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センター通信17号 - 宮澤賢治センター

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センター通信17号 - 宮澤賢治センター
宮澤賢治センター通信 第17号 平成25年3月20日
(1)
第 17 号
●賢治と音楽の会便り�7・8
●エッセイ��������9
●宮澤賢治記念短歌会報告�10
●第6回宮澤賢治学生短歌大会報告�11〜13
●特別寄稿������14〜16
●ウルグアイだより����17
●会員投稿��������18
シュな感覚に自ら学ぼうともし
た。そうした姿勢を持つ教師に
対し、生徒たちが敬愛の念を抱
くようになるのは当然であろう。
子どもたちに同じレールの上
を歩かせて逸脱を許さず、徹底
した管理と束縛で学校の秩序を
保とうとするような、現在の学
が見出せず、日本でも様々な問
世紀に入ってもなお人類の
幾多の困難な課題に解決の糸口
も否定しがたい。
種の輝きを保ち続けていること
だが、賢治の存在が今でもある
に歴史上の人物と言ってよい。
れる。宮澤賢治は、今では完全
どいなくなってしまったと思わ
も存命という方も、もうほとん
をとっていた頃の教え子で現在
ほど前賢治が花巻農学校で教鞭
とファシズムへの道を押しとど
結果軍部の台頭を招いて、戦争
不況に喘ぐ国民にあきれられ、
を暴いて罵り合う醜態を演じて
繰り返しつつも、相手の不祥事
党という二大政党が政権交代を
昭和初期もまた、政友会・民政
ている。賢治の晩年の大正末~
代わるという異常な事態が続い
なく、毎年のように総理大臣が
い、泥仕合の様相と言えなくも
た が、 互 い に 責 任 の な す り 合
しまったが)が政権を争ってき
挙で民主党は議席を激減させて
この数年自民党と民主党の二
大政党(もっとも昨年末の総選
であろう。
いのは、決して私だけではない
は思えないはずである。
賢治には到底同じ世界の人間と
ゲームに狂奔する者たちなど、
け、 一 攫 千 金 を 狙 っ て マ ネ ー
して額に汗して働くことを避
批判の目を向けるであろう。ま
かりを追い求める人々の姿にも
を軽んじ、安易に便利な商品ば
したり、物を作ったりすること
を抱くに違いない。自ら土を耕
し得ない諸問題に深い憂慮の念
の衰退など、政治が容易に解決
賢治なら、豊かさの裏に潜む
貧困、経済格差の深刻化、農業
り楽観してもいられない。
のきな臭い情勢を見れば、あま
題や北朝鮮の動きなど東アジア
懸念はないが、日中韓の領土問
れるのではなく、生徒たちと目
快く応じた。教壇から講説を垂
た貧窮に悩む親たちの相談にも
い生徒のために奔走し、そうし
た。家が貧しくて学費が払えな
成長を暖かく見守ろうと心がけ
一人の人間として見つめ、その
け な ど で は な く、 生 徒 各 自 を
識の詰め込みや道徳観の押しつ
り方を模索し続けた。決して知
最大限に生かすような教育のあ
性、持ち味を重んじ、それらを
め た。 生 徒 た ち 一 人 一 人 の 個
に彼らと苦楽を共にしようと努
登山やハイキングを楽しみ、常
ちと一緒に畑仕事に汗を流し、
居の教育に力を入れた。生徒た
叫び、農学校であえて音楽や芝
あ っ た。
「 農 業 は 芸 術 だ!」 と
としても非常にユニークな人で
白眼視されたりもしたが、教師
宮澤賢治は型破りな言動で父
親と対立したり地域の人々から
あると思われる。
賢治が花巻農学校を退任する
際 に 残 し た「 生 徒 諸 君 に 寄 せ
がある。
込まれるという深刻なジレンマ
めて精神の病の発症にさえ追い
れ、良心的な教師ほど悩みを深
その思いが無惨に踏みにじら
徒を導こうとすればするほど、
教師たちが自分の描く方向に生
ともに耳を傾けるわけがない。
大人の声に今の子どもたちがま
で、そんな欺瞞と偽善に満ちた
う」などと呼びかけたところ
持 て 」「 未 来 へ の ロ マ ン を 語 ろ
ただ生徒たちに向かって「夢を
育の実態を是正することなく、
ている。そうしたおぞましい教
おどろおどろしい教育が進行し
力に苛まれるという、まことに
全く裏腹な個性抑圧の同質化圧
唱えられながら、実際はそれと
の 下 で、「 個 性 重 視 の 教 育 」 が
委員会
校像とは大きく異なるもので
宮澤賢治が世を去って 年に
な る。 弟 の 宮 澤 清 六 氏 が 亡 く
回忌である。
年
なったのが2001年だったか
ら、今年が
-
学校というタテの序列
-
教育
題が噴出している現状を思うと
めることができないまま、日本
線 を 同 じ く し、 彼 ら の フ レ ッ
80
90
あったろう。文部科学省
き、
「宮澤賢治が今の世の中を
また学校教育の様々な問題、
すなわちいじめ・不登校・校内
13
宮澤賢治センター理事 岡 崎 正 道
見たら、果たしてどう思い、何
暴力、そして生徒に対する管理
校にも往々見られる歪んだ教育
●「ミニ・茶話会」便り6・7
と締めつけ、教師による体罰な
●定例研究会の概要��2〜6
のスタイルは、賢治の描いた学
●巻頭言 理事挨拶����1
どは、賢治が最も憂えることで
目 次
は1945年の破局へとひた
〒020-8551
盛岡市上田四丁目3番5号
電 話 019−621−6672
FAX 019−621−6493
宮澤賢治センター(岩手大学内)
発行責任者 鈴木幸一
走った。今は軍部の暴走という
発 行 人
と言うだろうか?」という想像
宮澤賢治が今の世にあれば
(題 字/金森由利子)
(夢想)を禁ずることができな
巻 頭 言
21
に呻吟する農民たちの窮状をい
を追い求めながら、現実の貧苦
るだろう。限りなき夢とロマン
意と主張が語られていると言え
ここには賢治の相当に大胆な決
心を躍らせる響きを有するが、
も大好きなこのフレーズは実に
らしく美しい構成に変えよ」私
盲目な衝動から動く世界を素晴
な時代のマルクスよ、これらの
河系統を解き放て!・・・新た
重苦しい重力の法則からこの銀
時代のコペルニクスよ、余りに
を感じないのか!・・・新しい
ら吹いて来る、透明な清潔な風
はこの颯爽たる諸君の未来圏か
る 」 と い う 一 文 が あ る。
「諸君
( 岩手大学国際交流センター教授)
あろうか?
できる者が果たして何人いるで
子どもたちに投げかけることが
賢治のフレーズを自信をもって
校の教師たちの中に、この宮澤
様々に渦巻いているが、今の学
翻って現在の社会を見れば、
賢治の時代以上の複雑な矛盾が
きな期待が溢れていた。
てくれるに相違ないという、大
性がかかる理想をきっと実現し
中には、若者たちの無限の可能
新社会が想望される。賢治の脳
しく美しい構成」をもってなる
諸矛盾を解決した後に「素晴ら
たのであるが、そうした社会の
賢治の終生の課題と苦悩が存し
当時の日本人としてはきわめて
に通い語学の勉強をしました。
は正則英語学校、夜は善隣書院
ましたが、慶応には通わず、昼
年、慶応の普通部三年に編入し
心平は一九〇三年、福島県い
わきに生まれました。一九二〇
せんでした。
高く評価する人はほとんどいま
店』を出版したばかりの賢治を
『 春 と 修 羅 』『 注 文 の 多 い 料 理
一九二六年時点で、自費出版の
評 価 す る 人 は 大 勢 い ま す が、
ま し ょ う。 現 在 賢 治 を 天 才 と
今 考 え れ ば、 心 平 の 炯 眼 は
まさに驚嘆すべきことといえ
る」と書いています。
る。 彼 の 存 在 は 私 に 力 を 与 え
荘已池です。一九〇七年生まれ
賢治と心平、黄瀛との橋渡し
をした人物として重要なのは森
発表されました。
れた「永訣の朝」も『銅鑼』に
ます。妹トシの死に際して書か
後次々に賢治の作品が掲載され
「未来圏からの影」を発表、以
す。
『 銅 鑼 』 第 4 号 に「 命 令 」
手 紙 を 書 き、 賢 治 は 承 諾 し ま
同人にならないかという誘いの
すぐに心平は賢治に『銅鑼』の
一読賢治の才能に驚くのです。
修羅』が送られてきて、心平は
代の友人・赤津周雄から『春と
一九二五年四月には黄瀛らと
ともに詩誌『銅鑼』を創刊しま
れず、「友達にあげてください」
文の多い料理店』はほとんど売
心平の周りに集まってきたので
だけでなく、多くの詩人たちが
ウハチローなど『銅鑼』の同人
心平は詩壇のオルガナイザー
として力量がありました。サト
した。
なりを懸命に聞き出そうとしま
く、荘已池を通して賢治の人と
としたなら、私はその名誉ある
章で「現在の詩壇に天才がゐる
年八月号)の「三人」という文
て、 心 平 は『 詩 神 』
(一九二六
ものともしれない賢治につい
たことです。海のものとも山の
草野心平の業績は、一言でい
えば賢治の才能を逸早く発見し
とって不思議な存在に思えたよ
に投稿していた心平は、黄瀛に
学生活を送り、日本の詩の雑誌
通が始まったのです。中国で留
な手紙が黄瀛から寄せられ、文
のでしょうか」という風変わり
本人なのでしょうか。中国人な
で し た。「 い っ た い あ な た は 日
になります。一九二三年のこと
うえい)と文通を開始するよう
やはり詩を書いていた黄瀛(こ
その頃すでに詩を書いていた
心平は、青島日本中学校にいて
学しました。
中国に渡り広州の嶺南大学に留
稀なケースですが、一九二一年
ちは賢治本人と会ったことはな
はじめとする『銅鑼』の同人た
りに顔を出しています。心平を
からで、すぐに『銅鑼』の集ま
した。同人となったのは第8号
推薦で『銅鑼』の同人となりま
学)でロシア語を学習。賢治の
荘已池は盛岡中学校を経て上
京し、東京外国語学校専修科
(夜
は詩を書いていました。
となる荘已池ですが、そのころ
いたのでした。後に直木賞作家
岡中学時代にすでに知り合って
的な詩人で、賢治の詩友で、盛
が、すでに岩手詩人協会の代表
の賢治より十一歳も若いのです
の荘已池は、一八九六年生まれ
で、彫刻家でもあった光太郎は
詩壇の大御所だった高村光太
郎を心平に紹介したのは黄瀛
載しました。
「グスコーブドリの伝記」を掲
「北守将軍と三人兄弟の医者」
一英は主宰する『児童文学』に
な し 」「 猫 の 事 務 所 」 を、 佐 藤
助は主宰する雑誌『月曜』に「オ
たらします。たとえば尾形亀之
が、そのことが賢治に恵みをも
心平は友人の詩人たちに『注
文の多い料理店』を配布します
きました。
箱いっぱいに心平宛に送られて
という意味の私信とともに蜜柑
す。賢治が出版した童話集『注
『天才』は宮澤賢治だと言ひ
うです。
ツ ベ ル と 象 」「 ざ し き 童 子 の は
たい。世界の一流詩人に伍して
した。やがて、いわきの中学時
か に し て 打 開 す る か? そ こ に
▽講 師 宮澤賢治センター事
務局長 佐藤 竜一氏
▽ 演 題 「 草 野 心 平 と宮 沢 賢
治」
▽司 会 池田 成一
参会者 名。
26
佐藤竜一氏
も彼は断然異常な光を放ってゐ
定例研究会の概要
第 回 月8日(木)
11
▽会 場 農学部1号館第1会
議室
68
(2)
宮澤賢治センター通信 第17号 平成25年3月20日
宮澤賢治センター通信 第17号 平成25年3月20日
(3)
失しました。賢治、心平、黄瀛
影されましたが、後に空襲で焼
す。この作品は土門拳により撮
「黄瀛の首」を制作していま
しずえ
と数奇な生涯』
『日中友好のい
なお、黄瀛や草野心平の生涯
については拙著『黄瀛―その詩
です。
草野心平・陶晶孫と日
しかしその反面、伝記的研究
とは自由なところで、賢治の言
伝記的研究と読解は、両輪の
輪である。
できない。
る。したがってこの恋人が、『春
に 恋 人 が お り、『 心 象 ス ケ ッ チ
と修羅』の書かれた時期の恋人
春と修羅』は、賢治にとって「恋
教師をしていたころの宮澤賢治
において、私は、花巻農学校で
(盛岡出版コミュニティー刊)
正十一年の冬であることが分か
この詩に書かれた出来事が、大
宿舎の舎監」という言葉から、
が、雪の夜に寄宿舎を訪ねてゆ
は皆光太郎を尊敬していて、詩
くことは、花巻市内に住んでい
を指していると思われる。
る女性でなければ不可能であろ
の記録」という側面を持つこと
員をしていた大畠ヤスであるこ
う。花巻の女性は、今のところ
を報告した。
とを示唆した。賢治の恋愛につ
大畠ヤスだけである。
葉を味わう愉しみがあっていい
た正しい態度とは言えない。
いては、恋人を持たなかったと
し、それを伝記的側面から「誤
そこで今日は、賢治が『春と
修羅』を書いていたころ、実ら
いう説が根強く存在している反
◆ヤスの遺族からの証言
中戦争下の文化交流』
(共に日
ぬ、しかし相思相愛の恋をして
面、恋人がいたとする説も数多
本地域社会研究所刊)を参照し
いた、という事実……少なくと
く出されている。が、その恋人
『宮澤賢治 愛のうた』を出版
したのち、大畠ヤスの遺族より
作にしのぎをけずっていまし
も私のなかでは事実、ただし多
が特定されるには至っていな
ある」との証言をいただいた。
た。
くの人に認められたわけではな
い。
ヤスより九歳年下の妹トシ(ヤ
この時期の恋人として名前が
挙がっている女性は複数名いる
い……をもとに、賢治の書き残
私が、大畠ヤスを恋人として
支持する理由は、一九二七(昭
スの妹もまたトシである)は、
さらに、当時の恋人として有
力なのは、花城小学校で代用教
日(金)
した言葉の海を旅してみたい、
和二)年五月七日の日付を持つ
ヤスに頼まれて賢治に手紙を届
りである」と断じることも、ま
月
(佐藤 竜一 記)
回 と考えている。
詩〔古びた水いろの薄明穹のな
て下さい。
第
▽講 師 エッセイスト
したがって、伝記的研究に面
白みを覚える方にとっては、じ
かに〕(「詩ノート」所収)であ
「この本に書かれた恋は事実で
つにくだらぬ考察であるかも知
ネットワーク能力のある心平
と交友ができたために、賢治の
才能を知る人々は徐々に増えて
いったのです。生前ほとんど無
名で終わり、生涯で一度しか原
稿料をもらわなかった賢治です
の貢献が大といえましょう。
澤口たまみ氏
▽ 演 題 「 宮 沢 賢 治『 春 と 修
羅』の恋について、続報」
名。
生前賢治と会うことがなかっ
た心平は、死後宮沢家を訪れま
会 佐藤 竜一
参会者
した。賢治の死の翌年、昭和九
版されますが、編集したのは心
れず、賢治ではないが、
同年二月一六日、宮沢清六が
上京し、新宿にあった喫茶店モ
うまでもない。が、その書き残
記的研究が重要であることは言
せうが、わたくしには、そのみわ
ただそれつきりのところもあるで
これらのなかには、あなたのた
めになるところもあるでせうし、
舎監に任命されました
わたくしはそのがらんとした巨きな寄宿舎の
そしてまもなくこの学校がたち
の母が大反対であったために、
し入れもあったとされる。ヤス
賢治とヤスは相思相愛であ
り、一時は宮澤家より結婚の申
◆賢治作品の読者として
平です。出版費用の大部分は宮
けたことがあり、賢治からは返
ナミで心平らと会います。これ
した言葉を読み解くことなくし
事を貰って帰ってきた、
という。
が第一回宮沢賢治友の会となり
沢家が出しました。八三頁、百
る。
以下に関連部分を抜粋する。
ます。高村光太郎、尾崎喜八、
この恋は実らなかった。ヤスは
傷心のまま、東和町の及川修一
恋人が雪の夜何べんも
という医師との結婚を承諾し、
とは少ない。「学校がたち」や「寄
賢 治 の 詩 に、「 恋 人 」 と い う
言葉がはっきりと明記されるこ
のことである。
羅』が出版された、一か月のち
た り の 恋 が 記 さ れ た『 春 と 修
大正十三年五月に渡米した。ふ
そしてもう何もかもすぎてしまったのです
黒いマントをかついで男のふうをして
◆『宮澤賢治 愛のうた』で記
したこと
拙著『宮澤賢治 愛のうた』
わたくしをたづねてまゐりました
けがよくつきません。
菊地武雄、永瀬清子らが出席し
ました。同年一〇月には『宮澤
賢治全集』
(文圃堂版、
全三巻、
八百部)の刊行が開始されまし
たが、装丁は高村光太郎が担当
しました。賢治の文名はこうし
て、少しずつ高まっていったの
という内容であることを、あ
らかじめ言い訳をしておく。
ては、賢治を正しく知ることは
賢 治 に つ い て、 い つ、 ど こ
で、何をした、というような伝
26
部のささやかな出版でした。
▽司
▽会 場 農学部1号館第1会
議室
14
年一月に『宮沢賢治追悼』が出
が、死後有名になったのは心平
12
−
69
澤口たまみ氏
(4)
宮澤賢治センター通信 第17号 平成25年3月20日
であること、葬儀はシカゴ市内
日が昭和二年四月十三日の未明
核に感染していたこと、その命
また、ヤスのご遺族からは、
ヤスが渡米するとき、すでに結
の記録でもある『春と修羅』の
れていたと思われる。自らの恋
賢治は「倉庫の屋根」から、
ヤスの結婚についても、知らさ
◆ヤドリギの祝福
根」なる存在が登場する。
あの十二月南へ行った汽車そっくりだ
蒼ぞらも聖く
羊のかたちの雲も飛んで
と
Look there,a ball of mistletoe!
おれは窓越し丘の巨きな栗の気を指した
Oh,what a beautiful specimen of that!
あの青い眼のむすめが云った
詩 篇 」 ノ ー ト の 二 六 頁、 大 正
◆文語詩のなかの「冬と銀河ス
は、
文語詩では「流氷(ザエ)」
ション」に記されたエピソード
内容からみて、「冬と銀河ステー
言っても過言ではないが、その
文語詩は、賢治にとって人生
のエピソードをまとめた伝記と
のシーンが記されている。
その翌朝であろう、駅での別れ
との待ち合わせと、おそらくは
く よそほひて〕であり、その
先駆形には、美しく装った女性
い る 文 語 詩 は、
〔なべてはしけ
ま た、〔 雲 ふ か く 山 裳 を 曳
けば〕のひとつ前に収録されて
テーション」
となっている。
ツェロ」である。
ああきみがまなざしのはて
うら青く天板は澄み
もろもともにあらんと云ひし
そのまちのけぶりは遠し
さもいたいけの おみなごの
オペラバッグを 振れるあり
フェルトの草履 美しくして
なべての指は 荒みたり
さらに「流氷」には先駆形が
あり、そのタイトルは「ロマン
とあり、ここにも「きみ」が
登場する。
日射し萌ゆれば
の教会で行われたことなどの情
ラストを飾る詩は「冬と銀河ス
きみ来り訪ふにも似たり
報が提供された。
テーション」であるが、この詩
もいい」と記されていることと
『春と修羅』には、妹トシの名
のなかで賢治は次のように書い
は、無縁ではなかろう。
は記されていても、恋人ヤスの
ている。
そとでは冬のかけらなど
名は記されていない。それは、
しんしんとして降ってゐるやう
自分との恋に破れ、他の男性の
川はどんどん氷
(ザエ)
を流しているのに
十一年の項には、
とあり、文語詩を書くために
自作した年譜とも言える「文語
りに他ならない。賢治は、決し
狐や犬の毛皮を着て
みんなは生ゴムの長靴をはき
もとに嫁ぐヤスに対する思いや
てヤスの名を記してならない
陶器の露店をひやかしたり
ぶらさがった章魚を品さだめしたりする
と の メ モ が あ る。〔 あ か る い
ひるま〕には、青い眼のむすめ
あのにぎやかな土沢の冬の市日です
あすこにやどりぎの黄金のゴールが
との会話として、
(はんの木とまばゆい雲のアルコホル
さめざめとしてひかつてもいい)
〈十二月仙台ニ行ク車中 やどり木
みかん、
〉
Miss Gifford
と、厳しく自分に言い聞かせて
いたのだろう。
しかし昭和二年の四月に、ヤ
スはこの世を去った。それは賢
治にとって、ヤスとの思い出を
記す動機として十分すぎる。先
に紹介した〔古びた水色の薄明
穹のなかに〕が記されたのは、
参考までに「ロマンツェロ」
はドイツの詩人ハインリッヒ・
暁惑ふ 改札を
ならび過ぐると おのおのに
人なきホーム
陸の道
まなこさびしく ふりかへる
「やどりぎの下で
西 洋 に は、
愛を誓い合った恋人は幸せにな
また、文語詩のなかには、そ
の先駆形に「ロマンツェロ」の
ハイネの詩集の名前である。
と の 一 節 が あ る よ う に、「 流
氷」と「ロマンツェロ」には「き
る」との言い伝えがある。賢治
タイトルがつけられているもの
雲ふかく 山裳を曳けば
に異色である「土神ときつね」
に燃えたぎる心情を描いて非常
ルが/さめざめとしてひかつて
ことと、「やどりぎの黄金のゴー
丘群に
手である一本木野の美しい樺の
のなかで、きつねが、恋する相
ハイネと言えば、賢治の童話
としてはめずらしく、恋と嫉妬
◆土神やきつね恋した相手は
い。したがって「冬と銀河ステー
きみ遠く去るにかも似ん
あかるいひるま
山裳を曳けば〕である。
みに賢治は、ヤスとの恋が破局
なぜなら「春と修羅 詩稿補
遺」
のなかの
〔あかるいひるま〕
ション」の舞台が、ヤスの結婚
ガラスのなかにねむってゐると
を迎えたと思しき大正十二年の
相手の出身地である土沢である
み」が登場する。
ら遠いアメリカでのヤスの死
は、盛岡幼稚園で園長を務めて
と の 言 葉 も あ り、「 銀 河 鉄 道
の 夜 」 の な か の、「 か ほ る 」 と
がもう一つあり、それは〔雲ふ
We say also heavens,
を、賢治にそっと知らせた人物
いたエラ・メイ・ギフォーと親
の会話を彷彿とさせる。
昭和二年の五月である。どうや
がいたようだ。
しく、ヤドリギについて会話を
かく
五月に、自身の恋の顛末を童話
に、
but of various stage.
この人物は、ヤスの結婚にも
関与していると思われる。ちな
交わしたことがある。
賢治がヤドリギについての言
い伝えを知っていた可能性は高
化した作品「シグナルとシグナ
ているが、その作中に、恋する
レス」を岩手毎日新聞に連載し
ふ た り に 好 意 的 な「 倉 庫 の 屋
宮澤賢治センター通信 第17号 平成25年3月20日
(5)
に同名の詩があることはご存知
この三角関係の舞台となって
いる一本木野には、『春と修羅』
いう場面がある。
木に対し、詩集を貸してやると
そのことを考えると、自らの
恋の顛末を童話化した「シグナ
と考えたほうが妥当である。
も、サクラの類よりはヤマナシ
は、白い花を咲かせることから
神ときつね」のなかの樺の木
同 じ バ ラ 科 の 樹 木 で あ る。「 土
ここでさらに思い浮かぶの
は、「 虔 十 公 園 林 」 の な か の ア
◆アメリカ帰りの博士に
しているかのようである。
それはまるで、自らの恋を「幻
燈」として、終止符を打とうと
る。
メリカ帰りの博士の存在であ
のとおり。
に、同じ岩手毎日新聞に「やま
ルとシグナレス」を発表する前
蘆のあひだをがさがさ行けば
なし」を発表していることは、
わたくしは森やのはらのこひびと
決して偶然ではないのだろう。
「あゝ、ここはすっかりもとの通
いつかぽけつとのはひつてゐるし
つつましく折られたみどりいろの通信は
だ。木は却って小さくなったやう
らん、きれいだらう。』
『 そ ら、 樺 の 花 が 流 れ て 来 た。 ご
あの中に私や私の昔の友達が居な
泡 と 一 緒 に、 白 い 樺 の 花 び ら が
天井をたくさんすべつて来ました。
ある。
また、医師すなわちドクターで
博士はドクターであるが、ヤ
スとともに渡米した及川修一も
も過言ではないだろう。
り合いに対しての願いと言って
そう語る博士の思いは、賢治
にとって、渡米したすべての知
いだらうか。
」 だ。みんなも遊んでゐる。あゝ、
りだ。木まですっかりもとの通り
五月、川底にいる親子の蟹は
見る。
三日月がたのくちびるのあとで
はやしのくらいとこをあるいてゐると
肱やずぼんがいつぱいになる
との一節からも分かるとお
り、
「 一 本 木 野 」 は、 賢 治 が 自
然を恋人として生きてゆくこと
を、 高 ら か に 宣 言 し た 詩 で あ
この白い樺の花こそ、ヤマナ
シの花である。そして秋、ヤマ
る。 そ の ひ と つ 前 の 詩 は、
「過
ナシの実は川に落ちる。
間 も な く 水 は サ ラ サ ラ 鳴 り、 天
井の波はいよいよ青い焔をあげ、
宮澤賢治センター入会のご案内と
原稿募集のお知らせ
の次号(第 号)
なお、「通信」
は7月 日発行を予定していま
「宮澤賢治センター」を設立い
学記念日(6月1日)を期して、
ま た は 郵 送 で、 宮 澤 賢 治 セ ン
たします。6月末までにメール
す。会員各位の原稿をお待ちい
岩手大学では、賢治生誕11
0年の年である2006年の開
たしました。
ターまで送付してください。内
容によっては掲載できない場合
③ 設置場所は岩手大学内「百
年記念館」とし、日常の連絡
て、改めて賢治の想いを多くの
ニモマケズ」をスタンプに見立
里さんで、宮澤賢治の代表作「雨
トフォーラムいわての中島香緒
宮澤賢治センターでは設立5
周年を迎えた一昨年、ロゴマー
い。
先は岩手大学地域連携推進セ
る人は誰でも加入できる
62
クを作りました。作成者はアー
6672、FAX019
1
ンター(TEL019
人々の心に刻み込みたい。そう
② 組織は学長裁定のNPO的
組織とし、趣旨に賛同するす
がありますので、ご了承くださ
18
その骨子としては、
① 広く岩手大学における宮澤
賢治の関心を集約する
20
6493、Eメー
621
-
通信」をお送りしています。
員の方には、「宮澤賢治センター
で入会申し込みができます。会
す。メールや電話、ファックス
れば、どなたでも歓迎いたしま
賢治に関心があり、広い意味
で岩手大学にご縁のある方であ
④ 会費は当分徴収しない
――などです。
いう想いで作成したということ
ル [email protected]
、ホーム
ページ http://kenji.cg.cis.iwate- です。
)とする
u.ac.jp/
-
-
去情炎」で、賢治は畑の傍らに
わたくしは待つてゐたこひびとにあふやうに
やまなしは横になつて木の枝にひ
さらに、ヤスがシカゴから親
戚に宛てて送ったハガキには、
シヤトルから三昼夜十一時間で
シカゴにつきました。誰も迎へて
くれるなつかしい人もなく、淋し
いガランとした古い家が私たちの
家でした。
(中略)
空気と水の悪いのが悲しくて、
-
立つヤマナシの木に口づけをし
鷹揚にわらつてその木のしたへゆくのだけれども
つ か か つ て と ま り、 そ の 上 に は 月
にゆくのだが……。
それはひとつの情炎だ
光の虹がもかもか集まりました。
私の幻燈はこれでおしまひであ
ります。
この童話「やまなし」を、賢
治は次のように結ぶ。
もう水いろの過去になつてゐる
ヤマナシ、
これらは、
水いろ、
ヤスとの恋に賢治が与えたキー
ワードである。また「土神とき
つね」で恋の対象となる「樺」
の木は、岩手ではサクラの類を
指すことが多く、ヤマナシとは
✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴✴
(6)
宮澤賢治センター通信 第17号 平成25年3月20日
悲 し く て / ○ ○( 二 文 字 不 明 ) に
出るにも異国のことで私には冷た
賢治はその死の床でも「銀河
鉄道の夜」に手を入れていたの
であり、その脳裏には、その人
生で出会ったであろう、無数の
We say also heavens,
but of various stage.
「ミニ・茶話会」便り
―一茶一話 ― 現実に見たまま、また実感した
ままで、“賢治にとっての現実”
を書いているのでサイエンスと
捉え、自身をサイエンティスト
物 が 出 て き た 場 合、 し ば し ば
ちなみに、作中にアメリカ帰
りの博士のような、印象的な人
うか。
そんなヤスの思いは、はたし
て賢治には伝わっていたのだろ
と、異国の寂しさがつづられ
ている。
生徒に対して抱いた感情を、ザ
ギリス海岸」のなかで、溺れた
る。そうしたときに、
賢治が「イ
ラの立場になっているのであ
は賢治自身であり、カムパネル
手入れの段階では、死にゆくの
ジョバンニはあたかも賢治自
身のように読みとれるが、最終
る。
ルラ 水色の恋」とのメモ書き
がある。先に述べたとおり、「水
さらに「銀河鉄道の夜」の第
七十八葉の裏面には「カムパネ
れる。
いが投影されているものと思わ
の教会で葬儀をしたヤスへの思
されてゆくシーンでは、シカゴ
そしてまた、かほるたちがイ
エスと思しき神さまのもとに召
光太郎への紹介と繋がり、それ
既に詩壇の大御所であった高村
しは森荘已池でした。また当時
るようになり、その三人の橋渡
◎ 宮澤賢治は草野心平に、心
平は黄瀛に評価され世に知られ
しては嬉しい思いでおります。
が続いたりで茶話会の担当者と
は収まらなく帰路に尚話し合い
質問や意見が続出し、時間内で
治にとっての現実”を詩のかた
す。そういうことから言えば“賢
ということはありえないわけで
り、全ての人の判断が全く同じ
れ一人一人の判断には差異があ
捉えている訳で、事実はそれぞ
判断を現実のものとして我々は
耳、鼻、舌、身の五感を通し情
ても、全ては各人が一旦、眼、
これは確かに現代の脳科学か
ら見れば、同じ状況・環境であっ
く感じられてなりま せ ん 。
「モデルは○○である」などと
ネリを助けて自分は命を落とし
が光太郎の戦後花巻への疎開に
ちで書いていることはサイエン
と見て頂きたいということだと
いう研究もなされるのだが、私
色の恋」は、ヤスとの恋を指す
繋がった等、当時の文学界のつ
ティストとしての行為そのもの
がモチーフとなっているので
あろう。
自身は、自分もものを書く人間
たカムパネルラに重ねていたと
場合が多い。賢治がこの物語を
ながりから賢治がしだいに評価
人々の面影が去来したはずであ
として、モデルを「特定」する
しても、少しも不思議はない。
書いていたとき、トシや保阪は
されたという人間関係の大切
さま
と考えられるわけです。
報として脳に入り、その後脳の
の話もありました。
のはナンセンスであると考えて
もちろんであるが、決してその
であり、いわゆる詩人の創作で
茶話会の様子をお知らせしま
す。定例会終了後の茶話会では
いる。
名を記してはならない相手、ヤ
はない、という事を言っている
◆あなたの神さま、わたしの神
さ、
不思議さを教えられました。
作中の人物に、ある特定の人
物をそっくり当てはめて人物造
スのことを思っていたことは確
「銀河鉄道の
同 様 の こ と が、
夜」に出てくる唯一の女性、「か
かなのではないだろうか。
形をする場合もあるにはある
が、それはむしろ少ないのでは
ほる」にも言える。
に ―『私は詩人としては自信
がありませんが一個のサイエン
その中で、草野心平への手紙
ないか。したがって、作中のあ
量子論的に言えば、見える世
界のみが現実の世界ではなく、
る人物が、複数の知人を投影し
は言えないということです。多
思われる所以です。
ストであるということの宣言と
見えない世界は“無い世界”と
ティストとしては認めていただ
元世界の存在も考えることがで
これで私の、ヤスをめぐる幻
燈はおしまいであります。
きたいと思います』― との一
節がありますが、茶話会で議論
きる。賢治は自分が物語ったこ
先 に、 賢 治 が 女 性 宣 教 師 ギ
フォーと親しかったことを紹介
になりました。例えばこの文は
とはすべて現実の世界だと語っ
し た が、
「銀河鉄道の夜」のな
賢治の詩人としての謙遜の姿で
ている。すなわち、
サイエンティ
ていることは十分に考えられ、
言ったことで、本当は詩人とし
この博士についても、そういう
「そんな神さまうその神さまだい」
て自信があり作品はすごい物な
のだとあえて反対の事を言った
かで、女の子とジョバンニが、
「あなたの神さまうその神さまよ」
(澤口 たまみ 記)
考えを当てはめるのが妥当だと
思われる。
そ れ は た と え ば、
「銀河鉄道
の夜」のなかのカムパネルラに
のではないかとか、あるいは賢
例 え ば、 現 在 の 脳 科 学 的 に
は、自身の意識が遊体離脱し体
も 当 て は ま る。 カ ム パ ネ ル ラ
と話した部分は、おそらくは
大正十一年の冬、仙台へ行く車
治の作品は賢治自身が単なる想
は、しばしば妹のトシや友人の
保阪にそのモデルを求められる
中でギフォーと話した会話、
像の世界を書いたものでなく、
のだが、ある人物に特定するの
はむしろ無理があるであろう。
宮澤賢治センター通信 第17号 平成25年3月20日
(7)
ことができるという実験もあ
を当てることでその体験をする
に関して、後頭部に強力な磁力
外から自身を眺めるという現象
いる。またヤスはその後東和町
と等遺族からの証言が出されて
か、ヤスの母が反対であったこ
トを着て何度も訪ねていたと
師時代雪の夜、男風の黒いマン
をしており、賢治が花巻農業教
のもいいものです。
すが、ひととき落ち着いて聞く
◎ 心 静 ま る よ う な ブ ル ッ ク
ナーの曲は長大なものが多いで
は「無内容だ」とか「長大だけ
されておりました。彼の交響曲
おり、ブラームス派から標的に
ナーはワーグナー派と言われて
て お り ま し た。 特 に ブ ル ッ ク
いる状態で、お互いに競い合っ
とブラームス派と陣営が別れて
これは作曲者が失恋し麻薬を
飲んで自殺を図った時の夢の世
様を表している曲です。
ミスソンへの幻想的な恋愛の模
クスピア役者のハリエット・ス
に表現した曲で、当時のシェイ
幻想的な思いをそのままに音楽
賢治と音楽の会便り
り、脳とは幻妙なもので賢治が
の医師に嫁いで渡米し4年後逝
風景」、「断頭台への行進」、
「ワ
当時から現代科学の先駆けを書
ルプルギスの夜の夢」となって
いていたと考えることも楽しい
響曲」との評を語っておりまし
界 を 表 し た と さ れ、 各 楽 章 は
た。
「夢と情熱」
、「舞踏会」
、「野の
名な「第7番」を聴きました。
だ」とか言われており、ブラー
この2曲が有名になったのは、
しかし、現在はその純粋さ、
清らかさ、恍惚さ等が評価され
ムスでさえ「化け物のような交
姿だったとの事でした。
どちらも当時有名な指揮者のリ
今回はブルックナーの「第4
番( ロ マ ン テ ッ ク )」 と 並 び 有
当初の定例会の題であった賢
治の共感力により興味がひかれ
ヒター(「第4番」)とニキシュ
去し、それが賢治の「恋愛」の
ましたが、改めての発表を待ち
ことではないでしょうか。
ユニバース(多元宇宙)
」
「多世
たいと思いました。
に賢治に敬意を抱いた女性がい
た と か、
「羅須地人協会」時代
◎ 賢治の恋愛に関しては、岩
手病院の看護婦に恋い心を抱い
思います。
後大いに研究すべきことがらと
科学と合致するものがあり、今
「一切即一」等の考え方は現代
な弦のトレモロが入り、そして
宇宙の創世を思わせるかのよう
ナー開始”と呼ばれる混沌たる
に“原始霧”または“ブルック
ブルックナーの交響曲の共通
なスタイルとして第1楽章は俗
まれているようです。
ヒター初演)や「第9番」が好
た。現在はむしろ「第8番」
(リ
経衰弱のようになったりしまし
は余り有名にならず、一時期神
尚、ブルックナーが初演した曲
一躍名曲として定着しました。
(「第7番」)が初演し、それで
標題音楽と言い「文学的、絵画
◎ 音楽には絶対音楽と言って
「純粋に音の構築物の音楽」と
す。
うかと聞いてみたいと思いま
賢治さんが聴いた記録はあり
ませんが聴いていたらなんと言
め、この章は葬送音楽として書
特にこの曲は第2楽章を作曲
中にワーグナーが逝去したた
れています。
界の霊魂」を現していると言わ
宙的」とか「天地創造」とか「世
り、音楽学者の評としては「宇
良く聴かれるようになってお
た、賢治さんがよく聴いたと言
ヤー・コンサートにならい、ま
に よ る 新 年 恒 例 の ニ ュ ー・ イ
一月は「音楽会」が中止のた
め 最 後 に、 ウ ィ ー ン・ フ ィ ル
これは現在のインフレーショ
ン宇宙論のもとでは「マルチ・
界解釈」或は「パラレル・ワー
います。
ルド」の考えに合い、賢治の主
たとか、伊豆大島で農業指導を
第4楽章は宇宙的なスケールを
的観念や表象を現した音楽」が
中でも、第4楽章「断頭台へ
の行進」が有名です。
していた伊藤七雄の妹の伊藤チ
感じさせるような壮大な終楽章
あると言われておりますが、そ
また、仏教的な「色即是空」
「空即是色」或は「一即一切」
(姉歯 武司 記)
ヱが見合いの相手だったとか言
で 終 わ る と い う 様 式 で す。 勿
の標題音楽の代表的作品として
張がそのまま現代の科学と一致
われていますが、いずれのケー
論、 各 交 響 曲 で 全 部 違 い ま す
ベルリオーズの「幻想交響曲」
しているとも言えるわけです。
スも「男女交際」には至らずに
が、ちょっと聴いた分では全部
これはベルリオーズが自身の
を聴くことにしました。
かれました。
終わっているようです。
同じく思われますが。
ブルックナーの当時ウィーン
の音楽界は大きくワーグナー派
そのような中で「相思相愛」
の相手として大畠ヤスがあげら
れました。大畠ヤスは賢治の4
歳下で、花城小学校の代用教員
回は二人の作品を聴きました。
賢治さんも「アイーダ」など
両作曲家の曲を聴いており、今
◎ 本年は奇しくもヴェルディ
とワーグナーの生誕200年に
語」を聴きました。
たいと思います。
ラグスタートのソプラノで聴き
ラーの指揮で、キルステン・フ
ヴィルヘルム・フルトヴェング
く時は歴史的名盤といわれる
ツブッシュでしたが、いつか聴
ノ、指揮はハンス・クナッパー
ル ギ ッ ト・ ニ ル ソ ン の ソ プ ラ
個性なのか、イタリアとドイツ
た。これらの曲は作曲家二人の
ルディとワーグナーを聴きまし
今回、劇場で荘重な音楽を聴
いたような喜びに包まれ、ヴェ
▪永井 雍子
た。
うな思いの中で聴きいりまし
に、しばし至福のまどろみのよ
天上世界にいるような荘厳さ
トの葬送行進曲」には、まるで
インへの旅」と「ジークフリー
「夜明けとジークフリートのラ
中から「神々のたそがれ」より
は遠くから参加されている方も
いつも同じ部屋で、同じ時間
に、同じ空気のもとで、あるい
▪長谷川 静子
動を有り難うございます。
気分のひとときです。いつも感
ちが癒してもらっているような
ロ弾きのゴーシュ”から動物た
重な時間で、私にとっては“セ
を離れた世界に誘ってくれる貴
音楽を楽しむ会」は雑多な日常
は 嬉 し い 思 い で し た。「 賢 治 と
いうことで、賢治ファンとして
の声に一番近い楽器はチェロと
最近新しいセミナーに参加し
たとき、チャクラを整える人間
「アイーダ」の「凱旋行進曲」
の堂々たる曲には励まされる思
した。
がとうございました。
▪和田 康逸
今年がヴェルディとワーグ
ナーの生誕200周年と知りま
な気がする音楽会でした。あり
き、賢治さんの心に迫ったよう
に反映させていたのかと思うと
なき素晴らしさを、自身の作品
き、賢治さんがこの曲の果てし
賢治さんもよく聴いたという
ヴェルディの「アイーダ」を聴
▪村田
かがでしょうか。
このような会に参加されてはい
大切な一日でした。本当にあり
聴き、そして宮澤賢治を想った
ヴェルディの「アイーダ」の
ハイライト部分は「清きアイー
しい思いでした。
二人とも長大な曲が多く今回は
(姉歯 武司 記)
……
……
……
今 回、
「賢治と音楽を楽しむ
会」参加者の簡単な、代表的な
の 違 い な の か、 ま た こ の オ ペ
おり、お話をしたこともない
「た
元気をもらいました。また、楽
ハイライトを聴きました。
声をよせて頂きました(五十音
ラ・楽劇の色合いの差異をどう
だ音楽をこの場で楽しむ」方々
劇「ニーベルンゲンの指輪」の
ダ」
「勝ちて帰れ」
「エジプトと
順)
。
表現したらいいのか、どう捉え
いでした。また「トリスタンと
関してはいつかこの会で聴いて
イシスの神に栄光あれ」
「凱旋
▪遠田 弘
たらいいのか、との思いで聴き
と一緒のひとときです。
みたいと思います。今回は、ビ
行進曲」「戦いに勝った将軍よ、
ワーグナーの重厚な音楽。そ
し て そ の 名 曲 の 数 々。
“ああこ
つづけました。ともかく、森公
われるヨハン・シュトラウスⅡ
前に出よ」
「さようなら大地」
こは聴いたことがある”とか、
美子さんがイタリアに音楽修行
の ワ ル ツ「 ウ ィ ー ン の 森 の 物
でした。また、ワーグナーは長
解説を聞きながら懐かしさと快
に《神々》は5時間
光男
の声量にとてもかなわない」と
に行って、Uターンし「歌い手
て帰る途中、急に以前読んだ童
気がしました。
ラノは劇場で聴いているような
イゾルテ」の「愛の死」のソプ
た。ともかくいい一時を過ごし
「神々のたそがれ」の「夜明け
がとうございました。皆さんも
大な「ニーベルンゲンの指輪」
さを覚えながらのひとときでし
▪新村 弘子
(四日間かかるといわれる。特
なりました。
分)から
私はブルックナーの“宇宙”
を感じさせる音楽に心満たされ
ました。またいい曲を聴かせて
やはりこの「賢治と音楽を楽
しむ会」は“至福の時”ですネ。
とジークフリートのラインへの
話の文章の中に音符付きで『コ
旅」と「ジークフリートの葬送
ロナは三十七萬十九』
の中の「青
グナーの「ニーベルンゲンの指
曲されたものです。また、ワー
エズ運河の開通式を記念して作
「 ア イ ー ダ 」 は ヴ ェ ル デ ィ の
最大作で最大傑作といわれ、ス
の素晴らしさに聞きほれまし
ラシッド・ドミンゴのテノール
ディのオペラ「アイーダ」はプ
ナーの曲を聴きました。ヴェル
をむかえたヴェルディとワーグ
死」の音楽の巨大なうねりには
リスタンとイゾルテ」の「愛の
することが出来ました。特に「ト
ないオペラの大作の片鱗を堪能
ヴェルディとワーグナー。自
宅では聴くことのなかなか出来
の童話の文章をさがしました。
じさせる音楽で思い出した賢治
宅し、今日聴いた“宇宙”を感
思い出しました。足を速めて帰
まゆみ
言った気持ちが解るような曲で
ください。
輪」は長大で全曲を聴く機会は
「イーハトー
ありました ボ農学校の春」でした。ブルッ
した。
行進曲」また「トリスタンとイ
▪北田
これからもよろしくお願いし
ます。
ゾルテ」からは「前奏曲」と「愛
ぞらいっぱい鳴っている ああ
きれいだ……」というところを
今年初めての「賢治と音楽を
楽しむ会」では、生誕200年
▪楢原 幹雄
の死」を聴きました。
20
「 ト リ ス タ ン と イ ゾ ル テ 」 に
なかなかありません。
じみの曲で、勇壮果敢な旋律に
た。中でも「凱旋行進曲」はな
とときを過ごすことが出来うれ
圧倒されました。素晴らしいひ
クナーの“天地創造”の音楽を
!!
(8)
宮澤賢治センター通信 第17号 平成25年3月20日
啄木・賢治とサラリーマン
岩手大学大学教育総合センター 佐 藤 竜 一
もらっていた。そのほかに賞与
やめるころには月給130円を
理を重ねたため、その試みは挫
した賢治だが、元来の病弱に無
オーケストラを結成したり、
レコード鑑賞会を開いたり奮闘
地人協会を設立した。
があったので、賢治は年間おそ
折に終わる。
円、
とそう違いはない。
らく初年度で1100円、最後
すのだが、初任給が月給
やはり盛岡中学校の先輩、野
村胡堂は一高から東京帝大へと
の年には1600円くらいはも
一日一円減らされるので、啄木
進学し、父親が亡くなったため
らっていたと推測できる。
文学者として有名な啄木や賢
治だが、原稿を書いたり詩を書
者として転々とするのだが、金
その後啄木は渋民尋常高等小
学校をやめ、北海道に渡る。記
ろう。
はやむを得なかったといえるだ
うべき家族の多さが生活苦をも
に加え、父母や妻子といった養
啄木の学歴からすれば恵まれ
た収入だったが、元来の浪費癖
話』、中央公論社刊)。
したが、そのときの初任給は
大を中退して報知新聞社に入社
岩手には農民が多く、安定し
た勤務先は少ない。比較して賢
ン』
、講談社刊)。
瀬 彰『
「月給百円」サラリーマ
1200円といわれている(岩
ン の 月 給 が 月 に 百 円、 年 間 で
条件だった。
考えれば、破格といってもよい
村長の月給が
時の長坂村(現一関市東山町)
し、 炭 酸 石 灰 の 現 物 支 給 )
、当
イ
セ
ッ
エ
(1911)年に東京帝
いたりして生活できたわけでは
銭的に恵まれていたとはいえな
た ら し た。 給 料 だ け で は 足 ら
治は相当恵まれた生活をするこ
明治
ない。ふたりとも勤めながら生
い。
ず、金田一京助などから多くの
とができた。
円 だ っ た( 野 村 胡 堂『 胡 堂 百
学・専門学校生が急増するのだ
大正時代の学制改革に伴い、
サラリーマンの供給源である大
生活に追われていれば、本を
出版することはなかったかもし
げといえるだろう。
るが、これも潤沢な給料のおか
大正 (1924)年、賢治
は詩集『春と修羅』、童話集『注
同 書 に よ れ ば、 岩 手 県 の 高
等小学校では本科正教員の男
文の多い料理店』を自費出版す
円ということを
円、
年に600円(但
活 費 を 稼 い だ、 サ ラ リ ー マ ン
釧路新聞社では月給 円の三
面主任として入社しているが、
借金を重ねることになったので
が、賢治はその潮流に乗ったひ
れない。
だが、農民の子弟である生徒
と接するうち、賢治は自身の恵
(1926)年3月
まれた境遇にいたたまれなくな
り、大正
件は月給
だった。
これは中学校中退という学歴で
ある。
啄木とは異なり、賢治には扶
養すべき家族もいない。好きな
レコードを買ったり、浮世絵を
とだ。
とりといえるかもしれない。
(1921)年 月、稗貫郡立
日、花巻農学校を辞職。農村
に芸術の風を吹かせようと羅須
35
当 時、 東 京 な ど 大 都 会 で の
大学卒の平均的なサラリーマ
盛 岡 中 学 校( 現 盛 岡 第 一 高
校)中退の啄木は、学歴がない
は破格といえるかもしれない。
ため苦労を重ねた。
最初の職業は故郷渋民村(現
盛岡市玉山区)にある渋民尋常
だが、その仕事に満足はできな
啄木が働きはじめるのは明治
(1906)年4月 日から
収入は固定給が 円。新進歌
人としての力量が認められた啄
収集したりもできた。
木は、やがて朝日歌壇の選者に
盛岡高等農林学校(現岩手大
学農学部)を卒業した賢治は、
サラリーマンという言葉が一
般化するのは昭和初期のこと
性 が 1 9・1 7 9 円、 女 性 が
なった。歌壇の手当や夜勤手当
そ の 高 学 歴 を 生 か し、 大 正
だ。大正時代までは俸給生活者
1 2・5 6 5 円、 専 科 正 教 員 の
を含めると、少なくとも月に
再び上京した啄木は、盛岡中
学校の先輩である佐藤北江の紹
男 性 が 1 1・3 3 3 円、 女 性 が
円にはなる。
介で、北江が勤めていた東京朝
8・7 4 3 円。 準 教 員 の 男 性
稗貫農学校(後に岩手県立花巻
だが、当時の給料については松
が 1 1・4 4 4 円、 女 性 が 9・
盛岡中学校の先輩で二高、東
京帝大を経て国学院で教鞭を
日のこ
500円だった。凶作の影響で
農学校に昇格)教諭となった。
(1909)年2月
税金の納入率が悪く、給料の遅
執っていた金田一京助の月給が
4年3か月をその学校で過ご
ある。
れもしばしばだったという。
円だが、講座が休みになれば
14
16
11
24
50
20
本 政 治『 石 川 啄 木 ア ト ラ ン ダ
かった。
高等小学校の代用教員である。
代用教員だったから、月給8円
晩 年、 東 北 砕 石 工 場 技 師 兼
セールスマンとなるが、その条
80
月給は8円とかなり低い。
44
といわれていた。
25
日新聞で校正の職を得た。明治
14
ム』
(盛岡啄木会刊)に記載が
39
啄木は準教員より身分が低い
31
12
30
25
42
40
宮澤賢治センター通信 第17号 平成25年3月20日
(9)
(10)
宮澤賢治センター通信 第17号 平成25年3月20日
宮澤賢治記念短歌会報告
会員 阿部 眞紀子
平成二十五年一月の短歌会
は、新年会を兼ねて会場を大学
中した。
な事に夫々心に残る歌に票が集
選ぶという方法を取る。不思議
人知れずの三首の歌が十組並
外にしてみた。由緒ある「北ホ
とがありそうな一月十二日。始
「御苦労様!」の心をこめてお
を表明された望月学長に、
昼食後、望月先生を読み手に
カルタに興じた。最後にご勇退
び、その組毎に一首好きな歌を
テル」のカウンターの奥にある
まる前に北田まゆみ氏より吉報
特別室だ。参加者十名、良いこ
がある。
花を贈った。
北田まゆみ
・傍らの若きがつぶやく携
帯で「ぅんもぅ~ったく」
脈絡知らねど
・閉店の屋台の隅の丸椅子
に「盗るな!」の貼り紙か
たむいており
・道の辺に散らばる生ごみ
奪い合うカラスの群れにし
んしんと雪
小菅アイ
田村依江
・外灯が照らし出してる白
き道新しき年今迎えんか
・黙々と社殿に向う人達は
冷気の中に身を引き締めて
・言の葉を音にて聞けぬ人々
の思う心の深きを知りぬ
長谷川静子
・稲光稲屋の軒まで明るく
す動じることなしよりそう
すずめ
・雨あがり窓の向ふのにじゅ
うの虹病の友と回復誓う
・若かりし初の出あいのドレ
ス着て仏壇中のあなたと話す
望月善次
・一年と十ヶ月とう年月を
この人もまたこの人も潜り
来たるや
・ 歳 月 の 移 り は 誰( た れ )
のまた何の上にも来ると君
は言うのか
・乾坤
(けんこん)
を一
(いっ)
擲(てき)せんか一(いっ)
擲(てき)の乾坤(けんこん)
なるかの思いこそまた
・目覚めいて昨朝と異なる
気配あり積みいし雪に障子
あからむ
・門前にセーターを着し犬
をれど動くことなし置物と
知る
・初詣混んで並びて鈴音を
聞きつつおをれば願いが増
える
・巳の年のとぐろの先に初
日の出とか俳句などひねる
新年
・盛岡の内丸界隈恋しけれ
役所でもあり家族でもあり
・史実には啄木賢治光太郎
名も無き人もまた歴史なり
昆 明男
・ 茶 柱 が 立 っ た と 故 母( は
は)に見せし日は幾十年(い
くとせ)前ぞ一人茶を飲む
・感官の衰えおぼゆ年頭に
「心新たに!」己に宣べる
・古希超えて名前すぐ出ぬ
こと多し幼孫(まご)のコ
トバの増える嬉しさ
吉田直美
・お正月も十日をすぎて初めて
の予定のなき日歌をつくらな
・通販でサンタさんより届い
たと九歳 どちの会 話 もすん
すん
・もふもふと恵みの雪ふる子
どもとは風の子 雪の子 元 気
な子
・ 電 話 で は「 大 き な 汽 船 が
見えるのよ」厳寒盛岡明日
も真冬日
・花よ咲け春風よ吹けこん
な魔法使えたらいいなマイ
ナス一〇度
・この僕は魔物使いになれる
かも一月一日子猫に見入る
佐藤静子
・新築の人未だ住まぬ家の窓
初日を映し輝いており
・行きは良い帰りは怖い高速
は除雪進まず轍が深い
・道ばたの細い枝まで凍る朝
陽 が出て 溶 けるとほっと微
笑む
阿部眞紀子
姉歯武司
それぞれの短歌三首 (五十音順)
平成二十五年一月十二日新年会・
「石川啄木父子歌碑建
昨 年、
立三周年記念短歌大会」
( 於・
高知)に投稿した本会のメン
バーの短歌が入賞したという。
一般の部、家族 で田村依江さ
ん。
「高知には父君おわす啄木
の熱き命の短歌(うた)を噛み
しむ」幸先の良いことだ。
いつもは望月善次先生のミニ
講義で始まるのだが「新年なの
で、今日はこんな物を用意しま
した」と取り出されたのは桐箱
に納められた木製の歌留多、百
人一首の取り札である。美しい
が読むのは少し大変な平仮名。
頭の中から下の句を取り出し、
札の中の読める文字から推察す
るというわくわく感に皆張り切
る。賞品まで御用意下さる心く
ば り に た だ 感 服 す る。
「 ま ず、
勉強します。
」
鶴の一声で着席。
今日は一人三首の約束で、読み
ぞれの歌の始めに詞書きが
*追記:望月作品三首にはそれ
入っています。
詞書きは左記の通りとなりま
す。
「『また』三首」
二〇一三年一月十一日は「2
011年3月 日に起こった東
るかの思いこそまた
(てき)の乾坤(けんこん)な
擲(てき)せんか一(いっ)擲
・乾坤(けんこん)を一(いっ)
と風化は妨げないのだろうか。
こと]= 『広辞苑』
(第六版)
の思いにも似た大勝負をしない
て、のるかそるかの勝負をする
乾坤(けんこん)一擲(いっ
て き ) =[ 運 命 を 賭( と ) し
か
た何の上にも来ると君は言うの
・歳月の移りは誰(たれ)のま
くれた人がいた。
「 で も 風 化 は 確 実 に 進 行 し て
い ま す。」 と そ の 体 験 を 語 っ て
人もまたこの人も潜り来たるや
・一年と十ヶ月とう年月をこの
十ヶ月」になる。
日本大震災」から、丁度「一年
11
宮澤賢治センター通信 第17号 平成25年3月20日
(11)
第6回宮澤賢治学生短歌大会報告
層の精進をお祈りします。
きっぱなしの楽譜をめくる
よう」と石の細部が丁寧に表現
で す。「 で こ ぼ こ で し ま し ま も
た。選考は、仙台市在住の歌人
は400名を超える応募があっ
記念短歌会」が主宰した。今回
第6回宮澤賢治学生短歌大会
は、昨年に引き続き「宮澤賢治
屋選考委員による講評があり、
の授与が行われた。さらに、文
げ、鈴木代表による賞状・賞品
入り」の表彰状を筆者が読み上
る「それぞれの作品に即した評
彰に入り、本大会の特徴でもあ
鈴木幸一代表の挨拶、実行委
員長である筆者の挨拶の後、表
が伝わって、しみじみとする歌
歌ですが、作者がこめた優しさ
持ちを語ります。重いテーマの
い、裁くことなく、主人公の気
この歌の作者はそっと寄り添
ることはありません。しかし、
人公は熊撃ちの瞬間のことを語
る作品になりました。寡黙な主
持ちを代弁して、手ごたえのあ
(大泉 櫻 花卷市立大迫小学
校 5年)
★なめとこ山の熊の主人公の気
で
すまない気持ちで許せの気持ち
熊憎く銃を向けたわけじゃない
ります。裁判がすぱっと終わる
だら垂れる墨は似通うものがあ
されました。長引く裁判とだら
校 5年)
★技巧の上手さに思わずうなら
(伊藤瑠華 花巻市立大迫小学
墨がだらだらたれないように
長引いた裁判終わらす手紙なら
手間でしょう。
郎」をさせるところが、作品の
治の読者なら、あの「風の又三
は、なかなかのものですが、賢
の楽譜をめくる」という表現
ら「届く風」が「置きっぱなし
の「部活」中に「開けた窓」か
熱中するものの一つですね。そ
学校 2年)
★「部活動」は、中学生の頃に
校 5年)
★「ぼくの三位」は何の三位か
(藤原塁夢
位ゴーシュは六日でセロの名人
ぼくなんか一年かかってまだ三
すね。
を対比させたところも面白いで
ま す ね。「 石 好 き 」 と「 石 頭 」
ん。素晴らしい想像力は「非現
しただけのものではありませ
校 5年)
★確かに賢治の作品は現実を写
(菊池真矢 花巻市立大迫小学
サー石好きだけど石頭じゃない
賢治さん非現実のプロデュー
されていて、作者の石への愛が
(多田あぐり 花卷市立矢沢中
佐藤通雅氏と八幡平市在住の歌
閉会後、記念撮影をして散会し
です。
ようにきりっとした文字で手紙
は不明ですが、ゴーシュがセロ
号館第一会議室で
人が
表彰式参加者
賞者や保護者、関係者約
参加した。
50
行 っ た( 進 行 は 姉 歯 武 司 )
。受
大学農学部
のメンバーの準備のもとに岩手
12
1
が変わっていないと信じていよ
実のプロデューサー」とも呼べ
接に関係ない世界だとも読める
賢治は美しく歌い挙げています
別。それを「永訣の朝」として
校 5年)
★かけがえのない妹トシとの死
まのぼくの小石はいかがでしょ
でこぼこでおんなじ色のしまし
か? ざ ら ざ ら だ 円 そ れ と も 四
賢治さんどういう石が好きです
花卷市立大迫小学
作品です。しかし「広い意味で
ね。その核心を「雨雪のうつわ」
うか
賢治と関係する作品」という本
としたのですね。第四句と結句
花卷市立大迫小学
いうエピソードがあります。作
すね。その賢治が好きだった石
ん」としても良く知られていま
校 5年)
★賢治の石好きは「石っこ賢さ
(丹野美優 花卷市立大迫小学
角?
い作品に纏まりましたね。
べてみせたところが小学生らし
短 歌 大 会 の 中 に 置 く と、
「信じ
(佐藤静哉
な作品になりました。
ていよう」は作者の声かそれと
の字余りは、作者のそうした切
者の好きな石を詠み、賢治に話
迫した気持ちなのだと読みまし
しかけているような楽しい作品
ように出来ています。つまり、
入選
校 5年)
★宮沢賢治は石が好きだったと
部活中開けた窓から届く風置
た。
がったのです。結句の口語的表
り合い響き合うように出来上
現も効いていますね。今後の一
作者の思いと賢治のことが重な
も宮澤賢治の声かを考えさせる
学校 2年)
★一見すると、宮澤賢治には直
伝わってきます。
人文屋亮氏と筆者(望月善次)
た。
妹の永訣の日が訪れて雨雪のう
を通して成長して行く日数と比
優秀賞
とで行った。
入賞作品と贈った表彰状の内
容は以下の通り。
つわただここに残る
を書きたいものです。他人が思
岩手大学名誉教授 望 月 善 次
表彰式は 月1日(土)午前
時から、宮澤賢治記念短歌会
う
わぬところに目をつけて個性的
最優秀賞
この夢を叶なえるまではこの空
(小田島光司 花卷市立矢沢中
(渡邉蓮瑠 紫波町立古館小学
2年
201 1日
月
2
1
10
(12)
宮澤賢治センター通信 第17号 平成25年3月20日
子の星」の「銀の笛」が「聞こ
ます。それに由来する童話「双
賢治好みの題材だと言われてい
(中村麻梨香 盛岡市立月が丘
小学校 5年)
★「双子星」は、冬の星座で、
私の歌と星をめぐるよ
聞こえるねふたごの星の銀笛が
な表現です。
らざら」と「それとも」も巧み
形の上から考えたのですね。「ざ
らざらだ円それとも四角」は、
はどんな石だったでしょう。「ざ
こんぶ取り」から生まれた名前
学校 6年)
★グスコーブドリは「てんぐす
(高屋敷菜月 花卷市立若葉小
イーハトーブの幸せ願い
星達がブドリの命照らしてる
となりましたね。
ます」は絶妙で素晴らしい作品
に「わたしはいつもここにおり
なりますね。それに合わせるの
におりますか」と語りかけたく
のことを考えると「今はどちら
校 6年) ★宮澤賢治の不思議さ、奥深さ
(伊藤花菜 紫波町立古館小学
続・発展を期待します。
ことが評価できます。今後の継
治世界が存分に表現されている
品が多く、児童一人ひとりの賢
作品としての形が整っている作
ことが伺える作品内容や、短歌
た。物語をよく読みこんで居る
ニークな歌が多いと思いまし
歌、それぞれに個性的な歌、ユ
4,5,6の3学年にわたっ
て作品を応募し、題に即した短
盛岡市立月が丘小学校
学校賞
め方も鮮やかです。
く」が「銀河を走る」へのまと
しかったです。
の思いを理解したりするなど難
いた時の気持ちを考えたり、そ
考えたり、その作者の短歌を書
短 歌 の 学 習 で は、 教 科 書 に
載っている様々な短歌の意味を
た。
周りのみんなが驚いていまし
われて驚きました。それ以上に
花巻市立矢沢中学校 2年 小田島光司
ある日突然「宮澤賢治の短歌
大会で最優秀賞をとった」と言
いことでした。
につながるとは、思ってもいな
賞というたいへん喜ばしい受賞
いう程度の呼びかけが学校賞入
あ る 人 は 応 募 し て み て ね。
」と
かれ、短歌作りに挑戦した子ど
ませんか?こんな誘い文句に惹
盛岡市立月が丘小学校 教諭 柏崎 裕子
「宮澤賢治」の短歌コンクー
ルにあなたの作品を応募してみ
をしてくれた友達に感謝します。
える」人はどういう人でしょ
だと言われていますね。多くの
思います。
う。その「銀笛」の音は、作者
人のために自分の命を犠牲にし
花巻市立大迫小学校
本年度も粒ぞろいの作品を寄
せてもらいました。選に入らな
たりするのは苦手でした。
えて物を作ったり、文章を考え
ました。僕は、自分で何かを考
テーマとして短歌作りに挑戦し
そ の 後、「 風 」 や「 星 」 な ど
の宮澤賢治と関係のある言葉を
んな話だったか、図書館や家に
程度。多くの子どもたちは、ど
の絵本を書いた童話作家という
夜」や「どんぐりと山猫」など
「宮澤賢治」についての子ど
も た ち の 認 識 は、
「銀河鉄道の
もたち。と、言っても「興味の
かった作品にも棄てがたいもの
最優秀賞を受賞して
の歌と「星」との周りをめぐっ
「宮澤賢治」の本を話題に
して短歌作りにチャレンジ
ているのですね。
達」が願った「イーハトーブの
がありました。ここ数年続く実
かえって歌のファンタジーが強
ションを自然に用いたことで、
日常生活の中にあるシチュエー
が飛んできそうです。
それならばたしかに風の又三郎
強い風、
て五七五七七の短歌の形にきち
ますが、第二句から結句にかけ
にはちょっとびっくりさせられ
と」という字余りのオノマトペ
★初句の「ぴゅうぴゅうざざざ
6年)
(中田光紀 福山市立南小学校
くは銀河を走る
ぴゅうぴゅうざざざと こえ呼
ぶ地平ひっそりとぬけ出してぼ
学校への広がりも期待したいと
の継続と学校全体や近隣などの
しての挑戦に敬意を払い、今後
ろがあると思います。中学校と
の一生の困難さにも通じるとこ
中学校の難しさは、また、賢治
花卷市立矢沢中学校
人間として様々なところを潜
り、自立が具体的テーマとなる
こんな僕が最優秀賞をとれて
本当にうれしかったし、僕と話
することができました。
五七五七七であてはめて短歌に
浮 か ん で き た の で す。 そ れ を
話しているうちに、情景が思い
というテーマで思いつくことを
創 る こ と が で き ま し た。「 空 」
は、友達と話をしているうちに
ない、万人に対しての深い愛情
んだ童話を読み返した子どもた
浸っている様子でした。前に読
ファンタジックな独特な世界に
んだ子どもたちは、物語のもつ
歌応募に向け、初めて作品を読
よいきっかけとなりました。短
た ブ ド リ を 照 ら し て い る「 星
ぼくたちの部屋まで風がふきこ
幸せ」とは、どんなものだった
る感想を深めることからスター
のでしょうか。
そんな僕が、短歌でこんな賞
をとるなんてだれも予想してい
トしました。
めばやってくるかな又三郎が
績ですので、他の学年へ、他の
なかったと思います。自分自身
化されていると思います。
ん と 収 め ま し た ね。
「地平」を
ある本を読み返して作品に対す
学校へということを考えてもら
でも信じられません。この短歌
賢治さん今はどちらにおります
「ひっそりとぬけ出し」た「ぼ
(平嶋純也 盛岡市立月が丘小
学校 6年)
★部屋の中まで吹き込むような
えるとありがたいと思います。
このコンクール参加の呼びか
けが、宮澤賢治の童話に触れる
かわたしはいつもここにおりま
ちは、賢治の差別や偏見をもた
す
宮澤賢治センター通信 第17号 平成25年3月20日
(13)
目を通すことができました。子
れていて、一遍一遍、興味深く
集まってきた短歌には、その
子なりの作品の感じ方がよく表
た。
ちなりに短歌で表していきまし
残る言葉やイメージを子どもた
セージを個々に受け取り、心に
作 品 に 触 れ、 そ の 作 品 の メ ッ
取って読むことのなかった賢治
いました。普段は、あまり手に
魅力を味わい、感想を交流して
に共感したりしながら、作品の
を感じ取ったり、真摯な考え方
ます。
らしてくれたことに感謝いたし
想や考えを話し合う一時をもた
が、子どもたちに本を話題に感
短歌コンクールというきっかけ
し 達 の 願 い で す。
「宮澤賢治」
なってほしいというのが、わた
想や考えを交流できるように
子どもたちの身近な会話の中
で、一冊の本を話題にして、感
回の受賞でした。
てきていることを実感できた今
ちの作品解釈や感性を豊かにし
これまでの読書経験が子どもた
書の輪が広がってきています。
作り始めると、あれよあれよと
思うところもあったようだが、
当に作れるのかと、少し不安に
子どもたちに投げかけると、本
ついての短歌を作ってみようと
みんなの知っている賢治さんに
知っている子もおり感心した。
ん、 賢 治 の 生 涯 に つ い て ま で
な っ て い る。 作 品 名 は も ち ろ
ん、 宮 澤 賢 治 に つ い て 詳 し く
か げ で、 子 ど も た ち は ず い ぶ
ナーが設置されていたりするお
で き た り、 図 書 室 に 賢 治 コ ー
毎 年、「 風 の セ ミ ナ ー」 で、
宮澤賢治の作品に触れることが
が書かれた賞状が読み上げられ
枚一枚中身の違う、短歌の講評
取った。表彰式では、いつも一
いたような、そんな思いで受け
人ひとりじっくり撫でていただ
め、子どもたちみんなの頭を一
と捉えることができ、自分も含
「がんばったね」という評価だ
これまで継続してきたことへの
「おめでとう」というよりは、
受賞は、この日この時間だけの
う と さ ら に う れ し い。 今 回 の
と結びついているのだろうと思
た ち の 心 の 豊 か さ に も、 き っ
分の指導力にも、本校の子ども
その短歌を応募させていただき
葉をテーマとして短歌を作り、
などの宮澤賢治と関係のある言
矢沢中学校では、国語の授業
で短歌の学習後に、「風」や
「星」
にとても驚いています。
花卷市立矢沢中学校 2年 多田あぐり
今 回、「 宮 澤 賢 治 学 生 短 歌 大
会」で学校賞をいただけたこと
きるよう、尽くしていきたい。
がっていくような学習活動がで
今後も子どもたちの成長につな
短歌。この子はこんな考え方が
ちゃんらしい! と思わず笑っ
てしまいたくなるような楽しい
それぞれとても味がある。○○
き連ねたような短歌であるが、
捉え、考えたことをそのまま書
子どもたちなりに賢治の作品を
作品が、次々に生まれてきた。
いう間に、たくさんの個性的な
り組んできた子どもたちとの時
なり、私にとっては、一緒に取
をわくわくさせるきっかけと
人に伝わるんだ」とますます心
い な 」「 短 歌 で 自 分 の 気 持 ち が
て は、「 ま た 短 歌 を 作 っ て み た
ものである。子どもたちにとっ
みの価値を再確認させてくれる
作った短歌やこれまでの取り組
に一枚しかない賞状は、自分の
るのを楽しみにしている。世界
て、テーマに沿って、身近な事
か し、 授 業 で 短 歌 を 創 っ て み
なイメージがしていました。し
短歌を実際に創ってみるま
で、短歌はなんとなく難しそう
を創ることができました。
意見を出し合い、楽しんで短歌
た、互いに創った短歌を見せて
ことなどを話し合いました。ま
なとテーマについて連想できる
ました。授業では、学級のみん
学校賞を受賞して
どもたちも友達がどんな短歌を
できたのだと、新しい発見をさ
詠んできたのか、興味津々。作
タタタタタタタ タタタタタ
タタ)
せてくれる短歌。子どもらしさ
柄からでも手軽に短歌を創るこ
持ってきて薦めたり、朝の会の
おもしろかった本を各自家から
す。学級の子どもたちも読んで
利用や読書量も増えてきていま
その結果、子どもたちの図書館
意図的に取り入れてきました。
環境の整備に努め、読書活動を
たちにしたいという思いで読書
た。
く、楽しんで短歌の学習を行っ
くさん出てくる! そのことに
気づいた子どもたちは、抵抗な
にも、この五・七・五・七・七がた
で聞いたことのある詩や歌の中
やすいし、聞きやすい。これま
歌のリズムが好きである。読み
組みの積み重ねが少しずつ、自
しいことであった。毎年の取り
とができたことは、本当に喜ば
三度目の学校賞まで受賞するこ
短歌作りを楽しむことができ
た上に、たくさんの個人賞や、
どもたちとの出会いに感謝し、
白さを感じることができた。子
しみ、短歌で表現することの面
宮澤賢治の短歌作りを経験し
た子どもたちは、賢治の心に親
創っていこうと思います。
ら も、 機 会 を 見 つ け て 短 歌 を
づくことができました。これか
景を切り取る短歌の面白さに気
は、 日 常 の 読 書 経 験 が 基 盤 と
葉の力を引き出していったこと
賢治作品を読み、短歌に表す
学習経験が子どもたちのもつ言
興味を深めていました。
方の違いを知り、短歌作りへの
五年生二十八人との短歌作り
短歌とは、五・七・五・七・七の
三十一音から成るものだという
間を振り返り、その尊さをあら
とができるものだということを
品を読み合い、同じ童話を読ん
と こ ろ か ら、 短 歌 の 学 習 が ス
が全面に出ている、元気いっぱ
ためてかみ締め、また次へのス
知りました。
で作った短歌でも友達との感じ
なっていると考えます。本校で
いの短歌。どれも一人ひとりの
テップを踏み出したいと思うエ
みんなで短歌作りに取り組ん
でみたことで、様々な場面の情
花巻市立大迫小学校 五学年担任 平山 奈子
( タ タ タ タ タ タ タ タ タ タ タ
タ タタタタタ
は、読書に進んで親しむ子ども
タートした。子どもたちは、短
最高傑作であった。
ネルギー源となる。
スピーチで紹介するなどして読
のイラストとともに描かれてい
の名称と校章がそれぞれカラー
8)年3月。その後、大正9年
年4月、卒業が大正7(191
賢治は、盛岡高等農林学校に
入学したのが大正4(1915)
ているのではないかと考える。
徒たちかもしれない)が関わっ
ち(美術部員など絵心のある生
ら、そのラベル制作も、生徒た
造は授業の一環であるのだか
ように食べていたのかといっ
に親しみ、どんなものを、どの
に関心があったのか、どんな味
環境、当時の人がどんな食べ物
料理店』を出版した頃~ の食
時代後半から昭和初期 ~賢治
また賢治在学中のものとは異
なるという結果としても、大正
だきたいところである。
てみたい。今後ぜひご教示いた
わってみたくなった。
洒 落 た も の に な り そ う だ。 味
時代の農藝化学部製造の加工品
ともものコンポート……。大正
れらのラベルの向こう側に詰
盛岡高等農林學校農産製造部」
一方、Tさんのお父様は賢治
より8年後の入学ということな
「注文の多い料理店」山猫軒の
校」
「 桃 ジ ャ ム・ 盛 岡 高 等 農 林
學校」
「 も も・ 盛 岡 高 等 農 林 學
「イチゴジャム・盛岡高等農林
盛岡高等農林學校農産製造室」
藝化學部製造」
「イチゴジャム・
「葡萄液・盛岡高等農林學校農
チャップ・盛岡高等農林學校」
」
「ソース・
AGRIC. COLLEGE
盛岡高等農林學校」
「トマトケ
ている。しかしデザインに一貫
い。デザイン的にも工夫がされ
ラベルに描かれているイラス
ト は、 ど れ も カ ラ フ ル で 美 し
と訪ねます)
。
プンの農業教育資料館に、きっ
がえる(今年4月以降に再オー
工品が作られていたことがうか
学校の実習ではあらゆる農産加
「洋
つくられた加工品のラベルだと
ラ ベ ル の そ れ ぞ れ は、
梨・ SPECIALLY SELECTED 確信できた。ところで資料館に
・ MORIOKA はビールやワインのラベルも展
ROSE BRAND
示されているようで、高等農林
プしていたのだという。
性がないことや、学校名の表記
盛岡高等農林學校農藝化學部で
あったのならば何をどのように
はたして賢治の時代には加工
品 を 作 る 授 業 が あ っ た の か、
いた可能性は大きい。
のいくつかの加工品が作られて
らば、賢治の時代にも、この中
いという推測が当たっているな
が同時期に作られたものではな
しれない。しかし、もしラベル
の変化などで異なっているかも
容も、当時の食料事情や食生活
と思われるし、作る加工品の内
工品に使用されていたことにな
紅茶とともに、デザートは洋梨
ジャムとイチゴジャムを添えた
し 味 の 洋 食 に 舌 鼓。 食 後 は 桃
かったオムレツや、ソースが隠
が ら、 ト マ ト ケ チ ャ ッ プ を つ
くは日本酒)やワインを傾けな
葡萄液を注いだサイダーを食
前酒に乾杯。満すら緒(おそら
8年という時間の流れの中で
は、授業内容にも変更があった
のハイカラな食べ物が重なって
くる。
で作るディナーは、ずいぶんと
賢治作品や賢治自身のエピ
ソードに登場する食べ物に関心
る。
まで研究生として在籍してい
盛岡高等農林学校の
おいしそうなものたち
があり、「食べる・作る・考える」
た。
兵庫県在住 中 野 由 貴
の実践の場としてときどき岩手
岩手大学農業教育資料館のH
P「農産加工物レッテル等」と
い う 項 目 を 拝 見 す る と、
「農産
が『春と修羅』や『注文の多い
にでかけている。
加工物レッテル(盛岡高等農林
入学ということになる。つまり
た、当時の食の流行や情報がこ
種類の
そんな中、一昨年、花巻で親
しくしてくださっているTさん
まっていることに変わりない。
より“おいしそうな”
ので、大正 年(1923)年
の中に同じラベル(レッテル)
フ ラ イ や サ ラ ド、「 か し は ば や
ラベルをいただいた。Tさんの
お父様は、盛岡高等農林学校の
これら 種類のラベルは、大正
學校農産製造部製造」
「甘露あ
が統一されていないことから想
作っていたのか。レシピなどの
トーブのおいしいものと、当時
ま酒・盛岡高等農林學校農藝化
わかるテキストなどがあれば見
る。
學部」
「 満 す ら 緒・ 盛 岡 高 等 農
像すると、同時期に作ったもの
しの夜」の葡萄酒などイーハ
を見つけた。それであらためて
年から昭和初期にかけての加
12
ではないと思う。また加工品製
12
林學校農藝化學部醸造」
「納豆・
12
盛岡高等農林學校製造」
「納豆・
種類のラベルは、
賢治より8級下の後輩で、これ
12
手元にある
学校時代)
、
岩大牛乳瓶等
点」
特別寄稿
らラベルを学生時代にスクラッ
34
12
(14)
宮澤賢治センター通信 第17号 平成25年3月20日
宮澤賢治センター通信 第17号 平成25年3月20日
(15)
アザリアたちと関わって
当ての旧本館である農業教育資
料館が閉っていてがっかりし、
今回初めて念願の内部見学が
叶ったのでした。当時の貴重な
その日の朝は平日ということ
もあり、岩手大学のキャンパス
内たちが写真を撮ったのだ…。
した。ああ、あそこで賢治と嘉
かたどったといわれる石の山で
があり、よく見ると早池峰山を
て、 岩 手 大 学 に は そ こ か し こ
かつての趣のまま保存されてい
的効果』の舞台である大講堂が
階は賢治の作品『大礼服の例外
愛知県在住 正 海 澄 恵
には多くの学生たちが行き交
資料が多く展示されており、2
い、自転車に乗って移動する姿
ていました。
のいてしまっていたところ、再
び賢治熱に火がつきました。そ
して保阪嘉内のことを知るに
つ け、 も っ と 深 く 知 り た い と
思うようになりました。嘉内に
関する書籍の出版や資料も公開
され、二人の友情がどのような
ものだったかを知るにはいい機
会でした。それまで賢治ひとり
に光を当てているだけではわか
した。校舎の奥にある自然観察
構内を少し散策することにしま
6月になったばかりの清々しい
生服に学生帽。そしてあの石の
た。おかしなことに、袴姿と学
笑しながら通り過ぎて行きまし
り返ると、数人の学生たちが談
れていました。気配を感じて振
年という時を経て彼らの子孫
とはありませんでした。じつに
菅健吉の四人がこの地に揃うこ
ンバー宮澤賢治、河本義行、小
去って以来、アザリアの主要メ
保阪嘉内が突然の除名処分を
受 け、 大 正 7 年 の 春 に 学 校 を
の 伊 勢 市 で す。 ど う い う わ け
私は愛知県に在住で、生まれ
育ったのは今年式年遷宮で話題
でした。
よかったとあらためて感じたの
に揃われたことは、ほんとうに
人間・宮沢賢治の姿が私の前に
じように悩み苦しみ喜び楽しむ
りすぎる賢治像にとまどいと違
ました。ともすれば、立派にな
ことによってたくさん見えてき
らなかったことが、嘉内を知る
園を歩いていると、小鳥がさえ
山にふざけ合いながら腰掛ける
に、アザリアたちの気配が残っ
ざわざわと風が吹き、見上げ
るとまぶしい空に新緑の枝が揺
ずり、木々は風に吹かれてさわ
と、頬杖をつく者、あらぬ方向
たものであり、石の案内板が設
ている写真は、この辺りで撮っ
座り保阪嘉内が中央に寝そべっ
ふっと彼らは消え、またもと
の草だらけの山になってしまい
とって写真を撮り始めました…。
を見る者、思い思いにポーズを
見守っているに違いない、と感
こに来ていて、みんなのことを
した。賢治たちも今日きっとこ
びであり素晴らしいできごとで
ファンとしても大きな驚きと喜
がここに集ったことは、一賢治
えない力がありました。
内の故郷、韮崎に引き寄せる見
けでしかなかった私を、保阪嘉
読んであれこれ思いを巡らすだ
か、それまでひとり賢治作品を
ちとの友情から目が離せなくな
健吉、ほかのアザリアの仲間た
う、賢治と嘉内の友情、義行や
現れてきました。そうなるとも
が、大地を踏みしめ私たちと同
置されていました。その一画に
ました。私はしばらくその場に
岩手大学内・旧植物園跡と案内板(賢治・嘉内
等が写真を撮った場所)
りました。
ぼんやり立っていました。
重みもいっそう増すように感じ
若き日の賢治のありのままの
受けました。直筆の手紙からは
県立文学館「宮沢賢治 若き日
の手紙 ―保阪嘉内宛七十三通
―」を見に行き、大変な衝撃を
めて手に取った賢治研究書とい
実は賢治を知って間もなく、初
てちょうど
お宅に伺いました。賢治が没し
宅(嘉内の生家)と庸夫さんの
年秋に開催された山梨
は、草木に覆われた盛り上がり
そうこうするうちに平成 年
9月 日、初めて韮崎を訪れる
ます。昨年の賢治祭で、御舩道
姿、 息 づ か い や 体 温 ま で も が
年目の日でした。
機会を得て、保阪善三さんのお
子さんが夏頃に逝去されたこと
迫って来るようでした。高校二
うのが保阪庸夫・小澤俊郎著
『宮
じたものです。今思い返しても
ていました。目的は岩手大学創
を聞きました。毎年賢治祭には
年の時に出会って以来、賢治を
の楽しみなどからはすっかり遠
後は子育てや仕事もあり、自分
手紙の内容の深いところまで読
感慨深く、時が経つごとにその
周年記念展示『アザリアの
来られていたので、当然お見え
追 い か け て き ま し た が、 結 婚
平成 年5月末から6月初
め、私は 年ぶりに岩手を訪れ
咲くとき~宮澤賢治と学友た
になると思っていたのでした。
た。
そしてあのとき「アザリアの咲
立
ち』のオープニングセレモニー
心よりご冥福をお祈りします。
20
に参加させていただくためでし
21
澤賢治 友への手紙』だったの
です。しかし当時は私も若く、
19
くとき」展で皆さんが岩手大学
75
13
岩手大学に来たのは3度目で
したが、前の2回とも運悪く目
60
21
平成
90
和感を持つこともあったのです
さわと心地よく鳴りました。植
「アザリアの咲くとき」展にて 左から御
船道子さん、小菅充さん、保阪善三さん、
宮沢和樹さん、その前が保阪庸夫さん
物園の広場に宮澤賢治ら僚友が
にはまだ間があったので、私は
も見かけられました。集合時間
特別寄稿
だける温かな集いです。今年は
どなたでも気軽に参加していた
し ま す。 賢 治 の 手 紙 七 十 三 通
きな何かを生み出すことを想像
実のこととは思えないような不
り、アザリアの友からの影響な
思議な気持ちになります。なぜ
ぜひ遊びに来てください。それ
らしいなぁ。
くしてはあの宮澤賢治はなかっ
年後にこんな日
み取ることができませんでし
た。まさか約
を知りました。まさに「宮澤賢
に先立ち今年は9月
月
が、岩手に里帰りできたら素晴
たと言っても過言ではないこと
日(土)の予定ですので、
なら私は研究家でもなく何の実
績もなく、ただ一ファンとして
治」はあそこで誕生したので
が来るとは想像すらできません
でした。この日を境に、私は離
賢治を追いかけてきたにすぎな
のでも成長するのでもなく、互
治記念館副館長・牛崎敏哉さん
が、今後自分に何ができるだろ
幸せを感じる機会を貰いました
アザリアたちと関わるように
なって、ほんとうにたくさんの
いに刺激し影響しあって意識を
大学のオープンセレモニー、韮
わらせてもらい、幸いにも岩手
たち」の展示に多少なりとも関
流れをつくってきたことは間違
た努力、それらが集まり大きな
ことや想い、閃き、実現に向け
方々がそれぞれの立場で願った
る宮澤賢治センターは各地に散
す。そのような場所を拠点とす
も大切で愛着のある特別な所で
手大学は、賢治ファンにとって
代を過ごした盛岡高等農林=岩
情を育て感性を磨き輝く青春時
に 感 謝 す る と と も に、 今 後 の
なかで着々と成されてきたこと
いくのかを考えていかねばと
うか、どうやってお返しをして
高め人間性を深めていくものだ
日(日)
れた愛知に居ながら、韮崎のア
す。人は決してひとりで生きる
に「第 回 国民文化祭 やま
なし2013」の一環で宮澤賢
周年
やまなしとぎんどろの苗木か
ら始まった岩手と山梨の交流、
ました。そして岩手大学
崎での感動の再会の場にも立ち
いなく、奇跡というよりは過ぎ
らばるアザリアの友たちの求心
きたことに感謝します。昨年も
益々の活躍と発展を願い期待し
氏(岩手大学人文社会科学部教授)で、山本昭彦氏は「風の又三郎と赤いうちわ」
の展示やその年の韮崎での「銀
思っています。
*いずれも17時~ 18時、参加費無料、会場は岩手大学農学部1号館2階第一会議室
の講演もあります。 今後もアザリアの輪にたくさ
んの人々を巻き込み、さらに大
会わせて頂くことができたので
てきてみればみな必然なのでは
力となりうる唯一の機関ではな
栃木県のさくら市ミュージアム
ています。
6月の話題提供者は望月善次氏(岩手大学名誉教授)、7月の話題提供者は山本昭彦
と彼らは教えてくれています。
した。そしてこのようななかで
ないか、そんなことを考えてい
いでしょうか。センターだから
でした。
で『
「アザリア」の仲間たち』
詳細は宮澤賢治センター(電話 019−621−6672)にお問い合わせください。
賢治たちが切磋琢磨しながら友
「賢治・嘉内生誕110周年記
るとまた様々な感動がよみが
こそできること、センターにし
毎年 月 日の嘉内の誕生日
前後に韮崎市で開催される『花
展が開催されました。残念なが
都合により、日程や話題が変更になる場合があります。
その後の幸運の連鎖を傍らで見
念実行委員会」が「アザリア記
えってきます。たくさんの方々
かできないことを地道な活動の
園農村の碑・碑前祭』に出かけ
ら私は行けませんでしたが素晴
月中旬頃、東京エレクトロン韮
話 題:盛岡高等農林学校と宮澤賢治
せ て い た だ い て、 そ れ ぞ れ の
念会」としてあらたに発足し、
の尽力によって、このアザリア
たりするうち、各地の宮澤賢治
らしい図録を手に入れることが
崎文化ホールにて『花園農村の
祭に行って、ここでまたたくさ
15
5月17日(金)話題提供者:若尾紀夫氏(岩手大学名誉教授)
韮崎・アザリアの友
今後も長く活動を続けていくこ
の友好の輪が繋げられ広がって
ファン、研究家の方々とお話す
いうことで心から嬉しく思いま
回素晴らしい講師を招いて講演
前にも書きましたが、韮崎市
のアザリア記念会では、毎年
す。
会も行っていて(ちなみに昨年
話 題:宮沢賢治と光原社
河の誓い
とになったのは実に嬉しいこと
る機会ができ、数年前までは地
でき、展示会も大好評だったと
方でひとりきりの賢治の世界で
嘉内やそして義行、健吉に触
れる機会が増え、賢治にとって
は事務局長・佐藤竜一さん!)、
年ぶりの賢治
盛岡高等農林時代とは、その後
かけてみたり、
んの新しい方々と知り合えたり
の賢治の思想、生き方の礎であ
碑』碑前祭を行っています。毎
…考えられないことになってい
16
しかなかったものが、関西に出
10
るのを思うと、今でもふと、現
という話題で発表の予定です。
18
28
4月11日(木)話題提供者:及川隆二氏(光原社社長)
60
人のように輪の中に入れて貰い
いからです。
12
30
ザリア記念会メンバーの古い友
10
宮澤賢治センター今後の定例研究会の予定
in
10
(16)
宮澤賢治センター通信 第17号 平成25年3月20日
宮澤賢治センター通信 第17号 平成25年3月20日
(17)
㎝)もあり、それをぶら下
がクリスマスから1月いっぱい
真夏です。大部分の先生や職員
聞こえますが、こちらは現在、
波やセンター試験のニュースが
だよりも最終回です。日本の寒
早いもので、帰国まで2ヵ月
になりました。このウルグアイ
します。容器もひょうたんを切
また親しい人同士で回しのみを
グアイ人はマテ茶が好きです。
飲んでいます。それくらいウル
歩の時も、授業中でもいつでも
る時も、買い物をする時も、散
時はもちろん、バスを待ってい
すっています。会話をしている
を少し注いではチュチューとす
瓶を小脇に抱えて、容器にお湯
か。ウルグアイ人はいつも魔法
濃い抹茶と言えば良いでしょう
飲みます。味は草の香りのする
ロー(ボンピージャ)を使って
濾しのふくらみになったスト
しり葉を入れて金属製の先が茶
は特別な容器
(ボロンゴ)
にびっ
ぎ、頂きますが。ウルグアイ人
ンを胸に結んでいます。公立小
小学生は白いスモックのよう
な制服を着て、大きな青いリボ
いてあります。
ちするところにはどこにでも置
替商、大学、市など人が順番待
スーパーマーケット、銀行、両
までおとなしく待っています。
を待ちます。誰でも順番がくる
ていて、その番号が呼ばれるの
とります。それに番号が振られ
どこにもあってテープをちぎり
ウルグアイ人は紳士です。列
の並び方はヌメロという機械が
ようです。
重さやかさばりは気にならない
簡便のものまでいろいろです。
の立派なものから、ズック製の
たりしています。それにも革製
げて出勤したり、大学に登校し
あり、その土地の守り神のよう
と太ってとてもユーモラスでも
らいあるでしょうか。ぶくぶく
mぐ
は驚きます。草の一種で年輪は
はとても太い幹でその巨大さに
桜のように見えます。オンブー
花が咲きます。遠くから見ると
す。花は3月頃花弁の細い赤い
ように太くなり、トゲがありま
南米特有の植物として、ボラ
チョがあります。幹がビヤ樽の
いる人も多く見かけます。
でくれます。漢字を刺青でして
ウルグアイ人の名前を漢字の当
まってするのが名前書きです。
時 々 開 か れ ま す。 そ の と き 決
ウルグアイの交流のイベントが
ウルグアイの人は漢字が好き
です。日本大使館主催で日本と
北海道と渡り歩き、ついには地
で生まれ、京都、香川、岐阜、
るのかと考えてみると、旧満州
ぜ賢治センターにかかわってい
いうのです。文学に疎い私がな
フェッショナルが宮沢賢治だと
た。 岩 手 を 愛 す る 最 高 の プ ロ
磨君の文章を読んで感動しまし
ました。農学部1年生の佐藤一
賢治センター通信 号をpd
fファイルで読ませていただき
は」無いそうです。
長 い 休 暇 を 取 っ て い て、 大 学
り取ったものが本式で、その他
学校の生徒には全員、無料で小
球の裏側ウルグアイまで来てし
経
構内はシーンとしています。学
いろんな容器が売られていま
まった私が、どこから見ても岩
ス製のポットに入れてお湯を注
しょうか。
す。それらすべてを収める大き
な神秘さもただよっています。
す。現在まで、570,000
LAN設備の設置を図っていま
パソコンの普及と学校への無線
を一人に一台渡して児童への
を対象に小型のノートパソコン
として、公立の小学校や中学校
2007年よりから教育の一環
すが、この鳥は球形の巣です。
す。ツバメはお皿のような形で
に、ツバメのような巣を作りま
か け ま す。 建 物 の 高 い と こ ろ
鳥としては、スズメより少し
大きなオルネロは市内でよく見
いう樹もあります。
びっしりと咲くジャカランタと
春に青い花が桜のように美しく
い存在だと思います。
後も岩手大学に無くてはならな
関心を集約するという意味で今
治センターは、みんなの賢治の
岩手大学を愛し、岩手県を愛す
をみんなに知ってもらいたい、
手はやっぱりすばらしい、これ
ありません。幹の周囲は
台渡されているようです。子供
緑の色をしたインコも公園など
(宮澤賢治センター 理事)
るからだと気がつきました。賢
たちは社会から大切に育てら
にたくさんいます。
太いオンブーの樹の前で
れ、活き活きとしています。こ
16
ちらには日本のような「いじめ
10
日ごろまで来ないのではないで
自分の名前の漢字を腕に書いてもらっている子供
て字で書くのです。とても喜ん
異文化体験の続きです。ウル
グアイ人は本当にお話好きで
葉っぱには毒があるようです。
20
生さんはたぶん新学期の3月
す。仕事そっちのけでいつまで
型のノートパソコンが配られ
れだけみんな仲がいいのです。
そしていつもマテ茶を飲みま
す。南米原産のイエルバ・マテ
という植物の葉っぱと小枝を乾
燥させて細かくしたもので、栄
養素に富み「飲むサラダ」とも
言われ、カフェインも含まれて
います。私は日本から持って来
た緑茶が切れて、その後はずー
とマテ茶を飲んでいます。私は
マテの葉を上から円形の網で
30
20
葉っぱを下に押し込む式のガラ
㎝、長経
て い ま す。 ウ ル グ ア イ 政 府 は
10
㎝、短
岡田 幸助
な鞄(高さ
(最終回)
も延々と話し込んでいます。そ
ウルグアイ
だより
3
員
投
稿
編 集 後 記
ばタブーとされてきた賢治の恋
愛に関して長文で切り込みを入
の人間像として、一方で軽薄で
「望ましい道徳律」とし、理想
罷り通ります。これを為政者が
られ、浅く表面的な解釈だけが
風土、農村の経済状況は切り取
そして、かれの育った家庭環
境と生き方、当時の地域社会と
す。
一つはここにあると考えていま
育で多く採り上げられる理由の
状」を打ち壊し、新たな解釈を
さらに、教育現場と社会風潮
の 浅 薄 で 情 緒 的 な 解 釈 の「 現
結びつける必要があります。
その芸術が生まれた時代背景を
況、宗教界の諸相から離さず、
土、あの時代の政治・経済の状
家庭環境、生きた地域社会・風
いまこそ―今こそ、宮澤賢治
の研究は、かれの生まれ育った
せん。
強い危惧の念を持たざるを得ま
が明らかになりますし、賢治作
ことで当時の流行など食品事情
加工品がつくられたかを調べる
しろい。確かに、どういう農産
作ってきたかという視点はおも
等農林学校でどういう食べ物を
実践してきた方ですが、盛岡高
兵庫県在住の中野由貴さんは
賢治と料理に関して長年研究し
た。
が、今号は増ページとなりまし
てというわけでもないのです
されています。それにあやかっ
地でさまざまなイベントが企画
います。
そんな存在でありたいと願って
提供する。宮澤賢治センターは
尊重しながら、開放された場を
思いが人によって異なることを
づかされました。賢治に対する
を読んで、改めてそのことに気
はそれぞれである。今号の原稿
賢治ほど老若男女に広く愛さ
れる作家は珍しいし、その思い
でしょう。
マは今後とも、議論を呼ぶこと
いことでもあります。このテー
想像が広がっていくことは楽し
ここから始まっていると思いま
殆んど思慮がない現代の社会風
打ち出す必要に迫られていると
品に登場する食べ物を考察する
す。かれの芸術は高く評価され
れて下さいました。異論もある
日本の研究と課題―日本での
評価と研究の現状はどうでしょ
思います。芸術ですから多様な
ヒントにもなりそうです。
が狭いことがわかります。なに
ことと思いますが、さまざまな
う。日本の社会は一つの業績を
潮がこれを支えています。
解釈が可能ですが、教育の現場
より、現代の為政者にとっても
周年という節目の年です。各
▽今年は宮沢賢治が亡くなって
残し、少し有名になれば、人間
残念なことに研究の中心であ
る大学でさえこれに同調する傾
では賢治の芸術作品を権威によ
るべきですが、現在の「神格化」
が神格化され、その人間の「限
向が見えて来ました。賢治の芸
愛知県在住の正海澄恵さん
は、アザリアの取り持つ縁の広
が進行している状況に対しては
界」が隠蔽され、神格化に不都
術にとって実に不幸なことで
る浅薄で情緒的な解釈に狭め
実に都合のいい「ことば」が多
合なことが「おもて」に出てく
て、鑑賞にまで「介入」してい
がりについて寄稿して下さいま
く並んでいますが、私は学校教
ることはありません。時代の風
す。
ます。
―宮澤賢治センター通信
第 号を読んで
「宮澤賢治と社会思想」
潮に合う部分だけがもっともら
芸術は社会の中から―賢治の
「生き方」と「芸術」は、生家
(その2、第
号掲載文の続き)
宮城県涌谷町在住 源治
伊藤
わぬ農民」ではなくて何でしょ
む、従順で支配しやすい「物言
意識はあの時代の為政者が望
この一編の詩の社会意識、生活
が、
たとえば「雨ニモマケズ」
、
また、賢治の作品は教育現場
でも多く採り上げられています
社会です。
い「道徳律」に利用されるだけ
者に都合の良い、もっともらし
浅くて情緒的な「ことば」の
解釈だけでは理解できず、為政
と考えます。
「理解」
「評価」にはならない
りその風土から考えないと真の
会状況から切り離さず、なによ
時の岩手県の疲弊する農村の社
と考えています。
ら大きな批判の声を上げるとき
に対抗して、それぞれの立場か
に、すなわち「神格化」の傾向
これらからの解放は当然で、
宮澤賢治の芸術の不幸な現状
なくて何でしょうか。
はかれの芸術に対する冒涜では
また、青少年用と称して軽薄
なリライト作品を提供すること
に近づけると思います。
の中で賢治をとらえた方が実像
のではなく、そういった広がり
いた。賢治ひとりを特別視する
を通し、お互いに影響し合って
義行といった友人たちとの交流
が単独で生まれたわけではな
のは確かです。賢治という人間
磁場が宮沢賢治を生んだという
❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖
う。 こ の 詩 に は 社 会 的 な 主 張
です。
く、保阪嘉内、小菅健吉、河本
した。盛岡高等農林学校という
が な く、 そ の「 眼 と 意 識 」 は
澤口たまみさんは、ともすれ
○発行
〒〇二〇 八五五一
盛岡市上田四丁目三番五号
九 六二一)
六六七二
電 話 〇一(
九 六二一)
六四九三
FAX 〇一(
E-mail:kenji@iwate-u. ac. jp
HP http://kenji.cg.cis.iwate-u.ac.jp/
宮澤賢治センター(岩手大学内)
発行責任者 鈴木幸一
○印刷 杜陵高速印刷株式会社
宮澤賢治センター通信
(佐藤 竜一 記)
しく表面に出されて論じられる
の豊かな経済環境を見据え、当
15
16
宮澤賢治の「芸術の不幸」は
ことが多く、
研究の
「真の深化」
80
と芸術の「真の評価」は難しい
❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖
会
村落内に限定されていて、視野
−
(18)
宮澤賢治センター通信 第17号 平成25年3月20日
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