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ロシア海軍士官・ムールの悲劇

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ロシア海軍士官・ムールの悲劇
ロシア海軍士官・ムールの悲劇
ここに来て北方領土がまた外交問題として脚光を浴びようとしている。日ロ間の喉元に突き刺さる小骨の
ような今日の領土問題は、第二次大戦終結時のドサクサ紛れに起きているが、約200年程前の北方海域、
国後・択捉島周辺で起きたのがゴロヴニン事件であった。この海域にやってきたロシア海軍の軍艦の艦長が
ゴロヴニンであり、副艦長をリコルドといった。この時国後島に上陸した艦長以下8名が日本側に拿捕され、
リコルドは艦長以下を救出すべく活躍し事件は解決した。この時、ロシアと日本の間に立って活躍したとい
う高田屋嘉兵衛という人物の名前くらいは聞いたことがあっても、ゴロブニン事件については深く知るとこ
ろではなかった。司馬遼太郎の『菜の花の沖』を読んだ記憶があった程度でしかなかった。
明海大学カルチャーセンターの古文書講座で、2015年度から岩下哲典講師(現・東洋大学文学部史学科教
授)による「 模烏児獄中上表」(明海大学図書館所蔵)を読み学ぶ機会があった。講座の内容説明文にはこん
なことが書いてありとても興味を惹かれた。
〈ロシア海軍士官ムールが1812年に松前の獄中で書いたものです。ムールはゴロブニン一行のナンバー2で、
史上初の日本帰化希望ロシア人です。そしてこの文書は日本史上最古のナポレオン情報です。古文書を通し
てナポレオンを巡る世界情勢について学んでみませんか?〉とあった。日本とロシア、それに欧州との歴史
的な関係がどうであったのか? を学ぶよい機会として、また日本初の日本帰化希望ロシア人という箇所に
は腑に落ちないところもあり、受講してみることにしたのであった。
この文書は、ロシアの帆船軍艦ディアナ号(艦長ゴロブニン、副館長リコルド)乗組員がクナシリ島で幕府
役人により拿捕され、松前奉行所にて監禁中に脱走に加わらなかったムール士官が幕府役人から事情聴取さ
れた時の申上調書が元になっている。ロシア語を日本語に翻訳した文書であるが原文ではなく、幾つかある
写本の内の一つであるとされている。この写本を全てはまだ読み終えてはいないが、そこには興味深く、と
ても気になる事柄に出くわした。
以下順次、ゴロブニン、リコルドにもそれぞれ事件について書き残した資料があったので、それらを比較
対照しながら、事件を巡る歴史的な背景、ムールという青年士官の人物像、ゴロブニン事件の中でムールと
ゴロヴニンとの間に何があったのか? などについて考えていくことにしたい。が、その前にまずはゴロブニ
ン事件以前の北辺事情・時代背景を整理しておきたい。
元文の黒船事件
近世ロシアと日本の出会いで記録に残されているものでは、カムチャツカ半島南部での日本からの漂流
民・伝兵衛に始まるとされている。当時の皇帝ピョートル1世の治下において進められたシベリア征服後の
1697年のことであった。伝兵衛はモスクワまで行き、日本語学校教師をさせられている。ロシア人はその
後も漂着した漂流民達から、日本という金銀に富んだ国の存在を知り関心を持つようになった。ロシアとい
う国家は西欧にあっては辺境の後進国であり、ピョートル1世以降に始まる近代化政策においてはイギリス
やオランダあるいはスェーデン、イタリアなどの西欧先進諸国から知識・技術さらには人材を導入してのも
のであった。また国内改革にも多額の資金が必要であった。西欧は大航海時代に続く帝国主義時代にあり、
武力による征服・略奪・通商・交易を拡大させていた。ロシアはいわば遅れてやってきた帝国主義国家とし
て、土地や資源を求めて北部太平洋や極東への進出が生きる道だった。
シベリア・カムチャッカやアラスカ・アリューシャン列島はテンやラッコといった高級毛皮の豊富な土地
であり、ロシア政府は、当時未知の地域であった極東のシベリアから北太平洋を経由して南方の中国に至る
航路を探索しようとした。ロシア帝国のさらなる領土拡張、植民地経営は国家による探検隊が派遣であった。
デンマーク出身の海軍軍人ベーリングによる北米大陸の間の海峡の発見(1725年)があり、さらに北部太平
洋沿岸部の植民地開発が行われ、アラスカから北米大陸の太平洋岸を南下しカルフォルニアにまで拡がりを
見せた。1799年には露米会社(アラスカのシトカ拠点)という会社を設立し、北太平洋における毛皮獣交易
などの商業活動や植民地貿易にあたらせた。
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本国からは遠く離れた土地故に植民者や毛皮商人、航海者達への、現地では乏しい水や食料といった生活
物資の補給が不可欠であった。日本では彼等が売込みしたかった毛皮類はあまり必要とされず、交易・通商
は歓迎されなかったので、まずは生活物資の補給地として日本列島へ向かったのである。
1739年(元文4)シュパンベルグ船隊が仙台領牡鹿沖や房総半島に到達し、一部は食料・水の調達の為上陸
し住民と交歓している。当時の幕府政策は1639年に始まる鎖国令下にあり、これが南下するロシアからの
黒船との出合いの始まりであった。しかしそれ以上の付き合いは進展することはなかった。
今日の北海道である蝦夷地への来航は1778年、1779年の厚岸が最初であったが、こうしたロシアの南
下は日本側にも警戒心を抱かせるものとなった。『赤蝦夷風説考』(1783年刊)や『海国兵談』(1791年刊)
はいずれも仙台藩の関係者による著書で、蝦夷地事情や北辺への防備を説くものであった。さらに1792年
に根室にシベリア総督派遣のラクスマンが伊勢の漂流民・大黒屋光太夫を送り届けがてら来航し交易を求め
たが、いずれも拒否された。それでも長崎への来航を許す信 を与えられ、次回へ希望を残すものであった。
幕府は、1799年それまで松前藩に任せていた国後・択捉・根室・厚岸など東蝦夷地を直轄地とし、北辺へ
の備えとした。
レザノフ来航と蝦夷地乱妨
皇帝アレクサンドル1世は海軍士官クルーゼンシュテルンの立案に基づき太平洋、インド洋、大西洋を結
ぶ航路の開拓に乗り出すことになり、ロシア最初の世界周航を目指す遠征艦隊の派遣準備が進められた。
艦隊の司令官にクルーゼンシュテルンを命じた。
その準備のさなか、日本との通商関係の樹立が露米会社の水・食料補給基地の確保の面からも利益になる
と判断され、日本への使節派遣という使命が追加されることになる。
露米会社の総支配人でロシア皇帝侍従長のレザノフが特命全権使節及び艦隊司令長官に任命され、クルー
ゼンシュテルンはレザノフ指揮下のナジェダ号艦長となりナジェダ号と共に1803年7月ロシアの軍港を出港
し、大西洋からマゼラン海峡を通過し、太平洋をカムチャッカへと北上した後、翌1804(文化元)年9月長崎
へ到着した。
レザノフはかつてラクスマンの持ち帰った幕府からの信 を携え、仙台漂流民を伴って入港し、国交の樹
立と通商を求めた。しかし、幕府は彼らを長崎に半年間も待たせた挙句鎖国政策を変えることなく拒絶し、
失意のうちに帰国せざるを得なかった。
この交渉の失敗の背景としては、レザノフの高慢な性格の為とか、ロシア側が正式の通訳を伴っていなかっ
たからだとも言われる。いずれにしろ初めての両国間の外交交渉は後味の悪いものとなった。尚、長崎での
交渉にあたっては長崎のオランダ商館長が間に入っていたが、裏面では自らの日本との通商利権を損なわな
いよう慎重に妨害工作をしていた事が後にわかるのだが、この後味の悪い外交交渉はレザノフに遺恨を残す
ことになり、日本への武力による威圧に向かわせることになった。
1806(文化3)年9月に配下の海軍士官フヴォストフ・ダヴィドフに樺太・千島遠征隊を組織させ日本襲撃
を指令した。皇帝からの正式な指令もないままの襲撃の実行についてはレザノフは躊躇するところがあり曖
昧な撤回命令を出したが、フヴォストフ・ダヴィドフは翌1807(文化4)年にかけて樺太及び択捉、利尻を襲
撃・略奪する事件(蝦夷地乱妨・文化魯寇事件)を起こした。結果的には彼らの行動はレザノフの命令を無視
し、皇帝の許可のない独断的な海賊行為とされた。
幕府は、ロシア船への水・食料の補給については認める温和な「 救恤令」(1806年1月)を出していたが、
この事件発生により東北諸藩に出兵を命じるなど軍事的な緊張感を一挙に高め、1807年12月には「ロシア
船打払令」を出すなど緊迫した状況に変化していた。こんな状況下、ゴロヴニンを艦長とする探検隊は北太
平洋北西岸、千島列島の測量および飢饉に苦しむ露米会社の植民地に食料を送り届ける任務を持って、1807
年7月ロシアのクロンシュタット軍港を出発した。イギリス、大西洋から喜望峰、インド洋を横断し、オー
ストラリアとニュージーランドの間を通過し、太平洋を北上し1809年9月カムチャッカに直行到着した。
約3年に渡る航海途中の喜望峰では約1年にわたり抑留され、脱出するという波乱の航海であった。
同地を拠点にアメリカ大陸北西沿岸から千島列島を測量の後、択捉島へやってきたのは1811(文化8)年6月
のことであった。そこには、さらなる波乱が一行を待ち受けていたのである。
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ゴロブニン事件の概略
ゴロヴニン艦長のディアナ号は最初択捉島北岸に到着し、偵察のため上陸した。この時同地で松前奉行所
の役人と遭遇し給水を受けるとともに、日本側にとらわれていたロシア語を少し解するラショワ人(アイヌ
の一種族)アレクセイを収容し、通訳にあてた。アレクセイからは隣の国後島に良港があると聞き、そこで
薪水・食料の補給をすることにした。7月4日には同島の泊港沖に停泊し、6日には副館長リコルドらが小舟
で上陸し、番屋を襲撃して食料などを入手。この事態に同島守備の南部藩隊長はゴロヴニン一行の上陸と交
渉を要求した。ゴロヴニンとムールらロシア人7人と通訳アレクセイが上陸し交渉の場に臨んだが、彼等は
会見中に逃亡を図ったとして捕縛された。
ゴロヴニン達は、日本人の奸計で捕えられたと思いこんだが、松前奉行所や同島の守備隊からみれば、鎖
国政策下にあって、乱妨事件によるロシア船打払令(文化4年12月)に忠実に従ったまでのことであろう。
ゴロヴニンは『日本幽囚記』(ロシア語版は1816年海軍の官費で出版、和訳は1825年刊行、以下「幽囚
記」と略称する)の中の日本人論で、こう述べている。
「…日本から追放された宣教師たちは、自己の弁明と欺き損なった国民に対する憎悪から、ヨーロッパ人の
眼前に日本人を 猾で背信で恩知らずの復讐心の強い国民だと見せかけた。一口に言うと、日本人より醜悪
で危険な人間であると日本人像を描き出した。ヨーロッパ人は修道士の悪意に満ちたこれらの作り話を真実
だと受取った。外国人を領土に入れず近づけない日本の政策は、この聡明な国民に加えられた根拠のない中
傷が真実であると裏書きする。…」国後島に来る前にはこうした先入観で日本を見ていたのである。
だから国後島での体験から泊湾のことを背信湾と呼んでいるし、日本側への不信が根底にはあったよう
だ。(誠意を信じていたというが、少し甘くみていたのではないか)
捕縛されたゴロヴニン達は、8月下旬には箱館を経由して松前に移送・投獄され本格的な尋問・取調べを
うけることになった。取調べに当たったのは松前奉行の荒尾但馬守成章であった。彼は鎖国政策よりは親開
国策的な考えの持ち主であり、ロシア側とは紛争を避け友好的に話合いをすべきとの意見であった。荒尾は
ロシアに侵略意図が見られないのに、手荒に扱って攻撃を招くのはまずい、ロシアとの戦争に耐えられる国
力は今は無いという認識に立ち、紛争は避け交易を認めて平和的に解決すべきである、との考えであった。
キリスト教禁止と鎖国という政策は遵守するが、ロシアに寛大すぎると西洋諸国が交易を求めてくる危惧
があるので、蝦夷地は国法の適用外の地と規定した。
事件の解決策として、松前ではなく長崎から送還するという便法で対応する案もあるが、ゴロブニン釈放
の延引や国法へのこだわり過ぎは、ロシアとの戦争や蝦夷地の島々の奪取紛争の続発を招きかねない。戦争
は国力の疲弊や国内矛盾の激化につながる恐れあり蝦夷地乱妨の一件も国としての行為ではなく、私的な海
賊行為とみなしゴロヴニンらを釈放すべしとの意見を江戸の老中に提案した。
しかし、幕府中央では事件への対応案を巡って釈放案と強硬案に意見が分裂し、結局は荒尾の意見は通ら
ず、翌年2月下旬従来通りの打払令を指示してきた。
これらの一連の状況をゴロヴニンらは通訳の村上貞助から漏れ知ることとなり、ゴロヴニンは自分達の
釈放は絶望的だと考えるようになり、秘かに脱走計画を準備し始めた。しかしムールとは意見を異にするよ
うになる。ムールは通訳のアレクセイを説得し、ゴロブニンには脱走には加わらないとの決心を伝えた。ムー
ルとアレクセイをゴロヴニンは計画の障害と見做し仲間から外し、3月24日脱走したが、9日後には再逮捕
されてしまう。脱走事件があっても松前奉行側は以前と同様に温和な扱いであり、6月に奉行が荒尾から小
笠原に代わっても同様であった。
ムールはゴロヴニンらの脱走事件後の6月、新・旧奉行宛に上申書(『模烏児獄中上表』以下「獄中上表」
と略記)を提出し、今回の事件の背景からヨーロッパの最新の政治情報まで自分の意見を詳しく陳述、日本
側への協力姿勢をみせた。
一方、ゴロヴニン一行から国後島で取り残されてしまった副艦長のリコルドはディアナ号でカムチャツカ
へ戻り、艦長達の奪還策を講ずることになった。
同年の5月には択捉島へ日本人漂流民を同行して再訪。ゴロヴニン一行の安否情報を探ったり、交渉の糸
口を探ろうとしたが らなかった。そんな折、択捉島の漁場の経営を任されていた高田屋嘉兵衛の船・観世
丸を沖合いで拿捕し、一行をカムチャツカへ抑留した。
松前側の事情にも通じ聡明な嘉兵衛とリコルドの間には一種の信頼関係も生まれ、荒尾奉行に代わって6
月に着任した小笠原新奉行との間で捕虜交換交渉が進められる。
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翌1813(文化10)年2月には、幕府より松前奉行に対し、かねてよりの荒尾但馬守達の意見が取り上げら
れた釈放方針が伝えられる。但し条件として、蝦夷地乱妨事件は国としての行為ではないことを釈明する公
的な文書の提出を求めるという条件付きとし、通商要求についても従来通り拒否とするものであった。
5月には国後島でリコルドとの交渉が開始され、9月には函館で交渉詰め作業が行われた。一時はロシア
側の弁明書の一部に不穏当な表現があり、受取り拒否の事態も起きたが、9月25日に函館港でリコルドの出
迎えを受けたゴロヴニン一行と高田屋嘉兵衛達との捕虜交換がようやく実現する。一行は10月10日出港し、
11月13日にペトロパブロフスクへ約二年半振りに帰港でき一件落着となる。しかしこの後ムールの自殺と
いう不幸な事件が起きたことはあまり知られていない。
ゴロヴニン達の脱走事件後、行動を共にしなかったムールとの間には表面的には一時和解もあったようだ
が、更に深い溝ができ精神の変調もひどくなっていた。函館からの帰国前からひどく落ち込んでいたムール
はとうとう11月22日ペトロパブロフスクの港で猟銃自殺してしまう。ゴロヴニン達はこれを悼んで同地に
墓碑を建てたという。
ゴロブニンは『幽囚記』の中でムールをリスペクトし、彼がどうして自殺をしたのか理解ができないと述
べている。ムールが自殺にまで至ったのは何故か。ムールが陳述した「獄中上表」やリコルドの手記等を手
掛かりに、ゴロヴニンとムールとの間にはどんな溝があり、ムール達の人生の背景には何があったのか、そ
の思いはどんなものであったのかを次に考えてみたいと思う。
艦長ワシリー・ゴロブニン少佐
一行のリーダーであった艦長ゴロブニンとは、どんな人物であったのかその略歴をまず確認したい。
1776年4月、先祖伝来の領地を持つ由緒正しい小地主で士族の家に生まれている。幼少期に両親を失くし
たが、親族により養育され12歳にして海軍幼年学校に入る。1802年イギリス海軍への留学生に選ばれ3年
間知識・技能を習得、以後海軍軍人としてエリートコースの道を歩むことになる。この時の留学仲間がリコ
ルドであり友人となる。1806年世界周航の使命をおびたロシア初の自国建造船ディアナ号艦長に任命され
る。副艦長には無二の親友リコルドを指名、乗組員も選り抜きの将兵で構成した。二人以外の士官は、ムー
ルとフレブニコフ航海士。乗組員は当初59名で1807年クロンシュタット軍港を出港した。国後島への来着
時の生捕り図には何故か32歳、ムールは28歳、フレブニコフが30歳と書かれているが、実際にはゴロブニ
ンとリコルドは35歳になっていた。とするとムールは31歳フレブニコフ33歳か? 士官以上は4名だけであっ
た
ゴロブニンの人となりをその略伝中に見て見れば、「9歳の時に両親を失い、少年時代の孤独は、彼を喧
騒な娯楽や虚栄の埒外に立たせ…彼は全生涯を通じて世俗の社交界に顔を出すのは、責任上やむを得ない場
合だけにすぎなかった。」どちらかというと非社交的でプライドが高く、孤高の人のようであったようだ。
また別の箇所では、「ゴロヴニンは中背で両眼は明智と善良さに輝いていた。他人の愚かさ、弱さ、誤ちを
語る時には、口辺に 笑的な微笑を浮かべるが、大体は顔の表情は真剣で厳格であった。」とし、彼の誠意、
活動力、勇気、意力、忍耐力、判断力、決断力、正義感、正直にして崇高な心、犠牲心をほめたたえ、「軍
艦の上では彼の一言、一声が全員を動かしていた」ともあった。
この略伝の著者エヌ・グレッチはゴロブニンの剛毅・厳格な性格の例として二つの例を紹介している。一
つは日本幽囚中の脱走時のエピソードなのだが、どうも芝居がかった作り話のようである。ジャーナリスト
らしく筆が滑ったか。詳細は省くが、『幽囚記』の文章と読み比べてみればわかることだ。
ただし、幽囚されるという不幸を招いたのは自らの責任だとゴロブニンは認めていたことがわかる。彼は
いつも負い目に悩まされていたのだ。
海軍士官ヒョードル・ムール少尉
4人いた士官の中で最年少だったのが、ムール少尉だった。フレブニコフが2歳年上なのだが序列ではムー
ルがナンバー3。ムールは海軍幼年学校出身のエリートであるが、フレブニコフは叩き上げの軍人かも。
ムールと違って彼は終始ゴロウニンには忠実な部下であった。
ムールの父親はお雇いドイツ軍人で母親はロシア人というドイツ系のロシア人であった。軍港アルハンゲ
リスクの外国人村育ちで、ドイツには父方の親族がいたらしい。ロシア正教徒ではあったが、純粋のロシア
人ではないという認識があったのかもしれず、このところが純粋の地方貴族出のゴロブニンとは違っていた
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ようだ。リコルドは父親がイタリアからのお雇い軍人、母親がロシア人というイタリア系ロシア人という点
でムールと似たところが有った。3人の共通点は海軍士官学校出身者というエリートだということだ。
18世紀のロシアはピョートル大帝の時代からイギリス・オランダ・スウェーデンという先進国から技術だ
けで無く人材、制度を導入しており、外国人故の差別・偏見は余りなく、多くのお雇い外国人がいた。貴族
階級ではドイツから妃を多く迎えており、代表的なのは後のエカテリーナ2世(大黒屋光太夫を謁見した)で
ある。但し一般市民レベルではドイツ人は金銭高いということで嫌われていたようだ。欧州ではロシアは辺
境の後進国とみられていたようだ。日本はアジアの辺境の後進国であり、どこか似ている。当時ロシアは日
本を文明の未開国と見下していたのだが。彼の風貌は、生捕り図でもひとりイケメンに描かれているが、ゴ
ロブニンも「我われのうちでも若く美男子で恰幅のよいムール君」と書いている。
ムールは画が巧みであった。松前での捕囚中奉行から「ヨーロッパでは何の毛で羅紗を織るか」と 問さ
れ、羊の絵を描かされ、他のロシアの風物を執拗に尋ねられても、彼は面倒で骨の折れることであったが、
拒むことなく非常に早く描くことができた。」白扇にサイン入りで絵を描くよう求められたりすることも度々
であった。「日本側はムール君の見事な筆跡と絵画に巧みなことに感心して、彼を常識のある優れた人物と
みなしていたので……」と『幽囚記』にある。
リコルドは、「ムール君は多才な青年で海軍士官としての知識に加えて、他の各分野の学問にも通じ、数ヶ
国語を解し、特に2ヶ国の外国語は自由に話し得るなどの長所を持っていることで、海軍でも有名であった。
このように豊富な知識と高潔な精神と多感な心情に加えて、人好きのする人柄にして、彼は皆から尊敬され、
愛されざるを得ない人物であった」と、手記に書いた。
彼には語学の才能があった。択捉島や松前・函館では現地人や獄卒たちと会話しているところをみれば、
日本語(アイヌ語)も理解できていたのかも知れない。通詞の村上貞助や馬場左十郎とも意思疎通ができ、彼
等のロシア語習得や翻訳作業を助けている。聴覚に優れ、ある種語学の天才だったのかも。
いずれにしろコミュニケーション能力にとても優れた彼は、役人、通詞や獄卒などの日本人達と親しむ中
で、日本人の特性をいち早く理解を深めることができたに違いない。
ゴロブニン、ムール二人の確執
松前での脱走事件で二人の間には深い溝ができ、やがては修復不能となったのだが、その原因は何なのか
モ
ウ
ル
モ
ウ
ル
を『日本幽囚記』と「 模烏児獄中上表」などから探ってみたい。模烏児はムールのことだが以下「獄中上
表」と略す。
まずはゴロウニンには、ムールにたいして一種の負い目があったことだ。国後島で捕縛されたことは彼の
失策であったことを自覚していたが、「ムール君の寛容な態度は、この際だけに却って私の心を苦しめた」
とある。しかし松前の捕囚中には「艦長は日本人の欺瞞にかかったことを恥ぢてゐるのでせう」と指摘した
が、取立てて非難がましいものではなかった。これは自分の責任への苦悩となっていく。
次にムールの才能や性格に対する軽いひがみや嫉妬があったのではなかろうか? 絵が巧みで語学力もあ
る、人から好かれ若くて才能あふれる美丈夫の青年士官に対する嫉妬はなかったであろうか?
「 ムール君とフレブニコフ君は絵が上手く筆蹟が大変綺麗で私は拙いと見破っていた」と自 気味である。
ゴロブニンは生来人付き合いが苦手で孤高の人、威厳を保ちたいのだが今回の事件で難しくなっていた。
ロシアという故国に対する思いにも違いがあった。ゴロブニンはどこまでいっても生粋のロシア人であ
り、松前への護送中から脱走を考えていた。「脱走したら小舟を乗っ取り、タタール沿岸に押渡って、船が
難破したのだと云って、北京に送って貰うのだ。北京から先は支那政府の許可を得てキャフタへ行くのは何
でもない。それから先はもうロシアで、祖国なのだ。……」松前の獄中でも「たとひどんな身分になっても、
僕等は日本に残るより、命を捨てたいのです。殊に教師になることなんぞ全く願い下げですよ」と、故国へ
帰りたいという思いは変わらない。
これに対しムールは、脱走計画には当初から賛成せず、一度は脱走に加わりたいと申し出たものの、「僕
は皆に忠告したり、思い止らせようとは思ひません。しかし僕だけは仲間から逃れて、どんなことが起ころ
うと、この獄中で天命を待つことに固く決心しました。僕は釈放されようなどとは毛頭考えません」と宣言
した。ゴロブニンによれば「……(ムール君はいわば生まれ変わって別人になったようなものだ)とはっきり
覚った。同君は自らロシア人と称することをやめて、自分の親類は皆ドイツに住んでゐるなどとまで、日本
側に云ふようになった。」ムールはロシアへの忠誠心より、日本に留まって日露両国のために役に立ちたい
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と考えるようになっていたのだ。「アレクセイの内密の話では、ムール君は日本に仕え、洋語通詞になろう
という考えを打ち明け、仲間に誘った」とそして「ムール君が最初に脱走に同意したのは詐りで、計画を知
り日本側に暴露して実行を妨げ、奉行に忠勤を尽くせるからだ。そして ヨーロッパに送還するなら行くし、
命令が下らなければ日本に喜んで残ると陳情していた」、とゴロブニンは書いている。しかし「獄中上表」
に最後の部分は書かれてはいないように思えるがどうであろうか? ゴロブニンは、最後までムールの考えや
思いを理解できず複雑な思いがあったようだ。
松前奉行・荒尾但馬守達日本側の人達への信頼や尊敬といった面でも、二人には大きな違いがあった。ムー
ルは松前で但馬守の謦咳に接した時から、捕虜に対する扱い等その人間愛あふれる態度や人間性を尊敬して
いた。日露間の問題に対する冷静な洞察力と対応策が優れたものであると理解し、やがては平和的な解決に
導いてくれると信頼していたのだ。
ゴロブニンは、本来日本人をあまり信用していなかった。 猾で欺瞞的であるという、それまでスペイン
やポルトガルといったヨーロッパの人がつくったイメージに支配されていたのだ。さらに国後島での事件で
不信感は強まっている。日本側への信頼が生まれたのは、リコルドや高田屋嘉兵衛の奔走により最終的に釈
放方針を確認できた函館出港6ヶ月前あたりのことでしかなかった。監禁状態という環境とか幕府側の方針
の揺れ動き、ロシア側の一部不 な態度による解決の遅れがあったとはいえ、ムールとは違い理解するのが
遅かったのだ。その後も奸計を疑うことも。
逆にムールは上司であるゴロブニンのことをどう見ていたのかを考えてみたい。日本への航海途上におい
ても喜望峰や北米でも実はディアナ号はトラブル・災厄に遭遇していた。しかし、それに対しムールは艦長
ゴロブニンに対し非難がましいことはあまり言ってはいない。ただ、「亜墨利加での致し方宜からず」とか
「クリル諸島での測量任務のことを隠していた」とか、獄中上表で触れられている。国後島での捕縛事件の
時は、ムールは日本側が会見場の背後の広場で兵卒たちに抜身の刀を渡しているのに気がついて、ゴロブニ
ンに知らせたが、「君の見違いぢゃないのか…」と彼は取り合ず、結果的に捕縛されるという最大の失策が
あったことなどから上司の判断力には疑いを持っていたと思える。さらに、日本側への誓約を破り、見通し
の甘いまま脱走するに及んでは決定的な不信感をもったことであろう。あまつさえゴロヴニンはムールとア
レクセイの忠告を臆病者、裏切り者扱いしたことは納得できないことであっただろう。彼がゴロブニンのリー
ダーとしての能力に見切りをつけるのもやむなしと思える。ただゴロヴニンからしてみれば、自らのミスへ
の自責の念があるだけに、ことごとく反抗がめだつようになってきたムールはデキル男だが危ない部下に思
うようなるのもうなづける。
ゴロブニンは、ムールの「獄中上表」を読まされ、次のような妄想まがいの考えに取り憑かれるようにな
り、二人の間の溝は決定的となっていく。
「ムール君の責任回避を防ぐ極めて重要な理由を持っている。彼への復讐とか死地に陥れんとする策謀だ
との考えではない理由を説明して置く。ムール君はロシアの国籍を離脱しようと目論み「自分はドイツ系の
生まれだ」と日本側に説明していた。だからこの記録の中で〝ムール君は局外者であり、彼は常に日本側に
忠実であった〟とわれわれ自ら証言したら、恐らく日本側ではわれわれを殺害し、ムール君は虚偽の母国た
るドイツに帰らしめるためオランダ船でヨーロッパに送還するであろう。そしたら彼はロシアに帰国出来、
それから先は証人のないのを幸い、好きなように冒険奇談を作り、自分のことはわれわれに背負わせ、こと
らの良いところは自分のことのように吹聴して、永久にわが同胞の憎悪をわれわれに負わせるであろう。わ
れわれは右の考えに最も苦しめられていた。」 つまり彼は「ムール君が何か奸策を使ってこの災厄をまぬか
れ、そのうちにはヨーロッパ帰還の許可を得るかもしれない。そしたらわれわれの名誉を永久に汚辱してし
まふだろうが、誰一人それを反 できないだろう」という考えに極度に悩まされ、殆ど絶望に陥っていた。
どうやら最初に精神が不安定になったのはゴロブニンの方だったと思える。彼はムールを帰国させたくな
いと思い始めたようなのだ。
この獄中上表をめぐってのやりとりのあとで、二人は一度は和解状態になる。この年9月にリコルドが事
件の解決の為に国後島方面に来航し、彼等への手紙を見せられたからである。絶望はかすかな希望へと変わっ
たからだった。それが確かな期待へと変わるのは、翌年の3月のことであった。病没した小笠原奉行に代わ
る服部新奉行により一行の釈放方針を知らされたが、事件解決には荒尾元奉行が江戸で「日月星辰は神の創
りしものであるが、しかもその動きは一定せず、常に変化している。日本では儚き人間の作った掟を永久不
変のものたらしめたいと願っているが、それは笑止で無謀な願いである」との大胆な説得があったとも知
る。実にバランスのとれた現実感覚だと思えるが、当時ではかなり大胆で勇気ある発言だった。
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徳川幕府の官僚の中には、このような人物もいたということにある種誇りさえ感じる。ムールは過剰な
期待を寄せすぎて、迷い道に入ってしまったのかも知れない。無論荒尾奉行には責任はないのだが。
ムールの思い
上司であるゴロブニンや仲間達から仲間はずれにされてでも、脱走しなかったムールの心意はどうであっ
たのか? ムールには「僕はこの日本で官職に就きたい、お奉行様の小使でもよいと願い出たからです。」
など日本残留希望を思わせる言動が『幽囚記』には幾つか見られる。 リコルドも、「ムール君は罪に陥っ
たのであるが、それは悪心からでも祖国を裏切ろうという意図からでもなく、いつかはこの悲惨な監禁の生
活から解放されるという希望を失って、腹の底の分からない日本人から、自由を得ることができるという期
待を抱き、知らず識らずのうちに正義の道を踏み外したのである。」とみていた。
ゴロヴニンが杞憂したように、ムールとアレクセイだけが他のメンバーと切り離され長崎・オランダ経由
でロシアに送還されるという可能性はこの時の幕府の姿勢からみて殆どなかったし、ムールも考えてはいな
かったであろう。
ムールが残留を希望した背景には、語学力をいかして通訳あるいはロシア語の教師となるとか、日露外交
交渉の仲立ちに役立つなどして働き永住したいとの思いがあり、また日本側に期待していたかも知れない。
しかし幕府はムールの能力や資質を認めてはいたであろうが、雇うことなどは考えてはいなかったと思う。
残念ながら片思いにすぎなかったようだ。
〝ムールは日本に帰化したかったのでは〟との見方もあるようであるが、どうであろうか。
帰化という言葉は、大陸、半島から多くの人が渡来したという古代、あるいは明治維新による近代国家成立
後ならば頷けるが、江戸時代初期の家康の顧問になったウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンは別にし
て、鎖国政策下のこの時代では考えにくい。
函館奉行が蝦夷地でお雇い外国人を用いたのは、ゴロブニン事件から50年後、幕末の文久2年(1862)アメ
リカより招いた鉱山技師だったという。W・ブレークとR・パンペリーの二人が蝦夷地の地質・鉱山調査、
採掘実験、鉱山学の教授などに1年程あたったという。ロシア人としてのお雇い外国人の初めは、漱石の西
洋哲学の師であるケーベル先生である。この人は父親がドイツ軍人であり、あのムール少尉と同じドイツ系
ロシア人であった。1893(明治26)年東京帝国大学教授になったのだが、日本で働きたかったムール青年士
官の死から約70年以上後のことである。
お雇い外国人の中には日本人女性と結婚、日本国籍を取得し帰化する人もいた。明治政府になってから
の日本国籍取得者(帰化人)としては、漱石の東大文学部の前任者のギリシャ生まれのアメリカ人ラフカディ
オ・ハーンがいる。1890年日本女性と結婚し小泉八雲と名乗ったことでよく知られている。幕末から明治
時代にかけて、日本通で知られたシーボルトやアーネスト・サトウ等達は日本で長く暮らし、日本人妻と暮
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らしているが、正式に結婚もせず国籍も取得していない。
ムールの挫折
ロシアへの送還が現実的なものとなり、交渉が最後の詰めが始まる。ゴロブニンとムールは、1812(文化
10)年3月外交文書の翻訳やら新たに幕府から目付けとして派遣されてきた足立佐内、馬場左十郎達へのロ
シア語教授につくことになる。ゴロブニン達には前途に光が見えてきたのだが、ムールにとってはこれが新
たな悩みとなったようで、この時期ムールとゴロブニンの間には再び衝突が起きている。
例えば、ロシア語教授への積極的協力とか、再訪してくるディアナ号へ外交文書と一緒に水兵を一両名遣
わしたいとの日本側からの申出を巡ってである。ムールはロシアの軍艦に自分を最初に派遣して欲しいと強
く提案し、ゴロヴニンや日本側を困惑させる。 ムールは、「ディアナ号には、立派な書籍や絵画や地図や珍
しい品々が沢山あるから、日本側が僕を第一に帰還させてくれたら、当地のお役人や通詞さんたちに沢山土
産を持って来てあげますよ」と、本気で日本に残り役に立ちたいと願っていたようだ。
しかし、既定の方針に基づいた解決のプロセスを考えていた日本側にとっては有難迷惑なところもあった
ようだ。通詞たちはムールに「日本の掟では、生まれながらの日本人でさへ、しばらく異国人と一緒に暮ら
した者は信用を失うのです。まして異国人は、いくら日本に好意を抱いているように見えても、雇い入れる
わけには行きません。だから当地に囚われのロシア人は結局二つに一つしかありません。つまり皆さんの言
明についてロシア側から満足な証明を得て、全員を放還し、帰国を欲しない者まで力づくで帰してしまうか、
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でなくてその証明が来ずに全員を監禁して、官職にも労務にも全然使用しないか、どちらか一つしかありま
せん。」「あなたの運命は気の毒には思うがどうにも出来ません」「あなたの心配は根も葉もないようだか
ら、そんな恐怖をいだかれるのは神経が錯乱し、全く正気に返っていない為でしょう」と、ムールの言動を
狂人扱いしたりした。ムールは、「日本の法律は残酷で野蛮です」といい、日本に残りたくても残れないと
悟った。かといって仲間と一緒にロシアに帰ることには大きな不安があった。ゴロヴニンには脱走を共にし
ないことなど数々反抗してきたからだ。「獄中上表」では、言わずもがなの情報提供までした(本人にとっ
てはあくまでも良かれとの思いからだが)。日本で働きたいとまで言ってしまった。このままでは、帰還し
ても海軍軍人としての出世はのぞめないどころか、一生裏切り者扱いされるだろうとの恐怖があった。
「僕は日本側に忠勤を励んだので、今度は身をほろぼすに違いないのです。だって当地では僕を置いてく
れないし、ロシアへは帰れないからです」「そしたら僕はロシアに帰ってどうなると思います?流刑です
よ !」と絶望したのである。
こんなムールに対し、ゴロヴニンや通詞の貞助は「ロシアに帰国後のことをそんなに取越し苦労するな。
行状が政府に知れても厳しい裁断はしないよ」と言いなだめる。
精神的に落ち込んでいる時には、慰めの言葉は逆効果でしかないのだが。ムールはさらに自分を追い詰め
るようになり、自殺を企てたり絶食・過食など自傷行為を繰り返す。
それでもディアナ号に残した自分の所持品を送り届けて欲しいと依頼したり、ロシア側の日本側への外交
文書中に不適切な表現(侮 的な威嚇や不 な言葉)があることを指摘したりと、日本に残りたい、役に立ち
たいとの思いが伝わるような場面が『幽囚記』中にも見受けられるのだ。
「獄中上表」の最後でも、自分が死んだら遺骸は焼却して欲しいと述べている。脱走事件で仲間と別行動
を決意した時から、彼は死ぬまで日本で生きることを考えていた。日本側の見識と誠意ある姿勢に敬意を持っ
ていたとしても、自由の身になってのヨーロッパへの生還は考えてはいなかった。しかし意に反して日本に
残ることが不可能となり、彼は更に不安定な精神状態になったのだと思いたい。
こんな状況下で、箱館港を10/5出港、11/5ペトロパブロフスクに帰港。11/22ムールの自殺を持って事
件の幕引きとなった。ムールの自殺にはどこか釈然としないところがあるので、私なりにさらに考えてみた
いと思うが、その前に……
小説『菜の花の沖』
国民的作家・司馬遼太郎の作品の一つに小説『菜の花の沖』がある。ゴロヴニン事件の解決に大活躍した
高田屋嘉兵衛を主人公にした筋立てである。ゴロヴニンのことは主に『日本幽囚紀』に収められているエヌ・
グレッチによる略伝に基き、彼をかなり持ち上げて書いている。脱走事件のことも書いているが、私にはや
や理解に苦しむところがあった。少し引用してみたい。
「ゴロヴニンは幽囚記の中でムールの変節について詳しく書いている。ただし、文章に少しの攻撃的なに
おいもないばかりか、後輩の意外な変節をどう理解していいか当惑しきっている姿勢しか感じられない。ゴ
ロヴニンには、人間ーとくにその弱さについてーの理解といたわりがあったのであろう。背信に対し、相手
を人間として理解すべく努めようとする知的寛容さは、中世には乏しい。近代が生んだ精神といっていい。
ゴロヴニン少佐だけでなくリコルド少佐にもそれが見られるところから推して、19世紀になったばかりのこ
の時代、ロシアの知識階級にはすでに「近代」があったということをあざやかに思うべきである。」またムー
ルについては、こうである。
「ムール少尉は、刑殺されるという予感に堪えきれず、その恐怖からぬけ出すには、自分ひとりが仲間を売
り、日本側に「投降」する以外にないと思った。かれのすべての思考がその一点に集中し、脳の中の部屋は
白っぽくなった。この状態は、精神の病気に属する。ゴロヴニンはそのような目で、ムールという仲間の病
的状態を見ている。」
ムールは、仲間を売ってはいない。むしろ脱走をやめさせようとしている。しかも、彼の精神状態が病的
になるのは、帰国が近づいてからのことである。
どうであろうか? 『幽囚記』ベッタリであり、ゴロヴニンの姿勢を深く読むことができていない。ゴロヴ
ニンのムールに対するコンプレックスやムールの心情も読みきれていないようである。だから司馬遼太郎を
私は納得できないのだ。
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幕府天文方の地図御用を勤めた浦野元周は、ゴロヴニンの手記を日本語に翻訳したスタッフの一人で、「モ
ウル獄中上表」の写本(国際日本文化研究センター所蔵渋川家文書)にその際の読後感を書き入れているとい
う。それによれば、「ゴロヴニンはあまりにもムールを〝恨み〟、そして〝半賊〟であると記し、ムールを
〝 謗すること甚だし〟かった。」と。元周はゴロヴニンとムールの手記を両方読んだ同時代の人である。
曲がりなりにも「獄中上表」に接した私からみても、ゴロヴニンの『幽囚記』のムールに対する書き方は〝あ
まりにも甚だしい〟とはいえないが、底意を感じるものであった。司馬遼太郎は「獄中上表」を読んだの
か? とてもそうは思えない。ただゴロヴニンの巧みな自己弁護の書に されただけかも知れないのだ。
作家・吉村昭はゴロヴニン事件を『北天の星』で取り上げている。幕府天文方・高橋景保の部下・馬場
佐十郎が登場する場面がある。彼は後にゴロヴニンの『幽囚記』の和訳に取り組み始めたが、翌年の1822
年翻訳半ばで病死し、後輩達により『遭厄日本紀事』として1825年出版された。 この馬場佐十郎とムール
の文化十年(1812)三月の出会いをこう書いている。
「捕虜の中のムール少尉は、父がドイツ人であった関係からドイツ語に通じていたので、佐十郎はまづか
れと親しくなった。……牛痘接種法のロシア語医書を筆写したものを手に、主にムールを相手に文意をつか
もうとする。苦心をかさねて、ようやく全編の大意をつかむことができ、佐十郎は、ムール少尉の好意に深
く感謝し、‥…ムール少尉は、翌年ゴロヴニン少佐らと帰国したが、日本の役人におもねり、仲間たちを裏
切ったとして批難され、それを悩んでカムチャッカのペトロパヴロフスクで自殺した。」ムールが佐十郎か
らどう思われていたかがよく伝わる文だ。
先に紹介した浦野元周は、馬場佐十郎が手がけた『遭厄日本紀事』翻訳スタッフの一人であったからムー
ルのことを聞かされていたに違いない。
司馬遼太郎と吉村昭のどちらがより彼の心情に近づかんとしていたか、その姿勢は明らかだろう。
ムールの自殺
箱館での釈放が決まり、松前から箱館への道中では、ムールは眼に涙を浮かべ、たびたび泣いていた。涙
の訳を日本側から聞かれると「僕にはこんなお情けを受ける資格がないと感じたからです」と答え、ゴロヴ
ニン達には「僕が泣くのは皆が気の毒だからです。僕には何でもよく分かっていますよ。日本側は陰険 猾
で、きっと皆を殺すに違いないのです。今目の前に見えているのは、一場の喜劇にすぎないのです」と云っ
ていた。ムールには自殺の恐れがあり、日本側も鋭く見張っていたとゴロヴニンはいう。1813年10月、リ
コルド達の迎えでディアナ号で帰国する時には「みんなが釈放されて艦の我われの許に帰ってきた時、私は
歓喜してみんなを抱擁しながらムール君の前にきた。すると彼は身を引いて帯剣を外して私に渡し、悲痛な
声で言ったものだった。「私にはそんな資格はありません。そんな資格はありません。艦内に犯罪人を収容
する場所があればそこへ入れるよう命令して下さい」と云ったとリコルドは書いている。
11月3日にカムチャッカのペドロパブロフスクに到着。ムールは港の長官や僧侶の家に寄宿した。そこ
では身の不運を呪って大声で泣き叫んだ。そしてゴロヴニン宛に次のような報告書を書いたという。
「私は売国奴で裏切り者です。聖なるものが、これまで私の隠していたことをすっかり告白して報告せしめ
ました。」ーこの報告は文に脈絡もなく訳もわからぬところがあり、全く理性を失っていることが明白だっ
た。ーとゴロヴニンは言うが、果たしてムールが自らの意思で書いたのかどうか。ゴロヴニンは「慰撫の手
紙」を渡したところ、いくらか成功し昔のような態度となり、士官たちとも会話するようになった」として
いる。
ムールは「僕はロシア人に対してこんなに沢山悪いことをしたので、ここで絶えずロシア人の顔を見て平
気で居られないのですが、向こうへ行けばもっと気が休まるでしょう」と、カムチャダール族と一緒に暮ら
したいとの希望を述べ、旅行の準備に入ったという。
11月22日事件は起きる。彼の自殺行動を恐れ監視のために従卒を付けていたようだが、銃で猟をしたい
と言ったので、従卒には「必ずお前が銃を担ぎ、鳥の姿をみたらムール少尉に銃を渡せ、しかし決してその
側を離れてはならない」と言いつけていたが、アヴァチャ湾の海岸を散歩中に、ムールは付添いの従卒に「お
前は家に帰って中食しろ」と命じ、「何も怖がることはない。死ぬ気なら俺はナイフもフォークもあるから、
家でだってやれるじゃないか」すっかり別人のようになっていたので昔のように厳重に監視しなくてもよい
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と(従卒は)考え、ムールの命令に従った。しかしいつまでも帰らないので探したが、海岸で猟銃により自殺
していた。遺書には「人生が自分には堪え難くなった。自分は太陽そのものを ったやうな気さへする」
ときどき発狂状態に陥っていたので、正気で自殺したのではないことが判った、と。
そして「顧みれば彼は珍しい才能を持った士官で、職務に必要な各般の学識がある上に、各国語に通じ、
絵画は極めて巧みであった。かれは職務を愛し、これに全魂を打ちこみ、誠心誠意職務を果たしていた。彼
と交際した者は誰でも彼を気持ちのよい快活な社交家と思っていた。国後島であの災難に遭うまで、私はこ
の五年間ずっとこの士官と一緒にディアナ号に乗り組んでいて、よく彼を知っていた。だからもし運命の悪
戯で私自身が彼の過ちを目撃したのでなかったならば、ムール君があんな行動に出るなどとは、おそらく一
生信じ得なかったであろう。われわれは皆で拠金してムール君の墓に次のような墓碑を立てることにし
た。」と結んでいる。ペドロパヴロフスクでの自殺の経緯を、ゴロヴニンの『幽囚記』の記事でみてきた
が、どうも釈然としない。納得できないところがいくつかあった。
ここからは、私の勝手な思い込みによる推察になるが列挙してみたい。
① 帰国後に報告書をムールが書いたとあるが、書かせ(あるいはそう仕向け)たのではないのか?
実物は残されているのか?
② 自殺当日、従卒は何故目を離したのだろうか? 状況がよくわからないところがある。 をつくらせたの
ではないのか? 証拠となる猟銃はどこへいったのか?
③ 遺書なるものは本当にあったのか? 残されていないのは何故か?
④ ディアナ号にはムールの遺品があったはずだが、残されていないのか?
⑤ 墓は本当に建てたのか?今に至るまで確認できていないが。
⑥ ムールの「獄中上表」のロシア語原本は、どうなったのか?
ゴロヴニンは、ムールが正気になって日本での出来事を話されては困ったのではないだろうか。
自分に強く逆らったムールとは性格的に合わず、不都合なことを知る邪魔な存在でしかなかったのではない
か? ムールを精神的に追い込み自殺するように仕向けたのかも知れない。
更に「獄中上表」など自分に不利な証拠となりそうなものは隠滅したのでは? と疑えばキリがなくなる
のである。事件の当事者の一人であるリコルドは終始ディアナ号にいて状況がつかめておらず、ゴロヴニン
のことを疑いもせず、彼の発言をその手記では追認しているだけである。
先述の浦野元周は写本への書き込みでこうも書いているとのことである。「ムールがもともと望んでいたよ
うに、ムールの上書がロシア人の手に渡るようになれば、ゴロヴニンとムールのどちらが是か否か〝百年の
後、必ず長嘆息するものならん〟と感じて筆き記したという。ムールは「獄中上表」の最後で、この書類を
書き写してロシアに送って欲しいと書いているし、幕府天文方はこれを受けてか「獄中上表」をヨーロッパ
で出版することを企画したという。(但しこれは1828年のシーボルト事件で頓挫し実現していない)
ゴロヴニン事件その後
箱館から釈放されたムール以外の乗組員のその後も見ておきたい。ゴロヴニンは今回の航海の功績により
直ちに中佐に昇進。勲章と終身年金支給という恩賞に預かる。その後も海軍の要職を勤め中将、海軍主計総
監にまで出世したが、コレラにより53歳で死去。フレブニコフと4人の水兵にも恩給支給など好待遇があり、
アレクセイにはロシアへの忠誠により短剣と年金の代わりに火薬と鉛を現物支給されている。
リコルドはカムチャッカ州長官へ昇進、後には海軍大将となる。終身年金を支給され、1855年79歳まで
生きる。事件の40年後、1853年プチャーチン使節がその名も同じディアナ号で日本を訪れる。川路聖謨達
との開国交渉により1855年には日露和親条約の締結に成功するが、その時リコルドは生きていたのであろ
うか? 日露の外交史には忘れられない人物であろう。
たらればでしかないが、ムールだってゴロブニン事件に巻き込まれてさえいなければ、その経歴、才能か
らして海軍将官として活躍できたであろうに、落差はあまりにも大きい。日本に残留できていたとすれば、
日露外交で、きっと活躍できていただろうとも思いたい。
日露の間には条約締結後に、対馬での文久露寇事件(1861年) 、日露戦争(1904年)、シベリア出兵
(1919-1920)、第二次世界大戦終結時のドサクサまぎれのシベリア抑留事件、北方領土占拠(1945-)と続
き、北方四島問題と日ソ友好条約は未だ未解決、未締結のままである。
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ムール終焉の地・ペドロパブロフスク・カムチャツキー
事件から約200年もの歳月が流れ、証言が限られ、証拠も殆んど残されていないが、唯一事件を語る物
はおそらくゴロブニン達が建てたというムールの墓なのかも知れない。
ロシアの軍港ペドロパブロフスク・カムチャツキーを訪ね、これを確かめることができれば、私の考えは
たんなる邪推となるかも知れない。歴史は勝者によって書かれるとは、よく聞くところである。それにして
もロシア海軍青年士官ヒョードル・ムールは悲運の人であった。なまじ有能で感性豊かであったばかりに、
上司と衝突し、己を責め、日ロ友好の夜明け前の闇に倒れてしまった。
幕府天文方が「獄中上表」の出版を企画しムールの無念を晴らしてやりたいと願ったように、今こそ「獄
中上表」の現代語訳が実現され、世に問われることを期待したいと思う。
(了)
:参考文献
『日本幽囚記』ゴロウニン著・井上 満訳 /1943年岩波書店刊
『日本俘虜実記』ゴロウニン著・徳力真太郎訳/1985年(株)講談社刊
『ロシア士官の見た徳川日本(ゴロウニン・続日本俘虜実記)』徳力真太郎訳/1985年(株)講談社刊
『南千島探検始末記』ゴロウニン著・徳力真太郎訳 /1994年(株)同時代社刊(原本1816年刊の手記)
「明海大学図書館蔵『模烏児獄中上表』上下について」岩下哲典・松本英治/明海大学教養論文集
自然と文化No.15(2003年)
『日露関係史』真鍋重忠 著/1978年吉川弘文館刊
『ロシア人の日本発見』S・ズナメンスキー著・秋月俊幸訳/1979年北大図書刊行会刊
『開国への道』平川 新 著/2008年小学館刊
『近世後期の対外政策と軍事・情報』松本英治/2016年吉川弘文館刊
「江戸時代における日露関係史上の主要事件に関する史料について」岩下哲典
「 口一葉旧蔵の満州語文書」1999年『文学』岩波書店 刊 初出/(『岡田英弘著作集 Ⅶ』2016
年 藤原書店 刊 所収)
『北天の星』吉村昭 著/1980年講談社刊
『菜の花の沖』司馬遼太郎 著/1982年文芸春秋社刊
『ロシアから来た黒船』植木静山著/2005年 (株)扶桑社 刊
『黒船前夜』渡辺京二 著/2010年 洋泉社 刊ー
『図説・帝政ロシア』土肥恒之 著/2009年河出書房新社刊
『お雇い外国人』札幌市教育委員会編/1981年北海道新聞社刊
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