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13歳の時に、北朝鮮から引き揚げたあるプロ野球選手一家の記録 まえがき

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13歳の時に、北朝鮮から引き揚げたあるプロ野球選手一家の記録 まえがき
13歳の時に、北朝鮮から引き揚げたあるプロ野球選手一家の記録
(著者 渡辺直子)
まえがき
私は、55歳の女性です。昭和32年に、兵庫県西宮市の甲子園球場近くで生
まれました。父の名前は、渡辺省三と言います。私が生まれたころ、父は、プ
ロ野球、阪神タイガースの第一線投手として、活躍していました。
長女として生まれた私は、父と母の愛情を一心に受け、何不自由なく、子供時
代を過ごしました。23歳の時に結婚し、一男一女を授かり、子育てに追われ
る日々が続きました。今は、長男30歳、長女28歳になり、立派な社会人に
成長しました。
2人の子供の成長を見届けた私は、ホッとすると同時に、生活にゆとりを感じ
るようになりました。そんなある日、亡くなった祖父、渡辺義信が書いた回顧
録をゆっくり読み返しました。回顧録は、昭和58年ごろ、書かれたもので、
紙の黄ばみ具合から、過ぎ去った年月の長さを、思い知らされました。
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回顧録には、祖父が戦時中、北朝鮮に渡ったこと、戦後、命からがら、北朝鮮
から引き揚げてきた事実が詳しく書かれていました。祖父は、一家で北朝鮮に
渡りましたので、もちろん父も、北朝鮮から命からがら、引き揚げてきたので
す。その時、父は13歳でした。引き揚げ後、父が一家の生計を支えなければ
ならない状況に置かれ、学業はそこそこに、工員として働くことを余議なくさ
れました。その時に、会社の野球部に所属したことがきっかけで、
「野球」をす
るようになりました。
昭和26年にプロ野球阪神タイガース(当時、大阪タイガース)が入団テスト
を行うという情報を聞きつけた父は、入団テストに挑みました。プロ野球選手
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になれば、大金を稼ぐことができ、確実に、一家の生計を支えていけると思っ
たのです。入団テストに合格し、昭和27年に大阪タイガースに入団しました。
この時から、父は、プロ野球界に身を置く人生を送ることになりました。
入団当初は、バッティング投手としての仕事が主だったようです。一軍登録ま
でには、大変な苦労があったようですが、徐々に実力をつけていき、入団5年
目には、防御率1.34という好成績を挙げ、セリーグの最優秀防御率賞を獲
得しました。
このようないきさつで、プロ野球選手として有名になった父は、北朝鮮時代の
ことについて、雑誌社から取材を受けたようです。父の話を、取材記者が丹念
にまとめ、
「渡辺省三 青春劇場」というタイトルで、昭和29年12月号の「野
球界」に、掲載してくれていました。
これから書くことは、祖父の回顧録と雑誌「野球界」の「渡辺省三 青春劇場」、
当時の事情を知っている親類、知人の話を参考に、孫の私が、「13歳の時に、
北朝鮮から引き揚げた、あるプロ野球選手一家の記録」として、纏めようとす
るものです。
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13歳の時に、北朝鮮から引き揚げたあるプロ野球選手一家の記録
明治41年~昭和4年
愛媛県・大三島
瀬戸内海に浮かぶ「大三島」。この島は国宝の島とも呼ばれる。島にある大山祇
神社(おおやまづみじんじゃ)は全国の大山祇神(おおやまつかみ)信仰の中
心的神社である。神社には多くの武具類が時の権力者を中心として奉納されて
いる。そのため武具類の国宝、重要文化財の8割がここに集中している。
私の祖父、渡辺義信は、明治41年(1908年)8月24日、父、渡辺岸五
郎、母、渡辺イシ夫婦の4男として、この地で生を受けた。成人期まで大三島
で過ごし、手先が器用だった祖父は、指物職に就いた。
昭和5年~昭和11年
愛媛県・西条市
昭和5年、祖父は、23歳の年に伊藤浪代という女性と結婚し、住居を愛媛県
西条市に構えた。結婚して3年後、昭和8年(1933年)2月26日に、男
子を授かった。祖父は、男子の名前を「省三」と名付けた。省三が生まれた当
時の日本は、大恐慌で、極端な不況が続き、日本の大方の庶民は、生活に窮し
ていた。祖父は、このまま不況が続けば、日本での指物職だけでは生活が成り
立たなくなると考えるようになった。
軍部は、欧米列強と肩を並べるとして、朝鮮、満州の植民地化に乗り出してい
た。日本国内で生活に行き詰った人たちは、新天地で活路を拓こうと、時の政
策に乗って、朝鮮や満州へ移住していく人も多くいた。
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昭和12年
満州
昭和12年10月、祖父は、意を決し、満州(中国)に渡ることにした。昭和 8
年に生まれた長男に続き、次女(長女は昭和 11 年に死亡)が誕生したこともあ
って、このままの生活をしていて、家族 4 人の生活を支えていくことができな
いと判断したからだった。
満州には、知人も親類も無い。未知の土地に単身行くことは、冒険だった。
祖父は、毎日のようにラジオから聞こえてくる当時の流行歌「馬賊の唄」に、
心動かされた。
「僕も行くから君も行け。狭い日本に住み飽きた」
祖父は、いつの間にか、この歌詞を口ずさむようになり、国策に乗って満州に
行けば、何とか道は開けると思うようになった。
奉天(中国)へ向かう道中、目に入ったもの全てが、新鮮だった。広い大陸の
広野。見渡す限りの地平線。その雄大さに、唯々驚いた。長い旅の時間を経て、
奉天に着いた。宿は、駅から近い大和ホテルにとった。ホテルで、日本から送
った商品の到着を待った。だが、2週間待っても商品が届かない。なぜだろう。
届かない理由を、同じホテルに滞在している商人に聞いてみた。
「輸送手段を朝鮮満州鉄道一本に頼っている中、中国北部へ送る軍需品優先で、
商品は後回しという状況のようだよ」
そんな状況なら仕方ない。商品の到着を待つしかなかった。商品が到着するま
で、大連、旅順、鞍山等、付近の土地を見学して時間を潰した。そうこうして
いるうちに、ホテルで2、3人友人もできた。 友人たちと、中国人のマーチ
ョに乗って、夜の遊び場にも出かけた。 見つけた遊び場で、チャン酒を呑み、
軍歌を歌い、世界の一等国民(日本人)という優越感で、随分威張った振る舞
いをした。大和ホテルがある大和区は、ほとんど、日本人が居住していて、中
国人は城外に追いやられていた。日本人ばかりで、日本に居るものも変わらな
い状態だった。なので、言葉に不自由することもなかった。
商品は、いくら待っても、到着しなかった。毎日の生活の費用もかさみ、持ち
金が底をつきかけた。もう待つのは限界。ホテル側に荷物が到着したら電報で
連絡を依頼して、一度日本へ引き返すことにした。
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日本に帰って、大和ホテルからの連絡をひたすら待つ日が続いた。やっと
連絡が入り、再び奉天へ向かった。日本から送ったのは、季節物の商品だ
ったので、季節外れに届いた商品は、売り物にはならなかった。
昭和13年
北朝鮮・平壌
昭和13年の正月は、奉天で迎えた。思うように商売が進まないままの年明け
だった。商売がうまくいかないことをホテルでぼやいていると、心やすくなっ
た友人が、ある仕事の提案をしてくれた。その仕事は、お金と命と引き替えの
ような仕事だった。友人は「君だったら中国人相手に、その仕事ができる」と
言い、4月の雪解けを待って、中国中部の奥地に行き、仕事をしてはどうかと
言った。だが、いくらその仕事がお金になると言っても、妻子ある身としては、
その話に乗ることはできなかった。祖父は、断りの口実として、
「北朝鮮に友人
がいて、その友人が仕事の世話をしてくれることになっているので、行ってみ
ることにする」と返事した。
そのころ、祖父はほんとうに、北朝鮮に行こうかどうしようかと迷っている時
でもあった。迷いがあったのは、奉天に向かう途中に、北朝鮮平壌の薬店の主
人と仕事の話をしたからだった。
奉天に向かう途中、新義州市(朝鮮民主主義人民共和国の平安北道の道都)で
一泊した。宿は、新義州駅近くの常盤町にある緑屋旅館にとった。そこで、北
朝鮮平壌の薬店の主人と出会った。初対面であるにもかかわらず、夕食後、ス
トーブを囲み、夜が更けるまで、お互いの仕事の夢に花を咲かせた。
別れ際に、平壌の薬店の主人は、
「君だったら官庁売込みが出来る。もし君の方も方針があることだし、今、そ
んなことは言わないが、君の方さえ、良かったら、いつでも僕のところを訪ね
てくれ」
奉天までの道中、そんなことがあったので、本当に北朝鮮に行こうかどうしよ
うかと迷っていた。これ以上、ここに滞在すると、日に日に、中国行きを推し
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進められる羽目になるのではないか。そういう不安にも駆られた。
ホテルで親しくなった友人からの提案をうまく交したい。その提案から逃げる
意味もあって、薬店の主人を頼って、北朝鮮に行くことを決意した。
薬店の主人は、北朝鮮の平壌市内で商売をしていると言った。祖父は、その言
葉を頼りに、平壌市内へ向かうことにした。奉天から新義州へ戻り、新義州駅
から平壌行きの急行列車に乗った。新義州~平壌間は約200キロメートル。4
時間くらいかかった。
平壌に着いてすぐ、薬店の主人が経営する薬店へ行った。あいにく、薬店の主
人が出張中で、対応してくれたのは、奥さんだった。奥さんに、新義州の宿で
のことを説明したが、奥さんは、
「何の事やら分からない」と言った。主人の帰
りを待つしかない。だか、奥さんは、主人はいつ出張から帰ってくるか、わか
らないと言う。平壌までぎりぎりの持ち金で辿りついた。もはや、余裕のお金
はない。一刻も早く、生きるための仕事を探さなければならない。いつ帰って
くるかわからない主人の帰りを待つ訳にはいかなかった。薬店の奥さんに、職
業紹介所の場所を聞き、その足で職業紹介所へ向かった。窓口へ行くと、係の
人が
「陸軍航空廠に人員が足りなくて、募集中です。あなたが、明日からでも出勤
できる体制であれば、推薦状を書きますので、直接今から、陸軍航空廠へ行っ
て、面接を受けてください」と言ってくれた。
早速、陸軍航空廠へ行って、面接を受けた。面接では、指物職人であることを
アピールした。面接官から暫く待合室で待っているように言われ、待合室で待
機した。20〜30 分待っただろうか。面接官が待合室にやってきた。
「明日から出勤してください。陸軍航空廠内では、各種の仕事があり、もちろ
ん、君の希望する木工の仕事もあります。だが、木工工員では、官舎が貰えな
いんだよ。君は、住むところがないんだろう。官舎を貰うために、総務に入っ
てはどうだろうか」
祖父は、面接官に、「ありがとうございます。ぜひ、総務に入らせてください」
とお願いした。
その日から、官舎が支給された。翌日から、陸軍航空廠での仕事が始まった。
官舎は、平壌市内の紋繍里にあった。そばには、町を横断して流れる大同江が
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あり、大同橋という名称の橋が架かっていた。
「美しい川ですね」
「夏は泳ぐことができるんです。冬は氷結した川面でスケートを楽しむ人で賑
わい、凍った川面で、穴をあけて、魚釣りも楽しめるんですよ」
官舎の先輩と、こんな会話をした。
月給生活は、始めてのことだった。年2回ボーナスが支給され、給料も指物職
の時の三倍になった。官舎なので、家賃も要らなかった。生活はみるみるうち
に安定した。こんな世界もあるのかと、幸福感に浸った。祖父は、時を見計ら
って、妻浪代と2人の子供を日本から呼び寄せようと考えるようになった。
昭和14年
昭和14年に入って、妻浪代、長男省三、次女律子を日本から北朝鮮に呼び寄
せることを決めた。春から、省三が、小学生になることも、考慮してのことだ
った。
平壌・船橋小学校に入学―長男省三
祖父は、長男省三を、官舎の近くの船橋小学校に入学させる段取りを進めた。
船橋小学校は、ポプラの木に囲まれた立派な建物だった。4月。省三は、船橋
小学校に入学した。
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妻浪代は、すぐに、4番目の子供を身ごもった。夏は、大同江の清流に往来す
る風情ある遊覧船を見て過ごした。秋は、近くの名所旧跡の探訪を楽しんだ。
冬は、大同江一面が銀盤に変わり、老若男女がスケートを楽しむ姿を見つめた。
浪代と子供たちは、風光明媚な船橋里と大同江で戯れる人々の姿に、目を見張
った。
昭和15年
3女静子誕生
昭和15年1月。安定した生活の中で、3女静子が生まれた。浪代は、3 女の出
産が落ち着くと、内職を始めた。浪代は、手先が器用で、洋裁も和裁も出来た。
3人の子育てをしながら、内職に励む毎日だった。浪代の内職の収入は、祖父
の収入を上回る状態が続いた。浪代は、内職で稼いだお金で、せっせと食糧の
買い出しに出かけた。おいしい料理を作り、祖父や子供たちに、栄養のある物
を食べさせることを、第一に考えた。長男省三の弁当には、力がつくように、
肉の缶詰やソーセージを必ず入れた。
昭和 18 年
4女敏子誕生
昭和18年8月3日、4女敏子が生まれた。
昭和20年
7月 妻浪代の死
昭和20年3月。アメリカに硫黄島を占領されて以来、内地は連日空襲が続い
た。祖父は、3月10日の東京大空襲で、東京が焼け野原になった状況を伝え
聞いた。
6月。大東亜戦争はますます激しくなった。軍部は日本軍が有利な報道ばかり
していたが、実際は沖縄に上陸され、本土(日本)もいつ上陸されるかわから
ない状況に迫っていた。軍部の情報はアテにならなかった。祖父は、日本は戦
争に敗れるのではないかと察知した。だが、当時は、日本に不利な話を他言し
たら、憲兵隊に捕まった。心で思っていても、口には出せない時代。事態の状
況を見極めて、自分で考えて行動するしかなかった。
祖父は、もし、不幸にして、戦争に敗れれば、妻浪代と子供 4 人は、今のうち
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に日本に帰していたほうが安心だと考えるようになった。戦争に負ければ、朝
鮮人の暴動が起きることも予期した。
陸軍航空廠に 10 日間の休暇届けを出して、家族の引き揚げ準備を進めた。
それまで運航していた九州の下関と韓国の釜山を結ぶ連絡船は、沖縄戦が始ま
ってからは、運航不能の状況だった。日本への船便は、清津港から福井県の敦
賀港に向かう船しかなかった。それも、物資を運ぶ船しかない状況だった。人
が乗れる余地があるのか、不安だったが、とにかく清津港まで行ってみること
にした。
平壌から清津までは、約710キロメートルの道のりだった。平壌駅から鈍行
列車に乗り、丸2日もかかる遠い距離だった。何十時間も汽車に揺られ、途中、
高原に一泊した。家族全員でヘトヘトになりながら、やっとの思いで清津港に
着いた。その日、出航の予定になっていた船に、乗るつもりだったのだ。とこ
ろが、不運なことに、ちょうどその日に、内地の敦賀が空襲を受け、鉄道が破
壊され、船便の輸送の見通しがないということを知らされた。
「どうやら駅がや
られただけで数日後には船が出るらしい」とか「もう日本に帰れる船はない」
とか、いろいろな噂が飛び交った。祖父は、そのうち、輸送が再開されるだろ
うと期待し、輸送再開を待つことにした。待つこと一週間。一向に輸送が再開
されず、仕方なく、平壌へ引き返すことにした。
祖父は、帰りの列車に揺られながら、考えた。
「内地から、家族を呼び寄せるべきではなかった。僕は、間違った決断をして
しまったのだろうか」
しかし、どれほど後悔しても、もう遅い。妻浪代は7カ月の身重だった。往復
で4日間も汽車に揺られた浪代は、平壌駅に着いたとき、歩くのもままならな
いほど、疲れきっていた。祖父が4女敏子を抱き、省三が律子と静子の手を引
いて、一家でヨタヨタしながら、平壌の町を歩いて、官舎まで着いた。
住み慣れた我が家は、10日間家を空けていただけだが、廃墟のように感じた。
5歳の静子だけが、住み慣れた我が家に帰ってきたことを喜ぶように駈け込ん
で、「ただいま~」と言って、雨戸を開けた。祖父もあとに続いて玄関に入り、
抱きかかえたまま眠ってしまった敏子の靴を脱がせて、布団の用意をしようと
した。その瞬間、後ろで物音がして、省三の鋭い声が飛んできた。
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「父ちゃん!母ちゃんが!」
祖父は、敏子をそばの座布団の上に、素早く横たえ、玄関に駆け付けた。
「省三!産婆さんを呼んできてくれ!早く!」
「うん。わかった」
省三は、背中に背負った荷物をその場に投げ捨て、産婆を呼びに行った。祖父
は、浪代を抱きかかえ、部屋の中へと運んだ。ふと、浪代が横たわっていた玄
関の方に目を向けると、水に濡れた後のようなものが出来ていた。破水したよ
うだ。省三が、産婆を連れて戻ってくるまで、浪代は苦しみ続けた。
「破水したようだ。ずっと、苦しみ続けている」
「まだ、7か月だってね」
「ああ・・・。何とかしてやってほしい。頼む」
「まあ、出来る限りやってみるけど、あまり期待しないでおくれよ」
産婆は、そう言いながら、奥に上がりこみ、浪代の様子を見るなり、必要なも
のを矢継ぎ早に、家族に指示し始めた。騒がしい気配を感じとり、眠っていた
敏子が目を覚ました。そして、ぐずりながら母親を探し始めた。祖父は、ぐず
る敏子を抱きかかえ、隣の部屋に連れて行った。
それから2時間後。次女律子が、
「父ちゃん、生まれたよ」と言って、隣の部屋
に入ってきた。
「赤ん坊は無事か」
「うん。ちゃんと、息をしてるって」
「そうか!」
「母ちゃんは、大丈夫か?」
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祖父は、そう言いながら、お産が終わったばかりの部屋をのぞき込んだ。布団
の中の浪代は、汗まみれで、ぐったりと横たわったまま、胸がはげしく上下し
ていた。その様子を見て、祖父は、今までのお産に感じなかった胸騒ぎを感じ
た。
「ちょっと、いいかい」
部屋の中から出てきた産婆は、厳しい表情のまま、祖父に目で合図を送った。
「ちょっと、・・・危ないねぇ」
「どっちが」
「両方だよ。特に子供の方はあまりにも小さいし、母体の方は、今のこの情勢
で、ろくに栄養も摂っていないだろう。心労も祟っているんだろうね。お乳が
出ないんだ」
「それじゃあ・・・。じゃ、浪代は」
「おっかさんの方は、望みはある。そんな程度しか私には言えないね。出血も
ひどかったから、ちゃんと体力が持てば。でも危ないよ。清川先生を呼びに行
ったほうがいい」
「そ・・・そんな・・・」
「申し訳ないけど、私にできることはここまでだよ」
祖父は、産婆の話を聞いて、言葉を失った。それでも呆然としている暇はない。
「省三!すぐに清川先生を呼んで来い!」
祖父と産婆の話を傍で聞いていた省三は、涙を流していた。祖父の命令で省三
は、洋服の袖で涙を拭い、「うん」と言って、玄関を飛び出して行った。
省三に連れられてやってきた清川先生は、浪代の様子を見るなり、
「これはいか
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ん・・・」と小さな声でつぶやいた。すでに浪代は、ほとんど、意識を失って
いた。脈を診て、聴診器をあて、触診を手早く終えた清川先生は、
「回復する見
込みは少ないが、注射を打ってみよう」とだけ言って、手早く準備を始めた。
清川先生が打った注射のあと、浪代はすぐに静かになった。二、三度大きく呼
吸をしたかと思ったが、その後吸った息を吐き出すことはなかった。祖父は、
それが、浪代の最後の瞬間だと気づくまで、時間がかかった。
清川先生は、首を横に振り、
「残念です・・・。これ以外に、私ができることは
何もなかった。残念だが、ああする他、助かる道はなかったんだ。今は医者の
私の手元にも十分に患者を助けるだけの薬や道具がそろっているわけではない
んだよ。許してもらいたい・・」と、無念の面持ちで、浪代を見つめていた。
祖父は、目の前で起きていることを、まだ、受け入れられずにいた。祖父の目
が涙でうるむのを見て、そばにいる律子と静子が、自分の母親が亡くなったこ
とに気づいたようだった。
「母ちゃん、嫌だ、母ちゃん・・・」
そう叫びながら、二人は浪代の亡骸にすがりついた。その様子を見て、敏子も
よちよち歩きで浪代に近づき、泣きながら胸の上に折り重なるようにすがりつ
いた。省三だけは、拳を握りしめたまま、部屋の隅っこで、浪代の亡骸を見つ
めて、唇をブルブル震わせていた。小さい声で、
「母ちゃん、母ちゃん、母ちゃ
ん」と何度も繰り返していた。そのうちに、省三の頬にも涙が止めどなく流れ
た。
結婚してから15年間、一日として病気などで寝たことのない健康な身であっ
た浪代だった。だが、昭和20年7月25日午前3時30分、34歳の若さで、
不帰の客となった。終戦前の事故。親類の者ただ一人も、浪代の死に目に会い
に来ることができず、本人はもとより家族一同、悲しみのどん底に落とされ、
途方に暮れた。生まれた子供も、浪代の死から5日後に、息を引き取った。家
族の誰もが、一度に2人の家族の命を失った悲しみを受け止めることができな
かった。祖父は、毎日ただ呆然と過ごし、小さい子供たちを置いて仕事へも行
けず、困り果て、空しい日々を重ねた。連日入ってくる情報では、あらゆる戦
場で日本軍が壊滅、玉砕。内地は連日いたるところで空襲を受けている。日本
に帰る船もない。この先、どうしていいかわからず、途方に暮れた。
8月6日に、広島に新型爆弾が投下され、甚大な被害が出たという知らせが入
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ってきた。さらに、ソ連が日ソ中立条約を破って、満州に侵入してきたという
知らせが入ってきた。祖父にとっては、新型爆弾より、ソ連が侵攻してきたと
いう知らせの方が、脅威だった。
「日本への逃げ場を失った今、ここにいる日本人たちはどうなるのか」
8月15日
終戦
そんなことを思っていた矢先、8月15日の終戦の日を迎えた。祖父は、家庭
的な不幸と国家最大の不幸が重なり憔悴しきっていた。先のことを考える意欲
もなく、ただ、夢中で、成り行きに任せる以外、方法はないと思った。
8月25日ごろ
10日ほどの日が過ぎて、ソ連の兵隊が入城してきた。
「成人男性は、9時までに、朝鮮銀行前に集合せよ」
祖父は、行かないわけにいかなった。通達から集合時間までは、1時間もなか
った。祖父は、省三に「父ちゃん、どうなるかわからんが、行って来る」と言
うと、省三は、
「うん、わかった。妹たちは僕が見てるから」と、けなげに言っ
た。
もしかすると、子供たちと会うのも、これが最後になるかもしれない。しかし、
まさか、戦争に負けた国民を皆殺しにしたりはしないだろう。そんな思いを交
錯しながら、「殺される」という最悪の事態も考えた。
朝鮮銀行横には、何万人という日本人が集合していた。いよいよ、ソ連の兵隊
が来て、シベリアに連行される寸前、
「粟里第3町会の渡辺君が来ていたら、一
寸本部まで来るように」と連絡があり、何事かと思って、朝鮮銀行すぐそばの
建物の中にある本部に行ってみた。
「おお、渡辺君。よかった、間に合った。君は、今すぐ、家に帰りたまえ」
「どういうことですか?」
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「ここに集合している日本人の男子は全員、このままシベリアに連行される。
もう家族を会えなくなることを覚悟しなければならん。この街に残るのは、女
と子供、そして年老いたものばかりだ。その日本人たちも、住む所を奪われ、
一か所にまとめられることになっている。ただ、交渉の結果、全体をまとめる
ために、男を一人だけ、グループの中に入れていいということになった。他の
者は、子供たちに母親がいる。でも、君のところは、君がいなくなったら、子
供たちに親がいなくなる。つい先月、母親を亡くしたばかりで、あまりにも不
憫だ。行くも地獄だが、残るも地獄だろう。でも、君にお願いするしかない。
頼む。残る者たちを、何とか日本に無事に帰してほしい」
「わっ・・・・わかりました・・・・」
祖父は、小さな声でそう言うと、日本人会の会長に深くお辞儀をして、一目散
で子供のところに帰った。家に帰ってみると、卓袱台を囲んで、律子と静子が
正座し、おんぶ紐で敏子をおぶった省三が、夕食の支度をしていた。祖父は、
その光景を見て、涙が止まらなかった。
」
「省三!」
「父ちゃん」
「今、帰ったぞ」
省三と、そんな言葉を交わしながら、子供たちを抱きしめた。子供たちは、泣
いていた。
「父ちゃん、あと1時間で、この家から出ないといけないらしいよ」
「そうなのか。じゃ、急いで準備しよう」
「僕らは、どこに行くの?」
「父ちゃんもわからん。だが、どんなことになってもあきらめるな。みんなで
日本に帰れるまで頑張ろう。さあ、もう泣くのは終わりだ。律子も静子もわか
るな。家を出なきゃいけないんだ。自分の大切のものを持って出る準備をしな
15
さい」
突然の命令で、結局、布団も持たず、それぞれが、身のまわりのものだけをリ
ュックに入れて、家を出た。とりあえず、近くにあった風呂場(公衆浴場)に
避難した。だが、行く先のない30家族(約200名の婦女子)が狭いところ
に集団で過ごすにも限界があった。しばらくは、僅かに持ち出した食料で何と
か過ごすことができた。だが、間もなく食料が底をつき、全員、死を待つばか
りの状態になった。
9月ごろ
日本人会宛てに救済申請
その後、敗戦の騒ぎも少しずつ落ち着いた。無政府状態のところに、日本人会
が創設された。祖父は、30家族代表として、嘆願書を一週間連続で日本人会
宛てに送り、救済を求めた。その行動がやっと通じ、日本人会から5人の役員
が避難所に来てくれ、実地調査をしてくれた。日本人会の役員たちは、このま
までは死を待つばかりであると認めてくれ、早速、救援の手を差し伸べてくれ
た。救済金は、僅かだったが、何とか細々と命を保つことができた。
ホッとした矢先、5、6人のソ連兵が夜中、避難所の入口の戸を破り、突然、
入ってきた。ソ連兵は、朝鮮人の通訳を連れて酒を呑んでいたようだった。
「若い女の子を出せ。君が団長だから、ここへ女を出せ」
4、5人で、祖父一人にピストルを構えて言われた。生きた気持ちがしなかっ
た。当時としては、日本人の一人や二人、殺すのは犬や猫くらいのことで、何
でもない事だった。いつ、何が起こるか、不安の毎日だった。あの時は、なん
とかうまくその場を逃れ、ほっとした。街を通行中、ただ、誰となく、身体検
査を受け、持っている金や時計を全部取り上げられたこともあった。ソ連兵た
ちは、両手、両足まで、数え切れないほどの時計をとっていた。その様子から、
ソ連の山奥から出てきた者が、余程、時計がめずらしかったと察した。
昭和21年1月
祖父は、唯一人の男性だったので、集団の代表者となって外部の仕事に忙しか
った。したがって、自ずと、幼い3人の子供の面倒は、13歳の省三が見るこ
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とになった。昭和21年に入ったころ、避難所は、風呂屋から、平壌市内の町
外れにある醸造会社の倉庫に移っていた。一日の糧は、一椀の高粱がゆで、栄
養失調で死ぬものが、多い時には1週間に10名もいた。生きている人達も、
みな老人のように痩せこけて、眼だけがうつろに大きくなっていた。皆、この
世の人とは思わぬほどの形相だった。
家族5人の食糧事情は、厳しかった。祖父は、引揚げ団長の立場として、自分
の子供たちを二の次に、毎日配給される高粱がゆを、避難している人全員に配
り終わった後、残り少なくなった高粱がゆを、子供たちに分け与えた。省三は、
配給の高粱がゆが物足らず、常に空腹だった。それを解消するために、朝早く
起きると、高粱がゆを炊き、三人の妹に食べさせると、町へ飛び出した。ソ連
兵の官舎に行って、「何か仕事をさせてください」と、仕事を貰いに回って歩
いた。「お前はまだ子供ではないか」手振りで言われて断られると、腕を曲げ
たり伸ばして見せて、「子供でも力はある」ということを示してみせた。実際
13才と言っても、5尺を超えている省三は、腕力には自信があった。薪割り、
ガラスふき、庭掃除、頼まれれば何でもやった。ボロボロの服を着て、髪は伸
び、ただでさえ色が黒いのに、垢がたまっているから、浮浪児同然の姿であっ
た。仕事に対する賃金は、時には金をくれるところもあったが、たいていは食
い残しの黒パンだった。
1椀の高粱がゆの腹には、食い残しの黒パンでさえ貴重だった。食い残しの黒
パンは、律子、静子、敏子にとっては、生命の糧だった。日によっては、空き
缶に針金で取っ手を付け、敏子をおぶって、律子、静子の手を引いて、ロシア
人の家に行くこともあった。空き缶に、残り物を入れてもらい、帰りに、大同
橋のたもとで、火を起し、ロシア人の残り物を煮て、食べた。
倉庫の中で死んでゆくものの殆どが、体力のない老人と子供だった。省三は妹
たちが死なないように、毎日毎日、ソ連兵やロシア人の食べ残しの食糧を得る
ために街へ出た。
避難所では、毎日のように老人や子供が亡くなった。祖父は、団長として、必
ず、亡くなった人の霊を敬うために、般若心経を唱えた。親がいない子供もい
た。自分が生きる方が先で、子供を捨てて行った人も多かった。祖父は、親代
わりになって、般若心経を唱えた。
17
昭和21年2月
「敏子ッ、敏子ッ」
昭和21年2月16日。祖父と省三がいくら呼んでも、2歳の4女敏子は、目
を開こうとしなかった。「亡くなりましたか。お可哀そうに」。避難所の隣に
座っていた女性が、目をそっとふいた。しかし、他の人たちは、やせて大きく
なった目をギョロギョロさせるだけで、こちらへ向けて、「今日も又誰か死ん
だ」と口の中でつぶやくだけだった。
この日、敏子は栄養失調で亡くなった。敏子の亡殻は、むしろに包んで避難所
内に安置した。当時、避難所の者は、家族の亡殻の埋葬場所に困っていた。日
本人会は、朝鮮当局に埋葬場所の提供を要請した。日本人会の尽力で、朝鮮当
局が、朝鮮人墓地を提供してくれる運びとなった。
昭和21年4月4日
敏子の死から2カ月後。埋葬場所の整備が完了したという知らせを受けた。祖
父と省三は、むしろに包んだ敏子の亡殻を朝鮮人墓地へ運んだ。そこは、小高
い丘だった。丘には、新しく掘り返された土がいくつもあり、猫かなんかの墓
のような形ばかりの墓標がたっていた。省三は、敏子を埋めた土のそばに咲い
ているタンポポを摘み、墓標代わりに供えた。
「一日でも敏子に、内地を見せたかったね。父ちゃん!」
「省ちゃんの黒パンも無駄になったな」
そこから見下ろした平壌の街並みは、何事もなかったかのように、平和に見え
た。祖父と省三は、タンポポを供えた墓標に別れを告げ、丘を下りた。
昭和21年4月5日
祖父は、敏子を、朝鮮人墓地に埋葬したことを区切りに、死亡した日を昭和2
1年4月5日として、役所に死亡届けを提出した。公的証明書によると、死亡
場所は、平壌府船橋里78番地となっている。
昭和21年4月中旬
18
引揚げ
平壌第1回の内地引揚げ命令が出た。引揚げには、いろいろな準備が必要だっ
た。第一回の平壌引揚げのため、帰国のコースもわからず、手さぐり状態だっ
た。小さな船でまず平壌を出て、一昼夜かけて、川を下った。やっと着いたと
ころで、そこから汽車で終着駅まで行った。38度線までは、一昼夜、雨の中
を歩いた。途中、田舎の空いた家に濡れたまま入り、寝られない一夜を過ごし
た。夜が明けて、一路38度線を目標に歩き続けたところ、途中で朝鮮部落民
が、4,5人馬に乗ってやってきて、
「先頭部隊は止まれ」と言われた。祖父は、
何事が起きたのかと思って、立ち止まった。説明によると、山中の井戸の中に、
白い薬を誰かが入れたとのことで、大騒ぎになっているということだった。何
千人という中から、入れた人物を探すことも出来ず、結果的には、各団の責任
者が責任を取れということになった。朝鮮側として祖父一人と、満州側の三団
体の4人が井戸端に集合させられ、固形の薬を否応なしに口に押し込まれた。
このときは、一同顔を合わせ、38度線を目前に控え、ここまで生き延びてき
たのに、いよいよここまでの命かと諦めの心境になった。まず、満州側の2人
が口に押し込まれ、そのまま呑むことも出来ず、口の中で、もぐもぐしていた
ところ、これは甘いと言い出した。紙包みの中を見ると、軍部でよく配給にな
ったブドウ糖とわかった。行軍の途中、のどが渇き、誰かが井戸で水を呑んだ
ものの、井戸が深いので、水を引き揚げるのに時間がかかり、行軍に遅れ、急
いで呑み残したブドウ糖を置き忘れたのではないかという結論になった。朝鮮
部落の人も、てっきり青酸カリと思っていたようだった。
祖父たちも同じことを想像した。呑めばそれまでと思い込み、一同、顔色を失
った。だが、この事件もそういう結論で一件落着した。そういうことが、何度
もあった。これが最後かと何度思ったことか。その都度、不思議にスルリと危
険を抜けてきた。やっとの思いで、南北の国境線を越えた時は、一度に全身の
力が抜けたような、張り切った気持がいっぺんに和らぎ、ここまで無事で居た
ことが夢のように嬉しかった。このときの事は、今なお、思い出される。
まもなく京城(ソウル)に着き、内地引揚げの順番を待った。3日間待機した
後、仁川(インチョン)から博多(福岡)へと懐かしの内地の土を踏んだとき
は、思わず心の中で万歳を叫びたかった。夢にまで見た内地の姿に一同、涙を
流し、抱き合って喜び合った。
「ここまで何とか生きてこられたのも、渡辺さん
が居たお陰で生きられた。この思いは、一生忘れることは出来ない」と、皆、
大変喜んでくれた。祖父としては、本当に良かったと、つくづく思った。
19
西条へ帰る途中、広島の原爆の跡を車中から見た。内地も大変だったことを、
初めて知った。
昭和21年
愛媛県・西条市
倉庫の家
無事、西条駅に降りたときは、全員裸足で荷物は何も無く、着の身着のままだ
った。西条に着いても、住む家がなく、とりあえず、祖父の兄、冶三郎の家に
転がり込んだ。兄の冶三郎は、大きなタンス屋さんをしていて、工場を持って
いた。家は広かったが、12人の家族がいた。食糧不足で、12人の家族を食
べさせるのがやっとのようだった。
そのころ、祖父のお母さん(祖祖母)も元気で助けてくれた。祖父のお姉さん
も着る物、履くもの、食糧全て、せっせと運んでくれ、援助してくれた。祖父
は、西条に着くと、安心したのか、マラリアに罹り、高熱が続いた。3カ月位、
タンス屋の2階で寝込んでしまった。
その間、一切収入がなかった。祖父の兄夫婦、祖父のお母さん、祖父のお姉さ
んが援助してくれ、食い継ぐことができた。祖父の熱も下がり、やっと健康体
にもどった。いつまでも親戚のお世話になる訳にも行かず、家を探すことにな
った。だが、収入も無く、家賃も払えないので、家は探せないということにな
った。そんな折、祖父のお姉さんが、栄町商店街のすぐ裏にあった鉄工所の倉
庫だったところを見つけてくれた。家賃は、ほとんどただ同然だということだ
ったので、借りることにした。
鉄工所の倉庫の家は、天井が無く、窓も無く、柱も天井も油で焦げ、茶色にな
っていた。でも、結構広く、半分のスペースに座を上げて、半分は土間という
家で、家族は暮らし始めた。
昭和22年
20
祖父もやっと元気になり、冶三郎の家具工場を務めることになった。とはいえ、
生活は大変だった。省三は、北朝鮮で終戦を迎えた時、中学1年生だった。当
時の義務教育は6年で終わり、中学は今の高校と同じで任意だった時代。省三
は、引き揚げて帰ってきた関係で、一年休学し、中学3年(西条中学、今の西
条高校)に入学した。そして野球部に入った。
学校のそばに、クラレ西条という繊維会社があった。当時、クラレ西条に社会
人野球が出来たばかりだった。選手を集めているというウワサを聞いた省三は、
島田さんという祖父のお姉さんの知人に頼み、
「家が経済的に大変なので」と言
って、クラレ西条に入社することになった。そこで、与えられた仕事は、道具
番だった。
「ノコギリと金ヅチたのむよ」
「はい」
「ペンチとハリ金」
「はい」
仕事は子供の仕事でも、野球部員としては一人前の働きをやってのけた。北朝
鮮から引揚げ後、西条中学ではじめて握ったスポンジ・ボール。それを武器に、
クラレ西条の主戦投手、主力打者として、活躍するようになった。
21
昭和23年
省三がクラレ西条に入り、生活が少し順調に行き出した。そんな矢先、祖父が、
仕事中、機械鋸で、親指をかなり深く切るというアクシデントが起きた。祖父
は、仕事を休むことになった。その間に、タンス工場が火事になり、祖父の兄
の冶三郎は、タンス屋を閉店してしまった。祖父は、又、失業してしまった。
指が直ってからは、焼け残った箱膳(四角い食器を入れる箱)を売り歩いたり
した。
そうこうしていると、タンス屋を閉店した冶三郎が、アイスキャンディー屋を
始めた。冶三郎の勧めで、祖父は、アイスキャンディーの材料卸を始めた。当
時は、車も無く、自転車の後部の荷台に、木枠を積み、瓶のジュースを10本
位入れ、それを3段位積んで、真夏の炎天下、西は壬生川、東は三島あたりま
で配達に行った。当時、祖父は、45~46歳だった。
九死に一生を得て、四国の郷里にやっとの思いで引き揚げて帰ってきた祖父だ
った。祖父は、帰国後、引揚げの際に、苦労を共にした女性と結婚した。食糧
難の時代、大勢の家族を抱えての生活は大変だった。
その日、その日、食べていくことに追われ、新聞、ラジオを見る間も聞く間も
22
なかった。朝鮮戦争も知らずと過ごした。
昭和26年
兵庫県西宮市
甲子園球場
省三―大阪タイガース入団決定
昭和26年10月。省三は、プロ野球の大阪タイガースが、甲子園球場で新人
テストを行うという情報を聞きつけた。プロ野球選手になれば、大金を稼ぎ、
祖父たちの生活が今より楽になるのではないかと考えた省三は、新人テストを
受けるため、西条から甲子園球場に向かった。結果は、練習用投手としての採
用だった。省三にしてみれば、練習用投手であっても、今より稼ぐことができ
ると思ったのだろう。何投手であろうと、採用されるのであれば、こだわりを
捨てた。その当時のことについて、当時、大阪タイガースの松木謙冶郎監督は、
著書で、次のように回想している。
23
「新人テストで入団してきた。渡辺は前年秋にもテストのため練習に参加した
が、このときはノビのある直球にタイガースの各打者がとまどったことがあっ
た。2度目のテストではすでに採用と決めていたが、問題は条件だった。球団
は月給8000円を提示したが、渡辺はこの金額では倉敷レーヨンの月給より
下まわるため、契約金10万円ほしいと要求した。球団総務の浅野氏が新人テ
ストで契約金を出すことができないので、渡辺の採用をやめると私に報告して
きた。私は、彼の要求もわかるので、今一度話し合って採用してほしいと再考
をうながした結果、契約金なし、月給1万2000円で契約が成立した。しか
し、入団当時の渡辺は制球力こそあったが、タマが軽く素直な球質だけに、と
ても一軍に使える内容ではなかった」(松木謙治郎著「阪神球団史 タイガー
スの生いたち(昭和48年3月20日発行)」より抜粋)
24
昭和28年
省三のプロ野球人生の1年目は、2軍で、甲子園球場での練習に明け暮れる毎
日だった。2年目の昭和28年(1953年)2月、当時の指揮官である松木
謙冶郎監督にコントロールの良さを買われ、鹿児島・鴨池キャンプに打撃投手
として帯同することになった。専任の打撃投手がいなかった時代。若手投手は、
毎日のように打撃投手にかり出された。そのキャンプで、思わぬアクシデント
が起きた。紅白戦で、当時のエース投手、梶岡忠義投手の右手に、死球をあて
てしまったのだ。このときの状況について、
「阪神タイガース昭和のあゆむ」に
は、次のように記されている。
「昭和28年、阪神は初めて本拠地の甲子園を離れ、鹿児島市の鴨池球場でキ
ャンプを張った。米国カリフォルニア州サンタマリアをキャンプ地に選んだ巨
人に対抗するためには、合宿して猛練習する以外に、道はないというのが松木
監督の結論だった。そして、鴨池キャンプは、それほど大きな期待を寄せられ
25
ていなかったひとりの新鋭投手の出世の舞台になった。
その前年、倉敷レーヨン西条工場から阪神に入団し、1年間2軍暮らしをして
いた渡辺省三がその幸運児である。この渡辺省を見つけ出したのが、二軍監督
の森田だった。渡辺省の名をテスト応募者のリスト中に見い出した。森田が渡
辺省に関心を持ったのはこのとき以来だが、素質にいいものを持っているとは
言っても、体つきがいかにも華奢で、プロの荒波に耐え切れるかどうかという
不安があった。結局、コントロールの良さが買われ、練習用投手としてなら、
使えるだろうということで採用が決まり、左の岩村とともに鴨池のキャンプに
加わった。ところが、キャンプ打ち上げの直前に行った紅白試合で、渡辺省が
梶岡の右手の甲に死球を食わせた。そのため梶岡が帰途広島(二月二四日)の
オープン戦で投げられなくなった。急場凌ぎに渡辺省を使ってみたところ、思
いがけない好結果が出て、無得点の引き分けになった。そこで松木は、ためら
うことなく、渡辺省を一軍に引き上げた」
そのころのことについて、省三は、日記につぎのように記している。
<省三の日記より>
昭和28年
1月14日夜
大阪に帰阪した。
26
1月16日
16日より23日まで、松葉トレーナーの元に、トレーニングを始めた。毎日、
しぼられた。二軍全員揃った。今日より練習後、グラウンド5回走る事にした。
1月25日
給料日
2月1日
今日は、一、二軍揃って、広田神社に参拝した後、甲子園に帰り、会食後、映
画を見に行った。
2月2日
今日より一、二軍一緒で、石渡トレーナーの元にトレーニングを行った後、軽
く、バッティング、ピッチングを行った。岡田源三郎さんがコーチに来られた。
6日よりカイザ田中。昔、タイガースの捕手だった方がバッテリーのコーチに。
8日まで。
2月8日夜
夜8時40分発、鹿児島行き急行にて、キャンプ地に向かった。翌日、夕方6
時に鹿児島駅に着き、バスにて満月荘へ着いた。夕食後、入浴。床についた。
2月10日
今日から、鴨池球場にて練習。朝11時より1時間余り、監督さんの話。昼食
後、1時より3時半まで練習。フリーバッティングの後、シートノック後、ピ
ッチャーの守備の練習。ランニングをして終わった後、大原君、内司君、小生
と3人で残ってランニングをした。400のトラックを5回走った。
2月11日晴れ
朝8時半朝食。9時半より練習。朝の内はバッティングだけ。11時半に終わ
り、合宿所へ帰り、昼食後30分間、ルールの研究。1時より2次。昼からは
レギュラーバッティング投手全員が投げた。その後、バンドの練習。4時に終
わり、3人が何時もの通り、5回走った。夕食後、3人で海岸を散歩した。桜
島を前に、景色が良かった。帰りにしるこを食べた。鹿児島は、本当に温かい
春の様です。温度17度。
2月12日晴れ後雨
27
朝8時に起き、朝食。いつもと同じように、練習。4時過ぎまで練習後、入浴。
夕食。400のトラック5回走った後、西村さん、大原君3人で、散歩した。
帰りに、しるこを食べた。8時に部屋に帰り、横井さん、小川君に便りを出し
た。夕方から雨になった。毎日温かい日が続きます。
2月13日雨後曇り
朝方から雨が降り出し、朝のうち、練習中止。10時よりルールの研究。11
時まで。12時昼食後、4時まで練習。グラウンド5回、5時半入浴。夕食を
済ませ、散歩した。夕方より又今日も雨が降り出した。立川さん(昭和31年
に結婚)に便りを書いた。
2月19日晴れ
朝8時に起き、朝食。9時半より11時までルールの研究。12時昼食。12
時半より練習。今日は紅白試合を7回やった。白軍が5対1にて勝った。小生
3回まで投げた後、三船投手が投げた。5時に練習が終わり、入浴後、夕食。
6時より朝鮮平壌にて知り合った斉藤さんのお婆さんが見えられたので、街へ
出た。旅館へ行き、10時頃まで、昔の平壌時代の事を語り合った。沢山おみ
やげを戴いた。10時半、満月荘に帰り、みんなでおいしく戴いた。床につい
たのは11時過ぎだった。
2月21日
今日は、紅白試合2時より。小生、5回よりリリーフして5対7にて、勝利投
手となった。今日の試合で、梶岡投手に死球を興えて、一か月の休養となった。
本当にすまんことをした。
*昭和27年当時、阪神タイガース監督、松木謙治郎さんの話
「27年は二軍にいたが、翌28年、タイガースが初めて甲子園を離れ、鹿児
島鴨池球場でキャンプをはったとき、メキメキと腕を上げてきた。このキャン
プでは、渡辺と左腕の岩村を練習用投手として参加させたが、渡辺は午前中に
フリーバッティング投手を勤め、午後はシートバッティングと、まさに一人二
役どころか三役ぐらいの労力を重ねたのだった。キャンプ打上げ直前になって、
紅白試合を挙行したが、選手不足のため、梶岡を外野に起用した。ところが渡
辺は梶岡の右手甲に死球を呈し、梶岡が当分投球できなくなるという事態が起
きた。帰途のオープン戦にしかたなく渡辺を登板させたところ、好リリーフぶ
りを発揮したので、ついに一軍入りとなったのである。28年は10勝10敗、
28
29年は10勝13敗、絶好のコントロールをつけた30年には18勝11敗
と好投した。ついで31年には彼最高の22勝8敗、しかも防御率1.45で
一位の成績を上げ、最優秀投手の栄を受けた。」(松木謙治郎著「阪神球団史
タイガースの生いたち(昭和48年3月20日発行)」より抜粋)
昭和28年2月21日、省三は、当時阪神タイガースのエース、梶岡忠義投手
に死球を呈してしまった。この時をきっかけに、省三の運命は変化していった。
3月7日
阪神対毎日の定期戦。12回延長。4対1にて負けた。
3月8日
2回戦。2対1にて勝った。眞田、三船、駒田(渡辺
勝利投手)
3月9日
決勝。4対0にて勝った。優勝。岩村、渡辺。小生6回まで投げた。監督さん、
全選手に握手され、本当に嬉しかった。
3月10日
阪神対阪急定期戦。今日の試合、小生3回から8回まで投げ、6対4にて勝ち、
勝利投手となった。カントリー賞を貰った。500円。
3月11日
雨のため、中止。
3月12日
ダブルヘッタ―。2回戦は、5対3にて敗れた。決勝戦は、2時半より。小生
先発で投げた。3対2にて、優勝した。勝利投手となった。完投した。試合後、
小生、最優秀選手に選ばれた。金一封5000円。
3月28日
セントラルリーグ開幕。1回戦、東京後楽園にて国鉄戦から始まる。29日は、
雨のため中止となり、30日に甲子園に帰った。
4月19日
29
巨人、阪神ダブルヘッタ―。1勝1敗。小生1勝。3対2
4月に一軍公式試合に初登板し、すぐにプロ初勝利を挙げた。この年は10勝
11敗の成績を残した。父は年度末に、この年を振り返っている。
昭和28年10月
昨年に続き、今年も2軍で過ごさねばならないのかと思い、いやになった。だ
が、小生は運良くタイガースに入って以来、鹿児島での寒期練習に参加出来る
ことになり、二軍から内司と小生が選ばれた。小生、このチャンスを逃しては
と思い、一生懸命努力した。ランニングを練習の後、欠かさず、500のトラ
ックを毎回毎回走った。お陰で、球にスピードが出て、調子良く、オープン戦
には良く使われた。成績は4勝1敗。阪急との定期戦には最高選手に選ばれ、
公式戦には、登録され、小生、運が向いてきた。
(昭和28年3月 最高選手に選ばれもらった記念カップ)
だが、公式戦に入り、前盤戦は余り成績も良くなく、二軍へ落とされる事ばか
り心配していたが、5月中旬ころより、調子も良くなり、5連勝。巨人に2勝
し、本当にこれで一安心。嬉しかった。だが、中盤戦、夏には、へばって来て
出場し登板しては、ノックアウトでした。お陰で今年は10勝11敗と負け越
したが、自分では良い成績だと思っています。これだけの成績を修めたのも、
選手の徳網捕手のお陰だと思っています。今年1年、初めての公式戦に何にも
わからないずくに、無我夢中で投げていましたが、来年は自分で、余程熱心に
30
一生懸命研究し、努力をしないと、今年の様な成績は出ない。シーズンオフに
は、ランニングに重きを置いて、来るシーズンに備え様と思っています。今年
は、ファン投票は4位だった。
この年、省三は、54試合に登板し、野球ファンから注目を浴びる存在となっ
た。
省三はこの年、2年連続、2ケタ勝利を収めたということで、マスコミにクロ
ーズアップされることになった。翌年の29年も、悪戦苦闘しながら、10勝
投手に向かってまい進した。シーズン前とシーズン終了ころに、そのころの内
心を綴っている。
昭和29年
3月14日晴れ
今日は、昨日に続き、南海との定期戦でした。このところ、タイガースは毎日
31
との定期戦にも連敗し、昨日も負け、今日の試合も小生が先発で、試合が行わ
れたが、4回にしてノックアウトされてしまった。先日の毎日との一戦にも、
二死満塁にて原屋投手の後を引き継いで投げたが、投手の和岡勇投手に、ラン
ニングホームランを打たれた。それを追った後、後藤選手が、足がもつれ、こ
ろがり、右骨を追って、阪大病院に入院された。今日ほどみじめな事はなかっ
た。自分で本当に情けなく思った。今年こそ、小生にとって、一番大切な年で
あるのに、近頃の小生は、とても自信がない。今年こそ、昨年の成績に負けな
い様に、一生懸命がんばらなくてはならない。野球一筋にと思いながら、試合
に負けると、つい気がむしゃくしゃする。やけくそになる。今くらいの年頃は、
一番遊びたい頃だが、小生にはそれができない。食事もあまり進まない。勝負
の世界というところは、本当につらい。負けた折は、何かで気を紛らわそうと
する。じっとしていられない気持ちです。最近、麻雀を少し知り、ひまさえあ
れば、やっている。麻雀は腰に悪いと知りながら、退屈な時は面白いからする。
又、付き合いもあって、誘われるとしない訳にいかない。外に良い人でも居れ
ば。小生にはそういう人はいない。小生を慰めてくれるのは、立川さんの便り
の外にない。小生には無くてはならない人である。明日から心を入れ替えて、
一生懸命頑張る。
10月
今年の公式戦も後残すところ、わずかです。今シーズンはじめから見て、前盤
戦オープンと、小生取るところない悪い成績でした。今年も昨年と同じ様に、
二軍に落とされるのを心配した。今年は昨年に比べて、スピードはないし、シ
ュートに切れがなく、又、直球を投げても、シュートして自分でもどうして良
いか、わからなかった。ボールの握り方を変えたり、投げ方を上にしたり、横
にしたりしたが、結局直らなかった。5月の末で成績は3勝7敗でした。だが
勝つと球が行かなくとも、自信がついて来て、気持ちも幾分楽になりますが、
負けるとどうも考えこんで、なかなか夜も眠れない。つい彼女でもいたら慰め
てもらえるのになと思うと、やはり遠く離れていては、つまらん。だが、広島
遠征は楽しみだった。中盤戦に入り、調子も良くなり、5連勝し、8勝7敗と
勝ち越したが、たちまち、また8勝10敗に負け越した。だが、今年の目標1
0勝に(10月4日)なれた事は、本当に嬉しい。残り試合15試合。あと2、
3勝したいと思っている。今年も10勝を越すことが出来なかった。だが自分
にとってこれ以上の成績は望めないのかもしれない。来年も今年に負けない様、
一生懸命頑張ろうという決心だけは持っている。
*「沈む球」
32
省三は年々投球技術を磨いた。ドラゴンズキラー、巨人キラーなどと揶揄され、
守備面での活躍が期待された。このころ、省三は「沈む球」の投球方法も取得
し、武器にした。
昭和31年
防御率第1位
7月ごろ(省三の日記)
最近の小生は、どうも遊びすぎらしい。公式戦開幕当時は、調子良く、一週間
で3勝する事が出来たが、20日間位の間、勝ち星なくどうも波が大きすぎて、
いかん。だが6月10日までに、8勝4敗と一応は良い成績だが、6月9日の
国鉄に先発し、3分の1イニング投げ、5点を取られ、ノックアウトされ、少
し自信を失くして、今、少しシュンとして元気がない。というのも、同僚の小
山が、成績が良すぎるからだ。小生も一生懸命、小山に負けない様、努力しな
くてはいけないのに、どうも努力が足りない様だ。もう少し、小生も考え直さ
なくてはいけない。今日から心を入れ替えて、一生懸命頑張ります。立川さん。
33
昭和32年
10月ごろ
今シーズンは、トレーニング中、足の怪我から開幕まで少し立ち遅れたが、中
日、国鉄と2勝したものの、後が悪く4連敗する始末で、とても情けなくなる。
最近の小生は、慎重さを欠いている。最近は若手が良くなって来ているので、
一生懸命頑張らなくてはならない気持ちはあるが、これだけはあせればあせる
ほど、悪い結果になると思うから、あせらずじっくり調子を整え様と思ってい
ます。今年は、結婚1年目なので、余計に自分の気持ちとしてつらい。2、3
日うちに、厄除けに行こうと思っている。明日から心を入れ替えて、家のため
に一生懸命頑張ります。
昭和40年
省三は昭和40年末、球団史上初の550試合登板記録を残し、現役を引退し
た。
34
省三が現役を引退した時、祖父は60歳になっていた。省三は、長い間苦労を
重ねた祖父と祖父一家を、愛媛県西条市から甲子園に呼び寄せようと考え、自
宅の隣に土地と家を購入した。そして、祖父に仕事を与えた。省三は、人間は
仕事をすることが、健康の源と考えていたからだ。自宅の一部を改装して、渡
辺商店という店舗を構えさせた。渡辺商店は、今でいうコンビニのような店で、
たばこ、パン、飲み物など、販売した。
祖父は、省三の心厚い配慮に感謝した。祖父は、甲子園で、亡くなるその日ま
で、小さな店を営み続けた。
35
あとがき
平成24年春。日本敗戦直後の混乱で病気や飢えなどにより朝鮮半島北部で亡
くなった日本人の遺骨返還問題が、報道などで取り沙汰された。それに伴い、
神奈川県川崎市在住の佐藤知也さん(81)が、終戦直後、平壌郊外の龍山墓
地に埋葬された 2421人の名簿を持っているという事実も、クローズアップ
された。佐藤さんは、1936年、4歳のときに、父、信重さんの赴任先の北
朝鮮に移住した。家族と共に1948年7月に引き揚げるまで、12年間を北
朝鮮で過ごしたという。
私は、ある人を介して、佐藤知也さんが保管されていた龍山墓地の名簿に、祖
父の4女「渡辺敏子」の名前が記載されているという事実を知った。それに伴
って、祖父と父が、敏子を埋葬した場所は、龍山墓地という名称であることが
わかった。
私は、昭和40年から、甲子園で祖父と同じ敷地内で暮らすようになった。台
所は別だが、いつも夕食のおかずを2所帯分(10人分)つくり、交換した。
夕方、母が作ったおかずを私が祖父の家に届けると、祖父は決まって日本酒を
呑み始めていた。たくさんは、呑まない祖父だったが、お酒が入ると、必ず、
北朝鮮で日本人会の会長が、皆がシベリアに送られる寸前、「渡辺君は、黙っ
てここから帰れ」と言ってくれたことを、義祖母に話していた。私は、「また、
おじいちゃんは、同じこと言っている」と思い、そそくさと祖父の家から退散
した。今から思うと、もっと詳しく、北朝鮮時代のことを聞いておけばよかっ
たと思う。
祖父は、もしあの時、日本人会の会長が「渡辺君は、黙ってここから帰れ」と
言ってくれなければ、あの日から、省三たちと生き別れ、両親なき4人の子供
たちは、残留孤児になって、日本の土を踏むことはなかっただろう。その思い
が常に心の中で交錯していたのではないだろうか。そして、行き着く思いは、
日本人会の会長のあの時の言葉に、強い恩義を感じたのだろう。
祖父が今生きていれば、もう一度、あの場所に行ってみたいと思うに違いない。
これまで、遺骨を保管し続けてくれた北朝鮮当局にも、あらためて感謝の念を
持つだろう。祖父も父も、生前、よく言っていた。
「日本人は、北朝鮮の人を悪
く言うけど、日本人の方が悪いんだよ」と。
私は、その言葉が何を指して言っているのか、分らず聞き流していた。今もわ
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からない。ただ、今、私が言えることは、祖父と父が、終戦直後、北朝鮮当局
の手厚い支援があったお陰で、後の人生を送ることができた。このことを、た
いそう感謝していたことである。
祖父は、回顧録で、つぎのように締めくくっている。
「戦前、戦後を通じて、身も心も燃え尽きて、流れる時代の波に押し流されま
した。何をされても、何も言えない敗戦の国民とは、実に情けないものだとし
みじみと思いました。ただ、耐えて日本の土を踏む迄は、何としても、生き抜
かねばと、それのみを祈る気持ちでした。終戦後丸一年、184名の生命を預
かり、その間、数々の苦しみと戦い、九死に一生を得て、やっと引揚げの日ま
で無事にこぎ着いた時は、どんなにホッとしたことか。こんなに幸せなことは
ないと、バンザイしたい心境でした。
人の運命とは紙一重。何が幸福で何が不運になるのか、過ぎ去ってみなければ、
わからないものです。国敗れて山河なし。人生の一番大切な時期をかけた自分
の夢も、戦争のために全て破れ、日本に帰ってきた時には、着の身着のままの
姿で、路頭にさ迷う身となりました。
一体、人生とは何なのか。楽しいときはあまりにも少なく、苦しい時の思い出
ばかり。明治、大正、昭和と生き抜き、大変な時代に生まれたことも、自然の
運命とあきらめ、戦後38年の月日が過ぎました。過ぎ去りし過去の日々を想
い浮かべ、静かな余生を送る身となりました。老後の幸福を感謝して、もはや、
幾ばくもない余生を楽しく過ごしたいと思っています」昭和58年記
おわり
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*この物語は、祖父の回顧録と雑誌「野球界」の「渡辺省三 青春劇場」、当時
の事情を知っている親類、知人の話を参考に、孫の私が、
「13歳の時に、北朝
鮮から引き揚げた、あるプロ野球選手一家の記録」として、纏めたものです。
平成25年夏
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記
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