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その1 - 環境省
資料4 千鳥ヶ淵周辺における景観・利用の状況 1 千鳥ヶ淵の景観を検討する上での前提 1.「皇居外苑濠管理方針」における位置づけ等 ■皇居外苑・外苑濠の位置づけ ①象徴性:国民公園として、平和的文化的国家を象徴する場 ・皇居の前景として、皇居の奥深さ、神秘性を表出 ・堤塘の草地、水面、樹林で構成される穏やかで、親しみのある印象 <特徴・課題> 景観上の支障が生じる構造物の排除などの管理により継承されてきた。 水質の悪化により皇居外苑全体の象徴性を損ねかねない状況。 ②歴史性:「特別史跡江戸城跡」として、江戸城の歴史を継承する空間 ・濠自体が江戸城の遺構 <特徴・課題> 江戸城築城と同時期に自然地形を生かして造成された。 堤塘、石垣、門などとともに往時の風情を残している。 従前とは異なる形状で補修した箇所があり、景観や文化財上の価値を踏まえた 補修や修復が必要。 堤塘や石垣上の樹木は、連続した樹冠ラインが緑の景観として評価されている が、石垣破壊の恐れがある。 ③貴重な水と緑の空間: ・生態系ネットワークの拠点 ・内外からの来訪者、居住者、就労者にとっての憩いの場 ・ヒートアイランド現象の緩和 1 ■「皇居外苑濠管理方針」における千鳥ヶ淵の特性と管理方針 ●濠の特性 ・田安門周辺が江戸城の面影を残している。 ・周辺地区とともに多くのサクラが植栽され、春は花見客で賑わう。一方、ソメイヨ シノの老齢化が進んでいる。 ・外苑濠で唯一ボート乗り場があるなど、各種利用が盛んである。 ・東京都下水道からの流入によって外苑濠の中で最も水質汚濁が進んでおり、アオコ の大量発生も見られ、皇居外苑の象徴性を損なうおそれが生じている。 ・厚く堆積した底泥からの栄養塩の溶出が水質悪化に寄与している。 ・石垣には天然記念物であるヒカリゴケが生育している。 ・ブルーギル等は侵入していない。 ●管理方針(濠の特記事項) ・全濠のなかでもアオコ発生量・頻度が高く、またボートで水面に接近できるため、 水面のアオコやゴミ、落葉の除去は重点的に行う。 ・ソメイヨシノの更新期が近づいているため、今後のサクラの植栽管理については、 千代田区や関連団体との調整を図り、方針を検討する必要がある。 ・全濠中最も水質汚濁が進んでいるため、水質改善対策を最優先に進める。 ・各種利用が盛んな濠ではあるが、外苑濠の持つ象徴空間という特性に配慮し、適切 な範囲に規定する。 ・外来生物の侵入防止に努める。 2.勉強会における景観に関わる論点 平成 22∼23 年度にかけて行われた「千鳥ヶ淵の環境再生に関する勉強会」では、景観 に関わる論点について、以下のようにまとめられている。 ・景観は、見る人の状況に左右されることを踏まえ、景観利用の実態把握を進め、そ こから改善点の有無を検討。(事務局) ・景観は合意形成のあり方が問題。(参画者等) ・景観の特性上、濠水面のみならず周辺地域や利用動線を含め議論(事務局) ・移動しながらの動的な景観に対する視点からの検討も重要。(事務局) ・水質や自然の再生に伴い景観が変化する可能性。既存の景観への配慮と新しい景観 への受容の両面で認識の共有が重要。(事務局) ・周辺街路の景観要素との調整も望ましい。(参画者等) 2 2 歴史 1.歴史的経緯 【近世】太田道灌による築城以降、江戸期 ●水源確保のために自然地形を利用して小河川に堤塘を築き、造成された。 ・千鳥ヶ淵の蛇行した形状に自然地形を利用した状況が残る。 ・周囲の火除け地とともに防火帯を形成していた。 【近代】明治維新以降 ●近衛師団造営のため田安門・清水門を除き大規模に改修された。 ・千鳥ヶ淵側堤塘上に憩いの場として怡和園が整備された。 ・代官町通り沿いの土手上に高射砲台が設置された。 ●交通機能確保のため、濠が埋め立てられ代官町通りが建設された。 ・埋め立てによって千鳥ヶ淵は半蔵濠と千鳥ヶ淵に分断された。 ・都電の敷設に伴い、一部の堤塘が掘削された。 ●西側の火除地を利用し、公的な施設等が設置され、都市的土地利用が進んだ。 ●靖国神社一帯が鎮魂の場、行楽地として利用者が集まるようになった。 【現代】第二次世界大戦後 ●一帯が国民公園として整備され、一般に開放された。 ・森林公園として北の丸公園が整備され、東京オリンピックを契機に日本武道館が建 設された。 ●寄贈や失業対策により堤塘にソメイヨシノが植栽された。 【特別史跡江戸城跡】指定状況 ・史跡指定:昭和 35 年 5 月 20 日(官報告示 19 号) ・特別史跡:昭和 38 年 5 月 30 日(官報告示 26 号) ・所在地:東京都千代田区千代田・皇居外苑・北の丸公園 ・説明:長禄元年太田道灌の創築にかかる。太田氏の後を承けて上杉氏の有に帰し、つい でに北条氏の支城となったが、天正 18 年北条氏の滅亡後、徳川家康関東を領して 居城をここに定めた。徳川氏は大いに改修を施し、将軍の居城として、政治の中 心としてその史的価値は極めて大であり、その規模はわが国隋一のものである。 現在西の丸・吹上の地域は皇居となっている。 ※保存管理計画は策定されていない。 3 表 千鳥ヶ淵に関わる歴史的変遷 4 2.現存する歴史的要素(昭和 20 年頃まで) 要素 江戸城跡としての要素 現況 濠 自然地形を活かして造成した形態が現存。 石垣 改修されているものの石垣として現存。 ※堤塘上の植栽による根の伸長により、崩壊の危険性が ある。 堤塘 小水系を堰き止めて濠を造成した堤塘が現存。 ※牛ヶ渕の堤塘は、路面電車のために明治期に掘削によ り改変。 ※代官町通り沿いは、代官町通り造成時に改変されてい るものの石垣とともに現存。 その他歴史的要素 門 江戸城の遺構が現存。田安門・清水門(重要文化財) 濠水 濠の水が水源として利用されていた。汚濁は進んでいる (近世) が、常時、湛水した状態が継承されている。 火除地跡 学校や山縣有朋邸等を経て、現在、インド大使館、九段坂 病院、農水省分庁舎、戦没者墓苑等となっている。 (近代) 旧近衛師団に 建造物等 関わる要素 旧近衛師団本部が現存。近代美術館工芸館として活用。 軍人会館として建てられた九段会館が現存。 代官町通り沿い土手上に高射砲台が現存。 ※高射砲台は、ベンチ的に利用されている。 交通・公園等 代官町通り 都市的要素 明治期に濠を埋立て、石垣を切除して造成した道路が現 存。 濠埋立土手 千鳥ヶ淵を埋立て、代官町通りを敷設した際の土手が現 存。 都市公園 東京市区改正条例による小公園である千鳥ヶ淵公園が現 存。 修景的要素 堤塘上の 近衛師団時代以前に植栽されたと見られる樹木(マツ、ト 樹木 チノキ、イチョウ等)。 ※1947 年撮影の空中写真に成木の状態で写っている。 ※法肩の樹木は、根の伸長により石垣への影響が懸念さ れる。 その他 記念碑・ 近衛師団時代に憩いの場として整備された「怡和園」跡の 銅像等 石碑。(北の丸公園内) 明治期に活躍した人物の銅像(大山巌、北白川宮、品川 男爵)。 5 図 千鳥ヶ淵周辺の歴史的要素の分布状況 6 現存する歴史的要素一覧 ■近世の要素 門 田安門 創建年代不明(寛永 13 年?) 北の丸北部に位置する枡形門であり、正面の高麗門と、その右手の櫓門からなる。 門の創建年代は明らかではないが、現存の門は高麗門の扉釣金具に残る刻銘から寛 永 13 年に建てられたものであると考えられている。しかし、櫓門の上部は破損の ため大正末期から昭和初期にかけて撤去されていたものを、昭和 36∼41 年度の修 理で整備復旧したものである。田安門は、江戸城の総構完成当時に遡る現存唯一の 建物であり、高い価値を有している。(現地解説板より) 清水門 創建年代不明(万治元年(1658 年)?) 北の丸北東部に位置する枡形門であり、正面の高麗門と、その右手の櫓門からなる。 門の創建年代は明らかではないが、現存の門は高麗門の扉釣金具に残る刻銘から万 治元年(1658)に建てられたものであると考えられている。しかし、櫓門の上部は、 時期は不明ながら撤去されていたものを昭和 36∼41 年度の修理で復旧整備したも のである。清水門は、建立年代の判明する江戸城の遺構として高い価値を有してお り、門から北の丸に至る石段とともに江戸時代の状況を色濃く残している。(現地 解説板より) 7 ■近代の要素 旧近衛師団関係建造物等 旧近衛師団司令部庁舎 (現:東京国立西洋美術 館工芸館) 明治 43 年完成 明治 43(1910)年 3 月、陸軍技師田村鎮(やすし)の設計により、近衛 師団司令部庁舎として建築された。2 階建煉瓦造で、正面中央の玄関部に 小さな八角形の塔屋をのせ、両翼部に張り出しがある簡素なゴシック様式 の建物である。丸の内や霞ヶ関の明治洋風煉瓦造の建物が急速に消滅して いく中で、官庁建築の旧規をよく残しており、日本人技術者が設計した現 存する数少ない遺構として重要な文化財である。(千代田区観光協会 HP より) 旧軍人会館 (現:九段会館) 昭和 9 年完成 九段会館は、予備役・後備役の軍人の収容・訓練を目的として帝国在郷軍 人会が軍人会館として昭和 9(1934)年に建設。建築様式は昭和初期に流 行した帝冠様式である。天皇家の親戚、嵯峨浩と中国王朝最後の皇帝で後 に「満州国」「皇帝」に就任した宣統帝溥儀の弟、愛新覚羅溥傑との結婚 式場として使われたり、昭和 11(1936)年の二・二六事件ではここに戒 厳司令部が置かれた。 終戦後の昭和 20(1945)年 9 月に連合軍に接収され、昭和 32 年(1957) まで連合軍の宿舎として使用された。その後、九段会館と改称され国の所 有となり、(財)日本遺族会が管理運営してきたが、平成 23(2011)年 3 月 11 日の東日本大震災で天井仕上げ材の一部崩落し、死傷者が出たこと から、(財)日本遺族会は同会館の営業を終了し、建物を国に返還するこ とを決定した。(千代田区観光協会 HP より) 8 高射砲台(7 基) 設置年月日不明 皇居の直接防衛のために設置された「九八式高射機関砲」の台座。円筒中 心に軸受けが筒埋め込まれており、360 度方向の射撃が可能。上空の P51 戦闘機などが飛来すると一斉に射撃を行い、外れた弾丸が築地や港区芝の 民家に落下して住民の死傷者が出たこともあったという。しかし B29 など の高度からの爆撃には歯が立たたなかった。(千代田区平和(戦跡)マップ (平成 19 年 8 月作成)より) 交通・公園等都市的要素 代官町通り 明治 33 年(1900 年) 代官町通りの整備は、これまで英国大使館から吹上御所まで行くために、 皇居を一周する内堀通りしなければならなかったところを、東西にショー トカットする役割を果たした。(千代田区観光協会 HP より) 濠埋立土手 明治 33 年(1900 年) 代官町通りの整備時に、濠を埋め立て、千鳥ヶ淵に新たに土橋が設けられ、 千鳥ヶ淵と半蔵濠に分かれた。土手上は遊歩道となっている。(千代田区 観光協会 HP より) 9 千鳥ヶ淵公園 (市区改正条例小公園) 大正 8 年 12 月 27 日開園 千鳥ヶ淵公園は、東京の最初の都市計画である市区改正条例に従ってつく られた市街地小公園のひとつ。市民の保健衛生向上や児童の交通渦からの 保護を目的として、大正 8 年 12 月 27 日に開園し、今日に至っている。 平成 11 年、その一部で小公園として親しまれている区域を子どもの遊び 場や花憩いの広場、芝生の広場を設けて再整備が行われた。(現地解説板 より) 修景的要素 サクラ(田安門前) 昭和 5 年植樹 近衛師団に駐屯していた兵が植樹したと言われている。千鳥ヶ淵周囲のサ クラの中では最も古いものとされる。約 30 年前に強剪定され、樹勢低下 が見られたが、千代田区によるサクラ再生事業により樹勢が回復しつつあ る。(千代田区道路公園課ヒアリングによる) その他構造物・記念碑等 高燈篭(常燈明台) 明治 4 年建設(昭和 5 年、現在地へ移設) 靖国神社正面の常夜灯として、靖国神社(当時は東京招魂社)に祭られた 霊のために建てられたといわれている。当時、九段坂の上から、遠く筑波 山や房州の山々まで見渡すことができ、品川沖を行きかう船にとっては大 変良い目印として、灯台の役目も果たした。 当初は靖国通りをはさんで反対側に建てられていたが、道路の改修に伴い 昭和 5(1930)年に現在地に移転した。(千代田区観光協会 HP より) 10 北白川宮能久親王銅像 明治 36 年 1 月 26 日建立 北白川宮能久親王は、弘化 4 年(1847)、伏見宮邦家親王の第九皇子とし て誕生。明治 3 年(1870)に還俗して伏見宮に復帰、軍籍に就かれた。同 28 年 1 月近衛師団長に親補され、近衛師団を率いて台湾に出征、炎熱瘴 癘の地で疫病に罹り、明治 28 年(1895)10 月 18 日、台南に於いて薨去 した。 銅像は、北の丸に駐在していた近衛歩兵第一・第二聯隊正門前に建立され たが、昭和 38 年北の丸公園整備計画に従い、現地点に移された。製作は 渡台時近衛騎兵として側近に仕えた斯界の大家新海竹太郎によるもので、 芸術的にも高く評価されている。鋳造は陸軍砲兵工廠である。 建立後 80 余年を経て若干箇所の損害を見るに至ったため、昭和 60 年有志 諮り修復した。(現地解説板より) 大山巌銅像 大正 8 年 11 月 3 日建設(現在地への移設年月日不明) 大山巌は天保 13(1842)年の生まれで薩摩藩出身。元帥陸軍大将日露戦争 では陸軍司令官、初代の陸軍大臣となり、その後、参謀総長、内務大臣を 勤め元老となった。 銅像の原型作者は、北の丸公園の北白川宮能久親王騎馬銅像を制作した新 海竹太郎で、建設委員長に陸軍大将井口省吾ほか現役、予備役将校、実業 家、地方有志が携わった。工費は 9 万 5373 円 81 銭であった。本銅像は、 現在の国会前庭北地区洋式庭園(尾崎記念公園)にあったといわれている が、移設年月は不明である。(千代田区観光協会 HP より) 11 品川弥二郎像 建設年月不明 品川弥二郎は明治期の政治家。長州藩出身で、吉田松陰の松下村塾に学ぶ。 また練兵館では剣術を学んでいる。のちに練兵館の同門であった高杉晋作 らと尊王攘夷運動に参加。維新後は明治政府に仕え、1870∼1876 年まで 渡欧。帰国して各省に勤務。1885∼1887 年までドイツ公使を務めた。1891 年、第一次松方内閣の内務大臣。翌年第二回選挙で民党をおさえる選挙干 渉を行ったことを非難され、辞任する。 銅像は、上野の西郷隆盛像や皇居前の楠木正成像の制作で知られる高村光 雲が監督で、原型作者は木山白雲、鋳造者は平塚駒次郎、建設者は西郷従 道他 2,845 名とされている。(千代田区観光協会 HP より) サー・アーネスト・サトウ サクラ植樹記念碑 平成 10 年(1998 年)4 月 3 日設置 明治 31 年(1898)、当時の英国公使サー・アーネスト・サトウ(明治 28 ∼33 年在任)が英国公使館前の空地に初めてサクラの木を植え、東京府 に寄付を行った。植樹 100 周年を記念して、1998 年春、同地に駐日英国 大使館は新たにサクラを植え、日英両国の友好の証とした。 記念碑は紀宮清子内親王殿下によって序幕された。(現地解説より) 12 弥生慰霊堂 (昭和天皇野立所跡) 慰霊堂の建立年月不明 昭和天皇野立は昭和 5 年 3 月 24 日。石碑は二代目(平成元年 4 月 29 日建 立)。初代の石碑の設置年月は不明。 大正 12 年 9 月 1 日に発生した関東大震災は、我が国災害史上未曾有の大 惨事であり、東京遷都の噂すら流れたほどであった。昭和天皇は、「東京 ハ依然トシテ国都タルノ地位ヲ失ハズ、コレヲ以テソノ善後策ハヒトリ旧 態ヲ回復スルニ止マラズ、進ンデ将来ノ発展ヲ図リ…」との詔書を発せら れて、復興の方針を明示されると共に、同月 15 日被災地の視察を行った。 その後、7 億円(昭和 5 年度一般会計歳出 16 億円)の巨費を投じて再建 に努め、ようやく復興が成り、昭和 5 年 3 月 26 日、皇居前広場において、 天皇陛下の親臨を仰ぎ、帝都復興祝賀の式典が盛大に挙行された。昭和天 皇は、これに先立つ 24 日、被害の甚だしかった下町一帯の復興状況を、 約 5 時間にわたって巡視されたが、その第一歩となったのがこの地であ る。当時は同地から東京湾までを眺望することができた。その後、「御野 立所記念碑」が建てられたが、長年の風雲に曝されて損傷が著しくなって いた。この地は嘗て近衛歩兵第一聯隊が駐屯していたところであるため、 有志を募り「御野立所記念碑」を再建した。(現地解説板より) 石碑「怡和園跡」 明治 41 年設置 幕末の江戸城北の丸には、田安家(西側)、清水家(東側)の屋敷があっ た。明治維新になって日本陸軍創設に伴い、田安家の跡に近衛歩兵第一聯 隊、清水家の跡に同第二聯隊の兵営は建てられ、終戦までこの地に駐屯し て皇居の守護に任じていた。 怡和園が造られたのは近衛歩兵第一聯隊の地域で、明治中頃までは土を盛 り上げただけの土地であったものを、明治 41 年に手を入れて、広場や四 阿を設け、花卉を植えて小庭園を造り、時の聯隊長由比光衛大佐はこれに 怡和園と命名し、この石碑を建てた。爾来将兵の散策や憩いの庭として、 また体操や訓練の場として長く親しまれていた。 戦後北の丸公園造成の際、この庭園は現状の如くその様相を変え、石碑は 地中に埋められたが、その後僅かに出ていた石碑の頭部を発見し、これを 発掘して再建した。ちなみに「怡和園」とは、 「喜び和らぐ」の意である。 (現地解説板より) 13 石碑「皇紀二千六百年 記念植樹碑」 設置年月不明 14 【参考資料】千鳥ヶ淵を巡る歴史と特性(平成 22 年開催の勉強会資料より抜粋) 1. 千鳥ヶ淵、牛ヶ淵のなりたちと江戸の水源確保 (1)千鳥ヶ淵・牛ヶ淵のなりたち ①初期の江戸の飲料水確保のために造成された淵 ・江戸は、臨海で埋立地という条件のため、飲料水が自給自足できない都市となること から、江戸城築城と城下町整備にあたっては、上水(飲料水)の確保と下水の処理が 最優先課題の一つであった。 ・とくに天正 18 年(1590 年)の家康の江戸城入城時には甲州派遣軍団 8,000 人をはじ め続々と家臣団が入城したことから、飲料水を確保するために城周りの小河川をダム で堰き止めて、現在の千鳥ヶ淵と牛ヶ淵の二つの飲料水用ダム建設がなされた。 ②千鳥ヶ淵の造成 ・千鳥ヶ淵は、番町∼千鳥ヶ淵∼乾門から皇居内の本丸と西丸(吹上)を隔てる後の三 日月濠∼蓮池濠∼蛤濠(坂下門)を経て日比谷入江に流れていた川を、堰き止めて造 成したものである。 ③牛ヶ淵の造成 ・牛ヶ淵は、現在の日本橋川(旧名平川)右岸の河岸段丘と武蔵野台地東麓部の湧水線 との間の低地に水を溜めたもので、ダム(堰堤)の名残りは、清水門の入口に認めら れる。 ・千鳥ヶ淵から牛ヶ淵への水の導入は、代官町の谷を埋めてダムをつくり、九段・田安 門下の土手にある水門で水位調整を行い、牛ヶ淵に流したと思われる。 ―江戸城の濠と淵の違い― ・江戸城の「濠」には、①谷地形をそのまま利用して水を湛えるようにしたもの、②陸 地を掘削して水を導いたもの(運河を濠としたもの)、③水面を濠の部分だけ埋め残 して濠としたものの三つのタイプがある。 ・それに対して、千鳥ヶ淵、牛ヶ淵などの「淵」は、ダム工事によって小河川を堰き止 めて造成したものを指す。 (参考資料 a、b=文末参照、以下同様) 15 著作権保護のため図を表示しません。 著作権保護のため図を表示しません。 著作権保護のため図を表示しません。 16 著作権保護のため図を表示しません。 図 現在の皇居外苑濠の位置。武蔵野台地の先端、小谷をうまく利用した江戸城の位置が良 くわかる。 デジタル標高地形図 江戸川・中川・綾瀬川流域 2010(平成 22)年作成(国土交通省 国土地理員技術資料) 著作権保護のため図を表示しません。 図 19 世紀初頭の江戸城。低地から山手方向を鳥瞰し、右手に九段坂、牛ヶ渕が描かれ、起伏 のある地形が良く現れている。濠沿いや本末周辺は針葉樹(マキ?)で覆われている様子 がわかる。 江戸一目図屏風 1809(文化 6)年 津山郷土博物館所蔵 17 (2)江戸発展のための上水の整備 江戸の発展に伴い、より多くの人口に対応した上水の整備が必要になり、神田・玉川 両上水の整備により江戸の水問題はほぼ解決した。両上水は明治 34 年(1901 年)6 月 30 日まで、江戸-東京市民の水道として約 250 年間利用された。 ①我が国最初の水道:神田上水 ・江戸城が完成期の上水道問題の急迫に対し、寛永年間(1624 年∼43 年)に我が国最 初の水道(=神田上水)が整備された。神田川以南の駿河台、小川町一帯の市街地に 給水。さらに神田橋上流部で旧平川の河底をくぐらせる水路トンネルによって、江戸 城東部(現在の大手町周辺)に給水され、余水の一部は外濠に落とした。 ②玉川上水と江戸西郊の開発 ・神田上水完成 10 年後に、江戸は 30 万人都市となり、巨大人口の水道確保のため、徳 川家光の遺志を継いだ家綱により、承応 2 年(1653 年)に玉川上水(多摩川と江戸 を直結させる水路)44 キロを羽村―内藤新宿大木戸間の武蔵野台地上に割掘った。 ・この玉川上水は、武蔵野に縦横に走る尾根を「綱渡り」した状態で流れるように設計 され、水路の両側のどの部分にも分水が可能という副次的効果を持ち、小川村から分 水された野火止用水はじめ、千川上水、三田上水も玉川上水から分水された。 ・また、四谷大木戸から市内にはいった上水の主流は、江戸城内と赤坂、虎門一帯、南 は一部古川を超えて給水された。(c) 2.千鳥ヶ淵周辺の土地利用変遷と特性 このエリアは江戸時代の国政の中枢であり、現在までを通じ、番町を中心とした閑静な 高級住宅街があり、文化の発信地であった。 また、幕末以降は軍事関係施設の集積地及び鎮魂の場、あるいは教育関連施設が集まる 一方、公共交通の普及と共に娯楽・観光の東京名所としての役割も果たしてきた。 さらには、江戸時代の千鳥ヶ淵・牛ヶ淵沿いには、江戸城を火事から守るために樹木な どを植えた緑地の防火帯(火除地)が設置され、現在も濠沿いや北の丸に緑道や森林公園 が整備されるなど、緑の多い街並み景観が維持されてきたことも特性の 1 つである。 18 表 千鳥ヶ淵の周辺土地利用の変遷 時代 エリア 北の丸 江戸 番町・九段 北の丸 明治・大 正・昭和︵戦前︶ 番町・九段 北の丸 昭和︵戦後︶・平成 番町・九段 時 代 を 通 じ た特 性 ま と め 北の丸 番町・九段 位置づけ ・主に徳川家ゆかりの人の住まいとして利用 ・庶民は立ち入れない徳川家の住まい (番町∼小川町) ・江戸城防備のための旗本・御家人を中心とした武家屋敷地帯 ・明暦大火後火除地を整備し、幕末は軍事施設等設置 (番町) ・武蔵野台地東端に形成され、整然と区画された高級住宅地 (九段) ・九段坂と牛ヶ淵の特異な風景は浮世絵にも登場し有名 ・維新後、第二次世界大戦終戦まで近衛師団の兵営地 ・代官町通りの整備・市電の開通により、交通網が整備された ・庶民は立ち入れない兵営地 (番町) ・政府高官・皇室関係者の住まいや外国の公使館が置かれた ・千鳥ヶ淵沿いに都市公園を設け、桜を植栽していった (九段) ・戦争で亡くなった軍人の鎮魂のための靖国神社が置かれた ・牛ヶ淵沿いには軍事関係の施設が建設された (番町) ・いわゆる「山の手」の閑静な住宅街 (九段∼番町) ・靖国神社と千鳥ヶ淵には桜が植えられ、花見利用が盛んになる (九段) ・靖国神社は鎮魂のみならず、観光地としてもとらえられていた ・濠沿いの市電車窓からみる牛ヶ淵の水色の美しさには定評があった ・戦後、国民公園指定を受け、歴史資源や教養施設の多い森林公園とし て整備され現在に至る ・都心の憩いの場として、散策や自然観察会で利用されている (千鳥ヶ淵・番町) ・東京オリンピックにあわせ首都高速道路が千鳥ヶ淵の上に開通 ・千鳥ヶ淵周辺は千代田区により憩いの場所、平和の象徴としての整備・ 利用が進む ・国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑が完成し新たな鎮魂の場となる (牛ヶ淵・九段) ・牛ヶ淵沿いには、かつてを偲ぶ施設や公園が立ち並ぶ (千鳥ヶ淵・番町) ・千鳥ヶ淵のボート利用は、戦後の数少ない娯楽としてにぎわい、現在 に至る ・桜の季節は、都内有数のお花見スポットとして定着し、一年を通じて 最もにぎわう 常に公的利用がなされてきたが、戦後初めて一般に利用を公開した。 戦前までは、長らく庶民とは隔絶した世界であったが、戦後市民に開放 され、憩いの場となった。 (旧火除地)江戸時代初期は、幕末に軍事施設等の公的利用の場となり、 維新後も引き続き軍関連施設や公人の住まいとして利用される。戦後も 公的利用の割合が多いが、一転して鎮魂・平和・憩いの場としての利用 が中心になる。 番町周辺は、江戸時代初期から旗本・御家人の住まいとして整然とした 町割がなされ、そのまま現在まで閑静な住宅街として利用されている。 千鳥ヶ淵沿いは、明治時代から鎮魂・観光のために桜が植えられ、戦後 はボートや緑道散策での花見が定着している。 19 千鳥ヶ淵、牛ヶ淵周辺(北の丸・番町・小川町付近)の江戸時代∼現在までの土地利用 の変遷や地域の特性について、以下にとりまとめる。 (1)江戸時代 ①北の丸 【主に徳川家ゆかりの人の住まいとして利用】 ・家康入城直後の江戸城には御番衆、薬場などがおかれたほかは、竹やぶなどに覆われ、 地割は不明確であった。(参考資料 e=文末参照、以下同様)(図-4) 【庶民は立ち入れない徳川家の住まい】 ・北の丸が築造された慶長 11∼12 年以降は、代官や江戸城ゆかりの人々の住まいとし て利用された。他の江戸城内と同様に庶民とは隔絶された地域であったと想定される。 著作権保護のため図を表示しません。 ・慶長 11 年∼12 年(1606∼1607 年)千鳥ヶ淵、牛ヶ淵と本丸との間に内郭として築 造され、北の丸と称された。江戸時代初期は、代官屋敷や大奥に仕えた女性の退隠所 となり千姫、春日の局、家康側室英勝院の屋敷もここにあった。(g、l)(図-5) ・明暦の大火後火除地とされていたが、享保 15 年(1730 年)8 代将軍吉宗の第二子宗 武がここに田安家を興し、宝暦 9 年(1759 年)には、9 代将軍家重の第二子重好がこ こに清水家を興したことにより、御三卿のうち田安徳川家と清水徳川家の屋敷が置か れた。(g、v)(図-6) 20 著作権保護のため図を表示しません。 図-5 明暦 3 年(1657 年)「新添江戸之圓(複製:北の丸部分)」 著作権保護のため図を表示しません。 図-6 慶応元年(1865 年)「尾張屋版 江戸切絵図(部分)」(出典:日本の古地図②江戸山の手) ②番町・九段 【江戸城防備のための旗本・御家人を中心とした武家屋敷地帯】 ・家康は、天正 18 年(1590 年)江戸城入城直後に家臣の屋敷の配置を開始。知行が少 ない旗本を江戸城近くに割り当てる方針で、江戸城防衛上の弱点とみられた南西から 北東の山の手高台に旗本の屋敷を配置した。千鳥ヶ淵及び牛ヶ淵周辺の番町∼小川町 はここに属し、武家屋敷地帯となった。(d)(図-4 参照) ・特に番町周辺、半蔵門から四谷見附に通ずる旧国府路(現甲州街道)は、江戸城防衛 上もっとも手薄であったため、徳川氏の親衛隊である旗本や御家人が大番組、書院番 組、小十人番組などの戦闘部隊として配置され、200∼300 坪ずつの屋敷割が行われ た。(d) 21 【明暦大火後の火除地と幕末の軍事施設等設置】 ・明暦 3 年(1653 年)正月 18 日に発生した未曾有の大火では、江戸城本丸、天守閣も 焼け落ち市中 6 割を焼失した。大火後、幕府は城と市街地の復興に取り組み、江戸城 周辺に集まっていた大名屋敷や寺社、町人地を郊外へ移転させ、広小路や延焼を防ぐ ための火除地の設置等を行った。現千代田区内の火除地分布と推移をみると、江戸城 防備のために城の北西を取り囲むように分布しており、千鳥ヶ淵、牛ヶ淵に接する火 除地は元禄期には完成していた。なお、火除地、火除土手は緑地帯であり、松などの 樹木が植えられていた(d、e、h)(図-7) ・幕末期になると、黒船の就航などを受け、幕府は千鳥ヶ淵、牛ヶ淵周辺の火除地に軍 事拠点を築いていく。小川町の講武所、九段の歩兵屯所の設置等である。(図-8) 著作権保護のため図を表示しません。 図-7 千代田区内の火除地分布(出典:千代田区史 22 上巻) 著作権保護のため図を表示しません。 【江戸時代から整然と区画された高級住宅地として有名】 ・番町の街区は整然と整備され、似たような屋敷が連続し、門前に表札もなかったこと から、川柳に「番町に魚のさがるほど尋ね」(進物の鯛を届けるために魚が腐りかけ 値打ちが下がるほど探し歩いた)などと詠まれている。(g) ・また、「番町にすぎたるものが二つあり、佐野の桜と塙保己一(はなわほきいち)」な どとも謳われ、高名な国学者の住まいがあったり、田沼意次の息子を殿中で殺害し、 世直し大明神として慕われた佐野善左衛門の屋敷の庭に咲く桜の美しさが称えられ ていることからも、番町一帯は美しい庭をもつ邸宅から成る、落ち着きある街並みで あったと思われる。(g) 【九段坂と牛ヶ淵の特異な風景は浮世絵にも登場し市民に有名】 ・九段坂は大変急峻で、ここを登る銭を積んだ牛車がこの淵に転げ落ちてついに上がら なかったという古事が伝えられており、この景色を人気浮世絵師葛飾北斎と歌川広重 が描いている。(i) ・このあたりで絵になる風景としては、九段牛ヶ淵が群を抜いて知られていたと考えら れる。(図-9) 23 著作権保護のため図を表示しません。 (2)明治・大正・昭和(戦前) ①北の丸 【明治維新後、第二次世界大戦終戦まで近衛師団の兵営地であった】 ・明治維新後、自前の武力を持たなかった明治政府は、明治 4 年に天皇御親衛を名目に、 鹿児島、山口、高知の 3 藩より徴兵した親兵1万人の軍隊を創設し、北の丸はその駐 屯地となった。明治 5 年近衛条例を制定して親兵を近衛と改称し、任務を明確にし、 近衛師団となった。明治7年(1874 年)に置かれた近衛歩兵第一・第二連隊は、戦中 も宮城の護衛と首都防衛の任務を負った。(f、j、k)(図-10①) 【代官町通りの整備・市電の開通により、交通網が整備された】 ・明治 33 年(1900 年)の代官町通りの整備は、皇居を一周する内堀通りを東西にショ ートカットする役割を果たした。また、この工事により千鳥ヶ淵に新たに土橋が設け られ、千鳥ヶ淵と半蔵濠に分けられた。(f)(図-10②) ・明治 40 年(1907 年)には急坂の九段坂を避け牛ヶ淵、千鳥ヶ淵の土手を削り、坂下 から坂上に市電を開通させた。大正 12 年(1923 年)の関東大震災を機に九段坂が拡 幅され、坂の高低差を減じたことで、この市電は道路の中央部を走るようになった。 千鳥ヶ淵沿いの線路は廃止され、現在の内堀通りに切り替えられた。昭和 38 年まで 運行。(o)(図-10③・図-11) 24 【庶民は立ち入れない兵営地】 ・明治維新後も、近衛兵営地であったことから庶民とは隔絶された地域であった。 著作権保護のため図を表示しません。 著作権保護のため図を表示しません。 25 著作権保護のため図を表示しません。 図 市電が牛ヶ渕沿いを走る様子が描かれた絵葉書。軌道が田安門前の土手下を潜っている。 田安門前のサクラは描かれていないため、大正時代までのものと思われる。 著作権保護のため図を表示しません。 大正 10 年発行の一万分一地形図では千鳥ヶ淵沿いを通っていた市電軌道は、昭和 12 年修 正の地形図では内堀通りが完成し、内堀通りに切り替えられたことがわかる。 出典:一万分一地形図 1930(昭和 5)年測図 1937(昭和 12)年修正(陸地測量部発行) 図 26 ②番町・九段 【政府高官・皇室関係者の住まいや外国の公使館が置かれた】 ・江戸時代に千鳥ヶ淵沿いの火除地であった場所には、明治時代に近代陸軍創設者であ る山県有朋邸や、維新勢力側とつながりの深い英国公使館、東京大学前身の開成学校 が置かれた。 ・大正時代には山県邸は移転し、後に農林水産省分庁舎となる農商務大臣官邸が建設さ れ、開成学校の跡地には侍従長官邸、賀陽宮邸など皇室関係の住宅が建設された。 (図 -10④) 【千鳥ヶ淵沿いに都市公園を設け、桜を植樹していった】 ・千鳥ヶ淵沿いの桜植樹は明治 14 年の英国公使館前のアーネスト・サトウ手植えの桜 が明治 30 年代に東京市に寄贈されたことに端を発しており、大正 8(1919)年には、 当時の市区改正事業の一環で千鳥ヶ淵公園が整備され、沢山の桜が植樹された。(k、 o、j) 著作権保護のため図を表示しません。 図-12 千鳥ヶ淵の櫻花と題された明治 40 年以前の絵葉書(引用:明治・大正・昭和東京写真集大成) 【戦争で亡くなった軍人の鎮魂のための靖国神社が置かれた】 ・幕末には歩兵屯所がおかれ、明治元年(1868 年)3 月 14 日(旧暦)江戸開城まで主 戦派がいたが、明治 2 年新政府の陸軍用地となり、戊辰戦争で亡くなった官軍戦没者 慰霊のために招魂社が創設され、明治 12 年に靖国神社と改称された。以後、 「幾多の 戦役で護国の鬼となった英霊を合祀する場所」として出征する軍人や遺族の信仰・慰 霊の場となった。(l、p) 【牛ヶ淵沿いには軍事関係の施設が建設された】 ・牛ヶ淵沿いの土地にも靖国神社の附属地ができ、パノラマをみせる国光館が明治 35 ∼40 年整備された。(o) 27 ・同じく昭和 9 年(1934 年)建設された軍人会館は、清王朝最後の皇帝、愛新覚羅溥 儀の弟である溥傑と嵯峨浩の結婚式が行われたり(昭和 13 年 4 月)、2.26 事件の戒厳 司令部が置かれるなどした。戦後は進駐軍により接収され士官宿舎として使われ、昭 和 27 年に占領が解け返還されると、昭和 28 年に九段会館と名前を変え、結婚式場や 研修ホールなどとして利用され現在に至る。(j、u) 【番町はいわゆる「山の手」の閑静な住宅街】 ・明治・大正時代には、番町には政府高官、宮家以外に、旧公家、旧大名家、あるいは、 詩人、文学者などの文化人が多く住む高級住宅街になった。 【靖国神社と千鳥ヶ淵沿いには桜が植えられ、花見利用が盛んになる】 ・明治 2 年の招魂社(靖国神社)建設後、庭園に陸海軍の戦友会が桜を献納していくの と時期を前後して、明治 14 年の英国大使館前への桜植樹を発端に千鳥ヶ淵沿いにも 桜が植樹されていく。明治 30 年代前半の東京名所図会に、千鳥ヶ淵や靖国神社の桜 の季節の散策利用などが描かれていることからも、このころから東京市民にとっての 桜の名所として定着していったものと考えられる。(l、n、o)(図-13、14) 著作権保護のため図を表示しません。 図-13 明治 32 年ごろの靖国神社庭園の散策風景(引用: 「図会に見る日本の百年3巻-新撰東京名所図会」) 28 著作権保護のため図を表示しません。 【市民にとっては、鎮魂のみならず観光地の性格も備えていた靖国神社】 ・明治 4 年∼31 年までは、大祭で催されていた競馬は東京名物の一つとして人気を集め た。(i、j) ・明治 35∼40 年まで、牛ヶ淵の靖国神社遊就館の付属地に日清戦争の戦勝ムードを高 め、日露戦争に対する戦意高揚を目的として、戦争の様子を描いた絵画を料金をとっ て市民にせるパノラマ館(国光館)があった。パノラマ館は上野公園、浅草に続いて の開館であった。(o)(図-15、16) 29 著作権保護のため図を表示しません。 著作権保護のため図を表示しません。 【市電の開通と、定評があった車窓からの淵の水色の美しさ】 ・明治 40 年 7 月に市電が開通すると、乗客には九段坂の土手側を走るときの牛ヶ淵の 水色の美しさが際立ち車窓からよく見えたとされている。(o)(図-11、17) 著作権保護のため図を表示しません。 30 (3)第二次世界大戦後から現在 ①北の丸 【戦後は歴史的資源や教養施設の多い森林公園として整備され現在に至る】 ・戦後になると、戦前の近衛師団の兵営は、警察学校や宮内庁、法務省などの機関が利 用した。(図 ) ・その後、昭和 38 年(1963 年)の閣議決定に基づき、森林公園としての整備が開始さ れ、昭和 44 年 4 月に昭和天皇の還暦を記念して、国民公園皇居外苑の一部として開 園、一般公開されるに至った。環境省管理。 ・一方、昭和 39 年には科学技術館、日本武道館が開館し、同 44 年には国立近代美術館、 同 46 年には国立公文書館が苑内に開館。同 47 年の重要文化財指定後に修復された近 衛師団司令部(昭和 43 年竣工)が国立近代美術館工芸館として昭和 52 年開館した。 ・また、昭和 36 年(1961 年)、田安門と清水門も重要文化財に指定され、千鳥ヶ淵沿 いの石垣の江戸城跡のヒカリゴケ生育地が天然記念物に指定された。 (以上 f) (図-18 ①) 31 著作権保護のため図を表示しません。 図 戦後、北の丸公園が整備までの間、近衛師団の兵営地や建物は警察学校や官庁の庁舎 として利用された。 一万分一地形図 1955(昭和 30)∼1957(昭和 32)年修正(地理調査所発行) 【都心の憩いの場として、散策や、自然観察会などで利用されている】 ・近隣住民の犬の散歩利用、ジョギングやサイクリング利用などが盛んで、他にはサラ リーマンの休憩、周辺の小学校による学校利用や科学技術館のイベントとしての自然 観察会などで利用されている都心の緑のオアシスとなっている。(f) ②番町・九段 【首都高速道路の開通】 ・昭和 37 年に工事が始まり、東京オリンピックの 39 年開通。完成後は千鳥ヶ淵の風景 が大きく変わった。(q)(図-18②) 【皇室関係者の住まい跡地は千鳥ヶ淵戦没者墓苑に】 ・千鳥ヶ淵沿いの旧火除地は、北からインド大使館、九段坂病院、農林水産省分庁舎、 千鳥ヶ淵戦没者墓苑となった。戦没者墓苑は、昭和 34 年(1959 年)建設された、第 二次大戦の戦没者の遺骨約 9 万千体が眠っている国立墓地で環境省が管理している。 墓苑ができたことで、靖国神社とは違う無名戦士の墓としての鎮魂の場が千鳥ヶ淵に もう一つ生まれた。(図-18③) 32 【千鳥ヶ淵周辺は千代田区により憩いの場所、平和の象徴としての整備・利用が進む】 ・戦後、千代田区は観光事業発展に力を入れ、昭和 25 年(1950 年)当時、厚生省管理 の国民公園であった千鳥ヶ淵に、風致の鑑賞と国民レクリエーションを目的に区営ボ ート場を開設した。昭和 29 年にはコイ、フナをそれぞれ計 3,000 匹放流し、釣り場 として開放し、昭和 30 年にボート場付近にサクラ並木、遊歩道を整備した。千鳥ヶ 淵に関する区のイベントは昭和 29 年からのさくらまつり、昭和 33 年からの納涼とう ろう流しが、それぞれ春や夏の風物詩的事業として行われている。(q)(図-19) ・昭和 43 年都電が廃止され、昭和 54 年(1979 年)には千代田区により歩行者優先の 千鳥ヶ淵緑道が整備され、沿道にはサクラが植えられた。平成 21 年(2009 年)には サクラの植栽余地を確保するとともに、1 年を通じて自然に親しめる四季の道として 再整備された。(l、r) 【牛ヶ淵沿いはかつてを偲ぶ施設や公園が立ち並ぶ】 ・牛ヶ淵沿いには、牛ヶ淵公園、昭和館、九段会館、旧千代田区役所等が立ち並ぶ。 (図 -18④) ・昭和館はかつてパノラマ館があった場所付近に整備され、戦没者遺族をはじめとする、 国民が経験した戦中・戦後の国民生活上の労苦を後世代の人々に伝えていく施設とし て平成 11 年 3 月に開館。厚生労働省管理。(s) ・昭和館と九段会館の間にある牛ヶ淵公園は、旧陸軍関連などの記念碑や銅像がみられ る公園。千代田区管理。(l) ・千代田区は、昭和 30 年にこの地に庁舎を設け、平成 19(2007)年 5 月まで使用され ていた。移転後の現在の庁舎は国の九段第 3 合同庁舎との合築である。(t) 33 著作権保護のため図を表示しません。 図-18 国土地理院1万分の1地形図(平成 11 年(1999 年)) 【千鳥ヶ淵のボート利用は戦後の数少ない娯楽としてにぎわった】 ・戦後 5 年を経て始まった千鳥ヶ淵のボート利用は、当時の人々の荒んだ心を潤す当時 の数少ない娯楽とされ、その後も水辺の憩いの場・平和の象徴として親しまれてきた。 ・一方、東京オリンピックに向けて 39 年に整備された首都高速により、千鳥ヶ淵の景 観は大きくかわったと捉えられている。(q) 【桜の季節は都内有数のお花見スポットとして定着し、一年を通じて最もにぎわう】 ・靖国神社から千鳥ヶ淵緑道、千鳥ヶ淵公園、また北の丸公園のエリアは、全体で桜が まとまりをもって楽しめるため、花見シーズンには都内でも有数の花見スポットとし て大変人気の場所となっている。特に桜のトンネルをくぐる緑道散策とボート利用が 人気である。(図-19) 34 著作権保護のため図を表示しません。 図-19 昭和 37 年(1962 年)4 月の花見シーズンの千鳥ヶ淵利用風景(出典:「1960 年代の東京」) (参考資料) a 「江戸はこうして造られた」鈴木理生著 b 「江戸と江戸城」鈴木理生著 c 「江戸の川・東京の川」鈴木理生著 d 「江戸と江戸城」内藤昌著、SD 選書 鹿島出版会 e 「千代田区史・上」千代田区 f 「平成 19 年度皇居外苑(北の丸地区を含む)管理基本方針策定調査業務報告書」 g 「江戸切絵図今昔散歩」新人物往来社 h 「カラー版徹底図解 江戸時代」新生出版社 i 「北斎展図録」 日本経済新聞社 j 「江戸から東京へ 明治の東京」人文社 k 「古地図ライブラリー別冊 古地図・現代図で歩く 明治大正東京散歩」人文社 l 「東京史跡ガイド① 千代田区歴史散歩」学生社 m 「靖国神社史」靖国神社ホームページ n 「図会にみる日本の百年第3巻 ‒新撰東京名所図会」 o 「明治・大正・昭和東京写真大集成」新潮社 p 「大東京写真帖」忠誠堂 q 「新編千代田区史 区政史編」千代田区 r 「Website 版 旅と歴史 桜さくらサクラ・2009-1」 s 「昭和館ホームページ」 t 「千代田区ホームページ」 u 「CRAS 大人の上質ウェディング九段会館紹介ホームページ」 v 「切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩」人文社 35