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千鳥ヶ淵を巡る歴史と特性について

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千鳥ヶ淵を巡る歴史と特性について
資料2-1
千鳥ヶ淵を巡る歴史と特性について
1. 千鳥ヶ淵、牛ヶ淵のなりたちと江戸の水源確保
(1)千鳥ヶ淵・牛ヶ淵のなりたち
①初期の江戸の飲料水確保のために造成された淵
・ 江戸は、臨海で埋立地という条件のため、飲料水が自給自足できない都市となることから、江戸
城築城と城下町整備にあたっては、上水(飲料水)の確保と下水の処理が最優先課題の一つであ
った。
・ とくに天正 18 年(1590 年)の家康の江戸城入城時には甲州派遣軍団 8,000 人をはじめ続々と家
臣団が入城したことから、飲料水を確保するために城周りの小河川をダムで堰き止めて、現在の
千鳥ヶ淵と牛ヶ淵の二つの飲料水用ダム建設がなされた。
②千鳥ヶ淵の造成
・ 千鳥ヶ淵は、番町∼千鳥ヶ淵∼乾門から皇居内の本丸と西丸(吹上)を隔てる後の三日月濠∼蓮
池濠∼蛤濠(坂下門)を経て日比谷入江に流れていた川を、堰き止めて造成したものである。
(立証)昭和 38 年の高速道路建設工事の際に、高速道路の千鳥ヶ淵南東部から地上に出る部分
の地下工事のときに、千鳥ヶ淵の水面から約1メートル下に相当する深さに 300 メートルの長
さの石畳みのトンネル(上水道跡)と、地下 16 メートルの深さに竹藪や木立の生えていた谷川
を埋め立てた跡が発見された。谷川は、千鳥ヶ淵川の河流と思われる。
③牛ヶ淵の造成
・ 牛ヶ淵は、現在の日本橋川(旧名平川)右岸の河岸段丘と武蔵野台地東麓部の湧水線との間の低
地に水を溜めたもので、ダム(堰堤)の名残りは、清水門の入口に認められる。
・ 千鳥ヶ淵から牛ヶ淵への水の導入は、代官町の谷を埋めてダムをつくり、九段・田安門下の土手
にある水門で水位調整を行い、牛ヶ淵に流したと思われる。
(立証)現在の千代田区神田神保町∼一橋∼大手濠にかけた一帯に給水するための給水管が発掘
されており、埋め立て前の日比谷入江に設置されていたためカキが付着している。
―江戸城の濠と淵の違い―
・ 江戸城の「濠」には、①谷地形をそのまま利用して水を湛えるようにしたもの、②陸地を掘削し
て水を導いたもの(運河を濠としたもの)、③水面を濠の部分だけ埋め残して濠としたものの三
つのタイプがある。
・ それに対して、千鳥ヶ淵、牛ヶ淵などの「淵」は、ダム工事によって小河川を堰き止めて造成し
たものを指す。
(参考資料 a、b=文末参照、以下同様)
1
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図-1 天正 18 年(1590 年)頃 千鳥ヶ淵、牛ヶ淵堰き止め前の江戸の河川
(出典:
「江戸と江戸城」鈴木理生)
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図-2 天正 18 年(1590 年)頃 千鳥ヶ淵、牛ヶ淵堰き止め後
(出典:
「江戸はこうして造られた」鈴木理生)
2
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(2)江戸発展のための上水の整備
江戸の発展に伴い、より多くの人口に対応した上水の整備が必要になり、神田・玉川両上水の整
備により江戸の水問題はほぼ解決した。両上水は明治 34 年(1901 年)6 月 30 日まで、江戸-東京
市民の水道として約 250 年間利用された。
①我が国最初の水道:神田上水
・ 江戸城が完成期の上水道問題の急迫に対し、寛永年間(1624 年∼43 年)に我が国最初の水道(=
神田上水)が整備された。神田川以南の駿河台、小川町一帯の市街地に給水。さらに神田橋上流
部で旧平川の河底をくぐらせる水路トンネルによって、江戸城東部(現在の大手町周辺)に給水
され、余水の一部は外濠に落とした。
②玉川上水と江戸西郊の開発

神田上水完成 10 年後に、江戸は 30 万人都市となり、巨大人口の水道確保のため、徳川家光の
遺志を継いだ家綱により、承応 2 年(1653 年)に玉川上水(多摩川と江戸を直結させる水路)
44 キロを羽村―内藤新宿大木戸間の武蔵野台地上に割掘った。

この玉川上水は、武蔵野に縦横に走る尾根を「綱渡り」した状態で流れるように設計され、水
路の両側のどの部分にも分水が可能という副次的効果を持ち、小川村から分水された野火止用
水はじめ、千川上水、三田上水も玉川上水から分水された。

また、四谷大木戸から市内にはいった上水の主流は、江戸城内と赤坂、虎門一帯、南は一部古
川を超えて給水された。
(c)
3
2.千鳥ヶ淵周辺の土地利用変遷と特性
このエリアは江戸時代の国政の中枢であり、現在までを通じ、番町を中心とした閑静な高級住宅街があり、
文化の発信地であった。
また、幕末以降は軍事関係施設の集積地及び鎮魂の場、あるいは教育関連施設が集まる一方、公共交
通の普及と共に娯楽・観光の東京名所としての役割も果たしてきた。
さらには、江戸時代の千鳥ヶ淵・牛ヶ淵沿いには、江戸城を火事から守るために樹木などを植えた緑地の
防火帯(火除地)が設置され、現在も濠沿いや北の丸に緑道や森林公園が整備されるなど、緑の多い街並
み景観が維持されてきたことも特性の 1 つである。
表―千鳥ヶ淵の周辺土地利用変遷
時代
北の丸
・主に徳川家
ゆかりの人
の住まいとし
て利用
公的な位置づけ
番町・九段
(番町∼小川町)
・江戸城防備のための旗本・御
家人を中心とした武家屋敷地帯
・明暦大火後火除地を整備し、
幕末は軍事施設等設置
明治・大
正・昭和
(戦前)
・維新後、第
二次世界大
戦終戦まで
近衛師団の
兵営地
・代官町通り
の整備・市電
の開通によ
り、交通網が
整備された
(番町)
・政府高官・皇室関係者の住ま
いや外国の公使館が置かれた
・千鳥ヶ淵沿いに都市公園を設
け、桜を植栽していった
(九段)
・戦争で亡くなった軍人の鎮魂の
ための靖国神社が置かれた
・牛ヶ淵沿いには軍事関係の施
設が建設された
・庶民は立ち
入れない兵
営地
昭和(戦
後)・平成
・戦後、国民
公園指定を
受け、歴史
資源や教養
施設の多い
森林公園と
して整備され
現在に至る
・都心の憩い
の場として、
散策や自然
観察会で利
用されている
時代を通じ
た特性まと
め
常に公的利
用がなされ
てきたが、戦
後初めて一
般に利用を
公開した。
(千鳥ヶ淵・番町)
・東京オリンピックにあわせ首都
高速道路が千鳥ヶ淵の上に開通
・千鳥ヶ淵周辺は千代田区によ
り憩いの場所、平和の象徴とし
ての整備・利用が進む
・国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑が完
成し新たな鎮魂の場となる
(牛ヶ淵・九段)
・牛ヶ淵沿いには、かつてを偲ぶ
施設や公園が立ち並ぶ
(旧火除地)江戸時代初期は、幕
末に軍事施設等の公的利用の
場となり、維新後も引き続き軍関
連施設や公人の住まいとして利
用される。戦後も公的利用の割
合が多いが、一転して鎮魂・平
和・憩いの場としての利用が中
心になる。
江戸
4
北の丸
・庶民は立ち
入れない徳
川家の住ま
い
戦前までは、
長らく庶民と
は隔絶した
世界であっ
たが、戦後
市民に開放
され、憩いの
場となった。
市民からの視点
番町・九段
(番町)
・武蔵野台地東端に形成され、整
然と区画された高級住宅地
(九段)
・九段坂と牛ヶ淵の特異な風景は
浮世絵にも登場し有名
(番町)
・いわゆる「山の手」の閑静な住
宅街
(九段∼番町)
・靖国神社と千鳥ヶ淵には桜が植
えられ、花見利用が盛んになる
(九段)
・靖国神社は鎮魂のみならず、観
光地としてもとらえられていた
・濠沿いの市電車窓からみる牛ヶ
淵の水色の美しさには定評があ
った
(千鳥ヶ淵・番町)
・千鳥ヶ淵のボート利用は、戦後
の数少ない娯楽としてにぎわい、
現在に至る
・桜の季節は、都内有数のお花
見スポットとして定着し、一年を通
じて最もにぎわう。
番町周辺は、江戸時代初期から
旗本・御家人の住まいとして整然
とした町割がなされ、そのまま現
在まで閑静な住宅街として利用さ
れている。
千鳥ヶ淵沿いは、明治時代から
鎮魂・観光のために桜が植えら
れ、戦後はボートや緑道散策で
の花見が定着している。
千鳥ヶ淵、牛ヶ淵周辺(北の丸・番町・小川町付近)の江戸時代∼現在までの土地利用の変遷や地域の
特性について、公的な位置付け、市民からの視点の二つの側面で以下にとりまとめる。
(1)江戸時代
1)公的な位置付け
①北の丸
【主に徳川家ゆかりの人の住まいとして利用】

家康入城直後の江戸城には御番衆、薬場などがおかれたほかは、竹やぶなどに覆われ、地割は
不明確であった。(参考資料 e=文末参照、以下同様)(図-4)
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図-4 慶長 7 年 (1602 年) 「本慶長江戸図(複製)」(出典:千代田区史・上)
※:斜体=当時の標記。ゴシック体=現在の名称。

慶長 11 年∼12 年(1606∼1607 年)千鳥ヶ淵、牛ヶ淵と本丸との間に内郭として築造され、北の丸と
称された。江戸時代初期は、代官屋敷や大奥に仕えた女性の退隠所となり千姫、春日の局、家康
側室英勝院の屋敷もここにあった。(g、l)(図-5)

明暦の大火後火除地とされていたが、享保 15 年(1730 年)8 代将軍吉宗の第二子宗武がここに田
安家を興し、宝暦 9 年(1759 年)には、9 代将軍家重の第二子重好がここに清水家を興したことに
より、御三卿のうち田安徳川家と清水徳川家の屋敷が置かれた。(g、v)(図-6)
5
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図-5 明暦 3 年(1657 年) 「新添江戸之圖(複製:北の丸部分)」
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図-6 慶応元年(1865 年)「尾張屋版 江戸切絵図(部分)」(出典:日本の古地図②江戸山の手)
6
②番町・九段
【江戸城防備のための旗本・御家人を中心とした武家屋敷地帯】

家康は、天正 18 年(1590 年)江戸城入城直後に家臣の屋敷の配置を開始。知行が少ない旗本を
江戸城近くに割り当てる方針で、江戸城防衛上の弱点とみられた南西から北東の山の手高台に
旗本の屋敷を配置した。千鳥ヶ淵及び牛ヶ淵周辺の番町∼小川町はここに属し、武家屋敷地帯と
なった。(d)(図-4 参照)

特に番町周辺、半蔵門から四谷見附に通ずる旧国府路(現甲州街道)は、江戸城防衛上もっとも
手薄であったため、徳川氏の親衛隊である旗本や御家人が大番組、書院番組、小十人番組など
の戦闘部隊として配置され、200∼300 坪ずつの屋敷割が行われた。(d)
【明暦大火後の火除地と幕末の軍事施設等設置】

明暦 3 年(1653 年)正月 18 日に発生した未曾有の大火では、江戸城本丸、天守閣も焼け落ち市
中 6 割を焼失した。大火後、幕府は城と市街地の復興に取り組み、江戸城周辺に集まっていた大
名屋敷や寺社、町人地を郊外へ移転させ、広小路や延焼を防ぐための火除地の設置等を行った。
現千代田区内の火除地分布と推移をみると、江戸城防備のために城の北西を取り囲むように分布
しており、千鳥ヶ淵、牛ヶ淵に接する火除地は元禄期には完成していた。なお、火除地、火除土手
は緑地帯であり、松などの樹木が植えられていた(d、e、h)(図-7)

幕末期になると、黒船の就航などを受け、幕府は千鳥ヶ淵、牛ヶ淵周辺の火除地に軍事拠点を築
いていく。小川町の講武所、九段の歩兵屯所の設置等である。(図-8)
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図-7 千代田区内の火除地分布(出典:千代田区史 上巻)
7
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図-8 安政再版 東都番町大繪圖(出典:日本の古地図②江戸山の手)
①歩兵屯所:元禄 10 年(1697 年)に設けられた火除地の跡で、幕末期には騎射馬場→歩兵屯所となった。維新後、こ
こに招魂社が建立され、現在の靖国神社となる。
②ほうろく調練場:安政4年(1857 年)設置された騎射調練場。旗本の二・三男坊を集め、騎馬戦の練習をした。
2)市民からの視点
①北の丸
【庶民は立ち入れない徳川家の住まい】

北の丸が築造された慶長 11∼12 年以降は、代官や江戸城ゆかりの人々の住まいとして利用され
た。他の江戸城内と同様に庶民とは隔絶された地域であったと想定される。
②番町
【江戸時代から整然と区画された高級住宅地として有名】

番町の街区は整然と整備され、似たような屋敷が連続し、門前に表札もなかったことから、川柳に
「番町に魚のさがるほど尋ね」(進物の鯛を届けるために魚が腐りかけ値打ちが下がるほど探し歩
いた)などと詠まれている。(g)

また、「番町にすぎたるものが二つあり、佐野の桜と塙保己一(はなわほきいち)」などとも謳われ、
高名な国学者の住まいがあったり、田沼意次の息子を殿中で殺害し、世直し大明神として慕われ
た佐野善左衛門の屋敷の庭に咲く桜の美しさが称えられていることからも、番町一帯は美しい庭を
もつ邸宅から成る、落ち着きある街並みであったと思われる。(g)
③九段
【九段坂と牛ヶ淵の特異な風景は浮世絵にも登場し市民に有名】
 九段坂は大変急峻で、ここを登る銭を積んだ牛車がこの淵に転げ落ちてついに上がらなかったと
いう古事が伝えられており、この景色を人気浮世絵師葛飾北斎と歌川広重が描いている。(i)

このあたりで絵になる風景としては、九段牛ヶ淵が群を抜いて知られていたと考えられる。(図-9)
8
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図-9 くだんうしがふち 葛飾北斎画(出典:「『北斎』全集浮世絵版画5」)手前の淵が牛ヶ淵、奥が千鳥ヶ淵
9
(2)明治・大正・昭和(戦前)
1)行政上の位置付け
①北の丸
【明治維新後、第二次世界大戦終戦まで近衛師団の兵営地であった】

明治維新後、自前の武力を持たなかった明治政府は、明治4年に天皇御親衛を名目に、鹿児島、
山口、高知の 3 藩より徴兵した親兵1万人の軍隊を創設し、北の丸はその駐屯地となった。明治 5
年近衛条例を制定して親兵を近衛と改称し、任務を明確にし、近衛師団となった。明治7年(1874
年)に置かれた近衛歩兵第一・第二連隊は、戦中も宮城の護衛と首都防衛の任務を負った。(f、j、
k)(図-10①)
【代官町通りの整備・市電の開通により、交通網が整備された】

明治 33 年(1900 年)の代官町通りの整備は、皇居を一周する内堀通りを東西にショートカットする
役割を果たした。また、この工事により千鳥ヶ淵に新たに土橋が設けられ、千鳥ヶ淵と半蔵濠に分
けられた。(f)(図-10②)

明治 40 年(1907 年)には急坂の九段坂を避け牛ヶ淵、千鳥ヶ淵の土手を削り、坂下から坂上に市
電を開通させた。大正 12 年(1923 年)の関東大震災を機に九段坂が拡幅され、坂の高低差
を減じたことで、この市電は道路の中央部を走るようになった。昭和 38 年まで運行。(o)
(図-10③・図-11)
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図-10 番地界入東京全図 (大正 8(1919)∼11(1922)年)(出典:5千分の 1 江戸-東京市街地図集成 2)
10
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図-11 田安門前から九段牛ヶ淵沿いを走る市電を撮影した絵葉書。濠沿いを掘削した様子がわかる。
(引用:明治・大正・昭和東京写真集大成)
②番町
【政府高官・皇室関係者の住まいや外国の公使館が置かれた】

江戸時代に千鳥ヶ淵沿いの火除地であった場所には、明治時代に近代陸軍創設者である山県有
朋邸や、維新勢力側とつながりの深い英国公使館、東京大学前身の開成学校が置かれた。

大正時代には山県邸は移転し、後に農林水産省分庁舎となる農商務大臣官邸が建設され、開成
学校の跡地には侍従長官邸、賀陽宮邸など皇室関係の住宅が建設された。(図-10④)
【千鳥ヶ淵沿いに都市公園を設け、桜を植樹していった】

千鳥ヶ淵沿いの桜植樹は明治 14 年の英国公使館前のアーネスト・サトウ手植えの桜が明治 30 年
代に東京市に寄贈されたことに端を発しており、大正 8 (1919)年には、当時の市区改正事業の一
環で千鳥ヶ淵公園が整備され、沢山の桜が植樹された。(k、o、j)
11
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図-12 千鳥ヶ淵の櫻花と題された明治 40 年以前の絵葉書(引用:明治・大正・昭和東京写真集大成)
③九段
【戦争で亡くなった軍人の鎮魂のための靖国神社が置かれた】
 幕末には歩兵屯所がおかれ、明治元年(1868 年)3 月 14 日(旧暦)江戸開城まで主戦派がいたが、
明治 2 年新政府の陸軍用地となり、戊辰戦争で亡くなった官軍戦没者慰霊のために招魂社が創
設され、明治 12 年に靖国神社と改称された。以後、「幾多の戦役で護国の鬼となった英霊を合祀
する場所」として出征する軍人や遺族の信仰・慰霊の場となった。(l、p)
【牛ヶ淵沿いには軍事関係の施設が建設された】

牛ヶ淵沿いの土地にも靖国神社の附属地ができ、パノラマをみせる国光館が明治 35∼40 年整備
された。(o)

同じく昭和 9 年(1934 年)建設された軍人会館は、清王朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀の弟である
溥傑と嵯峨浩の結婚式が行われたり(昭和 13 年 4 月)、2.26 事件の戒厳司令部が置かれるなどし
た。戦後は進駐軍により接収され士官宿舎として使われ、昭和 27 年に占領が解け返還されると、
昭和 28 年に九段会館と名前を変え、結婚式場や研修ホールなどとして利用され現在に至る。(j、
u)
2)市民からの視点
①北の丸
【庶民は立ち入れない兵営地】

明治維新後も、近衛兵営地であったことから庶民とは隔絶された地域であった。
②番町・九段
【番町はいわゆる「山の手」の閑静な住宅街】

明治・大正時代には、番町には政府高官、宮家以外に、旧公家、旧大名家、あるいは、詩人、文
学者などの文化人が多く住む高級住宅街になった。
12
【靖国神社と千鳥ヶ淵沿いには桜が植えられ、花見利用が盛んになる】

明治2年の招魂社(靖国神社)建設後、庭園に陸海軍の戦友会が桜を献納していくのと時期を前
後して、明治 14 年の英国大使館前への桜植樹を発端に千鳥ヶ淵沿いにも桜が植樹されていく。
明治 30 年代前半の東京名所図会に、千鳥ヶ淵や靖国神社の桜の季節の散策利用などが描かれ
ていることからも、このころから東京市民にとっての桜の名所として定着していったものと考えられる。
(l、n、o)(図-13、14)
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図-13 明治 32 年頃の靖国神社庭園の散策風景(引用:「図会に見る日本の百年 3 巻-新撰東京名所図会」
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図-14 明治 32 年頃の千鳥ヶ淵見物・散策風景
かも
かいつぶり
おびただしく
か く
「千鳥か淵とは、半蔵門外より田安門外に至る濠をいふ。昔時雁、鴨、鸊鷉等の水禽夥しく来りて、水上に棲息せしを以て、斯く名く
といふ(沢山の水鳥が飛来し生息することが名の由来になった)、今に冬季は是等の水禽群をなして、浮遊するを見る、一説に往古
千鳥の来りしことあるを以て、名付けしともいひ(昔は千鳥が飛来したこともあるという説もある)又濠の屈曲せるの状千鳥の如きを以
て名つけしともいへり。(千鳥の形をしているため名付けられたとも言われる)」(引用「図会に見る日本の百年 3 巻-新撰東京名所図
会」 句読点は原文のまま)
【市民にとっては、鎮魂のみならず観光地の性格も備えていた靖国神社】
 明治 4 年∼31 年までは、大祭で催されていた競馬は東京名物の一つとして人気を集めた。(i、j)

明治 35∼40 年まで、牛ヶ淵の靖国神社遊就館の付属地に日清戦争の戦勝ムードを高め、日露戦
争に対する戦意高揚を目的として、戦争の様子を描いた絵画を料金をとって市民にせるパノラマ
館(国光館)があった。パノラマ館は上野公園、浅草に続いての開館であった。(o)(図-15、16)
13
著作権保護のため図を表示しません。
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左:図-15 九段坂下から坂上を見上げた写真。左側の丸い建物がパノラマ館(明治 35∼40 年撮影)。(引用:明治・大
正・昭和東京写真集大成)
右:図-16 東京名所図会に描かれた明治 31 年の靖国神社大祭時の競馬の模様
(引用:「図会に見る日本の百年 3 巻-新撰東京名所図会」)
【市電の開通と、定評があった車窓からの淵の水色の美しさ】

明治 40 年 7 月に市電が開通すると、乗客には九段坂の土手側を走るときの牛ヶ淵の水色の美しさ
が際立ち車窓からよく見えたとされている。(o)(図-11、17)
著作権保護のため図を表示しません。
図-17 明治 31 年頃の牛ヶ淵見物風景
しょう
ほ り
せんくわ
くるま
「牛が淵は。田安の臺の下。九段阪の南方に在る濠池の 稱 なり。むかし銭貨を搭載せる車輛其の牛と共にここに陥りて。
けんがい
もとすいしょくつね
みどり
遂にあがらざりしより此の名ありといふ。懸崖の下水 色 常に 碧 りにして。自ら物凄く(際立っており)。千鳥か淵の餘水。
せきそう
そそ
たうたう
石槽に沿ふて此の淵に灑き滔々として(勢い良く)四時(四季を通じ)雪を噴けり(雪を噴いているようだ)
。」
(引用:「図会に見る日本の百年 3 巻-新撰東京名所図会」句読点は原文のまま)
14
(3)第二次世界大戦後から現在
1)行政上の位置付け
①北の丸
【戦後は歴史的資源や教養施設の多い森林公園として整備され現在に至る】

戦後になると、戦前の近衛師団の兵営は、宮内庁、法務省などの機関が利用した。

その後、昭和 38 年(1963 年)の閣議決定に基づき、森林公園としての整備が開始され、昭和 44 年
4 月に昭和天皇の還暦を記念して、国民公園皇居外苑の一部として開園、一般公開されるに至っ
た。環境省管理。

一方、昭和 39 年には科学技術館、日本武道館が開館し、同 44 年には国立近代美術館、同 46 年
には国立公文書館が苑内に開館。同 47 年の重要文化財指定後に修復された近衛師団司令部
(昭和 43 年竣工)が国立近代美術館工芸館として昭和 52 年開館した。

また、昭和 36 年(1961 年)、田安門と清水門も重要文化財に指定され、千鳥ヶ淵沿いの石垣の江
戸城跡のヒカリゴケ生育地が天然記念物に指定された。(以上 f)(図-18①)
②番町・九段
【首都高速道路の開通】

昭和 37 年に工事が始まり、東京オリンピックの 39 年開通。完成後は千鳥ヶ淵の風景が大きく変わ
った。(q)(図-18②)
【皇室関係者の住まい跡地は千鳥ヶ淵戦没者墓苑に】

千鳥ヶ淵沿いの旧火除地は、北からインド大使館、九段坂病院、農林水産省分庁舎、千鳥ヶ淵戦
没者墓苑となった。戦没者墓苑は、昭和 34 年(1959 年)建設された、第二次大戦の戦没者の遺骨
約9万千体が眠っている国立墓地で環境省が管理している。墓苑ができたことで、靖国神社とは
違う無名戦士の墓としての鎮魂の場が千鳥ヶ淵にもう一つ生まれた。(図-18③)
【千鳥ヶ淵周辺は千代田区により憩いの場所、平和の象徴としての整備・利用が進む】

戦後、千代田区は観光事業発展に力を入れ、昭和 25 年(1950 年)当時、厚生省管理の国民公園
であった千鳥ヶ淵に、風致の鑑賞と国民レクリエーションを目的に区営ボート場を開設した。昭和
29 年にはコイ、フナをそれぞれ計 3,000 匹放流し、釣り場として開放し、昭和 30 年にボート場付近
にサクラ並木、遊歩道を整備した。千鳥ヶ淵に関する区のイベントは昭和 29 年からのさくらまつり、
昭和 33 年からの納涼とうろう流しが、それぞれ春や夏の風物詩的事業として行われている。(q)
(図-19)

昭和 43 年都電が廃止され、昭和 54 年(1979 年)には千代田区により歩行者優先の千鳥ヶ淵緑道
が整備され、沿道にはサクラが植えられた。平成21年(2009 年)にはサクラの植栽余地を確保する
とともに、1年を通じて自然に親しめる四季の道として再整備された。(l、r)
【牛ヶ淵沿いはかつてを偲ぶ施設や公園が立ち並ぶ】

牛ヶ淵沿いには、牛ヶ淵公園、昭和館、九段会館、旧千代田区役所等が立ち並ぶ。(図-18④)
15

昭和館はかつてパノラマ館があった場所付近に整備され、戦没者遺族をはじめとする、国民が経
験した戦中・戦後の国民生活上の労苦を後世代の人々に伝えていく施設として平成11年3月に
開館。厚生労働省管理。(s)

昭和館と九段会館の間にある牛ヶ淵公園は、旧陸軍関連などの記念碑や銅像がみられる公園。
千代田区管理。(l)

千代田区は、昭和30年にこの地に庁舎を設け、平成 19(2007)年5月まで使用されていた。移転
後の現在の庁舎は国の九段第 3 合同庁舎との合築である。(t)
著作権保護のため図を表示しません。
図-18 国土地理院 1 万分の 1 地形図 (平成 11 年(1999 年)
)
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2)市民からの視点
①北の丸
【都心の憩いの場として、散策や、自然観察会などで利用されている】
 近隣住民の犬の散歩利用、ジョギングやサイクリング利用などが盛んで、他にはサラリーマンの休
憩、周辺の小学校による学校利用や科学技術館のイベントとしての自然観察会などで利用されて
いる都心の緑のオアシスとなっている。(f)
②番町・九段
【千鳥ヶ淵のボート利用は戦後の数少ない娯楽としてにぎわった】

戦後 5 年を経て始まった千鳥ヶ淵のボート利用は、当時の人々の荒んだ心を潤す当時の数少ない
娯楽とされ、その後も水辺の憩いの場・平和の象徴として親しまれてきた。

一方、東京オリンピックに向けて 39 年に整備された首都高速により、千鳥ヶ淵の景観は大きくかわ
ったと捉えられている。(q)
【桜の季節は都内有数のお花見スポットとして定着し、一年を通じて最もにぎわう】
 靖国神社から千鳥ヶ淵緑道、千鳥ヶ淵公園、また北の丸公園のエリアは、全体で桜がまとまりをも
って楽しめるため、花見シーズンには都内でも有数の花見スポットとして大変人気の場所となって
いる。特に桜のトンネルをくぐる緑道散策とボート利用が人気である。(図-19)
著作権保護のため図を表示しません。
図-19 昭和 37 年(1962 年)4 月の花見シーズンの千鳥ヶ淵利用風景
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(出典:「1960 年代の東京」)
(参考資料)
a「江戸はこうして造られた」鈴木理生著
b「江戸と江戸城」鈴木理生著
c「江戸の川・東京の川」鈴木理生著
d 「江戸と江戸城」内藤昌著、SD 選書 鹿島出版会
e「千代田区史・上」千代田区
f「平成 19 年度皇居外苑(北の丸地区を含む)管理基本方針策定調査業務報告書」
g「江戸切絵図今昔散歩」新人物往来社
h「カラー版徹底図解 江戸時代」新生出版社
i「北斎展図録」 日本経済新聞社
j「江戸から東京へ 明治の東京」人文社
k「古地図ライブラリー別冊 古地図・現代図で歩く 明治大正東京散歩」人文社
l「東京史跡ガイド① 千代田区歴史散歩」学生社
m「靖国神社史」靖国神社ホームページ
n「図会にみる日本の百年第3巻 ‒新撰東京名所図会」
o「明治・大正・昭和東京写真大集成」新潮社
p「大東京写真帖」忠誠堂
q「新編千代田区史 区政史編」千代田区
r「Website 版 旅と歴史 桜さくらサクラ・2009-1」
s「昭和館ホームページ」
t「千代田区ホームページ」
u「CRAS 大人の上質ウェディング九段会館紹介ホームページ」
v「切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩」人文社
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千鳥ヶ淵と周辺地域の歴史
年
明 1456(長禄元)
治 1590(天正18)
以 1592(文禄元)
前
千鳥ヶ淵周辺*に関するできごと
江戸城・皇居・周辺地域に関するできごと
○扇谷上杉氏の重臣太田道灌が、江戸築城。
○徳川家康、江戸城に入り(関東入府)、江戸普請を行う。
○飲料水確保のため、番町∼千鳥ヶ淵∼乾門∼坂下門∼日比谷
入江への河流を代官町の谷川堰き止めにより、千鳥ヶ淵を建設。
○平川右岸河岸段丘と武蔵台地東麓部湧水線との間の低地に水
を貯めて、牛ヶ淵を建設。
1603(慶長8)
1606(慶長11)
1624(寛永元)
1636(寛永13)
1653(承応3)
○徳川家康、江戸幕府を開く。江戸城が幕府の本拠となる。
○江戸城の改修工事を開始。(二代将軍秀忠)
○日比谷入江埋立て(1606∼07年)。
○千鳥ヶ淵、牛ヶ淵と本丸との間に内郭を築造し、北の丸と称した(1606∼
1607年)。
○寛永20年にかけて我が国最初の水道である神田上水が整備される。
現在の田安門が築造される。
○江戸城完成。(三代将軍家光)
○承応2年の玉川上水開設に伴い、大木戸水門から四谷見附、麹町を経て江
戸城へ導水。流末水を濠に放流。江戸の人口が30万人になる。
○麹町から江戸城二の丸まで導水。
○明暦の大火で江戸城本丸、二の丸、三の丸、天守閣が焼け落ち市中6割を
焼失。
○8代将軍吉宗の第二子宗武が北の丸に田安家を興す。
○9代将軍家重の第二子重好が北の丸に清水家を興す。
○江戸開城。明治天皇が入城し「東京城」に改称。
○東京城を皇城と称し旧西丸を皇居とする。宮内省設置。
○東京招魂社(現靖国神社)創建。
1654(承応4)
1657(明暦3)
1730(享保15)
1759(宝暦9)
明 1868(明治元)
治 1869(明治2)
1867(明治4)
1879(明治12)
1894(明治27)
1899(明治32)
1900(明治33)
○九段坂の陸軍省御用地内に常燈明台を建てる。
○東京招魂社を靖国神社と改称。
○上水改良事業で東京市上水を半蔵門樋桝から皇居内に導水、流末を濠に
放流。
○淀橋浄水場の完成に伴い玉川上水からの導水で浄水場からの給水を開
○代官町通りの整備により、新たに土橋が築かれ、千鳥ヶ淵は、
千鳥ヶ淵と半蔵濠に分かれる。
1907(明治40) ○牛ヶ淵、千鳥ヶ淵の土手を削り、坂下から坂上に市電を開通。
1910(明治43)
○旧近衛師団司令部庁舎(後の東京国立近代美術館工芸館)建設。
大 1919(大正8)
○明治期の市区改正事業の一環として千鳥ヶ淵公園が開園した。
正 1923(大正12)
○関東大震災。
昭 1933(昭和8)
○濠周辺、都市計画法に基づく美観地区に指定。(建築物の高さ31mまでに規
和
制)
1934(昭和9) ○軍人会館(現九段会館)完成。
1940(昭和15)
○紀元2600年記念式典(宮城前広場)が行われる。
○東京市による濠への注水弁及び水管築造工事竣工と桜田濠と半蔵濠へ放
流。(着工は1937年)。
1946(昭和21)
○皇居周辺一帯を含む東京特別都市計画緑地を整備する都市計画決定。
1949(昭和24)
○旧皇室苑地運営審議会の答申により皇居前広場、濠は、「国民公園」とな
る。
1950(昭和25) ○千鳥ヶ淵の区営ボート場が開設され、ボート利用が始まる。
1954(昭和29)
1957(昭和32)
○さくらまつり開始。
1958(昭和33)
1959(昭和34)
○納涼とうろう流し開始。
○「国民公園及び千鳥ヶ淵戦没者墓苑管理規則」公布。
○千鳥ヶ淵戦没者墓苑建設。
1960(昭和35)
1961(昭和36)
○濠の水草管理のためソウギョ150(清水濠、大手濠、桔梗濠、蛤濠)、ハクレ
ン150(桜田濠、二重橋濠、日比谷濠、馬場先濠)を放流。
○「江戸城跡」史跡指定。
○江戸城外桜田門、田安門、清水門、重要文化財指定。
○田安門、清水門が重要文化財指定。
1964(昭和39)
○「皇居周辺北の丸地区の整備について」閣議決定。北の丸地区 ○「江戸城跡」特別史跡指定。
を皇居外苑の一部とし、森林公園として建設省が整備することとな
る。
○日本武道館、科学技術館が北の丸公園に竣工。
1965(昭和40)
○千鳥ヶ淵の上に高速道路が開通。
○千鳥ヶ淵に首都高速道路の排水を放流。
1963(昭和38)
1965(昭和41)
1969(昭和43)
○淀橋浄水場の閉鎖・移転に伴い半蔵・桜田濠への水道余水放流が停止し、
以降濠の水質が悪化する。
○首都高速4号線千代田トンネル地下水、路面排水を千鳥ヶ淵、半蔵濠・桜田
濠へ放流。
○濠の水草管理のためソウギョ100、ハクレン100を放流(放流濠不明)。
○千鳥ヶ渕戦没者墓苑奉仕会により、千鳥ヶ淵に毎年コイの放流
が行われた。(∼昭和60年まで)
1969(昭和44)
○北の丸地区整備完了により、厚生省に移管。国民公園皇居外苑の一部、北
の丸公園として一般に開放される。
○東京国立近代美術館完成。
○皇居外苑(北の丸地区を含む)を厚生省から環境庁に移管。
○国立公文書館竣工。
1971(昭和46)
1972(昭和47)
1977(昭和52)
1979(昭和54)
1982(昭和56)
○「江戸城跡のヒカリゴケ生育地」天然記念物に指定。(北の丸公 ○千鳥ヶ淵、牛ヶ淵、半蔵濠など12濠の底泥量を計測(47,49年)。
園の濠に面する石垣の隙間)
○近衛師団司令部重要文化財指定。
○近代美術館分室(工芸美術館)竣工。
○千鳥ヶ淵緑道が整備される。
○濠の水草管理のためソウギョ99(半蔵濠、牛ヶ淵、日比谷濠)を放流。
1982(昭和57)
○(財)国民公園保存協会設立。国民公園の3苑の管理をそれぞれに行ってい
た、皇居外苑保存協会、京都御苑保存協会、新宿御苑保存協会が統合されて
できた。
○東京駅のJR京葉線工事による地下水を濠に導入したが、T-N,T-Pが高く
取りやめる。(昭和62年6月∼平成元年7月)
1987(昭和62)
平 1989(平成元) ○千鳥ヶ淵浚渫約11,700立米(平均採掘深さ0.63m)。
成 1995(平成7)
1999(平成11)
2003(平成15) ○牛ヶ淵の掻い掘りを実施(目的:投棄ゴミの回収、外来魚駆
除)。このあと、水生植物が繁茂(昭和30年頃の状態)。
2005(平成17) ○千鳥ヶ淵でウシガエルを確認。
○皇居外苑濠水浄化施設竣工、本格稼動開始。
○JR総武線のトンネル地下水利用を検討したが、塩素イオン値が高く断念。
2005(平成18) ○千鳥ヶ淵でアメリカザリガニを確認。
2007(平成19)
2008(平成20)
○都下水道からの汚水流入について、下水道局が止水壁を設置。
○牛ヶ淵の掻い掘りを実施(目的:水質改善、調査)。
※参考:『事務提要(国民公園)』、『皇居外苑風致考』(池辺武人著)、『皇居前広場』(原武史著)、小平市立図書館HP江戸年表、千鳥ヶ淵、牛ヶ淵、北の丸公園及び周辺地区
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