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トーマス・マン『ホーフマンスタールの ための追悼の辞 友を偲んで

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トーマス・マン『ホーフマンスタールの ための追悼の辞 友を偲んで
大阪経大論集・第53巻第3号・2002年9月
翻
375
訳
トーマス・マン『ホーフマンスタールの
ための追悼の辞 友を偲んで
六
あの人はとつぜん消えました
われらはみな
その残照を
浦
英
文
訳
ひとつの灯りのように
さながら稲妻の光のそれのような
蒼ざめた顔に受けたのです1)
あなたの電報は,あなたとわれわれ共通の高貴なる逝去者についてのコメント,マ
スメディアによって行われる葬儀のための寄稿文,追悼の辞をお求めになっておられ
ます。私はあなたのお役に立つことができそうにもありません。私の心は涙にあふれ
ており,そのために今は,ことばを生み出すこともできませんし,また,考えようと
いたしましても,生と死と運命と友情の果てしのない感情のなかにあまりにも深く沈
みこみ,溶け込んでおりますので,それを自制することもできませんし,またその気
にもなれないのです。今,多くの筆が,ホーフマンスタール (Hofmannsthal) の名誉
のために動いております。私の本性,生の衝動自体は,動揺した数分間のあいだこう
いう事態を受け入れることをためらったのですが,このことを,私が現実なのだと思
い,現実のこととして理解することができた昨日から,私が読みたいと思いましたの
は,時代のなかのこの兄弟のこと,ホーフマンスタールの最後の日と時のこと,ホー
フマンスタールのご子息が,他人の行為や自分の父親について伝えることができるこ
となど,ホーフマンスタールについて扱われていることだけです。今やホーフマンス
タールは時代から去っていってしまいました。
1)[原注]
ホーフマンスタールの詩「俳優ミッテルヴルツァーの追悼のために」Zum
des Schauspielers Mitterwurzer の冒頭の三行。[ ホーフマンスタール選集』
第一巻 河出書房新社
1974年 所収の富士川英郎氏の訳を参照させていただいた。]
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私は,新聞のなかの,令息若きライムント氏の素朴で洞察力のあることばにアンダ
ーラインを引き,それを繰り返し繰り返し読んでおります。「私の父は異なる時代の
生まれでありました。戦争 [=第一次世界大戦] はもろもろの概念を変えてしまいま
した。 そして父はかろうじてそれに順応していました。ことによると,父は今日の時
代が要求しているものとは違ったふうに仕事をしていたのかもしれません。父は,ラ
インハルト(Max Reinhardt)のための作品,レヴューのようなものについて,私と
話をしました2)。父は,仕事に取り掛かる前に,一人一人の登場人物を完全に自分の
うちによみがえらせようと思っていました。私は,父を理解しようとし,このような
仕事を日常業務として軽く考え,もっと早く仕上げようとしました。そういうやり方
を,父は理解したいとも思いませんでした。父は何事も途方もなく真剣に受け止めま
した [……]。」若い人類,新しい世界。そういうものが存在していますし,われわれ
に似ています,というのも,われわれはそういうものを世界のなかに移したのですか
ら。それは,われわれに親しそうに話しかけますが,われわれが別の時代に所属して
いるということを,洞察しています。ご親切にも,若い人類,新しい世界は,われわ
れに格好よく振舞うように勧めてくれるのですが,しかし,われわれはのみ込みが悪
いのです
去り行く者のために「すばやく」(rasch)送ることばを書くことへに対
して,私がためらいを感じ,なかなかできない点においても,そのことが示されてい
ます。
*
*
*
「戦争はもろもろの概念を変えてしまいました。そして父はかろうじてそれに順応
していました。」
ホーフマンスタールが最後にここの私のもとにいたのは,数週
間前のことで,そのとき,ホーフマンスタールは,念願していたイタリアへの自動車
旅行から戻ってきて,インフルエンザのために二,三日ホテルで臥せっていました。
外貌からも病気であることが察せられました。ホーフマンスタールは年老いて,白髪
になったように見えましたし,顔色も最良の状態ではありませんでした。しかし,ホ
ーフマンスタールは,本性が温かくて,親切で,優雅でありましたので,外面的なこ
2)[原注]
新聞の印刷とフィッシャー版『トーマス・マン全集』GW X によれば,「私
と語り合った」(sprach mit mir) ではなくて,「私に話した」(sprach mir)となってい
る。
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とで,不安が表に現れないようにしようとしておりました。私はホーフマンスタール
との最初の出会いを思い出して幸せな気持ちになりました。二十年以上前に,ロダウ
ンに初めてホーフマンスタールを訪ねたおりに,ホーフマンスタールの会話の魅力を
初めて経験したのです。ホーフマンスタールの家の,ガルテンプラッツを望む,まる
で舞台装置のように美しいバロック風のサロンで,氏は『エレクトラ』Elektra を書
いていました。ウィーンの雰囲気,すなわち古きもの,温和なもの,やさしいものが,
農村の味のあるミュンヒェンへ移住した北ドイツ人に話しかけてきたわけで,とにか
く,そのウィーンの雰囲気に圧倒されて,私は,この詩人の人間性のなかにウィーン
文化が集積していることに魅せられてしまったのです。私は,ホーフマンスタールと
一日を過ごし,ホーフマンスタールと並んで氏の風景を歩きました。ホーフマンスタ
ールは,書斎で喜劇の草稿を朗読してくれました。 その部屋の精神性の豊かなミンネ
の彫刻に,私は驚嘆しました。これが最初の出会いでした。私の家族は,当時,私が
恍惚とした気持ちになったことを保証してくれることでしょう。手紙のやり取りや,
ミュンヒェン,ザルツブルク,ウィーンでのほとんど毎年繰り返される出会いが,そ
れ以来,精神的・人間的関係を保ってくれましたが,それも今は永遠に消え去ってし
まいました。私は,その価値を測るすべを知っていたでしょうか?
人間がその生涯
を評価する方法は,生きている限りは,未解決です。物質が永遠へのまなざしをふさ
いでしまうということは,十分なほど奇妙に悲しいことです。死の灯りに照らしてみ
て,現世のものを垣間見せてくれるには,われわれの想像力は不十分であり,そのよ
うなことはしてくれません。とはいえ,やはりこの灯りだけが現世のものの価値を認
識させてくれるものなのですが。ホーフマンスタールの死が私をどんなに悲しませる
ものか,私は気がつきませんでした。また,われわれを共に導き,数十年のあいだ結
びつけていたものを,完全に理解してもいませんでした。今,「友情」(Freundschaft)
ということばを使うにはホーフマンスタールの承認がいるのかもしれません。しかし,
私が兄弟の契りと言い,運命のきずなと言うとき,生まれや,受け継いだものや,生
活気質などのあらゆる差異にもかかわらず,死によって目を開かれて,私は歯に絹を
着せないで真実を告 げ て い る の で す。わ れ わ れ 二 人 が も っ と「気 む ず か し く」
(schwierig)3) なかったなら!
3)[原注]
ホーフマンスタールの喜劇『気むずかしい男』Der Schwierige (1920年) を暗
示している。
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*
*
さて,最近,これが最後となりましたが,
人生は,それが最後の機会かもしれ
ないという予感を与えてはくれませんでしたし,真相を知らせてはくれませんでした
し,感情とそれを表現する機会も与えてはくれませんでした
われわれはそれぞれ
夫婦一緒に腰を据えて語り合いました。われわれの話題は,ドイツであり,その巨匠
たち4)であり,政治に対するわれわれの民族の関係であり,政治というこの異質の要
素がドイツ民族の魂のなかへ持ち込んだ分断状態と痛ましい憎悪であり,ここ十五年
来,つまりわれわれ二人が四十歳になって以来,時代がドイツ人の研究能力,研究意
欲に対して課している厳しい要求についてでありました。あらかじめ,ホーフマンス
タールは,これらのことについて語り合うことをはっきりと願っておりました。私が,
ホーフマンスタールの会話をほめる必要はありません,と申しますのは,私がホーフ
マンスタールにとって価値のある対話の相手であったと思い込んでいるかのように見
えるからです。私は,かつてと同様に恍惚としていました。ホーフマンスタールは,
人が理解する以前に理解し,あっという間に把握したものを完璧なものにし上げ,進
捗させる方法を身につけていました。そのおかげで,おしゃべりは,夢のように軽や
かで,うきうきするほど際立った成功を収めました。しかし,対話のなかで触れられ,
論じられ,ちらっと名をあげられた具象的・心理的なものの背後には,個人的に
多くのものと共通点があっても
体験してきたものが存在していました。すなわち,
それは,戦争 [=第一次世界大戦] 以前に精神的な構造が形作られていたある世代の
運命であります。 つまり,戦争勃発のとき,四十歳であったわれわれの世代の運命で
あります。会話の背後にあったのは,口には出されませんでしたが,五十歳になって
から個々人の
非常に肉体的な表現を用いれば
心臓と脳髄に課せられた要求の
苛酷さにかかわる思想でした。もっと穏やかな状況のもとであれば心地よく耐えるこ
とができたでしょうが,かなり多くの質素な体質が,このような要求に屈してしまっ
たのです。われわれの周囲の身近な人間やその他の人間には5),肉体がやせた人がい
たし,顔色が青白く硬化した人がいました,精神的に打撃を受けたために,自分自身
4)[原注]
原稿のなかでは「その運命であり」(seinem Schicksal) があとに続いている。
5)[原注] 「われわれの……人間には」の部分が原稿には欠けている。
トーマス・マン『ホーフマンスタールのための追悼の辞
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を単なる愚鈍な人間と思って無気力になり,もう一緒には進むことができなくて,途
中で落伍する人がいました。そして今,最も包括的で最も感受性の強い繊細さをもっ
た脳髄,すなわち,世界,宇宙,秩序,「君主国」(die Monarchie) を滅ぼしたこの最
も貴重な存在に向かって,こういう時代の喧騒や,黒人のように新しくて若いものが
押し寄せています。この新しくて若いものは,疑いもなく,生であり,当然のことな
がら,生をちりばめた生であります。そして,自己自身と時代を生き延びるために,
意識のなかで,このような生と対決しなければならないことはもちろんのことであり
ます。ホーフマンスタールが自分の運命であるかのように愛していた,苦痛に満ちた
・混沌とした詩である『塔』Der Turm6)は,新しいものや,革命や,若者たちが突き
付ける問題と格闘したホーフマンスタールの記念碑であります。しかし,ホーフマン
スタールの間近にいると,この若者たち自身は,氏の血肉を分けた愛児的存在である
にもかかわらず,氏にはついて行くことができないのです
時代がジャズのような
ものに化するときには,過労状態のオーストリア人気質は,立派に務めを果たす7)に
は十分に「格好よく」(
)はないからです。ホーフマンスタールがそのことに罪
があるというのでしょうか?
ホーフマンスタールがこう問うのが聞こえます。「ま
さか,ひょっとすると,私は父親になってはならなかったのだろうか,息子たちを持
ってはいけなかったのだろうか?」そして,「順応することが難しい老人」が,英雄
のように美しく威厳を持って,みずからの精神的義務を果たすとき,気後れしている
若者は,老人のかたわらで, 脳天に弾丸を撃ち込むのです8)。そのとき貴重な脳髄の
なかで,硬化した血管が飛び散り,そして,ことばもなく,悲嘆と驚愕のなかで,す
ばらしい詩人である父が,亡くなって行くのです。
涙
涙。
6)[原注]
ホーフマンスタールの悲劇。トーマス・マンは1925年の初稿を知っていた
(1926年9月7日付のホーフマンスタール宛て書簡を参照せよ。[関連資料を参照の
こと])
7)[原注]
新聞記載中の seinen Mann stellen は, 原稿原文にしたがって, 「立派に務め
を果たす」(seinen Mann stehen) と訂正した。
8)[原注]
この代わりに,原稿では次のように書かれている。「そして,老人,硬化し
た人,生き長らえた人が,英雄的に美しく威厳を保って,みずからの精神的義務を果
たすとき,若者が,少なくともこの点では格好よく,脳天に弾丸をずどんと一発撃ち
込むのです。」
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*
*
ホーフマンスタールは,美の理念とともに死の理念を愛していました
おそらく,
それがオーストリア的なものなのでありました。死は,ホーフマンスタールのあらゆ
る文学のなかに,晴れやかな文学のなかにさえも,存在しています。そして,若者,
すなわち精神の王子たる少年は, 詩のなかで,それを「霊の偉大なる神」 (einen Gott der Seele)9) と名づけました。ホーフマンスタールの散文,対話,抒情詩のメロ
ディカルで優美な転換のどれにも,死の美しさが染みこんでいます。そうです,死は,
青春がホーフマンスタールのもとにあるかぎり,美でありメロディであり,生きる力
なのです。青春がホーフマンスタールから去り,最後に本当に,死がやってくるとき,
ホーフマンスタールはぞっとします,それは絶句して没落していくことであり,底な
しの苦しさであります。
否,それが究極の真実ではありません。次の瞬間,死は,変容し,この世のものの
浄化となり,修復となるのです10)。
「今は亡き人」(Der Verewigte), この告別のことばは,いまだわれわれには,理
解することができません。ホーフマンスタールが書斎の安息ベッドに寝て亡くなった
とき,顔は穏やかで,若返って11)見えた,ということを,私は読んで知りました。こ
の「若返って」(
)ということばに,どうして私は深く心を揺り動かされた
のでしょうか?
ホーフマンスタールは最後の数年間にこう言ったそうです12)。「 恋
のあとで,私は死ぬべきであった
の冒険と女性歌手』Der Abenteur und die かもしれない。そのときなら完全な伝記になったかもしれない」と。ホーフマンスタ
ールがこのことばを口にしたのは,このことばがためらいながら漂っているように見
えるところで,同時代の人間の口からこのことばを奪うためであります。ホーフマン
スタールはそんなつもりでは言うことができなかったのです,自分の人生を否定する
9)[原注]
10)[原注]
痴人と死』Der Tor und der Tod の244行目の詩句のなかにある。
この代わりに,原稿では次のようになっている。「次の瞬間に,それは,清
められ,地上の真実からの浄化と復活」
11)[原注] 「若返って」に原稿では,アンダーラインが引かれている。
12)[原注]
伝えられていない。『恋の冒険者たちと女性歌手』は,1898年に完成したホ
ーフマンスタールの戯曲である。
トーマス・マン『ホーフマンスタールのための追悼の辞
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ことができなかったのです,というのも,ホーフマンスタールは実際に生きたのです
から。誰が,このことばに賛成しようと思うでしょうか?
大人になって,老いていくことを願わないでしょうか?
誰が,このような若者が
そして,魅力あふれる賢明
さを持ったエッセイや講演,賢明な魅力をもった喜劇とオペラ,教養と美の世界の存
在することを,誰が願わないでしょうか?
とはいえ,ホーフマンスタールが,詩や
最初期のいくつかの叙情的戯曲を書いたあとで亡くなっていたとしても,本当に,ホ
ーフマンスタールは神になっていたことでしょう,無限のあこがれと希望が,ホーフ
マンスタールを継承し,永遠の若者像であるホーフマンスタールを,星空の高みに移
し置いたことでしょう。
ホーフマンスタールは,われわれのあいだにとどまり,生きて,戦って,年老い,
時折,最高のものに触れて,自己の崇高な精神によって蓄えられた知的富から,われ
われの周りにあるさまざまな宝物を形作ったのです。今,ホーフマンスタールは亡く
なりましたが,すでに述べましたように,死は,この年老いた顔13)を若返らせました。
死が,われわれにとって,真理の主であり,救い主であることを,このことが教えて
くれています。永遠の人となることは
若返ることであります。フーゴ・フォン・
ホーフマンスタールは,ふたたびひとりの若者として,永遠に優美な姿で,不滅の王
国へ入って行きます。
テクスト
(1)
Thomas Mann : Gedenkblatt Hofmannsthal. In memoriam. In : Thomas
Mann : Essays. Bd. 3. Ein Apell an die Vernunft. 19261933. Hrsg. von Hermann
Kurzke und Stefan Stachorski. Frankfurt a. M.: S. Fischer 1994, S. 156160 und
Kommentar.
(2)
Thomas Mann : In memoriam Hugo von Hofmannsthal. In : Thomas Mann : Gesammelte Werke in dreizehn Bänden. Bd. X. Frankfurt a. M.: S. Fischer 1974, S.
453
458 und Kommentar.
本稿訳出にあたっては,(1)と(2)のテクストおよびその注釈にもとづいた。
13)[原注] 原稿では, 「ホーフマンスタールの年老いた」 となっている。
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原注(以下は,ヘルマン・クルツケとシュテファン・シュタホルスキーによる注
釈である。ただし,[
]内は訳者注)
成立
イェール・コレクションに含まれている原稿は,1929年7月17日/18日の日付にな
っている。ホーフマンスタールは7月15日に亡くなった。手書き原稿は,新聞の日付
と食い違いを示している。明らかな読みの間違いは,原稿によって訂正された。ほか
の食い違いは,行注釈によって示される。
初版と版下
1929年7月21日付『ノイエ・フライエ・プレッセ』 Neue Freie Presse に,「ホーフ
Hofmannsthal という総題名をともなう付録のな
マンスタール追悼号」Gedenkblatt かで,フランツ・ヴェルフェル (Franz Wefel), アレクサンダー・モイスィ (Alexander
Moissi), クラウス・マン (Klaus Mann) の発言と一緒に,「友を偲んで」In memoriam
という副題を付して掲載された。
再版
日々の要求』FdT,『古きと新しさ』AuN, 東独版『トーマス・マン全集』GWA 11
およびフィッシャー版『トーマス・マン全集』GW X のなかで,「フーゴ・フォン・
ホーフマンスタールを偲んで」In memoriam Hugo von Hofmannstahl という題名で収
録されている。
環境と出典
トーマス・マンとフーゴ・フォン・ホーフマンスタールは,1908年に個人的に知り
合いになった。両氏の親しい,がしかし距離をおいた関係は,往復書簡から読み取れ
る(トーマス・マン『作家たちとの往復書簡』Briefwechsel mit Autoren ハンス・ヴィ
スリング (Hans Wysling) 編
1988年
フランクフルト版を参照せよ。ここにはしか
し,伝記的ディテール,およびこの関係の特徴も述べられている。)
ホーフマンスタールは,自殺した息子のフランツ (Franz) の埋葬に出かけようと
したときに亡くなった。フランツの弟のライムント・フォン・ホーフマンス タ ー ル
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(Raimund von Hofmannstahl) は,1929年7月17日付『ウィーン新聞』Wiener Zeitung
で,父親の死と,父親の最期の数日についていくつかの細かい事実を伝えている。
[……] 私の兄の自殺が与えた最初のショックのあとで,父は驚くほど早く回復
しました [……]。お昼に,父は衰弱していきました。目前に迫っている遺体の
埋葬が,強烈に影響を及ぼしたので,父はほとんど昼食を食べることができませ
んでした。[……] 3時5分前に,父は卒中の発作を起こして,倒れました [……]。
父と私は, 兄のことについて何度も語り合いました。 そうして, 父は, 詩人とし
て自分が世界をやはり違った目で見ているのだ, と感じたのです。 そして一度私
にこのように言ったことがあります。「まさか,私が父であってはならなかった
のだろうか,子供を持ってはならなかったのだろうか!」[……]
私の父は異なる時代の生まれでした。戦争はもろもろの概念を変えてしまいまし
た。 そして父はかろうじてそれに順応していました。(トーマス・マンが引用し
たように, その他のことが書かれている。)
関連資料
トーマス・マンからフーゴ・フォン・ホーフマンスタール宛ての書簡
フォルテ・デイ・マルミ
一九二六年九月七日
ペンション「レジーナ」にて
拝啓
あなたにどうしてもお詫びしなければならないことがございます,と申しますのは,
今年のザルツブルクでのわれわれの滞在取りやめのことであります。さぞかしご不審
の念をいだかれたに相違ありません,と申しますのも,私どもの訪問については,決
まっていたことですし,話題にもなっていたのですから。しかし,私どもの計画は,
すでに春に,家内がインフルエンザという病気にかかったために,混乱状態になって
いたのですが,この病気が悪化して肺炎になってしまったのです。そのために,「古
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い病変部」 がすぐにまた活動し始め,実際に高熱がしぶとく続きましたものですから,
アローザでの療治1)が必要になったわけです。 そこでの療養仲間には私も五月いっぱ
い加わっておりました,
当地は終始深い雪に覆われておりました。家内はまだこ
の高地に滞在しておりましたが,私のほうは,六月はじめに記念式典のためにリュー
ベック2)に参らねばなりませんでした。そのあと,私ども両名は,家でのんびりと腰
を落ち着ける気になりましたし,旅で疲れてもおりました。その間に,幼い二人の子
供たちのうちの一人が,ひどい百日咳にかかりましたので,どうしても必要な保養旅
行が,八月,九月に延びてしまい,ザルツブルクのほうは取りやめにせざるを得ない
ことになった次第です。
私どものここでの滞在はおしまいになり,十一日には出発することになります。私
どもは,あふれんばかりの光りと温かさに包まれておりました,そして子供たちは浜
辺や暖かい海で至福に満ちておりました。少々の不快なこと3)も最初のうちはありま
したが,これは目下の芳しからざる,常軌を逸した排他的な国粋的心情とかかわりが
あるようで,今,イタリアのシーズン最盛期に,この国の海水浴場を訪れることはよ
くないことであるということを教えられました。目下のシーズンに,スラヴ的ドイツ
的要素が広まっていらいはじめて,居心地よく感じられます。もちろん,本来の民族
は,親切心を保持していて,精神的には,[ムッソリーニ] 総統の膨張しつつある影
響を受けてはいません。全体としてはしかし,今回の訪問が,イタリア人に対する私
の敬意を高めたとは申せません。肉体的知的に美しい才能は認めるのですが。本来の
ヨーロッパ的水準を保持しているのは,やはりフランス人とドイツ人(もちろん私は
オーストリアを含めていますが)でしょう。イギリスはある程度低い位置にとどまっ
ていますし,イタリアはもっと低い状態です。間違っていますでしょうか?
十月には,ローザンヌのペンション住まいの娘モーニ(この娘のことはご存知でし
1)[原注]
1926年5月1日から28日まで,「ヴァルト・サナトリウム」(Waldsanatorium)
に滞在した。
2)[原注] ハンザ同盟都市リューベックの七百年祭を契機に,1926年6月3日から9日
まで滞在。トーマス・マンは1926年6月5日に市立劇場で『精神的形式としてのリュ
ーベック』
als geistige Form という講演を行った。市参事会から教授の称号を
授与された。
3)[原注]
このような観察が,トーマス・マンの物語『マーリオと魔術師』Mario und
der Zauberer(1930年)のなかに記されることになる。
トーマス・マン『ホーフマンスタールのための追悼の辞
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ょう)を訪ねるために,ジュネーヴ湖への自動車旅行4)も計画しています。十二月に
は,朗読会のためにウィーンへ行くことになるでしょう。しかし,押し寄せる日々の
雑事のために長いあいだ伸ばし伸ばしになっておりましたあなたへの感謝の気持ちを
お伝えすることを,それまでに引き伸ばすようなことはしたくありませんので,この
機会を利用して,あなたが最期にミュンヒェンにおいでになったあと,当時あなたの
『塔』Der Turm という文学が,どれほど私に深く不思議な印象を与えたかについて,
あなたにお伝えしたいと思います。これは並外れた表現力をもった作品でありますし,
美しさのなかに混沌としたようなものが存在し,恣意性のまったくない作品でありま
す。 それを私は,最も感動的な最も尊敬すべき意味において,詩的である(dichterisch)と感じたものです。たしかにあなたはこの作品のために,多くの苦痛を味わ
い,ぞっとするような経験をされたことでしょう。いずれにしましても,この作品は
青少年を恥じ入らせるものです,連中ときたら,自分たちだけを時代とその革命の担
い手と感じたがっていますし,あたかもわれわれが過去十二年間眠っていて,古いも
ののなかで無邪気に生きているかのように扱うのですから。
あなたのさまざまな戯曲は輝かしく進展して行くことでしょう。あなたがいつもそ
のための感受性を必要となさっていらっしゃるかたがたによろしくお伝えください!
つまり私は,ラインハルトとブルーノ・ヴァルター(ヴァルターは十五日に誕生日
を迎えます,お忘れになりませんように!)のことを念頭においているのですが。そ
してあなたのご家族の皆様にもよろしくお伝えください。
敬具
トーマス・マン
テクスト
Thomas Mann : Briefwechsel mit Autoren. Hrsg. von Hans Wysling. Farnkfurt a. M.: S.
Fischer 1988, S. 215
217 und Komenntar.
4)[原注]
トーマス・マンは,9月末に[妻の]カティア (Katia) と[友人]エルンスト
・ベルトラム (Ernst Bertram) ともにジュネーヴ湖へ旅をした。
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