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105号 - 青山学院大学山岳部

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105号 - 青山学院大学山岳部
緑ヶ丘通信 No.105 2014 年(平成 26 年)4 月 24 日発行
を立て、 動き始めなければならないテーマが創部
90 周年の記念行事といえるでしょう。 この件に
つきましては、 ヒマラヤ遠征と長期休暇に伴う激
務のなかで、 会長としての充分なリーダーシップ
青山学院大学山岳部 OB 会・緑ヶ丘山岳会会報
がとれなかったことを反省しております。 ヒマラヤ登
山に注力する間、 意欲ある会員の皆さまのご期
待に応える活動ができなかったことに対してお詫
びを申し上げなければなりません。 また、 自分を
取り巻く多忙な日々は今後も長く続くことが予想
され、 皆さまにご納得いただけるような会長として
の職務を全うできるものかどうか、 正直なところ非
2014 年 4 月 24 日発行 通巻 No.105
発行人:会長 萩原 浩司 編集:広報担当 鈴木 成治
デザイン:菊地 理
緑ヶ丘山岳会HP:http://www.auac.rakusaba.jp/blog/
常に不安を感じている次第です。
つきましては山岳会の今後のためにも、 年次
総会をもって会長の職を辞させていただき、 以後
は神澤副会長に会長代行として指揮をとってい
ただけるようにご提案申し上げたく思います。 たい
総会開催のご案内
る好条件のもとであっても、 ヒマラヤという自然環 へん身勝手な考えと思われることでしょうが、 私
境においては、 予測不可能な不確定要素が数 にとって会の運営に力を傾ける余裕のない日々
多く存在します。
山岳部 OB、 OG の皆様、 2014 年緑ヶ丘
がこれからも続く以上、 他の役員たちの士気に
それは天候の急変や雪崩や落石などの外的 影響を及ぼすことが予想され、 私の退任によって
山岳会総会を下記日程で開催します。 総会後 要因、 そして高山病など体調管理面での内的 残された役員たちのいっそうの奮起に期待したい
は、 現役部員も交えた懇親会も例年の通り開 要因であり、 どれかひとつが引き金となることによっ ところです。 任期をあと1年残すなか、 役員そ
催します。 万障お繰り合わせのうえ、 ご出席い て登頂そのものが不成功に終わったり、 最悪の れぞれへの負担が大きくなることも重々承知して
ただきますよう、 よろしくお願い申し上げます。
場合には命を落とす危険性をも強く身近に感じ おりますが、 本総会にて皆さまのご了解をいただ
■日時:2014 年 5 月 29 日 ( 木 )
る世界なのです。 もし、 南西壁で落氷や落石を けますよう、 どうぞよろしくお願い申し上げます。
18:30~20:30
受けてだれかが墜落していたら……、 闇夜の下
■場所:青学会館アイビーホール
降中にヒドゥンクレバスを踏みぬいてしまっていた
■会費:5,000 円
ら……、 天候があと1日早く崩れて雪崩の巣と
■出欠連絡は同封のハガキでお願い致します。
化した南西壁に閉じ込められていたら……。 今、 【1】 一般活動の報告
※ 5 月 20 日までにご投函下さい。
振り返ってみても、 「万が一」 が起きなかった保 (1) 定例行事
総会開催にあたって
2013 年度活動報告
証はどこにもありません。 そして事故を起こしてし
1. 総会 5月 30 日 ( 木 ) 青学会館
まったら、 最優秀クラブどころか部の存続すら危う
2. 慰霊祭 11 月3日 ( 日 ) 明神慰霊碑
い状況になっていた可能性もあったわけです。
3. 新年会 2月6日 ( 木 ) フィリー
遠征中、 私が常に意識せざるを得なかったの (2) 役員会 5回開催 (2 回は緑ヶ丘通信発
会長 萩原 浩司 は 「3度目はない」 ということでした。 だから今 送作業を兼ねる)
回の遠征で確実にだれかを頂上に立たせなけれ (3) 会報 「緑ヶ丘通信」 3回発行 (5 月、 8
すでに報告会等でお知らせしましたように、 ア ばならない。 そんなプレッシャーを感じていたのは 月、 12 月)
ウトライアー東峰登山隊は無事に初登頂を果た 事実です。 しかし何よりも優先させるべきは 「全 (4) 対外活動への参加
し、 6名の隊員は全員元気に帰国することがで 員が生きて帰る」 こと。 天気のめぐりあわせによっ
きました。
ては躊躇なく下山する心構えも持ち合わせていた
OB 3名、 現役3名のコンパクトな登山隊で つもりです。
の、 安全性とチームワークを重視した大学山岳
1. 体育会 OB 連合会への参加(総会、 定
例会)
2. 他部の応援 ・ 祝賀イベント参加
今回はたまたま天候に恵まれて初登頂と全員 馬術部創部 90 周年記念祝賀会、 部らしい未踏峰への取り組みは、 他の大学にとっ 無事下山を果たすことができましたが、 これからも スキー部創部 50 周年記念パーティ、 等
てもたいへん参考になったようで、 報告会に出席 引き継がれてゆくであろう海外登山計画に対して (5) ヒマラヤ委員会
いただいたいくつかの大学から講演の依頼を受け は、 過去の成功体験に浮かれることなく、 いっそ
1. トレーニング山行
たりしています。 また、 大学から山岳部に対して うの注意と覚悟を持って臨んでいただきたく思って
南アルプス、 小川山、 富士山、 他
最優秀クラブ、 そして現役でサミッターとなった本 います。
2. アウトライアー東峰遠征
田君は最優秀選手として表彰されるなど、 結果
さて、 わが緑ヶ丘山岳会も年次総会の季節
初登頂:2013 年 10 月 11 日
的に見れば 「大成功」 の3文字で総括できる を迎えることになりました。
登山だったといえるでしょう。
念願のヒマラヤ初登頂のおかげで山岳会はひ 【2】 ヒュッテ関連活動
しかし今回、 つくづく感じたのは、 成功と失敗 とつにまとまり、 次の活動に強い期待を寄せられ (1) 通常の保守管理
は紙一重のところにあるということでした。 いかな ている方も多いかと思います。 そして早急に計画 (2) 地元対策(村祭り奉仕活動)
1■
緑ヶ丘通信 No.105 2014 年(平成 26 年)4 月 24 日発行
2013年度(平成25年度) 緑ヶ丘山岳会 会計報告
(2013年(平成25年)4月1日〜2014年(平成26年)3月31日)
(1)一般会計
収 入
会費
会合等会費
雑収入(受取利息)
前期繰越金
合計
小計
(単位:円) (3)あずさヒュッテ運営会計
支 出
収 入
会合費
利用料
OB連合会関連費
寄付金
通信費(郵送費等)
雑収入(受取利息)
交際費
青学より整備費用
慶弔費
一般会計繰入
雑支出(振込手数料)
事務用品・消耗品費
ヒュッテ基金繰入金
監督会交付金
小計 小計 次期繰越金
前期繰越金
合計
合計
支 出
一般管理費
地元友好対策費
借地料
交通費
隣接地整備費借入金
ヒュッテ基金繰入
次期繰越金
合計
小計
(単位:円)
(2)福島基金会計
(単位:円) (4)あずさヒュッテ基金会計
(単位:円)
収 入
支 出
収 入
支 出
一般会計繰入金
遭難事故対策費
一般会計繰入金
営繕費
寄付金
雑支出
ヒュッテ運営会計繰入金
雑支出
雑収入(受取利息)
寄付金
過年度分利息修正
雑収入(受取利息)
小計
小計
小計 小計
前期繰越金
次期繰越金
前期繰越金
次期繰越金
合計
合計
合計
合計
2014年度(平成26年度) 緑ヶ丘山岳会 会計予算(案)
(2014年(平成26年)4月1日〜2015年(平成27年)3月31日)
(1)一般会計
収 入
会合等会費
雑収入(受取利息)
前期繰越金
合計
小計
(2)福島基金会計
収 入
一般会計繰入金
寄付金
雑収入(受取利息)
前期繰越金
合計
■2
小計
(単位:円) (3)あずさヒュッテ運営会計
支 出
収 入
会合費
寄付金
OB連合会関連費
雑収入(受取利息)
通信費
OB会繰入れ
事務用品・消耗品費
雑支出(振込手数料)
福島基金繰入金
ヒュッテ基金繰入金
次期繰越金
合計
小計
前期繰越金
合計
小計
(単位:円) (4)あずさヒュッテ基金会計
(単位:円)
収 入
支 出
一般会計繰入金
営繕費
ヒュッテ運営会計繰入金
雑支出
寄付金
雑収入(受取利息)
小計
小計
小計
前期繰越金
次期繰越金
合計
合計
支 出
遭難事故対策費
雑支出
次期繰越金
合計
支 出
畑借地料
交通費
地元友好対策費
光熱費・燃料費
薪代
電気代
し尿処理費
消耗品費
修繕費
未払い金
繰入れ金
小計
次期繰越金
合計
(単位:円)
緑ヶ丘通信 No.105 2014 年(平成 26 年)4 月 24 日発行
(3) イベントによる利用誘客
慰霊祭 11 月、 スキー合宿2月
【3】 ヒマラヤ委員会活動
(1) 報告会(大学、 日本山岳会、 海外登山
研 究会、 山と溪谷社、 他)
(2)報告書刊行
(3) 各メディアでの広報活動
1.『山と溪谷2月号』、 『ワンダーフォーゲル
2月号』、 『ROCK&SNOW062』
2.「山」 3 月号、 「山岳」 2013 年、 「登
山研修」 Vol29、 大学広報 No14
3.『人と山』 2 月号(韓国)
、 「American
Alpine Journal 2013」(米国)
4.NHK-BS1 「実践! にっぽん百名山」
(3月6日放送)
(4) ネパール交流トレッキング(真下、 中西)
2014 年度活動計画
第2次アウトライアー
遠征 登頂祝賀会 土田 紘介 ( 昭和 43 年卒)
森 武昭 日本山岳会会長
我が部にとってこのような祝賀会は初めての経験
であり、 役員にとっては、 準備は細部にわたり大変
なものがあった。 当日も早くから会場に詰め、 手抜
【1】 一般活動
(1) 定例活動の励行
仙波 憲一 青山学院大学学長
去る 1 月 17 日、 昨年のヒマラヤ遠征の登 かりがないようにとかなり緊張するものであった。
1. 催事(総会、慰霊祭、新年会、定例役員会等) 頂報告祝賀会が青学会館アイビーホールにて開
準備は 10 月 11 日に始まった。
2. 会費納入状況の改善
催された。 祝賀会は招待者、 緑ヶ丘山岳会会
岩井名誉隊長は、 登頂成功の報を受け、
3. 会報 「緑ヶ丘通信」 の充実
員など 100 余名の出席を得て盛大な会となっ 直ちに大学に赴き学長に報告。 「それは盛大に
4. 会員名簿の更新(消息不明者対策を含む) た。 司会は神澤 OB 会副会長。
5. ウェブサイトを利用した情報発信の充実
お祝いしなくてはならないですね」 と喜ぶ学長の
主賓である青山学院関係者は学院理事長、 祝賀会出席の内諾を得る。
(2) 会員相互、 現役部員との山行奨励、 合 大学学長、 副学長、 学部長、 学院宗教部長、
11 月中旬に準備に入り、 12 月には準備も
同山行の実施 : 慰霊祭山行、 新人合宿、 ク 田所元山岳部部長、 高橋現山岳部部長の出 本格的になり、 事前準備会も何度か開かれた。
ライミング合宿、 等
席をいただいた。
準備委員会的に開催のための役割を担ってく
日本山岳会からは森武昭会長ほか副会長な れたのは、 会長、 副会長はもちろんのこと、 特
【2】 ヒュッテ関連活動
ど 6 名、他大学山岳部は学習院、立大、東大、 に学院、 大学、 OB ・ OG 連合会などの折衝、
(1) 通常の保守管理の遂行、 地元対策の推進
農大、 日大、 早大、 関学、 神奈川大、 法大 出席依頼に奔走してくれた体育会 OB ・ OG 連
(2) 稼働率向上のための施策実施
が出席。 また協力企業や隊員家族などの出席 合会の副会長でもある岩井名誉隊長、 ぬかり
1. 会報、 ウェブサイトでの PR 強化
2. イベントの開催(スキー合宿、 アイスクライ
ミング合宿、 等)
3. ハイキング部との山小屋相互利用促進
がみられた。
なく諸準備に務め高い能力を発揮した村上登
我が OB 会会員は、 さすがにいつにも増して 攀隊長と、 遠征事務局も務め、 地道に連絡な
多くの、隊員 3 名を含めて 44 名の出席があった。 ど広く出席を促して多くの OB の出席を得た高橋
関東以外では、 遠く福岡から古賀、 北海道か 事務局長たちであった。 彼らの労は称賛すべき
らは永田、 大阪からの大野、 山梨からは堀内、 であり、 一会員として感謝の意を表する。
また、 報告書の制作編集は土田が担当し、
【3】 創部 90 周年記念事業
中島(依田)の各 OB も駆けつけてくれた。 私
(1) 記念事業委員会の設置
自身、 青柳君、 菅君、 中島君など、 10 年以 6000 枚にのぼる膨大な写真に翻弄されながら
(2) 記念祝賀会、 記念出版の検討 ・ 実施
上も会っていなかった OB に会うことができ、 元 も、 なんとか祝賀会に間に合わせることができた。
気そうな様子に嬉しさを覚えた。 【4】 現役部員対策
(1) 現役部員の活動補助
今回の卒業順の出席者一覧を見ると、 当年
多くの出席者を得て、 2時間余りの会は滞り 67 歳の岩井 OB がちょうど真ん中に位置してい
なく進行し、 応援団のエールをもって閉会となっ る。 出席 OB の最高齢は確か 82 歳の秋山先
1.部員勧誘資料作成
た。 出席者には少なからず感動を共有して頂け 輩で岩井 OB の 15 歳上、 最低齢は 28 歳だ
2.トレーニング山行への同行、 他
たようであり、 盛況裡に閉会となった。
(2) 推薦入学による部員確保の検討
1. 学校対策、 OB 連合会対策の推進
から約 40 歳下となる。 要は出席者の半数が
開会にあたり、 嶋田 順好 青山学院宗教 67 歳以上ということだ。 いかに若い OB が少な
部長に心温まるご祈祷をいただき、 また祝辞は、 いかがわかる。今回は 44 名の出席者があったが、
以下の来賓の方々から過分なまでにいただいた。 近年の総会、 新年会は判で押したように 20 余
名の出席者だ。 もっと多くの会員に出席してもら
【5】 対外活動への積極的参加
OB 連合会、 他大学山岳部 OB 会、 等
安藤 孝四郎 青山学院理事長
いたいものだが、 どこかに問題があり、 それが妨
3■
緑ヶ丘通信 No.105 2014 年(平成 26 年)4 月 24 日発行
げになっているのだろうか。
時代もあるだろうが、 ここのところしばらく長期
低迷傾向が続いていた感のある青山学院大学
山岳部も、 今回の遠征 ・ 初登頂を機に、 遠征
に限らず活発な動きが生まれることを期待したい。
2013 年冬合宿
~蝶ヶ岳 飯は中西が初めて作ったペミカンでのカ
レーだったが、 美味しく、 量は通常の 3
倍程度あり、 お腹にたまった。
● 12 月 29 日
4:30 起 床 → 7:15 明 神 館 出 発
→ 8:15 徳 沢 小 屋 ( 休 憩 35 分 )
→ 15:40 長塀山頂上手前到着
朝、 天気はとても良く、 見上げると雲
が無い。 明神岳が太陽の光で赤く染まり
真下 孝典(教育人間科学3年) 綺麗であった。
出発してすぐに徳本峠への分岐点があ
▲長塀尾根にて真下、 角田(右)
■期間:2013 年 12 月 28 日~ 30 日
り、 徳沢の方へ進む。 林道が続き昨日
■参加メンバー:真下、 中西、 角田 OB
のトレース跡をたどって行く。 途中、 徳沢手前で
頂上 休憩 30 分→ 9:50 テント撤収 70 分
樹林帯をいったん抜け、 夏道を外れる。 そして
→ 13:20 徳沢小屋 休憩 20 分→ 14:55
梓川の河原に出る。 ここからトレースが無くなる
明神館 休憩 20 分→ 16:10 上高地バスター
12:00 釜 ト ン ネ ル 出 発 → 14:00 (休憩
ので、 梓川に沿って膝くらいの雪をかき分けなが
ミナル 休憩 10 分→ 18:00 釜トンネル 休
10 分)→ 14:45 上高地バスターミナル 休
ら、 埋まっている踏み跡を探し当てつつ進む。 夏
憩 10 分→ 18:30 中の湯
憩 15 分→ 17:00 明神館到着
道に戻り、 短い橋を渡ると徳沢に到着する。
● 12 月 28 日
朝、 テントから空を眺めてみると星が広がって
当初の予定では中崎尾根に行く予定であった
ここにも数張テントが張ってある。 ここで驚いた
良い天気である。 テントは置いて、 必要な装備
が、 数日前から天気が悪かったため、 チビ谷 ・
ことに、 徳沢園冬季小屋の小屋番さんが、 大
だけを持ち、 蝶ヶ岳までピストンする。 すでに登り
ブドウ谷での雪崩発生の危険や稜線に出てから
学生の時に来た角田さん達を覚えていたことだ。
始めているパーティーがおり、 ラッセルしてある。
ホワイトアウトになり、 雪庇を踏み外してしまう危
険を考えて、 行き先を蝶ヶ岳に変更した。 蝶ヶ
中西のペースが遅いため、 徳沢園で長く休憩
を取り、 ここから長塀尾根に入る。
岳は頂上付近まで樹林帯が続き、 雪崩や吹雪
徳沢泊まりの先行パーティーがラッセルをしてお
で閉じ込められる危険性は格段に少ないとの判
り、 赤旗も所々に差してある。 木にも赤いペンキ
断だった。 ルート研究をしていなかったが、 角田
で塗られた印があり道には迷わなかった。
OB が3度冬季に入っていることを踏まえ、 監督
と協議して決定した。
沢渡の駐車場に車を停めて、 タクシーに乗換
えて釜トンネルに到着する。
釜トンネル入り口で長野県警山岳救助隊に
計画書を提出して出発する。
登り始めはそれほど雪が多くなかったが、 急な
登りである。 この先はずっと樹林帯の中をジグザ
グに登って行く。 トレースが二手に分かれたところ
いたが、 アイゼンに付け替えないでワカンの爪で
を背負っていないためか、 道の踏みしめが弱く、
雪道をひたすら歩き上高地バスターミナルに到
トレースが崩れることが度々あった。
急な登りではキックステップで登っていく。
中西のペースが遅いということでまた角田さんに
スノーバーを渡し荷物を軽くする。
何度も休憩を入れながらやっと稜線近くまで辿
り着き、 先行パーティーに出会う。
着する。 数張テントが建物沿いに張ってある。 こ
我々以外に 2 パーティーおり 7 名ほどいた。ラッ
こでペースの遅い中西から角田さんにスノーバーを
セルを交代して我々が先頭に立ち、 真下→角
渡して荷物を軽くする。
田と交代して進んで行く。
雪道のトレースが続き、 小梨平からワカンを付
雪はひざ下くらいまであった。 空は暗くなってき
けていく。 平らな林道がずっと続き、 風は木々に
ていたため、 他のパーティは進むのを止め、 テン
よってほとんど当たらない。
トを張る準備に取りかかっていた。 そして、 我々
徳沢まで行く予定であったが暗くなりつつあるた
も長塀山手前の樹林帯の中でテントを張った。
踏みしめるのに時間がかかった。
■4
行っても問題なかった。
2677m 蝶ヶ岳頂上からは常念岳のシルエッ
トだけ見え、 穂高方面は雲に覆われていた。
ここだけ晴れておりラッキーだった。 風が強く寒
いため、 すぐに冬季小屋へ行く。
入口は小屋を左へ回ったところにあり、 四つん
這いにしゃがんで入る。 中は板の間で、 快適で
ある。 去年までは非常食が用意されてあったが、
雑に小屋を使われてしまったため、 廃止されたら
しい。 今年は訪れた人の余り物やデポだけが置
いてあった。
常念岳に縦走する予定もあったが、 この先も
天気が悪くなるため、 下山することになった。
テント場まで戻り撤収する。 中西は下りに入る
と膝が痛くなり、 ペースが遅くなる。
登ってきた道をひたすら下り、いろんなパーティー
とすれ違った。 徳沢まで残り 1km になると急な
め、 明神館でテントを張ることにした。 他にも 2
組テントを張っていた。 テント設営では雪が軽く、
りに進んで行く。
するようにした。
トを装着する方がよい。
ら先は歩きのトレースのみである。
ラッセルを交代して木に塗ってある赤い印を頼
とても強く、 雪が飛ばされて道は固くザクザクして
体温は維持したい。 先行パーティーが重い荷物
い。 大正池手前まで車が進入しており、 そこか
過ぎ、 先行パーティーと合流する。
ため休憩するときは光が射している場所で休憩
登りが続き、 中は所々照明があるが、 ヘッドライ
トンネルを出ると少し吹雪いており、 風が冷た
長塀山から蝶ヶ岳までは樹林帯で緩やかな
アップダウンがある。 雪が積もった妖精ノ池を通り
樹林帯を抜けると山頂は目の前にある。 風が
晴れていても休むと体が冷えるので、 少しでも
真下、 中西は 35kg 超えの荷物を背負い、
ら日が昇って赤くなるのが拝めて綺麗だった。
があったが、 目印で迷わず進めた。 天気が良い
釜トンネルは長さ 1300 mで全行程において
中西は出発してすぐにペースが遅くなる。
すぐ長塀山頂上に着き、 そこには 「蝶ヶ岳
1.8km 徳沢まで 3km」 の標識がある。 そこか
● 12 月 30 日
4:00 起床→ 6:30 出発→ 8:00 蝶ヶ岳
下りとなり、 中西は何度も転んでしまう。
徳沢を下りてからも中西のペースが遅いため、
緑ヶ丘通信 No.105 2014 年(平成 26 年)4 月 24 日発行
明神館に着いてからパッキングをやり直した。
傾いていたザックもきれいになり肩への負担も
均等になってだいぶ楽になったようだ。
上高地バスターミナルを過ぎ、 暗くなり初めた
ころにタクシー会社へ連絡したがタクシーはすでに
帰ってしまっていた。 そのため角田さんが先に中の
と聞き、 我々も降りることにした。
その後テントに戻り、 撤収、 登ってきた道を降
テントを置いて空荷で一の沢ノ頭まで登ると素
りていく。晴れて気持ちが良く、雪に飛び込んだり、
晴らしい景色が広がっており、 写真を撮りまくる。
滑り降りたり、 最後は駐車場までダッシュ。 下山
岩峰には雪が覆い被っていた。
後は温泉に入って、 大盛りの店でトンカツなど腹
頂上へは行くことができなかったが、 晴れた鹿
いっぱい食べた。
島槍ヶ岳を見られて良かった。
湯まで下りて荷物を置き、 沢渡まで車を取りに
行ってくれた。 その間、 真下、 中西はヘッドライ
トを装着してゆっくりと中の湯まで下りた。
予定よりも早く終わったため、 あずさヒュッテで
昨年、 青木 OB、 平野 OB と相次いでお亡
くなりになりました。 謹んで哀悼の意を表するとと
もに、 ご寄稿いただいた追悼文を掲載します。
1 泊過ごし帰京した。
鹿島槍ヶ岳個人山行 中西 謙(理工学部 2 年)
は今でも団結がかたい。
OB になって幹事会、 監督会メンバーとして
平野君は山岳部に貢献した。 もちまえの正義感
と闘志は正に 「大将」 と呼ばれるに相応しかった。
追悼文 青木 利夫君
鉄鋼大手の販売分門会社の社長として立派
に責任を果たした。
先妻を亡くしたが、 今の奥様と息子さんを守り
永井 敬一(昭和 33 年卒) 育てた彼の生きざまをたゝえる。
戦後 10 年たっていたが、 ナイロン、 ビニール
は無く、 1 ドル 360 円時代であった。 集団就
職の若者が歌った 「夜の上野のプラットフォーム
平野 興一君の思い出
田村 淳 (昭和 36 年卒)
可愛あの娘が瞼に浮かぶ」 を合宿の天幕の中
で筑波弁で歌って喝采をあびた。 山が好きという
▲鹿島槍をバックに(一の沢の頭にて)
よりも山岳部の仲間が好きで、 トレーニングに出
平野君との山歩きは私が中途入部した 3 年
ないで下級生をひっぱって雀荘直行の困り者で
の春、 谷川の新人合宿から始まった。 ゴールデ
あった。 体育会のスパルタ性は嫌いで自由な部
ンウイークには 2 人で涸沢に天幕を張り奥穂登
生活を楽しんだ。
頂であった。
OB 会に遅くなって駆けつけては二次会に若い
OB を誘って渋谷で奢ったものだ。
当時私は雪山の経験も浅く、 体力は彼に比
べかなり劣勢であったが 3,000 メートルの雪上
研究学園都市ができて筑波市となったが、 地
稜線歩行など基礎的な指導を頂いた。 以来夏、
■メンバー:真下(2 年)
、 中西(1 年)
、
方選挙の応援のため初日の出陣式にハチマキを
秋、 冬、 春と所定のトレーニングメニューの山行
角田 OB、 村上監督
しめて、 山脇、 西村達と行ったこともあった。
は全て行動を共にした。
■期間:2014 年 3 月 21 日~ 22 日
● 3 月 21 日
車中にて仮眠を 2 時間取り、 眠いなか出発
文学部教育学科卒業で教員にならず政治家
になって市議会議長をつとめた。
する。 雪が深々と降るなか取り付きまで林道をし
青木屋の風呂からの富士山は実にきれいで感
ばらく歩く。 我々が今日最初の入山者であったた
激した。 ご両親にもやさしくしていただいた。 青
めラッセルしながら樹林帯を登っていく。
木四六は今どの辺を歩いているのかな。
ほかの山に登る機会はあまり無かった。
積雪期のターゲットを設定し、 夏秋の下見な
ど年間のスケジュールを検討するのはリーダー会
チ(中村賢次 OB)は 21 時近く部室に到着し、
まってしまうこともあった。
ティーにラッセルを交代してもらう。 一の沢ノ頭付
100 日を越える山中生活でも穂高や剣以外の
で、監督(鈴木敏夫 OB)は時間通りだが、コー
風は強く雪もかなり降っており、 首まで雪に埋
途中で後ろから追いついてきた 2 人組パー
当時の山岳部の目標は岩場が主体で、 年間
追悼文 平野 興一君
検討の内容を報告すると 「一寸待て」 となり議
論は振り出しに戻る。
守衛が巡回に来て “戸締りはちゃんとお願いし
近まで来ると風と雪がもっと強くなり先が見えなく
永井 敬一(昭和 33 年卒) ますよ” と言われることが度々あった。
なってきた。 我々には眠気も襲ってきて目が半開
監督が OK を出してコーチが覆し、 再検討に
きだ。 一の沢手前でテントを張ることにした。
テントに入ってからも外は風が強く誰もトイレに
穂高、 剣、 立山、 後立山が多かった合宿を
なることに対する 「大将」 の不満は強いストレス
行きたがらなかった。 3 ~ 4 人テントに 4 人は
北海道日高山脈へ目を向けたのが室町監督で
であったに違いない。 終電車を気に掛けながら恋
狭かったが、 腹いっぱいカレーを食べてシュラフに
あった。
文横丁でパイカル&餃子で鬱憤を晴らし 「じゃー
入ればすぐに眠ることができた。
● 3 月 22 日
朝起きると昨日の天気が嘘であったかのよう
平野、 西村、 角田はその中心メンバーだが今
な」 と別れたのが懐かしい。
は三人とも天国にいる。 私は就活のため参加し
ニックネームの 「大将」 は富士山の雪山トレー
ていないが、 エサオマントッタベツの小屋の中で P
ニング (11 月初旬 ) で登頂後下山する格好が
鍋が爆発したとき人工衛星の様だったと言った。
『大将のように威風堂々としていた』 からと今村
な快晴であったが、 雪はかなり深く積もっていた。
世界で初めてソビエトの人工衛星が打ち上
栄治 OB が名付けたことを最近になって知った。
上から昨日一緒にラッセルをしてくれたパー
がった翌年であった。 伊藤、三須、阿部、皆藤、
手が大きく、 やつでの葉っぱが飛んでくるなどと恐
ティーが降りてきて 「他のパーティーも全員降りる」
小島、 猪俣、 堀内両君たちの日高会メンバー
れた下級生もいたようだが、 実際はやさしくて、
5■
緑ヶ丘通信 No.105 2014 年(平成 26 年)4 月 24 日発行
よく面倒を見て慕う下級生が多かった。 嬉しさを
んだ白馬鑓での一週間であった。 その時、 平野
顔に出すタイプで笑顔の素晴らしい男であった。
先輩は 4 年生、 私は 2 年生であった。
剣沢の真砂沢出合に基地を設営した夏山の
12 月 23 日の尾根筋の登りは、 アイゼンがき
ことである。 後続組がフランスパンを担いで入山
っちり効いて 2m ほどの竹竿を下りの目印として
し、 昼飯に配られたパンを小脇に抱えて大きな
立てながら、 快適な登行であった。
ネパールへの恩返し 真下 孝典(教育人間科学3年)
岩の上で 『タララッタッタ』 と踊りだしたときの笑顔
しかし白馬鑓の頂上にテントを張った翌日から
2014 年 2 月 14 日から 24 日までの 10 日
は忘れられない。 この時の「大将」のしぐさは後々
12 月 31 日まで、 連日のブリザードでテントを
間の日程で、 ネパールのボガル村の小学校にボ
当時の仲間のあいだで語り種になっている。
張り変えることも出来ず、 テントが埋まらないよう
ランティア活動に行きました。
スポーツ観戦はプロ野球、 大学野球、 ラクビー
に雪かきをしていたが、 とうとうテントの周りは吹き
など幅広く夢中であった。 選手の出身校など実
溜まりになってしまった。 12 月 28 日には雪洞を
によく調べていて教えてもらうことが多かった。 いわ
掘って居住空間を作ったが、 外に出ると入口がど
ばスポーツ大好き人間であった。
こにあるかさえ判らない状況になっていた。
社会人になってからは麻雀、 ゴルフ、 酒と当
時の典型的な鉄屋営業マンの一員として高度
成長に貢献した。 月日は流れ定年が近づいた
頃から遠ざかっていた山歩きを一緒に再開した。
合宿もすでに予定期間を終了していたので、
食料は少なくなり、 1 日 2 食で食いつないだ。
トランジスタラジオを聞いていたが、 何故か水
原ひろしが唄う 「黒い花びら」 がいつも流れてき
昭和 30 年代終盤に刊行された深田久弥の
た。 「黒い花びら 静かに散った」 という歌詞は
日本百名山を追いかけるように山歩きに同行さ
自分達の境遇を暗示しているのか?なんて気分
せていただいた。 北海道から九州まで学生時代
になっていたが、 平野先輩の堂々として豪放磊
には見向きもしなかった山々のピークハントを堪
落な性格が不安心理を払拭してくれた。
ボガル村はカトマンズの東側、 ジープで二日ほ
どの場所に位置しています。
【行程】
● 2 月 14 日 成田発→ ( 広州経由 ) →カトマンズ着
● 2 月 15 日 カトマンズで準備
● 2 月 16 日 12 月 31 日なって雪は降り続いていたけれど
能した。
トムラウシでは天候が急変し強風と横から吹き
付ける雪で僅か数十秒で山頂から退却した。 鳥
海山では山頂を直前に猛烈な風雨で登頂を断
念。 荒川小屋では 「大将」 の豪快ないびきで、
隣の登山者が夜中に逃げ出す一幕もあった。
ニックネームしか呼んだことの無い平野君、 沢
山の思い出を残してくれてありがとう。
長野県側に、 わずかに青空が覗くようになったの
で下山を開始することにした。
連日の雪ですっかり山の様相が変わってしまい
、 ワッパをつけてのラッセルとなった。
迷いながら下山した尾根であるが、 平野先輩
の判断は正しく、 途中、 竹竿が 10cm 位頭を
出していて確証が得られた。
連絡が全く取れなかったこともあって、 ベースキ
平野 興一さん追悼
堀内 拓三(昭和 38 年卒)
これも異常気象の表れなのだろうか。
ャンプにいた人達も我々の救出のため登山を試
みたていたが、 吹雪と表層雪崩に阻まれ、 目的
を達することが出来ていなかった。
それでも全員無事に帰還することが出来た。
冬山の天候の怖さを二年生として重々知らされ
た合宿であった。
2 月 8 日に 60cm 位降った雪も解けないうち
それにしても、 ここ 3 年程のうちに西村さん
に、 2 月 14 日には 1.1 mも降り、 朝起きてみ
、 角田さん、 平野さんとたて続けに訃報に接し、
たら背丈位にまで積もっていて、 家から外へ出る
悲しく、 そして寂しい。
にも雪を上に投げて通路を確保しなければならず
一苦労だった。 長老に聞いても、 これまで歴史
にないほどの積雪だったそうだ。
富士北麓の全域は高速道路も一般道もすべ
て通行不能になり、 その日から 5 日間程、 陸
けれども人生必ず別れの時が来る。
たくさんの思い出を背負いながら、 自然を愛で
、 仲間や家族を大切に思い、 人生の下山道を
、 ゆっくり歩いてどこかに着地する。 そんな人生を
歩もうと心掛けている。
家も冷蔵庫にあるだけのもので、 生活することに
カトマンズ発→(ジープにて)→サレリ
村着
● 2 月 17 日 サレリ発→(ジープにて)→ネーレ着→
(徒歩にて)→ボガル着
● 2 月 18 日 ボガル小学校にて記念式典
● 2 月 19 日 村民にアンケート調査
● 2 月 20 日 ボガル発→(徒歩にて)→ネーレ着→(徒
歩にて)→サレリ着
● 2 月 21 日 サレリ発→(ジープにて)→カトマンズ
着
● 2 月 22 日
旅行代理店、 ガイド頭へのあいさつ
● 2 月 23 日
の孤島になってしまった。
スーパーやコンビニでは商品が姿を消して、 各
▲ボガル村を目指す
合掌
カトマンズ観光 カトマンズ発
● 2 月 24 日 成田着
なった。
テレビで連日放送されたため、 富士吉田も一
今回、 私たちがこの村を訪れることになったきっ
躍有名?になり山岳部の後輩達や、 友人達か
かけは、 二度のアウトライアー遠征で尽力してく
ら励ましの電話があり、 感激し元気になった。
れたガイド ・ キタブシン氏の要請でした。
ところで平野先輩との思いではやっぱり雪に因
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アウトライアーを制覇し、 帰国の準備をしてい
緑ヶ丘通信 No.105 2014 年(平成 26 年)4 月 24 日発行
る我々にキタブシンがこう言いました。
「私たちガイドの出身地ボガル村は貧しい村
で、 特に教育が行き届いていない。 子どもたちに
勉強に必要なノートや鉛筆を寄付してもらえない
か?」 と。
アウトライアー遠征でネパールの深部を歩き、
実状を知っている私たちにとって、 その状況は容
易に想像できました。
また物価の差を考慮すると、 個人の力でもか
なりの支援ができると思いました。 このため、 支
援への決意に時間はかかりませんでした。
そこで、 まずは現状視察を行うことが必要と考
えました。
ガイド達から聞いたことだけでは、 彼らの主観
でしかなく、 私たち自身が見た客観的な視点で
みる必要がありました。 支援額は少額だとしても、
▲奥沢駅近くの日本料理屋にて
その使い道が適正に使われるのか、 そもそも支
援は必要なのか見極める機会が大切です。 この
様に慎重になるには理由があります。 なぜならば
ネパール人は、 外国人からものをもらうことを当た
り前と思う傾向にあったからです。
栗林一石路と
栗林先輩 活動をしていたようだ。
現在青木村には一石路の資料館が開設され
ており、 訪れてみるとよい。
栗林先輩は大正 13 年の生まれ、 昭和 6
小山 恭吾(昭和 57 年卒) 年に目黒から現在の奥沢に越してきた。 当時の
奥沢は、 大根畑ののどかな風景が広がっていた
ネパールヒマラヤの観光化以降、 外国人の流
そうな。
入と共に様々なボランティア活動が行われました。
栗林一石路、 誤植じゃないかと思われる方も
しかし、登山隊が残した装備をもらい受けたり、
いるかと思うが、 一石路は栗林先輩の父君の俳
また栗林先輩は原稿を受け取りにいく父君に
盗んだりしてきた歴史の中で、 また充分な道徳
号である。 プロレタリア俳句の中心的な人物で、
連れられて著名な作家宅もしばしば訪問してい
教育がなされなかったことも影響して、 それが当
小林一茶研究でも有名であったらしい。 こんな
たとのことで、 小さい頃から記者で俳人の父の背
たり前となってしまったようなのです。
話しを聞きたく(もちろん私ではないが)、 栗林
中を見て育ち、 著名な作家の威厳をみてきたよ
先輩と奥沢駅近くの日本料理屋でお会いしたの
うだ。 だから栗林さんは自分の将来の仕事は執
が亡くなる 3 ヶ月ほど前の平成 25 年 1 月 17
筆以外ない、 と思ったそうだ。
初回の視察ということで、 比較的安価なノート
と鉛筆、 折り紙を小学校に寄付しました。
日であった。
ボガル村が比較的に道路から近く、 物資が多
栗林先輩に父君一石路の話しを伺いたいと
少届いていたためやガイドたちの徹底した管理の
言い出したのは、 アララギ派の事務局長をしてい
もとで、 今回の視察においては、 盗難のような
る人で、 私の知人を介して話しが伝わってきた。
行動は見られませんでしたが、 今後の活動にお
いてはもっと気を付けていきたいと思います。
私たちの目標は、 日本人の手で支援した子ど
も達がボガル村を支えていくようになることです。
最終的にはネパール人がネパール人のためと
思えるように、 ボランティア活動とその意義を教え
る必要があります。
観光化により、 ネパールヒマラヤが近くがなった
今こそ、 大学山岳部として出来ることとして、 遠
征に行くだけではなく、 今後のネパールのあり方
色々な文章に接し、 山岳史の研究もあるが、
最近ではあずさヒュッテのある野麦街道の研究も
されていた。
余談だが、 私の山岳部同期で、 某山雑誌の
その知人も久しぶりに栗林先輩に会いたいとの
編集長の文章は 「まだまだ」 とかで、 私はその
ことで、 1 ヶ月ほど前の 12 月に電話をした。 お
場で 「漢字読み取りテストをされた」 ほどで、 ま
元気そうな声だったが、 秋に柿ノ木の手入れして
るで子ども扱いであった。 こんなつたない文章を
たら落ちてしまい、 ようやく普通に歩けるようになっ
書いていて栗林先輩が笑っているかもしれない。
たとか。
1 月 17 日お昼、 ご自宅の最寄り駅、 奥沢
駅前で待ち合わせをした。
話しも弾み、 お酒もすすんだ。
プロレタリア俳句、 第二芸術論 ( 桑原武夫 )
の批判について等々、 父君の足跡など述べられ
とても 90 歳近い人とは思えないしっかりした足
ていたが、 私にはついていけない難しい話しでも
取りでやってこられ、 脚の調子も良くなったようだ。
あったため、 話しに耳を傾けつつもついつい一人
予約してある日本料理屋までの道すがら、 奥
沢神社などを案内していただく。
で杯を重ねてしまったいた。
最後に、 東日本大震災の時、 栗林先輩は
参加者は、 今回の栗林先輩との対談の提案
200 首の詩をつくられたようだ。 後になり、 震
まだまだ、 始まったばかりの活動ですが、 みな
者の一人で 10 年ほど前に栗林邸に私と訪問し
災直後の心情を見つめ直すことができる、 とおっ
さまのご理解とご協力をお願いできたら、 とてもう
た松澤氏、 アララギ派事務局長の氏夫妻、 栗
しゃっておられました。
れしく思います。
林先輩と私の 5 名である。
も考えたいと思います。
今さらのように、 偉大な先輩だったなあと思い
栗林先輩の父君、 一石路は本名農夫(た
起して、 遅ればせながら栗林先輩らしい 「粋」
みお)
、長野県青木村の出身で同盟通信社(共
で 「知性あふれる」 な思い出を書かせていただ
同通信社の前身)の記者をしている傍ら創作
きました。
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緑ヶ丘通信 No.105 2014 年(平成 26 年)4 月 24 日発行
あずさヒュッテ
夏期ご利用案内
【ヒュッテの設備】
①テレビ、 電話はありません。 携帯電話は、
あずさヒュッテ運営委員会
【夏期利用料金】 期間:5/15 ~ 11 /14
1 泊 ・1 名料金
本人
500
山岳部員
山岳部 OB 会員
同伴者
②ガスレンジ、水道 ( 湯沸器有り)、炊飯器、
冷蔵庫、 電子レンジ、 トースター、 カセットコ
ンロ(2台 / ガスは各自持参下さい。)など
家族
は完備。
1000
③寝具は、 羽毛布団(冬 ・ 夏共用)
、羊
1500 1500
2000
小学生以下
つながります。
500
【お申し込み方法】
毛布団です。
※シーツを必ず各自持参ください。
会組織である緑ヶ丘山岳会の支援がありました。
また、 皆様がお読みになっている、 緑ヶ丘
通信が年三回発行できているのは、 カラー印
であり、 編集作業や発送作業は、 役員の完
手間がかかります。 布団カバーは、 現状運
全ボランティアです。 一方で、 緑ヶ丘山岳会
営委員が持ち帰り、 洗濯している状況ですの
の財政状況は、 毎年会費を定期的に納めて
で、 なるべく汚さないようご配慮ください。
いただける方が少ないため、 変動が激しく、 不
①ヒュッテの鍵は、 玄関脇のボックスの中にあ
③利用人数…OB会員、 その家族や非会
ります。 ボックスのダイヤル錠は受付係より連
員の区分と、 利用人数を明記して、 「利用
絡する4桁の数字で開けられます。 退室時
受付係」 にお申し込み下さい。
は鍵をボックスに戻し鍵を掛けて下さい。
④申し込みは、 ご利用月の 3 ヶ月前の 1 日
②水道を開通させてください。
より受け付けます。
凍結防止のため、 入室時は水道が止まって
おります。 備え付けのマニュアルに従って作業
※管理上、 ヒュッテ利用は原則として、 1申
をして開通させて下さい。
込期間 ・ 1パーティです。
③水道開通作業前に、 山側にある石油タン
※入室は、 午後3時以降、 退室は、 午後
クの元栓を開け、 室内のファンヒータをつけて
3時までにお願いします。
おくとよいです。
※前日夜からの利用は一泊分、 午前0 時
【退室時の作業】
①部屋、 トイレ、 風呂場等の掃除、 布団
の整理をして下さい。
●申込み連絡先
と思います。 その成功の背景には、 皆様の OB
※山の中ですので、 洗濯一つとっても大変な
②代表者の名前、 住所、 電話番号
支払い下さい。
OB にも 「誇れるもの」 「語れるものが」 できた
刷費をある OB が負担していただいているから
①希望利用日(入室、退室予定時間明記) 【入室時の作業】
を過ぎてからの入室は、 半額の利 用料をお
今回のアウトライアー東峰初登頂は、 若手
※枕カバーにタオル等持参ください。
往復ハガキ、 ファックス、 E-mail で
(ご注意)
OB 会費納入のお願い
安定なものとなっています。 さらに、 OB 会の
平均年齢も上昇、 若手 OB 数が少なくなり、
かつこれまで財政を担ってきていただいた年齢
の高い OB の方々からのいただく会費は減少
していきます。 その意味でも、 若手 OB もきち
んと会費を納めていただくことが重要になってま
いります。 厳しいことを書かせていただくと、 OB
会費を払われていない方は、 成果へのタダ乗
りといっても言い過ぎではないように思います。
皆様の協力で、 より一層山岳部、 山岳部
OB 会が盛り上げていけるよう、 なにとぞ会費納
入にご協力ください。
[ 年会費金額 ]
● 70 歳未満 10,000 円
● 70 歳以上 5,000 円
*年齢は4月2日現在の満年齢で計算
②ゴミは必ずお持ち帰り下さい。
①往復はがき宛先:
③水道の水抜き作業を行ってください。
【振込先】
東京都小金井市緑町
凍結防止、 水道管等の破損防止のため、
みずほ銀行 八重洲口支店 1 ‐ 2 ‐ 34 ‐ 315 小山 恭吾 気付
ヒュッテ備え付けのマニュアルに忠実に、 必ず
あずさヒュッテ利用受付係
普通口座 0548478
水抜き作業を行ってください。
② FAX:
④夕方遅くになると、 風呂釜の中の水が凍っ
口座名 青山学院大学
042-301-7912(自宅電話兼)
てしまいますので、 風呂製造後すぐに釜の水
※小山 OB の自宅です。
抜き栓を開けてください。
22:00 以 降の FAX はお控え下さい。
③ Email:[email protected]
④配電盤で電源は落とさないで下さい。
⑤冷蔵庫、 冷凍庫に食べかけ、 開封済み
の食品を残さないでください。 未開封のもの、
【利用料金のお支払い】
保存がきく食品を置いていく時は、 日付やメ
「前払い」 となっております。 利用日の 1 週
モを必ず残して下さい。
間前までに下記指定口座にお振り込み下さ
⑥必ず、 消灯を確認し退去して下さい。
い。(手数料は利用者負担)
●振込先
「あずさヒュッテ」 ホームページ
郵便局口座 ヒュッテの写真、 アプローチ、 周辺観光案内
記号 10160 番号 73522931
などを掲載しております。 緑ヶ丘山岳会HP
青山学院大学山岳部梓ヒュッテ
トップページからリンク又は [google] 等で検
索下さい。
■8
緑ケ丘山岳会
※総会当日も、 年会費納入を受付けており
ます。 よろしくお願いします。
「実践!にっぽん百名山」
放送曜日変更のお知らせ
萩原会長が出演する
「実践!にっぽん百名山」 が、
装いをあらたに放送曜日が変わりました。
従来は木曜日の 17 時からでしたが、 金曜日の 17 時からに変更になりました。
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