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古 川 のり子

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古 川 のり子
天人女房諏から
牛と犬
古 川 のり子
という。男は妻の助けで難題を克服しだが、最後に
﹁一日でそこを耕せ﹂、 ﹁一日でシブリを植えろ﹂
で、あと少し天に届かない分は天女に引き上げても
ある男が、川で水浴びをしていた天女の着物を取
横に切れと言われていたシブりを縦に切ったために
日本の天人女房諏にはいろいろな異伝がある。その中
って妻とした。二人の子どもができた。ある日八つ
シブリから大水があふれ流されてしまう。それから
﹁山の木を一Bで全部切れ﹂、 ﹁一日でそこを焼け﹂、
になる子が、母さんのきれいな着物は倉の隅にある
らって昇天する。天では妻の母が男に難題を出す。
と歌ったので、天女は着物を見つけ出す。そして一
は二人が泣き別れをするので毎年小雨が降る。
毎年七月七Bにだけ二人は会うことになり、その日
である。
人の子どもを右脇に、 一人の子どもを左脇にはさん
の代表的な形のひとつが、次にあげるようなタイプの話
で天へ昇って行った。男が書き置きを見ると、 ﹁自
このタイプの天人女房漂は、日本各地に広く分布して
いる。その特徴としては、天女と人間の男がどのように
鹿児島県大島郡︵注1︶
して結婚し又離別するかという点に興味の中心があるこ
きなさい。そうするとその苗が天につくから。﹂と書
いてあった。そこで男はシブリを植えてそれを伝っ
分に会いたいならば千本のシブリ︵冬瓜︶の種を播
て登って行くが、九百九十九本しか播かなかったの
14
が焼畑耕作の全行程を表すなど、山地の焼畑耕作民の生
と、男が猟師や木樵であることが多く、また難題の内容
七月七日に会うことになる。
ω王母によって天の河をつくられ、
﹁難題型﹂
二人は︸年に︸度、
の由来謹となっていることなどをあげることができる。
活が反映されていること、最後に天の川があふれて七夕
このタイプの日本の天人女房諺の系統については、君
神仙に会う。
ほ男が動物を助ける、もしくは飼っている。あるいは
がある。 ︵注2︶君島氏によれば中国の天人女房諜は
島久子氏の中国の天人女房謹との比較による詳しい研究
来たのを見つける。
にその動物あるいは神仙に教えられて、天女が水浴に
分けることができる。日本の天人女房謳はその﹁難題型﹂
鰯子どもが生まれる。
6そのなかの︸人の羽衣を隠して妻とする。
﹁七夕型﹂、 ﹁七星始祖型﹂、 ﹁難題型﹂の三つの型に
と﹁七夕型﹂の複合した形であるという。 ﹁七夕型﹂と
O貧しい若者が牛を飼っている。
﹁七夕型﹂
る。
上で共に幸せに暮らす。
ω天女の親が難題を出すが、天女の助けで解決して地
て行く。
6男はqの動物あるいは神仙の手引で、天に追いかけ
㈲天女は羽衣を見つけて、着て飛び去る。
捌牛に教えられて、川に天女が水浴に来たのを発見す
七夕型は七夕伝説との結合とみなされるもので、主に
﹁難題型﹂の天人女房護とは、次のような内容の話であ
る。
イ、りー、チベット、ハニ、チワン、タイ族など︶及び
型といえるもので、西南少数民族︵ミヤオ、ヤオ、ナシ、
海南島、雲南、チベット、四川、貴州、広西、湖南、漸
揚子江以北に分布する。難題型は中国の天人女房讃の典
引子どもが生まれる。
江、江蘇、山東、内蒙古という広範な分布をもち、しか
とする。
㈲天女︵織女︶は羽衣を見つけて、着て飛び去る。
も七夕型や七星始祖型への移行の可能性をもつ最も基本
㈲そのなかの一人の羽衣を隠して、天女︵織女︶を妻
いかけて行く。
㈲牛飼は牛の皮を着て︵もしくは牛の手引で︶天に追
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び去ってしまうと、牛は再び男の前に登場し、今度は自
ることができたわけだが、後に天女が羽衣を見つけて飛
西南山地焼畑耕作民の伝える難題は、 ﹁木を切り倒し、
おれ︵.牛︶は明日死ぬが.死んだらおれの皮を剥
分を殺してその皮を着て昇天するように教える。
的な形であるという。その中でも特にミヤオ・ヤオ系の
焼き払い、土地を耕し、粟を撒け﹂というような、彼ら
護の難題がまさに彼らと同じ焼畑の難題であり、ミヤオ
地焼畑耕作民であるとされた。そして、日本の天人女房
二度登場し、二度目には我身を犠牲にしてまで男を天に
つまり牛は、男と天女を会わせるという目的のために
くれという。 漸江︵注4︶
牛は、期限がきたので天に帰るから、皮で靴をつ
いでその皮を着て天に昇れ。 北京︵注3︶
の生業形態そのものを反映するものである。またそれが
主に天人女房誕のみに見られる難題でもあるところから、
族の伝承の中にも七夕と結合し最後に洪水の出る例がす
君島氏は天人女房諌の主な担い手はミヤオ・ヤオ系の山
でに見られることを指摘され、結論として日本の天人女
とを指摘された。同氏が述べておられるように、中国に
よる昇天のモチーフの背後には、牛供犠の慣習があるこ
おける動物犠牲の慣習はすでに﹃詩経﹄の中に歌われて
昇らせているのである。君島氏はこのような牛の犠牲に
可能性があると考えておられる。
おり、少数民族の中でも特にミヤオ族は、牛を殺して祖
房課は、中国西南山地の焼畑雑穀栽培民の系統をひくも
日本と中国の天人女房調に関する君島氏のこの高説は、
先を祭り豊作を願って共食する﹁鼓社節﹂という大きな
ので、難題型と七夕の複合した形で日本に持ち込まれた
大筋においてはまさにその通りであろうと思われる。た
した牛を殺して送ってやったのがこの祭りの始まりであ
だここでは、天人女房諌に登場してくる動物に焦点を当
ると伝えている例もある。
天上で幸福になった天女と男のもとに、かつて男を援助
に会うための援助をする動物が登場する。特に七夕型で
七夕と難題型の複合した形で入って来たと考えられ
祭りをもっている。そのミヤオ族の天人女房調の中には、
はこの動物は牛であることが多い。まずはじめに牛は、
てて卑見を述べてみたいと思う。
飼い主である男のために天女の水浴場所を教える。また
る我が国の天人女房漂にも、当然この牛の犠牲︵皮衣︶
中国の七夕型及び難題型の天人女房調には、男が天女
はその羽衣をくわえて来る。こうして男は天女と結婚す
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日本にもたらされた時、日本にはまだ牛の犠牲を捧げる
語られている。この点に関して君島氏は、天人女房漂が
蹟の植物︵瓜・豆類の蔓、竹など︶を伝って昇天したと
が日本には見られない。日本では、男は天まで伸びる奇
による昇天のモチーフがあって良いはずなのだが、これ
漁師は犬のくわえてきた羽衣を天井に隠す。
女と男を会わせるための働きをしている。
衣を奪う場面と、男の昇天の場面の二か所に登場し、天
いると思われる。この犬は牛と同様に、冒頭の天女の羽
女房課で活躍する牛は、我が国では犬となって登場して
漁師は婆から︸夜夕顔のことを聞く。種を播き九
1中略1︵天女が昇天した後︶
百九十九肩まで肥をやると夜があける。蔓をたどり、
フは自然消滅し、そこへ瓜の蔓による昇天のモチーフが
犬の助力で天に昇り⋮。 福島県南会津郡︵注5︶
慣習がほとんど無かったので、牛皮による昇天のモチー
日本の文献では、日本書紀安閑二年︵五三五年︶の牛
取って代った、と推定しておられる。
かったわけではなく、西北九州でわずかに牛骨の出土が
考古学者・森浩一氏によれば、弥生時代に牛は全くいな
て、三世紀初頭の日本には牛はいなかったとされている。
り、魏志倭人伝によれば﹁其地無牛馬虎豹羊鵡﹂とあっ
れて来た犬の赤がぴょっと飛び上がり、その尻尾に
蔓を伝って昇るがあと少しで天に届いていない。連
めて待ちきれず灰にして豆を播いておく。翌朝その
て灰にし、それに豆を播こうと九百九十九足まで集
夫は物知り婆に聞き、馬と牛の靴を千足ずつ拾っ
の放牧の記事が牛に関する年代の確かな最古の記載であ
見られるが、それを別にするとその当時の日本において
わらじを家の庭に埋め、翌朝起きてみると一本の
つかまって昇りつく。 岡山県上房郡︵注6︶
丈夫そうな竹が高く、高く伸びていた。漁師は喜ん
畑耕作民の間に見られるようなタイプの天人女房讃が、
牛は非常に稀な動物であったという。中国の西南山地焼
当時日本にいなかった牛の話素は当然消滅せざるをえな
稲作以前−縄文時代1の日本に持ち込まれたのであれば、
に届くというところで、竹が終っていた。1中略1
で、犬を連れて上って行った。するともう少しで天
その犬を雲の中へ投げつけた。犬は驚いて、天の中
かったことになる。
女房諏から全く無くなっているのだろうか。中国の天人
ところでこの犠牲の牛に相当する存在は、日本の天人
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ない伴侶であった。発掘調査によれば、弥生時代に犬が
時代の犬は死後人間と同様に埋葬されており、飼い主の
食用に供されていた跡がみられるのとは対照的に、縄文
を暴れまわった。それを聞いた天人は、夫が来たこ
とに気づいて、縄を降ろして夫を引き上げ、自分の
もみられるという。この時代の犬について西本豊弘氏は、
介抱の賜物か、骨折の跡をもちながら老年まで生きた犬
親のもとへ連れて行った。 鹿児島県︵注7︶
男は天まで伸びる奇蹟の植物を伝って昇天し、あと皿
る。このことからイヌが唯一の家畜として縄文時代人に
いるが、ヒトを除いては埋葬されるものはイヌだけであ
﹁イヌの遺骸は、シカ、イノシシに次いで多く出土して
の天人女房調にも、男のために羽衣を盗んで来る白い犬
でき、 ﹃近江國風土記﹄逸文・伊香小江の条の日本最古
おられる。 ︵注8︶また山梨県の釈迦堂遺跡や宮城県の
特別な扱いを受けていたことは明らかである。﹂と述べて
うな犬の援助のモチーフは、日本各地に多く見ることが
歩のところで犬の助けを借りて天にたどり着く。このよ
て死んではいないが、中国の類話で天女と男を会わせる
が登場している。日本の伝承中のこの犬は、犠牲となっ
はそれほど重要な存在ではない。実際、蔓の足りない分
い存在であるのに対して、日本の天人女房謂における犬
犬の観念は、国外の神話や儀礼の中に見ることができる。
ておられる。 ︵注9︶他界への案内者・守護者としての
の道案内人として埋葬したものであろうか?﹂と推測し
に際し、死出の従者として愛犬を殉死させ、暗黒の霊界
ている。これについて美濃晋平氏は、 ﹁この縄文人の死
は天女が上から引き上げたなどとしている例も多く、昇
前浜貝塚では、人間と犬が合葬されている例も報告され
天法としてまず奇蹟の植物があるのだから、あと一歩の
ヤマイヌの頭をもっていたと伝えられている。またアッ
例えばエジプトの、死者と墓の守護神であるアヌビスは、
だ中国の類話で、男の昇天にとって牛が無くてはならな
ところで突然犬の力を借りるのは、不自然といえば不自
牛に相当する役目を果していることが明らかである。た
然である。しかし男は、子どもを下界に残してまでわざ
この犬が他界への道中において敵の精霊や虎を恐れさせ
てくれるのだという。 ︵注10︶牛の犠牲による昇天のモ
サムの北部ロータ族では死者のために一匹の犬を供犠し、
チーフが入って来た当時、牛のいなかった縄文時代の日
わざ犬を連れて昇っているので、男の昇天に対して犬は
わせる。
本来はもっと重要な役割を果していたのではないかと思
縄文時代の人々にとって、犬は狩猟の際のかけがえの
18
生えるから︸週間たったら、その竹を登って天へ行
だろうか。
奇蹟の植物が発生するという形がとられており、奇蹟の
ここでは牛となっているが、犠牲動物を埋めた所から
け。 鹿児島県大島郡︵注13︶
このようにして牛は犬に変化したと思われるが、この
植物の発生が動物の死と結びついている点が注目される。
本の人々は、彼らにとって最も親密な存在だった犬をも
って牛に代え、他界︵天︶への案内者としたのではない
犬は牛と違って犠牲︵皮衣︶になってはいない。では動
な植物の発生とは結びつきが深い。たとえば花咲爺鐸で
我が国の説話においては、動物・特に犬の死と奇蹟的
は、死んで埋められた犬の死体及び灰から様々な植物が
しまったのだろうか。またこの昇天の場面に、なぜ奇蹟
の植物という一見全く関係のない要素が入ってきたので
物犠牲の要素は日本の天人女房護の中から全く消滅して
あろうか。
たのでここでは詳しくは触れない。 ︵注14︶そこで結論
だけ述べておくと、この話の最も基本的な形は、 ﹁身体
化生してくる。花咲爺謳の成立については、他所で述べ
りの肥料が必要である。男はたとえば肥千駄、シラミの
天まで伸びる奇蹟の植物が発生するためには、それな
から金や食物を排泄する犬が殺害され、その死体及び灰
ウェレ型の作物起源神話というのは、生きている間身体
皮三石三斗、千俵分の灰、千足のワラジを地に埋めたり、
素を残している。
から汚ないしかたで分泌物として食物や財宝を出す主人
積んだりしなくてはならなかった。そのなかで次にあげ
黄牛ば千匹で埋けち、それ南瓜ん種子ば播ち、そ
公が殺されて、その死体の種々の部分から様々な種類の
イヌウェレ型の果樹起源神話であると思われる。ハイヌ
るかる︵それから︶登って来なんせ。
作物が発生し、これによって人類は農耕を開始すること
から果樹が化生し、豊かな実りをもたらす﹂という、ハ
長崎県高来郡︵注11︶
によってこう名付けられた。このタイプの神話は吉田敦
になったというもので、ドイツの民族学者・イエンゼン
る長崎、大分、奄美地方の例は、わずかに動物犠牲の要
易者に南瓜を植え、牛千匹を埋めよといわれる。
記・紀のオホゲツヒメやウケモチの神が口や鼻や尻など
彦氏が指摘されたように、日本神話の中にも見出される。
大分県宇佐郡︵注12︶
︸番大切な牛を生き埋めにせよ。そこにきん竹が
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話はそれよりも高度な農耕を営む民族の間にも広まって
本来特徴的なものであるという。しかしこのタイプの神
始的な焼畑によって芋や果樹を栽培する古栽培民文化に
ればこのタイプの神話は、熱帯地方に見られるような原
発生させる農耕起源神話がこれである。イエンゼンによ
ここで、牛の犠牲︵皮衣︶による昇天のモチーフが、
性が考えられる。
生えた植物を伝って昇天するという形をとっていた可能
動物犠牲の要素があり、それは犬の死体を埋めた所から
以上のようなことから、日本の天人女房諏にも本来は
どんどん伸びて天に届いているのである。
ここでは犬の死体を埋めた所から竹が生え、その竹が
内じゅう死ぬ。 鹿児島県喜界島︵注16︶
おり、たとえばアッサムから西南中国山地を経て日本の
から食物を出して殺され、死体の各部分から五穀などを
西南部に連るいわゆる照葉樹林帯の焼畑雑穀栽培民文化
した過程を推測してみると、次のように考えられる。中
天まで伸びる奇蹟の植物+犬の援助による昇天へと変化
た当時、日本では牛はなじみの薄い存在であったために、
国から牛の犠牲︵皮衣︶による昇天のモチーフが流入し
においては、雑穀類の起源神話としてこのタイプの神話
つまり花咲爺調の基本的部分の成立は、縄文時代の焼
が語られていたと思わ れ る 。 ︵ 注 1 5 ︶
畑農耕文化にまで遡り、動物︵犬︶の死体からの植物化
めると竹が生える。それが天まで伸びて天の米倉を
弟は犬の死骸をもち帰り、庭の手洗鉢の根元に埋
美地方の伝承には次のような形のものがある。
ところでその花咲爺諦の鳥取、福岡、熊本、鹿児島、奄
蹟に移っていくにつれて、犠牲になった動物の姿は消え
かったか。その後、話の中で興味の中心が植物自体の奇
えた植物を伝って昇天するという形がとられたのではな
フが犬とともに取り込まれ、その死体を埋めた所から生
当時の日本人のもっていた死体からの植物化生のモチー
して昇天の際に犠牲の犬の皮を着るのではなく、やはり
も親密な存在であるところの犬が担うことになった。そ
突き破って一節伸びばや千石、二節伸びばや二千石
ていった。もしくは死なずに主人についていく形になっ
他界︵天︶への案内者としての牛の役割は、代わりに最
と、三千石の米俵を落として.家の屋根よりも高くな
れ以前から、日本に存在していたと思われるのである。
る。兄は犬の死骸を借りて同じように埋めると、此
たものと考えられる。日本では牽牛星のことを別名・犬
生のモチーフは、天人女房諦の流入と同時期もしくはそ
の竹が天の糞袋を破って汚い物が落ち家がつぶれ家
20
和名としてあげられ、 ﹁名義未詳﹂とされている。これ
飼星と呼ぶ。この名は和名抄などの古辞書にも牽牛星の
は後に再び牛飼︵牽牛︶となる以前、天女の夫としての
一九八三年、 一六六頁
注9 美濃晋平﹁縄文の土笛か?﹂、 ﹃富山市考古資料
館報15﹄一九八七年、六頁
注10 大林太良﹃葬制の起源﹄.角川書店、一九六五年、
七七頁
注16 関、前掲書、四、 ︸五七頁
三年。
六年。大林太良﹃稲作の神話﹄、弘文堂、 一九七
﹃小さ子とハイヌウエレ﹄、みすず書房、 一九七
ハイヌウエレ型神話については、吉田、,同書。
偶の神話学﹄所収、 一九八六年、
拙稿﹁花咲爺伝承について﹂、吉田敦彦﹃縄文土
稲田、小澤編、前掲書、二五、 ︸一九頁
関、前掲書︵﹃大成﹄︶二、二三九頁
一九七七年、五四頁
注11 関敬吾編﹃全国昔話資料集成﹄21、岩崎美術社、
14 1312
注15
注注注
犬飼の名残りを留めるものなのではないだろうか。
一九七五年、五一∼五四頁の要約
注1 田畑英勝編﹃全国昔話資料集成﹄15、岩崎美術社、
﹃関敬吾著作集﹄二、同朋舎、 一九八二年、一七
﹃民話と伝承﹄、朝日新聞社、 一九七八年、他。
究所。 ﹁東洋の天女たち1羽衣説話をめぐって﹂、
﹃文芸研究﹄ 一∼四号所収、共立女子大学文芸研
話口﹂、 ﹁中国の羽衣伝説﹂、 ﹁洪水伝説と羽衣﹂
注2 君島久子﹁中国の羽衣説話H﹂、 ﹁中国の羽衣説
注3
三頁
君島、前掲論文 ﹃ 文 芸 研 究 ﹄ ︸ 号 、 一 二 頁
田畑編、前掲書、五六頁
舎、二九八頁
注6 稲田浩二、小澤俊夫編﹃日本昔話通観﹄19、同朋
年、二五二頁
関敬吾﹃日本昔話大成﹄二、角川書店、 一九七八
54
87
西本豊弘﹁イヌ﹂、 ﹃縄文文化の研究﹄、雄山閣、
21
注注
注注
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