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成城教会「Welcom Day」ミサ説教,世田谷南宣教協力体合同堅信式説教
成城教会「Welcom Day」ミサ説教 2011年10月30日 成城教会にて 第一朗読 マラキ1・14b-2b、8-10 第二朗読 一テサロニケ2・7b-9,13 福音朗読 マタイ23・1−12 カトリック成城教会のWelcome Dayにようこそお越しくださいまし た。お礼を申しあげます。今、ミサを捧げております。ミサの中で は必ず福音書が朗読されます。今、読まれた福音書(マタイ23・1 −12)について、わたしの感じた ことを申しあげたいと思います。 「あなたがたの父は、天の父おひとりだけだ、誰も父と呼ばれては ならないしまた、先生と呼ばれてはならない」とイエス・キリスト は言われました。わたしたちの信じている教えによれば、わたした ちはただ一人の神様を信じております。この神様は「すべての人の 父」であります。 ですからわたしたちは全員兄弟姉妹であります。ですが、現実に は、父がおり、母がいて、子を産み育てます。その際、本当のお父 様は天の父おひとりだけで、わたしたちはただ、その子をあずかり、 天のお父様の代わりに父の役割を果たしているのだという考えこそ が、とても大切で重要なのではないでしょうか。 子どもの上に絶対的な権限を振るうわけではなく、謙遜に子ども のために働かなければならない。先生にしても同じことであります。 先生であるから、絶対に間違わないという訳ではないし、自分が教 えている通りに毎日生きているという自信は、持てないものであり ます。 カトリック教会では「神父」という存在があります。この「神父」 という言い方は、中国から日本に伝わりました。この「神父」の 「神」という字は、わたしたちの信じている天の父の神のことでは ございません。神様に父がいるはずはございません。「 神 神」の神、 精神的な父 は「精 という意味であります。 古いカトリックの言い方では、「霊父」という言葉がありました。 霊的な父、本当の肉親の父ではない、霊魂の、あるいは「霊=神」 によって助けられ、指導する父という意味であります。わたしも司 祭、司教ではありますが、本当の意味での司祭、先生はイエス・キ リストおひとりであり、そのイエス・キリストから依頼されて、不 完全にその役を行っている者にすぎないのであります。自分は間違 いも犯すし、罪も犯す人間にすぎない事を常に心に深く刻んで、謙 遜に奉仕しなければならない者であるのです。 ミサの中では、司祭がパンとぶどう酒を天の父にお捧げする祈り の言葉があります。これは、司祭でなければ行うことの出来ない役 割です。2千年前にイエス・キリストがおっしゃった 、同じ言葉を司 祭が口にする事によって、イエス・キリストご自身がおっしゃるこ とになります。それが、なぜ可能なのかというと、「神の霊」すな わち聖霊の働き、イエス・キリストの働きがあるとわたしたちは信 じているのです。 その司祭が唱える 聖別”の言葉 「皆、これをとって食べなさい。これはあなたがたに渡されるわた しのからだである」。パンを天の父に捧げます。 次にぶどう酒の聖別であります。「皆、これを受けて飲みなさい。 これは私の血の杯、あなたがたと多くの人の為に流されて罪のゆる しとなる新しい契約の血である。これをわたしの記念として行いな さい」。 この言葉を司祭が唱え、天の父にお捧げすると、本当にキリスト のからだ、キリストの御血になるとわたしたちは信じております。 目には見えない復活された主イエス・キリストが現存してくださる。 実際にそこにいてくださる。という信仰の理解を深めているのです。 司祭は、キリストになりきります。 ですが、神父も同じ人間です。普段は普通の人間ですので、どう ぞご寛容にお願い致します。 世田谷南宣教協力体合同堅信式説教(年間 第31主日) 2011年10月30日 年間第31主日 碑文谷教会にて 第一朗読 マラキ1・14b-2b、8-10 第二朗読 一テサロニケ2・7b-9、13 福音朗読 マタイ23・1−12 今日は世田谷南宣教協力体合同堅信式の日です。 堅信式に参加するために碑文谷教会にお集まりの田園調布教会、上 野毛教会、そしてここ碑文谷教会の皆さん、 今日の福音で主イエスは律法学者、ファリサイ派の人々を痛烈に批 判して言われました。イエスの批判は二点にわけられます。 彼らは「 言うだけで実行しないこと」ということと、 彼らは「人に 見せびらかすために行う」ということです。 前者についてイエスは言われました。 「彼らの言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし彼らの 行いは、見倣ってはならない。言うだけで実行しないからである。」 わたしたちは家庭で両親から学び、また学校で先生から学びます。 親は自分の子どもに、「こうしなさい」「こうしてはいけない」な どいろいろ教えて、子どもが善良な人間に成長するよう配慮します。 子どもは親の言葉によって人間としてなすべきこと、避けるべきこ とを学びます。しかし他方、子どもは親の生活を観察しています。 親が言葉どおりに実行しているか、鋭い目で確かめています。子ど もは、親が何を言ったかより、どうしたかということから、より多 くを学び、より大きな影響を受けます。教師についても同じことが 言えます。 言葉より実行の方が大切です。親が自分の言葉どおりに実行してい ないなら親を信用しなくなるでしょう。人は自分が口にする言葉を 実行しなければならないのです。 漢字の「誠実」の「誠」は、「言葉が成る」と読めます。自分の言 葉を実行する、と言う意味です。 「信仰」の「信」ですが、人と言葉が一致していることをあらわし ていると思います。いわゆる「言行一致」です。 イエスは言われました。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人 の肩に乗せるが、自分でそれを動かすために、指一本貸そうとはし ない。」 イエスの非難はわたしたちにも該当するかもしれません。人が何を 言ったかということより、何を行なったかを見ています。言葉と行 ないが一致するかどうかを見ています。 とはいえ、自分の言葉どおりに実行することは容易なことではあり ません。神の助け、聖霊の導きが必要です。 世界の中でわたしたち教会は、自分が信じ、のべ伝えている真理を 如何に実行しているか、ということがいつも問われています。 教皇ヨハネ・パウロ二世による世界平和祈祷集会(1986年10月27日) 開催25周年を記念して、10月27日(木)、イタリアのアッシジにお いて、諸宗教の指導者の集会が開催されました。 教皇ベネディクト16世はこの集会で次のように言われました。 「たしかに歴史の中で、キリスト教信仰の名のもとに暴力が用いら れたこともありました。わたしたちはこのことを認め、深く恥じ入 ります。しかし、次のこともきわめて明らかです。これはキリスト 教信仰の濫用であり、キリスト教信仰の真の本性にはっきりと反し ます。わたしたちキリスト者が信じる神は、すべての人の造り主ま た父です。このかたによって、すべての人は互いに兄弟となり、唯 一の家族を形づくります。わたしたちにとってキリストの十字架は 神のしるしです。神は暴力の代わりに、他者とともに苦しみ、他者 を愛するかただからです。」 そして、教皇は次の結びのことばを述べました。 「もはや決して暴力をふるってはいけません。もはや決して戦争を 行ってはいけません。もはや決してテロを起こしてはいけません。 すべての宗教は、神の名において、地上に正義と平和、ゆるしとい のちと愛をもたらさなければなりません」。 今日堅信を受けられる皆さん。皆さんが信じた神の愛を日々の生活 で実行し、人々の前でキリストの教えを生きることにより、皆さん の信仰を人々に伝えるよう努めてください。 港・品川宣教協力体合同堅信式説教(年間 第30主日) 2011年10月23日 年間第30主日 麻布教会にて 第一朗読 出エジプト22・20−26 第二朗読 一テサロニケ1・5c-10 福音朗読 マタイ22・34−40 「一人に律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。『先生、 律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』」(マタイ22・35) イエスの時代、律法には613の掟が含まれていた、と言われています。 その中でどの掟がもっとも大切か、という論争が当時行われており ました。イエスは申命記6章5節を引用して答えました。 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である 主を愛しなさい。」 これはシェマーの祈りとしてユダヤ人が日々唱えていた大切な祈り でした。 ところでイエスはさらに続けて言われたのです。 「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛 しなさい。』(レビ19・18) 律法全体と預言者は、この二つの掟に 基づいている。」(マタイ22・39) イエスは神への愛と隣人への愛は不可分である、と宣言したのです。 真に神を愛しているなら、隣人を愛するはずです。ヨハネの手紙で 次のように言われています。 「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎むものがいれば、それ は偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を 愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。 」(一ヨハネ4・20-21) 今日の第一朗読出エジプト記では 「寄留者を虐待したり、圧迫してはならない」「 寡婦や孤児はすべ て苦しめてはならない」(出エジプト22・20,21) とあります。また、神は旧約の預言者イザヤを通していわれました。 「お前たちのささげる多くのいけにえがわたしにとって何になるだ ろうか。」「 雄羊(おひつじ)や肥えた獣の脂肪の献げ物にわたし は飽いた。」( イザヤ1・11)、「 悪い行いをわたしの目の前から取 り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこま でも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの 訴えを弁護せよ。」( イザヤ1・16-17) 神を礼拝し神にいけにえをささげる人が弱い立場の人々を圧迫する のは大きな矛盾であります。 聖パウロは教えています。 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟 があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」と言う言葉に要約 されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うす るものです。(ローマ13・9-10) またイエスは言われました。 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたが人にしなさい。 」( マタイ7・12) 神を愛することと、隣人を愛することは一致しなければなりません。 それでは自分を愛する、と言うことについてはどうでしょうか? イエスは、「 隣人を自分のように愛しなさい」といわれたのです。 自分を愛するとは自分の思い通りにすることではありません。自分 の願い、欲望どおりに振舞うことでもありません。自分を愛すると は自分を大切にすることです。それではどうすれば自分を大切にす ることができるでしょうか? 「自分を大切にする」とは、ほかの人とのかかわりの中で学ぶこと です。わたしたちが今あるのは、両親をはじめとする多くのかたが たのおかげです。多くのかたがたがわたしたちを大切に育ててくだ さいました。そのためには多くのご苦労があったに違いありません。 そのおかげでわたしたちは「人のために尽くす」ということを学び ました。自分を大切にするとは、ほかの人のために自制する、自分 をコントロールする、ということでなければなりません。 主イエスは言われました。「わたしがあなたがたを 愛したように、 互いに愛し合いなさい。」( ヨハネ15・12) 自分が大切にされてはじめて自分の価値を自覚し、さらに人を大切 にすることができるようになります。「互いに愛し合う」とは何よ り主イエスに学ぶことです。 日本では13年間連続して3万人以上の人が自死を遂げています。多く の場合自分自身に生きる価値を見出しにくくなっての結果ではない か、と推察しています。自分を大切にするとは、自分の価値を認め るということです。そしてそれは神様の前にわたしたちが自分に価 値を認め、神様の呼びかけに応えて生きる、ということに他なりま せん。 わたしはきょう堅信を受けられる皆さんに、とくに次の聖書の言葉 を送りたいと思います。 あなたは存在するものすべてを愛し、 お造りになったものを何一つ嫌われない。 憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。 あなたがお望みにならないのに存続し、 あなたが呼び出されないのに存在するものが 果たしてあるだろうか。 命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、 あなたはすべてをいとおしまれる。(知恵の書11 24-26) 堅信を受ける皆さんにお願いします。まず自分自身が神様の前にか けがえのない、価値のある人間であることを深く悟ってください。 そして次に、日々出会う人々に、その人もかけがえのない、価値あ る人であることを知らせるよう努力してください。 こどものミサ説教 2011年10月10日 東京カテドラル関口教会にて 第一朗読 イザヤ32・15−18 福音朗読 ヨハネ2・1−11 ことしもこどものミサに参加のためにこんなに多くの子どもたちが 東京カテドラル関口教会へお集まりくだいました。大変うれしく存 じます。 今日の福音はカナの婚姻です。 マリア様が主イエスに「ぶどう 酒が足りなくなりました」とおっ しゃって、イエスの助けを願いました、しかしイエスは「 婦人よ、 わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていま せん」と 冷たく断りました。それでもマリア様は召使に、「この人 が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言いました。 イエスが言われたとおりに、召使が水甕に水を満たして宴会の世話 役のところへ持っていくと水は非常に良いぶどう酒に変っていまし た。 結局イエスは奇跡を起こして母マリアの願いを聞き遂げたのです。 わたしたちはたびたび聖母に祈ります。カナの婚宴のときに人々の 願いをイエスに伝えた母マリアは、いまは天国でおん子イエスと共 におられ、わたしたちの祈りをおん子イエスに取次いでくださいま す。 ただしここで注意したいことがあります、マリア様にお願いする内 容は、お願いするのにふさわしい事柄でなければなりません。自分 勝手な欲張りの願いではマリア様は取り次いでいただけないと思い ます。 今日は特にわたしたち自身の信仰のために祈ります。 主イエス・キリスト、 大きな試練の中にいるわたしたちの信仰を強 くしてください。わたしたちがあなたへの信頼のうちに、勇気をもっ て日々の歩むことができますようできますようわたしたちを助けて ください。 この願いを聖母マリアを通してお献げいたします。 アーメン。 町田教会説教(年間第28主日) 2011年10月9日 町田教会にて 第一朗読 イザヤ25・6-10a 第二朗読 フィリピ4・12-14,19-20 福音朗読 マタイ22・1-14 イエスは神の国の福音をたとえ話によって話されました。マタイの 福音では、神の国は「天の国」となっています。 先週の主日(年間第27主日)の福音は「ぶどう園の主人と農夫 の話で した。その前の週の主日(26主日)は、ぶどう園に招かれた二人の 息子の話、さらにその前の主日(25主日)はぶどう園で働く労働者 の話でした。 この三つのたとえ話に共通している点はぶどう園を舞台にしている、 ということです。ぶどう園は神様が人々を招いてそこで働かせるこ の世界を意味しているようです。人々はぶどう園で神様に御心を行 い、よいぶどうを実らせるようにと期待されています。 さて今日の福音は「王が王子のために催す婚宴」のたとえ話です。 これは王である神様が御子イエスのために婚宴を催すことを意味し ていると思われます。 「婚宴」「宴会」という主題は旧約聖書と新約聖書を通してたびた び登場してきます。 今日の第一朗読イザヤ書では万軍の主がすべての民を招く祝宴が述 べられています。 万軍の主はこの山で祝宴を開き すべての民に良い肉と古い酒を供される。 それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。 主はこの山で(・・・) 死を永久に滅ぼしてくださる。 主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい 御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる。 (イザヤ25・6-8) ここでは民が主なる神の救いにあずかるときの大おきな喜びが告げ られています。 「婚宴」といえばわたしたちは「 カナの婚宴 黙示録では次のように言われています。 を思い出しますが、 「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ。」( 黙示19 9) 子羊とは十字架に付けられて処刑されたが復活させられたイエス・ キリストを指しています。 「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い。」 この言葉は聖体拝領への招きの言葉として用いられています。これ はこの黙示録の言葉に由来しています。 今日のたとえ話の後半では、礼服を着ていない者は外の闇に放り出 されてしまいます。礼服とは何を意味しているでしょうか。このた とえ話もこの点でわかりにくいと思います。町の大通りから連れて こられて者には礼服をつける暇はなかったとも思われます。王が礼 服を支給したがそれを断ったのだ、と言う解釈もあります。 わたくしは、礼服とは、王からの招きを受けるに「ふさわしい心と 行い」( 本日の集会祈願の言葉)ではないか、と思います。ふさわしい 心とは、回心、謙遜、信仰、希望、愛であり、そして行いとは、 日々の愛の実行ではないでしょうか。人はいつでもこの準備ができ ていなければならないのです。それはちょうどご聖体におられる復 活されたイエスにお会いするためにはふさわしい準備ができていな ければならないのと同じです。 主なる神はすべての人を神の子羊の宴会へと招いています。福音宣 教とはこの天の国の祝宴へ人々を招くことにほかなりません。そし てミサの聖体拝領は、地上における天の宴会の前触れであります。 わたしたちも、いつも礼服を用意して、天の宴への招きにこたえる ことができますよう、日々の生活を整えるように致しましょう。 潮見教会説教(年間第27主日) 2011年10月2日 潮見教会にて 第一朗読 イザヤ5・1−7 第二朗読 フィリピ4・6−9 福音朗読 マタイ21・33−43 先週、先々週の主日の福音に引き続き、今日、年間第27主日の福音 も、ぶどう園のたとえ話です。 ぶどう園の主人は農夫たちにぶどう園を貸し与え、収穫を受け取る ために農夫たちのところに僕たちを遣わしました。しかし農夫たち は僕たちを拒否します。そこで主人は最後に跡取り息子を派遣しま すが、農夫たちは息子をぶどう園の外に放り出して殺してしまいま す。その結果、主人はぶどう園をほかの農夫たちに貸すことになり ます。 主人は、主なる神、農夫たちはイスラエルの指導者たち、僕たちは 預言者たち、息子はイエス・キリスト を指しています。 主なる神はイスラエルの民をエジプトにおける隷属から解放し、カ ナンの地に導きそこに定住させました。本日の答唱詩篇はそのこと を次のように言っています。 あなたはぶどうの木をエジプトから移し、 ほかの民を退けてそこに飢えられた。 まわりが耕され、その木は根を張り、おい茂った。 しかし、第一朗読イザヤ書ではまた次のように言っています。 わたしがぶどう畑のためになすべきことで 何か、しなかったことがまだあるというのか。 わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに なぜ、酸いぶどうが実ったのか。(イザヤ5・4) ユダヤ人はイエスの招きを拒みイエスを十字架につけて殺させてし まいました。その結果、神の国の福音は異邦人にのべ伝えられまし た。使徒パウロは異邦人の使徒でした。パウロはローマ書において、 異邦人がイスラエル人より先に救いにあずかる次第を語ります。 そのパウロがフィリピの教会宛に手紙を出しています。 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を 込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 」(フィリピ4・6) 人生は心配の連続です。思い煩わないように、といわれても実行は 難しいと感じます。しかし、思い煩いではなく、冷静、賢明、勇気、 そいて神への信頼が何より大切なのだと思います。パウロはいかな る場合であっても神への信頼を説いています。しかも、この手紙を 出したときパウロ自身は牢獄につながれていました。そのような状 況でフィリピの教会の人々へこのような勧めを与えることができた とは実にすばらしいことです。 パウロはまた次のようにも言っています。 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。・・・ 主はすぐ近くにおられます。」(フィリピ4・4-5) 毎年、待降節第3主日の入祭唱で唱えられるパウロのことばです。パ ウロは牢獄でこの言葉を述べたと言われています。 牢獄の中でパウロがこのような勧めを送ったとは実に驚くべきこと ではないでしょうか。 ところでこのようにパウロが書き送ったフィリピの教会に実は問題 があったようです。信徒の間に深刻な抗争があったという考えがあ るのです。(エポディアとシンティケと言う二人の有力信者の間の 争いである、という推測がなされています。) パウロはフィリピの教会を特に愛していました。フィリピの教会は パウロが創設した教会でした。(創設の次第は、使徒言行録16章に記 されています。) パウロはやむにやまれない思いを抱いてこの手紙を出したのかもし れません。 パウロは、「 主において同じ思いを抱きなさい」( フィリピ4・2) と 言って和解を勧めています。そう考えると、「 主において常に喜び なさい。重ねて言います。喜びなさい。・・・主はすぐ近くにおら れます」あるいは、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを 神に打ち明けなさい」というパウロの言葉はより深い意味をもって わたしたちに迫ってくるような気がいたします。