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中国におけるイスラ厶教教派
【研 究 ノ ー ト】 中 国 にお け る イス ラ厶教 教 派 丸 Islam 山 』鋼 二 Sects in Modern China Koji MARUYAMA abstract Islam sects in Modern menhuan". ago, The though appearance Islam are generally sect "Sufism was introduced called brotherhood into China "Three-big (menhuan)" Sects the traditional ceremony Its characteristics in 7th century. differentiated. and system is tolerance. One is a new sect "Ikhwani", as unfaithful to the Koran. from In early The which other 20th and Four-big was shaped 300 years In opposition of menhuan(jahariyah,Khufiyyah,Kubrawiyyah,Cadriyah), maintained "Q adim". strictly China first Islam muslims old times century criticized is Xiddotang, called to the who had themselves the two sects were both Qadim and menAwn called "Chinese classics Sect". The doctrinal distinguished customs. differences Those Ikhawani difference is not in the differences among unessential frequently and other sects in Modem 目 great Islam problems gave sects of the in China. religious rise to a quarrel There are ceremony and of bloodshed between China. 次 は じめ に 第三節 イ フ ワ ー ニ ー 派:中 国 イ ス ラム改 革運 動 第一 節 スー フ ィズ ム教 団(門 宦)の 形 成 く イ フ ワー ニ ー派 の登 場 〉 くス ー フ ィズム の修 行 方法 〉 〈 イ フ ワ ー ニ ー 派 の 受 難 期(1895-1917)〉 〈 イ'フ ワ ー ニ ー 派 の 覇 権 時 代 〉 第二節 〈 門宦 制 度 の 特色 〉 カ デ ィー ム派:・中国 ム ス リム最 大教 派 く カ デ ィー ム 派 の教 義 〉 〈 イ フ ワー ニー 派 の教 義 〉 〈寧 夏 に お け るイ フ ワーニ ー派 の 発展 〉 〈 カ デ ィー ム派 の教 権組 織 〉 〈 カ デ ィー ム派 の儀 礼 〉 〈 新 た な 分 派 サ ラ フ ィー ヤ 派 の 誕 生 〉 第四節 おわ りに は じ め 西 道 堂:イ ス ラム 集 団経 済教 団 く 第1期 馬 啓 西 時 代(1902-1917)〉 〈 第2期 馬 明 仁 時 代(1918-1946)〉 〈 第3期 敏 志 道 時 代(1947-1958)〉 中 国 イ ス ラ ム教 の 特 徴 に. イ ス ラ ム教 は 唯 一 絶 対 の 神 ア ッ ラー を 信 仰 し 『コー ラ ソ』 を 共 通 の聖 典 に して い る とは い え 、 一129一 【表1】 宗 派 ・ 教 派1分 中 国 イ ス ラ ム教 の 教 派 と現 状 派 ・支 系1創 始 1.ス 1.カ 2.イ ン ニ ー 派(遜 尼 派) デ ィ ー ム 派(Qadim、 格 底 目 派) フ ワ ー ニ ー 派(伊 合 瓦 尼 、 依 黒 瓦 尼) (lkhwani) (1)白 派(サ ラフィーヤ派)馬 別 称:新 新 教 ・新 興教 (2)蘇 派 3.西 道 堂(漢 学 派) 4.ス 1.ジ 訓派 ー フ ィ ズ ム(蘇 3.ク プ ラ ウ ィ ー ヤ 門 宦(庫 4.カ ー デ ィ リ ー ヤ 門 寛 (Cadriyah) (格底 林耶 、戛 迚 林耶) (戛得 忍耶) 1889年 1937年 1889年 1901年 得宝 黎蘇个 馬啓西 宦:〃28励%α 約400万 堂 所在 地 人 千戸 ほ ど 約100万 人 約1万 人 甘粛臨潭旧城 π] 馬 明心 (4)板 橋 門 宦 馬元章 馬元烈 馬継武 馬達天 (5)南 馬進 西 (1)沙 溝 門 宦 (2)北 (3)新 山門 宦 店子 川門宦 馬則地 馬来遅 馬宗生 (1)花 (2)畢 (3)穆 (4)北 (5)紅 (6)太 (7)通 (8)青 (9)寧 寺(華 寺)門 宦 家 場 門宦 夫 提 門宦 庄門宦 泥 灘湖 門 子寺胡門 貴門宦 海 鮮 門 門宦 夏鮮 門 門宦 (10)臨 (11)劉 (12)霊 (13)洪 (14)明 (15)高 (16)慶 (17)崖 (18)破 (19)丁 (20)撒 (21)文 (22)法 挑 門 宦: 門 門 宦: 明堂 門 門 宦: 月 堂(明 徳 堂) 趙 家 門宦 雲堂 頭門宦 溝 井 門宦 門 門 宦: 拉 教(注1) 泉堂 門門 宦 馬守 貞 馬葆貞 馬則 地 格 的加 馬金貴 鮮美珍 鮮林 園 馬玉 煥 劉伯陽 馬霊 一 (1)大 (2)香 (3)七 (4)阿 同 治年 間 1911年 康煕年間 1931年 1796年 康煕年間 1878年 同 治末 年 馬 仁'甫 1940年 代 1911年 ア ブ ドカ ン ハ ル 韓哈知 トソ ジ ニ ・ シ ニ・ 丁香 蘇哇什 馬文泉 法真 ム ブイ ソデ ィニ 布 忍 耶 、Kubrawiyyah) 1745年 1874年 1920年 1920年 1812年 1889年 1750年 1740年 1674年 1672年 1815年 1750年 洪海儒 馬以黒牙 康煕年間 光緒年間 威豊年間 嘉慶年間 安洪雄 ア ジ ヤム 約2万 約1万 約8万 約5万 約6万 人 人 人 人 人 1904年 威豊末年 光緒20年 乾隆年間 寧 夏 洪 楽 府 ・西吉 張川北山 西吉新店子 寧夏呉忠 甘 粛 張 家 川 南川 河州花寺拱北 河州畢家場拱北 河 州 康 楽 雍 道 家道 堂 河州東郷北庄道堂 河州東郷紅泥灘拱北 河州広河徐牟家拱北 約千人 寧夏通貴 約2千 人 青海八站溝 3千 人 近 く 寧夏西吉前岔 約5千 人 臨夏瓦窰頭 約百戸 約3千 人 約4千 人 約500人 約200戸 一 3-400尸 約千戸 約300戸 約1万 戸 乾 隆25年 第7代 楊 道 祖 約100万 人 約15万 人 康煕年間 海闊 馬徳民 (5)韭 菜 坪 門宦 (6)青 海 後 子河 門宦 人 人 人 人 威:豊初 年 民 国年 間 祁進 一 ヌ ノ ソデ ィニ 約15万 人 約5万 約1万 約6万 約3万 約100戸 一 500尸 約100戸 一 2-300尸 1940年 代 1689年 拱 北 門 宦1 源堂 門(斉 門)門 宦 門門 宦 ー シ ャ ソ派 (lshan) (依禅 派) IILシ 1.十 2.イ 非 派)[門 ー フ ィ ー ヤ 門 宦 (Khufiyyah) (虎非 耶 、虎 夫 耶) 別称:低 念派 5.イ 7世 紀 半 ば 馬万福 徒 数1道 ウ イ グル 族 ウ イ グル 族 ャ フ リー ヤ 門 宦 (Jahariyah) (哲合 林耶 、 哲 赫 忍 耶) 別称:高 念派 2.フ 闢 教・ 伝 教 年[教 (新彊) (新彊) ン ニ ー 派 5.聖 II.ス 者 約8万 人 約500戸 約400戸 千 戸 数十 戸 あ ま り 約千 戸5千 人 約千 戸5千 人 1533年 (1)ジ ス テ ィ ヤ(契 (2)ス ハ ラ ワ デ ィ ヤ(蘇 哈 拉 瓦 迪 耶 、 蘇 合 瓦 日底 耶 、Suhrawardiyyah) ① ② ③ (3)イ (4)マ イ シ ー ク ヤ(伊 ダ ワ ニ ー ヤ(達 イ ー ナ ク ヤ(依 ス ハ ー ク ヤ(伊 ウ リ ウ ィ ヤ(売 蘭州市 蘭州市 寧夏固原 寧夏固原三営 臨夏劉集高趙家 蘭 州 小 西 湖 拱北 臨夏大河家海坡 蘭州徐家湾拱北 華林山拱 北 循化 蘭州耿家庄 拱北 東 郷 大 湾 頭 と康 楽 臨夏県大拱北 蘭州沙家拱北 固原梁家堡拱北 蘭州潘家墳拱北 寧夏西吉 青海後子河拱北 新彊 斯 提 耶 、 丑shtiyyah) 西克 耶) 瓦尼 耶) 納克 耶) 斯拉 米耶、伊斯 哈格耶)1イ 吾里威 耶)II ス ハ ー グ11580年 Ishaqyyah、 (5)ナ ク シ パ ン デ ィ ヤ ー(納 格 什 班 迪 耶 、 乃 合 西 板 底 耶 、Naqshibandiyyah)116世 (6)サ (7)ク フ ル パ ン デ ィ ヤ(賽 合爾班迪 耶) ブ ラ ウ ィー ヤ (8)フ ー フ ィ ー ヤ116世 (9)カ ー デ ィ リ ー ヤ (10)ジ ャ フ リー ヤ ー ア 派(十 叶 派 、 什 叶 派) ニ イ マ ー ム 派(十 二 二伊 瑪 目派) ス マ ー イ ー ル 派(伊 斯 瑪 儀 派) 元 「黒 山派 亅 紀 紀 新彊 サ イ ー ド 。ス ル 17世 紀 3.3万 人 新疆莎車県ウイグル族 新 疆 タ ジク族 [出 所]馬 通 著 『中 国 伊斯 蘭 教 派 与 門 宦 制 度 史 略 』 銀 川 、 寧 夏 人 民 出 版 社 、1995年 、329-334頁 。 金 宜 久 主 編 『当 代 伊 斯 蘭 教 』 北 京 、 東:方出版 社 、1995年 、336-337頁 。 馮 今 源 著 『中 国 的 伊 斯 蘭 教 』 銀 川 、 寧 夏 人 民 出版 社 、1991年 、66-67頁 の 折 り込 み。 (注1)馬 通 の前 掲 書 は 、 開 教 の 時 期 を 「1950年代 末 」 と して い た が 、 『中 国 伊 斯 蘭 百 科 全 書 』(成 都 ・四 川 辞 書 出版 社 、1994 年 、460頁)の 「撒 拉 教 」 の説 明 で は 「1940年 代 」 と して お り、 こ れ に 改 め た 。 な お 同書 で は 「70年代 宋 に一 定 の 発 展 が あ り、 教 徒 数 は1000戸 あ ま り、1万 人 近 く」 と され て い る。 一130一 そ の 内部 は 他 の 世 界 宗 教 同様 、 多 くの 宗 派 や 教 派 が林 立 し、 そ の 対 立 は時 に は武 力 や 内 紛 を 伴 う 激 しい もの で さ え あ る。 ス ソ ニ ー 派 と シー ア派 と の対 立 は そ の典 型 的 な事 例 で あ る。 中 国 に お け る イ ス ラム 教 もそ の 例 外 で は な い。 今 日の 中 国 に は 、 ス ソ ニ ー派 の教 派 、 シ ー ア 派 の 教 派 、 そ し て 大 き くは ス ソ ニ ー 派 に属 す るイ ス ラ ム神 秘 主 義(ス ー フ ィズ ム)系 の教 派(門 宦)が 存 在 して い る。 そ れ は通 常 「三 大 教 派 ・四 大 門 宦 」と総 称 され る。 【表1】 に み られ る よ うに、50以 上 の 教 派 に 分 かれ て い る◎ しか し、 イ ス ラム 教 が7世 紀 に 中 国 に 伝 え られ て か ら17世 紀 に 至 る まで の一 千 年 間 、 中 国 で は 宗 派 対 立 や 教 派 間 の 争 い が顕 現 しな か った 。 これ は一 つ は 、 中 国 にお け る他 宗 教 との 共 存 を 容 認 す る宗 教 的 寛 容 さの 伝 統 の た め で あ る。 そ れ と と もに 、 中 国 に お け る ム ス リム人 口は 一 貫 して 少 数 派 で あ り、 つ ね に 非 ム ス リム の 大海 に 囲 ま れ て い た とい う歴 史 的条 件 が大 き な要 因 と な っ て い る。 そ う した 環 境 に あ っ た た め 、 ム ス リムた ち が ま ず 第 一 に考 え な け れ ば な らな い こ と は、 い か に して 自己 の宗 教 を 保 持 した ま ま中 国 の 大 地 で生 存 し続 け るか とい う こ とで あ った。 そ れ ゆ え に 、 た と え イ ス ラ ム教 の 異 な る教 派 に 属 して い た と して も、 相 違 を 強 調 す る の で は な く、 同 じム ス リ ム と して の 同 一 性 を 優 先 させ る こ とが まず 第 一 に大 切 な こ とで あ り、 各 教 派 の主 張 を 前 面 に 打 ち 出す 必要 もそ の 余 裕 も な か っ た の で あ る。 そ う した 中 国 内 地 に お い て初 め て イ ス ラ ム 教 の教 派 ら し き もの が形 成 され た の は 、17世 紀 末 か ら18世 紀 初 め に か け て で あ っ た 。 スー フ・ イズ ム系 の「門宦 」とい わ れ るや や 閉鎖 的 な 教 団 組 織 で 、 そ れ ま で の ム ス リム た ち を「旧教 」と批 判 して 登 場 した の で 当 時 は 「新 派 」や「新 教 」と呼 ば れ た。 そ れ に対 抗 す る形 で 、 旧来 の ム ス リムた ちが 自 ら を「カ デ ィー ム派 」と 自称 す る よ うに な っ た。 これ が 中 国 イ ス ラ ム 教 の 第 一 次教 派 分 化 で あ る◎ 第 二 次 分 化 が起 こ った の は19世 紀 末 か ら20世 紀 初 め で、 二 つ の新 教 派 が登 場 した。 一 つ は門 宦 及 び カ デ ィー ム 派 を 激烈 に 批 判 す るイ フ ワー ニー 派 で 、 門宦 と カ デ ィー ム 派 を と も に「旧 教 」と批 判 し た が 故 に 、 「新 教 」あ る い は 「新 新 教 」 「新 興 教 」と も 呼 ば れ る。 も う一 つ は 、 門宦 及 び カデ ィー ム 派 の 両 方 の 特 色 を 取 り入 れ た 西道 堂 で あ る。 ま た 、 19世 紀 後 半 か ら20世 紀 前 半 に か け て 各 門 宦 か らま た 新 た な支 系 の 門宦 が 分 立 す る とい う分 民 族 化 現 象 が み られ た の も、 この 時 期の 特 徴 で あ 人 口 回 派 の 概 要 を検 討 し、 中 国 イ ス ラ ム教 の 特 徴 に つ い て 解 明 し よ うと す る もの で あ る。 ウ イ グル 族721万 人 ウ イ グル 語(チ ュル ク語 族) カ ザ フ 族111万 人 カ ザ フ語(チ ュル ク語族) 現 在 中 華 人 民 共 和 国 で は、 イ ス ラ ム教 を信 仰 す る民 族 と して10民 族 が 認 定 さ れ て い る (【 表2】 参 照)。 ム ス リム人 口は計1,700万 人 で あ る。 本 稿 は 中 国 内地 を対 象 とす る ため 、 10民 族 の うち 主 と して 中 国 人 ム ス リム で あ る 族860万 人 言語(言 語 系統) る。 本 稿 は 、 こ う した 教 派 形 成 の 歴 史 と各 教 中 国語(シ ナ ・チ ベ ッ ト語族) トソシャ嗾3砺 人 トン シ ャ ソ語(モ ン ゴノ レ離) キ ル ギ ス族14万 人 キ ル ギ ス語(チ サ 族8.7万 人 サ ラ語(チ ュル ク語 族) タ ジ ク 族3.3万 人 タ ジ ク語(チ ュル ク語族) ウ ズ ベ ク族1.4万 人 ウ ズ ベ ク語(チ ボ ウ ナ ン族1.2万 人 ボ ウ ナ ソ語(モ ソゴル語 族) タ タ ー ル 語(チ ュル ク語 族) ラ タ タ ー ル 族4,900人 ュル ク語 族) ュル ク語 族) 回族 の イ ス ラ ム教 に つ い て 研 究 す る もの で あ る。 第 一節 ス ー フ ィズ ム 教 団(門 宦)の 形 成 中 国 内地 に お い て イ ス ラム 教 の 特 定 の 教 派 が 初 め て 形 成 され た の は17世 紀 後 半 の こ とで 、 「門 一131一 宦 」と呼 ば れ る スー フ ィズ ム(イ ス ラム 神 秘 主 義)系 の 教 団 が そ れ で あ る。 そ の 形 成 過 程 は、 明 末清 初 に さ か の ぼ る が 、 す で に11世 紀 の 南 宋 時 代 に 中 国 東 南 沿 海 部 や 内 地 で は イ ス ラ ム神 秘 主 義 を奉 じる「苦 行 僧 」(スー フ ィー 、sufi)の 活 動 が見 られ た。 元 朝 に な:るとス ー フ ィー の来 訪 が増 加 し、 ス ー フ ィズ ム 信 徒 も増 加 した 。 元 代 の 法 律 書 『元 典 章 』 に は 「迭 里 威 士 」 の 語 が 見 られ るが 、 これ は ペ ル シ ア語 のdarwishダ ル ウ ィー シ ュあ る い はderwishデ ル ウ ィー シ ュ (文 字 通 りの意 は「貧 窮 者 」)を音 訳 した もの で 、 粗 衣 を ま と い洞 窟 に こ も って 神 秘 主 義 的 な 修 行 を 行 う苦 行 僧 を 指 した 。 こ の言 葉 は 元 代 に ス ー フ ィー の 活 動 が盛 ん で あ った こ と を傍 証 して い る。 これ ら の苦 行 僧 の 多 くは国 外 か らや?て きた も の で 、 当 時 は い ま だ個 人 的 な 活 動 に限 られ 、 組 織 的 な も の で は な く、 門 宦 や 教 派 の 形 成 に は至 ら な か っ た 。 清 朝 康 煕 帝 の 時(1684年)、 台 湾 の 鄭 氏 が清 朝 に帰 順 した の を受 け て、 明 代 ・清 初 の 海 禁 政 策 が 解 かれ た。 そ れ に よ って東 西 交 通 が発 展 す る に つ れ て 、 中 央 ア ジ アや 西 ア ジア か ら大 量 の スー フ ィ ズ ム伝 道 師 が再 び 中 国 西 北 地 区(甘 粛 ・青 海 ・寧 夏)を 訪 れ る よ うに な っ た。 また 、 中 国 の ム ス リ ム学 者 や 宗 教 家 が メ ッカ 巡 礼 に赴 い た りイ ス ラ ム国 家 を遊 学 した りす る 中 で 、 ス ー フ ィー教 徒 や スー フ ィズ ムの 経 典 に触 れ 、 帰 国後 に伝 道 し始 め た 。霊 魂 を浄 化 して神 と の合 一 を 求 め る スー フ ィ ズ ム の 教 義 、 お よ び堅 忍 ・苦 行 ・節 欲 とい っ た 修 練 方 法 は 、 貧 窮 の 中 に あ っ た 中 国 ム ス リム民 衆 に と っ て大 き な吸 引 力 とな った 。 と くに甘 粛 省 の 臨 夏(旧 河 州)や 臨 桃地 区 は元 明 以 来 ム ス リム 人 口が 急 増 して い た が、 ス ー フ ィ ズ ム は こ こで 大 発 展 した 。 門宦 の創 始 者 の 声 望 が 高 ま る に つれ 、 ス ー フ ィ ズ ム信 者 が激 増 し、 有 力 な 教 主 の も とに ます ます 多 くの信 者 が 集 ま り、 こ こに 神 秘 主 義 教 団 の 「門 宦 」が 形 成 され た6そ の 宗 教 的 な 教 え に基 づ い て 、 フー フ ィー ヤ 門 宦 、 カ ー デ ィ リー ヤ 門宦 、 ジ ャ フ リー ヤ門 宦 、 クブ ラ ウ ィー ヤ 門 宦 の「四 大 門 宦 」に分 類 され 、 四 大 門宦 は さ ら に40ほ ど の 支 系 に分 か れ て い る。 〈 ス ー フ ィ ズ ム の修 行 方 法 〉 ス ー フ ィズ ム信 者 の 苦 行 僧 が実 践 す る禁 欲 的 修 行 は そ れ 自体 が 目的 で は な く、 人 問 が 神 に接 近 しそ れ と一 体 化 す る こ とが 目的 で あ る。 そ の た め に 、 ス ー フ ィー は 通 常 の ム ス リム 以 上 に神 の 法 (シ ャ リー ア)と 使 徒 の ス ソ ナ を厳 し く守 る だ け で な く、 様 々 な 禁 欲 ・苦 行 ・節 制 に よ って 、 現 世 す な わ ち神 以 外 の一 切 の もの へ の執 着 を 断 ち切 り、 神 へ の忠 誠 を 維 持 し、 ひ た す ら神 を 求 め 続 け る。 さ らに 、 不 断 の コー ラ ン読 誦 、 礼 拝 、 祈 り(ド ゥア ー)、 瞑 想 、 ジ クル(dhikr、 中 国 語 表 記 は 「斉 克 爾 」 「讃 念 」。 以 下 、 中 国 語 表 記 は(「」)で示 す)① な ど に よ って 常 に神 を 思 念 し、 神 と共 に生 き る よ うに つ とめ る。 そ う した 幾 つ か の 精 神 的 修 練 の 段 階 を経 て 、精 神 を 昇 華 させ 、 最 後 に 無 我 の境 地 を通 して 神 を 認 識 し神 との 融 合 ・合 一 を果 た す こ と が で き る と考 え られ た 。 中 国 で は 、 そ の 修 行 者 の た ど る べ き「道 」(階 梯)を 「道 乗 」、(3)最 (1!「 、(1)初 級 段 階 の「教 乗 」、(2)上 級段 階の 終 段 階 の 「真 乗 」の三 段 階(「 三 乗 」)に 分 類 ・整 頓 した②。 教 乗 」(シ ャ リー アShariah、 「礼 乗 」):六 大 基 本信 仰(六 信)③ を踏 ま え て 、 教 法 の 一 切 の 規 定 を遵 守 し、 法 定 の 五 行 ④ と行 為 規 範 を履 行 し、 や るべ き こ とを実 行 しや って は い け な い こ' ① ジク ル は、「神 は偉 大 な り!」 と か 「神 に栄 光 あ れ!」 と い う言葉 を唱 え て、 神 の 栄 光 を称 え神 を賛 美 す る こ 議誌 継 撫 鶉 慮 工弓拿斐茘欝 謀 簸 灘 艤 靆 あ膿 汐 ミ あり ・聴 」 ② 邱 樹 森 主編r中 国伊 斯 蘭百 科 全 集 』 南 京 、 江蘇 古 籍 出版 社 、1992年 、482頁 の 厂三 乗 」 の項 。 中 国 伊 斯 蘭百 科 纂委 員 会編 『中 国 回族 大 詞 典』 成 都 、 四州 辞 書 出版 社 、1996年 、782-783頁 の 「三 乗 」 の項 。 ③全 六集 信編 とは 、① ア ッラー 、② 天 使 、 ③ 啓 典 、④ 予 言 者 、 ⑤ 来 世(ア ー ヒ ラ)、⑥ 予定(カ ダル)を 信 じ る こと で あ る。 ④ 五 行 とは、① 信仰 告 白(シ ャハ ー ダ)、② 礼 拝 、③ 喜 捨(ザ カ ー ト)、④ 断食 、⑤ 巡 礼 を行 う ことで あ る。 一132一 とを や め 、 「身 を修 め 精 神 を養 い 」、「神 へ の 絶 対 的 信 頼 」と い う段 階 に達 す る。 (2)「 道 乗 」(タ リー カTariqah、 「道 程 」):こ う した倫 理 的 な面 で 準 備 が で き た後 、 導 師 の 指 導 を 受 け な が ら、 一 切 の雑 念 を 捨 て去 り、 ひ た す ら神 の 名 を 唱 え て 、 思 念 を神 に 集 中 す る段 階 に 進 む 。 そ こ で は 、 礼 拝 ・断食 ・静 坐 ・ジ クル な ど の 苦 行 を 日夜 行 う こ と に よ っ て 、 現 世 か ら離 脱 し、欲 望 を断 ち切 り、 霊 魂 を 清 め て 、 神 を認 識 し神 に 近 づ く よ うつ と め る。 こ う して 波 一 つ 立 た な い 水 面 の よ うに 心 を無 に して 、 神 の 恩 寵(カ ラー マkarama、 イ ス ラ ム 教 の「奇 跡 」)をひ た す ら 待 つ の で あ る。 (3)「 真 乗 」(ハ キ ー カHaqiqah、 「理 乗 」 「至 道 」):「 明心 尽 性 」を通 して 、 や が て 神 が 心 の全 体 を満 た す よ うに な り、 自己 を 全 く意 識 しな い忘 我 の 状 態 に入 る。 そ れ は フ ァナ ー(消 滅)と 呼 ば れ る神 秘 的 合 一 体 験 で あ る。 そ れ は神 そ の も の と の一 種 の ふれ あい の経 験 で あ り、 ス ー フ ィー に と って は 無 上 の 歓 喜 で あ り、 また 全 く新 し い世 界 の 開 示 で あ る。 そ の 状 態 は 長 く続 か な い が 、 「愛 す る もの」(神)へ の愛 と苦 悩 に と りつ か れ て、 再 会 を 熱 望 す る。 こ う した フ ァナ ー の繰 り返 し に よ って 、 神 へ の 愛 が 深 め られ 、 神 との親 しさ が増 す。 い まや 、 ス ー フ ィー は 何 を考 え何 を して も、 自己 と神 との 間 で 意 志 の 上 で の不 一 致 は な くな る。 「真 乗 」 段 階 に達 した もの が「聖 者 」(ワ リーwali)で あ る。 聖 者 は 、 た ん に 現 世 の 欲 望 か ら解 放 され た求 道 者 で あ る と い うに と ど ま らず 、 神 か らカ ラー マ(奇 跡)と い う特 別 の 恩 寵 を与 え ら れ 、 神 に作 用 を 及 ぼ し うる人 と され る。 そ う した 存 在 と して 、 聖 者 は 民 衆 の願 望 を 神 に取 り次 ぎ、 代 願 す る こ とが で き る と考 え られ た 。 こ う した 考 え が聖 者 崇 拝 や 聖 墓 崇 拝 を 生 む こ と と な り、 中 国 に お け る 門 宦 の形 成 を促 した。 ス ー フ ィ ズ ム は神 の 法(シ ャ リー ア)の 形 式 主 義 化 に対 す る批 判 で あ り、 神 学 的 思 弁 に よ る神 の 非 人 格 化 に 対 す る反 動 で あ った 。 過 度 の形 式 主 義 化 に対 して は行 為 の 動 機 を重 視 し、 神 の非 人 格 化 に対 して は「人 と神 の 一 体 性 」を 強 調 し、「人 と神 は 相 通 じ る こ と が で き る」と主 張 した。 初 期 の ス ー フ ィー は 組 織 に と ら わ れ ず 、 個 人 の 苦行 を重 ん じ る と こ ろ か ら、 時 に は しば しば主 流 派 と衝 突 し、 反 体 制 的 とな った 。 中 国 の 門 宦 も しば しば反 体 制 的 な行 動 を と る こ とが 多 か っ た。 と くに ジ ャ フ リー ヤ 門宦 に よ る 一 連 の 反 清 蜂 起 に つ い て は、 張 承 志 氏 の 著 作 が 明 ら か に して い る①。 今 日の世 界 に お い て も、 イ ス ラム 原 理 主 義 の武 装 活 動 に み られ る よ うに、 イ ス ラム 教 は しば しば 反 体 制 運 動 と結 び つ け て み られ が ち で あ る。 しか し、世 界 の イ ス ラム 教 の 現 実 は む しろ現 状 ・現 世 を肯 定 し権 力 の保 護 を求 め て しば しば 時 の政 権 に接 近 を試 み る体 制 的 な教 派 と信 徒 が 大 多 数 で あ る。 ジ ャ フ リー ヤ 門宦 は 中 国 イ ス ラ ム教 史 の 中 で 興 味 深 い 存 在 で は あ る が 、 中 国 イ ス ラ ム の 中 で は や は り少 数 派 で あ る。 む しろ殉 教 の 名 の下 に体 制 と反 目す る の で は な く、 そ の 時 点 の 体 制 の 中 で 信 仰 を保 持 しつ つ 漢 人 と共 存 し生 存 を は か って き た 、 い わ ゆ る体 制 派 の イ ス ラ ム教 徒 の 方 が圧 倒 的 な多 数 派 な の で あ る。 現 在 の 中 華 人 民 共 和 国 に お い て 、 中 国 ム ス リム で あ る回 族 は 中 国 共 産 党 の 支 配 の 中 で 確 固 た る地 位 を 占 め て さ え い る。 本 稿 は 、 反 体 制 的 な 色 彩 の強 い ス ー フ ィズ ムの 門 宦 で は な く、 多数 派 の イ ス ラム 教 各 教 派 の 形 成 の歴 史 とそ の 教 義 や儀 礼 の特 色 を 解 明 しよ う と す る もの で あ る の で 、 四 大 門宦 お よび そ の支 系 門 宦 の教 義 的 相 違 な どに つ い て は 深 入 り しな い。 〈門宦 制度 の特 色〉 門 宦 制 度 は 中 国 イ ス ラ ム教 独 特 の も の で 、 今 日で は「一 種 の 教 主 兼 地 主 の 封 建 的 制 度 」で あ る と ① 張 承 志著(梅 村 坦 訳)r殉 教 の 中 国 イ ス ラム:神 秘 主義 教 団 ジャ フ リー ヤ の歴 史 』亜 紀 書 房 、1993年 。 一133一 批 判 的 に総 括 さ れ る①。 「門 宦 制 度 」とい う表 現 に は す で に そ う した意 味 が 込 め られ て い る。 門宦 創 始 者 の多 くは苦 行 者 で 、 自身 は 教 権 の 争 奪 や 財 富 の 蓄 積 とい う世 俗 思 想 は持 っ て い な か った が 、 そ の 地 位 が 継 承 さ れ る に つ れ 、 宗 教 権 力 を使 っ て 世 俗 の 権 勢 を 追:求す る よ うに な り、 広 大 な土 地 や 多 くの 家 畜 を所 有 し教 徒 に無 償 労 役 させ る「教 主 兼 地 主 」の性 格 が だ ん だ ん と強 ま って い っ た 。 門 宦 の 最 大 の 特 色 は 、 「道 祖 」とか 「老 人 家 」(旦那 さ ま)と か 呼 ば れ る教 主 の 地 位 が世 襲 され る こ と で あ る。 賢 者 継 承 制(伝 賢 制)を 唱 え る門 宦 もあ るが 、 実 際 に 教 主 の 地 位 を 継 承 した 者 の 多 くは そ の 親 族 か ら出 て い る 。 門 宦 で は 教 主 が 最 高 領 袖 で あ り、 信 者 は 教 主 を「ア ッ ラー へ と導 く人 」と み な して尊 崇 し、 教 主 の 命 令(「口喚 」)には絶 対 服 従 で あ る。 教 主 は 神 性 を 有 し、 読 心 術 ・透 視 ・ 水 上 歩 行 な ど と い った 神 の 奇 跡(カ ラ ー マ)を 示 す こ と が で き る と され る。 初 期 の ス ー フ ィ ー は個 人 的 な宗 教 行 為 と して修 行 を行 って い た が、 や が て 修 道 場 で集 団 的 生 活 を送 る こ と を 重 視 す る よ うに な った 。 そ れ は 、 神 と の合 一 とい う究 極 の 目標 に達 す る に は 個 人 的 な 努 力 の み に よ って は 不 可 能 で あ る と考 え られ る よ うに な った か らで あ る。 ま た 、 そ れ ゆ え師 に よ る導 き が不 可 欠 と も考 え られ た 。 門 宦 の 教 主 は そ う した 存 在 で あ っ た 。 教 権 を 引 き継 ぐた め に は 、 教 主 自 身 も「道 乗 」 (タ リー カ)の 修 行 を成 就 しな け れ ば な ら な か っ た 。 教 権 組 織 の 面 で は、 各 門 宦 は そ れ まで の緩 や か な 教 坊 制 を打 破 し、 教 主 集 権 制 と で もい うべ き 拡 大 教 坊 制 を と っ て い る。 そ れ は 、 教 主 が多 くの 教 坊(ム ス リム共 同体)・=清 真 寺 を管 轄 し、 教 長 (ア ホ ソ)を 直 接 任 命 す る も ので 、各 清 真 寺 が独 立 して い る の で は な く隷 属 関 係 に置 か れ て い る と い うの が 門宦 制 度 の一 つ の 特 徴 で あ る。 教 主 が 、 若 干 の 教 坊(寺 坊)か らな る教 区 の代 理 人 と して ラ イ ー ス(「熱 依 斯 」、 ア ラ ビア 語Rayisの 音 訳 、 「長 」 「領 袖 」 「頭 目」 の 意)を 中 心 清 真 寺 の 教 長 に 任 命 して 各 教 区 を管 轄 させ 、 そ の管 轄 下 に あ る各 坊 の 清 真 寺 に は そ れ ぞ れ 別 の 教 長 を 指 名 ・派 遣 した。 門 宦 以 外 の 教 派 で は 、 各 坊 は隷 属 関 係 に な く、 そ れ ぞ れ が 独 立 して運 営 ・維 持 され て い る の で 、 こ う した 教 主 を頂 点 と した集 権 的 な教 権 組 織 は 門 宦 の組 織 的 特 色 で あ る。 信 仰 面 で の特 色 は、 当然 の こ とな が ら神 秘 主 義 と禁 欲 主 義 の色 彩 が 強 く、信 仰 上 の「奇 跡 」や 宗 教 上 の 「巫 術 」を 信 じて い る。 ム ス リム の 基 本 的 宗 教 行 為 と され る五 行 や そ の他 の 宗 教 儀 礼 を あ ま り重 視 せ ず 、 宗 教 義 務 と して 「副 功 」(「 付 功 」、実 践 して も よ い が 通 常 は や らな くて も よ い と され て い る宗 教 行 為)を 重 視 して い る。 信 仰 心 が 篤 くな け れ ば 礼 拝 して も無 益 で あ る と主 張 し、1日 5回 の 礼 拝 や 金 曜 日の 礼 拝 さ え もそ れ ほ ど重 視 しな い 。 「腰 が 折 れ る ほ ど お辞 儀 を し、 足 が 折 れ かた り る ほ ど跪 い て も 、 そ れ は 良 心 の な い 騙 の 徒 だ 」と、 旧 来 の 中 国 イ ス ラム 教 の形 式 主 義 化 を批 判 す る。 そ れ ど ころ か 、 教 主 が 教 徒 の 信 仰 心 が 篤 い こ とを 認 め さ えす れ ば 「天 国」 に 行 け る と説 き、 日常 の 礼 拝 の意 味 を無 視 す る。 来 世 に 「天 国 」 に昇 る た め に は、 現 世 を 棄 て 貧 苦 に耐 え 苦 しい 修 業 を行 な う こ とを 主 張 す る。 信 者 は ア ッラ ー 信 仰 や 聖 人 崇 拝 以 外 に 、「聖 妻 」 「聖 女 」や 教 派(門 宦)の 宗 教 首 領 を 崇 拝 す る。 教 主 に拝 謁 す れ ば ア ッラ ー に 近 寄 る こ とに な る と考 え る。 そ れ は、 教 主 は ア ッ ラー の現 世 に お け る代 理 人 、 ア ッ ラ ー の 化 身 で あ る と され て い る か らで あ る。 と くに 各 門 宦 の 創 始 者 を「老 人 家 」 (旦 那 さ ま)と か 「シ ャイ フ」(長老 、 ア ラ ビ ア語Shaykh「 謝 赫 」)と して 尊 崇 し、 教 主 とそ の墳 墓 で あ る「ゴ ソバ イ」(「 拱 北 」)を崇拝 し、 中 に は 教 主 へ の拝 謁 や ゴ ソ バ イ 参拝 を も って五 行 の第 五 で あ る メ ッカ巡 礼 に代 え る こ と が で き る と主 張 す る門 宙 も あ る。 門 宦 の創 始 者 や名 望 の あ っ た教 主 及 び そ の 家 族 の忌 日に は 毎 年 ゴ ソバ イ を参 拝 し コー ラ ソ を読 誦 す る な ど の記 念 活動 を行 な って い る。 教 徒 は 教 主 に 跪 拝 し、 ゴ ソバ イ に 赴 い て読 経 し、 そ こで 銭 を 撒 くと い う行 為 さえ もが 宗 教 行 為 と ① 王 懐 徳 著r伊 斯 蘭 教 教派 』 北 京 、 中 国社 会 科学 出版社 、1994年 、92頁 。 一134一 して 正 統 化 され て い る。 宗 教 行 為 の 面 で は、 門宦 は スー フ ィズ ムの系 統 と して 「教 乗 」の ほ か に「道 乗 」の修 行 を 重 視 す る。 「道 乗 」の修 行 と は 、 神 秘 主 義 的 な祈 薦 や神 を 讃 え る ジ ク ル の 無 限 の 繰 り返 し、「座 静 」(座 禅)① や「参 悟」(瞑想 を通 じて ア ッ ラー に接 近 す る こと)②の勤 行 を行 な う こ とで あ る。 な か に は頭 を振 っ た り飛 び跳 ね た りと い った よ うに 、非 常 に 狂 熱 的 に な る もの も あ る。 こ う した修 行 の や り方 を 見 れ ば 、 中 国 スー フ ィズ ム の 修 行 の理 論(「三乗 」)が禅 宗 や イ ソ ド ・ヨガ の 影 響 を受 け た こ と が容 易 に理 解 で き よ う③。 カー デ ィ リー ヤ 門 宦 の よ うに 、 「教 乗 」を軽 ん じ「道 乗 」の み を 重 ん じ る宗 派 もあ る。 彼 らは 「教 門 」を 作 らな くと も 、 直 接 に 「道 」を行 うな ら「神 を認 め 神 に近 づ く」こ とが で き る と主 張 す る。 そ して 、 経 典 は 後 世 の 人 の 書 い た もの で あ るか ら と して 、 コー ラ ソ を含 む イ ス ラ ム の各 経 典 を遵 守 す る こ と に反 対 し、 「無 文 字 の真 経 歌 」を 黙読 す る よ う提 唱 す る。 また 、 通 常 の五 行 に も反 対 す る。 そ れ は 、 宗 教 上 のi義務 は世 俗 的 な もの で 、 そ れ を遵 守 して も神 に は近 づ け な い と考 え る か らで あ る。 唯 一 の方 法 は出 家 して 道 を修 め る こ との み で あ る と、 道 教 と全 く同 じよ うな主 張 を す る。 す な わ ち、 夫 婦 の 愛 情 を絶 ち、 家 庭 の 睦 合 を捨 て 、 現 実 の 生 活 か ら離 脱 し、 苦 しい修 練 を 積 む こ と に よ って 、 悟 りを開 い て 、 「根 源 に立 ち返 り、 これ に 帰 す る」こ と が で き るの で 、 ア ッ ラー に近 づ き「天 国 」の幸 福 を享 受 す る こ と が で き る と考 え る の で あ る。 カ ー デ ィ リー ヤ大 拱 北 門宦 な ど は 中 国 古 代 思 想 家 ・荘 子 の直 接 的 な影 響 を深 く受 け て い る こ と が指 摘 さ れ る④。 この よ うに 、 門 宦 に は 禅 宗 や 道 教 の修 行 方 法 や 中 国 の 哲 学 思 想 が そ の ま ま取 り入 れ られ て い る こ とが 多 い◎ そ の ほ か 、 各 門 宦 の信 仰 や儀 礼 の中 に も、 様 々 な程 度 に 中 国 の 伝 統 的 な宗 教 観 や 中 国 各 地 方 固有 の習 俗 が 色 濃 く浸 透 して い る。 た と え ば 、 各 門宦 の教 徒 は コー ラ ソ読 経 の 際 、 仏 教 と同 じ よ うに常 に香 を た き な が ら読 経 して い た。 中 に は聖 な る神 の 言 語 と され るア ラ ビア語 で コー ラ ソ を読 む こ と に反 対 し、 教 主 とそ の 道祖 の 読 み 方 に な ら って 読 経 す る よ う主 張 す る 門宦 も あ っ た 。 礼 拝 は夜:更け、 静 か にな っ た 頃 に 香 をた き、 長 い 間 跪 き、 黙 薦 す る こ と が最 良 と さ れ る。 そ れ が 「天 国 」に 入 る近 道 と考 え る か らで あ る。 第 二節 カ デ ィー ム 派=中 国 ム ス リ厶 最 大 教 派 明 末 清 初 の 時 期 は 、 門 宦 の 登 場 や カデ ィー ム派 の形 成 に 見 られ る よ うに、 イ ス ラ ム教 に 改 革 が 求 め られ た 最 初 の大 変 革 期 で あ った 。 そ の 背 景 と して は 次 の3点 が指 摘 され る。 第 一 に 、 明 代 は 中 国 至 上 主 義 の 国粋 的 な時 代 で あ り、 そ れ ゆ え 中 国 ム ス リム に と っ て は 苦 難 の 時 代 で あ った 。 が、 同 時 に一 方 で は 、 ム ス リム の凝 集 力 が 強 ま り、 回 民 共 同体 が形 成 され 発 展 し て い っ た時 代 で もあ っ た 。 そ う した 中 で 、 ム ス リム 民 衆 は イ ス ラ ム 教 の 衰 退 に危 機 感 を持 ち、 何 と か 打 開 を 図 ろ うと して い た 。16世 紀 後 半 に胡 登 洲(1522-1597、 陝 西 省 威 陽 県 出 身)が 陝 西 で 宗 教 教 育 を 提 倡 し人 材 の育 成 を 図 る な ど、 中 国 の 清 真 寺 で ア ラ ビ ア語 とイ ス ラ ム経 典 を講 ず る経 堂 教 ① 「座 静 」 と は 、神 を愛 し神 に近 づ くと い う 目的 に 達 す るた め に 、27日 間(時 に は40日 間)連 続 して 修 道 場 (「道 堂 ・静修 室 」)に 籠 も って、 飲 食 や睡 眠 を少 な くし、 目を 閉 じて座 禅 す るな どのや り:方で 心 を清 め 、 ひ た す ら主 を讃 え る ジ クル を唱 え続 け る こ とで あ る。 ② 厂参 悟 」 は と くに カ ー デ ィ リー ヤ 派 に おい て重 視 され 、「一 時 の参 悟 は千 年 の 修行 に勝 る」 と考 え られ て い る (『中 国 伊 斯 蘭百 科 全集 』107頁 の 「参 悟」 の 項)。 ③r中 国 回族 大詞 典 』783頁 の 「 三 乗 」 の 項。 ④ 馮 今 源 著r中 国的 伊斯 蘭 教 』 銀川 、寧 夏人 民 出版 社 、1991年 、81頁 。 一135一 育 が 開 始 され た の も、 そ う した試 み の 一 つ で あ っ た①。 これ は 、 中 国 の伝 統 的 な 私 塾 教 育 を イ ス ラム 教 の 中 に取 り入 れ た 、 寺 子 屋 的 な もの で あ る。 経 堂 教 育 は今 日 も維 持 さ れ て お り、 中 国 に お け るイ ス ラ ム教 の維 持 ・発 展 に 大 き く貢 献 して い る。 ま た 、 教 派 が 登 場 す る と、 経 堂 教 育 の 場 で どの 宗 派 ・学 派 の教 え に 従 って 講 義 す るの か が 問 わ れ る こ と に な っ た。 第 二 に 、 明 末 清 初 以 後 、 海 禁 政 策 の解 除 に伴 い 、 西 方 か らイ ス ラ ム書 籍 が輸 入 され 始 め 、 儒 学 の 知 識 を持 つ イ ス ラム教 学 者(「経 師 」 「経 学 大 師 」、 「回 儒 」と呼 ば れ た)が これ らの書 籍 を研 究 し、 江 南 な どで い わ ゆ る「以 儒 詮 経 」(儒学 で も って イ ス ラ ム教 を 解 釈 す る)の 活 動 が活 発 化 した こ とで あ る。 そ の 代 表 的 な 人物 に は、 王 岱 輿(1584?一1670、 南 京)、 劉 智(劉 介 廉 、1655?一1745、南 京)、 馬 徳 新(1794-1874、 雲 南 省)ら が い る。 回儒 の 著作 は イ ス ラ ム の教 学 、 ア ッラー 、 ムハ ソマ ドの 神 学 、 五 行 、 二 大 祭 典 、冠 婚 葬 祭 の教 律 な どに つ い て 儒 仏 道 の 用 語 を 用 い て解 説 した もの で 、 時 と して 儒 学 者 に 匹 敵 す る文 体 と 内容 を持 った 高 度 の 宗 教 書 で あ っ た。 そ れ らは イ ス ラム の 弁 護 論 、 護 教 論 の 立 場 か ら書 か れ て お り、 イ ス ラム が 決 して 危 険 な もの で な い こ とを 漢 人 知識 人 に理 解 さ せ る こ と が主 目的 で あ った 。 そ れ は イ ス ラ ム教 が 宗 教 的 に 哲 学 的 に 中 国 に土 着 化 しよ うと した 試 み で あ っ た②。 そ の 結 果 と して 、 経 堂 教 育 の 場 に お い て イ ス ラ ム 用 語 の 中 国 語 化 も進 行 し、 い わ ゆ る 「経 堂 語 」が 形 成 され た 。 第 三 に、 上 述 した スー フ ィズ ム の影 響 を 受 けて 、 これ ま で の 中 国 イ ス ラム 教 の あ り方 を批 判 す る独 自の 教 派 と して 門 宦 が形 成 され た た め 、 既 存 の ハ ナ フ ィー 派 の学 説 を奉 じ伝 統 を尊 重 し よ う と した ム ス リム た ち は 、 何 らか の対 応 をす る必 要 に迫 られ た。 清 代 に ス ー フ ィ ズ ムの 門宦 が「新 派 」と か 「新 教 」と称 せ られ た の に 対 して 、 スー フ ィ ズ ム の 教 義 を信 奉 せ ず そ れ ま で の イ ス ラム教 の 教 義 と儀 礼 を保 持 し従 来 の 宗 教 制 度 を維 持 しよ う と した 多 数 派 の ム ス リム た ち は「旧 派 」 「旧教 」と 呼 ば れ た 。 自 ら は 「古 い 」 「古 老 」を指 す ア ラ ビ ア 語Qadim の 音 訳 で あ る「格 底 目」(「 格 的 木 」)(カ デ ィー ム 派)を 自称 す る よ うに な った 。 ま た 、 「老 教 」 「古 行 」 「遵 古 教 」と も呼 ば れ る。 イ ス ラ ム教 が 中 国 に伝 え られ て 以 後 次 第 に 形 成 され て ぎた 宗 教 制 度 を保 持 して い る 中 国 で 最 も古 い教 派 で あ る。 ま た 、 今 日に お い て も中 国 イ ス ラ ム教 で 、 と くに 中 国 内地 で は 最 大 の 教 派 で あ る。 も と も と この 教 派 に は 特 定 の 名 称 が な か った 。 中 国 で は イ ス ラ ム. 教 の教 派 が 分 化 す る こ と が長 期 間 な か っ た の で 、特 定 の 名 称 が 必 要 な か った の で あ る。 こ れ が 中 国 イ ス ラ ム教 史 の 最 初 の 教 派 分 化 の 歴 史 で あ っ た。 〈カデ ィーム派の教義 〉 カ デ ィー ム派 は ス ソ ニ ー派 に属 し、 四大 法 学 派 の 中 で は ハ ナ フ ィー 法 学 派 を奉 じ る も の と通 常 され て い る 。 が 、 カ デ ィ「 ム 派 が実 際 に遵 守 して い るの は 「四 大 サ ハ ー バ 」(「 索 哈 白」、 ム ハ ソマ ドの教 友)の 「イ ジ ュ マ ー(合 意)」(「 依 知 麻 児 」)以前 の 教 義 で あ っ た③。 の ち に、 中 国 の ム ス リム た ち も大 イ マ ー ム の ハ ナ フ ィー を尊 重 す る よ うに な っ た の で あ る 。 これ が 中 国 に最 も早 く伝 え ら れ た学 説 で あ っ た 。 イ ジ ュマ ー と は、 イ ス ラ ム法 の 法 源 の 第3の 「合 意 」の ことで 、 そ れ は 言 葉 か 行 為 か或 い は合 意 と見 な され る沈 黙 の い ず れ か に よ って 表 明 さ れ 、 理 論 的 に は イ ス ラ ム教 徒 全 体 の 合 意 で あ る が 、 実 際 に は そ れ ぞ れ の時 代 の代 表 的 ウ ラマ ー の 合 意 で あ り、 そ の意 味 で ス ソニ ー ① 経 堂 教 育 は胡 登 洲似 後 、 彼 の弟 子 た ち に よ っ て各 地 に伝 え られ 、 活 発 に な った 。著 名 な もの に は、 山 東 の 常 志 美(1610-1670)、 陝西 の周 良隻 、雲 南 の馬 徳 新 、河 南 の張 万 東 ・楊 泰恒 。楊 泰 貞 な どが い る(『 中国 伊 斯 蘭 百 科 全 集 』223-224頁 の 厂胡 登 洲」 の項)。 ② 回儒 の 著作 の 内容 には 中国 思想 の混 入 な い し習 合 は な く、 あ くまで もイ ス ラ ムの教 義 と哲 学 を 主張 してい る と み る見 解 もあ る(佐 口透 「中 国地 域 へ の イ ス ラム の進 出 と拡 大 」 『月 刊 しに か』第3巻 第7号 、1992年7月 、 17頁)。 ③ 馬 通 著r中 国伊 斯 蘭教 派 与 門宦 制 度 史略 』 銀 川 、 寧 夏 人民 出 版 社 、1995年 、71頁 。 一136一 派 とい う概 念 は そ の よ うな 合 意 を 根 拠 と して い る。 こ れ に 対 して 、 シー ア派 で は イ ジ ュ マ ー そ の もの を 認 め ず 、近 代 の ワ ッハ ー ブ派 は サ ハ ー バ の イ ジ ュ マ ー だ け しか 認 め て い な い の で あ る①。 カ デ ィー ム派 が サ ハ ー バ の イ ジ ュマ ー 以 前 の 教 義 を 遵 守 して い る とい う こ とは 、 中 国 の イ ス ラ ム 教 が シー ア派 的 要 素 を か な り受 容 して い る こ と を示 して い る。 カ デ ィー ム派 の教 義 は き わ め て伝 統 的 な もの で 、 と りわ け 「神 を認 め 預 言 者 に従 う」を 基 本 と し て 、・六 信 五 行 を厳 格 に 履 行 す る こ とを 重 視 し、 ス ー フ ィズ ム で 重 じ られ る「坐 静 」や 「参 悟 」の 修 行 は 「副 功 」(やる こ と は よ い こ とで あ る が 、別 にや ら な くて も よ い行 為)と み な し、 重 視 しな い 。 正 統 的 な宗 派 で は、 ア ッラー が命 じた天 命 、 教 法 が 規 定 して い る典 礼 、 ム ハ ソマ ドが 行 な った と さ れ て い る聖 行 の3つ の 宗 教 義 務 を履 行 しない で 、 「副 功 」の み を 単 独 で 行 な う こ とは 、 教 律 に 違 反 す る「異 端 」と見 な され て い る②。 した が って 、 神 の啓 示 に照 ら し合 わせ た「人 間 の 正 しい 生 き方 」 の 具 体 的 表 現 と され る シ ャ リー ア(「舎 若 阿 提 」)をき わ め て 重 視 す る。 シ ャ リー ア は 個 々 の ム ス リ ム の 宗 教 的 生 活 を規 定 す るの み で な く、現 世 の世 俗 的 生活 を も具 体 的 に規 制 す るの で あ る。 そ れ ゆ え に、 カ デ ィ ー ム派 で は 、 長 期 間 に 中 国 の 風 土 の 中 で形 成 され維 持 され て きた宗 教 的 な 礼 俗 や 儀 礼 の枝 葉 末 節 に非 常 に こだ わ る こと が 多 い 。 イ ス ラ ム教 の根 本 聖 典 で あ る コー ラ ソ(「古 蘭 経 」)は正 し くは クル ア ー ソ とい わ れ る。 「クル ア ー ソ」とは 「読 誦 され る もの」の 意 で あ り、 コ ー ラ ソ は 本 来 朗 々 と声 を出 して 誦 す る もの で あ る。 宗 教 音 楽 も イ コ ソ も認 め な い イ ス ラ ム教 で は 、 こ の ア ラ ビア 語 の コー ラ ソ読 誦 が もつ 、 人 間 業 を 超 え た 詩 的 韻 律 美 と音 楽 的 朗 誦 美 が宗 教 的 芸 術 の 域 に ま で 高 め られ た③。 コー ラ ソ読 誦 の 国 際 大 会 も開 か れ て い る。 コー ラ ソの 読 誦 方 法 も、 宗 派 や 教 派 に よ って 異 な る。 た と えば 、 フー フ ィー ヤ 門 宦 は 「低 念 派 」とい う別 称 の よ うに、 経 典 や す べ て の祈 薦 詞 を低 い声 で読 誦 す る こ とが 最 も貴 い と主 張 す る。 「フ ー フ ィー ヤ」とい う呼 称 は ア ラ ビ ア語 「ホ フ ァ」の訛 音 に 由 来 す る が 、 そ れ は 元 来 「深 く納 め る」 「低 い 」と い う意 味 で あ る。 こ れ に 対 して 、 ジ ャ フ リー ヤ 門 宦 は 「高 く読 誦 す る」 「高 念 派 」で 、 ア ラ ビ ア語 「ジ ャ フ リー」(「 公 開 」の 意)に 由来 す る。 そ う した 中 で 、 カ デ ィー ム派 で は 、 中 国 語 の 音 位 を 採 用 した コー ラ ソの 俵 統 的 な読 誦 法 を維 持 して い る。 地 方 に よ って は 方 言 の 音 位 や 古 文 の 語 調 で 読 誦 して い る④。 また 、 『コ ー ラ ソ』114章 の う ち第112章 「忠 誠 章 」を と くに 高 貴 と考 え、 この 章 を読 誦 す る時 は続 け て3回 読 誦 す る。 ム ス リム は 出 発 の 時 や 祈 願 を 行 う際 に は 「ド ゥ ア ー」(dua、 「都 阿」 「都 哇 」)を行 な うが 、 そ の 際 は2回 手 を捧 げ 持 ち、 食 後 の祈 りも両 手 を 挙 げ る こ と と して い る。 毎 年 の 断 食 月 の 日時 は 実 際 の 月 の 満 ち欠 け を見 て 決 め 、 一 日5回 の礼 拝 の第4回 目の 礼 拝 「シ ャ ム」(昏礼)の 後 に断 食(「開 斎 」) を 行 う こ と を主 張 して い る(そ れ 故 「後 開 派 」と い う呼 称 もあ る)。 18世 紀 に ス ー フ ィ ズ ム の活 動 が 中 国 で 活 発 化 して 、 一 部 の教 民 が ス ー フ ィズ ム 系 の 門宦 に 参 加 し、 カ デ ィー ム派 が 大 打 撃 を受 け た 時 も、 そ して19世 紀 末 か ら20世 紀 初 め に か け て イ フ ワー ニ ー 派 や 西 道 堂 が 新 た に 登 場 し、 再 び一 部 の 教 民 が 分 化 し、 カ デ ィー ム派 の信 徒 数 とそ の 地 位 が 急 激 に 下 降 して い っ た 時 も、 他 教 派 の宗 教 的 主 張 に 対 して 妨 害 す る こ とは 少 な か っ た 。 そ う した 寛 容 的 性 格 ゆ え に 、 依 然 と して 中 国 イ ス ラム 教 の 最 大 多数 派 を 維 持 して い る。 ① 日本 イ ス ラ ム協 会 監 修rイ ス ラム事 典 』平 凡 社 、1982年 、80頁 。 ② 周 文 柏 主 編r中 国礼 儀 大辞 典 』 北京 、 中 国人 民大 学 出 版 社、1992年 、567頁 の 「副 功」 の項 。 ③rイ ス ラム 事 典』117頁 の 厂コーラ ソ」 の項 。 ④ 馮 今 源 著r中 国的 伊 斯 蘭教 』83頁 。 一137一 〈 カ デ ィー ム派 の 教 権 組 織 〉 カ デ ィー ム 派 の 教 権 組 織 は「単 一 教 坊 制 」(一つ の教 坊=・一 つ の 清 真 寺)で あ る。 つ ま り、 近 隣 の ム ス リム が一 つ の 教 坊 を構 成 し、 原 則 と して そ の 中 心 に 一 つ の 清 真 寺 を も ち 、 ム ス リ ム共 同体 の 政 治 ・経 済 ・文 化 活 動 の 中 心 と して 機 能 して い た 。 清 真 寺 相 互 の 関係 は、 隷 属 関 係 に な く、 通 常 は そ れ ぞ れ が 自立 して 運 営 され て い る。 が 、 あ る地 域 で は 、 一 つ の 大 清 真 寺 の 下 に い くつ か の 小 清 真 寺 が帰 属 す る「ハ イ イ教 坊 制 」(「 海 乙 寺 」MasjidHayy、 あ る い は ア ラ ビア 語Hanyiの 音 訳 「漢 依 」、 大 清 真 寺 の 呼称)が 実 行 され て い る①。 教 坊 は唐 宋 時 代 の蕃 坊(外 国 人地 区)が 発 展 して き た もの で あ り、 歴 史 と伝 統 を有 して い る。 教 坊(清 真 寺)管 理 の面 で は 、 職 務 を分 担 す る三 掌 教 制 と 教 長(ア ホ ソ)招 聘 制 、 お よ び郷 老 管 理 制 が 採 用 され て い た。 三 掌 教 の 名 称 は時 代 と地 域 に よ っ て 異 な る が 、 通 常 イ マ ー ム(1mam「 伊 瑪 目」、 「教 長 」 「領 袖 」 「掌 教 」の意)、 ハ テ ィー ブ(Khatib、Hatuib「 海 推 布 」、 「宣 講 者 」 「演 説 者 」の意)、 ム ア ッ ジ ソ(Mu'azzin「 穆 安 津 」、「宣 礼 人 」の 意)に 分 け られ て い る。 の ち に そ れ ぞ れ 開 学 ア ホ ソ 、 ニ ア ホ ソ、 マ ジ ソ(「瑪 金 」)の名 称 が 使 用 され る よ うに な った 。 明 清 期 に は 、 ム フ テ ィー(mufti 「穆 夫 提 」)とい う教 法 説 明 官 を 設 け て い る大 き な モ ス ク もあ っ た。 イ マ ー ムは 中 国 で は 宗 教 事 務 ・宗 教 儀式 を 主 宰 す る「掌 教 」で あ っ た が 、 多 くの場 合 は集 団 礼 拝 の 時 に祈 りを主 導 す る アホ ソ(「阿旬 」「阿 衡 」)を指 して い た。 小 清 真 寺 で は多 くは イマ ー ム が ハ テ ィー ブの 職 を兼 任 して い た 。 清 真寺 の最 高 宗 教者 で あ る ア ホ ソ(教 長)は 招聘 制 が と られ 、 任 期 も決 ま っ て い る。 通 常3年 任期 の も の が 多 い が 、 連 続 して就 任 す る こ と も で き る し、 期 限 前 に 辞 任 させ る こ と もで き る。 清 真 寺 の 維 持 ・管理 、 宗 教 負 担 金 ・寄 進 財 産(ワ ク フ)の 収 受 や 支 出 出 納 な ど の財 産 管 理 、 ア ホ ソ の選 定 ・招 聘 、経 堂 教 育 の運 営 、 送 葬 事 務 ・祝 祭 日 の実 施 と い っ た各 宗 教 活 動 の 準 備 な ど清 真 寺 の実 際 の 運 営 は 、「学 董 」(「 学 東 」 「社 頭 」)と3∼5名 の 「郷 老 」(あるい は 彼 らか ら成 る清 真 寺 董 事 会)に よ っ て行 わ れ て い る。 学 董(社 頭)は 普 通 、 経 済 力 と声 望 の あ る上 層 ム ス リム が 担 任 し、 郷 老 は 付 近 の ム ス リム民 衆 に よ って 公 選 され る。 郷 老 の選 出 は 、 前 任 者 な ど が推 薦 し、断 食 月 明 け の集 団 礼 拝 の 際 に ア ホ ソが名 簿 を 提 案 し、 本 教 坊 の 教 衆 に 異 議 が な け れ ば 当選 と な る。 現 在 も 同様 の 方 式 が 実 施 され 、 挙 手 に よ る意 思 表 示 が な され る と現 地 の モ ス クで 聞 い た(1999年9月)。 聖 職 者(ア ホ ソ)が モ ス クを管 理 す るの で は な く、 ム ス リム民 衆 の代 表 者 に よ って 管 理 ・運 営 され て い る体 制 は 、 今 日 に お い て も「清 真 寺 民 主 管 理 委 員 会 」とい う制 度 と して 維 持 され て い る。 学 董 (社 頭)は 今 日の管 理 委 員 会 主 任 に 、 郷 老 は 管 理 委 員 会 委 員 に 相 当 す る◎ カ デ ィー ム派 の 教 坊 制 は経 堂 教 育 を普 及 さ せ て い く上 で 最 良 の組 織 形 態 で あ った の で 、 一 般 に カ デ ィー ム派 の教 坊 制 を採 用 して い る地 域 で は 、 経 堂 教 育 は 非 常 に盛 ん で あ る。 〈 カ デ ィー ム派 の 儀 礼 〉 漢 人 と長 期 間 共 存 して い た た め 、 お よ び カ デ ィー ム派 の 元 来 の 寛 容 的 性 格 の ゆ え に 、 習 俗 の 面 で は 、 と くに葬 送 の 面 で は儒 家 思 想 と漢 人 文 化 の 影 響 を か な り受 け て い る。 イ ス ラ ムの 埋 葬 は 一 般 に「土 葬 」にす べ きで 、 い か な る理 由 が あ って も遺 体 を 火 葬 に して は な ら ① ハ イイ 教坊 制 が採 られ る のは 、 ム ス リム が少 ない 地 区 で の宗 教 活 動 を維 持 す るた めで あ って、 ジ ュマ ーや 記 念 日の集 団礼 拝 には ム ス リムた ち は海 乙寺 に集 ま る。 代表 的 な海 乙寺 に は、 新彊 カ シ ュガ ル の ア イテ ィカ ール 清 真 寺 、 寧 夏 同 心 県 の 韋 州 清 真 大寺 、永 寧 県 の納 家戸 大寺 、平 羅 県 の宝 豊 大 寺 、 青 海 循 化 県 の 街 子 大 寺 が あ る (『中国伊 斯 蘭 教 百 科全 集 』207頁)。 一138一 な い 。 そ れ は地 獄 に堕 ち た もの に対 して 神 の み が処 罰 で き る方 法 だ と考 え るか らで あ る。 土 葬 を 守 らね ば な ら ない の で 、 葬 儀 全 般 は取 り急 ぎ行 わ れ る(早 葬)。3日 死 に 臨 ん で 、 コー ラ ソ第2章 を超 えて は い け な い と され る。 「雄 牛 の章 」156節 の こ とば 「本 当 に私 た ち は ア ッ ラー の も の。 ア ッ きょうかたびら ラー の 御 許 に私 た ち は帰 りま す 」 を唱 え させ る。 経 帷 子 は3枚 の 白 い無 地 の布(「克 番 」「克 凡 」)が 使 わ れ る の み で あ る(薄 葬)。 礼 拝 前 と 同 じよ うに全 身 の 洗 浄 が 丁 寧 に行 わ れ 、 棺 に安 置 され る。 故 人 の家 か ら埋 葬 地 に 向 か う途 中 で 、棺 は モ ス クに運 び込 ま れ て 、 「最 後 の 礼 拝 」を させ 、 葬 儀 礼 拝 が 捧 げ られ る。 墓 地 まで の 葬 列 は徒 歩 で な け れ ば な らな い 。 親 族 の男 性 や 友 人 の 中 か ら4人1 組 が 交 代 で 棺 を肩 に担 ぐ。 葬 列 の進 行 速 度 は 走 るほ ど で は な い が、 や や テ ソ ポが 速 い 。 時 に は 故 人 と は全 く関係 の な い 人 も葬 列 に参 加 す る。 中 国 で は 、 そ れ は「一 種 の 義 務 」と見 な さ れ て い る①。 葬 礼(ジ ャ ナ ザ ー 、 「者 那 則 」)はア ホ ソが 主 宰 す る。 故 人 の 犯 した罪 の許 しを 神 に請 う贖 罪 の 儀 式 (「討 白」)が行 な われ る。 参 列 者 も メ ッカ の方 向 に 並 ん で立 つ 。 参 列 者 は ア ホ ソ に従 って 手 を 上 げ て4回 「ア ッ ラー は偉 大 な り」(「 大 賛 」)を唱 え る。 遺 体 は右 脇 腹 を下 に して 顔 を メ ッカ の 方 向 に 向 け て 横 た え て 安 置 され 埋 葬 さ れ る。 墓 標 も この 方 向 に置 か れ る の で 、墓 石 は す べ て 同 一 方 向 に 向 い て い る。 カ デ ィー ム派 で は 、 土 葬 ・速 葬 ・薄 葬 とい う面 で は一 般 ム ス リムの儀 礼 を維 持 して い るが 、 漢 人 の 習 俗 を受 け入 れ て い る部 分 も多 い。 縁 者 の 死 後 、 故 人 の 父母 や妻 は 大 声 を 出 して 痛 哭 し、 子 供 は親 戚 ・友 人 の 家 に行 っ て 号 泣 し死 去 を知 らせ る。 各 親 戚 ・友 人 が 弟 問 に訪 れ る と、 通 常 は宴 席 を も うけ、 油 香 を揚 げ て 、 ア ホ ソや 来 客 を 歓 待 す る 。 家 人 は ア ホ ソ に故 人 の た め に コー ラ ソ読 誦 を お 願 い し、埋 葬 後 も3日 間 と か1週 間 、 墓 地 で の読 誦 を依 頼 す る。 あ る い は 少 な け れ ば 数 日 間 、 多 け れ ば1ヶ 月 間 、 ア ホ ソに家 に来 て も らい 毎 日読 誦 して も ら った りす る。 老 人 の送 葬 には 、 白 い 喪 服(「孝 服 」)を着 る。 通 常 、 中 国式 に 喪 に も服 す る。 も し家 に財 産 が あ れ ば 弔 辞 の 幕 を送 っ た り棺 を 引 か せ た りす る。 イ ス ラ ム教 の 教 え で は簡 素 を 旨 と し、 通 常 は 副 葬 品 を 備 え た り、 「孝 服 」を着 る こ と は な い の で あ る②。 中 国 ム ス リム の葬 送 で は 、 故 人 が生 前 に怠 っ た 礼 拝 や 犯 した 罪 に対 して 、親 族 が 故 人 に代 わ っ て 神 に 許 し を 請 う贖 罪 の た め の 罰 金 の 儀 式 が 行 わ れ る こ と が 多 い 。 そ れ は フ ィ デ ィ ヤ ー (al-Fidyah「 費 提 耶 」 「費 底 耶 」 「費 達 也 」)とか 「イ ス カ ー ト」(aHsqat、 と呼 ばれ る。 フ ィデ ィヤ ー と は 、 コー ラ ソ第2章 「伊 斯 戛 特 」「依 斯 戛 退 」) 第184節 と第196節 に基 づ い た もの で 、 故 人 が 生 前 な しえ な か っ た 断 食 や メ ッカ巡 礼 な ど に対 す る罰 金 と して 、 金 銭 も し くは 実 物 を 以 て 補 償 し、 貧 民 に施 す こ とで あ る。 中 国 で は 教 派 に よ って 罰 金 の 手 段 が 異 な る。 一 つ は 数 人 の ア ホ ソが 円 形 に な っ て 順 番 に コー ラ ソ を 回 し読 み す る こ と に よ って 贖 罪 を な す や り方 で 、 「コー ラ ソ を 回 す 」 (「転 経 」)と言 わ れ る。 も う一 つ は 故 人 の親 族 が 一 定 の金 額 を拠 出 して ア ホ ソが 中心 に な って 回 し て い くや り方 で 、 「金 を 回 す 」(「 転 銭 」)と言 わ れ る。 両 者 を合 わ せ て 「フ ィデ ィヤ ー を 回 す 」(「 転費 底 耶 」)と呼 ば れ る③。 カデ ィ ー ム 派 で は 、前 者 の 方 法 を 採 って い た。 コー ラ ソの 回 し読 み の 方 が 金 銭 が か か らな い よ うに見 え る が、 実 際 は ア ホ ソた ち を も て な す 宴 会 な ど に多 くの お 金 が 必 要 な た め 、 か な りの 出 費 に な る。 の ち に イ フ ワー ニ ー派 か ら こ の慣 習 は コー ラ ソの教 え に反 す る と し て 、 徹 底 的 な 批 判 を受 け る。 ①r中 国 伊斯 蘭百 科 全 集』737頁 の 「者 那 則」 の項。 ② 一 般 の慣 行 で は 、 弔 問期 間 は3日 間 で、 喪 服 の色 は黒 、妻 の服 喪 期 間 は4ヶ 月 と10日 で あ る とい う(rイ ス ラ ム事 典 』240頁)。 ③r中 国 伊斯 蘭百 科 全 集』151-152頁 の 「費底 耶 」 の項 。 一139一 また 、葬 儀 後 も初 七 日、 二 七 日、三 三 七 日、 四 十 日、 百 日、 一 周 忌 、 三 周 忌 の た び に ア ホ ソを ま ね い て 経 典 の読 誦 を して も ら い、 故 人 を追 悼 す る記 念 活 動(い わ ゆ る法 事)を 行 な う①。 そ の ほ か、 ジ ュマ ー(金 曜 日)や 断 食 明 け 祭 り(「開 斎 節 」)、 クル バ ソ祭 り(犠 牲 祭 、 「古 爾 邦 節 」)の時 に も親 族 は 墓 参 りに行 き、 故 人 を追 悼 す る②。 老 人 が 死 ん だ と きに は 、40日 間 と か100日 間 、 ア ホ ソ に 墓 守 を お願 い す る こ と もあ る。 ア ホ ソ が教 徒 の 家 で 読 誦 した りす る時 に は 同時 に食 事 の 饗 応 を 受 け 、 ま た「読 誦1回 、 銅 銭1さ し」と い わ れ る よ うに 、'礼金(ニ エ テ ィ)も 受 け取 って い た 。 近 代 に な って 、 こ う した 風 習 が イ フ ワー ニ ー派 か ら強 い批 判 を受 け る よ うに な る。 カ デ ィー ム派 は 、 多 くの 面 で 比 較 的 寛 容 で 、 他 の 教 派 に対 して 異 議 を持 っ て い て も過 激 な批 判 を加 え る こ とは少 ない 。 そ れ ど こ ろ か、 対 立 関 係 に あ る門宦 や 他 教 派 の人 物 で あ って も、 コー ラ ソ(「可 蘭 経 」)やハ デ ィー ス(「聖 訓 」)に基 づ い て 教 え を実 行 で き る人 品 と学 識 の秀 で た 人 を 「賢 者 」 と して 尊 ん で さえ い る。 国外 か ら中 国 に きた 物 故 学 者 や宣 教 師 に 対 して も崇 敬 し、 墓 参 りに行 っ て記 念 活 動 を行 な った りす る。 た だ 、 そ の た め に ゴ ソ バ イ を建 立 した り巡 礼 した りす る こ と に は 反 対 で あ る。 そ う した 行 為 は イ ス ラ ム教 の偶 像 崇 拝 禁 止 の教 え に 反 す る と考 え る か ら で あ る。 第 三節 イ フ ワ ー ニ ー 派=中 国 イス ラ厶 改革 運 動 清 末 に外 国 勢 力 の 中 国 へ の進 出 が 盛 ん に な って く る と、 中 国 の イ ス ラ ム教 に も2つ の変 化 が 現 れ た。 一 つ は イ ス ラ ム宗 教 教 育 の近 代 的 な 対 応 で あ り③、 も う一 つ は ア ラ ブ で の 宗 教 改 革 の 動 き に影 響 され て イ ス ラム教 改 革 運 動 が 起 こ り、2つ の新 た な教 派 が 登 場 した こ とで あ る。 中 国 で 大 き な影 響 を 与 えた 新 しい 教 派 は 、 門宦 に も カ デ ィー ム 派 に も明確 に 反 対 した イ フ ワー ニ ー派 と呼 ば れ る新 教 で 、 も う一 つ は 門 宦 とカ デ ィ ー ム 派 両 派 を 折 衷 した西 道 堂 で あ る。 イ フ ワー ニ ー 派 は、 か つ て は そ れ ぞ れ 「新 教 」 「旧 教 」と呼 ば れ た 門宦 お よび カ デ ィ ー ム派 を と も に「旧 教 」と批 判 した こ と か ら、「新 教 」と か「新 興 派 」と呼 ばれ る。 と くに 多 数 派 で あ る伝 統 的 な カ デ ィー ム派 に対 して 「新 派 」と い わ れ る。 イ フ ワー ニ ー は ア ラ ビ ア語 か らの 音 訳 で 、 原 意 は 「兄 弟」で あ る。 ま た、 「経 典 に 基 づ い て教 え を立 て る」 「経 典 を遵 守 し、 習 俗 を あ らた め る」こ とを 主 張 して い た の で 、 「遵 経 派 」や 「聖 行 派 」と もい わ れ る。 〈 イ フ ワー ニ ー 派 の登 場 〉 イ フ ワ ー ニ ー 派 は ト ソ シ ャ ソ 族(東 郷 族)④ の 経 学 大 師 ・馬 万 福(1853-1934、 イ ス ラ ム 名 は 女ハ ①国 墓 参 りの 時期 は地 域 に よ って異 な り、3日 目、1ヶ 月 目(月斎)、 三十 日な どの 時 に も行 うと こ ろ も あ る(r中 回 族 大詞 典 』42-43頁 の 「回族 喪 葬」 の項)。 な お 、 中 国以 外 で も、 埋葬 後3日 目に近 親 者 が 墓 参 す る風 習 が あ るが 、 そ の際 は飲 食 物 が供 え られ る ことは な く、 コー ラソだ け が読 み上 げ られ る。 ま た、 死 後40日 目を故 人 の 追 悼 日と して 弔 う風 習 もあ る よ うで あ る(『 イ ス ラム事 典 』240頁)。 ②漠 遊 牧 的 色彩 の強 い地 方 で は 、墓 は あ ま り重 視 されず 、 サ ウジ ア ラ ビア王 国 で は 国 王 の墓 で も大 変 質 素 で 、「砂 に埋葬 す る」 と い う感 じで あ る(そ れは サ ウ ジア ラ ビア建 国 の宗 教 的支 柱 で あ っ た ワ ッハ ー ブ派 の法 解 釈 に 由来 す るの で あ ろ う)。 そ れ に対 して 、 シ リア や イ ラクの よ うな定 着 文 化 を もっ て い た地 方 で は、 お墓 は立 派 に立 て られ 、 墓参 りを頻繁 に行 な う。 と くに ピ ラ ミ ッ トの国 エ ジプ トで は墓 の 建立 に莫 大 な 金 を注 ぎ込 む 風 習 が あ る(渥 美 堅持 著 『イ ス ラー ム教 を知 る事典 』 東 京 堂 出版 、1999年 、237-238頁)。 華 美 にな らな い よ うに と い う原則 は あ るが、 埋 葬 の方 法 な どに は この よ うに地 域 的 な特 色 があ る。 ③蘭 中 教史 国 イ ス ラ 轡 の新 式 教 育 へ の近 代 的対 応 の 動 きに つ いて は 、李 興 華 ・秦 恵 彬 ・馮 今 源 ・沙秋 真著 『中 国 伊斯 』(北 爪 ・中国 社 会科 学 出版社 、1998年)の 第4編(民 国時 期)第15章 「中 国 内地 伊 斯 蘭文 化 的 復興 」、 莠齶 難 餅 菱」爨 糶 魏 羇 奩蒙灘 罎15年までの 「 民族論」を巾心に』(多賀出版・1999年) ④ トソシ ャ ソ族 の名 称 は 彼 らの主 要 な居 住 地 で あ る臨 夏 東 郷 に由来 す る。 彼 らの 生活 習 俗 や 信仰 が西 北 の 回族 と 似古 蒙 て い るた めL「 東 郷 回」 と呼 ば 起 て きた6ま た、 言 語 面 で は モ ソ ゴル 語 と似 て い る た め、 厂蒙 古 回 回」 「東 郷 人 」 と も言 わ れ た。 しか し、 言葉 は漢 語 か らの借 用 が 多 く、 文 字 も固 有 の もの が な く漢字 を用 いて い る。 か つ ては ア ラ ビア語 もか な り用 い られ た 。 民族 の起 源 は、 チ ソギ ス ・ハ ー ソ率 い る蒙 古 軍 の後 裔 と い う説 が有 力 で、 蒙 古 軍 が定 着 し農 民 化 し、周 囲 の回 民 や 漢 人 な ど と融 合 して形成 され た と考 え られ る(『文 化人 類 学 事 典[縮 刷 版]』 弘 文 堂 、1994年 、543-544頁)。 一140一 【表3】 甘粛 省 臨夏 自治 州(河 朔地 区)の 宗教 概況 清 末 ム ス リム 人 口 1950年 40.7万 人 人 口比 率 57.50%ヤ 清真寺数 約1,800 ゴソバ イ数 ア ホ ソ人 数 上に含む 2,000人 以上 約2,500人 マ ソ ラ人 数 教 1958年 主 1964年 44.3万 人 51% 1ジ944 119 ゴソバイ出家人 77.5万 人 た 。 彼 は 「中 国 の 小 メ ッ カ 」 53% (【 表3】 1,715 粛 省 臨 夏(旧 名 河 州)の 東 郷 県 果 76 2,713人 2,3∞ 人 1,120人 ア ホ ソに 含む [「努 哈 」])が1890年 代 に創 始 し 1985年 を 参 照)と 称 さ れ る甘 園 村 に 生 まれ た の で 、 馬 果 園 と も呼 ば れ る。 メ ッ カ巡 礼 を行 っ 約3,000人 16人 た 人 に は 「バ ッ ジ」(ハー ッ ジ 、 115人 [出 所]《 臨 夏 回 族 自治 州 志 》 編 纂 委 員 会 編 『臨 夏 回 族 自治 州 志 』 「哈 吉 」「哈 知 」)の尊 号 を名 乗 る ことが許 され る ので 、「果 園 バ ッ 蘭 州 ・甘 粛 人 民 出 版 社 、1993年 、1,303頁 。 ジ」と も称 さ れ る。 彼 の 家 は 決 して豊 か で は な く、 薄 田 を3∼4ム ー所 有 す る の み で 、生 計 を維 持 す るの が や っ とだ った とい う。 彼 の 祖 父 と父 は と も に フ ー フ ィー ヤ北 庄 門宦 の 清 真 寺 経 堂 小 学 ア ホ ソ で あ った の で 、幼 少 よ り家 庭 で 宗 教 教 育 の薫 陶 を受 け 、 宗 教 知 識 お よび ア ラ ビ ア語 の基 礎 を身 に つ け る こ と が で きた 。 そ の 後 、 紅 崖 、 瓦 里 加 お よ び北 庄 ゴ ソ バ イ清 真 寺 で教 え を受 け 、 著 名 な経 師 で あ る瓦 里 加(ワ リー カ) ア ホ ソ と老 消 亭 ア ホ ソ の 門下 で ア ラ ビア 語 と ペ ル シ ア語 の 経 典 を 学 ん だ 。 外 地 で学 を 求 め る中 で 、 彼 は 現 実 の 儀 礼 は イ ス ラム 教 の 精 神 と合 わ な い と こ ろが 多 い と感 じて い た 。 しか し、 そ れ を証 明 す る経 典 を い ま だ 目 にす る こ と は な か った 。 馬 万 福 は1875年 学 業 の成 った22歳 の時 、 ア ホ ソの 資 格 を取 得 し、 フ ー フ ィー ヤ北 庄 門 宦 の年 若 い ア ホ ソ と な った 。 か れ は 果 園 、 紅 崖 、 巴 蘇 池 の 清 真 寺 で 開 学 ア ホ ソ(教 長)を つ とめ 、 ム ス リム 民 衆 の賛 同 を 得 た 。1888年 、 彼 は老 師 ワ リー カ老 ア ホ ソ及 び 科 挙 に 合格 した挙 人 の 馬 会三 ら と メ ッ カ巡 礼 に赴 き 、 そ の 後4年 間 メ ッカ に留 ま っ た。 彼 が 聖 地 で 見 た もの は 、 中 国 ム ス リム、 と くに 門宦 の 儀 礼 と は 異 な る宗 教 儀 礼 で あ っ た。 そ の 原 因 を 中国 に 教 義 や 教 律 を 解 説 す る典籍 が な く、 宗 教 学 説 が 不 完 全 な た め で あ る と考 え た 彼 は 、 国 外 に と ど ま り引 き続 き研 鑚 を 深 め る こ と を 決 意 した 。 彼 は 当 時 ア ラ ビ ア半 島 で 流 行 して い た ワ ッハ ー ブ派 の学 者 ハ イ リバ ・ア イ ー ブ ・カイ ラ(「海 里 巴 ・艾 卜 ・盖 勒 」)の興 した 「ハ イ リシバ シ学 校 」(海里 夕 巴氏 学 堂)で コー ラ ソ、 ハ デ ィー ス、 教 法 学 を学 ん だ 。 ま た 、 ワ ッハ ー ブ派 の活 動 家 ウ ス マ ソ(「欧 斯 曼 」)やサ イ リム(「賽 利 姆 」)と討 論 す る 中 で 、 ワ ッハ ー ブ派 の影 響 を 強 く受 け、 中 国 イ ス ラ ム教 の 改 革 を決 意 した 。 ワ ッハ ー ブ派 は18世 紀 半 ば ア ラ ビア 半 島 で 生 まれ た 宗 派 で あ る。 創 始 者 ム ハ ソマ ド ・ブ ソ ・ア ブ ドラ ・アル ワ ッハ ー ブ(1703-1778)は 、 厳 格 な一 神 論 を堅 持 して 、 ア ッラー の 唯 一 絶 対 性 を強 調 し、 多 神 教 や偶 像 崇 拝 に つ なが る あ らゆ る行 為 を 批 判 し、吉 日 ・厄 運 ・占 い な どの 思 想 に反 対 し、 コー ラ ソ と預 言 者 の ス ソ ナ に立 ち返 る こ と、初 期 の教 義 を復 興 させ る こ と を 唱 え た。 哲 学 思 想 や 神 秘 主 義 を初 期 ム ス リムの 正 しい イ ス ラ ム に 対 す る歪 曲 ・逸 脱 で あ る と して退 け た。 こと に 聖 者 や 聖 墓 の 崇 拝 を 最 も厳 し く排 撃 した 。 ま た 、飲 酒 ・喫 煙 ・ダ ソ ス ・賭 博 に も反 対 した の で 、 「清 教 派 」の 呼 称 が あ る。 馬 万 福 が海 路帰 国 した の は1892年 で あ った 。 経 典 の持 ち 込 み が 禁 止 され て い た に もか か わ らず 、 帰 国 時 に彼 は3册 の ワ ッハ ー ブ 派 の 経 典 を携 帯 して い た とい う①。 馬 万 福 が広 州 を経 由 して 湖 北 省 老 河 口 に い た った 時 、 当 地 の ム ス リム の 招 聘 に よ り老 河 口清 真 寺 で1年 間 学 を講 じ、 新 教 義 を ①3册 の 経 典 は 、 ア ブ ド ラ ・ア ル ワ ッ ・・一 ブr疑 難 掲 示 』(kashfal-Mushkilat)、 ム ハ ソ マ ド著rア イザ イ ブム ハ ソ マ チ 』、 ム ハ ソ マ ド ・ア ロ ソ ・ ア フ ァ ン ジ 『古 蘭 経 義 精 華 』(Tafsir 、Ruhai-Ma'ani)と い わ れ る(馬 通 著 『中 国 伊 斯 蘭 教 派 与 門 宦 遡 源 』 銀 川 ・寧 夏 人 民 出 版 社 、1986年 一141一 、184頁)。 伝 え た 。 翌 年 河 州 に帰 った彼 は 、 若 妥 清 真 寺(科 妥 三 十 斤 村 清 真 寺)で 開 学 ア ホ ソ を つ とめ な が ら、 著 名 な ア ホ ソや バ ッ ジた ち と ワ ッハ ー ブ派 の教 義 を 研 究 した 。 の ち に「十 大 バ ッ ジ」と か 「十 大 ア ホ ソ」 と称 され る名 望 の あ る ア ホ ソ た ちで あ っ た①。 彼 ら は メ ッカ か ら持 ち帰 った 経 典 に基 づ い て 習 得 した 知 識 を伝 え 、 積 極 的 に 自己 の革 新 的主 張 を 広 め 、 経 典 に 合 わ な い 儀 礼 風 俗 を 批 判 した。 馬 万 福 は十 大 バ ッ ジ と議 論 して 、 自分 た ち の 主 張 を「十 大 綱 領 」(「 果 園 十 条 」)にま と め た。 そ の 内 容 は次 の よ うな もの で あ るが ②、 す べ 七 具 体 的 な儀 礼 上 の や り方 の 改 革 に つ い て で あ って 、 そ こ に重 大 な 宗 教 理 論 上 の 改 革 の 内 容 を見 い だ す こ と は で き な い 。 (1)集 団 で コー ラ ソ を 唱 え て は な らず 、 一 人 だ け が 唱 え 、 他 の人 は これ を聞 くだ け で あ る。 (2)大 声 で主 を讃 え な い。 (3)「 ド ゥアー 」(祈 り)を 多 くは しな い。 (4)ゴ ソ バ イ を 参 拝 しな い 。 (5)ア ホ ソに 「死 者 の 贖 罪 の儀 式 」(Tawbah、 (6)故 人 の 忌 日 を記 念 しな い 。 「討 白」)を依 頼 しな い 。 (7)コ ー ラ ソの 読 誦 に よ って は「フ ィデ ィヤ ー 」を 転 じな い(贖 罪 さ れ な い)。 (8)タ イ タイ ウ ォル(「 抬 太 臥 爾 」「抬 太 瓦 爾 」、意 味 不 詳)の 法 事(ア マ ル)③ を行 わ な い。 (9)ハ オ コ ソ(「 豪 空 」)に対 して は シ ョγハ イ ラ(手 端 ・手 段 、「省 海 勒 」)を使 う(意 味 不 詳)。 (10)ア マ ル は 自分 で行 な い 、 他 の 人 が代 行 す る こ とは い け な い 。 コー ラ ソ は 自分 で 唱 え るべ きで 、 他 の 人 が 代 わ って 唱 え るの は よ く ない 。 馬 万 福 は そ の後 、 明確 に「す べ て は コー ラ ソ に帰 れ 」 「経 典 に基 づ い て 習 俗 を あ らた め る」 「経 典 の み に基 づ い て 教 え を 立 て 、 異 端 に反 対 す る」と唱 え 、 彼 の 考 え る宗 教 改 革 を 開始 した 。 こ こ に 、 馬 万 福 と「十 大 バ ッ ジ」を核 心 とす る一 つ の 新 教 派 が形 成 され た 。 彼 らは 「イ フ ワ ー ニ ー 」を 自 称 した 。 イ フ ワー ニ ー 派 の 主 張 、 と くに煩 雑 な 宗 教 儀 式 の 簡 素 化 や 宗 教 負 担 の軽 減 とい っ た主 張 は 少 な か らぬ ム ス リム を 引 きつ けた が、 イ フ ワー ニ ー 派 は カ デ ィー ム派 と門 宦 を「老 教 」とみ な し、 「歪 教 」 「異 端 」 「外 道 」と激 烈 に批 判 した た め 、 激 しい 軋 轢 を招 い た 。 <イ フ ワ ー ニ ー 派 の 受 難 期(1895-1917)> 19世 紀 後 半 は 、 中 国 の 各 地 で 雲 南 回 民 起 義(1856-73)や 陝 甘 回 民起 義(西 北 回 民 起 義 、1862-73)④ な ど ム ス リ ムの 反 清 蜂 起 が 相 継 い だ 時 期 で あ った 。 そ れ は、 これ らの蜂 起 の 鎮 圧 の 過 程 で 中 国 イ ス ラ ム教 の 中 心 地 が そ れ ま で の 陝 西 省 関 中(西 安 を 中 心 と した 渭 河 盆 地 一 帯 を 指 す)か ら甘 粛 省 臨 夏 に移 っ た ほ ど で あ る。 が 、 蜂 起 の相 継 ぐ敗 北 に よ って 中 国 イ ス ラ ム教 は大 打撃 を 受 け たた た め 、 ム ス リム 民 衆 は敬 虔 な 宗 教 信 仰 の 中 に精 神 的 な安 寧 を 強 く求 め て い た。 イ フ ワー ニ ー 派 は そ う し ① 厂十 大 バ ッジ」 につ い て は、 格 如 ア ホ ソ、 散的(サ ソデ の ア ホ ソ、黒 庄 ア ホ ソ、南 嶺 ア ホ ソ、那勒 寺 ア ホ ソ、 奴 勒 ア ホ ソ、 王大 汗 ア ホ ソ、.法徳 明、 果 園 アホ ソとい う説 と、達 背 ア ホ ソ、 紅 崖大 鼻 子 ア ホ ソ、 高腰 格 ア ホ ソ、 灘 子 ア ホ ソ、大 康 ア ホ ソ、 張 保 ア ホ ソ、麻 妖 怪 アホ ソ、 瓦 房 ア ホ ソ、 果 園 ア ホ ソ と い う説 の二 つ が ある(『 中 国伊 斯 蘭教 派 与 門 宦 制度 史 略 』90頁)。 ②r中 国 伊斯 蘭 教 派 与 門宣 制 度 史 略』90頁 。 「十六 綱 領」 の 内容 につ い て は、 邱樹 森 主 編r中 国 回族 史 』(銀 川 、 寧 夏 人 民 出 版社 、1996年 、729頁)に 掲 載 され て い る もの と か な りの異 動 が あ る(原 載 は 馬 占彪 「伊 合 瓦 尼 教 派 与 馬 万福 」、 『西 北 回族 与 伊 斯 蘭 教』 銀 川 ・寧 夏 人 民 出版 社 、1993年 、355-356頁)。 ③ ア マル(Amal、 厂爾 売 里 」 「阿 曼 里 」)は 「善 行 」 「善 事」 の意 で あ る が、 中 国 で は ム ス リムた ちが宗 教 記 念 日や 門宦 創 始者 も し くは 先祖 の生 誕 記 念 日や 死 亡 忌 日な どに行 な う読 経 や 主 を讃 え る こと、 賓 客 を もて な す宴 会 な ど をす べ て 「アマ ル 」 と称 して い る(『中 国 伊斯 蘭 百科 全 集 』140頁 の 「爾 売 里 」 の項)。 ④ 研 究 論 文 に 、 中 田吉 信 「西 北 回 民 起義 考 」r就 実 女 子 大学 史 学 論 集 』第3号 、1988年 が あ る。 一142一 た ム ス リム民 衆 の 要 望 の 受 け 皿 と な っ た。 1895年 に は再 び フ ー フ ィー ヤ花 寺 門 宦 内 の 教 派 争 い に端 を発 して 甘 粛 省 を中 心 に ム ス リム叛 乱 (河 湟 事 変)が 発 生 した が 、 翌 年 に は 鎮 圧 され た①。 馬 万 福 は「河 湟 事 変 」と の 関 わ りの た め 、 清 朝 政 府 よ り通 輯 され 、 い った ん 甘 粛 省 静 寧 県 城 関 清 真 大 寺 の マ ソ ラ(学 生)と な って 逃 れ た 。 ま もな く地 方 軍 閥 の 馬 安 良(1855-1920、 甘 粛 省 河 州 漠 泥 溝 出身)② を 通 じて 罪 科 を取 り消 す こ と が で き る と、1897年 河 州 西 川 盖 子 村 に戻 った が 、 河 湟 事 変 に お け る変 節 行 為 ③を 疑 わ れ て い た た め 、 そ こで活 動 を行 う こ と は で きず 、 漠 泥 溝 何 家 清 真 寺 の 開 学 ア ホ ソ とな っ た。 漠 泥 溝 は馬 安 良 の 故 郷 で あ り、 馬 安 良 の 四 弟 馬 国 良 が 当地 の 清 真 寺 の 学 董 を つ と め て い た④。 新 教 派 イ フ ワー ニ ー 派 の 拡 大 に は 、 この よ うに 当初 か ら 回民 軍 閥 が 関 わ っ て い た の で あ る。 彼 は 引 き続 きそ の 革 新 的 な 宗 教 主 張 を宣 伝 した。 馬 万福 は十 大 バ ッ ジ と8册 の ア ラ ビア 語 の典 籍 ⑤か ら重 要 な 内容 を 訳 出 してr布 哈 里 喧 徳 』(布 華 里 卩 自徳 経)に 編 集 し、 イ フ ワー ニ ー の主 張 を ① 河 湟 事 変 の淵 源 は、1881年 に馬如 彪 が河 州 で 花 寺 門宦:の儀 礼 の一 部 を 改革 しよ う と した こと に、 花寺 門 宦 の 首 領(叔 父 の 馬永 琳)が 反対 し、 花寺 門 宦 が新 旧両 派 に分 裂 した こ とに さか の ぼ る。新 教 が循 化 に伝 わ る と、 両 派 問 の教 争 に 発展 した 。1894年 韓努 力 ア ホ ソ を中 心 とす る旧 派 と韓 木 洒(韓 穆 薩)ア ホ ソを中心 とす る新 派 との 間 で論 争 が 発 生 し、 そ れ が械 闘 に発 展 した。 新 派側 は循 化 庁 に上 訴 した が 、官 府 は 旧派 に加 担 し取 り合 お うと し な か った 。 河 州鎮 総 兵湯 彦 和 は馬 如 彪 の父 馬 永瑞 と馬 永 琳 兄弟 を循 化 に派 遣 し調停 を試 み た が、 馬永 琳 はひ そ か に 旧派 の韓:努力 ア ホ ソを支 持 したの で、 成 果 は な か った。1895年 両派 の教 争 が激 化 し、陜 甘 総 督 は西 寧 知 府 陳嘉 績 と道 員 を差 し向 け たが 、陳 は老教 を支 持 し新 教 を押 さえ込 む 政策 を改 め 、循 化 庁 に入 った後 、 旧派 の11 人 を殺 害 して見 せ しめ に した た め、 旧派 の憤 激 を招 いた 。韓 努 力 の 指導 下1万 余 りの サ ラ族 な どの群 衆 が3月 8日 よ り循 化 庁 を攻 撃 し、 河 湟事 変 の幕 が切 って落 と され た。 清 軍 は鎮 圧 の中 で 「新 旧派 を問 わ ず 、一 律 に掃 滅 す る」 方 針 を と った の で、 両派 は教争 を停 止 し、共 同 して反 清 行 動 を とった 。河 州 で は馬 永 琳 が率 い て河 州 城 を攻 撃 した 。 こ う して 、狄 道 州(臨 挑)、 西 寧(韓 文 秀 が指揮)、 大 通(劉 四伏 が指 揮)、 北 大 通(現 青 海 門 源)、 海 城(現 寧 夏海 原)な どで 回民 が相 継 い で呼 応 し、 峰起 軍 は い っ き に10万 人 に達 した。 清朝 は陜 甘総 督 を交 代 さ せ、 また カ シ ュガル 提 督董 福 祥 を甘 粛督 弁 と して 派遣 した 。董 福 祥 は北 京 か ら 日清 戦 争 に動 員 され て い た甘 粛 軍 を率 い て鎮 圧 に 向か い 、9月 狄 道州 康 家崖 を攻 撃 し、 挑 川 を渡 っ て三 甲 集 を 占領 した 。10月 に河 州 に到 着 し、 先 行 官 馬 安 良 を通 じて峰 起 の首領 を懐 柔 す る と と もに、 毎 日兵 を 出 して 捜 索 し、馬 永 琳 ら600人 ほ どを 殺 害 し た。 河 州 峰 起 の鎮 圧 後 、12月 部将 の何得 彪 、 張 銘新 と陜 西巡 撫 らは 西 寧:をへて 、南 川 ・北 川 ・北 大通 な どの 峰 起 の拠 点 を攻 略 、韓 文 秀 ら500人 を処 刑 。 翌 年2月 峰 起 軍 の残 部2万 人 は劉 四 伏 に率 い られ て青 海 チ ャ イ ダ ム 盆地 や 玉 門 ・敦煌 ・安 西 をへ て 、新 彊 ロブ ノー ル に転 戦 す るが、7月 に は鎮 圧 され た。 甘 州南 山 で活 動 して い た峰 起 軍 も9,月 に は敗北 す る(『中 国回族 大 詞 典 』169頁 。 『中 国伊 斯 蘭 百科 全 集 』213頁)。 ② 馬 安 良 は1860年 代 の陜 甘 回民 峰起 にお け る河 州 回 民(旧 教)の 首 領 ・馬 占鰲 の長 子。1872年 馬 占鰲 は鎮 圧 に来 た 左 宗 棠 の 清 軍 を河 州 近 くの太 子寺 の決戦 で破 る と、機 を見 て清 軍 に帰 順 した。 これ に よ り河 州 の 回 民勢 力は 温 存 され 、 の ち 馬氏 回民 軍 閥 が この地 か ら輩 出 した 。馬 安 良 も父 に従 い 「 十 大 少 爺」 を率 い て安 定 左 師大 営 で 清 朝 に降 り、 そ の後 は清側 に立 って西 寧 ・粛 州 回 民 峰起 軍 の鎮 圧 に貢 献 。1886年 父 の死 後 、 そ の部 隊 を継 承 。18 95年 の河 湟 事 変 で は、提 督 董 福祥 に従 って循 化 営遊 撃 と して 回民 峰 起 軍 を鎮 圧 、反 乱 指 導者 の財 産及 び そ の宗 教 組 織(門 宦)を も手 中 に收 め、 回民 軍 閥 の祖 と して の基 礎 を 固 めた 。1900年 八 力国連 合 軍 の北 京 侵 入 で光 緒 帝 と西 太 后 が 西 安 に難 を 逃 れて きた時 、部 隊 を率 い て陜 西 に向 か い 出迎 え る。 同 年董 が解 任 され る と、甘 粛 に戻 り、 河 州 に駐 留。 の ち寧 夏鎮 総兵 に昇任 す る も着 任 せず 。1909年 甘 粛 馬 隊第 一 標標 統 に就任 。1911年 辛 亥 革 命 時、 陜 甘 総 督 の命 に よ り故 郷 で募 兵 、精 鋭 西 軍 を 編成 、西 軍 の総 統 と して 陜西 の 革命 軍 に 向 か って 侵攻 。 民 国 が成 立 す る と、甘 粛 に 引 き揚 げ 、蘭 州 に駐 留 。 の ち甘 粛 提 督 に推 挙 され る。 一 時 は 国民 党 甘粛 支 部長 と して 、 甘粛 政 局 の 中 心人 物 とな る。1914年 甘粛 督 軍 張 広 建 との不 和 に よ り退 け られ、 河 州 に移駐 す る。1917年 河 西 護 軍 使 に任 命 され 、蘭 州 に赴 く途 中、 重 病 と な り、 河 州 で病 没(馬 通 ・馬海 浜 編 著 『甘粛 回族 人 物 』 蘭州 大 学 出 版 社 、1997年 、39頁)。 ③ 河 淫 事 変 の 当 初 、馬 万 福 もこれ に積 極 的 に呼 応 し、 イ フ ワー ニ ー派 の信 徒 に峰 起 に 参加 す るよ う呼 び か け た。 同 じ トソ シャ ソ族 の馬 大漢 と 「決 して 降伏 しな い」約 束 を交 わ し、共 同で 広河 三 甲集 の跳河 ライ ソを防 衛 した 。 が、 清 の 大 軍 が河 州 に押 し寄 せ て くる と、馬 安 良 に近 づ き、 一緒 に メ ッカ 巡礼 に赴 き彼 の 改革 活 動 を支 持 して い た馬 大 漢(馬 会 山 ・馬会 三)を 裏切 って 降 伏 した 。馬 大 漢 は孤 軍奮 闘 の果 て 殺 害 され た(『 中 国伊 斯 蘭 教 史 』 779頁)。 ④r中 国 伊 斯 蘭 教史 』779頁 。 ⑤8册 の典 籍 は 、『伊 哈 雅 一』r費 格海 』 『戛最 』』 伊 日沙 徳 』(伊 爾 沙 徳)、r麦 克 吐 布 』r克 倆 目』(凱 拉姆)『 麦 ト 蘇 雅 』 で あ る(『 中国 伊 斯 蘭教 史』779頁)。 ほか に 『 宗 教 学 科 的復 興 』 を 挙 げ る もの もあ る。 一143一 系 統 的 に陳 述 し、 五 行 に つ い て厳 格 に 規 定 した。 この経 典 は わず か に20部 余 り刻 印 され た の み で 、 しか も馬 安 良 自身 の反 対 で 発 行 が禁 止 され 、 刻 版 も破 棄 され た と い う①。 1906年 、馬 万福 と十 大 バ ッ ジは断 食 月(ラ マ ダー ソ)明 けの 集 団礼 拝 の機 会 を利 用 して 、 イ フ ワー ニ ー の信 徒 約100人 を 河 州 西 川(現 臨 夏 城 関 鎮 畢 家場)に 集 め 、 「イ フ ワー ニ ー を以 て 教 派 と門 宦 を 統 一 す る」決 意 を述 べ 、 「教 門 の た め に 血 を 流 し犠 牲 に な る の は シ ャ ヒ ー ド(殉 教 者 、shahidr舎 希 徳 」)であ る」と攻 撃 的 な 檄 を 飛 ば した 。 彼 の 行 動 は 河 州 地 区 の 他 の 教 派 と 門宦 に強 烈 な恐 れ を 感 じさ せ 、 「叛 乱 の 首 領 」と して 蘭 州 総 督 に訴 え られ た 。 彼 は 再 び1908年 、 臨 夏(河 州)を 離 れ ざ る を 得 な くな り、 陝 西 省 安 康 清 真 大 寺 の 開 学 ア ホ ソを つ と め な が ら、 引 き続 きそ の布 教 を す す め た 結 果 、 大 き な成 果 を得 る こ とに成 功 した 。 これ は、 安 康 に は 彼 と 明確 に 対 立 す る門 宦 が 存 在 せ ず 、 カ デ ィー ム 派 も牢 固 と した 教 権 勢 力 を 築 い て は い な か っ た か らで あ る。 加 え て 、 これ 以 前 に 趙 真 学 ア ホ ソが こ こで 「古 訓 に従 う」や 「聖 な る 行 な い を奉 る」こ と を説 い て い た か らで あ る。 この よ う に 、 臨 夏 以 外 の 地 区 で も同 じよ うな主 張 をす る ア ホ ソ が現 れ て い た 。 また 、 馬 万 福 も これ まで の 経 験 を ふ ま え て 、 柔 軟 な 宣 教 方 法 を採 る よ うに つ とめ て い た 。 1911年 の 辛 亥 革 命 後 、 臨 夏 に戻 っ た 馬 万 福 は街 子 大 寺 や南 関 大 寺 の ア ホ ソを つ とめ な が ら宣 教 活 動 を続 け 、 そ の 影 響 力 は さ ら に拡 大 した 。 そ れ に つ れ 、 門 宦 と の 争 い も激 化 して い っ た 。 権 勢 の あ っ た馬 安 良 軍 閥 か ら甘 粛 を離iれる よ うに命 じ られ た 馬 万 福 は 、1914年 河 西(酒 泉)を 経 て 、 長 子 の 馬 遇 真 ら家 族 と と もに 新 彊 に 向 か い 、 哈 密(ハ ミ)で 宣 教 を続 け た 。 甘 粛 門宦 教 派 の請 求 を 受 け て 、 甘 粛 省 総 督 張 広 建 は 新 疆 省 に公 文 を 送 っ て馬 万 福 の捕 縛 を 求 め た 。1917年11月 、 ハ ミ県 長 は新 疆 総 督 楊 増 新 の命 令 に 従 って 馬 万 福 を 下 獄 させ た 。1918年1月 、木製の囚人車 で蘭州 に護送 され る途 中 、 西 寧 に あ った 甘 辺 寧 海 鎮 守 使 の 馬 麒(1869-1931、 甘 粛 河 州 出身)の 部 隊 に永 登 県 境 で 救:い出 され 、 西 寧 に迎 え られ た。 〈イ フワーニー派の覇権 時代 〉 馬 麒 は イ フ ワー ニ ー 派 を 支持 す る こ と に よ っ て他 の 教 派 や 門 宦 を押 さ え込 み 、 青 海 の 支 配 を は か ろ う と考 えて い た の で あ る。 馬 麒 は 臨 夏 の 馬 氏 軍 閥(馬 安 良 ・馬 国 良 兄 弟)と 覇 を 競 っ て お り、 影 響 力 の あ る教 派 に よ る宗 教 的精 神 的 支 柱 を 必 要 と して い た。 馬 万 福 は 以 後 、 青 海 省 主 席 を歴 任 した 馬 麒 ・馬 麟(1876-1945)兄 弟 と馬 麟 の 子 ・馬 歩 芳(1902-1975)軍 閥(「青 海 三 馬 」と称 され る)の 強 力 な保 護 を受 け て 、 布 教 に つ とめ た 。 イ フ ワ ー ニ ー 派 は い まや 青 海 の 「国教 」と して の 扱 い を 受 け 、 そ れ まで の ひ た す ら信 仰 の純 化 を求 め 政 治 的 宗 教 的 に他 派 か ら圧 迫 され る立 場 か ら、 他 の 教 派 や 門 宦 を 圧 迫 し改 宗 を強 要 で き る立 場 に 変 わ っ た の で あ る。 か れ は青 海 三 馬 の 庇 護 下 、 西 寧 東 関 清 真 大 寺 の ア ホ ソを 長 期 間 つ とめ 、 こ こを 拠 点 に して イ フ ワー ニ ー派 の 教 義 を広 め 、 河 州 地 区 で もそ の教 義 を強 力 に 宣 伝 した。 河 州 八 坊 に あ る16の 清 真 寺 の うち 、1949年 まで に12の 清 真 寺 が イ フ ワー ニ ー 派 に所 属 す る に至 っ た②。 馬 万 福 の 宗 教 知 識 は 該 博 で、 教 学 レベ ル は 高 く、 系 統 的 に コー ラ ソ学 、 ハ デ ィー ス学 、 神 を認 め る学 、 教 法 学 、 ペ ル シ ア語 経 典 を講 述 す る こ と が で き、 イ ス ラ ム教 の 各 派 の 学 説 を 引 い て そ の 沿 革 と得 失 を 縦 横 に論 じ:ること が で き た。 各 地 か ら彼 の も と に 教 え を求 め る人 が 集 い 、1934年 に 西 寧 で 没 す る まで の20年 近 くの間 に 、 多 くの 学 生 を養 成 した 。 彼 の学 生 た ち が 全 国 に散 って そ の ①r中 国伊 斯 蘭 教 史 』780頁 。r布 華 里 喧 徳』 は破 棄 され たが 、 馬万 福 の弟 子 が そ の 内容 を縮 めて 教科 書r回 教 読 本 』 に編 集 し、 甘 粛 ・青 梅 両省 の回 民学 校 で教 授 され、 今 日に伝 え られ た とい う。 ② 《臨 夏 回族 自治 州 志》 編 纂 委員 会 編r臨 海 回 族 自治 州志 』 蘭 州 ・甘 粛 人 民 出版 社 、1993年 、1304頁 。 一144一 教 え を 広 め 、 イ フ ワ ー ニ ー 派 は 全 国 で100万 の 信 徒 を獲 得 した 。 1922年 馬 麒 ・馬 麟 軍 閥 は 西 寧 東 関 清 真 大 寺 に「寧 海 回 教 促 進 会 」と い う団 体 を設 立 した 。 当寺 は 「ハ イ イ寺 」(「 海 乙寺 」)に改 め られ 、 青 海 各 地 の清 真 寺 の教 務 を統 括 す る総 寺 に指 定 され た 。 馬 氏 軍 閥 の庇 護 下 、 馬 万 福 の子 供 た ちが 西 寧 東 関 清 真 大 寺 、西 寧 北 関 清 真 大 寺 、 臨 夏 南 関 清 真 大 寺 な ど の 開学 ア ホ ソに 就 任 した①。 馬 万 福 は、 総 寺 と して の西 寧 東 関 清 真 大 寺 や 彼 の 弟 子 た ち が 掌 握 す る清 真 寺 を 通 じて イ フ ワ ー ニ ー 派 の 聖 職 者 を育 成 す る と と も に 、 「寧 海 回 教 促 進 会 」の 名 義 で各 地 の清 真 寺 に イ フ ワー ニ ー派 の ア ホ ソ を無 理 や り送 り込 み 、 そ の教 義 を強 制 した 。 そ の た め に 、 1923年 に は 循 化 の 街 子 工 清 真 大 寺 で 肉 親 同士 の 殺 し合 い 事 件 が 起 こ る な ど、 軋 轢 は 高 ま った②。 1939年 に は馬 歩 芳 自身 が 西 寧 東 関 清 真 大 寺 理 事 会理 事 長 及 び 青 海 回教 教 育 促 進 会 会 長 に就 任 し、 そ の 職 権 を利 用 して 、青 海 全 省 の 清 真 寺 の ア ホ ソを こ と ご と くイ フ ワ ー ニ ー 派 の ア ホ ソ に換 え た。 そ う した ア ホ ソ は ム ス リム民 衆 か ら「官 学 ア ホ ソ」と呼 ば れ た。 ま た 、 馬 歩 芳 は異 教 徒 を排 除 す る た め に、 清 真 寺 の 学 員 マ ソ ラ の選 抜 に も手 を つ け 、 各 地 の清 真 寺 に マ ソ ラ を3分 の1削 減 す る よ う命 じた り した 。 この よ うに、 青 海 の 各 清 真 寺 は 馬 氏 軍 閥 の行 政 ・軍 事 機 構 と化 した 感 さえ あ っ た 。 ア ホ ソの 中 に も、 馬 歩 芳 に迎 合 し、 馬 歩 芳 は厂天 命 に叶 う もの 」で あ り、 「馬 歩 芳 に 反 抗 す る こ と は神 に 反 抗 す る こ と に 等 しい 」と 公 然 と擁 護 す る もの も登 場 した③。1942年 に は 甘 粛 省 張 家 川 で 、 着 任 して3日 目の イ フ ワ ー ニ ー 派 の 開 学 ア ホ ソが ジ ャ フ リー ヤ 門宦 の信 徒 に 暗 殺 さ れ る と い う事 件 も発 生 し、 教 派 間 の 紛 争 は背 後 の 軍 閥 間 の勢 力争 い と絡 ん で 激 化 しが ち で あ った ④。 20世 紀 前 半 に 中 国 イ ス ラ ム教 の教 派 間 の械 闘 や 傷 害事 件 は、 主 と して イ フ ワー ニ ー 派 とカ デ ィー ム 派 や 門 宦 と の 問 で 起 こ った もの で あ り、 両 者 の 対立 関係 は 、 日常 生 活 に お い て相 互 の 往 来 も絶 え 、 通 婚 さ え も避 け るほ どの 激 しい も の で あ っ た⑤。 そ の 結 果 中 国 ム ス リム民 衆 の 大 分 裂 を 招 い た こ とは 、 中 国近 現 代 に お け る中 国 イ ス ラ ム教 の重 大 な教 訓 と して 受 け止 め る べ きで あ ろ う。 〈寧 夏 に お け るイ フ ワ ー ニー 派 の 発 展 〉 1940年 代 ま で に イ フ ワ ー ニ ー 派 は青 海 や 甘 粛 両 省 で優 勢 を 占 め た ば か りで な く、 寧 夏 で も大 き く発 展 した 。 しか し、 寧 夏 で の布 教 は 、 と くに布 教 の 当初 は カ デ ィー ム派 と ジ ャ フ リー ヤ 門 宦 の 根 強 い反 対 に遭 い 、 つ ね に械 闘事 件 が発 生 した。 賀 蘭 山南 の 長 渠 地 方 で は 、 死 者 の 贖 罪 儀 式 を め ぐっ て 、 イ フ ワ ー ニ ー 派 と カ デ ィー ム派 と の 間 で 武 闘 事 件 が 起 き 、 イ フ ワー ニ ー 派 信 徒1名 害 さ れ た り、 固 原 三 営 で は、 ジ ャ フ リー ヤ 門 宦 第7代 教 主 馬 元 章(1853-1920)が が殺 イ フ ワー ニ ー 派 と の弁 論 を2回 組 織 し、 三 営 で伝 道 して い た 馬 俊 成(老 四 ア ホ ソ)が ジ ャ フ リー ヤ 門 宦 信 徒 に 連 れ 去 られ る と い う事 件 が あ った⑥。 布 教 が ス ム ー ズ で な か っ た 寧 夏 に お け る イ フ ワー ニ ー 派 の 発 展 で は 、 虎 嵩 山 ア ホ ソ(18801955、 寧 夏 同心 出 身)が 大 きな 役 割 を 果 た し、30年 代 後 半 に は 寧 夏 の 大 部 分 の地 域 に広 ま っ た 。 寧 夏 に お け る イ フ ワ ー ニ ー 派 の 布 教 ・発 展 は 青 海 と同 じ く、 寧 夏 馬 氏 軍 閥(馬 福 祥 ・馬 鴻 逵 父 子) に よ る庇 護 と不 可 分 で あ った 。 が 、1980年 代 に至 る も、 寧 夏 に お け るイ フ ワー ニ ー 派 の 信 徒 数 は 十 数 万 人 で 、 カ デ ィー ム派 や ジ ャ フ リー ヤ門 宦 に 及 ば ず 、 第 三 位 の 勢 力 に 留 ま って い る⑦。 ① 『中 国伊 斯 蘭 教史 』782頁 。 ②r中 国伊 斯 蘭 教史 』783頁 。 ③r中 国伊 斯 蘭教 史 』788頁 。 ④r中 国伊 斯 蘭教 史 』785-786頁 。 ⑤ 『中国 伊 斯 蘭教 史 』787頁 。 ⑥ 『中国 伊斯 蘭教 史 』786頁 。 ⑦r中 国 伊斯 蘭教 派 与 門宙 制 度 史略 』100頁 。 一145一 虎 嵩 山 は幼 い 頃 よ り父 に従 って 経 堂 教 育 を 受 け 、 フ ー フ ィー ヤ 門宦 の 学 理 や修 行 を 修 め た 。18 歳 の 時 父 か ら フー フ ィー ヤ の ハ リフ ァソ(伝 教 師)の 職 位 を 引 き継 ぐ こ と を放 棄 し、 海 原 県 濫 泥 溝 清 真 寺 の 汪 乃 必(王 乃 必 、 河 州 東 郷 県 唐 汪 出身)ア ホ ソ の 門 下 生 と な り、 イ ス ラム 教 の 経 典 と教 法 を5年 間 系 統 的 に研 究 した①。 師 弟 と も、 馬 万 福 バ ッジ が提 倡 した イ フ ワー ニ ー派 の 学 説 の 影 響 を受 け た 。1902年(22歳)卒 業 後 、 故 郷 の 同 心 城 関 清 真 小 寺 の ア ホ ソ に招 請 され 、 イ フ ワー ニ ー派 の経 典 に従 っ て習 俗 を あ らため る こ とを説 くと、 信 者 が 日増 しに増 加 した。1925年 上 海 を経 て メ ッ カ巡 礼 に赴 く中 で 、 中 国 の 弱体 化 の た め 中 国 人 が蔑 視 され るの を 目 に して 、 愛 国 こそ ム ス リム の 基 本 的 な責 任 で あ る と 自覚 した 。 ア ラ ブ地 域 で も西 洋 帝 国 主 義 に浸 食 され る悲惨 な イ ス ラ ム の現 状 を 目撃 した。 翌 年 帰 国後 、湖 南 省 常 徳 清 真 寺 の教 長(開 学 ア ホ ソ)を つ と め 、経 堂 教 育 を お こな い な が ら、 漢 文 を 自修 した 。 1927年 同心 に 帰 る と、 新 式 教 育 を提 倡 し、 中 国 語 ・ア ラ ビ ア語 を と も に重 ん じ、 漢 文 の 授 業 を 加 え る な ど経 堂 教 育 の 内 容 ・方 法 を改 良 した 。 ま た 、 「経 典 に よ って の み 教 え を立 て る」こ と を堅 持 し、 コー ラ ソや ハ デ ィー ス に合 わ な い 内 容 は除 去 しつ つ 、 過 激 な 方 法 は避 け て 、 あ る面 で は カ デ ィー ム派 や 門 宦 に妥 協 譲 歩 し、 宗 教 儀 式 上 の相 違 に 対 して は「そ れ ぞ れ の や り方 を 尊 重 し お互 い に 干 渉 しな い 」 原 則 を提 倡 した 。 この よ うに して 、 彼 は カ デ ィー ム派 や 門 宦 との 矛 盾 ・軋 轢 や 対 立 関 係 を緩 和 し、 寧 夏 に お け る イ フ ワー ニ ー派 の 代 表 人 物 と な った 。 中華 人 民 共 和 国 の 建 国後 も教 派 間 の 団 結 を 強 調 す る「温 和 派」と して 評 価 され て い る。 虎 嵩 山 が今 日 も評 価 され て い る も う一 つ の 理 由 は 、 彼 が 愛 国 を 強 調 し、抗 日運 動 に積 極 的 に 関 わ った か ら で あ る。 彼 は1937年 寧 夏 回 民 軍 閥 の馬 鴻 逵 寧 夏 省 主 席(1892-1970)② 李 鳳 藻(1894-1991)③ や呉忠 県の紳士 ・ らの招 聘 を 受 け て 、 呉 忠 に 中 阿 講 習 所(中 国 語 ア ラ ビア 語 学 校)を 創 立 し、 自 ら所 長 に就 任 した 。 翌 年 、 中 阿 講 習 所 を 呉 忠 中 阿 師 範 学 校 に改 組 し、 副 校 長 を 担 当 した 。 こ の よ うに 彼 は経 典 を 学 ぶ に は 漢 文 化 を 同時 に 学 ぶ必 要 性 を 強 調 し、 自 ら 中 国 語 ア ラ ビア語 学 校 を興 し、近 代 的 な 宗 教 人 材 を 育 成 した④。 当時 は ま さに 日中戦 争 の 時 代 で あ った 。 彼 は 学 校 で毎 朝 行 わ れ る国 旗 掲 揚 式 の 機 会 に 日本 軍 の 罪 行 を 暴 露 し、 抗 戦 の 意 義 を訴 えた 。 ま た 、 学 生 を指 導 して 抗 日の 壁 新 聞 を 出 した り、抗 日講 演 会 を 開 い た り した 。 金 曜 の礼 拝(ジ ュマ ー)に 行 な う フ ナ トワ (説 教)で は 、 経 典 を引 用 しな が ら抗 日救 国 の 大 義 を説 き、 「国 家 の 興 亡 は ム ス リム に そ の責 任 が あ る」と 唱 え た 。 ア ラ ビ ア語 と中 国語 の 両 方 で 書 い た 抗 日の 祈 薦 詞 を 石 版 印 刷 し、各 清 真 寺 に送 り、 抗 戦 の 勝 利 を 祈 願 した。 〈 イ フ ワー ニ ー派 の 教 義 〉 馬 万 福 らが 提 倡 した イ フ ワー ニ ー 派 の運 動 を「中 国 イ ス ラ ム 教 史 上 の一 大 維 新 運 動 」 「宗 教 改 革 」 と見 な す 見 解 もあ るが 、 教 義 的 に は新 しい 内 容 を 付 け加 え た もの で は な く、 初 期 の イ ス ラ ム教 の 精 神 、 そ の 原 点 で あ る コー ラ ン とハ デ ィー ス に立 ち 返 ろ う とす る も の で あ っ た⑤。 そ れ は、 主 に ① 彼 らは 、 イ フ ワー ニ ー派 が 正統 経 典 と して 奉 じ るr沙 密 』 『伊 目沙 徳 』r米 実十 替 』 の3册 を も っぱ ら研 究 した とい う(『中 国 伊斯 蘭教 史 』789頁)。 ② 馬鴻 逵 の履 歴 につ い ては 、r中 国 回 族大 詞 典』328頁 。 ③ 李鳳 藻 の履 歴 につ いて は 、r中 国 回 族大 詞 典』430頁 。 ④ 虎嵩 山 の編 著 作 に は、r穆 民三 字 経 読本 』(清 真 三字 経)r中 阿字 彙 』r中 波 字彙 』 『阿 文 文法 基 礎課 本 』r波 斯 文 法精 華 』 『阿 文 教 科 』 な ど の教 材 が多 い。 ほ か に 『教 律 摘 要 』(ア ラ ビア 語)『 亡 人 贖 罪 問 題 』(ア ラ ビ ア語) 『 月 論 釈 難 』 『拝功 之理 』 の著 が あ る(『中 国 回 族大 詞 典 』963-964頁 。 『中 国伊 斯 蘭 百 科全 集 』225頁)。 ⑤ イ フ ワ ー ニ ー派 とア ラ ブの ワ ッハー ブ派 との つ な が りに つ い て、 中国 で は論 争 が あ る。馬 通 は 両者 間 の 直接 的 な つ な が りを否 定 し、 イ フ ワー ニー 派 は 中 国 イ ス ラ ム教 の 現実 の産 物 で あ り、 「そ れ ぞ れ の国 家 に お い て イ ス ラム教 の革 新 運動 を起 こす とい う点 で は一 致 して い るが 、 革新 の 内容 は 同 じで は ない 」 と述 べ 、馬 万 福 は イ ス ラム思 想 の 面 で啓 発 を受 け ただ け で あ る と結論 づ け る(『 中 国伊 斯 蘭 教 派 与 門宦 制 度 史 略』89頁)。 一146一 イ ス ラ ム教 の 本 来 の儀 礼 に反 す る部 分 、 あ ま りに も 中 国化 ・土 着 化 して し ま った 習 俗 を 改 革 し よ うと い う もの で あ っ た 。 そ う した 点 で は 、 宗 教 改 革 と言 う よ り も 中 国 イ ス ラ ム 教 の 改 革 運 動 、 「革 新 派 」と 呼 ぶ べ き もの で あ ろ う。 が 、 大 きな イ ソ パ ク トを20世 紀 前 半 の 中 国 イ ス ラム界 に も た ら した こ と だ け は確 か で あ る。 彼 らの 中 心 的 な主 張 は 、 一 切 の 宗 教 的 な修 行 お よ び宗 教 儀 礼 は厳 格 に コー ラ ソ と ハ デ ィー ス に 従 って 行 うべ き と い う こ とで あ る。経 典 の 解 釈 お よ び社 会 問 題 や 日常 生 活 の処 理 に は、 ス ソ ニ ー 派 とハ ナ フ ィー 法 学 派 の 教 律 を遵 守 す る こ と を 求 め た 。 そ して 、 ア ッラ ー が 唯 一 至 上 で あ る こ と を 信 じ、 聖 典(コ ー ラ ソ)に 従 って 五 行 を 厳 格 に 履 行 す る こ と を主 張 す る 。 宗 教 的 な 行 な:いを「天 命 」 「当 然 」 「聖 行 」 「副 功 」の4種 に 分 け 、 前3種 は欠 く こ と ので きな い 主 要 な 義 務 で あ り、 順 次 履行 しな け れ ば な らな い が 、 最 後 の 「副 功 」 は重 要 で は な く、 門 宦 の よ うに 重 視 す る必 要 は な く、 余 裕 が あ る 時 にす れ ば よい と考 え る。 五 行(「念 ・礼 ・畜 ・課 ・朝 」)は コー ラ ソが 規 定 す る五 大 天 命で あ り、 あ らゆ る義務 の 中で最 も基 本的 な義 務で あ ると主 張 す る。 と くに「清 真言 」(Kall㎞al-Tunyiba、 「ア ッ ラ ー の ほ か に 神 は な し、 ム ハ ソ マ ドは 神 の使 徒 な り」)は自分 で 唱 え な け れ ば な らず 、 他 人 が 代 わ りに行 う こ とは で き な い と主 張 し、 ア ホ ソ が教 徒 の た め に 唱 えて もお 金 を 受 け取 って は な らず 、 派 手 で 浪 費 的 な儀 式 には 反 対 した 。 コー ラ ソを 唱 え る の は神 を認 め 、 神 を証 し、 神 を敬 い 、 神 を畏 れ るた め で あ って 、 祈 りを 捧 げ た り祈 願 した りす るた め で は な い。 そ れ ゆ え、 コー ラ ソ を 唱 え る こ とに よ って報 酬 を受 け取 る こ と に反 対 す る。 ま た 、 読 経 に 来 る人 に食 事 を 出す こ と に も 反 対 で 、 食 事 を す るな ら コー ラ ソ を 唱 え な い こ と を 主 張 した 。 これ は「唱 え る な ら食 べ な い し、 食 べ た ら唱 え な い」と い う ス ロ 「 ガ ソに ま と ま られ て い る。 「異 端 」と見 な す もの に は 断 固 と して反 対 し、 と くに ス ー フ ィズ ム の修 行 の や り方 に異 を唱 え た。 門 宦 の教 主 を 崇 拝 し聖 墓(ゴ ソ バ イ)を 参 拝 す る こ と は「物 に よ って 神 と結 び つ く」こと で あ り、 と くに 人 に 対 して 跪 くこ とは イ ス ラム 教 の唯 一 絶 対 の ア ッラ ー の み を信 奉 す る とい う根 本 信 仰 に真 っ 向 か ら違 反 す る こ とで あ る と考 え る。 馬 万 福 は 門 宦 の教 主 崇 拝 や ゴ ソバ イ 参 拝 に 反 対 した だ け で な く、 漢 人 の 風 俗 の 影 響 を受 け て 形 成 され た非 イ ス ラ ム的 な儀 礼 に も反 対 した。 と くに送 葬 や 祭 祀 に お け る仏 教 や 儒 教 の影 響 を 受 け た 習 俗 を排 除 し よ うと した。 しか し、 経 堂 教 育 に お い て は 、 従 来 の ア ラ ビア 語 だ け で な く、 中 国 語 も 同 じ よ うに重 視 した。 これ は 、 ア ラ ビア 語 を学 ぶ 余 裕 の な い 一 般 ム ス リム に もイ ス ラム 教 を よ り受 け 入 れ られ る よ うに しよ うと した もの で あ る。 これ ま で は 婚 礼 の 時 に 新 郎 に ペ ル シア 語 で 「受 け 入 れ ま す 」とい う意 味 の こ とば(「達 旦 」)を唱 え させ て い た が 、 イ フ ワー ニ ー 派 で は そ れ を ペ ル シ ア語 で は な く中 国 語 で 唱 え る よ う主 張 した 。 イ フ ワー ニ ー 派 の 「習 俗 改 革 」の 内容 は非 常 に広 範 囲 に わ た る・ もの で あ る。 子 供 の誕 生 後 に イ ス ラ ム名(「経 名 」)をつ け る命 名 式 は イ ス ラム の 大 切 な 習慣 で あ るが 、 子 供 の 誕 生 後7日 経 って か ら つ け、 これ ま で の よ うに 出 生 当 日に命 名 して は い け な い と した。 コー ラ ソの 教 え に の と って 、 男 性 は もみ あ げ め 髭 は残 し、 婦 人 は ス カ ー フ(「盖 頭 」)をか ぶ らな け れ ば な らな い 。 親 戚 の死 後 、 父 母 や 妻 子 及 び 弔 問 者 は た だ涙 を の んで 泣 く こ と が で き るだ け で 、 ラ ッパ を 吹 くと か大 泣 きす る こ と は許 され な い 。 故 人 の た め に喪 服 を着 た り喪 に服 した りす る こ と、 お よび 棺 を引 い た り弔 辞 の 幕 を送 る こ と を 認 め な い 。 また 、 故 人 を埋 葬 す る 際 に 金 銭 を ば ら ま く こ と も認 め な い。 故 人 の た め に通 夜 を す る こ と、 及 び 初 七 日(七 道)、 四 十 日、 百 日、 一 周 忌 な ど の 忌 日に 記 念 行 事(法 事)を 行 な う こ と を提 倡 しな い 。 教 権 組 織 の面 で は、 イ フ ワー ニ ー派 は カ デ ィー ム 派 と大 体 同 じで 、 同 派 の 宗 教 領 袖 も統 一 組 織 一147一 も存 在 せ ず 、隷属 関係 の な い教 坊 制 を実 行 して い る と され る。 が 、 回民 軍 閥 の 権 力 的 支 持 を 得 る 中 で 、 青 海 省 や 臨 夏 地 区 で は本 来 お互 い に 隷 属 関 係 に なか っ た若 干 の教 坊 を 「ハ イ イ 制 」を通 して 統 監 す る よ う に な っ た 。 た と え ば 、 臨 夏 南 関 大 寺(1273年 創 建)、 韓 集 磨 川 大 寺 、 広 河 南 街 大 寺 、 積 石 山 白L蔵大 寺(1855年 創 建)な どは 、 老 の 下 に数 個 の 、 あ る い は 十 数 個 の 清 真 寺 を 管 轄 して い る①。 〈新 た な分 派 サ ラ フ ィー ヤ 派 の 誕 生 〉 1937年 に 、 イ フ ワー ニ ー 派 か ら新 た な:分派 サ ラ フ ィー ヤ派 が誕 生 す る。 1936年 、 イ フ ワ ー ニ ー 派 の著 名 な ア ホ ソで あ っ た馬 得 宝(1867-1977)は 、 馬 以 奴 斯 ア ホ ソ(マ イ ヌス 、 マ ユ ー ヌ ス「馬 尤 努 斯 」、 別名 ・老 阿 林)や 寵 愛 を 受 け て い た 青 海 省 主 席 の 馬麟 ら13名 で メ ッ カ巡 礼 に赴 き、 帰 国 時 に新 学 派(ワ ッハ ー ブ派)の 典 籍 を 持 ち帰 った ②。 そ して 、 翌 年 か ら臨 夏 県 (現 在 は 積 石 山 自治 県)の 乱蔵 ・居 集 ・吹 麻 灘 な ど で ア ホ ソを しな が ら、 馬 以奴 斯 ア ホ ソ と持 ち 帰 っ た 典 籍 を研 究 し、 新 た な 教 え を伝 授 し始 め た 。 馬 得 宝 の 教 え は臨 夏 県 の一 部 の ム ス リ ムの 信 奉 を 受 け る よ うに な っ た た め 、 イ フ ワー ニー 派 内部 で 論 争 が 引 き起 こ され 、 両 派 に分 裂 す る こ とに な っ た。 馬万 福 の 本 来 の 宗 旨 を 堅持 す る一 派 は 、 広 河 県 三 甲集 出身 の ガ ス ク(藜 蘇 个)ア ホ ンを 中心 と し、 「蘇 派 」と呼 ぶ よ うに な った 。 礼 拝 の時 に1回 しか 手 を 上 げ な い の で 、 厂一 抬 」と も俗 称 され る。 他 方 、 馬 果 園 の 宗 旨 の 改 革 を主 張 した 馬 得 宝(豕 白庄)の 一 派 は 、 彼 の 出 身 地(広 河 県 白庄)か ら「白 派 」と称 され た 。 白派 の 人 た ち は 「サ ラ フ ィー ヤ 」(alrSalafiyyah、 「賽 莢 非 耶 」)と自称 した 。 そ れ は ア ラ ビア語 か ら の音 訳 で 、 原 意 は「古 行 」「復 古 」あ る い は 「賢 者 を崇 拝 す る者 」の 意 味 で あ っ た。 同派 は 礼 拝 の た び に3回 手 を上 げ る の で 、 他 教 派 か らは 「三 抬 」と 呼 ば れ た。 白派(サ ラ フ ィー ヤ 派)に も 自己 の 信 徒 が い た け れ ど も、 当 時 馬 雲 ア ホ ソを 中心 とす る イ フ ワ ー ニ ー 派 の強 烈 な反 対 に会 い 、 ま た権 勢 を握 っ て い た三 馬 軍 閥(馬 歩 芳 、 馬 歩 青 、 馬 歩 康)か ら布 教 を禁 止 され た た め 、 圧 迫 を 恐 れ て 布 教 を 中 止 した 。1949年 の 中華 人 民 共 和 国 の 建 国 後 、 馬 歩 芳 軍 閥 支 配 の崩 壊 と 新 中 国 の 宗 教 信 仰 自 由政 策 を 眼 に して 、 馬 得 宝 らは 臨 夏 八 坊 の 新 王 寺(1941年 創 建)を 拠 点 に 、 改 め て 布 教 を 始 め た。 そ の結 果 、1950年4月 清 真 寺12の うち7つ 年6月 には、 臨夏八坊 の イ フワーニー派 の 清 真 寺 ③の 開 学 ア ホ ソ と100戸 ほ ど の教 徒 が 白派 の 主 張 を擁i護 した ④。 同 に は 、 馬 得 宝 と 馬 以 奴 斯 は声 望 の あ る八 坊 の ア ホ ソ17名 を 集 め て 座 談 会 を 開 い た ⑤。 こ う して 、 白派 と蘇 派 の 対 立 と争 い が 再 び発 生 し、 そ の 対 立 は 日々 に強 ま り、 武 力衝 突(械 闘)に 発 展 しそ うで あ った 。 人 民 政 府 は 宗 教 信 仰 自 由政 策 に 照 ら して 、「お の お の 各 自の こ と を行 な い 、 お 互 い に 団 結 し、 相 互 に 干 渉 しな い」と い う原 則 か ら出 発 して 、 両 派 間 の 問 題 を穏 当 に解 決 し、 不 幸 な 事 件 が 発 生 す るの を 回避 した とい う⑥。 そ の後 も、 サ ラ フ ィ ー ヤ 派 は一 定 の 発 展 が 見 られ 、 信 徒 は300戸 余 りに 増 加 した 。 臨 夏 県 の 居 ① 『臨 夏 回族 自治 州 志 』1304孟1305頁 。 創 建 年 代 は 、,呉建 偉 主 編 『中 国 清 真 寺 綜 覧』 銀川 、 寧 夏 人 民 出 版社 、 1995年 に よる。 ② ワ ッハ ー ブ派 の典 籍 を購 入 した こと が馬麟 に見 つ か り、 これ ら の典籍 を持 ち帰 ると風 波 を引 き起 こす と考 え、 彼 らは'協議 して 太 平 洋 を航 行 中 に海 に捨 て る こ とに 決定 した 。 多 数 の人 は この よ うに した が 、馬 徳 宝 と馬 以 奴 斯 はひ そ か に数 珊 の典 籍 を持 ち 帰 った とい う(『中 国伊 斯 蘭 教 史 』793頁)。 ③7つ の清 真寺 は 、新 王 寺 、 祁 寺 、北 寺 、 盈 南 寺 、鉄 家 寺 、木 廠 寺 、 韓 家寺 で あ る(『 中国 伊 斯蘭 教 派 与 門 宦制 度 史 略』101頁)。 ④r臨 夏 回族 自治 州 志』1305頁 。 ⑤ 『中 国伊 斯 蘭 教 派 与 門宦 糊 度 史略 』101頁 。 ⑥ 『伊 斯蘭 教 教 派 」105頁 。 一148一 家 集 ・吹 麻 灘 ・馬 蓮 灘 に100戸 弱 、 和 政 ・東 郷 ・広 河 県 に約20戸 の 教 徒 が い た 。70年 代 に は い っ て急 速 な 発 展 を見 せ 、 こ こ に よ うや く独 立 した一 つ の 教 派 と して成 立 した とい え る。 主 と して 甘 粛 省 臨 夏 、 蘭 州 、 天 水 、 張 家 川 と青 海 省 、 陝 西 省 西 安 市 な ど に1万 人 弱 の信 者 と ア ホ ソ、 お よび 自派 の清 真 寺30あ ま り(1985年)を 有 して い る①。 サ ラ フ ィー ヤ派 の主 張 は 、 聖 徒 崇 拝 や 聖 墓 参 拝 に反 対 す る こ と、及 び ハ デ ィー ス に従 って 男 性 は髭 を い っ さ い剃 らず に残 し、 婦 人 は ベ ー ル(「面 紗 」)をか ぶ る よ う主 張 す る な ど、 多 くの 点 で イ フ ワー ニ ー 派 と同 じで あ る が 、 両者 を分 か つ 独 自の観 点 を持 っ て い る。 かれ らは、 万 物 は み な ア ッ ラ 三 が創 造 した もの で あ り、 ア ッ ラー は被 創 造 物 の 中 に は存 在 しな い 、 地 球 も ア ッ ラー が 創 造 し た もの で あ り、 そ れ 故 ア ッラ ー は 必 ず 地 球 の 外 に存 在 す る と考 え る。 コー ラ ソの 原 文 及 び 合 理 的 と見 な す 注 釈 の み を承 認 し、 み だ りに解 釈 を 施 す こ と に反 対 す る。 た だ しハ デ ィー ス は コー ラ ソ に対 す る最 良 の 解 釈 で あ るか ら 、遵 守 す べ きで あ る と す る。 た だ 「前 三 代 」、 す な わ ち預 言 者 ム ハ ソマ ドの聖 門 弟 子 、 再 伝 弟 子 、 三 伝 弟 子 が奉 じて い た教 義 ・教 律 の み を 承 認 す る。 も しあ る問 題 につ い て の 解 釈 が異 な る時 に は 、先 学 の うち誰 の理 由 が充 足 してお り、 解 釈 が 正 確 で あ る か に よ っ て 、 そ れ を 遵 守 し、 い か な る解 釈 も盲 目的 に は排 除 しな い。 礼 拝 の 時 に は、 イ マ ー ム が コー ラ ソの 第 一 章 「フ ァテ ィ ハ」を 声 高 らか に唱 え 、 礼 拝 者 は そ れ に 応 じて低 く唱 え る。 イ マ ー ム が 読 み終 え る と、 礼 拝 者 は「ア ミ ソ」(祈 りの 言 葉 「神 よ 、 我 の 求 め を許 し給 え」、 「阿 敏 」)を 声 高 く唱 え る(中 国 で は通 常 黙 読 され る こ と が 多 い)②。 礼 拝 時 に は 毎 回3回 手 を 上 げ る よ う提 倡 す る。 す な わ ち、 まず 礼 拝 を始 め る時 に1回 上 げ、 次 に 座 っ て お 辞 儀 を す る前 に2回 目、 最 後 に お 辞 儀 を して 立 ち あが る と きに3回 目の手 を 上 げ る動 作 を行 な う と い うも の で あ る。 ま た、 現 金 や 財 物 で も って 故 人 の た め に「フ ィデ ィ ヤ ー」(贖罪)を す る必 要 は な い と主 張 す る。 第四節 西道堂=イ スラ厶集団経済教 団 中 国 近 代 に お け る第=二の新 教 派 と して 、20世 紀 初 め に「西 道 堂 」と称 す る教 派 が 出 現 した。 創 始 者 は 甘 粛 省 臨 潭 旧 城 の 馬 啓 西(1857-1914、 イ ス ラ ム 名 は一 海 崖 イ ハ イ ヤ)で あ る。 彼 は も と も と フー フ ィー ヤ 北 庄 門 宦 の信 徒 で あ った の で 、 彼 の 創 立 した「西 道 堂 」を 門宦 の一 つ と見 なす 人 も い る。 実 際 に 西 道 堂 は 門 宦 と同 じよ うに 同 派 の 最 高 領 袖 た る教 主 を 設 け て い た が 、隷 属 関 係 に な い 単 一 教 坊 制 の 実 行 を主 張 した の で 、 一 般 に 門 宦 と は見 られ て い な い。 同 派 の宗 教 思 想 及 び儀 礼 も そ れ を裏 付 け て い る。 ま た 、 同派 は 漢 学 を重 ん じ、 清 初 の著 名 な 回 教 学 者(回 儒)の 劉 智(劉 介 廉) らが 「儒 教 を以 て 経 典 を詮 議 した 」 漢 文 の 著 述 を行 動 の根 拠 と した た め 、 「漢 学 派 」と も称 され る。 馬 啓 西 は幼 少 の こ ろ 旧城 上 寺 で ア ラ ビ ア語 と読 経 を学 び 、11歳 の 時 旧城 の 範 玉 麟 先 生 の 私 塾 で 漢 文 を学 ん だ 後 、 新 城 七 集 店 子 村 の 明 儒 ・範 縄 武 を師 と して「四書 ・五 経 」な ど の経 文 ・儒 学 を学 ん だ 。1880年 府 試 を受 験 し秀 才 に及 第 す る も仕 官 せ ず 、宗 教 研 究 に身 を投 じ、 主 に 漢 文 の 経 史 や 劉 智 らの イ ス ラ ム教 の漢 文 の 著 作 を 研 究 した 。 彼 の 生 まれ 故 郷 臨 潭 は辺 鄙 な 山 が ち の 地 域 で あ った が・ 「中 国 の 小 メ ッ カ」と称 され る河 州(臨 夏)に 隣 接 した 回民 の 多 い 地 域 で あ っ た。 臨 潭 は 多 くの 回 民 が農 業 に 従 事 し、 ま た牧 畜 や 手 工 業 、 商 業 も営 み 、 商 品 経 済 の比 較 的 発 展 して い る地 域 で 、 多 くの 回 民 は毛 皮 ・薬 材 ・土 産 品 の貿 易 に ①r臨 夏 回族 自治 州志 』1305頁 。 ② 『中 国伊 斯 蘭 百科 全 集 』29頁 。 一149一 従 事 し、 内地 と の往 来 も盛 ん で あ っ た。 しか し、 光 緒 年 間 の 西 北 回 民 起 義 や 「河 湟 事 変 」の 失 敗 に よ り回 族 人 口 が急 減 し、 経 済 も停 滞 して い た 。 現 世 に お け る幸 福 を重 視 す る馬 啓 西 は 、 回 民 の た め 、 そ して 地 域 経 済 を 発 展 させ るた め に も、 回 民 は イ ス ラム 教 の 教 義 だ け で な く、 漢 文 お よ び漢 文 化 も学 ば な け れ ば な らな い と主 張 した。 か れ は 旧来 の経 堂 教 育 を脱 して 、 儒 学 ・漢 文 を主 と し な が ら王 岱 輿 ・劉 智 ・馬 徳 新 、 と く に劉 智 の 『天 方 至 聖 実 録 』 『天 方 典 礼 』 『天 方 性 理 』 『五 功 釈 義 』 『正 教 真 詮 』 『清 真 大 学 』 『清 真指 南 』 な どの 「ハ ソ コ タブ 」(「 漢 克 塔 布 」、 イ ス ラ ム 教 の 漢 文 典 籍)を も学 ぶ 新 式 の 経 堂 を興 す こ とを 主 張 した。 彼 は1891年 よ り臨 潭 西 鳳 山 に私 塾 「鳳 山 金 星 堂 」を 開 設 し、 四 書 ・五 経 を講 ず る以 外 に、 イ ス ラ ム教 を 理 解 した い と願 う回 民 や 漢 人 に イ ス ラ ム教 の 教 理 を説 い た 。 彼 は 、 午 前 は 教 え 、 午 後 は 西 鳳 山 の 家 の 洞窟 で 静 坐 し黙 して悟 りを求 め る とい うス ー フ ィ ズ ムの 修 行 生 活 を13年 間 ほ ど送 った 。 彼 は 朝 勉 強 し、 午 後 は休 息 す る こ と を提 倡 した の で 、 世 間 で は 「馬 家 学 堂 は、 老 師 が 座 禅 し、 学 生 は 眠 って い る」と揶 揄 され た。 そ の た め 、 一 時 は数 人 か ら100人 ほ どに 増 え た学 生 が 減 り、1896 年 に 私 塾 は い っ た ん 閉 鎖 の 憂 き 目に あ っ た 。 〈 第1期:馬 啓 西 時 代(1902∼1917)〉 1898年 、 馬 啓 西 は 自己 の趣 旨 を変 え て 、 旧 城 北 庄 門 宦 の達 子 溝 ゴ ソバ イ に経 堂 を 開 き、 イ ス ラ ム教 の 学 理 を講 じ始 め た。 当 初 聴 講 して い た の は彼 の 親 戚 や 友 人 た ち で あ っ た とい う。 次 第 に学 生 た ち か らは非 常 に 歓 迎 され る よ うに な った が 、 当地 の上 層 ム ス リム の 反 対 に あ っ た 。 自己 の 宗 教 思 想 が 完 成 した 後 、1902年 北 庄 門 宦 か らの 離 脱 を 宣 布 し、 別 の 組 織 を設 立 した 。 1903年 当 局 に監 禁 され た が 、 これ に 屈 せ ず 、 翌 年 に は資 金 を 集 め て 臨 潭 西 鳳 山 に 自 ら の清 真 寺 (礼 拝 寺)を 建 立 した 。 ま た信 者 か ら寄 付 を 募 って 、 教 団経 済 の 建 設 に も着 手 した 。 西 道 堂 の最 大 の特 色 は、 イ ス ラム 教 の一 教 派 で あ る と同 時 に 、農 業 ・商 業 を と もに重 視 した経 済 組 織 で も あ っ た とい う点 で あ る。 そ れ ゆ えに 「西道 堂 の 歴 史 は 、 宗 教 団 体 史 とい うよ り も 『商 団史 』 で あ る」と 形 容 され る①。1903年 、 信 者 の丁 重 明 が 白銀1万 両 を 寄 進 して 「天 興 隆 」商 号 の 商 店 を 開設 し、 翌 年 に も1千 両 を寄 進 して 「天 興 亨 」商 号 の商 店 を 開設 した。 馬 啓 西 教 主 ら も家 産 を 供 出 し、 教 団経 済 の 発 展 に尽 力 した 。 馬 啓 西 に対 す る迫 害 は激 化 し、 北 庄 門宦 と の間 で た び た び 械 闘 が発 生 し、 裁 判 沙 汰 と な っ た。 そ こで 、 馬 啓 西 は1906年 メ ッカ巡 礼 に 向 か っ た が 、 中 央 ア ジ アの 動 乱 の た め に サ マ ル カ ソ ドで 行 く手 を阻 まれ 、 サ マ ル カ ソ ド(Samarkand、 「撒 馬 爾 牢 」)の白帽 城 北 道 堂 で 講 じた 。1908年 メ ッ カ巡 礼 を果 たす こ と な く臨 潭 に 戻 る と 、「鳳 山 金 星 堂 」を「西 道 堂」と 改 名 し、 積 極 的 に 宣 教 を開 始 した 。 これ が 同派 の 正 式 名 称 と な っ た。 馬 啓 西 は「劉 智 が 種 を ま き、 官 川(ジ ャ フ リー ヤ 門 宦 の道 祖 ・馬 明 心)が 花 を咲 か せ 、 私 が果 実 を 実 らせ る」と称 して 、 新 しい教 団 の 建 設 に 全 力 を 注 い だ。 こ の 時 に は、 彼 の 名 を 慕 って訪 ね て く るム ス リム が 日増 しに 増 え、 青 海 省 民 和 や 化 隆 の地 か ら来 る もの も あ っ た。 ま た 回民 だ け で な く、 周 辺 の 被 災 に あ った 漢 人 や チ ベ ッ ト人 ・ボ ウ ナ ソ族 ②、 ①r中 国伊 斯 蘭 教派 与 門 寅 制 度史 略 』130頁 。 ② ボ ウ ナ ソ族(ボ ー ア ソ族 、保 安 族)は 、1862年 以後 ラマ 教 隆 務寺 の地 主 の圧 迫 を 受 け て 、原 住 地 の保 安 三庄(こ れ が 民族 名 の 起源 で あ る)か ら現 在 地 の臨 夏 に 移 住 した イ ス ラム教 徒 で あ る。 言 語 は ア ル タ イ語 系 で、 蒙 古族 ・ 土(ト ゥ)族 ・ トソシ ャ ソ族 の言 語 と近 い。 が、漢 語 か らの 借用 が多 く、表 記 には 漢字 を用 い て きた。 生 業 は か つ て遊 牧 であ った が、 現 在 は潅 漑 が 進 み、 サ ソ シ ョ ウや リソ ゴ、 クル ミな ど を作 って い る。 副 業 と して炭焼 き や製 薬 原料 採 取 な どを行 な う。 また 「 保 安 刀」 と呼 ばれ る技 術 の高 い銅 ・牛骨 の刀 をつ くる。 元 来遊 牧 民で あ っ た た め 、相 撲 を好 み 、乗 馬 や射 撃 に た け て い る な ど、 モ ソ ゴル族 と似 た 習 慣 を 残 して い る(『文 化 人 類学 事 典 (縮刷 版)』707頁 。 一150一 サ ラ族 ①、 トソ シ ャ ソ族 な ど の人 々 か ら も慕 わ れ た。 こ こ に西 道 堂 は 中 国 イ ス ラム 教 の独 立 した 教 派 と して の 地 位 を確 立 した 。 これ 以 後 、 教 団 の 集 団経 済 組 織 は発 展 を続 け 、1913年 ま で に西 道 堂 の商 業 資 本 は 白銀10万 両 か ら100万 両 に 増 加 した。 こ う した発 展 は 当 地 の 官 僚 や ム ス リム 上 層 人 物 の恐 慌 を まね き、 つ い に1914年5月 、 「白朗 叛 乱 軍 と結 託 」の疑 い を か け られ 、 馬 啓 西 は 家 族 と と も に馬 安 良 軍 閥 に殺 害 さ れ 、道 堂 財 産 も没 収 さ れ た(「五 ・一・ 九 惨 案 」)②。 残 され た丁 全 功 は 馬 明仁 や 敏志 道 らと北 京 に上 京 して 訴 え出 た が 、2年 間 の 努 力 の 甲斐 は な か っ た。 が 、道 堂 財 産 を取 り戻 す こ とに は 成 功 した。 しか し、 第 二 代 の丁 全 功(1868-1917、 甘 粛省臨 潭 出身)③ も1917年 に は 馬 安 良 軍 に殺 害 され 、 馬 明 仁 や 敏 志 道(敏 学 成)ら も1916年 か ら2年 間 入 獄 され た。 <第2期:馬 1919年 に 出獄 した 馬 明仁(1893-1946、 明仁 時 代(1918∼1946)> 甘 粛 省 臨 潭 出 身)④ は第 三 代 の 教 主 に就 任 し、 敏 志 道 ら と協 力 して 西道 堂 の再 建 に着 手 した 。 す で に 馬 啓 西 は 、男 性 だ け で な く女 性 も学 校 に通 っ て 勉 学 す る こ と を提 倡 して い た 。 そ こで 、 まず 学 校 教 育 に 力 を入 れ 、 道 堂 財 産 を 用 い て 臨 潭 普 慈 小 学 と 女 子 小 学 校 を 開 校 した。 そ こ で は 中 華 民 国 教 育 部 編 修 の教 科 書 を採 用 し、 教 学 内 容 も典 籍 か ら科 学 文 化 に及 ぶ 新 式 教 育 を 実 施 した。 そ して 、 優 秀 な子 女 を選 抜 して 、 外 地 の 中学 高 校 や 大 学 に 進 学 させ 、 西 道 堂 の た め の 人 材 を養 成 した 。 の ち西 道 堂 で は第 四 高 等 小 学 校 、 卓 洛 初 級 小 学 校 、 啓 西 中 学 校 な ど を 開 校 した 。 ま た 、 道 堂 や モ ス ク を8つ 建 立 した(計50モ ス ク建 立 の 計 画 を も っ て い た)。 教 団 の 産 業 発 展 の 面 で も、大 き な成 功 を収 め 、 西 道 堂 の 全 盛 期 を 迎 え た。 馬 明仁 の 名 は 全 国 に伝 わ り、 西 道 堂 は 著 名 な ジ ャー ナ リス トの 範 長 江 や 有 名 な 歴 史 学 者 ・顧 頡 剛 、 社 会 学 者 の 李 安 宅 、 于 式 玉 教 授 らか ら「新 社 会 模 型 」と の評 価 を受 けた ⑤。 西 道 堂 は 、 教 団 に よ る集 団 経 済 所 有 制 を 実 行 した 。 堂 内 は 集 団 戸 と個 人 戸 に 分 か れ 、 集 団 戸 (約400戸 、1000人 余 り)は そ の 財 産 を 教 団 に 納 め 、 甘 粛 省 臨 潭 で 集 団 生 活 を 送 った 。 約1万 人の 個 人 戸 は甘 粛 、 青 海 、 新 疆 、 四 川 等 で 通 常 の 家 庭 生 活 を送 っ て い た 。 道 堂 は農 業 、 商 業 、 牧 畜 、 副 業 を経 営 し、 統 一 管 理 、 統 一 分 担 、 統 一 分 配 を 実 行 した。 堂 内 経 済 の管 理 の た め に 総 経 理 を設 け 、 そ の 下 に各 業 種 ご と に経 理 と責 任 者 を お い た 。 これ らの人 た ち は名 義 上 は大 衆 に よ る推 薦 で あ るが 、 実 際 に は 教 主 ら「大 戸 」(有力 者)が 独 占 した 。 中 華 人 民 共 和 国 が 成 立 す る ま で に 、 西 道 堂 は 「天 興 隆 」「天 興 亨 」な ど独 自資 本 の商 号20社 、 合弁 資 本 の 商 号1社 を有 して お り、 そ れ らの 分 店 は 新 疆 、 チ ベ ッ トや 甘 粛 省 の 蘭 州 ・岷 県 、 四 川 省 の 甘 孜 ・阿 填 ・康 定 お よ び 北 京 、 天 津 、 張 家 口、 上 海 、 武 漢 な ど の 大 都 市 に 及 び、 流 動 資 金 は 白 銀 200万 両 ほ ど と見 積 も られ て い る。 経 営 す る商 品 の種 類 は 多 く、 金 銀 、 農 牧 畜 産 品 、 貴 重 な 薬 剤 、 ① サ ラ族(サ ラー ル族 、 撒 拉族)は 、青 海 省 東 部(大 半 は循 化県 に住 む)・ 甘粛 省 臨 夏 県 ・新 彊 に 住 む チ ュル ク語 系 の イ ス ラム 教 徒 。 か つ て は 「沙 喇 」「薩 拉 」 と表 記 され た。 イ ス ラム教 を 信 仰 して い るので 、 清 代 に は 「徹 拉 回」 と呼 ば れ た。 そ の 語源 は、 元代(14世 紀)に 中央 ア ジアの サ マ ル カ ソ ドか ら青 海省 東 部 に移住 して きた もの とみ られ て い る。そ の 後 、周 囲 の チ ベ ッ ト人 や 回民 ・漢 人 と融 合 して 、現 在 の サ ラ族 が形 成 され た と考 え られ て い る。 言 語 的 に は ウイ グル語 や ウズベ ク語 な どと非 常 に近 似 してい る。 元 代 には世 襲 の頭 目が いた が 、 明代 にそ の地 位 は 「土司 」 に継 承 され た。 生 業 は 農業 で、 ハ ダカ麦 ・小 麦 ・そ ば ・ジ ャガ イ モ な どを作 る。 ほ か に 牧畜 業 や 林 業 、 製塩:、毛 織 業 な どを兼 業 して い る。 交 易商 人 も多 い。 清 代 には 、 「蘇 四十 三 の 乱 」(1781)、 陜 甘 回民 起 義(1862-1873)、 河 湟 事 変(1895年)と3回 の反 清峰 起 を 起 こ して い る(『 文 化 人類 学 事 典(縮 刷 版)』 313頁 。 『ア ジア歴 史 事 典4』 平 凡社 、1960年 、64頁)。 ②r甘 粛 回 族 人物 』40-42頁 。 ③r中 国 回 族 大詞 典 』958頁 。 ④r中 国 回 族 大詞 典 』967-968頁 。r甘 粛 回 族 人 物』132-133頁 。 ⑤ 于式 玉 著r于 式 玉蔵 区 考察 文 集 』北 京 ・中 国 蔵学 出版 社 、'1990年、146頁 。 一151一 反 物 、 珊 瑚 、 日曜 百 貨 品 な ど を扱 った 。 そ の ほ か 、 ラ ク ダ ・牛 の 行 商 隊20、 ラ ク ダの 隊 商3グ ル ー プ60峰 、12の 農 場 ・耕 地7,000ム ー ∼ 5つ の牧 場 ・牧 畜5,000頭 、13の 林 場 、製 粉 所 ・製 油 所 ・煉 瓦 工 場 ・緑 豆 粉 工 場 ・製 酢 所 な ど10 あ ま りの作 坊(手 工 業 の 工 場)を 経 営 して い た 。 西 道 堂 の 主 張 の最 大 の 特 色 は 、 現 実 を 直視 し、 現 世 の 中 に幸 福 を 追 求 す る姿 勢 を前 面 に 出 して い る こ とで あ る。 教 育 に 力 を入 れ 、 教 団 の経 済 組 織 を設 立 して産 業 発 展 に尽 く した の は ま さに そ の 現 れ で あ る。 ま た 、 民 族 の平 等 を強 調 し、 他 の 教 派 や 門 宦 と の 関 係 に留 意 し、 姓 氏 ・民 族 ・血 縁 関 係 に 関 係 な くム ス リム の大 団 結 に よ るイ ス ラ ム の大 家 庭 の建 設 を 目指 した 。 西 道 堂 は宗 教 儀 礼 の面 で は 、 カ デ ィー ム派 と ジ ャ フ リー ヤ 門 宦 両 者 の特 徴 を兼 ね 備 え 、「教 乗 」と「道 乗 」の兼 修 を 唱 え る。r順 主 順 経 」 「遵 経 依 訓 」を信 奉 し、 天 命 五 行 の 履 行 を 主 張 す る が 、 や や 礼 拝 や 断 食 を 軽 視 す る傾 向 が あ り、 宗 教 的 な記 念 日(そ の 中 に は創 始 者 の 馬 啓 西 の生 誕 日や 殉 難 日 を含 む)を 重 ん じた。 宗 教 領 袖 で あ る教 主 の 統 一 管 理 制 度 が と られ 、 教 主 が宗 務 事 項 と と も に堂 内 の 世 俗 及 び 生 活 事 項 を 管 轄 した 。 ま た、 儀 式 を簡 素 化 して 、 宗 教 負 担 を軽 減 し、 過 去 の 古 い風 俗 を あ らた め 、 子 供 に コー ラ ソの 読 誦 を強 要 せ ず 、 男 女 と も学 校 に通 わ せ て勉 強 さ せ る な ど、 イ ス ラ ム教 を近 代 社 会 に 適 合 させ る改 革 運 動 の側 面 が 強 か った 。 これ は 「新 興 商 業 階 層 の要 求 」を反 映 して い る と さ れ る①。 日本 の 中 国大 陸 へ の進 出 、 と くに華 北 へ の侵 略 の危 機 に 直 面 して い た 当 時 の 中 国 社 会 で は 、 中 国 の奥 地 に位 置 す る西 北 地 域 に注 目が集 ま って い た が 、 そ の 中 で 西 道 堂 も注 目を浴 び る存 在 と な っ た。 当 時 の 中 国 の 代 表 的 な 新 聞 『大 公 報 』 の範 長 江 記 者 は 、 西 道 堂 を取 材 し、次 の よ うな記 録 を 残 して い る。 「新 教(西 道 堂 の こ と)の 組 織 は 、 清 真 教(す な わ ち 回 教)の 教 義 に 基 づ い て お り、 中 国文 化 を以 て 清 真 教 の学 理 を 発 揚 し、 中 国 の 同胞 に清 真 の教 義 を理 解 させ る こ とを 趣 旨 と し、 文 ・化 方 面 に や や 偏 重 して い る。 新 教 の 教 主 は世 襲 で は な く、 教 民 全 体 が推 薦 す る。 道 堂 経 済 は 同堂 が 経 営 管 理 す る商 業 や 農 業 か ら きて い る。 道 堂 に 所 属 す る も の は す べ て 公 有 で 、 そ れ で も って 道 堂 の建 設 、石 教 育 及 びす べ て の社 会 事 業 を お こな う。 教 民 は教 堂 に奉 仕 す る も の で あ り、 お の お の が 出 来 る こ と を尽 く し、分 担 協 力 しあ うが 、 生 活 の面 は 『一 律 平 等 』 で あ る。 … … 同堂 は 教 育 を重 視 し、 教 民 は 回民 教 育 以 外 に 、 国 家 教 育 に 注 意 し、農 業 ・商 業 各 界 を 問 わず 子 弟 は 等 し く小 学 校 教 育 を受 け る。 卒 業 後 は 、 優 秀 者 を選 ん で 、 中 学 か大 学 に送 る。 … … か れ ら教 民 間 の 結 婚 は 、相 手 を ま ね く財 産 が な く、 た だ 両 性 の 同 意 が 求 め られ 、 そ の 後 に父母 及 び 紹 介 者 が 教 主 に文 書 で報 告 し、 ア ホ ソを招 い て清 真教 の 古礼 に従 っ て 読 誦 し、 婚 姻 を 成 り立 た せ る。 これ は近 代 的 な新 式 婚 姻 で あ る。 」(範長 江 著 『中 国 的 西 北 』 北 京 ・新 華 出 版 社 、1980年) 〈第3期:敏 志 道 時代(1947∼1958)〉 全 盛 を誇 った 西 道 堂 も1946年 に 馬 明仁 が死 去 す る と、 衰 退 に 向 か っ た。 初 期 か らの信 者 で 人 柄 の温 厚 な 敏 志 道(1880-1957、 甘 粛 省 臨 潭 出身)② が 第 四 代 教 主 に就 任 す る も 、 病 弱 な た め に 内 部 の指 導 権 が 中 層 の責 任 者 に 握 られ 、 集 団財 産 の私 財 化 現 象 な ど の 発 生 に よ り、 教 団 の統 率 に乱 れ ①r伊 斯 蘭教 教 派 』107頁 。 ②r中 国 回族 大 詞 典 』964頁 。 一152一 が生 じ始 め た。 中 華 人 民 共 和 国 成 立 以 前 に、 西 道 堂 の経 済 は す で に衰 退 しつ つ あ り、 下 層 信 徒 の 生 活 は 困 窮 に陥 り、 教 務 は 大 き な影 響 を 受 け て い た と い う①。 集 団経 済 の建 設 ・発 展 を 目標 とす る共 産 党 支 配 下 で 、 や は り集 団経 済 を基 本 と して い た西 道 堂 の運 命 が ど うな った か は 、 大 い に関 心 を 呼 ぶ 問題 で あ るが 、 そ の帰 趨 に つ い て 中 国 の 著 作 が述 べ る と ころ は 必 ず し も明 確 で は な い 。 あ る書 籍 で は「現 在 も一 つ の 教 派 と して 存 在 して い るが 、 集 団 経 済 制 と い う経 済 管 理 面 の機 能 は 既 に失 わ れ て い る。 」と さ ら りと 触 れ て い る だ け で あ る②。 中 国 公 定 の 回 族 通 史 と い え る 『中 国 回族 史 』 も「西 道 堂 は1957年 に 集 団 生 活 を 自主 的 に解 散 した 」 と述 べ て い る の み で あ る③。 中 華 人 民 共 和 国 成 立 時 に 教 主 を つ と め て い た 敏 志 道 は 甘 粛 省 民 族 事 務 委 員 会 委 員 や 甘 粛 省 イ ス ラム 教 協 会 副 主 任 な ど を歴 任 し、 中 国 共 産 党 の 政 策 を擁i護した と さ れ るが 、 西 道 堂 と して は 現 実 に は 共 産 党 政 権 の 樹 立 に対 して 敵 対 的 な立 場 を と った た め、 監視 の 対 象 と な り、 最 終 的 に1957年 の反 封 建 闘 争 の 中 で 教 団 の 経 済 組 織 は 解 体 され た 。 中 国 イ ス ラム 教 教 派 研 究 の 第 一 人 者 で あ る馬 通 は 次 の よ うに記 述 して い る④。1949年 す で に 国 共 内戦 の 帰 趨 が確 定 しつ つ あ る 中 で 、 西 道 堂 の な か の 極 少 数 の反 革 命 分 子 は 、 甘 粛 ・四 川 ・青 海 地 区 で 台 湾 の指 令 を 受 け て 独 立 支 隊 を編 成 して 反 革 命 活 動 を お こ な い 、部 隊 は 解 放 軍 に殲 滅 され た 。 建 国 後 の土 地 改 革 、 資 本 主 義 工 商 業 の 改 造 、1958年 の 叛 乱 鎮 圧 、 反 封 建 闘 争 を経 る中 で、 一 部 の 不 法 分 子 は 教 育 を受 け 、 道 堂 内 外 の教 徒 は 人 民 公 社 に参 加 した 。1976年 の 文:革終 了 後 に西 道 堂 は 正 しい 対 応 を 受 け られ る よ う に な っ た 、 と述 べ て い る。 た しか に 文 革 後 の1979年 、 敏 生 光(1936一)が 西 道 堂 の 教 長(第 五 代 教 主)に 就 任 し、 西 道 堂 は再 び そ の 活 動 を始 め られ る よ うに な った 。 彼 自身 も、1958年 か ら1978年 まで 、臨 潭 城 関 農 業 合 作 社 で労 働 に服 して い た。 そ の 間 「極 左 路 線 」に よ る迫 害 を 受 け て 、 入 獄 した経 験 を持 つ(1983年 に 名 誉 回 復)。1957年 か ら1979年 まで 西 道 堂 は事 実 上 禁 止 さ れ て い た の で あ る。 敏 生 光 は1985年 に メ ッ カ巡 礼 を 果 た し、1994年 に は 中 国 イ ス ラ ム教 協 会 副 主 任 に選 出 さ れ る に至 る ほ どに 、 西 道 堂 の活 動 は 公認 され て い る。1994年 に 中 国社 会 科 学 院世 界 宗 教 研 究 所 、 中 国 イ ス ラ ム教 協 会 、 寧 夏 社 会 科 学 院 、 江 蘇 省 イ ス ラム教 協 会 、 西 北 民 族 学 院研 究 所 、甘 粛 省 民 族 研 究 所 な ど が 西道 堂 の 視 察 に 訪 れ る な ど、 復 活 を 果 た し再 び 注 目を浴 び始 め て い る⑤。 おわ りに 中国イス ラ厶教の特徴 以 上 、 中 国 イ ス ラ ム教 の教 派 の 形 成 お よび そ れ ぞ れ の教 義 上 儀 礼 上 の特 徴 に?い て み て きた 。 そ こか ら窺 え る 中 国 イ ス ラ ム教 史 の第 一 の 特 徴 は 、 教 派 の形 成 が比 較 的 遅 く、 ま だ300年 ほ ど の歴 史 しか な い こ とで あ る。 そ の 要 因 と して は、 中 国 ム ス リム が 中 国 社 会 の 中 で は常 に圧 倒 的 な 少 数 派 で あ っ た こ と、 及 び 中 国 ム ス リム の 大 多 数 を 占め る カ デ ィー ム派 が 宗 教 的 に か な りの 寛 容 性 を有 し続 け て きた こ とが 挙 げ られ る。 四大 門 宦 と カ デ ィー ム派 が形 成 され た 清 代 の 第 一 次 分 化 、 イ フ ワー ニ ー 派 と西 道 堂 が 登 場 した 近 代 の 第 二 次 分 化 と も、 国外(中 央 ア ジ ア とア ラ ビ ア)の 宗 派 の影 響 を受 け て進 行 した 。 各 教 派 の 理 論 的 教 義 的 な側 面 は国 外 の イ ス ラム教 と ほ とん ど 同 じで あ り、 中 国 的 独 自性 に は 乏 しい。 ① 『伊 斯蘭 教 教 派 』107頁 。 ② 『伊 斯蘭 教 教 派 』107-108頁 。 ③ 『中 国 回族 史 』732頁 。 ④r中 国伊 斯 蘭 教 派 与 門宦 制 度 史略 』132頁 。 ⑤ 『甘粛 回族 人 物 』252-253頁 。 一153一 第 二 の特 徴 と して は 、 中 東 イ ス ラ ム世 界 に み られ る イ ス ラ ム教 の ス ソ ニ ー派 と シー ア派 と の 根 源 的 な対 立 も、 中 国 に お け る シ ー ア 派 信 徒 の 存 在 に も関 わ らず 、 中 国 に お い て は激 しい もの に は な ら な か っ た 。 そ れ は 、 た ん に シー ア派 信 徒 が 新 疆 地 区 の み に偏 在 す る絶 対 的 少 数 派 で あ る た め と い うよ り、 中 国 の イ ス ラ ム教 が ス ソ ニ ー派 を奉 じて い る とは い え 、 そ の信 仰 と儀 礼 の 中 に シ ー ア派 の 特 色 を 受 け 入 れ る形 で ス ソ ニ ー派 と シー ア派 との 融 合 が 進 ん で い た か らで あ る①。 そ の 大 きな歴 史 的 要 因 は 、 中 国 の イ ス ラム教 が 主 に ペ ル シア と い うシー ア 派 が 最 も盛 ん な 国 を通 じて 伝 え られ た こ とで あ る②。 第 三 に、 これ は 中 国 イ ス ラ ム教 に 限 られ な い こと で あ る が 、 と くに 宗 教 儀 礼 や 習 俗 の 面 で 中 国 化 ・土 着 化 が 著 しい こ とで あ る。 本 稿 に お い て 指 摘 した 葬 礼 に お け る中 国 化 現 象 は そ の 典 型 例 で あ ろ う。 カ デ ィー ム派 が 漢 文 化 の 影 響 を強 く受 け て い る こ とは よ く知 られ て い る と こ ろで あ る。 漢 文 訳 著 の 中 で イ ス ラ ム教 の哲 学 概 念 、 術 語 、 修 行 方 法 を 中 国 哲 学 の 用 語 で も って 表 現 し、 中 国 哲 学 の 伝 統 で も っ て解 釈 して きた 。 そ の ほ か 、 教 坊 制 、 清 真 寺 建 築 、 宗 教 教 育 、文 物 ・祭 日な ど に 、 中 国 文 化 の 痕 跡 が 明 白 に認 め られ る。 「経 典 に 基 づ い て 習 俗 を あ らた め る」こ と を主 張 しカ デ ィー ム 派 を 「中 国 化 した イ ス ラム 教 」 と批 判 した イ フ ワー ニ ー 派 に お い て も、 そ の 脱 中 国 化 の 試 み は 甚 だ 不 十 分 で あ った と い え る。 門 宦 に お け る教 主 の世 襲 制 は 、 中 国歴 代 王 朝 の 世 襲 制 をそ の ま ま引 き継 い だ もの で あ る。 教 主 .の 前 に跪 い て 教 主 へ の忠 誠 を示 す こ と は 皇 帝 に拝 謁 す るの と何 ら変 わ りは な い。 こ の 人 に 対 して 跪 く こ とは 明 らか に神 の み に服 従 す る とい うイ ス ラ ム教 の 教 え に反 す る こ とで あ る に もか か わ ら ず 、 門 宦 に お い て は 大 切 な 宗教 行 為 と され る。 中 国 近 代 に登 場 した 西 道 堂 が 中 国 の 伝 統 文 化 の 影 響 を受 け て い る こ とは 明 白 で あ る。 自 ら「中 国 の 伝 統 文 化 を以 て イ ス ラ ム教 の 学 理 を宣 揚 し、 中 国 の 同 胞 に イ ス ラ ム教 の教 義 を理 解 して も ら う よ うに つ とめ る」と宣 言 して い る。 「漢 学 派 」と呼 ば れ る 由縁 で あ る。 宗 教 教 育 に お い て ア ラ ビア語 と中 国 語 の バ イ リソガ ル教 育 を重 視 した こ とは 、 イ フ ワ ー ニ ー派 や 西 道 堂 に と ど ま らず 、 現 代 中 国 の 「四 大 名 ア ホ ソ 」と さ れ る 達 浦 生(1874-1965)、 (1879-1949)、 哈 徳 成(1888-1943)、 馬松 亭(1895-1992)が 王静斎 い ず れ も主 張 した こ とで あ り、 中 国 近 現 代 ム ス リム 界 の 普 遍 的 な運 動 で あ った 。 また 、 コー ラ ソは 聖 な る 言 語 で 書 かれ て い る と され 、 ア ラ ビ ア語 以 外 の 言 語 へ の 翻 訳 は基 本 的 に許 され て こ な か った が 、 そ う した コー ラ ソの 中 国 語 へ の 翻 訳 が始 ま った こ とは イ ス ラ ム教 の 中 国 化 の大 きな メル クマ ー ル で あ る③。 それ は、 中 国 ナ シ ョ ①中 佐 国 に お け る ス ン ニ ー 派 と シ ー ア 派 の 融 合 化 現 象 に つ い て は 、 馮 今 源 著r中 国 的 伊 斯 蘭 教 』・77-79頁 を 参 照 。 口 透 氏 も 、 華 北 ム ス リ ム で は マ ウ ル ー ド(ム ハ ソ マ ド降 誕 祭)、 フ ァ ー テ イ マ 祭 、 ア リー 祭 な ど 、 ス ソ ニ ー 繻 籔 整 譌 箏 典 が行 わ れ て いて・ イ ラ ソ的 ・ シー ア的 色 彩 も混 じって い る こ とを指摘 して い る(佐 ・透 ・ ② 元 代 にス ー フ ィー を指 す の にペ ル シ ア語 の音 訳 で あ る 「 送 里 威 士 」 の 言葉 が用 い られ たの はそ の 一 つ の証 左 で あ る。現 在 も中 国 イ ス ラム教 に お いて は 、結 婚 式 にお け る ペ ル シ ア語 に よ る宣 誓 や経 堂 教 育 にお け るペ ル シァ ③ 語 の 学習 な ど、 ペル シア語 の経 典 や 宗 教用 語 が大 きな 比重 を 占 めて い る(『 伊 斯 蘭教 教 派』88頁)。 19世 紀 末 か ら コー ラ ンの漢 訳 が試 み られ て い た が、 中 国 に お け る コー ラン の最 初 の漢 訳 は非 ム ス リム に よ って 行 わ れ た。1927年 北京 出版 の 『可 蘭 経』 は 日本 語 か ら、1931年 上 海 出版 の 『漢 訳 古蘭 経 』 は英 語 か らの重 訳 で 蘯 韋読難 鞭 巌齷養銅託 瓣 嘉繍 緜灘蔭i蹴 警 羅 盤 燕難瀧 翻 轟 豐軸 刷 され た 「乙種 本」 と1946年 上海 で 出 版 され た 「丙種 本 」 が あ る。 後 者 は 当 時 非常 に流 布 した)。1980年 代 ま で に 、上 記 の もの を含 めて9人 の訳 者 に よ って11種 の訳 本 が 出 され た と され る。広 く流 布 して い る著 名 な訳 本 廉 驛?黠 撃轡 響鑪 援瑠… 垂 墜珍勺蹠薦鍬!黐 懿i醫塗難 蟄鸚 濠諤 素纛 靉 』彎 ン を 印 刷 して 各 国 に 贈 呈 して い る(『中 国 伊 斯 蘭 百 科 全 集 』172頁 、173頁)。 な お 、 『イ ス ラ ム 事 典 』258頁 で は 、 1?貯 驍 議 避 鬱 翻 驢 鵬募齲爨驢 篠 韜蔽 学 芻 獅 靜 務r薪藷 娃騰 整 3巻 の文 百 文 に よる翻 訳 を連 載 した こと を指 す と思 わ れ る。 が 、 これ は書 籍 と しての 公 開 出版 で は な く、 試 訳 と呼 ぶべ き もの とい え よ う。 いず れ にせ よ、 中 国 ム ス リムの 間 で コー ラ ン漢訳 の必 要 性 が認 識 され、1920年 代 か ら熱 心 に本 格 的 な翻 訳 が続 け られ て いた の で あ る。 一154一 ナ リズ ムが20世 紀 前 半 の 中 国 の 巨大 な潮 流 と して 中 国 ム ス リム(回 族)を も包 摂 して い た こ と を示 して い る。 第 四 に 、 中 国化 ・土 着 化 とと もに、 イ ス ラ ム教 の世 俗 化 が 著 しい こ と で あ る。 共 同墓 地 を 持 ち、 豚 肉 を食 べ な い な どの 日常 的 戒 律 は か な り遵 守 され て い る が 、 女 性 ム ス リム の間 で チ ャ ドル を つ け る習 慣 は い ま や 薄 れ て い る。 と くに イ ス ラ ム教 は 世 俗 支 配 に お い て も世 俗 権 力 の イ ス ラ ム化= 神 聖 政 治 体 制 を要 求 す る が 、 中 国 ム ス リム は イ ス ラ ム諸 国 に見 られ る よ うな カ リフ制 や ス ル ター ソ制 な ど の イ ス ラ ム政 権 を 持 った こと は な か っ た①。 そ れ ゆ え に、 イ ス ラ ム法 学 の 現 実 の執 行 に お い て も、 清 代 ま で は ム フテ ィ とい う役 職 を 設 け る清 真 寺 が あ った が、 中 国 ム ス リム は宗 教 裁 判 所 と い っ た よ うな歴 史 を有 す る こ とは な か った 。 第 五 に 、 宗 派 間 の 対 立 は時 に は流 血 や 武 力 衝 突 を 伴 う激 しい もの で は あ った が 、 そ れ ぞ れ の 教 義 的 な相 違 は 必 ず し も大 き くな か った 。 あ る い は 教 義 的 な 相 違 を 見 い だ す こ とは 難 しい と 言 え る②。カ デ ィ ー ム 派 で あ ろ う と イ フ ワ ー ニ ー 派 で あ ろ うと西 道 堂 で あ ろ う と、 或 い は イ ー シ ャ ソ 派 で あ ろ う と門 宦 で あ ろ うと 、 す べ て ス ソ ニ ー 派 を 自称 し、 四大 カ リフ を正 統 で あ る と承 認 し、 また 法 学 派 に お い て もハ ナ フ ィー法 学 派 を 遵 守 して い る と され て い る。 す な わ ち 、 基 本 的 な 教 法 学 に お い て は ほ ぼ一 致 して い るの で あ る。 で は 、 各 教 派 や 門宦 間 の相 違 は ど こ にあ るか とい え ば 、 根 本 的 な信 仰 の 相 違 で も政 治 的 主 張 の違 い で も な く、 主 と して 宗 教 的 修 行 方 法 や 具 体 的 な宗 教 儀 式 上 の 問 題 に あ る と い え る。 そ れ は報 酬 の 受 領 や 葬 礼 の や り方 とい った ま さに枝 葉 末 節 に属 す る 事 柄 で あ っ た 。 が 、 中 国 現 代 史 に お い て は 、 こ う した枝 葉 末 節 の 問題 を め ぐっ て流 血 の 教 争 が 発 生 した の で あ る。 [本 稿 は1999年 度 文 教 大 学 国 際 学 部 共 同 研 究(研 究 代 表:中 村 緋 紗 子)に よ る研 究 成 果 で あ る] ①19世 紀 の ム ス リム反 乱 に お いて は 、清 真王 とか スル ター ソ=ス レイ マ ー ソな ど と称 した こ とは あ るが 、 そ れ が 成功 した こ とは な か った。 また 、神 秘 主義 教 団 にわ ず か に そ の片鱗 を伺 わ せ る もの が あ るが 、 これ も現 実 の も の とは成 らな か った 。 ② 馮今 源 著r中 国 的 伊斯 蘭 教 』73-77頁 。 教 義 上 の 相違 を曖 昧 に して い る原 因 と して は 、 中 国の ス ソニ ー派 は ハ ナ フ ィー 法 学派 の遵 守 を うた って い るが、 同時 に他 の 法学 派 を も尊重 し、 事実 上 四 大法 学 派 を均 等 に扱 って い る ことが 挙 げ られ る(同書63頁)。 また 、 ハ ナ フ ィー 派 は 他 の3法 学 派 に比 べ て、 地 域的 慣 行 や学 者 の個 人的 見 解 にい くらか寛 大 な こ とが特 徴 とされ るこ と も関 係 あ るか も しれ な い(『イス ラム事 典』303頁)。 一155一