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命のパン -救いそのもの

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命のパン -救いそのもの
2016 年 4 月 21 日(関)
日本基督教団華陽教会
聖書:ヨハネによる福音書 6:51
題 :「命のパン - 救いそのもの」
牧師
上田正昭
私はキリスト者です。だからといって災害を免れるわけではありません。事故にも遭いま
す。病気にもなります。キリスト者だからといって特別な存在ではないのです。不幸な目に
も遭います。悲しい日もあります。淋しい時もあります。時にはどう進んでいいかまったく
分からず、絶望のどん底に陥ることもあります。罪の意識におののく時もあります。どうし
てあんなことを仕出かしてしまったのかと後々まで苦しまなければならない私です。キリス
ト者だからといって、少なくとも私は特別に人格高潔でもないのです。お恥ずかしい話です
が。
しかし、私たちは信じている者たちです。私たちの救い主、イエス・キリストはこのよう
な弱さいっぱいの私でも、この私がどのような大変な状況に陥ろうとも決して見捨てない。
支えてくださり、そしてよい方向に導いてくださる。私たちの救い主は共に重荷を担ってく
ださる方です。決してあのスーパーマンのように都合のよい時に来てくれて、なにもかもし
てくれるわけではありません。この私に与えられた道を歩むのはあくまで私です。この私の
担いでいる荷物を共に担いでくださって、傍らを歩いてくださるのがイエス様です。私は私
の頭で考え、私の心で感じ、私の意志で決断し、私の力で前に進みます。ですが、常に傍ら
にイエス様がいてくださり、いいえ、わたしの内におられて、内から支えていてくださるの
です。ですから、たとえ弱い私にどのようなことが起こりましても、心の奥底は不思議と安
定しているのです。どのようなことが生じましても、私は壊れないと信じられるのです。前
に向かう力が涸れることはありません。この私に命が涸れることはないと言えばいいのでし
ょうか。
通常私たちが、心が安定している、心が萎えていない、活力に満ちている、などと言い表
す場合、そういうものは一つの心の状態を指しています。そして、何らかの原因によって心
が萎えてしまったならば、努力をしてその原因を取り除き、幸い再び力が湧いてきますと、
心が安定してきた、元気になった、そのように言い表します。しかし、このように心の安定
が私たちの一つの心の状態である場合には、それはいつも変わりやすく、危うく脆いもので
す。私たちがようやくそのような状態に達することが出来たと思う次の瞬間に、何事かが起
こればすぐに心の状態は変わってしまい、混乱し萎えてしまう。ですから、そうならないた
めに絶えず努力をしなければならない。例えば、修業を積んで何事にも心が動じないように
自分を鍛えあげる。そのようなことをしている人たちもいます。
ですが、そのような厳しい修行がこの私にできるでしょうか。恥ずかしながら疑問です。
私たちキリスト者はイエス様、救い主そのものを私たちの内に受け入れるのです。本日の
聖書の箇所にありますようにこの方は「命のパン」です。その命のパンそのものを内に受け
入れるのです。ですが、初めてこのような話を聞かされますと、本日の聖書の箇所の後に記
されていますように、まるでイエス様の肉そのものを内に入れる、人肉を食べる、そのよう
に理解されかねません。この話を聞いて多くの人が「ひどい話だ」と言ったのです。イエス
様のおっしゃっている意味がよく分かったのは、皆様ご存知でしょうか、イエス様の十字架
と復活を経て、神様の力と言ってもいい聖霊が人々に注がれたのですが、それがあってから
のことです。
イエス様は私たちが幸福になるために「ああしなさい、こうしなさい」と細かい規則のよ
うなことはおっしゃいません。基本は「わたしは主、あなたたちはしもべ」です。しもべは
ご主人様のおっしゃることはすべて正しいと信じて(当初は不合理だと思えても)、それを
受け入れ、実行するのです。基本は「わたしを受け入れ、従いなさい」です。イエス様その
ものを私の内に受け入れるのです。イエス様がただの人間ならば、この私の内に入って、内
側から支え導いてはくれません。いくら愛するわが子が苦しんでいても、ただの人間である
母親は子を内側から支えられません。外側から見て、同情するだけです。悲しいながら、そ
れが人間の限界です。しかし、神の御子でもあるイエス様は、この私の内にあって支え、共
に歩んでくださるのです。
信じて歩んでいますと、内から支えてくださっているのが分かる時があります。これを私
たちは聖霊の働きで分からせてくださったなどと言い表すのですが、このような経験をしま
すと、私たちは嬉しく、励まされて、さらに信じて歩もうとあらためて決意するのです。キ
リスト者とはそのような歩みをしている者たちのことです。
私など弱いですから、大変なことが起こりますと、すぐに泣きます。わめきます。怒りま
す。心が萎えて、まったく何をする気もなくしてしまいます。ですが、イエス様が私の内に
おられる、この方は私から離れない、そう信じて、決意して前に一歩踏み出すのです。その
歩みは人様が見たら不格好かもしれませんが、イエス様が私の内におられるからそれでいい
と思い直します。どういうわけか、心の奥底は安定しているのです。そして、落ち着いてい
ますと、現実の様子がよく見えます。この厳しい現実から私たちは逃げません。現実をよく
見据えて、しっかり足を前に出すのです。
掲載元:中部学院大学・中部学院大学短期大学部_チャペルアワー
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