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ドイツ第二帝政期における
ドイツ第二帝政期における ポザドフスキ社会政策の形成︵一︶ I−生い立ちとポーゼン州の郡長時代︱。 山 田 高 生 一 はじめに ニ ポザドフスキの家系と生い立ち 三 ポーゼン州官吏としてのポザドフスキ 四 プロイセン下院議員時代のポザドフスキ 五 キリスト教者としてのポザドフスキ 六 保守派官僚としてのポザドフスキと社会問題一一︲︲︲結びに代えてIIII 一 はじめに 本稿は、ポザドフスキの家系と生い立ち、そしてその後の職歴コースを考察することによって、ポザドフスキ 社会政策の形成過程を明らかにすることを課題としている。一般論として言えば、いかなる人物もその生い立ち と経験がその後の人生と行動に一定の作用を及ぼしていることは間違いないが、しかしわれわれがここでポザド ドイツ第二帝政期におけるポザドフスキ社会政策の形成︵こ −1− ドイッ第二帝政則におけるポザドフスキ社会政策の形成︵一︶ フスキの家系と生い立ちからアプローチしようとするのは、そのような一般的な理由からではない。それは、ポ ザドフスキがプロイセン邦東部のユンカー階級の出身者としてドイッ帝国の官職ポストのナンバー2の地位まで 登りつめたという特有の経歴を有するからに他ならない。まさしくプロイセン邦のエルベ河以東のュンカー階級 こそ、ビスマルクを押し立ててドイッ帝国を創設し、その後のドイツ第二帝政期の政治を規定した一大政治勢力で あった。しかしながらこの階級は、前論文で指摘した通り、帝国統一以後慢性的な農業不況のもとで経済的に地 盤沈下をきたし資本主義的経済競争に巻き込まれていったが、他方でビスマルク失脚後も相変わらず政治的実権 を掌握し、露骨な階級エゴイズムの政策を追求したため、ドイツの政治を危機に陥れた。そしてこのような﹁政 治と経済の乖離﹂︵M・ウェーバー︶の問題と密接に関連する帝国政治の舞台への﹁官僚政治家﹂の登場こそ、当 時のドイッ社会の政治構造の後進性を特徴づける重要な要素となったのであった。従って以下においては、ュン カー階級出身の﹁官僚政治家﹂ポザドフスキについて、その家系と生い立ち、及びポーゼン州の役人としての職 歴コースとその間の社会的活動を辿りつつ、それらとプロイセン邦行政におけるユンカー階級と官僚機構との関 係を明らかにする作業から始めたい。 −2− ポザドフスキ︵Arthur von Jenkwitz)は市長 Adolf Graf Posadowsky-Wehner。 Preiherrvon Postelwitz 1。 845-1932)は、ハープダンク ︷}一Fda知︶家という古い家柄の出である。このハープダンク家は、一三世紀にはすでに、シュレージェン地方 では、身分の高い聖職の家柄として知られていた。オーデル河畔に位置し、シュレージェン地方の中心都市であ るブレスラウ︵ゆr医呂︶市の司教区参事会員ビートス・ハープダンク︷Fta}{id自知}は、一三一九年にブレ スラウ司教区の最初のドイツ人ビショップに選ばれている。このハープダンク家から、イェンクヴィッツ︵Jenkwitz︶家が分かれた。イェンクヴィッツという呼称は、ブレスラウ市からオーデル河をさらに上流にのぼったと ころにある小地方都市ブリーク︵叩−必︶にある家族世襲地の名称イェンクヴィッツ︵Jenkwぽ)からとったもの で、一三五〇年にはじめて文書に現れている、と言われる。この家系からは、軍事的功績により著名になった人 物や、また地方政治家として活躍した人物が輩出した。一三五〇年から一六九六年の期間にイェンクヴィッツ家 から九人の人物がブレスラウ市の市議会議員となり、そのうちの一人ニコラウス︵Nikolaus を務めた。 一三七九年に、ブレスラウのイェンクヴィッツ家のニコラウスー世という人物が、ベルン市の南西に位置する ポサドヴィッチ︵Possadowicz︶またはポサドヴィッツ︵Possadowits︶と呼ばれる土地を取得した。この土地は、 後にポッセルヴィッツ︵Posselwitz︶あるいはポステルヴィッツ︵Postelwitz︶と呼ばれるようになった。そこで、 auf Possadowicz︶、後にポステルヴィッツのポザドフスキ︵Posa- 一五世紀から一六世紀にかけて、貴族の家系を簡単に識別するために一般に用いられていたやり方で、ポサドヴ イッチのイェンクヴィッツ家︵EeJenkwitze dowsky von Postelwitz︶という呼称が生まれ、一六世紀の三〇年代以降これが固有な家族の名称となった。ほぼ −3− Adam Postelwitz︶将 Eduard Graf Posa- Karl Friedrich PosadoS防yvon Posadowskyvon Postelwitz)は、シュレージエン地方に残るピアスト家︵一〇世紀に始まる 同じ時期に、この家族はプロテスタントに改宗した。県知事ハンス・アダム・ポザドフスキ・フォン・ポステル ヴィッツ︵Hans ポーランド最古の王家︶最後の後継者ゲオルク・ヴィルヘルム︵9oaWllhelm︶の後見人を務めたが、この人物に 対しドイツ皇帝から、一七〇五年にべーメン︵Bohmen)王国の古い貴族の地位を与えられた。カール・フリード リッヒ・ポザドフスキ・フォン・ポステルヴィッツ男爵CFreiherr 軍は、プロイセンのラリードリッヒ大王の委嘱により、一七四一年一月二日にブレスラウ布の布議会と中立条約 を締結することに成功し、その結果ブレスラウ布は大王に門を開くことになった。二度にわたるシュレージエン の戦争で功績を上げ、非常に有名になったこのプロイセン騎兵隊の将軍は、一七四三年にはフリードリッヒ大王 によってプロイセンの男爵に叙せられた。なお、ポザドラスキ=ヴェーナー︵toSdowsky-Wehner︶のヴェーナ ーという言葉は、一八世紀末頃から付け加えられたもので、当時のポザドフスキ男爵とWehnerという世襲財 産地の女相続人との婚姻に由来する。 ポザドフスキは、シュレージエンのグロース=グローガウ︵(jross-tjlogau︶という町で、プロイセン上級裁判所 の評議員であったアードルフ・エードゥアルト・グラーフ・ポザドフスキ=ヴェーナー︵Adolf Juliane Adolphine Wilhelminevon Plotz︶を母として、一八四五年六月三日に生まれた。少年時代は、 doWsky-Wehner)を父とし、アマーリエ・ュリアーネ・アドルフィーネ・ヴィルヘルミーネ・フォン・プレーツ ︵Amalie この小さな町で過ごした。一八五八年の復活祭の日からこの町のエヴァングーリシュ系のギムナージュムに通い はじめ、一八六四年の復活祭の時にアビトゥーアの試験に合格した。因みにこの学校は、当時教育者として著名 爽 ¥ を iII や 一 −4一 な州の教育委員クリックス︵回r︶博士の指導の下で運営されていた。ギムナージュム卒業後ポザドフスキは、 ベルリン、ハイデルベルク、ブレスラウの各大学で法律学を学んだ。一八六七年七月三日にはブレスラウ大学に おいて法律学・行政学の博士号を取得し、その後地方裁判所に司法官試補の資格で就職した。しかしこの時期の 彼の主たる関心は、農業経営にあり、一八六九年九月にはポーゼン州のヴェルナ︵Welna︶農場を買収したが、 しかしこれはあまり長く続かなかったようである︵一八七三年四月二五目に売却︶。 Emma Adolfin ve onM呂er)と結婚した。この結婚が彼の関心を 一八七一年一月三日にポザドフスキは、控訴審裁判所の長であった故グスタフ・フォン・メラー︵Gustav MoUer︶博士の娘で、未亡人のエリーゼ︵Elise 行政関係へ向かわしめたのかどうか定かではないが、同じ年の一〇月一日付でポザドフスキはプロイセンの公務 員として就職し、そして行政職の幹部候補生として、実地訓練のためポーゼン州政府の本庁機関に配属された。 一八七一年は、普仏戦争で勝利を収めたプロイセンが南ドイッの諸邦を糾合してドイツ帝国を統一した年であ り、まさしくその同じ年に、ポザドフスキもプロイセンの一地方官吏から新たに帝国内務省長官にいたる官職経 歴のスタート点に立ったのであった。 ところで、ポザドフスキ家がその社会的地盤を有し、ポザドフスキ自身もそこで生まれ育ったシュレージエン 州及び彼がプロイセンの地方官吏として活躍したポーゼン州は、プロイセン邦のエルベ河以東の。ンカー階級の 本拠地のなかでもポーランドと国境を接し、他の州に比してポーランド系住民が多く居住しており、東欧的スラ ブ的色彩が強い地方であったことで知られている。この地にドイツ人の東方植民がすすめられた一三世紀以降に は、ポザドフスキ家の祖先は古い農業貴族たるユンカー階級の名門として指導的な地位を保持してきた。ポザド von −5− フスキ家がそこに所属するユンカー階級とその固有な社会的性格について人々の注目を集めたのは、この階級が ビスマルクのもとに普墺戦争と普仏戦争の二度にわたる戦争に勝利を収め、ドイツ帝国の統一達成という近代ョ ーロッパ史のなかで果した大きな歴史的役割の故であったが、ポザドフスキ自身もその家系と生い立ちから紛れ もなくユンカー階級の一員としてその社会的性格を受け継いでいた。 ュンカー階級の社会的性格について、﹁ュンカーは階級的な誇りのために、自分より身分の上の者とも、身分 の下の者とも結婚せず、また同じ誇りのためにユンカーにふさわしい職業︵農場経営、軍人、行政官︶のみに進ん だ。彼等は農業貴族であるから遠方に旅行せず、生活は領地付近の仲間づき合いに限られており、世界の中心か らは遠く離れている。⋮⋮政治上では王に対する忠誠心が深いので、政府に対する恒久的反対派にはならないが、 階級的な独立心と王室への忠誠心とがしばしば矛盾して悩むことがあった。ュンカーが外交官になることを好ま ないのは第一に、比較的財産が少ないので海外使節としての派手な生活が困難なこと、第二に、性格が偏狭で田 舎くさく、気性が真直ぐなために外交官向きの円満な、デリケートな社交性に乏しいこと、などによっている﹂ と言われる。この規定を、ポザドフスキの後年の官僚政治家としての性格に重ね合わせてみると、彼が子供の時 から典型的なユンカーとしての社会的性格を身につけて育ってきたことがわかる。前述のごとく、青少年期にお けるエヴァングーリッシュ系のギムナージュムでの教育、大学での法律学・行政学の研究、および農業経営への 関心等は、ュンカーの子弟が受ける典型的な教育コースであった。しかし、ュンカー階級の社会的性格の再生産 という観点からとりわけ重要な要素は結婚であった。一九世紀から二〇世紀初頭にかけてのユンカー階級に関す る統計的調査の研究家として著名なマンシーによれば、﹁ユンカーの社会的連帯性とその特殊な性格は、彼らの −6− Bromberg︶のヴォングローヴィッツ すぐれて排他的な結婚の習慣と職歴選択における一貫性によって維持され永続化された。﹂ポザドフスキは、控 訴裁判所長の娘との結婚によってその任を果たしたのであった。 三 ポーゼン州官吏としてのポザドフスキ ポザドフスキは、一八七三年にポーゼン州ブロンベルク県︵Reg.=Bezirk ドイツ第二帝政期におけるポザドフスキ社会政策の形成︵一︶ −7− 郡︵Kreis Wongrowitz︶の、ついで一八七七年以降はクレーベン郡︵Kreis た。郡長時代のポザドフスキは、﹁自分の管轄範囲である狭い郡︷︸rl︶をはるかに越えて、州レヴェルの行政 Kroben︶の郡長︵L dl︶に任命され の問題と課題に取り組んだ。彼の全活動は、自分の郡︷}rE)と州(Provinz︶に向かった。一切のユンカー的一 面性と外見から自由な態度と厳格な誠実さによって、彼は州のなかで有力な地位を作り上げた。彼は、自分の職 を自分の身分に帰属する権利として考えたのではなく、勤勉と実務的な活動によって自分の適性を証明しようと 努めた﹂と言われる。 当時のポーゼン州の行政は、プロイセン邦の他の州︵汐o恋回︶とは異なった問題を持っていた。それは、ポー ゼン州内の各地域毎に成立している身分制委員会︷艮FdFr︸︷oヨー匹呂︸によって営まれており、統一的な中 央 行 政 機 関 を 持 た な い と い う 問 題 で あ︵ っ2 た︶ 。他の州のような統一的な自治行政の形成は、民族問題とポーランド 系住民の反対によって不可能な状態であったが、しかしそのために、ポーゼン州の経済的・文化的な発展は妨げ られていた。ポザドフスキは、ポーゼン州の行政改革の問題に早くから取り組み、一八七八年の二月から三月に かけてベルリンの内務省で行われたポーゼン州への︸︷︷’Qr︲μロdfrovmzial-Urdnungの導入に関する行政官吏の 会議に参加した。この会議で彼は、ポーゼン州の経済的発展のためには、他の州と同様な行政制度を直ちに導入 することは無条件に命ぜられるところであるI確かにポーゼン州の特殊な事情を考慮すれば、その形式的な導 入 は 少 な か ら ず 重 大 な 政 治 的 欠 陥 を 伴 う と し て も l 、 と い う 意 見 を 述 べ た︵ 。3 一︶ 八八○年代に入ると、この改革 運動は新しい局面を迎えることにならた。 ポザドラスキは、一八八二年から三年間プロイセン邦議会において議員活動に従事したが、しかし一八八五年 −8− の選挙では不出馬を表明して再び州官吏の勤務に戻った。ポザドフスキにとって、ポーゼン州の行政機構改革は 彼の郡長時代からの一貫した関心事であり、再び集中的にこの問題に取り組むべきチャンスが訪れた。ポザドフ スキは、州の行政機構の統一化を目指す改革運動のなかで指導的域位に立った。こうしたポザドフスキらの運動は 多くの支持を得たが、しかし改革を即座に実行することは実際には困難であったため、まず州の身分議会︵Provin- zialstande︶がすべての身分制委員について同一人物を議長として選ぶことにょって、一種の人的結合を作り出す ことを決議し、統一化に道を開いた。そして一八八九年にポーゼン州がついに州委員会︵Provinzialausschuss) と地方自治体長官︵La乱esdirektor︶による統一的な州行政機構を設立した時、ポザドフスキは最初の地方自治体 長官に選ばれた。この地位は、一八九〇年に勅令によって知事︵Landeshauptmann︶と改称された。ポザドフスキ が知事に任命されたのは、彼がポーゼン州の行政機構改革に熱心であったという理由ばかりでなく、広い知識に よって州の自治行政のあらゆる分野に精通していたからであったのである。 さてこの時期のポザドフスキのパーソナル・ヒストリーのなかで、われわれの研究にとってもっとも重要な意 味を持っているのは、なんと言っても彼の職業選択であろう。ュンカーは、一般に﹁妻の選択よりも職業の選択 において社会的習慣に忠実であった﹂と言われるが、ポザドフスキがその官職コースを開始してから最初の一六 年間に在職した郡長︵rla︶の職は、それぞれの地方の名士であるとともに実力者たる社会的地位と名誉を満 たすものとしてユンカーがもっとも好んだ官職であった。そしてこの職は、﹁官僚の顔とラントの顔をもつヤヌス の頭﹂︵ビスマルク︶と表現されたように、プロイセン邦の行政官吏としての任務を持つと同時に、各州︵ラント︶ の地方自治行政に従事するものであり、ュンカー階級によるプロイセン支配、さらにはプロイセンによるドイッ −9− 帝国支配の拠点どなった。マンシーの調査によれば、プロイセン邦全一二州について西部五州では平民出身の郡 長が多いのに対し、ポーゼン州もそのうちに含まれる東部七州ではユンカー階級出身者が高い割合を占めていた ︵12ページの表︱、表2、表3を参照︶。また郡長の社合的役割に関しても、西部諸州の工業化の進んだ地域の郡長ど 東部のそれどは異なっていた。ポザドフスキがユンカー階級の社合的伝統に従って就任したこの地の郡長の職は、 プロイセン保守主義の根拠地であるど共に、プロイセン政府のユンカー官僚の供給源でもあった。マンシーによ れば、それは﹁しばしばそのような官僚がトップヘ向って上がっていくプロセスにおける一つの段階であった。﹂ 彼女は、その調査から﹁三二八の全郡長のうち六六︵二〇・一二%︶の郡長は、より高いポストヘのステップとし て短期間その職を占めた。残りの二六二︵七九・八八%︶の郡長は、郡役場︵r dMFぼ︶を越えてより高いポス トにいかなかった﹂こどを明らかにしている。従って一般的には、ユンカーは郡長の職に留まり、地元での実力 者であるこどを望んだが、ポザドフスキは長期間にわたって郡長の職を務めた後、﹁より高いポスト﹂へ進んだ。 彼の長期間の郡長存任が、後年の帝国内務省長官時代の農業問題への強い関心の背景を形成したものど思われ る。最後に、ポザドフスキが就任した地方自治体長官および知事の職は、州の自治体の長どして自治体内のあら ゆる出来事にかかわり、それを手際よく処理する実務者的能力が期待された。この職は﹁非常な注意ど訓練どを 要求され、豊富な実際的経験が不可欠である。仕事については州参事合の協力を得ねばならないが、どにかく、 地位の独立性ど権威の故にユンカーはこの職を好んだ。﹂ 次に、この時期におけるポザドフスキの社合的活動を、プロイセン下院議員時代どキリスト教教合合議への参 加、そして最後に保守派官僚どしての社合問題への対応についてそれぞれ考察するこどにしたい。 −10− −11− 四 プロイセン下院議員時代のポザドフスキ ポザドフスキは、一八八二年にフラウエンシュタット日クレーベン選挙区からプロイセン邦議合に選出され、 一八八五年までの三年間︵一会期︶、自由保守党︵Freikonservativ︶の代議士として議合活動に従事した。もともと ― 12 ― konservatV ie vr eeinigung︶を結成し、翌年の北ドイツ連邦議合選挙とプロ 自由保守党は、一八八六年にプロイセン下院において、伝統的な保守党から分かれてビスマルク支持派の約二〇 名の議員が﹁自由保守派連合﹂︵Freie イセン邦議合選挙のさいにこの名称をはじめて名乗った。帝国統一後は帝国議合とプロイセン邦議合にそれぞれ 議席を持ち、少数派ではあったが常にビスマルク与党の一翼を担った。この政党の目標は、﹁プロイセンの指導 ︵2︶ のもとでのブルジョア的ドイツ国民国家の形成﹂と﹁立憲君主制﹂にあり、ユンカー大地主やシュレージエンと Bekampfungde Bs agabundentums)で FerdinandsE日日︶らがおり、帝国政治に影響を及ぼし ラインの重工業家、後には高級官僚までもこれに参加した。著名人としては、大土地所有者で工業家のカルドル フ︵Wilhelm vonKardorf)や重工業家のシュトゥム︵回r1 た。当時プロイセン邦議会に選出されるユンカーの圧倒的多数が保守党であったという状況のもとで、ポザドフ スキがなぜ自由保守党の議員としてプロイセン邦議会にでたかは必ずしも明らかではないが、後年の彼の政治的 社合的活動から逆に推察すると、ポザドフスキのビスマルクに対する尊敬のほかに、広い意味での保守主義の枠 内ではあるが、農業家のインタレストのみを露骨に追求する保守派とは異なって、立憲主義的立場とともに、自 由主義との妥協を受け入れることが出来る思想的体質を挙げることが出来るように思われるのである。 さてペンツラーのまとめたところによると、ポザドフスキはプロイセンの下院議員生活の三年間に全部で一一 回の演説を行っているが、その最初の発言が、﹁浮浪者生活との闘い﹂(Die あったことは、その後の彼の社合政策の展開にどって大変象徴的である。この発言は、邦予算の第二読会におけ る内務省予算の審議のさいになされたものであったが、そこで彼は、地方治安警察の大幅増員要求の背後に農村 と地方都布における浮浪者の急激な増加現象があることを指摘した。つまり当時すでにポザドフスキの関心が国 −13− 内 治 安 の 問 題 に 向 け ら れ て い た ど ど も に 、 他 方 で は 慢 性 的 農 業 不 況 と 。 ン カ ー 経 営 の 資 本 主 義 化 に ︵よ 4り ︶農村と。 ンカー領地から排出された大量の浮浪者に対する社会政策的対応に向けられていたことを示している。﹁それ故、 私たちは浮浪者生活の問題に重大な注意を払わなければならない、と思います。﹂﹁⋮⋮諸君、私ど私の政治的友 人は、この問題な解決するこどがいかに難しいかは十分に自覚しています。しかし私たちは、この問題は大変重 大であるので、浮浪者の厄災ど闘うのに現行の立法的及び行政的規定で十分かどうか、詳細に吟味する必要があ る と 考 え ま す 。 ﹂ ポ ザ ド フ ス キ は そ の 発 言 の 末 尾 を こ の よ う に 締 め く く っ た の で あ っ た ︵。 5︶ −14− −15 −・ 五 キリスト教者どしてのポザドフスキ ポザドフスキとキリスト教との結び付きはその両親からのものであり、彼は小学校からギュムナージュムヘと エヴァングーリッシュ系の学校へ通った。後に彼は、ヴォングロヴィツの郡長時代の一八七八年六月に郡レヴェ ルの教会会議︵卵呂dQ︶に参加し、その役員に選出された。さらに一八八一年には、彼は第三回ポーゼン州教会 会議︵Provinzialsynode)に出席し、ここで教区監督官︵Superintendent︶の報酬引き上げと布民生活のなかに日曜 日を神聖な日とみなす考え方を浸透させる必要があることな主張した。その後一八八四年に開かれた第四回ポー ゼン州教会会議において、ポザドフスキはその役員に選ばれ、さらにプロイセン邦全体のエヴァングーリッシュ 系教会会議︵GaaE召odQ︶のメンバーに就任した。一八八五年一〇月一七∼二九日に行われた第二回プロイセ ン邦教会会議では、ポザドフスキは、﹁アルコール中毒との闘争﹂﹁教会税の税額の決め方﹂﹁教区・教会会議 規則の変更﹂﹁教区監督官の報酬﹂﹁牧師選挙法﹂﹁教会職員の服務規律違反﹂について発言している。また、 一八九一年一一月一〇日∼一二月三日の第三回プロイセン邦教会会議でも、﹁東プロイセンと西プロイセンの邦 教会合議連盟﹂﹁精神病患者に対する教会の援助﹂﹁国民学校制度の規則﹂等のテーマについて論じている。 以上のポザドフスキの活動から、彼が熱心なキリスト教信者であり、当時すでに社会的問題に対する深い同情 −16− と関心を持っていたことをうかがい知るごとが出来る。こうしたキリスト教教会との結び付きは、決してポザド フスキに固有なものではなく、一般に当時のユンカーにとって︵自ら僧職につくことはないが︶教会の行政・管理 の業務に俗人役員として参加することが名誉であると考えられていたようである。ごの意味でポザドフスキもま たユンカー的社合慣習を受け継ぐものであったが、しかしとりわけポザドフスキについて特徴的なことは、教会 の行政的課題に対する強烈な関心とその卓抜な行政能力にあった。ここでも有能な官僚としての側面が目立つ が、その背後で教会の反社会主義的イデオロギーが彼の思想形成に影響を与えていたことも看過されてはならな いだろう。ポザドフスキ自身、一八九〇年八月の第六回ポーゼン州教会会議において、﹁キリスト教の道徳哲学 に 基 づ い て 伝 道 ︵ I n n e r e M i s s i o n ︶ の 仕 事 の 促 進 と 社 会 民 主 党 に 対 す る 闘 争 を 支 持 し︵ た6 ﹂︶ ど述べている。後年の崇 国内務省長官時代のポザドフスキの思想と行動にとって、キリスト教関係の政治勢力との友好的関係とそれと裏 腹の関係にたつ反社会民主党的態度が大変重要な意味を持ってくるのである。 −17− 六 保守派官僚としてのポザドフスキと社会問題−︱︲結びに代えてII 保守派官僚としてのポザドフスキの関心は、その出身から、そして彼自身も一時的ではあったが、農場経営を auslandischK eonkurrenz und ihre Folgen furdFL自dwirtschait︶の中で、ポザドフスキは、 試みたという経験からもっぱら農業問題に向けられた。一八八二年に書かれた小論文﹃農業に関する外国の競争 とその結果﹄︵Die 国民経済的に思わしくない現象である農業危機の原因を国内の農業生産物の著しい価格低下に見い出し、東ドイ ツの大土地所有の観点からその解決を訴えたと言われる。農業問題は、ポザドフスキにとって、その後の帝国内 務省長官時代な通して終生変わらぬ課題となったのであった。 しかし他方で、一八八〇年代のポザドフスキは行政活動を通じて次第に社会問題に対し関心を持つようになっ てきた。一八八一年には有名なヴィルヘルム一世の社会政策勅語が発表され、一八八三年にビスマルクの疾病保険 法が施行されたが、その行政的対応のためポザドフスキも社会保険に関心を向けざるを得なくなっていたのであ −18− im る・同じ年にポザドフスキは、5労働者の老齢扶助について﹂︵。Uber gehalten Landrat。 M. d. A.。 Kreise Kosten。 die Altersversorgung rosadowsky- der Arbeiter"。 Vortrag。 Fraustad'口口d}{& 櫺ロベooDM゚Grat Fiirsorge︶の方が重要であるという主張がなされて 1883︶と題する講演を行い、後の社会政策的政治家の片鱗をうかがわせた。 Hauptvereinder Ralwitsch。 landwirtschaftlichen Wehner。 ヴィーゼによると、この講演から次のような点が確認される。第一は労働者な﹁施し物を受けること︵Almosen- empfang)の退廃化作用からまもる﹂という全保険制度の基本思想が現れている。第二は、ポーゼンの大土地所 有者の意見に反対して、慈善活動よりも国家扶助︵Staatliche いる。第三に雇主の財政的負担を出来るだけ軽減するために、賃金が労働者とその家族の生活な維持するのに無 条件に必要である水準を越えるなら、また当該産業で労働者不足が生じていないならぱ、雇主は出来るだけ保険 料な労働者の賃金から支払うようにする。最後に第四は、11これがポザドフスキにとってはもっとも重要な点 であったが’−労働者の貯蓄が国家によって強制的に行われるところにごの改革の意義がある。保守派官僚とし てのポザドフスキにとっては、この新しい社会立法は、労働者に対する国家の重要な教育手段であると同時に、 雇主と労働者とのバランスのとれた行政という観点からの社会問題への対応であった。そして実際上でも、ポザ ドフスキは、一八八五年一〇月二目と一八八六年六月二一日の発令により、ポーゼン州内の中小経営の労災保険 協同組合の六つの調停裁判所の所長に、一八八八年一月以降は同じく建設業労災保険の調停裁判所の所長に就任 し、一八八九年にこれらを辞任するまでの間、保険行政の実務に関わり、農業問題のほかに一般的な労働者問題 にも接触する機会を持ったのであった。 当時のポザドフスキは、保守派官僚としての枠のなかで行政的課題の観点から社会・労働問題に対処しようと −19− いう気持ちが強く、未だ後の内務省時代のポザドフスキのように産業の状態への洞察からこの問題に深く目をむ けた訳ではなかった。ヴィーゼは、当時のポザドフスキを、強い正義感、義務感、勤勉、ザッハリヒカイトを備 えた古いプロイセンの官僚層の最上のタイプを代表していたが、しかし後の社会政策的政治家はこの時期にはま だ想像出来ないと評している。﹁全体として当時のポザドフスキは、たしかにすぐれた官僚であり、行政官では あ っ た が 、 国 政 担 当 者 と し て す ぐ れ た 政 治 家 に は 見 え な か っ︵ た4 。︶ ﹂と。しかし私は、後年の社会政策的政治家ポ ザドフスキヘいたる萌芽をすでにこのポーゼン州の郡長時代の社会的活動に見い出すことが出来るように思う。 確かにそれは萌芽に留まってはいたが、以上の論述から明らかなように、この時期のポザドフスキをヴィーゼの ごとく後年のポザドフスキから切り離して捉えることは不当であろう。 −20−