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三河地震の被災調査
三河地震の被災調査 5.碧海郡明治村和泉集落で被災した 鈴木敏枝さん・沓名美代さん姉妹の体験 名古屋大学災害対策室 2005年5月 12月7日の東南海地震は神社にいるときに起きた。思わず石灯籠にしがみついた男の子がいたが、 先生が注意したので、下敷きにならずにすんだ。(絵:藤田哲也) 周囲は、壁土のほこりとにおいで一杯だった。生き埋めになった人の「助けて,助けて」という泣き声 がだんだん小さくなっていった。布団をかぶって震えていた。(絵:藤田哲也) となりのおばさんが「火事だ!」と叫んだので、駆けつけて水で消した。しかし、火だと思っていたのは、 仏壇が月明かりに照らされて光っているだけだった。(絵:藤田哲也) 家は全壊した。極寒のなか、着のみ着のまま、素手・裸足で朝から夜まで片づけをした。親せきもひ どい状況で、誰も助けてくれる人はいなかった。(絵:藤田哲也) 周囲で倒れなかった家は一軒だけだった。道路には地割れが走り、壊れたかわらをその中に捨てた。 道路を歩くのも一苦労だった。(絵:藤田哲也) 外にかまどを作り、隣組の家族が共同で炊事した。農家なので食糧もあり、井戸も残ったので食事に は不自由しなかった。地震で死んだ牛を食べることもできた。(絵:藤田哲也) 1週間ほど経って落ち着いたとき、ふすまや雨戸を外して、四面に囲って縄でしばって「ふすまの家」 を作った。家の中まで雪が入ってきて、本当に寒かった。(絵:藤田哲也) お父さんがお風呂を外に作った。隣組の人や近所の人、全員がお風呂に入りに来た。半月ぐらい着の み着のまま、真っ黒だったので、お風呂に入れてとてもうれしかった。(絵:藤田哲也) 廃材を使いわらぶきの小屋を作り、ようやく家ができた。家の中で寝られるようになり、非常にう れしかった。(絵:藤田哲也) 学校も壊れてしまったが、空き地に縄をはって授業は再開された。首から黒板をさげて先生が授 業をした。(絵:藤田哲也) 三河地震による明治村の被害 和泉 全世帯数 榎前 西端 東端 根崎 城ヶ入 南中根 米津 合計 家屋被害 納屋被害 391 185 509 461 301 288 86 426 2647 全壊 310 38 145 77 61 182 41 152 1006 半壊 81 147 280 121 83 80 35 159 986 全壊 290 61 183 77 90 420 35 141 1297 半壊 120 115 305 77 126 100 50 137 1030 45 45 12 98 軍需工場 公共施設等被害 人的被害 民需工場 5 神社 4 寺院 2 学校 3 その他 1 死者 88 15 重傷 60 軽傷 120 7 10 61 1 7 4 1 1 1 4 22 1 4 3 3 2 1 8 24 2 2 1 3 11 2 73 1 2 1 26 24 27 66 22 53 321 10 10 5 9 50 1 10 155 23 15 36 19 100 7 69 387 明治村史(下巻) 昭和41年より 災害アーカイブ構築に関する調査研究 その5 1945 年三河地震 被災者へのケースヒアリング(概要) 調査日時:2004 年 10 月 13 日(水)14:00~16:30 調査対象:鈴木 敏枝(75)・沓名 美代(71) 調査場所:鈴木さん自宅(安城市) 聞き手 :林 能成・木村 玲欧 ■ インタビューの要約 安城市・鈴木敏枝さんは昭和 4 年、 沓名美代さんは昭和 8 年生まれの姉 妹。地震発生当時は 15 歳と 11 歳。 碧海郡明治村和泉集落に住んでいた。 東南海地震のときは、沓名美代さ んは尋常小学校の 6 年生でお宮参り をしていた。男子生徒があわてて神 社の灯ろうにしがみついたところ、 灯ろうがゆれ始めたので、先生があ わてて「灯ろうから離れろ!」と叫 鈴木敏枝さん 沓名美代さん んだ。鈴木敏枝さんは農家である家の仕事を手伝っていて麦畑のなかにいた。中腰になり ふらふらになりながら家までたどり着いたところ、寝泊まりをする本宅が傾いてしまって いたために、横屋の座敷に移って生活することになった。 三河地震のときは、本宅は全壊したが座敷は無事で家族は助かった。外へ出たときの壁 土のほこりとにおい、生き埋めになった人の「助けて,助けて」という泣き声は、今でも 鮮明に覚えている。ただ助けにいきたくても、自分の家がそれどころではなく、ガレキの 山で道路がふさがれてしまい、助けに行きようがなかった。周囲はほとんど倒壊したが、 筋交いを入れていた家は倒れなかった。和泉集落では 80 数名が亡くなったが、火葬場の煙 突が壊れ、また、あまりに多くの人が一度になくなったため火葬はできず、穴を掘って集 団で土葬した。火葬しなかった理由には、軍の基地が近く、頻繁に空襲警報がでるような 情勢だったことも影響したかもしれない。 家が倒壊したため、炊事は数家族が共同で行い、露天で一緒に食事をした。農家のため 食料はあり、井戸水のため水の不自由もなかった。地震で死んだ牛を食べることができた のはよい思い出である。ただ、毎日、寒空の下、素手素足で着のみ着のままで、朝から夜 まで片づけをした。親せきなどもひどい状況であったため、片づけを誰かに手伝ってもら ったり、物資をもらったりしたことはなかった。木は全部燃料として燃やし、かわらは地 割れの中に捨てた。1週間くらいして落ち着いてきたら、お座敷のふすまや雨戸を外して 四面に囲い縄でしばって「ふすまの家」を作り、1ヶ月くらいしてきれいに片づけたら「地 1 震小屋」を作った。学校は3ヶ月くらいして再開した。空き地に縄をはってクラスを作り、 先生は首から黒板をかけて授業をした。 ■ 東南海地震 あわてて神社の灯ろうにしがみついたところ、灯ろうがゆれ始めたので、先生があわてて 「灯ろうから離れろ!」と叫んだ 麦畑のなかを中腰になって、ふらふらになりながら家までたどり着いた Q)12 月 7 日のお昼に起きた東南海地震のときは、何をされていましたか 【沓名】私は国民学校の6年生だったね。その日は何か式があって、お宮さん(現在の安 城市和泉町にある八剱(はっけん)神社のすぐ裏手にあった)にお参りに行っていました。12 月 8 日が大詔奉戴日(開戦記念日)だったのでその関係かね。それでお参りしている最中 に、遠くの方から何かドンドンドンドンドンドンって揺れてきただね。ただ、ちょうど空 襲の時期だったもんで、地震とは思わへんかったんだね。先生もはじめは分からんかった みたいだし。 ドンドンドンドン揺れているから、神社の灯ろうへしがみついた男の子がいてね、ほし たら、揺れがひどくなってきて、灯ろうが「ガガーッ」って揺れて。先生があわてて「こ ら!灯ろうから離れろ!」と叫んだ。先生もやっと地震だと気づいたんだね。 【鈴木】わたしは麦畑におってね。揺れてきたので「こりゃ、地震だ」と思って、麦と 麦の間を中腰になって、あわてて家へ帰った記憶があるね。揺れているなかを帰るから、 もう、ふらふらになって家へたどり着いた。 Q)お姉さんである鈴木さんは何をしていたのですか 【鈴木】わたしはこのときは家の手伝いをしていました。つまりお百姓だね。わたしは 国民学校高等科を卒業したあと看護婦になるために名古屋の中村区にある愛知日赤病院に 入ろうと思ったんだけど、間違って中村区の県立中村病院という遊郭の衛生管理をする病 院に入ってね。それで遊郭の女の人の検査をしているうちにいたたまれなくなって、看護 婦を続けるのが嫌になって実家に戻ってきてただね。まぁ、実家に戻ったせいで地震に遭 っただけど、おかげで名古屋で空襲に遭って焼け死ぬことはなかったということだね。 家族が寝泊まりする本宅が傾いてしまったので、東南海地震のあとは横屋の座敷に移って 生活していた。三河地震では本宅は全壊したが、座敷は無事で家族は助かった Q)家の被害はどうだったのですか 【鈴木】麦畑から家にたどり着いてみると、家族が寝泊まりしている本宅が傾いてしま っていました。父親が「こんな家には住んだらいかん」ということで、この地震のあと私 たち家族は本宅ではなく、お座敷に移って生活していました。結局、父親のこの判断が正 しくてね、1 月 13 日の地震のときには本宅は全壊してしまったけれどもわたしらは横屋に おったもんで無事でした。当時住んでいた和泉(いずみ)の集落では、どの家も転ぶ(倒れる) ことはなかったし、誰も亡くなりませんでした。 Q)和泉の集落とは 明治村の和泉集落のことです。和泉は南北に細長い集落だけど、私たちは 2 番組(にばん ぐみ)といって上(かみ:北のこと)の方に住んでいました。「上之切」っていう所でした。 今は弟(5人きょうだいの長男)が跡取りになっています。(図1) 2 ① 1番組 かみ 軽トラックが通れるほどの道路 上 お勝手 お宮さん 本宅 えのきまえ 榎前集落 2番組 わら 小屋 和泉小学校 文 3番組 9番組 軽トラックが通れるほどの道路 東山 本龍寺 6番組 しも 8番組 下 いずみ 和泉集落 廊下 トイレ 父母子5人 井戸 地震後、逃げ込む 納屋 いとこ 土間 明治航空基地 玄関 座敷 祖母 長屋 ② じょうがいり ひがしばた 東端集落 図1 ねさき 城ヶ入集落 出入口 根崎集落 図2 和泉集落と周辺の位置関係 三河地震のときの家の状況 Q)ご家族は おばあちゃんと両親と、きょうだいが5人いました。あと、名古屋のいとこが縁故疎開 していて計9人かな。いとこは父親のいちばん下の弟さんの息子さんです。きょうだいは、 女4人・男1人で、長女が敏枝(鈴木敏枝さん)、次女が美代(沓名美代さん)、三女は今は 岡崎市に住んでいて、4番目が長男で跡取り、四女は美代と同じ根崎集落(和泉集落の南) に嫁に行っています。 ■ 三河地震の発生 あたり一面の壁土のほこりとにおい、生き埋めになった人の「助けて,助けて」という泣 き声は、今でもはっきり思いだすことができる 助けにいきたくても自分の家もそれどころではなく、どうすることもできなかった Q)年が明けて 1 月 13 日の三河地震のときには何をされていましたか 【鈴木】おばあちゃんといとこは長屋、わたしたちは横屋の座敷に寝てました(図2)。 とにかく揺れて、空襲だか地震だかわからんけど、「外へ出なあかん!」って父親が言った ので外へ出ました。そしたら本宅は転んで(倒れて)いる、でぇーっと一面に壁土のほこり のにおいがする、どこからか「助けて、助けて」っていう声がする。隣の家では牛が小屋 の下敷きになって「ウーウー」うなっている。もうめちゃくちゃだった。 【沓名】あの生き埋めになった人の「助けて」という泣き声と、モワーッとした壁土の ほこりとにおい、あれは今でもはっきり思いだすことができる。あれを思いだすと何とも 言えんね。 【鈴木】ただ、最初は「助けて、助けて」って言ってても、何回も余震があるなかで、 そのうちに声もだんだん小さくなっていって、最後は声がなくなってね。ほんで死んじゃ っただね。助けにいきたくても、こっちもそれどころではない。本当にこの時のことは忘 れることができない。 子どもだったので、わら小屋のむしろのところで布団をかぶって震えていた 3 夜中の3時なので火を使っていなかった。もし火を使っている時だったら、木造だし、道 は狭いし、道もガレキで埋まっているしで全部燃えていた Q)外へ出たあとは、どうしたのですか・・・ 【鈴木】お座敷も傾いてしまったもんだで、わら小屋に行っただね。あの時はわたしら お百姓だったもんで、干しもん小屋ってね、農作業をするためのわらの小屋があったでね。 昔はね、稲を刈り取ったあと、むしろで干してね、わら小屋に一晩寝かせるんだね。その 小屋のなかに家族全員で入ってね。ここはわら小屋だから倒れなかった。 【沓名】余震の合間におやじさんがお座敷から布団を一枚一枚引きずってきて、わら小 屋まで持ってきてくれてね。それで布団やらむしろやらの上で、ずっと寝ただよ。暖房も ないでね。今の人は避難所なんてあるから、本当にいいことだよ。 Q)他に何か覚えていることは・・・ 【鈴木】私たちが本宅から出たあとに、裏のうちが「ガシャーン」っていって転んだだ よね。ほうしたらね、火が出てきて。裏のうちのおばさんが「敏枝さん、火が出てきたで 助けて」っていったもんで、「燃え広がったら大変だ」と思って行って、おばさんを助けて 水をかけただね。そしたら火ではなくてお仏壇が光っていただけだったという。本当にみ んな慌てていたね。 【沓名】私は小さかったんで、行きやしませんでした。おやじさんが「小さい子がた、 おまえがたここで布団かぶっとれ」って言わしたんで、わら小屋のむしろの所で布団をか ぶって震えていたね。 【鈴木】あと、地震が起こったのが夜中の3時だったもんで、火を使ってなかった。関 東大震災は昼だったもんでいけなかったけど、三河地震は誰もまだ火を使ってなかった。 あれが、火を使ってたら全部燃えちゃってたわね。木造だし、道は狭いし、道もガレキで 埋まってるしね。 ■ 夜が明けて 夜が明けたあとも、太陽がかすむくらい壁土とほこりがひどかった 「助けて」という声は少しはあったが、ガレキの山で道路が無くなっていて助けに行きよ うがなかった Q)夜があけてからはどういう感じだったのですか 【鈴木】まだ「助けて、助けて」って言う人があったもんね。明るくなったんで助けに 行こうと思ったって、ガレキの山で道は無くなっているから行けないよ。救急車も何もそ のころはあらへんだけど、たとえあったとしても何も入ってこれんね。 Q)明るいときには、まだ土ほこりみたいなものがずっと立ってましたか 【沓名】とにかく一日中ものすごい壁土とほこりのにおい。太陽がかすんでしまうほど だったね。朝になったら、「助けて」っていう声も少なくなっちゃったしね。泣く人、悲鳴 上げとる人、「助けて」言う人。牛もうずまって「ウーウー」って言っとった。「ああ、ど このうちもみんなクシャクシャに転んじゃったな」と。 ■ 周辺の被害 倒壊した家屋の柱や瓦が山のようになり狭い道が全部ふさがれて、地震のあとは道がなか 4 左写真(図2の①、矢印方向が写真奥)、右写真(図2の②、矢印方向が写真奥) った 和泉集落は、戦争で 80 何人亡くなり、三河地震で 85 人が亡くなった Q)周囲の被害はどうでしたか 【沓名】周りの家はみんな転んだ。転んだ家屋の柱やら瓦やらが山のようになってね、 狭い道が全部ふさがれて、地震のあとは道なんかなかった。あと、周りの家が全部転んだ から、家から数百メートル離れているお宮さんの灯ろうまで全部見えたね。それにお宮さ んの裏の道は1メートルくらい割れていた。 【鈴木】和泉の集落は、戦争で 80 何人亡くならしておいでだけど、三河地震で死なした 人がだいたい同じ 80 人ぐらいおったね。 【沓名】和泉でも、上(かみ:集落の北)の方がひどかったね。下(しも:集落の南)は家 が建ってたもんね。 Q)お寺や神社の被害はどうでしたか 【鈴木】上(かみ:北)の方からいくと、2番組にあったお宮さんもやられたね。3番組 の小学校(現在の和泉保育園のところ)もやられたし、6番組、つまり集落の真ん中あたり にある本龍寺も倒れました。どれも屋根が重かったのかね。 ■ 倒れなかった家 被害のひどいところでも、筋交いを入れていた家は倒れなかった Q)集落の上(かみ)の方でも倒れなかった家はあったのですか 【鈴木】数軒あった。大工さんによっては筋交いを入れていた家があって、それをやっ たうちは転ばなかっただね。 これは面白い話があって、当時、一番人気があったのが金原(きんばら)建築というとこ ろだったけど、そこは腕のいい大工さんで立派なうちを作ってらして、筋交いなんか入れ なかった。一方で、沓名重一(くつな・じゅういち)という大工は下手な大工で、全部筋交 いが入ってただ。つまり、腕がよくないから筋交いを入れないと建っていられない家ばか り作ってて、 「じゅういっちゃん(沓名重一さん)の家はいかんなぁ」ってみんな言っていた のだけど、地震のときに転んだのは金原建築の家で、じゅういっちゃんの家は全然転ばな かったっていう話(笑) 5 ■ 余震 余震は多かった。光ってからドンドンドンドンと音が近づいてきてユサユサゆれた Q)余震についての記憶はありますか 【鈴木】三ヶ根(さんがね)山のほう(幡豆郡幡豆町:和泉集落の南東方向)で光って、ド ンドンドンドンって音が近づいてくるだね。それが来て「あ、また揺れるよ」って言って いるうちに、ユサユサ揺れてくるという感じで。 【沓名】そうそう、明るくなってドンドンドンドンって来る。余震は本当に多かったね。 ■ お葬式 火葬場の煙突が壊れて火葬ができなかっため、穴を掘って土葬した Q)お葬式はどのようにしたのですか 【鈴木】和泉の火葬場の煙突が転んで使えなかったから、火葬ができなかった。それで 火葬場のところに大きな穴を掘ってね、ほいでずっと 80 何人分の棺桶を積んで、ほいで泥 をかぶせて土葬しただね。お葬式もそのときに合同で簡単にしたと思う。うちは誰も死な なかったからよく覚えていないがね。土葬したところは今も墓地になってる。アイシン精 機の寮の裏手のところにね。 ■ 食事 家が倒壊したため炊事は数家族が共同で行い、露天で一緒に食事をした 農家のため食料はあり、井戸水のため水の不自由もなかった 地震で死んだ牛を食べることもでき、よい思い出になっている Q)食事はどうしたのですか 【沓名】周囲の家はほとんどみんな倒れてしまったので、炊事ができなくなっただね。 ただ、近所に倒れなかった家があって、そのまわりにはガレキがなかったから、そこに炊 事ができるだけの小屋を造っただね。そこで近所の人たちが当番で代わりばんこにご飯を 炊いてね、おにぎり2個ずつをくれるわけじゃね。それでみんなで一緒に外でご飯を食べ た。あれは美味しかった。こんなこと言うのも変だけど、あれは子ども心に楽しかったね。 Q)食料はどうしたのですか 【沓名】農家だったから食べ物にはこまらなかったね。あと助かったことに井戸が外に あったから、水にも困らなかったね。 【鈴木】さっきも言ったけど、すぐ裏のうちの牛が下敷きになって死んでね。その牛を ずっとそこらに吊るしてね、牛を切って食べただよ。昔のことだし、衛生状態は悪いし乳 牛だけどね。でも、牛を食べることができたのはいい思い出だね。 Q)いつごろまで共同で炊事したのですか 【鈴木】1ヶ月くらいかな。それぐらいになってようやく家のまわりが片づいたからね。 ■ お風呂 父親がお風呂を外に作り、壊れた家をたきぎにして風呂を沸かしたところ、周囲の人がみ 6 左写真(第1回ヒアリング、手前が藤田画伯)、右写真(第2回ヒアリング、絵のチェック) な入りに来た 半月ぶりにお風呂に入ったことで「ほっ」として気持ちが切りかわった Q)他に記憶に残っているできごとはありますか 【鈴木】お風呂が壊れてしまったので、うちのお父さんがお風呂を外に作ってね。五右 衛門風呂をね。そうしたら隣組の人やら周りの人やら、全員がお風呂に入りに来てね。ぞ ろぞろぞろぞろ、列になってね。それで家族単位で入る。ほんと旅館みたいだった。 【沓名】五右衛門風呂って若い人はわからんだろうけどね。穴を掘って鉄釜を乗せて、 その上に丸い木の風呂桶を乗せて風呂を沸かす。風呂に入るときは底の丸い板を沈めて風 呂に入る。これを外に作っただよ。壊れた家をたきぎにして、どんどんどんどんくべて、 夜中風呂沸かしとった覚えがある。水は井戸水でね。地下水をポンプで組んで。水は困ら なかったからね。 Q)お風呂はなぜ記憶に残っているのですか 【鈴木】そりゃ、もううれしかったからかね。半月ぐらい着のみ着のままで。 【沓名】真っ黒けだったよね、一日中素手で片づけるだし。風呂に入らんで片づけて、 ほいでそのなり寝て、また起きてってやっとっただね、真っ黒けだったよ。ほんと。だか ら、お風呂に入れたことで「ほっ」として気持ちが切りかわって、それがとても記憶に残 っているのだろうね。 ■ 後かたづけと支援 毎日、寒空の下、素手素足で着のみ着のままで、朝から夜まで片づけをした 木は全部燃料として燃やし、かわらは地割れの中に捨てた Q)後かたづけはどうしたのですか 【沓名】毎日、寒い中、はだしでね。手袋もないから、かわらでも木でも何でも素手で 片づけて。地震なので、水が出たわけではなし、お座敷は傾いただけだったから着るもの には困らなかった。だけど、ずっと着の身着のまま。朝からほこりだらけで片づけて、そ のなりで寝て、また片づけての毎日だった。 【鈴木】ただ、家を片づけていてお仏壇でもたんすでも米でも何でも、みんな家の外だ ったけど、泥棒さんの一人も遭わへんかったね。まぁ、仏壇なんて持っていっても困るか 7 もしれんけどね(笑) 【沓名】後かたづけをしていて、木は全部燃料として燃してしまったね、かわらは地震 で地割れした道の中に捨てたね。 親せきの家もひどいことになってたので、片づけは全部自分たちでやった 片づけを誰かに手伝ってもらったり、物資をもらったりしたことはなかった Q)誰かに手伝ってもらったりしましたか 【沓名】全部自分でやった。学校へ行かんでやっただもん。親せきは近くにおるけど、 みんな自分の家が大変なことになってたからね。他に誰かが来て手伝ってくれるようなこ とはなかった。 Q)物資とかをもらった記憶はありますか 【鈴木】何ももらわなかった。今の人たちはいいよね。避難所だとか義援金だとか。私 らそんなものまったくなかったからね。 ■ ふすまの家 1週間くらいして落ち着いてきたら、お座敷のふすまや雨戸を外して、四面に囲って縄で しばって「ふすまの家」を作った Q)ずっとわら小屋に住んでいたのですか 【鈴木】1週間くらいして少し落ち着いてきたらね、父親がお座敷のふすまや雨戸を外 してきて、それらを四面に囲って縄でしばって「ふすまの家」を作ってくれた。そこにみ んなで寝てね。朝になると家の中まで雪がちらちら降ってくるだね。ふすまとふすまの間 からね(笑)。それでも運がいいことに、この時期、まったく雨が降らなかった。だからふ すまは破けなかったね。でも本当に寒かった思い出がある。 ■ 仮住まいと家の再建 1ヶ月くらいしてきれいに片づけたら、普通の家に近い地震小屋をつくった 「いいうちができた」と子ども心に喜んだ 自分のところも周囲のところも、本格的な家を建てたのは、地震後翌年か翌々年だった Q)最初の一週間まで「わら小屋」で、そのあと「ふすまの小屋」で、その後は・・・ 【鈴木】1ヶ月くらいしてきれいに片づけたあと、大きなわら小屋を父親が作ってそこ に移っただね。農作業をするようなわら小屋でなく、ふすまの小屋でもない、家になって いる本当のわら小屋。 まず、地震の時に寝ていた横屋は傾いてしまったもので、それは壊してね。壊れたもの・ 壊したものをきれいにするまでに1ヶ月くらいかかって、そのあときれいにしたところに 四隅に穴掘って、壊れた家の柱で使えそうなものを柱にして父親が家を建てたね。私らは 「地震小屋」と呼んでいたがね。 【沓名】これができたら、とても気楽になった。「ああ、これでいいうちができたなあ」 と子ども心に喜んだ記憶があります。 Q)わら小屋にはいつまで住んでいたのですか 【鈴木】昭和 21 年か 22 年くらいに本当の家を建てた。 8 左写真(絵をもとに事実確認をする)、右写真(インタビュアー側からの情報提供も行う) 【沓名】周りもみんなそれくらいの時期に家を建てていたね。 ■ 学校の再開 学校は3ヶ月くらいして再開した 空き地に縄をはってクラスを作り、先生は首から黒板をかけて授業をした Q)学校はいつ再開しましたか 【沓名】学校なんか、3か月ぐらい行けへんかったよ。学校も転んじゃったから。それ で3ヶ月くらいして学校が再開したけど、校舎が倒れたから、空き地に縄を引っぱって、 ここが3年生、ここからこっちが4年生って。各学年で2組くらいあって、1組 30 人くら いおったから、かなりの人数だね。 当時、道路を作るために地所だけ用意してたところがあって、その空き地を臨時の学校 にしただね。ほいで先生が首から黒板をかけてね、授業をしただね。外だから、雨が降れ ばうちに帰ってね。もしくは、晴れた日に学校に行ってても、空襲でサイレンが鳴るとう ちに帰らないかん。学校と家を行ったり来たりしとったよ。 そんなこんなで、わたしたち修学旅行も行けやへん。ほいで中学になったら、今度は終 戦でまた行けやへん。結局みんなで行ったのは 50 歳のときだった(笑) Q)いつごろ校舎へ移ったのですか 【沓名】詳しくは覚えてないのだけど、しばらくして榎前(えのきまえ:和泉集落の 1km ほど西隣にある集落)の役場を借りてね。建物は古かったけど転ばなかったでね。そこで授 業をするようになった。ただ榎前まで一生懸命に行くと、空襲になるもんで、うちに帰っ てきたり。うちに帰って来たら、解除になって行ったり。あまり勉強はできなかったね。 Q)地震で亡くなった同級生はいましたか お父さんを死なしたとか、兄弟を死なしたりとか、そういう人はあったけども、クラス で地震で亡くなっちゃったという人はないような気がするね。 ■ 家業 戦前は農家、現在は兼業農家である Q)家業は・・・ 9 【鈴木】生家は当時から今も農業。でも今は農業だけでは食べられへんから、会社勤め をしているね。まぁ、この辺はどこもそうだでね。 ■ 地震の教訓 1月の寒さの中でも素手素足で片づけた、子どもながら人間は強いと思った Q)地震を通して感じたことなどありますか 【沓名】当時は子どもだったけど、人間は強いと思ったよ。1月でもね、足袋もなし何 もなし、電気もなしで、外で暮らしてきちゃっただもん。今、あんた、風呂行って暖房つ けて、何か食べとらにゃ寝れやせんけどね。 とにかくはだしで、素手で片づけただもんね。あれだけのかわらを全部割れた道の中に 入れちゃって、木は木で隅っこに寄せて、ここの場所を空けらにゃ、小屋も作れへんだも んね。 Q)ありがとうございました ※注:本編は 2 時間 30 分にわたるインタビューの概要です。 実際の発言と文章表記とは必ずしも一致しません。 (文責:災害対策室 10 木村) 名古屋大学災害対策室では1944年・東南海地震、1945年・三河地震など中京地区 の自然災害に関する資料の収集や聞き取り調査を行っております。当時の資料や体 験をお持ちで、調査に協力していただける方の連絡をお待ちしています。 〒464-8601 名古屋市千種区不老町環境総合館4階 名古屋大学災害対策室 電話:052-788-6038 Fax:052-788-6039 http://dmo.seis.nagoya-u.ac.jp/ 木村玲欧 [email protected] 三河地震の被災調査 5.碧海郡明治村和泉集落で被災した鈴木敏恵さん・沓名美代さん姉妹の体験 2005年5月20日初版発行 名古屋大学災害対策室 Disaster Management Office, Nagoya University