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吉行淳之介﹃砂の上の植物群﹄
吉行淳之介﹃砂の上の植物群﹄ ︱︱ 一 ︵1︶ 吉 ︱ 行淳之介の﹁戦後﹂ 小 嶋 洋 輔 ﹃砂の上の植 物 群﹄ ︵﹁文學界﹂一九六三・一∼一二︶は、吉行淳之介の代表作である。それは、連載終了の翌 年 の 刊 行 直 後 か ら ﹁ 悪 書 ﹂ と し て 話 題 に な っ た こ とや 、 同 年 、 中 平 康 監 督 で 映 画 化 ︵ 日 活 ︶ さ れ て い る こ と か ら ︵2︶ も容易に理解できる。そしてこの﹃砂の上の植物群﹄が、﹁性﹂の作家吉行淳之介という作家に対するイメージ を、ある種決定してしまったともいえるかもしれない。 安田義明﹁﹃砂の上の植物群﹄論︱︿矩形﹀の様式化に就いて﹂は、﹁今日まで﹃砂の上の植物群﹄に与えられ た批評の数は多く、管見によれば発表当時から順に話題作・問題作・名作と、その喧伝ぶりも推移している。そ の一見多彩に見える批評のほとんどが、︿性﹀を通じて作品にせまろうという傾向を共通して持っている﹂と、 発表から一二年後の作品をめぐる状況をまとめている。そして安田は、﹃砂の上の植物群﹄という作品が有する、 ﹁作中に性が氾濫し、作品のディテールから性を切り離すことは容易ではない﹂という特徴は認めながらも、そ のうえで、性的なものに対する﹁発表当時の社会通念が、著しく変容した現在、逆に作品に対する︿性﹀的な視 (4 5) 千葉大学人文研究 第三十九号 座を一度放逐してみる必要があるのではないか﹂と述べる。﹃砂の上の植物群﹄には﹁性﹂のイメージが纏わり つき、読みに制約を与えているというのだ。また安田は、﹁作家論から独立した作品批評がない﹂ことも同時に 指摘している。つまり﹃砂の上の植物群﹄は、﹁性﹂の作家吉行が描いた作品としてのみ読まれてきた、または ︵3︶ それ以外の観点では、読むことが困難な作品としてあったといえるだろう。 社会思想・政治 思 想 の 取 り 込 み 私小説リアリズム と 柘 植 は 定 義 す る︶の ど れ に も 当 柘植光彦は﹁吉行淳之介の方法﹂において、吉行の﹁方法﹂が、近代の小説にあった﹁三種類の筋の構え方﹂ ︵ 西欧文学の模倣 " ! " も確定しないまま、﹁性﹂的な作品と断じることで安心してきた、というのが実状だったのではないだろうか。 しないために、その﹁私小説﹂風の特徴を見いだせば﹁作家論﹂的に論じ、また、描かれた﹁性﹂が何を指すか それは、先の安田の指摘からも理解できるだろう。吉行の作品を論じる側は、その﹁評価の基準﹂がはっきり の段階では確立していないというのである。 て不安定な状態にある﹂とも指摘している。つまり、吉行の作品を論じる術が、この論の発表された一九八四年 いる。同時に、こうしたこれまでの枠に当てはまらない作家の作品に対する﹁評価の基準﹂が﹁いまだにきわめ るという。そして特に柘植は、吉行を﹁一貫して自分の筋を守っているという点で徹底している﹂と位置づけて 自己の心象にこだわって、それだけを、現実を非現実として構成し直すときの武器﹂とするものと特徴づけられ 尾敏雄、安岡章太郎、庄野潤三をあげる︱引用者補足︶として登場してきた﹂もので、﹁あくまでも自己の内面、 てはまらないと論じる。その﹁方法﹂とは、一九五〇年代に﹁一連の作家群︵柘植は吉行とともに小島信夫、島 " ! こうした吉行作品の特徴から、論じる側がこののち選んだ方法は、安田、柘植の論も大きくまとめればそうな (4 6) ! のであるが、作品の表現レベルの問題、作品構成レベルの問題を論じるというスタンスであった。﹃砂の上の植 物群﹄という作品はその代表的な作品ともいえる。たとえば、﹁周知のように﹁砂の上の植物群﹂という題名は、 八章で登場する﹁作者﹂の説明によると、クレーの絵の題名に由来している。この八章において﹁作者﹂はクレー ︵4︶ の﹁大小不揃いの四角形だけででき上がっている絵﹂に注目し、それが﹁構想していた作品に似通っていた﹂と 感知するのだが、絵の構成が小説のそれに似通うとはどのようなことを意味するのか﹂という山田有 策の問題提 起が、それを端的にあらわしているといえる。確かに、﹁作者﹂ 、﹁私﹂が登場し、そのうちの四章は、パウル・ クレーについて語るというのが、﹃砂の上の植物群﹄の大きな特徴である。 吉行のように扱っていて、﹁作者﹂のことばを、自作解説をおこなう作家のもののように用 = だが、先行論では、作中にあらわれるこの﹁作者﹂に対する姿勢がきわめて曖昧なものとなっている。そのほ とんどが﹁作者﹂ いているように見える。こうした先行論のスタンスは、﹃砂の上の植物群﹄に至る吉行の歩みをまったく無視し たものといえよう。この時点で吉行は、大量の読者を相手にする週刊誌連載の﹃すれすれ﹄ ︵﹁週刊現代﹂一九五 一九六 九・四∼一〇︶や、新聞小説﹃街の底で﹄ ︵ ﹁東京新聞﹂夕刊一九六〇・五∼翌年一︶などを書く、人気作家であっ た 。 そ し て 何 よ り も 、 自 ら の 女 優 宮 城 ま り 子 と の ス キ ャ ン ダ ル を 小 説 化 し た﹃闇 の 中 の 祝 祭﹄ ︵講 談 社 一・一二︶が、﹃砂の上の植物群﹄の前作の長編作品であることを忘れている。吉行は、﹁人気作家﹂であるとこ ︵5︶ ろの自分と思われる﹁作者﹂が、作中で語り出すことで、読者にどのような影響を与えるかを、これまでの作家 としての歩みから、十分に認識していたと考えるべきなのであ る。 また、作中、﹁作者﹂や主人公伊木一郎が手にしているクレーの画集であるが、それを実際に見、比較した論 吉行淳之介﹃砂の上の植物群﹄︱︱ ︱吉行淳之介の﹁戦後﹂ (4 7) 千葉大学人文研究 第三十九号 ︵6︶ も皆無といってよい。作中の表現などから、ここで扱われているクレーの画集とは、一九五九年一二月、みすず クレー﹄と推察される。そこで各絵画に付されている片山の解説を 書房発行のハーバード・リード、ヴィル・グローマン、マルセル・ブリヨンのクレー論を片山敏彦が訳し、片山 自身もクレー論を書いている﹃現代美術7 変更することなく﹃砂の上の植物群﹄は引用している。クレーの﹁線について﹂も片山訳をそのまま用いている。 だが、実際の画集の絵の配置と﹃砂の上の植物群﹄ではズレが生じている。四十四章で、﹁作者﹂は、片山の解 説の文章を引用した﹁雪の前﹂に続いて、﹁画集の次のページ﹂の絵を紹介している。﹁画集の次のページを開く と、大きな朱色の太陽が沈みかかっている絵があった。昇る太陽か落日かということに関しては、疑う余地がな い。なぜならば、朱色の太陽から黒い矢印が地面に向って出ているからだ。その矢印は、一角獣の角のように、 MIT SINKENDER SONNE︶は、﹃現代美術7﹄では二四頁前 に 収 録 さ れ て い る。実 際 黒く大きく生えている﹂ 。この絵と思われる﹁沈む太陽とともに﹂ ︵他の画集では﹁落日の風景﹂LANDSCH AFT ︵7︶ の﹁次のページ﹂は﹁本通りとわき道﹂という絵である。つまり、原本と﹁作者﹂の用いる画集に微妙なズレが 生じているのである。 このズレからもまた、﹁作者﹂の発言を事実として受け取り、それを鵜呑みにして、作品のなかに閉じてその 構成を論じるだけでは不足の感は否めないだろう。﹃砂の上の植物群﹄は、読者との接点ともいえる実在の﹁画 集﹂や、虚構の作者とも、吉行にも見える﹁作者﹂が登場する、﹁自ら開いている﹂作品という特徴を一見持ち ながらも、それでもなお虚構性を維持する、現実と虚構の﹁あわい﹂を維持する作品なのである。そしてその﹁あ わい﹂に立ち、現実と虚構を峻別するのが吉行といえる。つまり、作家吉行の感じたものを読者が追体験するこ (4 8) とでしか、﹃砂の上の植物群﹄は読むことができないといえよう。またこれを、先の柘植の言葉を借りれば﹁自 分の筋﹂を守る作家の姿勢ということになろうか。こうした意味合いでも、あらためてこの作品は読むことが困 難な作品であることが理解できる。それを証明するかのように、吉行の代表作であるはずのこの作品に関する研 究 は 少 な く 、 管 見 に 入 る か ぎ り で 、一 九 九 九 年 に 宮 内 豊 ﹁ 吉 行 淳 之 介 ﹃ 砂 の 上 の 植 物 群 ﹄ ﹂ ︵﹁三田文學﹂一九九 九・一一︶が、﹁ ︿特集﹀偉大なる失敗作﹂のひとつとして発表されたのを最後に、そこから現在まで論じられな い作品としてある。 そこで本論では、吉行淳之介という作家を問題にすべきと考えている。それは﹁作家論﹂的なスタンスに戻る ということではなく、今こそ、吉行淳之介という作家を﹁研究対象﹂ として捉え直し、吉行の存在をひとつのコー ドとして、﹃砂の上の植物群﹄という作品を読み直す作業を行うということである。﹃砂の上の植物群﹄は、吉行 淳之介もコードとして、構成に組み込んだ小説に思える。たとえば、﹁作者﹂が自作として、吉行の既成作品を ︵8︶ ﹃砂の上の植物群﹄に描くことは、この作品を読む際に他作品との連関をとらえるよう作品の側から要請されて いるようにも感じる。 二 ︵9︶ ﹃砂の上の植物群﹄は、﹁戦後﹂という時代を表象するようなコードが描き込まれた作品である。磯田光一は新 潮文庫版﹃砂の上の植物群﹄の﹁解説﹂で、﹁吉行氏はべつだん意識的に﹁戦後﹂という時代を描こうとしたわ 吉行淳之介﹃砂の上の植物群﹄︱︱ ︱吉行淳之介の﹁戦後﹂ (4 9) 千葉大学人文研究 第三十九号 けではあるまい。しかし、私的な領域の深化が、その深化のはてに時代的、普遍的なものに到達している点に、 氏のまぎれもない戦後作家として刻印が示されている﹂と作品を特徴づけているが、ある種、吉行は意識的に﹁戦 後﹂という時代を思わせるコードを作中に散りばめているようにも思える。 そのコードのひとつとしてあげられるのが、﹁横浜﹂である。作中一度も、作品の舞台が横浜であると明示さ れることはないが、例えば次のような引用を見るとそれはあきらかである。 眼の前に、塔が立っていた。塔の胴の中を、黄色く灯をともした昇降機が、上下しているのが見えた。最近 建てられた観光塔なのである。/﹁そういえば、噂は聞いていた。しかし、見るのは初めてだ﹂/高い塔で (5 0) ある。遠望できる高さなのだが⋮⋮。︵六︶ この塔が、横浜開港百年祭の際に計画され、一九六一年に横浜港を象徴する記念碑として山下公園の北隣に建 設された、横浜マリンタワーであることはすぐに理解できる。このタワーは人気を呼び、建設当初は午前五時ご ろから入場の順番を待つ行列ができたという。戦後の高度成長のひとつの象徴ともいえる横浜マリンタワーを、 ﹃砂の上の植物群﹄はその冒頭で描き、主人公伊木に立ち寄らせているのである。 ︵ ︶ のちに吉行はエッセイのなかで、﹁ ﹁砂の上の植物群﹂は、作中に明記してはいないが、舞台を横浜にとったの ここで今一度﹃砂の上の植物群﹄の冒頭に眼を戻すと、﹁港の傍に、水に沿って細長い形に広がっている公園﹂ があったのだろうか。 植物群﹄は﹁横浜﹂を舞台とし、吉行自身も連載の初回と最終回を﹁ホテル・ニューグランド﹂で執筆する必要 で、第一回と最終第十二回だけ、﹁ホテル・ニューグランド﹂で書いた﹂と述べている。では、なぜ﹃砂の上の 1 0 と描かれる山下公園と、そこから見える海、山下埠頭、横浜港の風景が詳細に描写されていることがわかる。 彼の前にある海は、拡げた両手で抱え取れるくらいの大きさである。右手には、埠頭が大きく水に喰い込ん で、海の拡がりを劃っている。埠頭の上には、四階建の倉庫があった。彼のトランクのような固い矩形の建 物である。白いコンクリートの側面には、錆朱色に塗られた沢山の鉄の扉が、一定の間隔を置いて並んでい る。/左手には、長い桟橋がみえる。横腹をみせた貨物船が、二本の指でつまみ取れるほど小さく眼に入っ てくる。貨物船は幾隻も並んで碇泊しているので、白い靄の中に重なり合った帆柱やクレーンが、工場地帯 の煙突のようにみえる。︵一︶ (5 1) 主人公伊木の職業は、高度経済成長を象徴するかのような化粧品のセールスマンであり、その化粧品はネオン 広告されているという。そして、その化粧品が入っているトランクと同じ﹁矩形﹂をしている倉庫が並ぶ、この ︵ ︶ ﹁埠頭﹂の風景は時代の縮図として描かれているようである。また、さまざまな商品を運ぶ﹁貨物船﹂が﹁靄﹂ で、﹁工場地帯﹂に見えるというのも象徴的である。 吉行淳之介﹃砂の上の植物群﹄︱︱ ︱吉行淳之介の﹁戦後﹂ るニューヨーク定期航路も一九五一年には始まっている。だが、一九四八年の横浜市復興計画の区画整理事業で 日本占領の象徴でもあった横浜の復興は簡単には進まなかった。一九五〇年から海運は再開され、氷川丸によ 間宣言﹂を受けて始まった巡幸の開始が神奈川から開始されたことも象徴的である。 らもそれはあきらかである。山下公園の地域は将校宿舎であったという。また、一九四六年二月の昭和天皇﹁人 米軍第八司令部は、戦争が終るとすぐに横浜税関ビルに本拠を置き、横浜を日本占領の軍事的拠点としたことか こ こ で 横 浜 が 、 日 本 の 、 い わ ゆ る ﹁ 戦 後 ﹂ と い う 時 代 の 流 れ を 映 す 都 市 で あ っ た こ と を 想 起 す る 必 要 が ある 。 1 1 千葉大学人文研究 第三十九号 接 収 地 域 が 含 ま れ な い こ と を 見 る と、横 浜 市 中 に 米 軍 接 収 地 が 点 在 し、復 興 へ の 障 害 と な っ て い た こ と が わ か る。そしてここで興味深いのが、吉行が連載の第一回と最終回を書いたという、﹁ホテル・ニューグランド﹂が、 サンフランシスコ講和条約を受け一九五二年四月に接収が解除された横浜公園の一部に次いで、一九五二年六月 に接収解除された場所という事実である。﹁ホテル・ニューグランド﹂は、日本の主権回復の象徴的建造物であっ たということもできるだろう。 また同様に、接収解除のシンボル、もしくは日本が敗戦から立ち直ってゆく象徴ともいえるのが、山下公園で あ る。横 浜 の 接 収 解 除 は 一 九 五 八 年 の 開 港 百 年 祭 を 経 て 加 速 し、一 九 六 〇 年 六 月 に 山 下 公 園 の 全 面 接 収 解 除 が 成 っ た。そ し て こ の 年 の 一 〇 月 に 最 後 の 航 海 を 終 え た 氷 川 丸 が、翌 一 九 六 一 年 五 月 に 公 園 前 の 横 浜 港 に 係 留 さ れ、これを見下ろすように、同年、マリンタワーが完成している。﹃砂の上の植物群﹄が、このような日本の戦 後復興の象徴ともいえる横浜を舞台としていることは看過できない。 そして、横浜は、高度経済成長の象徴的な都市でもある。著しい工業の発展により、新たな工業用地の造成の ため、埋立てが進められ、一九五五年には鶴見区大黒町地先の広大な土地が、さらに一九五九年からは横浜市中 区間門町から磯子区杉田町にかけての一帯が、一九六三年からは本牧岬が埋め立てられ、多摩川から根岸湾にか けての海岸線は工業地帯へと変容していった。山下公園前も、高度成長によって改訂された、﹁横浜港改訂港湾 計画﹂ ︵ 一 九 六 一 ・ 三 ︶ に よ り 拡 充 さ れ て い る 。 工 業 生 産 額 も、一 九 五 五 年 を 規 準 と し、物 価 上 昇 を 考 慮 し て 実 質で見ると、一九五九年に二倍、一九六五年には五倍と急成長し、また主要港外国貿易貨物の推移からは、この 時期日本一で、一九五二年の七倍となっていることがわかる。それに比例して人口も、一九六五年で一五〇万人 (5 2) に増加した。 だが、ここで注意が必要なのは、横浜の飛躍的な成長は、高度成長の前半期に当たる一九五五年から一九六五 年の、昭和三〇年代が中心であり、昭和四〇年代はそれほどの成長は遂げていないということである。これは、 ﹃砂の上の植物群﹄連載が一九六三年の一年間であることを鑑みると、興味深い点といええよう。つまり、﹃砂 の上の植物群﹄の﹁横浜﹂は、敗戦を乗り越え、急速に戦後復興を果たした日本の、まさしく縮図として、描か れていると考えられるのである。 三 こうしたきわめて﹁戦後﹂的な都市﹁横浜﹂の風景に、﹁細胞内部の環境が、そこに拡がる風景が、みるみる 変 化 し て ゆ く の を、彼 は 痛 切 に 感 じ 取 っ た。そ の 瞬 間、彼 の 眼 に 映 っ て く る 外 界 の 風 景 に も 異 変 が 起 り は じ め た﹂と、主人公伊木は違和を感じるようになる。﹁ガラス窓の外を通り過ぎてゆく通行人の中に、時折、動物の 姿が混りはじめ﹂る、つまり風景に映る人々が、奇妙な﹁動物﹂の姿に変って見えるというのである。これは自 らが日常を暮らす﹁戦後﹂的な風景への違和感の表明といえよう。﹃砂の上の植物群﹄は、﹁戦後﹂の日本の変動 を象徴するかのような都市﹁横浜﹂を舞台としながら、主人公にその状況に違和感を抱く伊木を配した小説なの である。 こうした﹁戦後﹂社会への強い違和感は他の吉行の作品でも見られる。例えば﹃鳥獣虫魚﹄ ︵ ﹁群像﹂一九五九・ 吉行淳之介﹃砂の上の植物群﹄︱︱ ︱吉行淳之介の﹁戦後﹂ (5 3) 千葉大学人文研究 第三十九号 三︶では、﹁その頃、街の風物は、私にとってすべて石膏色であった。地面にへばりついて動きまわっている自 動車の類は、石膏色の堅い殻に甲われた虫だった﹂という表現で、﹁戦後﹂社会が描かれ、その場に自己が存在 する違和感が描かれている。こうした吉行作品のイメージが﹃砂の上の植物群﹄には流入しているのである。 に包まれた都市が、やがて では、このような違和感の生じた原因を、﹃砂の上の植物群﹄はどのように描いているのだろうか。それはあ る比喩的なイメージで描かれている。 空いちめん金属で覆われるほどの沢山の飛行機からの空襲によって、噴き上る のうしろから廃墟の姿をあらわすような、そういう予感にさえ捉えられはじめた。︵四十︶ 友人花田の欲求との類似を考えつつも、この姉妹の顔や の相違を意識するという場面で、唐突に挟み込まれる これは、伊木が関係を持った姉妹、津島京子と明子を同じ部屋に連れ込み、﹁双生児の姉妹と寝たい﹂という 薄らいだ 2 てくることを許さず、彼は額に脂汗を滲ませて、京子の に挑みかかっていたのだ。/長い時間、彼は窓際 一面の夕焼で、小さく赤い海だ。/この旅館の部屋は、京子と二人のための密室だった。景色さえ、這入っ 窓 か ら み え る 風 景 の 奥 に 、 左 右 を 前 景 の ビ ル デ ィ ン グ で 劃 ら れ た 海 が 、 漏 斗 型 に 小 さ く 貼 り 付 い て い る 。/ える﹁漏斗型の海﹂が作中に描かれる。 さらにもう一点、この三人の関係が、明子の退室によって崩れ、﹁終った﹂と伊木が感じる場面で、窓から見 ものである。プロットに関係なく、こうした﹁空襲﹂のイメージが、﹃砂の上の植物群﹄には挿入されている。 G に立って、漏斗型の海を眺めていた。夕焼が空と地平で に変って風景の底に沈んだ。︵四十三︶ を上げて燃え、海は濃赤色になり、やがて薄鼠色 G 2 (5 4) 2 この海を伊木は、﹁今まで気が付かなかった﹂が、﹁京子と二人のための密室﹂が﹁終った﹂今、気付いた景色 を上げて燃え、海は濃赤色になり、やがて薄鼠色に変﹂るという風景は、先の﹁空襲﹂のイメー であると感じている。そこで﹁長い時間﹂ 、﹁窓際に立って﹂ 、その海を﹁眺め﹂る伊木の眼に映る海の風景、﹁夕 焼が空と地平で ジを想起させるものである。 吉行が、東京の西部に甚大な被害を及ぼした一九四五年五月二五日の空襲によって、東京市麹町区五番町の自 宅を焼失するという経験を持つことは周知の事実であり、多くの作品やエッセイで繰返し描いている。﹃焔の中﹄ の﹁錯覚から醒めてみると、それは二百機にも余るであろう敵軍の飛行機の大編隊であった。攻撃目標は東京の はずれの工業地帯らしく、はるか遠くの空なので、爆音は極くにぶい音となって伝わってきていた。小さな金属 ︵ ︶ 片にみえる飛行機の一つ一つが、日の光にキラキラ燦めいて、その燦めきが一斉に右から左に波立ちながら移動 つまり﹁横浜﹂は、高度経済成長によって急速にその変化を遂げた﹁戦後﹂を象徴する都市でありながら、吉 九八名、行方不明者三〇九名にのぼった。 をもって曖昧であるが、市域の四六%を焼失、七万五〇一七戸に被害があり、死者は三六五〇名、負傷者一万一 拡大していった。そして五月二九日に横浜大空襲が起こるのである。この横浜大空襲によって、正確な数字は今 襲でも被害を受け、四月一五日には大規模な空襲が行われている。さらに五月に入ると、一層空襲による被害は た都市なのである。横浜への空襲は、一九四五年一月から頻繁に行われている。三月一〇日のいわゆる東京大空 そして﹃砂の上の植物群﹄の舞台である﹁横浜﹂もまた、一九四五年の五月に空襲があり、大きな被害を受け していた﹂という描写は、その代表的なものといえよ う。 1 2 吉行淳之介﹃砂の上の植物群﹄︱︱ ︱吉行淳之介の﹁戦後﹂ (5 5) 2 千葉大学人文研究 第三十九号 行の実体験とも重なる一九四五年五月末の﹁空襲﹂の被害を受けた象徴的な都市としてもあるのである。﹁横浜﹂ は、﹁空襲﹂により戦時生活というシステムを破壊され一度﹁終った﹂都市であり、そののちに急速に再生した 都市といいかえることもできよう。ここで注目すべきは、﹃砂の上の植物群﹄で﹁空襲﹂のイメージと連なって 描かれる﹁終った﹂という感覚である。 こうした﹁空襲﹂ 、 も し く は 戦 争 に つ い て 、 伊 木 自 身 が 思 い 出 す 場 面 が﹃砂 の 上 の 植 物 群﹄に は あ る。古 本 屋 の一角でクレーの画集を手にした伊木が、学生時代、﹁ロートレックの画集﹂を入手した記憶を甦らせる場面で ある。 戦 争 の 末 期 で、し ば し ば ア メ リ カ の 飛 行 機 の 空 襲 が あ っ た。虚 脱 感 と 異 様 な 充 実 と が 同 時 に 彼 の 心 に 在 っ た。そ の と き、彼 は 古 本 屋 の 棚 の 前 に 立 っ て、両 手 で 大 き な 画 集 を 開 い て い た 。 そ の ロ ー ト レ ッ ク の 画 集 は、両手で支え切れぬほど重たく、彼の二ヵ月分の生活費に当る値段が付いていた。学生である彼には、間 もなく入営の通知が来る筈だった。彼はその画集を買った。虚脱感と異様な充実とが、彼にその途方もない 買物をさせたと言ってよい。︵六十四︶ 伊木が、﹁空襲﹂のあった﹁二十年前﹂には違和感ではなく、﹁虚脱感と異様な充実﹂を感じていたということ は興味深い。その感慨によって入手した﹁ロートレックの画集﹂は、﹁父親の遺した他の画集とともに、間もな く空襲によって焼失してしまった﹂という。つまり、伊木のなかでは﹁虚脱感と異様な充実﹂に満たされた時間 が、﹁空襲﹂によって﹁終った﹂といえる。そのため伊木にとって﹁戦後﹂という時代の縮図である﹁横浜﹂の 風景は違和を感じるものとなる。伊木にとっての﹁戦後﹂はまだ始まっていないといいかえてもよい。 (5 6) 四 そして、伊木にとって﹁空襲﹂以前のいわば﹁戦前﹂を表象するものとして、﹃砂の上の植物群﹄に配されて いるのは﹁父﹂である。先に見た﹁六十五﹂の引用、﹁虚脱感と異様な充実﹂の象徴であった﹁ロートレックの 画集﹂が、その喪失を﹁父﹂の死とあわせるかのように、﹁父親の遺した他の画集とともに﹂ 、﹁空襲によって焼 失﹂したと描かれていたことが想起されよう。また同様の例として﹁間もなく父親が急死し、戦争が起り、伊木 一郎の住んでいた町は廃墟になった﹂という表現をあげることができる。そして、この引用が﹁四十五﹂にある の変化、﹁中年になった﹂ということに由縁していると描かれている。これはつまり、﹁父﹂ 同時に伊木にはそれを納得できない﹁曖昧な心持﹂が残り、この時期から﹁憤怒に似た感情﹂ 、﹁全身の細胞がいっ せいに暴動を起す直前のような予感﹂を抱くようになる。これは、﹁子﹂としての自分が存在しなくなった現状 吉行淳之介﹃砂の上の植物群﹄︱︱ ︱吉行淳之介の﹁戦後﹂ (5 7) ことは興味深い。なぜなら、先に見たように伊木と京子、明子姉妹との三人の関係が終るのが﹁四十三﹂ であり、 ﹁作者﹂によるクレー絵の説明である﹁四十四﹂に次いで、伊木をめぐる新たな物語が始まるのがこの﹁四十五﹂ からだからである。 の中に以前と ﹃砂の上の植物群﹄は、﹁ある日、執拗に彼を訪れてくるものと、突然、縁が切れた﹂や、﹁死んだ父親からも 解放されたつもり﹂というように、﹁父﹂から卒業を遂げた伊木の姿を描き出すことで始まる。﹁ らの卒業は伊木の はあきらかに異なった細胞が詰っていることを、伊木一郎は、改めて確認した﹂という言葉もあるが、﹁父﹂か G に対する﹁子﹂としての伊木が、﹁中年になった﹂ことにより、存在しなくなったと読むことができよう。だが、 G 千葉大学人文研究 第三十九号 への不満のように見える。 この状況下で伊木が出会ったのが明子であり、その明子から﹁ひどい目に遭わせてほしい﹂と依頼されて会う ことになる、明子の姉京子なのである。この姉妹との関係は一見、﹁双子の姉妹と寝たい﹂や、﹁作者﹂が書いた ﹁二人の娼婦の い る 密 室﹂ ︵﹁暗い宿屋﹂前注︵8︶ 参照︶といった、﹁性の荒廃とか性的頽廃﹂から生じる﹁一種 の充実感﹂というイメージを多分に孕んだものといえる。だが、同時に明子にとって伊木が、﹁十八歳の娘から みれば、四十に近い男は、父親であっても不思議のない存在﹂であり、﹁男を感じないというよりも、自分が恋 ﹁父﹂ 、明子 = ﹁ 子 ﹂ の 関 係 と し て 描 か れ て い る こ と は 興 味 深 い。明 子 が 唇 に 口 紅 を 塗 る こ と に 嫌 = (5 8) 愛したり結婚を考えたりする対象の男たちとは、異なった範囲にいる男と言った方がいい﹂存在としてある、つ まり、伊木 悪 感 を 見 せ る 伊 木 の 心 性 は 、 こ の 関 係 性 が 成 立 す る こ と を 求 め て い る か の よ う で あ る。作 中 引 用 さ れ た 短 篇 ﹁樹々は緑か﹂に登場する伊木の教え子川村朝子と、明子への対応の差は、このように伊木が﹁中年﹂になり、 ﹁父﹂としての自分を認めるか否かの差といってもよい。 また、明子の依頼に応じ、京子に接触する際の伊木の立場は、﹁父﹂として、明子の﹁母﹂代わりである京子 は皮膚の内側から輝きはじめる。それを、ひど に会うものとしてよいだろう。姉京子もまた、ある種の﹁母﹂のような存在として描かれている。﹁京子に加え る荒々しい力は、そのまま彼女の中に吸い込まれ、やがてその ︵ ︶ い目に遭わす、ということができるだろうか﹂と描かれる京子のこの特徴を、すべてのものを拒まず受け入れる G だが、京子は﹁腹のふくらみ﹂を拒絶する、つまり堕胎する、﹁母﹂としての自分を受け入れない女でもある。 ﹁ 母 ﹂ 性 的 な も の と し て 読 む こ と は 深 読 み が 過 ぎ る で あ ろ うか 。 1 3 さらに京子のマゾヒスティックな傾向は、伊木に﹁疲労﹂を感じさせることになる。ここで二人の関係は、単な る動物的な雄としての男と雌としての女というものへと変化してゆくのである。 この三者関係の最終局面が、﹁空襲﹂のイメージが描かれる、ベッドに縛り付けた京子を明子に対面させる場 面である。この場面は、性的な関係から生じる﹁充実感﹂を得たいという心性と、﹁父﹂化したいという心性の 狭間で揺らぐ伊木が引き起こしたものといえる。明子の唇に無理に口紅を塗る伊木は、﹁双子の姉妹と寝たい﹂ という﹁充実感﹂を求めたものといえる。だが﹁三十八﹂で﹁作者﹂が口を挟むように、この場面にそういった のなかの兇暴なも (5 9) ﹁充実感﹂はない。あるのは、﹁制服の少女の唇の部分だけ、悪戯に口紅を塗り付けたようにみえた﹂というよ うに、﹁制服の少女﹂つまり﹁子﹂としての明子と、﹁父﹂としての伊木の姿である。﹁彼の 吉行淳之介﹃砂の上の植物群﹄︱︱ ︱吉行淳之介の﹁戦後﹂ そして、ここで伊木が眼にするのが、﹁横浜﹂の﹁漏斗型の海﹂なのである。その風景からイメージされる﹁空 も、閉ざされたといえる。 ﹁疲労の滲んだ四十男の声﹂になっている。伊木の性的な関係から生じる﹁充実感﹂への道も、﹁父﹂化への道 だが、伊木はこの可能性を拒否する。﹁行き着く先は、もう分っている﹂ 、﹁終った﹂と感じ、明子への言葉も る。明子と京子が﹁同じ顔﹂になり、性的な関係から生じる﹁充実感﹂に至る可能性が甦ってくるのである。 ﹁京子の恍惚としたときの顔﹂となった、つまり、﹁女﹂としての明子が立ちあらわれることで突如として崩れ だが、伊木の﹁父﹂化は、明子が﹁はじめて、真っ赤な唇と紺色の制服との対照が、彼の予期していたもの﹂ 、 も性的な﹁充実﹂を求めることから、伊木が遠ざかってゆく様子が読み取れる。 のは、しだいに薄らいで行きかかっていた﹂ 、﹁平素に声に近い声が、彼の咽喉から出て行った﹂という表現から G 千葉大学人文研究 第三十九号 襲﹂とそれ以前の世界、すなわち、﹁父﹂が存在し、伊木が﹁子﹂としてあった世界の回想が、﹁空襲﹂そして敗 戦の年、一九四五年を思わせる、﹁四十五﹂以降の﹃砂の上の植物群﹄では描かれることになる。 たとえば、﹁そのような少年時代の記憶の断片が、一斉に彼に押寄せてきた。彼の箸がしばらく宙で止った﹂ という引用を見てもそれはあきらかである。伊木の脳裏にその﹁少年時代の記憶﹂が、意識的にではなく﹁押し 寄せ﹂るかたちで、浮かび上がってくるのである。また、現在の花屋で﹁数十年以前の世の中に似合う色合﹂の 種袋を見て、﹁一瞬、幻覚かとおもった。彼の幼少年時代、草花の種がそういう袋に入れて売られていた﹂と感 じることは、伊木が生きる現在に﹁幼少年時代﹂が連接してきているかのようである。これは、﹁父﹂化の道が 閉ざされた﹁中年﹂の伊木が、﹁子﹂としてあった頃の自分を積極的に思い出し、﹁父﹂を取り戻そうとする作業に 思える。 こうした作業の一環として、伊木が、京子を父親の忘れ形見、異母妹ではないかと疑うエピソードがある。伊 木は近親姦の問題を意識し、﹁決意が当然必要だ﹂と感じるが、﹁その決意の形を見付け出すことができ﹂ずにい ると描かれる。そしてそこで伊木が想起するのが﹁父﹂なのである。伊木は京子が、亡父が死の直前に残した﹁後 日、兇器に変化する筈のもの﹂なのではないかと疑い、その﹁気配を身近に濃く感じ﹂るようになる。 そ の と き 突 然 、 彼 は 京 子 と 自 分 以 外 の 存 在 を、部 屋 の 中 に 感 じ 取 っ た。 / ﹁ 明 子 ⋮ ⋮ ﹂ / お も わ ず 呟 い て、 彼は首を擡げ、周囲を見まわした。もちろん、明子の姿が部屋の中に見えるわけがなかった。カーテンで厚 く覆われた窓と、鼠色の壁と、堅く閉ざされた焦茶色の扉とに取囲まれた空間の中にいるのは、京子と自分 だけである。/しかし、そのとき吸取紙の上でインクが拡がってゆくように、彼は徐々に理解しはじめた。 (6 0) 部屋の中にいるもう一人、それは死んだ父親の亡霊なのだ。︵六十二︶ この引用は、伊木が﹁京子という密室であり、また京子と二人だけで世間の眼を避けて閉じこもる密室﹂で、 ﹁永久に京子を両腕にかかえて密室の中で輾転としなくてはならぬ﹂と覚悟を決めた﹁そのとき﹂を描いたもの である。伊木は、この関係には、﹁二人だけ﹂ではなく、﹁もう一人﹂がいると理解している。そしてそれは、自 分が﹁父﹂となり、京子が﹁母﹂となる明子ではない。伊木と京子を﹁子﹂とする﹁死んだ父親の亡霊﹂なので ある。 そして、先に引用した自身の﹁空襲﹂体験を具体的に回想し、﹁虚脱感と異様な充実﹂を感じていたことを想 起する﹁六十五﹂が、この場面のあとに置かれていることは興味深い。さらに伊木は、部屋で一人、入手したク レーの画集を開き、﹁画集の上の夕焼と対い合った彼は、虚脱感と同時に、異様な充実を覚えていた﹂と感じて いる。死への覚悟を有した﹁空襲﹂と、近親姦というタブーを犯したことを認める決意との類似が、﹁異様な充 実﹂をもたらしているのと同時に、伊木がこの三者の関係、つまり﹁父﹂が復活し、自分が﹁子﹂としてある関 係に﹁異様な充実﹂を感じているかのようである。それは、京子が異母妹でないことが判明したのちの伊木を見 るとさらに明らかである。 し か し、こ の 三 日 の 間 は、彼 は 津 上 京 子 を 自 分 の 妹 と 信 じ 込 ん で い た。三 日 間 の ど の 時 刻 を 取 出 し て み て も、そ こ に は 彼 の 陰 惨 と も い え る 決 意 が あ っ た。そ の た め に、一 種 異 様 な 充 実 が も た ら さ れ て い た の で あ る。/同一人物ではなかった、と知ったとき、やはり彼は深い安堵を覚えた。と同時に、彼の充実に似た姿 勢が崩れ去ってゆくのを感じないわけにはいかなかった。︵六十七︶ 吉行淳之介﹃砂の上の植物群﹄︱︱ ︱吉行淳之介の﹁戦後﹂ (6 1) 千葉大学人文研究 第三十九号 京子との近親姦の問題は、死んだ父親を復活させることで、﹁子﹂のままでいたいという伊木の志向をかなえ るものであったのである。だがこの道も閉ざされる。﹁今度こそ﹂ 、﹁疑う余地もなく﹂ 、﹁終った﹂と伊木は思う のである。 ここで忘れてはならないのは、伊木には今まで見てきたような図式としてのみの家族関係だけではなく、実際 に妻を持ち、中学一年生の息子がいるという事実である。伊木は﹁父﹂として家庭を築いた人間なのである。﹁江 美子が十七歳の少女の頃、彼の亡父と肉体関係を結んだことがあったのではないか﹂と、伊木に疑われる江美子 は、息子の﹁母﹂としてどころか、妻という役割も、伊木から与えられていない。自分が﹁子﹂であった頃に見 た﹁父﹂と何らかの関係があった年上の女でしか、江美子はないのである。さらに﹃砂の上の植物群﹄の特徴と して、異様なまでの息子への描写の少なさをあげることができる。伊木の﹁父﹂としての方針は、﹁彼はなるべ 作品に描かれた伊木の実際の家族から見えてくるのは、伊木 ﹁父﹂ 、江 美 子 = ﹁父﹂ 、江美子 = ﹁母﹂ 、伊 木 = ﹁母﹂ 、息子 = ﹁子﹂と い う 関 = ﹁子﹂という家 = く、息子を濶達に育てようとおもっている﹂という言葉にあらわれているぐらいなのである。 族構成でありながら、ここでも亡父を介した、﹁死んだ父親﹂ 係を内包したものとなっているということである。つまり伊木の家族は、伊木を﹁父﹂にするものではなく、常 に彼を﹁子﹂に戻そうと作用するものといえよう。こうした意味で江美子は﹁父親が設えておいた落し穴﹂とい えるかもしれない。 つまり、伊木は﹁子﹂のまま﹁空襲﹂によって﹁終った﹂存在なのである。そして﹁戦後﹂の空間のなかで、 伊木は、﹁父﹂を取り戻し、自分が﹁子﹂に戻ることも、また自らが﹁父﹂になることも許されない、曖昧な存 (6 2) 在として生きている。﹃砂の上の植物群﹄は、﹁戦争﹂ 、そ し て﹁空 襲﹂ の 経 験 を 乗 り 越 え ら れ て い な い 存 在 と し て、﹁中年﹂になりつつも﹁父﹂と﹁子﹂の狭間で生きるのみの伊木を描いている作品といえるのではないだろ うか。 五 ﹃砂の上の植物群﹄は、コードのひとつとして、作 家 吉 行 淳 之 介 と そ の 父 吉 行 エ イ ス ケ の 関 係 を 描 き こ ん だ 作 ︵ ︶ ︵ ︶ (6 3) 品でもある。父エイスケに対する吉行の姿勢は、﹁厄介な存在﹂ではあるが、いわば﹁子﹂同士、作中伊木に託 されて描かれるように﹁似ている﹂存在としてあったという。これは、﹁子﹂のような﹁父﹂とその﹁子﹂の関 吉行淳之介﹃砂の上の植物群﹄︱︱ ︱吉行淳之介の﹁戦後﹂ そ し て こ れ は 、 紙 幅 の 関 係 上 詳 し く は 別 稿 に 譲 る が 、 江 藤 淳 が ﹃ 成 熟 と 喪失 ﹄ で 述 べ た 問 題 と 連 接 し て ゆ く よ 1 5 が孕む問題にも連結するものだったのである。 木の問題であるにとどまらない。それは吉行淳之介という作家個人の問題に連結するものであり、日本の﹁戦後﹂ 台とした意味もそこにあるのである。伊木にとっての﹁戦後﹂は始まっていない、と述べた。だが、これは、伊 浜﹂という、﹁空襲﹂により一度﹁終った﹂都市であり、高度経済成長による変容を象徴的にあらわす都市を舞 家個人の特殊な問題を、日本社会全般の問題に普遍化する作品として﹃砂の上の植物群﹄はあるともいえる。﹁横 そして、この吉行父子の関係は、乗り越えるべき﹁父﹂不在の戦後社会の状況を暗示しているようである。作 係であり、いわゆる父親殺しや父親を乗り越えるという心性とは離れたところにあるといえるだろう。 1 4 千葉大学人文研究 第三十九号 ︵ ︶ うに見える。江藤は吉行の一九六六年の作品﹃星と月は天の穴﹄を、﹁女を﹃道具﹄としか見ない﹂この作品は、 ﹁母性を否定﹂したうえで作られた﹁人工的な世界﹂であり、そこには、他の﹁第三の新人﹂の作品にはあった ﹁喪失﹂の自覚すら欠いている、﹁作家の批評意識の欠如﹂のあらわれでしかないと手厳しく断じている。だが、 本稿で考察してきたように、その三年前に発表された﹃砂の上の植物群﹄には明確な﹁批評意識﹂のあらわれと いえる、吉行淳之介の﹁戦後﹂が、﹁空襲﹂を乗り越えられず、どのような家族も成すことができない伊木を通 して描かれていた。江藤の問題系に接続し、﹃成熟と喪失﹄で俎上にあげられるべき吉行作品は﹃砂の上の植物 群﹄だったように思う。 巻末、伊木は、﹁父親の窺い知らぬ世界の入口﹂に自分がいることを感じ、﹁父親の遺した兇器﹂ではないとこ ろの新たな﹁兇器﹂ 、京子に﹁物憂く、しかし執拗な調子を籠めて﹂ 、﹁行こう﹂と告げる。これは、﹁父﹂でも﹁子﹂ でもなく、何の寄る辺もない伊木が、﹁作者﹂が﹁三十三﹂で述べている、﹁性﹂自体が﹁巨大な怪物﹂となり﹁性﹂ に﹁支配﹂されるしかない﹁性的頽廃﹂に、落ちてゆくだろうことをあらわしているだろう。だが、それと同時 に、アイデンティティを支え得るものが喪失した﹁戦後﹂ 社会では、人間が寄りかかることができるものとして、 何も生み出さない﹁性的頽廃﹂すら/こそ選択されることを暗示しているといえるのである。 注 ︵1︶ 座談会﹁悪書ノススメ﹂ ︵ ﹁文芸﹂一九六五・三︶ 、吉行淳之介﹁部分的読書の愉しみ﹂ ︵ ﹁漫画読本﹂一 九 六 五・ 五︶参照。 (6 4) 1 6 ︵2︶ 安田義明﹁ ﹃砂の上の植物群﹄論︱︿矩形﹀の様式化に就いて﹂ ︵ ﹁芸術至上主義文芸﹂一九七五・九︶ 。 ︵3︶ 柘植光彦﹁吉行淳之介の方法﹂ ︵ ﹁現点﹂一九八四・四︶ 。 ︵4︶ 山田有策﹁ ﹃砂の上の植物群﹄ ﹂ ︵ ﹁解釈と鑑賞﹂一九八五・六︶ 。 ︵5︶ 吉行はエッセイ﹃私の文学放浪﹄ ︵ ﹁東京新聞﹂一九六四・三∼一九六五・二︶で、小説を書く際の﹁読者﹂につ いて、文芸雑誌に書く場合は﹁自分自身の中に住んでいる一人の読者一人の評論家を意識する﹂が、 ﹁マスコミ出版 物に作品を書く場合には、読者を念頭に置かないわけにはいかない﹂と、明確な書き分けの意識があることを述べて いる。だが、同時期に ﹁マスコミ出版物﹂ に連載を有し、その﹁小説作法﹂を学んでいた吉行が、 ﹃砂の上の植物群﹄ という﹁文芸雑誌﹂に書く作品にその作法を用いないとはいえない。作家の意識としてはないかもしれないが多分に 流れ込んでいると考えている。今後詳細な考察が必要な問題である。 (6 5) ︵6︶ 高橋英夫﹁時空蒼茫︵七︶ ﹂ ︵ ﹁群像﹂二〇〇四・七︶は、管見に入る限りクレーの実際の画集に触れた唯一の論 である。高橋もクレーの﹁砂の上の植物群﹂と吉行がその印象を書いた﹃砂の上の植物群﹄とにズレがあることを指 摘している。 ︵7︶﹃砂の上の植物群﹄で﹁作者﹂は、クレーの﹁砂の上の植物群について、 ﹁そして、自分の領分である四角形から、 白く半透明の細い糸を下へ下へと伸ばしている。四角形の底面に、その糸は沢山の白滝こんにゃくのようにぶら下が り、伸びてゆく。砂地の植物の根が、石英の微細な粒のあいだを、隙間を這いながら白く細く伸びてゆくようでもあ る﹂と解説しているが、この点について、吉行はのちに﹁クレーをめぐる気儘な小文﹂ ︵ ﹃世界の名画 クレー﹄一九 吉行淳之介﹃砂の上の植物群﹄︱︱ ︱吉行淳之介の﹁戦後﹂ ﹃砂の上の植物群﹄という小説作品に描かれた、クレー﹁砂の上の植物群﹂と現実の﹁砂の上の植物群﹂にはズレが であって、 印象というものにはそのときのこちらの気分や健康状態などが微妙に絡んでいる﹂ と述べている。 これは、 る、とはどうしても見えない﹂という意味のことが書いてあった。/たしかに、そうであろう。私のは無責任な印象 ついての鑑賞はどうもアヤしい。前半のところはムリすればそう見えないこともないが、白滝こんにゃくがぶら下が 七三・一二︶で、 ﹁その後、花田清輝氏が私のこの作品に好意的に触れてくださったとき、 ﹁それにしても、この絵に 2 3 千葉大学人文研究 第三十九号 あることを吉行が認めている言説といえよう。ただ、このズレを作品執筆一〇年後の吉行の言葉を信じて﹁無責任な 印象﹂で済ませてよいとは思えない。 て﹁作者﹂が語る、 ﹁三十四﹂は﹁暗い宿屋﹂ ︵ ﹁オール読物﹂一九六二・一一︶からの引用、また、兄妹相 姦 に つ い ︵8︶ たとえば﹁十﹂ 、 ﹁十一﹂は﹁樹々は緑か﹂ ︵ ﹁群像﹂一九五八・一︶からの引用であるし、多人数同時性交につい て語る﹁五十三﹂は﹁出口﹂ ︵ ﹁群像﹂一九六二・一〇︶の引用であることがわかる。そして、引用の形をとらずとも 連関が窺えるのが、 ﹁尿器のエスキス﹂ ︵ ﹁別冊文芸春秋﹂一九五七・四︶ 、 ﹁電話と短刀﹂ ︵ ﹁風景﹂一九六〇・一 〇︶ などである。 ︵9︶ 磯田光一﹁ ﹃砂の上の植物群﹄解説﹂ ︵新潮文庫一九六七・四︶ ︵ ︶ 吉行淳之介﹁ホテル暮しのときの一週間﹂ ︵ ﹁面白半分﹂臨時増刊号﹁とにかく、吉行淳之介。 ﹂一九七九・三︶ ︵ ︶ 引用した﹃焔の中﹄は連作の作品五編をまとめて長篇化したもので、一九五六年一二月に新潮社より刊行された。 一九九六・一二︶ 、 ﹃横浜の空襲と戦災﹄全六巻︵横浜市 一九七五∼七七︶も参照した。 〇〇二・三︶ 、第三巻・下︵二〇〇三・七︶のデータ等を参照とし、まとめた。他に﹃神奈川県の歴史﹄ ︵山川出版社 À また、 ﹁空襲﹂の描写としては、 ﹃砂の上の植物群﹄以後の作品にもあらわれている。 ﹃暗室﹄ ︵ ﹁群像﹂一九六九・一∼ 一二︶には、 ﹁死屍累々という言葉を、私は思い出した︵意識の底のほうで、動いたものに私は気付いていた。昭和 二十年五月二十五日の夜、東京に最後の大空襲があった。防空壕に入らず空を見ていた私の左右5メートルずつのと ころに、幾つかの焼夷弾を束ねる役目をする太い鉄の筒と、焼夷爆弾が落ちてきた。翌朝焼け跡に戻ってきたときに 分ったわけだが、爆弾のほうは不発弾だった。渋谷宮益坂に、地面が見えないくらいびっしり死骸が敷きつめられた よ う に 倒 れ て い る、と い う 噂 が 伝 わ っ て き た。二 日 後、そ の 場 所 を 歩 い た と き に は、す で に 片 付 け ら れ て い た が⋮⋮︶ ﹂という描写が、唐突に挟み込まれている。 ︵ ︶ 関根英二﹃ ︿他者の消去﹀︱吉行淳之介と近代文学﹄勁草書房 一九九三・三︶は、京子 の こ の﹁母 性﹂を﹁他 (6 6) 、第二巻・上︵一九九九・三︶ 、第三巻・上︵二 ︵ ︶ 横浜市に関しては﹃横浜市史 ﹄の第一巻・下︵一九九六・三︶ 1 11 0 1 2 1 3 者の異質さからくる圧力を、歯止めのない仕方で、自分の中に同化し、無化し、結局自立的な他人の存在を許さない ような現実、 ︿グレートマザー﹀的﹂なものと指摘している。この関根論は、 ﹃砂の上の植物群﹄を︿母﹀という制度 に飲み込まれないように、伊木が︿父﹀ ︵エディプス的なものではない︶という役割を引き受けようとしている作品 であると読む、他の論にはない興味深い指摘をしている。 ︵ ﹁東京新聞﹂夕刊・週一回連載 一九六四・三∼一九六五・二︶などを参照した。 ︵ ︶ 吉行淳之介﹃私の文学放浪﹄ ﹃吉行淳之介全集﹄ ︵講談社︶に収載される際に削除されたが、 ﹁確かに、一郎と父親とはしばしば兄弟と間違えられ た。しかし実際の関係は、兄弟にも似ていなかったし、また父子というのとも違っていた。彼にとって、父親は時折 眼の前に現れて、不意に怒りだす、父親という名を持った男であった。他人の感じではない、といって父親という観 念の枠にも入らぬ奇妙な存在であった﹂という描写があったことも指摘しておく。 ︵ ︶ 江藤淳﹃成熟と喪失﹄ ︵河出書房新社 一九六七・六︶ 。 ︵ ︶ 吉行淳之介﹃星と月は天の穴﹄ ︵ ﹁群像﹂一九六六・一、同年九月大幅加筆して講談社より刊行︶ 。 ※作品の引用は定本となる講談社刊﹃吉行淳之介全集﹄を用いたが、これより新しい版である新潮社刊﹃吉行淳 之介全集﹄も参考とした。 吉行淳之介﹃砂の上の植物群﹄︱︱ ︱吉行淳之介の﹁戦後﹂ (6 7) 1 4 1 61 5