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日本の失われた十年 - 陸圏環境科学コース
環境科学からみた千歳川放水路計画 ―日本の失われた10年― とりかえそう北海道の川実行委員会代表:小野有五 放水路計画との関わり 1987年にはすでに北大の大学院環境科学研究科に赴任していたにもかかわらず、私 が実際に放水路計画に関わり始めたのは1991年のことである。1982年の策定以来、 放水路計画をめぐってはすでに大きな反対運動があり、またそれはすでに一つの政治問題 であった。本来、河川の専門家でもない自分のような人間が、そのような大きな問題に首 をつっこむことには強いためらいがあったことも事実である。研究者には研究が命であり、 それまで築き上げてきた研究を捨て、まったく新しい、しかも純粋に学問的には解決でき そうにない放水路問題に多くの時間を費やすことは、学者としての自殺行為であるとも思 われた。しかし逆にいえば、私は、北海道大学に日本で初めて設置された独立大学院とし ての環境科学研究科で働くために北海道に来たのである。そのような研究教育機関があり ながら、その足元で起きているこれだけ大きな環境問題に対して、専門ではありませんか らと見過ごしていいものであろうか。そもそも環境科学者であろうとすれば、本来の自分 の専門性を越えて、実際に起きている環境問題に対処できなければ、その存在する意味は ないであろう。 そのようなせっぱつまった気持ちで、放水路計画について1から勉強を始めた日々のこ とを昨日のことのように思い出す。2000年に放水路計画が実質的に中止されるまでの 10年を、私は次の4つの時期に分けて振り返ってみたい。 第一期:1991−93 私がこの時期まず立てた方針は、放水路計画に賛成・反対ということではなく、まず環 境科学の研究対象として、できるだけ客観的にこの問題を調べてみよう、ということであ った。道が立ち上げた美々川の自然的価値を評価する委員会の委員にも選ばれたことから、 研究対象が放水路計画だけでなく、美々川の自然環境にも広がったのは幸運であった。美々 川ていどの川や自然は道内にはどこでもあるのではないか、放水路は、それまで反対派が 主張していたように、治水には役に立たないのであろうか、開発局が否定する放水路以外 の代替案は本当に効果がないのだろうか、放水路計計画の前提となっているさまざまな根 拠は科学的に正しいのであろうか、といった問題をしばらくのあいだ、ぶつ続けに検討し た。 私の研究のやり方は、いちどやると決めたら、とことんやることと、必ず現場を歩いて みること、わからなくなったらその道の第一人者に聞くこと、の3つである。放水路問題 でもそれは同じであった。この問題に取り組もうと心を決めたとき、まっさきに電話した のは新潟大学の大熊 孝教授で、あいにく大熊さんはアメリカに行っておられたので、聞 き出したアドレスにファックスまでしてしまった。専門家である大熊さんのサポートが得 られないと、この戦いはできないとまず考えたからである。 92年までには、一応、自分なりの考えがまとまった。その結論は、放水路は確かに千 歳川の水位を下げることには役に立つが、それ以外のすべての点において、環境と社会に とりかえしのつかない重大な悪影響を及ぼすこと、そして、放水路計画を作る出した原因 は、石狩川で設定された過大な基本高水流量にあり、それを誰もが納得できる値に修正し さえすれば、放水路などは最初からいらなくなること、千歳川の洪水対策としては、堤防 の強化や遊水地の造成が最も効果的というものであった。 けっきょくのところ、10年後に検討委員会が結論として出すものとほとんど変わらな い考えが、すでにこの時点ですべて出ていたことがわかる。検討委員会で認められなかっ たのは基本高水流量の変更だけである。失われた10年、という言葉はここにもあてはま るであろう。開発局が自らの計画に固執することさえなければ、10年前に放水路問題は 決着し、いまごろは、堤防の強化も遊水地化もじゅうぶんにすすんで、地域は洪水の危険 を免れていたのである。 92年の3月には、札幌で連合が主催した放水路問題のシンポジウムでこうした意見を 述べたが、このシンポジウムでの開発局側の説明があまりにひどかったことが、私を急速 に放水路の反対運動へとかりたてていったように思う。その日のうちに私は教育文化会館 の小ホールを予約し、5月の連休に、現地見学と講演会を開くことを決断していた。大熊 さんと信州大学の桜井善雄教授が、その日に来てくださることを承諾してくださったとき は実にありがたかった。ご都合を伺う間もなく、とにかく会場を押さえないと、という気 持ちで先に予約を入れてしまったからである。 こうした動きがきっかけとなって、日本野鳥の会では大熊さんだけでなく地盤工学が専 門の大阪大学高田直俊教授、野鳥の会苫小牧支部の紀藤義一さん、それに私が加わって、 放水路対策専門員会をつくってくれた。この会では92年8月、翌年のラムサール釧路会 議の準備に来日された湿地保全の専門家をよんで東京で国際フォーラムを開き、千歳川放 水路計画の与える影響の重大さを首都圏でアピールすることに成功した。国際水禽湿地調 査局長であるマイク・モウザーさんがこのとき言われた”win, win, win scenario” という言 葉がいまも耳に残っている。相手にも自分たちにも、そして湿地の鳥たちにも、みんなに いい解決策をつくろう、という提言であった。放水路がいつ強制着工されてもおかしくな い、というせっぱつまった当時の状況のなかでは、そんな言葉が果たして実現できるだろ うかと、私は夢のように聞いていたが、しかし、その言葉おかげで、どんなときでも、自 分たちだけがよければいいというのではなく、すべてがよくなるような道を求めることを 忘れずに行動できたのではないかと思う。 こうして、いよいよ93年6月、釧路でのラムサール会議を迎えた。私は北海道自然保 護協会の一員として参加したが、私たちはNGOだけの大きなフォーラムを主催するとと もに、連日のように放水路問題を取り上げ、それまで、道内問題であった放水路計画をよ うやく全国的な問題とすることに成功した。また、ウトナイ湖の保全をめぐって、放水路 は、ラムサール釧路会議での国際問題ともなったのである。 ラムサール釧路会議には日本自然保護協会も参加していたことから、ここで、日本自然 保護協会でも放水路問題を専門に扱う委員会を立ち上げる機運が生まれ、9月には委員会 が活動を始めた。また札幌弁護士会でも、放水路問題をとりあげ、11月25日、公開の パネルディスカッションが行われた。弁護士会のやり方は、裁判と同じように、推進派で ある開発局と反対派が事前に文書でそれぞれの主張を述べ、それを論点表として比較した うえで、双方が弁論を戦わせるというもので、放水路計画の問題点を露わにする、という 点ではきわめてすぐれたものであった。しかし、開発局では何人もの職員がまさに自分の 仕事として論点表を書いてくるのに対して、反論を書くのは私ひとりというきわめて不公 平な状況に甘んじなければならなかった。会場にも、動員されてきた推進派の人たちが圧 倒的に多く、常に緊張を強いられる弁論であったが、この弁論戦で一歩も引けをとらなか ったことは、理論的には決して負けないという自信を与えてくれた。 第二期:1994−96 振り返ってみいると、いちばん苦しかったのはこの時期であったかもしれない。ラムサ ール会議で関心は高まったとはいえ、開発局は、94年7月、横路道知事から2年前に出 されていた放水路着工に向けての質問書への回答として、大部の「技術報告書」を提出し、 これで知事の質問にはすべて答えた、あとは着工をという強気の姿勢を見せたからである。 すでに地元には、億単位の買えをかけた工事事務所までつくられ、従業員も雇用されてい た。開発局の宣伝攻勢はすさまじいもので、土地取得費を流用し、豪華なカラー印刷の放 水路宣伝文書を大量に流しはじめた。金も大きな組織もない私たちは、こうした宣伝に、 地道な講演会や署名活動、寄金を募っての新聞広告、新聞や雑誌への寄稿などで対抗する しかなかったが、私たちも死に物狂いであった。 振り返ってみると、それまでの運動は、開発局からこの大部の「技術報告書」を引き出 すための戦いであったと言ってもいい。それほど開発局は肝心なデータを隠してきたので ある。「技術報告書」はこれまで開示されてこなかった放水路の秘密をさらけ出させるもの であった。内容がわかればわかるほどボロが出てくるのが放水路であった。この報告書が 出たおかげで、私たちは、逆に、これで放水路は止められる、という確信のようなものを 得たといえるかもしれない。 第三期:1997−99 自信たっぷりで出した「技術報告書」に批判が集中したおかげで、開発局は放水路事業 をそれ以上に進める根拠を失った。 長良川河口堰問題以来、建設省とわたりあってきた天野礼子さんたちの霞ヶ関への働き かけや、民主党を巻き込んだロビー活動も無視できない。私も96年から長良川に通いは じめ、放水路問題を訴えるとともに、本多勝一さんを通じて「週刊金曜日」のメンバーに 協力を依頼、97年の3月には、反対運動始まって以来の1600人という参加者を集め た集会を開き、これまで関心をもたなかった人たちにも放水路への反対を広げることがで きた。とりかえそう北海道の川・実行委員会は、この集会の実行委員会をもとにつくった 組織である。 97年には河川法が改正され、初めて治水や利水と並んで河川環境が法の目的として入 れられたことも、大きな力になった。このような情勢では、環境をまったく考慮せず治水 目的だけで計画された放水路が存在意義を失うのは当然だからである。亀井建設大臣によ る、いわゆる「牛のヨダレ」発言によって放水路予算が凍結され、開発局は自らの管理能 力を放棄して、道に解決をゆだね、97年9月、検討委員会(山田委員会)が成立する。 委員会に私たち反対派から一人も委員が入れられなかったこと、最初は非公開だった委員 会のあり方など、発足当初は問題も多い委員会であったが、推進派、反対派をそれぞれ入 れた拡大会議を98年4月には招集させ、約一年にわたって十分な議論を戦わせることが できたのは、この委員会の最大の功績であった。どんなに対立した意見でも、隠し事をせ ず、公平に議論を続けていれば、必ず正しい方向が見えてくることをこの委員会は教えて くれたと思う。もっとも、基本高水流量の問題だけは、建設省の聖域として、ついに議論 をすることが許されず、そのままにされてしまった。 第四期:1999−2001 山田委員会のあとを受けて、委員会で積み残された石狩川・千歳川の合流点での対策を 検討する委員会であった。山田委員会で放水路は中止されたものの、合流点で問題が残れ ば、改めて流域外対策もありうる、とのことで、案の定、開発局は「新遠浅川方式」とい う名前だけ変えたミニ放水路案を出してきて最後の抵抗を試みた。この委員会は山田委員 会とちがって開発局の主導で行われたためか、徹底して拡大会議での反対派を締め出し、 逆に放水路容認派は委員にするという露骨な人選を行った。したがって、私たちは一切、 公的な発言をする場を失ってしまった。今後、このような不公平な人選や委員会運営を許 してはならない。 このように、まことに綱渡りのような状況で、放水路計画は中止された。基本的には財 政難という経済の悪化がそれをもたらしたにすぎないのかもしれない。バブル経済が続い ていれば、どんなに反対運動が盛り上がろうとも、政府は放水路をつくっていたかもしれ ない。そう考えると、環境科学や、市民の力で放水路が中止できた、などと言えるのかど うか、心もとない気がするが、それでも、閣議決定までされた大規模公共事業ですら、お かしいものはいつか止めることができるのだということを示したという意味で、千歳川放 水路計画は長く記憶されるべきであろう。