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掃海ヘリコプタ KV107ⅡA

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掃海ヘリコプタ KV107ⅡA
HELI-5
マグロを釣った
掃海ヘリコプタ KV107ⅡA
義若 基
日本ヘリコプタ協会名誉顧問・米国ヘリコプタ学会名誉会員
海に展張していた掃海具をV107Aへ揚収中、機雷掃
海用のケーブル・カッタに一匹のマグロが喰いついて釣り
上げられ、海上自衛隊・第 111 航空隊員の夕餉の食卓を
賑わせたのは事実であった。世界にヘリコプタは多いが、
マグロを釣ったヘリコプタは海上自衛隊の掃海ヘリコプタ
V107A(川重コード・KV107ⅡA‐3)だけであろう。
写真は海自・第 111 航空隊発刊「しらさぎV107A除
籍記念写真集」から転載した。
1990 平成 2 年 3 月、海上自衛隊岩国基地でV107
A掃海ヘリコプタの除籍記念式典が行われ、我が国最初の掃海ヘリコプタV107Aはこの式典をもって退役し、そのバ
トンをシコルスキ社製大型ヘリコプタMH53Eに渡した。それから既に 20 年、MH53Eにも幕引きの時が近付いてき
た。後継機にはアグスタ社MCH101ヘリコプタが選ばれ、川重はそのプライム・コントラクタとして再び海自・掃海ヘリ
コプタのシステム開発を担当することとなった。50 年前海自へのV107売り込みに参画し、世界に先駆けてヘリコプタ
掃海にチャレンジした筆者にとっては感懐も一入である。
V107は、1958 昭和 33 年から川崎航空機工業株式会社(後に川崎重工に統合合併)西明石工場で
導入が計画され、最初の販売先としては海上自衛隊の掃海ヘリコプタに的が絞られていた。
1960 昭和 35 年 12 月初旬、昭和 36 年度国家予算政府案で、海上自衛隊にV107‐2 機の調達がヘ
リコプタ掃海の試験用として認められて、ボーイング・バートル社とのV107技術援助契約が認可さ
れ発効した。
同年 12 月中旬、川航・東京事務所で、当時の最高幹部、永野岐阜・四本神戸、両製作所長出席の大
会議が開かれ、V107の事業展開は岐阜工場でと、明石から岐阜へV107の移管が決定された。
1961 昭和 36 年 1 月 1 日付けの発令、私は高橋忠男課長(後に日飛取締役)に従って岐阜へ転勤した。
それから苦節 10 年、川重がV107A‐3掃海ヘリコプタを開発して、1974 昭和 49 年、日本に初
めてヘリコプタ掃海専任の部隊・海上自衛隊第 111 航空隊が広島県岩国市に誕生した。
V107A掃海ヘリコプタの計画機数は当初 12 機であった。しかし、第 1 次から第 6 次契約までの
計 9 機の納入をもって、1974 昭和 49 年秋、突如 1975 昭和 50 年度から海上自衛隊V107Aの調達
打ち切り、開発費未回収という、防衛庁契約では他に例を見ない無念な結末となった。この調達、突然
打ち切りの理由として、昭和 49 年、ボーイング・バートル社製の回転翼スパーに製造欠陥が発見され、
その特別検査の為にV107全機グランドと言う大問題の発生が考えられた。また、一方では、V107
Aの掃海システムが使い物にならないとの噂が社内外で相当流布されていたようで、これが今でも時に話題に上
ることがある。しかし、これらはV107A調達打ち切りの真の理由であったのだろうか。
1
米国ヘリコプタ学会誌VERTIFLITE 2000 年(平
成 11 年)夏季号にFRANK・COLUCCI氏寄稿『軍事
技術:ヘリコプタによる空中からの機雷処理』の中で次の
記事を見つけた。
『1962年(昭和 37 年)
、米海軍はヘリコプタ
掃海の開発に当たり、初めボーイング・バートル社の
CH46を候補にあげたが、CH46には新輸送ヘリ
コプタとしての緊急任務があり、CH46を掃海の開
発に回す余裕が無かった。
(数年後、日本はヘリコプタ掃海を川崎バートルKV107
Ⅱ-3で実用した。)
1965年(昭和 40 年)にシコルスキHSS-2が
米国海軍における最初の掃海ヘリコプタとなった。
HSS-2は掃海時、曳航ケーブルが尾部回転翼を破
壊する事故が度々発生した。又エンジンやダイナミッ
ク・コンポーネントの金属疲労が激しく、掃海具曳航
の 1 飛行時間は通常飛行の 8 時間に相当するとして、
オーバーホール間隔を大幅に短縮した。
』
川重の掃海・完全開発は米国HSS‐2より約 5
年遅れたが、独自アイデアによるV107Aの機雷掃
海システムは、信頼性も、使い勝手の良さも米海軍H
SS‐2のそれを遥かに凌駕し、1970 昭和 45 年当時、
世界で唯一の実用掃海ヘリコプタであったと思われ
る。
特にMK101係維機雷掃海具の空中バトンタッチは、
危険で困難な掃海具の展張・揚収回数を削減し、1 機
約 2・5 時間半の実掃海時間を 3 時間へと延長した、
川重独自創案の運用操作方法で、海上自衛隊のタンデ
ム・ロータ・ヘリコプタKV107でのみ具現された、
世界唯一のオペレーションであった。
ヘリコプタによる掃海は、気圧・気温、風向・風速、
海流、水路等多くの運航パラメータ組み合わせの中で、
複雑な掃海具の展張、曳航、曳航旋回、揚収、時には
掃海時間延長の為にヘリコプタ間での空中バトンタ
ッチも行う、ヘリコプタにとっても機上掃海隊員にと
っても危険かつ過酷な作業の連続である。
シングル・ロータ・ヘリコプタは尾部回転翼による
風見型安定性により、向かい風に対しては強いが、背
風・横風での安定した飛行は殆ど不可能、掃海はタンデム・ロータ・ヘリコプタの独占場と、海自向け
第一次契約・V107―2 機の輸入到着を待っていた。
2
1963 昭和 38 年、到着した1号機に装着されていた
掃海装備品は、胴体尾部下面に取り付けられた牽引力
15,000ポンド(曳航ケーブル径5/8インチⅩ2
5フィート長)の特殊フック付きウインチだけであった。
このウインチでも使えればまだ良かったが、これが試作
品、実用に耐える代物でなかった。ここに最初の問題が
発生した。
海上自衛隊は2号機用曳航ウインチの輸入を見合わ
せた。このまま何もしないとV107掃海ヘリコプタの
制式化は難しいと判断し、2号機用曳航システムの開発
に着手した。許される開発期間は 1 年、第 1 回日米合
同掃海演習が迫っていた。到底新規ウインチの開発は無
理、海自V107機に装着輸入されていた救助用ウイン
チの流用しかなかった。 知恵は出た。独自構想のWE
6100型曳航システムを開発し、V107‐2号機に装着して、とにかく、第 1 回日米合同掃海演習にV
107‐1、2号機、2 機共に参加させることが出来た。
(第 1 回日米合同掃海演習無事終了後、訓練中
にケーブルが数回切断、最後には、径3/6イン
チ・長さ150フィートのウインチ・ケーブルを径
1/4インチに改造交換をしなければならなかっ
たが。
)
第 1 回日米合同掃海演習は、1966 昭和 41 年 8 月
14・15 日の本演習を挟んだ前後 1 週間、前進基地
を山口県小月に置き、唐津湾を掃海海域とした、海
上自衛隊・掃海部隊総力を挙げての第 1 回日米合同
掃海演習、我が国におけるヘリコプタ掃海の将来を左右する重
要な掃海演習であった。ヘリコプタ掃海を担当したのは海上自
衛隊実験航空隊・第 51 航空隊、総指揮を取ったのは名将薬師
寺司令(元海将補、当時 1 等海佐)
、実戦さながらの大演習と
なった。
川重もヘリコプタに起因する掃海演習の失敗は絶対に避け
ねばならぬと、内野航空機事業本部副本部長以下岐阜工場各担
当部門の実力者 6 名が小月基地へ進出し、即断即決、全ての処
置が現地でとれる万全の支援体制で臨んだ。
当時、双発ガスタービン・ヘリコプタは運用開始直後で信頼
性・稼働率は極端に悪く、現在のヘリコプタからでは到底想像
も出来ないものであった。V107も例外ではなく、
One Flight One Trouble、演習期間中、我々は毎日薄氷の上に
でも居るような気持ちでV107の帰投を待っていた。準備演
習では毎日不具合調整と修理とが続いた。しかし、本演習の
3
2 日間は正に天佑神助、Ⅴ107で敷設機雷 12 個を発見し、掃海艇からトランスファされた曳航掃海
具で係維機雷 1 個を切断・浮上させ、これを銃撃処理した。
我が国最初のヘリコプタによる掃海演習としては大成功、「Ⅴ107ヘリコプタは、掃海機材・要員を自力
で輸送して掃海するにたる充分な性能を持ち、機動掃海兵力として得難い潜在能力を保有することが実証され
た」との総合講評がでた。
これを受けて川重航空機事業部は本格的な自立掃海シ
ステムの開発に向けて自主研究を開始した。
「武人の用に立つ、蹴飛ばしても壊れぬ掃海システム」を開
発の狙いとし、一番面倒な係維機雷掃海具MK101をV
107の機内に格納して掃海域へ進出し、MK101を掃
海域海面へ展張し、掃海し、掃海後再びMK101掃海具
を機内へ揚収して基地へ帰る、所謂自立MK101掃海シス
テムを独自開発し、既納のV107、1および2号機にリ
トロフィットし、1969,1970 昭和 44、45、年度にそれぞ
れ各 1 機納入した。
さらに 1970 昭和 45 年度から始まる第 4 次防衛力整備
計画に向けて、高出力エンジンへの換装、互換性と重量軽
減を図った後部トランスミッションの独自補強、機体傾き
角調整用ホバー・トリムシステム、精密航法システム、曳
航ヨー角‐ASEカプラー等各種新規システムの開発装
備、掃海時間増大の為1000ガロン大型燃料タンク、ホ
バリング燃料補給システム等をも装備して、本機の基本的
掃海能力の向上を図るとともに、音響機雷掃海用のMK10
4掃海ステムを開発した。
これらを全て組み込んだ性能信頼性向上機・新掃海ヘリコプタV107A‐3(KV107ⅡA‐3)
2 機を、昭和 45 年度(第 2 次)契約として 1972 昭和 47 年 2 月、3 月に各 1 機納入した。その後、新
掃海ヘリコプタV107A‐3の調達・運用は特に大きなクレームも無く第 3~第 6 次契約と順調に推
移し、1974 昭和 49 年 2 月、広島県岩国市の海上自衛隊基地に、我が国で初めてヘリコプタによる掃海専任
の部隊・第 111 航空隊が編成された。
ところが、前記の回転翼特別検査、グランド問題がほぼ収斂した昭和 49 年夏、突然、昭和 50 年度の
予算要求からV107Aを外すとの情報が齎された。
回転翼の特別検査、V107グランド問題が決して小さな問題とは考えてはいなかった。川重航空機
事業本部とボーイング・バートル社とはV107の安全性確保に向けて最大限の努力を傾注した。
KV107ⅡAは、その後 1977 昭和 52 年に第 1 次契約が成立したサウジアラビア内務省防災ヘリコ
プタは、(毎年 1 週間に数百万人の回教徒が参加するメッカ大巡礼の安全確保にも大活躍)、熱砂飛ぶ、燃
えるサウジアラビアで任務稼働率 92%を達成し、当該プロジェクトに従事した米国人パイロット・整備
士が、米海軍CH46での運用経験と比べて、KV107の信頼性・稼働率の高さに驚いたほどの高信
頼ヘリコプタへと脱皮していった。陸・空両自衛隊は調達を継続し、KV107ⅡAの製造は、1990
平成 2 年 2 月、社内製造機番160号、航空自衛隊救難ヘリコプタの最終号機の製造をもってその幕を
引いた。
4
「V07A除籍記念写真集・第 111 航空隊」の巻頭言で、織田勝一航空隊司令は次ぎの様に《はなむけ》され
ている。
「しらさぎの愛称で親しまれてきた、掃海ヘリコプタV107Aは、ここに 26 有余年にわたる輝かし
い歴史を閉じようとしております。
思い起こせば昭和 38 年 9 月、我が国最初のガスタービン搭載の大型ヘリコプタとして導入され、51
空において 10 年間に及ぶ掃海ヘリコプタとしての開発試験が繰り返された後、昭和 49 年 2 月に海上
自衛隊唯一の専任掃海部隊として第 111 航空隊の発足を見ました。
掃海具の展張、揚収システムを国内開発したことにより、機内での操作が日本人の特性に適合したも
のとなり、困難で危険を伴う作業にもかかわらず、安全の確保ができ、我々のニーズに十分応えてくれ
ました。特にその堅牢さと優れた操作性は、海上自衛隊の中でも常に高い任務稼働率を維持し、実践的
システムとして高く評価されました。
導入以来、今日まで 1 人の人命も又、1 機も失うことなく、全機が完全にその耐用時間を飛び続けた
というこの輝かしい記録がその全てを物語っていると思います。先輩の英知と努力に対して今改めて感
謝申し上げる次第です。
掃海ヘリコプタV107Aは、それを知る私達の胸に深くのこるとともに、海上自衛隊の歴史を飾る
名機としてその名を後世に残すものと確信します。
そのような思いをこめて、懐かしい貴重な写真を部内外に広く求め写真集を作成しました。青春の情
熱を傾けた時代の思い出として頂ければ幸いに思います。」
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