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トーマス・マンのいくつかの伝記について
山室, 信高
一橋論叢, 126(3): 328-338
2001-09-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/10367
Right
Hitotsubashi University Repository
第3号 平成13年12001年) 9月号 (100〕
一橋論叢 第126巻
︽書 評﹀
トーマス
信 高
・マンのいくつかの
伝記について
山 室
^5︶
これら一連の伝記を読む前に、伝記というジャンルのもつ問
与っていよう。
ら、前もって一般考察をしておくことは共通テーマを適確に把
題について少々述ぺておきたい。各書とも何ぶん大部であるか
握するのに役立つだけでなく、この場合は読書の経済という観
伝記はわたしたちにとって、子どものための伝記シリーズ等
点からも望ましい。
らある原理的な困難がひそんでいる血マンと同時代の作家ホフ
した書と規定できようが、この一見簡明な規定にはしかしなが
まれてから死ぬまで、揺りかごから墓場までの生の軌跡を叙述
ハープレヒト﹃トiマス・マン伝﹄二九九五︶、ドナルド・
マンスタールはその事情を次のように述べる。﹁ある個人を叙
を端緒に、親しくポビュラーなジャンルである。ある人問の生
A・プラーター﹃トーマス・マンドイツ人・世界市民﹄一一九
述するという試みほど大それた企てはない。一人の人間の本当
が相次いで出版された。刊行年順に挙げるなら、クラウス・
九五︶、ぺーター・ド・メンデルスゾーン閂魔術師ドイツの作
一九九〇年代後半、作家トーマス・マンの生涯を綴った伝記
家トーマス・マンの生涯 全三巻﹄︵一九九六︶、ヘルマン・ク
四作である。
るのか、その体験がどれほどその人本来の自己に関わるのかは
様々な体験を知るのみで、その体験が当人にとって何を意味す
昧で定義しがたい素材である。わたしたちはせいぜいその人の
の生というものは、もっとも身近な者にとってさえ、非常に暖
これらはいずれも、作者各々の志向の違いはあれ、本格的な
知らない。︹略︺一人の人問全体を知ろうとする者は︵誰も自
ルツケ﹃トーマス・マン芸術作品としての生﹄一一九九九︶の
→︶
そ二〇〇〇、七〇〇、二二〇〇、六〇〇頁。︶このように類書
伝記叙述である。︵ちなみに各書本文の頁数は記載順に、およ
分自身を知らないのと同様に一樗然とするほどの諸連関に逢着
て単にありふれた人間的特徴が出てくるのみで、個性は消えて
するであろうし、また同時に傍然とするほどの空隙にも至るだ
が続いたのは、まずもって一九七七年から始まったマンの日記
一2一
の刊行が一九九五年に完結を見たことに帰せられよう。また書
ろう。ある人間により深く迫り、分け入っていくと、後景とし
^ヨ一
簡集の一層の充実、そして日記のない初期のマンの生活にとっ
^4︶
てある程度日記の代替となる﹃覚書﹄の刊行もこれに大きく
328
もらさず丹念に記したものが伝記であるのか。あるいは個々の
間の連関やそれらが当人に対してもった意義はさておき、細大
る。文学研究においては一般に作晶分析は伝記研究とは独立に
関係いかん、﹁作品﹂の占める伝記上の位置いかんの問題であ
迫る。要言すれば、作家を作家たらしめた﹁作品﹂と伝記との
て、ここでは﹁作家の伝記﹂に必然的にまつわる問題も一考を
事実は適当に取捨して、当の生涯を時間軸に沿った関連を基礎
行われるべしという準則が通用している。この区別を暖昧にし
しまう。Lある人間の一生に生起した一つ一つの事実を、その
一 6 ︶
に、﹁発展﹂であれ﹁堕落﹂であれ、何らかの統一のあるもの
て、伝記的な諸事実から直接に作品理解を引き出してくると、
椰楡の調子をこめて﹁伝記主義一雪O甘q﹃岩巨眈ヨ畠一﹂あるいは
として叙したものが伝記であるのか。もし後者だとしたならぱ、
どの程度事実は捨象してもよいのか、またその基準は何か。そ
を被ることになる。しかし一方で作晶は確かに伝記的諸事実の
﹁伝記還元主義︵巨轟﹃巷巨閉9胃カ&寿一一昌尿目易一﹂との批判
性とは結局仮構されたものではないのか。言いかえると、伝記
関連のなかから生まれてきたものである。よって作晶の芸術的
れこそはその人間の﹁個性﹂だと言うにしても、この場合の個
にはどこまでフィクションの性質が認められうるのか、そして
すなわち作品を広く歴史的な所産とみなすことを許容するなら
な超歴史性・形而上的性質を終始遵奉する立場でもない限り、
ぱ、伝記は作品理解にとって少なくとも一つの歴史的展望を提
どんな意味でそれはフィクションである︵あるいはそうでな
い︶のか。このように伝記は歴史叙述一般の困難を抱えている
供してくれるものといえる。研究事情に沿っていうならぱ、作
が、それは何よりも伝記の対象となる人物についての索材があ
らかじめ与えられていること、そして伝記作者と素材との間の
差異が常に厳存していることに由来する。しかしこのことが伝
で追究されている。このように伝記は作品にとっていくらかの
するところが大きく、しぱしぱ作品分析の前梯作業として好ん
り向けることに寄与している。伝記はこの時﹁史料編纂一;m−
意義を有していることは確かであり、それゆえに伝記研究にも
晶の成立史一部分的には受容史も一の研究は伝記の領域と重複
9ユO湾署巨①︶﹂の性格を離れて、いわゆる﹁歴史小説﹂に近
それ相応の意義が与えられもするのだが、それでもなお作品の
記においては却って作者の関心を素材に対して比較的自由に振
づくことになろう。結局伝記というジャンルは作者の関心いか
んによって、振幅の程度が大きく、それ自身の固有の性質から
一7︺
定義づけるのが難しいジャンルといえる。
な意義とは何かという難題に逢着せざるをえず、解決のしかた
ある作家の伝記をものそうとする場合には、作品のもつ伝記的
優位、伝記の劣位という事態に変わりはない。これに対して、
次に、こうした伝記一般の原理的問題から派生した問題とし,
329
=
(101)
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第126巻第3号
橋論叢
によっては作品の優位を危うくすることもある。作晶をどう扱
易ならざるものにし、伝記的なもの一ここではイコール﹁自伝
ての自負を持っていた。この強烈な自意識は彼の生の歩みを容
生前から名声の高かった作家はまたみずからも﹁代表者﹂とし
果ては作晶にも関わってくることになるが、それはここでは措
的なもの﹂一の比重を大幅に高めることになった^このことは
ントとなる。近年の一連のマンの伝記は﹁何よりもトーマス.
マンの生への絶えざる関心の証左だが、それに劣らず、その生
うかということは伝記作者にとってその伝記の出来を占うポイ
が作品の鍵とされる場合にはとりわけ、作品解釈に立ちはだか
いてこれまで連綿と書き継がれてきた﹁評伝﹂の類は、作晶評
る困難を塑言するものでもある。﹂その意味で、文学研究にお
便宜上、メンデルスゾーンの著から始める。
以上の事柄を念頭において前記四つの伝記を読んでいきたい。
るならぱ、マンの伝記に対する高い要求が予感されよう。
こう一。作家マンにとっての伝記的“自伝的要素の意義を顧み
^君︶
と人物伝を折衷させることでこの難問を回避した研究部門とみ
トーマス・マンの本格的な伝記の執簗に初めて挑んだ功労は
メンデルスゾーン
なせよう。
最後に述ぺておくべきことは、もとより当然に聞こえようが、
いることである。対象の個性が伝記の決定的な要素であり、こ
れてしかるべきである。マンの生誕百年、一九七五年に﹁第一
やはりこのメンデルスゾーン︵一九〇八−一九八二一に与えら
ここではトーマス・マンという人物が伝記叙述の対象になって
こではマン個人を描き切ることが要請されていることは言うま
び起こしたようである。伝記に取り組むにあたって周到な考察
部﹂が発刊された時、その浩鞠ぶりは驚嘆とともに嘆息をも呼
でもないが、しかしマンという人間は多かれ少なかれ個人の枠
には収まらない存在である。彼は彼の生きた時代と不可分であ
になるかの目測を誤ったこと︵一部の予想では六〇〇〇から七
を行なったメンデルスゾーンではあったが、どれくらいの分量
り、もっといえぱ、その時代を体現する象徴的存在、﹁代表者﹂
ス・マン研究において意外にもそれほど追求されていない事情
である。﹁マンとその時代﹂というこの観点こそが−トーマ
並んで、本伝記の致命傷になった。著者が﹁十全一<o=g晋−
〇〇〇頁!一は、彼の死によってついに未完に終わったことと
ないが、ある評者も言うように﹁仔細を極めたものだけが面白
昌σqぎ5﹂を期したこと︵三巻、九頁参照︶を責めるいわれは
も汲んで−伝記作者の関心を引いたことは想像に難くない一ま
史であるのみならず、時代史でもあるぺきならぱ、マンの伝記
たわたしの年来の輿味もそこにある一。伝記というものが個人
にはそれを例証する課題が課せられているといってよい。他方、
330
(103)書
にはそれはいえない。L伝記が著者の関心に大きく依存する
いということがたとえ当たっているせよ、あまりに仔細なもの
は原則として作品そのものには立ち入らず、もっぱら作晶につ
挟まれた﹁作晶報告︵奉胃亭巴︹∼︶﹂と題される節で、著者
本伝記におけるマンの﹁作晶﹂の扱いは慎重である。所々に
なわち一九七五年の著書には欠落していた引用箇所の指示と索
九九二︶および今回の新装版は幾分なりとも欠陥を補った。す
いるべきだったろう。その点で著者の没後に出された補遺二
う一度跡づけることはここでのわれわれの課題ではないので、
ている。﹁これらすぺて︹﹃ヴェニスに死す﹄の研究成果︺をも
謂れは、例えぱ﹃ヴェニスに死す﹄の﹁作晶報告﹂に述べられ
いてのマン自身のコメントを取り上げて筆を進めている。その
^o︶
ジャンルであるだけに、こうした執筆技術上の問題にも意を用
ではなく、もっぱら検索用文献として生き延びることになった。
引が付けられたことである。これによって本書は通読するもの
ないだろうか。
彼と同時代の人々がそれをどう見ていたか、という問題であ
て何を語っているか、創り手自身がこの作晶をどう見ており、
この作晶がその創り手の生において何を意味し、この生につい
それはそのままにしておこう。われわれに関わってくることは、
加うるに、マンの死後二十年の後に開封された日記の束には、
る。﹂一二巻、一四七八頁︶
しかしこのことはなお伝記としては失敗作であることを意味し
予想外にも一九一八隼から一九二一年の部分が発見され、メン
最後に﹁マンとその時代﹂の観点についてであるが、著者自
ら日記の編集を手がけることを通じて、マンの人物像にとって
されておらず、肩透かしの印象を拭えない。例えぱ第一次大戦
身が別の場で強調していたわりには、それほど前面には押し出
一m︺
デルスゾーンを少々慌てさせもしたが、さらにいえぱ、みずか
日記が予想以上に重大な記述を含んでいることに気づかざるを
いての叙述を見てみると、著者なりに時代のコンテキストにも
期のマンの思想を知る上で重要な﹃非政治的人間の考察﹄につ
筆が及んではいるものの、それはこの著に対する書評等をソi
の著者ハープレヒトも﹁年長者︹メンデルスゾiン︺の思慮は
日記の刊行によって世に明らかになった︹マンの︺人格のいく
スにした同時代の受容の側面に向けられていて、時代の大きな
えなかったようだ。一三巻、一六−二一頁参照一次に見る伝記
つかの本質的な刻印を非常に慎重かつ敬意をもって示唆させる
枠組に立ったマンの思想の位置づけまでには至っていない。
ま﹃胃。.一の立場、すなわち措定可能な事実を書き留めていくこ
^三巻、三一−四五頁参照︶報告者︵著老の言葉では、。ω︹⋮・
にとどまった。メンデルスゾーンは﹁ナイーヴな伝記﹂︵もし
この表現が許されるならぱ︶を書くことのできた最後の人で
あった。﹂と述ぺている。︵ハープレヒト、前掲書、一八頁一
331
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平成13年(2001年)
第126巻第3号
一橋論叢
姿勢が、結局時代を浮き彫りにすることを妨げたように思われ
とに自己を限定して、解釈の領域には立ち入らないという執筆
基準はおそらく公正ではあるまい。どう公正でなくてはならな
わしい異なる基準のもとで吟味することが望まれる。その際の
するだろう。となれぱ、彼の作晶もわれわれの時代によりふさ
さして変わりないものをもたらすだろう。L一二六頁一ハーブレ
よくするところではない。そんなものがあるにしても、退屈と
いというのか。永遠の相のもとでの判断はそもそもわれわれの
る。
ニ ハーブレヒト
長くジャーナリズムの世界に身を置いてきた著者一一九二
に問うていくことになる。よってかなり厳しい批判的筆致が折
ヒトはこうして﹁マンとその時代﹂の問題を﹁現代﹂を立脚地
に触れて現れるが、それがむしろ本伝記の面目といえよう。
ツの破滅を横目に見ながらの熱っぼいマン体験から出発し、六
ハープレヒトはマンの第一次大戦への積極的な態度を広く同
七−一の手になる、これまた分厚い伝記である。若き日にドイ
フマンスタール、ヴェルフェル、ツヴァイクとともにトーマ
〇年代の半ばにフィッシャー書店の責任者として、カフカやホ
時代の知識層のそれと対照させながらも、そこから一歩出て、
マンの論拠が結局は戦地で繰り広げられている凄惨な現実とは
ス・マン作晶の刊行を手がけ︵一七頁参照︶、その後日記の公
照一それぱかりか、﹃魔の山﹄という作品もまたーマンの作晶
接点を持たない空論であるとの指摘を忘れない。一三八九頁参
刊とともに始まったマンの﹁脱神話化﹂の過程を身近に観察し
てきたというハープレヒトの関心は、昔日の、まるで同時代体
理解に反論を呈しつつ自己の解釈を対置することで1戦前から
験のような錯覚をもたらしたマン作晶との出会いと、今日の、
﹁俸大であること﹂、﹁非凡であること﹂に半ぱ妄執していたマ
かかわらず当時の読者がこの作品を歓迎したのは、彼らもまた
マンの人物像に抱かれる疑念との閻のギャップに発している。
現実から目を背けたかったからだとしている。︵五四一、五四
ツの産物であるとの判断をうちだしてくる。そして、それにも
七−五四八頁参照︶こうした著者の個々具体的な見解にはさま
戦後にかけての歴史の現実とはおよそかけ離れた十九世紀ドイ
なつけとなったのではなかったか。このように彼は問うて、そ
悪なるものを天才に祭り上げることによって、われわれに大き
ざま異論が出ることは容易に予想されるが、ここではただ伝記
ンとその時代はもはや終わったのではないか、それは結局、邪
の天才的なるものへの偶像崇拝にけりがつけられるとすれぱ、
という観点から;冒述べるにとどめよう。それは伝記上の作晶
の帰結を次のようにまとめる。﹁しかしもし後期ロマン主義流
トーマス・マンの生もおそらく異なった視角からの検討を要求
332
をオーバーしがちであり、ゆえに一度うちだした解釈を再度伝
らの解釈の射程範囲がともするとマンの︵狭義の︶伝記的領域
の位置づけに関わる。作品解釈に力をこめるのはよいが、それ
ろもろの出来事を記すことに仕えているので、マンの作品には
とにすすめられた執筆は、それゆえにまずもってマンの生のも
ならなかった、ある生の歴史。L︵七二二頁︶こうした自重のも
﹁そもそものはじめからというファナティズム﹂を回避せねぱ
する程度に抑えられている。一例えぱ、﹃ヴェニスに死す﹄の箇
る。もちろん、ハープレヒトの関心は現代を支点に﹁マンとそ
記の領域へと収拾するのに無理が生じているように見受けられ
まっていることは否めない。それが果たして伝記作者の分を超
所、二一六−二一八頁を参照。︶このように﹁作品の伝記的背
に成立してきたか、そしてせいぜい作晶中の自伝的要素を指摘
えるものであるのかどうかは、伝記のジャンルの不確定性から
景﹂を明らかにするという本書で保たれている姿勢は、作家の
深入りすることはない。生のプロセスにおいて作晶がどのよう
して、わたしには答える用意がないが、現代の支点を奉ずるあ
伝記における作品の扱い方として模範的といってよいだろう。
の時代﹂に向けられているため、作品解釈もその範囲には収
まり解釈が性急なものになる危険はこの場合あるといえよう。
しかしこの抑えた筆致には、著者ならではのマンヘの志向が
密接してもいる。プラーターはマンの生の魅力はその文学より
から訴えかけられるかどうかは怪しいけれども、﹁しかし確実
も、その歴史にあると断言している。将来の読者がマンの作品
三 プラーター
クとリルケの伝記も著しており、伝記作者として定評あるイギ
にトーマス・マンの歴史的な形姿はこれからも大きな関心の的
薯者︵一九一八←はつとにマンの同時代人であるツヴァイ
リス人である。今回の伝記は、伝統的な手法でトーマス・マン
﹁マンとその時代﹂の観点を重視していることは明らかである。
でありつづけるだろう﹂︵七一四頁︶と。この点で彼もやはり
ただし、それは先のハープレヒトに見られるように、現代から
の生の歩みを一歩一歩着実に跡づけており、読者は戸惑うこと
の伝記がなかった英語圏の読者のために書かれたという本書
なく頁を繰っていくことができる。これまで一冊も適当なマン
のではなく、それとは逆に、マンのアクチュアリティーを強調
振りかえってマンとその時代をもはや過ぎ去ったものとみなす
する方向に出ている。プラーターの言うには、冷戦時の東西対
^七二〇頁参照︶は読みやすさ、見通しのよさを第一義として、
立が終わり、ドイツ統一がなった今、マンが体現した﹁ドイツ
それを踏み越えるおそれのある要求は極力控えてある。﹁限界
羅することはよもやできず、またわが主人公を特徴づけていた
線はしたがって定められた。すなわち、細かい事項をすぺて網
333
評
(105〕書
9月号 (106)
平成13年(2001年〕
第126巻第3号
橋論叢
からも明らかなように、クルツケはマン研究の交通整理役一二、
ンと時代の関係二、五一を追求してきた研究者である。よっ
三、四、またある意味で六も︶を精力的にこなすとともに、マ
問題Lは再び緊要の度を増している。ヨーロッパ連合の枠組の
の教訓から学ぶぺきことは多い。︵七一四−七ニハ、七二一頁
﹁マンとその時代﹂の間題を包括できるクルツケには適役だっ
て今回の伝記執筆は、近年のマン研究全般に広く通じ、かつ
中で、それがはたして解決を見るのかどうか、マンとその時代
ジョア最後の相続人マンという一般に流布したイメージを果敢
本伝記は先行した類書にもかかわらず売れ行き好調で、翌年
たといえよう。
参照︶薯者はこのように提言して、没落を定められた後期ブル
に問い直すのである。
さへの配慮も施され、一般読者にはありがたい。例えば、章の
にはハードカバーの廉価版も出されるほどであった。読みやす
直前の二つの伝記が狭義のトーマス・マン研究者によるもの
えてくれるし、叙述は基本的に編年体だが、同時に多少の前後
初めに置かれている﹁クロニクル﹂は前もって本文の概観を与
四 クルツケ
ではないのに対して、ヘルマン・クルツケ一一九四三1︶は長
ユダヤ問題など一、本書にめりはりを与えている。
はいとわず、テーマごとにも構成されていて︵兄弟・家族関係、
くマンと取り組んできたマン研究の代表的存在である。彼は昨
年︵二〇〇〇年一〇月二九日︶、これまでの功綬を讃えられて、
等置されているからである。﹁謝辞﹂に﹁フィクションを伝記
は本書では作晶もまた伝記にとってのその他さまざまな出典と
クルツケはマンの作品をかなり大胆に扱っている。というの
リューベックのトーマス・マン協会からメダルを授与されたが
︵評者も出席一、その際祝辞を述ぺたマンフレート・ディルクス
﹃失われた非合理性を求めてトーマス・マンと保守主義﹄︵一
ゼミナールで学ぶことである。それにもかかわらず本書はその
的事実とみなすことが禁じられていることはドイツ文学の初級
はクルツケの研究歴を総覧して、特に次の六つを挙げた。一、
九八○︶、二、﹃トーマス・マン研究一九六九−一九七六批判
なしているが、願わくは説得力似あらんことを。﹂︵六五八頁︶
禁を犯し、文芸作品をもっとも豊かに湧出する伝記的出典とみ
的報告﹄︵一九七七︶、三、﹃トーマス・マン研究の到達段階一
九七〇年以後の寄与﹄一一九八五一、四、﹃トーマス・マン時
ている。しかしそこで見逃してはならないことは、作品がすで
とあるように、マンの作晶は彼の生のなかに大幅に移しこまれ
代・作品・影響﹄︵一九八五、第三版一九九七︶、五、トーマ
ス・マン﹃エッセイ全六巻﹄一一九九三−一九九七︶、六、﹃月
一H︺
の旅トーマス・マンのヨゼフ小説の道標﹄︵一九九三︶。これ
334
(107)書
られていることである。この点で、生のなかに作晶をまるごと
に解釈の姐上に載せられていて、その上でマンの生と関違づけ
﹁保守革命﹂の陣営と共振していること︵二八五−二八六頁一、
持されていること︵二七二−二七三頁︶、時代思潮としては
について見れぱ、﹃非政治的人間の考察﹄の立場が一貫して保
ではつとに順応を果たしていたこと︵二七四−二七五頁︶を指
そしてもはや既存の体制となった共和制に対して日々の実践面
解消してしまう﹁伝記主義﹂とは一線を画す。試みにマンの第
一次大戦への熱烈な賛意表明を説明する箇所を見てみよう。
摘して、﹁﹁転向﹂はこの限りでそれほど深くには及んでおらず、
﹁マンの戦争勃発時の態度は伝記が解明しなけれぱならない大
非政治的考察者︹マン︺の生において説明のつかない断絶では
ない。﹂︵三四八頁︶と総括している。
きな謎の一つである﹂︵二三七頁︶が、それは当時の一般的な
︵同上︶とされる。彼の戦争支持の立場は戦争が起こってにわ
マス・マンに特殊な理由がわれわれの関心を引くべきである﹂
とあるように、またマン自身多分にそう考えていたように、つ
いみじくも本伝記のサブタイトルに﹁芸術作晶としての生﹂
好戦的ナショナリズムに帰するだけでは不十分であり、﹁トー
かに綜えられたものではなく、すでに戦前から準備されており、
その﹁精神的前史﹂としてとりわけ﹃ヴェニスに死す﹄が取り
みられている。このことが、生の自明性を前提とする﹁伝記主
まるところマンの﹁生﹂もまた一つの﹁作品﹂として解釈が試
として浮かび上がらせることになった。
義﹂を回避させ、時代のなかにあるマンの生をかたちあるもの
上げられる。この作晶はそこで芸術の﹁兵士﹂アッシェンバッ
ハがエロスに魅了され死へと破滅する物語と解釈され、そして
以上四つの伝記を読んできて、最後に言うぺきことは、伝記
斜に歴史の現実が呼応したものというマンの思考が導き出され
今次の戦争はそうしたアッシェンバッハの兵土気質と死への傾
る。しかも−﹃ヴェニスに死す﹄とは逆に−﹁生﹂︵■タッジ
要であるということである。ある人間の生は初手から自明なも
叙述においても、作品分析と同様に、﹁解釈﹂という行為が重
いう手続を通じてはじめてその生の現実がわたしたちに理解可
のとしてわたしたちには与えられているわけではなく、解釈と
^12︶
してマン一へと歩み寄った、エロスの類まれな現われとしての
オおよぴ蜜壕の若き兵士︶が﹁精神﹂→アッシェンバッハそ
戦争観が導き出されているのである。一二三八−二四〇頁参照一
﹁マンとその時代﹂の観点もまたそのように探究されている。
に応じて必要となるが、それと並んで、あるいはそれ以上に、
能となるのである。作家の伝記においては、作品の解釈も場合
こうした冴えた解釈がクルツケの叙述全般を支えており、
マンのいわゆる﹁転向﹂問題一帝政擁護者から共和主義者へ一
335
平成13年(2001年) 9月号 (108
第126巻第3号
一橋論叢
交わる他の無数の生の姿、その時代の姿、そして望むらくはわ
その生を解釈することが要求される。そうしてこそ、その生と
穴﹃昌冬団ユ彗尾﹂ヨZgNO胃N彗σ雪雪−国烏彗註﹃O
一違の薯書も目にとまる。
また狭義の伝記には当たらないかもしれないが、次の
︵←葭胃署冨o耳ら彗蠣↓ぎ昌富書国昌.葭房里o胴尋
もう一つの物語﹄︵新曜社 一九九七︶。
三浦國泰訳﹃トーマス・マンと魔術師たち マン家の
彗冨ぎ冨之2彗ωOq。一宰凹目ζ弓斤国.⋮﹂竃ω。山下公子・
︹︸o㎝o=−o=叶o oo−・ 司剋ヨロ=−o 竃與自=1 N旨H−o= Hoo−⋮饒げ①﹃・
たしたちの生のある今の時代の姿が照らし出されてくるだろう
呂一ρ寄一旨σ具σま﹂8㎝1
岩竃ー
留﹃8訂﹃、ぎ昌轟↓ぎ昌與ω竃彗己目N葦︹才.N巨9
勺H印一〇﹃1−︺o目與−o >.H一﹁すoヨロ国ω 呂與−一目1−︺o目けωoすo﹃ =目匹
奉①岸一︺自﹃o胃①﹃.−≦自目oブ①コ\奉庁目H0㊤㎝.^Oユ阻目巴一↓プo昌印ω
向−H1 ︼ピ①一︺o自 −H1 閃=包①﹃Hr いN饒﹃−o= Hooム.
ミ置一長一=彗眈\ω︸昌巨一貝く;⋮ρ↓ぎヨ罵⋮昌コ.
竃彗目1>=片ρo氏o邑Hooε
庄①m O①一﹄斤ωO=O目 ωOチ﹃−︷けωけO−−①﹃m 一﹁ブOヨロ団ω ⋮凹︼一コ一 −コ 庇﹃O︷
−=幕すく昌宗H;訂\⊂毫o之讐昌彗p丙oヲσ具σ1声
竃顯冒一宰一ぎ一冬oゴ<o后﹃;雪N彗冨篶﹃.睾ω口qーく一
⋮①=o而−ωωo才自’ 勺oけ①﹃ ooH−︺oH N国■σ①﹃o﹃1 −︺與ω ]﹁①σo冒
震邑雪.=﹃ω①q.く’≧σ彗く昌ωo巨;2長一茅胃彗σ9一g
一﹄H1庄 ヨコーけN︷R凹けコ凹︹−一妻而−ω而コ く而﹃ω舳=耐コ くo−一 ︵︺﹃−ω片−﹃︸與 H︵−oω−
声⊆冨甘ミ胃ぎ竃饒目oす彗岩oo.
里轟量口耳、zoξくo妥声o目庄昌−竃蜆という伝記があ
なおもう一冊、匡妾昌曽一ヵo畠軍↓ぎ∋団ω竃彗戸>
畠竃.
≦甘団斥−﹃oプo目。匡顯コωH−︺︷①勾顯﹃コー=o竃胆コ目.肉①︷=σ①斥一︺一H︷.
ただし、メンデルスゾーンの著書は一九七五年に﹁第
るとのことだが未見である。
岩畠1
一部一八七五−一九一八﹂萬易冨﹃↓9一畠富−−旨O。。︶、
︵2︶書彗昌一↓ぎ冒婁↓晶耐巨o訂H.昌霊己①.=易帽.くー
↓①H日口国H=一一 句﹃国H1斥︷一−﹃一 與■昌. H㊤㊤①■
そして一九九二年に﹁未決の年 一九一九・一九三三
勺Oけ〇一・庄O竃O自庄O−ωωOす目︵HO−OO−HOM−−HOωω−H㊤仁ω︶⊆昌応−自胴O
穴冒芽9=雪昌凹昌一↓ぎヨ轟⋮団⋮.U窃5σ8巴ω
補遺・全索引﹂一−苧晶ま﹃ω9ξ9ρH旨O⋮⊆H8ω.
﹄昌二お宣−畠蔓.∼竃パ∼ユ国≧﹂㊤ミー−8㎝。森川俊夫
乞害冨巴蓋需竃穴署一匡一〇①竃目弐晶ゑ舳﹃■一が出版され
ており、右は そ の 改 訂 合 本 で あ る 。
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(109)書評
他訳﹁トーマス・マン年譜﹂、﹃トーマス・マン日記﹄
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︵3︶ ここでは次の包括的な目録を挙げるにとどめる。
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︵紀伊國屋書店一九八五−一。
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等がある。
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︵5︶ それ以前にも伝記の試みがなかったわけではない。
もっとも多くの読者を得た、いわゆる﹁ロロロ伝記叢
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コープマンは伝記作者の関心を何よりも状況定位的
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書﹂に収められているクラウス・シュレーターのそれ
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一皆寿芸9︶なものと説いている。
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ン﹄︵理想社一九八こ。︶や詳細な年譜一団旨胴貝
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一新潮社 一九七二︶所収。一の他に、零﹃昌穿o;一
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訳﹁卜ーマス・マン年譜﹂﹃トーマス・マン全集別巻﹄
ま峯①呉雪N9け■−まRπH㊤雷や旧東独の入門書的な二
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橋論叢 第126巻 第3号 平成13年(2001年)9月号 (110)
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幸娼毒冨﹃旨﹃9掌o昌易竃凹昌ω旨器呂・ぎ冒彗−
なおディルクスの祝辞とクルツケの授賞記念講演は二
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〇〇〇年度の﹃トーマス・マン隼報︵Hぎヨ鶉 竃彗亨
︵n︶ 穴自富斥p=雪∋印コp>一﹄︷oo﹃ω仁o=①庄gく雪−o冨目o目
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−娑︸暮5﹄に掲載予定である。
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︵一橋大学大学院博士課程一
三螂鐵H高探虹
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−畠竃一宍膏斗p=雪冒彗p竃o己妻彗ま;畠彗1
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