Comments
Description
Transcript
こころやさしい人の死
いすみあ M 六号︿二O 一同・一二) 門小畑精和教授追悼 こころやさしい人の死 元教養デザイン研究科長 いる身には、あまりにも非現実的な出来事。﹁エッ 1己 利用して南半球のオーストラリアで夏を迎えようとして 絡があったのは、昨年十一月二一一一日午前一時三二分発信 と首ったきり、言葉を失ってしまった。 からは以前とは見違えるほど元気な姿になって、研究科 言葉を交わす時間はなかった。昨春、新学期が始まって 頭がうまく回転していないが、小畑さんの最期の姿を その直前ということになる。﹁悲しいメ l ルが入ってし 委員会のあ左、明大前の中華料理屈﹁栄新楼﹂で食事を の午前九時二一分に返信を出しているので、オーストラ まいましたので、それを転送させていただきます。とて の時はすぐに二階の研究室に上がってしまわれたために も悲しいです。﹂というような文面。オリジナルのメー したこともあった。おもわず、﹁よかったね﹂などと声 和泉の研究棟でお見かけしたのは、昨年七月のごと、ご ルは政治経済学部のフランス語担当の同僚である瀬倉 をかけたし、本人からも﹁だいじようぷ﹂というような リアのゴールドコーストにある﹁ピーチポント﹂ホテル (正克)さんから、おなじ学部で研究科執行部の佐原 言葉が返ってきたように思う。その後九月初めから、私 でメlルを開いて、小畑さんご逝去のことを知ったのは の私宛のメール、日本よりは一時間早い時差で、同じ日 記録によれば、研究科長の鈴木哲也さんから許報の連 進 (徹哉)さんに宛てられたもの。短期在外研究の制度を - 1 8 山 泉 小畑さんは、あの回復された姿で大学に通われているこ ゴールドコーストに滞在することになったが、当然にも はカリフォルニアのバークレー校にいき、十月からは いての議論は深まらず、いわば﹁既得権﹂だけが横行す リキュラム改革をおこなったものの、﹁教養教育﹂につ ﹁大綱化﹂をうけて、本学では一九九五年に全学的なカ めにキャンパスとしての自立と新しい時代の﹁教養教育﹂ 況を変えるために、﹁教養教育﹂の再生を訴え、そのた るような状況が続いていた。私は、それまで﹁和泉校舎﹂ 明治大学への着任の時期は、身分証明書に記されて番 の理念の創出をめざした。その具体化が新図書館の建設 とと信じていた。それが、突然の計報、その記憶の落 号によってわかる。私は﹁沌﹂で始まっているので、一 レ仁和泉キャンパスでの国際系新学部と教養系大学院の設 とよばれ建物とグランド施設の改善だけが議論される状 九七八午凹月から就職したことになる。小畑さんとも、 置であった。学長のもとでの﹁グローバル・キャンパス﹂ 差、何とも言葉が追いつかない: そんな話をしたと思うが、小畑さんは私より五歳年下、 教養デザイン研究科は内実的には、﹁教養教育﹂の再 おそらく勤続三一O年の表彰の時期に近くなっていること 生のための拠点の創設と教養系教員の研究環境の整備が} 構想のもとに実現したのが、二OO八年の国際日本学部 かった。それは、納谷前学長のもと、国際交流センター めざしたものであった。研究科の設憶には、もちろん多 と思う。所属学部が違うと、本学では余り話したりする の役職を務められていたことで、学長のもとでの会議で くの教員の協力をいただいたが、'とりわけ商学部の鳥居 と教養デザイン研究科の開設であった。 いっしょになる機会が多かったという理由もあるが、そ 高さんとともに、小畑さんにはま左め役として臨分とど 機会もないが、小畑さんとは、比較的話をする機会が多 れ以前から小畑さんのオープンで人なつっこい性格か スの内容と人選などをお願いした。小畑さんの最新の学 ら、和泉キャンパスでお会いすると雑談することも多く 識と人望に期待したことはいうまでもない。文学研究科 無理をお願いした。小畑さんには主として﹁文化﹂コー しかし、何と言っても、小畑さんと頻繁にお会いし、 との競合を避けるという大前提のもとで、ユニークな研 あった。 に就任した二OO一二年頃からだと思う。大学設置基準の 親しく会話を交わすようになったのは、私が和泉委員長 しころやさしい人の死 - 1 9 などとは言わない。改革者の死がそうであるように、後 六号︿二O 一同・一二) 究・教育内容と教員の人選がおこなわれたと思う。それ 続者たちによって踏み越えられるべき死である。 いすみあ から、教養デザイン研究科に﹁海外指定校制度﹂を導入 するにあたっても、小畑さんの能力を借りた。なにぶ ん、本学では初めての試みで、具体的な指定校を選定す るうえで、国際交流センター責任者としての経験を大い に発揮していただいた。中国の大連外国語学院、遼寧大 学、延辺大学には、ともに交渉にいったと記憶してい る。延古市では、朝市に出かけていき、食用の丸はだか 私が勝手に思っていたことかもしれないが、小畑さん にされた犬の写真などを撮ってきて見せてくれた。 とは思想的な体質が合うような気がして、割合に気楽に の繊細な精神を持っていて、そして﹃新日本文学﹄﹃現 話ができた。一見、豪放轟落そうでいて、研究者として 代の理論﹄吋千年紀文学﹄にかかわったような批判的行 動力があり、私とも共通する知人も何人かいた。残念な たことにより頓挫をしてしまった。後は、﹁他人思いの がら、和泉キャンパスの改革は、新学部構想が否決きれ こころしを持っていて、行動力のある小畑さんを中心に して、新たな出発を、というのが私の願いであった。私 からいえば、小畑さんの死は、﹁病死﹂というよりも、 闘いのなかの突然の﹁事故死﹂である。﹁安らかに眠れ﹂ - 2 0一