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本編③(PDF:2290KB)

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本編③(PDF:2290KB)
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
遺跡の由来
遺跡と人々の関わり
宜野湾メーヌカー古湧泉は、ウブガー・ウフガーとも称され、近代宜野湾
同村の旧家である屋号茶司の祖先とされるチャシヌヒャーが、墓を造る目的
で掘り下げたら、水が湧き出たために湧泉に仕立て直したとされる。戦前、
「メーヌカーの仕切りは飲料水、浴水、洗濯用水の三槽に区分されており、
途中、浴水場のところは土砂くずれにあい昭和8年(1933)に改修が行なわ
れた。特に飲料水の所は字内法によって水汲みの方法等が厳格に規定されて
おり違反者は処罰されることになっていた」[波平勇夫、「農業と諸職」
『ぎ
のわん』、1988]とされる。その改修碑が現在の古湧泉の南東側に立つ「御万
人のまさり拝ミすてやへら玉の産水のももの御恩」と刻された『産泉』碑で
ある。改修事業はシルークルーと称される政争の解決に向けて実施されたと
も伝える。
戦後、“村”内の旧水源地の大半が米軍により接収され、折からの旱魃に
泣かされることになった。その解消に向けて、米国民政府の高等弁務官資金
により昭和 36 年から翌年の 8 月にかけて簡易水道設置工事が実施された。
メーヌカー古湧泉に貯水槽と吸上げポンプが、トゥーティークーモーの高ま
りには貯水タンクが設置され、給水事業が開始された。しかし、「昭和四三
年七月、市の上水道が当区に給水されたため、この簡易水道の給水を打切り、
約六年間にわたる簡易水道事業は、終わった」
[宮城豊吉「戦後の字宜野湾」
『ぎのわん』
、1988]とされる。
宜野湾メーヌカー古湧泉は、飲み水を汲む人、洗濯・入浴をする人など字
宜野湾の住民の集まる場所で、生活の中心地だった。戦前はウブガー(産泉)
として利用され、正月の若水汲みやハチウビー(初御水)
、綱引きの際の拝
みなど、年中行事においてもたびたび拝まれていた。また、子どもが生まれ
た際はウブミジ(産水)としてその湧水につかわせ、結婚の際もその湧水で
ミジナディー(水撫で)を行い、亡くなった際もアミチョージ(湯灌)に使
用するなど、人生の節目においても重要な役割があった。現在でも字宜野湾
郷友会により、年に一度、カーサレー(湧泉浚い)と拝みが行われている。
Ⅰ-40
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
⑥宜野湾クシヌウタキ遺跡
遺跡の現況
遺構と遺物の概要
“御嶽祭祀”の在り方
とその推移
遺跡の遠景
字宜野湾郷友会によるクシヌウタキの御願
遺跡の遠景[1950 年代]
遺跡の近景[1950 年代]
宜野湾クシヌウタキ遺跡は、普天間飛行場の東縁、標高 90~100 メートル
程の丘陵地とその西麓に広がる緩傾斜地に立地する。丘陵地は約 25 メート
ル内外の振幅をもって北西から南東方向に約 120 メートル延び、丘陵上面は
平場をなして基盤の琉球石灰岩が剥き出しの状況にあり、字宜野湾の共同拝
所である2基の石祠が所在する。丘陵地の東辺は落差7メートル強の崖面が
取巻き、その前面をシリガーラと称する小河川が流れる。
平成4年9~10 月、在沖米海兵隊員によって破壊された石祠の修復工事
に伴う約 110 平方メートルの発掘調査が、市教育委員会により実施された。
発掘調査により、西麓の緩傾斜地から、Ⅰ期とするグスク時代・古琉球の
14 世紀後半から 15 世紀前半にかけての掘立柱建物の痕跡である柱穴8基が
検出された。これは、近世琉球の宜野湾村を形成する自然集落の一つとみな
される。しかし、拝所が位置する丘陵上面には僅かに生活遺物が散在するの
みで、祭祀遺構の形跡はみられない。Ⅱ期の開始とする近世琉球の 17 世紀
中葉から 18 世紀前半頃には、丘陵上面の地拵えする平場に2基の海砂利敷
遺構が敷設され、継起的に無文銭が供えられる。これは、現在知り得るクシ
ヌウタキ拝所の祭祀場と祭事行為の始源である。その北側の丘陵麓にも海砂
利敷遺構が敷設され、その上位に「乾隆五十六年(1791)辛亥五月穀旦 宜野
湾王子朝陽」と、「嘉慶八年(1803)癸亥九月穀旦 宜野湾王子朝祥」と刻銘
する2基1対の凝灰岩製の灯籠がある。朝陽と朝祥は同一人物で、宜野湾間
切の按司地頭である。Ⅲ期とする明治末年には丘陵上面の海砂利敷遺構に2
基の石祠が建造される。古老によれば、西側の石祠は“ウタキヌヒヌカン”、
東側は“フニシン”または“フニシンヌカミ”と称す。発掘調査により、東
祠の内部に遺骨は皆無であることが知られた。
本遺跡にみる祭祀場と祭事行為は、近世琉球の 17 世紀中葉から 18 世紀前
半頃に丘陵上面を地拵えする平場に敷設される2基の海砂利敷遺構と継起
的に供えられる無文銭に始まり、明治末年に至って海砂利敷遺構に2基の石
祠が建造されることが知られる。そして、祭祀場に宜野湾間切の按司地頭が
寄進灯籠を建立するなど、その存立に首里王府の“公事”の関与が窺える。
字宜野湾及び市域における“伝統的な村落の御嶽祭祀の在り方とその推移”
を検討するうえで重要な遺跡と言える。
Ⅰ-41
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
⑦神山クシヌカー古湧泉
現地の様子
遺跡の現況と伝承
遺跡の伝承
地域住民との係わり
古湧泉の遠景
古湧泉の近景
古湧泉の内部状況
古湧泉の近景[1950 年代]
神山クシヌカー古湧泉は、普天間飛行場の東縁に設置される米軍の給水タ
ンクが立つ標高約 90 メートルの石灰岩丘陵に所在する。石灰岩丘陵は、カ
ンミンモー(神嶺毛)またはカンミンヌウタキ(神嶺の御嶽)と称し、字神
山の聖地である。古湧泉は、その西側崖下の横穴洞穴に形成された切石造り
の湧泉である。
現在、古湧泉は給水タンク設置工事の際に掘削された岩塊や土砂により一
部埋没するものの、昭和 20 年代の撮影写真をみると戦前の様相を残してい
ると考える。
古老の伝承によれば、クシヌカー古湧泉の水源は、上流にあったクシヌカ
ーガシラという自然洞穴である。古湧泉の前方には溜池があり、湧き出た水
は溜池の下手の穴に吸い込まれた。雨が降ると周囲の畑から水がクシヌカー
ガシラに流入するために水質は後述するメーヌカー古湧泉に劣るが、水量が
多いので利用者は多かった。古湧泉には、石製の香炉が据え置かれていた。
古湧泉の製作年代は伝えられていないが、明治中頃生まれの方々が物心つく
頃にはすでにあったとされる。
また、クシヌカー古湧泉は、洗濯をしたり、夕方には男女ともに水浴びを
する場所でもあった。正月のワカミジ(若水)や産湯に使うウブミジ(産水)、
母子の健康を願うミジナディー(水撫で)に使う水を汲んだり、カーウリー
(湧泉降り)といって産着を洗う集落の重要なウブガー(産泉)でもあった。
アミチョージ(湯灌)に使うシニミジ(死水)や洗骨の水、イリガサー(麻
疹)を治癒する時にも必ずクシヌカーから汲んだ。カンミンモーの石灰岩丘
陵は琉球松やクロツグなどの樹木で鬱蒼とし、古湧泉の南西側に所在してい
たメーヌカー古湧泉もまたワカミジやウブミジを汲むウブガーとして使用
された。しかし、生活用水源としては坂道もあったので利用者はクシヌカー
古湧泉ほど多くはなかったが、戦後の米軍による給水タンク設置工事の際に
掘削された岩塊や土砂によりそのまま埋没したとされる。
Ⅰ-42
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
⑧神山トゥン遺跡
現地の様子
遺跡の遠景
遺跡内のトゥン拝所
遺跡の現況と伝承
遺跡の伝承
遺跡内の井戸
神山トゥン遺跡は、普天間飛行場の東縁、標高 81~99 メートル程の丘陵
平坦地に立地する。遺跡地は、神山古集落の北縁に位置し、字神山の拝所で
ある。
トゥン拝所の石祠は、三方の壁を一枚岩で囲い、南方の拝む部分だけが開い
ている。石祠の中には石製の香炉が1つあり、香炉の後方には石が1つ置か
れる。拝所を担掌する字神山の草分けとされる屋号比嘉の屋敷地の北側に位
置し、その屋敷地の裏側にはトゥン拝所に至る道筋が通っていたとされる。
なお、トゥン拝所の前庭には高さ3尺程の四角い石が据え置かれ、古く種子
取遊びと呼ばれるムラアシビ(ムラ遊び)の際に「按司」または「長者の大
主」が座る石と伝承される。
字神山は、昔は宜野湾古集落の「属地」でヒジャバルと称され、約 400
年前に字宜野湾から屋号ヒジャ(比嘉)がハルバーン(原番人)として来て
そのまま住みつき、神山の草分けである根屋となり、やがてその周辺に家々
が建ち集落が造られた。集落はヒジャヤードゥイ(比嘉屋取)またはヒジャ
グヮーヤードゥイ(比嘉小屋取)と称される。すなわち、
「もと、ヒジャグ
ヮーヤードゥイがあり、そのヤードゥイを守るために、ギノーンヌミートキ
シグヮー、ヤマシロケイ、シマブク、シンガキが、ウヌヤードゥイ、マムイ
ガ、ヤラサッタン。最初はミートケシグヮーである。彼らがアチマティ、チ
ャーミジワカチヌムンリチ、イシミーチ、イーシティ、ウヌトゥンウトーテ
ィ、チャーワカチ、ヌランサクトゥ、ウマカラヌ、ヒヌカンリーシェーハジ
マイ、ディキタンリヌ話である。ヒジャッヤードゥイはヒジャッヌヤシチで
ある。そこは、シマヌイチバンクシである。ヒジャッヌヤシチヌアシャギに
はウカミヤーがあり。戦前、そこにはヒヌカンが1つあった。。ヒジャはニ
ーヌヤー、ニードゥクマと呼ぶ。ヒジャには、ウカマ(ヒヌカン)1ヶ、コ
ーロ(クニムトゥ)6ヶがカミアシャギにあった。
Ⅰ-43
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
地域住民との係わり
トゥン拝所はトゥンムゥイとも呼ばれ、前方には広い庭があった。そこで、
青年達が相撲をとったり重い石を投げて競い合ったりした。また、トゥン拝
所はカンミンモー・比嘉根所・湧泉と併せて、作物の植え付け後に行われる
農作物のウガン(御願)である2月2日のクスィッキ-(腰憩い)、6月 15
日の綱引き、稲の豊作を願う9月のタントゥイ(種子取)に拝された。タン
トゥイには字内の各世帯でもトゥンを拝んだ。
昭和 25 年頃、米軍からの移転命令をうけ、トゥン拝所を含むカンミンモ
ー、比嘉根所、テラガマ、メーヌカー、クシヌカー、ミーガー、イームイ、
アカムゥイ、伊波の東のカジマヤー(辻)などの基地内の拝所群はマーカー
ガマに移設された。その後、昭和 51 年に現在の字神山郷友会事務所の敷地
内に設けた祠に再移設された。現在、敷地内には下記する①~③の2基のセ
メント製祠と1基のセメント造りの塚があり、①の祠に村代火神・根所の火
神・先代火神/根所クサイ神・根所神、②の祠に新川・後之川・前之川/頓
/寺窟/神嶺の香炉が寄進され、③の塚にはアジガユーヌウファカが遷座し
ている。ちなみに、①の祠は、昭和 53 年に地域で悪しき事が生じたために、
ユタの判示により、昭和 53 年旧9月 25 日に新たに建立されたとされる。
⑨神山テラガマ洞穴遺跡
現地の様子
洞穴の入口
遺跡の現況と古老の伝
承
洞穴内の拝所
線刻石板の出土状況
遺跡出土の線刻石板
神山テラガマ洞穴遺跡は、普天間飛行場の東縁の樹林に覆われた地域に所
在する。遺跡は、標高 106 メートルを測る低平な丘陵に、東西約2メートル、
南北 1.5 メートル程の大きさで縦穴状に開口する洞穴遺跡である。洞穴は略
東-西に発達し、洞長は 50 メートル余である。本洞穴は、字神山の共同祭
祀場であり、戦前まで6月の綱引きや9月ウマチーに拝され、“ハマウリ”
と称する厄払いを行う場所でもあった。祭祀場は、洞口直下の小テラスに位
置し、石筍を後背として海砂利が敷き詰められ、18 世紀後半頃の製作と想
定される側面に方形の突帯を囲繞する凝灰岩製の香炉などが略南面して据
え置かれる。古老の伝承によれば、戦前に洞内には「魚・家・船などの象形
文字の彫られた石が三個」、または「高さ一尺~一尺五寸、幅七寸程の平石
が、香炉の後ろに三つ」立っていたと伝える。それらの伝承を念頭に、昭和
56 年 12 月 21 日に市教育委員会が洞内調査を行い、祭祀場の香炉周縁から
2例の“線刻石板”が確認された。
Ⅰ-44
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
遺跡出土の“線刻石板”
“線刻石板”の出土分
布と機能
確認された“線刻石板”は、いずれも市域に原材料の産しない結晶片岩で
ある。一例は、半割するが駒形に整形された完体で、線刻は一過による直線
の組み合わせを基調とするためにタッチが鋭いわりには浅く、+印を中軸に
して記号化の発達した図形を略4箇所に配分し、表裏ともにほぼ同様な配列
で構成される。他の1例は、裏面に粗割面を残す断片で、その図形から“石
板”の左下の隅部に相当する。線刻は深みのある楔状の鋭利な彫りで、周囲
に枠線を施し、その内外の図形を画したものである。
平成 18 年3月現在、
“線刻石板”の出土地は、本遺跡の2例を含め5箇所9
例及び出土地不明1例である。それらの出土地は、『おもろさうし』巻 15
の「うらおそい きたたん よんたむざ おもろ御さうし」(1623 年編集)の
範域と一致する。“線刻石板”の解釈には、①近世農具資料、②琉球の古代
文字、③港の情景を描いたもの、④祭祀・信仰に関わるものであるとの見解
がある。そこで、県下において“線刻石板”の利用の在り方が窺い知れるの
は、古老の伝承にも裏打ちされるように、「村落の祭祀場に据え置かれた香
炉の背後」と想定される本遺跡の例品のみである。
➉神山後原ウシナー跡
現地の様子
遺跡の現況と試掘調査
ウシナー跡の遠景
近景 ウシナー盛土
ウシナー跡の近景[盛土と広場]
盛土の発掘調査風景
神山後原ウシナー跡は、普天間飛行場の東南部の樹林に覆われた地域に
所在する。民間地からみると宜野湾市自動車教習所の北西側、マーカーガ
マとアンガーの間で、旧神山集落とは、東側に直線距離にして 150 メート
ル程の場所にある。ウシナー跡は、いびつな円状の土手と中の広場、いく
つかの付帯施設と考えられる遺構からなる。標高は 100 メートルから 103
メートルと宜野湾市の地形の特徴である海岸段丘の第4面(中位段丘上位
面)に位置している。遺跡周辺は、テラガマやウクマバカも所在し、戦前
から竹林の繁茂する場所であり、それは現在も変わらない。
本遺跡は、平成2年度の那覇防衛施設局(現沖縄防衛局)による倉庫・
整備工場等の建設計画の際に行われた埋蔵文化財有無確認調査により確認
されたものである。その後、平成 15 年度から同 19 年度にかけて市教育委
員会による範囲確認調査が行われた。
Ⅰ-45
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
遺構の概要
地域住民との係わり
闘牛場跡は長径約 25 メートル、短径約 23 メートルの若干いびつな円形
で、断面が蒲鉾状の土手が東側から西側に取り巻き、南側は石灰岩の岩盤
が露出しているが、80 センチ程の段差がある。北側と西側の土手は、高さ
が 80~90 センチ程ある。しかし、東側は 10~20 センチ程の若干の高まり
があるだけの状況で、東側の土手の下場が広がっていることから東側の土
手は崩された可能性があり、東側の土手上部の土は周辺に敷きならされた
ものと考えられる。南側の露出した石灰岩は割れ面が鋭利であり周辺の土
が抉り取られている状況から、闘牛場の廃棄後に石灰岩を切り取ったもの
と考えられる。北西側には、木戸口と呼ばれる闘牛を出し入れしたものと
考えられる幅約3メートルのスロープがみられる。
闘牛場として使用された面は、地表下 20 センチ前後の深さにある。地表
面は東西方向にはほぼ平坦であるが、南北方向は南側から北側に向かって
緩やかに低くなる。現在の闘牛場にみられる砂などは確認されない。また、
闘牛場の北側に若干平坦な広場があり、また西側の土手の外側には闘牛場
の何らかの施設と考えられる箇所も確認される。
闘牛場跡は、造成当初そのままの状態であり、ほぼ全景がみられるもの
である。造成した年代は、文献や口伝はなく、また調査でも遺物からの特
定もできなかった。しかし、沖縄県、宜野湾市における闘牛自体が近代以
降に定着したとされることから、近世にさかのぼることはないものと考え
られる。口伝では、この闘牛場は、平坦で観覧席はなく、明治末年頃、字
神山のアカサージ(赤鉢巻)という闘牛が、字喜友名のカジマシーと対戦
したときに相手を蹴散らした後に、闘志がおさまらずその余勢で人を殺傷
したとして、警察から禁止され廃絶したとされる。字神山ではその後、闘
牛場を明治 44 年(1911)に黒数原のムスルと称される地に移設したとされ
る。本闘牛場をモトウシモー、新設した闘牛場をミーウシモーと呼んだ。
遺跡地周辺は、昭和 20 年頃の普天間飛行場の造成以前と比較しても、土
地改変の波を被ることなく、良好に保全されている地域であり、闘牛場跡
のすぐ脇には飛行場造成以前の里道があり、字喜友名から宜野湾街道を抜
けて闘牛場の北側で2つに分岐し、北側の里道は神山集落へ、東側の里道
は愛知集落へと続いている。北側には里道をはさんで田畑の区画と思われ
る盛土が連なっている。
Ⅰ-46
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
⑪赤道渡呂寒原屋取古集落
現地の様子
遠景
遺跡の現況と試掘調査
遺構の概要
屋敷跡 母屋・台所・アサギ
共同井戸
フール(豚小屋)
赤道渡呂寒原屋取古集落は、普天間飛行場基地内の東南部の樹林に覆われ
た地域に所在し、民間地側からは宜野湾中学校の北西に直線距離で約 200 メ
ートルの場所にある。赤道渡呂寒原内にあり4つの屋敷跡からなる。家屋周
辺に張り巡らされている盛土等において区分されている。一帯は標高 90 メ
ートルから 95 メートルにかけて位置し、クチャと称する島尻層と琉球石灰
岩がみられる場所であり、集落にある3ヵ所の井戸はいずれも水位は地表下
8メートル程にある。
赤道渡呂寒原屋取古集落は昭和 63 年 11 月の那覇防衛施設局(現沖縄防衛
局)による植栽工事の際にかろうじて保全された。その後、平成 15 年度か
ら同 19 年度にかけて市教育委員会による範囲確認調査が行われた。その後、
平成 15 年度から同 18 年度にかけて市教育委員会による範囲確認調査が行わ
れた。今次の重要遺跡の評価・選別の対象遺跡は、「上記の保存が良好な4
件の屋敷地」である。
古集落は4つの屋敷跡から成り、屋敷を区画する盛土があり、周囲には屋
敷林であろうビロウ、ガジュマルもみられる。盛土は高さ 0.9~1メートル
程で、調査では周囲に溝があることがわかった。また、盛土の間は人が余裕
で通れる。
4基ある屋敷跡で2号屋敷跡は保存状態もよく、ほとんどの基礎が残って
いる。母屋、台所、アサギ(離れ家)、フール(トイレ兼豚小屋)、畜舎など
沖縄の伝統的な屋敷の基本的な建築物がそろっている。家は四隅に琉球石灰
岩の石柱を建てた石バーヤと呼ばれる家で、石柱と石柱の間に梁をわたし、
垂木を巡らせて、茅を葺いていたと思われる。壁は土と石の土壁と竹を編ん
だチニブであろう。屋敷内にはクェーチブ(肥溜)、水瓶などもある。
範囲確認調査を行った屋敷跡は1号屋敷跡で、地表面には見られなかった
が、石柱、前庭の石敷、焼土や炭の集中、溝などの遺構が保存されており、
上記の屋敷配置などの復元も可能である。また、改築をうかがわせる遺構も
見られた。この調査の遺物からは、1号屋敷跡は近代以降に含むものと考え
られるが、改築を考慮すると近世にさかのぼる可能性もある。このほかの
3・4号屋敷跡でも、井戸、クェーチブ(肥溜)、フール、ヒンプンと思わ
れる遺構などがみられ範囲確認調査は行っていないが、1号屋敷跡同様、遺
構が良好に保存されているものと考えられる。
井戸は3ヵ所あり、内1つは共同井戸とおもわれ1・2号屋敷跡の住民が
使用したと考えられる。石敷きの洗い場やそれを保護する石積み、排水溝な
どもみられる。
Ⅰ-47
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
地域住民との係わり
屋取集落は、琉球王国時代に職を失した那覇・首里の士族層が地方へ移り、
定着した集落をいう。赤道屋取集落の発祥は、1800 年頃から 1800 年後半に
かけて仲村渠・多和田・喜屋武・島袋・長堂などの先祖が入植してきて開拓
をはじめ定住し集落を築いたとされる。赤道屋取集落は、南方は愛知屋取集
落、北方は野嵩前屋取集落、東方は中城村北上原に接している。宜野湾市の
ほかの屋取集落と同様に旧士族層の多く住む地域であり、世帯は 60 余戸で
あった。屋取集落は、伝統的な村落(字新城・神山・宜野湾等)から土地を
借地して耕作するために、常に農耕に励んでいた。伝統的な村落の集村形態
と違い、耕地の中に家を建てて住む散村形態であり、本屋敷跡の周辺も畑で
あった。また、赤道屋取集落は闘牛が盛んなことで知られ、全世帯が専業農
家で牛・馬・豚が飼育していた。主な農作物は甘藷・甘蔗・大豆で、砂糖小
屋で黒糖も多く生産されていたという。
⑫赤道渡呂寒原古墓群
現地の様子
遠景
古墓群内の亀甲墓 雍正 14 年(1736)
古墓群内の亀甲墓 乾隆 23 年(1758)、古墓群内の亀甲墓 道光 7 年(1827)
古墓群の現況
字赤道は字宜野湾と字神山に跨って形成された屋取集落で、昭和 14 年
(1939)に字神山から小字渡呂寒原・総喜呂原・半田原、字喜友名から小字
上原、字新城から小字仲毛原の一部を分離して新設された行政区である。
赤道渡呂寒原古墓群は、普天間飛行場の東縁、飛行機エンジン調整・修理
用の消音施設を取り巻く原野・灌木地帯に散在する多様な古墓を総称する。
それには、施設の東側の標高 90 メートル台の高まりの西麓に連なる亀甲墓
を主とする 12 基の古墓、その後背に位置する標高 88 メートル内外の袋状凹
地を取り囲む 20 基内外の無庇の掘り込み墓と平葺墓など、施設の南側に分
布する亀甲墓群と陥没ドリーネの岩陰を利用した野面石積みの古墓がある。
これらの古墓群を、前者よりⅠ・Ⅱ・Ⅲ群と仮区分する。今次の重要遺跡の
評価・選別の対象遺跡は、Ⅰ群とする「亀甲墓を主とする 12 基」である。
Ⅰ-48
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
亀甲墓の概要
亀甲墓の造墓年代と
古墓の造り
赤道渡呂寒原古墓群Ⅰ群は丘陵軸線に沿って、長さ約 120 メートルの直線
上に西面して連なる。その内7基を数える亀甲墓には、造墓年が推定される
古墓が3基所在する。1つは、第2号墓と称した亀甲墓で、墓室正面壁の上
面に「雍正拾四年壬辰(西暦 1736)仕立□□」と墨書され、都合 16 基の蔵
骨器が正面壇と段下がりの左右壇及び正室に安置されている。正面壁には
“シチキ”と称する合葬納骨施設が掘り込まれている。なお、同古墓のサン
ゴ石灰岩製蔵骨器の1つには、「いさ阿さな/女房思たま/男子兄いさちく
とのちゃ□/より此すいし□申請候/以上/康煕十三年甲□ら(西暦 1674)
六月十八日」と記され、蔵骨器の方名である“ズシ(厨子)”の古色の用例
などが知られる。
第9号墓の墓室正面壁の合葬納骨施設の蓋には、
「道光七丁亥(西暦 1827)
十月よ里同/八年戊子五月迄相仕廻/太工徳玉那覇筆者四人二而上江洌筑
親雲上建立/祖父母相招宗/附墓敷地□宜野湾村添地分小帳記表/同八月
十八日顕之/仲門」と沈刻され、造墓の年代はもとより造墓の経緯や墓敷地
の取得の一端が記されている。
第 12 号墓のボージャー甕型蔵骨器の蓋の裏には、
「墓仕立主たる親富祖/
母/同人男子/か満戸/右両人骨治入/申候尤此墓之儀/是与左之方たる
/跡敷神主付/又右之方者/せふ棚原/主付/大清乾隆二十三戊寅年(西暦
1758)十一月廿日」、サンゴ石灰岩製蔵骨器の身正面には、「乾隆三拾一年丙
戌(西暦 1766)八月廿六日/洗骨墓仕立主樽□慶次」とある。墓室は、正室と
奥壇及び段下がりの左右壇からなり、墓室正面壁には左右に蓋閉じの合葬納
骨施設が掘り込まれている。
本古墓群の上記する3例の亀甲墓の外部構造は、いずれもその墓式の構成
要素とされる甲・眉・屋形廻り・臼・手・袖石・庭囲い・三味台などが意匠
されている。市域に散在する亀甲墓の造墓年代が推し量れる墓の造りは、記
載年代が降る順に、眉の比高(眉高/眉曲部長)は高まり、眉両端の反りが
厚くその上縁端が外反する傾向にあるが、本古墓群の3例の亀甲墓もその序
列を証左するものである。
市域における“亀甲墓の受容年代と造墓の変遷”はもとより、“造墓の経
緯や墓敷地の取得、蔵骨器の方名であるズシの古色の用例”などを知るうえ
で重要な古墓群と言える。
⑬上原濡原遺跡
現地の様子
遠景
畝間状溝列遺構
2号土坑内出土石器
1号土坑
Ⅰ-49
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
遺跡の現況
遺構の概要
出土遺物と炭素年代測
定結果
原初的農耕址の把握
上原濡原遺跡は、原野と黙認耕作地が広がる標高約 66 メートルの平坦地
に所在し、小地名「濡原」のとおり雨天時に冠水する排水性が悪い場所であ
る。平成5年度、那覇防衛施設局が計画する陸軍送油管新設工事に伴う約
600 ㎡の緊急発掘調査が、市教育委員会により実施された。発掘調査により、
かつての地形は幅約 50 メートル、落差約4メートルの谷地形をなすことが
把握され、連合軍総司令部第 64 地図大隊作製の昭和 23 年調製図から略北東
-南西方向に約 320 メートル延びる谷底低地に立地する遺跡と判断された。
遺跡の堆積土は基本的に7枚に分層され、1層と2層は昨今の堆積土、3
層から5層までの約3メートルの土層が農耕址と想定された。そのうち3層
は近世琉球頃、4層は不明、5層が貝塚時代中期相当の層準である。6層は
不明、7層は地山赤土である。
5層検出の遺構には、複数の畝間状溝列・2基の土坑・2条の溝・2面の
焼土面などがある。畝間状溝列は起点の軸線を同じくし、同一方向に並ぶ複
数の溝である。溝列は他の溝列と切り合い関係にある。農耕址の耕作面であ
ろう。1号土坑は谷底の最低面に位置し、平面は径 100×103 センチ程の円
形、掘り方は深さ 217 センチ程の筒状である。埋土は一過の堆積状況にあり、
壁面は丁重な仕上げである。坑の北縁には用排水溝と考えられる下記の1号
溝が接続する。用水池であろう。2号土坑は谷間の西側高まりにあり、平面
は径 80×86 センチの円形、掘り方は深さ 171 センチの筒状である。上部の
埋土中から1個体相当の土器大片と擦石が出土している。貯蔵穴であろう。
1号溝は前記の1号土坑に連なって北側に延び、幅 88 センチ、深さ 36 セン
チを測る。用排水溝であろう。2号溝は谷底の東側にあり、幅 40 センチ、
深さ 30 センチ内外の南側から西側に曲折する溝である。用排水溝であろう。
焼土面は2面ともに近接して谷間の東法面にあり、炭化材が集在し、土面が
赤く焼けている。焼土面の内外には、砥石などの石器が散在する。
5層出土の人工遺物には、土器と石器 30 点内外がある。それらの出土箇
所は、下記する1号土器が谷底凹地の最低面から出土したことを除き、谷間
の両法面と西側の高まり部にほぼ限定される。それら遺物の組成は土器が極
めて僅少であることに比し、各種の石器が多く、石庖丁形石器や板状砥石そ
れに不定形の鍬状石器の種類が見られるなど、同時期の集落址の遺物組成と
は異なるものである。1号土器は山形突起を持つ甕形の完形土器で、谷底最
低面の1号土坑の傍らから出土した。土坑と関連する祭祀土器と考えられ
る。他に西側高まりの2号土坑から、1個体相当の土器大片が出土している。
炭素年代測定によれば、
1号・2号焼土面出土の4点の炭化物は 3,710±110、
3,550±120、3520±100、2860±190 年前、2号土坑出土の炭化物は 2,940
±90 年前である。
以上のことから、本遺跡は少なくとも“貝塚時代中期相当の遺構群”と判
断され、遺構と遺物の存在状況からすれば何らかの生産遺跡(農耕址)と把
握される。その推察が妥当であれば、農耕跡は同一面の土地を複数回にわた
って耕作する常年の畑址と考えられる。そのことは、少なくとも“貝塚時代
中期が自然物採取と原初的農耕が組み合わさった複合的な経済”であったこ
とをも意味する。
Ⅰ-50
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
⑭宜野湾並松街道跡
現地の様子
宜野湾並松
宜野湾並松街道跡[新垣義夫氏蔵]
遺跡の概要と現況
普天満宮鳥居付近
普天間飛行場基地内には、戦前の国指定天然記念物である宜野湾並松が鬱
蒼と生い茂る街道が走っていた。並松は戦前まで嘉数から宜野湾・神山・新
城等の集落を通過し、普天間の普天満宮までの間にジノーンナンマチないし
ジノーンマーチュー・ジノーンマーチバーとも呼ばれ、当時の宜野湾村民の
みならず広く県民に親しまれていた。街道は近世には中頭方東宿・国頭方東
宿、近代には中頭郡道を構成する宜野湾街道、中央線を構成する普天間街道
と名称変更はあったものの、長くその時々の幹線道路であった。
昭和 20 年(1945)4月1日の米軍上陸後、普天間飛行場は米陸軍工兵隊
が本土決戦に備えて「滑走路の建設工事は 1945 年6月 15 日に開始、同9月
1日頃完工した[県公文書館所蔵の米軍撮影写真キャプション和訳:「資料
コード(CD):0000013372」
]とされる。宜野湾並松街道もその工事と以後の拡
張工事等の進捗に伴い、かつての街道の道筋も街道に沿って連なる近世琉球
から戦前までの伝統的な集落や湧泉・御嶽等の村落景観と併せて眼前から消
失した。しかし、現在でも新城・神山・宜野湾古集落などの近世琉球・近代
沖縄に相当する遺跡が数多く残存していることから、「試掘・確認調査の結
果、遺跡の保存状態が良好で、検出遺構・出土遺物等の内容等から見て、市
の歴史・文化を考える上で多くの情報を得ることができると認められる遺跡
である」と考えられる。
Ⅰ-51
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
国指定名勝「宜野湾街
道ノ松並木」
宿道の開設と植付の
由来
宜野湾街道の拡張整
備
宜野湾並松は、昭和 7 年(1932)10 月 19 日付、史蹟名勝天然記念物保存法
第 1 条の規定により文部省告示第 218 号にて国指定天然記念物に指定され
た。指定名称は「宜野湾街道ノ松並木」である。指定範囲は「那覇普天間線
道路敷中普天間宮前ヨリ三十七メートル、泡瀬普天間線道路敷中普天間宮前
ヨリ二百五十五メートル及普天間首里線道路敷中普天間宮前ヨリ宜野湾村
ト浦添村トノ境界に至る間」とされ、
「其の延長約一里半、株数二,九四四本、
目通幹圏八尺以上のもの一二三株、琉球松の並木として代表的なもの」であ
った[『史蹟名勝天然記念物』第 7 集 第 11 号、1932]。
『史蹟名勝天然記念
物一覧 沖縄県(1936)』に「延長実に五千八百七十二米」とされることから、
単純計算すれば 3.989 メートル毎に 1 本の割で植付られていたことになる。
1646 年作成とされる『正保三年琉球国絵図帳(写)』とその絵図を踏襲して
調整された『元禄十五年琉球国絵図』には宜野湾並松に相当する道筋の記載
及び図示はなく、18 世紀頃の作成と考えられる『薩摩藩調整図』に図示され
るのが初見であろう。
『球陽』附巻の 1644 年の項に「王、始めて普天間神社
に拝謁す」とあり、尚賢王の代に始まったとされる国王や王府の官人層が旧
暦9月に普天満宮へ詣でる「普天間参詣」にも利用された。また、『魏氏慶
佐次家家譜』に「康煕三十九年(西暦 1700 年)十一月二十日、王世孫の尚益
公が薩州から無事御帰還なされたことにより、王世子の尚純公が宜野湾間切
において神仏へ願かけ成就のお礼参りの祝事をなされ」と記される。
なお、
『羽地家家之伝物語』には、
「尚純様有故 宜野湾間切江御引越被遊
侯故王子按司親方以下毎日替伺御機嫌被相勤 間切ヨリ御屋敷并御花園御
屋敷差上、御馬場并御馬輪作調差上、其時、普天間より浦添後 並松植付為
被仰付由、伝有之侯」とあり、尚貞王の世子尚純(1660~1706)の命で、「普
天間から浦添の後方まで沿道に並松を植付させたことを伝えている。(中略)
ちなみに、当時の宜野湾間切は尚純の母方(章氏宜野湾親方)の領地であり、
尚純の長子、王世孫尚益の加増領地でもある。
[『球陽』
、『異本王代記』
、真
栄平房敬「普天間宮への道」『沖縄県歴史の道調査報告書-中頭方東街道』、
1988]」。このように、「浦添仲間以北の普天間宮への道は国王の普天間宮参
詣と宜野湾間切の創設、それに世子尚純の宜野湾寓居など 17 世紀以降の歴
史の流れの中で参詣道並びに宿道として整備され」たことが知られる[真栄
平「上同」、1988]。
首里から普天間までの中頭郡道の拡張整備工事は明治 33 年(1900)1月か
ら始まり、明治 35 年1月に完成した。街道整備工場の経緯について、明治
35 年5月7日の『琉球新報』に、
「首里普天間間三里の道程平良村より浦添
役場を経て宜野湾間切嘉数村に至る凡そ一里の間は坂又坂で中にも平良村
の彼方なる経塚安波茶村の彼方なる馬コロバシ等云う坂は騎馬のままでは
昇降もできぬ程の険路この坂路の昇降には信心も半ば失せしなるべし。さる
を中頭郡長朝武士干城氏郡内各間切の吏員等と謀りて新道改築の計画をな
し郡書記花房良貞氏工事を督し平良橋より新道を開通して浦添間切西原村
の前に出でヒヤ磧に至って旧道と連接せしめ此処より普天間に達する旧街
道も凹凸をならし勾配を緩ふし一面タタキにしたれば今は人力車にて二時
半乃至三時間にて優に往復が出来る様になれり(後略)」とある。
『中頭郡誌(1913)』には、「中央線は所謂普天間街道にして首里より浦添
に入り宜野湾村普天間に通じそれより中城越来美里を貫きて国頭郡金武村
に向かふもなり、其の延長凡八里普天間街道は普天間宮参詣者多く腕車の往
来常に絶えず」とあり、沖縄本島の幹線道路として活況を呈した。
Ⅰ-52
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
戦禍での宜野湾並松
の消滅
今次の沖縄戦に際し、昭和 20 年(1945)2月 20 日、沖縄守備軍第 62 師団(石
部隊)独立速射砲第 22 大隊長から速 22 作命丙第 7 号により、
「一.師團ハ普
天間-宜野湾道、松並木伐採ヲ実施ス 大隊ハ前項作業ニ協力セントス
二.第一、第三中隊長ハ各々兵一名を差出シ明二十一日正午宜野湾国民学校
ニ於テ師団工兵隊長ノ指揮下ニ入ラシムベシ 三.細部ハ副官指示スヘシ」
の命令がなされた[『独立速射砲第 22 大隊 第 1 中隊陣中日誌』]。市内中
原区在の仲村春英氏によれば、「昭和二十年三月二十五日以降、私は松並木
で有名な宜野湾街道の松を切り倒すため徴用された。街道の松をノコギリで
切り倒し、道路に敷いた。この作業は米軍の戦車が通るのを阻止するためだ
った。二人一組で、一日に三本以上は倒した。赤道-長田あたりから十二、
三人以上は徴用されていた。別の村からも徴用されていたのでかなりの数だ
った。ノコギリなどの道具は持参で、無報酬。この作業は一ケ月近く続いた
[宜野湾市がじゅまる会編『戦禍と飢え』、1979]」。宜野湾区在の比嘉盛栄
氏(明治 37 年《1904》生)は、
「宜野湾部落には、並松(松並木)が相当あった
んだが、この松に戦車隊の連中が、ドリルで穴をあけて、火薬をつめていま
した。なぜそうするかといったら、米軍が上陸したらこれに火をつけて、松
の木を倒して障害物にするんだと言ってました。実際は、米軍が上陸する前
の空襲のとき、火薬をつめてあったから並松はよく燃えよったです[石原昌
家「宜野湾住民の沖縄戦体験と戦後生活の出発」『ぎのわん』、1988]」とさ
れる。」
戦後、宜野湾並松の一部は、字普天間や字嘉数などの旧街道筋に 1960 年代
まで残っていたが、道路拡張工事やマツクイムシの被害等により消滅した
[写真集『ぎのわん』、1991]。
Ⅰ-53
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
(6)現状の把握
重要遺跡の現地の様子を把握するために必要となるチェックリストを作成した。なお、重要
遺跡の現状を十分把握するための指標として、以下の調査項目を設定した。
①位置・範囲の確認
②地点までのルート
③地形等の特徴の把握
④土地の区画形質の変更状況
⑤水と緑による景観
⑥歴史的景観の雰囲気
⑦重要遺跡等の判別状況
⑧周辺地区も含めた特性の様子
⑨保存・活用から見た課題
➉跡地利用計画との関係
⑪既往調査資料の有無
Ⅰ-54
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
●重要遺跡のチェックリスト(現状の把握)
1/名称・調査地 [ 伊佐上原遺跡群 ]
調査項目
① 位置
② ルート
③ 地形等の特徴
④ 土地の区画形質の変更
⑤ 水と緑の景観
⑥ 歴史的景観のイメージ
⑦ 重要遺跡等の捉え方
⑧
⑨
➉
⑪
周辺地区も含めた特性
保存・活用から見た課題
跡地利用計画との関係
既往調査資料
チェック項目
□ 目視・地図等で明確に把握できる
■ 判別があいまいである (理由:埋蔵された遺跡、範囲が不明確)
□ 地点(範囲)までルートが確保されている
□ 部分的にルートが判別される
□ まったく無い状態である ■ その他(不明)
□ 崖線がある □ 見晴らしが良い □ 遮蔽物がある
■ その他(不明)
□ 盛土 □ 切土 □ 大規模に造成 □ 建物・構造物あり
□ 変化の判別ができない
■ まとまった樹林地で形成されている(遠景から判断)
□ シンボルとなる木がある(例:
□ 草地 □ 雑木林 □ 水場、水路がある
□ 水と緑の空間がある□ その他(
□ 歴史・文化的な雰囲気が残っている(例:
□ 歴史・文化的な景観を連想させる(例:
□ 部分的に歴史・文化的な景観が残っている(例:
□ まったく感じられない ■ その他(不明)
□ 保存状態がよい
□ 歴史・文化的な形態が残っている
□ 部分的に残っている
□ 周辺の形態が判断できる
□ まったく感じられない ■ その他(盛土)
・滑走路の西側に連続する丘陵斜面地に位置する。
・丘陵斜面地の緑地帯保全との整合を図る。
・自然環境の保全、活用の仕組みづくりが求められる。
■沖縄県 ■宜野湾市文化課 □郷友会 □その他
■写真
遺跡の遠景
■地図(位置・範囲) ※宜野湾市文化財情報図
Ⅰ-55
)
)
)
)
)
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
2/名称・調査地 [ 宜野湾クシヌウタキ遺跡 ]
調査項目
① 位置
② ルート
③ 地形等の特徴
④ 土地の区画形質の変更
⑤ 水と緑の景観
⑥ 歴史的景観のイメージ
⑦ 重要遺跡等の捉え方
⑧
⑨
➉
⑪
周辺地区も含めた特性
保存・活用から見た課題
跡地利用計画との関係
既往調査資料
チェック項目
■ 目視・地図等で明確に把握できる (樹林地で覆われている可能性あり)
□ 判別があいまいである (理由:
)
□ 地点(範囲)までルートが確保されている
□ 部分的にルートが判別される
□ まったく無い状態である ■ その他(不明)
□ 崖線がある □ 見晴らしが良い □ 遮蔽物がある
■ その他(丘陵地、緩斜面地)
□ 盛土 □ 切土 □ 大規模に造成 □ 建物・構造物あり
□ 変化の判別ができない ■ その他(不明)
■ まとまった樹林地で形成されている(遺跡の一部が残されている)
□ シンボルとなる木がある(例:
)
□ 草地 □ 雑木林 ■ 水場、水路がある(シリガーラ)
□ 水と緑の空間がある□ その他(
)
□ 歴史・文化的な雰囲気が残っている
□ 歴史・文化的な景観を連想させる
■ 部分的に歴史・文化的な景観が残っている(拝所・祭祀跡)
□ まったく感じられない
□ 保存状態がよい
□ 歴史・文化的な形態が残っている
■ 部分的に残っている
□ 周辺の形態が判断できる
□ まったく感じられない
・緑の覆われた谷底低地に位置する。
・地域行事の継承に必要な空間の確保を図る。
・緑地の保全、郷友会等の活用との整合が求められる。
■沖縄県 ■宜野湾市文化課 □郷友会 □その他
■写真
現存する寄進灯籠
■地図(位置・範囲) ※宜野湾市文化財情報図
Ⅰ-56
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
3/名称・調査地 [ 神山トゥン遺跡 ]
調査項目
① 位置
② ルート
③ 地形等の特徴
④ 土地の区画形質の変更
⑤ 水と緑の景観
⑥ 歴史的景観のイメージ
⑦ 重要遺跡等の捉え方
⑧
⑨
➉
⑪
周辺地区も含めた特性
保存・活用から見た課題
跡地利用計画との関係
既往調査資料
チェック項目
□ 目視・地図等で明確に把握できる
□ 判別があいまいである ■ その他(大まかな位置は確認)
□ 地点(範囲)までルートが確保されている
□ 部分的にルートが判別される
□ まったく無い状態である ■ その他(不明)
□ 崖線がある □ 見晴らしが良い □ 遮蔽物がある
■ その他(丘陵平坦地)
□ 盛土 □ 切土 □ 大規模に造成 □ 建物・構造物あり
□ 変化の判別ができない ■ その他(不明)
□ まとまった樹林地で形成されている(例:
□ シンボルとなる木がある(例:
■ 草地 □ 雑木林 □ 水場、水路がある
□ 水と緑の空間がある□ その他(
□ 歴史・文化的な雰囲気が残っている(例:
□ 歴史・文化的な景観を連想させる(例:
□ 部分的に歴史・文化的な景観が残っている(例:
□ まったく感じられない
■ 保存状態がよい(一部遺跡)
□ 歴史・文化的な形態が残っている
□ 部分的に残っている
□ 周辺の形態が判断できる
□ まったく感じられない
・西側に開けた緩斜面地に位置する。
・地域行事の継承に必要な空間の確保を図る。
・歴史的な景観の形成に配慮が求められる。
■沖縄県 ■宜野湾市文化課 □郷友会 □その他
■写真
遺跡内のトゥン拝所
遺跡内の井戸
■地図(位置・範囲) ※宜野湾市文化財情報図
Ⅰ-57
)
)
)
)
)
)
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
4/名称・調査地 [ 神山テラガマ洞穴遺跡 ]
調査項目
① 位置
② ルート
③ 地形等の特徴
④ 土地の区画形質の変更
⑤ 水と緑の景観
⑥ 歴史的景観のイメージ
⑦ 重要遺跡等の捉え方
⑧
⑨
➉
⑪
周辺地区も含めた特性
保存・活用から見た課題
跡地利用計画との関係
既往調査資料
チェック項目
□ 目視・地図等で明確に把握できる
□ 判別があいまいである ■ その他(大まかな位置は確認)
□ 地点(範囲)までルートが確保されている
□ 部分的にルートが判別される
□ まったく無い状態である ■ その他(不明)
□ 崖線がある □ 見晴らしが良い □ 遮蔽物がある
■ その他(平坦な丘陵地)
□ 盛土 □ 切土 □ 大規模に造成 □ 建物・構造物あり
□ 変化の判別ができない ■ その他(不明)
■ まとまった樹林地で形成されている
□ シンボルとなる木がある(例:
□ 草地 □ 雑木林 □ 水場、水路がある
□ 水と緑の空間がある□ その他(
■ 歴史・文化的な雰囲気が残っている(洞穴内部)
■ 歴史・文化的な景観を連想させる(洞穴内部)
□ 部分的に歴史・文化的な景観が残っている(例:
□ まったく感じられない
□ 保存状態がよい
■ 歴史・文化的な形態が残っている
■ 部分的に残っている(遺物等)
□ 周辺の形態が判断できる
□ まったく感じられない
・なだらかな丘陵地に位置する。
・洞穴開口部を含む周辺地区の保全を図る必要がある。
・洞穴の調査を踏まえて、内部環境へ影響に配慮する必要がある。
■沖縄県 ■宜野湾市文化課 □郷友会 □その他
■写真
洞穴の入口
洞穴内の拝所
■地図(位置・範囲) ※宜野湾市文化財情報図
Ⅰ-58
)
)
)
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
5/名称・調査地 [ 新城古集落 ]
調査項目
① 位置
② ルート
③ 地形等の特徴
④ 土地の区画形質の変更
⑤ 水と緑の景観
⑥ 歴史的景観のイメージ
⑦ 重要遺跡等の捉え方
⑧
⑨
➉
⑪
周辺地区も含めた特性
保存・活用から見た課題
跡地利用計画との関係
既往調査資料
チェック項目
□ 目視・地図等で明確に把握できる
□ 判別があいまいである ■ その他(大まかな位置は確認)
□ 地点(範囲)までルートが確保されている
□ 部分的にルートが判別される
□ まったく無い状態である ■ その他(不明)
□ 崖線がある □ 見晴らしが良い □ 遮蔽物がある
■ その他(丘陵平坦地)
□ 盛土 □ 切土 □ 大規模に造成 □ 建物・構造物あり
□ 変化の判別ができない ■ その他(不明)
■ まとまった樹林地で形成されている
□ シンボルとなる木がある(例:
)
□ 草地 □ 雑木林 ■ 水場、水路がある(イシジャー)
□ 水と緑の空間がある□ その他(
)
■ 歴史・文化的な雰囲気が残っている(擁護木、屋敷囲い石垣の一部)
■ 歴史・文化的な景観を連想させる(擁護木、屋敷囲い石垣の一部)
□ 部分的に歴史・文化的な景観が残っている(例:
)
□ まったく感じられない
□ 保存状態がよい
■ 歴史・文化的な形態が残っている(擁護木、屋敷囲い石垣の一部)
□ 部分的に残っている
□ 周辺の形態が判断できる
□ まったく感じられない
・滑走路の北東縁に位置し、一部ではあるが屋敷林が残っている。
・多くの遺構や遺物等から伝統的な村落の研究に寄与すると思われる。
・歴史的な景観御形成とともに、市街地に近接する影響を考慮する必要がある。
■沖縄県 ■宜野湾市文化課 □郷友会 □その他
■写真
遺跡の遠景[左側の木々が屋敷林] 遺跡の近景
■地図(位置・範囲) ※宜野湾市文化財情報図
Ⅰ-59
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
6/名称・調査地 [ 赤道渡呂寒原屋取古集落 ]
調査項目
① 位置
② ルート
③ 地形等の特徴
④ 土地の区画形質の変更
⑤ 水と緑の景観
⑥ 歴史的景観のイメージ
⑦ 重要遺跡等の捉え方
⑧
⑨
➉
⑪
周辺地区も含めた特性
保存・活用から見た課題
跡地利用計画との関係
既往調査資料
チェック項目
■ 目視・地図等で明確に把握できる(基地境界部に近接)
□ 判別があいまいである (理由:
)
□ 地点(範囲)までルートが確保されている
□ 部分的にルートが判別される
□ まったく無い状態である ■ その他(不明)
□ 崖線がある □ 見晴らしが良い □ 遮蔽物がある
■ その他(丘陵平坦地)
□ 盛土 □ 切土 □ 大規模に造成 □ 建物・構造物あり
□ 変化の判別ができない ■ その他(不明)
■ まとまった樹林地で形成されている
□ シンボルとなる木がある(例:
)
□ 草地 □ 雑木林 □ 水場、水路がある
□ 水と緑の空間がある□ その他(
)
■ 歴史・文化的な雰囲気が残っている(屋敷区画の盛土、屋敷林)
■ 歴史・文化的な景観を連想させる(母屋、台所、アサギ、フール、畜舎跡)
□ 部分的に歴史・文化的な景観が残っている(例:
)
□ まったく感じられない
□ 保存状態がよい
■ 歴史・文化的な形態が残っている(集落の生活様式を窺わせる)
□ 部分的に残っている
□ 周辺の形態が判断できる
□ まったく感じられない
・市街地の赤道に隣接し、まとまった樹林地、屋敷林が残っている。
・屋敷地内には、伝統的な民家を構成する施設が残っている。
・普天間飛行場内に残る数少ない集落の遺構の保存・活用の在り方に配慮する。
■沖縄県 ■宜野湾市文化課 □郷友会 □その他
■写真
遠景
屋敷跡 母屋・台所・アサギ
■地図(位置・範囲) ※宜野湾市文化財情報図
Ⅰ-60
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
7/名称・調査地 [ 新城シマヌカー古湧泉 ]
調査項目
① 位置
② ルート
③ 地形等の特徴
④ 土地の区画形質の変更
⑤ 水と緑の景観
⑥ 歴史的景観のイメージ
⑦ 重要遺跡等の捉え方
⑧
⑨
➉
⑪
周辺地区も含めた特性
保存・活用から見た課題
跡地利用計画との関係
既往調査資料
チェック項目
□ 目視・地図等で明確に把握できる
□ 判別があいまいである ■ その他(大まかな位置は確認)
□ 地点(範囲)までルートが確保されている
□ 部分的にルートが判別される
□ まったく無い状態である ■ その他(不明)
□ 崖線がある □ 見晴らしが良い □ 遮蔽物がある
■ その他(黙認耕作地に隣接する原野)
□ 盛土 □ 切土 □ 大規模に造成 □ 建物・構造物あり
□ 変化の判別ができない
■ まとまった樹林地で形成されている
□ シンボルとなる木がある(例:
)
□ 草地 □ 雑木林 □ 水場、水路がある
□ 水と緑の空間がある□ その他(
)
■ 歴史・文化的な雰囲気が残っている(古湧泉内部)
■ 歴史・文化的な景観を連想させる(古湧泉内部)
□ 部分的に歴史・文化的な景観が残っている(例:
)
□ まったく感じられない
■ 保存状態がよい(ウリカ―様式の横穴洞穴利用の湧泉)
□ 歴史・文化的な形態が残っている
□ 部分的に残っている
□ 周辺の形態が判断できる
□ まったく感じられない
・滑走路の北側の樹林地に囲まれた丘陵崖に位置する。
・古湧泉としての構造を残した貴重な遺跡。生活用水、村落祭祀との関係が深い。
・地形、緑地、水系が形成する歴史・文化的な景観の継承に配慮が必要である。
■沖縄県 ■宜野湾市文化課 □郷友会 □その他
■写真
古湧泉の外観[1950 年代]
古湧泉の内部状況
■地図(位置・範囲) ※宜野湾市文化財情報図
Ⅰ-61
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
8/名称・調査地 [ 宜野湾メーヌカー古湧泉 ]
調査項目
① 位置
② ルート
③ 地形等の特徴
④ 土地の区画形質の変更
⑤ 水と緑の景観
⑥ 歴史的景観のイメージ
⑦ 重要遺跡等の捉え方
⑧ 周辺地区も含めた特性
⑨ 保存・活用から見た課題
➉ 跡地利用計画との関係
⑪ 既往調査資料
チェック項目
□
□
□
■
□
□
■
□
□
目視・地図等で明確に把握できる
判別があいまいである ■ その他(大まかな位置は確認)
地点(範囲)までルートが確保されている
部分的にルートが判別される(字宜野湾郷友会の清掃活動)
まったく無い状態である
崖線がある □ 見晴らしが良い □ 遮蔽物がある
その他(陥没ドリーネ)
盛土 □ 切土 □ 大規模に造成 □ 建物・構造物あり
変化の判別ができない ■ その他(基地内施設からの流出する土砂の影響あ
り、湧泉再生整備事業を導入)
■ まとまった樹林地で形成されている(定期的に清掃)
□ シンボルとなる木がある(例:
)
□ 草地 □ 雑木林 □ 水場、水路がある
□ 水と緑の空間がある□ その他(
)
■ 歴史・文化的な雰囲気が残っている(湧泉の形体は残っている)
■ 歴史・文化的な景観を連想させる(遺跡と隣接地域が一体となっている)
□ 部分的に歴史・文化的な景観が残っている(例:
)
□ まったく感じられない
■ 保存状態がよい(湧泉再生整備事業)
□ 歴史・文化的な形態が残っている
□ 部分的に残っている
□ 周辺の形態が判断できる
□ まったく感じられない
・普天間飛行場内の施設に囲まれ、一部樹林地の残存する区域に位置する。
・宜野湾郷友会により清掃、御願が年中行事として行なわれており、今後も継承さ
れるための環境整備が望まれる。
・大規模に改変された地域のシンボルとして、原風景の保存・活用に繋げる。
■沖縄県 ■宜野湾市文化課 □郷友会 □その他
■写真
遺跡の遠景[1950 年代]
遺跡の近景[古湧泉と石碑]
■地図(位置・範囲) ※宜野湾市文化財情報図
Ⅰ-62
第Ⅰ章 文献調査や現場踏査を踏まえた現況の把握
9/名称・調査地 [ 神山クシヌカー古湧泉 ]
調査項目
① 位置
② ルート
③ 地形等の特徴
④ 土地の区画形質の変更
⑤ 水と緑の景観
⑥ 歴史的景観のイメージ
⑦ 重要遺跡等の捉え方
⑧
⑨
➉
⑪
周辺地区も含めた特性
保存・活用から見た課題
跡地利用計画との関係
既往調査資料
チェック項目
■ 目視・地図等で明確に把握できる
□ 判別があいまいである (理由:
)
□ 地点(範囲)までルートが確保されている
□ 部分的にルートが判別される
□ まったく無い状態である ■ その他(不明)
□ 崖線がある □ 見晴らしが良い □ 遮蔽物がある
■ その他(丘陵崖)
□ 盛土 □ 切土 □ 大規模に造成 □ 建物・構造物あり
□ 変化の判別ができない ■ その他(不明)
■ まとまった樹林地で形成されている
□ シンボルとなる木がある(例:
)
□ 草地 □ 雑木林 □ 水場、水路がある
□ 水と緑の空間がある□ その他(
)
■ 歴史・文化的な雰囲気が残っている(古湧泉内部)
■ 歴史・文化的な景観を連想させる(古湧泉内部)
□ 部分的に歴史・文化的な景観が残っている(例:
)
□ まったく感じられない
□ 保存状態がよい
■ 歴史・文化的な形態が残っている
□ 部分的に残っている
□ 周辺の形態が判断できる
□ まったく感じられない
・普天間飛行場内の施設用地に隣接し、樹林地に囲まれた丘陵崖に位置する。
・横穴洞穴の古湧泉として重要な遺跡であるが、土地改変の影響が受けやすい。
・地形、緑地、水系が形成する歴史・文化的な景観の継承に配慮が必要である。
■沖縄県 ■宜野湾市文化課 □郷友会 □その他
■写真
古湧泉の遠景
古湧泉の近景
■地図(位置・範囲) ※宜野湾市文化財情報図
Ⅰ-63
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