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政岡憲三の漫画映画における表現技法

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政岡憲三の漫画映画における表現技法
政岡憲三の漫画映画における表現技法
呉恵京
Oh, Hye-Kyung
<要旨>
Animation author in Showa Kenzo
Masaoka
Furthermore, it is also surprising that not much studying has been done on Kenjo
Masaoka either, who created about 30 pieces of work during the period of 1931 and
1949 through a method known as “Sell Animation.” The purpose of this study is
to understand Kenjo Masaoka, a genius of Sell Animation, and analyze his works
in order to identify the nature of those works.
There are four greatest discovories he had found during his life time: first,
division of labor was developed more by use of a cell, and that a big hint was
given to a division system of an after Toei animation co. Second, The thing in
which two could express a movement of the character which makes a story stand out
freely using cells. Such as applying to a movie cartoon taking a picture, various
methods are tried, consequently, the thing which improved the quality of a movie
cartoon. Third, I kept studying music methods, and that musical visualization was
advanced. Fourth, He kept educating the posterity represented by Mitsuyo Seo and
others, and that their ability was improved.
Keyword: 政岡憲三(Kenzo
Masaoka), アニメーション(Animation), 昭和(Showa),
セル(the cell), キャラクター描写(movement of the character)
1.はじめに
政岡憲三と言えば、日本で最初にセル(セルロイド)を用いて漫画映画を制作した
ことが挙げられる。セルは 1915 年アメリカで、アール・ハードによって開発され
た。セルと呼ばれる透明なシートにキャラクターを描き、背景画の上にこれを乗せ
て撮影する技術である。日本では、値段が高い輸入品のため、なかなか普及しなか
ったが、政岡憲三によって普及し始めた。政岡の第一作品『難船ス物語
第一編
猿ヶ島』(1930)では、この手法で制作し費用を押さえつつも、自由な動きを表すた
*
法政大学大学院国際日本学インスティテュート社会学専攻 博士課程 3 年
327
めに所々にセルを用いている。翌年には当時話題のトーキー作品『力と女と世の中』
を発表する。この作品から弟子入りをした瀬尾光世が制作に加わる。このほかに政
岡は、初に日本で「動画」と言う呼び名をつけたこともあり、漫画映画に関する実績
を通して日本アニメーション近代化の父と呼ばれている。
この論考は、このように重要性が認識されつつある昭和の漫画映画制作者の中で、
特に日本アニメ史上に大きな功績を残した政岡憲三を取り上げ、その作品の映像分
析を試み、その方向性を探る事を目的としている。今日まで行われていた政岡憲三
の貢献と功績の検討の上、不足していた映像分析論を加えて補うことができれば幸
いである。
政岡憲三に関する先行する論考としては、山口且訓と渡辺泰著の『日本アニメー
ション映画史』(有文社、1978)と、日本動画協会の専務理事である山口康男の『日
本のアニメ全史』((株)テン・ブックス、2004)、制作者でありながら研究家でもあ
るなみきたかしによる「政岡憲三インタビュー」(アニドウ、『FILM1/24』、23・
24 合併号、1978)などがある。そのなかで山口康男の『日本のアニメ全史』では、
政岡について次ように記述している1。
(前略)『くもとちゅうりっぷ』のテーマは単純明快な勧善懲悪であるが、キ
ャラクターの愛らしさ、詩情豊かなストーリーは、現在でも心を奪われる。
また、くもの糸やみの虫の巣、雨など、セルならではの表現である。技術的
にも優れた作品であった。しかし、この程度のテーマにすら、当時の軍国政府
は「大東亜共栄圏の構築を標榜する上で好ましくない作品」として嫌悪感を示
し、上映禁止処分としたのである。
政岡は純粋に好きな作品を作っただけといわれているが、太平洋戦争のまっ
ただなかにあって、平和を願うような作品を公開することは「非国民」として
排除された。戦争賛美一色に染められた国民総動員体制が強化されるなかで、
ほとんどのアニメ作家たちも軍国主義思想に動員される時代であり、また自ら
協力せざるを得ない状況に追い込まれていたのである。
このように、政岡に関する概要がよくまとめられている。しかし、政岡に関する
研究の多くが、このように作品そのものの分析を行っておらず、作家の経歴や国内
1
山口康男(編)(2004)『日本のアニメ全史-世界を制した日本アニメの奇跡』テン・ブック
ス、pp.56。
328
外での評価の紹介の域を超えていない。また、アニメーション論としては、動く絵
を中心として表現を分析、考察しなければならないのだが、作品論、評論及び評価
等が先行するあまり、表現の分析が取り残されていることも否めない。政岡は日本
アニメーション史において重要な位置を占めていながらも、映像分析がほとんど進
んでいない現状は、貴重な映像資料の消滅に繋がりかねない。
本論は政岡本人が雑誌に寄せた記事と、関連専門書籍と雑誌等の文献から政岡が
どのような経緯で漫画映画制作に乗り出し、何をどの様に表現しているのかについ
て、またはその表現手法の変遷と制作意図を考察することを目的とする。筆者は修
士論文『日本アニメの表現形式』(法政大学大学院国際日本学インスティテュート
修士論文、2005 年)において、日本アニメの表現分析を行った。修士論文と同様に
本論においても、政岡憲三の表現を分析し、表現技法の変化を捉え考察しながら、
作品の考察を行う。
分析の方法は、アニメーションが動く絵で表現されたという事実に基づき、様々
な表現を捉えられるように考慮された分析方法である。アニメーションは、描線で
描かれた一枚一枚の絵を繋ぎ合わせ、撮影したものであり、その描線は、キャラク
ターと背景の描写である。キャラクターの動きは、性別、個性、癖、スタイル等を
表す描写で表現されるのだから2、アニメーションの表現を分析するには、描線の表
現を捉えなければならない。本論では、キャラクターにおける描写については、①
キャラクター描写における省略と誇張、②そのキャラクターを描く際に流線などを
メタモルフォーゼ
組み合わせる感情の表現、③変
形と呼ばれるキャラクターの合体と変形を描写
で分類し、背景における描写も如何なる描線で描写されているのかをそれぞれを見
比べながら分析を行う。そして、政岡がこれらの表現を如何なる意図を持って制作
していたか、彼自身が雑誌に寄せた記事などを総合的に考察した上で、独特の表現
技法が確立した理由を検討する。
分析の対象となる政岡憲三の作品は、2004 年紀伊国屋書店で発売された「日本ア
ートアニメーション映画選集全 12 巻」のうち、「日本アートアニメーション映画
選集 DISK
2
政岡憲三とそのグループ」に収録された『難船ス物語
第壱篇
猿
ヶ島』、『茶釜音頭』、『べんけい対ウシワカ』、『桜(春の幻想)』、『すて猫ト
ラちゃん』、『トラちゃんと花嫁』、そして 2007 年 4 月に(株)デジタル・ミームか
2
呉恵京(2005)『日本アニメの表現形式』年法政大学大学院国際日本学インスティテュート
修士論文、p.28。
329
ら発売された「日本アニメクラシック DVD4 巻セット」に収録されている『ターチ
ャンの海底旅行』、またアニドウ(ANIDO)から 2004 年 7 月に発売された『くもとち
ゅうりっぷ
政岡憲三作品集』から、『くもとちゅうりっぷ』であり、重複作品を
除いた合計 8 本の作品である。また、作品の年度は政岡とのインタビュー記事3を基
に記されていることをことわっておく。
まず、本論に入る前に、アニメーションと日本アニメーション、漫画映画という
用語を使い分ける。本論を読む上で煩雑さをさけるため、誤解を生じない範囲で次
のように区分した。すなわち、本論では、アニメーションについて、政岡が活躍し
た当時の呼び名である「漫画映画」で表記し、海外の作品は「アニメーション」と
し、戦後の日本の作品は「日本アニメ」と称することにする。漫画映画と日本アニ
メとの区分は、1963 年に日本初国産作品である手塚治虫の連続テレビアニメ『鉄腕
アトム』を基準とし、それ以前の時代つまり大正時代から昭和 37(1962)年までの作
品を漫画映画と称する。なお、引用文献については、作家の主張を読み解く上で重
要であるため、すべて原文のままの旧表記で掲載した。
2.政岡憲三と漫画映画の出会い
政岡憲三は、明治 31(1898)年 10 月、大阪で不動産業を経営する裕福な家庭に生
まれた。政岡を芸術家にしたいという父親によって、大正 6(1917)年に京都市立美
術工芸学校絵画科を卒業し、黒田清輝4が主催する葵橋研究所に入って絵画の道を志
した。当時は、ヨーロッパから流入する美術の新しい動きが盛んであり、印象派の
影響を強く受けた。そこで政岡は絵画を学んだのち、実写映画界に入る。
政岡の初の監督作品である『貝の宮殿』は、制作途中で親からの援助が打ち切ら
れ、興行成績も振るわなかったため、金銭的に大きな損失が生じることとなった。
この損失を穴埋めするために始めたのが、漫画映画の制作だった。当時、海外から
3
4
なみきたかし「政岡憲三インタビュー」(アニドウ『FILM1/24』、23・24 合併号、1978 年
10 月)。
黒田清輝(くろだ せいき、1866-1924)。日本の近代洋画の父と呼ばれる。1884 年から 1893
年までフランスに滞在、当初は法律を学ぶための留学だったが、途中から画家に転向し、
ラファエル・コランに絵を学ぶ。帰国後、印象派の影響を取り入れた外光派と呼ばれる作
風を確立した。代表作は、『読書』(1892、東京国立博物館)、重要文化財に指定された
『湖畔』(1897、東京文化財研究所黒田記念室)がある。
330
の輸入作の多くはディズニーの作品であったが、漫画映画は子供に受けていた。30
歳近くになった政岡が、実際に漫画映画と関わりを持ったのは、昭和 4(1929)年に
『貝の宮殿』で世話になった日活に教育映画部技術課主任として入社してからであ
った。しかし、その翌年、入社した日活の教育映画部は廃止となり、それを機に政
岡は「政岡映画製作所」を設立する。この製作所は、当時の建築雑誌に載っている
ほどの施設を持ち合わせており、漫画映画制作のみならず、特撮の撮影も可能な機
能的なスタジオであった。ここで、新たな門下生の一人だった瀬尾光世らとともに、
漫画映画の本格的な研究制作に力を注ぐこととなった。独立した政岡は昭和
ナンセン
ものがたり
6(1931)年に第一作となる『難船ス 物 語
第一篇
猿ヶ島』を完成し、日活系の映
画館で公開した。
3.切り紙とセルにおける表現の相違
政岡は、最初の漫画映画となる『難船ス物語
第一篇
猿ヶ島』において、当時
の一般的な手法であった切り紙手法を主に使い、所々でセルも利用している。高価
なセルまで使用して初めての漫画映画を作るというのは、大胆な試みであった5。な
ぜ、政岡はわざわざ高価なセルを利用したのか。それは政岡が切り紙手法ではでき
ない表現に挑戦する気持ちが強かったからである。政岡はインタビューでそのこと
を具体的に説明している6。
(前略)漫画で(とうとう一生の仕事になってしまいました。)とりついた以上、
何か他と違う事をしなければならぬと考えたのが“移動”のことでした。僕
の家は淡路島にありまして大阪から夜汽船に乗っていると、汽船のデッキか
ら見る形式がズンズン後へ下るのにお月様が後を追いかけるように追ってく
るのでした。そこで、近景と遠景の移動の速度が違うという事がわかったん
です。それでその事を取り入れてやってみたわけです。
では、当時の切り紙手法では、政岡の言う“移動”が如何に表現されたか、切り
5
6
秋山、前掲書、p.139。
なみきたかし(1978)「政岡憲三インタビュー」アニドウ、『FILM1/24』、23・24 合併号、
p.13。
331
紙の天才と呼ばれた村田安司を例に挙げて見てみよう。切り紙手法は基本的に“単
純な動き”を見せる為の手法である。漫画映画の基本とも言われる動きを表現する
ために、最初の漫画映画では、黒板にチョークでキャラクターを描き、それを消し
ながら一コマずつ連続する動きを表し、それを撮影する簡単なものだった。その次
すいこうしき
に表れたのは黒板が紙に変わり、一枚の紙に背景とキャラクターを描く「推稿式」
方法であった。大量の紙に同一の背景を描き、キャラクターの動きを描写する、膨
大な作業を避けるために考案されたのが切り紙手法である。
この作業において何より重要なのは、切り抜くパーツ線の外部徐白を最大限残さ
ずハサミやカッターで切り離す点にある。この手法で作られた作品には、キャラク
ターの面白可笑しい動きをリピート(反復)させて見せるものが多い。
例えば、村田安司の初期の作品を見てみると、昭和 3(1928)年の『動物オリンピ
ック大会』では、体操の棒に挑戦するサルが棒を掴んで回転するシーンがある。こ
こは、リピートの手法が多用され、競技を観ている観客の場面ではクロスオーバー7
の表現が盛んに用いられている。これらの見せ方は、ディズニーも、初期に多用し
ていた8。政岡は平面的で遠近感がないままキャラクターの動きを見せる切り紙手法
だけではなく、これから先を見据えて、費用が掛かるが今までの表現の限界を乗り
越えるセルを併用した。これによって政岡は、日本アニメ史上に新しい表現の可能
性を切り拓くことになった。
4.政岡憲三の漫画映画制作における意図
政岡がこのように費用と時間の掛かる漫画映画の制作に意欲を燃やしたもう一つ
の理由は、それまでまだ意識されなかった興行映画の制作にあった。政岡は終始漫
画映画の制作の理念として次の考え方を示していた9。
観客がお金を払ってでもみてくれる漫画映画でなければならない。運がよけ
れば劇場上映をもねらうとういう製作者の心持など、もってのほか
7
8
9
同じキャラクターを幾つか並べ、同じアクションをすること。
フランク・トーマス・オーリー・ジョンストン(著)、スタジオジブリ(訳)(2002)『生
命を吹き込む魔法』徳間書店スタジオジブリ事業本部、pp.46-49。
山口且訓、渡辺泰(1977)『日本アニメーション映画史』有文社、p.28。
332
政岡において漫画映画制作は、高い水準の技術をもって扱われるべきで、それら
によってお客を満足させ、結果的に娯楽を目的とした興行映画制作にあった。この
考え方は、小資本で家内工業であった漫画映画制作を強いられている状況では難し
く、私財の投入でしか実現できなかった。政岡は、日本の漫画映画がそれまでに発
展しなかった一因として閉鎖的な漫画映画制作現場の例を挙げている 10。政岡も最
初は私財を持ってはじめた漫画映画制作であったが、それも底を付き当てにならな
くなってしまった。小資本の一人による制作より大資本との協力があればより高質
の興行向きの映画制作が可能になるであろう。政岡は 1932 年 4 月には上京して大
手資本である松竹の援助を得て初のトーキー漫画映画『力と女と世の中』制作の契
約を結んだ。政岡のこのような動きは、当時としては画期的なものであった。この
利点を十分に理解した政岡は松竹、大石と協力し、効率的な作業による興行映画制
作体制を取った。
大手との資本提携により、政岡は高価なセルを利用し、原画、動画とトレス、彩
色などに人を分けて配置し、その中でも分けられた作業がお互いかみ合うように監
督の一括した指示を出し、出来上がった作品には一貫性をもたした。なみきたかし
による政岡とのインタビューによると、政岡は制作作業の効率を上げる分業化を最
初に行った。これは、漫画映画の制作における最初の分業化の事例である。政岡の
インタビューには作業の効率という目的の他、色々な意味 11がある分業化を村田安
司にも勧めている。そして、政岡において漫画映画制作は、自分の哲学が表れるも
のでなければならなかった。
アニメーションには哲学がなくてはならない。僕は 1 つの作品に必ず 1 つは
何か新しい試みをしています。そして僕は、漫画映画を製作して損をしたこと
はないということを言いたいのです。
政岡は、第一作から最後の作品を発表するまで、一つの作品に一つの新しい試み
を行っている。最初は、切り紙手法とセルとで、後は、キャラクターの描写と背景
10
11
座談会(1943)「日本漫画映画の興隆」映晝評論社、『映晝評論』、5 月号、p.13。
なみきたかし、前掲書、p.22。ここでは、村田安司に人手が足りなく事を知り、分業化を
勧めている内容が記されている。分業化の理由として、作業の効率もあるが、社員に作業
のすべてを教えると独立をするからということも合わせて記されている。
333
の描写が、そして動きの描写を如何に表すかの試みである。他の作家よりも遅れな
がら漫画映画制作の世界に入った政岡は、第一作の発表から一年後には制作協会で
も広く認知され、政岡のやり方に多くの作家が同調した。当時、絵心があるという
ことで漫画映画に携わった多くの制作者たちの中では、政岡のように絵画は勿論、
俳優、監督といった映画に関する専門知識と経験をもっていなかったからである。
一方政岡は、トーキー制作にも多くの力を注いでいた。政岡の『力と女の世の中』
(1937)は初のトーキー作品である。また、この作品から本格的にセルを利用する。
そして、作業の分業化が可能になった。セルを用いて手早く制作するには、動画を
描き、その上に色塗りをし、また、撮影するなどの分業作業が必要であった。政岡
はセルの利用を本格化するために、作業の効率を上げるべく、こういった作業の分
業化を進めたわけである。
東映動画が独自の制作分業システムを確立する 1950 年代に先立つものであった。
切り紙手法でもこのような役割分担はあったものの、直接東映動画に直接に繋がっ
た形跡は見られない。一方、政岡は山本善次郎とともに東映動画の前身である日本
動画株式会社(1947)を設立している。セル制作に関する分業作業のノウハウがのち
の東映動画に繋がっていたといえよう。
トーキー制作でみられるように、音に対する政岡の特別な関心は、漫画映画と関
わってから始まった。第一作の制作後、次々と作品を発表し成功を収めていた政岡
は、『ギャングと踊子』(1934)を松竹の依頼で制作することになる。『ギャングと
踊子』を制作するに当たって、松竹の用意した音楽伴奏は納得のいかないものであ
ったらしい。アクションシーンにぴったりと来る音楽ではなく、無声映画の楽士の
感覚による音楽表現に大きな不満を感じたようだ。政岡は、当時のディズニーやそ
の他の作品を研究し、トーキーの特性を見極めようとしていた。機械の特性によっ
て音が微妙に変化し、これらの特性を上手く合わせた「ミッキーマウス」を作った
のはディズニーであった。早速、政岡も、自分の研究所に音楽部を作った。音楽部
といえども研究所のスタッフが何かの楽器を演奏するように練習する程度のもので
あった。そして、動画を描く時には、動体伝票 12に必ず音符を書き記し、動画をこ
れらと合わせるようにしていた。当時の外国のジャズ音楽と漫画が一緒に流れる
(通称ジャズ漫画)に関して政岡は、流行をそのまま取り入れる日本の制作のあり方
を憂慮し、新しい道を探らなければならないと警鐘を鳴らした。その様子が秋山に
12
絵の動きのコマ割りを指示するカット表。
334
よって次のように記されている13。
(前略)政岡憲三は、音や音楽と絵画との新しい出会いを通給すべきだと考え
たわけである。音と動きの微妙な関係。絵の動きと音の動きがぶつかりあう道
の新しい方向。そこにこそ日本のアニメーションの開拓すべき道があるとした
のだ。
音楽と漫画が一致した『くもとちゅうりっぷ』の驚くべき完成度の高さは、この
ような地道な努力の成果であった。『べんけい対ウシワカ』制作から漫画映画界を
去る 1948 年までの作品を見てみると、それらのほとんどが、音楽と漫画映画が一
致したミュージカル風の作品なのであった。
5.セル手法と表現
政岡は、昭和 63(1988)年 90 歳で死去するが、1949 年の『すて猫トラちゃん』シ
リーズを最後に漫画映画界を引退する。その後も児童雑誌に押し絵と漫画を執筆し
ながら、自主制作の『人魚姫』の絵コンテを描いていたが、完成することはなかっ
た。政岡が設立した漫画映画制作スタジオは、その後、資金難によって解散となり、
作品制作を続けるために設立した協会は昭和 14(1939)年、名を改め「日本動画研究
所」となる。これまで「線画」とも呼ばれていた漫画映画を「動画」という呼び名に
改めたのもこの時期からだ14。制作を始めた 1931 年から引退する 1949 年までの監
督作品は 16 本に上る。その他にも演出や、動画といった仕事もあわせると 30 作近
くある。若干の作品は戦火でフィルムが消失しているが、その中でも現在見られる
作品 8 本、『難船ス物語
第壱篇
猿ヶ島』(1930)、『茶釜音頭』(1934)、『ター
チャンの海底旅行』(1935)、『べんけい対ウシワカ』(1939)、『くもとちゅうりっ
ぷ』(1943)、『桜(春の幻想)』(1946)、『すて猫トラちゃん』(1947)、『トラちゃ
んと花嫁』(1948)を制作年代順に並べ、如何なる表現の変化と特徴が見られるか検
討してみよう。
13
14
秋山、前掲書、p.140。
同、p.138。
335
5.1 キャラクターの描写と動き
キャラクターの描写には、3 つの手法が用いられる。すなわち①キャラクター描
写における省略と誇張、②そのキャラクターを描く際に流線などを組み合わせる感
メタモルフォーゼ
情の表現、③変
形と呼ばれるキャラクターの合体と変形を描写する手法である。
最初の作品『難船ス物語
第壱篇
猿ヶ島』に
表現されたキャラクターの描写には、①省略と誇
張が多用された。赤ん坊の描写に際しては、布に
包まれた赤ちゃんの顔は丸く、布は赤ちゃんの輪
郭を示す線で表現され、省略化されている。
擬人化されたサルの動きにはリピートの動きが
図 5-1-1©『難船ス物語
篇
第壱
猿ヶ島』
多く、切り紙手法で作られたキャラクターは腕が
動く度に少し体とのズレをみせている。顔の表情
は、眼と口の動きで感情をはっきり見せようとし
ている。だが、顔そのものの輪郭線はそのままの形を保っており、目と口が顔の中
で自由自在に変形している。大きな口を開けてアクビをしても、顔の輪郭線は変わ
らず、顔の表情は、目と口の省略と誇張によって表された。このような表現を消極
的な動きの表現とすれば、後期の作品は、積極的な動きの表現が多い。例えば、
『茶釜音頭』では、冒頭でお坊さん二人が蓄音機に合わせて踊るシーンがある。踊
る二人の顔の表情は、踊りの楽しさを表すために目を閉じたり、大きく開いたりし、
それに合わせて、身体はゆっくり回る。キャラクターの身体は省略されているもの
の、動きは誇張されて表される。
また、切り紙による描写を利用しながら、②キャラクターを描く際に流線などを
組み合わせる感情の表現の手法を積極的に用いている。感情の表現のために用いら
れる手法として挙げられるのは、何かにぶつかった時に現れる星(☆)の形をした記
号である。『茶釜音頭』と『ターチャンの海底海底旅行』には、この星(☆)の形の
描写と、衝撃を表す流線が多く用いられている。この②の描写は政岡の初期頃の作
品に表れるも『くもとちゅうりっぷ』以降、後期に当たる作品にはあまり使われな
くなる。政岡はこうした流線などの手法を用いずに、キャラクターの演技とその他
の工夫によって、感情表現ができるようになったのである。後期の作品には、キャ
ラクターの滑らかな動きと演技で喜怒哀楽が描かれている。このように、奇想天外
な動きを主な主体として見せる初期の作品と、キャラクターの滑らかな動きが見ら
336
れる後期作品では、②の手法と描写そのものに大きな差がある。
政岡は初作で、滑らかな動きを如何に表現できるか試みている。『難船ス物語
第壱篇
猿ヶ島』には、雌ザルが踊るシーンがある。今までのぎこちない動きとは
一変して、雌ザルが着たスカート(∬∬∬)は、滑らかな動きで示されている。ここ
は、切り紙手法ではなく、セルを初めて利用した箇所である。セルの導入によって、
まるで実際動いているような動きの表現が可能になった。
その他に政岡は、外国の作品のように、踊りを初作に取り入れた。その後も踊り
と音楽といったミュージカル風の作品へ制作を行う。勿論、当時のディズニー作品
には、踊りと音楽を合わせたミュージカル風の作品が多く、政岡もこの影響を受け
ていたかも知れない。政岡の作品には、初期作品から後期作品まで、視覚だけでは
なく、聴覚にも楽しめる作品作りを目標にしていたと言えよう。
メタモルフォーゼ
③変
形の手法は、政岡が最も良く利用した手法である。第一作では、赤ちゃ
んが少年になるシーンが急激な変形によって描写される。『茶釜音頭』では、タヌ
キの変身とともに目まぐるしい変化を見せ、漫画映画固有の自由自在な変形が効果
的に利用されている。この手法によって、『べんけい対ウシワカ』でも、天狗が妖
術でカラスなどが変形して擬人化されるところが見られる。
他に、第一作では、動きに関する政岡の新しい試みが見られる。クライマックス
の少年が島から海へ落ちる場面では、落ちて行く少年の後をカメラが真上から追う
ようにして描いている。従来の平面的な描写から、このように真上から見た風景や、
まるでカメラが落ちて行くキャラクターを追うかのように描かれる表現は、これま
での切り紙手法では実現不可能であった。マキノプロダクションで下積みをしたの
ち、自作の映画を作るようになった政岡特独の演出とセルの利用、そして彼の表現
力によってはじめて可能になった奥行き感のある描写の始まりである。
そして、少年がヤシの木からジャンプする場面でも、しなやかな弓の形に木を描
き、矢のように飛ぶ様子も変形の特徴を活かして、躍動感を与えている。
そして、政岡の作品におけるもう一つの特徴として挙げられるのが、色彩の配分
である。白黒のコントラストは第一作とは思えないほどで、色彩に関しても優れた
政岡の色彩能力を感じさせる。
337
モノクロ作品のなかで最も華やかな色彩感
を示すのは、『桜(春の幻想)』である。戦後
のこの時期に制作された政岡の作品は芸術性
が高いと評価されている。この作品では、花
見をする舞妓と花の妖精、そして暖かい春を
迎えた喜びが描かれている。まるで千代紙を
用いて華やかな舞妓の着物を表現しているか
図 5-1-2
©『桜(春の幻想)』
のように、繊細な着物の模様と細かな色彩が
画面一杯に広がる。桜の花びらが空中を舞うシーンは、風に揺られてゆっくり地上
に落ちる様子を一つ一つ丁寧に描写されている。絵画を連想させる政岡のこれらの
色彩表現には細かな濃度の差が付けられることで、モノクロとは思えない程のリア
リティが生まれている。このように細かく明暗が表されるためには、セルに細かく
色塗りをすることが必要であった15。
さらに政岡は、『べんけい対ウシワカ』でセルの特徴を活かし、キャラクター描
写に今までなかった大胆な動きを加えている。場面はウシワカとべんけいが橋の上
で対決するクライマックスシーンである。攻撃してくるべんけいをかわし、身を軽
やかに回転させてべんけいの後ろに立ち回るという演出だが、画面がウシワカを軸
に回転するのである。これは、キャラクターが回転する際、キャラクターの位置の
変化に合わせて周囲の様子を一コマずつ回転のスピートと合わせて描き出さなけれ
ばならない。このようなカメラワークに似せた描写は、第一作で、最後に落ちて行
く少年をカメラで追っていくような描写から始まっていた。本稿ではこれを「カメ
ラワーク的な描写」と呼ぶことにする。このカメラワーク的な描写は、アニメーシ
ョン固有の特性を活かしている。後期になると政岡は、このカメラワーク的な描写
を拡大させ、画面全体が動く描写へと進化させている。『べんけいとウシワカ』で
は、このカメラワーク的な描写はキャラクターだけに止まらず、背景を含む被写体
全体へと広がりを見せている。
第一作の冒頭でみせた、急な天候の変化を表す描写も後期になると大きく変わる。
荒れ狂う天気によって荒波が船を襲う描写は、短絡的なイメージで描写し、天候の
変化を繋ぎ合わせている。後の『くもとちゅうりっぷ』の場合、スムーズな動きと
15
座談会、前掲書、p.17。ここでは、『くもとちゅうりっぷ』の彩色に関する内容が載って
おり、その中でも白から黒までの 7~8 段階の色彩を搗け、さらにそれらの色を内容によ
ってハーフ・トーンで描き分けていると記されている。
338
荒れ狂う自然の様子を繊細に描写している。例えば、実際の雨粒の一つ一つを綿密
に観察し、その動きを動画で表現している。イメージだけを頼りにした初期作品と
は大きな表現の差を後期ではこのように随所で見ることができる。動きそのものに
命を与えられるのは、あくまでも動画を描く人の業であることを政岡は実感してい
た16。つまり、単純な動きを繰り返し見せていた初期の漫画映画にはなかったこの
ような動きに関する新たな認識は、既存の漫画映画の見せ方を大きく変化させたの
である。実際、後期で政岡の作品が見せる「動きの美」は、アメリカの作品と比較
しても劣らない。このような立派な作品が日本でも作れるとの見方がなされたので
ある。そして、動き美を一層引き立てたのが音楽との連携であった。前節でも述べ
たが、これらすべての動きと音楽を一致するように制作したのも政岡が最初である。
5.2 背景描写と空間描写
政岡がセルを利用して得た大きな収穫といえば、自由な「動き」の描写である。
第一作から『ターチャンの海底旅行』までは、キャラクターの動きを主に描き、キ
ャラクターの走る動きに合わせて素早く景色が変わりはするものの、背景は平面的
であった。
だが、背景を描写するにあたって如何にして奥行き感を出るようにすれば良いの
か。外国の作品を熱心に研究していた政岡は、マルチプレーンという最新撮影技術
に注目する。マルチプレーンカメラは、今まで背景を描いた絵の上にセルを載せ、
その上から撮影していた従来のカメラ撮影と違って、背景を描いた絵を垂直に立て、
前後するキャラクターを距離をおいて置くことによって奥行き感と立体感、空気感
を与える手法である。政岡は、マルチプレーンの仕組みを研究した。政岡が京都で
活動していた時代に、弟子入りしたのが瀬尾光世で、政岡は瀬尾とともにマルチプ
レーンの仕組みの研究を続けていた。瀬尾は『力と女の世の中』ではスタッフとし
て参加したのち、東京に戻り、芸術映画社に入社し、軍資金を利用して、政岡より
も先にこの手法を利用するようになった。日本初の長編作品『桃太郎・海の神兵』
(1945)で、瀬尾は監督を担当し、本格的な設備のマルチプレーンで空間描写を見せ
ている。この後、政岡も『くもとちゅうりっぷ』にマルチプレーンカメラを利用し、
新たな空間表現を描写した。
16
座談会、前掲書、pp.16-18。
339
このように背景は、カメラの手法と最新の設備によって新たな手法を得る。しか
し、最新設備を整う前に、政岡が演出した『茶釜音頭』(1934)は、当時のカメラ手
法で遠近法を表し、立体感を出している。背景としては奥行きのある雲と月が描写
され、手前の雲を早く動かしその後ろの動物達はそれより遅く、一番後ろの雲と月
はゆっくり動く。キャラクターと前景と後ろの背景の異なる動きの早さによって、
画面には遠近感と立体感をだしている。いわゆる密着マルチ手法17とみられる。
図 5-2-1
©『茶釜音頭』
政岡はカメラを改良し、マルチプレーンカメラを用いたかのように奥行き感など
の空間描写を試していたことが『茶釜音頭』から読み取れる。政岡はのちの作品で
ある『くもとちゅうりっぷ』で持ち前の手腕とマルチプレーンカメラを活用して奥
行き感のある背景作りを試みている。カメラ手法を用いていることもその一つであ
る。
ピンボケしたかのように見える写真を背景に、その上を動画のキャラクターが動
き回る。写真と動画を組み合わせる手法で、奥行き感のある演出ができ上がった。
実写を入れた場面はこの作品の冒頭に大きく出てくる。大きなクモのすみかとして
実写の木が写されるのである。キャラクターは実写の木々や、花々に負けずとその
躍動感ある動きをみせている。ピンボケ写真の濃度に合わせてキャラクターの明暗
が調節され、実写を使うというトリックはなかなか見抜けない。
立体感を与えるために様々にカメラのアングルを変えるような描き方をする手法
が採られているのも特徴の一つである。これは、上述の『べんけい対ウシワカ』で
17
密着マルチとは、カメラの前の被写体と背景とを同一パネルにおき、それぞれを異なるス
ピードで動かして撮影することで立体感を得る手法である。例えば、手前の被写体を早く
動かし、奥の背景をゆっくり動かすと画面には奥行きと立体感が生まれる。マルチプレー
ンカメラの導入前に使われた手法でもある。
340
も指摘したが、『すて猫トラちゃん』において、よりダイナミックな動きを見せる
ための一つの手法であるカメラワーク的描写が、この手法の進歩を示している。キ
ャラクターを軸に背景と一緒にキャラクターの動きを上下から 180 度回転させてお
り、『べんけい対ウシワカ』の回転演出と比べて大きな進歩を遂げたことがわかる。
この演出はキャラクター達の成長した姿を大きく見せるために使われた。ストー
リーはいよいよクライマックスに達する。道に迷った二匹のネコは、川で溺れる寸
前に力を合わせて危機を逃れる。だが、大きな塀に囲まれて、自分達の居場所が分
らず、とりあえず塀を越えることにする。まずオスネコが塀の上に上り、メスネコ
が高い塀を登れるように手助けをする場面である。言葉で書くと、なんでもないこ
の様子が政岡の演出によって大きな感動を与えるシーンに変わる。観客は一気に何
かに持ち上げられるような錯覚さえ覚えるであろう。このような面白い且つ大胆な
演出が出来たのはスタッフの能力を最大限に発揮させた政岡の目標の一つであった
と記している18。
『すて猫トラちゃん』は児童の情操教育とともに、一般娯楽映画としても歓
迎されるものにしたいと思ってオペレッタ形式を取りました。児童に贈る映画
としては、美と愛情の表現に努力し、憎悪、闘争、破壊の感情を刺激すること
を極力さけて、柔らかく楽しい雰囲気を作るように心かけました。その為には
落ち着きのある場面となめらかな場面転換が必要となり、したがって、在来の
漫画映画の特徴であるドギツイ形や、いそがしい動きはなるべく避けるように
しました。
それで動きとしてはキャストの性格表現と愛情の葛藤的心理描写に重点をお
き、劇的表現に努力しました。様式は漫画映画としてはやや実写すぎる様であ
りますが、題材に現実的な傾きがある事と、現在の構成メンバーの能力を最高
度に発揮するために選んだのでありまして過渡的なものと思ってます。音楽の
視覚的表現については物語の性質所舞踏的方法によらず、音楽との対位法的効
果をねらってみました。
政岡は漫画映画を観客に伝えるのに視覚的な表現と音楽的な表現をも合わせ、さ
らには制作スタッフ達の力量をまでも考慮して作品作りに取り組んでいたのである。
18
なみきたかし、前掲書、p.17。
341
政岡の最後の作品となる『トラちゃんの花嫁』では、背景が省略化して描いてい
る。ここでは、曲がった玄関、曲がった家など、実際の世界とは違うお伽話の世界
を背景に表した。政岡はここであるカメラ手法を試みた。キャラクターの衝撃と連
動して画面全体が揺れ動くシーンである。このように政岡は終始一つの作品に一つ
の試みを行っている。
これまで検討したように政岡は、最新の設備を取り揃うまでに、持ち前の技術と
手法を持って様々な表現を追及したこのような姿勢は、大いに評価しなければなら
ない。
6.終わりに
最後に取り上げるのは、政岡の人材育成に関する活発な教育活動とその影響であ
る。政岡の門下には瀬尾光世と熊川正雄 19、そして素人であった森やすじ、長沼寿
美子、木下敏治らがいた。戦争中には集まった素人を政岡の 1 ヶ月間の教育で分業
作業に当たらせている。のちに森やすじと長沼寿美子は東映に、木下敏治はキノプ
ロにそれぞれ進む。戦争後、移転する先々で新人の育成に当たった政岡は、プロの
作家を育てようとし、作画の基本から、動きの原理、演出、そして漫画映画制作に
おける信念を貫き通すことを力説した。特に政岡の初期の門下生であった熊川正雄
は、生涯政岡の教えとその流れを継承する事に誇りを持っており、森やすじ 20はあ
の『くもとちゅうりっぷ』を見て、将来の夢をアニメーターになると決めたと記し
ている。
このように、政岡は漫画映画の制作を最優先にし、自らのスタジオが解散したの
19
20
熊川正雄は、大正 5(1916)年 2 月生まれ、蒔絵師である熊川亭道(本名 伊三郎)の次男と
して京都府に生まれ、2008 年老衰のため亡くなる。1930 年当時 14 歳の若年ながら、政岡
の助手として働き、のちに政岡映画製作所に入社。はじめて演出を担当したのは『雀のお
宿』であり、『くもとちゅうりっぷ』では、主人公キャラクターの動画を担当。のちに東
映動画(現東映アニメーション)に移籍し、劇場アニメの『少年猿飛佐助』(1959)、『西遊
記』(1960)、『安寿と厨子王丸』(1961)、『アラビアンナイト シンドバットの冒険』
(1962)、『わんぱく王子の大蛇退治』(1964)等の原画を担当する。
森やすじ(森康二)は、1925 年 1 月に鳥取県に生まれ、幼少は台湾で過ごし、1992 年に亡
くなる。東映の発足時から参加したメンバーで、動画部門に籍を置きながら、『わんぱく
王子の大蛇退治』、『わんわん忠臣蔵』(1963)などの原画と動画を手かけ、その後移籍し
た先で、『プランダースの犬』(1975)など多作を手かけていた。後進の育成にも力を注ぎ、
大塚康生、高畑勲、宮崎駿らに影響を与えた。
342
ちも、松竹動画研究所と日本動画などを転々しながら、後進の育成に力を尽くした。
だが、政岡が現場の一線を退くまでの盛んな制作活動によって、瀬尾光世、熊川正
雄、森やすじらなどがその後をしっかりと継承し、森やすじはその次の制作世代で
ある大塚康生、高畑勲、宮崎駿らを育成した。政岡は撤退するその瞬間まで目の前
の利益だけにこだわらずに、次世代の制作活動を見据えていたことが半世紀を過ぎ
て証明された。そして、その影響はアニメの他、漫画界にも広く及ぶ。当時 5 歳の
松本零士が政岡の『くもとちゅうりっぷ』を見て感動を覚えたことは、よく知られ
ている21。
政岡が第一作で使用したセルは、高価なものであったため、撮影が終わった後、
絵の具を洗い流して使いまわしていた。そのため、当時の技量を知る手がかりはな
く、幾分しか残ってないフィルムのみである。たが、残された作品を検討した結果、
政岡の実績が次のように明らかになった。一つ目は、セルの使用により、分業化が
一段と進み、のちの東映動画の分業システムに大きなヒントを与えたこと。二つ目
は、セルを用いて、カメラワーク的手法を開発し、キャラクターの動きを自由自在
に表現したこと。三つ目は、実写を漫画映画に応用するなど、様々な手法を試み、
結果的には漫画映画の質を上げたこと。四つ目は、漫画映画に大手の映画会社の資
本が流れるように興行事業として確立させたこと。五つ目は、瀬尾光代らに代表さ
れる、次世代の教育を続け、彼等の能力を高めたことなどである。
今後の課題としては、これからも発掘されるであろうと思われる政岡の作品を分
析し、より体系的な政岡憲三論を成立させることにある。政岡を通してアニメーシ
ョン表現論を展開するのは、早々にあったことも否めない。この研究で、アニメー
ションを学術的に体系づける「アニメーション学」を成立させるための一助となれ
ば、望外の喜びである。また、各章の内容については、表層的で、断片的な部分も
多く、今後も各専門家による各分野の研究を期待する次第である。
21
山口、前掲書、p.56。
343
<参考文献>
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報』、通号 668 号、pp.136~141。
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19。
・呉恵京(2005)、『日本アニメの表現形式』、2005 年法政大学大学院国際日本学インスティ
テュート修士論文。
・呉恵京(2009)、「昭和の切り紙アニメーション作家 村田安司」、『法政大学大学院紀要』
62 号、pp.163~177。
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・フランク・トーマス・オーリー・ジョンストン(著)、スタジオジブリ(訳)(2002)、『生命
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・ニ―ル・ゲイブラー(著)・中谷和男(訳)(2007)、『創造の狂気ウォルト・ディズニー』、ダ
イヤモンド社。
・柴口育子(1997)、『アニメーションの色職人』、徳間書店。
・田中純一郎(1975)、『日本映画発達史 1 活動写真の時代』、中央公論社。
・田中純一郎(1976)、『日本映画発達史 2 無声からトーキーへ』、中央公論社。
・津堅信之(2004)、『日本アニメーションの力 85 年の歴史を貫く 2 つの軸』、NTT 出版社。
・手塚治虫(1988)、『アニメーションと私』、手塚プロダクション。
・山口且訓・渡辺泰(1977)、『日本アニメーション映画史』、有文社。
・山口康男(編)(2004)、『日本のアニメーション全史-世界を制した日本アニメの奇跡』、
テン・ブックス。
呉恵京(Oh, Hye-Kyung)
:法政大学大学院国際日本学インスティテュート社会学専攻 博士課程 3 年
住所:東京都武蔵野市関前 4-9-7-303 ヴェルト武蔵野
E-mail:[email protected]
論文投稿日:2009 年 10 月 8 日 / 審査開始日:2009 年 10 月 20 日
審査完了日:2009 年 11 月 20 日 / 掲載決定日:2009 年 12 月 4 日
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