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過疎化が進む秋田県男鹿市に人を呼ぶ! 地元の若者がロック
有限会社吉田板金店 代表取締役 吉田喜継氏(左) 株式会社 443 プランニング 代表取締役 菅原圭位氏(中央) 男鹿温泉白龍閣 常務 有馬 修氏(右) 過疎化が進む秋田県男鹿市に人を呼ぶ! 地元の若者がロックフェスティバルを開催 秋田県の県庁所在地、秋田市から車で約 1 時間。三方を日本海で囲まれた男 鹿(おが)半島のほぼ全域をカバーする男鹿市は、水産資源と美しい自然、そ して秋田を代表する民俗行事なまはげ発祥の地として知られている。現在は人 口の市外流出、特に若年層の流出による社会減が著しく、昭和 30 年代をピーク に人口減尐の一途をたどっている。そんな人影もまばらな町で、1 人の若者が「ロ ックフェスティバルをやろう!」と声をあげた。当初は誰もが無謀と思ってい たその言葉は、1 年後の 2007 年、男鹿市の小さなホールを会場にしたライブイ ベント「男鹿ナマハゲロックフェスティバル vol.0」として実現する。その後 1 年に 1~2 回のペースで同様のイベントを開催し続け、ついに 2010 年夏、本格 的な野外でのロックフェスティバルを実現。今年も 7 月 30 日に男鹿市船川港に 特設ステージを構え、12 組のアーティストによる熱いライブが繰り広げられた。 これまでの 4 年間でイベントに参加したアーティストは、フェスティバル開催 のきっかけを作った山 嵐を筆頭に、ドラゴンア ッシュ、オレンジレンジ、 ファンキーモンキーベ イビーズ等のべ約 45 組。 音楽好きにはたまらな い夢のような豪華メン ツが、東北の過疎の町に こしらえた 1 つのステ ージに集結する。まさに 驚くべき快挙だが、それ 以上に驚くのは、有名アーティストを誘致し、市の中心部に特設会場を構え、 チケットをさばき、当日場内警備までこなすのが、プロのイベント会社ではな く、男鹿市に暮らす若者の有志によるボランティアという事実である。たった 1 人の若者による呼びかけから始まった「男鹿ロックフェスティバル」のストー リー。まだまだ発展途上ではあるが、まずは興味深い物語の始まりと、フェス ティバル開催の経緯について紹介していこう。 ノウハウゼロの状態から全員で仕組みを構築 チケット即日完売の人気イベントに成長 よし み そもそも発端は、フェスティバルの実行委員長でアパレル業を営む菅原圭位 氏が地元男鹿市を離れ、約 6 年間の渡米生活を送っていたことにある。彼が暮 らしていたアパートに住む音楽業界関係者を通じて山嵐と知り合い、山嵐がア メリカツアーを敢行した際には菅原氏が通訳等のアテンドを務めたという。菅 原氏が帰国し地元に戻ってからも交流は続き、互いに「いつか男鹿でロックフ ェスを」と語るようになった。 このような素地があって菅原氏は「ロックフェスティバルをやろう!」と声 をあげたわけだが、前述の通り当初は多くの人が実現不可能と思っていた。し かし男鹿温泉の旅館『白龍閣』常務の有馬修氏と板金業を営む吉田喜継氏が、 菅原氏の意志に賛同。3 人が所属する男鹿市商工会青年部および男鹿青年経営者 協議会の助けを借りながら、2007 年 11 月に収容人数 850 名のホールで最初の イベントを開催するに至った。 「私たちはまったくの素人ですから、ライブイベ ントに関するノウハウはゼロでした。ただ、菅原委員長はアーティストに人脈 があるし、私は旅館業で観光やイベントに関することはいろいろ知っていまし たから、それぞれが出来ることを持ち寄ることで尐しずつノウハウを蓄積して いきました」と有馬氏。この時のイベントは「VOL.0」とカウントされ、以後 0.5、0.9 と順調に回を重ねた。2009 年の VOL.0.99 には、850 枚のチケットが 即日完売するまでの人気イベントに成長した。 ついに念願の野外ロックフェスティバルを催行 2 度の開催で得た高い称賛と大きな課題 だが屋内でのロックイベントを成功させることは、彼らの最大の目的ではな かった。彼らが目指しているのは、ロックフェスティバルの催行によって男鹿 に多くの人々を呼び込むこと。彼らの飲食や宿泊等で、地元の消費拡大を狙う こと。さらに地元特産物や観光資源の PR 効果を兼ねることで、持続的な経済効 果を狙うことだった。そこで彼らはもっと男鹿に人を呼び経済効果を高めよう と、2010 年 7 月に数千人規模の野外ロックフェスティバル「VOL.1」を実行し ようと行動に移す。 2010 年 7 月 24 日男鹿総合運動公園・野球 場にて開催 「屋外でのフェスを開催する上で、ホールで 4 回の音楽イベントを開催して いたことは確実にプラスに働きました。一番のメリットは、自治体がこれまで の実績を汲んでくれることで協力的になり、会場確保が非常にスムーズだった ことです」と語る菅原氏。その甲斐あって、市営の男鹿総合運動公園・野球場 で行われた VOL.1、および船川港で行われた VOL.2 ではライブの合間に男鹿市 長による挨拶もあり、官民一体となったイベントであることをアピールするこ とができた。 会場確保についても言えることだが、彼らは野外フェスを開催することで、 屋内イベントにはなかった新たなタスクをこなすことになった。多額の協賛金 の依頼と回収、全国の主要都市と会場を結ぶツアーバスの企画、観覧客を対象 とした宿泊プランの設定といった事前の準備から、当日の会場運営や警備に至 るまで、課題は山積していた。吉田氏は当時を振り返り、こう語る。 「屋内イベ ントのノウハウはその時にはできていたが、野外となるとまた違う知識が必要 になる。この時も屋内イベントを始めたばかりの頃のように、右も左も分らな い状態でした。どこにどれぐらい人員を配置すればよいかすら、手探りだった んです。フェス当日は 10 時開場でしたが、その 5 分前までガチャガチャやって ましたよ(苦笑)」。とにかく当たって砕けろ、やってみれば何とかなる。そん な思いで約 30 名の実行委員全員が苦労して作り上げた VOL.1 は、全国から約 2000 人を動員して無事終了することができた。 そして今年は、東日本大震災に見舞われたにも関わらず、7 月 30 日に念願の VOL.2 を開催することができた。 「今回の震災では、男鹿は全く被災しませんで した。でも男鹿に旅行する人が減り観光業が大打撃を受けて、もともと元気が なかった地元がますます元気がない状態だったんです。そんな中で「ぜひ開催 してほしい」という応援のメッセージが多数寄せられたこともあり、震災復興 の願いを込めて開催することになりました」(菅原氏)。震災の影響で手助けで きる主力スタッフが減尐し、準備期間も前回に比べ尐ない中、1 回目でこなした タスクをなぞりながら着々と準備を進めた 3 人。今年は秋田県全域でインター ハイが開催されていたことから会場に野球場は使用できず、築港 100 周年を迎 えた船川港に特設ステージを設営。三方から海が見える絶好のロケーションで、 心地よい潮風に吹かれながら約 12 時間におよぶロックの祭典を敢行した。 2011 年 7 月 30 日築港 100 周年を迎えた船川港にて開催 市井の若者という立場ながら 2 回の野外ロックフェスを開催させた実行委員 たちだが、2 回目を終えた彼らの表情は明るいわけではなかった。「フェスは無 事終わったが、問題は山積しています。たとえば、飲食店や宿泊先の経済効果 等、地域活性はどの程度達成されたのかは不透明な部分があります。また、収 支の面で赤字が出ているのは一番大きな問題です。理想的なのは、フェスにか かる経費のすべてをチケットや駐車場の売上でまかなって、広告協賛等で利益 を出すこと。フェスを終えて達成感を感じるのは、その時だと思います」 (菅原 氏)。 内情を知る 3 人は大きな課題を抱えているものの、しかし外部からの評価は 非常に高い。参加するアーティストは「自由な雰囲気で音楽が楽しめるフェス ティバル」と好意的に語る。秋田の音楽ファンは、地元で本格的な野外ロック フェスが開催されること自体を喜んでいる。また秋田の各自治体は、若者が自 発的にイベントを開催し、全国から人々を呼び込む特筆すべき事例として注目 している。そんな中で男鹿市に対するイメージは「なはまげの町」から「面白 そうな取り組みを実践している町」へと、先進的なイメージが根付いてきてい るという。男鹿市のイメージアップに貢献できたことは、彼らの大きな功績の ひとつといえよう。 岩手の沿岸部に住むロックフェス仲間が被災 音楽が結んだ絆に導かれ、被災地に炊き出し支援へ ところで彼らは今年、男鹿ナマハゲロックフェスティバル VOL.2 の準備を進 める多忙な中、東日本大震災で被災した岩手県大船渡市へ炊き出しボランティ アに幾度も足を運んでいる。 「実は野外フェスを実行するにあたって、岩手県大 船渡市・陸前高田市・住田町の地元の若手有志が主催するケセンロックフェス ティバルの実行委員の方に話を聞く機会があったんです。ロックフェスを通じ て互いに交流していた中で今回の震災が起き、大船渡市や陸前高田市は津波で 大きな被害を受けていました。私たちは何か手助けがしたいと思い、ケセンロ ック実行委員会の新沼崇久さんと連絡を取り合って、救援物資の輸送と炊き出 し等をすることになりました」(菅原氏)。震災後約 1 ヶ月を経た 4 月 5 日、男 鹿ロックフェススタッフと男鹿青 年経営者協議会員を合わせた 15 名が炊き出しボランティアとして 男鹿を出発。新沼氏からのヒアリ ングで必要とされた衣類や日用品 を届けると共に、温かいきりたん ぽ鍋とだまこ鍋約 1000 食を被災 者にふるまった。また子どもたち の心のケアとして、男鹿在住のネ イチャークラフト作家すみよしよしえ 氏による貝殻アート教室も行われた。 この日の炊き出しで印象的だったの は被災した大人たちの表情だった、と 吉田氏は語る。 「最初は表情が固かった 子どもたちは、アート教室や炊き出し をするうちに次第に笑顔が戻ってきた んですよね。でも、大人たちは笑顔が 尐なかった。生きるために食べる、という必死さが感じられたように思います。 でも炊き出しの回数を重ねるうちに、大人たちにも尐しずつ笑顔が戻ってきた。 時間と共に心が落ち着いてきたのかもしれません」。 4 月から計 4 回の炊き出し支援を行う中には、男鹿ロックフェスのステージで も演奏した有名アーティストが自ら名乗り出て、彼らの炊き出し支援に加わっ たこともあった。その時は学校の講堂を借りて急きょアーティストからの挨拶 やミニライブが開催されるなど、音楽を通した心の支援も行われた。 「アーティ ストの登場で子どもたちはとても喜び、子どもたちを見守る先生方は涙を流し ていました。やはりアーティストには、彼らにしかできない支援の仕方や多く の人の心を奮い立たせるパワーがある。それを強く感じることができました」 (菅原氏)。 また支援の一環として、今年の男鹿ロックフェスティバルに新沼氏らケセン ロックフェスティバルの実行委員メンバーを招待。屋台ブースを設置し大船渡 産の飲食物を販売してもらうことで、経済支援の機会も設けた。このような炊 き出し支援や経済支援は、今後も引き続けて行う予定だ。継続的に支援を行う ことで、将来に不安を抱える被災者の心のケアにつながれば、と有馬氏は語っ た。 地元に根付く郷土芸能を 20 代の若手が好演 もうひとつの地域活性プロジェクト 男鹿ロックフェスティバル実行委員で男鹿温泉「白龍閣」常務の有馬氏は、 もうひとつの地域活性プロジェクトに取り組んでいる。それが 4~11 月の毎週 金・土曜日 20:30 より男 ごふう 鹿温泉交流会館“五風” で活動している地元和太 さと か ぐ ら 鼓集団「なまはげ郷神楽」 によるナマハゲふれあい 太鼓ライブの開催だ。な まはげ郷神楽とは、男鹿 の郷土芸能なまはげ太鼓 を継承する 20 代中心の若 手グループ。2002 年に立ちあげて以来、男鹿温泉を拠点に定期公演を開催して いる。 2004 年には韓国のソウルドラムフェスティバルに日本代表として参加し、 人気投票第 1 位を獲得する実力も兼ね備えている。また有馬氏の計らいで男鹿 ロックフェスティバルの参戦も果たしており、ロックファンからも熱い支持を 獲得している。彼らの特徴は、なまはげの面をかぶり、鬼気迫るほどの様相で 情熱的な和太鼓演奏を披露すること。その面を取ると汗にまみれた若者の笑顔 があらわになり、万感の拍手の中、彼らは一層エネルギッシュなビートを客席 に向けて響かせるのだ。 「現在主力となって ステージに立つ若手メ ンバーも、始めたばか りの頃は、彼らはまだ 中学・高校の生徒でし た。毎週末練習をして 温泉街の空き地の砂利 の上でストリートライ ブをして、そんなこと を繰り返して次第に評 価を得ていったんです。 彼らは週末に休みが取れないし、金銭的にも多くの報酬を得ているとは言えな い状況ですが、郷土芸能の和太鼓を叩くのが楽しいといつも言うんです。自分 たちの地元の文化に誇りを持って、自分の生きがいとして取り組んでいる様は いつ見ても感動的です」(有馬氏)。特に若年層の人口流出が激しい男鹿の現状 にあって、なまはげ郷神楽メンバーのように地元に誇りを持ち、地元に生活す る若者の存在は貴重である。郷土に根付く良質な文化を掘り起こし若手に継承 することは、さらにそれを雇用につなげることは、過疎を尐しでも食い止める 策に成り得るのではないだろうか。 実直に働き客観的な見方ができる若者たちが 地域活性の推進に拍車をかける 2002 年より男鹿温泉郷で始まった有馬氏らの和太鼓集団プロジェクト、2007 年から菅原氏の一言で始まった男鹿ロックフェスティバル。そして 2011 年、音 楽を介した絆があったからこそ実現した被災地支援。男鹿市の若手有志による 地域活性への取り組みは、年を重ねるごとに広がりをみせている。だが一方で、 本業を抱えての作業ゆえに続く多忙な生活、赤字が続く財政状況、主要メンバ ーを補佐する人材の不足など、彼らをとりまく環境には困難が多い。 「正直に言 うと、男鹿ロックフェスティバルは毎年終了する度に“来年も続けられるのか” と必ず考える。今年もまだ、来年開催するかどうかの見通しは立っていないで す」とは、実行委員長の菅原氏の弁だ。それでも彼らは、地域活性の取り組み や支援の歩みを止めようとはしない。9 月には再び被災地に入り炊き出しを行い、 有馬氏は毎週末なまはげ郷神楽のステージに司会として立ち続け、全員で男鹿 ロックフェスティバルについて議論を重ねている。多くの困難があるにも関わ らず、ここまで彼らを行動にかきたてる原動力とは一体何だろうか。そんな問 いに、彼らは「男鹿と音楽が好きだから、そのための苦労は我慢できる」とシ ンプルに答えた。 渡米生活で幅広い人脈を築いた菅原氏。バックパッカーとして世界中を旅し て歩いた有馬氏。そして東京でバイクと音楽に明け暮れる日々を過ごした吉田 氏。それぞれに男鹿を離れて暮らした経験があり、今は男鹿で生きる覚悟を決 めた 3 人だ。そんな彼らだからこそ男鹿の魅力と難点を客観的に見つめられる し、男鹿の魅力を活かしたプロジェクトを発信することができる。地域活性は 「よそもの・ばかもの・わかもの」が推進すると言われているが、彼らはまさ にこのフレーズに匹敵する人材ではないだろうか。若者が尐ないと言われる町 だからこそ、地元の活性化を目指してがむしゃらに生きる若者の言葉、若者の 行動が最も説得力があり、最もリアルに響くのだ。 ■男鹿ナマハゲロックフェスティバル http://www.onrf.jp/ ■男鹿市までのアクセス(男鹿市観光協会)http://www.oganavi.com/access/