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人はなぜ酒場へいくのか

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人はなぜ酒場へいくのか
人 はなぜ酒 場 へ い くのか
∼現代 の酒場 に求め られ る新たな機能 ∼
同志社 大 学
社会学 部社会学科
立木 茂雄 ゼ ミ
学 籍番 号 19061043
宮内
志直子
は じめに
人はなぜ、酒場 を訪れ るのか。
これ は、私が とある居酒屋でアル バ イ トを していた ときに抱 いた素朴な疑 間である。私 には、人
が酒 場 を訪れ る理 由が、単純 に飲み食 い した い とい う欲求 によるものだ けではないよ うな気が した
か らだ。そ してその理 由は、酒場 の大衆化 の あお りを受 けて、ます ます 多様化 しているのではない
だろうか。
本論文では、ひ とりで酒場 を訪れ る人 を対象 に、人が酒場 に求め る機能、また、か つて求 めて い
た機能 を、酒場 の誕生 の歴 史 にまで さかのぼって解 き 明か していく。論文 を書 くにあた って、調査
には文献だけでな く、ソー シ ャル・ ネ ッ トワー キ ングサ イ ト内 のログ分析や、自身がアル バ イ トを
していた居酒屋でお こなった参与観察 も用 いて い る。よ リリアルな現代の飲み人 の生態 を記 してい
こ うと思:う 。
目次
は じめ に .… ………………………………………………………………………………・
1
1章
序論 .… ………………………………… ………………………………………… 3
1-1。
調 査の趣 旨 と背景 .… ………¨
・…………………………………………………… 03
1-2。
先行研究 .… ……………………………………………………………………………・4
:・
1-2-1 酒場の歴史 。
………………………………………………………………………………4
1-2-2 酒場の定義と分類 。
………………………………………………………………………9
1-3.酒 場 の機能 .… …………………………………………………………………………H
2章
デ ー タ分析 .… ……………………………………………………………………16
2-1 調査方法 .… ……………………………………………………………………………16
2-2.調 査 プ ロセス .… ………………………………………………………………………17
2-3 分析 0考 察 .… …………………………………………………………………………18
3章
結論 .… …………………………………………………………… ………………19
20
おlbり に。
・
・…………
・
…………
・
………………………………………………………
…………………………………………¨…
参考 ・ 引用文献 .… …………………… ……………………………………………… 24
:・
-2-
1章
1-1。
序論
調査の趣 旨と背景
ス ー ツ を着 たサ ラ リーマ ンで にぎわ う居 酒 屋。問接 照 明で照 らされ たカ ウ ンタ ーバ ー 。
若者 の イ ッキ コー ル が飛び 交 う大 型 チ ェー ン居 酒屋 。今や 、駅前 を一 日みわ たす だ けで 、
す ぐにで も何軒 もの酒 場 を見 つ ける ことがで きる。酒 を飲 む と い う行 為 、そ の た めの 酒
場 とい う場所 は、わ た した ち に とってか な り身近 な もの にな った。
また 、 最 近 で は、
コ ラー ゲ ンや 野菜 を多 く使 用 した メ ニ ュー を売 り出す な ど して 、女 性客 を中心 に人 気 を
集 めて い る ところ もある。大 手 の居 酒屋 チ ェー ン店 で は、フ ァミ リー レス トラ ンで 食事
をす るの に近 い感 覚 で 訪れ て い る、家族連れ の客 も少 な くな い。か つて の、男 性客 中心
とい つた 酒場 の イ メ ー ジは もはや 無 くな りつつ ある。女 性や子 どもも巻 き込 んだ 、酒場
の 大衆 化 がすす んで い るのだ。
高 田公 理 は、民俗学者 の権 威 で 知 られ る柳 田國男 の 言葉 をか りて 、酒 は 「本来 は 共 同
体 の 成員 が 共 に飲 み 、そ の 酔 い を共有 す る」 (高 田 1988:217)た め の ものだ と述 べ て い
る。こん にちの 酒場 の 大衆 化 によ って 、酒場 が 人 々 の コ ミュ ニ ケ ー シ ョンの 場 と して 使
われ る こと は、きわ めて 自然 な流れ といえ よ う。そ れ と 同時 に、近 頃で はひ と りで酒場
へ 足 を運ぶ 人 の姿 もよ く見 られ るよ うにな った。集 まって 飲 む 酒 の 目的が コ ミュ ニ ケ ー
シ ョンで あ る とすれ ば、ひ と りで 飲 む 酒 の 目的、そ れ も、わ ざわ ざひ と りで酒 場 へ 出か
けて飲 む 目的 とは 何 な のか 。
共 同 の 酒 か ら個 の 酒 へ と、人 々 の 酒 の飲 み方 は どの よ うに変 化 して きた のか 。そ の な
か で 、人 々 は酒場 に どの よ うな機 能 を求 めて きた のか 。 (ひ と りで飲 み にい く〉 と い う
行為 に着 目 して 分析 し、 現 代 の 酒場 に求 め られ る新 た な機能 を探 る。
-3-
先行研究
1-2。
まずは、本論 文 で扱 う (酒 場〉 とい う場所 について述 べ な けれ ばな らな い。
酒場 とは、酒 を飲 ませ る場所 とい う意味で用 いる。海野弘 によれ ば、酒場 とい う言葉
は、明治末か ら大正 にか けて使われ るよ うになった (玉 村編
1998)。
しか し、それ以前
に酒場がなか った とい うわ けではな い。次項 では、酒場 の原形 となった ものの誕生か ら、
それが こんにちに至 るまで にどのよ うに変化 してきた のか を説明す る。
1-2-1 酒 場 の歴 史
①酒場 の起源
神代 の昔話 には、熊襲 を少女 に扮 して酒宴 の席 で討 ったヤ マ トタケル の話や、や きも
ち焼き の本妻 をなだめるために酒 を飲 ませた大国主命 の話があ る。この ことか ら、日本
人 と酒 とのかかわ りはかな り古 くか らある ことが うかがえる。
また、酒が登場す る神話 にスサ ノオ の伝説 が ある。そ の伝説 の内容 は、スサ ノオがヤ
マ タノオ ロチ に生贄 として捧 げ られ る姫 を助 けるとい うもので ある。スサ ノオは、姫 に
造 らせた酒 をヤ マ タ ノオ ロチ に飲 ませ、ヤ マ タノオ ロチが酔 って寝 て いる隙 に退治 して
しまうのだ。
海野 は、 この伝説 を取 り上げて、次 のよ うに述 べ て いる。
日本 の酒場 の原型は ここにある。それ は外か らや って くる (ま れび と)(客 、神 )
をもてなすための場 だ。 ………神話 の酒場 は、神 と人が出会 う場であ り、そ こで神
秘 の酒が供 され、神 を鎮 め、村 の人 々への恵み を願 う。座敷があって、酒 を飲 ませ
て くれて、女性が接待 して くれ る、とい う酒場 の原形 をつ くった のだか ら、スサ ノ
オは酒場 の発 明者 とい う ことになる。 (玉 村編 1998:28-29)
古 く昔か ら、酒 を人にふるまうとい う行為 はお こなわれていたよ うだ。しか し、そ の
時代 に酒場 と呼べ るものがあった といえる具体 的な資料 は少な い。
森下賢 一 によれ ば、人 々が酒 を造 るよ うにな ったのは、稲作農耕 を 中心 とす る弥生文
化が広 まった ころ という説 と、さ らに古 い、縄文文化 の ころか らとす る説がある とい う。
縄文説 においては、人 々 は 自然発酵 した木 の実 か ら酒 を知 り、次 いで 、穀物 を回の中で
よ く噛んで吐き出 した もの を発酵 させ る、 くちかみ酒 を造 った と言われ て いる (森 下
1992)。
やがて、 日本 の酒 は くちかみか ら麹 を利用 した ものへ と発 展 し、現在 に至 るま
で とな る。
-4-
るためには貨幣が必要 とな り、 こうして旅による貨幣経済が広が りをみせ る。海野 は、
「外 での飲食 は、旅 と貨幣経済 を前提 として いる」 (玉 村編 199842)と い う。
2つ 目に、他人か らの供給が必要 となる状況 として、災害・飢饉時 をあげて いる。
災害時 と飢饉時の例 を以下 のように述べ、煮売 り屋について も触れて いる。
元禄 13年 の地震 の時は、田楽売 り (オ デ ン屋)が 焼け場 に出た。翌年の飢饉 の時
は、煮売 りの小店が出た。煮売 りとい うのは、飯 と魚、野菜、豆などを煮たおかず
を売る店で、酒 も飲 ませたか ら、居酒屋 とほとんど区別できな い。煮売 りにも、行
商 と店 のが ある。前者 を振売 りの煮売 り、後者 を茶屋煮売 りとい う。 (玉 村編
1998:42)
また、明暦 3年 の大火 の ときには、災害後 の復興再建 のために全国か ら多 くの人 々が
寄せ 集 め られた と書かれて いる (玉 村編 1998)。 災害・飢饉時 は被害 にあった人 々が 自
給で きない とい う理 由で他人か らの供給 をうける ことになるのだが、それ以外 にも、復
興 のために集め られた出稼 ぎ人が飲食 をす る場 として、酒 場 が登 場す ることにな る。こ
れは、 1つ 目に述 べ た旅 の理 由も含 んでいる といえよ う。
さきほど、江 戸 の酒場 の総称 として 茶屋 をあげたが、茶屋 もい くつかの種類 にわかれ
る。 茶屋 の分類 については、海野 の見解 を参照 にした い。
まず、よ しず張 りの簡単な設備 で旅人 を一 服 させ る出茶屋。これ らは仮設 の 出店 であ
って、たたむ ことができる。今で い う屋台 のよ うな ものだ。くらべ て、出茶屋 の機能 も
残 しつつ、本格的な建築で奥座敷 をもった ものを料理茶屋 、水茶屋 という。水茶屋 とは
本来、酒 を出 さない ことを (水 〉 とい う言葉であ らわ して いたが、奥座敷では酒肴 を出
す こともあったよ うだ。ここで注 目した いのが、茶屋が奥座敷 をもつよ うにな った理 由
である。その当時、江戸 には町人 の寄 り合 いや、もめ ごとの調停な どをお こな うため の
場所 がなか ったために、茶屋 にその場所 を求めた とい うので ある。寄 り合 いに使われ る
茶屋 は立合茶屋、寄合茶屋 とよばれて いた (玉 村編 1998)。
こ うしてみる と、江 戸 の土 地柄 として、全 国各地 か ら人が集 まる場 であ り、いわば異
文化 が集合す る場 であった ことが あげ られ る。さまざまな地方か ら、それぞれ の文化 を
もった人が集 まる場所 ではもめ ごとも多か ったのだろ う。江戸 にお ける、人 々の 出会 い
の場 、 異文化交流 の場 としての酒場 の存在が浮か び上がる。
飲食 中心 の料理茶屋 、水茶屋 のほか にも、男女 の色 を中心 とす る引手茶屋 、待合茶屋 、
出会茶屋 が ある。システム としては、酒 場 と遊郭 があわ さったよ うな もので、酒 を飲 ま
-6-
酒場 として栄 えた。今で も吉祥寺のハモニ カ横丁 といえば、戦後 の名残 をとどめる酒場
として 知 られて い る。
ほか にも、終戦後 の酒場 の多様化 のひ とつの特徴 は、キ ャバ レーやバ ー が乱 立 した こ
とだ。女給 とよばれ る女 の接待 をうける ことができる酒場 である。戦争中に禁欲 をしい
られた男たちが、女 との身体 的接触や会話 を求 めて、キ ャバ レーやバ ー に通 つた。キ ャ
バ レー とバ ーの違 い をあげる とすれ ば、バ ーの ほうが比較的 フロアが狭 く、客 と女 のか
かわ りが会話 中心 になることだ。こういった酒場 に通 う男たちは、酒 の酔 いが もた らす
精神 の高揚だけでな く、マ ダムや バー テ ンダー と会話 をす ることによって も不満 を発散
させていたのだろう。高田は、バ ーのマ ダムや バー テ ンダー を “巷 の精神分析医 (サ イ
コセ ラビス ト)"と 称 し、彼 らの話術 をたたえて いる (高 田
1988)。
昭和 40年 にはスナ ックが誕生す る。東京オ リン ピ ック を前 に してできた酒類販売 の
禁止条例 の制約 をうけ、バ ーの代替物 としてできた もので あるので、ほとん どその性質
はかわ らな い。 しか し、スナ ック以前 は主 に女給や マ ダム、バー テ ンダー とい った、店
員 と客 とのかかわ りに焦点がおかれた のに対 し、スナ ックでは見知 らぬ客 同士で もかか
わ りをもつ よ うにな る。そ こで交流 を深めあった客 は、酒場 を媒介 としたち い さな社会
をつ くりだす。
しか し、石 油 シ ョックが起 こった昭和 48年 以降 、酒 場 はそ の姿 と性質 を大 き く変 え
てい く。スナ ック にはカ ラオ ケ設備 が普及 し、酒場 とダ ンスホール の 中間形態 をとった
デ ィス コの登場。もうひ とつ は、ピンク・サ ロンの増加であ る。キ ャバ レーやバ ー も女
の接待 の機会 を含 んでは いたが、 ピンク・ サ ロンは言語的 コ ミュニ ケー シ ョンを省き、
直接的な性 のサ ー ビスに比重が置かれ て いる。こうな る と、酒 を飲 ませ る場所 という意
味では酒場 といえるのだが、 もはやそ こでの 目的は酒 を飲 む ことではな く、歌 う こと、
踊る こと、性的行為 といった、酒 以外 の別 の ものに向け られて いる。そ してそ こでは、
他者 との言語的 コ ミュニ ケー シ ョンは軽視 され る傾向 にある。
昭和 50年 代 にはカ フェ・ バーや 大衆居酒屋が盛 り上が りをみせ る。カ フェ・ バー と
は酒類、ソ フ トドリンク、軽食やデザ ー トを洗練 されたイ ンテ リア空間で提供す ること
を売 りに した酒場 で、主 に若者 のつ どいの場 となったよ うだ (高 田
1988)。
これ らの酒
場 に共通 してみ られ る特徴 は、見知 った者 同士 による コ ミュニ ケー シ ョンを深めるため
の場 として利用 されていた ことで ある。そ こでお こなわれた のは、店員 と客 の癒 しの会
話 で もな く、見知 らぬ者 同士が結ぶ新たなか かわ りで もな く、連れ合 い 同士で完結す る
会話や行為であった。 この 当時、大型チ ェー ン店な どの大衆居酒屋 でよ くみ られた “イ
ッキ飲み "の 光景 はそ の代表的な例 であろ う。それ は 自分が所属す る集団 のなかでのみ
-8-
な酒場 とす る。昭和初期 にみ られた女 の接待 を付加価値 としたキ ャバ レーや性交渉 を 目
女特化 "し た酒場、
的 とした ピンク 0サ ロンは “
スナ ックは客 同士 の会話、情報交換
に比重がおかれて いた ことか ら “よろず情報特化 "し た酒場、デ ィス コやカ ラオケは “音
楽特化 "し た酒場、 ビアホールや、酒 も料理 もだすカ フェ 0バ ー 、メニューの豊富な大
衆居酒屋な どは “酒・ 食 い物特化 "し た酒場 といつた具合 に分類 され る (高 田 1998)。
③本調 査 における (酒 場〉
分類 をした うえで、次 に本論文 の調査 では どこまで を対象 とす るか を規定す る。
規定 に際 しては、風俗営業等 の規制及 び業務 の適正化等 に関す る法律 (以 下、風適法 )
を参照 に した。
まず、キ ャバ レー は高 田の定義 では、必要な要素がそ ろった酒場であると位置 づ け ら
れて いる。しか し、風適法第 二 条 では 「キヤバ レーそ の他設備 を設 けて客 にダンスをさ
せ、かつ、客 の接待 を して客 に飲食 をさせ る営業」と表記 され、風俗営業 とい う位置づ
『接待 』
けである。 ここで重 要な のは “接待 "と い う言葉が もつ意味で、風適法では 「
とは、歓楽的雰 囲気 を醸 し出す方法 によ り客 をもてなす ことをい う」と定めて いる。ま
た、警察 庁ホー ム ベー ジの風適法 の運用解釈基準 では、客 に対 して 営業側 が積極的な行
為 として、単な る飲食 に通常伴 う役務 の提供 を超 える会話やサ ー ビス行為 をお こな う こ
ととしている。 “接待 "に あた る例 として、「特定少数 の客 に近 くにはべ り、継続 して、
談笑 の相手 となった り、酒等 の飲食物 を提供 した りす る行為」、「客 と身体 を密着 させた
り、手 を握 る等客 の 身体 に接触す る行為」 をあげて いる。 つ ま り、 “接待 "と い う言葉
は風適 法 のなかで性的な意味合 いを もつ言葉 として使用 されて いる。
これ に対 し、バ ー は 「喫茶店 、バ ーそ の他設備 を設 けて客 に飲食 をさせ る営業 で、国
家公安委員会規則 で 定 める ところによ り計 つ た客席 にお け る照度 を十ル クス以下 とし
て営む もの」、「他か ら見通す ことが 困難 で あ り、か つ 、そ の広 さが五平方 メー トル以下
である客席 を設 けて 営 む もの」 とし、 “接待 "と い う言葉 は含 まれお らず、問題 とされ
るのはその低照度性 と個室性 で ある。ここでは、客 と営業側 の性的かかわ りの可能性が
不安視 されては いるが、“接待 "の 有無 に関 しては明記 されて いな い。
ピンク・ サ ロンにいた って は、「個室 を設 け、当該個室 において 異性 の客 の性的好奇
心 に応 じてそ の客 に接触す る役務 を提 供す る営業」 をす る 「店舗型性風俗特殊営業」に
位置 づ け られて いる。 “性 "風 俗 とい う言葉が使われて いる ことか らも、性的サ ー ビス
を主な 目的 とした店である ことが読み取れ る。
以 上、“
女特化 "し た 3つ の酒場 を比較 し、調査対象 を規定す る うえで基準 に した い
10-
ではな いか と感 じてきた。と りわ けオ モニ をは じめ とした女性 の 力は、そ の役割 の大 き
さに比 べ る と、これ まで朝鮮学校 に関す る研 究 ではあま り論 じられて こなか った。そ の
辺 りを実証的に明 らか にす る ことを、調査 の課題 とした。
調査対象 と方法 は次のよ うに設計 した。
(1)保 護者の調査
現在子 どもを第二初級 に通わせて いる保護者 の調査 を実施す る。中心 とな ったのは学
校運営 を支 えて いるオモニ会 の活動 についての調査 である (そ のため、この調査チー ム
をさ しあた り 「オ モニ会班」 と称 して いた)。 調査方法 は調査対象者 へ のイ ンタビュー
調 査 と 同 時 に 、 オ モ ニ 会 の 活 動 に 調 査 者 自身 が 参 加 しな が ら記 録 す る 参 与 観 察
(partiCipttt obseⅣ 面 on)も お こな った。
具体 的 には、次 の とお りで ある。
① オモニ会 の現任会長そ の他何人か のオモニたちにイ ンタビュー を実施 した。
②授業参観 をはじめ、体験保育や、全体給食、サマー フェスタ、チェサ ミ祭、図書
部での読み聞かせ、さらにはオモニ会 の役員会 にも参加 させて いただ くなど、オモ
ニ会 の参与観察 をお こなった。さらに、校内保健室 をつ くるための準備やオモニ会
主催 のバザーにも関わつた。
③ アボジ会についても、現任会長 にイ ンタビュー調査 を実施 した。
(2)教 員の調査
現在 、第三初級で働 く教職員 の調査 を実施 した (調 査チームは 「教員班」 と称 して い
た)。 教員班では京都第二初級学校 の現任教員が、献身的な教育活動をお こなっている
との予備的な観察 にもとづき、そ の 中身 を具体的に明 らかにするため に調査 をお こなっ
た。調査方法 としては、インタビュー調査 とアンケー ト調査 を併用 した。
具体的 には、次 のとお りである。
①イ ンタビュー調査では 2007年 度 の ライフヒス トリーの蓄積 に追加 し、校長先
生をはじめ複数教員 にそれぞれ数回のイ ンタビュー調査 を行 った。
②調査票にかん しては、(4)で 詳述す る生活実態調査 をベースにしなが ら、教員独
自の項 目を付け加えるな どして作成 した (附 録 を参照 のこと)。 そ の際、 日本 の
既存 の調査 との比較を念頭 に、項 目を設定 した部分 もある。
-12-
ド上で分 け られて いなか った。そ の点 を修正 した うえで、簡易化 して用 いた。
現在 の保護者世帯総数 は 40世 帯 あ り、学校 を通 じて 調 査票 を配布・ 回収 した。プラ
イバ シー に関わ る内容 を含 むため、調査票は封絨付 きの封筒で回収 した。やや煩雑な項
目を含 んで いたためか、回収できた のは 25世 帯分 で あつた。
(5)そ の他の調査
第 二 初級 の沿革 については、2007年 度 の調査 の蓄積 が あるので、その素材 を活用 し
た。
官庁統計 については、京都市統計書 、国勢調査報告書、外 国人 の在留管理や登録 に関
わ る統計書、また京都 の韓国籍・ 朝鮮籍 の 出生 0婚 姻・ 死亡 の人 口動態統計 、そ して教
育調査統計な どを分担 して収集・ 整理・ 分析 した。
京都 を中心 とした在 日朝鮮人史 について は、先行研究 をもっぱ ら利用 した。そ のほか
2009年 が 4.24教 育闘争(い わゆる阪神教育闘争)か ら 60周 年 で あつた ことか ら、5月
日(日 )に 同志社大学 で「4。 24教 育闘争 60周 年
H
演劇 とパ ネルデ ィスカ ッシ ョン 京都・
滋賀 の 民族教育」 とい うイ ベ ン トが開かれ、実習クラス として参加 した。
調 査 は大 まか に次 のよ うなプ ロセスで進 めた。
2008年 4月 の段階 では、以前 の年度 の報告書 を読んだ り、在 日朝鮮人 の 民族教育 に
関す る ドキ ュメン ト映像
2を
見た りした。そ の うえで 4月 27日 (土 )に 実習 クラスで京都
第 二 初級学校 の 「授業公 開」 を見 学 し、予備的な調 査 をお こな った。 授業公 開終 了後 、
姜秀香校長先 生に基 礎的な事実関係 に関わ るイ ンタ ビュー を実施 した。
5月 に入 り、 「教員班」 「オ モニ会班」 「ノリレモニ班」 に班 分 けをお こな った。また
分担 して、大学図書館 、京都府 立資料館 、京都市役所 、京都市教委・府教委な どに赴 き、
官庁統 計 を収集・ 整理 した
3。
さ らに、在 日朝鮮人 のエスニ シテ ィ とジェンダー に関わ
4。
る諸 文献 を読み 、研 究動向 を把 握 した
京都 の在 日朝鮮 人 については京都大学人文科
学研究所 の水野直樹教授 の レクチ ャー を受 けた ほか、京都市 の外 国人教育政策 について
2民 族教育 に関わ る映像作品 としては、2006年 に 自主制作 した 「チ ェサ ミ ! 京都朝鮮第 二初
級学校 の一 日」(監 督=辻 野理花、制作=板 垣竜太)、 2007年 に第 三 初級 40周 年 を記念 して 自主制
作 した「京都朝鮮第三初級学校 過去 ∼現在 ∼未来」(構 成 。脚本=趙 弘子、制作=板 垣竜太)、 2003
年 にフジテ レビ系列で放映された 「ウリハ ッキ ョ :民 族 のともしび」(制 作=テ レビ愛媛 1955
)、
年 に公開された 「朝鮮 の子」(演 出=京 極高英、呂運玉ほか)な どを順次観た。
3在 日朝鮮人の官庁統計 を収集するに先立ち、在 日朝鮮人統計そ のものの性格 を知るためにも、
森田芳夫 『数字が語 る在 日韓国 。朝鮮人の歴史』を全員 で読んだ。
4戦 後在 日朝鮮人女性史 については宋連玉
(2002,2005,2006)を 読 んだ。また、朝鮮学校 をジェン
ダーの観点か ら論 じた韓東賢(2006)を 読んだ。
-14-
2章 デT夕 分析
2‐
1
調査 方法
2章 においては京都 にお け る朝鮮人社会 について概観す る。また同時 に今回 の調査 の
対象 となった京都朝鮮第 二 初級学校 の創設期 か ら現在 について も、当章で扱 うもの とす
る。
まず 第 一項 の『京都 の在 日朝鮮人社会 』では、戦前 か ら戦後 にか けての在 日朝鮮人 に
かんす る歴 史的・統計的な資料 にもとづいて 分析 をお こなって いる。そ こか ら戦前か ら
戦 中 にか けて、近代化が進展 してい く京都市 にお け る朝鮮人 の定住過程 を明 らか して い
る。 また現在研究 が不足 して いる戦後期 の京都市 の在 日朝鮮人 につ いて も触れて いる。
次項 『朝鮮学校 の位置 づ け』において は、日本社会 にお ける民族 学校 の位置 づ け、 と
りわ け朝鮮学校 の処遇 について述 べ られて いる。ここでは民族教育 に関す る制度的変遷
を調 べ 、同時 に 日本 と朝鮮 民主主義人民共和国 との 関係 について も考察 して いる。また
京都以外 の他地域 での朝鮮 学校 の あ りよ うについて もここで述 べて いる。
そ して今回 の調 査実習の舞台 となった 「京都朝鮮第 二 初級学校」 (通 称、第 二 初級 、
チ ェサ ミ)に ついての歴史的な歩み について は、『京都朝鮮第 二 初級学校 の概要 』の項
で扱 っている。著者 の 2008年 4月 か らのフ ィール ドワー クを通 してえ られた体験や、
そ こで 出会 った方 々のイ ンタ ビューデ ー タを用 いて、40年 にもおよぶ第二初級 学校 の
歴史や現在 の状況、学校が抱 えて いる問題 について も豊富 に論 じている。
以 上 を整理 して、当章が今回の社会調 査実習 の舞台 とな った地域や組織、また人 々 に
ついての読者 が概要的知識 を得 る手が か りとなる ことを期待す る。
-16-
査 によ る
(b)/(a)
染色 工 、捺 染 工 20269人
16243人
機織 工
工
1902人
土
1526人
7.50%
4.10%
665人
51.80%
985人
出典 :内 閣統計局 『昭和 5年 国勢調査報告 』
また、京都市在住 の朝鮮人は地域 ごとによって職業 の特色 が あった。た とえば、楽只 、
養 正、錦 林 とい った、いわゆる合併前 の 旧市域では 自由労働者 が比較的多か ったのに対
して、その周辺 部 、つ ま り新市域 と呼ばれ る伏見 区や下京区では西陣織や友禅染な ど各
種職 工 に従事す る人が多 か った。
2-3 分析 ・考察
1945年 8月 に 日本 はポツダム宣 言 を受 け入れ敗戦 した。そ して アメ リカ の支配下 に
置かれ、「韓国併合 二 関スル 条約」は無効 とな り、朝鮮半島は解放 された。それ にともな
い、京都 に住 んでいた朝鮮人 の 3人 に 1人 は朝鮮半島 に帰還 していった。
だが、朝鮮半島の南北分裂や 、日本か ら朝鮮半に持 ち出せ る資金 に制限が つ くな どの
ことか ら、日本 に残留す る朝鮮人が現れた。これが戦後 の在 日朝鮮人社会 を形成 して い
った。
※ ここに朝鮮問題研究 か らのデ ー タを使用
戦後 の京都 での主な居住地域 は南区、右京 区、そ して伏見 区であつた。表
2-3で わ
か るとお り、 1985年 までは京都市 にお け る朝鮮人 の人 口は増えて いるが 、 1985年 以降
は減少 して いっている。 これ には様 々な要 因がある と考 え られ る。
第 一 に 1985年 を境 に在 日朝鮮人だけでな く京都市 の総人 口も減少 して いる。つ ま り、
これ は在 日だけの現象 ではな く、京都市全体 の減少 と捉 える ことができる。しか し、1985
年 か ら 2004年 の減少率 で比 べ た場合、京都市 の総人 口が
に対 して、朝鮮韓国籍人 口は
22。
1。
0%と 減少率 が微 々たるもの
7%と 激減 して いる点 で大 きな違 いが ある。
第 二 の要 因は国籍 である。 日本国籍 を取 得 した場合 (い わゆる 「帰化」)や 、在 日朝
鮮人 と日本人 の間 に生まれた子供 (い わゆる 「ダブル」)を 日本国籍 に した場合 、 日本
にお ける朝鮮籍 は減少する。表 2-6を みて もわかる とお り、1984年 を境 に朝鮮籍 の子 は
激減 して いる。 この ことか らもダブル の子供が増加 して いるもの と考 え られ る
7。
7厚 生労働省の調査では韓国籍 と朝鮮席を足 して統計 してお り、韓国、朝鮮 の単独 の統計データ
はないため、断言はできな い
-18-
おわ りに
本章 では、保護者 とくにオ モニたちの学校 へ の関わ り方 を検討 して いく。京都朝鮮第
二 初級学校 の創設期 か らオ モニたちの助力は、多大な るものだ った。全国 の朝鮮学校 に
必ず 「オ モニ会」が存在す る。オモ ニ会 の歴 史 は古 く、 1940年 代か らそ の存在 が認め
られ る
8。
京都朝鮮第 二初級学校 の場合 、「オ モニ会」 とい う名称 としては 1980年 代 に
スター トして いるが、実質的 には学校創 立 間 もな く結成 した といつてよい。一方 の 「ア
ボジ会」結成 は、2000年 に入 るまで待たな けれ ばな らな い。朝鮮学校 の歩み は、常 に
オ モニたちの活動が 「支え」 てきた と言 つて も過言ではな い。
では、なぜオ モニたちが 中心的な役割 を担 ってきた ので あろ うか。オ モニ会が設立す
る前後か ら、彼女たち の活動 を追跡 し、さ らに現在 の活動 に入 り込み細部 まで探 ること
によって、オモ ニな らではの学校 へ の関わ り方がみえて くるはずで ある。オ モニたちを
規定 して いる社会的規範や、さ らに政治的情勢 を背景 としたオ モニたちの意識や関わ り
方 の変容 が窺 われ るだろう。
しか しなが ら、創設期 か ら現在 に至 る保護者 の活動 について知 る ことのできる歴史記
録は、皆無 に等 しい。創設期前後 に携わ って いたオ モニ、創設後 のオ モニ会 に参加 した
オ モニ、そ して 2008年 現在現役 で活躍す るオモニ たち のイ ンタビュー を通 して のみ、
学校 を 「周辺」 か ら 「支え る」オモ ニ たち の歴 史や思 いを叙述す る しかな い。
ただ、創設期 の オ モニは、在 日朝鮮人 1世 あるいは 2世 世代前半 にあたるので、高齢
化 によってイ ンタ ビューす ら難 しくなって い る。今 回 のイ ンタ ビュー調査では、趙弘子
教諭 の大変な ご尽 力 によ り、イ ンフォーマ ン トを探 して くだ さったが、体調不 良のため
に受 けていただけな い こともあった。また、自身 の話 を語 るとい う ことに、躊躇 され る
方 も少な くな い。イ ンフォーマ ン トにた ど り着 くまでが、大きな課題 だった と言 って も
よ いだ ろう。 1990年 代、戦争被害者 な どが語 り始 め、「証言 の時代」 とも呼 ばれて いる
が (徐 ・ 高橋 2000)、 いまだ語 る ことのできない、「沈黙」 が存在 して いるのだ。
そ こで、既 に 出版 されて いる聞 き取 り記録
9な
ども参考 に しなが ら、今回取 り組んだ
8東 京都荒川 区 にある東京朝鮮第 一 初 中級学校 の創 立五十周年記念写真集 に、「第 七 回オ モニ会
記念 東京第 一朝連初等学校」 と記載 された集合写真がある(ウ リハ ッキ ョをつづ る会 2001)。 こ
の写真 の撮影年 月 日が 「一 九 四七年 六月十五 日」と記 されてお り、朝連時代 か らそ の存在が認 め
られ る。
9数 々の研究者や活動家 たち の手 によって、聞き取 り記録や証言集が刊行 されてきたが、女性 に
-20-
朝鮮学校増設運動 に携わ って いる。日本社会 で の差別 がよ り強 固な もの とな って い く中、
在 日朝鮮人たちの期待 は祖国に向 いて いた。彼女たち 自身 も 「成入学校」で学 ぶ ことに
よって、「民族」 の主体 を確立す る ことはもちろん、祖国 の 「在外公 民」 として の 「独
立性」を構 築 しよ うと求めた運動 で あつた と言 える。80年 代 は、帰国運動 も沈静化 し、
日本定住志 向が高 ま り日本 の学校 に就学す る子 どもが増 える中、「差別」 と 「同化」 か
らの 「解放」を主張す るとともに、学校 を維持 して い くことに集 中せ ざるを得な くな っ
た。それで も、健在である 1世 世代 の援助 によ り活気 を保 って いたが、3世 世代 が中心
とな る 90年 代 に入 ると学校運営 さえ厳 しい もの とな る。宣伝 され る 「朝鮮」 のマイナ
スイ メー ジは、 日本社会 にます ます 定着 し、在 日社会 において も分裂 をもた らした。
第 3に 、上記 2つ の要素 とも絡み合 って、オ モニたちの民族教育 に対す る意識 の変化
がみ られ る。草創 期 のオ モニたちの置 かれた状況下 での売店活動 の 目的 は、「革命歴史
教室」設置 であつた。祖国に希望 をみた彼女たちの思 いが、具象化 した ものだったので
はな いだ ろうか。祖国 に貢献す る子 どもたちを育成す る学校 を支えてきた ので ある。80
年代 は、帰国事業 の終 了で こうした 動機付 けよ りも、「学校 のため」 とい うよ うな傾向
が強 い よ うに思 う。この時期 に、オ モニ会が結成 されて いる ことも見逃 してはな らな い。
草創期 は、組織 されな くて も積極的に運動 に参加 して い くものが存在 したが、この 頃は
日本 での民族教育 を確立す る上で、オモニたちの組織化 と結束 力を強 く求めな けれ ばな
らなか った ので あろう。90年 代 では、「子 どものため」 とい う意識 に移行 して い く。当
然 これ まで も子 どものために活動 して いたわ けであ るが、学校 の再建強化 とい う課題 に
追 われて いた。しか し、ます ます強 まる経済的な負担や設備不足 な ど、親たち の 自由な
選択肢 はかな り限定 されて いる。そ のよ うな切迫 した状況下では、「日本人 の学校 と同
じ条件 で学 ばせた い」 とい う環境整備 に対す る意識が強 くな って い く。
第 4に 、オモ ニたち の活動 の具体 的な内容 の変化 で ある。日本政府 によ る制度的な差
別状況下 では、運営資金 を収集す るため のさまざまな活動 は、一貫 して変わ らな い。し
か し、学校運営以外 に親たちが望む理想 の 「学校」は変化 して いる し、またそれ らを実
現 して い くため の具体的な実践 も変化 して いる。草創期 のオ モニたちは、繰 り返 しにな
「革命歴史教 室」は象徴 的な例 だ。80年 代 にな ると、
るが祖国 と密接な繋が りが あった。
オ モニ会 の結成 にようて、朝鮮 学校 自体 の運営維持 が 中心 とな って い く。学校 の財政的
なバ ックア ップをす るために、バザ ー をは じめ とす る収益活動 の結果 、スクー ルバス を
購入 して いる。90年 代 には、運営 も厳 しくな るものの、 日本 の学校 と同等 の条件 を求
めて、運動が展 開 されて いる ことが特徴 的で ある。 1994。 年 の JR通 学定期割 引率差別
是正運動 では、署名活動 に参加 して いる。また、日本 の学校 では設備 されて いる給食や
-22-
参考 ・引用文献
秋本宏 ,2001,「 暖簾 くぐる とそ こには安 らぎ一 居酒屋 は働 く男たち のセー フテ ィネ ッ ト」『Yomiu五
Weckly』 60(32):30-36
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高 田公理,1988,『 酒場 の社会学 』PHP文 庫
.
玉村豊男編 ,1998,『 酒場 の誕生』TaKaRa酒 生活文化研究所
橋本健 二 ,2008,『 居酒屋 ほろ酔 い考現学 』毎 日新 聞社
森下賢 一,1992,『 居酒屋礼讃 』毎 日新聞社
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ソーシャル・ネットワーキングサイ トmiXi(ミ クシィ),2009閲 覧
,
■
ミ破ijp/)
(http■
警察庁 「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律関係」
(http〃
―
.npa・ gOjp/indexohtln1
2009.12.22)
24
論文タイ トル
:「 人はなぜ 酒場 へ い くのか∼現代 に酒場 に求 め られ る新たな機能 ∼」
社会学部社会学科
19061043 宮内志直子
キー ワー ド :酒 場、大衆化 、共同体、 自己 目的、
≪要約 ≫
古来か ら続 く人と酒 のかかわ り。そ のなかで、人が酒を飲む場所一酒場一 も大きくそ の姿 をかえて き
た。なぜな ら、人が酒を飲 む理由が時代 とともに変化 したか らである。人が酒を飲む理由はそ のまま酒
場 の姿へ と反映される、つまり、酒場 の変遷 をたどる ことで当時の人々が酒場に求めた もの、酒場が社
へ
会で果た して いた機能がうかがえる。太古 の共同体 による酒宴 の場か ら、近代 の 自己 目的の場 と変化
を遂げた酒場。 (ひ とりで飲み にいく)と い うきわめて現代的な行為 に焦点をあて、ソーシャル・ ネッ
トワーキングサイ トのログ分析 と参与観察 を用 いて調査す る。これまでの酒場 の機能では補え切れなか
った、現代人が求める酒場 の機能 とは何か。そ こには、普段何気 な く足を運ぶ酒場 にもわれわれは潜在
的 にこんな機能を求めていたのか、という驚きと発見があつた。
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