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違憲国賠訴訟を闘いぬいて - SUCRA

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違憲国賠訴訟を闘いぬいて - SUCRA
福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
『日本アジア研究』第 12 号(2015 年 3 月)
違憲国賠訴訟を闘いぬいて
――あるハンセン病回復者聞き取り――
福岡安則*・黒坂愛衣**
ハンセン病療養所から社会復帰して生きる 60 代男性のライフストーリー。
竪山勲(たてやま・いさお)さんは,1948 年,鹿児島県生まれ。ハンセン病で
あった母は,1960 年,自宅で死亡。1962 年,中学 2 年のときに,星塚敬愛園
に収容される。ハンセン病療養所入所者のために瀬戸内海の長島愛生園に作
られた 4 年制の高校,新良田教室を 3 年で中退,敬愛園に戻る。20 歳のとき
脱走。東京で暮らすが,病気が騒いで多磨全生園に再入所。1975 年,敬愛園
に送り返される。1998 年,「らい予防法違憲国賠訴訟」の第 1 次原告のひと
りとして,国を相手取った闘いに立ち上がる。裁判に勝利したあと,2004 年,
社会復帰。同年,衆院補欠選挙に民主党から立候補するも落選。2011 年 1 月
の聞き取り時点で,62 歳。「ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会」事
務局長。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,北田有希。
竪山さんは,みずから「群れをなすのは好かん。おれは一匹狼」と語るが,
同時に,不条理を見抜く眼力の鋭さは天下一品。竪山さんを抜きには,あの
「らい予防法違憲国賠訴訟」は,ああは展開しなかったことは間違いない。
聞き手として,竪山さんの話を聞けてほんとによかったと思えることが,2
点ある。ひとつは,国に謝罪と賠償を求めるハンセン病訴訟が星塚敬愛園で
始まったのは,田中民市さんが園内放送で園内の入所者に呼びかけ,島比呂
志さんが手紙を書いて法曹界に訴えかけ,そして,竪山勲さんが放送界に訴
えかけたという,それぞれ独自の 3 つの動きが一つに合流することによる,
という話である。また,KK さんのハンストに言及しつつ,一人ひとりの命を
懸けた闘いが勝利をもたらしたのであり,「ハンセン病裁判にヒーローは要
らん」と言い切った竪山さんの言葉に,わたしたちはなるほどと得心した。
いまひとつは,竪山さんは,聞き取りの冒頭で「自分には差し障りになる
ような個人情報はなにもない」と述べ,じっさいに,東京での「逃亡者のご
とき」生活ぶり,多磨全生園に再入所せざるをえなかった経緯,さらには,
全生園から敬愛園に強制的に送り返された顛末まで,みずからのライフスト
ーリーを率直に語ってくれた。竪山さん自身は,“自分はいつも道の真ん中を
歩いてきた。しかし,跳ねっ返りと言われるようになっていた”と語るが,
彼の人生のそれぞれの局面を規定づけていたものが強制隔離政策の「らい予
防法」体制であったことは,彼の語りから明らかであろう。
なお,〔 〕は聞き手による補筆である。
キーワード:ハンセン病,違憲国賠訴訟,ライフストーリー
*
**
ふくおか・やすのり,埼玉大学名誉教授,社会学
くろさか・あい,東北学院大学准教授,社会学
本稿は JSPS KAKENHI Grant Number 22330144,25285145 の助成を受けた研究成果の
一部である。
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MBC テレビの「人間として」
鹿児島っていうところが〔全国の他のところと〕ちょこっと違ってるのは何
かといったら,南日本放送テレビが訴訟前から,法律の廃止後から,ずうっと
入りこんで,このハンセン病問題を取り上げたんですよ。マスコミではいちば
ん先に動いた。そこの陶山賢治(すやま・けんじ)っていうのと,新名主聡(しん
,そういう連中が園内に入り込んだりして,特集を組んでいっ
みょうず・さとる)
た。それで,
「人間として」っていう〔特集番組で〕2001 年にテレビの数々の
賞を取った1。それと,鹿児島テレビの野本記者。こういうひとたちがいて,
ハンセン病問題が世に問われて。そのひとたちも原告と同じように差別を受け
たんや,園内で。もう大変な思いして取材,やったんです。そのひとたちがね,
ほんとにがんばってくれたよな。だから,その「人間として」という番組(も
の)は,ぜひ観たほうがいい。これ観らンな,ハンセン病問題を語る資格はな
いっちゅうぐらい。最初からなんですよ,〔1996 年に〕「らい予防法」が廃止
されたとたんにやってるから。そこに,どういうかたちで「らい予防法違憲国
賠訴訟」がスタートを切ったかというのがね,最初のときから出てる。上野正
子なんかが〔後遺症の残る〕手を隠して,うしろに腕を組んで,顔も見せんで
っていうところから始まりますから。まだ原告団結成する以前,そういう時代
からのものなんですよ。島比呂志(しま・ひろし)もそこにはおるし。そういう
原点がそこにはあります。
おふくろもハンセン病だった/おれも堕胎の対象だったろう
〔前置きはそれぐらいにして,個人的なことを聞きたいと? 何を聞いてもい
いですよ。〕差し障りはなんにもない,おれは。個人情報がないひとやから。
1948 年,〔鹿児島県伊佐郡〕大口(おおくち)〔の生まれ〕。〔親の仕事は〕農
業と博労(ばくろう)。農家はもう,どん百姓ですよ。博労は儲かった。腹巻の
なかにカネがバラバラって入っとかンなぁ,博労って商売はできんですよ。カ
ネを見たら,みんな欲しくなるが。目の前におカネ出されたら〔牛でも馬でも〕
売りたくなるがな。だから,見せガネだけでも持っとかにゃいかんです。〔親
父は〕そら,伊佐郡はぜんぶ回ったでしょ,自転車で。当時は自転車しかない
から。毎晩,酔っぱらって帰ってくる。飲まないと商売にならない。おたがい
に飲みながら,ワイワイ言いながら話をつけていくわけですよ。商談が成立す
ればまた,そこで飲む。
〔おれが生まれた〕1948 年っていったら,食べ物があまりないころですよ。
〔うちには博労の〕仕事に使うおカネはあっても,贅沢するおカネはない。そ
の当時の,ものすごくいい牛っていうのは,6 万〔円〕ですよ。そういう牛を
売買するぐらいのおカネはあった。だけど,われわれが食うおカネはそうなか
ったような気がするな。貧乏やったな。
おれ,5 人きょうだいの末っ子だから,それはもう,養うのも大変じゃった
だろうと思う。だから,〔おれは〕飯食うの,速いですよ。2 分あったら飯食
1
陶山賢治は,南日本放送(MBC テレビ)で土曜日夕方のローカルニュース番組「時
の風」を担当していた。そして,2001 年の「人間として――ハンセン病訴訟原告たち
の闘い」は,「日本民間放送連盟賞テレビ報道部門全国最優秀賞」「日本ジャーナリス
ト会議賞」を受賞した。
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福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
うよ。それで,
「ゆっくり食べたら」って。
「ゆっくりしておれんとじゃ,おれ
は」。ゆっくり食いおったら,なくなるんだから。ちっちゃいわけじゃが。ち
っちゃければ,食い方も,なかなか思うようにいかんが。で,よく,〔母〕親
はこうしてね,椀に取ってくれよったですよ,先に。ありがたいことに。
兄姉(きょうだい)たちも大きくなっていけば,大阪に出て行ったりとか,宮
崎に行ったりとかって,都会へ出ていく。最後にはおれとおふくろと親父って
いうような生活ですね。おふくろはハンセン病になってた。おれがもの心つい
たころには手足が曲がってた。おれを宿してるころから悪かったんじゃないか
なぁ。おれは,おそらくね,堕胎の対象だっただろうと思うな,
〔おふくろが〕
そのころに療養所へ連れてこられておればな2。だから,おれは,おふくろが
ね,あんだけ手足が曲がって,顔が崩れてるのに,よぉ,隔離されンやったな
と思ってるんですよ。強制隔離があったわけだから。で,隔離される直前に死
んだ。わたしが 11 歳のとき。昭和 35 年です。
〔それまで収容されなかったのは〕隠しに隠して。うちのおふくろは,表に
は出さなかったんですよ。田舎はね,縁側があるんですが,縁側の奥のほうに,
外(こっち)から見えないようにして囲ってたんですよ。子ども心に,それは,
異様な感じだったね。それで,だれかが来ても,おふくろは出てこないわけで
すよ。だけど,隣近所はうすうすは知ってたと思うがな。〔それで〕強制隔離
の対象になったわけですよ,最後のころね。隠しきれない状況あったからね。
顔やら手がどうにもなってなかったらいいけれども,顔が崩れてきよったから
ね。だから,よぉ,あんときまでおれたなって,おれはそう思ったね,ぎゃく
にね。よっぽどうまいこと隠したんだろうなと思いますよ。
村一番の美女っていわれるぐらいのおふくろだったらしいんですよ。それを
嫁にもらったわけですよ,うちの親父は。もう,ほんとに大事にしたですよ,
〔病気に〕なっても。自分のうちで死なしたいという思いがあったんだと思う
んですよ。だから,ハンセン病の治療も受けられないままに,痰が喉にからん
で死んでいった。苦しみだしたんで医者〔を呼び〕に行ったんですよ。そした
ら帰って来ンのじゃが,〔医者を呼びに行った〕親父が。なんで帰って来ンの
やろうと思ったが,医者が来ンわけですよ。ハンセン病はハンセン病の療養所
でしか治療できないわけですから。それで親父がやっと,拝み倒して連れてき
たときは,もう,わたしの目の前で息を引き取った後じゃった。
〔おふくろが〕痰が喉にからんで苦しみだして,親父はあわてて自転車漕い
でね,町医者まで行ったわけですよ。しばらくして,もう死んでから帰ってき
た。で,医者が脈を取って,「ご臨終です」って言っただけですよ。そういう
意味では,開放医療であったらね,うちのおふくろは死なないですんだ命やっ
ただろうなと,わたしはいつもそう思っとるですよ。昭和 35 年つったらね,
もう隔離する必要なかったわけじゃから。だって,明治時代から,ハンセン病
2
ここでの竪山勲さんの語りが単なる杞憂ではないことを裏付ける聞き取りがある。
1923 年生まれの女性 HT さんは,19 歳のとき,星塚敬愛園に入所。園内で結婚し,妊
娠 9 ヵ月目のとき,夫婦で逃走,故郷の種子島の実家へ戻り,男子を産んだ。1946
年のことである。家族の力を借りて,種子島での親子 3 人の生活を営む。しかし 3 年
後の 1949 年,強制収容にあい,親子 3 人は敬愛園に連れてこられる。このとき HT
さんは妊娠 7 ヵ月目だったが,強制的に堕胎させられた。
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というのは感染力は弱い病気だってわかっていたわけだからな。だから,隔離
政策でなくって,社会に開かれた医療政策を取っとけばね,おふくろの命は死
なないですんだ命やった。ある意味では「らい予防法」に殺された命だ,と言
ってもわたしは過言じゃないと思ってます。
あの「隔離」っていう言葉から何思うかっていったら,これはもう「怖い」
っていうことになっちゃう。隔離されたら,社会復帰は難しいですよ。なかな
かできんよ,これ。隔離の履歴があるちゅうことだけでも,大変なことですが。
田舎なんか特にな。
〔おふくろの葬式は〕普通にした。したんだけど,なんちゅうのかな,ムラ
のひとたちも,なかなか来たがらないというのかな。来ても,サッと帰るとい
う感じですよ。〔当時は〕土葬だったんだけど,うちの兄貴が大阪から帰って
きて,火葬にしたんです。「これ,土葬じゃいかんじゃろう」っちことで。隣
近所のことも考えにゃいかんということでね,火葬にしたと思うんです。ムラ
じゃ初めてですよ。――「火葬に行ってくる」ちゅうのは聞いてる。おれも行
こうとしたら,連れていかんわけですよ。「おまえは行かんほうがいい」ちゅ
うことで,わたしだけ残ったんですよ。
〔おふくろが亡くなったのは〕53〔歳〕くらいじゃないですか。わたしはも
う,最後までおっぱい放さなかった男。末っ子だから。学校から帰ってきたら,
ランドセル置いて,おふくろのおっぱいがおやつだったんですよ。それから,
赤胴鈴之助しに行ったんです。お母さんのおっぱい吸ってからね,チャンバラ
しに行くんですよ。もう,そんなンで,乳離れが遅い子でね。それ,いちばん
末っ子の特権じゃろうな。だけど,やっぱり,そういうなかで母子感染ってい
うのがあったんだろうな。
隔離と同時に名前を奪われて
〔わたし自身に症状が出はじめたのは〕小学校時代です。小学校の 4,5 年の
ころから,なんかこう,腕が痛いなとかね。野球なんか,子どもやからやるわ
けやから,
「野球のやりすぎじゃないか」って言うて,よく怒られたんですよ。
それがハンセン病に起因する手の神経痛だったんですよね,いまで考えれば。
おれは足が速かったんですよ。めちゃくちゃ足が速くて,学校で運動会のあ
るたんびに,とにかく走りさえすれば一番だった。ドーンって鳴って,で,親
の顔を見て,親に手を振ってから,いちばん最後からバーッと走っていって,
追い抜くんですよ。それぐらい足が速かった。だんだんだんだん,5 年生,6
年生,中学校 1 年生,中学校 2 年生ってなっていくにしたがって,友達のね,
関係がね,なんかおかしいんですよ。おれじゃなくして,おふくろのことだっ
たんじゃないかなって思う。「あっこに遊びに行くな」とか,そういうのがあ
ったんじゃないかと思うんですよね。うちにはあんまり来なかったですからね,
みんながね。
おれは,おふくろが「らい」だっていうことを知らんわけですよ。で,なん
て思ってたかつったら,ほら,昔やったから,田植えなんかして,蛭(ひる)
が噛みついたりするじゃないですか。「そっからバイ菌が入って,こうなって
るんだ」とおれは聞いてた。「らい」という言葉を知らんわけですよ。敬愛園
に来るまで,「らい病」「ハンセン病」って知らんとですよ。敬愛園(ここ)に
来るときも,
〔病名を〕告げられないままに連れてこられたンやから。
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福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
勉強は,わたしはできたですよ,中学校 2 年生までは。昭和 23 年〔生まれ〕
ちゅうのは,団塊の世代で,いちばんベビーブームなんです。で,〔わたしの
学年は〕11 クラスできてしもうて,そのかわり,英語と数学は A,B,C,D
というランクを付けたんですよ。かならず A におったんです,わたしは。そ
れぐらい,また,勉強はおもしろかったんです。わたしの夢は,法廷(あっこ)
で証言でも言うたけども,
「大口高校を出て,東大に行くのが夢だった」
。東大
しか大学は知らんですよ。なんでかっつったら,1 人だけムラにね,東大に行
ったひとがおったんです。神童って言われてな。「ヨシッ,おれも東大に行こ
う」ということしか考えなかったですよ。わたし,一回も親に「勉強しろ」と
言われたことがない。普通の親はなんか言うんだろうけれども。そのかわり,
勉強したんです,自分で。言われんから,したです。帰ってきたら,とにかく
予習復習してね。
それで,中学校 2 年生でハンセンの療養所に入ったとたんに,ウワァと思っ
てね。「らい病」っていうことを知り,もう前途がないことを知り,勉強した
ってバカバカしいっていう思いですよね。同級生が 3 人しかいなくて。3 回に
いっぺんは当たる。昼寝してても,わたし,答えられたですよ。「どうして,
おまえ,わかる?」「それ,習った。先やってください」と,おれは生意気な
こと言ったんですよ。それで,おれの通知表を見て,「これ,ほんとに,おま
えの通知表か?」先生が言うわけよ。なんでかつったら,おれは「田中勲」に
名前を変えられてるから。隔離と同時にね。昭和 37 年の 9 月 5 日,強制隔離
したその日に,おれは名前を奪われちゃったわけです。〔事務〕別館というと
ころに連れて行かれて,
「おまえの名前は何にするか?」って言われて。
「名前
はタテヤマですが」「おまえがタテヤマだちゅうのはわかっとるが。おまえが
ここに来たら,親きょうだい親戚縁者がみんな困るんだから,名前を変えにゃ
あいかん」「なんで変えにゃいかんですか?」「ここは,そうなっとるんじゃ」
「なんて変えればいいんですか?」ちょうどそこに田中ちゅう印鑑があった。
「ここに田中ちゅう印鑑があるから,きょうからおまえは田中にしろ」つって,
その印鑑をポンと渡されたんですよ。こんだ,紙っきれが前に置かれてね。
「な
んですか,これ?」
「遺体解剖承諾書だ」
「えっ? 何,それ?」って聞いたら,
面倒くさそうな顔してね,「おまえが死んだあと,遺体を解剖してもよろしい
ていう承諾書だ。それに署名して,捺印して,こっちへ渡せばいい」。ことも
なげに言うわけですよ。それは怖かったね,中学校 2 年生やから。それが隔離
の第 1 日目ですよ。
校長から「そのまま帰りなさい」と言われて
〔隔離に至る経緯? 中学 2 年の夏休み明けの〕9 月の 1 日の日に,わたしは
学校に行った。そしたら校長室に呼ばれた。
「竪山勲,校長室に来い」。校長室,
行ったことない。なんじゃろうなと思ってね,行ったんですよ。そうしたら,
大平(おおだいら)校長先生が,窓の〔際,デスクの〕向こう側におって,「竪
山,おまえ,体,きつくないか?」そのころほら,ハンセン病の初期症状,神
経痛があったり熱こぶが出たりしておったもんだから,きつかったんですよ,
体が。眠たかったし。
「きついです」って言ったら,
「もう帰っていい」って言
うんですよ。
「いやぁ,中間テストも始まるんで,勉強さしてください」
「いや,
もう,帰って休みなさい」。先生の顔みたら,青白いんですよ。マントヒヒと
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いうあだ名の先生だったんですよ,赤ら顔で。そのひとが顔面蒼白だった。こ
れはもう,なに言ってもムリやなと思ったんで,
「それじゃ,帰ります。じゃ,
教室に帰って……」
「いやいや,行かんでいい。そのまま帰れ」
「あのぅ,ノー
トや本があるんで」
「それ,そのまま置いといて帰れ」。こっちはわからんわけ
ですよ。とにかく帰れ,ですから。で,校長先生の命令だから,しょうがない
から帰った,そのままね。
しかし,おれは怖かった,親父がね。ものすごい怖い親父やったから。こら
困ったな,親父になんて言えばいいんじゃろうと思ってね,言い訳を。もうそ
ればっかり考えて帰ったですよ。帰ったら,親父が豚を世話しよった。「とう
ちゃん,校長先生が帰れつったから,帰ってきた」って言ったら,親父はわた
しの顔を見なかったですよ。いつも「なにぃ!」って言う親父がね。気性の激
しい親父で,暴れ馬でも自分で止めるぐらいの親父だったんですよ。その親父
がなんも言わん。それが,9 月 1 日。
そして 9 月 3 日の日に,敬愛園の医務課長が来たんです。来て,わたしの顔
を見た。――そのときは医務課長ってわからんですよ。敬愛園に行ってからわ
かった。――そのまま,なんも言わんで帰ったんですよ。で,4 日の日に,県
から来て,親父に話をして3。その 4 日の晩に,親父が,
「イサオな,鹿屋まで
行ってこい」と。親父に「何しに行くの?」とか「なんで行かにゃいかんの?」
とか,そういうこと聞けないんですよ。親父の顔みたら,とてもじゃないけど,
聞けるような顔じゃないんですよ。なんにもわかってないんだけど,もう親父
がそう言うんだったら,
「わかった」。それで,9 月 5 日の早朝に,県差し向け
のタクシーが,うちから 1 キロぐらい離れた県道に停められてたんですよ。う
ちのそばまでは来ない。〔地元の〕大口のタクシーは使わんで,鹿児島のほう
からタクシーを持ってきた。あとのことを考えたんでしょうね。わたしを守る
ためでなくして,タクシー業者を守るためですよ。大口のタクシーを使ったら,
それ,誰も使わんごとなるが。らい病患者が乗ったちゅうことが……。あとか
ら考えればね。
1 キロ離れたところへまで,わたしは歩かされるわけですよ。とうちゃんが,
わたしの前を歩いていく。県の係官がその前,歩く。そして,うちの親父のこ
とやから,短気な親父やったから,「もう行かんでいい」って言ってくれるっ
ち,おれはそう信頼してたね。どうも,親父がそう言わんのや。わたしと目を
合わさんのや。それでもう,しょうがなくそこまで行ったら,県差し向けのタ
3
竪山勲さんの「陳述書」
(『ハンセン病違憲国賠裁判全史 第 6 巻 被害実態編 西日本
訴訟(Ⅰ)』皓星社,2006 年,所収)では,つぎのように述べられている。
校長先生が私にとった態度の意味がわからないまま不安に過ごしていたとこ
ろ,9 月 3 日頃,鹿児島県の予防課の担当者の中野という人が私の家に来て,父
と話をしていました。「子どもまで殺して良いのか」という話し声が襖の向こう
から聞こえてきました。実に,脅迫じみた言葉に聞こえました。今から思えば,
父は,県の担当者から,母をらい療養所に入所させるのを拒んで,ハンセン病に
起因する合併症のために母は死亡したけど,子どもである私までも療養所に入所
させないで,母と同じように死亡させて良いのかと,私をどうしてもらい療養所
に入所させるように説得していたのではないかと思われます。
さきに,竪山さんは,母親は最後のころは「強制隔離の対象」になっていたと語っ
ていたが,ここでの陳述はそれが事実であったことを裏づけていよう。
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福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
クシーが待っとったんですよ。運転手が出てきて,ドアを開けて,「ここに乗
れ」ちゅうわけや,後部座席にね。わたし,乗った。そしたら,県の係官とう
ちの親父とが一言二言,話をして,それで〔係官が〕わたしの前の助手席に乗
って,乗ったと同時に,車はスーッと出ちゃったわけですよ。
〔おやじは〕そこまで。大口っていうところはね,霧の深いところなんです
よ。その霧の中にブゥーッて飲まれていくわけです。朝早い時間ですよ。外は
一面,霧のなか。みんなが起きる前に,隔離収容しようとしたんでしょうね。
〔うちが消毒されたかどうかは〕わたしは知らん。わたしが行ったあと,や
ったんじゃないかと思うんですよ。あとから,〔保健体育を担当していた〕恩
師の坂元〔喜久子〕先生から聞いたら,「竪山君が使ってた椅子やら教科書っ
ていうのは,いつのまにかなくなってたよ。おそらく焼却処分されたんだろう
ね」って言われた。そうだろうなって,おれ思った。というのは,敬愛園に入
ったときに,車の中が真っ白になるぐらいね,粉の噴霧器がバァーッてね。こ
れはもう,営業用として使えるんじゃろうかっち思うぐらい真っ白になったで
すから,タクシーが。
〔9 月 1 日の出来事は〕ある日突然。まったく予告なし。だけどね,よく考
えたらね,中学校 1 年生,2 年生のころかなぁ,自分のまわりの友達がね,机
1 つずつ空けるんですよ。だから,おれが病気だちゅうことを,子どもたち知
ってたんじゃないかと思うんですよ。おれが知らんばっかり。おれ,敬愛園に
入ったときの体重が 23 キロじゃもん。
〔背丈が〕いちばんちっちゃいの。とに
かく小さくって〔席が〕一番前なんです。だから,みんな〔右〕隣のはこっち
へ行く,〔左〕隣のはこっちへ行く,後ろのは後ろへ行く。
おれは,小学校の同窓会ちゅうの 1 回,招かれて行ったんですよ。行ったら,
みんなが病気のことはあんまり触れないんですよ。「イサオちゃんは足が速か
ったもんなぁ」っていうことでね。国賠訴訟を起こしたあとですね。「イサオ
ちゃん,挨拶してくれんか」ちゅうことやったんで,挨拶をさしていただいて。
同級生たちがねぇ,ものすごく大事に迎えてくれたんですよ,ふるさとにね。
おそらく,その当時,おれはなんらかのかたちで差別されてたかもしれんな,
と思うのよ。なんか悪かったちゅう思いで,みんなが呼んでくれたんですよ,
「同窓会にぜひ来てくれ」って。「ぜひ,イサオちゃん,話をしてくれ。そし
て,みんなと一緒に飯を食うたりしながら,ひとときを過ごしてくれ」ちゅう
ことでね,行ってきたことがあったんですね。
入所当初は怖くて泣いた
わたしが〔敬愛園に〕入ったときはもう,入ってまわりを見渡して,わたし
泣いたですもン,怖くって。腕がない。指がないのは当たり前。ブリキの義足
を枕にして寝てる。義足に軍足(ぐんそく)がかぶしてあるもんだから,足だと
思うわけですよ。足がこんな頭のほうに,なんであるのって。見てみたら,足
がないんですよ。怖かったなぁ。一晩眠れんやった。自分のおふくろも崩れた
けど,顔がね。だけど,自分のおふくろは贔屓目(ひいきめ)に見てるんですよ。
いつもおれはそう思うんだけど,〔後遺症のある〕自分の手を見てて,怖いと
思わないんですよ。写真に撮ったら,怖いんですよ。こんなに曲がってンの,
って。写真ていうのは,そのものを映し出すからな。自分の目で見るぶんには
贔屓目で見てるんですよ,どっか。だから,おふくろもおそらく,徐々に徐々
153
に,崩れていってるから,そう怖さを感じなかったんだろうと思うんです。だ
けど,よそのおじちゃん,おばちゃんたちの顔を見たとたんに,わたし,びっ
くりしたですよ。ウワアッと。なんておふくろに似たようなひとたちがいっぱ
いいるんだろうと思った。怖くって,泣いてたんですよ。そこではじめて,あ
のおじちゃんたちに病気のことを教えてもらった。当時は「ハンセン病」って
言いませんから,「らい病で,みんな,こうして療養所(びょういん)に入って
きとるんだ」って教えてくれた。それでも,やさしくは話すわけですよ,傷つ
かんようにって。「おじちゃんは足が悪くなって,足を手術して,義足ってい
うのを付けてるんだ」っちゅうことを教えてくれる。そんなひとが教えてくれ
ても,怖いのは,もうね,ぬぐいされないですよ。
〔当時〕「鶴」一,二,三って〔いう病棟が〕あったんですよ。「鶴三」ちゅ
う病棟に入らされて,大部屋で,12 名ぐらいおったのかなぁ。ベッドが 12 ぐ
らいあって。1 週間なら 1 週間は,検査入院みたいなかたちなんですよ。検査
入院つっても,そんなもンは形だけ。
そこに,おれの隣に〔園の中の患者作業で〕隠坊さん〔をしてた人〕がいた
んですよ。そのひとが義足でね,両手〔の指〕がない人で。それで単車に乗っ
てた。くくりつけて。それで,おじさん,帰ってこんのですよ,9 月 5 日の,
その夜。
「おじさん,帰ってこんね?」って言ったとこが,
「きょう亡くなった
ひとがいるから,焼きに行ってる」って,教えてくれるわけですよ。そしたら,
怖くってな。死体を焼くひとの隣に,おれ,寝とるわけやから。中学校 2 年生
で,怖いよ,それは。したら,おじちゃんがね,夜遅く,鼻唄まじりで帰って
くるんじゃが。お酒を飲んで。で,隣のベッドにもぐり込むわけですよ。そっ
ちは見やらンとですよ。こっち見たまま,ブルンブルン震えてた。9 月〔はじ
め〕で暑いのに,ブルブル震えてた。したら看護婦が来て,「どうしたの?」
「泣いてるの?」ちゅうから,
「怖い」って言ったら,わかってくれて。
「ああ,
おじちゃんはね,仕事やからね」つって。で,猫を持ってきてくれたんです。
どこにおったかしらんけどな。こう,抱いて寝たですよ。そらぁ,怖かった。
もう,生きた心地しなかったね。
なんとも,おれはもう,怖くて怖くてたまらんで……。〔そのとき思い浮か
んだ〕おふくろの思い出ちゅうのは何かつったら,おふくろが顔が崩れてから,
あの,親父が飲んだくれて帰ってくるじゃないですか。博労すんで。で,「煙
草,買うてこい」つって,煙草を買いに行かされるわけですよ。煙草を買いに
行く途中に,墓がある。田舎の墓じゃから,土葬やから,怖いんじゃが。で,
きのうおととい死んだような人たちのはね,幟(のぼり)が立ってるンじゃが。
青い旗,赤い旗とかな。旗がヒラヒラしてる。そこの側(そば)を通って,煙
草を買いに行かにゃいかん。すると,おれが行けんちゅうのを知ってるもんじ
ゃから,かあちゃんが腫れた足をひきずってね,付いてきてくれるんですよ,
そこの墓場まで。で,墓場のがわを,お母さんを歩かせるわけですよ。おれは
反対側を歩いて。で,こっから坂になってて,
「ここまででいいか? かあちゃ
ん,ここで待っとくから」。待っといてもらって,目をつぶるようにしてバァ
ーッと走るわけですよ。お店まで行って。ほして,買って,またバァーッと走
ってくるわけですよ。かあちゃんが,それ待っててくれるわけですよ。おふく
ろの思い出って,そんなンやなぁ。ありがたかったな,あれは。
おれは入院していちばん先に,そういう一夜(ひとよ)を過ごしてね。それか
154
福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
ら,こうやって見渡しすれば,ぜんぶ,みなさんがひどい顔してるわけですよ。
ああ,かあちゃんとよく似てるなぁと思ってね。こういう病気があったンだち
ゅうこと,やっと,そこで朧(おぼろ)げにわかってきて。そして,1 週間すぎ
たら,少年舎に入っていくわけですよ。少年舎は 12,3 人やったかな。少女舎
が 7,8 人。そんなもんだったと思うね。
ハンセン病療養所の中に医学はなかった
治療は,すぐ始まったような気がするんだけどな。よく覚えてないんですよ。
なんか注射を打ったようなね。プロミンだろうと思うんですよ,おそらくな。
それで,注射を打てば,反応が出てくる。反応が出てくりゃ,こんど,DDS
に変える。――いつも思うんだけど,難治らいをつくった原因がそこにあった
と思うんですよ。難治らいを医者がつくってしまった。ていうのは,おれは肋
膜(ろくまく)やって,はじめて〔ハンセンの〕病気が治ったんですよ。昭和 50
年以降,肋膜やったことによって,二渡(ふたわたり)〔久良〕所長というひと
に遇ったわけですよ。
「おまえは肋膜だ」。ハンセン病で〔社会から〕隔離され
て,肋膜でまた,療養所のなかで隔離されたわけですよ。「どっかへ行っちゃ
いかんのか?」つったら,「いかん。煙草もやめろ」って。おれは煙草はやめ
ないで,煙草吸いながら,肋膜の薬を飲んだんですよ。リファンピシン4。「1
日 3 錠ずつ,空腹時に飲め。朝一番に」
。
「そんなことしたら,先生,おれは死
ぬ」つった。
〔それまでの〕ハンセン病の医学のなかで,1 日 3 錠飲むちゅう
ことはありえないんですよ。1 週間に 1 錠,2 錠とかっていうような感じ。
「い
や,竪山な。肋膜では死ぬことがある。ハンセン病じゃ,死なん。
〔神経痛の〕
痛みで死んだやつはおらん。心配せんでいい。飲め」って言われて,もう破れ
かぶれですよ。飲んだ。飲んだところが,半年で肋膜が治っちゃった。肋膜が
治ったころには神経痛がなかった。おれは「神経痛の親分」と言われた人間で
すから。手は,こんなに,グローブみたいに腫れて。曲がって。あんまり痛い
もんだから,そこを歩いてる人がいるだけで,その音で痛いんですよ。だれか
が笑えば,笑い声で痛いんですよ。それでもう,お膳を,こうして,パーンっ
て,天井へ投げよったですよ,わたしは。きつくて。それで,ソセゴンってい
うね,注射があるんですよ,麻薬みたいな注射が。ソセゴンを打てば,ピタッ
と止まるんじゃ,痛みが。スーッと引くんですよ。それを「打て!」つって,
よく言いよったですよ。「竪山さん,これはあんまり使ったら体によくないか
ら,もうちょっと我慢して」。あまりにも,おれが言うもんだから,打ってく
れる。ウソの注射を打つわけですよ。
「これは違う!」わかるもの。
〔ソセゴン
なら〕針が入った瞬間に痛みが止まるんだから。ふわぁっとしてね。だからも
う,ほんとに荒れたですよ,そのころはね。それぐらい,おれはもう「神経痛
の親分」って,みんなから言われて。わたしは夏でも長袖だったですよ。腕を
冷やさんようにって。冷やそうと冷やすまいと,痛みは一緒なんですよ,よく
考えてみたらな。だけど,冷やしちゃいかんと思って,そうしよったんですね。
それで,ほら,6 ヵ月で肋膜が治って,ハンセン病まで治っちゃったんです
よ。一石二鳥やが。だから,おれはいまだに言うのは何かつったら,「おれの
らい病を,結核療養所の所長が治してくれた」「ハンセンの療養所の医者は治
4
リファンピシンは,結核の治療薬であると同時に,ハンセン病の治療薬でもある。
155
しきらンやった」って。何かつったら,薬の使い方がぜんぜん違う。とにかく,
少しやって,反応がでたら,「あ,病気が騒いだ」とか,「合わん」とかいう。
ほンなことやるもんだから,だんだんだんだん耐性菌をつくっていくんですよ。
この日本の国の,後遺症をいっぱい抱えた患者たちを残す原因は,そこにあっ
たと思う。日本のらい医学ちゅうのは,医学じゃないよ,こんなものは。
昔からよく言ったんですよ。「結核をやった連中は,病気が落ち着いとるが
な」って。よぉ聞いた言葉なんですよ。それがなんでだか〔ずっと〕わからん
やった。〔じつは〕結核の場合は,徹底して治すから。――〔療養所の中に〕
結核病棟があった,前は。
〔しかし〕先生がな,
「ここでいい。こっから出るな」
ちゅうことで,個室に入れられて。結核療養所の所長ですから,わたしを診た
先生が。診療援助に来てて。
「おまえは肋膜や」,それで「これを飲め」って言
ったのが,その先生なんですよ。二渡先生つって,ものすごい名医。――おれ
が東京〔の全生園〕から帰ってきてから〔だから〕,昭和 50 年以降です。
東京で医療過誤の裁判をやったのは,誰だったかな? 山下ミサ子ちゃん。
ミサ子ちゃんだけじゃないよ。誰が裁判やっても勝てる。みんな医療過誤です
よ,おれに言わしたら。だって,薬の使い方を知らんのやから,医者が。〔全
生園に〕国立大蔵病院から来たっていう医者がおったがな。有名な医者やが。
これが最初,わたしに「竪山さん,何の薬使ったらいいですか?」って聞いた
ものね。
「いや,医者はあんたですが」って,おれ言うたン。
「いやぁ,わたし
はハンセン病のことはよくわからんから。いままで,何つかってました?」
「こ
ういう薬を使ってた」
「じゃ,それ出しときましょう」。これが医者ですよ。だ
から,ほんとに,ハンセン病の医者っていうのはね,まぁ,言っちゃ悪いが,
外で使いものにならンやったような先生だとか,あるいは,外の病院を退職し
た 80 なんぼの先生ちゅうの来たからね。医者がおらんとき。
まぁしかし,なんにしてもね,薬の使い方を知らない先生が多すぎた。そし
てまた,敬愛園(うち)の副園長でね,わたしとおなじ年の副園長がおったん
ですよ。
「竪山君,ハンセン病は治らんのじゃ」。
「そんなバカなことあるかぁ」
って,おれ言ったの。「なんで治らんのや?〔ハンセン病治療も〕医学のなか
のひとつやろうが」「そうだ。だけど,治らんのだ。死んでも治らないんだ」
「ええっ? 菌がゼロになったら治ったんじゃないのか?〔治癒でなければ〕
何だい,これは?」「落ち着いた〔だけだ〕。また騒ぐ」「菌検査をおまえたち
やって,菌を捜しきれんのに。〔菌が〕ゼロだったら治癒って言ってもいいん
じゃないか?」
「言っちゃいかんのや。隠れとる。どっかいる」って。
「死んで
も治らん」。それ,言ってる意味がわからんやったな,おれは。よくよく聞い
てみたらね,治癒判定の基準がなかったちゅうことですよ。治癒判定の基準な
んかいらなかったんですよ,ハンセン病はな。だって〔ねらいは〕絶滅やから。
その証拠が〔療養所の中に〕納骨堂があるわけやから。〔病気を治して外に〕
出す思いがないわけじゃから。出す思いがないから,断種堕胎しちゃうわけだ
から。だから,「らい予防法という法律は,われわれの過去〔だけでなく〕未
来まで奪った」って,おれ言うけれどもね。優生保護法を適用したことによっ
て……。あの優生保護法というのも,いいかげんなものですよ。あれは,遺伝
病に使われた法律(あれ)ですよね。それをハンセン病まで拡大適用しちゃっ
たわけじゃから。それもまた問われなくちゃいかんわけじゃが。なんで,ここ
までやったんだ! ってね。〔優生保護法が制定された〕1948 年以前は〔ハン
156
福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
セン病患者の断種堕胎を根拠づける法律は〕なかったんですよ。不法行為。
まぁ,しかし,「ハンセン病療養所のなかには医学はなかった」って,おれ
は言うんだけど。医学,科学の世界だったらね,当然のことながら,病気を治
して外に出すということを考えるのが,医学,科学ですよ。日本のらい政策と
いうのは,そうじゃなくして,隔離して,死んでもらう。これは,医学,科学
じゃないなぁ。
夢に見たふるさとの空
おれはね,「3 ヵ月でいいから行ってこい」と親に言われとるンですよ。「3
ヵ月たったら,帰ってこれる」って。おれは絶対的に親の言うことを信頼しと
るから,まわりの者が何言おうが,「あんたたちはそうかもしらんけど,おれ
は違う」って。それで,少年舎にそのまま下がるわけですが。少年舎で,その
子たちがいろいろ話をしてくれるわけですよ。病気のことについてね。おれよ
りも小さい子が,おにいちゃん,ああだよ,こうだよ,ああだよ,こうだよ,
教えてくれるわけ。で,
「おれはな,3 ヵ月たったら帰るんだ」って言ったら,
笑うんじゃが,その子らがね。子どもっていうのは残酷なもんでね,「ぼくも
そう言われてきた。3 ヵ月たったら帰ってこれるって。もう何年たつよ」。そ
れでもおれは,それを信じンわけですよ。「いや,おれは,親父が言ったんだ
から」ってね。10 日(とおか)たち,20 日(はつか)たち,1 ヵ月たち,2 ヵ月た
ちすればね,その子たちの言うことが真実味を帯びてくるわけですよ。だんだ
んだんだん,事の重大さ,帰れんちゅうことのね。いやぁ,これは大変なとこ
に来たなぁと思ったですね。
おれ,中学校 2 年生やから,下の子どもたちを,こうして抱っこして寝るん
ですよ。したら,その子たちがね,「おにいちゃん,どっから来たの?」って
言うから,
「伊佐郡の大口ちゅうとこから来た」
「大口って,どっちにあるの?」
いろんな話をしながらね,眠るんですよ。そういうなかで,子どもたちがいろ
んなことを教えてくれる。まぁ,しかし,きつい話ばっかりだったですね。聞
く話,聞く話ね。ウソみたいな話を言うんで,おれだけは違うって最初は思っ
てても,だんだんだんだん,この子たちがウソをつくわけがないちゅうふうに
思うようになるわけですから。ほんとに隔離っちゅうのは,残酷なもンじゃな。
少年舎には〔子どもたちの世話係として〕お父さんとお兄さんがおる。少女
舎には,お母さんとお姉さんがおるわけ。みんな,いいひとたちでね。いいひ
とたちだから,そこにね,患者作業として仕事してるわけですよね。ま,しか
し,よく面倒をみてくださるひとたちだったですね。もうほんとに,「お父さ
ん」
「お母さん」
「お兄さん」
「お姉さん」って呼びよったわけですから。で,1
級先輩じゃったら「お兄さん」「お姉さん」と呼ぶ。そういう大家族みたいな
ところがあってね。
やっぱり,さびしいですよ。子どもたちと遊んでるときはあれだけど,眠り
につこうとしたときは,ふっと,ふるさとのことを思うしね,ふるさとの親父
のことを思う。おれは,いつもいつも,ふるさとの夢を見た。ふるさとのこと
を頭の中に思い描いて,そして,大口東小学校のあの小高い丘の上から,空を
飛んでね,自分の親父に会いに行く。ずうっと飛ぶんですよ。鉄人 28 号みた
いに。で,飛んでいって,上から下を見下ろすわけです。親父が,豚小屋の前
にある畑に瓜をつくってたり,カボチャをつくってたり,いろんなものをつく
157
ってる。季節によってね。そういうことを,いつもつも,頭の中で思い描きな
がら,そこまで飛んでいくんです。で,飛んでいって,親父の懐のなかに飛び
込んでいく。親父の煙草の薫(かお)りが,ふぅっとするわけですよね。で,
親父とふたりで土手に腰掛けて,そのとき植えてある黄色いマクワウリを採っ
てね,親父が鎌で半分に割って,半分をくれるわけです。それを,ふたりで食
べる。そんな夢をいつも見てた。連想してたんですね,夢を見るんじゃなくし
て。もうほんとに,いつもいつも,いつもいつも,おんなじ。それが歌になっ
ちゃったんですよ。
〔北九州市のアマチュアバンド〕
「願児我楽夢(がんじがらめ)」
の「時の響きて」っていう歌にね。
「移りゆく季節の中で どれだけ夢を見たで
しょう/故郷(ふるさと)の空を どれだけ飛んだでしょう」というフレーズに
なる。ほんとに,わたしはふるさとのことばっか考えてたですね。
こいつら教師は敵だ/新良田教室は 3 年で中退
〔わたしは新良田教室に〕行った。10 期生。1 年生から 4 年生まで,だいた
い 30 名平均で,
〔ぜんぶで〕120 名ぐらいいたんですかね,わたしたちのころ
は,まだね。
おれ,行く気はなかったんです。もう,勉強なんかバカバカしくってって思
ってるから。
〔敬愛園の分校の先生が,わたしの〕通知表を見たときは,
「これ
は,ほんとに,おまえの通知表か?」って。それは「田中勲」じゃなく,「竪
山勲」って書いてあるわけだから。
「おまえの,これ,通知表か?」
「はい,そ
うです」「へぇー」。通知表,よかったんです,その当時までは。だけどもう,
目標がなんにもない。こんなとこで勉強やってたって,なんの役にも立たンと
思って。で,先生をバカにしよった。一生懸命,理科の実験やって,できない
んですよ,先生が。笑いよったですよ,わたしは。
「それで,先生じゃろうか」
ちってね。「なんで笑う!」「先生,ここは,こうこうこうです」。それぐらい
頭よかったんです。そして,大口中学校ちゅうのはもっと先端を行ってた,そ
この療養所の分校(やつ)よりもね。だから,もう,わかりすぎるぐらいわか
るんですよ。昼寝しててもわかる。
で,高校に行くにも,受験勉強なんにもしないんですよ。行く気ないから。
そしたら,患者の代用教員が,「いや,竪山な,勉強せんでもいいから,遊び
に行ってこい」って言ったんですよ。「ここ,敬愛園におったってしょうがな
い。若い連中と遊んでこい」って。「遊び? 遊びやったら行ってこようかね」
って言って,それで受験に受かって行ったわけですよ。
〔長島愛生園の新良田教室へ行くのには〕わたしの 1 級先輩まで「御召列車」
だった。
〔昭和 39 年 4 月入学の〕わたしンときから,普通の客車になった。わ
たしの 1 級前までは,貨物列車のいちばん最後だったんですよ。〔駅まで見送
りに行って〕何回も何回も手をふるんですよ。手をふるたんびに帰ってくるん
ですよ。連結するから。行ったり来たり,行ったり来たりしながら,「また帰
ってくるが」つったら,もう帰ってこないんですよ。わたしたちから,普通列
車(きゃくしゃ)に乗れるようになった。でも,「ここを動くな。こっから歩い
ちゃいかんぞ」という条件付きでね。
10 期生はね,
〔敬愛園から〕3 人〔合格で〕,1 人は〔一緒に〕行かなかった
の。お父さんが亡くなって,遅れて来るちゅうことになって。おれと山口文翁
の 2 人だけ行ったんじゃないかな。そのとき,行く前に,鹿児島で,カレーラ
158
福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
イスの専門店にね,先生が連れていってくれたんです。ほんまのカレーライス,
知らんわけですが。園内のカレーライスしか。そのカレーライス,辛くって辛
くってね。
「先生,こんな辛いのを食うのか?」つったら,
「いや,ほんまのカ
レーライスって,こんなもんなんだ」って。うまいちゅうよりも,辛い。ヒリ
ヒリしてね。もう,ハァハァ言いながら,半分食えなかったですね。そのこと
だけしか覚えとらん。〔岡山まで〕何時間かかったかって,そんなことまで覚
えとらんですね。
いやぁ,長島(あっこ)に行ってみて,隔離っていうことを身をもって感じた
ね。だって,おれは泳げンわけやが。山の人間じゃから,泳ぎをしたことない
んですよ。で,神経痛持ちだから,泳ごうとも思わない。そしたらね,船がな
ければ行けんわけでしょう。泳げたらね,泳いででも渡ろうかと思うじゃない
ですか。ウワーッと思ったね。島の中に高校を作られたのは,ほんとに,もの
すごいダメージだったね。高校生を島(あっこ)に押し込んだっちゅうことね。
いちばん多感な年ごろにね。
それで,そこで,ほら,売店に行っても売店にない品物があるもんだから,
先生に「これ,買ってきてくれんか」って頼んだところが,先生が「いいよ」
って言うて,おカネを持ってったんですよ。したら,「そこに置いといて」っ
て言うから,「そこって,どこ?」先生が指差すほうを見れば,そこにはクレ
ゾール液を張った白い洗面器しかないんですよ。「どこ?」「そこ」「ここ?」
「うん,そこに投げ入れて」「投げ入れるの?」驚いたなぁ。女の先生が「そ
この中へ投げ入れとけばいい」って。千円札を持ってよ,百円硬貨を持ってで
すよ,行ってるわけやン。「ここへ入れるの?」「うん」。こともなげに,そう
言うわけですわな。しょうがないから入れたよ,おれは。まぁ,しかし,アタ
マ来たね。自分の持ってるおカネを消毒液の中に「浸けろ」って言われたとき
の,この惨めさね。なんだ,これは,と思ったね。もう,震えたですよ,体が。
そして茫然と見てたら,先生がピンセットで,こうして洗うんじゃが。で,こ
こに,すりガラスがあるんじゃが。すりガラスにピタッとくっつくんじゃが,
それがまた。癪(しゃく)に障るなぁ。おれは 10 期生やからね。その先生は,
10 年やってる,それを。プロじゃが,プロ。おカネを洗って,こうやったら,
ピタッ。これはプロじゃ,と思ったなぁ。ほんとに,悔しかったね。涙が出た。
どっか置いといて,あとで,どうかするんじゃったら,まだ許せる。おれが
見てる前でそんなことする必要ないじゃろ,って思ったね。これは教育の現場
じゃないと思った。もうそれから,おれは,先生がたに対する反撥が強くなっ
たですよ。こいつら敵だと思った。
「らい予防法」って,そんなン知らんから。
「らい予防法」が見えないわけだから。「らい予防法」の条項を見てみりゃ,
たしかに,患者が使ったおカネにしてもなんにしても,消毒せにゃいかん。で
も,「らい予防法」を忠実に履行していったら,偏見や差別に結びついていく
わけですよ,われわれから見たらな。ハァ,しかし,目の前でやることはなか
ろうがって。おれがおらんところでやってくれれば,まだアタマに来ようもな
い。それから,わたしは変わったですよ,人間が。で,こいつら敵だ,と思っ
た。もう,敵としか見えなかった。先生としては見たことなかったですよ。
だから,2 年生のときやったかな。うちの〔クラスの〕N ちゅうのが煙草吸
うて,謹慎処分にさせられて,それで,停学処分になった。停学になったら帰
らにゃいかんですよ,出身療養所(ふるさと)に。そしたら,ホームルームの時
159
間に,うちの〔クラス担任の〕SY ちゅうのがおった。
〔わたしは〕そのことを
取り上げて,
「Y,おまえが N を捕まえたんだな」つったら,「そうだ」って。
「おまえ,おれたちの担任じゃろう」
「そうだ」
「おまえ,それでも教師か! 自
分が担任だったら,『N,煙草を吸うな』って,そうして諭すのが,おまえの
立場だろうが」って言った。
「N,おまえ,ゼニあるんか?」つったら,
「ない」
って言う。「しかし,おまえ,停学処分やったら,帰らないかんのや。おい,
Y,おまえ,ゼニ出せ。おまえが見つけたんじゃ。おまえ,担任じゃ。それだ
け責任取れ! おまえみたいな教師にめぐりあったわれわれは,どんなに不幸
なもんか」って言って,ものすごく怒ったんですよ,わたしは。したら,おれ
から怒られて,その教師がバァッて泣いたんですよ。ポタポタポタッて,わた
しの机の上の教科書に,涙がこぼれた。わたしは,その教科書をパァッと取っ
て,「汚いから,舐めろ!」っち怒ったんですよ。もう許せんのですよ,すべ
てが。敵だと思ってるから。こいつらに,おれたちの痛みがわかるはずがない,
って。痛みがわからんから,この連中はこういうことができるんだって。まし
てや,「担任の先生でありながら,それを自分で探して停学処分にするって,
ナニゴトだ! おまえ,それ,教師がやる仕事か!」めちゃくちゃ怒ったんで
すよ。普通,わたしはおとなしいんですよ。怒るときだけは,ひとの千倍怒る
んですよ。それで,SY が泣きだして。結局は,おカネ出させたですよ,往復
のおカネをね。
先生とは,よぉ喧嘩したね。お茶の水女子大を出た国語のね,U 先生って,
頭のいい先生がおったんですよ。おれは国語なんか勉強せんでもわかりよった。
で,先生が,おれが〔答案を〕出したらね,説教をしたんじゃが。〔彼女から
したら〕バツだったんですよ,わたしの答えが。「先生,おれ納得できん」つ
ってね。図書室に籠もって調べてみたら,国文学博士のなんとかちゅうひとが
書いた訳を見てみたら,おれとおんなじような訳し方してあるんですよ。それ
で,それを持っていって,
「先生,これ見てくれ」って。たら,
「竪山さん,わ
たしが教えたとおり解答してくれなかったらダメなんです」。プライドの高い
先生でな。
「そう,あんたは,そういう先生? この国文学博士のなんとかちゅ
うよりも,あんたは偉いんだ。わかった」。そこで,答案用紙をまるめて投げ
たんですよ,わたしは。
それで,熊本の〔恵楓園から来た〕NK ちゅうのが,漢文か古文の時間に―
―虎巻(とらかん)って知らんですか,虎の巻――それを持って,朗々と読んじ
ゃったわけですよ。で,U 先生はそれに気づかなかったんですよ。で,
「はい,
次,竪山さん」。おれも,それを持って,堂々とやってやった。そしたら,先
生,それ,目にとまったんですよ。で,「竪山さん,あなたはわたしを小馬鹿
にしてるんですか?」って言われた。「小馬鹿にはしてませんよ,大馬鹿にし
てますが」つったら,先生がもう泣きだしそうな顔して,「わたしの授業が,
そんなに受けられなかったら,外に出て行っていいですよ」つった。「わかっ
た。あとで単位が足らんどうのこうの言うな。あんたが出て行っていいちゅう
から,おれ,出て行くんやから」と。で,裏山に登って,昼寝してた。そんな
こと,ザラだったですよ。そんなンでね,学校教育の現場なんちゅうのは,多
感なおれにとってみりゃ,とてもじゃないけど,耐えられん。ここでおったっ
て,喧嘩しかせんなと思ったんで,もう帰ろうと思ったんですよ。で,行李(こ
うり)を買いに行って,行李に荷物を詰めて,帰ってきたんです。
160
福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
3 年の途中で帰ってきたンかな。中退。だれやったか知らんけれども〔ある
先生が〕
「中退じゃなくして,休学にしとかんか?」って言ったんですよ。
「い
いや,もう,二度と来ようとは思わん,こんなところは。ここにおったら,根
性悪くなる。おれ,こんなところで勉強したいとは思わん」つってからね,帰
った。それが 18 のときや。それで,帰ってすぐ,わたしは敬愛園の政治をや
った。
友達はつくらなかったが彼女はいた
〔長島愛生園の山鳥学校?〕ああ,わたしは〔新良田教室の〕卒業生じゃな
いんだけど,〔いわゆる〕山鳥学校の森田竹次はよく知ってる。あのころは,
「共産主義をかじらんのは馬鹿。民青に入らんのは,なお馬鹿」と言うぐらい
ね,みんながそういう時代ですよ。だから,わたしたちのクラスで入らンやっ
たのは,敬愛園の山口文翁ぐらいのもんじゃないですか。
〔新良田で友達はできたか,だって?〕友達ねぇ。おれはあんまり群れをな
すのは好かんのですよ。一匹狼だから,もともとが。彼女はおったけど。彼女
はな,これはまた,うちのかみさんも知っとるんや。おれの付き合ったのは,
ぜんぶ,おれはかみさんに会わしてるものね。で,いま,広島でな,ラーメン
屋をやってるんじゃ。〔彼女は〕1 級か 2 級,下なんじゃけど。そこはまた,
ヤクザもんなんじゃ,その兄貴が。いまでもおるんじゃけどね,岡山〔の療養
所〕に。盲人なんだけど。で,韓国のひとやから。それの妹じゃ。また,この
女が,わがままなのよ。わがままだけど,おれには一生懸命尽くしてくれたん
ですよ。神経痛なんかで〔病棟に〕入院してたらね,来て,「わたしが洗濯し
てやるから,出せ」って。それからが始まりだったですよ。あらぁ,こいつは
ヤクザもんの妹にしちゃあ,えらいやさしいとこあるじゃねぇか。そしたら,
そのつぎや。
「竪山君」
「どうした?」
「あんた,わたしをバカにしとりゃせん?」
ちゅうから,「いや」。「パンツがなかった」ちゅうんですよ。パンツ,出せん
がな,男の子は。なかなかなぁ。「それが悪い」つってな,そら,えらい怒ら
れてね。「いや,それはすまんやった」つって。もうその次からな,全部ごっ
そり持っていった。そんなンでね,面倒見はいいんですよ。面倒見はいいんだ
けど,ものすごいわがままな子で。もう,みんなが怖がるんですよ。それで,
おれにはよくしてくれた。そんなンでね,ほんとは「一緒になる」つって追っ
かけてきたんだ,おれが学校を辞めたとき。
「おまえは帰れ」つってな。
「おま
えは病気軽いから,壮健さんと一緒になれ。おれはこんなンだから,やっぱり,
ハンセンの療養所におらんならん人間じゃから。おまえまで巻き添えにするわ
けにはいかん」つって,それで別れたんですよ。それから何年かたってね,
「結
婚した」つって,旦那の写真を送ってきた。また,これがおれと一緒で,痩せ
ぎす。そうこうしてたら,「子どもができた」つってね,子どもの写真を送っ
てくる。そんなンでね,別れた連中は,みんな,わたし,友達なんですよ。―
―だから,彼女だけはおったな,高校時代な。
それと,もうひとりは,やっぱり,おれとおんなじように社会復帰できない
だろうと思ったのが,篠原〔澄江〕っていう〔女性〕。大島青松園で亡くなっ
た。ガンで死んだけどね。これも国賠訴訟に出てきてくれたんですよ5。で,
〔裁
5
篠原澄江さんの「陳述書」と法廷での証言の記録である「本人調書」が,
『ハンセン
161
判で〕
「あなたは,療養所(ここ)にいて,電気代,水道代,ガス代,払ったこ
とがありますか?」って言われた女ですよ,国の代理人から。「それなのに,
どうして国を訴えるか」というようなことを言われたんですよ。で,怒ってね。
「わたしは,そんなもの欲しくって,ここに入ったんじゃありません」っち。
「隔離したんでしょう,あんたたちが勝手に」ってね。その篠原っていう子と
わたしは,おなじぐらい不自由な体をしてたんで,「竪山君,こうだった,あ
あだった」つってね,言うてきたですよ。
18 歳で自治会役員選挙に立候補
〔わたしは高校を中退して敬愛園に〕帰ってきてな,〔自治会の役員選挙に〕
立候補した。そしたら,それがまたな,20 歳(はたち)未満じゃが。〔しかし〕
なかったんですよ,規約のなかに。被選挙権の〔年齢の決まりが〕。ないもん
だから,選管が困っちゃったわけですよ。まだ未成年だと。だけど,その法が
ない,と。どうするか,ということになった。本人が「出る」と言ってきてる。
で,「規約を作らなかったわれわれがミスだ。これは認めにゃしょうがなかろ
う」ちゅうことで,わたしは敬愛園最年少の,それこそ 18〔歳〕で立候補し
て。で,当時,
〔自治会の役員は〕13 人か何名かだったですよ。40 票で通った
です。最下位。
〔敬愛園に戻って,政治をやろうと思ったのは〕このままじゃダメだろうと
思った。もう,嫌な思いばっかりしてきとるから。ね。こんな療養所でいいの
か,っていう思いがあったんですよ。こんな療養所であっちゃいかん,て。絶
対,いかん,これは。こんなに差別されていい? おれたちは人間のはずや。
人間としてわれわれは扱われとらん,っていう思いがあったんですよ。帰って
きて,まわりを見てみたらね,まだ,医療っていうものが充実してないわけで
すから。〔わたしが患者作業として付添看護をした病棟だけど〕死にゆく病棟
もあったんですよ。ここに入ったら必ず死ぬ,ちゅう。そこには,冷蔵庫もな
い。「冷たいみつ豆缶を死ぬ前に食いたい」というひとがおった。それ,どう
したかつったら,アイスボックスをわたし作らしたんですよ。アイスボックス
の中に氷を張って,みつ豆缶を入れて,冷やして,食べさしてやったことがあ
った。死んでいくときぐらいはね,ニコッて笑って死んでいってもらいたいち
ゅう思いがあったんですよ。それがぜんぶ,おふくろの顔に見えた。崩れとる
顔がな。みんなおなじような顔だから,崩れていけば。そういう思いがあって,
ああ,おれはこのひとたちのために,なんかせにゃいかん,っち思ったんです。
だから,どうしてもおれはやるっていうことでね,出た。で,40 票というね,
最下位だったけども,通してもらったですよ。
〔そのころ〕患者作業は,まだ返還の途中なんですよ。だから,ストライキ
をやりよったんですよ。食事運搬の係だとかそういうひとたちがな。その連中
がストライキをやれば,こんどは執行部の連中が食事運搬せンにゃいかんわけ
ですよ。そんなンでね,賃上げの要求があったりして。賃上げ要求があっても,
財源がなければ上げられんわけですが。で,代議員会に,賃金を上げてくれっ
ていう要請行動がきて。で,わたしがちょこっと,あることを言ったんですよ。
あの,食運には幽霊人口があったんですよ。じっさいはいないのに,それだけ
病違憲国賠裁判全史 第 6 巻 被害実態編 西日本訴訟(Ⅰ)』に収録されている。
162
福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
の賃金をもらってたんです,働いてるっていうことにして。で,「このなかに
幽霊人口ないですか?」って,わたし一言聞いた。それで帰っちゃったんです
よ,その食運の〔係の〕親分が。幽霊人口がなくって,足りないっちゅうんだ
ったら,話はわかるけれども,その幽霊人口〔の分〕を取っていながら,とい
うものがあったもんだから。それよりもなによりも,食運ちゅうたら〔作業賃
が〕高かったんですよ,ほかの部署よりも。だから,そういうことを,フッと
わたしが言ったら,そのまま黙って帰ったですよ,食運の大将がね。で,「竪
山君,どうして,そんなことがわかったんだ?」「いやぁ,幽霊人口つくって
ますよ。あんたたちが知らんばっかりじゃ」って,おれは執行部に言うたこと
があったですよ。だから,正当なもんだったら,正当でやらにゃいかん。だけ
ど,ストライキなんかしてね,みんなに迷惑かけて。ストライキやれば,当然,
飯の時間が遅れる。弱い者たちが食えないんですよ。食事しか楽しみがないの
にな。そんなこと,おれは好かんですよ,はっきり言うて。やるだけのことを
やってから要求しろ,っていう思いなんで。ほら,選挙で上がるわけだから,
そのひとたちの票も欲しいわけだけど,そこまで迎合したくない。だから,つ
ねに荒田〔重夫〕さんとおなじような立場で,一匹狼的なところがあったです
ね。荒田さんは〔裁判に勝った日に本名の田中民市に戻ったけど〕好きだった
ですよ,あのひとの生き方は。誰にも迎合しない,というね。
20 歳で脱走/逃亡者の暮らし
それからがおもしろいんですよ,わたしの人生は。20 歳(はたち)のときに
脱走したんです。ここにおったらいかん,一回は社会に出てみたい。
〔病気は〕
治ってないんですよ。でも,社会に出たくって。病気がいつ治るともわからん。
もう,ここにおったってね,これ,一生このままだ思うんだね。一回,社会復
帰したいと思って,20 歳(はたち)の誕生日に外へ出た。誰にも行き先も告げ
ないで。東京のな,社会復帰したひとが手引きしてくれた。「仕事があるから
出てこないか」って。で,そこへ行った。塗装の工場なんですよ。先輩もそこ
で働いてるわけですよね。逃げとるんじゃけど,そのひとも。そしたら,塗装
というのはおもしろいもんで,頭ひとつで,1 コのものを 10 コ,塗装できた
りするんですよ。ハンガーにぶら下げるんですよ,いろんなものを。それで塗
装するんですよ。このハンガーを工夫ひとつによっては,4 面にもなったり,
8 面にもなったりするから,1 回で数が多くできるわけ。2 時間かかるところ
が 1 時間ですむ。それやったところが,社長に気にいられて。「おまえな,住
民票,すぐ取ってくれ」っち。
「はい」。取らんわけですよ。住民票を取ったら
〔敬愛園の職員に〕逃げとる場所がわかるんじゃが。バレたら困るんじゃが。
だけど,おれ,左(こっち)の手がちょっと悪かったから,身体障害者っていう
のは一生懸命やらんとクビになるっちゅう思いがあるもんだから,仕事だけは
人の千倍するんですよ。そしたら,こんどはね,仕事ができると思ったら,そ
れ言われるんですわ。それ,1 ヵ所だけじゃなしに,わたしは 3 回,職を変え
た。「早く,住民票を取れ!」って怒られるわけやから,社長からな。
こりゃあ,こういう堅気の仕事はいかんつってな,パチンコ屋へ行ったんで
すよ。パチンコ屋へ行ったところが,こんだ,玉場っていうのがあって。いち
ばん大変な仕事。そのころは手で持ち上げてたんだから,5,000 発〔入りの箱〕
を。で,ドラムにボンボン投げ込んで,そして,シリコン入れて,蓋して磨く
163
んですよ。そんなことをやれば,真っ黒になるんですよ,体が。で,真っ黒に
なったついでじゃが,便所掃除もぜんぶ自分でやりよった。女のひとが,その
ころまでは,トイレ掃除って決まってた。「いや,せんでいい。おれがする」
つって,トイレ掃除もピッカピカになるぐらいやりよったんですよ。マネージ
ャーが見てる,その仕事のさまを。
「竪山,ちょっと来い」
。事務所に呼ばれて,
「住民票を取れ」。また住民票かぁ,困ったなぁと思ってね。またそこも,逃
げるようにして辞めたんですよ。あの,正式に辞めたことは辞めたんですよ。
「どうしても体が続きませんので」って。そのたんびにね,社長から呼ばれて,
「竪山な,おまえがどこへ行っても,嫌になったら,またうちへ帰ってきてく
れ」。わたし,3 ヵ所辞めて,3 ヵ所とも,社長から餞別もらったですよ。おん
なじこと言われた。
ヤクザの二号さんにかわいがられて
〔最後は〕もう,言うはならんぐらいの水商売やったです。ヒモだったです,
わたしは。自分で仕事ができなくなっちゃった。手足が痛みだして。そして,
ある水商売のね,女の子がわたしを養ってくれた。そのころ,東京のね,まだ
忘れもせんけど,池袋の西口,そこで,あるママに拾われて。そのママちゅう
ひとが,飯島連合会の〔親分の〕二号さんだったんですよ。そのママがわたし
をものすごくかわいがってくれて。「ナベさん」――おれはウソの名前を使っ
たんですよ。
「竪山」って使ってたら,わかったらいかんと思ったんで,
「渡辺」
。
それこそ印鑑があったもんじゃから。で,「ナベさん,あんたはね,手が悪い
し,うちの若い衆みたいに,墨を入れちゃダメよ。わたしに付いてきなさい」
つって,わたしを連れて回ったんですよ。池袋西口界隈ぜんぶ。そこらへんの
若い衆に,これはうちの子なんだ,だから,おまえたち,手を出すな,ってい
う思いで,ずうっと,わたしを連れて回るんですよ。それで,手帳を一冊,買
ってくれて,
「ナベさん,これを持っときなさい」
。
「なんですか,これ? ママ」
って聞いたら,「これは,そこらへんの親分衆」――の名前を書いとるんです
よ。
「なんか因縁をふっかけられたら,これを見せなさい。
『どこの組の方です
か? あとでご挨拶に伺います』って,それだけ言えばいい」。そして,それを
持たしてくれたんです。おれは気性が気性だから,〔道の〕真ん中しか歩いた
ことないんですよ。「端っこ,歩くな」って言われたから,ママからね。で,
池袋西口の,あんな物騒なところ,真ん中歩いていきよったら,むこうから,
一列くるんじゃが。これは,弱ったなぁ。真ん中歩けっち言われたからなぁ,
って,真ん中歩いてた。そしたら,パッて,むこうが避けてくれるんですよ。
〔わたしが〕ママと一緒に歩いてたちゅうのを〔若いもんが〕言うわけですよ,
兄貴分にな。そんなンだったですよ。池袋西口に,いまでも,メトロとかなん
とかっていう喫茶店があるんだけどな。その喫茶店の二階ちゅうのが,わたし
が,その女の子を迎えに行く間(かん),眠っとく場所だったんですよ。「おれ
寝とくから,上に誰も上げるな」つって。上でわたしはグウグウ寝とったんで
すよ。だから,ほんとに,池袋の西口界隈では顔だったんですよ。
多磨全生園に再入所
それが長く続くわけがない。夜の商売やからな。足に熱こぶが出てきて。
〔そ
のとき〕24,5〔歳〕だろうかなぁ。それで,多磨全生園へ行く前に,行った
164
福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
らまた隔離やなと思ったから,なんとか,薬局で〔薬が〕ないもんじゃろうか
と思って,池袋西口の薬局に行った。「あのぅ,ひょっとしたらおれはハンセ
ン病ちゅう病気かもしらん。DD なんとかちゅう,ハンセン病のいい薬がある
というが,売っとらんですか?」と聞いたところが,店のオーナーがね,笑い
だした。「お客さん,いまごろね,ハンセン病になるひとはいません」っち。
ハンセン病の患者を目の前にしてですよ。「そんな心配せんでいいです」。「そ
うぉ?」つってから,大笑いしたですよ,おれは。しかしな,バレんやったと
思って,ホッとしてね,店(そこ)から出たんじゃけども。ああ,これはムリ
だなと思ってね。やっぱり,病気,薬飲まんといかんやろうねと思って,薬だ
けもらおうと思って〔全生園に〕行ったんですよ。
だからね,あのころというのは,〔薬局の店先に〕イライラとかなんとかっ
て書いてあるんじゃが。あの,ヒラヒラする布に。ほら,はためいてるわけよ。
「イライラなんとかに,なんとかかんとか」って書いてありゃあ,
「ライライ」
って見えるんじゃが。それこそ,プロレスラーの「スタン・ハンセン」つった
らな,ハンセン病と思うわけやが。
「反戦歌人」,ああいうのがテレビで〔音声
が〕流れると,パッと見るわけですよ。それぐらいピリピリしとるんですよ。
逃亡者といっしょやから。見つかったら大変という思いがあるからな。そうい
う意味ではね,見つからないようにどうしようかということが精一杯。まぁ,
そういうなかでね,これはもう,年貢の納め時かな。
〔でも,ひょっとしたら〕
行って,薬をもらって来れるんじゃないかっていう思いで,多磨全生園に診察
に行ったんですよ。「なんとか薬だけくれんか」って言ったら,平子(ひらこ)
先生って,もう亡くなったけどな,「おまえな,このままやってたら命を落と
すぞ」って。
「ハンセン病で命を落とすことなかろうが」って言ったら,
「ハン
セン病では命を落とさんでも,そのぐらい大変な状況だ。いま,おまえが〔こ
こに〕入らんやったら,わしは,おまえの体,責任はもたん」って言われたで
すよ。
「どうしてもか?」
「どうしてもだ」。そのまま,入院だったですね。
で,その女の子に言うて,「おれ,ここに入るから,おまえはふるさとへ帰
れ」と。北海道の子やったから,北海道に帰したんですよ。
全生園では揉め事の立会い役
多磨全生園に入ったら,ほら,ヤクザみたいなもんですよ。誰がなんだかん
だ言うても,言うこと聞かん。森元美代治なんちゅうのは,あの夫婦(ふたり)
が結婚したときなんかは,おれが全部,あっこの部屋の壁を塗装してやったん
ですよ。それよりもなにも,「竪山君,ぼくはなぁ,エミコと一緒になろうと
思ってる。部屋のひとたちはみんな賛成してくれたんだけど,〔事務〕別館が
オーケーを出してくれん。どうしてもダメみたい」「部屋のひとたち,いいっ
て言うんか?」って言ったら,「みんながいいって言ってくれる。だけど,別
館が許してくれん」
「わかった。おれと一緒に行こう」。森元美代治を連れて行
ったんですよ,別館にね。福祉室ちゅうんかな,いまはな。で,福祉室のテー
ブルの上に,トーンとおれが飛び乗って,そこに座って,「おい,森元が夫婦
舎に行きたいちゅうんじゃが,夫婦舎がないらしいが,どうしたんじゃ? ね
ぇのか?」って言ったら,「いやいや,あります,ありますよ」って。そした
ら,森元君があの調子で,「なんとかさん,あなたはぼくにないって言ったじ
ゃないですか」って言うわけですよ。「美代治,おまえが,そんな」――慶応
165
ボーイじゃからな――「坊ちゃん,坊ちゃんしたこと言うから,舐められとン
や,この連中に!」って,おれが言ったわけですよ。
「あるんか!」つったら,
「あります」と言うから,「そこへ入れてやれ!」もう,ほんとに,そんなン
だったですよ,多磨全生園ちゅうところは。職員がね,もう,患者さんをもの
すごい,そういう威圧的な目で見よったんです。
おれは,多磨全生園でも威張って,真ん中ばっかり歩きよった。だから,自
治会の〔役員〕連中,おれを好かんわけですよ。もう,とんでもないのが入っ
てきたちゅって。〔そういうわたしの再入所を,よく全生園の自治会が認めた
ものですね,だって?〕人道的な立場からとかいうようなかたちで,救護する
わけですよ,医者が。平子真(ひらこ・まこと)っていう,
『らい療養の実際』ち
ゅう本を書いたひとで,ものすごく頭のいいひと。このひとはまた,一部の患
者からものすごく信頼されてたんだけど,自治会とはよく揉めよったひとで,
医者間でもちょっと嫌われてた。そういうひとだから,「患者がここに来たも
んを受け入れんとはナニゴトだ! こんなのを追い返すことができるか! こ
れは,わしの責任で診るんじゃ」っていうぐらい,やってくれたわけです。
自治会としてはおもしろくないんですよ。自治会の了承も受けんで入ったと
いうことでね。そのときの自治会の会長は H だったんじゃないかな。おれが
裁判を起こしたときも,西日本(うち)の弁護団が東京でも〔裁判を〕やって
くれちゅうことで行ったんですよ,多磨全生園に。そうしたら,あとで聞いた
話やけど,「竪山がやってる裁判だろ。お手並みを拝見さしてもらおう」つっ
たのが,あの H や。あれは,おれの前でそんなことは言わんからね。怖がっ
て,よぉ言わん。おれは,それ知らんもんじゃから,〔熊本地裁での勝訴判決
のあと〕東京の弁護団から「竪山さん。東京,〔追加の〕提訴やる」。で,「入
廷行動を一緒にやってくれ」
「誰とやるんじゃ?」つったら,
「H じゃ」ちゅう
わけ。
「H さんが 1 人じゃ心許ないから,あんたも一緒に入ってくれんか」
「わ
かった」つって。H と 2 人で,わたしは入廷行動やったんですよ。そんなこと,
おれ知らんもんじゃからな,一緒に記者会見もしてやったんです。
それで〔話を戻すと〕,なんか喧嘩があるとこだ,全生園(あっこ)はな。で,
喧嘩があったら,
「竪山さん,立会いになってくれ」
。喧嘩の立会いですよ,お
れは。で,森元が泣いてきてな,またな。
「どうした?」つったら,
「S ちゅう
のが,病棟で,ちょっと生意気じゃ。みんなで話し合いもつから,竪山さん,
仲へ入ってくれ」
「わかった」。で,
「S,おまえ,そこ。おまえたちは,こっち」
。
2 つに分かれて。で,おれが真ん中に,こうして陣取って,椅子にあぐらかい
てる。
「話,始めんか」。で,こうこうこうこうこうこうって言うわけじゃ。そ
したら,その S ちゅうひとを,ものすごく怖がってるわけですよ,みんなが。
そのひとが,パッて,こう,手を浴衣の中に入れたら,みんなが身構えたです
よ。なんか出すんじゃないかと思って。「おい,煙草を出すなら,煙草を吸っ
ていいですかって,ひとこと言え」。そう言ったんです,おれは。
「みんな,怖
がるよ。
〔懐に〕煙草,入っとるんじゃろ」つったら,
「煙草を出すところです」。
で,〔一通り〕話を聞いて,「S,おまえも悪いな。こんなこっちゃなぁ,嫌わ
れるが,みんなから。おんなじ部屋なんだから,もうちょっと,みんなと仲良
くせぇよ」って言ったら,
「わかりました」。
「森元,それでいいか」
「いいです」。
そんなンよ。だから,多磨全生園の連中ちゅうのは,怖かったはずよ,おれが
な。ある意味じゃな。
166
福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
跳ねっ返りでなきゃ,この訴訟はできなかった
ほんとに,怖いもんがないんですよ,わたしは。他人(ひと)がなんと言お
うと,それは他人(ひと)の勝手。言いたいなら,言え。だけど,おれはこの
道を歩くんだから,おれの邪魔だけはするな。だから,わたしは跳ねっ返りな
んですよ,もともとが。でも,跳ねっ返りもンでなきゃ,この訴訟なんかでき
なかったんですよ,はっきり言って。〔長島愛生園の〕千葉龍夫。千葉龍夫が
「竪山,おれのことを覚えてるか?」
「覚えとる」
「ありがとう。わしらも,裁
判できるか?」って,電話きたんですよ。「原告になる予定者はおるんか?」
って言ったら,
「おる」ちゅう。
「そのかわり,わしのような連中ばっかりじゃ」
「いい,いい。わかった。うちの弁護団,寄越すから,待っとけ」。それが,
瀬戸内提訴の始まり。そして,かれらは「自分たちが表に出れば,うまくいか
んから」つって,一歩引いたんですよ。まともなひとたちを前に出したんです
よ。でも,瀬戸内提訴っていうのは,千葉龍夫がいなければできなかった。
〔彼
の民族名は〕千龍夫(チョン・ヨンブ)。跳ねっ返りもんだから,自治会のなかで
は嫌われもんの部類。そういう者が前面に出てしまえば原告になるひとが少な
いだろうちゅうことで,一歩引いたんですよ。
〔控訴阻止のために小泉首相と会うときに〕彼をわたしは総理官邸に引っ張
り上げたんですよ。
「来い」っち。
「おまえがおらんやったら,瀬戸内提訴はで
きとらんが。瀬戸内を代表して,おまえ,出てこい」。だから,あれぐらいの
もんでしょう,ジーパン履いて総理官邸へ来た男は。わたしがマイクを千葉さ
んに渡したら,「やっと,人間になれました!」って,彼はそう叫んだんです
よ。
控訴断念を 120 パーセント確信
うちの弁護団は,「どっちかちゅうと,聖人君子は使いたくない」ちゅうん
ですよ。
「訴訟やるのは半端者(はんぱもん)じゃなきゃできん」っち,徳田〔靖
之弁護士〕がとくにそう言う。だから,
「この場は,竪山さん,あんたに任す」。
控訴断念の闘いのときは〔当初は〕4 人しか発言者を許さなかった,9 人のな
かで。4 人ちゅうのは,曽我野一美(そがの・かずみ)が〔原告団の〕代表だから,
控訴を断念してくださいという趣旨説明をする。
〔星塚敬愛園の〕日野弘毅(ひ
の・こうき)と〔菊池恵楓園の〕西トキエが自分(わたし)が受けた被害を述べる。
そしておれが,最後に,総理から控訴しないっていう言質を取る。〔そう〕決
まってた。だけど,その 4 人目のわたしが〔予定の通りには〕やらんやった。
そのとき司会をやった東京の弁護士の安原〔幸彦〕に「まわせ」って,おれが
言ったんですよ。そしたら,安原がパッて察知して,「総理,せっかくですか
ら,日本全国から来ておられますから,一言ずつしゃべらしてください。挨拶
さしてください」。そして,みんな一言ずつ回したんですよ。だから,40 何分
になっちゃったんです。最初は,10 分か 15 分の予定が。それで,最後にわた
しに回ってきたんで,「総理,この問題は,永田町のモノサシで考えちゃいか
ん。永田町のモノサシで考えたら,間違いを起こす。このあいだ,あなたのテ
レビを見てたら『政治はやっぱり愛だな』とおっしゃった。わたしも,そう思
う。その愛で,この問題と取り組んでもらいたい」。それだけ言ったんですよ。
言質は取る必要ないと思った。勝ったと,おれは思ったからね。総理が来た瞬
167
間に思った。何かつったら,総理はものすごく,足が速いんですよ。ササッサ
サッと来るひとなんですよ。ササッササッと来て,自分の席に着いたら,控訴
ありと,おれは思ったんですよ。で,ザワザワッてざわめきがあって,ひょっ
と見たら,後ろのほうから握手しながら来るんじゃが。総理が一人ひとりとな。
勝った! 断念じゃ。これはもう,間違いない。で,記者会見のとき,「控訴,
ありえません。120 パーセントないです」
「総理がそうおっしゃったんですか?」
「言わん。だけど,控訴はありえません」。そう〔わたしは〕言いきったんで
す。
もうひとつはな,前法務大臣の保岡興治(やすおか・おきはる)に,あることを
飲ませちゃったんですよ。――小泉純一郎っていうのは秘書官にもほんとのこ
とを言っとらんだよな。飯島勲の『小泉官邸秘録』のなかにも出てこないんで
すよ,なぜ控訴を断念したかっちゅうことが。それはもう,断念せざるをえな
いように,話をもっていったんですね。何かつったら,小泉がどうしたら控訴
断念するやろう,ということしかなかった,わたしたちは。あのときはね,ち
ょうど小泉人気が最高潮に達するころで,控訴断念のときがいちばんピークな
んですよ。で,小泉さんは基盤がないのよ。国民世論しかないんですよ。それ
しかないとすれば,何をやればいいかっていうことを考えた。で,わたしと八
尋光秀(やひろ・みつひで)
〔弁護士〕とふたりして,保岡興治に会ったんですよ。
「会ってくれ」つったら,
「竪山さん,なんか,秘策でもありますか?」
「ある。
あるから会うてくれ」
「わかりました。お会いしましょう」ちゅうことで。YKK6
の,山崎派の大番頭だったわけだから,保岡は。前法務大臣だから。現法務大
臣じゃないから,総理としても話しやすいわけですよ。かならずや保岡に聞き
にくる。どうしたもんかちゅうことをね。で,あのときは,控訴して和解,て
いうのが主流だったわけですから。
「ヨシッ,それじゃったら,保岡に会おう」
ちゅうことで,わたしと八尋弁護士(かれ)とふたりで,
「どうするよ?」って
いう話をしながら行ったんですよ。で,
「どういう秘策がありますか? お聞か
せください」ちゅうことだったから,「もし控訴したら,控訴し返しますよ。
和解,ありえません。そしたら,総理の人気は潰れますよ。控訴して和解ちゅ
うのが,いちばんわかりにくいですが。そんなこと,国民,望んでいない。
『控
訴しない』って言うんだったら,スパッとする」って。「じゃ,それにはどう
したらいいですか?」って言ったから,「国の面子,政治家の面子,官僚の面
子が立てばいいんでしょ。これを立てればいいじゃないですか」「どうして立
ちますか?」
「政府声明を付けたら,どうですか? 政府声明のなかに,国の面
子,政治家の面子,役人の面子を入れればいいじゃないですか。そして,控訴
を断念する。どうですか?」つったら,ポーンと膝を叩いた,保岡が。「竪山
さん,わかった。いただいときます。このことは極秘にしておいてくれますか」
。
1 日ぐらいたった次の日やったな,保岡から電話がきた。「竪山さん,いま,
総理からお電話がありました。その旨を伝えておきました。ただし,総理がど
うご判断されるかはわかりません。このことをどなたにも言わないでおいてく
ださい。官僚たちは,あいかわらず,控訴して和解の線で進んでおります。す
べてがそれで進んでます。だから,このことはご内密に」
「わかりました」。そ
6
一時期,自民党のなかで,大派閥である経世会(竹下派)に対抗する勢力として,
山崎拓,加藤紘一,小泉純一郎の 3 氏が YKK と呼ばれていた。
168
福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
して,バタバタッと総理との面談が決まっていった。あ,その線で総理が決断
したって,わたし,腹の中でそう思ったんですよ。だから,言質を取る必要な
んかないって思ったんですよ。そこを時を過ごせばいい。
「被害者が加害者に頭を下げるって,こんなバカな話がどこにあるか」
「竪山さんと千葉さん,ふたり座り込んでください,
〔控訴〕断念できなかっ
たら。骨はわたしたちが拾(ひら)います」つったのが,徳田〔弁護士〕です
よ。
「わかった」
。――なんで,竪山と千葉かっていったらな,竪山と千葉は半
端者じゃから。弁護士の言うとおりは,動くんですよ。〔他の〕ひとの言うと
おりは動かんとですよ。それぐらい,徳田〔弁護士〕とわたしたちの絆という
のは,深いものがあった。
だから,わたしが国会議員を前にして怒ったときも――これも「人間として」
ちゅう DVD に入ってるけど,国会議員の連中を前にしてね,わたし怒ったん
ですよ。「なんで,加害者であるあなたたちに対して,わたしたちが控訴を断
念してくださいつって,一軒一軒まわって,頭を下げンにゃならんのじゃ」っ
ち,ものすごく怒った。マスコミが飛んできた。で,その模様を撮っちゃった
んですよ。「被害者が加害者に頭を下げるって,こんなバカな話がどこにある
か」。そのときも,
「竪山さん。この場は,あなたと千葉さんに任せます。思い
のたけを語ってください」と,徳田〔弁護士〕が言った。ああ,また,徳田が,
おれに喧嘩せい,ちゅっとるんじゃと思ったですよ。「わかった」つって,お
れがバァーッてやったわけですよ,思いっきり。徳田〔弁護士〕が,むこうの
ほうで〔両手で大きなマル印をつくった〕。で,ちょっと引いたかたちを取っ
て,千葉に渡したんですよ。演技ですよ,そんなものは。弁護士ちゅうのはね,
こいつは何ができるかっちゅうのを見る。そして,これにしゃべらしたら何を
しゃべるか,わかってるんですよ。人を使うのは,弁護士,うまいですよ。頭
のいいやつは,絶対使わん。なぜかつったら,頭がいいのは自分の勝手に動く
から。頭の悪い人間はな,こうとしか行けないんですよ。馬鹿の一本気なんで
すよ。だから,「竪山さんと千葉さんに任せる」つったときは,はぁ,また,
おれに喧嘩せい,ちゅってるんじゃなって。
法廷でもひと暴れ
法廷でもそうだったんですよ。おれの法廷,見てないか。そンときな,〔原
告団代表の〕曽我野一美が,全療協〔の前身の全患協〕の会長のころ「損害賠
償を請求するようなことはしない」って言った〔ことがあった〕
。で,
〔曽我野
の〕原告本人尋問,おれの後じゃったんだ。だから,「竪山さん。竪山さんの
ときに,法廷を荒らしてください。机をひっくり返そうがなにしようがかまわ
ない」って。なぜかつったら,曽我野さんがそういう傷を負うてるから,〔国
側は〕そこを責めてくるやろう。それがあるから,そこで暴れれ,ちゅうこと
やったんですよ。そして,おれも言いたい放題のことを言った,法廷で。尋問
があって,
「竪山さん,学校の勉強はどうでした?」
「うん,おれは,学校の勉
強,好きやったなぁ」
「小学校のころ,なんか言われましたか?」
「うん,悪い
けどな,おれは神童って言われた」。で,
「なんか夢がありましたか?」
「うん,
夢は東大に行くことやった」っち,のうのうと言ったですよ,裁判長の前で。
いちばん最後にな,
〔国の代理人が〕いろんなこと聞いた。
「竪山さん,あんた,
169
車を何台持っていらっしゃいますか?」って言われたからな,
「5,6 台あるん
じゃねぇか」って,おれ言ったのよ。「それが,どうした?」って聞いたら,
「高級車ですね,ぜんぶ?」って。
「1 台はな,
〔トヨタの〕クラウンマジェス
タ,もう 1 台はクラウン。もう 1 台は日産のシーマ。みんな高級車ですよ。高
級車でないとな,うちの原告たちが,熊本地裁(ここ)に連れてくるのに,酔
うんじゃ。高速を走るからな,潰れるような車じゃ困るんじゃ。高級車ですよ。
それが,どうしました? しかしな,あんたたちが高級車,高級車っち言うが,
おれの高級車は高級車でもな,ぜーんぶ,10 万キロ以上乗っとるぞ。中古車
屋さんで買ってきた代物(しろもん)じゃ。この裁判を始めるために。じいちゃ
ん,ばあちゃんたち,みんな酔うんじゃが。車に乗ったことないから。どう酔
わさないでここに連れてくるか。どう無事にここまで連れてくるか。おれとう
ちのかみさんの 2 台で連れてくるんじゃ。高級車ですよ。だけどな,
〔値段は〕
あんたたちが持ってる車のな,半分もせん。なにをもって,高級車って,あん
たたち言うか!」っち,おれ言ったんですよ7。
7
2014 年 6 月に鹿児島県鹿屋の星塚敬愛園を訪ねたとき,社会復帰生活をおくる竪山
勲さんとカラオケに行った。そこでの補充の語り。
なんで 5 月 11 日だと思います,判決は? 3 月ぐらいかな,結審が。〔結審か
ら判決まで〕あいだが空きすぎた。なんでだろうって,ザワザワって弁護団は
やってたんですよ。
「うん,勝った!」っち,おれ,そのとき言ったんです。
「な
んでですか?」
「5 月 11 日でなくちゃいけないんだよ。おれが原告本人尋問を受
けた日だもの」。1 年前の 5 月 11 日,そンときに裁判長がおれにこう言った。
「竪
山さん,最後になんか言っておくことありませんか?」
「裁判長,わたしとあな
たとは同世代を生きた人間だろうと思う。もしあなたがわたしで,わたしがあ
なただったとして,あなたもわたしと同じような被害を受けたであろう。この
裁判を勝たしてくれとは言わん。公正な裁きをしてほしい」。それだけ言って,
終わったンですわ。1 年後の 5 月 11 日に判決を言い渡す。裁判長(かれ)がおれ
に答えを出す日は 5 月 11 日でなくてはいけなかったんだ。
なお,竪山勲さんの陳述書と法廷でのやりとりは,『ハンセン病違憲国賠裁判全史
第 6 巻 被害実態編 西日本訴訟(Ⅰ)』547~593 頁,とくに 579 頁を参照のこと。
また,『読売新聞』2001 年 8 月 28 日から始まる連載記事「裁く 第 4 部 正義の座
標」には,この竪山さんの語りを裏付ける記述がある。画期的な判決文を書いた杉山
正士裁判長の心証いかんも伺えるので,前後も含めて引用しておきたい。
「控訴断念」――。自宅のテレビ画面に白く浮かび上がる四文字を,福岡地裁
判事,杉山正士(51)は,かすかな驚きをもって見つめていた。5 月 23 日,夕
刻のニュース。前任地の熊本地裁で,裁判長として書き上げた「ハンセン病国
家賠償請求訴訟」の一審判決が,控訴期限まで 2 日を残して,被告・国を“ね
じ伏せた”瞬間だった。……/「新聞などには,『(国側は)控訴後,和解する
方針』といった論調が多かったからですね。良かったなと思いました。素直に
感動しました」/今月 17 日,福岡地裁でインタビューに応じた杉山は,一つ一
つ言葉を選ぶように,その時の思いを語った。(「裁く 第 4 部 1」2001.8.28)
ハンセン病国家賠償請求訴訟の裁判長・杉山正士(51)は,結審までの 2 年
半に,陪席の判事補 2 人と手分けして,西日本の 5 つの国立療養所に足を運ん
だ。/「環境が問題になっている訴訟では,そこへ行くようにしている。写真
だけで見るのと全然違う。特殊性が分かるから」と,杉山は言う。……/証言
した療養所の園長は,裁判所に提出した陳述書に,
「裁判の結果は入所者の処遇
の枠組みに大きな影響を及ぼす」と書き,もし賠償金が支払われれば,処遇の
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福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
園長命令で全生園から敬愛園へ強制送還
したら,こんどは,「竪山さん,あんたは」――あっ,おれは,東京の多磨
全生園から帰ってくるとき,看護婦をぶん殴ったんですよ。あの,親父が亡く
なった〔ことをはじめて知った〕ときのことで。それを知らんで〔いて〕ね。
〔突然,親父の死を知って〕眠れんで。で,〔朝方〕うたた寝してたら,看護
婦がおれを,こう,バン,バンッて,ど突きながら,起こしたのがおったんや。
パッと目が覚めて,「なんか,おまえ,ひとをど突きながら起こすバカがおる
か!」くそっ腹が立ったもんだから,パッと立ったとたんに,殴ったんですよ。
そしたら,ドテーッてひっくり返ったんですよ。で,おれ,また,そこへ寝て
た。まぁ,それが事件で,おれは強制送還されたんです,敬愛園に。
そんときに,硲(はざま)
〔省吾〕ちゅう先生が,
「竪山君,どうしたんじゃ?」
ちゅうから,「いやいやいや,手をだしたのは,おれの負け」。「どうしてほし
い?」「合法的に処置してください。法治国家やから合法的にやってくだされ
ばいいです」って言ったんです。そしたら,園長命令でもって強制送還ですよ,
敬愛園に。そして,それを止めることができなかったつって,硲先生は「きみ
がこうするには,なんらかのことがあったんじゃろう。きみが訳を言わんから,
わからんけれども」ということで,おれの飛行機賃ぜんぶ出したんですよ。
「ぼ
くは〔きみの〕主治医だから」って。――それ,
〔法廷で被告国側の代理人が〕
「竪山さん,あんたは,どうして,多磨全生園から帰られましたか?」
「おお,
ちょっとした事故があってね」
「事故ですか?」
「おお。それがどうした?」つ
ったら,
「いや,そのことについてお尋ねしたいんですが」ちゅうから,
「うん。
しかし,おまえ,それを聞いたら,おまえたち困りゃせんか」っち,おれ言っ
たんですよ。たしかに,こういうことがあった。だけどな,「法治国家だから
合法的に処置してくれって,おれ言ったんだよ」と。「合法的にやれつったも
のをな,強制送還さしたのは,裁判長でもなんでもねぇぞ。園長だぞ。それが
水準が引き下げられる可能性をにおわしていた。……/最後に,杉山が穏やか
な表情で尋ねた。「裁判を受ける権利は分かっていますか」「裁判の結果で,処
遇を下げることには賛成ですか」。園長は「反対です」と答えるしかなかった。
/訴訟を通じ,「血を流しながら」(八尋光秀弁護団代表)身の上を語った原告
は 24 人。/「現実の被害がだんだんはっきりしてきて,その重大さが肌身で感
じられるようになった」。杉山はしんみりした口調で振り返る。「とりわけ,自
分と同じ年代の原告の話には強烈な印象を受けた。自分の生きた時代と照らし
合わせて,
『あのころはそうだったのか』と考えると,身につまされる思いだっ
た」(「裁く 第 4 部 2」2001.8.29),下線は引用者)
杉山が,
「高裁や最高裁で覆ると紛争の解決にならない。上訴されても維持さ
れるよう全力を尽くした」と語る判決には,
「従来の判例の流れからすると,思
い切った法解釈」
(法務省幹部)がいくつも示されていた。……/この訴訟で国
側は,①隔離規定は 70 年ごろから形がい化し,新たな被害は生じていない②そ
れ以前の被害には,20 年たつと権利は消滅すると定めた民法の「除斥期間」が
適用されるので,賠償請求はできない――と主張した。しかし,判決は,数十
年の「人生」を丸ごと「被害」ととらえることで,除斥期間という「時間の壁」
を乗り越えたのだった。/杉山はこの言葉にたどり着いた理由について,
「隔離
による被害が長期化すると,そのように表現せざるを得ないんじゃないでしょ
うか」とだけ説明している。(「裁く 第 4 部 3」2001.8.30))
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法治国家のやることか!」っち,おれ,やったわけですよ。で,ほら,みんな,
おもしろいわけですよ,それ聞いてて。笑っちゃう。「そんなことを言わした
ら,おまえたちが立場が悪くなるぞ。それでも言わないかんかな」って,おれ
言った。
「しょうがないから言うよ」つってな,そのことを言ったんだけどね。
こら,やっぱり,落ち度ですよ。園長に司法権までね,与えてしまってるわけ
だから。裁判受けてな,裁判長がそう言ったんなら,それはしょうがないが。
そんなことなんにもせんでよ,園長の命令で一方的に敬愛園(ここ)へ帰した
わけだから。
父親の死と殴打事件の真相
〔敬愛園には〕昭和 50 年に帰ってきとると思う。親父が亡くなって,満 6
年後だった。それを,おれは東京で聞いたんです。それは,音信不通にしてお
かなくちゃいけなかったもんだから。やっぱり〔家族の〕みんなに迷惑をかけ
ちゃいかんちゅうことがあって,おれは親父とのやりとりができなかった。そ
れこそ「夢見たふるさとの空」なんですよ。で,鹿児島県の予防課のものが東
京〔の多磨全生園〕に来たときに,「うちの親父はどうしてるか,ちょっと調
べてみてくれんか。内々で」って言ったんですよ。そしたら,文書が来た。
「あ
なたの父上は,昭和 44 年 4 月 24 日,66 歳でお亡くなりになっておられます」。
生きてると思っとるんじゃが,こっちはなぁ。そんで,眠れんでね。朝方うと
うとうとうとして,ちょっと眠ったかなと思うころ,起こしに来たわけですよ。
「こら,起きらんね! 起きらんね!」
おれは強制送還受けて帰ってきたんだけど,全生園(そこ)の看護婦たちか
ら餞別をもらった。信じられんでしょ。殴られた〔看護婦の〕同僚たちが,わ
たしにカンパをしてくれたんですよ。帰るのにおカネがないだろう,つって。
その看護婦にわからんようにな,薬の袋の中に千円札が何枚も入ってね,薬を
持ってきたようにして渡したんですよ。「これ,みんなの気持ちです」って。
なぜかつったら,その看護婦がものすごく横暴な人やった。不自由な入所者(ひ
と)たちがおしめを着けとるじゃないですか。おしめ着けとるちゅうことは,
ウンコしますわな。「また,こんなぁ!」つって,そのおしめを振り回すぐら
いの人だったんですよ。それで,患者にも受けが悪かったが,看護婦仲間でも
ものすごく嫌われた人だった。たまたま,その人やったもんだから,みんなが
「竪山さんが怒る気持ち,わかる」ってことでね,ぎゃくに,わたしに同情し
たわけですよ。強制送還されるわたしに餞別までくれた。
鹿屋の町でもヤクザに一目置かれた
ま,しかし,わたしの人生ちゅうのは,そんなヤクザな人生じゃからな。だ
けど,おれが勝手にヤクザになったわけじゃないよ。おれは真っ直ぐ歩いてる
つもりなのよ。なんにも悪いことしてるつもりはないのよ。ただ,極悪非道な
ひとに見られたな。うん。
そんなンで,鹿屋の町でもそうですよ。わたしが歩いたら,鹿屋の町のヤク
ザの連中が一歩も二歩も引いてくれます,いまでも。なんでかつったら,敬愛
園の職員のひとがね,ヤクザもんに 300 万〔円〕貸した。返ってこない。そし
て,そのひとは勇気をもって裁判までやったんや。で,差押えまで行ったわけ
ですよ。「竪山さん,差押えちゅうところまで来とるんだけど,執行官が差押
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福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
えしてくれん。怖がって」
「わかった。おれが行ってやる」
「お願いします」ち
ゅうから,執行官のところに行って,
「あんた,なんで差押えせんのか? おれ
が付いていくから,心配せんでいい。あんたには手一本も出させん」つってか
ら,連れて行った。そしたら,H 三兄弟つって,ひとりは柔道の大家。もう,
喧嘩のプロ,みんな。その 3 人が並んでるんですよ。そこに,こんな飄々(ひ
「いまから強制執行するから,おまえた
ょうひょう)とした人間がな,行って,
ちは手を出すな。公務執行妨害でやられるぞ」。して,入ったんですよ,それ
だけ言って。むこうで,苦々しく,こうして見とるわけですよ。ぜーんぶ,こ
れも,これも,あれも,これも,ある品物ぜんぶ,差押えをさしたんです。そ
したら,それやってる最中に,金貸しの I ちゅうのがやって来た。彫り物をし
た立派な机。ヤクザもんが好むような。「これは,ワタシの机だ!」って。韓
国のひとやから,そんな言い方できたんです。「あんた,誰なの?」って聞い
たら,
「ボクは I というもんだ」というから,
「I さん,いま,ここでものを言
わんほうがいい」「なんでだね。これは,ボクのだ」って言うわけよ。「いや,
あんたが,いくら,これはぼくのだつっても,これがあんたのだという証拠は
ない。あとで異議の申立てができるから,ちゃんと筋を踏んでくれ。いま,こ
こでグズグズ言うたら,公務執行妨害じゃが。そんなことするな!」そしたら,
文句言いながら帰ったんですよ。それで,ぜんぶ差押えさして。
で,帰り際に,
「おまえたち,少しずつでもゼニ払わんか」っておれ言った,
その 3 人にね。
「月に 30 万ずつ払えば,10 ヵ月で 300 万じゃ,ほんなものは」
って。キャバレーなんかやっとるんじゃから。「それぐらいのカネ,なんとか
なるやろ。おまえたちがその気やったら,競売(けいばい)はせんで,そのまま
置いとくから,どうだ?」つったら,「わかりました」。そして,毎月 30 万ず
つ持ってきたんです。だけど,最後のほう 3 回ぐらいは,「竪山さん,また今
月も持ってきた。だけど,これ見てください」
。新札じゃない。使った 30 万,
分厚いのが,不祝儀用の,蓮の花がついた袋(やつ)に入れて持ってくるわけ
ですよ。意地悪で。
「ありがたくもらっとけ。そんなものは」って。
「ゼニが入
っとるんじゃろ,ちゃんと。足らんのやったら,おれが文句言ってやる。なん
であろうと,ゼニさえ入っとけばいい」
。で,300 万戻ってきたですよ。
それで,10 ヵ月もかかってるもんじゃから,差押えしてからな。〔途中で〕
「競売さしてくれ」ちゅうんじゃが,執行官が。
「あんた,できもせんくせに,
よく言うな」って,おれ言ったの。
「それやっちゃえばな,300 万取れるの? 足
らん分,あんたが払うか?」っち,おれ言ったよ。だけど,ヤクザもんという
のは,世間体を気にするんですよ。それが競売されてごらん。世間の物笑いに
なりますが。それをいちばん嫌うのを知っとるから,そうやったんですよ。そ
うしたら,ぜーんぶ返した,300 万。その連中が,いまでも,ラーメン屋やっ
てる。いま,好々(こうこう)爺やになってる。ときどき会う。「おまえたちも
おとなしくなったな」って,おれ言うんだけどな。「はい,おかげさまで」っ
て言ってるわ。ほんと,そんなンですよ。
菊池医療刑務支所で藤本松夫の隣の房に入っていた人がいた
おれが東京の多磨全生園から〔敬愛園に〕帰ってくるときに,〔入所者の〕
西山〔文夫〕さんが,もともとのヤクザもんじゃから,時の藤原〔頼高自治〕
会長が,「おまえが身元引受人になって引き取れ」と。それで,うちの兄貴代
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わりなんですよ,
〔このあいだ亡くなった〕西山さんは。あれが唯一,あこの,
熊本の医療刑務所に入ってて,ほら,〔無実なのに死刑にされて〕殺された藤
本松夫の,隣〔の房〕に入ってたのよ。もう,この男もまた,真ん中しか歩か
んのや。それで,敬愛園でいちばんの嫌われ者で。とにかく誰も相手にせんわ
けです,怖いから。こんなン背が高いわけやから。で,講道館柔道やってた男
やから。昔は,北九州の付近で,石井組の組長ちゅうやつをな,ピストル持っ
て追っかけよった男やから。それで,医療刑務所に,あれも入れられて。そし
て,敬愛園に来たんです。「藤本はな,こんなこと言いよったぞ」と,よく言
うたですよ。それで,その藤本事件を扱ったのが〔「新・あつい壁」の〕映画
監督の〔中山節夫〕。〔中山監督に〕「なんで,おまえ,西山さんの話を聞かん
か!」って,おれ言ったんだけど〔取材しなかった〕。「そのかわり,おれは,
おまえの映画には協力はできん」っち,おれ言ったの。
自治会の副会長をしたことも
〔さっきも言ったように〕多磨から帰ってきて,しばらくして肋膜やったん
ですよ。〔で,おかげで〕治っちゃった,ハンセン病が。6 ヵ月で治っちゃっ
たんですよ。それで,それまでものすごいきてた神経痛がピタッと止まったん
ですよ。看護婦が気色悪がってね,
「竪山さん,痛み止め,いらんの? 我慢し
なくていいよ」って言ってくるんじゃが。「神経痛の親分」ってあだ名された
ぐらいのものが,ピタッと止まっちゃったから,看護婦が気持ち悪がった。
「ほ
んとに痛くないの?」
おれはね,その二渡所長にね,「二渡先生,わたしのらい病をあんたが治し
てくれた」って言った。「ありがたかった」って。もう,ほんと,事実,そう
だからね。こんな一石二鳥な話,ないじゃないですか。おれは,もっと早くね,
肋膜になってたら,あの先生だったら治せたんじゃないかと思うんですよ。ま
ぁ,しかし,すごい先生ですよ。二渡所長つったら,結核の,世界でも,有名
な先生ですよ。
〔病気が治ってから,また敬愛園の自治会の選挙に出て〕いろんな仕事やっ
たね。自治会の代議員,常任委員。常任委員ちゅうのは,執行部。副会長もや
ったし。〔副会長をやったのは,川邊哲哉(かわなべ・てつや)会長のときに〕川
邊を降ろすために。川邊を降ろすためにちゅうのは,どういうことかつったら,
川邊が「これが最後,これが最後」つって,何回も出たんですよ。で,
「竪山,
これが最後じゃから,なんとかしてくれんか」って。「あんたの〔言う〕最後
は,最後じゃないがな。いままでどんだけ飽きられとるか」って。で,「ほん
とに,最後にするか?」って,おれ言ったんですよ。それで,「おまえが〔お
れの副会長を〕受けてくれるんやったら,最後にする」って言うから,「わか
った」つって,おれ,彼の副会長を引き受けてやったんです。
園内での呼びかけ,放送界への働きかけ,法曹界への訴えが一つになって
〔どういう経緯で裁判が始まったのか,だって?〕田中民市が,当時,自治
会の園内放送でもって「私たちの声」ちゅうのを出したんですよ。それ何かっ
ていったら,「らい予防法が廃止になった。われわれは立ち上がるべきじゃな
いか」と,みんなに呼びかけた。で,わたしは,その「らい予防法」がなくな
った年には,
〔自治会の〕常任委員会にいましたから。予防法(これ)がなくな
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福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
るんであるならば,こういうことをすべきだっていうことを,亡くなった窪田
〔茂久〕っていうのと話をしよったんですよ。で,ハンセンの療養所をこうい
うふうに変えなくちゃいけないだろう,ということを,ビジョンを出したんで
すよ。そして当然のことながら,国はその責任を取って,謝罪をして,それだ
けの賠償補償をしなくちゃいかんだろう,という思いが,わたしのなかにあっ
たわけですよ。そして,わたしはそれをマスコミ界,放送界に訴えたんですよ。
島〔比呂志〕は法曹界のほうに訴えたんですよ。〔3 人が〕別々の闘いをしよ
ったんです。〔あらかじめの連携は〕なんにもない。島比呂志がどんな動きを
したかは,後で知った。田中民市さんとは,そういう話はちょこっとしたんで
すよ。
「おかしいよな,このままじゃ」
「国はなんにもしないみたいだけど,そ
んなバカな話がどこにあるかな」。そういう話をしよったら,田中さんはそう
いう「私たちの声」を出したわけですよ。
それで,九大のシンポジウムがあって,そこにわたしと〔菊池恵楓園の〕志
村〔康〕と溝口〔製次〕が出たんです。〔その時点では〕志村を知らん,溝口
を知らんわけです,わたしは。で,
「フロアからの発言,なんかないですか?」
ということやったから,
「あの,
『ハンセン病患者の人権の回復を求めて』って
いうタイトルだが,〔それは〕人権が回復されていないということか?」って
言ったら,
「そうだ」って言った。ヨッシャー! とおれは思ったんですよ。
「お
れたちも,人権,回復されてないと思っとる。国はそれだけの責任を取らにゃ
いかん,と思ってる。きょう,こういうシンポジウムを開いてくれたことは,
ひじょうにうれしい。ありがたい」と,そう発言したんですね。おれは,それ
で終わろうと思ったんですよ。なんでかといったら,そこで裁判のことを言う
てしまえば,〔弁護士たちに〕逃げられたらいかんと思ってるから。したら,
志村のおっちょこちょいが,「わたしたちが裁判を起こしたら,裁判を受けて
くださいますか?」って,やっちゃった。そしたら,徳田〔弁護士〕が,パッ
とそれに反応したんですよ。「みなさんが,もし裁判を起こされるというんで
あるならば,九州管内だけでも 100 名以上の弁護士(もの)が呼応するであり
ましょう」と言った。
徳田〔弁護士〕とも〔そのシンポジウムで会ったのが〕はじめて。おれなん
か,弁護士なんていうのは信じてねぇんじゃから,はっきり言うて。かれらが,
ほんとに御輿(みこし)を上げるまでは。この連中をどうして騙そうかって,お
れ思ったんじゃから。
〔そのシンポジウムには〕九大法学部の内田〔博文教授〕がおった。仕掛け
人の,八尋〔弁護士〕がおった。それで,そこに引っ張りだされたのが,徳田
〔弁護士〕だった。まんまと乗せられたよな。それで,そういうことになった。
それじゃ,敬愛園に行って,実態調査してみようちゅうことになった。そして
ね,その前後やったかな,準備会議っていうのを開いたんですよ,福岡で。九
県前ビルの 2 階の,池永満の〔弁護士事務所〕
,いまの久保井摂(くぼい・せつ)
〔弁護士〕と小林洋二〔弁護士〕の事務所で。そこに,わたし,行ったんです
よ。〔そしたら,弁護士が〕「このダイフウシユがですね」って言う。「いや,
大風子(たいふうし)ですよ」
「あっ,これ,タイフウシちゅうんですか」。こら,
負けると思った。でも,もう,ほんとにね,午後 6 時から夜の 12 時ぐらいま
で,会議するんですよ。そのためにおれは,6 時間かけて,高速を飛ばして行
く。そして,6 時から 12 時ぐらいまで,みんなで裁判の打ち合わせをする。
175
準備弁護団会議。それが済んで,また帰ってくると,朝の 6 時なんですよ。
そういうなかで,どうやら,島比呂志というのが,九弁連に人権の救済を求
める手紙を出したみたいだということがわかった。それで,島比呂志と話をし
てみたら,
「ぼくはそうした」って言うから,
「ああ,知らんやったな」と。お
れは島比呂志とも面識はないんだから。おれは,だいたい,ああいうインテリ
は嫌いだから。で,「島さん,あんたも,偉いことしたもんだな。それじゃ,
あんたが敷いたレールだったんだな。そのシンポジウム,おれ,行ってきたよ」
っていう話をしたんですよ。で,「裁判やらないかんと思ってるが,あんた,
どう思ってるんじゃ?」つったら,「いや,ぼくもそう思う」って。
で,田中民市さんにも「裁判やろうと思っとんじゃが,どうだ?」って言っ
たら,「それ,やろう」って彼も言ってくれて。そして,窪田はもう最初から
やる気があった。
それで,山口トキさんがおれとおなじ故郷(ところ)だから,トキさんとこへ
行って,
「トキさん,どう思うか?」って言ったら,
「うちの夫(おやじ)が生き
ておったら,いちばん最初に名乗りを上げてたかもしれんね」っていう話にな
った。そこで,「ばあさん,お願いじゃが,おやじの意志を継いで,一緒にや
らんか?」ちった。
「おいがや?」
「おやじやったら,やってるやろ?」つった
ら,「やってる」って。――〔山口トキさんの夫は〕社会党〔の支部〕を敬愛
園(あっこ)に作ったひとやからね。江田三郎が来たとき,江田三郎に怒ったん
ですよ。「社会党の,この体たらくは,なにごとだ!」つってね。そういう闘
士だったんですよ。〔彼は〕目が悪くなってからも〔社会党の活動を〕やって
た。耳も聞こえなくなったんですよ。「ストマイつんぼ,カナマイつんぼ」っ
ていう,要するに,ストレプトマイシン,カナマイシンによる後遺症で耳が聞
こえなくなっちゃった。それでも彼は,頭(ここ)に字を書いたらわかりよっ
たから。社会の情勢なんていうのも,わかりよったんですよ。勘がいいんです
が。だから,おれなんかが行っても,
「タ」って書きゃ,
「おお,竪山君が来た
か」ってわかる。それで,肩をポンと叩けば,
「そうだ」
。
〔肩をこすると,
「ち
がう」
。〕
おれは「真実を見つめる目と,真実を語る口だけあれば,いい」っち,言っ
とるんですよ,いつも。五体不満足になっていくんじゃから,人間の体ってい
うのは。でも,真実を見つめる目と真実を語る口だけがあれば,いい。その真
実をね,ほんとに見つめ続けたひとやったから,話が早かったんですよ。田中
民市さんにしても誰にしても,パッと言えば,パッと響くんですよ。そういう
意味では,思い,ひとつだったね。だから,ばあさんに,「おやじの思いを継
いで,おまえ,やれ」って。「イサオ君。こんなにおれは不自由だが,おれが
おまえたちの足手まといにならせんか?」「いやいやいや,ばあちゃん,一緒
にやろ」。それで,
「三姉妹」とおれたち言うんだけど,彼女と〔玉城〕しげと
〔上野〕正子ね。みなさん,御輿を上げて。そして,ご主人たちも入られて,
あるいは奥さんも入られて,そうして 9 名の原告をつくりだしたわけですよ。
〔敬愛園の〕第 1 次原告は,荒田重夫・美枝〔夫妻〕。上野清・正子〔夫妻〕
。
それから,上野政行。島比呂志。玉城しげ。山口トキ。そして竪山勲で,9 名。
アイウエオ順に,原告番号を,1 番が荒田重夫,
〔2 番が〕荒田美枝……って付
けたんです。本名でない,園名(ぎめい)のアイウエオ順で。これは,裁判長が
進行協議のなかで――わたしも入って進行協議やったんですよ,原告を代表し
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福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
て――,
「原告の方は本名を名乗ってほしい」と言われた。
「おい,ちょっと待
て」つった,おれは。
「〔隔離収容で〕偽名を名乗らしといて,こんど,裁判や
るつったら,本名を名乗れというのは脅迫みたいなもんじゃ,おれに言わした
ら。みんな,そう思いますよ」って言ったの。「そんなンじゃなくして,偽名
のままで〔裁判を〕受けられる方法,ないんか?」って言ったら,「本人が特
定できません」。
「いや,本人が特定できないって,本名を名乗られたら,その
本人が特定できん,おれたちは。偽名しか知らんのや。いまさら本名を名乗れ
って,そんなバカな話はどこにありますか?」って,おれ怒ったんですよ。
「そ
れじゃ,原告番号を付けましょうか」ちゅうことになった。それで,原告番号,
1 番から 9 番までは敬愛園,〔恵楓園の〕志村たち 4 名がそのあと,というこ
とになったんです。
〔その前に〕準備弁護団会議のなかで,弁護団から「竪山さん,原告団を結
成してくれ」ちゅうことがあって。
「わかった」。で,島比呂志を代表にするわ
けにいかんのですが。評判が悪いから,園の中で。友達関係,あんまりいない,
彼は。それよりもなによりも,外に訴えようとするんだったら,やっぱり〔自
治会の〕会長経験者だと,わたし思ったんですよ。会長経験者は田中民市さん
しかいない。で,田中民市さんを中心に据えたら,おんなじ年の島比呂志をど
うするかちゅうことがあるんですよ。おれは〔島比呂志に〕「名誉団長やって
くれ」ちゅった。そしたら,島比呂志は,「竪山君,ありがとう。きみがぼく
に原告団の代表をやれって言うんじゃないかと思って,ぼくは心配した。ぼく
はそれだけの体力はない。名誉団長か?」「うん。これは,名誉ある闘いにな
る。国の間違いを正す名誉ある闘いをするんだ。だから,あんた,名誉団長や
ってくれ」「わかった」って。そして,「代表は誰にするか?」っち言うから,
「田中民市さんにする」
「わかった」
。
「それで,副代表はどうするんだ?」
「副
代表は,志村に頼む」。で,志村に電話したんですよ。「竪山君,わかった」。
それで,弁護団に投げたんですよ,これで行く,って。「竪山さん,事務局長
がおらん」て。
「事務局長は,窪田にさせる」
。そしたら,窪田が出てこんやっ
たですよ。出れなかった。家族との関係でね。で,2 次以降に出てくるちゅう
ことになって。
「それじゃあ,竪山さん,しょうがないよ。あんたがやらんと」
ちゅうことで,「おれは,事務局の事務ちゅうのが好かんが,しょうがねぇ,
窪田が出てくるまで,その事務局長とやらをやらしてもらう」つって,事務局
長,わたしが引き受けたんですよ。
全国原告団協議会も,わたしがぜんぶ作ったんだけどね。〔大島青松園の〕
曽我野〔一美〕を中心にしてね。――〔最初〕「トロイカ方式でやってくれ」
って,東京(むこう)は言ったんですよ。「3 つの地裁で提訴してるから,トロ
イカ方式で 3 人の共同代表にしてくれ」
「そんなバカなことをするんじゃった
ら,
〔全原協の組織化は〕おまえたち,せぇ」つった,おれは。
「1 つの闘いを
やってるのに,頭が 3 匹いて,どうするか。1 つにするんじゃったら,おれ,
してやる」
「できるんか?」
「せンなしょうがないが。全国の原告団,1 つにま
とめるよ」「できるか」「できる」「だれや?」「曽我野じゃ」つったら,〔栗生
楽泉園の〕谺〔雄二〕から怒られてな。「竪山君,きみは,曽我野君を知って
るンか?」「うん,おまえと喧嘩してることは,よぉ知っとる」。『全療協ニュ
ース』でね,彼たちはガチャガチャやってたんだから。「それ,よくわかっと
る。でも,いまから先の闘いは,全療協を巻き込まんと闘いにならんぞ。われ
177
われだけの闘いじゃダメだ。それには,全療協〔の前身の全患協〕の会長をや
ったことがある,曽我野氏しかおらん。あれの欠点は,おれはよく知っとる」
「そうか」「心配だったら,あんたが,代行でもなんでもすればいいじゃない
か」つったら,谺が「竪山君,人事はきみに任す」って言った。「うん,それ
じゃ,おれに任すんだったら,あんたは会長代理(だいこう)をやれ」つった。
で,「事務局長はどうするんだね?」って言うから,「〔政府相手の〕闘いは東
京で進んでいくんだから,東京の〔多磨全生園の〕連中にやってもらえ」って,
おれ言ったんですよ。「おれは,東京は知らん。誰か,適任者はおるんか?」
って聞いたら,
「ちょっと待ってくれ」つって,2,3 日して,電話がきたのが
「国本〔衛〕さんでどうだ」
「体は大丈夫か?」って聞いたら,
「ちょっと体力
的に弱いところがある」
「それやったら,森元美代治を事務局次長にせい」。で,
森元(かれ)は事務局次長になったんですよ,一時は。そして,この闘いを進
めていったんですよ。
敵はなんぼおってもいい,味方は少ないほうがいい
あのね,みんなで裁判できればいいんだけど,わたしは,みなさん,できな
いだろうと思ったんですよ。それは何かと言ったら,やはり,国を相手の裁判
ということは,怖いですよ,はっきり言って。自分はいいけれども,ひょっと
したら,家族に累が及ぶんじゃないかって思う。そうであったように,いまま
でが。家族たちになんらかの国からの圧力とかなんかありゃせんだろうかって,
みなさん,それを心配される。だから,わたしは,これは多くの者は出れない
と思った。みなさんを説得してどうのこうのちゅうことは,まずムリやろうと。
ましてや,全療協でも,そうです。国を相手の裁判ということを考えられるか
つったら,既得権の問題を心配するやろうと。で,それがまことしやかに流れ
ていくだろうと。まことしやかに流れちゃったんですよ,現実に。
「〔負けたら
療養所に〕おれなくなるんじゃないか」という声が出てきだした。これはもう,
できる連中で走らンな,しょうがなかろう。とにかく走ろうや。あとはどうに
かなるよ,っていう思いだった。考えることは後にして,とにかく提訴だけ先
に行こう,っていうことだったんですね。「われわれは,原告として,受けた
被害の実態はきちっと語る。弁護団は,勝てるような裁判の理論づけをしてく
れ」って,わたしが言ったんです。そして,始めたんですね。
〔裁判を始めるとき,星塚敬愛園の〕自治会〔長〕は〔また〕川邊さんだっ
た。川邊さんていうのは,その当時はもう,ずいぶん弱ってた。昔の川邊哲哉
っていうのは,ぐいぐい引っ張っていったんですよ。世論を自分でつくって。
それはもう,巧みだったんですよ。しかし,晩年は,もう人気がなくなってた。
「また,川邊さん,やるの?」というぐらいの会長になってしまってた。みな
さんの信頼がなかったんですよ。だから彼は,数の多いほうに付くわけですよ。
ほんとうは〔自分も〕裁判をやりたいと思ってるんですよ。こっちの組に入り
たいと思っとるんじゃけど,彼は会長を辞められんもンだから,反対派のひと
たちの声に流されてしまう。そして逆に,わたしたちを弾圧するような側に回
っちゃった。ま,それはしょうがないと,わたしはそう思ったですね。
〔自治会からの妨害活動は,ひどかったよ。
〕敬愛園ちゅうところは,けっこ
う,そういうところがある。〔以前も〕もう,ものすごい争いをやったわけで
すから。会長選挙でも,評議会議員の選挙でもね。だって,朝昼晩,朝昼晩,
178
福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
わたしたちは「暁の国会」ちゅってやりよった。それぐらい会議好きで。夜中
2 時,3 時までやったんですよ。そして朝っから,また。ていうようなことを
ずっとやってきてるんで,これは一筋縄じゃいかん民衆だから,ここのひとた
ちは。ましてや,ほら,今泉〔正臣園長〕もおったし。こいつはまた,京大の
〔出身で,反代々木の全学連の一派である〕ブントの副委員長かなんかまでや
ったちゅうやつやけど,こういうのが体制の側に付いたときは,逆のことをす
るやろうちゅう思いがあった。案の定,そうなっちゃったな。それぐらいのこ
とは覚悟してやらんと,これはできない。だから,おれは,あんまり原告は多
くないほうがいいと思った。多かったら,足,引っ張られる。「やろう!」っ
ていう連中だけでやったほうが闘いやすいんですよ。
わたしは,いっつも飛び回ってるわけやから。東京提訴の弁護団も,わたし
が結成させましたから。福岡に東京の弁護士が来て。「自分たちが受けた被害
の実態は,こうだ。これでもハンセン病問題の裁判をせんのか,おまえたちは!」
っていうことで,弁護士に働きかけたわけですよ。そして,東京の弁護士たち
が立ち上がった。こんどは東北だということで,仙台の弁護士の連中を集めて,
わたしは,あっこでもやったんですよ。だから,そういう火付け役で,ずうっ
と走り回ってた。
で,わたしが東京から帰ってくれば,上野正子が「竪山さん。ほんとに,こ
の裁判,ほんとに勝てる?」心配そうな顔で言うわけですよ。「みんな,おま
えたちは負けるって言うのよ」「負けるって言うひとには,あ,そう,って言
っときなさい。勝つから」
「絶対,勝つ?」
「絶対,勝つ。勝つためにやっとる
んじゃ」「負けることはない?」「負けること,ない」。もう,それだけ言い続
けたですよ。わたしが「それは,どうかな。心配だな」って言ってしまえば,
もうそれでおしまいですから。「絶対,勝つ。間違いなく勝つから,心配せん
でいい」。それ以外,言わなかったです。
「いろんなこと言われるかもしらんけ
どな,心配せんでいい。これで負けたら,大変なことや。日本の国が法治国家
じゃないちゅうことだよ,これは」。でも,裁判,素人だ,おれは。やったこ
とないんじゃから。そう言わなくっちゃ,しょうがないんじゃが。根拠はない
よ。根拠なんかいらんかった,おれにとっては。こんな被害を受けていながら,
負けるはずがないじゃないですか,って。常識的に考えたら,そうでしょ。
おれは,負けるとは,いっさい思わんやったものね。控訴断念,あたりまえ
だと思ったもの。敵はなんぼおってもいい,味方は少ないほうがいいっち,闘
うなかでね,そういう思いがあったですよ。そして,〔あるとき〕後ろを振り
返ってみたら,何千名ちゅう原告になってたが。「なんで,そんな付いてくん
の?」って,おれ言った。たった 13 名の裁判がね,あんなに多くの原告にな
って,自治会の会長をやってるようなひとたちが,おれの後ろにずらっと座っ
とるが。あれは驚いたですよ。だけど,わたしは,いまでも思ってるのは,全
療協ではこの問題は闘えなかった。全療協というのは,そういう組織じゃない。
みなさんの意見を考慮(あれ)していかなきゃいけない立場がある。おれたち
は,自分たちの思いで走れる。ま,こういうふうになったから言うんじゃなく
して,上野正子なんかはね,それこそ〔裁判に〕負けたら,自殺するつもりで
おったわけやンか。
徳田〔弁護士〕だって,いっしょですよ。――〔小泉首相の控訴断念の一報
は〕わたしは電話でマスコミから教えてもらった。それ,ちょうど弁護士会館
179
に引き揚げようとする最中やったけれども,「竪山さん,小泉総理が控訴断念
されました」「そうか。まだおれ確認してないから,コメント,後でな」って
言って切ったんですよ。弁護士会館に行って,すぐテレビを付けたら,それが
出た。ウワァッと盛り上がったんですよ。そしたら,徳田〔弁護士〕がおらん
のですわ。
「徳田は,どうした?」つったら,若い弁護士が「あそこにいます」
って言う。行ってみたら,徳田〔弁護士〕が,弁護士会館のいちばん端っこの
部屋で,電気を点けないで泣いてるンじゃが。「徳田先生,いまから記者会見
やるぞ。一緒に出てくれ」って言ったら,「いや,竪山さん,わたしはそんな
晴れがましいところに出れる人間じゃない。竪山さん,出て」っち言うから,
「いや,おまえが出ないんやったら,おれ,出らンよ。おまえがおって,勝て
た裁判じゃから。あんたが出ないのに,どうして,おれたちが出らにゃいかん
か。そんな,おれ,出らンよ」つったら,「竪山さん,頼むから出てくれ。わ
たしはむしろ,被告の側にいる立場だ。弁護士として『らい予防法』という法
律を知っていながら,それを廃止しようとする努力をしなかった。自分はそう
いう立場の人間だから,晴れがましいところには出られないんだ」って言うた
んですよ。総理官邸に乗り込むときも,「一緒に行こう」っておれ言ったら,
「わたしはそういうところへ行ける立場の人間じゃない。行ってください。わ
たしの代わりにも,行ってくれ。わたしの思いを持って行ってくれ」って,彼
は言った。「わたしは喘息をもってるから,話し合いの途中で,喘息の発作が
起こって,みなさんに迷惑をかけちゃいかん」って言ったから,「いい。あん
たの喘息の発作が起きて,そこの会議がめちゃめちゃになったって,なんにも
思わん。だから,行ってくれ」って,おれ言ったんだけどね。どうしても彼は
「晴れがましいところは,ぼくは行けない」,その一点張りだったですよね。
だから,ヤクザもんですよ,あれも。〔準備弁護団会議のなかで〕弁護士か
ら「除斥論が出たらどうするか」ちゅうことで揉めた。徳田がなんつったか。
「除斥論がもし出てくるっていうことであれば,わたしは弁護士バッチを外し
ます」って言った。
「だから,話を前に進めてください」
。それでピタッと収ま
ったんですよ。
「じゃ,もう,それは置いといて前に進もう」。でも,弁護士っ
ていうのは,理屈の世界よ。弁護士バッチを外すのが,どこに理屈があるンか
な。理屈じゃないが。ヤクザもんが「代紋を外す」ちゅうのと一緒やが,そん
なもんは。
ハンセン病裁判にはヒーローは不要/一人ひとりが闘った
〔星塚敬愛園で原告になった KK が,裁判に負けたら,徳田弁護士と「一緒
に死のう」って約束してた,って?〕おれはそこまでは聞いとらんけれども。
それぐらいの思いじゃあったでしょうね。
KK はね,電話してきたんですよ。あの〔控訴阻止闘争の〕さなかに。
「頑
張って〔くれて〕ありがとうなぁ」って言うから,「いやいや,どうした?」
って聞いたら,
「いま,おれは,メシ食うとらんのよ」
「飯ぐらい食わンないか
んが」つったら,
「いや,いま,ハンガーストライキやってる」
「ハンストかぁ!」
こら,しめた! と思ってな。この手があった,と思ったよ。もう,ある手は
ぜんぶ使わにゃいかんのやから。で,「KK さん,体,大事にせえよ。水,飲
んだか?」
「飲んどらん」
「水だけは飲んでいいんじゃ。水だけは飲め。大丈夫
か?」「大丈夫。おまえたちが東京に行ってくれて,よぉ頑張ってくれてる。
180
福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
おれはなんにもできん,これぐらいしかできんが」って,彼はそう言ったんで
すよ。――それを言うと,涙が出てきたんじゃけどな。
「おれにできることは,
これしかないから,竪山,やらしといてくれ」ちゅうから,
「わかった」っち。
「ちょっと待て。もう一回,おれが電話するから,おまえはすぐ出れよ」つっ
たら,
「でる」ちゅうから,徳田とパッと話をして,
「徳田さん,敬愛園で KK
がハンガーストライキを始めた。これを,マスコミに流していいか?」「わか
りました」。で,MBC にパッと電話して,
「すぐ,いまから取材に行ってくれ。
放送で流してくれ」
。それで,マスコミが流してくれたんですよ。
「敬愛園でハ
ンストが起こった」ちゅうのをね。
ハンストという手があったちゅうことを,おれは忘れてた。このやろう,よ
くやったな,と思った。命を懸ける闘いだったわけですよ,みんなが。そして,
「第一線でそれができないから,せめて,おれはここで命を懸ける」って,彼
は言ってくれた。やっぱり,原告になった連中ちゅうのは,みんな,きつい荊
(いばら)の道をな,血を流し流し,やってきとるわけですよ。たしかに,島比
呂志が法曹界に対してその責任を問う一文を投げたのかもしらん。彼が投げな
くっても,この裁判は,しかし,起こってた。だから,わたしは,島比呂志だ
けの手柄(あれ)にしちゃいけないと思ってるんですよ。みぃんなのね,闘い
やった。みーんなが,それぞれの立場で,それぞれの闘いをやってくれたから,
勝てたんですよ。このハンセン病裁判ちゅうのは,ヒーローは要らん。みんな
が,そうなんだ。一人ひとりが。だから,島比呂志が,一人,浮いてはいかん
のです。これは,絶対,いかんのです。裁判に出れたひとも,出れなかったひ
とも,その立場で,やっぱり,いろいろやってくれとるんですよ。〔川邊哲哉
のあと敬愛園の自治会長をやった〕竹牟禮〔巳良〕(たけむれ・みよし)がおれの
足を引っ張ったとしても,それはブレーキ役ですよ。竹牟禮がいてくれたから,
おれは,なにくそ,なにくそ,と思いながら,頑張れた。おれは反撥するとこ
ろがあるから,あのバカが,このバカがって言ってくれたほうが,かえって燃
える。みんなが足を引っ張ってくれるから,ぎゃくに闘志が湧いてくる。そう
いう意味ではね,みーんなが,わたしに力をくれたんですよ。
〔2009 年 5 月の,
鹿屋でのハンセン病〕市民学会も,そういう思いでおれはやったつもり。だか
ら,おれは,いっさい,表に出なかった。
ハンセン病裁判ちゅうのは,それぞれの立場で,みんなが闘った。そして,
こういう結果を勝ち取れた。全被害者の勝訴判決ですよ。ただ,そのなかでね,
わたしが前のほうを走らしてもらえたちゅうことは,ありがたいことですよ。
苦労もさしていただいたけれども,それは当たり前や,年がいちばん若いんだ
から。だから,わたしは,いまでもそうよ。わたしたちが起こした裁判だから,
起こした裁判の責任を最後まで取らにゃいかん。それがあるから,いまも東京
に行くんですよ。おれの思った結果と,まだ違うから。わたしの思い描いた世
の中と,違うからね,まだ。
でも,わたしはね,この裁判というのは,権利の主張はいっさいしてない。
義務の遂行なんですよ。国の間違いがあったとすれば,その国の間違いを糾す
のが,日本の国に住む者としての責任だと思ってるんですよ。その責務を果た
しただけのこと。それ以外のなんでもないんです。おれはまだ国に対して権利
の主張は一回もしとらん。だって,国がまだ,やるべきことをしないでいる。
まだ遺骨は〔園内の納骨堂に〕いっぱい残っとるが。いま〔ハンセン病療養所
181
に〕いるひとたちは,せめてな,一回,退園させるべきですよ,国の責任で。
みんなが,こういう家がほしいつったら,そういう家を造ってやらにゃいかん。
それ,一人ひとりに。それだけのことをしたんだから。すべてできることはし
てやらンにゃいかんのですよ。おれは,そう思う。それぐらいの国の責任があ
ると。厳しいですよ,わたしは,そういう意味じゃ。だから,権利の主張なん
か,まだしてません。冗談じゃない! っていう思いが,どっかある。
鹿屋での市民学会開催に託した想い
おれなんか嫌われて嫌われて。それでも,あんた,市民学会をやったときに,
竹牟禮巳良さんたちを引っ張りだしたが。嫌われようとどうしようと。「あん
たが出ないとダメ,これは」
「おれは表に出らンから,あんたたちが出てくれ」
と。やっぱり,そのひとたちの歴史を背負ってるわけだから,このひとたちは
な。「竹牟禮さん,あんた出なきゃ,この問題は語れんよ」と。「他人(ひと)
が語って,あんた,それで満足できるの?」って。「敬愛園の歴史はあんたが
語らんで,だれが語るんですか?」って。それで,「おまえ,ほんとにそう思
ってるか?」「思ってる」「おれはおまえと反対の立場でやってきた」「いやい
や,竹牟禮さん,おれはそう思っとらン。おれはな,車で言うたら,アクセル
をボンボン踏むほうじゃ。どんどん走った。あんた,一生懸命,ブレーキを踏
んでくれた。ブレーキとアクセルの関係じゃ。それがうまくいかんとな,これ
はたいへんなことになるんじゃ」って。「竪山,おまえは,ほんとに,この国
賠訴訟,勝つと思ったか?」「勝つと思った」「そうやぁ? おれは負けると思
った。負けたら,この自治会員がどうなるんだ,っていう思いがあった」って。
「おまえは,ほんとに控訴,国が断念すると思ったか?」「思った」「いやぁ,
おれは控訴されると思った。そンときどうしよう,っておれは思ったんじゃ」
っちいう。
「控訴されたらな,また,これ,どうするんだ? そんなことを考え
ンやったか?」
「考えンやった。そんなこと考えてたら,裁判なんかできんが」
って,おれ言った。「水俣病〔の裁判〕を見てきたからな。おれは,ああいう
ことになっていくんだろうと思った。だから,おれは反対した」って,彼は言
うわけですよ。「〔入所者自治会長として〕そういう立場にあった」って。「だ
から,おれは,どんどんアクセル,ふかしっぱなしにふかした。あんたが一生
懸命,ブレーキを踏んでくれたんじゃ。それでよかったんじゃないの。おれは
そう思ってる」って言ったら,
「おまえ,恨んどらんか?」
「いやぁ,一回も恨
んだことないよ」。――恨んだことないんですよ,おれは〔竹牟禮さんと〕お
んなじ故郷(ふるさと)やから。なんも思わんの。「だから,なんて言われよう
と,おれはあなたの悪口,一言も言ったことない。聞いてみろ」って,おれ言
うた。「おれはあんたたちの悪口をただの一言も言っとらん。だから,こうし
て〔あんたのところに〕来れるんじゃ」って。「だけど,おれは『らい予防法
違憲国賠訴訟』を始めた張本人として,自治会を 2 つに割ってしまった。その
責任はおれにある。そう思うから,おれはこの市民学会で 1 つになってもらい
たい。そういう思いがあるから,おれたちの思いも,みなさんがたの思いも,
この市民学会のなかでぶつけてほしいんじゃ。2 つのものを 1 つにするために,
この市民学会を開いたと,おれはそう理解している。だから,なんとか力を貸
してくれ。そのかわり,おれはいっさい表には出らン。だから,協力(あれ)
してください」。〔ホテルでの〕レセプションにも,おれは出てないんですよ。
182
福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
わが家におった。徳田〔弁護士〕が迎えに来た。「竪山さん,来てください」
って。「いや,おれは行かン。おれが行くとこじゃない。みんながあれしてく
れ。おれは,環境づくりだけはする」って。
自衛隊の「エアーメモリアル in かのや」の延期を求める
その環境づくりちゅうのは何かっち,ほら,あンとき,〔2009 年 5 月 9~10
日,ハンセン病市民学会と同日に〕自衛隊がエアーメモリアルやるっちゅうこ
とでな,ガッチャンコ起きたんですよ。おれは,「絶対,やっちゃいかん,こ
れは!」つって,市長を怒鳴ったんですよ。「竪山さん,なんとかやらしてく
れ」「ダメだ」。どうしてダメかっていうことを,おれ語ったんですよ。「昭和
20 年の何月やったかな,終戦の年に,敬愛園(ここ)で,桜島寮が爆弾を受け
て,死傷者まで出したんじゃ。そういう話が〔市民学会の〕中で出てきたとき
に,上を〔自衛隊の〕飛行機が飛んでみろ。したら,どう思うか,みんなは?
自衛隊にたいして,いい思いはせんぞ。戦争のことを思い出させるぞ。それで
もいいんか? それでもいいんだったら,やれ!」って言うたけどな。しまい
には〔おれが〕東京にいるときまで,泣き落としてきた。
〔あのとき〕浜田〔靖
一〕やった,防衛大臣。
「おれ,いまから浜田に会うてこうか」つった。
「絶対,
これ,やっちゃダメ」って言ってな。とうとう断念さしたんですよ。1 週間,
先送りさした8。そしたらな,あとで,その〔エアーメモリアルの〕実行委員
会の役員やってた商工会議所の会頭が,
「竪山さん,ありがとうございました」
。
「どうした?」つったら,「竪山さんがあンだけ言うもんだから,飛行機を飛
ばしてみた。で,敬愛園の下に行って,その飛行機の音を聞いた。あれはやら
んで正解でした。あれをやっとれば,逆に自衛隊が変な目で見られる。全国か
らみなさん来られるわけだから。ほんとにありがとうございました」って。
「それ,絶対,やっちゃダメ。自衛隊のためにも,おれは言う」つって,お
れ〔鹿屋基地の〕軍司令のとこまで乗り込んだですよ。
〔
「ハンセン病問題の全
面解決を目指して共に歩む会」の中心メンバーであると同時に〕「九条の会」
の〔会員でもある〕2 人,あの松下〔徳二〕と倉園〔尚〕を連れて。「おまえ
たち,行くか?」つったら,
「行きます」って言うから,おれは連れて行った。
そして,おれが「命の大切さということでは,自衛隊も日本国民〔の命〕を守
るんだろ?」「そうです」「命の大切さちゅうことを勉強するうえでは,もう,
すばらしい機会(あれ)じゃから,市民学会,おまえたちも出てこい」つった
ら,「出て行きます」。「ただ,わたしたちの立場は,ご招待いただけないと,
出られません」「招待状,出すよ,それじゃ」と言ったんです。で,「自衛隊,
200~300 名,連れてこい」っち,おれ言ったの。そしたら,
「そうおっしゃら
れれば,連れていきます」って,軍司令が言ったんですよ。
そしたら,市民学会(うち)の連中が反対したんじゃからな,
〔自衛隊が〕来
ることに。
〔当時,市民学会の事務局長をしていた〕バカすったれが。ほんと,
8
「海上自衛隊鹿屋航空基地開隊 55 周年記念/第 15 回エアーメモリアル in かのや」
のホームページには,
「今年の『エアーメモリアル in かのや』は,当初 5 月 9 日(土)・
10 日(日)に開催する予定でしたが,都合により日程を変更したため,従来行って
いたイベントが縮小(佐世保音楽隊演奏,航空学生ドリル演技等招へい不可能)する
ことになりました。詳しくは,かのやイベント協議会までお問い合わせください」の
一文が載っている。
183
おれに言わしたら,あんなものは左翼小児病だよ。そんな次元の話じゃない。
みんな鹿屋でいっしょに生活しとるんだから。そして,兄弟みたいに敬愛園と
自衛隊〔の鹿屋基地〕とはできてるんですよ,相前後して。〔代議士の〕永田
良吉〔の働きによって〕。だから,なんかの式典があるたんびに,
〔敬愛園の〕
自治会は自衛隊を呼ぶんです。それがいままでの習わしなんですよ。そこの歴
史がある。いい悪いはべつにして。だけど,自衛隊のみなさんも人殺しをした
くて自衛隊〔員〕になっとるわけはないんじゃ,おれに言わしたらな。生命の
尊厳を勉強するうえでは,こんな格好の機会(あれ)はない。で,自衛隊のひ
とたち,とくに,勉強しにこい,って言うた。そしたら,軍司令も「行きます」
。
そこまで言ったんですよ。――〔みんな〕もうちょっとおとなになればいいの
にな。そういうひとたちも来てはじめて,市民学会ちゅうのはな,いいんです
よ。だって,そこにそういう歴史があるわけだから。ね,その歴史を無視しち
ゃいかん。
Struggling to Win the Segregation Policy Unconstitutionality Lawsuit: Interview with a Hansen’s Disease Ex-patient
Yasunori FUKUOKA & Ai KUROSAKA
This is the life story of a man in his 60s who returned to society after
living in a Hansen’s disease facility.
Mr. Isao Tateyama was born in Kagoshima prefecture in 1948. His
mother, who also had Hansen’s disease, died at home in 1960. In 1962,
he was sent to Hoshizuka-Keiaien, a Hansen’s disease facility when he
was in the second grade of a junior high school. He dropped out of the
third grade of the Niirada class of a four-year senior high school
established for Hansen’s disease patients in Nagashima-Aiseien on the
Seto Inland Sea. He escaped the Hansen’s disease facility when he was
20 and had lived in Tokyo, but he was sent to the Hansen’s disease
facility, Tama-Zenshōen again after his symptoms were aggravated. In
1975 he was sent back to Hoshizuka-Keiaien in Kagoshima prefecture.
In 1998, he launched his struggle against the government by joining the
lawsuit suing the Segregation Policy for unconstitutionality as a
member of the first plaintiff group. In 2001, the lawsuit was decided in
favor of the plaintiffs by the Kumamoto district court. In 2004, he
returned to society and in the same year ran for the House of
Representatives by election but failed to gain a seat.
He was 62 years old when this interview was conducted on January
2011. He serves as a bureau chief of the National Association of the
Plaintiffs of the Lawsuit Suing the Segregation Policy for Unconstitutionality. Interviewers were Yasunori Fukuoka, Ai Kurosaka and Yuki
184
福岡安則・黒坂愛衣「違憲国賠訴訟を闘いぬいて」
Kitada.
Mr. Tateyama describes himself as a lone wolf that does not join the
pack. He has the ability to point out social absurdity and it would have
been impossible for the lawsuit suing the Segregation Policy for
unconstitutionality to have been developed without Mr. Tateyama.
We learned two quite important things from the interview with Mr.
Tateyama. First, we found that the lawsuit which claimed the apology
and compensation from the government began in Hoshizuka-Keiaien
with the combination of three respective movements: Mr. Tamiichi
Tanaka’s proposal to the ex-patients in the facility by public
announcement; Mr. Hiroshi Shima’s letters to attract attention from
legal community; and Mr. Isao Tateyama’s appeal to broadcasting
networks. He also mentioned the individuals’ desperate struggle invited
the win of the suitcase by mentioning Mr. K. K’s hunger strike. From
this, we can understand Mr. Tateyama’s statement, “We do not need a
hero for the lawsuit.”
Second, Mr. Tateyama stated at the early stage of the interview that
he did not have any personal information to hide and told almost all of
his life story while he lived in Tokyo as a fugitive, how and why he
entered Tama-Zenshōen, and the process of coercive re-confinement to
Hoshizuka-Keiaien. He used metaphor to describe his life, “I always
have walked in the center of the road but became to be said to run and
hop.” From his story, we learned that the Segregation Policy deeply
affected several scenes of his life.
Keywords: Hansen’s disease, Segregation Policy, life story
185
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