胸に温ため,寄居浜から眺めた夕日の日本海 たく間に2か月終ってし
と佐渡ケ脇を脳裡に刻んで,私は東京に帰ります。 まった。目まぐるしい変
小石川の伝通院に近い描額の土地に,20年ほど前 化と東京の生活に順応し
に実生で植えた白樺の木が,いまは二階の屋根を越 きれないまま,新潟の空
春風や 帰りなんいざ 故郷へ る。私は東京で育ってき
たが,この15年間あまり
にも新潟の生活になじん
工学部若月正俊 できたので東京での生活を忘れていた。新大での生
活は随分恵まれていたのであるが,大学を去ってあ
略歴 ら肋て.の。とを感ずる.今職場は,棘都立
大正4年‘月19日生
@ 病院とは。うものの泊治体のみならず世界。融
昭和16年3月 東京帝国大学工学部航空学科卒業
の病院として発展する基盤をもつ筈のものである。
昭和16年4月 通信省中央航空研究所技手
しかし,それが実現する迄には,大変な努力を重ね
昭和2°年11月同 m織 なけれ、まな賦大靴違。た苦労が多い。
昭和22年4月糊県立小千谷講女学搬鋸 そのような大きな問題は別として,棘での通勤
託 は新潟では想像もできな。程。たえる.私は比灘
昭和25年3月欄県立小千舗騨校舗 櫨の近くに住んでいる筈であるカ㌔騨とバスを
昭梱年3月同上麟 剰つ幡勺5。分肋る.醐輔というものは,
昭和35年6月日本鮭機製造株式会社入社 単にその輔が鰍になるというだ、ナセなく注活
昭和36年3月同上職 自体がそれ。束継れてしまうので,舳塒間の
昭棚年4月長肛鞭期大学助撒 使。方ができなくなる.とと,ラ。シ.アワーの混
昭和38年4月長肛業高等朝学鋤教授 雑で躰的。も過労となり,それカ・生活全体。擁
昭和39年4月新激学工学部助教授 する.新潟では。の苦労がなか。ただけ。骨身。し
みる。
東京へ転勤後も,月に1∼2回新潟を訪れるが,
駅頭へ立つと故郷へ帰った気持になる。駅前のタク
シーの混雑やノ.{スの案内放送がなつかしく目や耳に
入る。新潟の人はいつまでも暖く迎えてくれる。駅
前や街頭で乗ったタクシーの運転手から「先生しば
』L らくでした.棘㈱脈す。司とか「概生では
一24一
新大広報 55−No.3伍9)
ないですか。新聞の写真でみましたので,確かそう それだけにこの「東京での2カ月」は苦しみも大
ではないかと思いました司などと話しかけられると, きいが,自分で選んだ道であり,また苦労は覚悟の
東京の人とは比較にならない程,新潟の人が親近感 上であるから,ぐちを言うつもりはない。ただ,私
をもっていて下さることを感ずる。私はまだ東京の は現在の職場を通して,新潟への何らかのご恩返し
人と人問的なふれ合いを殆んどもっていないだけに をしなければならないといつも考えており,それが
この差は大きい。 早急に実現できないことを申訳なく思っている昨今
私が新潟へ来て間もなくの頃,平沢興先生が日本 である。
キリスト者医科連盟で「医学徒として生きる道」と
いう講演をされたことがあり,この記録が医学と福
音18巻6号(1966)に掲載されている。内容はきわ
めて感銘深いものであるが,それの中に新潟大学に
関係深い部分があり,特に私にはそれが印象深かっ
たので,ここに引用させて頂く。
)「そのうちに新潟の大学で解剖学の教授が1人欲
しいという話があった。しかし,私の先衆達はだれ
1人それを受けようとはしない。新潟などいったら
島流しと同じようなものだというのです。私はそれ
では自分が行ってみようかという気になって,自分
から進んで教授に申し出て無理にいかせてもらった
わけです。いってみれば楽しいもので,20年,私は
新潟で暮しました。私の研究の8割は新潟で仕上げ
ました。……」
私が新潟へ着任した時,中田瑞穂先生に御挨拶に
上った時,本質的には平沢先生と全く同じ感想をの
べられたのであるが,やはり2人の大先生の御所感
の一致したことは私には深い印象を与えた。
古い話ばかりで恐縮であるが,私が東大を離れて
新大へ移った時,東大の教授の方々へ挨拶にうかが
1った。当時の東大教授の中1、は,脳内薗,融
各教授のように新大より移籍された方がおられたが,
それらの方々は,異口同音に新潟と新大を絶賛され
ていた。生活面,研究面すべてに亘ってのことであ
るが,その中に「新大の学生はよくできますよ。少
なくとも上3分の1は東大の学生と全く変りません司
といわれた方があった。上3分の1の言葉に抵抗を
感ぜられる方があるかもしれないが,個人的な所感
を気軽にいわれたことなのでお許し願いたい。とに
かく新潟を賛美するつもりで言われた言葉であるか
b。そして,新潟と新大を賛美する気持は,私は上 .
記の諸先輩に優るとも劣らない。
一25一
親「・大且之ζ撃1芝 55−No.3(59}
紳
〔表紙写真の説明〕
村松農場をめぐって ・
農学部附属村松農場は,昭和54年にほぼ新築が終り,それまでに較べ面目一新の近代的建物となった。
..「
この写真は旧建物の側から南面したもので,中央が事務室,学生宿舎などを含む管理棟,左に畜舎や
サイロが並んでいる。約30年前,私が始めて新潟の地を踏んだのは,ここ村松の兵舎で,当時の農場は
練兵場の跡地でもあって,大小の石コロの多い瘡地であった。現在は,雑草一つなく,青々と伸びた作
物の勢を見るにつけ,過去,多くの教職員ならびに学生諸君の労苦が忍ばれるのである。
村松は旧幕時代,堀氏3万石の小城下町であった。明治中期,歩兵第30連隊が置かれ,幾多の将兵が
戦地にかり出されたが,今では静かな雰囲気の町に戻っている。
この地は川内山塊を貫いて阿賀野川に合流する早出川の左岸に位置し,東に川を隔てて菅名岳,南に
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は白山を背負い,また北側は新津丘陵に挾まれた風光明美なところである。このあたりは意外に太古か
ヤジリ
ら開けていたらしく,農場から10分足らず歩いた所では鍛などの石器が発見される。今から5,000年前
コシ
の縄文中期のものらしい。昔,越の国の海岸線は,現在よりもずっと内陸まで喰い込んでいたといわれ
るから,村松近辺の地は古代人にとって住み易い所だったのかも知れない。 ‘
写爽の背後に見えるのが白山である。街を外れたあたりから,滝谷川沿いに約3kmほど行くと,越後
には珍らしい大銀杏の群立を見る。蛭野の「銀杏の里」と呼ばれる所以である。この少し先から昼なお
暗い山道に入り,何百年も経たかと思われる杉の大木の間を辿ると,曹洞宗越後四箇道場の一つである
慈光寺山門につく。ここは格からいうと越前の永平寺に次ぐものとされ,由緒深い寺である。応永年間,
楠正成の五男で後の傑堂和尚が請われて開山したのが最初といわれるから,約600年前であろう。この
アイ
山間は春の山菜採りに好適で,ユリワサビ,ミヤマイラクサ,毛ミジガサ等豊寓であり,また,野鳥の
美しい嚇りも聴ける幽邊の地である。
以前,農場も今ほど機械化の進んでいなかった時代,農作業に疲れた学生達は,しばし手を休め,鍬
によりかかって遙か白山の円頂を望み見ていたのではなかったろうか。
写真で囲場の右手に一部見えているのが町民の憩いの場,愛宕山である。近年できた展望台からは,
」
五頭,菅名,白山,粟ケ岳などを背景とする鳥緻図が素暗らしい。麓の村松公園の桜は町第一の自慢で,
4月中旬ともなれば,近在は勿論,遠くからの花見客で埋まり,平常静かな大学農場にも,この候ばか
りは酔客の喚声がひびいてくるのである。
農場の東北にある三の宮には,早出川の清流を利用した県の虹鱒試験場があったが,現在は漁協に管
理替えになったようだ。附近には鯉料理屋が数軒あり,四季客を集めている。
かつては暴れ川として有名だった早出川も,最近は奥にダムが建設され,新しい観光地として脚光を
浴びるようになった。
折を見つけて是非,村松農場の見学を兼ねて,この附近の風物を賞でて頂きたい。(198α12.20)
農学部附屈農場長 田村 親
一26一
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