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第一章 進化論を超えて ―新創造論の提唱―
第一章 進化論を超えて ―新創造論の提唱― チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin, 1809-82)が『種の起源』を発表 してから一五〇年が過ぎた。進化論はその間、キリスト教の創造論を圧倒して、 世界中に広がっていった。そして進化論が完全に勝利を収めたかのように見え た。しかし今日、進化論に対して多くの批判が寄せられるようになっている。 そして創造か、進化か、という論争が高まってきた。特に、キリスト教国家の 代表であるアメリカにおいて、論争が激しくなっている。 二〇〇四年一一月のギャラップ調査によれば、アメリカでは、聖書を文字通 りに解釈する創造論者は三割を超えており、漠然と神の創造を受け入れている 人を含めると八割の人が、神による創造を認めているという。それにたいして、 神の存在を否定して、進化論の立場をとる人たちは一割しかいないという。と ころが、その一割の人たちの大部分がインテリ層であり、学者たちの生物学会 では進化論は学問として認められるが、創造論は認められず、 「学問の世界に信 仰を持ちこむな」といって退けられる。また高校や中学の生物学の教師たちの 大半は進化論者である。そこで学校現場において、進化論を教えようとする教 師たちと、それに反対する父兄たちとの間ではげしく論争がなされてきた。か くして、アメリカでは一九二〇年代より、創造か、進化かという、裁判闘争が くりかえされてきた。しかし、進化論者は科学的に進化論は正しいと主張し、 創造論者は聖書を根拠にして信仰の立場から創造論を主張するというように、 この論争には解決の道が全く見えない。 創造か、進化か、という問題は共存できる性格のものではない。一方の立場 に立てば他方を否定せざるをえないという関係だからである。従来のキリスト 教による創造論は科学的事実を無視して独断的に創造を主張するか、聖書を文 字どおりに解釈して、それに合わせて科学的事実を解釈しようとするものであ った。それにたいして、進化論は生物学や考古学の観察の事実をあげながら論 じられたために、科学的な真理のような印象を与えたのであり、一般的に受け 入れられやすかったのである。 今日、進化論には多くの問題点があることが指摘されている。それにもかか わらず、進化論が生き続けるのは、それに代わりうる代案がないからである。 進化論に対抗する代案は創造論であるが、今日、キリスト教の立場から提示さ れている有力な創造論は、根本主義の特殊創造論である。しかし、聖書を文字 通りに解釈しようとする特殊創造論は、一般の人々にとって受け入れ難いもの 1 である。 ここに代案としての新しい創造論が待望されている。それは現代科学の成果 を無視する特殊創造論ではなくて、真に科学的な創造論でなければならない。 そのような立場から、ここに統一思想に基づいた新創造論を提示しようとする のである。以下、テーマ毎に、進化論、キリスト教の創造論、統一思想の新創 造論の要点を紹介し、進化論と創造論の論争が、新創造論の立場から収拾しう ることを示そうとするのである。 なおここに取り上げるキリスト教の創造論は、聖書を文字通りに解釈する根 本主義の特殊創造論である。それは特殊創造論がキリスト教の典型的な創造論 であるからであり、さらに特殊創造論を取りあげることによって、進化論と創 造論の対立点を明確にすることができるからである。 (一)生物に目的はあるか ○ 進化論 生物界は適者生存、弱肉強食の世界である。したがって、生存に適したもの、 繁殖力の強いもの、力の強いものが生き残ってきた。したがって生物は目的を もって存在しているわけではない。 ○ 創造論 神はお一人で完全であり、自己充足的な方であって、神には人間と万物を創 造する必然性はなかった。しかるに神は人間を創造されて愛をそそがれた。そ して神は万物を創造して、 「海の魚と空の鳥と地に動くすべての生き物とを治め よ」と祝福された。すなわち、人間は万物の主人として創造されたのである。 しかし万物は何のために存在しているのか、存在の目的は明らかではない。 ○ 新創造論 神は愛して喜ぶために、人間を神の愛の対象として創造された。万物は人間 の愛の対象として、人間の喜びのために創造された。さらに、すべての被造物 は個体目的と全体目的という創造目的をもって造られている。個体目的は「自 己の生存を維持する」ということであり、全体目的は「ために生きる」という ことである。したがって全ての被造物は生存に適しているのみならず、低次の ものはより高次のもののために存在し、究極的には、すべての万物は人間のた めに存在しているのである。 2 ダーウィンによれば、適者生存の原理、すなわち生命力の強いもの、生存に 適したものが生き残り、繁殖し、進化したという。そうであるならば、この世 界は、生命力と繁殖力の強い昆虫や雑草が支配するような世界になったはずで ある。しかし、生物を観察してみると、そのような原理だけで生物は存在して いるのではないことが分かる。生存に適しているというのは、生物の存在の一 つの条件にすぎないのである。 たとえば西瓜を考えてみよう。西瓜は夏の暑い時に、水分をたくさん集め、 色をつけ、味をつけながら、大きな果実を実らせる。しかし、それは西瓜の生 存にとってどんな意味があるのだろうか。西瓜の生存と繁殖のためには、種さ えできればよいのである。地に落ちた種は、春を迎えると、雨が降り、気温も 上がるから、芽を出して成長していく。したがって果実の中に大量の水分を貯 える必要はないし、色や味をつける必要は全くないのである。進化論者は、西 瓜が水分を貯え、色をつけ、味をつけるのは、動物に食べられて種をまき散ら してもらうための西瓜の見事な戦術であるというであろう。しかし西瓜が戦術 を練るなんてことはありえないことである。西瓜は動物たち、特に人間のため に、天然ジュースとして造られていると見るべきである。すなわち、西瓜は生 存に適している(個体目的)だけでなく、他のために存在している(全体目的) のである。つまり生物にはそれぞれの創造目的があるのである。 蝶の世界を見てみよう。蝶の羽の美しさは魅力的であるが、蝶の羽の斑紋の 役割に関して、進化論の立場の研究者たちは「天敵を避けるため」と言う。 「天 敵を避ける」とは、生存に適しているということである。しかし、ファッショ ンショーのように、きらびやかに舞う蝶たちは天敵に襲われやすいのではなか ろうか。彼らはまた、きらびやかな蝶の羽は「オスとメスがひき合うため」で あると言う。 「オスとメスがひきあうため」とは、繁殖に適しているということ である。しかし、それだけではない。蝶は、われわれを魅了するために存在し ているのである。実際、多くの人たちが蝶に魅せられて、蝶の収集に夢中にな っている。 昆虫の擬態はどうであろうか。ある昆虫が、植物や他の昆虫に擬態する理由 に対して、進化論は自然選択によって解決済みだと主張している。しかし、昆 虫が鳥に食べられないように逃げまわっているうちに、微に入り細に入り、か くも見事に変身できるであろうか。まだ本質をつかみ切れていないのではない かと、疑問を抱く昆虫学者も多い。昆虫の擬態に関して次のような記事がある。 彼らは、だれに見せたくて、こうなったのか。「昆虫の擬態は、モデル、ま ねる虫、鳥、そして『観察する人間』という四者関係の問題」と池田教授 [生物学者池田清彦]。どれほど似ていれば人は驚き、感動するのか。昆虫 3 の擬態の話は、いつの間にか、人間の認識とは何か、というテーマになっ てくる(1)。 ここに「どれほど似ていれば、人は驚き、感動するのか」と言っているよう に、昆虫の擬態は我々を驚かせ、感動させ、喜ばせるように、造られたもので あるとみるべきであろう。 (二)生物はデザインされたものか ○ 進化論 ダーウィンによれば、生物は絶えず変異しているのであり、変異した個体の 間で生存競争が行われ、その中で生存に適しているものが自然選択(自然淘汰 ともいう)によって生き残る。そういうプロセスが長い間、行われることによ って生物は進化していくという。ここで変異とは、何ら目的とか計画に基づく ものでなく、全く偶然のものであって、それは「ばらつき」とか「ゆらぎ」と ほうこう いうようなものである。ダーウィンのいう変異とは、実は遺伝しない 彷徨変異 であったが、後にド・フリース(Hugo De Vries, 1848-1935)によって、固定 されて遺伝する変異が発見され、「突然変異」と名づけられた。いずれにせよ、 生物はデザインされたものではないのである。 ○ 創造論 神はすべてのものの創造主である。タビデが神に「あなたの目はまだできあ がらないわたしのからだを見られた」 (詩篇一三九・一六)と言っているように、 神は被造物を造る前に、すでに被造物の構想をもっておられたのである。した がって生物は神によってデザインされたものである。 ○ 新創造論 すべてのものは神のロゴス(言)によって創造された。ロゴスとは、被造物 にたいする神の構想、設計図である。したがって生物は神によってデザインさ れたものである。 それでは生物がデザインされたものか、否か、いくつかの例をあげて検討し てみよう。 4 (1)キリンの首 キリンの首はなぜ長いのだろうか。進化論は次のように説明する。キリンの 先祖は首はそんなに長くはなかったが、首の長さにばらつきがあった。彼らは 争いながら木の葉を食べていたが、首の長いものは上の方まで木の葉を食べら れたから有利であり、首の短いものは不利であった。したがって、首の長いも のが生きのびた。すなわち首の長いものが自然によって選ばれたのである。そ のような生存競争と自然選択を代々繰りかえしているうちに、キリンの首はど んどん長くなったというのである。 しかし、首が次第に長くなったことを示す中間化石の不在から見て、キリン の首は次第に長くなったという進化論の立場は否定される。さらに、サイエン ス・ライターの金子隆一が指摘するように、もっと困難な問題がある。それが ワンダーネットと呼ばれる器官の存在である(2)。キリンの首は長いため、血圧 は高く、キリンが水をのむために頭を下げると、重力によって血圧が急激に上 がり、脳溢血を起こす危険性がある。そこでこれを防ぐために、血が脳に達す る部分にワンダーネットという網状の血管が広がっていて、血圧を分散する仕 組みになっている。したがって首が長くなると同時にワンダーネットを備えな くてはならないのである。しかしキリンの先祖において、首の形態のランダム な変化の中から、自然が、長い首とワンダーネットを同時に選び出すというの はどう考えても無理がある。さらに驚くべきことに、現存するキリンの祖先形 の動物であるオカピの脳には、キリンのように首の長くない彼らには必要ない はずなのに、すでにワンダーネットが備わっているという。どうして必要のな いワンダーネットがオカピにあるのか、自然選択では説明のしようがない。 アフリカの草原では、キリンはアカシアの木の葉を食べている。進化論の主 張するように、首の短いものは生存競争に敗れて滅びていったとすれば、首の 短い動物は、もはや存在していないはずである。しかし実際には、キリン、ジ ェレヌク、インパラ、キルクディクディクというように、最も首の長いものか ら、次第に短いものもいて、彼らはそれぞれの高さに応じて、アカシアの木の 葉を分けあって食べている。したがって自然選択によってキリンの首が長くな ったのではなく、キリンは始めから首の長い動物として造られたと見るべきで ある。 さらに、キリンの首の骨組みはとても頑丈にできていて、雄同士が首でぶつ かり合いながら闘っても、首が折れるようなことはない。したがって短かった 首が、上を向いて木の葉を食べているうちに、次第に伸びていったというよう なものではありえない。ただ伸びただけの長い首では折れやすいであろう。長 い首の骨格に対しては、力学的に衝撃に耐えられるような設計図が必要である。 5 (2)目の問題 次に、創造か進化かという論争において、中心的なテーマになった目の問題 を取りあげてみよう。脊椎動物の目のように、複雑な機能と構造をもつものが、 ランダムな変化の中から、いかなる自然選択によってできたのか、全く説明は 困難である。 ダーウィン自身、「(極度に完成化し複雑化した器官である)目が自然発生に よってつくられたであろうと想像するのは、このうえなく不条理におもわれる」 (3) と率直に告白したのであった。ところが彼は、単純な光感受性のある点(細 胞)から洗練された人間のカメラ型の目に至る進路の経路を示すことにより、 目が進化によってできたものであると主張した。 しかし博物館で、自動車が年代順に古いものから新しいものという順序で並 べられているのを見ても、誰も、走る競争をしているうちに車が進化したとは 考えない。車は技術者のたえざる創造力の投入によって発展したのである。同 様に、単純な感光点から高級な目まで並べてみても、それが進化の証拠とはな りえない。実さい、目が発展するそれぞれの段階が大きな飛躍であって、段階 を示すだけでは進化といえないのである。科学ジャーナリストのリチャード・ ミルトン(Richard Milton)も次のように言う。 現代のダーウィニストはたいそう楽観的な考えをもっているようだ。光を 感知する細胞といった進化の初期段階における基本的な革新さえおきてし まえば、視力の累積的選択がいくぶん起こりやすくなるという。しかし光 を感知する組織が存在しても、水晶体や虹彩のメカニズムや瞼などに関す る突然変異の起こりやすさには何の影響もおよぼさない(4)。 しかも生化学者のマイケル・ベーエ(Michael J. Behe)が指摘しているよう に、単純な感光点が、そもそもどこから来たのか、ダーウィンは説明しようと せず、目の究極的な起源の問題は放り出しているのである。実さい、感光点そ れ自体、単純なものでない。ダーウィンにとってはブラックボックスでしかな かった。それはテレビの複雑さよりもはるかに複雑なものであり、多くの生化 学者の研究によって、ようやく視覚の生化学的な構造が明らかになりつつある のが現状である(5)。目は、自然界がどうなっているかということがよく分かっ ていて、周到につくられたものであること、したがって目を見れば神の存在を 否定できないと、文鮮明師は次のように語っている。 動物世界では、生まれる時に、まず目が最初に生ずるようになっています。 目自体は物質です。目は生まれる前から、太陽があることを知っていたで 6 しょうか、知らなかったでしょうか。物自体である目は何も知らずに生ま れてきましたが、太陽を見られるように生まれたということは、目が生ま れる以前から、太陽のあることを知っている存在があったというのです。 すなわち、目は太陽があることを知っていて生まれたということになるの です。目自体は、空気があることも、埃が飛び散っていることも、蒸発す る輻射熱があることも知らなかったとしても、既にそれらを知っている存 在があって、目を守るために、瞼が準備されたり、涙腺をもって防備させ たりするのです(6)。 (3)くじゃくの美しい羽 ダーウィンにとってもう一つの困難な問題は、クジャクの雌はそうでないの にクジャクの雄は、どうして華麗な、しかもどう見ても生きていくために必要 とは思えない、大きくて、重くて、身動きがとりにくい尾羽を持っているかと いうことであった。そのためダーウィンは「クジャクの羽を見るたびに気分が 悪くなる」とこぼしていたという。そして彼はこの問題に答えようとして「性 選択」の理論をもちだした。それが雌雄の生殖にさいしての雄間競争と雌の選 り好みである。しかしながら、雄が雌を求めて雄同士で競いあい、雌は雄を選 ぶというようなことから、いかにして色彩豊かな目玉模様のドレスのような雄 の羽ができるというのであろうか。雌としては、美しい雄の羽に引きつけられ るとしても、雌はただ鑑賞者にすぎず、芸術家ではないのである。また雄同士 が争えば雄の羽は抜けたり、模様はぼやけ、色はあせていくであろう。ダーウ ィンのいう「性選択」の中には何ら創造的な作用は見られない。生物の雌雄の 問題を研究している長谷川真理子も、雌による選り好みがなぜ進化するのかと いうことは、とても困難な問題であると次のように述べている。 しかし、現代の進化生物学で考えて、このような選り好み[尾の長さ、目 玉模様の数、持ってくる餌の大きさ、あずまやの飾りつけなど]がなぜ進 化するのかは、とても一筋縄ではいかない、難しいことなのです。……配偶 者の選り好みがどのようなシナリオで進化してきたのか、本当のところは まだ解決がついていません(7)。 (4)自然選択の性格 進化論者は自然選択をあたかも創造者のようにとらえている。ダーウィンは 次のように述べた。 「自然選択は、日ごとにまた毎時間ごとに、世界中で、どん な軽微なものであろうとあらゆる変異を、くわしくしらべる。悪いものは抜き 去り、すべての良いものを保存し集積する。……[生物を]改良する仕事を、無 7 言で目だたずにつづける」(8)。ドブジャンスキー(Dobzhansky)は自然選択を 作曲家に、シンプソン(Simpson)は詩人に、メイヤー(Mayr)は彫刻家に、ハ クスリー(Julian Huxley)はシェークスピアにたとえた。そしてグールド(Gould) (9) は「ダーウィニズムの真髄は、自然選択が適者を創造するという主張にある」 と述べた。進化論者たちによって、自然選択は造物主の位置にまで引き上げら れたのである。 ところで自然選択とは本来、多くの変異のうちでどれが生存に適しているか を判定するだけの作用であった。したがって自然選択は改良されたデザインを 選択することはできる。しかし、それはデザインを改良し、作るということは 全く別のことである。ところが進化論者は単に選択するだけの作用である自然 選択に創造する機能まで与えているのである。それは大きな飛躍またはすり替 えなのである。 遺伝的変異と自然選択による進化論を批判している医学者の牧野尚彦も、 「自 然選択とは……創造にはいっさい関わらない、不適格者を排除するだけの消極 (10) 的な機構にすぎないのではないか」 と言っている。ミルトンも「自然選択は 死か繁栄をもたらすだけで、個々に必要な微調整をもたらすことはできない。 それでも、これほど粗雑なメカニズムが遺伝子突然変異のプログラムを建設的 (11) に制御していることを信じろというのだろうか」 と言う。そしてサイエンス・ ライターの金子隆一・中野美鹿が言うように、 「今こそわれわれは、自然選択と 呼ばれるものの正体を徹底的に解明すべき時を迎えた」(12)のである。 (5)被造物の設計図としてのロゴス 現代の生物学によれば、生物の形質は細胞の核の中にあるDNAの持つ遺伝 暗号によって決定されることが明らかにされた。つまり、キリンの長い首も、 われわれの複雑な目も、クジャクの美しい羽も、遺伝暗号として、設計図が与 えられているから、そうなったのである。 科学者は遺伝暗号の存在を明らかにしたが、遺伝暗号は、人間の医学者、化 学者、物理学者、生物学者、そして芸術家などが、はるかに及ばない内容を備 えている。これを偶然に生じたと考えるのは非科学的で非合理的である。人間 の知性をはるかに超えた存在、すなわち創造主の言(ロゴス)である設計図ま たはデザインが、DNAの暗号として、細胞の中に宿っていると見るほうが科 学的で合理的である。遺伝子の研究において著名な村上和雄も、DNAの暗号 について次のように述べている。 これだけ精巧な生命の設計図を、いったい誰が、どのようにして書いたの か。人間業をはるかに超えていて、まさに奇跡と言わざるを得ない。この 8 自然の偉大な力「サムシング・グレート」によって、私たちは生かされて いる(13)。 村上のいう「サムシング・グレート」とは、もちろん神にほかならない。さ らに最近になって、アメリカではインテリジェント・デザイン理論(Intelligent Design Theory)が脚光を浴びている。これは「生物の進化は突然変異と自然選 択では説明できない」とダーウィニズムに異議を唱えるものであり、 「自然界の 中に知性あるもののデザインが働いていることを科学的事実として認めるべき だ」という見解である。デザインを認めれば、デザイナーは誰かということに なる。したがってこの理論は、進化論を克服し、神による創造に道を開くもの である。 (三)連続的か、瞬間的か、段階的か ○ 進化論 突然変異が進化の素材を与え、自然選択が進化の方向を決めるというのが、 ネオダーウィニズムの主張である。突然変異といっても、種を別の種に進化さ せるような大飛躍はありえない。突然変異は種の中での一部分の形質の変化に すぎないのである。したがって、生物は長い時間をかけて、突然変異を積み重 ねることによって、徐々に、連続的に進化したのである。つまり生物はなだら かに、ゆっくりと進化したという漸進主義(gradualism)の立場である。 ○ 創造論 六千年前に六日間で天地は創造された。生き物は種類にしたがって創造され た。その後、ノアの洪水があったが、すべての生き物はつがいで箱舟の中に入 れられて保存された。したがって、すべての生き物は、ほぼ同時的に、瞬間的 に、創造されたのであり、天地創造以来、種は不変である。 ○ 新創造論 生物は時間をかけて段階的に創造された。すなわち、既存の種に、神の創造 力(宇宙的な力)が作用することによって、より高次の新しい種が創造され、 その後、一定の時間が経過した後、再び神の創造力が作用することによって、 さらに高次の新しい種が創造されるというようにして、段階的に創造されたの である。 9 以上の進化論、創造論、新創造論の見解を図で表わせば、図1―1のように なる。六千年前に六日間ですべての種が創造され、その後、種は不変であると いうキリスト教の創造論は現代科学の立場からは受け入れ難いものである。そ れでは種は長い時間をかけて、連続的に徐々に進化したのか、あるいは長い時 間をかけながら、段階的に創造されたのか、次に検討してみよう。 (1)突然変異の性格 性によって親と同一ではない多様な子孫が生まれるが、性はただ、もともと 存在している遺伝子を組み換えるだけであって、性によって新しい遺伝子を作 ることはできない。突然変異だけが新しい遺伝子を作ることができる。それゆ え種を越えた遺伝的な変化を可能にする唯一のものは突然変異なのである。し たがって、ミルトンが言うように「進化論の運命はすべて突発的な遺伝子突然 変異にかかってくる」(14)のである。 ところが実さいに観察される突然変異とは、種を越えるようなものではなく、 種の中での微小な変化にすぎない。突然変異説を唱えたド・フリースが観察し たマツヨイグサでは、葉の形、枝の分かれ方、丈の高さ、花弁の形が変化した だけで、それらはマツヨイグサの変わり種にすぎなかった。また遺伝学者は、 彼らのモルモットであるショウジョウバエにX線を使って突然変異を人工的に 起こしたが、そこで生じたのは目の色、羽の形、腹部の斑点などが変化しただ けであり、依然としてショウジョウバエのままであった。 突然変異はほとんどが有害なものであって、種の中での変形または奇形を生 じるだけである。そのような性格の突然変異でもって、生物はいかにして、低 次の種から高次の種へと進化していくというのであろうか。ミルトンが言うよ うに、 「ネオダーウィニズムが直面しているあらゆる困難の中で、有益な新形質 をもたらすような遺伝子突然変異が自然発生的に起こりそうにないことは最大 の懸念である」(15)のである。 (2)疑わしくなった漸進的進化 ダーウィンは微小な変異が連続的に起こり、自然選択によって生物は徐々に 進化したと考えた。そうであれば、種から種への進化の足跡を示す連続的な化 石が発見されなくてはならない。しかし、一つの種から他の種へと徐々に進化 したことを示す中間の化石は見つからない。これは「ミッシング・リンク」 (失 われた環)と呼ばれている。ダーウィンは、やがて中間の化石が見つかるであ ろうと言ったが、それから約一五〇年たった今でも、ミッシング・リンクは埋 められていない。 また、進化の過程にある生物は生存に適してしていないのではないかという 10 問題がある。たとえば、コウモリはネズミやモグラのような動物から進化した と考えられているが、進化の過程では、飛べない不完全な翼、走れない足とい うような状態があったと考えられるのであり、そのような状態は、生物にとっ ては生存に不利でしかなかったはずである。 化石の事実から見るとき、生物はある一定の長い期間、ほとんど変化せず、 ある時点に至ると突然、飛躍的に新しい生物が登場するというプロセスを繰り かえしてきたことが分かっている。そこで漸進的な進化を否定する理論が提示 されるようになった。 一九七二年、アメリカの古生物学者のスティーヴン・グールド( Stephen J. Gould, 1941-2002)とニールス・エルドリッジ(Niles Eldredge)は「断続平 衡説」を発表した。種は通常、何も変化しない長い平衡期を経た後、突如とし て、その平衡を断つような形で進化するというのである。そして今日では、漸 進的な進化より断続的な進化の方が定説となっている。 (3)カンブリア紀の爆発 地球上に初めて大型の生物が誕生したのは六億四〇〇〇万年前であった。南 オーストラリアのエディアカラ丘陵で発見された「エディアカラ生物群 」 (Ediacaran fauna)である。それらは外骨格のない、ふわふわした軟らかい体 であり、移動能力のない生物であった。 五億四五〇〇万年前から五億年前のカンブリア紀には三葉虫、マキガイ、サ ンゴ、クモヒトデなどの海洋無脊椎動物が大量にあらわれた。およそ五億三五 〇〇万年前、海中で無脊椎動物が爆発的な増加しはじめたが、これは「カンブ リア紀の爆発」と呼ばれている。そして最も奇妙な形をした生物群がカナダ西 部のロッキー山中で発見された。五億一五〇〇年前の「バージェス動物群」 (Burgess Shale)である。外骨格のある動物で、その中には現生のどの生物と もかけはなれたものもあった。 この分野で第一線で活躍しているケンブリッジ大学のサイモン・モリス (Simon C. Morris)は、カンブリア紀の爆発に関して、「何かものすごい進化 のメカニズムがあったに違いない」(16)という。しかしそれがなぜ起きたのか、 進化論の立場からは不明のままである。 カンブリア紀の生物は多様性において豊かであり、適応において巧妙であり、 美において素晴らしかった。そのとき生命の形として可能なすべての基本構造 (ボディプラン)が生まれ、それがその後のあらゆる動物の基本設計となった といわれている。しかしなぜこのような爆発的な展開が起きたかは大きな謎で ある。 11 (4)中立突然変異 一九六六年に遺伝学者の木村資生(1924-94)によって「中立突然変異」が提 唱された。それによると、生物の変異を分子レベルで見るとき、突然変異のほ とんどは個体にとって有利でも不利でもない中立的なもの――つまり自然選択 によって選択されることも捨てられることもないもの――であって、それが遺 伝子浮動によって、偶然に種内に蓄積される。そのような中立突然変異が、あ るとき活性化されて突然、有利な形質として現れるのであり、それが生物の進 化をもたらすのである。そのとき、自然選択が作用するという。すなわち、長 期にわたる分子レベルでの突然変異には自然変異は作用せず、分子レベルの変 異が生物の表現形質(外形)に現れた時にだけ、自然選択は作用するというの である。 中立突然変異説は分子レベルにおいてほぼ全面的に自然選択を否定するもの であった。そして環境に対して、たまたま運よく有利な形質を身につけたもの だけが、自然選択によって生き残るというのである。これを木村は「適者生存」 ではなく「運者生存」であると述べた。今や中立説は世界的に認められるよう になっている。したがって、金子隆一・中野美鹿が言うように、中立突然変異 によって偶然に蓄積された形質が、表現形質に現れた時にはじめて自然選択が 作用するというのが、今日、自然選択という概念のぎりぎりの防衛ラインにな ったのである(17)。 (5)主体性の進化論 四〇年以上にわたってネオダーウィニズムを批判し続けてきた今西錦司 (1902-92)は、生物には目的性や主体性があるとして「主体性の進化論」を唱 えた。今西によれば、より適した個体が選択され残っていくという形で種が進 化していくのではなく、種はある危機に遭遇した場合に、種全体として比較的 短期間のうちに「変わるべくして変わる」のである。 「種とは、環境に適応する (1 ため、たえずみずからを作りかえることによって、新しい種にかわっていく」 8) のであり、方向性を持った突然変異によって生物は進化するのである。キリ ンの首はなぜ長くなったのかということについて言えば、 「キリンの首はある時、 必要に迫られていっせいに伸びた」ということになる。 今西はまた四種類のヒラタカゲロウの幼虫が川の流速のちがいに対応して棲 みわけていることを発見し、 「棲みわけ」理論を提唱した。ダーウィンのように、 個体同士が生存競争を行って生存に適したもののみが生き残るというのではな く、近接した種同士は生活の場を棲みわけて共存しているという。 変わるべき時がくれば、いっせいに種は変わるという今西の進化論は、結論 だけ見れば、断続平衡説の立場と一致するものである。断続平衡説、中立突然 12 変異説、主体性の進化論等によって、偶然の微小な突然変異を積み重ねながら、 徐々に、連続的に進化していくというネオダーウィニズムは大きく揺らいでい るのである。 (6)ウイルス進化論 最近の分子生物学では、細胞間、個体間、あるいは種と種の間で、ウイルス が遺伝子を運ぶということが分かっている。そこで遺伝学者の中原英臣と理論 物理学者の佐川峻は、現代の人為淘汰ともいえるウイルスによる遺伝子操作が 自然界において起きたと考え、「ウイルス進化論」を主張している。彼らは、ウ イルスの本来の機能は病気を起こすことにあるのではなくて、種を超えて遺伝 子を伝達したり、混ぜ合わせることにあるという。キリンの首はなぜ長くなっ たのかについて言えば、ウイルス進化論によれば「キリンの首が伸びるウイル ス性伝染病にかかった」ということになるのである。 (7)宇宙空間起源説 イギリスの天文学者フレッド・ホイル(Fred Hoyle, 1915-2001)は、共同研 究者のウィックラマシンジ(C. Wickramasinghe)と共に、「生命は宇宙から来 た」というユニークな理論を展開している。遺伝子の破片が宇宙から大量に降 ってきており、その遺伝子の破片を取り入れることによって生物は自らの身体 を改造してきたというのである。実さい、落下した隕石の分析、彗星の観測な どから、DNAの構成要素である塩基のほか、アミノ酸などが見つかっており、 彗星や小惑星、隕石、あるいは宇宙をただよう微粒子が、生命に必要な要素を 地球に運んできた可能性は否定できない。しかし、それは生命の材料が飛来し たということであって、生命そのものがいかにして生まれたのかということは 依然として謎のままである。 (8)特殊な遺伝子 分子進化の中立説が提示されてその重要性が認識されていくとともに、遺伝 子の中には、現役の重要な機能を果たしている遺伝子と、引退した用なしの遺 伝子があるのではないかと考えられるようになった。そして実際に、DNAは その内部に「イントロン」と呼ばれる、まったく意味を持たないブランクな部 分をたくさん含んでいることが分かった。さらに、ある遺伝子をコピーして作 られた遺伝子であるが、機能を完全に失っている「偽遺伝子」というものが存 在することも分かった。それではイントロンや偽遺伝子といったものはなぜ存 在するのであろうか。それにたいして、金子隆一・中野美鹿は次のように言っ ている。 13 DNA生物は、常時、次の大飛躍のチャンスをねらって、イントロンや偽 遺伝子に積 極的に変異を呼び込むという戦略をとっているのではなか ろうか。……DNA生物の 遺伝子はそれ自身の中に、つねに次なる大飛 躍に備えてさまざまな変異を蓄えるため の何重にも渡るトラップ(計 (19) 略)を張りめぐらしているように思われる 。 さらにホメオティク遺伝子と呼ばれるものがある。ハエの触覚が脚になった りするなどという、昆虫の付属構造の異常をホメオシスというが、それに関係 している遺伝子がホメオティク遺伝子である。そして各種のホメオティク遺伝 子は、ホメオボックスという共通の塩基配列を持つことがわかってきた。ホメ オボックスは、発生途中で生物の成長パターンをコントロールする遺伝子であ ると考えられている。そしてホメオボックス遺伝子に突然変異が生じると生物 の飛躍的な形質の変化が生じ、大進化論も起りうるのではないかと進化論者は 期待しているのである。 (9)新しい進化の見方 リチャード・ミルトンは進化の新しい見方を提示するにさいして、次のよう な、鍵となる三つの事柄があるという(20)。 1 試行錯誤を必要としない自然界の寸分たがわぬ正確さ。 2 体の発達を制御する細胞レベルを超越した一貫したプログラムの存在。 3 環境が何らかの方法で直接的に個体の遺伝子構造に影響をおよぼしている という可 能性の大きさ。 第一は、進化の中間段階を示す化石がないというによっても示される。すな わち、自然は失敗なしに目標に達しているのである。例えば、ヒトのまぶたは ヒトの目をぴったり覆うというようにできており、まぶたが大きすぎたり、小 さすぎたりというような欠陥をもつ生物はいないのである。 第二の一貫したプログラムの存在において問題になるのは、そのプログラム がどこに組み込まれていて、どうやって引き出され、どうやって実行されるの かということである。遺伝子を統合するプログラムの由来は全く謎である。 第三の遺伝子構造におよぼす影響についてミルトンは、肉体的作用のみなら ず心理的状態も体細胞に影響をおよぼしており、その結果はウイルスによって 生殖細胞に伝達される可能性があると述べている。たとえば疫学者は「癌パー ソナリティ」というものがあると考えている(21)。それは精神的な要素(過度 の不安など)が体や遺伝の要素に転化されるという可能性を認めるものである。 村上和雄も、強い精神的ショックをうけると、たった一息で髪の毛が真っ白に 14 なる例があるように、精神的な作用が遺伝子に影響をおよぼしていると考えて いる。そして、やがて精神作用が遺伝子におよぼす影響が明らかになるであろ うと述べている(22)。 (10)段階的創造 次に統一思想の新創造論の立場から、以上のような事がらにたいして検討し てみよう。ホメオボックスの突然変異、中立突然変異、ウイルスの作用、宇宙 から降る遺伝子などはみな偶発的であり、破壊的なものであって、そこから生 じるのは奇型、病気、怪物などでしかないのであって、生物をより高次元に進 化させるようなものではありえない。より高次なものに進化するためには、偶 発的な力でなくて、創造的な力でなくてはならない。 ダイナマイトをでたらめに爆破させれば破壊作用を起こすだけであるが、計 画的に用いれば創造的な土木工事を推進することができる。生物の場合もそれ と同様である。すなわち突然変異、ウイルス、宇宙からの遺伝子などが偶発的 に作用すれば、生物を傷つけるだけであるが、それらが、計画的に作用すれば 生物は創造的に高次のものへと高まっていくのである。したがって神が計画的 に遺伝子組み換えを行いながら、生物を低次のものから高次のものへと創造さ れていったと見ればよいのである。そしてそのさい、ウイルスを用いたり、宇 宙線を用いたり、宇宙から生命の材料を運んだりした可能性もありうると見る のである。神は最高の遺伝子エンジニアなのである。 新創造論は、キリスト教の特殊創造論が主張するように、文字どおりに、六 千年前に六日間で一挙に宇宙と生物が創造されたのではないと見る。創造は長 い時間をかけて段階的になされたのである。ある一時期において、神からの創 造的な力がインプットされることにより、生物は飛躍的に前進し、新しい種が 造られる。そしてその段階が完成し、次の段階を準備するための一定の期間が 経過した後に、再び創造的な力がインプットされて、次の新しい種がつくられ るというように、段階的に創造されたと見るのである。 イントロンや偽遺伝子の役割について言えば、金子・中野のように「次なる 大飛躍に備えて変異を蓄える」というのではなくて、 「次なる創造に備えて新し い遺伝子を準備する」と見ればよい。 ミルトンが、進化の新しい見方に鍵となる三つの事がらがあるというが、そ れも新創造論の立場から次のように理解される。 第一に、自然は失敗なしに目標を達しているということは、神のロゴスによ って計画的に創造されたのだから、当然のことである。 第二は、細胞レベルを超越した一貫したプログラムの存在である。統一思想 は、すべての存在や現象は性相面(心的要素、機能)と形状面(構造、形態) 15 の二側面からなると見ている。したがって細胞の背後に(特に遺伝子の背後に) 生命そのものが、あたかも電波のように作用していると見るのである。そして それは宇宙に充満している生命の波動につながっているのである。その生命の 波動が遺伝子を統合するプログラムを伴なっていると見るのである。 第三は、精神的要素が遺伝子に影響をおよぼしている可能性である。統一思 想では生物が第一の存在から第二の存在に飛躍するためには、第三の力つまり 宇宙的な力が外部から注入されなくてはならないと見ている。宇宙的な力とは、 神が生物におよぼしている創造力のことであり、精神的な力である。ミルトン がいう精神的要素が遺伝子を変えうるということは、まさに神の創造力の作用 を科学的に認める立場である。 今西の主体性の進化論と、グールドとエルドリッジの提示した断続的進化論 はその外観においてよく似ていた。すなわち生物はごく短時間における飛躍的 な進化と、現状維持の長い停滞期とを繰り返してきたというのである。これら は統一思想の段階的創造論と外観において一致するものである。ただ飛躍的進 化を飛躍的創造に変え、現状維持的な停滞期を一段階が完成するまでの期間お よび次の創造の準備の期間と見ればよいのである。 カンブリア紀における海洋無脊椎動物の爆発的な出現については、それらは やがて創造される魚類、両生類、爬虫類、哺乳類などの材料として造られたも のであると見ればよい。ここで「材料として」という意味は、それ以後の生物 に必要な遺伝子が材料として準備されたということである。 今日、科学者は遺伝子組み換え――DNAの特定部分を切り出し、別のDN Aの中に組み込むこと――を行うようになっている。最近のめざましい例では、 日本の醸造会社「サントリー」が不可能の代名詞ともいわれた「青いバラ」の 開発に世界で初めて成功したことがあげられる。このような遺伝子組み換えに よる変わり種の開発は、神が遺伝子を組み換えて、新しい種を創造されたとき の、その仕組みを科学者たちが学んでいることにほかならない。ただし、最高 の遺伝子エンジニアである神は、種から種へと新しい種を創造されることがで きたのにたいして、人間の場合、同じ種の中での変り種を造るにすぎないので ある。 (四)熱力学の第二法則から見て 熱力学の第二法則(エントロピー増大の法則)によれば、すべてのものは、 自然のままにしておけば、エントロピーを増大させる方向、すなわち無秩序を 深める方向、不規則さを増す方向、崩壊へと向かう。たとえば、誰も住まない 16 で放置された家は壊れていくのであり、生命を失った人間や動物の死体は、崩 れてやがて土に還るのである。 ところが生物の進化はその逆の方向である。すなわち、生物は秩序、複雑さ を増す方向へと発展してきたのである。したがって進化は熱力学の第二法則に 反しているように見える。 ○ 進化論 進化論者は、閉じた系においてエントロピーの増大の法則は成り立つのであ り、地球のような開放系ではエントロピーは減少しうると主張する。すなわち、 太陽がエントロピーを増大させながら、莫大な量のエネルギーを放出しており、 その一部が地球に吸収され、地球のエントロピーを減少させながら、地球上の 生命をはぐくんでいるのであって、太陽系全体ではエントロピーは増大してい るのだという。 この問題に関して、今日、最も影響力のある進化論者のリチャード・ドーキ ンス(Richard Dawkins)は、進化論は熱力学の第二法則に反するという主張は やゆ 〝素人の反進化論者〟がしばしばもち出す主張であると 揶揄して、一蹴しよう とする(23)。 ○ 創造論 生物は、自然界のランダムな力の作用によってではなく、神の言によって創 造されたものであるから、創造はエントロピーが減少する方向であると見る。 ○ 新創造論 英国の科学評論家のフランシス・ヒッチング(Francis Hiching)が指摘して いるように、太陽エネルギーが地球のエントロピーを減少させたという進化論 者の主張は不十分である。ヒッチングは言う。 「[地球上の]進化の進行は太陽エ ネルギーによって、どのように支えられたのか、いかにして無秩序から秩序が もたらされたのか、といった疑問は未解決のままだからである。……太陽の光や 熱は、生物の上にも、無生物の上にも等しく降りそそいでいるが、太陽が廃車 置き場を一〇〇万年間照らしても、さびて壊れた部品がうまく組み合わさって、 再び動く車ができるわけではない」(24)。 家を自然のままに放置すれば、次第に壊れていく。しかし大工のような人が いて、たえず修理、改築、建て替えをしていけば、家は保存され、さらにはよ り発展したものになっていく。それと同じように、生物も自然のランダムな力 (宇宙線、紫外線、雷、海底火山など)の作用にさらされれば、DNAの中の 17 遺伝子に乱れが生じ、生物は劣化していくだけである。しかし遺伝子を修復し たり、組み換えたり、新たな遺伝子を注入する遺伝子エンジニアのような存在 が、その背後に働いているとすれば、生物はそれぞれ同一性を維持しながら、 その中から新しい種の生物が生まれることも可能である。すなわち自然界の物 理的な力の背後に、創造的な力(第三の力、宇宙的な力)が働いていれば、秩 序は増大し、より複雑で高次のものへと生物は発展できるのである。 天文学者、哲学者として、世界各地で教鞭をとったアーナ・A・ウィラー(Arne A. Wyller)は、進化の設計図を描き、DNAを操作する、地球に宿る巨大な知 性である「惑星意識」の存在を提唱している。さらに元米国エール大学医学部 解 剖 学 教 授 で あ っ た ハ ロ ル ド ・ サ ク ス ト ン ・ バ ー (Harold Saxton Burr, 1889-1973)は、宇宙のかなたから不可視の電気力場、ライフ・フィールドが及 んでいて、全地球をおおい、生命を持つものはみな、その中にある設計図のも とに生まれ、形づくられてゆくと言う。ウィラーやバーの、このような見解は 統一思想の創造論を裏づけるものである。 (五)相似性は進化の証拠か、創造の証拠か ○ 進化論 相同器官、痕跡器官、発生反復説は進化を証明するものであるという。そし て、これらは進化の証拠として、今なお世界中の生物の教科書に載っている。 ○ 創造論 人間は神の似姿に創造された。神は万物を創造して、人間に「万物を治めよ」 と祝福された。したがって人間は万物の主人である。しかしながら、人間と万 物は具体的にどのような関係にあるのか、明らかではない。 ○ 新創造論 神のロゴス形成において、人間は神の似姿に構想され、万物は人間の似姿に 構想された。これを「相似性の創造」という。しかし現象世界においては、万 物が先に創造され、人間は万物による環境が整えられてから創造された。 祖先においては同じ器官であったものが、進化の過程で変化したものを相同 器官という。すなわち相同器官は、適応放散の結果、外形や機能は異なってい ても基本構造は同じものである。例えば、ヒトの手と、イヌの前足、クジラの 胸びれなどがそうだという。また、発生起源は異なるが、環境への適応の結果、 18 同じ外形や機能を持つようになった器官を相似器官という。鳥の翼(前足)と 昆虫の羽(表皮)などがその例である。また、祖先の時代には働いていたもの が、進化の過程で働きを失い、退化したと考えられる器官を痕跡器官(退化器 官)という。退化も進化の一つのプロセスと見ているのである。 さいれつ 脊椎動物の胚を比較すると、発生初期はどれもよく似ていて、鰓裂(えらあな) や尾を持つほか、心臓などもすべて一心房一心室の時期を経過する。進化論者 はこれを、動物は個体発生の過程において、進化の道筋(系統発生)をたどり ながら、過去から現在までの過程を再現しているのだと主張している。これは ヘッケル(Ernst Haeckel, 1834-1919)が唱えた「個性発生は系統発生をくり 返す」という発生反復説である。 統一思想によれば、人間は神の形象的実体対象であり、万物は象徴的実体対 象である。つまり、人間は神の性質とかたちを直接的に表すように造られ、万 物は象徴的に表すように造られている。言い換えれば、人間は神に似せて造ら れ、万物は人間に似せて造られているのである。神は愛して喜ぶために、神の 愛の対象として人間を造られ、人間を喜ばせるために、人間の愛の対象として、 また人間の生活資料として万物を造られたのである。 初めに神は御自身に似せて、創造しようとする人間(アダム・エバ)の表象 (イメージ)を心に描かれた。人間の表象とは、人間のデザインのことをいう。 そして、その人間の表象を標本として、それを捨象(単純化)し、変形して、 それぞれの万物の表象を描かれたのである。 相似性の創造という立場から見るとき、相同器官や相似器官は進化の証拠で はないのは明らかである。進化論の立場から見れば、ヒトの手は鳥の翼から進 化したものということになるがそうではない。ヒトの手をモデルにして、それ に似せて、単純化、変形しながら鳥の翼が考えられたのである(図1―2)。イ ヌの前足やクジラの胸びれについても同様である。相似器官に関しても、すべ ての生物は人間に似せて造られたのだから、生物の器官に相似性があるのは当 然である。 痕跡器官に関しても同様なことがいえる。すなわち、進化論者はサルの尾が 退化して、ヒトの尾てい骨になったというが、そうではない。完全なヒトの脊 椎を伸ばして猿の尾が考えられたのである。また胚の成長における類似性も進 化論を証明するものではない。生物は人間に似せて造られたのであるから、生 物の胚の成長のプロセスも、人間の胎児の成長のプロセスをモデルにして考え られたのである。したがって、これも人間を中心とした相似性の創造を示すも のである(図1―3)。 19 (六)人間の誕生 ○ 進化論 今からおよそ六〇〇万年~五〇〇万年前、森からサバンナへと進出したチン パンジーが二足歩行するようになった。やがて道具を使うようになって手が発 達した。次に脳が発達することにより、道具の質が向上し、言葉が生まれ、文 化を発明するようになった。 ○ 創造論 六千年前に、地上の生き物は、一週間の六日目に、それぞれ種類に従って土 から造られた。人間アダム(男性)も土のちりで造られた。そして命の息を吹 き入れられて、アダムは生きた者となった。次に神はアダムを眠らせて、アダ ムのあばら骨一つを抜き取って、エバ(女性)を造られた。 ○ 新創造論 神は低次の存在から始めて、ロゴスと創造力を投入しながら次第に高次の生 物を創造された。すなわち、類人猿を通過しながら原人を造られ、やがて肉体 としては現代人と同じホモ・サピエンスとしてのヒトが造られた。そして選ば れたヒトの一カップルから生まれた子供に霊人体が与えられて、アダムとエバ が創造されたのである。 キリスト教の創造論は、神があたかも魔法使いのように、土のちりから生物 と人間を創造されたというものであって、現代科学の立場からはとうてい理解 しがたいものである。一方、現代の人類学者たちは、ほとんどが進化論者であ るが、彼らの見解によれば、人類の進化のあらましは次のようである。 今からおよそ六〇〇万~五〇〇万年前に、ヒトとチンパンジーの系統が分岐 した。二足歩行する類人猿、アウストラロピテクスが登場したのである。およ そ二五〇万年前、道具(石器)を使う最初のホモ属としてのホモ・ハビリスが 登場した。それから一七〇~一五〇万年前に、ハンドアックスと呼ぶ、より洗 練された石器を使用するホモ・エレクトスが現れた。そして、およそ六〇万~ 五〇万年前、脳の大きさが急速に拡大し、火を使用し、道具を製作する、原始 的なホモ・サピエンスが現れた。 一九七八年、ハワイ大学のレベッカ・キャン(Rebecca Cann)は、カリフォ ルニア大学バークレー校のウィルソン(A. Wilson)、ストーンキング(M. Stoneking)と共同で、米国に住むアフリカ系、欧州系、中東系、アジア系の妊 20 婦、一四七人から胎盤をもらい、ミトコンドリアDNAを抽出して調べた。細 胞の中のミトコンドリアDNAは、両親の遺伝子の混合物である核のDNAと は違い、母親だけを介して伝わり、突然変異でしか変化しないことが知られて いる。彼らの調査の結果、現代人のミトコンドリアDNAの持っている変異は、 二〇万年前にアフリカにいた一人の女性のミトコンドリアDNAに由来すると いう結論に達したのであった。彼女はミトコンドリア・イヴと名づけられた。 さらに、その後のY染色体分析によると、ミトコンドリア・イヴに相対する 男性、アフリカン・アダムが二〇万~五万年前にアフリカに存在していたこと が明らかになったという(25)。Y染色体は男性だけを通じて遺伝されるもので ある。このような事実から見るとき、二〇万年前から五万年前の間に現代人と ほぼ同じ肉体をもったヒト(ホモ・サピエンス)が登場したといえよう。 そして五万年前、 「人類の文化の曙」、 「創造的爆発」、 「偉大なる飛躍」、 「社会 (26) 的ビッグバン」ともいうべき、人類の夜明けが始まったのである 。フラン スのショーヴェ洞窟(Chauve Cave)の壁画は、「先史時代のレオナルド・ダ・ (27) ヴィンチのような芸術家」 が描いた、見事なものであるという。ニューヨー ク大学のホワイト(Randall White)によれば、彼ら(クロマニョン人)は「神 (28) 経機能面の能力としては月に行ける状態にあった」 という。しかしこのよう な人類の進化の説明にたいしては、次のような大きな謎がある。 (1)なぜ類人猿が二足歩行するようになったのか? 森で生活していた類人猿が、なぜ二足歩行するようになったのか、大きな謎 である。人類学者のクライン(Richard G Klein)とエドガー(Blake Edgar) も次のように述べている。 地上で生活する類人猿が二足で歩く利点とは何だろうか。……なぜ二足歩 行かについて、新たな説明が今なお待たれている。……二足歩行の第一の利 点は何か。この問題の決定的結論はいつまでたっても出そうにない。しか し、二足歩行が重要であったことはたしかだ(29)。 実際、チンパンジーの骨格とヒトの骨格を比べてみると、全面的に大きく異 なっている。チンパンジーが森から出てきても、ナックルウォーキングという 前かがみの歩行をするだけであって、物を運んだり、背伸びをしているうちに、 骨格が全面的に大きく変わって、二足歩行に適した構造になるということは考 えられない。ヒトの骨格の設計図(デザイン)が入らなければ、安定した直立 の二足歩行は不可能である。 21 (2)なぜ類人猿の脳が急速に大きくなったのか? クライン、エドガーが「一八〇万~六〇万年前、脳のサイズは現代人平均の 六五パーセントあたりでかなり安定していたが、その後まもなく、同比九〇パ ーセントくらいまで増大した。……六〇万年前のこの脳拡張も安定期を揺るが (30) す一大事件となっただろう」 と語っているように、脳の急速な拡大はヒトの 進化における大事件であった。しかし脳が急速に大きくなった原因に関しては、 まったくわかっていない。生化学者のジェラルド・エーデルマン(Gerald M. Edelman)も、そのことを「古生物学、人類学、考古学の深くて大きい未解決の 問題である」(31)と言っている。 ところでヒトの脳とホモ・ハビリスやホモ・エレクトスの脳とは大きさだけ でなく、構造も大きく異なっている。したがって、脳がただ大きくなればよい というものでもない。実際、ゾウやクジラのように、人間の脳より大きな脳を 持つ動物もいるが、彼らには人間のような知性は見られない。ホモ・ハビリス やホモ・エレクトスが狩猟をしたり、石器をつくったりしているうちに、大き くなるだけでなく、精巧なヒトの脳が自然にできるというようなことはありえ ない。 (3)五万年前に「人類の文化の曙」が起きた原因は何か? 五万年前に起きたといわれる文化的ビッグバンも大きな謎に包まれている。 それに関して、クライン、エドガーは「この第四の事件(五万年前)がいかに ラディカルで重要な意味をもつかは遺物から明らかだが、しかし何がきっかけ (32) でこの変化に拍車がかかったかは何もわからない」 と言い、さらに「ヒト進 化史最大の難問である『曙』そのものについて考えるべき時がきた。 『曙』とは 結局なんだったのか。これは論議の分かれるところだ。今後も当分はひとつの 答えに決着できそうにない」(33)と言っている。 五万年くらい前に何かが起きたのだが、研究者達にとって、 「その変遷をもた (34) らした原因については、推測するほかない」 のである。文化の曙によってレ オナルド・ダ・ヴィンチのような芸術家が現れたこと、彼らは月に行けるほど の知的な可能性を持っていたということは、何を意味するのであろうか。 人間の脳をコンピューターにたとえてみよう。コンピューターが科学者の知 恵をしぼって設計されているように、脳という高級なコンピューターができる ためには、偉大な知性によって設計されなくてはならない。またコンピュータ ーが高度な機能を発揮するためには、高級なソフトがインプットされなくては ならない。人間の脳には言語の文法のような高級なソフトが入っている。しか し、人類学者のイアン・タッターソル(Ian Tattersall)が言うように、「ヒト の脳がこれほど見事に言語能力や象徴的な思考能力を獲得した理由もわかって 22 いない(35)」のである。そのような高級なソフトも偉大な知性によって設計さ れたものと見るしかない。 さらにコンピューターを操作するには、高度な知性をもったオペレーターが 必要なように、脳というコンピューターを動かすには、オペレーターとしての 心的存在(霊人体)が必要なのである。結局、五万年前に文化的ビッグバンを おこしたヒトは、単に肉体だけの動物的存在ではありえない。動物の脳には高 度なソフトが入っていないのみならず、有能なオペレーターもいないのである。 したがって統一思想の立場から見るとき、二〇万年前~五万年前のある時点 で、肉体としてのヒトが造られ、およそ五万年前に、霊(霊人体)を吹きこま れた人間、すなわちアダムとエバが創造されたと見ることができよう。霊人体 は高級なソフトを駆使する、高級なオペレーターであった。 聖書には、土のちりからアダムが造られたと書かれているが、土とは、文字 通りの土ではなくて、広く万物を意味している。したがって神はまず、万物で ある類人猿を造り、彼らを土台にして、肉体としてのヒトを創造されたのであ り、それから一組のヒトの夫婦を選んで、彼らから生まれた子供に霊人体を与 えて、人間アダムとエバが創造されたのである。さらにアダムのあばら骨一本 からエバが造られたとされているが、やはり文字通りのあばら骨一本からエバ が造られたのではない。あばら骨とは、骨組み、設計図を意味している。した がってアダムを造るのと同様な原型、公式でエバは造られたということである。 (七)男と女(アダムとエバ) ○ 進化論 生物はなぜ無性生殖から有性生殖(おしべとめしべ、雄と雌、男と女)にな ったのであろうか。その問題に対して、いろいろと議論がなされているが、明 確な理由は不明である。 ○ 創造論 神は自分のかたちに人間を創造し、男と女に創造された。つまり神は男性的 な要素と女性的な要素をもっておられて、それを分立して、男と女が造られた のである。 ○ 新創造論 神は陽性と陰性の二性性相の中和体である。そのような陽性と陰性の二性性 相を分立して、陽性実体と陰性実体としての男と女、雄と雌、おしべとめしべ 23 をもつ植物が創造されたのである。これを被造世界のペアシステムという。神 がペアシステムの世界を創造されたのは、被造世界に愛と美を展開するためで あった。 なぜ、生物にオスとメスという性が出現したのであろうか。すでに述べたよ うに、この問題は現代の生物学においても、大きな謎とされている。それにた いして、もっとも有力な説は「赤の女王仮説」であるという。ルイス・キャロ ルの『鏡の国のアリス』の中に出てくる「赤の女王」は、いつも走り続けてい ないと同じ場所にとどまれない。つまり、静止していると存在できないのであ る。生物も絶えず変化していないと、存在を維持することが困難である。すな わち、ウイルス等の寄生者に対抗して、自分の子孫を生存させていくためには、 遺伝子の構成を絶えず変化させなくてはならないのである。無性生殖の場合、 子孫は親と全く同じものであるから、一つの寄生者にやられると全滅してしま う。ところが、有性生殖の場合は絶えず子孫の遺伝子が変化していくので、寄 生者に対抗できるのである。これは「性は多様性の創造にある」という主張で ある。 もう一つの見解は「性は遺伝子の保存ために存在する」という主張である。 進化生物学者のリチャード・ミコッド(Richard E. Michod)は次のように述べ ている。 性は損傷や突然変異などの生命を脅かす多くの遺伝子エラーに打ち勝つ。 そしてそうすることでDNA分子は完全になる。性は遺伝子の健全さを維 持し、その永遠性を通じて生命の存続と不死を可能にするのである(36)。 これらは有性生殖の持つ有利な条件ではある。しかしサンエンス・ライター の西村尚子が述べているように、これでは性が現れた理由の説明にはならない のである。 なぜこの世に男と女が存在しているのか――。これが「性をめぐる第一の ミステリー」だ。おそらく有史以来、私たち人間が抱き続けてきた疑問で ある。……しかし、これらはあくまでも、性の存在意識を後から理由づけし た理論にすぎない。実際にどのようにしてオスとメスが地球上に現れたの か、という疑問は相変わらず残っている(37)。 統一思想の観点からいえば、有性生殖の本質的な意義は愛のためにある。す なわち、神は愛の完成を目指して男と女を創造された。動物のオスとメス、植 24 物のオシベとメシベ、鉱物の陽イオンと陰イオンも、やはり愛を表現するもの として造られた。神はそのようなペア・システムを通じて、次第に愛を高めな がら被造世界を創造されたのである。したがって、創造の過程はアダムとエバ による愛の完成を目指した「愛の前進」であった。愛と美は一体となっている。 したがって愛の創造は美の創造でもある。神は被造世界を次第に愛らしく、美 しくなるように、創造されたのである。 生物はペアで造られており、同じ種の中でのペアでしか交配できない。たと え異なる種の間で子が生まれたとしても、それは生殖不可能であって、結局、 異なる種同士では交雜は不可能なのである。そのことを「愛の門」があるとい う。したがって、一つの個体だけが新しい段階に進化したとしても、新しい種 として存在することはできないのである。オスとメスのペアが、ともに新しい 段階に高められなくてはならない。つまり、生物はペアでもって種ごとに創造 されているのである。異なる種のオスとメスが、勝手に「愛の門」を越えて交 わることによって進化していく、というようなことはありえないのである。 (八) 愛の起源について ○ 進化論 進化論は肉体としての進化を論じているのであって、愛がいかにして生じ、 いかにして人間の愛に高まったかについては、ほとんど論じられていない。 ○ 創造論 神の本質は愛である。神は完全な存在であり、自己充足的な存在であるが、 なぜか人間を創造し、愛をそそがれた。人間の愛は神からきたものである。 ○ 新創造論 愛は神からきたものであるが、人間の愛と動物の愛とは次元が異なっている。 神が万物を創造されたのは、人間のために愛の環境をつくるためであり、人間 同士の愛の懸け橋となるためであり、愛の装飾品となるためであった。したが って人間は愛の主人公であり、万物は愛の舞台に相当するのである。 シドニー・メレン(Sydney L.W. Mellen)の『愛の起源』は、進化論の立場 から、愛の起源とその進化を論じた数少ない著作の一つである。シドニー・メ レンは、哺乳類に見られる原始的な母と子の絆が、さまざまな人間の愛に進化 したと次のように述べている。 25 自然選択によって哺乳類、とくに高等霊長類に発達した愛する能力は、ヒ トで原始的な母と子の絆をはるかにこえたものに発展し、さらにいくつか の新しい方向へも拡大していった。男女間の愛や父子の愛、それに同性間 の愛などである。だが生物学的にも文化的にもここまでで愛の進化がとま ってしまったわけではない(38)。 特に男女間の愛に関しては、 「男女間にみられる愛する性質は彼らの生存に非 (39) 常に有利であり、自然選択を通じて豊かに発達していった」 と言う。キリス ト教の愛に関しても、「キリスト教の愛もその他の愛も本質的には同じもので、 イエスとその弟子たちが説き、何世紀にもわたって西洋に光彩を投じつづけた 崇高な愛は、この世のさまざまな愛を総和したものであり神聖化したものであ る」(40)と述べて、やはりその起源は生物学的進化にあると見ている。 このような進化論の見解にたいして、統一思想はキリスト教と同様に、神は 愛から来たものであると主張する。人間の愛と動物の愛に関していえば、人間 の体をモデルとして動物の体が構想されたように、人間の愛をモデルとして、 その愛を象徴的に表したのが動物の愛である。それは人間が、万物を通じて自 己の本性(愛)を相対的に感じて喜ぶように、万物は造られているからである。 人間の愛は、家庭を基盤として、子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛、父母の 愛として実現されるが、それらの愛は、本来、神の愛が分性的に現れるもので あった。 神は、形状(体)において、人間の体を目標として、低次な体から次第に高 次な体へと段階的に創造されたように、性相(心)においても、人間の愛を目 標として、低次な愛から高次な愛へと、次第に愛を高めていくというようにし て、動物界を創造されたのである。そして人間アダムとエバによって愛の完成 を目指したのであった。しかるにアダムとエバの堕落によって、愛は未完成に 終わった。その結果、被造世界には愛の主人公が登場しえなかった。しかし、 愛の舞台である万物世界は主人公のいないまま、今日まで存続してきたのであ り、万物は愛の主人公の登場を切に待ち望んでいるのである。 男女の愛、雌雄の愛は性と密接に結びついている。生物学において、種とは、 一般的に、お互いに交配して子孫を残すことができる生物の集団と考えられて いる。したがって異なる種同士は交雑不可能である。ところが進化論者は種と 種の境界を認めようとしない。リチャード・ドーキンスは人間と類人猿の断絶 は本質的なものでないと、次のように述べている。 人類を現生のチンパンジーに結びつけることができるような、一群の中間 26 型が生き残っていたとしたら、どうだというのだ。……この一握りの中間型 がもはや存在しないのは単なる巡りあわせにすぎない。……たった一人の 生き残りを、見つけるだけでいい。そうなれば、私たちの規範と倫理の厳 密な体系は音を立てて崩れ落ちるだろう。……生き残ったヒト属とチンパ ンジー属のあいだに、たまたま都合よく断絶が生じたとして、それがどう したというのだ?いずれにせよ、動物の扱いを、それらと交雑できるかで きないかに基づいて決めるべきでないというのは確かである(41)。 統一思想から見れば、種と種の間には「愛の門」があり、異なる種同士は交 雑できないようになっている。それは神が生物界を、それぞれの種がユニーク な個別性を現すように、種類に従って創造されたためである。したがって、各 種の生物はユニークな姿をしていると同時に、ユニークな愛らしさを現すよう に創造されているのである。そういう意味では、キリスト教の創造論が主張し ているように、種は不変性を維持しているのである。ドーキンスが言うような、 人間と類人猿の交雑可能性などはありえない。人間と類人猿の交雑などがおき れば、神の創造目的である、人間の男と女による愛の完成は崩壊することにな るからである。 (九)進化、創造のプロセス ○ 進化論 進化の総合説(ネオダーウィニズム)によれば、進化のプロセスは次のよう である。 ① 突然変異が進化の素材を与える。 ② 自然選択が進化の方向を決める。 突然変異とは、宇宙線、紫外線、雷などによる、偶然的で、ランダムな変異 であり、その中で、まれにおこる有益な変異をもった生物が選択されて生き残 る、というようにして進化は進んでいくという。 ○ 創造論 ヨハネによる福音書に「初めに言があった。言は神と共にあった。……すべて のものは、これによってできた」とあるように、初めに神の心の中で言が形成 された。そして、その言によって全ての被造物が造られたのである。 ○ 新創造論 27 キリスト教と同様に、初めにロゴス(言)が形成され、次いでロゴスによっ て被造世界が造られたと見る。ロゴスとは、口から発する言葉のようなもので なくて、被造世界にたいする神の構想であり、設計図である。ロゴスの形成は、 人間から始って高次な生物から次第に低次な生物というように下向的になされ た。ところが被造世界の創造は、その逆に、低次な生物から次第に高次な生物 へ、そして最後に人間というように、上向的になされたのである。これを「創 造の二段構造」という。 聖書に「家はすべてだれかによって造られるものであるが、すべてのものを 造られたかたは、神である」 (へブル人への手紙三・四)とある。実際、どんな に質素な丸太小屋であっても、台風やハリケーンで、木が吹き飛ばされて、う まく組み合わさってできたと考える人はいないであろう。進化論者のいう突然 変異とは、星の爆発から来る宇宙線、太陽の核融合反応(巨大な水素爆弾)か ら来る紫外線、そして雷など、まさに台風やハリケーンと同様なランダムな力 の作用によるものである。そのような突然変異によって、構造や性質において、 次第に高次元なものに進化していくということはありえない。次に統一思想の 主張する「創造の二段構造」について説明する。 創造に先立って、神の心の中で、神の直接的な愛の対象として人間の姿(表 象)が描かれていた。 「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のか たちに創造し、男と女とに創造された」 (創世記一・二七)とあるように、人間 (アダムとエバ)は神の似姿として、最も完全なものとして考えられたのであ る。その人間の表象を標本として、それを捨象して動物の表象を描き、それを さらに捨象して植物の表象を描かれた。動物の中でも、まず人間に近い高級な 動物の表象を描き、その表象を捨象しながら次第に低級で単純な動物の表象を 描かれた。植物の表象も、高級な植物の表象から次第に低級な植物の表象が描 かれた。そして動物と植物の表象を捨象していった極限において細胞の表象が 描かれた。細胞は生物を構成する最小単位として考えられたのであった。 次に動物、植物の表象を捨象して天体の表象が描かれた。なかでも人間の住 み家として考えられたのが、水の惑星、地球であった。次に天体をつくる材料 としての鉱物の表象が描かれた。さらに捨象を行って、分子、原子、素粒子の 表象が描かれた。それらは鉱物、天体、植物、動物、人間をつくるための基本 的な素材として考えられたものであった。そして最後に、究極的な素材として 光(電磁波のエネルギー)が考えられたのである。 このように、神の心の中では、人間→動物(高等な動物→低級な動物)→植 物(高等な植物→低級な植物)→天体→鉱物→分子→原子→素粒子→エネルギ ーという順序で表象が形成されたのである。それは神がロゴスを形成されたこ 28 と、すなわち被造世界の設計図をつくられたことにほかならない。 ところが、現象世界の創造は、ロゴスの形成とは逆の方向から行われた。つ まり、ビッグバンと呼ばれている大爆発から素粒子、原子、分子が現れ、それ らの原子、分子が結合することによって、鉱物からなる天体が形成された。そ して、天体の中で一つの特別な惑星である地球が形成され、地球上に、植物が 現れ、動物が現れ、最後に人間が現れたのである。 ここで留意すべきことは、すべての植物が創られた後に動物が創られたので はないということである。植物界が動物界よりわずかに先行したが、両者はほ ぼ同時的に、それぞれ低級なものから高級なものに向かって創造されたのであ る。なぜなら植物と動物は互いに相手を必要とする共存、共栄の関係にあるか らである。 このように、創造はまず神の心の中でロゴスの形成が行われ、次いでロゴス に従って現象世界の創造が行われたのである。これを「創造の二段構造」とい う(図1―4参照)。生物界における創造の二段構造(図1―4の枠でかこった 部分)において、現象世界に現れた第二段階だけを見ると、生物は単純で低級 なものから複雑で高級なものへと進化したように見える。すなわち植物界にお いては、藻類→コケ植物→シダ植物→裸子植物→被子植物へと進化したように 見え、動物界においてはアメーバ→無脊椎動物→魚類→両生類→爬虫類→哺乳 類→類人猿へと進化したように見える。しかしそれは進化ではなく、ロゴスに 従って計画的になされた創造なのである。 ところでロゴスの形成において、捨象のプロセスだけでなく、もう一つの変 形というプロセスがあった。人間の表象を捨象して動物の表象を描いたという ときの動物の表象は抽象的なものであった。次に抽象的な動物の表象を変形し て、さまざまの個別的な動物の表象を描かれたのである。たとえば鼻の長いも の(ゾウ)、首の長いもの(キリン)、毛の多いもの(羊)、力強いもの(ライオ ン)などが考えられたのである。植物の場合も、同様に、抽象的な植物の表象 を変形して、花を強調したもの(バラ)、果実を強調したもの(スイカやリンゴ)、 種を強調したもの(麦)などが考えられたのである。 天体においても、抽象的な天体の表象を変形して、水の惑星(地球)、地球を 小天体の衝突から守る惑星(木星)、輪のある惑星(土星)、光と熱を発する星 (太陽)などが考えられたのである。さらに抽象的な原子の表象を変形しなが ら水素原子、酸素原子、炭素原子、窒素原子などが考えられたのであり、抽象 的な素粒子の表象を変形しながら電子、陽子、中性子、ニュートリノなどが考 えられたのである。以上ようなロゴスの形成における捨象と変形のプロセスを 図1―5に示す。 古代ギリシアの哲学者アナクシマンドロスは、人間は魚類が変形して生じた 29 と説き、プラトンは逆に、魚類や鳥類は人間退化の産物だと説いた。プラトン は人間を中心としたイデアの世界を見ていたのであり、アナクシマンドロスは 現象世界を進化的に見たのである。すなわちプラトンは統一思想のいう創造の 二段構造の第一段階であるロゴスの形成を見ていたのであり、アナクシマンド ロスは第二段階である被造世界の創造を見ていたといえよう。 一八世紀末から一九世紀始めのフランスの博物学者、ジョフロア・サン・テ ィレール(Geoffroy Saint-Hilaire, 1772-1844)は、すべての動物は一つのタ イプから導かれると考えた。つまり一つの典型的なパターンあるいは「原型」 があり、それを変形していくことにより、すべての生物を導くことができると いうのである。ジョフロアは一種の神の秩序のようなものを信じていたという。 また同時代のゲーテ(Goethe, 1749-1832)もやはり「原植物」とか「原動物」 なるものを考えて、原植物からすべての植物が導かれ、原動物からすべての動 物が導かれると考えていた。 ジョフロアやゲーテの見解は統一思想における「ロゴスの形成における捨象 と変形のプロセス」から見て肯定されるものである。ただし統一思想において は、原植物にも、原被子植物、原裸子植物、原シダ植物、原コケ植物、原細胞 というように段階があり、原動物にも、原類人猿、原哺乳類、原爬虫類、原両 生類、原魚類、原無脊椎動物、原細胞という段階があると見るのである。 当 時 のフ ラン スでは 、比 較解剖 学の権威で あっ た キュ ヴィ エ ( Cuvier, 1769-1832)が、動物には基本的な四つの型があって、それらは互いに変換でき ない(類似性がないということ)と主張し、ジョフロアの説は退けられた。し かし神の創造の原理が明らかになるにしたがって、ジョフロアやゲーテの主張 が再評価されるようになるであろう。 すでに指摘したように、自然選択の問題点として、キリンの長い首に関連し てオカピのワンダーネットの謎があった。それに関して金子隆一は次のように 言っている。 この事実に対する、唯一の筋の通った解釈は、キリンの祖先が木の葉を食 べるために首を伸ばす決心をかため、将来を見越してワンダーネットを準 備していた、というものである。つまり、キリンの進化は合目的的に進ん だという、大変な結論になってしまうのである。このような例は、生物界 に続々と見つかっている。この謎に答えられる進化論こそが、一番正しい 進化論ということになる(42)。 このような進化論の難点にたいして、新創造論は次のように答えることがで きる。神は、構想においては、高等な生物をモデルにして、それを単純化し、 30 変形しながら低級の生物が考えられたのであるが、実さいには低級のものから 先に創造されたのである。したがってオカピがキリンの祖先型であるというこ とは、キリンをモデルにしてオカピが構想されたということである。言い換え れば、オカピはキリンを目指して創造されたのである。そのように見れば、オ カピにもワンダーネットが存在していることが理解されるのである。 (十)創造(進化)の主体は何か ○ 進化論 自然選択が進化の原動力である。したがって進化論では、神に代わって自然 選択が創造主の位置に立っている。 ○ 創造論 神は全知全能な方であり、創造主である。全ての被造物は、神によって、神 のみ心のままに創造された。 ○ 新創造論 神は一〇〇パーセントの創造性をもっておられるが、そのすべてを発揮され るのではなくて、創造性の一部分を人間に与えられた。人間を万物の主管主、 創造主にされるためである。比喩的にいえば、神は一〇〇パーセントの創造性 のうち九七パーセントを発揮されて、あとの三パーセントを人間に委ねられて いるのである。 もし神がすべての万物を一〇〇パーセント完全に造られて、人間は何もする ことなく、ただ万物をながめるだけ、取って食べるだけであるならば、人間は 万物と何ら変ることなく、万物の主管主、創造主とはいえないであろう。そこ で神は人間を万物の主管主たらしめるべく、人間に創造のわざの一部を委ねら れたのである。 たとえば神が野生の蘭を造られた。それを人間が改良し、見事な蘭の花をつ くりあげた。それによって、その蘭を育てた人は、その蘭の創造者とみなされ るのである。りんごやぶどうもそうである。神は野生のりんごやぶどうを造ら れた。それを人間が改良して、 「フジ」とか「巨峰」のような見事なりんごやぶ どうを造ったのである。 科学の発展もそうである。神は自然界に、法則を定め、必要なエネルギーや 材料を準備してくださった。また万物の中にいろいろなモデルをつくってくだ 31 さった(たとえば鳥は飛行機のモデルである)。そのように神が準備してくださ ったものを基盤として、科学者は創造性を加えて、科学技術を発展させてきた のである。 動物も創造性をもっているが、動物の創造性とは次のようなものである。 ①本能的な創造性:鳥やハチの巣造り、ミツバチの蜜の収集、ビーバーのダム 作りなどがある。 ②環境に適応する能力 ③学習する能力:人間が訓練すれば、高級な動物はある程度まで、学習する ことができる。 しかし動物には人間の創造性のような、自ら構想を生み出し、技術を発展さ せていくというような、発展的な創造性はない。実際、鏡を見て化粧するサル はいないし、料理をするグルメなサルもいない。まして小説を書くサルもいな いし、作曲するサルもいないのである。 自然界の無秩序な力には、動物の持っている創造性すら見られない。しかる に、進化論者たちは自然選択を作曲家、詩人、彫刻家、シェークスピア等にた とえた。ダーウィニズムが目指すところは、創造主である神を退け、自然選択 を創造主の位置に据えることにあったのである。 (十一)進化論と創造論を共に生かす統一思想 統一思想から見て、進化論はすべて間違いというのではない。現象的に、結 果的に見るとき、生物は進化するように見えるのであって、進化論が登場した のは、ある面では当然のことであった。実際、進化論が主張している進化のプ ロセスは認めるべきである。ところが進化論は、宇宙線、紫外線、雷などの無 秩序な力によって、ランダムな突然変異がおきて、その中から有益なものを自 然が選択することによって進化したという。それが問題である。ランダムな突 然変異ではなくて、創造的な力が及んで遺伝子を組み換えながら、生物は低次 なものから次第に高次なものへと、段階的に創造されたと見るべきである。そ のとき、創造的な力は、宇宙線、紫外線などを用いて、さらには遺伝子を操作 するためのウイルス、プラスミド、ファージなどのベクターを用いて、作用し たと見ればよい。彗星などで遺伝子のかけらやアミノ酸などが形造られて、そ れが地球にふりそそいで、さらに地球上でDNAやたんぱく質が合成されたと 見ることもできよう。そのように見ることによって、統一思想の新創造論は進 化論の誤りを正しながら、進化論を包容していくことができるのである。 他方、キリスト教の創造論は、全知全能の神が、あたかも魔法使いのように、 32 六千年前に六日間であっという間に宇宙と生物を創造したという。しかし、そ の数字は象徴的なものである。実際は、時間をかけながら、構想に従って、力 (エネルギー)を投入しながら創造されたというように、補って考えれば、そ して創造の目的、人間と万物の関係を明らかにすれば、キリスト教の創造論も 科学時代の今日に、蘇生することができよう。つまり魔法使いのような神とし てではなく、最高の科学者、最高の芸術家としての神として捉え直すのである。 ここで、聖書に書かれた六日間の創造の記録を現代科学の立場から解釈しな おして、神の創造の過程を見てみよう。 ① 第一日 ――「光」による宇宙の創造―― 第一日に神が「光あれ」と言われると「光があった」と聖書は記録している。 これは現代科学の立場から見れば、インフレーションとビッグバンによって、 宇宙が形成されたことに相当する。 一三七億年前におきたビッグバンにより、放射線(電磁波)が広がってゆき、 その中で水素とヘリウムの原子が生まれた。やがて放射線と原子からなるガス は急速に冷えていった。そしてあちこちで小さなガスだまりができた。そして 巻きひげのような、薄いガスの巨大な雲がいくつもできた。それはゆっくりと 回転していたが、その中に数千億もの光る点が現れた。そして、たくさん生じ た巨大な回転するガスの雲はやがて銀河の群れに発展していった。宇宙の創造 であった。 ② 第二日 ――「水」の惑星の誕生―― 聖書によれば、第二日に「おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けら れた」と記録されている。これは現代科学の立場から見ると、四六億年前の生 まれたばかりの原始地球の状態に相当する。地球は高温の水蒸気を主とする大 気(上の水)に覆われていたが、やがて大気は冷えて豪雨となって地表に降り そそぎ、海(下の水)をつくったのである。水の惑星である地球の誕生であっ た。 第三日 ――海と陸(「土」)の形成―― 聖書によれば、第三日に「海と陸が造られた」とされている。現代科学によ れば、地球が水で覆われ、一面の海となってから間もなく、陸の芯のようなも のが現れはじめ、やがて大陸が形成されたと考えられている。海の中から陸(土) が盛りあがってきたのである。陸がいつ、いかにして形成されたのか、まだ明 らかにされていないが、三五億年前から二〇億年前の間に大陸は形成されたと いう。 4 33 約四〇億年前、海の中で最初の生命であるバクテリアが生まれた。そして約 三五億年前には、らん藻類が生まれて、光合成反応により酸素をつくり出した。 大気中には二酸化炭素が充満していたが、海に溶けた二酸化炭素は炭酸カルシ ウムとなって沈殿、堆積し、石灰岩となった。石灰岩は海洋プレートの沈みこ みとともに、大陸の中に取りこまれていった。そうして大気中の二酸化炭素は しだいに減少し、大気はやがて窒素が主成分となった。 第四日 ――酸素のある「空気」の形成―― 聖書によれば、第四日に、 「大きな光(太陽)と小さな光(月)と星が造られ た」とされている。しかし実際には、この時、すでに太陽と月と星は存在して いた。したがって、これは地球を取り巻く大気が晴れわたり、地球上から見て、 太陽と月と星がくっきりと見えるようになったと理解すべきである。 らん藻類の光合成によって海の中で発生した酸素は、海の中で鉄イオンを酸 化させて酸化鉄を沈殿、堆積させた。それが今日の鉄鉱石となった。今から約 二〇億年前、酸化鉄の沈殿は終り、酸素は大気中に放出されるようになった。 地球の大気は、初めは灰色っぽい厚い霧状の層であったが、酸素の蓄積によ 5 ってゆっくり変化しはじめ、空がだんだん青くなりはじめた。青い空は光合成 生物の繁殖によって、まず海が、そして後に陸上が緑化した結果、もたらされ たものであった。地球は約二〇億年前から、ゆっくりと青くなっていき、 「青い 惑星」になったのである。 約六億年前、海の中は、バクテリアや藻類よりはるかに高級な多細胞生物が 住める環境になった。そして約五億三五〇〇万年前には、 「カンブリア紀の爆発」 と呼ばれる海洋無脊椎動物の大量の出現を迎えた。 サンゴをはじめとする石灰質の殻をつくる生物が海の中に溶けた二酸化炭素 を石に変えてゆき、空気中の二酸化炭素をさらに減少させた。そして大気中の 二酸化炭素は、いつしか〇・〇三パーセントという現在の状態にまで減少した。 陸上にも低級な生物が出現していたが、その中で、ミミズがせっせと土を柔ら かい肥沃な土壌に変えていた。 こうして約四億年前、高級な生物が地上に住むことのできる環境が準備され たのである。その時、大気中の酸素の濃度は現在と同じ二一パーセントになっ ていた。こうして、われわれが住むのに適した光と水と土と空気のある地球が できあがったのである。 ⑤ 第五日 ――大森林と恐竜の時代―― 聖書によれば、第五日には「水の生物(魚)と空の鳥」を造られたとされて いる。現代科学によれば、この時代は、植物としてはシダ植物と裸子植物が繁 34 茂し、海には魚類、陸には両生類と爬虫類が繁殖した。 約四億年前、新古生代を迎えたが、最初のデボン紀には海の中で魚が大量に 繁殖し、魚類時代と呼ばれた。植物ではコケ類から始まって、シダ植物の時代 を迎えた。シダ植物はまず草木の形で繁殖し、だんだん大型の木となり、やが て石炭期の巨大な大森林をつくった。しかし、それは花もなければ、虫も鳥も いない、まさに沈黙の世界であった。 やがて裸子植物(針葉樹)が登場した。樹木は花をつけるようになったが、 まだ花びらはなく、花粉を空中にまき散らしていた。地上では、両生類に続い て、爬虫類が繁殖し、中生代に入ると巨大な爬虫類である恐竜の時代を迎えた。 やがて空には鳥が飛ぶようになった。 この時代は、神の創造において、まだ環境づくりの時代であった。すなわち 人間を中心とした、哺乳類と被子植物(顕花植物)の世界、愛と美の世界をつ くるための前段階の時代であった。そのために、巨大なシダ植物の大森林も、 巨大な爬虫類の恐竜も、環境づくりを終えると消えていった。中生代の裸子植 物の多くも消えていった。次の新生代の被子植物と哺乳類、そして人間に舞台 をゆずったのである。 第六日 ――創造目的の完成の時―― 聖書によれば、第六日に「家畜と這うものと獣、そして最後に人間が造られ た」とされている。約六五〇〇万年前、新生代を迎えた。植物においては被子 植物の時代となり、動物においては哺乳類の時代となった。藻類、コケ類、シ ダ植物、裸子植物は、それぞれ今でも生存しているが、わき役となった。また 動物において、無脊椎動物、魚類、両生類、爬虫類、鳥類などが、やはりわき 役となった。 最後に人間始祖のアダムとエバが誕生して、人間を中心とする世界ができた。 それは神の愛の理想が完成する世界であった。動物において、雄と雌が愛のド ラマを展開し、植物において、雄しべと雌しべが授受しながら愛の花を咲かせ、 美の世界を展開した。そして万物のつくる愛の環境の中で、アダムとエバが愛 の主人公として、最高の愛を実現するようになっていたのである。聖書による 六日間の天地創造の記述と、現代科学の立場から見た創造の過程を図にまとめ ると、図1―6のようになる。 以上のような創造の過程を見るとき、神は一瞬のうちに、魔法の杖を振るよ うにして、宇宙をつくり、海と陸、空気をつくられたのではないことが分かる。 長い時間をかけながら、計画的に、科学的に、人間と生物が生存しうる環境(地 球)を造られたのであり、やはり時間をかけながら、低級なものから高級なも のへと、段階的に、生物を創造し、最後に人間を造られたのである。 6 35 進化論と創造論の論争は、今もなお、互いにすれ違ったまま、激しく行われ ている。しかし、このままでは両者の主張は平行線をたどるばかりである。統 一思想の新創造論はこの論争を収拾しうるものである。 36 37 図 1-2 人間を中心とした相似性の創造を示す相同器官 38 図 1-3 人間を中心とした「相似性の創造」を示す個体発生 (出所)ジョナサン・ウエルズ『進化のイコン』(コスモトゥーワン、143 頁)。元の図を並べ換えた。 39 図 1-4 創造の二段構造 40 図 1-5 ロゴスの形成における捨象と変形 41 図 1-6 聖書の記述と現代科学の対照 42