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自 次
チ
1
りの簿 記論
は じ め に
むすび
残高試算表について
商品勘定について
はじめに
目 次
ヨ
一
二
三
四
渡
辺
陽
一
ーパチョーリの簿記論− 三五
う難点をもつところから説得力に欠ける。
定をもった奴隷の代理人簿記にその起源を見出そうとする。しかしローマ起源説は、その主張が考証され得ないとい
行では多くの種類の帳簿が用いられていたため、複式記入がなされていたようであると主張し、またある人は主人勘
遠く古代ローマ時代にその起源を求めようとするものがローマ説である。この説に左袒するある人は、ローマの銀
︵1︶
複式簿記の起源については、過去において多くの説が出されている。
ノく
1論 文一 三六
資料が現存し、考証も可能ということになると、起源説は二二世紀以降の北イタリーにまで後退するが、ここでも
ヂェノア説、ヴェニス説、トスカーナ説、ロンバルディ説等があり、また年代についても意見が分れている。
現存する資料としてはフローレンスのラウレンツィアナ︵毎日。目置屋︶図書館にある二一二年の銀行家の帳簿
が最古のものと認められている。これは同図書館所蔵のローマ法典の外装表紙として用いられていたものであって、
僅か二葉の羊皮紙しか残されていない。そこでは銀行の貸借業務が上下式に書き込まれており、負債は﹁与えるべ
し﹂︵ωoH一鴨げ雪︶、その返済には﹁与えた﹂︵轟け鴨σQ魯9︶と現在の借方、貸方に当る表現も既にみられるという。
ジーフェキング︵甲oo8話置品︶によると、この帳簿は﹁営業経過の多かれ、少なかれ無形式な叙述ながらも、商業
︵2︶
帳簿への貸借記入が行われていた。勘定は独立の意味をもっていた﹂という段階にまで達しているため、起源をここ
に求めようとする人もいるが、僅か二葉の資料からは信用取引以外の事項についての詳細を知ることはできず、ここ
に求めることは無理のように思われる。
しかし商人の必要から徐々に発展せしめられ、二一九七年フローレンスのフィニー︵コ三︶商会の帳簿には人的勘
定のみならず、衣類、費用、貨幣鋳造などのごとき物的、財産勘定の開設も認められるという。続いて一四世紀にな
ると、 ﹁目下のところ知られている複式簿記の最古の使用は、二二四〇年から保存され、ヂェノア国立文書館に保管
︵3︶
されているヂェノア市財務官︵竃自﹂拐胃一︶の帳簿において認められる﹂とべンドルフ︵甲勺窪&o課︶に規定される
帳簿が出現する。ここでは勘定の形式が左右対照式であるし、また勘定も人的、物的勘定の外に損益勘定のごとき名
目勘定も設定されており、複式の原則が完全に維持されている。このようなところがら今までは複式簿記はヂェノア
に生れ、そこからイタリーの各都市、例えばヴェニス、フローレンス、ミラノ等へ広まっていったとする説が有力であ
レ
つた。しかしデ・ルーヴァー︵零Oo刃oo話︻︶の説によると、この仮説は近年の研究により崩されるに至ったとい
う。すなわち彼は﹁複式簿記は誤りを少なくし、統制を容易にし、そして彼等に企業の財務状態の包括的な観察を与え
てくれるような制度を探求していた若干のイタリー諸都市の商人達によりほとんど同時的に発展させられたとするの
︵5︶
が適当なよううである﹂という見解を示す。資料的裏付けをもとにメリス︵コ寓。ユω︶がトスカーナ説、ツェルビー
︵↓●NR三︶がロンバルディ説を相ついで打ち出してくるからである。このように見解が分れてくる背景には複式簿
記に対する規定に一致が見出されないという問題がある。つまり何を複式簿記の要件とみるかについて一致が見出さ
れないために多くの見解が生じてくるのである。今述べた二人を例にとると、複式簿記である以上、貸方、借方への
複記がなされていることはもちろんであるし、更に人的、物的、名目の各勘定体系が整備されていることもその欠く
べからざる条件であるとするところまでは同じである。しかしツェルビーはこの他に勘定が左右対照式でなければな
らないとするのに対し、メリスは、それは単に便利さの問題であり、本質的な要件ではないと解する。彼は複式簿記
の本質は整備された全勘定体系への完全なる複記にあるとするため、その起源は通説となっている一三四〇年ヂェノ
ア財務官の帳簿よりも早く、二二世紀末まで溯ることができるというのである。具体的にいうと一二九六一二二∩︶五
年におよぶフローレンスのフィニー商会の帳簿には既にそれらが認められるというから、彼の説によると、複式簿記
︵6︶
の起源は通説よりも更に五〇年程早められることになる。
このように、デ・ルーヴァーは複式簿記の起源をヂェノアとする通説を批判し、北イタリーの主要都市に殆んど同時
的に生成、発展したのではないかという説をとるのであるが、ペラガロ︵国℃R品毘。︶もこれと同様な見解を示す。
すなわち﹁要するにフローレンスの人達はヴェニス、ヂェノアとは関係なく、主として勘定の形式においてそれとは
ーパチョーリの簿記論− 三七
t論 文一 三八
︵乳︶
離れるが、基本的には複記に基づく能率的な簿記制度を発達させていた﹂と述べ、フローレンスでも独自に発達して
いたとするのである。十字軍遠征は結果として北イタリーを世界商業の中心地の地位に引上げる。恐らく大都市の商
人、銀行家達は自己の営業の経過をいかに記録し、計算するかを真剣に考えぬき、ついに複記で行う記録の方法に到
達したのであろう。ヴェニス、ヂェノアが計算に便利な左右対照式の勘定形式を使用しているのに対し、フローレン
スでは初期の頃上下式を用いていたことなどがこの説を裏付けるものといえるのかも知れない。フローレンスの上下
式は二二八○年代以降左右式に移行するのであるが、人々はこの新形式を﹁ヴェニス式﹂と呼んだという。 ﹁ヴェニ
ス方式﹂を採用したからである。このような事実からすると、複式簿記は当初若干の主要都市で同時的に生成するが、
国内での交流が盛んになるにつれ、各地で考え出されたよい方法が他にも普及し、やがては何れの都市も完成された
簿記をもつようになったものと思われる。
︵8︶
商業が発達するにつれ、 ﹁帳簿づけは商人が習得しなければならない技術である﹂という認識が広まり、簿記など
を教える学校、すなわち今でいえば﹁商業専門学校﹂︵OoヨヨRo置ξ8島ヨ︷8︶のごときものもまた設立されるよう
になってゆく。フローレンス経済が繁栄の頂点にあった一三四〇年頃には﹁読み書きを習っている男の子と女の子は
︵9︶
八●○○人から一万人である。六つの学校で算盤と算術を習っている男の子は一〇CO人から二一〇〇人である﹂と
いうから、当時教育はかなり盛んであったといわなければならない。算盤と簿記の学校というのはこの商業専門学校
に当るもので、算術の中には簿記が含まれていたのである。学校ができれば、そこでは教本が必要となる。教本は簿記
の学習に対しては絶対といってもよい程の重要性をもつ。簿記書の生れる素地はここにつくられていたといえよう。
パチョーリ︵い58評90εはその著﹁算術、幾何、比および比例総攬﹂︵ω一§目印号>葺ゴ旨p。ぎ僧Ooo目鼻︻5
写08三〇三9ギ80旨一2呂冠一略称ooβ日目印︶を一四九四年に公刊するが、その中に簿記に関する一章﹁計算お
よび記録詳論﹂︵↓声。冨9ω勺。。旨〇三舞ぢ留Oo日O舞δoけω9昼葺ユω︶を含めたために、一世界最初の印刷された簿
記書の著者という名誉を与えられるようになる。彼より遅れること約八○年の一五七三年に﹁商業および完全なる商
人﹂︵Oo旨旨R8日声9α巴巨費8旨oO。詠卑8︶という書名でコトルリー︵甲O。け目β四ε の著書がヴェニスで
ハゆロ
出版されるが、その原稿には一四五八年に脱稿した旨記入されていたといわれている、これが正しいとすると、。ハチ.
ーリの以前に簿記書を書いた人がいることになる。しかしその事情はともあれ、パチ.ーリの著書がそれよりも早く
印刷され、人の目にふれるようになったということは否定し得ない事実である。彼の簿記書は全部で第三八章から成
るが、そこに盛り込まれている内容はかなり難しい。そのため﹁パチ.ーリの労作が完全に開花するためには、簿記
の授業法が改善されなければならなかった。パチョーリは範例を利用していない。これらの助けをかりなくては、素
人にはこの技術の習得が不可能である。パチョーリは専門家に向って話しかけているのである﹂という批判が起され
ハれロ
る程である。我が国でも過去パチョーリに関し多くの研究がなされているが、彼の著書はこのような性格をもつもの
のため、まだ解明の残されている部分もあるようである。以降においてはその若干について検討してみることにしょ
トつ。
︵、︶器の歴器研窪ついては、我が国においても既多くの優れ舅作葬表されている.黒沢清、山下勝治、片野一
郎、小島男佐夫、泉谷勝美、江村稔、白井佐敏、茂木虎雄教授等の名をあげておきたい。
︵2︶=●ω一。<。喜界>¢器・。琶藝。・=琶・曼σ婁。βミ・ぎミ蕎蜜諸&設醤鎖﹄Gミ“凝凝議吋蟄識隻。寒物§、㌧,
讐︾“、馬蔚氏価数怖零書誌凌亀h︾’一等卜。㎝︵一〇〇一yω・ωO①・
ーパチョーリの簿記論− 三九
1論 文− 四〇
︵3︶ωら9区。芦トミ“ぎ&説>寒§ミ§恥きミ切ミ慧ミ§吋ミみω鼻曹芦一。ωω一ω■H■
︵4︶ ジェノァ起源説は、ペルドルフの外にジーフェキング、ブラウン︵戸ω3毛口︶、ペラガロ︵国℃o話鵯=o︶等がとってい
国℃R節薗巴一Poマ9[‘戸NO●
O出■冥Uo閑oo<05ZoミO魯80nけぞ。ω一や畦民
幻・Uo刃oo<oびZoミ冨お冨。含く。ω8浮。窪ω8qoh餌80琶二品、﹄q8讐ミ㌦識鎖霜ミ蟻§
僻迄
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い。巳09やOP国−興お巴一90、喧醤§概要ミミ馬§皇boξ、“南ミ裏切oo寒雨魯き堕Zo毛網Rぎ一〇ωo。一やω噂
る.謹一邑あ雪。喜頃も聾。・しの﹄文目§︶払ω鼻oh甲卑。善一﹄ぎ、&皇§。§誉恥§亀§&§§芦
︵5︶
︵6︶
︵7︶
︵9︶
片岡義雄、片岡泰彦訳﹃ウルフ会計史﹄法政大学出版局、昭和五二年、一一九−一二〇頁参照。
清水廣一郎﹃中世イタリア商人の世界﹄平凡社、昭和五七年、二三頁。
︵8︶ 舅ω一〇<魯ぎ鯨帥・餌■O‘置・8︵一〇〇一︶畔ψωboρ
︵10︶
刃切﹃oミ口幅oP9εP旨O、
︵11︶
二 商品勘定について
まず最初にパチョーリの簿記論を必要な限りにおいて概観してみよう。
彼は冒頭にここで取り上げる簿記がヴェニスで行われているものであること、そしてこれがイタリーの各都市で行
われている簿記の方法としては最も優れているものであるという。我々は彼の述べている簿記がヴェニスのそれであ
ることを銘記しなければならない。
彼の説明は開始財産目録から始まる。ここには自己の所有する全財産、すなわち動産、不動産、債権、債務等のす
べてが記載されるのである。しかしここで注目すべきは、記載の要求されている財産が営業用に限定されないという
点であろう。私用に属すると思われる宝石、衣類、食器、寝具の類までその記載が要求されており、これらすべての
財産が仕訳帳を経由して元帳へ転記されることになっている。それ故パチ.ーリの簿記においては、まだ企業と家計
との分離がなされていないということができよう。この点は後述する損益計算の箇所においても明瞭に認められる。
すなわち彼は家計費を営業費などと同様に損益勘定に借記し、損益勘定の残高がその期間の損益を示すともいってい
るからである。その意味で近代的な﹁企業実体﹂という概念はまだ存在していなかったといってもよいのであろう。
開始記入が終ると、次は日々の取引が記録されなければならない。パチョーリは商品勘定、手形取引の記入方法、
銀行、取引所との取引の記録方法、組合をつくった場合の取引処理方法、旅商に関する記入、各種費用の記入方法等
多くの商人達が直面するであろうような取引の記入方法を例示し、このような具体例から商人が帳簿記入の方法を学
びとることを期待するという手法をとる。
開始記入をなし、日々の取引を記入し続けると、ある勘定には記入する余白がなくなるという事態も起る。更には
帳簿全体の更新が必要とされる時もくる。前者の場合にはその勘定残高を他の頁へ移せばよいが、後者の場合には旧
帳簿を締切り、そこにある残高を新帳簿へ繰越すという措置が必要となる。彼は旧帳簿に余白がなくなった場合はも
ちろんであるが、年々帳簿を更新する場合も同様に帳簿を締切ることが必要であり、できうればこの方が望ましいこ
となのであるという。彼によると元帳の締切りは以下の順序でなされる。まず最初は元帳記録の正確性に対する検査
である。助手に仕訳帳の取引を順番に読ませ、本人が転記済みか否かを調べるのである。そしてすべての取引が重複、
脱漏することなく貸借に記入されておれば、記録は正確と判断する。これが終ると、元帳の締切手続に入ることになる
四一
iパチョーりの簿記論−
一論 文一 四二
が、最初は各種費用勘定残高の損益勘定への振替から始められる。すなわち﹁然し、あなた方の前記のA号元帳︵新
越
そ
う
と
思
わ
な
い
勘
定
、
言
い
換
え
れ
ば い
諸
勘
定
︵﹂
1、
︶
元 帳 一 筆 者 注 ︶ に繰
あ な た 方 が 内 密 に し て 何 人 に も 示 す 義 務 のな
例えば営業費、家事費、借地料、家賃等の勘定は残高を損益勘定へ振替えることによって締切られる。家事費などこ
れらの費用を控除した損益勘定の残高は、その期間の損益を示すとされるが、この額は資本金勘定へ振替えられる。
次は残された資産、負債、資本金勘定残高の繰越となるが、彼はその手続をする前に試算表︵茎鍔ユ。︶の作成を要
求する。検算のためである。借方、貸方の金額に一致が認められれば、次期繰越高を直接新元帳に移し、旧元帳を締
切る。そして最後に借方貸方の合計表による検算を今一度実施するのである。
以上がパチョーリの説く簿記論の概要である。我々はそれが現在の手続とほとんど変りがないことを知り、驚かさ
れる。しかし詳細に検討すると、多くの相違点、疑問点が存在するのである。以下その若干について言及してみよう。
。ハチョーリは帳簿締切を論ずるに当り、締切財産目録については一言もふれていない。彼は帳簿の記入を開始する
に当っては、まず開始財産目録の作成が必要であるとし、これについては十分な説明を与えているのであるが、締切
時のそれについては全くふれるところがないのである。そのため建物、家具、備品等に発生する減価、回収不能とな
った債権の除去等のごとく締切時において元帳記録の修正と係わるような事項の登場する余地は全くない。締切財産
目録の欠如はこれらの問題の外に商品勘定についても多くの疑問を発生させる。彼の商品勘定が混合勘定の性格をも
つからである。では最初にこの商品勘定の問題を取り上げてみよう。
第二七章﹁損失及び利益勘定﹂にある﹁ある種の商品﹂という表現からでも理解されるごとく、パチョーリの簿記
書では商品勘定は個々の日別に分割されたものとして現われている。そして日別商品勘定の借方には、購入代金の外
に、その日別商品に賦課することが妥当と思われるすべての付帯費用、例えば運賃、通行税、関税等が記入されるこ
とになっており、配賦が困難な費用、例えば荷物運搬人の労賃のごときもののみが、営業費として処理されることに
なっている。販売が完了した商品は当該勘定の貸方に売価で記入されるため、従ってその勘定における差額は、その日
別商品の売買損蓼示すこと象る.今述べたごとく、配賦が困難藷経費讐業費勘定で処理されているため、あ
る。の商曇販売済み養った場合、販売損益の算定ができるといっても、完全な・別損益の算定とはいえないであ
ろう・しかしたとえそ紮不完全数値であるとしても、商人はこ楚よって個々の冒険妻篭おける輩の饗
を知ることができるのである・パチョムは販売済み養った曹闘定の差額籍益勘虐疋へ奮えることによって締
切るこ差果する・これとは誉全く販売さ繁かった曹程、借方の合計金額が当該商品の原価を示すことにな
るから・懸締切時には他の資産勘定高様にその額宅って新帳簿へ繰馨ばよ.このように販売の完了した商
。闘霧らびに全く販売さ繁かった商・闘定については腰が発生しぴ.しかし。ハチ.−りのごとく総記法をと
りながら、帳簿締切時において商品の棚卸問題にふれるところがないとすると、一部分が売れ、残りは在庫している
という曹蜀書どうなるのであろうかという舗が生ずるのは当然5える.すなわち奨口勘定の籍をもつ商品
勘定においては・響髪る在高の確認をし奮と、販売損益の算定ができないからである.曹蜀定の残高は次期
繰馨集すあでは馨し、また当該商品の販売損蓼示すもの書ない.従って池曹闘定義肯同を次期へ繰
越すというパチョもの指示罰して処理すると、かかる勘定の場合全く藻の蕪塞.同数値が新帳簿に繰越される
ことに蒼奮かという醤の慧はもっとゑことなのである.この膿の解盟、後述するが、パチョーリの残
高萱表の籍をどのように解するかという膿と密讐からんでくる.すなわちもしも商口蜀定の次期繰越肯同にこ
ーパチョーりの簿記論ー
四三
1論 文− 四四
のような無意味な数値が多く含まれているとすれば、実質的には決算残高勘定と解することができるパチョーリの残
高試算表は、多分に検算のための試算表という性格をもつものと規定しなサればならないであろうし、逆にそのよう
なものは含んでいないとすれば、貸借対照表に近いものと解さざるを得なくなるからである。ところでこの問題は
ロ
﹁中世の会計を判断するには事業のなされ方を考えることが重要である﹂とするデ・ルーヴァーの主張の方向で検討
した結果によって解かれるべきものであろう。それでは次に当時におけるヴェニス経済の事情とそこでの商人の活動
状況等がどのようなものであったかを検討してみることにしよう。
ヴェニスはアドリア海に臨む海港都市である。一〇九六年北始まった十字軍遠征にはヴェニスの商人は船隊を仕立
て積極的に協力する。その結果彼等は占領地での特権を得るに留らず、北西ヨーロッパ出身の十字軍兵士達とも密接
な関係を結ぶようになり、その成果は第四回十字軍遠征となって結実する。すなわち一二〇四年のこの遠征では聖地
イェルサレムとは全く関係のないビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルを占領することになるが、これは海外
貿易の覇権を握ろうとするヴェニス商人の要請によるものであったといわれているからである。かくして数次にわた
る十字軍遠征は、結果として東方貿易の拡大をもたらすことになり、地の利を得ているヴェニスの繁栄、ひいては北
イタリーの発展へと結びついてゆくのである。それ故ヴェニスの経済を支えたのは海外、とりわけ東方諸国との間に
なされる交易であったといってよいであろう。
当時は一般に通信手段は未発達であり、また運送も大変であった。近くの町へ商品を運ぶのでさえ、軍隊式探検とい
う形式をとらなければならなかったといわれる。海上交通にはこれ以外の多くの困難があり、シェークスピア︵毛■
曽㊤犀。呂op。.o︶の﹁ヴェニスの商人﹂︵↓富家08ぎ暮亀<o該8︶にも見られるごとく、船の遭難による破産なども
ハ ロ
稀ではなかったようである・このよう誌代では海港都市の商人濠﹁当座組合﹂を設立して篁を進めたが、﹁当
座組合に磐適した形式哲ンうダ︵。。§。登であった﹂といわれている.コンメンダは資金、もしくは商
曇特定の海外取引に奮する﹁コンメンダトル﹂︵∩。§①§琶と、その業務を実行する﹁トラクタトル﹂
︵ぎ量8との契稗吉つくられる.前者は航海の危険を負担する代りに原則として利益の四分の一二を、これに
対し後者は残りの四分の喜得ること窪っていた.こ毛は金のある商人着しい商人に対し資金覆供し、渡り
鳥的海商を営ましめたのであるから、主導権はあくまでも﹁コンメンダトル﹂が握ったのである.ジ多エキング
によると、当時のヴェニスの商人、例えばソランツォ商会は﹁フラテルナ﹂︵律鉾。.p四︶と呼ばれる﹁家族共同体﹂
ないしは﹁相続人共同体﹂をつくって生活していた。この組織が同時に企業組合となって活動するのであるが、この
パ ロ
﹁フラテルナ﹂の営業の殆んどはコンメンダの形をとったといわれている.海外との取引では持参した商品が換金さ
れる場合もあったであろうが、むしろ現地産の商品と交換される場合が多かったようである.このことはパチ.ム
が第二。薯﹁本幕葱ては・璽経営塞いてもっと姦繁にあらわれるの莚例であるところの、特簗、そ
らロ
して一般によく知られた若干の取引の記入方法を説明することにする﹂としてかかる交換、組合、他人又は自己です
る旅商などの取引処理方法を詳述していることからでも知られるであろう。一つの冒険事業が終ると、コンメンダの
利益はヨンメンダトル﹂と﹁トラ多トール﹂との間雰配さ紮げればなら蕊.売叢り商口罪あるとすれ
ば・当然この分を控除した利益計算を行なつ必蒙ある.この考な轟蓬々発生していたとすれば、恐らくパチ
7リはその取扱いを彼の著書叢り上げていたであろう.それについての記述が見出さ憂いところがらすると、
売れ残り商品を持ち帰るという事例は殆んどなかったと解することができるのではあるまいか。
四五
ーパチョーリの簿記論1
1論 文− 四六
古いヴェニスの商業帳簿からも帳簿締切時における財産目録の作成という慣習は見出されないようである。 ﹁我々
のヴェニスの商業帳簿は、それが商品販売業者達により自己の使用のために記入されたものであるというところに特
色を持つ﹂といわれ、またこれに属するとされるソランツォ商会の帳簿でも締切時に財産の実地棚卸をしたという記
ロ
録は見出されないという。 ﹁後世多くのヨーロッ。ハ諸国において、イタリー式簿記という名称の下でその軌跡を見出
クレ
すことができる型の複式簿記を既に有していた﹂とされるバルバリゴ商会の帳簿でも同様に定期的決算はもちろんの
こと、締切財産目録の存在も認められないとべンドルフはいうのである。近年の研究によると、フローレンスでは、既
に一四∼一五世紀において全量が販売されなかった商品勘定に対しては未販売部分の繰越記入がなされた上で損益の
ハ レ
計算が行われていたといわれている。。ハチョーリが、ヴェニス、フローレンス、ミラノ等イタリーの主要都市にその
足跡をしるしていることは、彼の経歴から知られていることであり、また、各地の商慣習に通暁していたことは、彼
の著書から十分に察知することができる。それ故もしも商品勘定に棚卸が必要であれば、恐らくそのことに言及した
であろう。その彼が棚卸による次期繰越高の決定方法にふれていないこと、また古いヴェニスの商人達も締切時に財
産目録の作成をしていないことなどからすると、当時のヴェニス商人の間には売れ残り品を抱える商品勘定の問題は
存在しなかったとみて大過ないものと思われる。
パ ロ
デ.ルーヴァーは﹁冒険ないしは航海会計がヴェニス会計の典型的なもの﹂と規定する。現在のごとく、交通、通信
が未発達であり、危険も多かった時代においては、運賃、関税、通行税等の費用も巨額となり、それが商品の価格を
数倍、場合によっては十数倍にも高める。 ﹁このような環境は、商人の取引が彼にとっての交易の絶え間のない過程
とVうよりはむしろ個々の冒険事業の連続として現われたのである﹂。従って商人にとっては一つの冒険事業が終る
、 ︵10︶
度にその成果を当該勘定において算定し、これを損益勘定に振替えるという処理方法をとる方が、定期的に帳簿を締
切り・その懇の損益を難ずる青髭か箸益だったといえる.そのため商人は同種の費用を一つの勘窪毫
めるという方法はとらず、発生した費用を出来るだけ注意深く各日別商品勘定に配賦し、それを売上肯同と対比するこ
とにより損益を算定するという口別損益計算制度を生み出すに至ったのである。ブラウン︵甲弱目。薫口︶はこのよう
な利益計算方法が当時のヴェニス商人の商業活動に最も適した方法であるため催論されたのであるが、この方法の
ために年々の定期的棚卸、または決算の必要性が大いに減少せしめられたと指摘する。
曹闘定との関奪考察しなけれ獲窪いもの量葛家ある.現在この勘定は期関に発生した各種の費
用、収益勘定残高を集め、期間損益を算定するという役割を担って決算時に設けられる。パチョーリはこの勘定がいつ
設けられるのかについてはふれていないため、従来多少の論議はあった.我々は、この勘定鏡在とは異なり、日常の
営業記録をするために設けられる諸勘定、例えば現金、債権、霧、営業費、家事費等の勘定と同様に最初から設け
られる常置のものと解したい。では以下にその根拠を述べてみよう。
彼の簿記書はその内容が次のごとく三つに区分されている。第一の部分には第一章から第一五章に至る章が含めら
れる。ここでは財産目録の作成方法が述べられ、続いてここに記載された資産、負債がいかに各帳簿に記入されてゆ
くかが示されている。つまり帳簿組織、貸借記入原理など簿記の基礎的な部分が盛り込まれており、以降における営
業記録記入の準備段階の部分といえる.次は箏六章から第二六裳での部分で、ここで賃体的叢引、例えば商
品、銀行、為賛旅商、組合、費用支出等商人が直面する各種取引がいかに記録されるかということを例示的に示し
ーパチョーりの簿記論t
ている。第三の部分に属する第二八章以降の章では勘定の繰越、締切、まとめが述べられていると解することができ
四七
1論 文− 四八
る。問題の損益勘定第二七章は取引の例示的説明に当てられている第二部と勘定の繰越、締切が述べられている第三
部との接点に置かれているのである。彼はこの章の冒頭で﹁他のすべての勘定の後に、損失及び利益勘定、或いは地
︵13︶
方によっては収益及び損害勘定、剰余金及び不足金勘定と称せられているところの勘定が設けられる﹂と述べる。
﹁他のすべての勘定﹂とは日常の営業を記録するために設けられるもので、これ以前の章において述べられてきた諸
勘定、例えば、現金、商品、債権、債務、資本金、営業費等の勘定であることはいうまでもない。そしてこの章の次
に、もはや記入の余白がなくなった勘定の残高を別の頁に移す方法が述べられている第二八章、毎年帳簿の更新を行
わず、年次のみ変更する場合の方法を述べた第二九章を始めとして、元帳の締切方法を述べた第三四章等が続くので
ある。損益勘定の第二七章が、第二八、二九章の前に置かれているということは、今述べた第二八、二九章の手続がな
される以前の段階において損益勘定も他の勘定と同様に、既に存在しているものと解さなければならない。つまり損
益勘定も余白がなくなれば他の勘定と同様に別の頁に移されなければならないし、帳簿を更新することなく、年次の
みを変える場合には損益勘定も他勘定と同様な措置を受けるという性格のものであったと解するのがこの場合妥当で
あろう。現在のごとく、決算時においてのみ開設されるものであるとすれば、帳簿締切手続を詳述している第三四章で
損益勘定の設置、ここへの各損益勘定残高の振替という手続が述べられるべきである。しかし第三四章にはこのよう
な記述は一切見当らない。単に各種費用勘定残高を損益勘定の借方に振替えて締切るということが指示されているに
過ぎず、商品ならびに積送品販売、為替、両替等に由来する損益の振替については一言も述べられていないのである。
この事実は損益勘定が他の実在、名目勘定等と等しく常置されているものであり、同勘定へは既に完結した冒険取引
の利益が振替済みになっているため、これらの勘定残高の振替を論ずる必要はなく、従って残された費用勘定の残高
についての振替のみを指示すれば足りたということを示す何よりの証拠といえるのではあるまいか。さきに述べたご
とく、ヴェニスの商人には日別損益計算方法が自己に最も適合した方法であった。このように個々の日別についての
成果が重視される段階では定期的決算に対する欲求は生じてこない。つまり定期的決算が生れる基盤は存在しないの
︵14︶
である。 ﹁このように損益は年度末に記入されるのではなく、個々の企画が終了した時断続的になされた﹂というの
が当時の実務であったこと、また当時のヴェニスには定期的決算の慣行がなく、何年か経過して帳簿に余臼がなくな
った時に締切がなされていたことなど考えると、損益勘定は個々の事業の成果に対する﹁受け皿﹂として他の勘定と
同じく常置のものと解することが妥当のように思われる。それ故我々は第二七章は第二部の末尾に位するものと考え
たいのである。
︵1︶ 片岡義雄﹃パチョーり簿記論の研究﹄森山書店、昭和三一年、二四六頁。
︵2︶勾●u。国。。<。5Z睾瀦a℃。。彗。ωも・占㎝・
︵3︶甲ω一。く。5話・p勾。ρ﹂騎﹄。︵一。8yω﹄。①・
泉谷勝美﹃複式簿記生成史論﹄森山書店、昭和五五年、 ゴニ八頁参照。
頃国。一〇鼠
四九
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﹁コンメンダ﹂等については、大塚久雄﹃株式会社発生史論﹄中央公論社、昭和二三年を参照され忙い。
片岡義雄、前掲書、一六〇頁。
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︵6︶ 甲ω一〇く。ζ口幹帥・帥・Oこ︸㎎●謡︵一〇〇一︶﹃ω■ωHピ
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︵9︶
ーパチョーリ の 簿 記 論 一
1論 文− 五〇
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︵n︶ Oh・閃■田。ミFoマ息け‘℃.一一9
︵12︶ ヴェニスに定期的決算の慣行が生じなかったのは、ヴェニス商業の特性によるところが大きいのであるが、それ以外に当
時におけるヴェニス商人の家族制度の問題をあげることができるように思われる。例えばソランツオ商会は家族共同体であ
ると同時に企業組合となる﹁フラテルナ﹂組織をとっている。構成員のある者は海外に常駐し、またある者は旅商に参加し
たりする。彼等一族は共同で生活するため、生計費は﹁フラテルナ﹂の計算で支払われる。従ってそこには組合員間での契
約に基く利益分配などの問題は起ってこない。
これに対し継続的な商業、金融業、毛織物業に経済の基盤をおくフローレンスは組合に他人の参加を認める。そのため事
業の内容、経営、利益分配等の問題はしっかりとした定款で決めておく必要があった。また組合の存続期間も五年以上にお
よぶものも少なくなかったといわれている。定期的決算や貸借対照表作成の慣行がフローレンスにおいてのみ見出されるの
は、両市におけるこのような社会的、経済的背景の相違と解すべきなのであろう。
︵13︶ 片岡義雄、前掲書、一二七頁。
︵14︶ 幻、卑。≦PoP鼻‘P目9
三 残高試算表について
次に残高試算表の問題を考察してみよう。
パチョーリは第一四章﹁仕訳帳から元帳への移記方法﹂において初めて試算表︵窪き90︶についての言及を行な
う。すなわち﹁⋮⋮に貸方記入を伴わない借方記入はなく、反対に借方記入を有しない貸方記入は決してありえな
い。そしてこのことが元帳締切の際作成される試算表の原理をなすのである︵傍点筆者︶﹂という。このことから我
、、、、 ︵1︶
々は、彼が元帳転記の正確性を検証するため常時試算表を作成すべきであるということを説いているのではなく、帳
簿締切時にのみその作成を要求していることを知ることができる。それ故試算表については、この章の外に当然のこ
とながら第三四章﹁旧元帳勘定の締切、借方及び貸方の合計﹂にも触れられているし、また今まで述べてきた記帳法
のまとめである最後の章、つまり第、一二六章﹁元帳記入規則の概要﹂でも述べられている。ところでこの三章で述べら
れている試算表の内容であるが、あるところでは残高試算表、他のところでは合計試算表、またあるところでは合計
試算表と似て非なるものの作成が要求されているようであり、。ハチョーリの意のあるところをにわかに知ることがで
︵2︶
きないうらみがある。
しかし第三六章で述べられているそれは、残高試算表を意味すると解することができるようである。すなわち一五
﹁元帳が全部記入済みとなり、あるいは古くなった時︵新しい年度になったために1訳者︶、新しい元帳に繰越そう
とする場合には次のようにする。⋮次に旧元帳の試算表を作成して、その正しいかどうか、及びその貸借が平衡する
かどうかを調べた後にすべての債権者及び債務者を試算表の順に新しい元帳に移記し、そのおのおのに対して別個の
ハヨロ ハ ロ
勘定口座を設け、⋮⋮﹂と、一七﹁⋮⋮旧元帳にある勘定が試算表のしめすように貸方残のときには、その金額を借
方側に記入して、次のような説明を附記するのである。﹃この勘定の貸方残高幾何をB号の新元帳第何頁の貸方側に
へ ロ
繰越す﹄と。こんな方法であなた方は旧元帳を締切り、そして新しい元帳を開くことになるのである﹂と書かれてい
ーパチョーりの簿記論− 五一
一論 文1 . 五二
ることから理解されよう。またパチョーリの場合新元帳に移される勘定は資産、負債、資本金に属する諸勘定のみで
あるから、この試算表は損益の諸勘定が損益勘定へ集められることによって締切られ、更にその損益勘定残高が資本
金勘定に振替えられることによって締切られた後の時点において作成されるものであることも知ることができるであ
ろう。しかしここで注目すべきことは、たとえその試算表が繰越金額の正確性を検証するためのものであったとして
も、そこに盛り込まれている金額は新帳簿において継続的に記録されるべき資産、負債、資本金勘定の残高に外なら
ないということである。古いヴェニスの帳簿、例えばソランツォ商会、バルバリゴ商会のそれは帳簿の締切、開始に
当っては残高勘定を使用していた。この慣習がパチョーリの時代には既に消滅していたのか、また彼が敢てそれを採
用しなかったのかは不明である。帳簿の締切に残高勘定を利用しない英米式では計算の正確性を期すために繰越試算
表︵決算後試算表︶の作成を行なうが、この内容は大陸式の残高勘定と同一である。それ故パチョーリの残高試算表
は、本来の試算表という性格の外に残高勘定の性格をも併せてもつものであるということができるのである。
このような性格をもつパチョーリの残高試算表については今までに若干の論評がなされている。例えばジーフェキ
ングは実地棚卸は労多きものであるが故に、当時のイタリー人に敬遠されていたということを述べた後、パチョーリ
が決算財産目録に言及していない点を指摘し、ここでは試算表の説明しかなされていないのであると断定する。すな
わち彼は﹁営業の状態と過程とに対し全く確実な概要を得るためには、決算財産目録により在高の価値を評価し、そ
︵6︶
の価値を帳簿価値と比較し、もしも差額があればそれを損益として持出すことが必要である﹂という見解から﹁この
︵7︶
決算財産目録の欠如、およびそれと同時に十分なる決算貸借対照表の欠如とが中世簿記の本質的欠陥をなしている﹂
という。決算財産目録による帳簿数値の訂正がなされていないパチョーリの試算表は貸借対照表とは呼べるものでは
なく、試算表の性格を持つものと規定するのである。ジモン︵mダω目8︶も同様な見方をする一人に加えてよい
ハ レ
のであろう。彼は損益勘定残高が振替えられた資本金勘定を始めとする次期繰越高が貸借対照表、すなわちパチョー
パ ロ
リの残高試算表に記載されることを認めつつも、それは全く簿記技術的な目的しか持ち得なかったことを強調する。
貸借対照表に一定時点における財産表示という目的を与え、ために各財産の実在高を重視するというのが彼の立場で
あることを考えると、実施棚卸を欠くパチョーリのそれは試算表の域を脱するものではなかったと規定せざるを得な
かったのであろう。
これに対しコフェロ︵H署内。<Ro︶はかかる試算表説に批判的な立場をとる。パチョーリの残高試算表は帳簿数値
に基礎をおくものではあるが、損益勘定の平均が既になされた後のものであるが故に単なる試算表ではなく、 コ種
ハルロ
の真正ならざる財産貸借対照表︵o冒。>耳目8算。<R目凝①房9σ目︶﹂、つまり本物とはいわれないが、一種の財
産貸借対照表であると規定するのである。問題となる商品勘定については、パチョーリは帳簿上から在高を計算し、評
価には仕入原価を使用することにより、混合勘定の性格を有する同勘定の内容を醇化していると述べている。それに
も拘らず彼の貸借対照表を真正ならざるものと規定するのはいかなる根拠に基づくのかは知ることはできない。コフ
ハはロ
ェロは﹁貸借対照表とは棚卸を基礎とする財産概要﹂とするものが多数説と解し、その上に自説を展開する。このよ
うに棚卸を重視する彼としては帳簿記録を基礎とするパチョーリの貸借対照表は本物に似て非なるものと規定せざる
を得なかったのかも知れない。
検算表という本来の役割を認めた上で、単なる試算表説を排するという点では故木村和三郎教授もここに含められ
るのであろう。。ハチョーリの残高試算表には損益に属する諸勘定残高は計上されてこない。期末財産目録を見出し得
ーパチョーリの簿記論− 五三
1論 文− 五四
ず、現代の意味における貸借対照表を敏くのは当然とされながらも、 ﹁兎も角元帳勘定残高の一覧表︵ビランツ、バ
︵12︶
ランス︶についての説述ありと言わなければならぬ﹂とされるのである。
それでは我々はパチョーリの残高試算表をいかなるものと解すべきなのであろうか。ここに立入る前にまず貸借対
照表とは何かの検討が必要となろう。 、
ペンドルフによると、貸借対照表という語は中世ラテン語の﹁σ壁9旨旨﹂にその起源を求めることができるが、
この語は﹁三﹂︵二︶とコ響図﹂雪巳。﹂︵天秤皿︶の合成語であるという。五世紀頃には﹁二つの天秤皿をもつ﹂と
いう意味のラテン語﹁σ二きx﹂が既に存在していたため、人々はこの語からさきの﹁三訂9冒ヨ﹂という語を作り、
︵13、一
簿記の場合この語に﹁借方、貸方の平均﹂という意味を与えるに至ったというのである。それ故この語.源的意味に従
うと、試算表、貸借対照表、ならびにその基礎とされる残高勘定はみな等しくビランツ︵望ご目︶と呼ばれることに
なる。事実ペンドルフはこれらの何れにもビランツという語を与えている。しかし多■くの人は試算表には貫。訂な
いしは3げなどの限定詞をつけ、貸借対照表とは区別することが多い。
上述のごとき語源をふまえ、貸借対照表を定義するとすれば﹁資産と負債、資本との均衡表﹂と規定することがで
きるであろう。貸借対照表が財産目録に基づく資産と負債とに差額概念としての資本を付加することによって作成さ
れるものであれ、または決算時純損益の振替えがなされた後の帳簿残高であれ、何れにも上記の定義は妥当する。
このような定義からすると、パチョーリの残高試算表は、その名のごとく試算表の役割りを果すことはもちろんで
あるが、それだけのものではなく、立派に貸借対照表の性格を併せもつものといえる。ただその数値が元帳記録にの
み依存しており、締切財産目録による修正を受けていないところに問題が残されているということができよう。商品
等には保管中に滅失、毀損、盗難や品質低下等が起る。正確を期すならば期末における棚卸が必要なことはいうまで
もない。このことは売掛金、固定資産等にも妥当する。このような難点をパチョーリの残高試算表、すなわち貸借対
照表が持っていることは否定できない。しかしこのことをもって彼の残高試算表は試算表に過ぎないということは当
を得まい。その意味では試算表説を排した論者の説に大きな共感を禁じ得ないのである。パチ.ーリは財産状態を示
すものは資本金勘定であるとし、我々が貸借対照表であるとする残高試算表には検算機能しか認めていない。そして
この残高試算表はその構成が財産状態を示すとされる資本金勘定と同じであるにも拘らず、その機能について何らの
︵14︶
言及がないのも不可解な点の一つといえよう。
︵1︶ 片岡義雄、前掲書、九三頁。
︵2︶ 小島男佐夫﹃複式簿記発生史の研究﹄森山書店、昭和三六年、二〇七頁以下参照。
︵3︶ 片岡義雄、前掲書、二六九頁。
︵4︶ ペンドルフの訳では番号が一六となっている。クリヴィリの訳は、片岡訳と同様一七である。<屯・甲℃窪pα9静卜装h“
、ミミひ9窃P9‘℃●9一奉一F﹄着♀蒔きミ臼ミ諜ミ馬§&導恥目詰ミ嘗§Oo§∼恥馬糞窪き暮・映爲§鳶ξキ良ミ
ト費““恥、“亀ミ酬いOロαO二道国♪℃●旨い
︵5︶ 片岡義雄、前掲書、二六九−二七〇頁。
︵6︶甲ω雪。犀ぢ磯・鉾勲ρ、㎏の.謡︵一。。一yω・認“・
︵7︶=・o。奪。家屋も層p9一磯■謡︵一8一yψω虞・
︵8︶ ペンドルフは、ジーフェキングがアンドレア・囲ルバリゴ商会の決算残高勘定、すなわち貸借対照表を単なる試算表と規
定し、その根拠として実際の貸借対照表を作成するに必要な棚卸が見出されない点をあげているという。しかしバルバリゴ
ーパチョーリの簿記論1 . 五五
1論 文− 五六
商会についてのジーフェキングの記述をみると、このペンドルフの説には若干の疑念が生じないでもない。彼によると、同
商会の﹁借方、貸方の残高勘定﹂では本来損益勘定で締切られるべきである商品、手形が顔をのぞかせており、また資本金
勘定に振替えられるべき家計費支出が、あたかもそれが試算表において姿をみせるがごとく同勘定に現われている。またそ
の子息ニコロ・バルバリゴは損益すら資本金勘定ではなく残高勘定へ振替えていたという。ジーワーキングがバルバリゴ商
会の残高勘定を試算表に過ぎないとしたのは、棚卸を欠いたという外に今述べたような問題点の存在をも多少は考慮したた
めではあるまいか。<屯●=・ω一〇<o寄口騨鉾騨O‘一中N㎝︵お2y堕ωN聾 ゆ・℃oロ⇒αo﹃きト蟄h“、“職。糞φ鼠・
︵9︶<算甲<・ωぎoP黛馬bo§糞ミ軋ミ﹄鳶&錯塁匙鴇ぎ賛§§概魯暁角。§§§ミむ霧昏らぎ旨§§\、窪§”
ωR=戸おHρoo・ωド
︵10︶H略画。<Rgb融山鳴§、き識鴫野、く偽、ミ暗§藁薦§切匙§籍き氏§誉鳶塁鷺、§N§警防㌣ご&§qミ嘆ミ︾§ミ鳶§’
ゆR謡P一〇一bo一ω‘一ρ
︵n︶H●民。<R。﹄﹄●O‘ω﹄。。■
︵12︶ 木村和三郎﹁パシオロ時代における損益計算制度﹂、﹃会計﹄第三五巻五号、四一頁。
︵13︶<頃一。蝉℃窪註。拮90ゴω8冨9。国算惹。旺5mαR国一彗斜ぎ豊町山§費§織ミOミ馬§息ミ§鷺3ω血﹂︸
ωR一ぎ・名一〇P一〇ω辞ω・一N9
︵14︶ パチョーリは第三四章において、資本金勘定は常に元帳における最終勘定であるから、新元帳へ繰越した借方および貸方
の金額をそこへ付記するならば、 ﹁この勘定によってあなた方の新しい全財産の価額を知ることができるであろう﹂と述べ
ている。この記述からペンドルフは、パチョーりから全財産を示すという役割が付与されていたのは資本金勘定なのであっ
て、残高試算表ではないという。従ってパチョーリは残高試算表を﹁単に元帳への諸記入の正確性に対する試金石﹂︵即自−
ω叶。ぎ︶以外のものとはみていないと主張するのである。 <薗r甲℃oコpαo汰・OQ鴇ミhミ“栽ミ切§ン︾巨蓑雄叫ンb婁馬旨剃
∼§ドピ9旦幹一。一。。る■一。。㎝・
四 む す び
パチョムの著書は・その存在嚢が簿記史上特別奄のであるだけに、過姦誉護童ざ義論評が誉れて
いる。例えばベスタ︵閃・ゆ。の寅︶から出されている彼の簿記論の独創性についての疑問などその最たるものであろ
う・ベスタは・彼の年譜覧るに・パチョもはヴニスの商業馨び嵩人薯について包括的かつ正穫認識を
持つ余裕と可能性を持っていなかったはずであるとぢ.その他に彼は著書の他の部分では出典晶らかにしている
のに簿記論ではそ紮奈ことや、トスカ←人である彼譲あ吉住みが奈はずのヴェ、一スの互一一口が簿記論
では多■く使用糞ていること警から・彼の著書は当時ヴェニスの商業講学校奮莉用されていた教本の模写に
過ぎない主張するのであ︵御︶・デル占r㌻ニスの璽籔学を教える学壌教師、生徒間に流布されてい
た写本の焼き直しに過ぎないであろうとい置︶fたテイラー︵駕毬・琳︶も﹁ズムマは決して独創的な作曇
はな.岡︶﹂とし、多くの出所からの、そして多くの著者達の素材、考え方を集めたものに過ぎないとの見解を示す。。ハ
チョーリの著書置このよう馨びし覧方をする全多く、ペンドルフによる弁護一論が出されても、なお彼の簿記
パ レ
論は﹁剽窃﹂ではないかという論が根づよく残されているようである。
上記の評便ついては何れが芒いかの判断を下し得奈の鐘憾である.しかしその結論はどうであれ、我々は
。ハチョーリの果した役割を高く評価すべきであろう。彼の著書は当時の新技術である印刷術の恩恵を受けることによ
って、全ヨーロッパへ完成されたイタリー式簿記の手法を伝えるのに大きく貢献することになるからである。著書の
五七
tパチョリーの簿記論t
一論 文t
五八
内容にはきびしい見方をするテイラーも、﹁。ハチ.ーリの影響はいくら強調しても、し過ぎるということはない。簿記
論についてのみいうと、簿記史を熟知している人々は、とりわけドイツ、オランダ、イギリスの諸著作、そして間接的
には初期のアメリカの諸著責対するパチ﹃りの轟覧出す︶と響き︵塵と濡する・また・デ●牛ヴr
も。ハチョーリの著書の重要性は、それが最初に印刷されたものであり、たまたま数ケ国語に訳出されたという偶然性
に負うところが大きいとしながらも、彼の功績は大いに評価しているのであ.姻︶・一連の養手稜現在のそれと全く
同一であるとしても、そこでは現代的な決算が説かれていると解すべきではないとか、企業と家計との分離がまだな
されていないとか等彼の所説を批判することは易しい。彼の簿記が当時におけるヴェニス商人の実務の反映であった
ことを考えれば、これらの批判は酷というべきであろう。ともかく我々はリトルトン︵︾ρ自注90ロ︶の指摘する
ごとく、 ﹁パチョーリの簿記書を読むと簿記の基本構造は今日のそれとほとんどちがわないことを知って一驚するの
である﹂。当時既生口固い水準にあったイタリー式簿記がパチョーリの著書を通じて各国に導入され、そこで多くの祖
ハクロ
餌呂甲ψ網弩①冤・鱒ミ醇篤ミ壽蚕糞&魚﹄§§§堕z睾
述者を見出すことにより普及してゆくことを考えると、彼の存在は偉大なものであったといってもよいのであろう。
09
︵1 ︶ <に一、ゆ。勺Op昌αO目ひト讐h“﹄ざ皇O、5φ
︵2 ︶ 勾・UO幻oO<0520ミ℃Oりω℃OO
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︵3 ︶ 勾、国・↓讐一〇5b但〇四℃加含OF幽P>O
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︵4︶ <屯・ゆ・℃O口口αo臥。トミ偽“︾“亀ミ斜。つ、 O㎝hい
︵5︶
国.国・↓国二〇きOPO向け﹂PHoQP
片野一郎訳﹃リトルトン会計発達史﹄同文館、昭和二十七年、
︵6︶ 園・UO勾OO<OきZO毛℃O噌ω℃On島<Oω︸マ轟一〇〇・
︵7︶
ーパチョーりの簿記論一
一一八頁。
■
五九
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