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トーマス・マンにおけるニーチェ受容をめぐって

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トーマス・マンにおけるニーチェ受容をめぐって
大阪経大論集・第53巻第6号・2003年3月
261
トーマス・マンにおけるニーチェ受容をめぐって
遠近法主義と人間愛
六
浦
英
文
1.はじめに
本 稿 に お い て は , ト ー マ ス ・ マ ン ( Thomas Mann ) の ニ ー チ ェ ( Friedrich
Nietzsche)受容の諸相について概観し,その特質を検証してみることが目的である。
ニーチェとは何か。そもそもニーチェに関してはさまざまな見方があり,その全貌
を把握することは,きわめて困難である。
ニーチェはさまざまに語られてきた。神と道徳の批判者ニーチェ。新しい道徳の
ニーチェ。ナチスのニーチェ。反-ドイツのニーチェ。最後の形而上学者ニーチ
ェ。最初の実存主義者ニーチェ。構造主義者ニーチェ。漂泊者ニーチェ。独身者
ニーチェ。恋するニーチェ。狂ったニーチェ。道化師ニーチェ。語るニーチェ。
黙るニーチェ。さまざまな論者がさまざまな立場から,それぞれに異なったニー
チェを語ってきた。このうちいったいどのニーチェが本物で,どのニーチェが贋
者なのか1)。
ニーチェの著作に内在するもろもろの矛盾は,ニーチェが注目を浴びるようになっ
て以来,解釈者たちを悩ませてきたものである。この矛盾をどう解釈すべきなのであ
ろうか。研究者によって,さまざまな見方がなされている。
1) ピエール・クロソウスキー『ニーチェと悪循環』兼子正勝訳
489ページ。
哲学書房
1989年
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大阪経大論集
第53巻第6号
ニーチェの言説は混乱し,一貫していないから,彼を偉大な哲学者の数に入れる
ことはできないとか,えてして彼を哲学者と取り違えているけれども,彼は芸術
家なのだとか,概念的な厳密さを期待すべくもない哲学的詩人にすぎないとか,
あるいはまた彼の精神が生んだ<宙に浮いた子どもたち>を「現実によって批判
することも,また現実の統制下におくこと」もできず,したがって自分自身とも
現実とも「一致」しないていの,あまりに空想癖のある作家だ,といった評価や,
「時代にあった命題を気ままに選んで」提供する警句家なのだという乱暴な批評
から,さらには,ニーチェの思想的営みには本質的には,内的な一貫性があると
いうことをいろいろと証拠立てようとしているもの,あるいはそういった一貫性
でニーチェを体系化しようとするものにいたるまで実にさまざまである2)。
ニーチェ自身の思想と人間について論じれば膨大な論考に膨れ上がるので,本稿で
は,トーマス・マンにおけるニーチェ受容の問題に論点を絞りたい。まず,この問題
について考 察する場合,多くのトーマス・マン研究家の中でもペーター・ピュッツ
(Peter Pütz)のものがもっとも簡潔・的確に両者の関係について述べているので,
本稿で紹介するに最もふさわしいと思われる。ここでは,ピュッツの二つの論文3)を
手がかりにして,トーマス・マンのニーチェ受容のあり方を検証しながら,筆者なり
の若干の考察を述べてみたい。
2.ピュッツ論文の論旨
(トーマス・マンにおけるニーチェ受容の諸相について)
2.1
理論的な側面におけるニーチェ受容
ピュッツはまず,トーマス・マンがニーチェについてまとまった見解を述べている
ものを取り上げ,ニーチェの理論な考察がトーマス・マンにおいてどのように捕らえ
2) Wolfgang -Lauter : Nietzsche. Seine Philosophie der und die seiner Philosophie. Berlin/New York : Walter de Gruyter 1971, S. 2.
3) Peter : Thomas Mann und Nietzsche. In : Thomas Mann und die Tradition. Hrsg. von
Peter Frankfurt a. M.: 1971. および,Peter Thomas Mann und
Nietzsche. In : Nitezsche und die deutsche Literatur. II. Forschungsergebnisse. Hrsg. von
Bruno Hillebrand. : Max Niemayer 1978.
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られているか,どのような側面が評価されているかについて検証する。
ピュッツも言うように,トーマス・マンがニーチェについてまとまった意見を述べ
ているもっとも重要なテクストは,『非政治的人間の考察』(Betrachtungen eines
Unpolitischen, 1918年), 音楽的ニーチェ祭におけるプロローグ』(Vorspruch zu einer
1930年),講演『われわ
musikalischen Nietzsche-Feier, 1925年), 略伝』(
れの経験から見たニーチェの哲学』(Nietzsche’s Philosophie im Lichte unserer Erfahrung,
1947年)である。そして,『<ファウストゥス博士>の成立』(Die Entstehung des
Doktor Faustus, 1949年)にもニーチェの名は時折触れられており,書簡,ほとんどす
べてのエッセイ,講演,覚書のなかでニーチェが言及されている。
トーマス・マンは,ニーチェの『反時代的考察』
Betrachtungen をも
じって,『非政治的人間の考察』を書いている。その中で,自分に最も深く影響を与
え た の は , ヴ ァ ー グ ナ ー と ( Richard Wagner ) シ ョ ー ペ ン ハ ウ ア ー ( Arthur
Schopenhauer)にまだ近くて,デューラー(Albrecht )の『騎士と死と悪魔』
Ritter, Tod und Teufel を賞賛していたニーチェであった(XII, 541),と述べている。
とも関連していて,ニー
これはニーチェの『悲劇の誕生』Die Geburt der チェは『反時代的考察』の中でも,ヴァーグナーとショーペンハウアーをよりよき文
化のための偉大な戦士と見なしている。したがって,トーマス・マンは,初期ニーチ
ェを高く評価していたことが推定される。
しかし,初めのうちは明らかに後期のニーチェを,しかもヴァーグナーの批判者と
してのニーチェを高く評価していたのである。その根拠は,トーマス・マンが十九歳
のときにすでにニーチェのヴァーグナーの論難書を読んでいたことである。これは,
トーマス・マンの覚書から明らかである。
いずれにしても,トーマス・マンのニーチェ受容は決して一度かぎりのものではな
かった。トーマス・マンは生涯にわたって「何度も押していって」(XII, 110)ニーチ
ェを自家薬籠中のものにしたのである。
H.レーネルト(Herbert Lehnert)の報 告 に よ れ ば,トーマ ス・マ ン は『曙 光』
Wissenschaft に1896年,蔵書メモの記しを
と『華やぐ知恵』Die つけた。グロースオクターフ版ニーチェ全集の両巻には明らかに使用した痕跡が見ら
れるということである。すなわち,線を引いたり,傍注を加えたりしていることで集
中的に研究したことが,見て取れるということである。
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ニーチェ講演(1947年)の中では,価値の置きどころが異なっている。トーマス・
マンがこの講演で高く評価するのは,以下の点である。
1.『ツァラトゥストラはこう言った』Also sprach Zarathustra およびその実現
を褒め称えることになった『この人を見よ』Ecce homo
2.『善悪の彼岸』Jenseits von Gute und における『ニュルンベルクのマイ
前奏曲の分析
スタージンガー』Der Meistersinger von 3.『力への意志』Wille zur Macht の末尾におけるディオニュソス的なものの描
写
ただし,ピュッツの見解によれば,全体としてみた場合,トーマス・マンは,『善
悪の彼岸』と『道徳の系譜学』Zur Genealogie der Moral を高く評価するが,反対に
『ツァラトゥストラはこう言った』を高く評価することができない(IX, 682),とい
うことである。
『ファウストゥス博士』Doktor Faustus 執筆時期におけるニーチェ受容についての
ピュッツの検証は以下のとおりである。
『<ファウストゥス博士>の成立』は,トーマス・マンがニーチェを読んだことを
教えてくれる。これによれば,トーマス・マンが熱心に読んだのは,『この人を見よ』
(XI, 209),ニーチェの書簡(XI, 212), 歴史の利害について』Vom Nutzen und
Nachteil der Historie であり,ほかには『1870年代初期から』Aus den siebziger
Jahren の著作である。それに加えて,トーマス・マンがシカゴ・リビング・ホスピタ
ルで重い肺の手術を受けたあと,ナウマン版のニーチェ全集(XI, 265)を手にとり,
『ファウストゥス博士』の終章のために『この人を見よ』を読んだ,ということであ
る。
この時代,トーマス・マンは,ニーチェ文献に関しても,驚くほど包括的に読んで
い る 。 た と え ば , ポ ー ダ ハ ( Erich F. Podach ) の 『 ニ ー チ ェ の 破 滅 』 Nietzsches
Zusammenbruch,ルー・アンドレーアス・サロメ(Lou Andreas-
)の『ニーチ
ェの思い出』Erinnerungen an Nietzsche(XI, 151),ブラン(Henri W. Brann)の『ニ
ーチェと女性たち』Nietzsche und die Frauen(XI, 156),エルヴィン・ローデ(Erwin
Rohde)の手紙(XI, 159),ドイセン(Paul Deussen)の『ニーチェの思い出』
Erinnerungen an Nietzsche(XI, 209),カール・ヨーエル(Karl )の『ニーチェと
ロマン主義』Nietzsche und die Romantik(XI, 295)を読んだ。エルンスト・ベルトラ
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ム(Ernst Bertram)の『ニーチェ』Nietzsche に関しては,初期の頃から,トーマス
・マンは十分に読み込んでいたし,高齢になっても「ニーチェ伝説」としてこの書を
高く評価していた。
こうして,ピュッツはトーマス・マンを20世紀の小説化の中では「最良のニーチェ
専門家」と評価する。もちろん,トーマス・マンはニーチェの著作を全部読んだわけ
ではないが,いくつかの最も重要な作品はもとより,その他の作品をも繰り返し読ん
でいる。トーマス・マンが最も好んで読んだのは,初期の文化批評的諸論文,大エッ
セイ,後期のヴァーグナー論難書,『この人を見よ』におけるニーチェの自虐的とも
いえるほど傲慢な告白,などである。
芸術家としてのトーマス・マンが評価したのは,ニーチェの散文家・エッセイスト
としての才能であった。トーマス・マンは『非政治的人間の考察』の中でこのことを
強調している。
[ニーチェは]ドイツの散文に敏感さ,軽妙さ,美しさ,鋭さ,音楽性,明確な
アクセント,情熱を与えた。これは,まったく前代未聞のことであり,彼以後ド
イツ語で文章を書こうなどという大それたことを思い立ったすべての者に対して
逃れがたい影響を及ぼさずにはおかなかった(XII, 88)。
トーマス・マンは,デカダンスの心理学者としてのニーチェを,超人の預言者とし
てのニーチェよりも明らかに好んでいた(XII, 79)。すでに初期において,「審美的な
ルネサンス・ニーチェ主義」(XII, 539)とは距離を置いていたし,
いて書いているように
『略伝』にお
「超人崇拝」,「チェーザレ・ボルジア式の審美主義」,一
切の「血とか美とかについての大言壮語」(IX, 109)を軽蔑していた。
以上で,トーマス・マンがニーチェのどのような著作を読んだか,何について感嘆
したかが明らかになっているが,さらにピュッツは,トーマス・マンがニーチェから
どういう影響を受けたか,それがトーマス・マンの作品にどのように沈殿しているか,
ということについても考察している。
トーマス・マンが影響を受けた「永遠に結ばれた精神の三連星」(XII, 72, 79)と
いう言葉は有名である。この三連星はショーペンハウアー,ヴァーグナー,ニーチェ
を指していて,この三人から受けた影響を一つ一つ区別することは困難であるとトー
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マス・マンは思っていた。ただし,トーマス・マンは亡くなる年においてもなおニー
チェという精神的遺産を信奉しており,散見する発言の中で四つの主要な特徴を強調
している。
1.文体の訓練(XI, 109)
2.デカダンスの分析における心理学的「洞察力」(XI, 110, 79)
3.情熱的文化批判
4.文化と芸術についての見解
さらにトーマス・マンは,『非政治的人間の考察』の中では,ニーチェを芸術家の
批判者として,なかんずくヴァーグナーの批判者として知っていた,と述べている。
芸術と芸術家気質とに関する私のすべての理解は,それ以来ずっとこの体験によ
って規程されてきた。あるいは,規程されたとはいえないまでも,この体験によ
って色づけられ,影響されてきた
それも,決して一途に信じ込んでという意
味ではなく,むしろあまりに懐疑的で冷静に。(XII, 74)
以上は,トーマス・マンの芸術観に対するニーチェの影響についてであるが,さら
にピュッツはニーチェがトーマス・マンの個人的な精神的生活面に対して及ぼした影
響についても触れている。
トーマス・マンにとって,ニーチェは永遠の同伴者であった。トーマス・マンの書
簡には,決定的な判断を迫られるときはニーチェが引用された。たとえば,「 トリス
タン』Tristan は『地獄の快楽』である」というニーチェの判断を繰り返すことによ
って,ニーチェを引用している。ほかに間接的な引用としては,ニーチェが『パルジ
ファル』Parsifal のテクストを「音楽の最高の挑発」であると言ったことが挙げられ
る。ただし,これは正確な引用ではない。というのは,ニーチェは1878年1月4日の
ラインハルト・フォン・ザイトリッツ(Reinhard von Seidlitz)宛ての手紙でヴァー
グナーの台本を「音楽の最後の挑発」と言っているからである。
トーマス・マンの引用の不正確さについて,ピュッツの判断は否定的なものではな
い。ピュッツはこう解釈する。トーマス・マンは原文どおりの言い回しを探し出して
きて手紙にはめ込んだのではなくて,トーマス・マンの頭の中に充満しているニーチ
ェを自分の頭脳の中から引用したのであって,むしろこのような自由な引用操作の中
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に,トーマス・マンとニーチェの親密さが明らかに汲み取れるのである,と。
ピュッツの極端な定義によれば,トーマス・マンは,キリスト教徒が聖書を引用す
るように,ニーチェを引き合いに出すのである。さらにまた,トーマス・マンがニー
チェを引き合いに出すのは,ニーチェの著作だけではない,ニーチェの人物と運命も
また,精神史上ほかの人物とは比較にならないほど,トーマス・マンの関心事である。
1950年初頭,トーマス・マンはスイスのジルス・マリーアを訪問し,1954年8月に
も再度そこを訪問している。ピュッツによれば,トーマス・マンは聖地に詣でる信者
のようにそこを訪れたのである。
ピュッツによれば,トーマス・マンはニーチェを生き生きと思い浮かべ,瞬間瞬間
の出来事にニーチェを関与させようとしている。たとえば,『音楽的ニーチェ祭のた
めのプロローグ』(1925年)では,「あなた方とご一緒に耳を澄ますために口を閉ざす
のは喜びであります
そしてまた,ニーチェがわれわれとともに耳を澄ますのだと
考えることは私の喜びとするところであります」(X, 184)という引用がなされてい
る。これよりも重要な引用は以下の例である。
1.「ニーチェだったらこれに対してどう言うでしょう?[……]読了後,ニー
チェ は あ な た を 抱 き し めることでしょう。」(ルートヴィヒ・マルクーゼ
[Ludwig Marcuse]宛て書簡)
2.「ニーチェが今日生きていれば,アメリカにいることでしょう」(エーリヒ
・フォン・カーラー[Erich von Kahler]宛て書簡)
3.すでに1920年代に,自然主義者という誹謗に対してニーチェを弁護し,「大
地と人間の新しい神聖化」(XIII, 580)という意味での世界市民主義とデモ
クラシーのために,ニーチェ返還要求をしている。
4.第二次世界大戦中に,政治的自由主義と「アメリカ的寛容さ」(XIII, 704)
の支持者としてニーチェを引用している。
こうしてニーチェを引用すること,ニーチェの思い出の土地を訪問すること,あら
ゆる時代の「尺度と価値」を決定する模範的な素質を持った偉大な死者としてニーチ
ェをありありと思い浮かべようとすること,これらすべては神話化への道の諸段階と
なる。
『<ファウストゥス博士>の成立』の中で,トーマス・マンは「ニーチェのことや。
ニーチェが引き起こす同情
ニーチェのことや,より普遍的な救いようのなさのこ
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とを語り合う」(XI, 163)と報告している。すなわちニーチェは,すべての人間のた
めに代表者として,この「より普遍的な」ものを背負って耐えているのである。こう
して,ニーチェは,ナザレのイエス(Jesus von Nazareth)のように神聖化されるこ
とになる。したがって次のような特徴的な言葉が発せられることになる。
1.ニーチェは「思想の十字架にかけられて拷問死」(IX, 678)せざるを得なか
った。
2.「ニーチェは苦難の道を歩んだ,聖人の域に達するほどに」(IX, 693)。
3.ニーチェは「感動的なまでに聖人の要素を多く」(1947年12月26日付,マク
シミリアン・ブラントゥル[Maximilian Brantl]宛て書簡)持っていました。
4.ニーチェは「反道徳の聖者」(IX, 692)であった。
5.「キリスト教に対する憎悪にもかかわらず,ニーチェはナザレのイエスとい
う人間そのものを攻撃したことは一度もなく,これもまた,彼が心底から愛
し自らも進んで歩み寄っていった,あの十字架,あの最後のためである」
(同前)。
では,「永遠に結ばれた三連星」(XII, 72 ; 79)のうち,だれが最も深くトーマス・
マンに影響を与えたのか?
この問題について,トーマス・マン自身は明らかにはし
ていないが,ピュッツの解釈によれば,それはニーチェということになる。その理由
は,ニーチェは,苦悩する人間という神話にまで様式化された役割をほかのだれとも
分け合っていないからである。ほかのだれも,これほど「より普遍的なもの」の代表
者にはなれていないからであるし,人間的な個人の運命の基準を,ニーチェほどはっ
きりと超越しているものはだれもいなからである。そこでピュッツの結論はこうなる。
根本的には,トーマス・マンは,生涯の最後までエルンスト・ベルトラムのニーチェ
像を保持し続けた,と。ベルトラムの本の副題は「神話の試み」であった。
ピュッツは,このトーマス・マンの基本姿勢は,第三帝国を経験したあとも変わら
なかった,と見ている。トーマス・マンは決してニーチェに背を向けることはなかっ
た。『ファウストゥス博士』とニーチェ講演の著者が,自分の師であるニーチェとの
関係を最終的に清算したと思うことは誤りである。書簡はそういう解釈とは別のこと
を語っている。
戦後,かつてのニーチェ信奉者オットー・フラーケ(Otto Flake)は,ニーチェを
告発した。フラーケは,「 第三帝国』の『思想的基盤』に対する責任をニーチェの哲
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学に負わせ,のちに(ニュルンベルク裁判においてニーチェが名指しされたとき),
もしニーチェが存命なら,おそらく『その名が戦争責任者のリストに記載され,ニュ
ルンベルクに召喚される』羽目になったであろう,と主張した」4)。
これに対してトーマス・マンは最も激しく非難した。かつてトーマス・マンは,
1947年12月26日付けマクシミリアン・ブラントゥル宛ての書簡の中でこう書いていた。
「 ニーチェがわがドイツを堕落させた』という理由で,彼に腹を立てたりすること
はありえません。ドイツ人が,ニーチェの悪魔主義にだまされるほど愚かであるのな
ら,それは彼らの問題です。ドイツ人が,偉大な人物たちに耐えられないのなら。も
はやこれ以上何も生み出すべきではありません」。
トーマス・マンのニーチェ評価に関して,この一方における,揺らぐことのなさそ
うな高い評価と,他方における「決して一途に信じ込んでという意味ではなく,むし
ろあまりに懐疑的に冷静に」(XII, 74)という陳述との間の折り合いをどうつけるべ
きか。トーマス・マンは『略伝』の中でこう書いた。「私は,ニーチェを何よりも自
己克服者と見たのだ。ニーチェの言葉を文字通りには受け取らなかったのだ。私はニ
・・・・・・
ーチェの言うことは何一つ信じなかった。このことこそ,ニーチェに対する私の愛に
・・・・
二重の情熱を与え,深さを持たせたのである」(XII, 109f.)しかし,「何一つ信じなか
・・
った」ということは,神聖化することと矛盾しないのだろうか。
ピュッツは,それは矛盾しないのだと言う。その理由は,信仰の否定とともに「ニ
ーチェに対する私の愛」という言葉があるからである。信仰の欠如,すなわち懐疑,
と愛とはお互いに相容れないものではない。愛するとは,賢明で迷い,苦悩しつつ勝
利を喜び,啓示を与えつつ幻惑する,という矛盾に満ちたニーチェ全体を感受し肯定
することだからである。
ではトーマス・マンは,ニーチェのどこに懐疑を抱いていたのであろうか。ピュッ
ツによれば,それは哲学部分に対する留保である。知的・道徳的な無責任さに追い立
てられて,他との関連を切り離して考えると,想像のつかないほど危険なものとなる
ようなテーゼに対して,トーマス・マンは判断を留保するのである。例えば,審美主
義,超人,戦争,動物性と野蛮さが問題になる場合には,トーマス・マンは批判的な
立場にたつ。しかし,「ニーチェ」という全体像が問題になるときには,トーマス・
4) Manfred Riedel : Nietzsche in Weimar. Ein deutsches Drama. Leipzig : Reclam 1997, S.
198f..
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マンは常に崇拝者の立場にたっている。トーマス・マンが詳細には表現できなかった
ものを,ニーチェは「生」(Leben)と名づけたのである。
全体が,部分に解体されて,個別機能が対立し合う状態で考察される場合,トーマ
ス・マンはニーチェに対して距離を置くのである。
ピュッツによれば,トーマス・マンは二つの謬見を正したいのである。
「第一の謬見は,危険な支配者は知性の方であって,本能は早いことその支配から
救い出してやらなければならないとするような誤認,この世における本能と知性との
間の力関係の,完全なというよりは故意のとしか考えようのない,誤認である」(IX,
695)。
第二の謬見は,ニーチェが,生と道徳を対立物として扱い,両者の関係が誤って評
価されている点である。「本当はこの両者は同じ仲間である。倫理は生の支えであり,
道徳的人間はまさしく生の市民である。
多少退屈ではあっても,きわめて役に立
・・
つ人間である。真の対立関係は倫理と美学の間にあるのだ」(IX, 696)。
ピュッツによれば,トーマス・マンのニーチェ批判は,ナチズムと第二次世界大戦
の歴史的体験から生まれたものである。しかし,このような批判が,ニーチェという
現象の全体的評価をほとんど妨げてはいない。後期の書簡がそのことを裏付けている。
*
2.2
トーマス・マンの物語作品におけるニーチェの影響と研究上の注意点
上記において,ピュッツは,理論的発言に基づいてトーマス・マンにおけるニーチ
ェ受容を検証しているが,ピュッツ論文の優れている点は,トーマス・マンの物語作
品に対する影響を検証していることである。後者の方が圧倒的に困難な研究なのであ
る。ピュッツは,ニーチェの影響を考える場合,検証されねばならない研究上の注意
点を二つ挙げている。
第一には,前提としての依存関係は,ニーチェとの接触によって,はじめて植えつ
けられたものではなくて,むしろそのテーマと思想は,トーマス・マンの中でひょっ
とすると展開されたものではないのか。
第二には,ニーチェ―トーマス・マン関係という単一因果関係を暗示するものは,
実際にはトーマス・マンがニーチェと共通に持った十九世紀末の普遍現象ではないか。
この二つの問いを考慮に入れなければ,トーマス・マンが書いたものをすべてニー
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チェが起源であるとみなす危険を冒すことになる。トーマス・マンを,巨匠ニーチェ
のテーマを大オーケストラのために編曲したかのような,亜流の作曲家のように見る
ことの危険性に対して,ピュッツは警告を発しているのである。
2.2.1
トーマス・マンがニーチェから受け継いだ引用と理念
ピュッツは,トーマス・マンの作品における引用の仕方について,ヘルマン・メイ
エル(Herman Meyer)の『物語芸術における引用句
ヨーロッパ小説の歴史と詩
Zur Geschichte und Poetik des Romans. と
学』Das Zitat in der いう優れた研究書に着目している。
メイエルによれば,トーマス・マンの作品には,『魔の山』までの引用と後期の作
品では,重要な変化が認められる,というのである。すなわち,『魔の山』までは,
引用が読者によって発見されるように書かれている。これに反して,後期の作品にお
いては,引用の仕方は「次第に秘密の度」を加えるのである。
ピュッツは初期の作品から,ニーチェ受容の具体的な検証を始める。
■トーマス・マンの最初期のニーチェ引用:
例1)「生存への意志」,「無への意志」,「力への意志」,「愚鈍への意志」などの
言い回しにはニーチェの「力への意志」の言い回しへの依存が見られる。
例2) 非政治的人間の考察』は,『反時代的考察』をほのめかしている。
例3) 魔の山』は,『悲劇の誕生』の第三部と関係がある。
1896年)の場合:
■『幸福への意志』(Der Wille zum 例1)作品のタイトルがニーチェの『力への意志』をもじっている。
例2)作品には「距離の情熱」という言葉が出てくるが,これは『善悪の彼岸』
の「高貴とは何か」という問で始まる第九章の人目を引く箇所に何度も出
てくる。
例3)作品では主人公パーオロ・ホーフマンは猛獣にたとえられている。『道徳
の系譜学』では猛獣としての人間や,「野獣の良心」について語られてい
る。
例4)病弱な主人公パーオロは,長い間待ち焦がれてきた幸福を結婚式の夜に経
験し,死と共に幸福を語る。これには,『ヴァーグナーの場合』Der Fall
Wagner の中の「病気そのものは生の興奮剤である」,および『この人を見
272
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よ』の中の「典型的に健康な人にとっては,反対に,病気であることが生
きること,より多量に生きることへの強力な興奮剤にさえなるのである」
というニーチェの根本思想が関係している。
■習作『幻滅』(
1896年)の場合:
詩人の偽りの言葉に対するニーチェの懐疑の影響が残っている。
■『小男フリーデマン氏』(Der kleine Herr Friedemann, 1897年)の場合:
例1)肉体の欠陥によってかえって精神的感受性が高められ,健康な人間の凡庸
さを超えてしまう。身体の欠陥と精神的高揚との関係が物語の中心に据え
られるが,これは,『ツァラトゥストラはこう言った』の中の「背中に障
害を持った人から背中のこぶを奪うのは,精神を奪うことである」と関係
がある。
例2)フリーデマン氏は詩や小説の質を味わうことのできる感受性を備えている。
これは『華やぐ智慧』の306番の中でニーチェが書いている,エピクロス
派には「極度に敏感な知的性質」があるという思想と関係がある。
例3)ニーチェは「エピクロス派の庭」について1879年3月26日と10月31日付け
のパウル・レー(Paul )宛ての手紙の中で述べているが,閉鎖と自己
満足の象徴としての「庭」は,『小男フリーデマン氏』においてもライト
モチーフのように出てくる。
例4)必然の定めのようなものを肯定する思想が共通に見られる。主人公はかな
わぬ恋と知りつつも恋を断念することができない。この定めについて小説
ではこう述べられている。「たちまち,彼の心は,それを知っている人に
はいっさいの運命を超えた一種の優越感を与えることのできる必然の定め
と親しく意思を通じ合っているような感じに襲われた」(VIII, 98)。これ
は『悲劇の誕生』の中心的な思想でもあるし,『ニーチェ対ヴァーグナー』
Nietzsche contra Wagner のエピローグにおいては,こう書かれている。「私
の最も内奥の天性が私に与えるところでは,いっさいの必然的なものは,
高所から眺めた場合には,また,大きな経済の意味では,利点をも備えて
・・
いる,
単にそれを耐え忍ぶだけではなく,それを愛さなくてはならな
・・・
こ れは私の最も内 奥の天 性 で あ る。」
い……『運命愛』(amor fati)
(KSA 6, 436)。
トーマス・マンにおけるニーチェ受容をめぐって
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■『トーニオ・クレーガー』(Tonio 1903年)の場合:
例1)この作品の中の「認識の嘔吐」(VIII, 300)という言葉や,『道化者』(Der
Bajazzo, 1897年)の中の「嘔吐,嘔吐で胸がいっぱいである」(VIII, 140)
はニーチェに由来するもので,嘔吐と言う言葉は,ニーチェの場合には,
克服と更新の原動力になったものである。ニヒリズムにいたる「人間への
嘔吐」(KSA 6, 348)が,ニーチェに,新しい人間を捜し求めるきっかけ
を与えたのである。
例2)「金髪碧眼の人々」(VIII, 338)もニーチェに由来する言葉である。ピュッ
ツによれば,『道徳の系譜学』には,これに関連したしばしば引用される
箇所があるが,多くは間違って用いられていると指摘されている。「これ
らすべての高貴な種族の根底に紛れることなく認められるのは,猛獣であ
・・・・・
る。獲物と勝利を願って徘徊している華麗な金髪の野獣である」(KSA 5,
275)。 トーニオ・クレーガー』では,トーニオ・クレーガーが,デンマ
ークの海水浴場の客の中に,昔の少年時代の友人と意中の人を再び発見し
たと思ったとき,「この二人の一つ一つの特徴や衣服の共通性のためとい
うよりも,種類と類型の同一性,純潔と,締結と誇りかであると同時に素
朴な犯しがたい冷たさとの入り混じった印象を呼び起こす明るい。目が鋼
色に青い,金髪の種族の同一性のためなのであった」(VIII, 331)と書か
れている。ただしここでは,ニーチェの言葉のうち,「種族」と「金髪」
という二つの概念は残っているが,「野獣」という概念は,変質してしま
って,愛すべきだが精神性のない画一的な性格の代表者というものに変わ
っている。
例3)トーニオ・クレーガーは,友人リザヴェータとの会話の中で,ハムレット
に言及し,こう続ける。「知るために生まれてきたんじゃないのに知ると
いう宿命を受ける,こいつがいったいどういうことか,ハムレットは知っ
ていたんです」(VIII, 300)。
ピュッツによれば,トーマス・マンはのちにこれとほとんど同じ言葉を,ニーチェ
に転用している。そこでは,「認識という使命を負わされはしたが,元来その天稟に
欠けていて,ハムレットのようにそのために破滅した,過大な課題を負わされたひと
つの魂」(IX, 676)について語られている。トーニオ・クレーガーは,ハムレットや
274
大阪経大論集
第53巻第6号
ニーチェと同じ課題の前に立たされているのである。
■『ブデンブローク家の人々』(Buddenbrooks, 1901年)の場合:
ピュッツによれば,この作品では,ニーチェの影響は少なくて,ショーペンハウア
ー哲学の意義の背後に退いている。しかし,個人的なものを否定することを説き,種
と世界意志の普遍的なものへ赴くことを進めている形而上学の陶酔に,領事が,第10
部の第5章で,身をゆだねるとき,ショーペンハウアーの哲学は,「死んだら,私は
・・
どこにいることになるのだろう」(I, 657)という問いを発することができるに過ぎな
い。しかし,「かつて私と言ってきたし,現在そう言い,将来そういうことになるす
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
べての人間のうちに,特にしかし,それをもっと充実し,もっと力強く,もっと楽し
・・・・・・・・・・・
・・
く口にする人間のうちに,私は存在するのだ」(I, 657)という答えは,もはやショー
ペンハウアーの精神に由来するものではない。これらの言葉の中には,生の肯定のみ
・・・・・
ならず,高められた生
これは,完全にニーチェの意味で考えられている
に対
する賛美がある。この発展は普遍的な世界意志への賛歌の中にではなくて,新しい人
間というヴィジョンの中で頂点に達する。トーマス・ブデンブロークは新しい人間を
はっきり認識している。「天分に恵まれ,優秀で,己の才能を伸ばす能力を持ち,す
くすくと育ち,翳りがなく,純粋で,残酷で,快活な少年であり,その姿を見れば幸
福な者の幸福は高められ,不幸なものは絶望に駆り立てられるという人間の一人であ
る」(I, 658)。
■『フィオレンツァ』(Fiorenza, 1905年)の場合:
この作品がニーチェの作品に刻印されていることを,トーマス・マンは『非政治的
人間の考察』の中で,次のように表現している。ロレンツォと僧院長,「この二人は
本 文にも 描 か れているように,ディテュランボス 的 官 能 家と禁 欲 的 僧 侶 である」
(XII, 94)。ピュッツによれば,ニーチェの影響はなかんずくフィオーレの最後の言葉
に認められる。
■『魔の山』(Der Zauberberg, 1924年)の場合:
ピュッツは,H. J. ヴァイガント(Hermann J. Weigand)の『魔の山
トーマス・
マンの小説<魔の山>研究』The Magic Mountain. A Study of Thomas Mann’s Novel Der
Zauberberg. を引用し,病気に対する大きな関心がニーチェの遺産の一つであること
を強調する。
例1)H. J. ヴァイガントは,『この人を見よ』の「天才の成立は乾燥した空気や
トーマス・マンにおけるニーチェ受容をめぐって
澄み切った空を条件としている
275
すなわち,迅速な新陳代謝を,言い換
えれば法外とさえいえる大量の力を繰り返しわが身に取り込みうる可能性
を条件としている」(KSA 6, 282)を引用し,「この章句には,明らかに,
トーマス・マンの[ 魔の山 ]着想の核心があって,主人公を乾燥した山
の空気にさらし,法外な食事療法をうけさせることによって,これらが主
人公に及ぼす様子を観察しているのである」と述べている。
例2)作中人物セッテンブリーニが発する,イロニー,逆説,音楽に対する警告
内容は,ニーチェ初期の著作の影響を受けている。
例3)セッテンブリーニの言い回し,人類と啓蒙の日は「鳩の翼に乗ってやって
こないとしたならば,鷲の翼に乗ってやってくるだろう。その日の夜明け
は,あらゆる民族が団結する親睦の黎明を意味するであろう」(III, 221)
は,一部は,ツァラトゥストラの言葉に,一部は,ニーチェの『曙光』に
依拠している。
例4)「雪」の章における,主人公カストルプの遠足の場面は,ゲーテの『ファ
ウスト』における母たちの国への下降の場面の影響を受けているが,ピュ
ッツは,エーリカ・A.ヴィルツ(Erika A. Wirtz)の研究に基づき,古
いヘラスの形象が,ニーチェのアポロ的なものとディオニュソス的なもの
によって変化していることを指摘し,ゲーテの古典的な美の把握と異なっ
ている点を強調している。さらに,エルヴィン・ローデの『プシュヒェー』
Psyche の影響も認められると述べている。
例5)この他に,グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)の『大地の歌』Das Lied
von der Erde の「美について」という歌,ゲーテ(Johann Wolfgang von
Goethe)の『ヴェイルヘルム・マイスターの遍歴時代』Wilhelm Meisters
Wanderjahre の「教育州」,E・ベルトラムの『ニーチェ』のなかの「エ
レウシス」の章の影響も考慮されなければならない。
例6)「雪」の章には,ニーチェの「大いなる正午」との平行関係が認められる。
ピュッツは,「大いなる正午」の由来を追及し,とりわけ,それが諸民族
の信仰や迷信の中でどのように演じられたかを指摘するために,カール・
シュレヒタ(Karl Schlechta)の研究を引用している。それによれば,真
夜中の幽霊の出る時間と同様に,善意のある有害な幽霊の出現時間として
276
大阪経大論集
第53巻第6号
の正午についても考察されている。新約聖書の中では,正午は主の臨終の
ときである。マルコ書第15章25節によれば,「キリストが十字架にかけら
れた第三のとき」であった,福音書によれば,12時に暗闇が始まり3時ま
で続いた。ギリシア人にとって,正午は,牧神が眠り,不気味な力が人間
を脅かしたときであった。
ピュッツの指摘によれば,ニーチェは,とりわけツァラトゥストラに「大いなる正
・・・・・・・・・・
午」について多くを語らせている。その言葉はこうである,「いざ来たれ,いざ,汝
・・・・・・・
大いなる正午よ!」(KSA 4, 408)。 ツァラトゥストラはこう言った』の第四部では,
ある章が「正午」というタイトルをつけられていて,「牧人も笛を吹かない密かな,
厳かな刻限」(KSA 4, 343)が扱われていて,灼熱の暑さが野辺に横たわっている。
ニーチェの「大いなる正午」は,このような牧神的・神話的イメージと並んで,終末
論的であると同時にユートピア的な,より広くてより深い意味を含んでいる。「大い
なる正午とは,人間が動物から超人に至る道程の中点に立ち,夕べに向かうおのれの
道をおのれの最高の希望として祝うときだ。それが,ひとつの新しい朝へと向かう道
であるから」(KSA 4, 102)。正午は危機のときであり,移行のときであり,転換点が
見える,したがって,ツァラトゥストラは,最後の言葉の中で,「大いなる正午」を
快く迎え入れるのである。というのも,この預言者は,自らはいまだ新しい人間では
ないが,洗礼者ヨハネがキリストを指し示すように,新しい人間を指し示す人物とし
て自分を見ているからである。
ところで,『魔の山』の主人公カストルプが[雪]の章で,冒険に見を投じるのは
正午ではない。厳密に言えば,それは「午後3時」(VIII, 662)である。さらに,カ
ストルプを苦しめるのは灼熱ではなくて,むしろ寒さと雪嵐である。ではいったい
「大いなる正午」との影響関係はどのようなものであろうか。
ピュッツによれば,正午から3時までは,一日の真ん中の時間として扱えるという,
なぜなら,この時間帯は横臥療法の時間帯であり,ほかの患者たちはこの時間にはま
だ正午の休息を取っているのに,カストルプは「サボっている」(同前)からである。
また,冷たい高山は,熱い地中海の風景と隔たってはいない。どちらも人間の感覚
を麻痺させ,どちらも正午の牧神的静寂が支配しているからである。
ニーチェはこれを「恐ろしい静寂」(MusA 14, 174)と呼んでいるが,トーマス・
マンはこれを「綿を詰めたような無音」(III, 657)と言い換えている。
トーマス・マンにおけるニーチェ受容をめぐって
277
カストルプが雪の中で空間と時間の感覚を喪失する点も,ニーチェの「大いなる正
午」と呼応している。カストルプは雪の中で道に迷って,円を描いて行進するが,そ
れは「死への進行」(Umkommen)である。一方,「ツァラトゥストラは走りに走り,
もう誰 に も 会 わ ず 一 人 で あった。いつ 見 て も,そ こにいるのは自分だけである」
(KSA 4, 342)。そしてツァラトゥストラが,眠りに陥って「ついぞ味わったことのな
い陶酔」から醒めると,「太陽はなおも変わらず彼の頭上に照っていた」(KSA 4, 345)。
カストルプも通常の時間意識を失い,すべてが起こった後で,時計の針の位置につい
て驚いている。
しかし,ニーチェの「大いなる正午」とカストルプの冒険との間の比較はこの点前
は行えるが,これらさまざまな一致点にもかかわらず,トーマス・マンがニーチェに
そのまま依存しているということまでは証明しえない,というのがピュッツの結論で
ある。なぜなら,トーマス・マンがニーチェの影響を受けたのか,それとも両者が共
に原型的イメージというものを持っており,お互いに共通の伝統の中にいたのか,ど
ちらとも判断が下せないからである,という。「大いなる正午」がもたらす転換点と
いう理念も,「同じきものの永遠回帰」という理念も,西洋の理念史を通じて保持さ
れているものであって,程度の違いはあっても,詩人たちや哲学者たちにとって基本
的要素であって,共有財産となっている,と見なすからである。
■ヨゼフ小説(Die Josephsromane, 1933年−1943年)の場合:
ピュッツは,トーマス・マンのヨゼフ小説の場合においても,その神話的モデルが,
ニーチェの影響を受けたものか,ニーチェとトーマス・マンが両者ともに共通した理
念財を受け継いだのかは判断がつかないであろう,と言う。しかし,紙面の制限のせ
いであろうか,ピュッツが,ヨゼフ小説における両者の呼応関係の検証を省いている
のは残念である。
■『ファウストゥス博士』(Doktor Faustus, 1947年)の場合:
ただし,ピュッツは,『魔の山』やヨゼフ小説に比べると,トーマス・マンの晩年
の作品である『ファウストゥス博士』に対するニーチェの直接的な影響は把握できる,
と見なす。『<ファウストゥス博士>の成立』からも,ニーチェの作品と人生が『フ
ァウストゥス博士』の成立にいかに重要であったかが読み取れるからである。トーマ
ス・マン自身,「この長篇小説には,しきりに『ニーチェ』が出てくるので,これは
まさにニーチェ小説と呼ばれたくらいだ」(XI, 166)と書いているし,彼自身この上
278
大阪経大論集
第53巻第6号
もなく重要な特徴を記述している。「それで,このレーヴァーキューンの悲劇はニー
チェの悲劇と編み合わされているのだが,慎重な注意を払ってニーチェの名を作中の
どこにも出していないのは,ほかでもない,この快意状態に陥った(euphorische)
音楽家レーヴァーキューンがニーチェの代わりになっているからで,したがって,ニ
ーチェはもはや出てくるわけにはいかないのである。ニーチェの生涯からこの小説に
引用したことをあげると,ニーチェがケルンで娼家に連れ込まれた体験や彼の病気の
徴候などをそのまま文字どおりに引き継いだこと,第 XXV 章の悪魔に『この人を見
よ』から引用させたこと,ニーチェがニツァから出した手紙で知れる食餌養生の献立
を引用したこと
これはほとんど読者の誰にも気づかれない引用だと思う
ある
いは,やはり目立たない引用だが,精神の暗闇に沈んだニーチェに花束を持っていっ
てやったドイセンの最後の見舞いを引用したこと,などである」(XI, 165f.)。このほ
かに,トーマス・マンは,ニーチェの一連の伝記的事実をレーヴァーキューンに転用
している。「二人とも8月25日に死んでいるし,最後の10年間を精神錯乱状態で過ご
しているのである。その上,「レーヴァーキューンは『深き夜から出でて,こよなく
深き夜の中へ』入っていった」というツァイトブロームの言い回しは,ニーチェに対
するシュテファン・ゲオルゲ(Stefan George)の「そして長き夜からこよなく長き
夜へ歩み行く」(VI, 9)という詩句に対する連想を宿している。
ピュッツは,その上にさらに,より深い意味での一致が存在することを指摘してい
る。
(1)ニーチェとレーヴァーキューンとの一致点
ニーチェもレーヴァーキューンも,芸術と芸術家存在の問題性を経験し,
苦悩している。音楽が,両者の場合に中心的な役割を演じている。両者は,
自己破壊的な意識の頂点に位置しており,それによって生じる不毛性を,一
種の自己犠牲によってしか打開することができない。両者は,追求さるべき
業績の偉大さと,自己の存在の不完全さとの間の不協和音のために挫折する。
両者は,トーマス・マン的な意味で,ハムレット的性格の持ち主である。
(2)ニーチェとツァイトブロームとの一致点
ピュッツは,「ニーチェが,音楽家に文化哲学と生涯の運命を分け与えた
とすれば,古典主義者ツァイトブロームには,古代の知識という出発時の立
場を遺産として残した」というH.マイアー(Hans Mayer)の研究書の文を
トーマス・マンにおけるニーチェ受容をめぐって
279
引用し,レーヴァーキューン以外の登場人物たちにもニーチェの特徴が含ま
れていることを指摘している。ニーチェの伝記とツァイトブロームの伝記と
のあいだのさらにそれ以上の一致点は,数学的才能が欠けている点にある。
ニーチェは,数学における不可という成績と,古典文献学における優という
成 績とによって,高校卒業資格試験において,バランスをとったが,ツァ
イトブロームも同じ弱点を告白していて,これを「文献学に関する諸学科で
のたのしい努力によってかろうじて埋め合わせをつけ」(VI, 64)たのであ
る。
(3)副次的登場人物たちに含まれるニーチェ的特徴
クリトヴィス-クライスの人物たちの唱える,啓蒙や文明よりも,神話的
なものや先祖がえりのようなものを優位に置く大胆な理論の中には,後期ニ
ーチェの常軌を逸したテーゼが影響を与えている。言い換えれば,クラーゲ
ス(Ludwig Klages),シューラー(Schuler),デルレート(Derleth)などの
ニーチェ信奉者たちの常軌を逸したテーゼが現れていると思われる。
(4)登場人物悪魔におけるニーチェ的特徴
「悪魔との対話」の場面で,混乱するレーヴァーキューンに,悪魔がイン
スピレーションの本質について教えるときに『この人を見よ』の中のニーチ
ェの言葉を口にしている。
(5)創造的な起源としてのニーチェ
『ファウストゥス博士』には,ニーチェの名前は直接登場しないけれども,
第 XXIX 章からの次の箇所は,生の哲学者ニーチェを暗示している。そこで
は,「その絢爛たる無拘束における『生』の賛美」と「ペシミズム的な苦悩
の畏敬」(VI, 384)との対立が話題になっている,そしてツァイトブローム
は続ける,「この対立は,その創造的な起源においては一つの個性的な統一
を形づくっていたのだが,時代とともに分裂して相争うようになったのだと
言ってよいのである」(同上)「創造的な起源」という言葉によって,ニーチ
ェが指し示されていると言えるのだが,彼は,この長篇小説の中で書かれた
意識状態を作り出したし,彼において,生に対する賛美と病気に対する共感
が「一つの個性的な統一」の形づくって結びついていた。
280
大阪経大論集
第53巻第6号
*
2.2.2
トーマス・マンの言語と物語形式に対するニーチェの影響
以上で,ピュッツは,トーマス・マンがニーチェから受け継いだ引用と理念,すな
わち内容について検証を行ってきた。
ピュッツは,さらに形式に対する影響,すなわちトーマス・マンの言語と物語技法
に対する影響についても踏み込んで検証している。
ピュッツの問題設定の目標は,物語作者が哲学者の恩恵に浴しているということだ
けではなくて,芸術家がそれをいかに活用し,芸術意図に奉仕させているかを検証す
るということである。
ピュッツはまず,ニーチェの思考の萌芽について考察する。ニーチェは,自分の判
断を論証的に定式化するが,ほかの箇所ではそれを撤回し,正反対のことを主張した
りするので,ニーチェの思想を体系的な秩序によって満たそうとするのは困難である,
という。ピュッツは,その例を挙げている。
例1)一方において,世界は「美学的現象」(KSA 1, 61)としてのみ正当化され
るべきであるが,他方においては,芸術は幻惑として片付けられてしまう。
例2)音楽と詩は高く評価されるが,他方においては,芸術家は,俳優であり猿
のような存在である。
例3)詩人に嘘つきという罪を着せるツァラトゥストラの非難は究極的なもので
はなくて,嘘は「力への意志」という積極的な機能を有することによって,
現存在をようやく耐えうるものにするという新たなる認識によって排除さ
れる。
例4)ソクラテス(Sokrates),ショーペンハウアー,ヴァーグナーなどの精神
史上の偉人に対するニーチェの評価には変化がある。
ピュッツによれば,こういう矛盾したニーチェの判断は,ニーチェの病気によって
も,ニーチェの作品の発展によっても十分には説明できない。だからといって,もし,
矛盾性を唯一の思考原理に高めようとしても,それも挫折せざるを得ない。なぜなら,
ニーチェ自身,「いかなる対立も存在しない。われわれの持つ対立概念は,論理学上
の対立にすぎない
そしてそこから間違って事物のなかに持ち込まれたものである」
(SA 3, 541 ; MusA 15, 53)と述べているからである。そういう対立の代わりに,ニー
トーマス・マンにおけるニーチェ受容をめぐって
281
チェは,思考のなかにおける統一を強調している,すなわち,ニーチェは「共通の根」
・・・・
(KSA 5, 248),「認識の根元意志」(同前)について語っていて,自分が「断片であり,
謎であり,残忍な偶然であるものを,一つ凝縮して,まとめ合わせる」(KSA 6, 348)
ことに,最優先課題を見ているのである。
しかし,ピュッツは問う。異なるいっさいのものを包括し,根拠づけ,価値を評価
する唯一者にして全体なるものとは何か,と。全体性の本質は,どのような言語規程
が表現できるものよりもそれ以上のものを含むことである,とすれば,言語はある事
項の実態を把握するのではなくて,たかだか相対関係を暗示するにすぎない。ただ暫
・・
定的なものを表しているにすぎないからだ。したがってこの場合,ニーチェは「十全
・・・・・
な表現方法」(SA 3, 751)という可能性を疑っている。ニーチェにとって,人間の認
識能力は,二重の観点から制限されている。
1.客体は一定の面からしか明らかにはならない。
2.主体は,立場(場,時,関心など)の諸条件に依存している。
そこからニーチェはつぎのような結論を引き出す。「ある見方で遠近法的に見ると
・・
・・
いうことしかありえない。ある観点に立って遠近法的に『認識する』ということしか
・・・・・
ありえない,そしてわれわれがある事についてより多くの感情を発言させればさせる
・・・・・
ほど,また同じ事柄について,より多くの目,いろいろ違った目を向けることを心得
ていればいるほど,この事柄についてのわれわれの『概念 ,われわれの『客観性』
は,それだけいっそう完全なものとなるであろう」(KSA 5, 365)。ある事柄の全体を
把握する試みは成果を収めないままであるので,認識は,相互に矛盾することのある
相対的個別認識に還元されてしまう。立場を絶えず変えることによって,観察者は,
事物をその都度新たな輪郭を持ったものとして眺める。ある観点に立って遠近法的に
認識することは,個別認識の唯一妥当性を破壊し,単一的なものを過剰に強調するこ
とから身を守ってくれる。これによって,素朴性,固定観念,不十分な帰納的推論が
避けられる。究極の真理のために観点を固定すると,理想に傾くことによって生に敵
対する原理につながらざるをえないであろう。ニーチェにとって哲学するとは,統一
的全体の周りを絶えず循環することである。ニーチェが,より多くの視点を考慮に入
れれば入れるほど,彼は全体に近づくことになる。しかしながら,完全にそのなかに
到 達することは彼には拒まれている,というのは,自然は,「その鍵を投げ捨てた」
(VI, 77)からである。
282
大阪経大論集
第53巻第6号
こうしてピュッツは,ニーチェの認識理論を懐疑主義者の遠近法主義(Perspektivismus)である,と結論づける。
*
ここで,ピュッツの論点は,ニーチェとトーマス・マンの関係に戻り,ニーチェの
認識理論としての遠近法主義が,物語作者トーマス・マンの遠近法的な見方,叙述,
語りにどのように変換されているかを考察する。
トーマス・マンの遠近法的な見方は,
(1)「一方においては
他方においては」という言い回し
(2)領域間の滑空
(3)「ああでもなく,こうでもなく」という言い回し
(4)いくつかの補足的な現象によるモンタージュ
などの表現技法に現れている。ハイフンによって結ばれた連結形容詞を繰り返し用い
ることもこの補足機能に属しているが,これは,ニーチェにもトーマス・マンにも見
られるものである。
ピュッツは,『ファウストゥス博士』の第 II 章から,次のようないくつかの代表例
を挙げている。「生き生きとして・愛らしい」(lebendig-liebevoll),「教育的・人間的」
(
-human),「論理的・道徳的」(logisch-moralisch),「高貴にして・教育的」
),「品位があり・最も善意のある」,(
-wohlwollendst)。こう
(edel-
いうふうに結合された形容詞がしばしば名詞化され場合には,「夜の・妖怪のような
-Ungeheuren)という言い回しのような,トーマス・マンに典型的に
もの」(
見られる言い回しが発生する。これは,緊張と不確定性を同時に満たす表現法である。
「疑わしい」(
),「多様な」(vielfach),「両義的な」(zweideutig)などの
ように,浮遊せるものを確定することのない言葉に対するトーマス・マンの偏愛も,
ニーチェの影響を示している。
両義的で疑わしいという性格は,自然現象を記述する際にも同様に認識される。自
然現象は決して単純ではなくて,常に不純であり,混合されていて,部分から構成さ
れている。
例1)トーニオ・クレーガーが,リザヴェータを訪問するとき,「春の若くて甘
い吐息」が「定着液と油絵の具のにおい」(VIII, 292)と混ざり合う。
トーマス・マンにおけるニーチェ受容をめぐって
283
例2)トーマス・ブデンブロークが,ショーペンハウアーを読むために庭に出る
とき,ライラックの香りは,砂糖工場のシロップのむっとするような甘い
においによって汚染されてしまう。鳥たちがいかに「物問うような調子で」
(I, 653)囀ろうとも,鼻を突くようなにおいが境 界をほとんど越えてい
る。
例3)季節が描写されていても,それは常に移行の季節である。晩夏の空のあせ
た青色が晩秋を予告するか,『トーニオ・クレーガー』の冒頭の場面のよ
うに,冬の太陽が出ていても,路地は「湿っていて,風が通り抜けて」い
き,溶けつつある雪が氷まじりの泥と混ざり合う。
例4) ファウストゥス博士』においては,「音楽家」の父,ヨナタン・レーヴァ
ーキューンが「四大を思索」(VI, 22)しようとすると,一義的な取り決
めの領域を踏み越えてしまう。通常の経験によれば,堅固な境界によって
分離されているものが,ここでは滑るように動き始め,混ざり合う。諸現
象は,物理学的,生物学的な綱や種というふうに秩序づけることができな
い。こうして,たとえば,いわゆる「大食いのしずく」(VI, 29)や氷の
花が,有機的なものと非有機的なものの間の中間的位置,合目的的に組織
化されたものと純粋に偶然の産物であるものの間の中間的位置を占めるこ
ととなる。
例5)四大のからかうような性格は,音楽においては,アードリアーン・レーヴ
ァーキューンがかつてエンハーモニー的な転換をもとに明らかにした音の
多義性に一致している。「この音,あるいはこの音を例にとってみたまえ。
君はこれをこう解することもできるし,あるいはまたこう解することもで
きる。下から上げられたものと理解してもいいし,上から下げられたもの
と理解してもいい。そしてもし君が老獪なら,君はこの曖昧さを好きなよ
うに利用できるんだ」(VI, 66)
例6)芸術が遠近法的な見方を身につける方法を,グリッサンドという様式手段
も示している。
トーマス・マンの場合の語り手が,ひとつの現象をこの上もなく多種多様な構成要
素から構成する方法。
例1)レーヴァーキューンが音楽の初歩的基礎知識を伝授された都市であるカイ
284
大阪経大論集
第53巻第6号
ザースアッシェルンの描写によって描かれている。これ以外のレーヴァー
キューンの生涯の滞在地はすべて実名が挙げられているのに,カイザース
アッシェルンは想像の産物なのである。この半ば中世的な都市の遍在性が,
まさに場所が特定されないことによって,普遍的性格を保証しているので
ある。この都 市は,「ハレの南方,テューリンゲン地方によったところ」
(VI, 50)にあると言われているので,地理的にはナウムブルクに一致す
るかもしれない。この点で,ナウムブルク近郊のプフォルタの学校に通っ
たニーチェとの関連が出てくる。ハレ,ライプツィヒ,ヴァイマルの近郊
にあるということは,この架空の都市を,古い文化諸都市の範囲に置くこ
とになる。ルターの生誕都市であるアイスレーベンという名前が出たとき,
そして,近郊のメルゼブルクにおいてだけではなくて,カイザースアッシ
ェルンにおいても異教的呪文が発見された年代記作者が報告するとき,連
想はさらに過去にさかのぼっていく。語り手は,皇帝オットー III 世の墓
所を,アーヘンから,火刑の薪の山の煙がまだくすぶり,拷問された魔女
や鞭打苦行者の叫び声が聞こえてくるように思えるカイザースアッシェル
ンに移すことによって,彼の眠りを妨げたりもする。
語り手の遠近法的見方は,一面においては,全体的解体の方向に向かう,しかし他
方においては,一切が一切と関係することが可能なので,諸関連の無限の複合体を可
能にする。ピュッツによれば,これこそが,ニーチェが願った芸術である,すなわち,
一切を「打ち砕き,ごちゃ混ぜにし,最も異質なものを組にしたり,最も近しいもの
を分離しながら,アイロニカルに,ふたたび組み立てる」(VI, 90)芸術である。
以上における遠近法的な見方は,空間的に,離れたものを扱っていた。ピュッツは
さらに,時間的に離れたものの関係を結ぶ遠近法的な見方,すなわち,過去と現在の
間に関係を結ぶものにも考察をすすめている。トーマス・マンにおいては,個々のも
のが繰り返し表現されることによって,それが典型的なものに高められる。
例1) ファウストゥス博士』における発展喪失の問題。主人公は教養小説のモ
デルのように発展的に形成されることがない。
例2)アードリアーン・レーヴァーキューンの後期の滞在地には,彼の故郷の土
地の環境が,個々すべてにわたって現れている。
こうして,ピュッツは,ニーチェにおける「同じきものの永遠回帰」という理念が,
トーマス・マンにおけるニーチェ受容をめぐって
285
トーマス・マンにおいては遠近法的繰り返しという物語構造として実現されている,
ということを検証している。以下の例もその例として考えられる。
例1)第 XXV 章における悪魔の出現も,読者にはなんども予告されている。初
めは,私講師として,のちにはポンぴきとして登場している。
ところで,トーマス・マンは悪魔をどのように登場させたか?
悪魔をめぐっては,
読者の間では三通りの異なった解釈が行われた。
(1)悪魔は,神学的に厳粛に受け止められた神の敵対者である
(2)悪魔は世俗化されている
(3)悪魔はひどくいらだった神経の産物である
「悪魔の対話」において,トーマス・マンが悪魔をどのように扱ったかに関して,
ピュッツの分析は,次のように,非常に的を射た,的確な見方を示している。
レーヴァーキューン自身,悪魔の出現を,まず妄想であり自分の想像を投影したも
のと解釈する。しかし,かれが寒さのためにマントを取り行って,再び戻ってくると,
相変わらず悪魔が客として同じ場所にいるのに気づき,こう尋ねる。「まだいるのか
[中略]僕がいったん席を立ってまた戻って来たというのに?」(VI, 299)。この時
点から,アードリアーンは「己」と「あいつ」を区別する。パートナーの実在性に対
する懐疑は次第に薄れていき,結局,懐疑は好奇心に屈してしまうのである。ドスト
エフスキーの『カラマゾフ兄弟』におけるイワンのように,レーヴァーキューンは,
対話の相手のなかに,しかめ面のもう一人の自分だけを見たと思えば,こんどはもう,
このみ知らぬ男から地獄の本質について説明を求める始末である。悪魔は次第に自立
した人物となり,ついには芸術家にさまざまな要求を突きつけるのだが,芸術家のほ
うはこれに激しく抵抗する。アードリアーンのほうも,相手の実在性をみとめること
に再度抵抗しているのだ。しかし,悪魔のほうも新たなる疑惑に抵抗し,主人公と読
者の猜疑心を巧妙に武装解除してしまうのだ。「僕が君の頭の中の軟脳膜の病巣の産
・・・・・・
物なのではなくて,その病巣が,いいかい,君に僕を感知する能力を与えたのだ,そ
してその病巣がなければもちろん君には僕が見えないだろう。だから僕の存在が君の
初期の微黴(Schwips)と結びついていると言うのかね?
だから僕が君という主体
に属しているのかね?」(VI, 313)こうなると,この訪問者の実在を否定するために
は,はたしてどのような議論を持ち出して応酬ができるというのであろうか?
しか
しながら,対話の最期で,この途方もない人物は忽然と姿を消してしまう,そしてあ
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大阪経大論集
第53巻第6号
とになって考えてみると,対話の現実全体がまやかしにすぎなかったかのように思え
るのである。というのも,この人物が座っていた場所には,友人のシルトクナップが
座っているし,アードリアーンは外套を羽織ってはいないからだ。悪魔の実在化が進
められてきたのに,それが一気にまたご破算にされている。混乱が完璧なものになる
ために,この章の最後の文章は,再度悪魔の実在のために書かれている。「おそらく
己は激怒してあのごろつきを追い払い,仲間が帰ってくる前に,毛布や外套を隣に置
いてきたのに違いない」(VI, 333)。一方においては,語り手のもくろみは,読者に
肉体を供えた悪魔がそこにいることを暗示するためであるが,他方においては,すで
に達成された現実を意図的に破壊することにより,現象が持続的な浮遊状態にあるこ
とを示し,ついにはそれを無に帰してしまう。語り手の二重の意図に基づけば,悪魔
の形姿が実在的なものか,単に虚構的なものか,という二者択一に対して一義的に結
論を下すことはもはやできなくなる。
こうしてピュッツによれば,問題設定そのものが修正を迫られることになる。今や,
検証すべきことは,何の目的のために,悪魔の出現形式が,作者によって意図的に浮
遊状態に置かれ,多義的に描かれるのか,ということである。
悪魔は現実的であると同時に虚構的でもある。現実性と虚構性に対する遠近法的な
見方によって,悪魔の存在が正反対に分割されることもないし,弁証法的に統合され
ることもない。本質的なものを生き生きと把握する可能性も断念される。ピュッツに
よれば,トーマス・マンは,象徴の有効性や能力に対する懐疑を,カフカ(Franz
Kafka),ブロッホ(Hemann Broch),ムージル(Robert Musil)と分かち合っている。
そしてこれらの作家たちはみなニーチェの影響を受けているのである。
悪魔は,あるときはディオニュソス的陶酔者であり,そしてまたあるときは感性の
鋭い批評家兼心理学者でもあるが,その後は,学問を苦い嘲笑で笑いものにし,生命
力の高揚を究極の原理として告知するのである。ここでは,ニーチェとの関連は明白
である。パースペクティヴの交代と平行して,悪魔の語りにも,一つの事項を性格に
定着し,その他の現象と区別するような一義的な発言は一つもない。個々のアスペク
トは最初は鋭く際立っているが,次には完全にほかのアスペクトに,いやそれどころ
か矛盾するようなアスペクトに移行してしまう。こうして講釈屋は,病気を生にとっ
て必然的で価値ある構成要素にまで高めるのである。地獄は単に劫罰の場所ではなく,
その場所にいることが同時に人間が得られる最高の名誉であるとみなされる。悪魔が
トーマス・マンにおけるニーチェ受容をめぐって
287
「善」と「悪」の概念と嘲笑的に戯れ,擬似弁証法的,恣意的に反対概念に戻り,最
後には宗教的なものの擁護者を買って出るとき,悪魔の講釈はあいまいさと疑惑の頂
点に達する。
ピュッツの結論はこうなる。対象を遠近法的にのみ評価し,すべてを,対立するも
のさえも含めてすべてと結び合わせ る よ う な,言 葉 の 最 も 真 実 な 意 味 で 悪 魔 的
(diabolisch)なこのような考察方法は,ニーチェの思考モデルや,レーヴァーキュ
ーンの様式原理や,とりわけトーマス・マン固有の芸術的処理方法と正確に一致して
いる。語り手が悪魔に付与するさまざまな同様の特徴は,初めから長編小説家トーマ
ス・マンの仕事と物語り技法を特徴付けている。悪魔は浮遊する多義性を具現化して
いるが,トーマス・マン自身がこの浮遊する多義性を用いて絶え間なく語り続けるの
である。トーマス・マンほどニーチェの遠近法主義的考察方法を自家薬籠中の物にし
た作家はいない,と言えよう。
3.若干のニーチェ解釈をめぐって
本稿の冒頭で述べたように,ニーチェに関してはさまざまな解釈がある。一方では,
ナチスの御用理論家たちは,ニーチェの「力への意志」を曲解し,ニーチェを,「ド
イツ『第三帝国』の危機を救済するための全体主義権力を合理化する,反動理論の提
供者に仕立てあげ」5)た。
)は,『理性の破壊』Die der Vernunft の
他方,ルカーチ(Georg なかで,ニーチェを「帝国主義期の非合理主義の定礎者として」6)位置付け,「ニーチ
ェのヒトラー体制への思想的な近さは,それゆえ,ボイムラーとかローゼンベルクと
かの誤った主張や,偽造,等々……を否定したからといって,完全に抹殺されること
はできない。それは,この連中が思っていたよりも客観的にもっともっと大きいので
ある」7)と述べている。「ニーチェの神話の『積極的』部分は,資本主義的に腐敗した
人間にやどるいっさいの退廃的かつ野蛮的本能をこうした寄食者層の楽園を暴力的に
救うために動員することより以上には一歩も出ていない。この点でも,ニーチェの哲
5) 工藤綏夫『ニーチェ』清水書院 1996年 16ページ。
Georg Werke. Bd. 9. [Der der Vernunft] Neuwied a. R./
6) Georg Berlin-Spandau : H. Luchtethand 1962, S. 270.
7) Georg : a. a. O., S. 336.
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大阪経大論集
第53巻第6号
学は社会主義的ヒューマニズムに敵対する帝国主義的対抗神話なのである」8)。こうし
て,ルカーチは,ニーチェを「理性を破壊し,ファシズムへの道を開いた非合理主義
の伝統にたつ思想家として,社会主義の敵として完膚なきまでに攻撃」9)している。
無知からか,意図的かはともかく,これらはいずれの場合もニーチェの多様な発言
の内から,脈絡を無視して片言隻句を抽出し,それをもとに,自分の理論に都合のよ
いニーチェ像を捏造した,いわば歪曲的解釈であった。ニーチェ思想の歪曲の歴史は,
M.リーデル(Manfred Riedel)の書10)によって詳しく述べられている。
ニーチェの著作を体系が出来上がる前の習作であったと捉える見方には,相当の説
得力がある11) 。しかし,一般的には,いわゆるヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich
Hegel)のような体系的な哲学を構築する思想家とは見られてはいない。ニーチェ自
身こう述べている。
私はすべての体系家に不信の念を抱いていて彼らを避ける。体系への意志は,知
的誠実さの欠如である。(KSA 6, 63)
矛盾する発言を前にすると,それらを体系に纏め上げることが困難になるからであ
る。遠近法的な解釈の立場をとるニーチェに対しては,多面的な解釈ができるために,
総体的にこれが本物のニーチェだというふうに捉えることは非常に困難である。矛盾
しているように見える発言を前にして,どういう経緯でその発言がなされているのか
を無視しては,ニーチェの真意を読みそこなうことになる。そこにニーチェ解釈の難
しさがある。
それでも,哲学の側からは幾多のニーチェ解釈の試みがなされている。若干の例を
挙げてみよう。20世紀前半期のものとしては,歴史のへーゲル的完成の後の時代にお
ける世界喪失の過程を見て,古典古代への回帰を提唱し,転回の必然性をニーチェの
)の解釈の試みが挙
哲学から読み取ろうとするカール・レーヴィット(Karl げられる。レーヴィットは「ニーチェの思考が永遠回帰の肯定性へと向かう過程でヨ
8) Ebenda, a. a. O., S. 350.
9) 大石紀一郎他『ニーチェ事典』弘文堂 平成7年 666ページ。
10) Manfred Riedel : a. a. O..
11) 木田元『ハイデガー』岩波現代叢書 2001年 175ページ参照。
トーマス・マンにおけるニーチェ受容をめぐって
289
ーロッパの近代性の複雑に分節化された経験に深く媒介されていることを際立たせよ
うとしたところに特色がある」12)。また,ハイデガーの(Martin Heidegger)存在論的
・哲学史的な立場からのニーチェ批判があった。ハイデガーの場合,「力への意志と
永遠回帰と超人を一つにしてしまった上でニーチェを伝統的形而上学の枠組みに押し
込めてしまうような」13)ニーチェ解釈となっている。「ニーチェは力への意志のダイナ
ミズムの中で時間を考え,永遠回帰の教えでもって時間を存在に仕上げるのだが,ハ
イデガーが最後まで固執する考えは,存在の意味が時間なのである。ニーチェは時間
を存在にするが,ハイデガーは存在を時間にする。」14)これに対して,ニーチェの肯定
できない側面をクローズアップし,今日なお,ニーチェに対する批判的な読みもなさ
れている15)。一方,フランスの哲学者たちの「ニーチェは,今日?」という問題提起
もなされ,ニーチェを起爆剤にして現代社会を批判する試みも行われている16)。それ
は,ニーチェを21世紀につなげる試みであるかもしれない。また,他者なるものを実
体化しないで,自己をも相対化し,批判するという姿勢をとって,「実際の歴史の価
値評価をパースペクティヴの転換を通じて,転覆させるという点」17)に,ニーチェに
よる知的抵抗の現代的可能性を探る試みもある。
これら,哲学・思想史の側からのニーチェ研究は盛んであるが,哲学と文学の間を
繋ぐ研究は意外に少ないのが現状である。なぜなら,思想と言語表現との関係に対す
る考察においては,論理的な思考能力以外に,言語に対する鋭敏な感覚が必要である
ので,だれにでもそれができるほど容易なものではないからである。したがって,ピ
ュッツの論文は,哲学と文学を架橋する試みとして貴重であると言えよう。
12) 大石紀一郎他 前掲書
679ページ。
13) 前掲書 同ページ。
/Wien : C. Hanser 2000,
14) Safranski : Nietzsche. Biographie seines Denkens. S. 358.
15) リュック・フェリー/アラン・ルノー『反ニーチェ
なぜわれわれはニーチェ主義者
(collectif)遠藤文彦訳
ではないのか』Pourqui nous ne sommes pas 大学出版局
法政
1995年。
16) J.デリダ,G.ドゥルーズ,J=F.リオタール,P.クロソウスキー『ニーチェは,今
日?』Nietzsche aujourd’hui?
ちくま学芸文庫 2002年。
17) 三島憲一「ニーチェと知的傾向
思想協会編
市民的文化批判からカルチャーレフトまで」実存
実存思想論集 XVI(第二期第八号) ニーチェの21世紀』理想社
年 所収 53ページ。
2001
290
大阪経大論集
第53巻第6号
4.結
び
トーマス・マンの場合のニーチェに対する関心は,超人を説き,永遠回帰を説き,
力への意志を説く形而上学的・抽象的思弁家ニーチェではなかった。むしろ人間の心
理に精通したニーチェ,文化批判家ニーチェに関心があり,言語芸術創造のための理
論的支柱としての芸術理論家ニーチェ,優れた散文家・詩人ニーチェに関心があった。
その意味では,トーマス・マンほどエゴイスティックにニーチェを利用した作家はい
ないといえるのだが,しかし,ピュッツも言うように,終始ニーチェに対する畏敬の
念は消えなかった。
*
さて,「 生』はニーチェのテクスト全体における最も中心的な概念である」18)。し
かし,その内容はなかなかに捉えにくいものとされている。「生」(Leben)は,一方
においては,「きわめてはかなく,脆いもの」19)として捉えられるが,他方においては,
「恐ろしく残酷なもの,没道徳的で力強いもの,一種の混沌」20)をあらわすものでも
ある。ニーチェのディオニュソス的「生」は,「善悪の彼岸に立つ」21)ものである。
これに対して,トーマス・マンが「生」と言うとき,それは「素朴で正常な」22)愛
すべき生であり,「健康で無邪気」23)な生のことである。
トーマス・マンは,「 人間の美と理性的尊厳に対する生き生きした愛情あふれる感
覚』に基づく『人間愛』の精神」24)の持ち主であった。したがって,ナチの時代を体
験したトーマス・マンにとって,ディオニュソス的な「生」が,野蛮で残虐な傾向を
強めることには抵抗せざるを得なかった。トーマス・マンは「人間愛」(
)
の立場に立つために,非人間的で野蛮なものを肯定することはできなかったのである。
にもかかわらず,さらに進んで,トーマス・マンは,「生の根源的なもの,非合理
18) 大石紀一郎他 前掲書
313ページ。
19) 前掲書 314ページ。
20) 前掲書 313ページ。
21) 田中暁『超越と内在』渓水社 平成12年 3ページ。
22) 前掲書 同ページ。
23) 前掲書 同ページ。
24) 森川俊夫「
の概念について」, ドイツ文学』第55号 1975年 4ページ。
トーマス・マンにおけるニーチェ受容をめぐって
291
的なものを合理化し,人間性の内部に摂取しようとするのである」25)。そして,「デモ
ーニッシュなものを人間性の内部に摂取した『新しいフマニスムス』を提唱する」26)。
しかしもし,根源的なものが,人間性の外部にあって,人間性を無視しようとする
ならば,どうなるのであろうか。たしかに,人間的なものが非人間的なものを拒絶す
ることはできるが,そこには対立があるだけであって,解決も調和も救済もない。し
かしそのままですませてよいのであろうか。人間性は何を根拠に根源的なものを摂取
しうるのか。非人間的なものを人間的なものが合理化できるのであろうか。人間を脅
かす野蛮で残虐なものに対して,人間愛の立場からどう対処すればよいのか。これは
非常に困難な課題である。フマニスムス(Humanismus)の歴史の最後の一線で,こ
の課題に取り組んで悪戦苦闘した作品がトーマス・マン文学であったのではなかろう
か。その具体的な現れはどのようなものであったのか。これをもっと深く探るために
は,ピュッツ論文を土台にしながら,ピュッツが触れなかった作品についてもさらに
検討してみることが必要になるであろう。今後の研究課題としたい。
付記1
トーマス・マンの著作の底本としては下記を用い,本文中の引用(訳文)にはその
巻数とページを(XIII, 246)などの形で記した。
Thomas Mann : Gasammelte Werke in 13 Frankfurt a. M.: S. Fischer 1974.
ニーチェの著作の底本としては原則として下記1)を用い,本文中の引用(訳文)
にはその巻数とページを(KSA 8, 246)などの形で記した。
Werke. Kritische Studienausgabe in 15 1)Friedrich Nietzsche : Hrsg. von Giorgio Colli und Mazzino Montinari. : Deutscher Taschenbuch
Verlag. Berlin/ New York : Walther de Gruyter 196777 und 1988 (2., durchgeshene
Auflage).
ただし,ニーチェの著作の一部については,下記2)シュレヒタ版,または,下記
3)ムザーリオン版を用い,本文中の引用(訳文)には,その巻数とページを,シュ
レヒタ版の場合(SA 3, 246),ムザーリオン版の場合(MusA 23, 246)などの形で記
した。
25) 田中暁 前掲書 9ページ。
26) 前掲書 同ページ。
292
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第53巻第6号
2)Friedrich Nietzsche : Werke in 3 Hrsg. von Karl Schlechta. Darmstadt :
Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1973.
3)Friedrich Nietzsche : Werke. (Musarion-Ausgabe) Hrsg. vom Nietzsche-Archiv. 23
Bde. : Musarion 1920
1929.
なお,引用訳文については新潮社版『トーマス・マン全集 ,白水社版『ニーチェ
全集』をはじめ,先哲の優れた訳文を参照させていただいた。いちいち断らなかった
が感謝申し上げます。
付記2
本稿は,2001年度「大阪経済大学特別研究費」による成果である。
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