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第一節江戸時代の経済
c...,-,c:,..-,_,,,....,.,"'""'....,.,~.,.,.....,.,....,.,....,.,....,.,....,.,....,.,....,.,....,.,~....,.,-,.,.,.~c.,e.,, 第一節江戸時代の経済 ..,....,..,....,..,....,..,....,..,.,,._..,.,.,.,,..,....,..,....,.....,.,..,.,,._...,........,~u,o,r.,~c....r.,v會,,.....,.,.,.,,~..,.,, 大坂のはじまり 大坂の地に街が出来たのは,天文元年 ( 1 5 3 2年),石山本願寺の寺内町とし て形成されたことに発する 。本願寺が全てを支配し,信長との闘争に事実上敗 れるまで,経済特権都市として繁栄し続けた。 今日の大阪(明治維新まで大坂)の基礎は,豊臣秀吉が築いた 。天正 1 1年 ( 1583年) より数年で,大坂城と城下町を 築 き上げた。秀吉は,自由都市とし て栄えた堺の特権を剥奪して大坂に与え,城下町集中政策を採った 。そのため 他の都市から商人が移住し,農家の 二三男も流入して,商業人口が増えていっ た。大坂の急成長により,それまで商業の中心地だった京都が寂れた。摂津の 搾油業者も,秀吉の命により大坂に移住させられた。 大坂は,大坂夏の陣 ( 1 6 1 5年)でいったんは焦土と化したが,幕府は元和元 年 ( 1 6 1 5年)より,復興事業を行った。 そして元和 6年 ( 1 6 2 0年)から寛永1 5 年 ( 1638年)にかけては ,西国の諸大名に命じて,大坂城の再建工事に当たら せた。 それは,秀吉の城を完全に土中に埋めて,その上に新しい城を建てると いう大がかりなものであった 。 大坂には,同じ幕府直轄の大都市でも,江戸とは顕著に異なる特徴があった 。 それは ,武士人口の少なさである 。総人口30万から 40万人に達する中で,武士 は大きく見積もっても,わずか1 , 5 0 0人にも満たなか ったと推算されている 。 大坂は,正に町人の都,すなわち商人の都であった 。 大坂が「天下の台所」と呼ばれたのは,京とは明らかに異なり,生活に密着 した物 資の全国流通の拠点 として機能していたか らである 。京 も大坂も周辺に 手工業者が集まり,経済の基盤を支えた点では同じだが,京周りの二次産品が 絹織物など贅沢品が中心だったのに対して,大坂周りは,油や木綿などの生活 必需品が中心であ った 。 これらの製品も戦国時代までは庶民の手の届く物では なかったが,世の中が安定し,生産能力と 生活水準が向上したことで, 大都市 でば必需品となりつつあ った。さら に,後の節で述べるように,問屋とそ の仲 間組合も,まず大坂で発達した もので, 大坂は 問屋商人の町と言われることも ある 。 また世界で初めて先物取り引きを行 った米市場も,江戸ではなく大坂に - 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3 8- のほか呉服町,木綿町,金物町,小間物町など商業の街が形成されている 。 江戸の街は火事が多く,しかも町人は「宵越しの銭は持たぬ」ことを美風と していたので平時の蓄えに乏しく,火事が大工や職人の増収をもたらし,景気 浮揚につながる 一面があった 。 中でも明暦の大火 ( 1 6 5 7年)は,根本的な都市 計画の実施につながった 。万治 3年 ( 1 6 6 0年) には,隅田川に両国橋が架けら れ,その周辺に運河を掘り,道をつけて新市街地とし,以後,物資流通の要と なったのである 。 石高制から貨幣経済へ 徳川幕府は,幕藩体制の財政基盤として,徹底した米本位制度を実施した 。 いわゆる石高制である 。石高制の下では,藩の規模から武士の給与に至るまで, 全 てが米の生産能力で表され,これに基づいて年貢が課税された 。 そこから必 然的に,各領主は,自家消費分を除いた米を販売し ,その代金であらゆる物を 購入することとな った。 それが市場の形成を促し,貨幣経済を発達させたとも 言 えるし,逆に,貨幣経済が整っていたから,米本位制度を実行できたとも 言 える 。 領主が米を売る市場としては,天下の台所と呼ばれる大坂に最も多く集中し た。貞享 5年 ( 1 6 8 8年)に 書かれた井原西鶴の 「日本永代蔵』 によると,北浜 の淀屋米市では,「一刻の間に,五万貫」 (2時間に 1 2 5万石の取り引き)があ ったとされ,誇張はあるにせよ,相当量の商いがあ ったとみられる 。市場では , 信用取り引き,先物取り引きが成立していた 。幕府は,しばしば大坂の米市を 統制下に置こうとしたが,自由な商売の流れを止めることは出来なかった 。江 戸では,文政の初め頃 ( 1 8 1 8年頃),現在の日本橋本町で米の先物取り引きが 行われ,いったん中止された後,数年後に現在の蛎殻町で再開された 。今日の 証券取引所や穀物取引所は ,その流れを汲んでいる 。 江戸時代は,全体を通して米本位経済と貨幣経済が並立していたと 言 えるが, その中でも,時代が下るに連れて,より自由な貨幣経済の比率が増していくよ うになる 。領主米の販売のみならず,農民も余剰生産物が増えて換金能力が増 していった 。貨幣の流通量が増えると,信用経済も発達し,手形決済も日常的 に行われるようになった 。 手形決済は,中世から存在してはいたが, 日常的に行われるようにな ったの は,江戸時代に入ってからであった 。菱垣廻船,樽廻船の発達に伴い,江戸か - 39 - ら大坂へ大量の支払 いが恒常的になされる ようになったことが,為替の利用を 日常化 させ た。 その中から,為替業務や貸し付け業務を行う 両替商が,信用経 済の要と して台頭 し,大坂商人の頂点に君臨する富豪として急成長を遂げたの である 。 貨幣は大きく分けると,全国で通用する幕府の貨幣,各藩が発行する藩札, 商人間での私札の 3 種類があった 。 幕府が発行する貨幣は,金貨• 銀貨• 銭貨 (銅貨)の 3種類に分か れていた。この内,銭貨は補助的な 小 口の通貨で,大 口の取り 引 きには,西 日本では主に銀貨が,東日本では主に金貨が通用 してい て,はっきり経済圏が分かれていた 。 しかし一方では全国規模の商取り 引 きが 発達 していたので,貨幣の交換比率が重要な問題 となっていた。 幕府は,金座• 銀座・銭座を設けて鋳造権を独占するとともに,慶長 1 4年 ( 1 609年),貨幣の交換比率を金 1両= 銀 5 0目=永楽銭 1貫文 =京銭 4貫文と定 めた 。 その後,元禄 1 3年 ( 1 7 0 0年)には,金 1両= 銀 6 0目=銭 4貫文に改定し た。 しか し,実際に は,市場は公定の 比率では動かず,その時々の変動相場で 取り引きがなされたのである 。 なお,幕府は度々貨幣の改鋳を行い,金銀の含 有率を下げることで利益を上げ, 財政赤字の補填に当てた 。銭貨については, 寛永から寛文期 ( 1 624~1672 年)にかけて,寛永通宝が大量に鋳造され,永楽 銭を駆逐 して,銅貨の統一が成り,全国経済の発展に貢献 した。 有力な 両替商は,大名に対しても大口の貸 し付 けを行っていた 。かく して , 本来,士農工商の身分制度の最下位にあるはずの商人が,実質 的には国家の経 済を支配することとなり,幕府といえども,意の まま に管理するこ とは出来な い状況であった 。 ▲江戸の街のにぎわい(「東都名所図会」「江戸名所図会」より(資料提供 : 木内武郷)) - 40 -