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資料館だより

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資料館だより
世田谷区立郷土資料館
資料館だより
No.59
2013.11
平成 25 年度特別展
1955-64
写真で見る高度成長期の世田谷
戦後 10 年を経た我が国は、神武景気に始まる経済的発展の道を突き進んでいった。昭和 30 年代は高
度成長期と呼ばれたが、空前の好景気に個人消費も拡大し、電化製品が非常な売れ行きを見せた。特にテ
レビ・洗濯機・冷蔵庫は、神武の名にあやかって「三種の神器」と呼ばれ、人々は競ってこれを買い求め
た。こうした電化製品の普及は、それまでの生活様式を一変させることとなったのである。本特別展示は、
この高度成長期における世田谷の姿を、当時の写真により紹介するものである。
道路拡幅工事 昭和 36 年 宮前橋(代田 1-39)付近より北を見る
環状七号線はここから北に向かって上り勾配となる。拡幅工事以前は、この先、代田八幡宮の入口付近で二股に分か
れていた。正面に見える高台の建物が八幡宮の社である。
2013 年 11 月2日土→ 12 月8日日
1
北沢地域
京王線桜上水駅 昭和 36 年
桜上水 5-29-52
駅舎前に立てられた「スカイラインコース裏
磐梯へ」「京王遊園プール」の看板に、“ 時代 ”
を感じることができる。裏磐梯バスツアーは「2
泊 6 食付き 5,200 円」、京王遊園のプール券付
き入場券は「大人 80 円、子供 40 円」とある。
京王線は開業当初、新宿~八王子間のほとんど
の駅で、構内踏切を経由して乗客をホームへ上
げる方式をとっていた。しかし、運行本数増加
に伴い、地下通路や橋上通路にすべて切り替え
られていった。現在の橋上駅舎は平成 20 年に
完成した。
環状七号線・京王線ガード 昭和 36 年 大原 1-62-3 付近より南を見る
「環状七号線」が、まだ「堀
之内道」と呼ばれていた頃の写
真 で あ る。 舗 装 も さ れ て お ら
ず、自転車が道の真ん中を悠然
と走っている。今では到底考え
られない光景だ。京王線のガー
ドも今より 1.5 メートル低い。
下代田児童遊園 昭和 36 年 代沢 1-23-9
昭和 24 年 5 月、児童福祉週間の記念行事
として開かれた「子供都議会」で児童遊園の
増設が請願され、都議会はこれを採択した。
世田谷区も同年度から住民の土地無償提供に
よる児童遊園の設置を開始している。写真は
33 年 ~35 年の整備作業により新装なった「区
立下代田児童遊園」(昭和 26 年 3 月都有地に
設置)の姿である。画面中央には撮影の前年
に設置されたばかりのコンクリート製遊技器
具「子供の山」も写っている(1,629.46㎡)。
因みに「子供の山」の後ろに見える塔は下代
田アパートの給水塔である。また、左の門柱
には「富士中学校」の看板が、右の門柱には「駒
場学園高等学校」の看板が懸かっている。富
士中学校は昭和 23 年 4 月設立。
2
世田谷地域
環状七号線 昭和 37 年 上馬 2-2-6 付近路上より南東を見る
昭和 35 年、
「環状七号線建設に際しては、玉川通り(国
道 246 号線)との交差点を平面交差にしてほしい」との
請願が上馬商店会から区議会に出された。しかし、37 年
7 月、環状七号線の用地買収が終わると、急速に立体交差
工事が進むこととなった。写真は用地買収が完了する直
前の 37 年 6 月に撮影されたもの。交差点から先の道幅が
狭かったため、当時この一体は南下する車でよく渋滞し
たという。
汲み取り作業 昭和 36 年 経堂 5-1-7 付近より東を見る
これから汲み取りをはじめるところであろうか。東京
都清掃局は、昭和 29 年 12 月バキュームカーを購入した。
リヤカーでの糞尿運搬は、その後も昭和 35 年まで続けら
れたが、昭和 36 年からは全てバキュームカーでの収集と
なった。収集量は人口の増加に伴って増え続けるが、昭和
50 年代になると下水道の普及に伴ってバキュームカーで
の収集量も減り始めた。右側手前のゴミ箱が懐かしい。
映画看板 昭和 36 年
「栄光への脱出」 渋谷パンテオン/渋谷東急名
画座/「ママは腕まくり」「サーカス小僧」「テキ
サスレンジャー」渋谷東急/「河口」渋谷松竹/
「南太平洋」
「さすらい」
「青春群像」
「ボーイハント」
下北沢オデヲン座/「女の勲章」
「太陽海を染める」
「ある遭難」「女は二度生まれる」三軒茶屋大映/
「ギャング花嵐」
「お化け退治」北沢エトワール/「お
姐ちゃんに任しとき」「男対男」「独立愚連隊」「唄
まつりロマンス道中」「森の石松幽霊道中」「暴れ
ん坊森の石松」三軒茶屋映画劇場/「旗本退屈男
謎の七色御殿」「海賊八幡船」「白い粉の恐怖」「大
岡政談」「警視庁物語聞き込み」三軒茶屋東映
東急玉川線駒沢駅 昭和 36 年 駒沢 3-1
写真中央の書店手前に見えている建物が駒沢駅
の駅舎。この駅舎は小規模ながら、屋根付き硝子
戸張の駅舎で、玉電沿線中、途中折り返しの切替
ポイントがあったのはこの駒沢駅と用賀駅だけで
あった。道幅はまだ狭く、玉電が一般道路を路面
電車として走っていた。現在この付近は道幅が広
がり、上には首都高速が走る交通量の多い賑やか
な交差点 ( 駒沢交差点 ) になっている。
3
三軒茶屋銀座通り ( 茶沢通り ) 昭和 36 年
太子堂 4-23-14 付近より北を見る
昭和 36 年当時の三軒茶屋銀座通り。楽器店の看板に
漢字で「山葉」と表記されているのが何とも古めかしい。
昭和 34 年「ヤマハ音楽教室」が開始され、オルガンや
ピアノが一般家庭に普及しはじめた。奥に目を遣ると、
野球ボールをかたどったスポーツ洋品屋の洒落た看板が
目にとまる。因みに「巨人 ・ 大鵬 ・ 玉子焼き」は 36 年
の流行語である。
三軒茶屋交差点 昭和 36 年
東急玉川線・下高井戸線のポイント切替の信号塔と
詰所が姿を消してから久しい。玉川通り(国道 246 号線)
を渋谷方面へ向かうオート三輪車が数台見える。この
オート三輪は小回りがきき、価格も四輪車の半値程度
であることなどから広く普及し、昭和 30 年代半ばに生
産のピークを迎えた。しかし、四輪車との価格差が無
くなったことに加え、免許制度の改定も手伝って、一
時期人気を博したこの車種も自然消滅していった。高
度成長期に、街中でよく見かけた、ちょっとユーモラ
スな姿を懐かしむ向きも多いことだろう。
丹頂形電話ボックス 昭和 36 年
池尻 3-20-3 付近歩道より南東を見る
「丹頂形電話ボックス」が最初に登場し
たのは昭和 29 年 10 月のことである。戦
後、被災地などで建てられた「組み立てバ
ラック式ボックス」が暗い感じのものであっ
たのに対し、鶴に似たこの優雅な形の電話
ボックスは , 町の美観に彩りを添えるもの
として好評を博した。しかし、トイレ代わ
りに用を足すなどの不届きものが跡を絶た
なかったので、41 年より「素通し」ボック
スに替えられていくこととなった。
東急下高井戸線西太子堂駅 昭和 36 年 太子堂 4-10-3
「ペコちゃん」「タルゴ」などの愛称で親し
まれたデハ 200 系 (202 号 ) 車両が停車してい
る。
4
玉川地域
尾山台駅踏切 昭和 36 年 等々力 5-5-7
駅舎が上り線と下り線との間に
あった頃の風景。乗客はホームから
そのまま踏切内に出ることができた
ので、上下線それぞれの遮断機が設
置されている。合計 8 本の遮断機が
一斉に上がった姿はちょっと壮観で
ある。
等々力中央商店街 昭和 36 年
等々力 3-1 付近路上より北を見る
写真は東急大井町線等々力駅の踏切前から北側商店
街を見たところ。停車中のバスは「成城学園前」行の
東急バスである。一見進む方向が逆のようだが、当時
この路線は大森駅~成城学園前区間の運行で、写真の
バスは大森駅を発車、洗足池を経由して等々力に着い
たところ。バスはこの後、さらに大井町線を横切り、
二子玉川に出て終点の成城学園前を目指す。20㎞近い
長距離を走行していた。
二子玉川園駅 昭和 36 年
玉川 1-13-10 付近より北を見る
明治 40 年玉川電気鉄道が敷設され、その終点とし
てこの駅が開設された。大正 13 年、ここから砧本村
まで砧線が開通し、昭和 2 年には溝ノ口線、昭和 4 年
には大井町線が開通した。写真当時は、通勤通学だけ
ではなく、二子玉川園来園者の乗降も多かった。第 2
次世界大戦中、一時休園していた同園は 29 年に再開。
31 年には日本最大のコースターが、更に昭和 34 年に
は少年科学館が設置され人気を博した(同園は 62 年
閉園)。そのため、駅名も「二子玉川駅」から「二子玉
川園駅」と改称されたが、再び平成 12 年夏に「二子
玉川駅」に変更となった。
新吉沢橋を渡る玉電(東急砧線)
昭和 36 年
砧本村駅へと向かう玉電は、吉沢駅を出るとすぐに野
川に架かる鉄橋(現 ・ 吉沢橋)を渡る。当時は、満々と
水をたたえた野川の清流に布を晒す姿も見られた。軌道
周辺の家並みはまだ疎らで、写真の左奥には玉川の土手
が見えている。
5
塩道路 昭和 36 年 8 月
深沢 6-25-18 付近路上より北を見る
埃っぽい砂利道を改良するため、塩を混入した舗装材
による工事が試みに行われた。この工事は、転圧効果を
高めるなどの塩が持つ特性に注目したもので、コストの
高いアスファルトを使用しないことで経費節減を図ると
いう意味をも含んでいた。日本専売公社の協力により約 4
トンの塩が無償提供され、延長 113m に及ぶ深沢の区道
にこの舗装が施された。防塵についてはかなりの効果が
上げられたものの、その後の維持管理に手間がかかり過
ぎることがわかり、あまり有効な方法とは評価されなかっ
たようである。
東京学芸大学附属世田谷小学校付近風景
昭和 33 年
深沢 4-10 より南西を望む
手前は東京学芸大学附属世田谷小学校の校庭で、日
陰棚を挟んで畑が作られている。もと、この場所は一
面のキャベツ畑であったという。北西から南西に流れ
る呑川には「新橋」が架かり、その向こうの高台には
昭和 31 年に開校した等々力小学校が見えている。
玉川通り(国道 246 号線)昭和 36 年
桜新町 1-32 付近より東方渋谷方面を見る
昭和 36 年 4 月、東京都知事の付属機関として、
「東京都通称道路名設置審議会」が設置され、主要幹線道路にそれぞ
れ親しみやすい名前を付けることとなった。それまで「東京沼津線放射 4 号」という名称であった「国道 246 号線」の
渋谷駅前~二子橋間は、新たに「玉川通り」の呼称が付けられ、現在もこの呼び名で親しまれている。因みに、「放射 3
号線」の芝白金台町 1 丁目~多摩川等々力町 1 丁目間を「目黒通り」、「国道 20 号線」を「甲州街道」、「補助 51 号」の
三軒茶屋~多摩水道大橋間を「世田谷通り」、「補助 8 号および 49 号」の渋谷駅前~井の頭間を「井の頭通り」、「放射
125 号」の東鎌田 3 丁目~喜多見町間を「多摩堤通り」と名付けた。
6
砧地域
農作業 昭和 34 年 5 月 喜多見 4-20 付近より東方を見る
慶元寺横の畑における野菜の取り入れ風景。その先に
は収穫前の麦が見える。写真に写っている民家は、32 年
に建てられたばかりの新築家屋である。ここに新居を構
えるにあたっては、専有の電信柱を 5 本も建てなければ
ならなかったという。当時この一帯はそれほどまでに人
家が少なかったのである。昭和 34 年、59,591a あった世
田谷区の耕地面積も年々減り続け、平成 22 年の調査では
12,583a となっている。
次大夫堀 昭和 36 年 4 月 喜多見 5-26 付近より北西を見る
昭和 36 年、端午の節句に間もない 4 月 21 日の撮影
で、次大夫堀の向こうに見える民家にはこいのぼりがは
ためいている。次大夫堀はとてもきれいな用水で、日常
の飲み水・米研ぎ・野菜洗い・洗濯などに利用されたほか、
子どもたちの恰好の遊び場ともなっていた。また、夏に
は川一面にホタルが舞い、シジミ・エビ・モクズガニな
ども獲れたという。
祖師谷通り(祖師谷商店街) 昭和 36 年
祖師谷 3-33-10 付近より南を見る
祖師ケ谷大蔵駅前から岩崎学寮前(北烏山
7-12-20)へ向かう小田急バス。当時は、こ
の狭い祖師谷通りを路線バスが走っていた。
しかし、38 年を最後にこの路線は廃止となっ
ている。因みに、38 年におけるこの路線バ
スの輸送人員は 2,804,000 人であった。
祖師谷団地 昭和 36 年
祖師谷 2-5 世田谷祖師谷四郵便局付近より東を見る
昭和 30 ~ 31 年に東京都住宅協会が
賃貸住宅として建設(建設資金の 75%
を住宅金融公庫が、残り 25% を都が融
資)した区内最初の鉄筋コンクリート造
りの大規模団地(昭和 30 年 19 棟 592
戸、昭和 31 年 16 棟 428 戸)。敷地面積
は 22,606.61 坪に及ぶ。建設大臣表彰団
地であった。入居は昭和 32 年 7 月から
で、1ヶ月の家賃は 4,100 ~ 5,200 円。
大卒の初任給が平均で 1 万 2,000 円で
あった当時にあっては決して安いもので
はなかった。
7
烏山地域
京王線千歳烏山駅踏切 昭和 36 年
停まっている自転車の荷台にくくりつけてある籠が
竹製なのが時代を感じさせる。写真右に見える電車は、
戦前より活躍していた中型 HL(手動加速 ・ 架線電源式)
制御電動車・2200 形 2204。この旧式車両は、38 年、
架線電圧切替の実施に伴い、姿を消すこととなった。
寺院通三番停留所 昭和 36 年
北烏山 4-15-1 より北西を見る
昔懐かしいボンネットバスの雄姿である。乗車口
に車掌が立っているのが見える。車体にある「K.N.K」
の文字は「関東乗合自動車(株)」の頭文字。都内で
はじめてワンマンカーが運行するのはこの年のことで
ある。
烏山小学校 (生ポリオワクチン投与会場)
昭和 36 年 南烏山 6-2
明治 6 年 7 月 1 日烏山念仏堂を仮校舎に当て開校。
大正 9 年南烏山 6-2(現・烏山区民センター付近)に
3 回目の移転を行った。第二次世界大戦後児童数が増
え続け、烏山小学校では昭和 25 年から「二部授業」
を行うようになった。一つの教室を二度使い、午前の
部の早番組と午後の部の遅番組に分けて授業を行っ
た。写真の校舎左半分は、翌 26 年に継ぎ足した校舎
である。隣接して烏山北小学校(28 年開校)や芦花
小学校(34 年開校)が設置された後も児童数が増え
るばかりであった。運動場も狭かったため、35 年移
転促進会が結成され、39 年現在地(給田 1-2-1)へ移
転した。
千歳清掃事業所 昭和 36 年 八幡山 2-7-1
昭和 30 年 7 月 26 日開場式を行い、8 月 1 日より作業が開
始された。特別な装置で電気的処置を施し、塵の飛散を防い
でいた。面積 3,324 坪、上長以下 47 人の職員で 1 日 35,000
貫(トラック 42 台分)のじん芥を焼却したが、そのほとんど
が世田谷区内の排出ゴミであった。
資料館だより No.59
発行年月日 平成 25 年 10 月 31 日
編 集 発 行 世田谷区立郷土資料館
〒 154-0017
世田谷区世田谷 1-29-18
☎ 03-3429-4237
印刷登録番号 No.1086
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