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考古学ジャーナル 2011年5月号 (立ち読み)

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考古学ジャーナル 2011年5月号 (立ち読み)
特集 斎宮跡発掘40年
柳原区画の実態
― 最近の調査成果から ―
The current condition of the Yanagihara District
: results of recent research
Profile
1997年 奈良大学文学部卒業
1997年 斎宮歴史博物館
2011年4月から現職
かくしょう
よしひろ
角正
芳浩(斎宮歴史博物館)
Yoshihiro Kakusyo ● Department of Social and
Cultural Affairs.Mie pref.
はじめに
斎宮跡は,昭和54年度に国史跡に指定され,三重
県教育委員会の斎宮跡調査事務所が中心となって
史跡の実態解明のための学術的発掘調査を行い,
平成元年度に斎宮歴史博物館が開館して以後は,
発掘調査・整備・普及の拠点として機能してきた。
2.遺構の変遷
これまでの発掘調査によって明らかになってき
た柳原区画の大筋での遺構の変遷過程を記述す
る。
(図2)ただし,現段階でのものであり今後の
検討によって変更する可能性がある。
(1)柳原区画第一段階
平成8∼13年度にかけての,史跡中央部での
①斎宮Ⅰ-4期(8世紀後葉)
「いつきのみや歴史体験館」や「斎宮跡歴史ロマン
方格地割造営前後の時期に相当する。区画の東
広場」といった大規模整備以後は中断していたが, 西および南北の中軸線付近には,溝SD1332・
その後,史跡東部での整備事業への期待が高まっ
9044が掘られており,区画を4等分する意図があ
てきたことから,平成18年度に史跡整備のあり方
ったように考えられる。区画南半には倉庫とみら
検討会を開催し,柳原区画を中心とした史跡東部
れる総柱建物SB0263・1050がある。北半にも一
における整備の方向性が示された。これに基づき,
平成19年度から3カ年計画で,史跡整備の根拠と
なる当該区画の性格を解明するための学術調査が
重点的に進められてきた。
1.柳原区画の概要
柳原区画は,方格地割の東から4列目,北から
2列目に位置しており,方格地割のほぼ中央にあ
たる。柳原区画では,これまでに第8-10次(範囲
確認トレンチ調査)・第10次(広域圏道路)・第20
次・第28次・第143次・第152次・第153次・第157
次・第159次・第167次調査を実施し,調査可能箇
所の約85%の調査が完了している。
(図1)その結
果,古代伊勢道や方格地割の区画道路の他,区画
の中央部から南部にかけて庇を伴う大型の掘立柱
建物が複数棟確認された。中でも,四面庇付建物,
三面庇付建物,東面庇付建物の3棟は,中央に広
場を設けるように計画的に配置されており,斎宮
寮における寮庁の儀礼的空間と考える説が有力と
なってきた。
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考古学ジャーナル 613, 2011
図1
柳原区画調査箇所
□□□□□□□□
柳原区画の実態 ● 角正 芳浩
□□ □□
図2
柳原区画遺構変遷図
辺1mを超える大型の柱掘形をもつ側柱建物
SB9900などがあり,これも倉庫建物と考えられ
る。建物の棟方向は,方格地割に沿ったN4℃W前
後のものが多い。この段階の柳原区画は,倉庫を
中心とした実務官衙域的な性格を持っていたもの
と考えられる。
②斎宮Ⅱ-1期(8世紀末∼9世紀初頭)
桓武朝の本格的な方格地割の造営が行われた段
階と想定される。前代までの倉庫建物は見られな
くなり,建物の棟方向は,N4°W前後のものと正
方位に近いものとが混在するようだが,現段階で
は前後の段階と建物の時期判断が困難なものが多
く今後の検討が必要である。
(2)柳原区画第二段階
③斎宮Ⅱ-1∼2期(8世紀末∼9世紀前葉)
ほぼ東西正方位の溝SD1326を境に,区画を南
北に2分する構成となる。南北で建物の様相は明
確に異なる。南半には区画のほぼ中央部に四面庇
付建物SB9800(写真)が建ち,この前面に三面庇
付建物SB1080と東面庇付建物SB9003が建てられ
る。この3棟に囲まれて,井戸SE9835を伴う「ニ
ワ」的空間が広がる。一方,北側には3間×2間程
度の小規模な東西棟が規則的に配置される。
(3)柳原区画第三段階
④斎宮Ⅱ‐2∼3期①(9世紀前葉∼後半)
前代のSB9800を北へ約8m移動した位置に同形
考古学ジャーナル 613, 2011
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特集 斎宮跡発掘40年
斎宮跡の祭祀遺構と遺物
Religious relics and artifacts found at the Saiku ruins
しんみょう
Profile
1996年3月 大阪市立大学Ⅱ部文学部卒業
1997年4月 三重県埋蔵文化財センター
2008年4月より現職
新名
強(斎宮歴史博物館)
Tsuyoshi Shinmyo ● Saiku Historical Museum
御門神八座・御井神二座・卜庭神二座・地主神二
座」の合計17座が斎宮内に所在している。
はじめに
斎宮跡では,昭和45(1970)年以来,これまでに
217,000m 2を超える発掘調査が行われ,祭祀に関
わると思われる遺構や遺物が多数確認されてい
る。遺構としては,地鎮や井戸祭祀と考えられる
ものが確認され,遺物としては土馬や小型模造品,
吉祥墨書土器や人面墨書土器,刻書・刻画土器,
刀形木製品,製塩土器などが祭祀に関わるものと
して考えられている。
1.文献に記された祭祀
斎宮でどのような祭祀が行われていたか,記録
には詳しく残されていない。『延喜斎宮式』には
斎宮で行われた年中行事や祭祀についての行事名
および支給品のリストが記されており,ここから
斎宮内で行われていた祭祀の一端を窺い知ること
ができる。斎王は六月と十二月の月次祭,十一月
の神嘗祭については,伊勢神宮に赴き祭祀に携わ
っていたが,斎宮内でも多くの祭祀が行われてい
たようである。主なものでは,清浄な火を作り出
すための「忌火,庭火祭」,斎王の身体や身辺を占
う「卜庭神祭」,宮殿に災害が及ぶことを防ぐ「大
殿祭」,境界内に禍をもたらすものを防ぐ「道饗
祭」,火災を防ぐための「鎮火祭」などが挙げられ
る。年中行事では,正月の「元日節会」
「白馬節会」
「踏歌節会」をはじめ,五月の「端午節会」,七月の
「相撲節会」,九月の「重陽節会」の合計6回の節会
が行われていた。また,六月と十二月には身体の
穢れを祓う「大祓」も行われており,斎宮内では,
祭祀に関わる行事が頻繁に行われていたことが窺
える。このほか,斎宮の祈年祭神として115座が挙
げられ,そのうち大社とされた「大宮売神四座・
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つよし
2.地鎮遺構
斎宮跡では,4ヶ所の遺構で複数の銭貨が土器に
収められた状態で確認されており,いずれも地鎮
に関わる遺構と考えられている。第130次SX8310
では,須恵器杯身・杯蓋の中に4枚の和同開珎が納
められていた。和同開珎には繊維の付着痕跡見ら
れ,布状のものにくるまれていたか,袋に入れて納
められていたと思われる。第118次SX7860(写真1)
では,土師器高杯によって蓋がされた杯内に5枚の
和同開珎が納められていた。これらの和同開珎は
新和同に分類されるもので,いずれも文字面を下
にして置かれ,蓋がされるなど共通した意識のも
とで埋納された可能性がある。ともに,平安時代
前期の掘立柱建物の柱穴近くに埋納されているこ
とから,建物に関わる地鎮の可能性も考えられる。
第95次SX6666(写真2)からは,土師器壺と12
点の土師器皿とともに銭貨が出土している。壺は
横転していたが,埋納時は正立し,杯で蓋がされ
ていたと考えられる。壺は体部に大きな穿孔がさ
れ,中に21枚の銭貨と白色粘土片が納められてい
た。銭貨は腐食のため,4枚が延喜通寳と確認で
きたのみであるが,他の銭貨も同種のものと思わ
れる。第99次SX6900でも,土師器壺と4点の土
師器皿が出土し,体部が大きく穿孔された壺の内
部に10枚の銭貨と2個の白色粘土玉および白色粘
土片が納められていた。銭貨は銹着や腐食が激し
く,6枚が延喜通寳と判別できたのみであるが,
銭貨の形態よりすべて同種のものと思われる。延
喜通寳は直径1.9cm程度とやや小振りで,SX6900
から出土したものには裏面が鋳ズレしたものも見
考古学ジャーナル 613, 2011
斎宮跡の祭祀遺構と遺物 ● 新名 強
写真1
地鎮遺構出土遺物(第118次SX7860)
られる。SX6666とSX6900の土師器壺は,斎宮跡
ではこれ以外には出土していない器形であり,祭
祀のために作られた特別なものであった可能性が
考えられる。土師器皿は,いずれも平安時代中期
のものであり,埋納形態も酷似することから,ほ
ぼ同じ時期に埋納されたか,同様の目的で祭祀が
行われた可能性が考えられる。
また,これら以外の土坑から雲母片や長石塊が
出土するものがあり,地鎮等の祭祀に用いられた
可能性も考えられる。
3.井戸祭祀
斎宮跡では,5箇所の井戸跡より,祭祀と考え
られる遺物が出土している。第37-4次SE2460から
斎串が出土したほか,第52次SE3260からは銅製儀
鏡・石帯・小型模造品の托が,第61次SE4050では
刀形木製品・人面墨書土器・墨書土器「井」が,
第84次SE5880からは木製横櫛・線刻土器・墨書土
器「冨」が,第90次SE6410からは木製横櫛・斎
串・桃の種子が出土している。これらは,概ね井
戸の底部や下部から出土しており,井戸に関わる
祭祀が行われたものと考えられる。『延喜斎宮式』
では,野宮で井神祭が行われており,斎宮でも御
井神二座が祭られていることから,斎宮内でも井
戸に関わる祭祀が行われていたものと考えられ
る。また,SE4050では,馬歯4本も出土しており,
井戸の廃絶に伴う祭祀が行われた可能性が考えら
れる。このほか,第83次SE5850からは,土師器皿
の底部外面中央に「□福」と書き,それを囲むよ
うに「福」の字が多数書かれているものや,高杯の
写真2
地鎮遺構出土遺物(第95次SX6666)
杯部内面および脚部外面に「厨」と書かれたもの,
吉祥文字と思われる墨書土器,土錘,多量の製塩土
器が出土している。これらは,井戸の底部から出
土したものではなく,井戸祭祀に使用されたもの
ではない可能性もあるが,何らかの祭祀に関わる
ものとして興味深い資料である。
4.土馬
土馬は破片もあわせて40点を超える数が確認さ
れている。土馬は馬具などの表現方法によって4
つに分類されている。馬具を全て粘土紐の貼付で
表現したものや馬具類を粘土紐と線刻で表現した
もの,馬具では鞍のみを表現したもの,馬具の表
現を持たないものがあり,つくりや馬具などの表
現が丁寧なものから簡素なものまで様々である。
土馬は斎宮では奈良時代から見られ,平安時代前
期に終焉を迎えるようである。出土する土馬は,
概ね簡素なつくりのもので,頭部や脚部が欠損す
るものや頭部のみが出土する場合が多い。
第3次調査の大溝出土の土馬(写真3 上段中央)
は,頭部および脚部・尾部が欠損するが,現存長で
30cm近くあり,全国最大級の土馬である。鞍や面
繋・手綱・胸繋・尻繋・障泥・紐類などを粘土紐
で表現しているほか,全体を朱彩し,竹管刺突によ
る装飾が施されるなど丁寧なつくりのものである。
土馬は,斎宮跡の全域から出土しているが,特
に史跡西部の第3・4次調査区と史跡東部の第80次
調査区に集中する。また,史跡西部では,形式的
に同形のものが2点づつ出土しているのに対し,
史跡東部では単発的な出土であることから,土馬
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遺 跡 速 報
福岡県 田熊石畑遺跡の調査2
Research 2 of Taguma Ishihatake site in Fukuoka prefecture
しらき
ひでとし
白木
英敏(宗像市郷土文化学習交流室)
Hidetoshi Shiraki ● Munakata City Office
はじめに
田熊石畑遺跡の発掘調査成果につ
いては,本誌No.593(2009年)におい
て速報を行った。今回は,平成22年度
に実施した自然化科学分析調査につ
いての概要を紹介する。
1.田熊石畑遺跡の概要
本遺跡は宗像市の中央西部に位置
し,市内を貫流する釣川中流左岸の支
流間に形成された標高12mほどの河
成段丘上に立地する。
調査は民間の開発事業に伴い,平成
20年4月より始まり,弥生時代前期後
写真1 墓域出土装身具(1・2・4・6・7号墓)
半から中期にかけての集落跡と,弥生
時代中期前半の墓域を検出した。
跡が立地する河成段丘の西端谷部をA地点,東端
注目された墓域では,調査した6基(1∼4号・6号・
の松本川左岸の浅い谷部をB地点とし,ボーリン
7号)の木棺墓すべてに武器形青銅器を保有してお
グ調査を実施し,採取資料について自然化学分析
り,総数15点を数える。
調査を実施した。調査内容は,ボーリングコアの
副葬遺物の内容(写真1)は,北部九州に展開す
層位観察,放射性炭素年代測定による堆積層の形
る弥生時代中期前半から中頃の有力集団墓である
成年代推定,珪藻分析による堆積環境の検討,花粉
吉武高木遺跡・柚比本村遺跡・宇木汲田遺跡・吉
分析・植物珪酸体分析・微細物分析による古植生
野ヶ里遺跡北墳丘墓等に比肩する。宗像地域にお
検討である。
ける武器形青銅器を大量に保有する有力者集団墓
①調査地点の堆積層状況と年代
の出現は,北部九州におけるクニの成り立ちを考
A・B両地点とも標高8.2m層準が地山面にあ
える上で極めて重要である。
たり,その直上から堆積した腐食土壌を分層し6
点の試料を採取している。
(写真2)放射性炭素
2.自然科学分析の結果
年代測定はAMS法で実施し,歴年代はA地点で
弥生時代の古環境に関する情報を得るため,遺
BC9世紀からBC3世紀,B地点はBC6世紀から
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考古学ジャーナル 613, 2011
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