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友人の領分 - ジローの文学マダン

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友人の領分 - ジローの文学マダン
架橋17
1997夏
目
次
○小
説
友人の領分・・・・・・・・・・・・・・・・・・・磯貝治良
空気だま・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・文 真弓
許されぬ者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・申 明均
パルチザンの愛・・・・・・・・・・・・・・・・・柳 基洙
○エッセイ
再び韓国へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・蔡 孝
霧―私と朝鮮人・・・・・・・・・・・・・・・・・津田真理子
八月の旅より・・・・・・・・・・・・・・・・・・梨花美代子
下手な省略、災いのもと?!・・・・・・・・・・・朴 燦鍋
名古屋通い十二年の成果・・・・・・・・・・・・・渡野玖美
○「読む会」あれこれ
○会録
○あとがき
友人の領分
いそ がい
じ
ろう
磯 貝 治 良
二時間半まえに名古屋国際空港を飛び立った KAL761便は、ほぼ定刻の午後三時三十
プ サン
キ
メ
分頃、釜山近郊の金海空港に着いた。
半年まえ初めて韓国を訪ねたときも同じ空港に降り立っていたせいか、私に格別の感情
は湧かない。たぶん、同行のソットン氏に気をとられていたせいもあるのだろう。三十二
年ぶりにくにの土を踏むというソットン氏がどんな様子をみせるか。興味津津というわけ
ではないけれど、やはり気にかかる。涙の一滴もこぼしたなら日本へもどってから酒の席
で冷やかしてやろう、そんな不埒な下心は毛頭ない。在日朝鮮人文学のファンである私と
して、作品に描かれる帰郷場面の臨場感を実地見聞したいといった邪念が皆無といえば嘘
になるけれど、私の気持はすでに観客席から立ち上がっていた。
ソットン氏の様子に少くとも外見上は変化がみられなかった。KAL の機内では座席が覗
き窓からはへだてられた中央部分にあって、ソットン氏の表情に変化がみられないのは、
近づく釜山の情景を上空から眺められなかったこともあってのことだろうと合点していた
のだが、空港に降り立ってからもそれはそのままだった。ただ、入国手続きを経て空港ロ
ビーへ出るまでの小一時間のあいだ、私が語りかけてもソットン氏の態度はぎこちなく、
ほとんど口をきかなかった。
ウェサムチョン
チョッカ
ゲートを出ると、送迎ロビーにソットン氏の外 三 寸 (母方の叔父)と母方の 甥 が出迎
えていた。
一服しましょうと、ロビーのはじっこにある喫茶コーナーのカウンターでコーヒーを飲
みながら、私は外三寸の様子をそれとなく観察する。ソットン氏が親戚訪問を目的に三十
二年ぶりで訪韓する話があって、それに私が同行することを決めたとき、その旨を国際電
いわ
話で伝えたソットン氏に外三寸が曰く、その日本人は信用できる人物か、と危惧したとい
う。
私は名古屋近郊の町で、
「馬しょん」という屋号の小さな居酒屋を営んでいる。飲み屋の
おやじをしながら、某女子大学で週二コマの授業を担当する非常勤講師でもある。もう二
十年以上まえから在日朝鮮人文学についての研究らしきことをつづけていて、論文まがい
のものを請われるままに雑誌に発表している。なぜか著書まで出している。大学でマイノ
リティ論とか講じることになったのも、そんな縁からだ。時には「在日問題」をめぐって
法務局や自治体と渡り合う機会もある。それやこれやが機縁となって、店の客に朝鮮人も
少なくない。ソットン氏もその一人だ。
うま
大丈夫、馬しょんさんは立派な日本人だと伝えたといたから……。あのときソットン氏
は「立派な」という言葉に妙なアクセントを付けて言い、外三寸が納得したかどうかは保
証のかぎりではないけれど気兼ねは無用と付け加えて、笑った。
「馬しょん?」
喫茶コーナーのカウンターにむかって、まるで演壇にでも立ったように背筋を伸ばした
姿勢でコーヒーを口に運びながら、外三寸は私に聞き返した。ソットン氏が私を紹介する
のに、氏名ではなく屋号を言ったのだ。日頃の習性が出たのだろう。
さ ん ぶ いち
じ ろう
から が
私は氏名を名乗り、念のために「三分一・二郎」と人差指のさきでカウンターの上に空書
きした。
このような珍しい姓は日本に何軒ほどあるかと問われて、私は返事に窮し、身内以外で
は以前、甲子園に出場した高校野球選手に一人いたのを知っているにすぎない、と答える。
「たぶん、三十一軒くらいだろう」
外三寸は確信ありげに言う。根拠を訊ねる隙さえあたえない。
私やソットン氏より一廻り年輩の七十歳くらいだろうか。浅黒く日焼けして厳丈に角張
った顔のなかで眼が大きく活発に動く。短軀ながら、容貌にふさわしく肩幅の張った体に
背広を着て、洗いたてのワイシャツにネクタイがキリッと締まっている。ノータイながら
ブレザーを着たソットン氏はともかく、上着はジャンパー、下は綿パンという私は気のひ
ける身形だ。ソットン氏も私も、足もとはスニーカーなのに、外三寸は磨きたてた革靴を
履いている。
それにしても、私の日本語が逃げ出したくなるような、微塵も訛りのないイルボンマルだ。
は
た
ち
戦前、くにで生まれて日本へ渡り、十数年を暮らして、解放後すぐ二十歳の頃に帰国した
と聞いている。それにしても旨すぎる。
外三寸は、わが縁戚のあいだでは「日本かぶれ」と呼ばれている……。KAL の機内でソ
ットン氏がもらした言葉を、私は思い出す。ソットン氏はその表現を補足するように、外
三寸は釜山で日本のテレビやラジオを熱心に見聞している、気に入った歌謡曲があると CD
を送るよう達筆の日文手紙で言ってくる、外三寸のカラオケは絶品だ、とも言った。
釜山広域市通信技師
申龍煥――とある名刺を受け取って、あとしばらく外三寸の流暢
な日本語に耳を傾けてから、空港ロビーを離れた。外三寸が私を信用できる日本人と納得
ウェ ノム
したか、油断ならぬ倭奴と値踏みしたか、よくわからない。
ほとんど言葉を挟まない甥は、金海空港に近い電信電話公社に勤めているという。家も
近在の高層アパート(日本ふうに言えばマンション)にあるらしい。その彼が車で釜山ツ
ーリストホテルまで送ってくれた。
チュングトングァンドン
ルームテレホンが涼しげな音を立てて鳴ったのは、ソットン氏と私が中区 東 光 洞にある
ホテルにチェックインして、ツインの室で一服しようと上着を脱いだときだった。
「イエー、イエー。そうですか、わかります。叔父さんの気持はまことにありがたいです
が、それは無理ですよ。今晩だけはこちらで泊まらせてください。イエー、おっしゃると
うりです。でも、困りました」
受話器を取ったソットン氏がしきりに困惑している。
電話は、つい三十分ほどまえに甥の車に同乗してきてホテルの玄関で別れたばかりの外
三寸からだった。いま階下のロビーにいるという。ホテルの予約をキャンセルして家で迫
るべきだ、と強く言われたとのこと。金海空港からホテルへ向かう車の中で外三寸が、き
みは水くさい、なぜホテルなど予約したのか、ウリナラへ来たのだから親戚の家に迫るの
なじ
が道理だ、とソントン氏を詰っていたのを私は思い出す。日本を発つまえ、向こうへ行け
ば猛烈な日程で親戚の家を引き廻されるにちがいないから最初の日と最後の日くらいはゆ
っくり寛ぎたい、そういってホテルを予約したのだった。さすがにそうとは口にできず、
ソットン氏はあすからは世話になりますから、と繰り返し恐縮していた。
ソットン氏は脱いだばかりの上着を着て室を出た。私もそれに従う。
エレベーターを降りると、言い争う声が耳に飛び込んできた。ロビー正面のフロントで
外三寸がカウンターごしにホテル従業員を追及している。予約をキャンセルしようと掛け
合っているのだ。
ソットン氏は外三寸の剣幕を横目にやりすごし、ソファのあるコーナーへ急ぎ足に行く。
ソファに掛けていた二人の、青年と中年の境目あたりの男が立ち上がって小さく会釈する。
小柄なソットン氏が二人を見上げるふうにして交互に握手を交し、私に説明する。一人は
外三寸の長男(ソットン氏の母方の従弟)、いま一人は、ソットン氏の父は彼が高校時代に
亡くなっているが父方の従弟。ソットン氏は李家の世継ぎの長男ということもあって、従
弟とは年齢差が親子に近い。さらに宗家(本家)の後継ぎなので、ソットン氏にたいする
シン ヨンチェ
イ ソ ッ トン
二人の態度は慇懃である。外三寸の長男の名が申英済、父方の従弟のそれが李碩東と教え
られる。
外三寸が体から鬱憤を発散させて四人のところへもどってきた。
「あれだから韓国人は三等国民と言われる」
外三寸がいきなりそう言って、私を驚かせた。従弟二人の眉間を不快げな影が掠めたの
に気づく。二人は同時に外三寸から憮然と視線をよけた。
ホテル側は、当日の解約は規則によって一切できないという。外三寸が強硬に主張する
うち、どうしてもキャンセルするなら旅行社によってすでに払い込まれている宿泊料金全
額のうち三割しか払い戻しできない、と妥協したらしいが、外三寸はその規則が明文化さ
れたものを見せろと譲らず、押し問答のすえ結局、話を蹴ってきたということらしい。
およそそんな内容をまくしたてたあと、外三寸は、
「日本のホテルなら、ああいうことは言わん」
と縮めくくった。
「そんなことはないですよ。日本のホテルでもチェックインのあとのキャンセルは認めな
いでしょう」
私が二人の従弟そしてソットン氏の顔色をうかがいながら言う。
外三寸は私の言葉など意に介さず、ホテルの玄関へむかってさっさと歩きだした。
数階建ての古いビルや食堂の並ぶ緩い傾斜の通りを登って、交叉する繁華な街路へ出る
と、その角に父方の従弟・李碩東の乗用車が駐めてあって数珠つなぎに連なる他の車とと
もに道幅を狭くしていた。その車でどこかへ行くのかとおもったが、そうではなくて、カ
ハンシクシクダン
ラオケの看板がある二階建てビルに隣り合わせた韓式食堂へ案内された。
大衆食堂ふうにテーブルと椅子が並べられた店さきを抜けて、奥に障子戸の部屋が厨房
に面して二つある。
「臭うなあ」
部屋に上がって食卓のまえに坐るなり、ソットン氏が顔をしかめる。独特の臭いが店内
に漂ってはいるが、顔をしかめるほどのことはない。
「換気装置がよくない」
ソットン氏は言い換えた。
外三寸はソットン氏の言葉を気にするふうもなく、テーブルを囲むなり上座に坐って上
機嫌だ。ついさきほどホテルで体験した不快感など嘘のよう。午後六時すこしまえ、まだ
客が立て込むには間があってか、店のアヂュモニ(おばさん)、アガッシ(娘さん)が総出
で馳走とビールを運び、妙に愛想がいい。愛想の相手は外三寸ではなく、その長男の申英
済であるらしい。食卓いっぱいに並べられたあれこれを指しては、食べなさい、飲みなさ
い、と勧めるのは、外三寸。
ひとしきりスヂョ(箸と匙)を動かしコップのビールを口に運んで、満腹感が手に取る
ように胃を充たしはじめた頃、
ソ ヂュ
「三分一さん、焼酒をやりなさい。韓国料理にはソヂュが一番」
外三寸が言う。
まさに私の舌がそれを要求していたときなので、外三寸の言葉に驚く。はい、ぜひとも
……。私がそう応えるより早く、外三寸は部屋の上がり端で立て膝をして控えているアヂ
ュモニに言いつける。アヂュモニが首を廻して厨房に声をかけ、一分とたたず、アガッシ
がラベル張りの壜を運んできた。壜を見るなり即座に、外三寸が韓国語で何か言い、別の
焼酒が運ばれてきた。二合入りほどのその壜にはラベルは張られていない。25 度は駄目、
45 度を持ってきなさい、と外三寸は注文をつけたのだ。
外三寸が私とソットン氏の一口グラスに焼酎を注ぎ、自分のそれにもなみなみと注いで、
くいっと一気に飲み干す。飲み干すと同時にカーッと豪快に息を吐いた。私もそれに倣お
うとして急きょ方針変更、グラス半分ほど喉を通すのにとどめた。隣のソットン氏が猪口
を口に運ぶような飲み方をしたからだ。それでも焼酎は私の喉を焼いた。
「韓国料理は口に合いますか、辛くありませんかね」
外三寸が機嫌よさそうに訊ねる。
「ナッチポックムがソヂュには事のほか合いますね」
私は、コチュ(唐辛子)のたっぷりと効いた蛸の炒め焼を口に運び、そのクッ(汁)を
から
スッカラッ(匙)ですくい、グラス三杯目の焼酎を空にして、応える。
外三寸は私の言葉に相好を崩す。私の食べっぷり、飲みっぷりにも気をよくしているよ
うだ。
「その日本人は信用のできる人物かね」とソットン氏に訊ねたときの外三寸のわだか
まりは解消しつつあるらしい。同じ電話で外三寸が「その友人はウリナラの料理食べられ
る日本人かね」と訊ねたとも聞いている。どうやら私はパスしたらしい。
食事の時間は一時間ほどだったが、その間、ソットン氏と向かい合わせた外三寸の長男・
申英済は活発に食べ、焼酎も口に運んだけれど、父方の従弟・李碩東はビールのコップも
焼酎のグラスも伏せたまま、食卓のものにスヂョを運ぶことさえほとんどしなかった。部
屋の上り端には終始、店のアヂュモニが控え、酌はしなかったけれどアガッシ二人が再三、
彼女と並んで侍るようにした。
店の女性たちに挨拶をうけて韓式食堂と出たとき、ソットン氏が耳打ちするように私に
言った。
「英済は役所に勤めている」
外三寸の長男・申英済が警察だか保健所だか市庁の機関だかに勤めているということは
(ソットン氏自身がそのいずれなのか確証がないのでそういう言い方をしたのだが)
、事前
情報として聞かされていた。だから店の者が鄭重に持て成すのだ、とソットン氏は言いた
いらしい。それにしても、なぜ内緒ごとのように耳打ちするのか、可笑しかった。
通りに駐車してあった父方の従弟・李碩東の車に乗り、彼の運転で行先がどことも知れ
ず走る。釜山市内を北の方向へ向かっているらしいことは見当がつく。外三寸の口数が妙
に少ない。食堂を出てカラオケへ行こうと誘う彼に、歌は苦手のソットン氏が断ったとい
う話を、あとで聞いた。そのせいで外三寸が機嫌を損ねていたのかどうかは、私にわかる
はずもない。
ボムイル ドン
車が凡一洞に着いて李碩東に導かれるまま、白く風が舞うような大きな交差路の一角に
ある貴金属店へはいったとき、案内されたのが彼の経営する店であることを知る。三階建
て雑居ビルだが、一階の広いフロアーは入口の質素なたたずまいからは想像のつかないほ
ど明るく華やいで、貴金属のほか宝石、時計がショーウィンドウに並んでいる。目鼻立ち
の爽やかな女店員が三人、客の応対をしている。
従弟が時計の商売を始めたのは十数年まえ、セイコーの中古商品を仕入れてその部品で
組み立て、販売するというものだった。取引の開発をするため日本へ来たとき、名古屋の
アメ横に案内すると、従弟が凄まじい値切り方をするので隣にいて胃が痛くなった。そん
な話も事前情報としてソットン氏から聞いていた。
タ バン
貴金属店には十分ほどいて二階の茶房(コーヒーショップ)で時間をつぶすと、ふたた
び李碩東の車に戻る。外三寸は貴金属店にはいるなり終始、そこを早く辞したそうにして
いた。ソットン氏は特別、感慨を覚えるふうではなかったが、従弟にしてみれば十数年ま
ヒョン
えに日本を訪れたときとは雲泥の感がある事業ぶりを宗家の 兄 ニムに知らせたかったのか
もしれない。
李碩東の運転する車は、すっかり日の暮れた街なかを抜け、郊外を走りつづけて、着い
ヘ ウン デ
たのは海雲台だった。道路との境目が判然としない駐車場には、平日の宵なのに延延と車
が駐車している。車を降りて歩くほどもなく海辺。韓国でも随一の海水浴場と聞くここは、
馬蹄型の砂浜がながく伸びて海をめぐっている。広大な湾の遠く望むさきは対岸の趣があ
って、観光ホテルのものだろう、幽玄の気配を漂わせて色さまざまに灯が点綴している。
潮の香りは意外に薄い。
砂浜が切れて一段高い散策路は、繁華街の通りみたいに明るい。電球の明かりをいくつ
も点けた屋台が陸続と並んでいるからだ。屋台に沿うように、ビーチパラソルを掛けた円
テーブルと椅子があって、明かりはそこまでとどいている。
「ちッ、ちッ、カンペどもが……」
ビーチパラソルの下の椅子に掛けるなり、外三寸がプラスチック製のテーブルを掌で打
って吐き捨てた。一本脚のテーブルが揺らぐほどの激しさだった。
カンペ?
やくざ者がどこにいるのかと驚いて外三寸の険しい視線のさき、闇に溶けて
チャンチ
薄暗く光る砂浜を眺めると、若者たちの集団が酒宴をしている。歌声とも嬌声ともつかな
い叫びごえが、目に見えない夜気の帳をくぐるように拡散して聞こえる。潮騒の音がここ
まで届いてこないようなのは若者たちの声に掻き消されているのかもしれない。海は波の
起伏を失ったように闇に沈んでいる。
視線をめぐらすと、広い砂浜のあちらこちらに若者たちのグループが屯ろしている。大
学生のようだ。
「学生の分際で勉強もしないカンペども。ウリナラの闇は深い」
外三寸がちょっと詩的な表現を口にしたので、私は意表を衝かれた。なるほど、あれが
噂に聞くオレンジ族か。いや、オレンジ族というのは親の脛をかじって高級車を乗り廻し、
プ ジャ
もっと豪勢な遊びをしたりナンパをしている、富者(金持)の道楽息子のはずだ。ここで
シ ン セ デ
焼酎を飲んで青春を謳歌している若者たちは、せいぜい新世代族といったところだろうが、
なかなかいい。仲間にはいりたいくらいだ……。私は外三寸の言い分をそのまま真に受け
ないようにしようと思う。
「三分一さん、何か食べましょう」
李碩東が不意に私に声を掛けて立ち上がった。彼がずっと携帯していた小振りの革カバ
ンを三メートルほど離れた別のテーブルに置き放していて、それが不用心だと外三寸が注
意したときだった。李碩東は明らかに当てつけがましい態度でカバンをそのままに屋台へ
向かった。
「何がいいですか」
李碩東が背広の内ポケットから財布を取り出しながら訊ねる。生きたままの魚や具類が
並んでいる。私は、元気に足をくねらせている小蛸を注文する。夕食に食べたナッチポッ
クムの味が蘇ったからだ。
包丁を入れられた蛸が皿に盛られ、コチュジャン(唐辛子味噌)が添えられて出された。
皿を差し出すアジュモニの手は気持ちよく陽焼けして、海の匂いがした。
皿をテーブルに置くと、外三寸が、「オルマ(いくらか)」と聞く。李碩東が答える。
「ピッサダ、ピッサダ(高い、高い)」
外三寸がいまにも掛け合うために走り出しそうな声を上げる。
皿のなかのものは細かく切り分けられても元気に蛸踊りをしている。私は暗い海を眺め
ながら、透明な肌に微妙な薄青い輝きが滲む生蛸をコシコシと歯音を立てて食べた。吸盤
の舌に吸いつくのが、妙に擽ったい。
「そろそろ帰りますか」
ソットン氏が言って、私たちは立ち上がった。
李碩東の車で送られて、釜山ツーリストホテルに着いたのは、もう十一時に近かった。
ようやく一人になった……。
ト ンネ
ヨ
ス
釜山市の中心から北に外れて東萊にあるターミナルで高速バスに乗って、麗水行きのそ
れが走りだしたとき、私は一人、呟いた。一人になって特別の興趣が沸くというのでもな
いが、釜山に着いて二日間は、意思を失ってただ誰かのうしろを従いて廻るだけの時間が
過ぎた。ソットン氏の親戚めぐりに同行するのも、それはそれで得がたい経験なのだけれ
ど、もともと一人旅を私は好む。
一昨日の夕、釜山に着くなり夜の海雲台など案内され、ホテルで寝に就いたのは一時頃
だったか。昨朝、まだベッドから離れずにいる七時前、ルームテレホンが鳴って、ソット
ン氏の外三寸からだった。ホテルのロビーへ迎えにきているという。洗顔もそこそこに室
を出て地階へ降り、チェックアウト。ホテルの前でタクシーを拾い、ホテルと同じ中区の
テチョンドン
大庁洞にある外三寸宅へ。
外三寸の家は、海辺の方向を望む丘陵地の頂き近くにあって、かなり急傾斜の坂道をタ
クシーで登って、さらに古びたコンクリート階段を二十段ほど上がったところにあった。
一帯は段段状に屋根が並ぶ、古い家家だ。外出のたび日に何度もそこを登り降りする外三
寸は、七十歳ともおもえず平地を歩くのと変わらぬ呼吸で階段を登る。小さな門戸をくぐ
って、そこは二階家とはいえ、家族六人が住むのに余裕があるとはおもえない。便所は門
戸をはいってすぐの屋外にあって汲取式のもの。
家族全員――外三寸の夫人、長男(前日、韓式食堂へ案内してくれた英済氏)
、その妻と
小学生の息子、幼稚園児の娘――が次次と声を掛けながらソットン氏を迎える。私のこと
はすでに外三寸から聞かされているのだろう、このウェノム(倭奴)は何者か、といった素
振りもなく、園児の少女までが笑顔を向けた。
外三寸宅で朝食(言うまでもなく韓式)をすませ、早早に立って地下鉄チャガルチ駅ま
で歩いた。
途中、ソットン氏が韓日辞典を買いたいというので、本屋に寄る。人が擦れ違いざま肩
の触れ合いそう路地に、古書と新刊本の雑居する本屋が並んでいて、アヂョッシ(おじさ
ん)が店番する一軒で外三寸が駆け合う。
「ピッサダ、ピッサダ」
「アンデ、アンデ(駄目、駄目)」を連発する。新刊辞書で定価は
勿論、付いている。内気そうなアヂョッシは終始、困惑の表情だけれど、憮然として首を
縦に振ろうとはしない。外三寸が不意に踵を返し、背を向けて路地を歩き出す。ソットン
氏と私はあとに従う。三十メートルほど行ったとき、背後で呼ぶ声がする。大きな辞書を
西瓜でも抱えるようにしたアヂョッシが立っている。外三寸はためらいもなくふたたび踵
を返し、本屋へ戻る。日本円で三千円近い辞書を千円台に負けさせたようだ。
チャガルチ駅から地下鉄で凡一洞へ向かった。前日、車で案内役を買ってくれたソット
ン氏の父方の従弟・李碩東の貴金属店を訪ねるためだ。
貴金属店には、まだ三十歳代とおもわれる、もう一人の父方の従弟(ソットン氏の父の
妹の息子)が支配人の役柄で勤めていて、その家(叔母の家)を訪ねた。1LDK アパート
(日本でいうマンション)のそこは凡一洞のうちにあって、歩いていく。三十二年ぶりの
再会を喜ぶ叔母の、あれこれの思い出ばなしをソットン氏が神妙に聞いて、席が暖まった
頃合、昼食をとるためアパートを辞した。最近、少し体調が弱っているという叔母は終始、
涙ぐむふうだった。私が挨拶すると、この人は誰か、とソットン氏に訊ね、チャール
オ
ショッソヨ(よく来ましたね)と言った。
昼食にはいった韓式食堂では、李碩東から、この店のナッチポックムは釜山一の味だ、と
勧められるまま、蛸の炒め焼を食べた。
釜山に着いた日、夕食に食べたナッチポックムも旨かった。海雲台では夜の海を眺めなが
ら、くねくねと身を動かす蛸の刺身を屋台で食べた。どうやら、この地と私のあいだを蛸
が取り持とうとしているようだ。
ヨン ジ
ナッチポックムに合わせて飲んだソヂュ(焼酎)は再度、絶品で、食後に飲んだ霊芝チャ
(松茸茶)の香りは、きのう一日、ふとした拍子に口中に蘇った。
午後、凡一洞から金海へ行くため車を運転したのは前日同様、李碩東だった。金海空港
に着いてロビーの喫茶コーナーでコーヒーを飲んだとき、外三寸が、親戚訪問のための車
は碩東に出させればいい、と妙に強い語調で言い切っていたのを思い出す。母方の叔父に
ギ
サ
命じられるまま、父方の従弟は、これから始まるソットン氏の親戚めぐりのため技師ニム(運
転手)役をこなすことになるのだろう。貴金属店のオーナーだから店に張りついていなけ
ればならないこともあるまいが、四、五月は商売そっちのけということになる。
金海を訪れるのは、ソットン氏の母方のいまは亡き叔父(釜山の外三寸の弟)の未亡人、
つまり義理の叔母を訪れるためだった。
金海の近郊にある義叔母の家は、高層アパートが何棟も並ぶ団地にあって、敷地内には
日本のストアーと変わらぬ、かなり大きい市場があった。ソットン氏はそこで見繕って手
土産を買う。日本から土産を携えてくれば荷物になるというので、外三寸宅へのそれ以外
は現地調達するというのが、彼の方針だった。
八階にあって日本のマンションとほとんど構造の変わらない義叔母宅では、部屋の新し
さに適しく新鮮な印象の息子夫婦と孫が笑顔で迎える。息子というのが、空港に着いたと
き外三寸と一緒にロビーへ出迎えてホテルまで車で送ってくれた、電信電話公社員。保母
をしているという妻を手伝って、彼がキッチンで立ち働いているのが、韓国の新しい世代
の一端を垣間見せて、気のせいか、出された韓式料理も外三寸宅のそれとは対照的な味が
した。
昼食をすませて三時間とは経っていなかった。それでも座卓いっぱい所狭しと並べられ
た馳走にスヂョ(箸と匙)を運ぶうち、義叔母が日本での家族の消息を訊ね、ソットン氏
はもっぱらそれに応える。玄関をはいったときソットン氏の顔を見るなり義叔母の第一声
は「五十一年ぶりに、よく来た」というものだったが、彼女はその後も会話の合い間、合
い間に「五十一年ぶり」という言葉を繰り返した。三十二年まえの訪韓の折、ソットン氏
とは会っているはずなのに……。義叔母の「五十一年ぶり」とは、解放後の歳月を言って
いるのだ。
私の存在を意に介せぬふうだった義叔母が「この日本人は誰か」と訊ねたのは、彼女宅
での時が一時間近くも経ってからのことだった。それには外三寸が答えた。
大庁洞にある外三宅へ向かうために義叔母宅を辞したのは五時頃だった。
外三寸宅に着くと、早早に夕食の馳走が食卓に並んで、めっぽう酒の強い外三寸に勧め
られるまま焼酎のコップを明ける。釜山到着いらい初めて酔いに身をまかせるふうなソッ
トン氏につられて、私も酔い心地を楽しむ。
「馬しょんさんは大学で何の講義をしていますか」
アルコールが体の隅隅まで廻った頃合、外三寸が訊ねた。顔を合わせて最初のうち「三
分一さん」と呼んでいた外三寸は、いつからともなく居酒屋の屋号で私を呼ぶようになっ
ている。ソットン氏がそれを連発するので感染したらしい。
「チヨクサフェロン(地域社会論)です」
私はそう言って、さらに授業の主題は「国際化」についてであり、在日外国人、アイヌ
民族、ウチナンチューなど日本社会のアイノリティ問題を講じている、と説明する。
「マイノリティ ムンヂェ(問題)において一番大切なものは、何ですか」
横合いから、
「役所」に勤めているという外三寸の長男・英済が訊ねる。相当に酒が入っ
ているはずなのに顔色も染めず、堅く素面の口調だ。
「コンセンササンだと、思います」
私は戸惑い、一拍置いてぼそぼそと答える。近頃、猫も杓子も使いたがるその言葉を私
自身、好んではいない。口当たりがよくてどこか嘘っぽく、免罪符めいた言葉とさえ思っ
ているのに、他に適当な言葉が見つからなくて、自信のない口吻になった。
外三寸の長男の顔に渋面が掠め、それはたちまち外三寸の表情にも移り、さらにソット
ン氏が隣で小さな声を上げる。
「ふーむ、それはきちんと説明しなくてはいかんよ、馬しょんさん。誤解を招く」
ソットン氏が、あからさま非難する口調で呟いた。
私は困惑し、返事に窮した。それでも一分と経たず、三人の顔に浮かんだ不快な表情の
なぞが解けた。コンセンササン(共生思想)と言ったつもりが、コンサンササン(共産思
想)と受け取られたのだ。
「マジョリティ日本人とマイノリティ少数者が日本社会で、共に生きていく思想、コンセ
ンササンです。共生思想とは、多数者日本人がマイノリティの文化や歴史、価値観を尊重
することです。マジョリティへの同質化を強いるのではなく、異質なものを異質なままに
共生することが大切と思います」
教科書どうりの答えを恥じながら、私はたどたどしく説明する。それでもどうやら三人
の誤解は解けたようだ。外三寸の表情から渋面が溶けて消え、それは長男に移り、ソット
ン氏はふーっと溜息をもらした。
韓式家具に囲まれた六畳ほどの部屋で、肩が接するように二人分敷かれた蒲団にはいっ
たとき、
「きょう一日、疲れましたねえ」
私はソットン氏に声を掛けた。
「いや、いや。明日からが親戚めぐりの本番。寝よ、寝よ」
ソットン氏の返事は投げ槍だった。
今朝、外三寸宅まで迎えにきた父方の従弟・李碩東の車で、まず東莱高速バスターミナ
ルまで私が送られる途中、車中のソットン氏はこれから始まる親戚めぐりをすでに疑似体
験しているかのように、ぐったりと後部シートに体を預けて、寡黙だった。さっさと一人
旅の自由を味わおうとしている私を羨んで、不貞腐れているのではないか……そう勘繰っ
たほどだ。
座席分以上の乗客を乗せないバス車内はほぼ満席だが、一人客がほとんどのせいか話し
声は稀にしか聞こえない。運転席に近い私の座席に隣に合わせたのは、温厚そうな農民ふ
うの老人。足もとに置かれた手提げの紙袋からパンと紙カップを取り出し、それぞれ一個
ずつを私に差し出して、
「食べなさい」と日本語で言う。昼食のつもりなのだろう。外三寸
宅でたっぷりの朝食を攝って空腹感はないが、ありがたく戴く。それをきっかけに老人が
語りだす。
戦争中二年間ほど日本の大分にいた、と言う。強制連行か、と一瞬、緊張したが、そう
ではないらしい。さきに日本へ来ていた親戚を頼って、ゴム工場で働いたのだという。達
者な日本語ではないが、語調に怨みがましさなく、かといって懐かしがっているふうもな
い。
「ヨンセガ オットッケ デシムニッカ(お年はお幾つですか)」
と訊ねると、
「ヨドゥン トゥサル(八十二歳)
」
ノチョンガク
と答える。日本で働いたのは三十歳頃ということになる。その当時は老総角(独身)で、
解放の年に結婚したという。解放後、日本へ行ったことはない。
馬山のインターチェンジでバスが二十分ほど止まったとき、脚の具合がよくないからと
座席にとどまったままの老人のため私は自販機のお茶を買ってきた。馬山を発つとバスは
スンチョン
ヨ
ス
順 天 で一度、停車したきり麗水のバスターミナルに着いた。高速バスは猛烈に飛ばすので
怖いそうだ……。ソットン氏はそう言っていたが、三時間半のあいだ案ずるほどのことは
なかった。
バスターミナルには高校生らしい少年が出迎えている。老人が何か言うと、少年は「カム
サハムニダ」と私に頭を下げた。
「アンニョンヒ カシプシヨ」
私も老人に別れを挨拶をして、頭を下げた。
一人旅の始まりを麗水にしたのに特別の理由があるわけではない。
「麗水・順天軍叛乱事件」のことが頭にあったことは確かだ。一九四八年四月三日、
「南」
だけの単独選挙を強行しようとするアメリカ軍と李承晩政権に反対して、済州島で人民蜂
起がおきた。南朝鮮労働党と島民はハルラ山を根拠地に熾烈なパルチザン闘争を展開する。
これに対して西北青年会を先鋒とする白色テロルが加えられ、三十万島民のうち八万人が
虐殺されたという。その年の十月十九日、陸軍本部から麗水駐屯地にむけて、ゲリラ掃蕩
作戦のため済州島へ出動せよ、との命令が発せられる。出動機密を探知した麗水連隊(第
十四連隊)内の南労党フラクション責任者らが、叛乱決起したのだ。翌二十日には、叛乱
軍は麗水市を完全に手中にし、主要機関と建物を接収した。順天市でも駐屯軍と市民がこ
れに呼応して決起、同市内を掌握した。決起から八日目に結局、叛乱は制圧されるが、朝
鮮半島の現代史に刻まれた軍による革命蜂起だった。
「事件」によって麗水の名が私の脳裡に刻みこまれていたのは確かだけれど、それをここ
に訊ねた理由の第一に挙げるのは恰好よすぎる。韓国の海を見たかったのだ。ほんとうは
モ クポ
木浦まで行きたかったのだが、明日には全州の知人と会う約束が日本を発つまえから交し
ホ ナ ム ソン
てあって、湖南線の終点まで足をのばす時間がない。
チョンジュ
小さな田舎ふうの麗水駅で、明日午前十時四十六分発ムグンファ号の指定席券を全 州 ま
チョルラソン
で買い(麗水を始発とする全羅線はソウルへまっすぐ登っていく)
、駅舎内にある観光案内
セヂョン
所で紹介されて世宗ホテルを宿先にした。駅から一キロほどのホテルだ。
ルルー、ルルー、ルルー、ルルー……
夢のなかでのように室の電話が鳴った。いや、つい先ほどまでの実際の行動を夢がなぞ
うつつ
っているような、夢なのに実際の記憶を辿りつつ思い出しているような、 現 と夢のあわい
めに意識が宙ぶらりんにぶらさがっている状態だった。
埃っぽい臭いが夕暮れに溶けこむ街路を私は歩いて行く。
「パダルル
ポゴシプンデ
オヌッチョグロ
どちらへ行けばいいでしょうか)
」
ガミョン
テムニカ(海を見たいのですが、
同じ言葉を繰り返し訊ねて、示されるままに行くと、見憶えのある駅に出た。駅前の空
地と道路をへだてて軒つづきに並ぶ食堂の一軒を選び、はいる。店さきの木椅子に掛けた
アヂュモニ(おばさん)が私を呼んだからだ。薄汚れた卓子の前に腰を下ろし、ナッチポ
ックム(蛸の炒め焼き鍋)を注文する。アヂュモニが厨房の女性に私の注文を伝える。厨房
メクチュ
の女性が何か言う。「イルボンイルボン(日本、日本)」とアヂュモニが応える。麦酒(ビー
ル)を注文する。三種類のキムチとナムル(おしたし)が皿に盛られて卓上に並べられ、麦
ベ チュ
から
酒を飲むうち白菜キムチの皿が空になり、そこにお替りが盛られる。注文の品がきて、麦酒
を追加。注文したのはナッチポックムのはずなのに、やってきたのはチャンオタン(魚の鍋)。
それが旨くて、飛びまわる蠅数匹を手で払い払い、丼の白飯と二本目の麦酒を平らげる。
請求された代金はビール代とチャンオタンの定価のみ。
すっかり暗くなった柳並木の通りを私は歩いて行く。食堂のアヂュモニに教えられたと
ひ とけ
うりの道だが、街灯は間遠く、人気もない。
「ネイルアチムド オセヨ(あすの朝もいらっしゃい)
」アヂュモニの言った言葉が、ひとひ
ら舞い落ちた葉っぱのように背にくっついている。
不意に潮の香りが鼻孔をついて、魚市場があらわれる。同時に、あたりがいっせいに夜
間照明で照らしだされたように明るくなる。港町のたたずまいだ。
魚市場に向かい合って、看板もない質素な食堂が軒を並べている。港湾労働者や船員相
手のそれか。ガラス戸の内は明るく、客の姿はほとんどない。なかに一軒、四、五人の客
がいて、私ははいっていく。四人掛けと二人掛けのテーブルがそれぞれ三卓。四人掛けの
一つで三人連れが談論風発している。二人掛けのほうに一人客がいて、麦酒を飲んでいる。
あ
と
し
他のテーブルは空いているのに私は、年齢のころ四十前後、ジャンパー着の一人客の前に
掛け、〇・三六リットル壜のソヂュ(焼酎)とナッチ(蛸)
、ケー(蟹)のフェ(刺身)を
注文する。店のアガッシ(娘さん)はそれらをテーブルの上にトンと置いて、そのたび口
もきかず立ち去る。一口グラスで焼酎を二杯ほど空けたところで、私は向かいの男に一杯、
勧める。ビールのコップ半分ほどの焼酎を男はクイッと一気に飲み干す。
チャー トーハンヂャン トゥセヨ(さあ、もう一杯どうぞ)
「どこから来た?」
二杯目には少しだけ口をつけて、男が聞く。
「イルボン(日本)
」
「イルボンはどこ?」
「名古屋から」
「ナゴヤは行ったことがない。六年ほどまえ、テバン(大阪)で働いたことはある」
「大阪のどこ?」
かま
「あちこち。釜で仕事探したこともある」
「日本へ働きにきたハングッサラム(韓国人)
、何人か知っている。明日、その一人と会うこ
チョンヂュ
とになっている、全 州 で」
「その友人と会うために韓国へ来たのか」
「いや、在日の友人に同行して来た。友人はいま親戚訪問で忙しくしている。三日後、ふ
たたびソウルで落ち合うことになっている」
「そのチェイルキョッポ(在日同胞)は日本で何をしている? プジャ(金持)か」
プ ヂャ
「富者ではない、金属回収の仕事をしている。でも、六人の子どもを育て、すでに三人を
在日同胞と結婚させているから、貧乏ではない。立派な友人だ」
「その同胞に、よろしく伝えてくれ」
「麗水の港町であんたと会えてよかったと伝えるよ」
二本目に注文した焼酎が半分ほどになり、蛸と蟹の刺身をすっかり平らげたところで、
私は焼酎の残りを男のコップになみなみと注ぎ、席を立った。
「いまからどこへ行く?」
「海を見て、ホテルへ帰るよ」
「チョシム ガセヨ(気いつけてお行きなさい)」
そう言って、男は初めて浅黒い顔に笑みを浮かべた。
「コマッスムニダ(ありがとう)
」
ルルー、ルルー、ルルー、ルルー……
潮の匂いが急に濃くなって、そこが埠頭に近いことがわかる。しかし、行くてを暗い自
動車道路みたいなものに阻まれて海は見えない。道路の方向はバリケードに遮られていて、
はいれない。入口のポリボックスみたいな建物が立って、切符売場の表示があるが、もう
明かりが消されて係りの人もいない。
右手に高い崖がせまっていて、迂回する階段状に登れるようになっている。崖の上は展
望台になっているのだろう。私は石を敷いた階段道を登って行く。しかし、三十メートル
と行かないうちに、石段の道には、鎖が張られて遮断されている。崖の頂きまではまだ三
分の一ほどの高さだ。仕方なく、その位置から海を望む。
海は闇を下ろして、鳥の貎に似ている。漁火が眼のように鋭く光る。闇の海を鳥の貎と
見まがうのは、いつか見た夢のそれの連想か。
鳥の貎に似た海の闇に、突然、戦艦が黒ぐろと現われ、叛乱軍の叫喚が沸き上がる。し
かし、それは瞬時。幻覚はたちまち掻き消え、鳥の貎を真ん中から断ち割るように、煌煌
と明かりを連ねた海上自動車道路が、遠く沖合まで走っている。
ルルー、ルルー、ルルー、ルルー……
私は、横になったままベッドの上で体をよじらせ、枕脇の台から受話器を取る。
「馬しょんさん、なぜ連絡をしないのですか」
半睡半醒の耳に、いきなり叫声が飛び込んできた。何のことか?
いや、この声は一体
全体、誰なのか? 絶句したまま十数秒、ようやく寝呆け頭から覚める。
「ああ、申龍煥ソンセンニム。何事か起きたのですか」
「何事かではないでしょ。麗水には無事、着いたのかね」
「はい、勿論」
チャンニョン
電話はソットン氏と代った。いま 昌 寧 の親戚の家にいると言う。呂律の回りぐあいから
察して、かなりアルコールがはいっているようだ。室の時計見ると、まだ十一時になって
いない。夜の港を眺めてホテルに戻り、シャワーだけして早早にベッドに横たわってから、
まだ一時間ほどしか経っていない。寝入りばなに夢とも現ともつかない境界を漂っていた
らしい。
ソットン氏が受話器の向こうでぐだぐだと非難しているのを聞くうち、私は思い出す。
東莱の高速バスターミナルで別れたとき、麗水のホテルに着いたら昌寧の親戚宅へ無事到
着の連絡を入れるよう、外三寸とソットン氏から口口に念を押されていた。それを私はケ
ロッと失念していたのだ。連絡もないのを心配していた二人が怒るのは無理もない。麗水
市内の目ぼしいホテルをガイドブックであたって電話するうち、世宗ホテルに泊まってい
ることを突きとめたのだという。私としては平身低頭、ひたすら謝るのが道理にちがいな
い。それなのに、寝入りばなを起こされたのが不愉快なうえに、もしや二人は、私が一人
旅をいいことに女性と睦みごとでもしているのではと勘ぐって探りを入れてきたのではな
いか、そんな突飛な邪推に捉えられて、気分が絡み合うまま邪険に応えてしまった。
「疲れきって、いま眠ってるの。子どもまでもあるまいし、心配無用」
そう言うなり受話器を置いた。
電話を切って、眼が冴えるにつれ、私は猛烈な後悔におそわれた。手帳のメモを頼りに
昌寧にダイヤルする。
「きょうはまことに失礼しました。ソットン氏に代ってください」
電話に出た外三寸に頭を下げる。電話の向こうで外三寸がソントン氏に告げるのが聞こ
え、私の無礼を難詰しているソットン氏の声が耳にとどいてくる。
「ソットン氏、さっきはミアナムニダ(済みません)」
私は詫びると、ソントン氏は受話器の奥で、うむ、と言ったきり、電話は切れた。
午前十時四十五分麗水発のムグンファ号は定刻に発車した。
ナムウォン
私のジャンパーのポケットには南 原 までの切符がはいっている。列車に乗るまえ、駅舎
ハンチャン
の脇にある公衆ボックスから全州の韓 燦 氏に電話を入れると、全州ではなく手前の南原で
降りなさい、車で迎えに出る、と言う。李朝時代の有名な物語「春香伝」にゆかりのその
地を案内したいらしい。それで前日に買った全州行き切符を南原までに変更したのだ。窓
口の駅員はコンピューターを操作して嫌な顔もせず切符を発行しなおしてくれたが、昨夕、
チャンオタンを食べた食堂に寄る時間がなくなった。今朝も店さきの木椅子に掛けて声を
かけたアヂュモニに「シガニ オプソヨ(時間がありません)」と断らなくてはならなかっ
た。
四十年前、済州島のパルチザン蜂起に呼応した叛乱軍は、列車を占拠して麗水駅から順
チョルラソン
天へのぼった。全羅線の同じ列車に私は乗っている……。そんな思いにとらわれていると、
席を隣合わせた四十歳くらいの女性が飴玉を一個、差し出した。コマウォヨ(ありがとう)
口に入れると、甘ったるくない素朴な味が口腔にひろがる。きのう、釜山からの高速バス
で乗り合わせた老人が、パンと牛乳パックをくれたことを思い出す。
二言三言交しただけで、魚の臭いのする木箱二個を提げた女性は順天で降りた。
全羅線は、低い木木が鬱蒼と繁る山合いを、北へ向かう。鉄路に沿って右手の窓外を流
れる碧青の川が、いつの間にか左手を流れている。山合いの暖い傾斜をなした草原で日浴
ファンソ
は
みをしていた黄牛や黒い山羊が、川原でも草を食んでいる。馬山あたりで
高速バスから
見たのと同じ情景だ。ほとんど家かげがなく人の姿も見かけない山間の風景なのに、人と
暮らしの匂いが漂っている。風景にはその地の顔と匂いがある。それが、風景の思想、と
いうものだ……。
そんな感懐にとらわれているうちにも、列車は南原に近づく。
これから会うハンチャン氏は五年前に日本で知り合った友人。当時、夫人と子ども二人
クァンヂュ
を光 州 に置いて名古屋に働きにきていた彼が、来日一か月と経たずに土木建設の現場で脚
を怪我した。雇い主の親方は「在日」二世だったが、労災手続きもせず解雇を通告した。
困り果てたハンチャン氏が SOS を持ち込んだのが、外国人労働者のための労働相談を手掛
けている日雇労働者の組織ササニチロー。日本四大寄せ場の一つ笹島を拠点とするササニ
チローとは、私もいささか関わりをもっていて、雇い主の組との交渉にも関与した。争議
は元請けの建設会社を相手に発展し、結局、労働災害を認定させ、解雇は受け入れるかわ
りに一時金五十万円を支払わせた。
以来、三年余のあいだハンチャン氏は寄せ場で働き、毎月十数万円を家族のもとへ仕送
りして、全州に高層アパート(マンション)を手に入れるとともに帰国した。彼が日本に
いた三年余のあいだ、私とは酒飲み友だちであり、彼が韓国語の、私が日本語の、互いに
先生役であった。イルチェシデ(日帝時代)強制連行された朝鮮人が働かされた地下トンネ
ル工場跡やダムを、一緒に訪ねたりした。
ことし三月、私が初めて訪韓をはたした折、ほぼ一年ぶりに光州で彼と会った。このと
きは日韓文学者交流のためのツアーに参加したのだったが、光州を訪れたくて日程終了後
も二日間、滞在を延ばした。その旨、ハンチャン氏に電話すると、彼は一も二もなく、私
が光州を案内しよう、と買って出た。全羅北道の全州から南道の光州まで馳せ参じてくれ
たわけだ。
サ
テ
「光州事態」と呼ばれる、光州市民の民主化運動が起こったのは、一九八〇年五月。蜂起
は民衆コミューンを現出させるほどに熾烈にたたかわれ、それに対する国軍特殊部隊(ブ
ラックベレー)と戦闘警察の弾圧も凄烈を極めた。全斗煥政権の発表では死者約6百名と
されたが、三千名以上の死者が出たともいわれる。負傷者も多く、後遺症のために障害を
負っている人も少なくない。
全州から車を駆ってきたハンチャン氏は一日、
「光州事態」の跡を案内してくれた。事態
の中心地となった道庁前の広い通りから、市中を巡って朝鮮大学校、全南大学校のキャン
パスまで。十六年の歳月が血と叫喚の痕跡を洗い流してはいたけれど、事件当時、テレビ
マンウォルドン
画面や書物に掲載された写真で見た情景が、脳裏に蘇った。そして、望 月 洞へ。
そこは「光州事態」犠牲者の墓がある、市民共同墓地。穏やかな起伏をなす広大な、土
サ ンソ
ばかりの丘陵地に山所は広がっている。その一角に犠牲者の墓が並んでいる。入口に小屋
建ての事務所があり、
「光州」を記録する写真集や詩集を売っているそこに、土地の人らし
フ ァド
い男数人がいて、受付から覗ける奥の間では座になって花闘(花札)をしていた。
事務所を過ぎると、墓地ともおもえず、一九八〇年五月の記憶を蘇えらせようと訴える
横幕が張られ、政権を糾弾する立看板が立っている。横幕や立看板、幟に囲われるように
して、犠牲者墓地はあった。正面にコンクリートで固められて祭壇ふうに設えられた台座
には、まだ香りも鮮やかな草花が所狭しと並べられている。その前で合掌し、私は墓標の
あいだを巡った。墓標といっても、みな黒縁の額にはいった四十センチ×五十センチほど
の顔写真。姓名、死亡当時の年齢、出身地を記された木札と湯呑み茶碗が添えられている。
花と酒を供えるのだ。
チャン ゴ
不意に丘を渡る微かな風に運ばれて、 杖 鼓の響きが聞こえてきた。音の方向を望むと、
丘陵のさき、遠い高みの一般墓地の前で、豆粒ほどの人影が数人、陽差しの花粉のような
コ
サ
チェ サ
粒子を浴びて告祠(死者への祭事)をしているのが見えた。ああ、祭祠をやっている。もし
かしたら、日本から親戚が訪れたので山所参りに案内したのかもしれない……。
百五十墓ほどはあろうか、犠牲者墓地を巡り終えて帰ろうとしたとき、赤銅色に陽焼け
していかにも農民ふうな風貌の老人の一団二十人ほどが現われた。マイクロバスで訪れた
ツル マギ
らしい。なかにカッ(両班の帽子)を被り周衣を着けて民族服で正装した(ただし革靴を
履いている)
、長老風の老人も数人、混っている。
一行は正面祭壇に花束を手向け、黙礼だけの参拝をした。老人たちが散って、供えられ
ヒャンギョ
コ
ブ
た花束を見ると、結わえられた白布に「古阜郷 校 」とあった。古阜は全羅北道の地名で、
東学農民革命(一八九四年)発祥の地だ。そこの朝鮮伝統の儒学の教育機関(小学校)に
ゆかりの人びとであったらしい。
ハンチャン氏は古阜郷校の一行をビデオカメラに撮ると、ようやくそれをバッグに収め
た。彼は墓地を訪れてからずっと、時時、私を被写体にしながら、墓地のなかを歩き廻っ
て撮影余念がなかったのだ。そういえば、日本で働いていた頃からビデオカメラに凝って
いた。
七か月まえの望月洞を思い出しているうちにも、列車は南原に着いた。ホームも平屋建
の駅舎も閑散として、瀟洒に、質素に、透明な光のなかで白くかがやいている。踏切を渡
り改札口を出ると、ハンチャン氏が奥まった小さい眼に何かの動物に似た人なつっこい笑
みを浮かべて迎えた。背広に白いワイシャツ、何度も洗濯したらしいネクタイを締めて、
肩からビデオカメラのバッグを揚げている。
駅前の路上に停めてある中古の小型ワゴン車に乗ると、行き先も告げず発進させた。数
カン ハ ン ル
分と経たず目的地は知れた。案の定、「春香伝」の舞台・広寒楼だった。観光客相手の土産
店が並ぶ通りは閑散としている。平日のせいだろう。仮面や民俗品を売る店はそれでも開
いているが、食堂などは入口を閉じている。通りを抜けて、周囲を土壁の塀でめぐらせた
テ ムン
あずまや
大門を入場料を払って入る。庭内には楼のほかに池や 亭 があって、隅なく歩けば十五分は
かかるだろう広さだった。
庭内を半周したところに簡易な野外ステージがある。見物人のための小じんまりとした
マダン(広場)があって、端には木の三、四人掛け長椅子が風雨に色褪せている。七、八
人の老人が木椅子に掛けたり、地面に敷かれた茣蓙に坐ったりしている。雑談に興じると
いうのでもなく、寡黙に日向ぼっこをしている風情だ。
三月にソウルのパゴダ(タプゴル)公園を訪れた折の光景が蘇える。老人たちが公園を
埋めつくして憩っていた。
「三・一独立宣言運動」の記念碑や烈士の彫像、民衆の熾烈な闘争場面のレリーフが立つ
そこで、老人たちはボランティアの若者から昼食の炊き出しにあずかったり、雑談を愉し
んだり、石ころを使った賭け事遊びに興じていた。パゴダ公園の活気とは対照的に、ここ
の情景は閑散としている。
「パンソリの演戯を待ってるんです」
コ
ス
野外ステージのマダンを通りすがりに、ハンチャン氏が告げる。鼓手の合いの手に乗っ
て歌手が一人で演じ分ける唱劇が演じられるらしい。以前、来日した演者によるそれを幾
度か聴いたことがあり、私は心のなかで手を打った。
やかた
「春香伝」の登場人物を等身大の蠟人形で配置して物語を紹介する趣向の 館 を見物し、さ
ブク
らに散策をつづけようと歩きだしたとき、鼓の響きが風に乗ってきた。私たちは急ぎ、野
外ステージへ引き返した。
三十歳代後半あたりか、まだ若い男性の唱い手が登場、パンソリが始まる。題目は勿論、
「春香伝」
。一人語りは抑揚に富み、多彩な色合いを発して、哀切の調子を醸し出すが、言
葉は十に一つも理解できない。それでも、三十分ほど語られた唱劇は、筋立ての予備知識
もあって堪能できた。
ム ヨン
パンソリが終わると、はなやかなチマチョゴリの女性がステージに現われ、舞踏が始ま
った。ハンチャン氏に促されるまま、私たちは踊りの途中で木椅子から腰を上げ、広寒楼
をあとにした。観客は結局、七、八人の老人のほかにはハンチャン氏と私だけだった。老
人のなかに一人、終始、愛嬌を振りまきながら剽軽な仕種でオッケチュム(肩踊り)を踊
りつづけていた老人がいて、私の記憶から消えそうにない。
「ドライブをしましょう。どこか希望はありますか」
小型ワゴン車にもどると、ハンチャン氏が訊ねた。一廻り以上年長の私にたいして、日
本にいた頃から口調は鄭重だった。
「クルッセよ(そうですねえ)……」
助手席で私は全羅道の地図を広げる。南原の下方に智異山の文字がある。その山中に華
厳寺の名も。
智異山は朝鮮戦争の折、南部軍パルチザンが遊撃戦を展開した場所として知っている。
現在では観光のメッカになっているらしいが、深深とした幽幻の山中であることに違いな
い。遠くからでもぜひ望みたいものだ。華厳寺もまた名刹だ。
「チリ山を見に行きましょう。ファオムサまで飛ばすのは訳ないですよ」
横合から地図を覗きこんでいたハンチャン氏が、言うなり車を発進させたので、私は驚
いた。私が決めかねて智異山の名も華厳寺のそれも口にしないでいたときだった。
中古の小型ワゴン車は、ときどき対向車と擦れ違うだけの田舎道をけたたましくエンジ
ン音を唸り上げて走った。私はシートバッグに背をゆだねる。ハンチャン氏は日本へ出稼
キ
サ
ぎに来るまえ、光州で市内バスとタクシーの技師ニム(運転手)を十年以上もしていた。腕
前のほどは去る三月、光州事態の地を案内されたとき見聞ずみ。
車が山間の完璧に舗装された自動車道路にはいって、しばらく走ったときだった。前方
を車輌の列が塞いで、小型ワゴン車は徐行しはじめた。何だろう?
るのだろうか?
道路工事でもしてい
運転席のハンチャン氏に倣って私も腰を浮かせ、前方に視線をやる。何
事なのか、よくわからない。
「検問だ」
徐行がほとんど停車状態になったとき、ハンチャン氏が声を上げた。声を上げたのに次
いで、彼は背広のポケットをあちこち探しはじめる。車が三台分ほど進んだところで、前
方の路上にパトロールカーが駐車してあるのが見え、警察官の姿も目にはいる。ハンチャ
ン氏の手の動きが慌しくなる。ズボンのポケットを何度も探り、助手席のポケットから車
めく
はた
検証などの書類を引っぱりだして捲ったり叩いたりするが、免許証が見つからないらしい。
車は一台分ずつ進むが、時にスーッと何台か前進する。そんなときは免許証の提示や職務
質問を免除された車が通過するらしい。
前方で検問を受ける車は二台に迫った。ハンチャン氏は後部席に散らかっている何かの
パンフレット類や雑誌を捲ったり振ったりし、さらに背広とズボンのポケットをまさぐり、
車検証の綴りを繰る。動作は緊迫しているのに、表情は意外に平静だ。
「免許証不携帯は罪が重いですか」
私のほうが蒼ざめて訊ねる。
「いろいろ、さまざま」
ハンチャン氏は、意味深長な答え方をする。
直前のリムジンが検問を受けている。警官が二人がかりで職務質問に手間取っているよ
うだ。背後から眺めると、リムジンの運転席は濃紺のスーツを着て髪の薄い男性で、助手
席はピンクの服装の女性。
ハンチャン氏は腹を括ったようだ。前方を睨みすえて、ふーッと一つ息をついた。その
ときリムジンが発進し、私たりの車もピタリそのあとに続いて検問を通過した。さあ、行っ
た、というふうに警官が白い手袋の右手を振っていた。小型ワゴン車の後方に軽トラック
が一台ついてきていた。
「検問はよくあるんでしょうね」
「滅多にありません」ハンチャン氏は韓国では日本ほど検問は多くない、と意外なことを
言い、ポツリと付け加えた。
「潜水艦事件の余波ですね」
中古の小型ワゴン車はふたたびエンジン音を唸り上げて疾走しはじめた。低い木木の繁
る山稜に沿って一本筋の道路は走り、左手に見え隠れしながら鉄路がつづく。全羅線だ。
三時間ほど前に北へ登ってきたコースを逆もどりしていることになる。鉄路の向こうは川
筋をへだてて山並み。西日を浴びて木木の緑と山肌が微妙な色彩の配合を醸し出している。
午後四時五分前、陽は高いはずなのにどこか落日をおもわせる景色だ。
検問を無事通過してからでも一時間ほどは走りづけただろうか。道路筋に石材置場にな
った更地があらわれ、ハンチャン氏は急にスピードを落として小型ワゴン車をそこに乗り
入れた。更地の端に小屋建ての仕事場があるが、人の姿はない。
「引き返しましょう」
ハンチャン氏は言うなり小型ワゴン車をユーターンさせ、来たばかりの道を走り出す。
彼は智異山国定公園にも華厳寺にも行ったことはないらしい。行けども行けども智異山や
華厳寺への方向を示す標識があらわれないのに業を煮やしたのだろう。これから目的地に
向かったとして着く頃には陽が沈みかねないと判断したか。とにかくハンチャン氏の意に
任せるしかない。
私は念のために地図を広げてみる。智異山の位置からして、道路沿いを全羅線が走って
いるというのは可怪しい。ハンチャン氏はどこかで方向を間違えたのだ。
私はそのことは口にせず、小型ワゴン車の震動に体を預ける。道は一本筋、検問が待っ
ている。ふたたび通過の幸運にめぐりあえるかが難問だ。ハンチャン氏さえボタンを掛け
違えなければ、検問中の道路を通ることもなく、蒼褪めることもなかったのだ。
幸運は二度、訪れた。検問は終わっており、パトカーと警察官の影もなかった。
「海を渡ってきた遠来の客のために、神がわたしたちに恵みを与えられた」
ハンチャン氏は真面目とも冗談ともつかず事もなげに言って、アクセルを激しく踏み込
んだ。
全州に着いたときには、全羅北道の県庁所在地は黄昏れて、古い韓式の家屋にも現代建
築のビルディングにも、ひとしなみ薄闇が靄っていた。ハンチャン氏に案内されるまま、
シクタン
と
ヤンバン
土塀に甍を置いた古風な韓式食堂で夕食を攝る。李氏朝鮮の昔、田舎の両班(貴族)たち
ヤク チュ
が妓生を侍らせて薬酒を酌んだ料亭かとおもわせるそこの、骨付きカルビーとソヂュ(焼
酎)が私を堪能させた。骨付きカルビーは、長方形の規格外封筒ほどの大きさの薄肉を焼
きながら鋏で切るのだ。途中、品よく老いた女将が顔をのぞかせて、店の来歴を紹介する
新聞記事を見せた。
全州郊外の高層アパート八階のハンチャン宅に着いたのは九時過ぎ。新築マンション3
LDK の室は家具類も新しく、一日走り廻って汗臭い体を置くのも気がひけるほど。
夫人に促されてシャワーをすますと、ふたたび簡素な家庭料理が添えられて酒になる。
飲み交わすうち、家族が顔を揃えてのカラオケになった。カラオケセットが整っていて、
タイプ
歌うたび採点が表示される。日本にいたころからマイクを握ったら離さない 型 だったハン
ペンノレ
チャン氏が何曲も歌い、夫人が一曲歌い、私は「サランヘ」と「舟歌」を歌う。韓国語で
はそれしか歌えない。ハンチャン氏に負けじと歌うのが、初等学校(小学校)四年生の長
男。テレビで覚えるのか最新のヒット曲を歌うのだが、これが抜群に上手く、90 点代ばか
り出る。全北大学校の一年生という次女は、弟の傍でニコニコ笑っているばかりで歌わな
い。長女はソウルに暮らしていて、
「女性社長の秘書をしている」と、ハンチャン氏は言う。
螺鈿装飾の施された簟笥と鏡台のある部屋を当てがわれ、韓式に派手模様の蒲団にはい
ったのは十一時過ぎ。
それなのに翌朝は、窓のカーテン越し、朝日が部屋に注がれはじめたばかりの時間に起
こされた。洗顔をすませ、朝食も早早に、中古ワゴン車は走り出した。
ギ
サ
元技師ニムが運転するワゴン車は、全州市街の混雑はなはだしい車のあいだを奇跡のよう
に縫って走り、停まる。甲午農民革命(一八九四年)の折、東学堂の軍が全州まで攻めの
ぼって陣を敷いた豊南門を見る。日本軍の介入によって敗れたとき、斬首された東学党員
かしら
や農民の 首 が吊された、とハンチャン氏が説明する軒の梁。車を降りて足を止めたのは豊
ソ
ソ
ビ
南門と、潮南第一城、李成桂生誕の場所のみで、士大夫たちが宴を張っては漢詩を詠み書
あずまや
ハン ソン ダン
を楽しんだろう 亭 ふうの塞聖堂、甍の屋根を何棟も連ねた郷校のたたずまいなどは、車の
窓から、川沿いに、あるいは木立ちの端に、眺めて過ぎた。
それでも高速バスターミナルに着いたときは、出発の時刻に十五分ほど余すだけだった。
「日本へはまた来ますか」
バスの乗降口まで送ってくれたハンチャン氏に、別れぎわ私は訊ねる。
「ネー、行きたいですね。でも、働きに行くのはこりごり。行くなら、観光で行きたい」
ハンチャン氏の言葉を耳に、私は十一時二十分発ソウル行きの高速バスに乗った。
「相部屋の友人はもう着きましたか」
ウ ルチ ロ
ソウル市内中区乙支路1街、プレジデントホテルに着くなり、私はフロントに直行して
訊ねた。ソットン氏はまだ到着していないようだ。私は安堵し、額の汗を拭う。
チョンヂュ
午前中に全州を出発した高速バスは途中、清 州 あたりで激しい驟雨に見舞われ、そのせ
いか、一時間以上遅れてソウルに着いた。たぶんそれと、途中、休憩したサービスエリア
でアヂュモニが一人、近所の知人の家に道草して待たされたため、出発が予定より三十分
近くも遅れたのとが、重なりあってのことだろう。
ソウル市にはいると雨はやんでいた。高速バスターミナル駅から地下鉄3号線に乗り、
乙支路1街へ。乙支路1街駅から2号線に乗り換えて乙支路3街で地下鉄を降り、ホテル
せ
まで急いだ。気が急くあまり、地下鉄に乗ってくるあいだ車中で聖書を売る女性と物乞い
する盲目の男性くらいしか記憶に残っていない。
ホテルに着いたとき、ソットン氏と落ち合う約束の時刻が、数分とはいえ過ぎていた。
二日前の夜の電話の一件がある。ここで約束を違えたら、私の信用は地に堕ちる。
ツイン部屋に落ちついて、私はふーッと安堵の息をつく。頭の隅にちらちらしていたソ
ットン氏の渋面がひとまず消える。今回の旅は最後の二日間、このホテルに泊り、ソット
ン氏とソウルの休日を楽しむことになっている。日本を発つまえからの計画でホテルを予
約してあった。
ドアをノックする音は、二本目のタバコを吸ったところで聞こえた。ドアを開くと、ま
ず外三寸が立っていたので、私は驚く。彼がソウルまで引率してくるとは予想していなか
った。ソットン氏は外三寸の背後に付き従うふうに室にはいってきた。一見、彼と別れて
幾つかの歳月が過ぎ去ったかと錯覚するほど、ソットン氏の様子は変容している。眼が大
きく見えるほどに瞼の肉が削げて、疲れきった風情だ。
「馬しょんさん、旅の疲れもみえず、重畳、重畳」
外三寸が、窓際に円テーブルを挟んで二つある椅子の一つに腰を下ろし、言う。上機嫌
というほどではないが、ソットン氏の風姿とは対照的に声に活気がある。二日前の電話の
一件など意に介していない様子だ。ソットン氏のほうは、ベッドにぐったりと体を横たえ
ている。外三寸の前で長幼の序に意を配る余裕もないらしい。
外三寸が一人旅のあいだの私の体験をあれこれ訊ね、私が南原の広塞楼での見聞や、智
異山へ向かう途次に冷汗をかいた検問のいきさつなど話しているうちも、ベッドに伸びた
ソットン氏はそっぽを向いている。気のせいか、うらめしげな心の内が彼の体から伝わっ
てくる。
私は冷蔵庫からミネラルウォーターの壜を取り出してテーブルのコップに注ぎ、二人に
渡す。
「電話の件では失礼をしました」
私はどちらにともなく、形式ばった口吻で詫びる。
「日本人はそんなもんですよ、馬しょんさん。全面的な信頼を寄せられる国民ではない」
外三寸がコップの水を一気に飲み、まるで批判の相手が目の前にいないかのような口調
で言った。
「さあ、ヒロシ君、出かけよう」
絶句する私を無視するふうに、外三寸は自分で注いだコップの水二杯を飲み干し、ソッ
トン氏を促した。
ヒロシ君というのは、ソットン氏の少年時代の通名で、日本にいた頃の外三寸はそう呼
びならわしていたらしい。私たちが釜山の空港に着いたときから、外三寸はソットン氏を
呼ぶのにその名を使っている。何のこだわりもなく。
ソットン氏は億劫そうにベッドから身を起こし、外三寸の言葉に従う。早速、ソウル見
物か……。事の次第が充分に飲み込めないまま、私も従おうとする。外三寸が、きみはよ
インチョン
ろしい、というふうに私を制した。仁 川 に一人住む母方の叔母(外三寸の妹)を訪ねるの
だという。今晩、二人はそこで泊り、明日の午前中にはホテルに戻ってくる。ソットン氏
の親戚めぐりはまだつづくが、大詰めのようだ。
なり
手荷物はホテルに置いて、二人は身軽な装で室を出ていった。
「もしもし……」
「ネー、ヨボセヨ」
私の呼びかけに韓国語の返事が返ってきた。
「そちらに下宿している桐山二郎さんを呼び出していただきたいのですが」
「わたしが桐山」
韓国へ来て三度目の電話でようやく相手が摑まった。
「桐山か。ヨボセヨなんて流暢に言うから、下宿の大家かと思った。馬しょんの三分の一
だ」
「ここは韓国だ。みんなハングンマル使っとる」
「ごもっとも」
「この電話、001か」
「五日前から韓国へ来とる。麗水と全州で電話入れたけど、留守だった」
「五十九歳の留学生はべらぼうに忙しい」
「ご多忙中、申し訳ない。今夜、会えないか、夕食でも」
「言うに及ばずだ。いまホテルか」
「そう、乙支路1街のプレジデントホテル」
「星四つとは豪勢だな。四十五分後にそちらへ行く」
「チャール プタケヨ(よろしく頼む)」
桐山二郎とは、私が生まれ育った知多半島の漁港町で小学校から高校まで同級生だった。
いや、同級生以上の交わりだった。おたがい文学青年を気取って、同人雑誌まがいを発行
したこともある。二十歳代なかば頃から交友は少しずれて住む土地も離れたけれど、私は
文学おじさんの居酒屋主人、彼はほとんど売れないながらも「作家」と呼ばれる稼業をつ
づけている。単行本を上梓すれば勿論、雑誌に小説が載ったときも欠かさず送ってくれる。
年に二度くらいは顔を合わせて、私の店で飲み明かしたり、知多の海辺に一泊旅行したり
する。性格ばかりか風貌、体恰好までがよく似ていて、高校生の頃にはいつも行動を共に
しているので、同性愛者の噂が立ったほどだ。
その彼が「筆禍」事件を起こしたのは一年ほど前。在日二世のヤクザとも実業家とも政
治家くずれともつかぬ大物人物から自伝のゴーストライターを頼まれて(彼の言いよれば、
強要されて)
、書き上げたまではよかったが、内容を全面否定された。このチョッパリ野郎
ハン
(日本人に対する蔑称)
、在日の恨がまるで解っていない、顔を洗って出直して来い、と脅
かされたのだ。桐山二郎、艱難辛苦の結果、三年がかりで書き上げた一篇を、駄作、愚作
と面罵されて一念発起、韓国へ渡ったのが半年前。桐山二郎は海外逃亡を企んだという噂
もあったけれど、私は親友の名誉のために、彼は自己変革を挙げてモデルの人物を見返す
ために玄海灘を渡った、と信じている。
シンチョン
ともかく桐山二郎は現在、新 村 の学生アパートに止宿して、建設現場や食堂の皿洗いな
どで口を糊しながら、延世大学校の語学堂に通って韓国語を学んでいるはずだ。
際前、桐山二郎が電話で告げたのと寸分違わず、入口のチャイムが鳴った。彼が韓国へ
発つ二か月ほど前に会って以来の再会だ。
「やあ、桐山」
「よお、三分一」
私たちは同時に声を掛けあった。たがいの手を両手で包みあうように握りながら、まじ
まじと目を交す。八か月ぶりに会う桐山の顔色は生彩を放ち、表情は日本にいたときより
若やいでいる。子どもほど年齢の違う(とはいっても彼は私同様、独身であり、どこかの
女性に子どもを産んでもらったこともないはず)語学留学生たちに混って韓国語の修得に
悪戦苦闘しているのが嘘のよう。土木作業や皿洗いのアルバイトで暮しに四苦八苦してい
、 、 、
るという手紙は、三味線だったのか。
私がその印象を口にすると、
しょう
「おれにはハングッ(韓国)の水がピタリ 性 に合うようだ。おまえもこのまま一緒に暮し
たらどうか」
桐山二郎はまんざら冗談ともつかず言い、おれには心強い味方の「親分」が付いている、
付け加える。親分?
何のことか。まさか、カンペ(やくざ者)の仲間にはいったのでは
……。
「いまから親分に会わせる」
戸惑っている私の腹の内を読むふうに言い、こちらの意向を無視して早早と室を出たが
っている様子。
「親分」がちょうど今夕、日本から来ている著名な在日の作家と詩人を招待
していて、その席へ行こう、というのだ。招待されているのが作家と詩人なら、カンペの
親分というのではあるまい、いや、そこがかえって油断ならないかも……。
桐山二郎が現れて十分と経たずに私たちはホテルを出た。
クァンファムン
ハルラ チプ(漢拏の家)は、市庁を西北にきて光 化 門 に近い大通りを少し外れた、路地
の端にあった。
桐山二郎がタクシーで行こうと言うのを、私は夕昏れのソウルの街を歩くのも悪くない
と提案した。ところが道筋の三分の一ほどは地下道を抜けることになって、散策気分は充
分に味わえなかった。街路も変哲もないビルに沿って閑散とし、早足に道行く人と肩をぶ
っつけあうといったソウル名物の経験にも遭遇できなかった。
「ハルラの家」は、名前からして済州島料理の店らしい。入口をはいりしな桐山にそれを言
うと、オーナーは済州島出身者で、ソウル在住のチェヂュサラム(済州の人)のあいだでは
有名な店なのだ、という返事。
「親分は済州島の人か」
「アニー、招待する二人の文学者が済州島出身だから、この店を選んだのだろう」
短い会話を交すうちにも、桐山が店をはいって右手すぐの六畳ほどの部屋に導く。部屋
といっても障子が設えられているわけでもなく、店の全体が見渡せる。「親分」が席を設け
るというから、明月館とか由緒ある料亭ふうの店を想像していたが、それとは充分に対照
的だ。テーブル席が十卓以上並んで厨房まで奥行きの深い店だが、大衆のネムセ(におい)
、 、
が横溢している。海卓と魚と鮑のわたの臭いが程よく混り合って店内を漂う。済州島の潮
の香りさえ匂ってくるようだ。いや、潮騒の響きさえ聞こえる。あぁ、この店なら……。
私は安堵して、正座の脚を解く。
桐山二郎が中年の男性(店の主人かもしれない)に料理や酒の類を注文している。味が
染みたという感じのジャンパーを着た男は、旧知の間柄に対するふうな笑顔を絶やさず、
いちいち「イェー、イェー」と返事を返しながら注文を聞く。
「やぁ、先生方」
大きな座卓に料理が運ばれはじめたとき、桐山二郎が私の耳の筋で声を上げた。入口の
ほうを振り返って、私は自分の目を疑い、次の瞬間、同時に三度驚いた。
先頭に現れた巨漢(親分にちがいない)に見憶えがあると錯覚したのは、その人物が「羽
山先生」にそっくりだったからだ。
「羽山先生」というのは桐山二郎「筆禍」事件のモデル
となった、実業家まがい、政治かふれ、ヤクザくずれの大物人物本人なのだ。
「親分」についで肩を並べて登場した二人の在日文学者――それは紛れもなく旧知の、と
キムマンドク
キム ヨン ベク
いうより私が尊敬するに一も二もない作家の金万徳さんと詩人の金龍白さんだった。
二十年ほど前のことになるけれど、私は在日朝鮮人文学論を不充分ながら体系化して、
一冊を上梓した。金万徳論、金龍白論も気持を込めて書き、収めた。それが機縁となって、
二人の優れた文学者と知己を得たのだった。金万徳さんを二度ほど名古屋に招いて講演会
を催した。金龍白さんがある新聞社の出版文化賞を受賞した大冊の著書の出版記念会のた
めに、大阪まで馳せ参じたことがある。
あれ、あれ、なぜきみがここにいるのかね……。
作家と詩人も驚いたようだ。いずれ劣らず精悍な二人の風貌を怪訝が掠める。それでも
次の瞬間には笑顔が浮かび、握手を交す。やたら握手をする習慣を厭う金万徳さんも私の
手を拒まない。
「親分」
、金万徳、金龍白両氏のあとから五、六人が遠慮がちに、それでもドヤドヤといっ
た活気を発散させて、六畳敷きに上がってきた。学究肌の若い背広姿に混ってラフな身な
りの二人――やんちゃそうな風貌に見事な白髪と髯の中年男性と、寡黙な町役場職員とい
った印象の瘦身の男性(私とほぼ同年輩か)がいる。
二卓を合せた座卓の中央に金万徳、金龍白両氏が隣合って腰を据え、それに向かい合っ
て「親分」とジャンパー着の寡黙な瘦身男性。あとの四、五人が左右を占めて、桐山二郎
と私は自然の成りゆきで座卓のはじっこに小さくなる。
私と桐山二郎以外は互いを知り合っているらしい。座に納まって、絶妙のタイミングで
酒肴が卓上に並ぶ。
「親分」がおもむろに立ち上がった。一九〇センチ、一〇〇キロはあろうか。胡座の姿勢
で見上げると天井を突かんばかりの巨漢だ。年齢は私などと変わりはなさそう。ふとい黒
縁眼鏡を掛けた彫りの深い容貌と黒に近い濃紺の三ッ揃いスーツが、学者のようであり、
政界の裏ボスのようであり、カンペ筋の黒幕のようであり、昔鳴らした俳優のようであり
パターン
……つまり正体はよくわからない。典型的な多重人物の 型 なのだ。
コンペ(乾杯)の音頭でも取るとおもったら、
「親分」は桐山二郎の紹介をした。風態に
似合わず高音質の甘味の声調だ。紹介は簡単なもので終わったが、桐山二郎がいつの間に
か大江健二郎に次ぐノーベル文学賞候補ということになって大変フィクショナブルな内容
だった。
「日本では最も有名な文芸評論家の一人であり、芥川賞をはじめ権威ある文学賞の選考委
員をいくつも兼ねており……」
おや、桐山二郎の紹介は済んだはずなのに「親分」の話はまだつづいている。それにし
ても桐山二郎が有名な文芸評論家にして権威ある文学賞の選考委員とは、弧に狐に抓まれ
たような話だ。
「親分」の話がようやく終わると、隣で桐山二郎が私の脇腹を突つく。立って礼をしない
か、ということらしい。それで私は事の次第を理解し、悪夢から醒めたように、ぞッとし
た。
「親分」は私を紹介していたのだ。桐山のやつ、何を出鱈目のクンソリ(法螺ばなし)
を「親分」に吹き込んだのか。
そんな私の羞恥心など素知らぬふうに、桐山二郎はそっぽを向いている。
さいわい「親分」の言など座の誰も信じてはいないらしい。私を特に注視する者もなく、
酒席になった。
私は卓上の料理に目を膛り、生唾をたてつづけに飲み込んだ。
「親分」の余りにフィクシ
ョナブルな紹介も、それへの羞恥心も吹き飛んでしまった。
薄塩をふったテヂカルビ(豚のカルビ)、パ(ねぎ)と薬味を合わせたタレの添えられた
チャリ(すずめ鯛)の白身、ケフェ(小ぶりの渡り蟹を原型のまま味付けした刺身)
。豚の
白い切身のさしみ、これは口の中で咀嚼するうち豚肉ともおもえない、まろやかな脂の甘
ぼら
味が、舌に踊れと促す。鯔に似た済州の海特産らしい、名も知らない魚の骨のついたまま
ぶつ切りした刺身、その一切れにコチュヂャン(唐辛子味噌)をつけて口に入れ、コリコ
リ噛む。生臭さはたちまち辛味と混り合って一種快感をともなってジュワーッと口腔にひ
ろがる。そこへマッコルリ(濁酒)を含む。そういえば今回の旅でマッコルリは初めてだが、
最高だ。どの料理にもソヂュ(焼酒)も合うこと、言うまでもない。私はついマッコルリと
ソヂュのチャンポンになっている。コチュカル(唐辛子粉)で赤く染ったクッ(汁)の類を
喉に通すせいか、悪酔いしそうな気分がしない。
座は程もなく談論風発の様相を呈している。主たる話題は「ハン民族文学人大会」のこ
とらしい。それは世界十数か国と地域に在住する「海外同胞」文学者がソウルに集って、
昨日まで四日間、開催された。金万徳、金龍白両氏は日本からそこに参加したのだ。座を
占める本国の人たちの発言が中心になってのことだが、
「大会」への過激な批判が交されて
いるらしい。しかし私のチョソンマル(朝鮮語)の水準ではほとんど聞き取れない。
私はただ、日本ではほとんど聞くことのできない金万徳さんの朝鮮語の音感を愉しみな
がら、もっぱらスヂョ(匙と箸)を卓上の料理に運び、濁酒と焼酒の刺激に酔っている。
金万徳さんが語るのはほとんど、数日後に取材のため訪れることになっているらしい済
州島のこと。四・三済州島事態を描くことをライフワークとし、最近、その集大成である
超長篇『漢拏山』一万二千枚の完成に漕ぎつけた作家として、まだまだ執念は燃えつづけ
ている。あるいは、さきの「大会」については、口にするのも気がすすまない、というこ
とだろうか。文学、政治、人生において、その思想・信条を曲げない、剛直な作家のこと、
政権(文化体育部)が金を出して丸がかえで催した「国策的」なイベントを是とするはず
がない。訪韓の目的は、数年前に一度、入国を拒まれていることもあって、済州島訪問に
あったのだろう。今回の訪問にあたっても、朝鮮籍であることや、韓国政府に対する毅然
たる姿勢が理由になって(のことだろう)
、成田空港を出発するギリギリまで臨時旅行証明
書が発行されなかった事実を、私はのちに知る。
座にあって、金万徳さんが饒舌というのではないが、金龍白さんはさらに口数少なかっ
た。日本語で試作をしながら日本的抒情を排して、硬質のメタファー(詩語表現)と特異
のリズムを達成した詩人の、日本語界への殴り込み方は見事だった。その詩人は解放後、
初めての帰国という。さまざまこもごもに感懐あっての寡黙だろうか。
そんな自問自答を内心に漂わせながら、私は焼酎の小さいグラスを口に運ぶ。座にパ ピ
(飯)の類を注文する者もいるが、私の胃は満ちている。酒席がはじまってどれほど経つ
だろうか。私は酔いを覚えはじめている。私の席へやってきて特に「高説」を聴こうと話
しかける者もいないのは、際前の「親分」の紹介を誰も真に受けていないことの証左だろ
う。話し相手のいないことが、私に酒をすすませる。それでも追い追い、場の人びとの素
姓が私に理解できた。
「イノムセッキ(この餓鬼野郎)
」
そんな罵り声が、いくらか聴覚の怪しくなった私の耳にしきりに飛び込んでくる。ずっ
サ
サム サ ッ テ
と寡黙だったはずの瘦身の男だ。この六十歳近い人は、本国で四・三事態を主題とする小
説を書いていて、私もその翻訳を読んだこともある作家だ。「イノムセッキ」は酔ったとき
の彼の口癖らしい。酔眼を誰にともなく据えてそれを言う作家に、真面目に反撥する声は
なく、みな笑みを浮かべて聞いている。
その隣りで賑やかに統一論議をぶっているのは、白髪に見事な白髯の詩人だ。
「ウリ民族は、統一しないはずがない」
詩人は同じ言葉を繰り返す。私は十年以上前から、この詩人の噂を充分に耳にしていた。
一九八〇年代中頃の日本留学中、在日の指紋捺印拒否運動に加わり、日本政府(法務大臣)
から退去強制の処分を受けた。何年かそれを拒みつづけたが、やむなく帰国。帰国と同時
かど
に反体制運動の廉で下獄。のちに済州島四・三蜂起をうたった長篇詩を発表、私はそれを
日本の雑誌で読んでいた。年齢はまだ五十歳に充たず、日本にいたころは白髪ではなかっ
たはずだ。いまは「平和大学」と銘打つエコロジー運動などしているらしい。
その他、若い学者タイプの背広の人たちは、韓国社会科学研究所所長、実践文学社社長、
済州四・三研究所所長兼大学教授といった、チョウと付くものには盲腸の手術とさえ無縁
な私には眩しいほどの人びとであることがわかった。
最後まで素姓の知れなかったのは「親分」のみだ。そういえば酒席での「親分」は、鷹
揚に皆の談論風発を聞くばかりで口数少なく、酒も程程に飲むふうだった。
ハルラの家は切り上げて、どこだかへ二次会に行こうということになって、座を立ったと
き、私の体はグラリと揺れた。外へ出てからも脚の乱れが自分でも分かる。頭のほうが曖
昧模糊とするのは私の酒癖だが、歩行の乱れは珍しい。それを察してか、桐山二郎が通り
に出たところでタクシーを停めた。
「オヌルパム
チュルゴプケ
チネッスムニダ。カムサハムニダ(今晩は楽しく過ごしました。
ありがとうございました)
」
金万徳さん、金龍白さん、「親分」に礼を言い、他の人びとにも、「アンニョンヒ」と別
れの挨拶をして、私は桐山二郎に促されるまま素直にタクシーに乗った。二次会に従いて
いったら酔態をさらすことになるかもしれない、そんな判断力が私には残っていない。
「桐山よ、あの親分は一体、何者か」
なじ
タクシーが走り出すなり、私は桐山二郎に訊ねた。詰るふうな口調になっていた。
「そうさなあ、存在としてのバイリンガル……」
そんな言葉から始めた桐山二郎の説明を、ふんだんに使われた固有名詞を省して纏めれ
ば、
「親分」はソウルにある著名な大学の客員教授であり、文学院の理事長であり、文芸評
論家であり、民主化と統一をすすめる反体制運動圏の強力なバックボーンであり、さらに
三大財閥には及ばないけれど韓国十大財閥の一角を占める企業の血縁につながっていて、
金永三政権に対しても隠然たる影響力を有し、正統カンペではないがその世界に睨みの効
く……云云という人物らしい。
「親分は日本で自伝を出版したがっている」
桐山二郎は事もなげにつづけた、
イル チェ シ
デ
ユ
ギ
オ
サ
イ ルグ
「日帝時代の少年期から、六・二五(朝鮮戦争)の青春期、そして四・一九(一九六〇年、
李承晩政権を倒した学生革命)以降、反体制運動のために下獄を繰り返した、波瀾の六〇
年代、七〇年代……。評伝はわしが書くことになっている。準備はほぼ整っている」
得得と語る桐山二郎の話を聞いて、私は酔いも醒めるほど呆れた。ばかなやつ、「羽山先
生」のゴーストライターを買って痛い目に遭ったというのに、まだ懲りず、二の舞を踏む
つもりか……。
いさ
ホテルに戻ると、二人は禄すっぽ話もできず眠ってしまった。桐山を諫めるつもりだっ
たのが、私はきょう一日の疲労に抗しきれなかった。
桐山二郎も、学生アパートの寝床より、やはりホテルのベッドが快適か、ソットン氏が
あ
仁川の叔母を訪ねて空いたそこで横になるなり鼾を立てはじめた。
桐山二郎を懇懇と説得して「親分」の評伝執筆を思い止らせる企ては結局、実現しなか
った。私たちがまだベッドから起き上がれずにいる朝九時前、ドアを叩く音がしてソット
ン氏と外三寸が室に現れたからだ。
かくしゃく
外三寸はきのう顔を合せたときと変わらず矍 鑠 たる様子だが、ソットン氏は相変わらず
疲労困憊の態を脱していない。それでも昨夜は、一人暮しの仁川イモ(母方の叔母)の家
で適当に眠ることができたのか、幾分か目には生気を取りもどしている。
私が桐山二郎を二人に紹介する。ソットン氏には彼の代わりに友人が泊るかもしれない
と話してあったので問題なかったけれど、外三寸が桐山二郎を一瞥するなり、この闖入者
は何者か、と眉をひそめたので、それに応えたのだ。桐山二郎も私との友人関係やソウル
暮しについて、長過ぎるほどの自己紹介を韓国語で、した。外三寸はそれを聞きながら、
わがチョッカ(甥)の留守中、ベッドを占拠した人物への不満は溶けないふうだった。
外三寸は一時間半ほどのちのソウル駅発セマウル号で釜山へ帰るという。それまでの時
間を潰すふうに、四人が交交、言葉を交しているときだった。
「背広、忘れた」
ほとんど会話に加わらずにいたソットン氏が突如、素頓狂に声を上げた。日本を発つと
きから着ていた茶色っぽい上衣を忘れてきたらしい。スポーツウェアふうのシャツのまま
だ。
「どこで忘れたのか」
外三寸が色をなす。
それを憶えていれば忘れはしない、とでも言いたげにソットン氏は憮然と応える。
「仁川からソウルへ戻る電鉄の中かもしれない」
そう答えたものの確信はないらしい。ソットン氏は「きのうソウルから仁川へ行くとき
の車中かもしれない」と言いなおし、「いや、釜山からソウルへ来るセマウル号の中かもし
れない」と三転した。韓国へ着いてから思いのほか暖かく、私もジャンパーを着ることを
ほとんど忘れている。それにしてもソットン氏は親戚めぐりで余程、気の昴ぶりと疲労が
積っていたのだろう。
「パスポートと金は?」
私が訊ねると、ソットン氏は大丈夫、という仕種で臍のあたりのスポーツウェアのふく
らみを示す。日本を発つまえ妻君が買い与えた、海外旅行用小物入れ付き胴巻き。貴重品
はそこにはいっているという。忘れた背広のポケットには小銭入れとハンカチ、ティッシ
ュペーパー、お守り程度。まずは安堵する。
その間にも、外三寸があちらこちら電話を掛けまくっている。ソウル駅、仁川駅、釜山
駅、仁川イモの家。
「駄目だ」
電話器を激しく置いて、外三寸が首を横に振る。
「今頃、誰かが着服しているとして」私は旅券も金品も無事だったのに安堵して言う。「不
、 、
特定多数のくにの同胞の一人にプレゼントしたと思えば、それも美談ではないですか」
「あれは思い出の深い背広だから……」
ソットン氏が私の言を不快そうに撥ねつける。そのとき横合から桐山二郎が口を挟む。
「多分、戻ってこないでしょう。私もソウルへ来て以来、いろいろ忘れ物をしたけれど、
れっき
戻ったためしはない。着服と裾の下は、この国の 歴 とした文化ですからね」
こいつ、余計なことを言う……。私は反射的に窺うと、電話器脇のベッドから腰を浮か
せた外三寸の顔は険しく紅潮していた。
「桐山さん、何のことかね」外三寸の口調に興奮した感じはないが、嗄がれ声にドスが効
いている、「ウリナラの文化が着服と裾の下というなら、イ ルボン(日本)の文化は何か、
言ってみなさい。偏見と恥知らずの文化と言ってみなさい。いや、いま一つ付言するなら、
侵略の文化ではないのかね……」
外三寸はそう言うと、語調を乱さず、六歳のとき日本へ渡り、解放直後、釜山へ帰るま
で十数年過ごしたタヒャンサリ(他郷暮し)について語った。十分に充たない時間だった
けれど、日本語もできず苛められつづけ、教室で何かが失くなるたび盗みの嫌疑をかけら
れて教師からビンタを喰わされた小学生の頃のこと。高等小学校の時、泰安殿の前を素通
りして、朝鮮へ帰れと威されたこと。朝鮮半島出身者の子弟としては幸運にも私鉄会社に
就職できたのに、夢であった駅務員になることは叶えられず、駅舎の清掃や保線作業など
「施設の仕事」に従事させられたこと。解放後、国へ帰れば、ウリマル(母国語)も不自由
な日本帰りの皇民野郎と蔑まれたこと――
「親戚でさえ、わしのことをウェノム(日本人)かぶれ、と陰口しているようだが、面従腹
背、わしは日本という国を許していない。日帝時代から、ずーっとそうだ」
外三寸は語り終えると腕時計に目をやり、
「ヒロシ君、またウリナラへ来なさい。家に着いたらチョナ(電話)するように」
といって室を出た。
外三寸がホテルを去るまで私たちは玄関で見送ったが、彼は私と桐山二郎には声を掛け
ずじまいだった。
十月上旬、ソウルの街は乾いた空気につつまれているが、街路もビル並みも、どことな
く白っぽく不透明な光の粒子を散らしている。青空だけが澄んだ色合の陽差しを輝かせて
トンニムムン
いる。その陽差しもかなり西に移って、独立門の方向が陰りはじめるのを眺めながら、三
チョン ロ
人は 鐘 路通りを歩いた。
外三寸がホテルを去ったあと、桐山二郎が案内するというので、私たちは街へ出たのだ
った。
キョ ボ ム ン ゴ
教保文庫――その大型ブックショップには日本文学コーナー、外国文学コーナーいずれ
にも翻訳された日本文学がずらり並び、夏目漱石、島崎藤村、谷崎潤一郎、三島由紀夫、
太宰治などの小説とともに大江健三郎、村上春樹・龍、島田雅彦、吉本ばなななど現代文
学が目についた。ソウルではハルキ現象さえみられるという。
パゴダ公園――三月に訪ねたとき同様、老人たちがぎっしり園内で憩っていた。
トン デ ム ン
ナム デ ム ン
東大門市場――三月に訪ねた南大門市場ほどではないが、人びとの暮しの活気は横溢し
ていた。そこで私はポッタリチャンサ(風呂敷商売・行商)みたいに路上で“店”を出し
ているアヂュモニからヤンマル(ソックス)五束を買い、三人、遅い昼食を攝った。
鐘路界隈を三時間ほど巡る。そのあいだ、私は“北の潜水艦”事件のことなど思い出す
こともない。テレビや新聞の賑賑しさが嘘のように、街も人びとも平穏な風景のなかに溶
け込んでいるのだ。生活のエネルギーが“事件”を寄せつけないのだろうか。街角の屋台
で新聞、週刊誌、牛乳パック、チューインガム、宝くじ券など売っているアヂョッシ(お
じさん)にウーロン茶を買うついで“事件”のことを訊ねる。彼は何のことか、という表
情を私に返した。四十五年という歳月を重ねる“休戦”状態に、この地の人びとは腰が坐
っているのだろうか。あるいは「北も同胞」の確信が蓄積されているのかも……。
「馬しょんさん、桐山氏はもういいだろう。帰ってもらおう」
東大門市場から西へ戻ってふたたびパゴダ公園あたりに来たとき、ソットン氏が突然、
私に耳打ちした。突然ではあったが、私は即座にソットン氏の気持を飲み込んだ。桐山二
郎の案内で散策するあいだ、ソットン氏は終始、仏頂面をしていた。外三寸と別かれるま
えホテルの室での一件が、まだ胸の内から拭えないでいるのにちがいない。桐山二郎を同
行させて平然としている私の無神経さにも腹を立てているかもしれない。
私たちの四、五歩前を行く桐山二郎にそれとなく告げると、彼は一瞬、怪しむ表情を浮
かべたが、鐘路3街の地下鉄あたりで去った。
イ ン サ ドン
ソットン氏と私はそのまま歩いて仁寺洞を訪ね、民俗品を並べる店や骨董店のつづく狭
い通りをあちらこちら覗き、タルチュム(仮面戯)のタルを二面買った。居酒屋「馬しょん」
に飾るのだ。
陽が暮れなずみかけたので、仁寺洞から乙支路1街のホテルまではタクシーで帰った。
ソウルのポヂャンマチャ(屋台)を体験しよう、と再びホテルを出たのは、それから二
時間ほどのち、室でシャワーをしたり寛いだりしてからだった。
ホテルマンに勧められて行ったのは、歩いて三十分とかからないプッチャン洞。車のは
いれない通りに両側、屋台が並んでいる。ポヂャンというだけあってビニールの幌を掛け
て小ぎれいに明るく、日本のそれより大きい。
「どこへはいろうか」
百メートルほどの屋台小路を一通り過ぎて、戻りながら私が訊ねる。
、 、
、
、
ソットン氏は気乗りしない面持ちで、うんともすんとも応えない。私が繰り返し訊ねた
、 、 、 、
ところで、ソットン氏ようやく口を開いて、ソウルのポヂャンマチャはぼられるからはい
ってはいけない、そう外三寸にきつく釘を刺されていると言う。
屋台はどれも客が疎らで、旨そうな魚介類のネタが積まれたままになっているが、客の
なかには学生ふうのカップルや G パンの若者グループが結構、多い。だから、そんなに高
くはないはずだ、と私が言うのに、しかし他所者となれば状況は違ってくる、とソットン
氏は頑迷だ。
二人は結局、屋台通りの一角にある食堂にはいる。テヂカルビ(豚のカルビ)を肴に四
あ
合入りの焼酎を三本空け、酔いがめぐってくるとともに、お互いに得体の知れない不満に
煽られて、子どもみたいな口喧嘩をした。それで逆に鬱屈が晴れたようにソットン氏には
三十二年ぶりの訪韓で初めて緊張感から解放されたひとときでもあって、帰りみちは上機
嫌だった。
タクシーのなかで私は怪しげな韓国語でペンノレ(舟歌)を歌った。ソットン氏の機嫌
うつ
が染ったのだ。
韓国滞在最後の日。
昨夜プッチャン洞で味わった開放感に促されてか、二人は申し合せたように朝早く目醒
めた。余勢をかって、残された時間をたっぷり愉しもうという、あ・うん、の呼吸だ。空
港行きシャトルバスのホテル出発は、午後四時三十分。
身づくろいを済ませ、チェックアウトの前に朝食を攝ろうと、ホテル二階のレストラン
にはいる。一度くらいはホテル食事も体験しておこうと、ソットン氏とのあいだに合意を
みたのだ。
「八〇五号室のお客さまですね。電話がはいっています。フロントまでどうぞ」
ホテルマンが私たちのテーブルへやって来て日本語で告げたのは、ブレックファースト
を注文した直後だった。
フロントの電話に出たソットン氏がすぐ私に代れと合図する。
「ヨボセヨ、三分一ムニダ」
「ああ、三分一さん。イムホンヨンです。オレガンマニ(お久し振り)
」
イム ホン ヨン
電話は林弘永氏だ。私がどうしてプレジデントホテルにいることが分かったのか訊ねる
と、一昨夜、済州島料理のハルラチプに集った誰かから聞いたという。名前を言わないが、
もしかしたら「親分」からでは? と勝手に推測する。
「これから会いましょう。引き合わせたい人がいる」
私は数秒間、迷う。数歩離れた位置で電話が終わるのを待っているソットン氏を窺い、
OK の返事をする。引き合わせた人にはすでに連絡済みといった林弘永氏の口調に押された。
いや、林弘永氏には会っておきたい。
ハン ガン
カンドン
待ち合せ場所と時刻を告げて電話は切れた。漢江の東方、江東区にあるマンモス大学に
近いホテルのレストランで十一時。
林弘永氏とは二度会っている。最初は一九九三年夏、当時、彼が校長をしていた文学院
の学生、講師の一行が来日した折、私の属する「在日文学会議」が名古屋に迎えて交流し
た時。もう一度は今年の三月、その文学院や民主統一を志向する作家・詩人たちと交流す
るために訪韓した時。
三月の訪韓は、
「北」と「南」とを問わず、私にとって初めての朝鮮半島訪問だった。猫
も杓子も韓国を訪れる時世に、ながく「朝鮮のこと」とかかわりながら私が訪韓しなかっ
たのには、自分勝手に心に決めた理由があった。私の知人、友人のなかには彼ら彼女らの
、 、
くにである大韓民国あるいは朝鮮民主主義人民共和国の地をいまだ踏まずに・踏めずにい
る者が少なくない。それぞれの事情で、みずからそれを拒んで、あるいはくにから拒まれ
て――そういう地へ日本人である私が彼ら彼女らをさしおいて行くわけにはいかない。そ
んな気持が、肩肘張るほどではないが、私にあった。その私が六十歳を目前に渡韓するつ
もりになったのは、気概が軟弱になったのと、文学者との交流に魅かれてのことだ。
さきの訪韓の折、日本側の一行を終始、世話したのが、林弘永氏だった。もともと大学
教員の彼は七〇年代、反体制運動のなかで下獄し、大学を追放され、盧泰愚政権時代に C
大学校の客員教授に復帰したというが、野に在る歳月は短くなかった。さきの訪韓の折、
日本を発つ前に電話で請われて、私は彼に自著を贈呈した。一九八九年刊行のそれは絶版
になっていて保存本一冊しか手もとにかく、サイン入りで父に進呈してあったのを回収し、
扉の文字をそのままに贈った。事情を説明すると、私の非礼を意に介することなく、林弘
永氏は一層、喜んだ。
ホテル二階のレストランで食事をしながら、そんないきさつをかいつまんでソットン氏
に話す。ソットン氏は二つ返事で同行を承諾してくれた。
T 大学校の駅までは地下鉄3号線で三十分ほどだった。途中、車内で白杖と物乞いの金属
皿を手にして盲目の男(ソウルに着いた日に見た人とは別人で、サングラスをはめている)
が私たちの前を通り過ぎたが、盲目の物乞いについて、ソットン氏は何も言わなかった。
地下鉄を降りて待ち合せのホテルに向かう途次、左手の高台に T 大学校が見える。全景
を望めるわけではないが、広大な学舎とキャンパスのたたずまい。四・一九学生革命(一
九六〇年)の際も、韓日条約反対闘争(一九六五年)の折も、たたかう学生たちの拠点に
なった大学だ。
ホテルのレストランに林弘永氏の姿はまだなかったが、奥まった喫茶ルームのテーブル
オ ユン
に見知った顔がいる。呉潤氏だ。在日詩人だが母国語で詩作をし、数冊の詩集を韓国で出
版している。在日文学者や日本人文学者と韓国の民衆・民族派文学者たちとが交流する際
の橋渡し役に努めていて、三月訪韓の折も中心となって世話をした。
呉潤氏の隣にいて、ネクタイを締め背広を瀟洒に着こなした、温厚な学者ふうの人物は、
未知の人だ。
ホン トングク
「洪東国さん、T 大学校で国文教授をしている」
二人と向かい合せに私とソットン氏が掛けるなり、呉潤氏が紹介する。
「チョウム ペプケッスムニダ。パンガプスムニダ(お目にかかれて、嬉しいです)
」
そう応えながら私は席を立つ。洪東国氏が白晢の顔に微笑を浮かべ、立ち上がって握手
を求めてきたからだ。風姿に似合わず骨太い手だ。
洪東国氏は筑波大学、東京大学その他、私立大学いくつかの研究員、客員教授として日
本に滞在した、と呉潤氏が説明する。道理で二言三言交しただけで日本語の達者なのがわ
かる。韓国で会う相手は日本語が上手く、こちらの韓国語があまりに情けないので気がひ
ける。
「どうぞ、受け取ってください」
洪東国氏が丁寧に封筒に収められた著書を差し出す。五〇〇項をこえる大冊だ。表紙に
『文藝史と文藝批評』とある。夏の後半に栞が挟んであり、
「第五章・在日朝鮮人文学の歴
史と現在」とある。頁をぺらぺらめくると、三分一二郎の名前が再三、登場し、私が日本
ふ えん
の雑誌に掲載した評論の引用や敷衍が、数項にわたってつづいている。もとはといえば自
分で書いた文章なので、ハングル文でもつっかえずに読める。
つい熱中しそうになってハングル文字を追っていると、隣で私の肩をコツコツ叩く。ソッ
トン氏が、わしにもみせろ、というふうに手を出すので大冊を彼に渡す。その拍子に向か
い合せの二人にソットン氏を紹介し忘れていたことを思い出した。
「カムサハムニダ。こちら日本から一緒に来たイ・ソットン氏です。三十二年ぶりに祖国を
訪ねられました」
私は著書の礼を述べがてらソットン氏を紹介する。洪東国氏が率直に感動の表情を浮か
べ、年長者にする慣わしどうり左手を軽く添えた右手を、ソットン氏に差し伸べた。
洪東国氏は私に自著を渡したいがために林弘永氏を煩わしたのらしい。
林弘永氏が色白の、もう五十歳に近いはずなのに少年っぽい感じの残る顔に笑みを浮か
べて、喫茶ルームに現われた。
マイカーを飛ばしてきたらしい。
「道路がやたら混んでいて……」
弁解もそこそこに、林弘永氏は早速、昼食に行こう、と提案する。
ホテルを出て、さきほどソットン氏と来た道を今度は右手に高台の T 大学校を望みなが
ら行く道道、私は林弘永氏と一別以来の挨拶を交す。洪東国氏と彼とは T 大学校の同級生
で、一緒に検挙されたことが三度もあるという。
風情のある韓式食堂の中庭で円いテーブルを囲んでソカルビ(牛カルビ)のプルゴギ(焼
肉)とネンミョン(冷麺)を食べた。ホテルのブレックファーストから二時間と経ってい
ないのに、酒なしの食事がすすんだ。五人の話題はここでも「ハン民族文学人大会」への
批判が中心であった。とはいっても、語るのはほとんどそれに参加した呉潤氏。林弘永、
洪東国両氏は「大会」に参加しなかったという。国内の民族文学作家会議の文学者は自主
的に「大会」をボイコットしたということらしい。そのために「大会」そのものが文学的
熱気を欠いたセレモニーに終わったというのが、呉潤氏の意見だ。
ある有力な在日朝鮮人作家の動向なども話題になったが、トゥッキ(聞くこと)もマルハ
ギ(話すこと)も半端な私は、話題に加われない。それでも林弘永氏が「ウリナラ文学も
日本文学も、いま困難に直面しているけれど、良き将来に向かって努力しましょう」と言
ったときは、心のうちで手を重ね合うつもりで少し喋った。一時間ほどの過ぎるのが早く
感じられた。
「日本へ帰ったら、韓民族は統一を諦めていないと伝えてください」
これから午後の授業に向かう洪東国氏が、食堂を出て別れぎわに、そう言った。
「ネー アラッソヨ(ええ、わかりました)
」
それから一時間後、呉潤氏とソットン氏と私は、乙支路1街のプレジデントホテル二階
レストランでコーヒーを飲んでいた。林弘永氏が乗用車で三人をホテルまで送ってくれ、
そのあと呉潤氏がコーヒーを奢ってくれるというので好意に甘えたのだ。
三十分ほど雑談を交し、呉潤氏と別れたのが、二時頃。シャトルバスの出発までには二
時間以上ある。荷物を預けてあるホテルの集合時間まで一時間四十分。
「ソットン氏、仁寺洞まで行ってきたいのだけど」
昨夕、仮面二面を買った民俗品店に、木製の小さい仮面八種が並ぶ、五〇センチ四方ほ
どの額があった。迷った挙句、懐が心許なくて買わずに諦めてきたのだった。航空券はあ
る、あとは日本へ帰るばかり、手持ちの金で買える。
一人でタクシーを飛ばすつもりだったが、ソットン氏が付き合ってくれると言う。
私の顔を見るなり、店の主人が思い出したようにニヤニヤ笑いを浮かべる。あのイルボン
サラム(日本人)は必ずや舞い戻って来るにちがいないと踏んでいたように。
「ピッサダ ピッサダ(高い、高い)」
「ピッサヂアンタ サヨ(高くない、安いよ)」
「チョムドマン サゲヘヂュセヨ(もう少しだけ負けてください)
」
「アンデ アンデ(駄目、駄目)
」
交渉は意外と難航する。私は、値切ってくれないと金が足りなくなって日本へ帰れなく
なる、高い飛行機料金を使ってわざわざここまで買いに来たじゃありませんか、と勝手な
ことを言ってみた。勿論、主人は首を横にするばかり。
横で面白がっていたソットン氏がそろそろ時間を気にしだしたのか、そのとき口を挟ん
だ。何の魔術か?
私の駆け引きとさして違わない言葉を一言、口にしただけなのに、店
の主人はそれを待っていたとでもいうふうに、「アラッソ」と首を縦にした。チェイルキョ
ッポ(在日同胞)の言葉は、値千金というわけか。
ホテルへの帰路、私は厳丈に包装された仮面の額縁を抱き締めながら、居酒屋「馬しょ
ん」の飲み代をコップ二杯分は只にしなくてはならんな、と思う。
ホテルへ戻ったのは、集合時間ギリギリ。とはいっても私とソットン氏のほかには日本
人が一人乗るだけの空港行きシャトルバスは、ほぼ定刻にホテルを発車した。バスがソウ
ル市街を抜けるまではほとんど渋滞状態。飛行機の出発時刻を気にしてソットン氏が二度
も技師ニム(運転手)アヂョッシのもとへ歩を運ぶ。
「予定時刻に空港に着くのかね」と問うのに、アヂョッシは「なんとかやってみましょう」
と応えたという。そして技師ニムの言葉通り、バスは予定の時刻に金浦空港国際線玄関に到
着した。市街を抜けて郊外へ出てからは、文字通り快走だった。
「見事に帳尻を合わせるもんだなぁ」
ソットン氏が感心した。
二人とも慣れない搭乗手続とあって、KAL768便の機内に辿りついたのは離陸十分前。
座席シートに体を沈めてしばらくすると、それでも旅の終りの実感が私に訪れてきた。熱
く重く堆積された一週間だったようでもあり、何の変哲もなく通過しただけの時間のよう
でもあって、なんともとらえどころのない旅だった。
そんな感想を口にしようと、隣のソットン氏を振り向いて、私は虚を衝かれた。機嫌で
も損ねたように表情を堅くしている。そればかりか、眼底出血でも起こしたふうに目がひ
どく充血して、下瞼に光るものがある。あれッ?
ソットン氏が泣いている……。この友
人らしくもないことだ。いや、目の充血は単に連日の睡眠不足と疲労のせいにしておこう。
事実そうであってもいいではないか。
ソットン氏の横顔から視線をもどす。その瞬間、私は、友人にたいして観察者ふうなあ
れこれに耽っている自分に嫌悪を覚えた。
コラム 読む会あれこれ 「発足のこと」
在日朝鮮人作家を読む会が準備会を持ったのは一九七九年十二月十五日、名古屋市中区
の社会文化会館でだった。その以前、「『青年の環』を読む会」というのがあって、その会
の有志に新しい仲間が加わり、七名が集った。日本人ばかりだった。
“文学を通して、在日朝鮮韓国人の生活と思想にふれ、日本(人)と朝鮮韓国(人)の関
係を考えよう。みずからの差別意識や制度としての差別を克服するという視点に立って、
民衆連帯の基底をさぐっていきたい”といった趣旨に応えた人たちだった。いささか生硬
な呼びかけだが、当時は「在日朝鮮人」という呼称が総体的な民族の呼称としてコンセン
サスを得ていたのと同様、不自然はなかった。
翌一九七八年一月、第一回の例会を開き、金史良作品集から読みはじめた。第三回例会
に朝鮮人のオモニが初めて参加し、許南麒、金達寿とすすめるうち徐徐にふえて、四、五
年経った頃には、参加者は朝鮮人と日本人フィフティ・フィフティとなって今日に至って
いる。
空気だま
ムン
ま
文 真
ゆみ
弓
私は自分の小学一年生のときのことをよく覚えている。祖母は私に藤色のランドセルを
買ってくれた。
それは美しい藤色であった。
赤と黒以外のランドセルの子供など当時どこにもいなかったように思う。祖母はいった
いどこであのランドセルを買ってきたのだろうか。
娘と一緒に韓国学園へ通うことを考え始めたころ、なぜかしきりに私はこのランドセル
のことを思った。母にそんなことを話すと、母は忘れたと言って首をかしげた。
「多治見のハンメが買ってくれたじゃない」
私が言うと、
「そうだっけ」
と言ったきり母は何もいわないのである。
そのことを言いたくないのか、それとも思い出せないことを申し訳なく思っているのか、
母は黙っているばかりである。
私が生まれて幼稚園に入るまでの一時期、一家はもっともお金が無い時期であった。そ
れは京都での、わりと短期間の生活ではあったが、鴨川の土手に違法建築で住居を構えた
こともあった。そののち土建屋を始めた父と幼子との、あわただしい食べていくための日
常に母は二十代の廉直さでなりふりかまわず尽くした。そうした身を挺しての従順への反
動であったのか。三人の子がそれぞれに配偶者を見つけて自立をするやいなや、母はあっ
さり離婚をした。
「私、あのランドセルの色が嫌で嫌で」
私は話を続けた。
「うん」
母はかすかにほほ笑んだが、うわのそらでテレビを見ている。
今思えばあのランドセルはずいぶん個性的で、味方によってはあの藤色もそれなりに豊
かな色であったような気もしないのではない。しかし小学一年生の私の目にそれは苦々し
く映っていた。私は一匹の離れ猿の心境であり、なにかに圧倒されるような緊張を常に抱
いていた。
一年生の私が河原を早足で歩いている。ランドセルが私の背中で踊った。雨を含んだ雲
が空を覆っていた。私は同じ通学団の K という名の兄弟に追われているのであった。兄弟
は高い板塀に囲まれた洋風の屋敷に住んでいた。板塀の内側に放し飼いにされた白と黒の
模様の細長い鼻面の洋犬が、低く、うなるように吠えるのを時折聞いた。
K の弟は私と同級生だった。彼は落ち着かないいそがしい子供だった。しかし兄がいな
いときにはやさしいことも多かった。
K の兄弟は難なく私に追いついた。そして私の黄色い帽子を取り上げて、川に投げるぞ
という素振りを繰り返す。
「返して」
私は懇願した。
すると K の兄は、返してほしければこの川で泳いでみろ、というようなことを言った。
私は黙った。息を殺し遁走するすきをひたすらにうかがう。私は川面を見つめた。澄んだ
水がよどみなく流れていた。川底に堆積した汚泥がゆるやかに隆起してうねをなしていた。
K の兄は私ににじり寄って言う。
「脱げ」
K の兄の、歪んだ、邪悪な表情を私は今も忘れない。漂白された、硬いプラスティック
のように乾いて艶のない頬。薄い眉と茶色い瞳。大きな襟のシャツ。緑色の手提げ袋。小
学校の高学年ではなかっただろうか。痩せていた。K の兄はここで服を全部脱げ、と意地
悪く言った。
私はランドセルを肩から降ろし、傾斜したコンクリートの土止めにそっと置いた。私は
靴のままゆっくりと川に踏み込んだ。私に屈辱がなかったわけではない。ここで服を全部
脱ぐ、ということを思ったときに、川へ入るくらい何でもないという気持がふと起こった。
それだけだった。
今思えば恐ろしい事であるが、このときの川の水深が私の肩の少し下くらいであった。
水の流れは思ったよりは急で、私は汀の草の根元のあたりを両手でぎゅっと摑んで立って
いた。私は必死で水圧にあらがった。私は K の兄の顔を見まいとした。主のいない藤色の
ランドセルを時折見た。しばらくして K の兄は立ち去った。私を引き上げようとして伸ば
された K の弟の手を摑もうとして体を浮かせたとき、私の右足の靴が見る間に流れていっ
た。私は反射的に靴を取ろうと身をかがめた。強い流れが私の背中をふわっともちあげた。
後頭部がずんと水の中に沈んだ。一気に鼻と口から私は川の水を飲んだ。わあわあと言い
ながら私は水中を二メートルほど流されつつも、川べりの草をつかもうとして懸命に両手
をのばした。K の弟の小さい手がやっと私に届いて私は水から這い上がることができた。
K の弟も土手を遠く走り去って、とうとうその姿が見えなくなった。私はひとり残され
た。川へ入ったみじめさよりもそのことがなにより悲しかった。私は大声で泣いた。
このとき私はずぶぬれで家に帰ったに違いない。しかも靴が片方失われていたはずであ
る。母はそんな私を見て何と言ったのか、そんなことを私はすっかり忘れてしまっていた。
私は新品の靴を翌日までに買ってもらっただろうか。K の兄弟にとがめはなかったのか。
私はこの恐ろしい思い出を今日こそ母に確かめてみようと思うのだが、母はたぶん、
「知らない」
というに決まっている。この母であれば、流してしまった片方の靴をいまふたたび求め
ることなどしないのだろう。
私は六歳と三歳の、二人の娘を伴って歩いた。壁に囲まれた駅の構内を歩いていった。
次女が先をいく。上の娘、そして私と続く。
「ヨンジャ、サンジャ、ロジャ
ヨンジャ、サンジャ、ロジャ」
次女は階段を一段一段たしかめるようにして上がりながら歌った。容子、尚子、蕗子。
三姉妹の名の朝鮮語読みである。私は母に預けてきた末娘の蕗子のことをふと思った。蕗
子は七か月になり、後追いをする年齢で、今日も別れが泣けた。いまごろ泣いていないだ
ろうか。
階段を上がりきった。やっと地上に出た。方向感覚が失われている。先週ここを歩いた
記憶をたどり、歩道の右側の狭い駐車場のフェンスをぐるりと囲むようにして進んだ。車
がやっと一台通れるほどの細い道を入る。道の両脇が家々の玄関さきの赤いベゴニアの鉢
植えや側溝にポタポタと花を落とした山茶花の垣根へと繫がっているアスファルトの間所
である。私は歩き続ける。
「帰化? ああ、関係ないですよ」
電話で問い合わせたときにはそんなことを言われた。
『正しい在日朝鮮人』という偶像が
私の内心に在った。私にとって輝くべきは『正しい在日朝鮮人』であった。そうした偶像
への思いが私の闇を培った。私は私だけの闇を抱いて過ごしている。今月の初め、乳飲み
子を母に預け、電車を乗り継いでこの学校へやって来た。
十メートルほどの前方に、確か先週も見た親子の姿があった。お父さんと小さな二人の
男の子である。父親はグレーの無地のワイシャツの裾を出し、左手にセカンドバックを持
っていた。二人の男の子たちはおそろいで、綿の遊び着のようなものだった。背中に豊か
な肉をこんもりとまとった背の低い父親、丸い肩と邪気のない白いうなじをぴんと伸びた
まっすぐな背中に乗せた二人の息子。
父と子のからだの線はそれぞれに同形のたわみ方をしていた。三人は美しく調和のとれ
た相似形を成していた。しかし概観すれば父と子はまるで三人でひとつの生き物のように
律動していた。そんなふうに私には見えた。
私たちはこの父と子に追いつくことがなく、また父と子がどんどん先へ進んで行ってし
まうということもなかった。私たちは常に一定の距離を保ちながら道を行くのだった。
父と子がその建物の前にきて、左に折れて姿を消した。私と娘たちもしばらく遅れてそ
の門をくぐる。そこは韓国民団の経営する韓国語の学校である。その学校では毎週土曜日
の午後、小学生の韓国語のクラスがあり、私たちには今日が二回目の授業であった。広い
中庭は砂利がひいてあり、駐車場となっている。つきあたりの玄関の前にコンクリートの
野外階段がある。それを昇る。
「トンジャシ」
ホンという名の先生が廊下の私に声を掛けた。私の本名は桜木真弓である。しかし私は
ムン トンジャ
ここでは文冬子と名乗った。自分の名前を自分で付けることにはなにか不遜な感覚があっ
た。『真弓』という名前は祖母が付けた。例のランドセルの祖母である。『真弓』という名
前は朝鮮にないばかりではなく、それを韓国固有の漢字の読み方で読めばそれは奇妙な音
となる。祖母は私に、あきらかに朝鮮語では読めぬ名前を付けたのだろう。
二階の踊り場前の教室はアルミの引き戸になっていて、その周辺に子供がたくさん集ま
っていた。私は前を歩いていた相似形父子の子供を探すがトイレにでも行っているのか見
つからない。次女が不安な表情で私を見た。次女の頭に私は手を当てる。先生が来た。皆
が教室に入った。
「ああ、サンジャ」
ソンセンニム
「 先 生 、アンニョンハシムニッカ」
「ああ、オモニ、ケンチャナヨ」
若い、二十代の前半であろうと思われる女性が尚子の肩を抱いて押しこむようにして教
室に入っていってしまった。廊下側の窓から覗きこむと尚子はなにやら言い聞かされてい
る様子だった。真ん中あたりの席についた長女が速く消えたほうがいいと私に合図をした。
かがや
背中きらきら 燦 いて
ちからいっぱいまわりはするが
真珠もじつはまがいもの
ガラスどころか空気だま
(宮沢賢治『春と修羅』より)
街灯の下で早朝ランニングの足を止める。息が切れる。もう走れない。この先はとても
進めない。毎朝のことだ。体温が上昇していく。全身が汗ばみ、太腿部の鈍痛が堪え難い
ものとなってくる。
両足の筋肉に力をこめ、私はふたたび坂を進んだ。輪郭のない暗がりがいっとき心地好
く私を包んだ。闇の粒子が私のかわいた顔をなぜて行く。冷気が肺に充満し、このまま意
識が遠のいていくなら、こんなに楽なことはないと思うのだった。私の眼前には青っぽく
ゆらめいて広がる未明の気配があった。
コラム 読む会あれこれ 「
『架橋』のこと」
「読む会」を母体として、文芸誌『架橋』を創刊したのは、一九八〇年一月のはずだ。じ
つは創刊号の奥付に発行日付がないけれど、創刊号に書いた「会のあゆみ」や会録から推
して、間違いないだろう。
『架橋』は四号まで、二〇項足らずの冊子の体裁だった。メンバーこもごもエッセイを寄
せていた。
雑誌の形態をとりはじめたのは五号からで、そこに載った磯貝治良「梁のゆくえ」が『文
学界』に同人雑誌推薦作として転載されたのは幸先よかった。冊子の頃から連載をはじめ
た、奈良在住の裵鐘眞氏の「
『見果てぬ夢』雑誌ノート」が継続し、劉竜子、松本昭子、渡
野玖美らが力のこもった小説を発表し、買島憲治「雨森芳州シリーズ」の連作が始まった
のは八号から。これは近く単行本化の予定で、『架橋』掲載のものとして磯貝の『イ ルボネ
チャンビョク』
『在日疾風純情伝』
、近刊予定の渡野玖美第三小説集などにつぐ“成果”だ。
最近の数号、書き手は新たになったが、顔ぶれの固定が悩みのタネ。
許されぬ者
シン
申
ミョン
明
ギュン
均
「むかし、十五年も前だけど、名古屋に来たころね」
と平田がおもむろに言った。職場の同僚の仙波と酒を飲んでいたときである。
二十年ほど前、平田は名古屋に近い町の高校を卒業した。けれど、朝鮮人である彼には
キチンとした会社への就職が困難な時代であった。しかたなく彼は、何のあてもなく東京
にひとりで向かったのである。そして数年後、彼は、妻となった女を連れて名古屋に戻り、
仙波の勤める会社に入ったのだった。
「名古屋は美人が少ないところだなぁ、と思ったよ。そしたら、テレビで誰かが、竹下景
子が代表的な名古屋美人だと言っているのを聞いてね、そのとき納得するような気持ちに
なったよ。たいしたことないなぁって、ほんとうに名古屋には美人が少ないなぁって」
仙波は、ふふっと小さく笑ったけれど何も言わない。それは、その顔で竹下景子がたい
したことないなんて言えるか、と言っているようだし、お互いにもうそんな年でもないの
に、と言っているようにも平田には思われた。
「いやっ、そうじゃないんだ。ドキッとさせるような女がいないなって」
ひが
「それは君の僻みじゃないか?
今もし竹下景子に会ったらドキッとするよ。オレならす
るなぁ」
「そりゃぁ竹下景子だって一種の美人かもしれないけれど、オレが言うのはそうじゃない
んだ。名古屋の女は、なんか妙に現実的なんだな、生活的と言うか」
「……」
「東京に住んでいたころのことだけど、あるサークルですごい美人に出会ってね。オレは
つ
なんとかしようと一生懸命だったよ。必死だった。嘘も吐いたよ」
平田は、東京でいっしょに暮らしたことのある松子のことを思いだしていた。
「ふふん、その顔でか?」
「顔じゃないんだよ。君にはそんな経験がないかもしれないけれど、いちばん大切なこと
は、惚れています、愛しています、君がいなければ生きて行けない、と彼は私のために必
死になってくれている、と女に思わせることなんだ。自尊心を膨らませてやることなんだ」
「まさか、テレビドラマじゃあるまいし」
「それがまさかなんだよ、女にとってはね。一目惚れしました、愛してますって何度も言
われているうちに、だんだんその気になってしまうらしい」
「今の奥さんがそうなのか」
ひ
と
「違うよ。……別の女性のことだけど」
そのころ、松子は大学院に通っていた。
平田は、ある文化サークルで松子に初めて逢ったとき、夢の中でかなしばりに遭うよう
なショックを受けた。
平田が座っている隣に、ふっくらとした面立ちの、艶やかで張りのある肌をした松子が
立っていた。笑顔が、この席は空いていますかと訪ねているようだった。タマゴに目と鼻
を付けたような、おっとりとした松子の顔に、平田はいっぺんに魅せられてしまった。そ
れは、育ち方の違いというようなもので、平田にとっていちばんの泣き所であった。松子
は小柄だけれど、整った姿形には可愛さがあふれていた。白いセーターに薄茶色のスカー
トという地味な服装が、落ち着いた気品を感じさせた。平田は柔らかな髪を揺らしながら
隣りの席に腰を降ろした松子の姿に見惚れ、落ち着かない時間をすごすのだった。
平田はサークルに参加しても松子にばかり気をとられていた。せかされるような気持ち
で手紙を書いた。機会をうかがい、追いかけるようにして手紙を渡したとき、松子は驚く
ようすもなく笑顔で受け取ったので、彼は勢いを増して松子を慕う気持ちを募らせた。
強引に住所と電話番号を聞きだして、毎日のようにラブレターを送った。そして、しつ
こく電話を掛けつづけ、デートに誘うのだった。
そんな平田に松子は、じゃれついてくる子犬をあしらうような軽い気もちで接していた。
誘われて喫茶店でコーヒーを飲み、そのまま夜の街を散歩することもあった。
そんな付き合いが続いたある日、雑踏の中で押されてオタオタしている平田に、
「あなたってエスコートが下手ね」
と、松子は平田の腕をつかみ、笑いながら自分の腕をからませた。そんなとき平田は、
ひ
と
この女性にはかなわないなと思った。松子が大人であることを思い知らされるのであった。
やがて、ふたりはいっしょに食事し、酒を飲むようになった。
ある日、平田と松子は、ビルの階上にあるレストランに入った。松子が黒い制服を着た
ボーイに注文の品を告げた。しばらくすると、小さなバケツの容器に入ったワインの瓶と、
か
き
氷の器に盛られた牡蠣の料理が運ばれてきた。それが高級なフランス料理であることを平
田は知らなかった。そんな経験をしているうちに、平田は、いつしか、デートする場所も
食事する店も、注文する品も松子にまかせるようになっていた。平田は松子にリードされ
ながら安心感をおぼえるのだった。
ある夜、ふたりは青山公園に出ている屋台で酒を飲んでいた。平田が二本のタバコを口
にくわえて火を点け、一本を松子に渡したとき、それを見ていた屋台の主人が、
「そんな場
面を、むかしどこかで見たことがあったなぁ」と感慨をこめて言った。そして、しばらく
考え込んでから気がつき、主人はむかしの光景をふたりに語った。
かす
それは満州からの引き揚げ船でのことだった。日本の島影が微かに見えるころになると、
みんなは甲板に集まってきた。ほとんどの人が泣いていた。その中に、若い一組の夫婦ら
しいカップルがいた。男はタバコを二本くわえて火を点け、平田が松子にしたように一本
を女に渡した。主人はその場面を見て、なぜか感動したという。そして、そのとき、オレ
は生きて帰ってきたんだと実感した、という話だった。
その夜、反対方向に別れなければならない新宿のホームで、平田は思い切って、
「僕の部屋にこないか」
と誘った。屋台の主人の話が、彼に勇気を与えていた。
松子は恥じらいながら
「何もしない?」
と小さな声で言った。
「何もしない。ただ、君とこのまま別れたくないんだ」
平田は松子をアパートに誘い込むのに成功すると松子に挑み、そのまま互いを許しあう
生活が始まったのである。
松子は、田舎で農業をしている親からの仕送りでアパートを借りて生活していた。
大学を卒業した松子は、ある役所に公務員として就職したけれど、一年ほどで辞めて大
学院に入ったと言った。専門の研究がしたかったからと平田にその訳を説明したが、真実
は、妻子ある上司との恋愛に破れて身を引いたのだった。
平田は松子の過去をほとんど知らなかった。ただ、日々の生活の中で、ぼんやりとでは
あるが、松子には好きな人がいたということが感じられた。けれど、平田にとってそれは
何でもないことだった。松子は自分よりもずっと大人で、魅力もあり、勤めにも出ていた
のだから当然なことだと思っていた。
平田は松子にいちども年齢を聞いたことがなかった。けれど、松子のふだんの気配りや
振る舞いから、自分よりも年が上であることは簡単に想像がついた。実際は、松子は平田
より六歳年上だったのである。
平田にとって、松子との生活は快適なものだった。
松子は均整のとれた肉体をしていた。小柄である分、若く感じられた。蜜の詰った熟れ
た果実であった。しっとりした湿り気を帯びた松子の肌は、平田に飽きさせることのない
快楽を与えた。彼は松子に若い情熱をぶつけ、一夜になんども松子の肉体を貪った。そし
て、松子の肉体も、平田の欲望にじゅうぶん応えるのだった。
その反面、ふだんの生活の中の松子は、つつましやかな品位を保っていた。平田に対し
ては、親が子に向けるような細やかな優しさにあふれた態度を示すのだった。
平田は、松子に買い物を頼まれて預かった金を、同じサークルの仲間のために遣ってし
まったことがあった。平田は、金を落としたと言いわけをした。そんなとき、「嘘だけは言
わないでね。いちど嘘をつくと、そのためにまた嘘を言わなければならないでしょ。おね
がいね」
と優しく論すように言うだけで、決して責めることはなかった。松子は、自分よりも若
い平田のために喜んで尽くす女だった。平田が隠していた汚れた下着を見つけ「バカねぇ」
とでも言うような目で笑い、いそいそと洗濯をするのだった。スパゲティを茹で、サラダ
を盛り、ワインを注ぎながら目を潤ませてしまい、それだけが楽しくてたまらないという
ような境涯に浸る女であった。
「私の家は農家なの」
という松子に田舎のようすを尋ねると、庭に大きな柿の木があると言った。平田は大き
な柿の木の脇にひっそりと佇むように建っている藁葺きの小さな家を想像した。
平田は、松子が夏期休暇帰省するときに誘われて付いて行って驚いてしまった。
バスを降りて眺めると、村の真ん中に位置している、土塀で囲まれた大きな屋敷が松子
くぐ
の家だった。門を潜ると庭の敷石が玄関まで続いていた。左手の奥に離れ座敷が静かなた
たずまいで構えていた。その前に庭が広がり、松の木の陰に石灯籠が立っていた。
松子の家は、終戦まではこの村に何代も続いた庄屋であった。
玄関に入ると、黒光りしている一尺四方もある大黒柱に支えられた屋敷の、広い土間の
天井には、祖母が嫁入りするときに乗ってきたという駕籠が飾られてあった。それは、金
箔の下地に、複雑な模様の彫刻が施されたものであった。松子は平田に、おばあさんは、
ひい
嫁に来たときお姫さまと呼ばれていた、と平田に教えた。
平田が案内された部屋は離れ座敷であった。廊下の向こうには、この家の門を初めて潜
ったときに見た石灯籠が、松の植木の間に立っていた。床の間に、大小の二本の刀が、鹿
の角の刀掛けに飾られていた。そんな光景を時代劇の映画でしか見たことのない平田は刀
を抜き、髭に当てたり畳に刺してみたりした。
松子の言った大きな柿の木は、杉林に囲まれた広い裏庭の隅にあった。濃い緑の葉の間
に、まだ熟れぬ実をたわわに付けた枝が便所の屋根を覆っていた。
松子の父と母が農作業をしている傍らを、村人やこどもたちが挨拶をして通り過ぎる。
村人たちは、戦後の農地解放政策で田畑を手に入れることができた近隣の農家の人たちで
あり、こどもはそれらの家の孫たちであった。平田は、松子の家族に接する村人たちの姿
に不思議な感動をおぼえるとともに、身分制度のなごりのような雰囲気を感じて複雑な思
いをするのだった。
松子の家は旧家で、しかも、村人たちから尊敬を受けている家柄である。当然、すべて
において保守的にならざるをえない。けれど、松子の父と母は、ある日、突然、娘の友人
おうよう
か恋人か分からない得体の知れない男が現れても、少しも驚くようすを見せず、鷹揚に構
えていた。父は平田に酒を勧め、母は松子といっしょになって喜々として台所で立ち働い
ている。娘に無垢の信頼を寄せている二人のようすが平田には不思議でたまらなかった。
はばか
松子は、夜になると、平田のいる離れの部屋を訪れた。松子は親に 憚 るようすもなく、
目を潤ませて喜々としてやってくるのだった。平田は松子の体を抱きながら、松子の父と
母は、こんなことをしているオレを本当に許しているのだろうか、と考えたが、平田には
分からないことであった。
「でも、いくら口でそう言っても女だって相手を選ぶだろう」
と仙波が言った。平田は、
「そこが違うんだよ。ハンサムな男はプライドが邪魔して、自分から愛していますと言え
ぶおとこ
ないんだ。彼らは黙ってモテたい方だからね。それが証拠に醜男に美人が付くことってよ
くあるだろう」
と言った。
「そう言われればそうだなぁ」
「歯の浮くようなセリフでも何でも、とにかく良い気にさせればいいんだ。嘘だと分かっ
ていても、そのうちに、この人は私にこんなに一生懸命だからだまされてもいいわ、と思
うようになるんだ。美人な女ほどその傾向が強いね」
「へえ、そんなもんかね。それで?」
「でも、名古屋ではそれができない」
「どうして」
「結婚は、親が決めた相手とお見合いをするもんだと思っている。だから、恋愛すること
に罪悪感を持っているみたいだ。恐れてんだな、名古屋は保守的な街だからね。誰かが言
っていたよ、偉大なる田舎だって」
あしかが
松子は平田に、父は東京の大学を出、母は足利の女学校を出ていると言った。平田はそ
れを聞いて松子との行く末に暗い影を感じ、怯えるような気もちになった。
どんな愁嘆場を迎えようと、育ちの良さと血筋の誇りのようなものが決して彼等をジタ
バタさせはしないだろう、と感じられた。松子は、どんな選択を迫られてもたいして問題
にはしないだろう。けれど、彼女の父と母が、オレを朝鮮人だと知ったら、今の生活をは
たして彼らは許すだろうか、と平田の不安は増していくばかりである。
平田は、松子の父と母のおだやかな姿勢の中に、正面切って反対されるよりももっと強
い障害を予想しなければならなかった。
そして、破局はやがて訪れた。
平田は若かった。自分の可能性をどこまでもふくらますことのできる年齢である。怖い
もの知らずでいい気になっていた。
松子は平田の女になりきっていた。そのことが平田には負担になりかけていた。平田は、
松子を手放したくない、と心の底から思っていた。松子と別れた後の生活を想像すること
ができなかった。しかし、また一方で、こんな関係がいつまでも許されて続くはずがない、
とも思い始めていた。
平田は、松子の目を盗むようにして、同じサークルの若い女性と付き合うようになった。
それは、ある悲劇を予想して、心の中に防波堤を築く行為であった。いつしかそのことが
松子に知れた。平田が何をしても許してきた松子であったが、失恋を経験している年上の
彼女にとって、それだけはどうしても許せないことであった。松子は「ひどいわ」と言っ
て平田を責めた。平田は、すべてを失う覚悟を決め「さよなら」と言うと、松子は「ごめ
んなさい」と泣いて平田の胸にすがるのだった。
もてあそ
平田は、松子の気持ちを決し 弄 んだのではなかった。いずれ遭わなければならない悲し
みなら、立ち直れるうちの方がいい、と真剣に考えてのことだった。それは、平田にとっ
て、痛みを伴う覚悟の行為であった。けれど、松子は、平田が思っていたことと全く逆の
反応を示した。平田には、そんな松子の気持ちが分からなかった。ただ、女の悲しい性を
見る思いをするのであった。
平田は、松子が、私の家は農家なのと言ったとき、柿の木の脇の佇むように建っている
藁葺きの小さな家を想像したけれど、本当にそうであってくれたら良かったのにと思った。
うやま
土塀に囲まれた大きな屋敷に住み、村人にちから 敬 われている一族を相手に立ち向かうた
めの武器は、松子への形のない愛情だけである。平田は、自分の立場があまりにも弱いも
のであることを感じないではいられなかった。平田は、泣いている松子を抱きながら、今
りょうじょく
のオレは、松子の肉体を 陵 辱 しているただのオスにすぎないと思った。けれど、しかたが
ないんだと自分に言い聞かせ、物語の終りを予感するのであった。
店は、客が混んできてざわついていた。
こ
「偉大なる田舎か。オレは名古屋でしか暮らしたことないけれど、でも、きれいな娘は周
りにいっぱいいるよ」
と仙波が言った。平田はコップ酒を飲み干してから、
「だから困ってしまうんだ」
と言った。
「このごろはね、どんな女を見ても、みんな美人に見えてしまう」
「それならいいじゃないか。惚れています、愛していますってやれば」
「バカ、十五年まえの話をしてるんじゃねえか。もうそんな気は起きないよ。これって何
だと思う?……年のせいかなぁ。むかしはさぁ、名古屋の女は男をそんな気にさせないみ
こ
たいに感じていたんだ。この娘たちはみんなお見合いをして、それで何もかも決めてしま
うんだなと。だから、少しもドキドキするような魅力を感じなかった。ところがこっちが
半分男でなくなりかけた頃になって気がつくと、周りは美人だらけだよ。これって一種の
サギじゃないか」
仙波は酒を吹き出した。平田は、笑いごとではないんだと思った。
平田が松子と別れたのは二十年も前のことである。その間、彼はいちども松子に逢いた
いと思うことはなかった。ただ考えることは、松子に初めて出会ったときの、魂を突き上
げるよう衝撃はどこから沸き上がってきたものだったのだろうという疑問だった。そのこ
とだけが、いつまでも平田の心を刺すトゲとして残った。
松子の肉体を抱擁したいという欲望のために、動物的な本能にまかせて、いろんな策を
つ
弄し、嘘を吐いて騙したその智恵は、いったいどこから生まれてきたものだったのか。恥
も外聞きも恐れず、松子に向けたあの時の情熱はいったい何だったのだろう、と平田はこ
のごろよく考えるのだった。
仙波は名古屋でしか暮らしたことがないという。彼は、平田が中途入社した会社に高校
を卒業して以来の勤続である。彼は評価されてその分の地位を得ていた。見合い結婚をし
て二人のこどもがいた。彼はすべてにおいて無難な道を選んで人生をすごしてきたのだろ
う、と平田は思った。平田が日々の生活のなかで接する周りの若い女性たちも、信頼する
他の者たちに自分の将来を委ね、ただ、日々の無事だけを願いながら生きているとしか思
われなかった。
平田はこのごろ、むかし松子に抱いた愛情は、実はコンプレックスを裏返したものだっ
と
し
たのかもしれないと考えることがある。彼はそんな年齢になっていた。
平田は在日朝鮮人である。彼の人生の出発はすべてそこから始まっている。キチンとし
た就職ができなかった彼は、もしかしたら恋愛も結婚もできないかもしれないと恐れた時
期があった。社会にまともに迎え入れてもらえない者が、はたしてまともな人生を送るこ
とができるのだろうか、と。
そうして四十年の歳月を振りかえるとき、彼は、日本で生まれ育ったことに、ある種の
感慨を抱くのである。それは朝鮮人であるが故に、せっぱつまった欲望から得た多くの体
験を誇る喜びであり、また、日本人でないために諦めなければならないという境涯から学
いさぎょ
んだ 潔 さだった。
平田は、ある時、飽くことのない物事への執着が人を不幸の境地に落として入れるとし
たら、許されている限界を知る人生は、案外、幸せなものなのかもしれないと考えたこと
があった。
平田は、この春に高校を卒業した息子から、
「お父さん、自分の人生を振り返ってみてどうだった?」
と聞かれてとっさに返事ができなかった。息子の門出を祝って家族で食事会をしている
ときである。平田はしばらく考えてから、
「まぁ、いろいろあっておもしろかったよ。こんな人生はもうコリゴリだな」
と言った。それは平田の本音であった。息子の心の中にも、いろいろ屈折するものがあ
るのだろうと思った平田は、
「人生とは、自分はどこまで許される生き方ができるかを知ることかもしれない。だから、
君は、その限界に挑むことも大切なんだ。……なんでも思いきってやればいい」
と言った。それは、社会人としてスタートする息子に贈る祝いの言葉だった。
「それにしてもさぁ、若い女性がいちども恋愛をしないで見合いだけで将来を決めてしま
もったい
うなんて、なんか勿体ないような気がしないか?」
と平田が言った。仙波は黙って酒を飲んでいる。平田は、仙波が、それが悪いのかと抵
抗しているような気がして自分の主張に自身をなくした。仙波の横顔をながめながら、こ
いつは自分の人生を悔いることは一度もないのだろうが、と心の中でつぶやいた。しかし、
どちらの人生が良いのか平田には分からない。
平田はコップを握っている仙波の肩をたたきながら、
「また明日も仕事をがんばろうや」
と言って席を立った。
コラム 読む会あれこれ 「記念の集いアラカルト」
「読む会」二〇周年をいくらかでも感じとるために、節目節目に行った催しを記す。
一九七九年十二月一六日、講演と討論「いま在日朝鮮人文学を」を開催。作家の金石範
さんを招いての講演に併せ、磯貝の『始原の光――在日朝鮮人文学論』の出版記念を兼ね
た。参加者二〇名。
一九八七年十二月六日、一〇周年記念「表現と交流のマダン」を開催。これには京都か
らハンマダンのメンバーを招いて創作マダン劇が上演されたほか、名古屋のノリパン、ノ
ルトゥギ(いずれも「読む会」の仲間が加わっている)による民族楽器演奏と、舞踊、朝
鮮語朗読劇なども演じられた。
“蜜造”マッコルリもふるまわれて演者と客席一体となって
愉しんだ。参加者一二五名。
一九九二年十一月一日、十五周年「架橋を求めて――民族・文化・共生のマダン」を開
催。第一部、金石範さんの講演、第二部、マダンノリペ縁豆(ノクトゥ)のマダン劇上演を
愉しむ。参加者一一〇名。
さぁ、今年十二月には二〇周年記念を愉しもう。
再び韓国へ
チェ
蔡
ヒョウ
孝
初めて韓国の土を踏んで三年になろうとしていた。その間、何度か行きたいと思ったし
行く機会もあった。しかし、初めての時の切実感もなかったし、今度は韓国の戸籍から作
らねばならないので、なお気が重かった。日本人であり、日本で子を産みながら日本戸籍
を作らない人もいるという。日本人個人として、天皇制ヒエラルキーの象徴としての戸籍
制度の明快な拒否であり、歴史責任追究の明確な態度だと思う。日本のなかに、この様な
人々の存在することに驚いたが、また励まされもしていた。
戸籍制度こそ、部落差別、外国人差別をはじめ、その他諸々の差別に根拠を与え、合理
化してきた伏魔殿である。内鮮一体から一転、「朝鮮籍」、それ自体が朝鮮人を差別する為
に日本政府が符した号であり、あらゆる生の場面で在日同胞が、国籍=戸籍条項に苦しめ
られてきたのだ。反面、私は戸籍がないということが、何にも束縛されていないという証
拠であり、さっぱりとして痛快な気分でもあった。
だから、前回の韓国訪問にあたって、その自由と引き換えに「韓国籍」を取得したこと
が今だすっきりせずにいる。できるなら統一の日まで「朝鮮籍」を甘受し、堂々と自分の
意志で事後を選択するか、あるいは日本政府が「朝鮮籍」を付与したことの非を認め、ま
とまった補償金を手にするまで「朝鮮籍」でいればよかったと今でも思う。
一つ崩れると、また何かが崩れる。私は重い腰を上げ、晴れない心のまま戸籍を作る為
の書類を揃えた。
戸籍が出来たとの知らせを受け取ったのは書類を出して半年もたった頃だろうか。さし
たる感慨もないまま放置しておいたのが、年が明けて急に韓国に行っておかねばという思
いにつき動かされ、数次のパスポートを取ることにした。戸籍の目的はこれだったのだが、
これがなければ何で戸籍なんか……。
今年は私の家の節目になりそうなのだ。長男が大学に受かれば家を出て行くだろうし、
下の息子も小学校を卒業する。一つの屋根で暮らすのももうこれが最後になるかも知れな
い。せめてもう一度家族で韓国に行けたらと思い全員パスポートを申請した。例によって
またフスマを背景に写真を撮り合った。
戸籍からパスポート、そして再入国許可へと、そのたび区役所に登録済証明書を取りに
行くのだが、これまたその都度、職員から、
「登録を切替えてください。
」
と催促される。これもプレッシャーなのだ。私は前回署名を拒否したので登録の切替が
二年後だったのだが、とっくに過ぎている。その有効期間の最終日、外国人登録証の常時
携帯義務と、指紋の返還を求めた手紙を渡して切替を拒否したが、どうもその手紙が、そ
のままこの区役所残っていて持てあましているようだ。だから行く度に、
「登録を切替えて下さい。
」
「手紙お返しします」
の二点張りである。それでも拒否を貫いて来たのだが最後の再入国許可で入管と揉めた。
窓口の職員は当然の様に外国人登録証の提示を求めたが、私は登録済証明書を出してそ
の代わりにしてくれといった。当然のように職員は受け取れないと云った。
入管は外国人の在留とか再入国を管理するところで外国人でごった返している。一昔前
は、法務局合同庁舎の四階までエレベーターなしで歩かされた所だった。書式例の名前欄
には「金銀銅」とあり朝鮮人を対象にするにしてもあまりのバカバカしさに怒りを通り越
して笑ってしまったものだが。昔は登録の切替のたびにそこへ足を運んだ。今は部屋は一
階に移り、上まで歩かないで済むだけでも助かる。
女性職員は、さも当り前のように、
「登録証をお持ちではない方は、受け取れません。
」
登録済証明書で良いはずだ。前日に韓基徳君に電話して彼自身の体験を前例として聞い
ている。私はカッとなり相当大声を出した様だ。周りの人の視線を感じる。結局彼女は上
司のところへ飛んで行った。云われるまま、椅子に座って待つことを数十分。腰は低いが
抜け目のなさそうな、中間管理職的役人が私を呼んだ。私は極力感情的にならないように
心に戒めた。
「一応決まりでして。違法性のある方について、中央の方へ問い合わせた上電話します。
」
「何云ってるんですか。私みたいなのは全国に一杯いるでしょう。指紋押さなかった人に
も、最後は結局、出したじゃないですか?」
「前例をもう一度調べた上で……」
「名古屋でも、五、六年前あるはずです。」
私の現在の在留資格は特別永住で子も同じである。歴史的にはかつて日本人だったはず
だ。二十世紀初頭の植民地時代から今やもう二一世紀は目前である。こちらの希望はとも
かく、数十年も戸籍による差別を当たり前と考え、市民権を奪ってきた日本という国家は
一体何だろう。ベトナム難民を受け入れざるを得なくなり、初めて外国人の人権を国際規
格に見える様にとりつくろいはじめたのだ。
人間は誰でも自分の家に帰る権利があるし私の出自、資格からして日本が再入国を不許
可に出来るはずはない。登録の有無など形式にすぎない。調べてすぐ電話するという小役
人氏の言葉に一旦引き下がることにした。どうせいいやがらせの引き延ばしだろう。
出発は次の日曜日。あと一週間もない。当初家族でと考え、夫婦二人でとなり、結局、
私一人で行くことになって、さしたる高揚感もなくなったがこうなれば意地である。磯貝
治良氏に電話してものんびりしたものである。
「嫌がらせだわね。だめ元でぎりぎりやって、それで出れば意味は大きいね。だめだった
ら一旦切替えて、取るもん取って、また次やればいいんだわ。」
パク タリ
老成というか老獪というか、朴達だなあと考え込んでしまった。
私は十数年前の指紋捺印拒否が盛んな頃を思い出した。十六歳の子供達が次々と拒否し
ていった。ようやるわと半ば白けて見ていたが親しい知人も拒否し、そうもいっておれな
くなった。八五年の大量切替時には拒否及び留保者が一万数千名。逮捕者も多く出る程の
大運動に盛り上がっていた。あの運動は在日朝鮮人の総歴史を告発し、登録制度そのもの
を問うていた。指紋はその象徴だった。あの時、出会った言葉で忘れることのできないも
のが二つある。
一つはあるハルモニの言葉。こんな制度を子や孫に残してしまったのは私達の世代の責
任だ。恥かしい!
もう一つは関西の若い女性の言葉。指紋拒否しようと役所に出向いたが職員に、状況は
変わりつつあるので(指紋を押して)様子を見たらどうですかと説得された。そこで彼女
は、流れを横で見るより、彼女自身がその流れになってこの制度を変えて行きたいと云っ
たそうだ。
ハルモニの言葉に全く共感し、後者の女性には深い感動をおぼえ、今でもこの二つの言
葉に触発されて登録拒否などをやっているといっても過言ではない。
ハンションソク
あの運動は既成の組織が指導したものではない。たった一人の叛乱といわれる、韓 宗 碩 氏
の行動が、在日同胞ばかりか多くの日本人の共感を呼び一大運動に発展していった。日帝
時代の三・一独立運動に匹敵する、日本における特筆すべき民族運動だったと思っている。
その精神の一部なりとも私自身の糧にしたいと願っている。また指紋制度発足時よりこれ
を拒否してきた先達こそ、その無言の中に私が引き継がねばならぬものを感じる。そんな
時あの二つの言葉が私の励みになっている。
だから、ポリシーは理解できるが、そういうところで頑張らなくても他に……こんな風
に云ってくれる知人もいるが、私にはピンとこない。他に何の才もないのだから。
あれだけ盛り上がった運動だから私みたいな人間がまだ十人や百人いたっておかしくな
い。私は楽観していたが、二日経ち三日しても入管から電話はなかった。
私は大阪のH氏に電話をして状況を聞いて見た。彼は「民闘連」でバリバリ活動してき
た人だ。
チェ
「蔡さん、そらあかんわ。出ても単発やで。切替はせなあかんで。切替さえしとけば数次
は出しよるんや。ワシャ大阪の入管の課長とはツーカーやさかいな。
」
私が納得できず何かを云おうとすると、
チェ
「分かる、分かる。蔡さんの云わんとするところはよう分かる。けどな、行く度に入管行
って単発の再入国許可なんて面倒くさくてやっとれんで。切替はやるちゅうことで話つけ
たんや。この代わり、ワシの登録は役所に置いたままや、ここ十何年。取りに行かんと放
っといたったらええのんや」
なる程とうなずくしかない私だ。磯貝氏のいわんとするところもこういうことなのだな
と納得した。
単発の再入国許可を出すとの電話があったのは日数もギリギリ押しつまってからだった。
慌ただしく乗り込んだ、ソウル一三時三十分発釜山行きのセマウル号の指定席に腰を落
ト ン デ グ
ち着けて、今日初めて緊張の解けるのを覚えた。これから二時間五十分、東大邱まで列車
の旅だ。隣りに座った若い女性、やっぱりニンニク臭い息をしている。私は思わずニヤリ
としてしまう。その女性は週刊誌を眺めていたが、やがてシート倒し靴を脱いでうたた寝
をはじめた。あ、こんな仕掛けになっているのか、と私も靴を脱いでシートを倒した。
ノジャン
前の席では鳳山タルチュムの老丈が着ているような韓服を着けた老人が年齢不詳の女性
ア ヂュ ン
マ
と食堂車へコーヒーを飲みに行った。通路の向こう側では派手派手の中年女性と、まだあ
どけない軍人服の青年が親しげに話しをしている。女性は青年にみかんをむいて上げたり
して、かいがいしい感じがし、親子かなと思ったが、青年の方が先にあいさつをして下車
していったので多分見ず知らずの人だったのだろう。
そのアジュンマの左手中指には三階建ての様な金の指環、そしてその頂点には金のシャ
チならぬ、これでもかというとどめの真紅のルビー(に見えた)
。いやはや磯貝治良作「在
日疾風純情伝」の紅一点木下女史もかくやである。思わず、イヨー、ミスアジュンマ! と
声を掛けたくなるほどだったが、そのあとそんなのをいくらでも見て(特に中年に)そん
なものだったかと今では理解している。後ろでは幼い女の子と母親の旅。子供が窓外の景
色を見たりしてしきりに母親にたずねている。あれはどこだの何だの、その都度母親はう
るさがりもせずゆっくり答えている。ワッ、解る!
この子の話す言葉が理解できるでは
ないか。山だ、電車だ、鉄橋だ。噴飯ものだが、嬉しくて思わず人知れず微笑んだのだが、
こんな子が上手くウリマルを話すのにハングル歴十数年の私ときたら……。
車内販売員が何度も往き来する。ビールを飲みたかったが言葉を発声する気になれない
のだ。
ウルマルの先生の言葉が思い出される。
――あなた方はまだ下手なのですから早口で云わずに、ゆっくり正確に発音することです。
金浦空港で市内行きのバス乗り場を、自動小銃を持っている二人組の兵士にたずねたが、
不調だった。ソウル駅でも乗り場を聞いたところ、返って来た言葉は、シックスライン(六
番線)と英語だった。
ゆっくり話しすぎたのかも知れない。これぐらいは通ずるはずだという自負がないでは
ないが、今は話すことを止めようと思った。何故か周囲の人々に異和感を引き起こしては
まずいと思った。私は声を出さなくても充分幸福だった。たった一人でセマウル号に乗っ
ていることすら、奇跡に思えるのだった。沈黙しているこの時間すら愛しい。
スモッグのひどいソウルを離れるにつれ、空気は澄んで、空には雲一つない。冬枯れの
川の水は蒼く氷結しているところもあり驚く。
走り去る景色は日本と大差ない。道路には車が沢山走って街には高層マンションが立ち
並ぶ。がやはりここは韓国だ。枯木にカササギの巣があり、山の斜面には墓の土まんじゅ
うがある。果たしてこのくにと歴史の断絶を埋め合せることができるだろうか。ツーリス
トとして通り過ぎるのではなく、私の歴史の一部の中にこの旅を刻みつけることが出来る
のだろうか? またどのように。
列車は南へひた走る。これから会うべき肉親たちの姿すら想像できないでいる。明日か
ら父や母の故郷を訪ねる旅がどんなものになるかさえ解らない。だがその一つ一つが今で
は待ち遠しい。会ったらああも云おう、こうも云おう。母の生前のビデオや家族の写真も
持って来た。皆懐かしがってくれるだろうか?
それとも、口では歓迎しながら、私を厄
介者扱いにしないだろうか。窓外の景色を見ながらこんなことを繰反し何度も考えていた
ら不意に眠けが襲って来た。
母が話している。洗濯棒をふるいながら。
「兄弟皆帰ってしもて、私一人残った……。逢いたい……。」父も話す。「朝鮮帰って食え
るか、ワシは福井で墓に入るんや」姉が話す。「皆によろしく伝えての。私も来年行っから
……。
」
「写真頼むぞ」兄も話す。
「おめえ、何しに韓国行くんや、お互いそっとしといた方
が良いんでないか。」姉が話す。「行くなら行て来ねの。」息子が話す。「こんな家出てって
やる。
」娘が話す。
「お父うの問題でしょ。」妻が話す。「私は行けない。
」息子が話す。
「耳が痛いよう。
」
私は大声を上げそうになり目を開けた。網棚の上には兄弟達が送って来た金や写真が入
っているはずのバッグと、ユニーで買った一万九千円他の革のコートがそのま乗っかって
いる。
ト ン デ グ
日も大分傾いて、やがて列車は東大邱に到着するだろう。駅で待っていてくれるはずの
母の弟に出会えるだろうか。母が逝く少し前、沢山のスルメを持って福井まで来た彼とは
その時一度会ったきりだ。記憶も大分薄れて不安だった。
無事会えたら、そしたら、ここにいる間は何でも出されたものは食べ、勧められればど
れだけでも飲んでやると、心に決めていた。
ここからはすでに初めての土地なのだ。
霧――私と朝鮮人
つ
だ
ま
り
こ
津田真理子
渓間の霧
石見の渓間を縫うような深い寒村に、農家が点々と山を背景に静かに息づいている。わ
が家には父が買い求めた文学集や哲学書などが田舎にしては珍しいほど積まれていたが、
文化にも医療にもそのうえ店屋にも遠い地域であった。夜明けと共に人は起き、日暮るる
まで田畑で働き集落は助け合いながら暮していた。
さ なか
当時私は十歳、一九三九年日本は支那事変の最中である。子供たちは学校から帰ると子
守や家の手伝いをしながらも、みんなで遊ぶ日曜は楽しかった。春は野草を摘み男の子は
川へ魚とりのガラスを沈ませた。月に一日と十五日が農営の休日とされていて、学校から
帰った子供たちは母親の手作りの焼餅やおすしが楽しみであった。平穏な日々のさりげな
い会話のなかに、あそこの誰さんは朝鮮らしいなという言葉が私には何故か心にひっかか
った。
春風が砂埃をたてる頃、男子生徒が転校してきた。父親と二人暮らしの久さんの家は、
わが家の川向こうに仮住居の小さな家を建て、トタン屋根で作業場を造った。父親は製林
業をしていて寡黙の人に見受けられた。
久さんは時々学校を休んだ。私の父は教師で受持っていだが、黙認していたようである。
翌日の宿題や連絡を知らせに顔を出すと、一寸恥しそうにしながら、笑顔で頷いていた。
奥の方で板を削る音聞え、久さんの衣服に鋸屑が少し飛んでいた。
彼はなかなかユーモアがあり色々な知識を見につけていて、授業でもよく発言した。私
はもっと聞きたくて顔を合わすのが楽しみであった。相手が女の子であったら親しく訪ね
ていったかもしれないが、ひっそり暮らしているような父親と少年の暮らしをかいまみた
その雰囲気は、なんとなく遠慮があった。
「久さん朝鮮人って本当じゃろうか」
そんな声が耳に入るようになったのは、彼が度々休校するからか、それとも父親も近所
よ
そ
づきあいがないせいか、田舎では他所から移ってきてははっきりしないと、このような言
い方をするのかと不思議に思えた。
地理や国史を習うようになって、はじめて朝鮮は元々日本の国のものではないことを知
った。そういえば子供の遊びに/朝鮮征伐太閤記木下藤吉郎秀吉はー/という唄があった。
なにげなく口にしてお手玉をしたり、昔から云わるものとして私も興じ日々の暮しになじ
んでいた。
私は久さんの噂にしても誰が朝鮮人であろうとそれが問題ではなかった。ただ、チョン
だとか何か蔑視する言い方は何故なのか知りたいと思った。いじめたりするようなことは
なかったが、久さん親子は何を感じていたかも知る由もなかった。
まだ差別とか、人権を守るとかそんな言葉も知らない五年生の私は、同じ人間なのに一
体その底になにがあるのだろう、一度父に聞いたことがあった。
「お前はいちいち理屈を言って、大人になれば分かる、少し黙っておれ」
今にして思えば軍国主義教育の時代に娘に質問されたのでは、返事に困ったのであろう。
うねり
危惧されていた日本軍によるパールファーバーの攻撃から大東亜戦争と言われた二年目
の春に、津和野の女学校に入学のため住居をその街に移した。
あこがれのセーラー服、どの授業も私は好奇心に満ち学ぶことが楽しくて面白かった。
大勢の教師のなかで、時にはロマンも聞いたり、休日には友人と語り遊ぶ、生活はきびし
かったが私の求めた学生生活の頂点だと思った。徒然草を開き、また地理で日本の鉄道や
産物を見ていると自分が旅行しているような気分にまで入りこんでいった。
しかしその喜びや抱いた夢は僅か一年半で薄くなり、日を追って戦時色に濃く包まれて
いった。
新聞を大きく飾りたてた勝利の報道も、端の方にわが軍の損害軽微なりとして載ること
が多くなってきた。街には真先お菓子が姿を消し、食品の数が少くなり値も上り、暮しは
益々追いつめられていく。
セーラー服からモンペ姿の上下が制服になり記名を胸に縫いとった。男性教師は背広か
ら詰襟の国民服といわれたベージュ一色、ゲートル姿に変えさせられた。毎朝、国のため
に頑張って下さいという訓示が続いた。
授業は三時間であったり午前中で、出征兵士の家の手伝いにはじまり、いつの間にか農
家の稲刈の奉仕、水害の復興作業、俵編みなど学習の時間は削られた。勉強もしないで、
テストはどうなるんだろう、そんな不安を友と話しながらも、いつの間にかそれが当然と
なり、どうしようもない大きな渦の中へ巻き込まれていたのである。
奉仕先で用意された昼食のおむすびを頬張りながら語りあうひとときが私たちの自由の
時間であるような気がした。なぜか、戦争の話よりも、教師のロマンの噂とか女学校のさ
さやかな夢を描いたりした。奉仕のない日は空襲警報の訓練、竹槍の訓練、手旗信号など
繰返され、鞄の中で教科書がひっそりしていた。
大きな波のうねりが押寄せている。それはなにか、口に出せない不安を秘かに感じた。
音と光の炸裂
戦いは益々苛烈を極める頃、三年目に入った年の三月、私たち三年生は学徒動員として
出雲の紡績工場へ向かった。すでに上級生は各都会へそれぞれ学徒として或いは挺身隊と
いう名で行っていた。その様子や安否など風の便りぐらいであった。
学校に残っているのは半数になった下級生と、次々と召集されていった若い男性教師が
抜けた、なにか歯の抜けたような校舎になった。
それぞれ家族が見送りに来た。
「身体気をつけてね」
なにが起るかわからない時勢下でも国のために役立つことを誇りとした時代。不安でた
まらない思いであったとしても、本音では何も言えないことを誰もが黙認していた。
母は自分が結核を痛んだ身体であっただけに、尚更、娘が心配であったと思う。
「無理しないでね」
小さな声でささやいてくれた。空襲で死ぬようなことがあるだろうか、死んではいけな
い、母をかなしませてはいけない、そう思いながら、
「心配しないでね」
多くを語る間もなく混雑した列車に乗る手を振ることもできず、ガタンと音を立てた。
各駅から乗車し同級生たちと、少しばかり緊張しながら詰め合って並んだ。
盆地を抜けて石見の海辺を走る頃、
「左の窓を開けてみて」
という声が伝わってきた。下級生が塩田作業に働いている姿が目に映った。鉢巻をして
津和野高女のしるしの旗を大きく振っていた。
お互い手を振ったが、私はこの時ほど下級生がいとしいと思ったことはなかった。一生
懸命生き抜くことだけだ、そんな感情に包まれて、約六時間揺られて出雲に着いた。
駅から十分も歩いたところにこれから働く工場が見え門をくぐると遮断されたような気
がした。決められた寮舎は工場に続いて並んだ山を背景にした、一番高所で見晴しのよい
位置である。僅かな手荷物とチッキを広い部屋に二十人位ずつわり振られた。これが私の
住家、いつまでかなー、ふと安堵と緊張がないまぜになっていた。
翌日は昨日の爽やかな春と違って、思いもよらない銀世界に、美しさよりも故郷と離れ
たことの実感に迫られて、父母への思いの感情が友人にちらちらと見えたりした。寄宿生
はさほどではなくても、はじめて動員による長く続くであろう合宿生活を味わったのであ
る。
工場の名前は、サン六七五一工場と呼ばれた。胸に工場名と氏名を書いた布を縫いとっ
たモンペ姿になり、工場の見学と説明がはじまる。学徒動員が、今までの農家の奉仕とは
違った重さを受けたのは、布製の戦闘帽をかむることだけではなかった。
大きな機械の音、汗と油の臭いがコンクリートの床にまで浸みこんでいるかと思うほど、
鼻をつく。挺身隊で来ていると思われる先輩の女性がきびきびと動いている。
巻糸撚糸、一本の細い糸が厚地の白い生地になり、検査して発送するまでの工程を見る
のは初めてあった。一日中、この機械の前で働くのだ。今までのように外気に触れること
も少くなるだろう。心のきりかえをしなければ。戦時下という言葉が一層深くなってくる。
翌日から部所が決り、先輩に指導され、一生懸命仕事を覚えることに集中した。八時半
宿舎を出て工場に入り夕方までの労働、昼食時のひとときが、僅かに語り合える時間であ
った。
六月に入る頃から二交代が三交代になり、昼夜稼動の日々に身体の不調を訴える人たち
があった。仕事の重軽の差が不満となり、トラブルも起きた。津和野高女の部所の担当副
係をさせられていた私は、組織のむづかしさを味わいながら、苛立ちや疲労を訴える友人
の声も受けとめつつ学校側に話し合ったり、そんなことで親しい友と相反した苦い思いも
味わった。まさにあちらをたてればこちらがたたずの心境である。
或る日、従業者全員、広い講堂で演劇を見せてくれるという通知があった。こんな押迫
った時代に、でもゆっくりできる半日は嬉しいし、戦局時の演劇とは日本の歴史かななど、
想像しながら座に坐った。
幕が開く。舞台には誰もいない。おやっと思っていると観客席の方から響き渡る大きい
声、最初は何を言ってるかよく分からなかった程の声の波動にそちらに眼を向けた。
「アーリガタヤ ニッポン、ニッポンバンザイ」
後の言葉は忘れたが、日の丸の旗を振りながら軍服姿の朝鮮の青年が何度もそれを繰返
しつつ舞台に立った。
旗を大きく振っては床にひれ伏し、それを繰返したあと舞踊に入ったのだが、そのあと
のことはなにひとつ頭に残っていない。ただあの言葉だけが、ぐんぐん迫り、娘心にもう
止めてというなんともいいようのない感情が湧いてきた。自分の心もつかめない。
私はあの光景を思い出す度に、つい考えている。あの青年は日本人として育ち誇りを持
っていたのだろうか。日本人にさせられて、軍国主義の時代に順応していたのか、胸の中
に民族の誇りを持ちつつ耐えていたのだろうかなど、日本からみた朝鮮の歴史のみでなく、
朝鮮の歴史を知らされてはじめて自分に問いかけてみることが少しずつできるようになっ
た。
新聞も目に入らぬ生活であったが、切迫した様子はいたるところで実感があった。たま
に外出を許されて門を出る時は嬉しかった。午後の休日、友人と町を歩く、ところどころ
ぽっかり空地が出来ている。建物疎開がここでも始まっていたのであった。
B29が飛来するのは毎晩のようになってきた。まっ暗になった工場を手さぐりで裏山
の森に一列になって避難する。労働に疲れた私たちは、空を飛ぶ点の灯りをぼんやり見つ
めていた。
七月、その日は休日暑い盛りであった。突然なんの前ぶれもなく、轟音が空から響き、
ばらばらという音。私たちは一斉に何ごとかと窓へかけよっていた。反射的な行動であっ
た。あっ見えた、と思ったとき、
「馬鹿者、押入れにかくれろ」
まさに割鐘のような先生の声に私達は飛びこんだ。
「お母ちゃーん」
誰かが叫んでいた。これが戦争だ。これが機銃掃射だ。低空飛行してきた機内から、兵
士の顔が見え銃が左右に動くのがはっきり見えた。敵の兵士というより、余りの急撃に、
青空に見たその光景が一瞬であったが強烈に映った。ばらばらの音が止み空襲警報が鳴り
はじめた。恐さが襲ったのは落ち着いてからである。暫く顔を見合せて言葉がなかった。
警報もなく弾は飛ぶ、訓練など及びもつかない戦争の実態を味わった恐怖であった。後日
母から聞いた話だと、祖父が松江に行く列車に向けて発射された弾が目前の男に命中し、
まさに身体がふっとび、言葉は出なかったという。出雲に下車し、私に逢ってくるつもり
が立往生で、別の列車で引返したのである。同日であったから、この地が目的であったの
だろうか。
八月六日朝、通勤途中にドーンというにぶい音を聞いた。なに、あの音、私たちの足は
一瞬止った。しかし黙ってまた歩き工場に入った。休憩時、かくれるように集ってどこか
らとなく、日本はどうなるの、負けるのではという声が囁かれた。
食事は殆ど米粒は少し見えるくらいで、いも、大豆、きびなど食糧事情の困難さが食卓
に示された。相変わらず機械を廻し続けた。広島に落ちたのは原子爆弾であり、十日余り
で敗戦の日を迎えた。
これからどうなるのだろうという不安はあったが、とにかく終わったと思った。敵も味
方もどれだけ血を流し殺し合ったか、戦争とは何だったのか、朝鮮の人たちのことが浮か
んだ。だが、なにひとつ分からないまま、私達女学校の学徒動員も終った。
再び女学校に出席できるようになったのは九月に入ってからであった。校舎も校庭もす
っかり荒れて、下級生も畠を作り作業をし勉強にはならなかったのであろう。
警報のサイレンの音を聞くこともなくなり、愛する肉親を戦場に送ることは終り、安心
した夜を迎えることができるようになったとはいえ、これから先、どうなることか、全く
予想すらできなかった。
出征していた先生も復員して再び教壇に立ち、生徒共々再会を喜びつつも、軍国主義か
ら民主主義へ希望と戸惑いにさまざま揺れた時代であった。
東京にマッカーサー司令部ができ、日本が少しずつ変わっていた。
四年生になった翌年三月、復校して僅か半年の授業で卒業を迎えた。文系を勉強したい
と思った私の希望は、家庭の事情で許されず将来の目的もつかめないまま校門を後にした。
「好きだったのでしょう、文学。進学すると思っていたけど、その志忘れずに、どこにい
ても書きなさい」
尊敬していた教師の言葉が、秘かな私の夢として自分を納得させていた。
釜山からの風
敗戦後のわが家も毎日やりくりが続いた。祖父をはじめ家族七人、半農の米を決められ
ただけ供出すると、殆ど代用食でまかなった。土のあるところはどんなところまでと思う
程、急傾斜の山を耕していった。その頃、闇商人といわれた人が、この山奥まで入ってく
るようになり、取締りも厳しくなった。筍生活といわれた時代である。
津和野町から実家へ帰ってきた私は、小学校で別れたままの久さんの消息が気になった。
敗戦間際、戦死したことが分かった。多くの若い生命が散ったその一人となったのである。
若者になった久さんを想像していたが、話を聞き語り合うことはできなかった。ましてや、
父親の様子は知る由もなかった。
そんな時、釜山から父方の伯母家族六人が引揚げて、わが家に身を寄せた。伯父と青年
の息子二人は十日ばかりで他へ移っていったが、伯母と幼子二人は仮住居が出来上るまで
生活を共にすることになった。伯母の心は荒れ沈んでいた。
結婚して間もなく朝鮮に渡り、ひたすら正直に魚屋を経営してきたのに、何ひとつ持つ
ことも出来ず、今までの苦労はなんだったのかと、考えても考えても悔し涙が流れるよう
であった。
「なにか朝鮮人に対して威張っとったんじゃろう。しょうがない、負けたんじゃ、元気出
せ」
今更愚痴を言ってもせんないことと、父は慰さめ励ます気持であったが、伯母にしてみ
れば何十年もの暮らしを想い、心の整理がすぐさまつきようもなかった。
「わたしら、何ひとつ朝鮮人ゆうて馬鹿にはせんかった。別れる時みんな泣いて送ってく
れた。でも暮したところから離れると、日本人であるだけでひどいものだった」
と放心したような日々が続いた。
母はどのようなねぎらいの言葉をかけたらいいのかもつかめず、心身いやして貰おうと
気を使ったが、伯母にとってはそれがまた痛みに感じ、一寸したことでもこだわり、気拙
い空気も流れたりした。しかし心の中ではお互い女の苦しみを分ち合っていたのでもあっ
た。
日本人と朝鮮人、同じ人間が憎み合わなければならなくなった、これは一体何んだろう、
戦争、植民地という言葉、何故の疑問を沢山重ね誰に話すこともなく慌しい暮しのなかで
日は流れた。
私は母と真剣にこうしたことや、人生について語り合いたかった。畑に出た時、二人に
なると賛美歌を口ずさんでいた、母の生き方に変らぬ一貫性を感じていた。しかし、ゆっ
くり向き合って対話する時間がとれるような生活ではなかった。今の時代から考えると、
その日が精いっぱい、人生論など口にできなかった。
伯母の家族が新しい家へ移ったのは、五ヵ月ばかり先であった。ひと筋の道が見え、元
気をとり戻していた。朝鮮で覚えた腕で再び魚屋を開く望みを持ったのである。
ようやく生活も落着くようになった頃、結核を再発した母は八ヵ月ばかり病み医療もま
だ届かぬまま、一九四八年逝った。私が一九歳の春であった。
「弱い人の立場になって考えなさい。人を差別してはいけないよ」
「みんな顔が違うように生き方も違う、他と比較しないで自分も大切にしなさい」
「自立して生きること、腹が立つ程、静かに行動しようね」
ひとつの問題をかけて話すことはできなかったが、私を呼んで静かに教えてくれたこの
三つの言葉は忘れられなかった。母が私に遺してくれた唯一の愛であったと思う。
霧の彼方
二十六歳になった時、父が再婚した。女学校の先輩にあたる人で一歳年上であったけれ
ど、朝鮮に渡っていたので女学校では面識はなかった。一歳年上の継母。お互い紆余曲折
を経て、私は自立の道を選び、二十七歳になって益田市に移住した。
女学校の二年先輩でありクリスチャンの姉妹が、間借りしているそこへ呼んでくれたの
である。共同生活が出発点となった。小さな食料品と日用雑貨の店の二階であった。
洋裁店で縫子として働く生活はきびしかったが、六畳一間のわが城は自由の喜びがあっ
た。自分を生きている充実感があった。
“ひろしま”
“青い山脈”
“またあう日まで”胸をときめかして観た私の青春のひとこまで
あった。
そんな或る日、野外聖書研究会があり、数名の集会に出席した。春の微風のなかで牧師
の話を聞き賛美歌をうたう時間は、勤めの都合で教会に容易に行けない私にとって、心安
まるひと時を過した。
終わったあと、みんなで語り合っていると、
「僕、ひと足先に帰ります」
「ああ、身体大事に気をつけて下さいね」
すらりとした美少年で、高校生の一人であった。後になって、あの学生さんは山本さん
の息子さんだと聞いた。はじめて在日朝鮮人であることを知った。父親の山本さんとは礼
拝の日に挨拶するくらしで話したことはなかったし、家族のことなども知らないでいた。
微笑をみせて、はっきり発言したハンサムの学生、なんとなく印象に残った。
朝鮮名、卞元守さん、このように親しく長い交りになるなど思ってもみなかった。出会
いのはじまりである。
八月の旅より
り か み
よ こ
梨花美代子
隠岐島への旅
ある年の敗戦の日、私は城崎にいた。ここは初めてでは無かったが、何時もJRの青春
18切符を使って出掛けていった。普通列車を乗り継ぎ乗り換え名古屋近在から早朝発っ
ても城崎に着くのは夕方近くなる。明るい内に宿をとり、見物、買物、風呂めぐりのあと
食事をかねて一杯飲むゆとりもあって都合がよかったからだ。
さて一泊した次の日は浦富海岸と鳥取の砂丘をみて境港に直行、予約してあった旅館に
シチルイ
着いたのは夜の十二時を過ぎていた。その翌朝七類から目的の隠岐島に渡ったのは出発し
てから三日目、青春18切符二枚、四千四百円で島根半島の先端まで来れた勘定である。
ド ウゴ
隠岐島への四時間半は思ったより波も静かで島後の西郷港に着き、民宿に泊り、翌日島
ア
マ
前の島後羽院の終焉の地である海士に渡った。時間ぎりぎりに入れた歴史資料館では館長
が親切そのもののような人でらくに見学出来たばかりでなく、お年寄りの営む民宿の紹介
から次のスケジュールまで相談にのってもらえたので海士には二泊したのだった。
この地で拝みする人間天皇島後羽院の肉筆の「怨念の書」切り継の「新古今集」「遠島百
首」等々ガラス戸ごしであっても脳裏にやきついて私自身の生き方のあやうさ加減を知ら
され、かの松籟の音に心をか乱される想いだった。西郷港を発つ時に買った詩集「潮風に
チ
ブ
リ トウ
吹かれて」の竹川恵子さんの住む知夫里島に寄って、集中にある<夕日>の丘に立ち島々
に別れを告げ三日間の隠岐島を後にしたのだ。
旅につきもののハプニングはここでもおこった。今思い出しでも笑えてしまう船の中で
の一駒を記してみよう。
境港にむかう汽船の乗客はそう多くはなかったが船室を空にして甲板にあがって涼んで
いた。売店の前に腰掛けてコーラを飲んでいた男の人が近づいてきた。デッキにもたれて
スケッチしていた私を大分前から見ていたらしく、海バカリミテテヨウアキンネと言いた
いのが紙コップを左手に代えて波を覗き込んでいる後頭がうすい。陽に当っている。
私はあわててスケッチブックを閉じ、退屈しのぎに此処へやってきたのか時計とかアク
セサリーでも薦めるのかと咄嗟に思ったが、違っていた。コノ海ニ飛び込ム気ナラ一緒ニ
死ンデ上ゲテモイイ
話ニヨッテハ……と云うわけだ。買ってきてくれたコーラを手にす
ると、紙コップいっぱいのかき氷がずっしりと眼下の黒々とした波と重なり掌に心地よか
った。コーラと海は全く同じ色だった。
ダイセン
半島突端や大山が見える迄には優に二時間はある筈だ。一口二口飲みながらこの商人風
の小父さんの顔をまじまじと見た。
売店の方を時々気にしているのは連れの人たちが居るからだろう。
――深いだろうね……底の方は冷たいんじゃあないかな……鱶がいるだろうか……(男)
私は黙ってコーラの波をみていた。
――いいんじゃあないですか……(女)
――えッどうして? しっかり結んでも解けちゃうかな……(男)
笑いが込み上げてきたが堪えて
――多摩川上水の太宰治みたいに? でもここは日本海の荒波ですものね……(女)
帯一筋ニ入水スルナラ白イ布
ソウ新シイ長イハラマキガイイ
デ
相手ハダレニシヨ
ウ
声になって出たのはこうだった。
――飛び込んだらすぐ船は止まるでしょうね。こう甲板に<どざえもん>が二つ引き揚
げられるってわけね。
(女)
――奥さん悲しむでしょうね……(女)
――家のことは言わんどいてと、さっき言ったやろう(男)
三十年ホド前新潟ノ港デ日本海ヲ見ツメテイタ時ハ悲愴ダッタ
アノトキ
九歳ノ吾ガ子ガ泳イデデモ
海ヲ渡リタイト
帰国デキナカッタノハ
泣キジャクルモノダカラ……私
ハ飛ビ込ムコトガ出来ナカッタ ノダガ……
少し不機嫌な小父さんを慰めるつもりで、
――ごめんなさい 私の子供の顔がちらついたもんですから、 つい(女)
――あんた優しいんだね……(男)
――船を停めるなんて随分人騒がせなことですものね。みんなに迷惑かけるし……(女)
何時の間にか連れらしい人達がニヤニヤして立っている。ドウヤラ幕ガ降リルヨウダ…
…
四人は売店の反対がわにゆっくり去って行ったが小父さんはまた戻ってきて名刺を手渡
してくれた。やはり時計商だった。
――松江にきたら寄って下さい。えッ電話はだめ、これは内緒にね、ね……(男)
この間なんと四十分。地球は丸いから日本列島どこの崎も現われなかった。何事もなか
ったのだ。波の上も船の人も変わりない。
スケッチブックをとりあげ昨夜移し書きした<夕日>を目で追った。まだ心は波うって
いた。
入江にそって
居並ぶ漁村の
赤瓦の屋根の下で
老婆が死んだ
茶碗を打った音がした
命のこわれた音だった
昔は入江をかけめぐり
夕日の流れた海面が
つぶやく様にさざめいた
漁師の肩にかつがれて
老婆の柩は丘に登り
丘は夕日に抱かれて
漁村は波に漂い眠る
何処からも見えはしない朝鮮半島、たとえ漂流物にハングル文字が有ったとしても晴れ
ハナレコジマ
た日には富士山が見えるという伝説めいた僅かな期待に、離 島 をかけめぐる私の心の船旅。
上州の夏
五十年ぶりに尋ねるこの道の先に今もあの中学校はあるのだろうか、地図では高校とな
っているが昔の軍隊があったことなど知る人もないのではと、不安に駆られながらも高崎
で乗り換え上州富岡までは来たもののその高校の前に着くと足が進まなかった。
町全体が都会的で建物も道も皆変っていて私の青春をおいてきたような懐かしさを抱い
て来たことが気の抜ける思いがした。それでも引き返すわけにはいかない。ホテルも予約
してあったし母の郷里も訪ねたかった。
立派な右の門をくぐると微かな思い出がよぎった。道も広くなり建物もいくつも増えて
見たこともない景色の中にあの石の門は見覚えがあった。横に歩哨が立っていたのだった。
やはりこの高校に違いないと勇気をだして入っていった。夏休みと旧盆と重なったせいか
教員室には二、三の先生しかいなかったが、挨拶をすます教庭へ案内してくれた。
五十年前の今日、八月十五日この教庭に土下座して昭和天皇のラジオ放送を聴いたのだ
った。当時は玉音と云わねばいけなかった。頭は土まで下げていたので内容はよく解らな
かったが啜り泣く声が長く続いてたあの昼は今日よりもずっと暑かった。
「何しろ戦争に負けたのだ」と感じたが具体的には何がどうなるのが十九歳の私には解ら
なかった。これからも勤務していいのか先の見通しなど指示が無いまま二、三日は弁当持
参して後片付けをしたような記憶があり、同じ副官部にいたSさんから手紙を受け取り、
どんな仕事をするのか知らぬまま自分の家には帰らず直接九州に発ったのだった。
カブラカワ
校庭に立ってみるとさまざまの思い出が去来した。近くの 鏑 川にも下りてみたが川幅は
広くなりヤマメのいた渓流とはとても思われないが、昼休みなどよく川に下りて遊んだ覚
えがある。ついでに一人であちらこちら歩き回りたくなって楠公社にも行ってみた。
楠公社とは校庭の奥に祀ってあった神殿のことで楠公祭は青葉茂れる五月に行なわれる
大運動会で最大のイベントであった。
あの敗戦の日、二人の兵が割腹自殺をした。知らせで私もその兵舎の入口まで行ったが、
二人の編上靴を両手にぶら下げて「私も死にたいのに、今は誰だって、それをこらえてい
るのに」と呟きながら戻ってきてしまった。
軍隊が無くなったあと道を隔てた一劃に楠公社は移され二人の霊も祀られたのかもしれ
ない。夏になると校庭から怨念の呻き声が聞こえると伝説めいた話まで出ているそうだ。
運動会のあと川原に下り二人の内の一人と私は何を話してたのだろう。澄んだ川の底に魚
がみえ隠れしていたと思う。
教頭先生が職員室で待っていて下さり、昔の東部三十三部隊軍事調査部は中野学校富岡
分校となっている由、資料を探しだして見せてもらったが古い記録は殆どなかった。
副官部とは秘書課のような処で軍人の他に徴用で臨時の仕事をしていた軍属の男子数名
と女子雇員も軍属で七、八名いた。私の働いていた印刷室は副官部でも事務室と離れてい
た為、タイプで打った資料を印刷製本するのが主な仕事だった私は両方を往き来していた。
Sさんは事務室でタイピストをしていた。
印刷物は時に秘密文書あり、時に戦略戦術の図入りのテキストづくりであったりした。
それでもここがスパイ養成所とは知らず経理や酒保などへもあまり行かなかった。
五十年の歳月はその存在すら不透明にしているようだ。戦争末期の異常なまでにかきた
てられた青春のエネルギーは無為に崩れた。世代は新しく確実に移り変ったのだ。
即興で旨くまとめられる筈はなかったが短歌に託して富岡高校を辞した。
◇五十年の歳月の節目より
ふき出す校庭の土よ触れれば熱し
◇静もれる炎天の広場白かりき
かつ暑かりき敗戦を告げ
◇鏑川清き流れた国の破れ
発破作業の響きききいつ
◇ただ一度講堂で観し映画あり
「風と共にさりぬ」は無声なりし
◇富岡の中学校に軍が来て
スパイごっこの明け暮れとなる
◇軍隊のありたる跡の何一つ
見出だし得ねば歳月なるか
◇庭石に茗荷しげりて白き花
こぼる五十年を咲きつづくるや
◇桑畑も蒟蒻畑も少なくて
稲田の黄のいずくまで続く
◇再びは訪うこと無からん上州の
夏に終りし幾つかのあり
○
母を知る人も少なくなった郷里で先ず訪ねてみたのは昔の私の下宿先の家で、母の親戚
と聞いていた。当時兵隊に行き留守だった今の戸主の一太郎さんに母の祖父の代からの伝
え語りを聞くことができた。
たしか上州の下仁田に母は生れたが東京へ先に出ていた兄をたよって東京の町外れに父
と所帯をもったのだと聞いていたがその母も世を去って二十年あまりたっている。
よく冷えた西瓜が生温くなる迄耳を傾けたが話はつきず初めて聞くことが多かった。
今では母の生れた家もないし育った頃の身内の者も殆ど居ない。しかし母はこの上州で
確かに生れ貧しいなかを真剣に生きてきたのだ。人買いが横行する時代に口減らし人減ら
しのため売られたも同然のように製糸工場や奉公に出されて働き、それでも成人してから
故郷に錦を飾り華やかに帰ったのだ。
母についてかなり前からよく理解できなかったからかも知れないが許せない一つを抱き
続けてきた。少なくとも今度の旅でここにくるまでは心の襞にしまわれてきたのだった。
それは私のアイデンティティーを認めようとしなかった母の人間性に関わる問題であり、
現在の私の支えになっていると言えよう。
もう一泊するよう市議会議員の一太郎氏は都合つけてくれたが、上州を去ることにした。
生にの親ではなくても乳飲み子から育ててくれた母である。もう詮索するのはやめよう。
決断の旅は終りに近づいた。
今日は敗戦の日、私の八月の旅の出発点だ。
八月の旅それは私の戦後の総てが包まれる。
下手な省略、災いのもと?!
パク
朴
チャン
燦
ホ
鎬
数年前、ある日韓交流の会が会報を発行するに当たり、当初予定していた「ムジゲ」と
いうタイトルを、
“語感がよくない”ということで「レインボー」とか何とかいうタイトル
にしたいという文章を見たことがある(手元に現物がなく、曖昧で申し訳ないが)。
ム
ジ
ゲ
かくいう私も、辞書で「무지개」を初めて引き、
「にじ」と出ているのを見た時は、その
語感がイメージにそぐわず、何ともおかしな思いにとらわれたものだった。
日本語で「ムジゲ」という音声は、「ムジゲ」と「ゲジゲジ」を連想させる。「ひとつ穴
の狢」といえば「悪事をたくらむ仲間」であるし、
「ゲジゲジ」はムカデなどとともに嫌わ
れている虫だ。
とはいえ、折角の友好の場のネーミイングを、語感が悪いから変えるというのも、いさ
ム
ジ
ゲ
ピ ヌン
ハ ヌル
さか考えものではないか。私も今では、
「무지개 피는 하늘」といえば「ああ、雨上がりの
・
・
・
空に美しく咲いた虹だな」と、違和感なく感じられるようになっている。
こう考えると、思い出すことがある。私が初めて韓国を訪れた一九六五年のことだが、
イ
モ
いも
姨母(母方のおば)が「私は日本語だと芋だな」と笑っていた。そのイモも、今はもうい
ない。
言葉というものは、他国ではどんでもない意味となり、笑い話どころではなくなること
ソ ウル
もある。たとえば、서울の街角で日本女性が「ちょっと待ってよ!」と叫び、道行く人々
が驚いて一斉に振り向いた、という話がある。こんな話を聞くと、旅行者用の「禁句集」
は、本当に必要だと思う(意味を知りたい人は、ご自分で調べてください)
。
ト リョンニム
私が従兄の家に泊まって戸惑った言葉に「도 령 님」というのがある。それまでは『春香
伝』の李道令のように、時代劇の「若様」ぐらいにしか思っていなかった。実はこれは、
妻が夫の(特に未婚の)弟を指していうのだそうだ(確かに、辞書にもそうある)。同様に、
ア ガッ シ
妻が夫の妹を呼ぶときは「아가씨」といっている。これも私は、一般的な「むすめ」とし
てしか知らなかった。
「アガッシ」には苦い思いをしたことがある。一九九二年のある夏の日の午後、
『韓国歌謡
史一八九五-一九四五』の韓国語版を出した出版社から、名誉毀損で訴えられたから今日
中に資料を送れ、という電話が入った。聞けば、ある女性歌手の遺族が「自分の母は酒場
女ではなかった」と訴えているのだという。これは、韓日の言葉の微妙な差異に起因した
誤解による。
ッタル
問題は、私が「酒場“茂山屋”の 娘 」という部分で、
“茂山屋”を省略し「酒場の娘」と
したことに端を発していた翻訳者の安東林先生は、これを「酒場女」と訳した。
日本語では「誰彼のむすめ」も「普通のむすめ」も「酒場のむすめ」も、みな「娘」で
ッタル
ア ガッ シ
ある。ところが、朝鮮語では「誰彼のむすめ」は「 딸 」であり、むすめ一般は「아가씨」
スル チプ ア ガッ シ
である。したがって「酒場の娘」は「술집아가씨」と訳され、
「酒場女」を意味することに
なった。これは、日本で考える以上に侮辱的な言葉などだという。
原告は民事、刑事の両方で訴えていたが、刑事の方は門前払いになった。民事の法廷は
何度か聞かれ、名古屋地裁を通じて出延せよとの連絡が入ったが、仕事の都合もあって、
おいそれと出掛けるわけにはいかない。
結局、名古屋地裁を通じて「原告に三百万ウォンと裁判費用を支払え」との判決文が、
下手クソな日本語の翻訳文を添えて送られてきた。
ソ ウル
その後서울に行った折に、一緒に訴えられていた安先生、出版社社長のお二人を訪ねて
話したところ、なんと、お二人に対する訴えは前年に取り下げられていた(安先生も、一
度も出延していない)
。
海外の私にだけ判決が下されたのだが、実質的には判決の執行ができないから、原告の
メンツを立てる形で終結させたことになるのだという。判決文は、私が原告の母親につい
て好意的に書いていることを認めているから、それも確かだろうとは思うが……。
原告とは一面識もない。恨みもさらさらないし、むしろ親近感を持っている。というの
は、原告をたきつけ、煽りたてていた人物がいるからだ。この人物に、いつかキツーイお
仕置きが出来ないものかと、そんなことを思ったりする。
途中で筆が滑り、そのまま本題の筈の<言葉>から逸れてしまった。これも<心中に鬱
積したいたものが噴出した結果の>成りゆきというものかも知れない。ご容赦あれ。
名古屋通い十二年の成果
わたりの く
み
渡野玖美
新聞紙上で「在日朝鮮人作家を読む会」の存在を知り、自分自身の個人的な「在日問題」
に悩んでいた私は、解決の糸口を求めて、石川県加賀市から名古屋へと出かけて行った。
一九八五年一月二十日のことだった。
昨年、名古屋タイムズ文芸賞に応募した小説「屋根がない、塒」が最終候補になったの
を機に、ひとつの締めくくりとして出版を思い立った。
「読む会」へ十二年間通い詰めた成果としての、締めくくりだ。
私の三冊目の小説集のタイトルは、「帰る家」
。その中に、
「帰る家」、「屋根がない、塒」
、
「夢恋ゲーム」を収録した。
「屋根がない、塒」は「読む会」へ来ていなかったら、けっし
て生まれなかった作品だろう。
「架橋」に発表した作品に、
「南京虫のうた」8号、
「何処へ」9号、
「韓国の愛人」10号、
「屋根の下の幸福」12号、
「若い果実酒」15号があるが、その都度、参加者の情容赦の
ない合評のまな板の上に乗せられた。ありがたいことであった。
「屋根がない、塒」は、
「南
京虫のうた」と「屋根の下の幸福」を、
「夢恋ゲーム」は「何処へ」を基本に、書き直し完
成させたものだ。
これらの作品を書き進めていくなかで、私は個人的な「在日問題」の悩みを一応解決し
た、としたい。今、ようやく、参加者と同じラインに立って、変容していく在日問題にか
かわっていけるのだろうか。
パルチザンの愛
ユ
ギ
柳 基
間 瀬
ス
洙
昇
作
監修
パ ク ヨ ジン
ア ン チ プ
ウムマク
朴如真は母を手伝って内屋敷にいながらも時々、栗林のほとりある野幕にかくれている
イム ソク
林石を思い浮かべながら、間もなく別れを告げなければならない後髪をひかれるような思
いに身を焦がした。そして昔幼かった頃、平和で美しい自然の麦畑の上で、ピイチクピイ
チクと鳴ていたヒバリの歌を聞いていたとき、亡くなったお祖母さんのなつかしい声を連
イム ソク
想させる如真ヨ! と呼びかけてく林石の情のこもった声を思い出し胸を躍らせた。
ヒメゴト
やるせない気持ちではあるが朴如真は、心中重大な秘事をかくして、家族たちの眼を避
けながら栗林に通っている様子を、万一他人に見つけられた場合、林石まで行動の自由を
失っては大変だと、不安な気持ちにブレーキをかけることを忘れなかった。朴如真は自分
の所信を明らかにして、彼が再び入山しようとする危険を防ごうとした。
“あそんで喰うのが運の良い事ではない。山でパルチザンはひとときも遊んでいるわけで
はない。仕事はたゆみない闘争である”
“林石さん、神様のおかげで健康をとりもどしたのに、民族のために祖国のために、必ず
山に再び入るなんて、銃をとるなんて……とんでもない”
あまり長い間圧縮された感情のために、彼女の声はおののいていた。彼女の頭の中は、
一度知ってしまった青年に対する幻想でいっぱいだった。
輝いている自分の心のような春の陽光に会ってみたいと、彼女は庭に出た。まだ冷たい
チ リ サン
けれども香りのある風が胸の思いを溶かすようにからまって来た。智異山の嶺を越えて南
の方から吹いて来る風だ。遠からず庭の隅には連翹もつつじもきれいな顔を見せるだろう。
それから燃える恋情を象徴するようだ。朴如真はそれまで、一度も経験したことのないう
つろな感じ、淋しさ、そして恋しさなどがからまるように胸をしめつけてきた。彼女の身
と心を愛撫してくれて、そして神秘なる感覚を与えてくれる。男の強い力に抱きしめられ
交接し、恍惚の感情はオルガスムスを起こして、体全体が小屋のように散乱粉砕されて、
身は流れ星のようになった。永遠なる宇宙圏のブラックホールに吸引されて行く一身、生
全体が夢のような現実に誘引されて行く、そのような男女間の未知の世界を味わい見せて
くれる林石であった。
“こちらに落伍されたことは林石さんの運命です。わたしは林石さんを愛します。愛する
人と一緒に居りたいのは愛の力でも本質でもあります。運命に従順な方は、順調な人生を
歩くと聞いています。インテリとしての義務が必ずパルチザンとして活躍すべきだ、とい
う法はないでしょ?
わたしは林石さんが自首して新しい人生を開拓するのもいいだろう
とう
と思います。戦争が終るまで、よかったらわたしが父ちゃんに話して、善策を目論んでみ
ます。わたしの話忘れないでください、林さん”
朴如真は、自分でも思いがけない勇気をだして告白した。決して恥ずかしくはなかった。
傍らそのような感があったとにしても、万一、男が頑として聞かない時も考え、彼がひそ
かに脱出することも予想して、一斗位の小麦粉をこしらえて、野幕へ運んで来た用意周到
な面もあった。しかし、彼の銃などを隠していた処などは最後まで明らかにしなかった。
銃がなかったら彼はふたたび山に入らないだろうと、その意志を阻もうとしたのである。
林石との対話はそのまま彼女の真実の愛の告白であった。
朴如真はある日熱病にかかった人のように精神朦朧として、うわごとを吐きだすように
名前を呼びながら林石の前に立っていた。誰だって男ならば、彼女を懐に抱いてみたいで
あろうしなやかな容姿、それだけでなく、きらめく瞳を持った知的な微笑は、男をとりこ
にする彼女の魔力である。そして女高出身程度の学力しかないのに勉学に励み、また文学
、 、
の本を多く読んだせいか、多方面に博識であって、インテリの林石とはうまが合った。淋
しさや嬉しさ、また愛の温かみを共にする彼女は愛らしい限りであった。負傷者にとって
は女の手づたえと感触は貴重なものである。愛し交わり合い、夢に見てさえ、秘めごとの
情感を享け与えることができるのだ。
林石が気ままに出て行けない野幕の外には、陽光があり、風が吹く。愴絶で虚ろなその
風の音は、畳なわる山脈を通り越えてくる。それは智異山に入り込んだ時から、絶えず額
ヒ
ト
ムレ
にあたり耳に刻まれるその松風であった。林石はやるせない思いに沈む。家族とか他人の群
に自分自身を発見できることは、他人の中に自分の霊魂が入り込んでいるのだと、彼は朴
如真に対しても同じ感情を持ったのである。
林石はパルチザンとなって以来、運よく胸苦しい呼吸をしながら生き残った。彼の運身
の陰には、かくされた崩壊した霊魂達が彼の心をおののかせた。
いつくしみ
慈 愛 深い愛を受ける色白い月光は彼女の心の鏡のようで、この世のものでない桃源郷を
思わせた。
ああ、存在することはどれほど喜ばしいことか、生きていることはどれほど美しいこと
であろうか、生を愛することはまた、どれほどすばらしいことか、林石はその生涯に、そ
の存在に感謝したい気分であった。その存在が朴如真である。彼女は生と存在の代表者で
あり、彼女によって声なき存在に聴覚と言語を賦与され、共有する幸に彼は自身を発見し
た、と言っても過言ではなかった。
春の足音が近く迫って来るある日、薄暗い野幕の中で林石と朴如真はお互いに腕枕をし
ながら抱き合って、日が暮れて行くのも意識しなかった。
“林石さん、愛するわ、おたがいに馬鹿にしあい、おたがいに憎み合う心は、受ける側の
苦しみであってさ、同じものではないでしょうか、大きく見て、南も北もそうですもの”
彼女はますます高まってくるやるせない愛情と哀切な身もだえで、林石の胸にしがみつ
いてくる。林石もまた絶望的な動作で彼女を抱いた。その日の暮の二人の男女は、あたか
も銃声に驚いている智異山の悲しい動物のようだった。
“許してくれ、離別を前にしてのわれらのこの感慨は、いかにすべきかわからない。われ
サ ダメ
われは結局離れなければならない運命を持って生まれてきたのだよ”
朴如真は美しく哀愁にみちた表情であった。彼女の眼差しには男を愛おしみ愛惜する懊
クチビル
悩が露となって結ばれていた。純潔な花びらのような口唇を歯で噛んでいるのは、彼女の
心の中の不安と虚脱の面持ちの表出にほかならない。
“君をいつまでも如真ヨ!
として呼ぶだろう。それが俺の心だ、山に入ってもね”
彼女は涙ぐましくうなずいた。その時、彼女の瞳は神秘な光で一杯だった。ほのかに限
りない情熱の微光だった。
“愛し始めてすぐさま離れて行くなんて、わたくしはどうすればいいの”
彼女はむせぶように訴えた。しかし彼女は鳥が空高く飛んで行くのを妨げるもの、まこ
ツ
ミ
とに罪悪だとも考えていた。
林石はしばらく沈黙を保ちながら、重々しく沈んで声で話をすすめた。野幕の外では鳥
が集ってくる不気味な音がした。
“俺は学んだ人として、貧しい人達、力弱い人たちに、人間らしく、人としての品位を保
持することのできる、そのような幸福を与えなかった。それだとしても一辺倒に金持ちを
憎むのではない。俺も金持ちの人を父母にしておるお陰で、S大学まで卒業したんだから、
父母には感謝しているよ”
“林石さん、あなたの精神は充分わかります。立派です。個人主義を超越して、吾等の民
族と祖国のために、現実的に不意の社会を、世の中を変革したい熱誠に、讃辞を送りたい
のです。しかし、インテリは現実と妥協することも知らなければならないよ。崇高な理想
を誰が非難するでしょうか、ただし、今は南と北がそのように昼も夜も銃撃をする時なん
ですもの、一方でも休戦で忍ばなくちゃならないでしょ、出来事の良否は戦争が終って後
に弁明すべきです。あなたが必ず山に再び入っていて、繰り返して決死的に冒険的に闘争
だけをするのが愛国愛族でしょうか、私は林石さんを死地に送り出すのが死ぬほど辛いん
です”
林石は再び山に入るべく、しかし朴如真と離れた淋しさ、いとしさを思うと切なかった。
不感症的に離別を茶飯事と考える人とは異なった。
偶然に芽生えた朴如真に対する愛と、祖国と民族に向ける様々な愛の比重が、その重さ
によって彼を悩ました。
カア
――母チャン! その苦しみから僕を救ってください――
“そうです、俺は北の路線のごとくプロレタリア独裁を夢みるのではないんだよ、プロレ
タリア階級水準を人間的に上昇させてみたいだけだ。俺は南労党でもない、思想・理念と
は縁が遠いよ、山ではいま生死もわからない俺の同志たちが潜み、死んでいきます。俺ひ
とり佇んで、安逸に生きることはできない。俺は身を避けて卑怯な背信者になるよりも、
彼等とともに共通の運命的路線をえらびたいんだよ”
“わたしにはわからない”
“ただ祖国と人民達がかわいそうだ、非合法闘争でもいいから一助になればと義勇軍にも
加わったし、このようにパルチザンに変身したんだ。俺は殺傷は嫌いだ、元来自由主義者
ツ ジバ
イルウォル
ハン ヤン
だから。いつだったか、辻場(田舎市場)が開かれた日だった。日 月 から咸陽へ越えて行
パンリョン
く八 嶺 峠に潜伏していながらゲリラ戦法で、俺の部隊は通りゆく田舎バスを襲撃して、軍
人でも警察官でも、武器を奪取したまま衣服を脱がして釈放した。十三名の軍人と三、四
名の警察官だった。同じ民族でありながら、強大国の影響圏で生きている条件下にこのよ
うな不祥事か起こるのであった。俺の話わかるだろうか、ゲリラ隊員の中ではその間面当
ての復讐で――クソ犬ヨリモフラチノ奴等、コレラオバクダンデ一気ニホオムッテヤロウ
キムヘキュ
カ!――とどなったが、俺はそれを遮ったよ。その時ゲリラ隊長は金海奎という俺と同じ
姓氏のパルチザンだったが、その男が俺の意見に同意したのだ、俺ひとりシャベッタな、
なんとか言ってさ!”
“それこそ人道主義だったわね、よかったわ”
彼女は顔の筋肉を引き攣らせるように緊張して、恥じらうようにしかし毅然として言っ
た。
情を通わせた男女の交合の如く聖なることはない。それは人間生命の本質でもあり、神
テョンカク キ シ ン
ヒトリミ
オニ
チ
秘でもある。彼女は男が再び入山したら、総 角 鬼神(独身の鬼)になるのではないかと、智
リ サン
ル ロウ キ
ハシ
異山の流浪鬼にしたくないために同情の腕を伸ばした無我の愛の行為に奔ったのかもしれ
なかった。心ゆく処に見もゆくのである。
“貧乏人は少しでも余裕があれば幸福感に浸るのです。国もおなじことでしょう。林石さ
んが心配しなくとも、わが国も漸次発展するだろうと思います”
“勿論、一気に達成されるとは思わない。我等一人一人が努力しなければならない。実践
なき論理は何等実効性がないものだ。インテリはインテリなりに、農夫は農夫なりに、労
働者は労働者らしく、その力量を発揮すればいい。しかし、制度なるものに乗じて、合法
的な搾取にはしる怪物が問題だ。昔の殿様は法を知らないまま鞭をとったのだ”
林石は決意を決行する時期をはかっている。智異山はたゆみなく休みなく死を呼ぶ風声
とど
を通わせている。しかし、どのように寒い智異山であれ、立春が近寄る気勢を止めること
はできない。林石は山越しに遠い谷間から響いてくる散発的な銃声に耳をそばだてた。聞
えるか聞えないばかりのはるかなその銃声は座っているばかりの林石を時折立たせる役割
をしてくれた。彼が栗林からいよいよ脱出しようと心構えをしたとき、朴如真は日課のよ
うに彼を訪ねてくれた。
“如真よ、話がある、お座り”
“なんでしょう”
朴如真の顔が一瞬緊張に引き締まる。林石は唾を一度ごくりと呑みこんで、口ごもりな
がら語り出した。
“俺たちが大切なもの貴重なもの、すべてのことに別れを告げて、生甲斐ある夢を与え、
良心を導いてくれた思想に別れを告げ、希望を思い描きながら離別を話し合う時は来たと
思います。あらかじめこの場で訣別の握手をしましょう。何も知らせることなく出発する
こともできますが、俺の良心がそれを許しません。最後にこの洞窟で密語を霊肉的に納め
ましょう。世間が知らない俺の天使、君との別れが惜しくてたまらない。この天の下で、
この智異山の分脈で、俺の人生の終幕で、俺とともに居てくれた君のことを、偶然だった
とは言えない心境です。前世からの必然、宿命的なものであったと考えるのが当然だろう
と思う”
“そうかもしれません”彼女は当惑していた。
“君は、俺の人生の始発点で、俺と一緒に生きよと、隠された種子としてすでに存在して
いたのだ。俺はそれを信仰的に信じたい。俺が智異山のある樹の陰で息を止める日、君は
智異山に浮かぶ虹を見るかもしれない。かわいた空に虹が浮かぶごとく、俺の霊魂は君の
前に現れて、椿のような君に懸命なメッセージを伝えるでしょう。民族を愛しなさい、祖
国を愛しなさい、と”
彼はむせびながら途切らせた。智異山の沈黙がその場に潜んできた。
“俺がはじめて君に会った日、君は光背を負った天使のようだった。君の繊弱な身体から
反射される愛の光は、俺の小さな存在、全生涯に染みこんで、この世の中で真に生きる意
味を理解するための絶好な機会になり、霊魂の認識と性交合が神秘であることを知らせて
くれた。このように聖なる君とのどうしようもない離別が、俺にとっても苦しいことは君
も同じだろうと思う。しかし、吾等は、世俗の垣根の内で犠牲を甘受しなければならない。
モトゴエ
それが吾等の後孫、後世のための元肥になるんじゃないか”
“林石さん、私も行きたいわ”
“駄目だ”
彼は思いきって断った。
“百年前の中国もそうだった。南と北とが分裂して同族相剋が継続し、その流血の歳月に
世界の列強は中国へ上陸し、干渉を始めた。吾等には他山の石だ。智異山になり響く銃声
は、彼我の間に新しい時代を伐り拓いてゆく黎明の銃声として認識される日が遠からず訪
れるだろう。俺がこの地で消滅されるというのは、吾等の間にあってはいけないことなん
だが、仕方ない。これも、とにかく生きていた独りのインテリの淋しい姿かもしれない”
“まあまあ、それだけで”
彼女はそれ以上聞きたくなかった。
“俺が息を止める時までひとときも忘れられない君の名、朴如真、君は美しい女である。
と同時に真実に生きる人間であった。乱世に人に毟りとられることなく咲いた椿の花と言
うるわ
おうか、山に入って銃を握り、一方の手が君を抱擁した腕であったことが 美 しい追憶とし
て記憶される限り、俺は幸福を感じることだろう。君のやわらかい舌の触感がとどまって
いる間、そして君のきれいな肉の谷間が思い出されるかぎり、俺は生きている希望をふく
らませて、担っている時代的任務に忠実であるだろう。そしていつ何時までも君を忘れな
いだろう”
朴如真は溢れ出る涙を流れるままにまかせた。情の深い彼女である。心はさまよってい
た。
離別を告げる伝令のような銃声の中に、恋の歌が浮かぶのは何故なのか。未来への路は
ウレイ
遠いのに、林石は野幕に 恨 が苔むすほどに辛くとも、言うべきことは言っておきたかった。
“人はおのおの担っている使命があると思う。俺は君が引き止めてはいけない男なのだ。
君のためにもさ”
“林石さん、瞬間の選択が一生を台無しにする、という話もあります”
“それじゃあ、必ず死のうと決心したの、ソウルにおられるご両親を考えなさい”
“……”彼は黙っていた。
あれこれ思いごとが多かったが、心細い朴如真はそれ以上恋しい彼を止める力がなかっ
た。林石と共に過ごした日々を抜け出して、一人になる自分を守ろうとする決意の沈黙が
彼女の新たな想念に波動を起こしていた。彼女の沈黙は誰をうらむのでもなく、彼女の無
口はそれを証明するようで、また彼女の神秘な眼差しは、心深くにある衝撃をかくして居
るようだった。
短い期間であったが、過ぎた日のすべてを破壊しても、お互いがきっしりと握っている
掌から逃げようとする人生をとり戻そうと、ある限りの力をそそいでみても無駄だった。
生命力は自分のものであり、それによって人間愛を発揮することが生命力の立証であり拡
張である、と心を決める彼女であった。従って生命力は自由の本質であり、自由な愛の対
象に対しての犠牲であると考える。それが人間関係であろうが社会関係であろうが同質の
ものだと認識した。
“離れて遠くに出かけようと思っています”
短くきっぱりとした言葉のあとの沈黙は、林石に彼女の強い決意を感じさせた。二人は
マカ
無言で熱く抱擁した。すべてを放棄していまは彼に任せきった彼女は一瞬気が遠くなった。
彼女を抱く林石の瞼の縁が朱を帯びてきたと見る間に涙がにじみ出てきた。男に対する愛
を振り切ることも女が生きて行く方途の一つである。しかし胸底の慕情は破砕されてしま
うという衝撃に耐えていた。
彼女にとっては、社会の制度や道徳や、また戦争などが生命の自然本能に対しての障害
になってはいけないという思いもある。それらは真実を抑圧する理由にもなる。制度の力、
戦争雰囲気などは、人間が生を営むについて規範とか束縛とか言うけれども、つまらない
要件である。情事は彼女に新しい真実を学ばせた。新しい生き方、新鮮な勇気、夢のよう
な希望、そしてそれまで分からなかった喜悦などを。自己表現とか自己革新とかという人
生の目標への肯定的で未来志向的な感情について、眼を開かれた。彼女は言った。
“わたしは、パルチザンのあなた、林石同志を愛します”
それは甘美な熱い恋愛感情であり、ロマンチックな感覚であった。彼女は独りその感覚
に酔って模糊としたパラダイスに居るような感じに溺れていた。十九の乙女がはじめて味
わう神秘なエクスタシーが恋愛の本質のようだった。しかし、野幕は、夢の国であるが
ア ン チ プ
内屋敷は現実として感じられた。彼女は結ばれない葛藤に対しては鋭敏な感性の女であっ
た。
“幸運をお祈ります”
心に願う処があっても肉身はあまりに弱かった。野幕から出て来ると世界全体が凄絶で
あり漠々であった。傾き始めた昨夜の半月は離別の前兆か孤独の象徴として嫋々と浮かん
でいる。うるわしいものはいつもはるか遠い処にあり、判然と見えないものであった。
“人はとにかく働いているときが最も幸福なのに”
彼女は野幕を出るときそう呟いた。別れるときはいつも、また再び逢おうと約束するけ
れども実際にはむつかしい。その路を離れる心は、今ただちに山に戻るパルチザンの哀愁
である。彼女はしかし、すぐに帰ってくるだろうと、彼にそのような幻想を抱き期待した。
林石はその夜の闇深まるころ、遠く響く銃声の山彦に、憑かれた人のように山を登り始
めた。それまで行く行くと言いながら出発できなかった林石であった。しかしもうこれ以
上止まっていることは厄介であった。転送してくれる人ひとりなく、夜中にひとり離れて
行こうとしたときは、後髪引かれるような気持ちだった。彼は一歩一歩周囲を注視しなが
ら気配りを怠らず足を運んだ。眼を閉じていても山の壁を渡ることは、それまでの山生活
で容易なことであった。智異山はある視角で見れば、民族の消滅と復活の広大な空間のよ
うだった。
ヤマビト
朴如真が作ってきた海苔飯を腰に挟み、小麦粉の袋を背に負い、武器のない「山人」に
なって、何処かに居ると信じられるゲリラ部隊のアジトを探索し始めた。智異山は夜中の
ノ コ タ ン
判断でも不透明な場所ではない。夜が更ける前に眺望のよい老姑壇までは歩かねばならな
い。星を眺めながらできるだけ直線路をとり南側に向かった。作戦地区ではないのか討伐
サン トン
隊の埋伏線にぶつかることはなかった。林石は休息の合間に遠く展開される山洞部落の栗
木と果樹園あたりがどこだったのか、ふり返って眺めた。朴如真のチマ衣服の残像が瞬間
スジ
瞬間いとしかった。彼は後山の岩だらけの崖を這って登り、山の條を乗り越えて来たのだ
った。月光がある夜であれば、峠まで登った時体が曝け出され、誰かの目についたらおし
まいだったのだ。森の中はそのまま隠蔽場所として成り立つ。
幸いにシアム峠まで登っても、何等気くばり処がなくてよかった。聞える音は、数里の
シ オム
深遠渓谷を吹き流れる谷風の余韻と、胸づく彼の息づかいだけである。彼は腕をまくりあ
げて時計を見た。子の刻を越えて一時三十分である。急いで暁までには老姑壇まで到達し
なければならない。
彼の足音に正体のわからない山の動物が落葉を散らして逃げた。卒然として驚いた。峠
あたりの動物が過ぎ通る路で、小石や氷の欠片がころがり落ちる音がして、彼はまた驚か
された。常録樹の森の中で何かしらうごめいているのが見えた。人であろうかと目を凝ら
したが、人ではなくてほってした。彼は傾斜の絶壁を迂回して、足音を殺しながらひよこ
のように歩いた。その後は速い足どりで雪の森を音立てぬように歩いた。
“なぜ俺はこのようになったのか、俺をこのようにしたのは果たして誰だろうか”
夜中、彼は孤独で空腹で、キツネのように悲しかった。しかし、林石は、そのような人
間の弱点を肯定しながら、折々の決断を重ねた。解放以後でも、日帝の時と同じく、弱者
は弱者として汁褄の逢わない不当な待遇を受けることは、社会の非道であると心得ていた。
林石はそれは社会的不義だと思いながら、それをそのまま黙認するとか、度外視できない
知性の所有者であった。
山に入ったら寒気が全身を攻めてくる。頭上には星がきらきらと輝き始めた。鬱蒼とし
た林を吹き行く風の音、氷の下を流れる渓谷の水音が聞えた。そしてすぐに遠い北側の山
マムボク テ
脈地帯である満福台の峯の方、薄黄色の光がひらけ月が浮上がるその場所で、再び先程の
チ リ サン
ノドゴエ
音がきこえてきた。うう……うううゆううううー、それこそ智異山の巨大な喉声であった。
あたかも大虎が咆哮するような風の音であった。夜の寂静のなかでそれは明確な音の反響
となり、彼の耳窓をたたいていた。しかし、若さの情熱を持って隊列のアジトを探して力
強く歩いて行った。
何か目的がなかったら、人間としての存在価値はないとの彼の信念は燃えていた。林石
は枯れた梢が身を震わして泣いて居る様を見た。埋もれた草根も雪の下で綴り泣きながら
ささやいた。
――何をするためにまた山に来たのか――
山鳥が羽ばたきをしながらうそぶいた。
――何をしようとしてまた山に来たのか――
林石は細々と呟いた。涙が頬と鼻の下で凍りはじめる。大きな不安感が瞬間的に襲いか
かってくる。林石は森を畏れていながら畏れを認めたくなく、また自身の恐怖がどの程度
なのかも知りたくなかった。しかし、それでも彼は行かなければならないし、そうすると
すれば一つの信号は、彼の足音だけであった。
林石は徐々に滲んでくる涙を拭いて、何処へでも行ける高い山脈の上で占をしたい心情
バン ヤ ボン
チョンワンボン
であった。盤若峯の山筋を東に向かって越えてゆけば天 王 峯には夜路で三~四日かかる。
ピ
ア コル
南の方に下れば彼我谷までは一日で足りる。そう考えるのはどこまでも敵の埋伏線にかか
らないことを條件とするためである。パルチザン部隊と接線ができればと案じていた。動
ケダモノ
物が 獣 が通る路もあるから、ましてパルチザンが行く路がないはずがない。獣の路には平
素人が造っている罠があるように、パルチザンの路には討伐隊の埋伏線が静まり返ってい
るのだ。路なき路を探し選んで、林石は運を天にまかして智異山の神様にお祈りながら、
ピ
ア コル
彼我谷の方に行こうと心を決めた。
山に入れば顔なじみの樹木たちと友達になる。秋の季節に落ちてしまった枯葉の傷痕は
春になれば森を造るたゆみない変化があるけれど、すぐには人の目にはつかない。世の中
の動き、歴史も人間が意識出来ない瞬間瞬間を埋めながら、新たな社会の生成を促すもの
だ。絶えず少しずつ変ずる生命が吾等を支配するように、社会もそうなのだと、林石は学
生時代からいち早く体得しているのであった。山の中をさまよい一週間が過ぎ、やっと接
線が可能となった。
“ここまで来るのに大きな困難はありませんでしたか”
若いパルチザンが御苦労さんです、という意味合いでか、ふくっと笑った。
チョンワンボン
次の日のあかつき、天 王 峯に昇る日の出は、それまで独り淋しく日没を眺めた林石をな
ペク ソ リョン
ぐさめるかのように実に荘厳で美しかった。日が上がった後、一時間ほど歩いて壁宵 嶺 の
山頂にたどりついた。その日、山の下は雲霧に蔽われ、千米の山頂でながめる智異山は、
峰峰が海に浮かんだ島島のように点綴していた。風すさむ山頂で風を避け、大きい巌の後
に身をかくし、太陽が頭の真上まで上がり眼がまぶしくなるまで、彼は魂を失って座って
いた。目を閉じて、はるか昔のことだったような栗林の野幕ですごした朴如真との日々を
回想して見た。すると突如孤独な感じに襲われた。
貴重な物を得ようとすれば、何かを捨て去ることも知らなければならぬ知恵を習得せね
ばならない。前者は祖国であり後者は自我であった。
おのずと溜め息が洩れる。嘆息をしたいために息を洩らすのではなく、自分自身にもわ
からない内に出てくる嘆息であった。智異山の頂点にいながら智異山に圧倒される苦痛は
誰が知るだろう。わからないものだ、彼は自分がこの先何処へ行くべきか混沌とした。
“地球が滅亡しないかぎり戦争はあるだろう、しかししかし、これ以上の悲劇は嫌だ。た
だ自由のため、生死決断の闘争があるだけだ”
ペク ソ リョン
シ モ テ サ ム チョン
壁宵 嶺 の下手三 頂 を通過する他のゲリラ部隊とかろうじて遭遇した。<カボチャ花の同
志>を含んだ十数名の山部隊だった。
胸寒き風の音に耳をかくし、夜毎に凍り切った指先を、はた織切れで蔽って、パルチザ
ン達は銃を担い必要に応じて選択的に銃撃をした。銃を撃ち日が暮れ、日が暮れれば新た
に攻撃点を探してパルチザンはアジトを移しまわった。アジトは岩の陰であろうと森の中
であろうと、とにかく山風を避けられたら何処でも結構であるが、まず討伐隊の目を避け
なければならない。風を防ぐほど樹々の密生した森が発見できない時は、木の枝を積んで
周囲を廻らし、山すすきとか小竹を切って天井を造り、小さな山小屋を完成すればそれこ
そ山中のホテルだった。そういう時は誰かが歓声をあげた。――ほら、吾等は智異山の麝
香鹿だ――討伐隊が殺人者であっても四六時中殺人をするのではなかった。林石は<麝香
鹿>だと喜んだ、その隊員の意中が何を言っているのだろうか、いろいろな解釈を求めて
いた。
移動する時、ことに荷物が重く、女子隊員――名付けて<カボチャ花の同志>たちの歩
ハル
みはしばしば遅れた。行けども行けども、路は杳かに遠く感じられた。途中腰を降ろすほ
どの岩があれば、少しばかり休んでゆくひまがあって、後に残してきた<カボチャ花の同
志>たちは追いついて合流した。<カボチャ花の同志>とは平民という意味が含まれてい
た。荷物の重みで体は地下に沈んでゆく感じだった。足はひどく痛んだ。土に凹凸があっ
て山竹とか雑木や石ころが多い。しかし、林石は、そのときもっとも体が弱いと見える女
子隊員の荷物を分けてもらった。隊員たちは一度もふり返ったり足の速度をゆるめたりし
ツ
なかった。後続の隊員はすべて連なって従いてくると信じ堂々と歩いていった。間もなく
タケ
一行は夜明け前にある森の中に到達した。昨年その場所には人の丈の三倍ほどの松の木が
一本あった。昨年の場所にちがいなかった。その木は雪に蔽われていた。十名ばかりの隊
ピ
ア コル
員はそこに綿布テントを張った。当分間は安息所と考えられた。彼我谷への嶺を目前にし
オコ
た天然渓だった。煙の立たないエゾヤマハギを折って、彼等は火を熾した。林石はそこで
雪の球を作り、久しぶりに歯をみがき顔を洗った。
夜の明け方四時になると、月が傾き、その時まで光を発せられない星たちは、暗い夜空
で一斉に降り落とされるように頭を垂れてきた。いわば星茫々の饗宴が催される。呼吸が
弾み、夜空の星の光が目に入るということがめずらしく、生きているんだと強く感ずる。
しかし、脚の力はほとんど失われ、坂道になると、道案内格の先頭者はつらい。胸が苦し
くなっていても、何処に隠れていたかわからない力がなんとなく出てくる。それは敵愾心
でもあった。来たルートを帰ることは、パルチザンにとっては禁忌条項である。しかし、
一度過ぎた場所に再び行ってみると、その周辺や山間聚落の人々はなつかしく、臨時ひと
ときの故郷といった感慨に浸れるのは、人としての常の情緒であった。
ある日のことだった。幼児をつれていたひとりの<カボチャ花の同志>は、草陰にかく
れていたが、その女子パルチザンは幹部たちの安全のために、討伐隊の偵察を避ける目的
で、胸深く幼児をかくまっていて、ついには幼児は窒息してしまった。涙ぐましいその光
イ オクチョン
景を林石は目撃したのだった。幼児の母親は李玉 貞 であった。
――幼な児がキンキン泣かないように、死んだほうがましです。私が願うことです。そ
して、どうせ死ぬ児なんですから、高級幹部の命のほうが尊いんですもの――
そう言いながらもその<カボチャ花の同志>は声を忍んで涙ぐんでいた。彼女は母親と
しての嘆息を深く洩らした。彼女はパルチザンとしての使命の前に、母親としての情を殺
したのだ。隊員たちは敵の偵察隊が消え去った後におたがいに目と目を見合したが、誰も
イ オクチョン
無言であった。沈痛な事件であった。李玉 貞 の主人はとうに戦死して、彼女の血筋は現在
智異山には一人もいない。誰かが呻吟するように革命歌を歌った。
――呼びゆく鳥よ、屍体を見て泣くなよ
身はたとへ死んだとて
革命精神は生きている――
ノク
一人が先唱すると、直ちに多くの隊員たちが等しく唱和しはじめた。ある幹部が<縁同
志>がアジプロを始めた。彼は旧パルチザンである。
“聞けよ、同志共!
司令官蘆先生は健在なり。司令官は吾等を統率して決して離れな
い。強風吹き荒ぶ暗い夜も恐れない、吾等は闘争する。彼等は数が多い、武器も優越だ。
しかし、吾等は勇敢である。そして彼等が行かんとする処は吾等と同じく栄光に満ちた祖
国の土地である”
チルシェン
一九五一年の夏のある日だった。七 仙 渓谷の陵線で日は暮れようとしていた。暮れて行
くにつれ次第に大きく紅くなる月、そしてその月が落ちてゆく山の陵線では、幼児と母親
との死が同時に惹起されることもある智異山の一隅で、林石は言葉もなく茫然と立ってい
た。かがんで見ると幼児はすでに死んでいた。新しく掘られた土の香が、死んだ幼児を傷
み迎えるように漂っていた。いつかは一緒に埋められる智異山の墓である。裸で寝かした
幼児はすでに魂の消え去った空の殻である。母親の乳房を離れた幼児が持って行くものは
全く何もなかった。
林石はそこで死の意味を振りかえりさとった。墓の中に寝かされたその小さな裸身は、
あまりにかよわく蒼白だった。林石はその裸身に土を覆うことはとてもできない感じだっ
た。ためらいながら李玉貞がその上に土をかぶせ、続いて司令官蘆先生が残りの土を掩っ
ニギリ
た。その上に幹部の一人が石を置いた後、彼は一 握 の土を自分の頭上に撒くように散らせ、
頭を上げて暗くなる山脈の頂きをぼんやりと眺めた。林石はその幹部の心境を知りつくし
ていた。部隊員のために犠牲にされた小さな生命を共に哀悼するのであった。幼児の小さ
な霊魂は、後日祖国の統一のため空しくしたくない、その心情は全体のものであった。そ
のとききこえてきたフクロウの声が、林石には異常に耳に入った。一つの生命の死と山の
寂莫は相和して、青蛙の鳴き声はその寂莫を一層深め、渓谷の水の音は山の脈膞かと聞え
た。
一九五二年三月、三月とはいえ智異山は未だ冬である。すでに三年の歳月を経た智異山
ヒトカサ
のゲリラ部隊の戦況は、弱化されていてとしても、残りの部隊は討伐隊の一重太くなった
圧縮網を避けて生存戦闘を継続していた。以心伝心<山の人>パルチザンは集団無意識の
ような状態で行動網領に中毒されていた。そして喜んで敗北を無視する計画と戦法を取っ
て、智異山に出没していた。昨日まで苦楽を共にした隊員が、討伐隊の迫撃砲に当たり、
身体は肉の雑巾のように粉砕されたが、彼等は戦友の凄惨な屍身を雪の中に埋葬し、雑木
で蔽い、自分の墓であるかのように造って去った。それは戦友に対する最後の誠意であり、
自身に対するねぎらいであった。そうして後に、黙禱する暇もない状況で早早と嶺を越え
ウ ラミ
なければならなかった。彼等が呻くように口ずさむ<パルチザンの歌>は怨恨に満ちた涙
の歌である。
――太白山脈に雪が降る、銃を担げ出陣だ――ひもじく飢えた軀をかがめ、今日もまた
アジトを更えて餌を狙う。ハゲタカのごとく眼光はぎらつく。補給闘争(パルチザン補闘
と名付ける)の部落をめざして行く、時遅い春雪が雪アラレとなって、空から撒榴弾のよ
うに降ってくる。視野がひらけるまで、彼等は木陰に身を隠して、低い声で歌を続けた。
――雪に埋まって消えた路を探してパルチザンは嶺を降りる――
それは明日をも知れないなまぐさい幻想曲であった。銃声は清明に響きこだまする。討
伐隊の鉄桶のような包囲網にかかって、独立師団兵力隊員達は喚声をあげて、雪アラレと
共に鮮血を流して倒れ、残った隊員はここあそこ、この陵線あの陵線を突破していながら、
上部の作戦指導に従った。祖国と民族の救援のために、最後まで抵抗しながら死闘を展開
する隊員の精神は、崇高のかぎりあまりにも人間的であったと言うのが適切であろう。彼
等が移動する山の稜線は主に八合目を指向した。統べられないためにいつも地団駄踏んだ。
ある場所には討伐隊が散布したビラや伝単などが山風になびいていた。
――<自首せよ、このビラや伝単を持参する者には、大韓民国はお前たちの生命を保証
する>――
林石は戦争などすべて忘れて、熱い湯で沐浴をしたかった。
銃剣でも屈服できないのが人の信念であった。極と極とが対立する処が智異山であった。
智異山はパルチザン<山の人>たちをして、食糧の貴重な価値をさとらせた。まして死は
解放かも知れない。谷間の雪が溶ければ<山の人>たちの屍体が見えはじめるだろう。林
石は、凍りついた銃身から手を放して独り言を呟いた。
“ああ、僕の青春、私の人生を愛する祖国へ捧げる。天よ、私に清い最後を与えたまえ。
智異山よ、わが墓に木木を茂らせよ。花よ、永遠に咲き乱れよ、そして歴史よ、よき未来
を盟約せよ”
ショソクピョンチョン
クレナイ
林石はやがてくる春に、細石 坪 田 で群をなして咲き出る 紅 の朝鮮ツツジを、目に思い
サムベルチョ
浮かべながら瞑目した。……高麗末、元の襲来から祖国を守らんとして、三別抄なる抵抗
軍は、最後は十七人の勇士が智異山に立てこもって戦ったのに、その十七人の一心不乱の
魂なのか、その魂によって咲いた朝鮮ツツジなのか。吾等の時代に、祖国の統一と人民の
ために、無限に犠牲になった烈士たちの魂が朝鮮ツツジになってまた咲くのか。狩猟はほ
とんど成功的で、<山の人>達は討伐隊の手ごろな狩猟物であった。一日のあいだに必ず
一~二回の接戦はあった。
“痛い目を味わわせてやろうか”パルチザンは自信たっぷりの豪語をしたけれど、ふり返
ってみれば口惜しくも、黒々と攻撃してくれる討伐隊だった。胸苦しく忍耐心を培うのも、
パルチザンには緊密な課題であった。独り離れ易いのは<カボチャ花の同志>だった。パ
ルチザンは本能的に、絶望的な最後の時期を知っていた。暗闇が作ってくれる障壁は、唯
一の防禦手段となってたのもしい。智異山の夜と昼との境界線は、暁の青い色からはじま
る。そうなったら静寂な暗さは音もなくしりぞく。しかし戦闘は、夜昼の区別がなかった。
夜の秩序を破るのは、主としてパルチザンだった。そのような夜の法則は、生物たちの喰
うか喰われるかの繰り返しで成り立った。糧食の争いには、討伐隊とパルチザンとの区別
がない。山は相互間の狩猟場だった。季節が変り、緑がその濃度を深めて行くと、ホトト
ギスの鳴き声も倍加してくる。闇が支配する夜の世界は、パルチザンの活動によい場所を
提供した。奇襲作戦に出るパルチザンは猛禽類のひとつである松フクロウの羽博きのよう
に、音を立てなかった。闇越えの狩猟は、討伐隊の境界線の隙を狙って補給闘争に連結さ
れた。<補闘>は<山の人>たちの生存競争であり、智異山はパルチザンが松フクロウの
ように生きて行くねぐらであり、アジトであった。パルチザンは、夜にぽっかりと目を開
いて動きはじめれば、山間部落を往復するのに夜はまことに短く感じられた。智異山のア
ジトは、一つ二つその影を隠して少なくなった。それほど隊員たちも、戦闘の終わりには
消耗されていった。
しかし、亡失共匪の名前で少数集団が残っている限り、智異山の夜はそのまま生きてい
た。
五月の智異山にはツツジが一抱え花を咲かし、散在しながら、まるでパルチザンが流し
た血の滴を吸いこんで咲いたかと思われた。流血はまた涙となって、緑の葉群に露となり
セ タケ
きらきらと輝いた。林石はそれほど大きくもない背丈を縮めて、夜の露を受けて息づく暁
の平和な空を眺めた。空は平和に明けても、智異山の地は地獄の縮図であった。
精鋭部隊が敗滅して損失をこうむれば、独立部隊は随時再編成されて、その数は漱次減
少していった。ひとつの部隊が多くて二十名前後、おおかたは五-六名に分割され、機動
力を持った。ゲリラ部隊は、大部隊であったものが小部隊となり、高尚な理念よりも、闘
争のための闘争を戦うだけに明け暮れ、あとは野となれ山となれ!
一か八かのきわどい
心境となった。
戦闘だけの生であった。隊員たちの思考は生存のためだけの戦闘、ただそれだけであっ
た。そして戦闘は一週間ごとの週日行事になり、淋しいまつりごとに転落した。生と死の
分かれ目は随時目前に現出した。谷間がその分岐点になり勝ちであった。山際もまたそう
であった。智異山の辺境部落に向かう襲撃は、破壊や殺傷が目的ではく、緊切な問題目的
は食糧であり、被服であり靴であった。喰うための戦い、それに尽きた。パルチザン二名
が偵察組となれば、一人が他の一人を犠牲羊として処置し、白旗を掲げて投降していった。
そのような不祥事は、理念の崩壊とともに山の不文律となっていた。すでに理念の堅軟は
問題ではなかった。
昨日の友が今日の敵となり、討伐隊の先頭に立って隅々まで山を探索しはじめた。連絡
上の味方同志の秘密暗号は、あてにならなかった。誰が敵であり味方であろうか区別さえ
できなかった。このような悲劇は予想を越えて多かった。不幸な状況であった。理念とか
理想とか、その真実として拠ったものは山の谷間に放棄せられたのだ。あくまで守ろうと
する浪漫派のインテリがいるのが不思議だった。林石はあるいはそのような部類に属する
少数の隊員かもしれない。一方では依然として、残り少ない<山の人>パルチザン隊員ら
が、銃撃に命を失い、負傷すれば腹を刺して死んでのけた。隠されている患者アジト(患
ト)が発見され、投降を拒んで遂に手榴弾で爆死したゲリラも多かった。徳裕山の拠点を
バンチュンピョ
守っていた方 俊 杓司令官がその模範であった。
ピ
ア コル
イルウォルリョン
林石は、晩春のある日、彼我谷の山頂にある日 月 嶺 に出た。たまたま美しいツツジの群
に出会った。恍惚として眺め、山を見て山を呼吸している瞬間、敵に狙撃されるという不
運に見舞われ、銃弾は大腿部を貫通した。彼は破行しながら走り、森の繁みに身を隠した。
鬱蒼と茂っている密林に入りこみ、枯死している巨木の根元に身を潜めた。密林は圧され
るほどの静寂に沈んでいた。われにかえると、自然の眼にうつる人間としての自分の卑小
な姿に思い至った。眼前に展開されている現実に目を凝らし、深く打たれるものがあった。
彼は思った。敗北は最悪の失敗ではない。最悪の失敗は、抵抗の企画や試行すらしなか
ったことにある、と。試行錯誤は将来の民族指針にプラスであってもマイナスではないの
ではないか?
信じたいのは、吾等の犠牲が、統一祖国のお膳立ての根っ子になればとい
うことだ。
しばらくの時が流れ、彼は討伐隊に探索され、そのまま捕虜となった。林石はその時五
人部隊の指揮者であった。討伐隊はゲリラの状況を判断すべく、彼を生き残した。林石の、
民族と祖国統一のための事業は一頓挫した。彼を待ちかまえていたのは想像外の光州刑務
所であった。
彼はこのような結末を予想しなかった。蟾津江は流れ続けて彼の血を流し去り、智異山
はあくまで彼の骨が埋まるのを拒否した。彼が聞いた智異山の最後の一声は簡単なものだ
った。見えない敵であった。智異山の樹木は何のことなどないよ、とばかり花を咲かせた。
“止れ! 手をあげて、 武器を捨てよ!”
銃撃は未然に防止することこそ賢明である。困難な時、援けてくれた朴如真の哀切な姿
が瞬間閃くように頭に浮かんだ。彼は従容として両手をあげた。純情な朴如真、彼女のた
イム ソク
キム テ ジン
めにも彼は生きたかった。かの戦いの時、林石同志と呼ばれた名前から、本命の金泰鎮に
もどる時点であった。その歳月、智異山は数多い砲弾によって満身創痍になっていた。
太古の秘密を保持している智異山は、大規模な軍団作戦、四万名の兵士と、無限量の砲
火によって隈なく蹂躪された。金泰鎮は生捕りされた後の軍事裁判のとき、朴如真にかく
まわれ彼女の庇護を受けたことを決して明かさなかった。
“天が二つに避けてもあなたを愛します”とささやいてくれた彼女の心に思い巡らせて。
万一、栗林のほとり、果樹園の野幕で隠れていたとの事実が発覚されれば、純真な彼女
の恩愛を仇で報いる結果になるのだった。彼女を<通匪分子>として告げれば、彼女の愛
ピ
ア コル
を背信の行為で報復するという気まずいことになるのは分明だった。金泰鎮は彼我谷 の
ブルムンチャントン
不無 長 嶝 にあった秘密の<患ト>に収容されていたのだと言明した。ほんの片言でも洩ら
せば、彼女は必ず被害をこうむるにちがいなかった。
時は晩春、春は暮れ行くが、智異山は多くの悲劇をかかえていた。
註記
友人である韓国の作家柳基洙から、彼が日本文で書いた作品「パルチザンの愛」が送ら
れてきた。六年前、彼の作品集を高大中氏が訳したものを監修したときと同じように監修
し、今号に発表させていただくこととした。
彼は韓国の統一志向文学の前提としてのパルチザン文学の第一人者という評価を受けて
おり、これまでに発表した作品も数多い。今回の作品は最後のものとなるかもしれないと
言う。統一志向文学の前衛としてのこの作品を味わっていただければ幸いである。彼の指
向する統一はなお遠いが、パルチザンの血の悲劇が訴える深い呻吟からもそれは生まれね
ばならぬ。
(間瀬 昇)
会
録
第217回(1996・6・30)金真須美『メソッド』
報告者・裵 聖 哲 参加者11名
第218回(7・28)趙南哲詩集『あたたかい水』
報告者・磯貝治良 参加者11名
第219回(8・25)李龍海詩集『ソウル』
報告者・鄭 喜 順 参加者6名
第220回(9・29)
『架橋』16号合評会/PART1
報告者・岩田たまき 参加者9名
第221回(10・27)磯貝治良『在日疾風純情伝』出版記念の集い
話・磯貝治良+フリートーク+歌
参加者34名
第222回(11・24)
『架橋』16号合評会/PART2
報告者・李家美代子 参加者4名
第223回(12・22)一年をふりかえり1997年を望むつどい
参加者12名
第224回(1997・1・19)李恢成『死者と生者の市』
報告者・磯貝治良 参加者8名
第225回(2・16)柳美里『フルハウス』
報告者・間 瀬 昇 参加者14名
第226回(3・30)金石範『地の影』
報告者・張 洛 書 参加者8
第227回(4・27)梁石日『Z』
報告者・磯貝治良 参加者5名
第228回(5・25)李恢成『時代と人間の運命』エッセー篇
報告者・間 瀬 昇 参加者6名
あとがき
▼柳美里「家族シネマ」の第一一六回芥川賞受賞を喜んだ。
それより前、
「魚の祭」が岸田國土戯曲賞を受賞したときも、青春五月党以来のファン倶
楽部を自称する私は、拍手を惜しまなかった。
柳美里の、日常と非日常の皮膜に表現される虚構は、すぐれて小説のそのものなのだ。
<小説という虚構>たりえている作家は、ざらにいるものではない。
芥川賞受賞記念のサイン会が“新右翼”を名乗る何者かの脅迫によって、いったん中止
された。それで柳美里は猛然と怒った。脅迫者に対して怒ったのだが、あっさり撤退した
出版社に対しても、あのような脅迫者は“新右翼”ではないと宣言したようだが、“事件”
を知ったとき私もガセネタではないかと感じた。人気タレントにカミソリを送ったりする
のに似た、ストーカータイプのいやがらせではないか、と。真偽のほどは分からないけど、
そんな印象があった。
柳美里が、私は日本人をバカにする文章を書いてはいけない、とコメントしたのは、そ
の通りだろう。私は柳美里が新聞に連載していたコラムを愛読して、その中に沖縄問題を
めぐる西尾幹二(
「自由主義史観」とかを標榜する、あの学者)の言説に反論する文章があ
ったが、あれなどバカにするどころか、見事な批判だった。
私には、柳美里に日本人を批判する文章がもっとあっても構わない、と思える。脅迫に
対して柳美里は「言論と表現の自由」の名において怒ったけれど、まっとうすぎて意外だ
った。脅迫者の心理にある、得体の知れない醜悪な偏見に対して、怒るべきだ。いや、べ
きだ、などと偉そうな言い方は私にできない。「表現の自由」などという言葉では置き換え
のきかない怒りを、柳美里は覚えているのではないのだろうか。
柳美里本人にも意外であっただろうトラブルのために最初の小説「石に泳ぐ魚」が宙を
さまよっていることを、私は悲しんでいる。ああいう“系列”の作品を書いてほしいから
だが、それ以上に「石に泳ぐ魚」は「フルハウス」よりも「家族シネマ」よりも優れた小
説と思っているからだ。
「石に泳ぐ魚」をめぐるトラブルの際、柳美里が示した誠実な態度は、信頼に足る作家で
あることを充分に証明した。
イギョラ! 柳美里
▼ちょっと異例の「あとがき」になったけれど、
“サイン会事件”は看過できないことなの
で私感の一端を書いた。
ことし一九九七年十二月が来ると、在日朝鮮人作家を読む会は二十周年をむかえる。そ
こで『架橋』17号は記念号の体裁をとりたかったのだけれど、実現できなかった。会は
まだ五年、十年と(たぶん)つづくだろうから、先にとっておくことにしよう。
小説作品はここ数号、変りばえしない顔ぶれだが、それぞれの持ち味を愉しめるとおも
う。
「パルチザンの愛」は韓国作家が日本語で執筆したものである。
エッセイをも小説作品と同格に位置づけるのが本誌の趣旨である。蔡孝のそれは期せず
して「友人の領分」と兄弟篇になった。
▼父・磯貝英宗が五月四日に逝った。一九〇四年生まれの九二歳と半年余の大往生だった。
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彼は八十歳頃までの六十年余、
“しるしかき”の職人として生きた。酒樽のこもかぶりの薦
に商標文字と絵柄のデザインを書く仕事である。彼が現役を引退する頃には、同業の職人
は全国でも四、五名残っていたきりである。
「あとがき」になぜこんな私事を書くかといえば、本誌の題字「架橋」は彼の揮毫による
ものだからである。
▼恒例によって昨年十二月の「望年会」におこなった、一九九六年「読む会」テキスト人
気投票の結果を記す。①磯貝治良『在日疾風純情伝』②同「漁港の町にて」
(架橋16号)
③香山末子詩集『青いめがね』④趙南哲詩集『あたたかい水』⑤呉林俊『記録なき囚人』
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文真弓「大潮」
(架橋16号)以下略。(陰の声「さくらくさいなぁ」
)
▼今号もまた財政面のあれこれに中山峯夫さんの手をわずらわせた。
(貝)
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