Comments
Description
Transcript
戦争の現実を見る、 平和を考える 主権者として、 現代の課題に向き合う
主権者として、 現代の課題に向き合う 戦争の現実を見る、 平和を考える 戦争を体験し、生き抜いた人たちの声を聞くとき、自らの問題として受けとめる 17 歳だった加藤義典は、 ヒロシマを生きのび、 74 歳までいだき続けた思いを、 1枚の絵に描いた 佐々木禎子の願いは、 公民学習で、深められていく 第9章 第二次世界大戦の時代 …… 222 □大戦の終わりを迎えた世界…………………………………… 222 (1) チャップリンが来た — 第一次世界大戦後の文化 — ………… 224 (2) 世界中が不景気だ — 世界恐慌と経済政策 — … ………… 226 被爆した佐々木禎子の生き方と (3) ヒトラーの独裁が始まる — ナチ党のドイツ — … ………… 228 (4) 鉄道爆破から始まった — 日本の中国侵略 —… …………… 230 原爆投下は、過ぎ去った一瞬の悲劇 (7) 戦火に追われる人びと — 第二次世界大戦開戦 —… ……… 236 威力を学ぶことではない。被爆の悲惨 (10) 赤紙が来た — 戦時下の国民生活 — … …………………… 242 れらの課題を受けとめるとき、公民 (11) 餓死、玉砕、特攻隊 — 戦局の転換 — … ………………… 244 学習が切実なものとなる。 (12) 町は火の海 — 本土空襲 — … …………………………… 246 さだけを学ぶことではない。被曝者の人 1946年 アメ リカがビキニ 環礁で原 爆実験 1949年 ソ連 が原爆実験 1952年 アメ リカが水爆実 験 1953年 ソ連 が水爆実験 1954年 ソ連 が実用的な原 子力発電 所を運転する 1957年 アメ リカが商業用 の原子力 発電所を運転 する して東日本大震災と原発事故…こ (9) 戦争と二人の少女 — ヨーロッパの戦争 —… ……………… 240 原子爆弾を学ぶことは、兵器としての アメリカとソ 連の原子力開 発競争 1945年 アメ リカが広島・ 長崎に原 爆投下 る戦争、世界から絶えない戦火、そ (8) 東南アジアの日本軍 — アジア太平洋戦争 —… …………… 238 経た現在も痛み続ける。 (6)ゴジラ の 経済成長の光と影、問い直され (6) 戦火は上海、南京、重慶へ — 日中戦争 — … …………… 234 体と心に刻まれた原爆の傷は、70 年 1954年3月16 (13) 荒れ狂う鉄の暴風 — 沖縄戦 — … ……………………… 248 間としての尊厳を学ぶことである。 (14) にんげんをかえせ — 原爆投下 — ビキニ環礁で の水爆実験 実験 場か ら2 40 km にあ るロ ンゲ ラップ島の住 民が被ばくし, ほかの島 への移住をア メリカに強制 された。 … …………………… 250 (15) 本土決戦か、降伏か — 日本の敗戦 — … ………………… 252 原爆を許すま じ 浅田石二作詞 木下航二作曲 ふるさとの街やか れ みよりの骨うめし 焼土に 今は白い花咲 く ああ許すまじ原爆 を 三度許すまじ原爆 を われらの街に 2 沖縄戦の戦場 □ 米軍の進行路 *佐々木禎子 もこの歌をよく口 ずさん だという。 /13 4 伊江島 /19 4 /17 4 268 読谷海岸 ̶原爆投下̶ んなさい ▶助けられなくてごめ 2 加藤義 典が描いた絵 □ 〈広島平 和記念資 料館提供 〉 /4 6 /26 3 250 11 確かな平和学習 CO.,LTD.〉 怒り、 サダコ の願い ̶ 原水 禁運動 ̶ ▶死の灰をあ びた第五福竜 丸 太平洋のビ キニ環礁から 北東 150km の海 で,第五福竜 をしていまし 丸はマグロ漁 た。1954 年3 月1日早朝, 水平線上にせ う音がとどろ ん光が走り, きました。や ご がて灰色の雲 が空をおおい 白い灰が降り ,船の甲板には 積もって,靴 , のあとがつき まし た。 乗組員は目 や頭の痛み, 吐き気を訴えま した。皮膚に水 髪の毛が抜ける ぶくれができ 人もでました , 5 。14日に焼津 港( 静岡県 )に帰 乗組員 23 人は り着いて, すぐ入院し, 急性放射線症 と診 断されました。 白い灰は, アメリカがビ キニ環礁で行 った水爆実験 た。この水爆 によるもので の破壊力は, し 広島型原爆の 1000 倍もあり れた日本でも ,4500km 離 , 放射能を帯び た雨が降りま した。乗組員の 「原水爆の被 久保山愛吉が, 害者は私を最 10 後にしてほし い」という言葉を 月に死亡しま のこして,9 した。 11月には,映 画『ゴジラ』が公 開されました 。水爆実験で 壊された怪獣 すみかを破 ゴジラが,東 京を襲うという 話です。 ▶原爆を許す 5月に東京 まじ 都杉並区の主 婦た ちが,原水爆 禁止署名運動 た。運動は「原 を始めまし 爆を許すまじ 」の歌声ととも に全国に広が 3200 万人を超 り,署名数は えました。195 5年8月,広島市 が開かれ,被 で原水爆禁止 爆者や久保山 世界大会 愛吉の遺族が, 核兵器の廃絶 を訴えました 。 15 沖縄島 (沖縄本島) 対馬丸の生存者平 良啓子 (国民学校4年生 )の体験から 5 10 「お かあちゃーん 、助けて」「先 生 どこにいるの」いろん な声がとびかっ ていた。従 姉は私 に、海に飛び込め と叫 んだ。 暗い海 では小さなイカダ を奪いあっていた 。私は、これに何と かもぐり込んだが、 従姉の行 方 はわ からなくなった。 崎市 にも 原子 爆弾 日午 前 11時 2分 に,長 米 軍は さら に,8 月9 ぶ き み ぼりまし 気味なきのこ雲が立ちの はり不 し,や ひ がい を投下 ちが 「ファットマン」 をあたえ, げんばく 弾とは違う深刻な被害 での爆 これま に, た。原爆は広島と長崎 人びとを苦しめました。 長い期間にわたって , ばく しん ち きょう れつ 速 300m( 毎秒 ) 心 地 から 0.5km 付近 で風 そ の爆 風は 強 烈 で,爆 放射された熱線も強 はな した。 以上で ) 毎秒 60m( 2km 離れていても風速 に達していました。 度は 3000℃以上 ひ ふ お やけど 烈で,爆心地の地表面の温 膚は焼けてたれ とはひどい火傷を負い,皮 とう かい この熱線によって,人び ,迫ってく させて 壊 倒 建物を した。爆風は 亡しま 間で死 ,短時 下がり 首里 渡嘉敷島 /20 6 喜屋武岬 (13)荒れ狂う鉄 の暴風 げん し ばくだん ばくげき き べいぐん 機が,原子爆弾「リトル 8時 15分,米軍の爆撃 だいばくはつ 1945年8月6日午前 大爆発を起こし,き 約 600m 上空で した。 は かい 下しま 市に投 ばくふう ボーイ」を広島 壊され, ま さまじい爆風で校舎が破 は,す 。学校 ました のこ雲を巻き上げした じ めました。 けを求 って助 きにな 子どもたちはその下か敷とうよしのり ま さい どもを,なんとか助け出し 加藤義典は,一人の子 当時 17歳だった せま もう れつ 人,助けたい子 もう一 ます。 ってき な火の手が迫 した。しかし,猛烈 うで てあげられませ おしつぶされて,引き出し がいたのですが,腕が柱に にぎ 何もできません 以外に と言う めんね り,ご んでした。子どもの手を握 ましたが,74歳 ,ずっと加藤義典を苦しめ でした。このことは戦後も えが 。 絵に描くことができました になってようやく,それを ▶8月9日、長崎にも 3 原爆のきのこ雲 □ さつえい 影) (長崎 米軍爆撃機から撮 54年)TOHO 那覇 かいめつ せ (14)にんげんをかえ /3 4 /1 4 座間味島 さんぎょうしょうれいかん 業奨励館)。 ばくしん ち ふ きん )/右は原爆ドーム(産 爆心地付近(1945 年10月 1 原爆で壊滅した広島市の □ げんばく 日〉 2 映画 □ 『ゴジラ』のポ スター〈©作品年 度(19 つめる。 (5) 問答無用、撃て — 軍部の台頭 — … ……………………… 232 ではなかった。 1 第五福 □ 竜丸の被ばくを伝 える新聞〈「読売新 聞」 願いに寄り添って、戦後の世界を見 1 ガマ □ (洞窟)を攻 摩文仁 0 10 20km 撃する米軍 ̶沖縄戦 ̶ ▶暗闇の海に沈む子 どもたち 1944 年8月, 沖縄の国民学校の 子どもたち 780 人が ,軍用船の対馬 丸に乗って長崎に向 かいました。アメ リカ軍( 米軍 )の沖 縄への攻撃が 迫ってきたため,学 童疎開が始まったの です。 しかし,米軍潜 水艦の魚雷攻撃で対 馬丸は沈められ, 子どもたちは 暗い夜の海に投げ 出されました。救 助されたのは,わ ずかな子どもた ちだけでした。日 本の護衛艦もいたの ですが,そのまま 北進していき ました。 各部のまとめの課題 (P.54 / P.86 / P.142 / P.190 / P.254 / P.292) 学 習 のまとめ 第1部 原始・古代(1章・2章) 5 ▶戦火に追われる 住民たち 米軍は,1945 年3月,多くの子 どもや住民が残る 沖縄に総攻撃を開 始しました。沖縄 本島付近には,千 数百隻の艦船が押 しよせ,航空母 艦から飛び立つ飛行 機は 1300機,総 15 兵力は 50万人を 超えました。こ れに対する日本軍 10 は,約 12万人で した。 日本軍は,住民 を防衛隊に組織し ,中学生などを鉄 血勤皇隊員にし 3 米軍の艦 □ て日本軍の戦闘に参 砲射撃による砲弾の 跡 加させました。女 学生は学校ごとに 看護要員にし て,日本軍ととも に行動させました ( 「ひめゆり学徒隊 鉄血勤皇隊員山城 」など) 住民に住宅や食料 博則 。また, を提供させ,飛行 (中学3年生)の体 場の建設にも動員 験から しました。 かくれていた壕に 米軍は,艦船が 93)/、米軍がガスを 15 海上から砲弾を撃 撃 ー = ヘプバーン(1929∼19 ち込み,空から戦 9∼1945),右下はオードリ ち込み息ができなく (192 フランク = アンネ 1 左上は 闘機や爆撃機で なった。ようやく □ 襲いかかりました。 ・ハウス蔵〉 人も畑も森も吹き飛 記 。〈オランダ アンネ = フランク 生き残ったぼくら4人 中央は,アンネが 残した日 は、米兵の前へ ばし, 地形 が変 わるほどでした。 さらに陸上では, 出て 「アイアム・スクール 火炎放射器で炎を吹 」とか、 ッパの戦争̶ ーロ き出す戦車などが ̶ヨボーイ 食料のことを 「フード」とか、ありっ 攻撃してきま す。これらはのち た に,鉄の暴風とよ けの英 語を使ってみ ばれ まし た。 た。米兵は、英 日本軍は多大な 語をしゃべるぼく 損害を出しながら らを、めずらしそう ,南 書く 部へ後退しました 記を に見ていた。 ▶隠れ家で日 火の中で逃げ場を失ど 。住民も戦 20 こと,これが い,次々と死傷者 を出しながら,追 たいに外に出られないって いつめられて いきました。 「1942年9月 28日:ぜっ 反面,見 でも, せん。 せま は表 いものか,とても言葉に 248 れだけ息苦し 。この日記を書いた 」 のも,やはり恐ろしい つかって銃殺されるという でいたユダヤ人です。 に住ん ランダ ク,オ = 5 少女は アンネ フラン 害と差別が強め 権の下で,ユダヤ人への迫 ドイツではヒトラーの政 仕事することをはじめ, 1 下の地図と年表のア∼ウに共通する言葉を入れましょう。 教科書のうしろにある年表(P296 ∼ 298)で確認しましょう。 8世紀ごろの東アジア 東アジアとの交流 239 倭国の女王・卑弥呼が中国( 魏 )に使いを 送る 女 (9)戦争と二人の少 478 倭王の武が中国( 南朝の宋 )に使いを送る 607 遣隋使として小野妹子を派遣する イ ア 630 第一回遣 使を派遣する ア ウ 645 中大兄皇子らが蘇我入鹿を倒す 主権者としての学び 12