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教養教育の本流Ⅱ

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教養教育の本流Ⅱ
大学教育学会誌
第37巻
第2号
2015年11月
第37回大会 ラウンドテーブル14>
3
行
ど
り
教養教育の本流Ⅱ
阿部 勘一・長尾佳代子・ 林
(成城大学)
〔キーワード:教養教育,
リベラル,
民主主義,
ジェネリッ
2.教養教育の本流とは
(阿部 勘一)
クスキル,ディシプリン,質保証,日本学術会議〕
企画者:児玉英明
哲介・児玉 英明
(大阪体育大学) (京都三大学教養教育研究・推進機構)
私的体験から
⑴ 本報告の目的
(京都三大学教養教育研究・推進機構・代表)
本報告では,大学における教養教育のあり方について,
林哲介(京都三大学教養教育研究・推進機構)
報告者自身が「学生」
「教員」という体験を通して培った
阿部勘一(成城大学)
,東谷護(成城大学)
教養教育,大学教育観をもとに,現在の大学「業界」が
長尾佳代子(大阪体育大学)
取り巻く現状を「批判的」に えるとともに,教養とは
橋爪孝夫(山形大学)
何か,教養教育(と)はどうあるべきかについて,
「問題
渡辺かよ子(愛知淑徳大学)
提起」を行うものである.
発表者:阿部勘一(成城大学)
⑵ 問題意識
長尾佳代子(大阪体育大学)
現在,大学を取り巻く環境の変化とともに,大学の役
林哲介(京都三大学教養教育研究・推進機構)
割に関して,政財界で「一方的」で「独断的」な議論が
なされている.例えば,
「実践的な職業教育を行う新たな
1.企画の趣旨(児玉 英明)
高等教育機関の制度化に関する有識者会議」
(2014年10
本ラウンドテーブルのタイトルは,
「教養教育の本流」
月7日実施)において,委員である経営コンサルタント
である.あえて「本流」を名乗る理由は,学習成果の把
の富山和彦氏が提案した「G型大学」と「L型大学」へ
握といった大学評価の文脈と絡んで,
「新しい教養」
と称
の「篩い け」による大学の「役割 担」に関する提言
して登場している言説には,本来の教養教育の意義を矮
や,文部科学省が国立大学に対して「見える成果」を求
小化しかねない傾向が見られるからである.より具体的
める一環としての文系学部の見直し(
『朝日新聞』2015年
には,近年の教養教育の質保証をめぐる議論では,教養
6月20日朝刊)など,大学に対して(大学業界外から)
教育の究極の目標として共有されていた「民主的市民の
「実学」
を重視するように迫られている状況がある.この
形成」
という観点が後景に退いている.それに代わって,
ような状況の中,大学は,環境への「順応」と政財界か
学問のディシプリンと切り離された形で,
「コミュニケー
らの「要請」を同時に満たすべく,極端な「実学」を指
ション・スキル」や「情報リテラシー」や「問題解決力」
向している.
といった実用的なジェネリックスキルが重視されてい
このような現状において,大学教育のあり方はもちろ
る.
ん,大学における教養教育についても,教養教育不要論
思想性があまり感じられない一見中立に見えるジェネ
や「実学」的な教養教育指向などが,大学改革の文脈で
リックスキル型の教養教育は,その実は新自由主義的な
議論され,実践されている.しかし,このような現状に
思想と親和性が高い.それは本来,リベラルな思想とは
対し,教養教育をめぐって,
「教養教育は社会の役に立た
相容れないものである.そこに無自覚では,本流への回
ないのか?」
「大学が担う教養教育とは何か?」
「教養教育
帰は生まれない.教養教育の本流は「企業が求める教養
は不要か?」という問いが浮かび上がる.また,
「実学」
教育」からは一線を画していた.
を求める政財界=社会における大学の役割をめぐって
繰り返すが,教養教育の目標は,民主的市民の形成で
も,
「大学は過去も現在も本当に『象牙の塔』
か?」
「大学
ある.そこを踏まえないと,教養教育は思想性を失い,
は教育を『授かる』場か?自ら教育を『つくる』場か?」
リベラルを名乗る理由も不明になるだろう.
といった問いが浮かび上がる.本報告では,このような
問題意識をもとに,教養教育そして大学の役割について
83
タ
イ
ト
ル
1
行
の
時
は
前
1
行
ア
キ
「問題提起」を行った.
⑷ まとめ
⑶ 私的体験に基づく教養教育観
文章の書き方やPCソフトの い方などの小手先のス
報告者が大学で教育を受けていた1990年代前半は,バ
キル教育や,授業をアクティブ・ラーニングにすること
ブル経済末期ではあるものの,現在のように就職状況は
が,教養教育,大学教育ではない.むしろ,世の中のこ
シビアではなく,それまで培われてきた企業によるリク
とに対して,
「無関心」
「思 停止」
している人間にならな
ルーティング活動が慣習的になっていた.それゆえに,
いよう,自ら思 し判断できる人間を形成することこそ
企業は大学および大学での学びに対して「全く」期待を
が,教養教育,ひいては大学教育の本流である.これは,
していなかった.いや,企業は大学にはむしろ余計な教
学生の基礎学力が不足しているいわゆる「全入」大学に
育をしてもらいたくないと えていた.このような状況
おいても同様である.大学のユニバーサル化に伴い行わ
から,
「大学=レジャーランド」
という位置づけがなされ,
れる初年次教育の充実とは,
「実学」の名の下に,小手先
大学自体も「象牙の塔」と揶揄されていた.政財界が大
のスキル教育を充実させたり,積極的に「就職予備 」
学の改革において「実学」指向を迫るのも,現在の大学
になることではない.むしろ,
「学生にとって身近で興
が未だに「象牙の塔」であるというイメージが背景にあ
味・関心のもてるテーマの学習から大学の学問に動機づ
ると えられる.また,1991年のいわゆる「大綱化」に
けていく」教育の中で,世の中を生きるのに際し,自ら
よって,それまでくすぶっていた「一般教育」不要論,
主体的に思 できるようになる教育が教養教育,大学教
教養部不要論に拍車がかかり,多くの大学が「一般教育」
育に必要なのであり,このような教育こそが,真の「教
や教養部再編を行っていった.
養教育」であり,
「実学」なのである.
そのような中,報告者が実際に体験した教養教育は,
3.体育大学生の受ける教養教育は他の大学の学
(すべての教員ではないが)担当する教員が,独自の教養
教育観,大学教育観に基づき,教育方法や教育内容を工
夫し,
学生が身のまわりの物事に関心を持ち,
「自ら学ぶ」
生が受ける教養教育と異なっているべきか(長
尾 佳代子)
ことの大切さを提唱していた.例えば,少人数で学び合
ラウンドテーブル「教養教育の本流」は「近年の教養
うセミナー(ゼミナール)こそ大学の最高の学習形態で
教育をめぐる議論がジェネリックスキルの養成という側
あるとし,講義はできるだけサボるようにすることを提
面を過度に重視」しているのではないかという問題意識
唱する教員がいた.この教員は,
「セミナーの基本任務は,
から出発している.報告者の勤務 もその例に漏れず,
学生にとって身近で興味・関心のもてるテーマの学習か
教養の授業は「ジェネリックスキル」あるいは「基礎学
ら大学の学問に動機づけていくこころみであり,そのた
力」養成の看板を掲げていれば,学生からも教職員から
めには,社会科学全体(経済学,政治学,法学,教育学,
も異議なく好意的に受け入れられるという現状である.
歴 学など)へのひろがりの見通しをもった 合的で学
このような事情から,大阪体育大学では,
「英語」
「日本
際的なテーマの設定が えられる」
(安川寿之輔
『大学教
語技法」
「情報処理」
「統計基礎」という「基礎教育科目」
育の革新と実践:変革の主体形成』
新評論,1998年,203
を1年次前期の必修科目として置き,教養教育センター
頁)とし,自らの体験や経験から,学問領域に囚われず
がこれを管理運営している.オープンキャンパスで見た
思 を広げる教育を実践していた.
華やかなスポーツ科学の講義や実技だけでなくこうした
報告者は,このような教育を通して教養教育に対して
地味な教養の授業が待ち構えていることによって新入生
とても強い関心を持ち,①教養教育の本流とは,
「作られ
は多少なりとも「あれ?」と思うようである.しかしな
た」自 を見つめ直し,自 を「作ってきた」社会を批
がら,もともと多くの学生は「大学に入ったら,今まで
判的(≒客観的)に捉える目を養うことである,②大学
のように運動ばかりではなく勉学にも励み教養を深めよ
での学びは専門を中心とする「蛸壺」的ではなく学際的
う」という漠然とした向上心を抱いており,不平を言わ
であるべきであり,教養教育はそれを体現している,③
ずにカリキュラムを受け容れる.ただ,ここでしばしば
政財界から求められている「社会人基礎力」等は,実は
耳にする「教養を身につけたい」という言葉が「社会に
学問的行為の中に含まれており,教養教育の実践を充実
出た時に困らないように」と続くことには注意しておく
させることが,まさに社会に出て役に立つ「実学」教育
必要がある.
「日本語技法」に関して言えば,多少読めな
そのものである,
といった教養教育観を土台にしながら,
い漢字があっても資料の新聞記事を読み通すことが出来
教養教育を実践している.
るようになることや,800字程度の意見文をすらすら書
けるようになることで,彼らは「教養が(以前より)身
84
についてきた」という満足感を得ている.
計基礎」
「情報処理実習」
などの科目が置かれており,
「メ
このような過大評価あるいは誤解は,教養教育の本流
ディアの活用,多種多様な情報・資料の編集,数量的推
に還ろうとする趣旨からは,一見,嘆かわしい状況のよ
論,自国語・外国語・学術的な文章作成能力,言語的・
うに見えるかもしれない.しかし,障害がある子どもの
非言語的両面での表現能力・コミュニケーション能力な
成長を観察することによって子ども一般の発達の様相が
どを構成要素とする知」である技法知の養成が意識され
より明確に理解できるという例もある.本学の教養教育
ている.
は,学問知を志向するがゆえにあえて技法知に重心を置
また,一般教育科目は人文・社会・自然の3 野のそ
く方針を取っている.そのため,ジェネリックスキルを
れぞれに
「文学」
「哲学」
,
「社会学」
「経済学」
,
「数学」
「化
過度に重視しているように見えるかもしれない.このよ
学」等の科目が置かれ,それぞれの 野を専門とする教
うな本学の現状を報告し, 析することによって,他の
養科目担当者は,学問知を伝える役割を担っている.
多くの大学で抱えているものと共通の問題を解決する糸
ところが,ここには,
「実践知」
が登場しない.じつは,
口や方向性を見いだし得るのではないかと えている.
本学教養教育センターは「実践知」養成を意識したカリ
⑴ 体育大学生のキャリア形成
キュラムを組むことをあまり重視していない.その背景
報告者が担当している1年生の必修授業「日本語技法」
には,体育学部の専門科目がもともと「実践知」に比重
の入学前指導では,大学生活をどのように過ごしたいか
を置いているという事情がある.
実技はもちろんのこと,
を作文に書かせている.すると,
「しっかり勉強して教員
「スポーツ心理学」
「スポーツ社会学」などの「スポーツ○
採用試験に受かり,保 体育教員になりたい」と書いて
○学」は,スポーツの実践を離れては成り立たない.ま
くる学生が実に多い.2013年度595名の卒業生のうち,教
た,いずれも複合領域に置かれるものであり,
「心理学」
員採用試験の現役合格者数は べ30人であった.教員採
や「社会学」等の古典的な学問知を伝えることを意図し
用は,現役生・卒業生あわせて,中学 71名,高 は52
た内容ではない.
(図1)
名である.他の体育系大学と比較して多いと言えば多い
さらに,次のような現状もある.本学では,全学の76%
が,意外に体育・スポーツと関係ない仕事に就いている
の学生が運動部に所属して大学スポーツの様々な活動に
卒業生が多いのも事実である.ちなみに,内訳として学
従事している.また,その他の学生も,多くは,出身
関係(28.7%)は確かに最多であるが,他はスポーツ
等でのボランティアコーチを引き受ける,地域の小中学
(フィットネスクラブなど)
(7.6%)
, 務員(教育除く)
でインターンシップを行う,スポーツ施設でアルバイ
(12.8%)
,医療・福祉(4.0%)
,企業(28.9%)
,進学
トをする,など学内外で専門性を活かした実践的活動を
(8.9%)
,プロスポーツ(0.5%)
,その他(7.2%)となっ
行っている.
「学問知」
「技法知」に比べて,学生が「実践
ている.
知」を身につける機会が不足することはあまり心配され
とはいえ,
「将来教員になった時に役立つ○○」という
ていないのである.
フレーズは,本学では多数の学生および教員の一部に無
⑶ 「基礎学力」は「学問知」の前提
条件にアピールする.このことが時に大学のカリキュラ
一方,報告者が最も大きな課題だと えているのは
「学
ムを歪ませるほどである(たとえば,今年度は教職科目
問知」の形成である.ラウンドテーブルでは,報告者が
の一部の単位を卒業所要単位に数えられるようにする変
「宗教学」の授業に先だって2015年4月に行った「世界
が行われた)
.しかしながら,この実用主義が,単なる
復習テスト」の結果を示した.世界 教科書に登場する
『よき市民』の育成に留まらず,さらに高い倫理観と教養
宗教に関係した重要語句を選択肢から選ぶ20問の問題
を身に付けた人材を送りだそうと気負う姿勢につながっ
である.この時,選択肢が与えられているにも関わらず,
ているのも事実なのである.
受験した183人のうち15問以上正解した学生は3人しか
⑵ 体育大学のカリキュラムにおける
「学問知」
「技法知」
いなかった.一方,ほとんどの学生の正答率は半 以下,
「実践知」
正答が1個以下であった学生が全体の3割,3個以下が
大阪体育大学体育学部で「教養科目」として位置づけ
6割という状況であった.
られている授業は「基礎教育科目」と「一般教育科目」
クイズの正答率だけを指摘すると,知識の詰め込みに
である.これらは,それぞれ日本学術会議で定義された
意味があるのかと言う人もいるかもしれない.それでは,
教養の3要素のうち「技法知」と「学問知」を充実させ
授業の出席票レポートに書かれた次のようなコメントは
る内容にあたる.
どうだろうか.
「イギリスも日本みたいに,他の国を植民
たとえば,基礎教育科目には
「日本語技法」
「英語」
「統
地にしていたのを初めて知った」
(2年男子,日本語語彙
85
図1
力中学2年生レベル)
「クルド人がイラン,イラク,シリ
ずは実践知に偏重する体育大学の専門教育のカリキュラ
ア,トルコの4つの国をまたがって生活しているのを初
ムや学生生活の実態と直面する.専門教育と教養教育の
めて知った」
(1年女子,同高 1年生レベル)
教育課程が相互補充的に編成されるためには,教養教育
たしかに予備知識を持たない眼は全てを新鮮な驚きで
の担当者は,学問知の形成において責任を果たさなけれ
見ることができるが,大学で学問知の世界にはじめて触
ばならないと えている.そのため,その前提となる基
れる感動と驚きはそのさらに先にあるものである.聖パ
礎学力の補充と技法知の形成を重視する.そのことが結
ウロの目から鱗のごときものが落ちたのは,それ以前の
果的にジェネリックスキルの養成を重視しているように
彼がパリサイ派ユダヤ教徒としてイエスを弾圧していた
見えるという現状がある.
という前提があってのことだ.そういう意味で,体育大
4.今,教養教育が果たすべきこと(林 哲介)
学の教養教育ではそれ自体が学問知を志向するだけでな
く,将来の感動の下地をつくるための準備教育を合わせ
⑴ はじめに
行う必要がしばしばあるのである.
経緯の概観
ラウンドテーブルのテーマ「教養教育の本流」を議論
⑷ 「基礎学力」は「学問知」の前提
するために,はじめに一般教育・教養教育の変遷を,い
2010年の日本学術会議『回答 大学教育の 野別質保
ささか乱暴であるが概観しておこう.
証の在り方について』では,
「学習目的においては,専門
大学設置基準の「大綱化」
(1991年)と同時に,京大,
的な知識や理解や方法論を活用できる『能力』の獲得自
神戸大を皮切りに全国の国立大学が「教養部」の廃止に
体が重要であるのは当然として,そうした能力を獲得す
向かい,また,それまで「一般教育」を規定していた制
るための知的訓練ということが,大学教育において常に
度的な枠がなくなったことによって,多くの大学で専門
意識されるべきである」と述べ,専門教育におけるこう
教育の比重が増大し一般教育の修得必要単位数は大幅に
した訓練がジェネリックスキルの獲得につながることを
縮小されていった.その後しばらくして,大学の内外か
示唆している.また,続けて「専門教育と教養教育との
ら〝教養教育が破壊された" という声が聞こえるように
間で,それぞれの特性に応じてどのようなジェネリック
なった.
「大綱化」
が,
「大切だという教養教育を武装解除
スキルの形成を担わせるのかが検討され,相互補充的に
し,城を専門教育に明け渡すに等しい選択であった」
(天
教育課程が編成されることが望まれる.
」
(47頁)とある.
野,2001)ことは確かであるが,筆者は,その城壁の内
ジェネリックスキルは,取りあえずは,バランスの取
部には何があったのか,守るべき実態がどれだけあった
れた教養教育とそれをベースにした専門教育の中で身に
のか,という正直な疑問を感じていた.一般(教養)教
つけ,かつ運用されることが想定されているだろう.し
育の軽視は「1949年の新しい大学制度の発足当初からす
かし,このことを体育大学の現場で検討してみると,ま
でに始まっていたことは周知のとおり」
(天野,2001)
で
86
あったからである.
能力」等々で強調される「適応能力」型の人材養成を要
それでも1960年代末頃まではそのことが大きな問題
求するもので,大学教育とりわけ教養教育にその役割を
にはならなかった.大学進学率が20%に届かなかったこ
期待するものであった.これまでの産業界の〝追いつき
のころには,まだ学生の間にはエリート学生らしい教養
追い越せ" 型戦略に代わって,グローバル化の状況下で
主義への憧憬が強く残っていた.外国語や理系の専門基
の経済競争に勝つための「イノベーション」人材を必要
礎科目の比重は大きかったが,人文・社会・自然の3
とするという危機感を背景にしたもので,新たな
〝ナショ
野にいわゆる教養科目として開講されていた科目は,教
ナリズム"戦略といっても的外れではないものであった.
員個々人それぞれの専門に依拠した〝趣味" 的な講義が
また,少子化・大学進学希望者全入時代を迎えての「学
並び,学生は好みのものをつまみ いして学問の世界に
力低下」問題や,学生・教員・研究者の国際的流動性の
いる実感にひたって満足していた.そして一方社会の方
高まりに対応して,教育の評価・質保証の技術的明示化
は,大学の一般(教養)教育に対してほとんど期待はし
が強調されてきているのも近年の特徴である.このよう
ていなかった.
な状況が大学の教養教育の「多義化」
(天野,2001)や変
高度経済成長の影響が直接大学に及んできた1960年
質・混乱をもたらしてきている.
代後半から,状況は急激に変化してきた.先行した理工
このように経緯を概観してみると,1970年以降の大学
系に続いて法,経など各学部の学生定員も急速に増え,
の大衆化に対して,教養教育を 設的な意味において真
大学進学率は30%を超えた
(75年38%)
.教養部は大量の
に「大衆化」することができないまま今日に至っている
学生が押し寄せる〝砂漠" となった.学生たちの感覚か
ということ,これが現在の課題だということでないだろ
らはエリート学徒としての憧れや優越感は希薄になり,
うか.
「大綱化」によって教養教育が〝破壊された"のも,
専門の勉強と就職や大学院進学に目を向けた功利的意識
「
『我が国の活力』のために必要な教養教育を」
といった言
が圧倒した.前期2年間の一般教育課程は,専門に直接
質に揺れるのも,基本的・原理的な教養教育を,大衆化
つながる基礎科目以外は〝パンキョウ" と呼ばれ,魅力
した大学において確立できなかったことによっていると
のない通過儀礼になった.一方,教員の側では,東大は
いうことである.
別として,もともと不本意な立場に置かれた教養部教員
しかしまたこのような現状の中で,各大学で,真摯に
から,一般教育の質的な改革に取り組むエネルギーが生
学生に向かい,社会に応える教養教育の様々な模索が行
まれるのは極めて限られていた.専門学部教員のところ
われていることも確かである.昨年の大学教育学会での
では,細 化した個別 野の研究・教育の範囲を超えて,
シンポジウム「現代日本の『学び』と『教養』教育」も,
大学教育全体の在り方を える意志はほとんど皆無で
このような中での企画であったし,本ラウンドテーブル
あった. かに,中央教育審議会の答申等を反映して
「
もその理論と実践を深めようとする企画である.
合科目」の新設などを進めた大学はあったが,それ以外
⑵ 「本流」とは……
は概ね「人文・社会・自然」3 類の教養科目と外国語
「教養教育の本流」
というと,旧く明治末期から昭和に
や専門基礎科目というカリキュラムに質的な変 はない
かけて指導的に影響を与えた新渡戸稲造の名が浮かぶ.
まま推移した.
「大綱化」
を皮切りにした変化の中心は,
そして戦中・戦後に亘って河合栄治郎や矢内原忠雄,南
教育カリキュラムや授業内容よりはむしろ,一般教育を
原繁などに受け継がれた教養主義,なかでも文芸主義や
担う教員の組織体制の変 にあり,教育は専門重視の強
個人の「人格陶冶」に埋没するのではなく,リベラルな
い圧力に流されることになったのである.
言論・思想の展開をかかげ,それゆえに軍国主義支配と
オーム真理教地下鉄サリン事件,阪神淡路大震災,
の対立・苦悩も不可避であった系譜が挙げられる(筒井,
「大綱化」後
Windows95の発売などがあった1995年は,
1995)
.そしてこれらは戦後の新制大学発足の後,大学基
の教養教育に対する議論が新しい状況を迎える転機で
準協会を中心に固められた「一般教育」の方針に受け継
あった.その背景にはバブル崩壊(1991年)と経済の「グ
がれた.基準協会の報告「大学における一般教育」
(大学
ローバル化」による産業界の危機があった.この後,大
基準協会,1951)は,新憲法と教育基本法を基調にし,
学審議会や中央教育審議会の答申がほぼ2年毎の周期で
「真に自由なる民主社会の 設に挺身協力する勇気と実
繰り出されたが,これらは大学教育への強い要請を述べ
践的能力を把持する……人物の養成」が一般教育の目標
た経済団体の諸提言と見事に符合していた(詳細は拙著,
でなければならないとしたのである.報告の「諸言」に
林,2013)
.その新しい主張の特徴は,学術的・文化的な
おいて
「1.新制大学の 命」
,
「2.新制大学と一般教育」
,
「知」
よりは,
「判断力」
,
「想像力」
,
「発信力」
,
「課題解決
「3.一般教育の必要性」
……等に展開されている主張は,
87
現代の教養教育の課題としても全く古びてはおらず,む
しての教養」
「自由な精神・知性」に結びつけるかが課題
しろ,グローバル経済が席巻し,拝金主義,競争原理,
なのであり,大衆化した大学において確立しなければな
成長神話……の惰性のなかで,エネルギー資源や環境な
らないポイントなのである.
どの地球的危機を惹起している現代社会において,一層
この点については,記憶に残っている先輩諸氏の指摘
その重要性が確認されなければならないものなのであ
が思い出される.喜多村和之氏は,
「
(大学基準協会の
「報
る.
告」では)
『人間完成を目指す人間教育の重要性』が強調
2010年4月に日本学術会議の「知の 造 科会」が『提
されている.しかし,……一般教育がおこなわれるなら
言 21世紀の教養と教養教育』
を,そして7月に
『回答 大
ば,それによって『人間完成教育』が成就されるという
学教育の
第2部
論理は,自明のことではない.一般教育論の指導的提唱
学士課程の教養教育の在り方について』を発表した.こ
者であった上原専禄が指摘していたように,
『一般教育は
の提言と回答は,
「大綱化」以降の一般(教養)教育の混
個々の学生が3つの学問領域のいずれについても若干の
乱に対して,いわば「本流」を改めて確認する立場を示
知識を獲得し,少しばかり物知りになるように配慮され
し,
「適応能力型人材」に対して「民主社会を担う市民と
ているだけのこと』にすぎないというのが,むしろ実態
しての教養」を掲げる包括的な方針を提起している.い
になってしまっていたのではないだろうか.日本の大学
ささか網羅的で抽象的なきらいがあるが,ここに示され
の多くは,大学の大衆化という量的拡大と質的多様化の
た教養教育の基本的な目的を藤田英典氏は「功利的な専
問題に,真正面から向き合うことを避けてきたのではな
門性や実用性に囚われ偏ることのない『自由な精神・知
かろうか.
」と指摘していた(喜多村,2002)
.また,阿
性』を育むこと」であると解説している(藤田,2010)
.
部謹也氏は,2001年のIDE「大学の教養教育とは?」の
「本流」
は,このように戦前から受け継がれているリベ
なかで
「学問が我が国では技術化しており,
『いかに生き
ラルな思想,個人と社会が不可 に関わる教養の思想を
るべきか』という問いとは無関係なところで営まれてい
基本的な立場とすることであり,現代の我々が直面して
る.……多くの大学での教養教育では,自然・人文・社
いる社会的状況に対して不可欠な精神を確認することで
会の3教科が互いに何の関係もなく置かれており,担当
ある.
する教師も事前に話し合いもせず互いに全く関係のない
野別質保証の在り方について
しかし,戦後の大学における一般(教養)教育がこの
講義をしていたのである.
」
と批判していた
(阿部,2001)
.
立場を具体化できなかったことは先に述べた.大学基準
絹川正吉氏は,本学会の記念講演で「大学教育は,ある
協会の「報告」においても「
(教育方法が)適切妥当でな
いはディシプリン中心の教育は欠如態である.欠如態を
ければ『仏作って魂入れず』の結果になり,崇高なる目
どうするのか.……それは思想の問題である.
」と述べて
標も空想化されることになろう」と述べていた危惧を払
いた(絹川,2004)
.教養教育の「本流」の確立はまさに
拭できなかったのである.現代の状況下において「仏に
この点が課題なのである.
魂を入れる」具体的なカリキュラムと授業内容はどうあ
⑶ 今,学生たちは……
るべきかが課題なのである.
ところで,この課題を えるとき,受け手である学生
ところで,多くの大学のカリキュラムや我々の理解に
たちの状況を的確に捉え,彼らとどのような関係を築く
は混乱がある.
「一般教育」や「共通教育」として括られ
ことが必要かを えなくてはならない.
ているものの中には,英語を中心にした外国語や,膨大
1999年のIDE「教養教育再 」で,吉川弘之氏(当時
な専門基礎教育が含まれ, に近年ではリテラシー教育
の日本学術会議会長)
は,
「人類の過去においては,……
やキャリア教育などが混在している.そしてしばしば,
教える者と学ぶ者との間の,無前提の了解のもとに教育
これらを含めた全てを「教養教育」と呼んでいることが
が行われていたといえる.教える者がいて,そこに自然
ある.これらを概念的に整理して,基礎教育にあたるも
に学びたい者が集まるという調和関係が成り立ってい
のと教養教育とを区別することがまず必要である.そう
た.しかし現代においてはその調和関係が崩れつつある.
したとき,多くの大学では現在でもやはり「人文・社会・
……大学進学率が45%を超え,卒業生に社会における特
自然」の3 野を欠かせないものとして配置している.
別な階層が準備されることでなくなった現在,教える者
(京都三大学共同化教養教育では,これをさしあたり
「リ
と学ぶ者との間の価値観の不一致,あるいは教育動機と
ベラル・アーツ」科目と呼んでいる.
「自然」もリベラル・
学習動機の乖離がある.学習者の動機発見における社会
アーツに含めていることに注意してほしい.
)この3 野
的困難性である.
」と述べていた(吉川,1999)
.かつて
を中心にした教養教育を,どのように具体的に「市民と
〝調和関係"があったというのは,直観的には1960年代ま
88
での状況といってもいいかもしれない.3 野の種々の
い.阿部氏は「教師の多くは教養を知識だと えており,
科目がそれぞれ個々の担当教員の判断に任され,どのよ
それを学生たちに与えるという発想にいまだに立ってい
うな内容であれ,学生が自主的(勝手)に選択し,それ
る.教師が学生に与えるという発想に立っている限り,
ぞれの流儀で自己の中に採り込んでいた.
教養教育は成功しないであろう.
」
と指摘していた(阿部,
これに対して「教育動機と学習動機の乖離がある」と
2001)
.
いう指摘であるが,現在の学生たちには教養教育に対す
⑷ 「科学」と「民主主義」の危機
る「学習動機」自体がどれだけあるのか疑わしく感じる
教室において学生たちと共有したいことは何かを二つ
ことも少なくない.佐々木一也氏が「我々は大学の教育
に整理してみる.ひとつは,学生たちが,専門性・実用
現場において,日本の成熟社会に育ち自らの内的な学習
性・効率性とは質的に異なる「自由な知,科学的な知」
意欲に突き動かされることの少ない学生たちに対して,
に触れ,そこにある人間の営みを発見すること.不確か
知的好奇心の喚起から始めなければならないという,厳
で膨大な情報の洪水の中で,常識・偏見,権威への不問
しい条件を課せられている.
」と述べているように(佐々
の承認等への傾斜に気づき,世界を科学的に見る経験を
木,2015)
,直面しているのは,学ぶ動機の希薄さ,期待
拡張することであろう.教室には,あらゆる 野,まち
の不明確さ,さらに入学までの学習歴や将来の志向の多
まちの学習歴や将来の志向をもった学生たちが混在して
様さなど,いわばつかみどころのない学生たちに対して,
いる.これが教養教育の本来の姿であり,むしろこのよ
教室をどのような場にするのかという難題と向き合って
うな教室でなければならない.このような教室によって,
いるのである.
それぞれの専門知が世界においてどのような意味を持つ
とりわけ,大学と学生の実態には格差(知力レベルの
か,どのような歴 的展開をしているかを,非専門の市
格差)が拡大している.東大,京大や都市の有名私大な
民の言葉に還元して語ることができる.教員はそのよう
どいわゆるトップクラスに対して,受験競争率2∼3倍
な言葉で語ることが求められる.そしてこれが学生たち
程度をなんとか維持している一般の国 私立大,そして,
にとって〝目から鱗" となる新たな経験にならなければ
入学試験が事実上ほとんど意味をなさない低偏差値大学
ならない.科学的判断が〝有識な専門家" にお任せにな
などで,学生の状況,学習要求には著しく差が拡大して
る風潮は「科学の危機」である.日常生活に関わる身近
いる.
そして じて学生たちの日常を覆っている特徴は,
な諸問題を通して,学生たちと科学知を共有することは,
「個人化」
,
「非社会化」
である.中西新太郎氏はこれを
「社
教養教育の役割である.
会的縁辺化」と呼び,
「若者の社会的・政治的に疎外され
2点目の課題は「民主主義の理解の深化」である.阿
た状態」があると指摘している(中西,2004)
.この状況
部氏は「教養とは社会の中で『いかに生きるべきか』と
には「民主社会を担う市民」からは大きな距離がある.
いう問いを自ら えていく姿勢を前提としている.従っ
学生たちの多くは,専門に必要な勉強,単位をとって卒
て現代の我が国の社会の在り方を前提として,教養論は
業・就職に近道の勉強,資格をとるのに必要な勉強といっ
出発せざるを得ない.
」
と述べている
(阿部,2001)
.個々
た意識に支配され,学びの「技術化」が覆っている.ま
人が現代社会といかに関わるのか,民主主義社会の担い
た一方では,スポーツ部活への埋没,狭く限られた友人
手であることを,各人の日常生活にどのように結びつけ
との緩い付き合いやスマホ世界,長時間のアルバイトな
るかという課題であり,
「社会的縁辺化」
に抗する課題で
どによって,社会・政治からの隔絶が常態化している.
ある.阿部氏はまた「我が国では法律の中に民主主義の
これは,大学入学まで受験進学を唯一目標とした学 の
規定がありさえすれば民主主義が実現していると多くの
勉強で育っているからであり,またより一般的には,現
人が えているようにみえる.そのために『民主主義と
在の社会と自己の将来展望,在るべき姿といった理想へ
は何か』という原理的な疑問が提起されず,皆が かっ
の希求が希薄になっていることの反映でもある.
たつもりになっている.しかし,具体的な事柄が生じる
その一方で,教員は往々にして,自己の専門の閉じた
と,民主主義は容易に覆されかねない状況なのである.
」
世界からのみ,そして自身が経験してきた知的充実感か
と指摘している
(阿部,2001)
.ここに現代社会の課題が
ら,学生たちに多くのことを教えたいという衝動に駆ら
あり,教養教育が据えなければならない役割がある.学
れ,それが自 の任務だと錯覚する(筆者自身も,往々
術会議の提言が主張するのも正にこのことに他ならな
にしてこの習性から抜け出るのに苦労している)
.このよ
い.
うな,学生と教員の双方の個別化・技術化・功利化の習
学術研究の細 化と高度化・技術化が著しい現在,
「科
性からの脱却を意識しない限り,教養教育は命を持たな
学」の権威が危機に していると感じる.政治社会の動
89
向は概して近視眼的な経済原理に支配される.これに対
戦中に われた「非国民」という言葉が死語になった
して世界の長期的な展望を支えるのは「科学」でなけれ
今でも,リベラルな思想とはかけ離れた国粋主義的発言
ばならないが,往々にして現代の科学は政治・経済の側
や言論の自由を脅かす発言が唐突に出てくることがあ
の判断によって都合よく利用される.ここに科学の危機
る.そのような時に,偏狭なナショナリズムに絡め取ら
がある.民主主義の空洞化は,人々の〝あきらめ" から
れずに,民主主義の危機を危機として察知できる感性を,
生じる.あるいは,そのうちなんとかなるだろうという,
我々一人ひとりが持ち合わせているかどうか.戦前の修
責任放棄感から生じる.現在の日本社会にはこのような
身とは区別する形で,戦後,教養教育の構築に努めた先
民主主義の危機があるように感じる.教養教育の課題は,
達の志は,この点にある.その志を継承することが教養
これらの「危機」を見据え,学生たちと語ることによっ
教育の本流である.
て,
「我が国の活力」とは質的に異なる「社会の活力」に
貢献することにあり,これが「本流」の役割であろう.
参 文献
具体的な科目・授業において,多様に 布した学生た
阿部謹也
(2001)
「大学で教養は教育できるか」
,
『IDE現
ちに対して,これらの課題をどのように共有していくか
代の高等教育』No.426,pp.17-21.
という困難な課題に我々は向き合っている.このラウン
天野郁夫
(2001)
「
『教養教育』
を問い直す」
,
『IDE現代の
ドテーブルでの2氏の報告も,この課題を見据えた具体
高等教育』No.426,pp.5-12.
的な実践の試みである.知力レベルの高低に関わらず,
喜多村和之(2002)
『現代の大学・高等教育』
,玉川大学
それぞれの学生の現状に適した工夫を探求していかなけ
出版部.
ればならない.立川明氏は,J.デューイの「新旧の個人
絹川正吉
(2004)
「教養教育,大学教育の新たな 造をめ
主義」にある「人間の精神はのっぴきならない現実へと
ざして」
,
『大学教育学会誌』26-1,pp.3-12.
導かれる中ではじめて成熟する.
」
を引用し,
「大学は学生
佐々木一也
(2015)
「日本社会における大学教育の意義」
,
を『のっぴきならぬ現実』に直面させることを通して彼
『大学教育学会誌』37-1,p.1.
らの精神を成熟させているか.
『社会生活の根深い諸問
立川明
(1999)
「教養教育の展望」
,
『IDE現代の高等教育』
題』を真剣に検討しているだろうか」と述べていた(立
No.407,pp.40-45.
川,1999)
.工夫の糸口はここにあるだろうと思う.
5.まとめ
筒井清忠(1995)
『日本型「教養」の運命』
,岩波書店.
中西新太郎
(2004)
『若者たちに何が起こっているのか』
,
教養教育の出番はいつか
花伝社.
(児玉 英明)
日本学術会議(2010)
『提言21世紀の教養と教養教育』
教養教育の出番は,社会の中で民主主義が後退してい
日本学術会議
(2010)
『回答 大学教育の 野別質保証の
る時である.民主主義は確立された制度ではなく,たえ
在り方について』
ず民主化を求める運動によって,かろうじて保たれるも
林哲介(2013)
『教養教育の思想性』
,ナカニシヤ出版.
のである
(丸山,1961)
.教養教育が必要論と不要論の間
藤田英典
(2010)
「現代の教養と教養教育の課題」
,
『大学
で揺れ動く理由も,リベラル教育が消えそうで消えない
教育学会誌』32-1,pp.18-24.
理由も,民主主義のこの特質にある.
丸山眞男(1961)
『日本の思想』岩波新書,p.18.
教養教育の目標は,民主的市民の形成である.言い換
吉川弘之
(1999)
「学問と教養教育」
,
『IDE現代の高等教
えれば,
「民主主義が後退している局面を察知するセン
育』No.407,pp.5-10.
ス」の育成である.しかし,いま問わなければならない
安川寿之輔
(1998)
『大学教育の革新と実践:変革の主体
のは,
「民主主義が後退している局面を察知するセンス」
形成』新評論
を養成することに,教養教育が本当に向き合っているの
「ひと:安川寿之輔」
『朝日新聞』2013年12月30日朝刊
かどうかである.そして,そのセンスを発揮する前提と
「人生の贈りもの:佐伯啓思⑵」
『朝日新聞』2013年10
して,
「自 はどのような時代を生きているのか」という
月16日夕刊
同時代への問題意識を学生が持っているのかどうかであ
「見える成果,国立大に求める」
『朝日新聞』2015年6
る.
月20日朝刊
90
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