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第1章日南市の歴史的風致形成の背景 1 自然的環境

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第1章日南市の歴史的風致形成の背景 1 自然的環境
第1章 日南市の歴史的風致形成の背景
1
自然的環境
みやこのじょう
日 南 市 は、九 州 の 南 東 部 にある宮 崎 県 の 南 部 に位 置 し 、東 に日 向 灘 を臨 み 、西 は 都 城 市・
み ま た
く し ま
三 股 町 、南 は 串 間 市 、北 は宮 崎 市 に隣 接 している 。総 面 積 53,61 2 ㌶ のうち約 78% が山 林 等
お すず
で、 北 西 部 の 南 那 珂 山 地 に 標 高 約 1, 000 m 級 の小 松 山 や 男 鈴 山 等 を有 する。 宮 崎 市 から 日
南 市 を経 て鹿 児 島 県 に 至 る延 長 112km の海 岸 線 は、 全 国 有 数 のリ アス式 海 岸 で 、 日 南 海 岸
国 定 公 園 として国 定 公 園 の指 定 を受 けている。
図:日南市位置図
気 候 は、 黒 潮 海 流 の影 響 に より年 間 平 均 気 温 は 18.2 度 と温 暖 多 照 な地 域 である。 降 雪 は
ほとんどない。 1 年 間 の 平 均 日 照 時 間 は 1,958. 9 時 間 と、 南 海 型 季 候 区 に属 する高 知 県 、 紀
伊 半 島 南 部 ととも に、 日 本 では日 照 に 恵 まれた地 域 の 一 つである。 一 方 、 年 間 平 均 降 水 量 も
2,598 . 7 ミリと雨 量 が豊 富 で、四 国 の 太 平 洋 岸 、紀 伊 半 島 の 東 部 とともに日 本 の多 雨 地 帯 とな
っている。
9
日南市全図
10
日南市(油津)の平均降水量及び気温(1981~2010)
500
30
27.2
450
25.1
400
25
23.3
350
20.5
20.3
300
16.8
250
150 8.7
15.6
9.8
216.1
100
78.3
20
15
458.9
12.6
200
50
27.6
268.1
254.7 255.4
10.7
313.8
238.9
194.9
127.7
119.8
10
5
72.1
0
0
1月
2月
3月
4月
5月
6月
降水量(mm)
7月
8月
9月
10月 11月 12月
平均気温(℃)
気象庁ホームページ
気象統計情報より
植 生 では、市 域 の 約 8 割 を占 める 山 林 には飫 肥 杉 が多 く植 林 されている。海 岸 部 に近 い 山
林 には照 葉 樹 が多 く、海 浜 部 にはマツの 防 砂 林 がみられる。日 南 海 岸 には亜 熱 帯 植 物 の 群 生
も見 られ、 フェ ニックスやハ イビスカスなど、 南 国 情 緒 をイメージして道 路 景 観 の修 景 で 植 えら
れた植 物 も多 い 。
フェニックス
ハイビスカス
11
2
社会的環境
【人口】
本 市 の 人 口 は、昭 和 30 年 (1955)の 86,889 人( 旧 日 南 市 においても同 年 の 62,492 人 )をピ
ークに減 少 傾 向 が続 い ており、 平 成 12 年 ( 2000)から 平 成 17 年 (2005) までの 5 年 間 で約 4%の
2,507 人 が減 少 して 、 平 成 17 年 ( 2005)には 60,914 人 となった。 平 成 17 年 (2005)から平 成 22
年 ( 2010)まで の 5 年 間 には約 6% の 3, 225 人 が減 少 し、平 成 22 年 ( 2010) 10 月 1 日 の国 勢 調 査
人 口 では 57,689 人 とな っている。世 帯 数 は、昭 和 55 年 ( 1980)から 平 成 17 年 ( 2005) までの間 は
増 加 傾 向 にあったが 、平 成 17 年 (2005)から平 成 22 年 ( 2010) までの 5 年 間 で 約 1.7% の 402 世
帯 が減 少 している。高 齢 化 率 は、平 成 7 年 ( 1995) には 20% 台 に突 入 し、平 成 17 年 ( 2005)に は
30%台 に迫 り、平 成 22 年 ( 2010) 10 月 1 日 の国 勢 調 査 人 口 では、約 31. 0%と 30% を超 えている 。
国勢調査データより
【産業】
本 市 は、 豊 か な海 、 山 、 更 には温 暖 な気 候 といった地 域 特 性 を有 していることから、 農 林
水 産 業 は盛 んで、 全 産 業 に占 める農 林 水 産 業 の 産 業 構 成 比 の割 合 は 、 毎 年 増 減 はあるもの
の、 約 1 割 を維 持 して いる。
12
農 業 は、温 暖 な気 候 と豊 富 な日 照 量 を活 用 した早 期 水 稲 や極 早 生 温 州 みかん 、中 晩 柑 類 、
完 熟 マンゴー、 日 本 一 の生 産 高 を誇 るスイート ピーなどを盛 んに栽 培 している。 また、 農 業 生
産 額 の 半 分 以 上 を占 める畜 産 業 については、「 みやざき地 頭 鶏 」の 普 及 にも力 を入 れるなど 、
平 成 20 年 度 農 業 総 生 産 額 は約 167 億 円 、 耕 地 面 積 は 1,938 ㌶ となっている 。
林 業 は、市 域 面 積 の 78. 0%( 42, 232 ㌶ )が林 野 となっており、そのうち約 7 割( 30,641 ㌶ )
を飫 肥 杉 の 人 工 林 が占 めている。 飫 肥 杉 は、 「 油 分 が多 く、 曲 げや すく、 衝 撃 に強 い」 とい
う特 性 から 、 江 戸 時 代 から造 船 用 材 として需 要 が高 かったが、 船 体 が木 造 か ら鉄 鋼 ・ F R P
へ移 行 した昭 和 30 年 代 から需 要 は減 少 しており、 近 年 では、 建 築 用 材 やインテリア家 具 材 と
して普 及 を図 り 、 平 成 19 年 度 の生 産 額 ( 市 町 村 内 総 生 産 ) は約 5.8 億 円 となっている。
水 産 業 は 、市 内 に 10 港 もの良 好 な 港 を有 し、平 成 20 年 度 の水 揚 げ高 は、県 内 トップ の約
142 億 円 となっている。そのうち 、まぐ ろ延 縄 と近 海 かつお一 本 釣 によ る生 産 額 が約 133 億 円 と、
全 体 の 9 割 超 を占 めて いる。しかし、燃 油 価 格 の高 騰 による 漁 業 経 営 者 の 廃 業 や 水 産 資 源 の
減 少 により、 平 成 16 年 度 水 揚 げ高 の 約 167 億 円 と比 較 すると、 金 額 で 25 億 円 、 率 で 15%
減 少 している。
製 造 業 は 、昭 和 13 年 ( 1938) に ㈱ 日 本 パルプ工 業 飫 肥 工 場( 現 在 の王 子 製 紙 ㈱ 日 南 工 場 )
が操 業 を開 始 し、 以 後 、 企 業 誘 致 を進 める中 で、 飲 料 、 繊 維 ・ 衣 服 、 プラスチック、 電 子 部
品 等 の 企 業 が立 地 する ようになった。 既 存 事 業 所 の 拡 張 等 によ り、 パルプ・ 紙 、 電 子 部 品 の
出 荷 額 が伸 びており、平 成 20 年 (1945)における製 造 品 出 荷 額 は 約 706 億 円 で、そのうちパ ル
プ・ 紙 の出 荷 額 は約 398 億 円 と、 平 成 15 年 ( 2003)の 約 260 億 円 と比 較 して約 53.1% 、 電 子
部 品 の 出 荷 額 は約 85 億 円 で 平 成 15 年 ( 2003)の約 61 億 円 と比 較 し て 39.3% と、大 きく伸 びて
いる。
商 業 は、 平 成 9 年 ( 1997) から 平 成 19 年 ( 2007)の推 移 は、 店 舗 数 が 997 件 か ら 803 件 と、
194 件 ( 19.5% ) 減 少 し、 年 間 販 売 額 は、 65,281 百 万 円 から 53,361 百 万 円 と、 11,920 百 万
円 ( 18.3% ) 減 少 して いる。
就 業 人 口 は、 平 成 17 年 (2005)が 27,817 ( 第 1 次 14.7% : 第 2 次 23.6%: 第 3 次 61.7 %) 、
昭 和 60 年 (1985)が 33, 494 ( 23.1%: 26.1% : 50.7% ) 、 第 1 次 産 業 は 3,500 人 以 上 減 り、 離
農 林 業 が進 行 し 、 第 3 次 産 業 従 事 率 が増 加 し ている。 第 1 次 産 業 従 事 率 は減 少 しているも
のの、 全 国 比 では 平 均 の倍 以 上 である。
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【交通】
近 代 以 前 は、飫 肥 地 区 から北 郷
地 区 を通 り山 越 えで宮 崎 に至 る 飫
肥 街 道 が宮 崎 方 面 へ 向 かう主 要
道 であったが、現 在 は 宮 崎 から南 下
する国 道 220 号 が串 間 方 面 へ伸 び、
バイパス区 間 も増 加 し て利 便 にな
っている。ただ し、連 続 雨 量 が一 定
値 を越 える と通 行 止 めとなる。日 南
から都 城 方 面 は 国 道 222 号 で 結 ば
れる。
東 九 州 自 動 車 道 は現 在 建 設 中
であり、日 南 と北 郷 にインターチェン
ジが造 られる 予 定 となっ ている。 市
油津港
を縦 断 するように J R 日 南 線 が走
り、 宮 崎 方 面 と鹿 児 島 県 志 布 志 を
結 んでいる。 油 津 港 に は貨 物 用 の
定 期 航 路 がある。
日南市の交通
【観光】
本 市 の日 南 海 岸 は 、 昭 和 30 年 代 後 半 か ら昭
和 40 年 代 にかけて、 鵜 戸 神 宮 やサボテン園 など
に、 多 くの 新 婚 旅 行 客 等 の 観 光 客 が来 訪 した。
昭 和 37 年 (1962)からはプロ野 球 チームの 広 島 東
洋 カープが日 南 で キャンプを行 っているほか 、同 じ
くプロ野 球 チームの 埼 玉 西 武 ライオンズ のみなら
ず 、 横 浜 FC や湘 南 ベルマーレなどのプロサッ カ
ーチームもキャンプ を行 い、毎 年 、キャンプシー ズ
ンには取 材 陣 や多 くの 観 光 客 で賑 わ っている。
広島東洋カープ春季キャンプ
昭 和 51 年 ( 1976)から 昭 和 54 年 (1979)には、飫
肥 城 由 緒 施 設 の 整 備 が行 わ れ、 昭 和 52 年 ( 1977)には重 要 伝 統 的 建 造 物 群 保 存 地 区 の 選 定
も受 け、 飫 肥 城 下 町 が新 たな 観 光 地 として 脚 光 を浴 びてきた。
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本 市 を代 表 する港 町 油 津 地 区 は、 平 成 4 年
(1992) に映 画「 男 はつらいよ」のロケ地 となり 、平
成 5 年 ( 1993)か らは堀 川 運 河 の整 備 が始 まっ て、
歴 史 的 な町 並 みが注 目 されてきた。 また、 平 成
21 年 ( 2009 ) の 合 併 によって、 旧 北 郷 町 の 北 郷
温 泉 や森 林 セラピー、 旧 南 郷 町 の 海 中 公 園 やマ
リンスポー ツの魅 力 が加 わ り、本 市 の自 然 や歴 史
を活 かした観 光
北郷森林セラピー(猪八重渓谷)
資 源 が充 実 して
きた。
さらに、 道 の駅 酒 谷 と道 の 駅 なんごう、 港 の駅 めいつ など
のオープンや 、JR の 観 光 特 急「 海 幸 山 幸 」の 運 行 、日 南 一
本 釣 りカツオ 炙 り 重 、 飫 肥 城 下 町 食 べあるき ・ 町 あるき 等 の
ご当 地 グルメやまちある きと食 を組 み合 わ せた企 画 等 、 新 た
な話 題 が絶 えないこ とも あって、 本 市 は宮 﨑 県 内 でも有 数 の
観 光 地 となっている。 また、 現 在 、 鵜 戸 神 宮 に年 間 約 100
万 人 、飫 肥 城 とサン メッ セ日 南 に 約 20 万 人 の 観 光 客 がある。
飫 肥 城 下 町 食 べ あ る き・町 あ る き
日南市観光客数の推移
(人)
2,000,000
1,800,000
1,600,000
1,400,000
1,200,000
1,000,000
800,000
600,000
400,000
200,000
0
1
2
3
4
5
6
7
8
9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 (年)
※平成21年3月30日に日南市・北郷町・南郷町の1市2町合併。
集計方法が平成21年分から変更している。
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道の駅なんごう
港の駅めいつ
JR観光特急「海幸山幸」
サンメッセ日南のモアイ像
16
3
日南市の歴史
(1 )原始・古代
南 九 州 に位 置 する 日 南 市 は、 原 始 ・ 古 代 か ら火 山 噴 火 による影 響 を強 く 受 けて きた。 現 在
も、 日 常 的 な活 動 範 囲 は、 鹿 児 島 の錦 江 湾 を噴 火 口 とする姶 良 カルデラが約 3 万 年 前 に 大
噴 火 ( 姶 良 大 噴 火 ) し た時 の 噴 出 物 ( 入 戸 火 砕 流 ) で あ る シ ラス 土 壌 に 厚 く 覆 わ れて い る 。
このような、 度 重 なる 火 山 噴 火 によって、 南 九 州 の生 態 系 は大 きな影 響 を受 けてきた。
その 後 、 南 九 州 では 約 15,000 年 前 から 縄 文 時 代 となって、 日 本 列 島 の中 では最 も早 い 時
期 から土 器 を使 用 し 始 めることになる 。 日 南 市 内 でも、 大 窪 地 区 の前 畑 遺 跡 や塚 田 地 区 の 坂
ノ上 遺 跡 で縄 文 時 代 早 期 の住 居 等 が発 掘 されている。
しかし、 屋 久 島 の 北 海 底 の 竹 島 ・ 硫 黄 島 を 外 輪 とする 海 底 火 山 「 鬼 界 カルデ ラ 」 が 約 7 ,
300 年 前 に大 噴 火 して 、いわ ゆる「 アカホヤ」と呼 ばれるオレンジ 色 の 土 壌 を 1m 近 く 堆 積 さ せ
て、 生 態 系 に大 きな影 響 を与 え た。 この アカホヤ層 の下 から 出 土 する 縄 文 時 代 の 遺 跡 は 草 創
期 もしく は早 期 で 、 アカホヤ層 の上 からは 前 期 以 降 の 遺 跡 となるため、 年 代 決 定 根 拠 となっ て
いる。 弥 生 時 代 になる とシラス台 地 上 に集 落 が形 成 され始 める 。 市 内 には 18 ヶ所 以 上 の 遺 跡
が確 認 されて おり 、 平 野 地 区 の影 平 遺 跡 ( 中 期 )や上 方 地 区 の 大 園 遺 跡 ( 後 期 )等 が調 査
されている。
古 墳 時 代 になる と、 宮 崎 平 野 では 生 目 古 墳 群 ( 宮 崎 市 ) や西 都 原 古 墳 群 ( 西 都 市 ) 、
新 田 原 古 墳 群( 新 富 町 )等 の巨 大 な 前 方 後 円 墳 を含 む 大 規 模 な古 墳 群 が形 成 されていった。
しかし、 日 南 市 内 には 、 現 在 まで、 有 力 首 長 を葬 った前 方 後 円 墳 は発 見 されていない。 幕 末
に相 次 いで 発 見 された細 田 古 墳 や 油 津 山 上 古 墳 は、自 然 丘 陵 に竪 穴 式 石 室 を設 けた古 墳 で、
いず れも海 に面 して築 造 されている。
さ ら に、 7 世 紀 に 入 っ て 築 造 さ れ た 風 田 地 区 の 狐 塚 古 墳 は 、
宮 崎 県 内 では 最 大 級 の 横 穴 式 石 室 を主 体 とし た終 末 期 古 墳 で 、
史 跡 となっている西 都 原 古 墳 群 の 鬼 ノ窟 古 墳 よりも大 きい 。 古
墳 の立 地 も、 海 に 面 し た砂 丘 上 で 、 石 室 の開 口 部 は海 を向 い
ている。平 成 6 年 (1994)の調 査 では、須 恵 器 や馬 具 、ガラス玉
とともに、 銅 製 の 椀 や 鈴 が出 土 しており、 海 の道 を通 じたヤマト
政 権 との繋 がりが想 定 されて興 味 深 い 。
なお、 古 墳 時 代 中 期 以 降 の南 九 州 には、 隼 人 の 墓 制 とみら
れる地 下 式 横 穴 墓 が宮 崎 平 野 南 部 から 諸 県 地 方 、串 間 市 等 に
広 く分 布 しているが、 日 南 市 内 には現 在 まで 一 基 も確 認 されて
いない。
17
狐塚古墳
7 世 紀 後 半 には律 令 国 家 が成 立 して、 現 在 の宮 崎 県 と鹿 児 島 県 大 隅 地 方 を含 めた日 向 国
が設 置 された。 和 銅 6 年 ( 713)には 大 隅 国 を 分 置 しているが、 養 老 4 年 ( 720)に隼 人 の反 乱 に
より大 隅 国 守 が殺 害 さ れ、大 伴 旅 人 による 隼 人 鎮 定 が行 わ れた。そのために多 く の 殺 生 を行 っ
たので、 律 令 政 府 は諸 国 放 生 会 を行 った 。 隼 人 の居 住 範 囲 では、 隼 人 族 の 首 長 の 身 代 わ り
ともいわ れる「 弥 五 郎 」 を祀 ったの が田 ノ 上 八 幡 神 社 の 弥 五 郎 人 形 行 事 で あ る と 考 え ら れる 。
同 様 の 行 事 は宮 崎 県 都 城 市 山 之 口 町 や鹿 児 島 県 曽 於 市 大 隅 町 、日 置 市 等 にも伝 わ っている。
日 向 神 話 でホオリノミ コト ( 山 幸 彦 ) と海 神 の娘 トヨタマ
ヒメが結 婚 する 舞 台 となった鵜 戸 神 宮 の 社 伝 では、延 暦 23
年 ( 804)に社 殿 を再 興 し たとあり 、 海 上 交 通 の 要 衝 でもあっ
た同 社 が、 平 安 時 代 の はじめには南 九 州 の 有 力 な神 社 の
一 つであったと考 えられる。一 方 、隼 人 族 の祖 とも伝 え られ
うしお だ け
ているホスソリノミコト( 海 幸 彦 )を祀 る 潮 嶽 神 社 が北 郷 町
宿 野 にある 他 、神 武 天 皇 の妃 である アヒラツヒ メが訛 った油
海幸彦を主祭神とする潮嶽神社
津 や、 阿 多 が訛 ったとみられる吾 田 な ど、 日 向 神 話 にちなんだ 地 名 が多 い。
また、 一 方 で 平 安 時 代 中 期 の『 名 類 聚 抄 』 によれば、 日 南 地 方 は宮 崎 郡 飫 肥 郷 として記
されており、郡 として把 握 できるほどの人 口 は なかったことが伺 える。なお、飫 肥 城 大 手 門 前 の
発 掘 調 査 では 、 同 時 期 の掘 立 柱 建 物 群 や 土 器 が出 土 し ている。
平 安 時 代 後 期 になっ て大 隅 、薩 摩 地 方 に島 津 荘 が成 立 するが、飫 肥 の地 はその 寄 郡 とな り、
奈 良 の 興 福 寺 一 乗 院 が領 家 となる 。 建 久 8 年 ( 1197)の建 久 図 田 帳 によると、 飫 肥 北 郷 400
町 、 飫 肥 南 郷 110 町 が島 津 荘 として記 されている。
(2 )中世
南 北 朝 期 の『 長 谷 場 文 書 』 では 、 荘 園 制 度 崩 壊 の 状 況 が伺 え る。 同 文 書 によると、 康 安
3 年 ( 1344) に長 谷 場 鶴 一 丸 という 人 物 が飫 肥 北 郷 の弁 斉 使 代 官 職 及 び収 納 使 職 に任 じ ら
れた。前 任 者 の 水 間 栄 証 、忠 政 親 子 は年 貢 を納 めないため解 任 されたが、貞 和 2 年( 1346)
には城 郭 を構 えて抵 抗 したことが記 されている。 同 文 書 には、 悪 党 の 用 語 も現 れるこ とから、
南 北 朝 の飫 肥 の地 は 、在 地 領 主 層 が成 長 して 城 が築 か れ、領 主 間 の 抗 争 も激 化 してきたこと
が伺 える。 この 時 期 の 文 化 遺 産 として、 飫 肥 城 周 辺 に永 仁 3 年 ( 1295)の 板 碑 がある 大 迫 寺 跡
石 塔 群 や歓 楽 寺 跡 墓 碑 群 な どの石 塔 群 が市 内 各 所 に分 布 して いる 。 南 北 朝 期 以 降 、 全 国 の
商 業 流 通 が活 発 とな り 、琉 球 を中 継 した明 や 東 アジア諸 地 域 との交 易 が活 発 に行 わ れるように
なると、 南 九 州 の 地 理 的 重 要 性 が高 まってきた。 日 向 国 内 でも、 外 浦 地 区 や油 津 地 区 のあ る
飫 肥 の 地 は、 海 上 交 通 の要 衝 として 重 要 な位 置 を占 める こ とにな っ て 、 長 禄 2 年 ( 1 45 8) に は 、
島 津 忠 国 が新 納 忠 続 を飫 肥 城 主 に封 じている 。 文 明 16 年 ( 1484) 、 櫛 間 城 主 であった伊 作 久
逸 は伊 東 氏 と計 って飫 肥 領 内 を攻 めたて、 以 後 、 東 アジ アとの 交 易 拠 点 がある 飫 肥 の 地 をめ
18
ぐって島 津 と伊 東 の 争 いが何 代 にもわ たって続 くことになる 。 文 明 18 年 (1486)以 降 は、 島 津 忠
廉 が飫 肥 城 主 となり 、 飫 肥 の 地 は豊 州 島 津 家 が直 接 支 配 するこ ととなった。
豊 州 島 津 氏 は 日 明 貿 易 でも 重 要 な役 割 を果 たすこ とになる 。 永 正 16 年 ( 1519 ) 、 幕 府 は
大 内 氏 と細 川 氏 の 船 で 遣 明 使 派 遣 を計 画 し た。 大 内 義 興 は、 この 遣 明 船 の 建 造 を、 飫 肥 領
主 の島 津 忠 朝 に 依 頼 するととも に、 細 川 氏 の 船 を飫 肥 領 内 に抑 留 するように依 頼 しており、 飫
肥 安 国 寺 の 僧 月 渚 も 副 使 につぐ地 位 で 大 内 船 に乗 ることになった。
一 方 、細 川 氏 の船 の 正 使 となった相 国 寺 の 鸞 岡 瑞 佐 は、永 正 17 年 ( 1520) に、師 の玉 淵 瑞
杲 とともに、土 佐 経 由 で日 向 を訪 れて 、油 津 地 区 の 慶 雲 寺 や臨 江 寺 に滞 在 しながら日 向 各 地
の有 力 者 と交 流 し、 細 川 船 の 安 全 確 保 の 根 回 しを行 っている。
その 後 、 大 内 氏 は、 もう一 艘 の 遣 明 船 建 造 を、 島 津 忠 朝 に依 頼 し ており、 結 局 、 油 津 地
区 で建 造 された大 内 船 と、 細 川 船 が大 永 3 年 (1523) に明 へ出 航 した。 しかしながら 、 明 の 寧
波 において 、 細 川 船 の 方 が大 内 船 よ りも 後 に 着 い たにも か かわ らず 、 明 国 の 役 人 を買 収 し て 、
先 に交 易 を始 めたこ とから、 大 内 船 側 が怒 り、 細 川 船 の 正 使 瑞 佐 を殺 して、 寧 波 の 町 を荒 ら
して帰 国 してしまった。 いわ ゆる 寧 波 事 件 であ る。
この事 件 に飫 肥 領 内 の油 津 地 区 や 外 浦 地 区 が大 きく 関 わ っている点 は注 目 される 。第 一 に、
当 時 の 最 先 端 の造 船 技 術 を必 要 とし たであろう遣 明 船 の建 造 を油 津 地 区 で 行 っていること、 さ
らに、飫 肥 安 国 寺 の 僧 月 渚 が外 交 の実 務 者 として乗 り込 んでいるこ とである。月 渚 の 師 で 、飫
けいあん
肥 安 国 寺 を建 立 した 桂 庵 も、 遣 明 船 に副 使 とし て 乗 り 込 んだ ことがあ り、 当 時 の 飫 肥 領 に は 、
高 度 な造 船 技 術 があっ ただ けでなく、 外 交 実 務 を行 うことの できる 人 物 ( 禅 僧 ) も抱 え られて
いたことになる 。
とりわ け、 桂 庵 は、 後 に徳 川 幕 府 の 正 式 な学 問 となる朱 子 学 を我 が国 に取 り入 れた人 物 で
あり、 後 に京 都 の 建 仁 寺 の管 主 となる 。 その 弟 子 として月 渚 、 一 翁 、 南 浦 文 之 が続 いた。 南
浦 文 之 は外 浦 地 区 の 出 身 で 、 いわ ゆる「 文 之 点 」 を完 成 させるとともに 、 島 津 氏 の政 治 顧 問
として琉 球 や東 アジ アと の 外 交 文 書 を作 成 し て お り、 『 鉄 砲 記 』 を記 し たこ とで も 有 名 で あ る 。
これらの学 僧 は薩 南 学 派 と呼 ばれている。
このように 、 室 町 時 代 から戦 国 時 代 にか けて
の油 津 地 区 や 外 浦 地 区 は、国 内 の 交 易 のみ な
らず 琉 球 や東 アジアとの 交 易 拠 点 として栄 えた
ことから、 宮 崎 平 野 を支 配 していた伊 東 氏 にと
って、 飫 肥 領 を攻 撃 する大 きな動 機 になったに
違 いない。 飫 肥 城 を 巡 る島 津 氏 と伊 東 氏 の 攻
防 戦 は、 まさに、 東 アジアとの 交 易 拠 点 をめぐ
る争 いであったと考 えら れる。
外浦港
19
15 世 紀 か ら 16 世 紀 にかけては、 こうした伊 東 と島 津 の 攻 防 戦 によ り多 数 の城 郭 が築 かれた
とみられる。 それらには 飫 肥 城 や酒 谷 城 のよう に、 シラス台 地 を深 い 空 堀 で 縦 横 に区 画 した南
九 州 型 とも呼 ばれる、 地 域 の 拠 点 となる 中 世 城 郭 が出 現 した。
この時 期 、宮 崎 平 野 を中 心 として日 向 をほ ぼ手 中 にした 伊 東 氏 は、平 安 時 代 末 から 伊 豆 国
伊 東 荘 を支 配 した豪 族 で、 源 頼 朝 とも 関 わ りが深 く、 「 曾 我 兄 弟 の 仇 討 ち」 で 討 たれた工 藤
祐 経 が日 向 伊 東 氏 の 始 祖 となっている。 伊 東 義 祐 は、 天 文 10 年 ( 1541)から 永 禄 11 年 ( 1568)
までの 28 年 の歳 月 をか けて飫 肥 の 地 を攻 略 し 、ついに飫 肥 領 主 となり、次 男 の 祐 兵 を飫 肥 城
主 とし た。 この 間 、 飫 肥 城 を中 心 とし た丘 陵 一 帯 は城 砦 として整 備 され、 町 屋 や寺 院 、 神 社
も配 された城 下 町 が形 成 されはじめたと見 られる。
しかし 、元 亀 3 年 (1572)の木 崎 原 の 合 戦 で 島 津 軍 に大 敗 した伊 東 氏 は大 友 宗 麟 を頼 り豊 後
に落 ち延 びた。 この伊 東 一 族 の中 には、 天 正 少 年 使 節 の 代 表 となっ た伊 東 マ ンショもいた。 そ
の後 、 大 友 氏 も 島 津 との争 いに敗 れたため、 伊 東 氏 は河 野 氏 を頼 っ て四 国 に渡 るが安 住 で き
ず 、 伊 東 義 祐 は 大 坂 の 堺 浦 で 病 死 する 。 次 男 の 祐 兵 は 播 州 姫 路 で 秀 吉 に仕 え る こ とにな る 。
その後 、 天 正 15 年 ( 1587)に 、 豊 臣 秀 吉 の 九 州 攻 略 で案 内 役 を努 めた祐 兵 は 、 その 功 で飫 肥
の地 を与 え られた。以 後 、幕 末 まで 一 度 の 改 易 もなく伊 東 氏 が飫 肥 の地 を支 配 するこ とにな る。
(3 )近世
飫 肥 藩 伊 東 家 は、天 正 16 年 ( 1588)に飫 肥 城 に入 城 した伊 東 祐 兵
から廃 藩 置 県 時 の 藩 主 祐 相 まで、14 代 にわ たって飫 肥 の地 を支 配 す
ることになる。 飫 肥 藩 の 領 地 は、 現 在 の 日 南 市 と 宮 崎 市 の 田 野 町 、
清 武 町 と旧 宮 崎 市 の大 淀 川 以 南 である 。
当 初 の石 高 は 5 万 7 千 80 石 で、寛 永 13 年 ( 1636) と明 暦 3 年 ( 1657)
に松 永 村 と東 弁 分 村 が旗 本 領 として 分 村 し たため、23 村 、5 万 1 千
8 0 石 の 石 高 となった。
伊東祐兵
領 内 には、 藩 主 の 居 城 となった飫 肥 城 と清 武 地 頭 、 酒 谷 地 頭 、 南 郷 地 頭 等 がおかれた。
隣 接 する鹿 児 島 藩 は、 戦 国 時 代 からの 宿 敵 島 津 氏 が支 配 するこ とから 、 江 戸 時 代 のはじめか
ら島 津 領 と接 する 酒 谷 地 区 には 、 多 くの家 臣 団 を配 置 していた。 事 実 、 寛 永 5 年 ( 1627)か ら
牛 の峠 ・ 北 河 内 論 山 と呼 ばれる 境 界 論 争 が始 まり、 解 決 までに約 50 年 かかっている。
飫 肥 の地 に入 った伊 東 祐 兵 は本 格 的 な城 下 町 の 建 設 に取 りかか っている。 『 日 向 記 』 によ
ると、 慶 長 4 年 ( 1599) に前 鶴 地 区 の屋 敷 割 を行 い、 種 子 筒 町 を立 て たとある。 元 和 の 一 国 一
城 令 ( 1615) によってそれまで清 武 地 区 や酒 谷 地 区 、 南 郷 地 区 などに分 かれていた家 臣 団 の飫
肥 城 下 への集 住 が促 進 され、城 下 町 建 設 に一 層 拍 車 がかかったと思 わ れる。承 応 元 年 ( 1652)
から万 治 2 年 ( 1659)に かけて のものと推 定 される城 下 絵 図 によると、 明 治 時 代 以 降 の 町 割 で あ
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る小 川 地 区 と新 町 地 区 以 外 は、 現 在 の 飫 肥 地 区 とほとんど変 わ ることのない町 割 が成 立 し て
いる。
飫 肥 城 も、 伊 東 祐 兵 入 城 によってある程 度 改 修 されたと思 わ れるが、 基 本 的 にはシラス台
地 を空 堀 で 区 画 し た南 九 州 に 典 型 的 な中 世 城 郭 をその まま使 用 してい た。 しかし 、 寛 文 2 年
(1662) 、 延 宝 8 年 ( 1680)、 貞 享 元 年 ( 1684)の 相 次 ぐ大 地 震 によって、 飫 肥 城 本 丸 に大 きな被
害 が発 生 したため、 5 代 藩 主 伊 東 祐 実 は 貞 享 3 年 ( 1686)か ら元 禄 6 年 (1693)にかけて 、 石 垣
を多 用 した近 世 的 な城 郭 に改 築 し 、 現 在 残 さ れている縄 張 りとなった。
また、 同 じく藩 主 祐 実 は、 山 林 資 源 の 効 率 的 な輸 送
おとひめ
あ
ひ ら つ
のため、広 渡 川 河 口 近 くから、乙 姫 神 社( 吾 平 津 神 社 )
の前 の岩 山 を掘 り 通 し 、 油 津 港 までの堀 川 を開 削 するこ
とを決 定 した。 このこ とにより、 杉 や松 、 楠 などの木 材 を
はじめ、 藩 の 各 種 専 売 品 を飫 肥 城 下 から 油 津 港 に運 送
することが飛 躍 的 に 便 利 になると判 断 さ れたからである。
堀 川 は、 天 和 3 年 ( 1683)から 貞 享 3 年 ( 1686) まで 2 年 4
ヶ月 の 歳 月 を要 して完 成 し、藩 の関 船 を繋 ぐ 御 船 倉 も併
堀川運河
せて造 られた 。
飫 肥 藩 では、城 下 を中 心 に 寺 社 への寄 進 も積 極 的 であった。とりわ け、歴 代 藩 主 の菩 提 寺
となった臨 済 宗 報 恩 寺 ( 155 石 )をはじめ、 曹 洞 宗 長 持 寺 (100 石 )、 新 義 真 言 宗 願 成 就 寺 ( 121
石 1 斗 ) を飫 肥 三 ヵ寺 として優 遇 した。加 えて 、飫 肥 領 内 では 最 も歴 史 のある鵜 戸 山 仁 王 護 国
寺 と鵜 戸 大 権 現 ( 431 石 1 斗 )や 、 その 分 霊 を祀 っている榎 原 大 権 現 ( 150 石 ) と地 福 寺 (33 石 7
斗 )は、 他 の寺 社 と比 較 して禄 高 が多 く 、 歴 代 藩 主 から崇 敬 されて いた。
飫 肥 藩 はもとも と耕 地 が少 なく農 産 物 は貧 弱 であったが、 広 大 な山 地 と長 い 海 岸 線 を有 し、
山 林 資 源 と水 産 資 源 に 恵 まれていた。そのため、相 次 ぐ 手 伝 普 請 や 、藩 内 の 堀 川 掘 削 工 事 、
飫 肥 城 改 修 工 事 の 費 用 捻 出 には、 藩 の主 要 専 売 品 としての 山 林 資 源 が大 きな役 割 を果 たし
た。 とりわ け、 高 温 多 湿 な飫 肥 の地 に成 育 する飫 肥 杉 は 、 成 長 が早 い上 に油 分 が多 く、 軽 く
て弾 力 性 に富 むという 造 船 材 に 打 って付 けの 材 木 として全 国 にその 名 を轟 か せた。文 化・ 文 政
年 間 ( 1804 ~ 1829)には 、植 木 方 の 野 中 金 右 衛 門 に代 表 される造 林 事 業 によって、飫 肥 藩 内 の
山 々 は杉 に覆 わ れることになる 。 その 他 鰹 節 や砂 糖 、 茶 、 椎 茸 、 塩 、 飫 肥 馬 に加 えて、 寛 政
11 年 ( 1799)か ら始 めた飫 肥 和 紙 の 製 造 ・ 販 売 など を専 売 品 として 、 藩 財 政 を支 えるための努
力 がなされた。
19 世 紀 になって、藩 の近 代 化 や人 材 育 成 の 必 要 から 、
第 13 代 藩 主 伊 東 祐 相 は天 保 2 年 (1831)に安 井 滄 洲 ・
息 軒 を教 授 陣 に 招 き、 藩 校 振 徳 堂 を開 校 し た。 安 井 息
軒 はその後 江 戸 に出 て 三 計 塾 を開 き、 幕 末 を代 表 する
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藩校振徳堂
た に か ん じょう
儒 学 者 として 、 谷 干 城 や陸 奧 宗 光 な ど数 多 くの子 弟 を輩 出 した。 振 徳 堂 か らは、 飫 肥 西 郷 と
し ょ へい
呼 ばれた小 倉 処 平 や小 村 寿 太 郎 を輩 出 した。 小 倉 処 平 は安 井 息 軒 の 三 計 塾 でも学 び 、 後 に
明 治 政 府 に貢 進 生 制 度 を提 案 して採 用 され、 大 学 南 校 ( 開 成 学 校 ) に全 国 から優 秀 な人 材
を集 めるこ とになった。 飫 肥 藩 からの貢 進 生 は小 村 寿 太 郎 であった。
(4 )近代・現代
明 治 4 年 (1871)の廃 藩 置 県 により 飫 肥 藩 は 飫 肥 県 となった。 後 、 都 城 県 、 宮 崎 県 、 鹿 児
島 県 を経 て再 置 県 ( 分 県 ) された宮 崎 県 に編 入 された。
明 治 時 代 になって以 後 、飫 肥 の 地 は、南 宮 崎 の政 治 的 中 心 地 とし ての地 位 を維 持 し た。 さ
らに、 明 治 6 年 (1873) までに、 士 族 授 産 事 業 としての飫 肥 商 社 が 発 足 し、 飫 肥 藩 物 産 局 の専
売 品 であった 飫 肥 杉 や 樟 脳 、 木 炭 などの 藩 専 売 品 の 販 売 を手 掛 ける ことになる 。 当 初 は順 調
に経 営 されていたが、 明 治 10 年 (1877)の西 南 戦 争 に薩 摩 方 として 参 戦 した飫 肥 隊 による戦 費
強 奪 や 、経 営 陣 である 商 人 と出 資 者 である士 族 が 経 営 方 針 や利 益 の 配 分 を巡 って激 しく争 い 、
明 治 11 年 (1878)から明 治 25 年 ( 1892)にか けて 、飫 肥 の 町 を二 分 する争 いとなった。そのため、
商 社 としての取 引 は明 治 18 年 ( 1885) 頃 に衰 退 した。
飫 肥 杉 とマグロで 栄 えた油 津 地 区 の歴 史 を概 観
してみると、 大 正 2 年 ( 1913) には飫 肥 地 区 、 油 津
地 区 間 に県 内 最 初 の 軽 便 鉄 道 が敷 設 され、 大 正 6
年 ( 1917)、 農 商 務 省 が国 内 7 個 所 を指 定 して漁 港
整 備 を行 うこ ととなった 際 には、 九 州 では唯 一 油 津
港 が指 定 された。油 津 漁 港 以 外 の 6 港 は、福 島 県
小 名 浜 漁 港 、千 葉 県 白 浜 漁 港 、静 岡 県 伊 東 漁 港 、
新 潟 県 能 生 漁 港 、 三 重 県 波 切 漁 港 であった。 この
修 築 工 事 費 は 2 9 万 円 ( 国 庫 補 助 1 /2 、 県 費 1 / 2 )
マグロの水揚げ(昭和 6 年頃)
で、 大 正 7 年 ( 1918)か ら大 正 13 年 (1924)の間 に防 波 堤 、 岸 壁 、 埋 立 、 浚 渫 等 を施 行 したこ と
から港 湾 機 能 が飛 躍 的 に向 上 し 、以 後 のマグロ景 気 に繋 がるこ とになる。とりわ け堀 川 運 河 沿
いに築 造 された第 1 号 物 揚 場 は、長 さ 115.47 間( 約
210 m ) 、 幅 25 間 ( 約 45 m ) で 、 油 津 漁 業 組 合
や大 阪 商 船 株 式 会 社 油 津 荷 客 扱 店 の 事 務 所 や、
船員簡易休憩所、港湾監視所、共同販売所等の
施 設 が設 置 された。 また、 大 正 10 年 ( 1921 )には県
内 最 初 の上 水 道 も完 成 し ている。
油 津 港 の 漁 船 についても、大 正 5 年 ( 1916) 、それ
までの一 人 乗 り帆 船 で あるチョロ船 にかわ って、渡 邊
チョロ船
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与 一 が石 油 発 動 機 船 大 正 丸 を初 めて建 造 し て以 後 、 急 速 に発 動 機 船 が増 加 する 。 その 結 果 、
大 正 元 年 (1912)には 60, 722 円 であったまぐ ろ延 縄 漁 の 漁 獲 高 が、 大 正 15 年 ( 1926) に 240, 000
円 、昭 和 4 年 ( 1929)に は 1, 319,647 円 、昭 和 6 年 ( 1931)には宮 崎 県 の みならず 、大 分 、鹿 児 島 、
高 知 県 から操 業 船 573 隻 が油 津 港 に入 港 し、 クロマグロ 36,817 尾 、1,726,951 円 を記 録 した ( 当
初 は大 分 県 が多 かった) 。 こうした空 前 のマ グロ景 気 により、 昭 和 4 年 ( 1929) には無 線 局 を設
置 し、鉄 塔 2 基 が建 て られた。昭 和 5 年 ( 1930)は魚 揚 場 を拡 張 し 、漁 業 組 合 事 務 所 を新 築 し
た。 さらに、 昭 和 5 年 ( 1930) には指 定 港 湾 に指 定 され、 昭 和 6 年 ( 1931)か ら昭 和 8 年 ( 1933)に
かけては、 農 山 漁 村 失 業 救 済 低 利 資 金 や時 局 匡 救 地 方 港 湾 改 良 事 業 を受 けて 、 第 2 号 物
揚 場 307m 、第 3 号 物 揚 場 95m を築 造 してい る。しかしながら 、太 平 洋 戦 争 の開 戦 にともな い、
重 油 の 配 給 が規 制 されたことから 、漁 獲 高 が激 減 し 、昭 和 18 年 ( 1943) は操 業 船 75 隻 、438, 615
円 となった。
日 清 ・ 日 露 戦 争 以 後 、 日 本 の 大 陸 進 出 や「 航
海 奨 励 法 」 「 造 船 奨 励 法 」 などの 改 正 に伴 って造
船 材 等 の木 材 需 用 が急 増 し 、河 野 家 や服 部 家 、川
越 家 、 伊 東 家 の 4 家 の 部 分 林 権 集 積 が明 治 32 年
(1899)から 急 速 に進 ん だ 。 これらの主 立 った大 規 模
山 林 所 有 者 が堀 川 運 河 の上 流 に 土 場 と呼 ばれる
大 規 模 な貯 木 場 兼 製 材 所 を設 けたため、油 津 地 区
の堀 川 運 河 周 辺 は 飫 肥 杉 弁 甲 の 一 大 集 散 市 場 と
飫肥杉の切り出し(昭和初期)
なった。大 正 4 年 ( 1915)から昭 和 18 年 ( 1943)にかけ
ては、 上 記 4 家 など、 主 立 った大 規 模 山 林 所 有 者 が相 次 いで堀 川 運 河 護 岸 の石 積 み工 事 と
物 揚 場 ( 斜 路 ) 新 設 を行 っている。 とりわ け大 正 4 年 ( 1915)に河 野 宗 四 郎 が新 築 した護 岸 石
積 みは 116 間 ( 約 211m) で、延 べ 12 間 (約 22m) の物 揚 場 を設 けている。さらに、大 正 2 年 ( 1913)
に開 通 し た飫 肥 油 津 軽 便 鉄 道 は、昭 和 初 期 には油 津 停 車 場 か ら堀 川 運 河 まで引 き 込 み線 を 2
股 に延 長 して、 物 資 輸 送 の改 良 を行 っている。
飫 肥 杉 需 用 の 増 大 に 伴 い、製 材 所 の開 設 も相
次 ぎ、 明 治 42 年 (1909)、 飫 肥 地 区 の 小 玉 孝 輔
外 数 名 が、 資 本 金 5, 000 円 で 蒸 気 機 関 の製 材 所
を瀬 戸 口 で 開 業 し たの を皮 切 りに 、 大 正 12 年
(1923) までに飫 肥 地 方 に 18 の 製 材 所 が開 業 し た。
こうした飫 肥 林 業 の 発 展 に より、 大 正 13 年
(1924)の 山 林 伐 採 所 得 者 数 は、 50, 000 円 以 上 1
人 、10,000 ~ 50,000 円 9 人 、5, 000 ~ 10,000 円 11
油 津 の 飫 肥 杉 貯 木 場 ( 昭 和 10 年 )
人 、 2,000~ 5, 000 円 40 人 、 2, 000 円 以 下 499 人 の 計 560 人 であっ た。 ( 当 時 の 油 津 町 助 役
の月 給 は 70 円 であった 。 )
23
大 正 10 年 ( 1921)の 弁 甲 移 出 先 は、 中 国 ・ 四 国 地 方 が 75%、 京 阪 地 方 20%、 大 島 ・ 沖 縄
地 方 5%であったが、 昭 和 16 年 ( 1941)は、 中 国 ・ 四 国 地 方 63% 、 朝 鮮 ・ 満 州 20%、 台 湾 ・
沖 縄 7%、 近 畿 8%であ った。
大 正 11 年 ( 1922)の 主 要 林 業 家 は、油 津 地 区 の 河 野 宗 四 郎 が 林 野 面 積 1,300 町( 約 1, 289
㌶ ) 、 製 材 所 2 箇 所 、 帆 船 5 艘 、 続 いて 飫 肥 の川 添 勇 太 郎 と川 越 亀 一 郎 がそれぞ れ 林 野
面 積 750 町( 約 744 ㌶ )と続 く。販 売 高 でみ れば、飫 肥 地 区 の 服 部 新 兵 衛 9,857 肩( 約 896
トン)、川 越 亀 一 郎 9,475 肩( 約 861 トン)、油 津 の 服 部 右 平 次 8,000 肩( 約 727 トン)で 、
河 野 宗 四 郎 は 2, 045 肩 ( 約 186 トン) であった。
このようなマグロや 飫 肥 杉 景 気 は、 「 マグロ 音 頭 」 で「 港 油 津 マグロの山 に千 両 万 両 の 花
が咲 く 」 と唄 わ れた。 油 津 地 区 には、 仕 事 を求 めて多 くの人 が集 まり、 大 正 9 年 ( 1920)から 昭
和 15 年 ( 1940)にか けて 人 口 が 2 倍 に 膨 れあがり、当 時 としては、宮 崎 県 内 で人 口 密 度 が最 も
高 く、 関 西 からの 大 阪 商 船 の 寄 港 地 で 、 飫 肥 地 区 までの軽 便 鉄 道 も開 通 しており、 上 水 道 も
ある近 代 的 な都 市 にな った。 戦 後 は、 マ グロ 漁 は遠 洋 漁 業 となって 、 以 前 のようにマ グロが大
量 に揚 がることはなくな ったが、 現 在 は、 カツオの一 本 釣 り漁 獲 高 が日 本 一 となっている。
第 2 次 世 界 大 戦 を 経 て 、 昭 和 2 5 年 ( 1 9 50 ) 、 江 戸 時 代 か ら 政 治 の 中 心 地 で あ っ た 飫 肥 町 、
マグロと飫 肥 杉 で栄 え た港 町 油 津 町 、 昭 和 12 年 (1937)に日 本 パルプ飫 肥 工 場 が建 設 された
吾 田 町 、 農 業 が盛 んな 食 糧 基 地 東 郷 村 の 4 町 村 が、 「 産 業 ・ 経 済 ・ 文 化 等 社 会 的 地 位 の
向 上 」を目 的 に 合 併 し て、日 南 市 が発 足 した。戦 後 間 もない 合 併 の 成 功 事 例 として 紹 介 され、
昭 和 28 年 (1948)の町 村 合 併 促 進 法 の モデルともなっている。市 役 所 は吾 田 地 区 に置 かれ、県
の総 合 庁 舎 も吾 田 地 区 に移 っていった。つづ いて、町 村 合 併 促 進 法 に基 づ き、昭 和 30 年 ( 1955)
には鵜 戸 村 、細 田 町 、昭 和 31 年 (1956)には酒 谷 村 、榎 原 村 の一 部 を編 入 し て旧 日 南 市 がで
きた。平 成 21 年 ( 2009) には、旧 日 南 市 、北 郷 町 、南 郷 町 の 1 市 2 町 が合 併 して新「 日 南 市 」
となった。
市 内 に位 置 する 日 南 海 岸 国 定 公 園 は 、 戦 後 の早 い 時 期 から 宮 崎 交 通 の 岩 切 章 太 郎 氏 に よ
る沿 道 修 景 が実 施 されたこともあり 、 昭 和 30 年 ~ 40 年 代 に爆 発 的 な新 婚 旅 行 ブー ムを巻 き
起 こした。その日 南 海 岸 のほぼ中 央 にある鵜 戸 神 宮 は、海 幸・山 幸 神 話 の 舞 台 であ り、念 流 ・
陰 流 の 剣 法 発 祥 の 地 としても有 名 である 。
こうした観 光 客 を 市 内 に 呼 び込 むための 事 業 が、 昭 和 49 年 ( 1974) にはじまった飫 肥 城 復 元
事 業 である 。 飫 肥 地 区 では、 飫 肥 城 を中 心 に飫 肥 石 の石 垣 と門 、 伝 統 的 な住 宅 か らなる武
家 屋 敷 群 が、 住 時 の 姿 をよく留 めている。 そのため、 昭 和 52 年 ( 1977)には 、 九 州 で 最 初 の 重
要 伝 統 的 建 造 物 群 保 存 地 区 に 選 定 された。
飫 肥 城 復 元 事 業 で は、昭 和 51年 ( 1976)に飫 肥 藩 の藩 校 であった振 徳 堂 の改 修 、昭 和 53年 ( 1
978) に大 手 門 の 復 元 と歴 史 資 料 館 の建 設 、 昭 和 54年 ( 1979) に書 院 造 り御 殿 としての松 尾 ノ丸
を建 設 した。 総 事 業 費 5億 1千 8百 万 円 のうち、 2億 2千 万 円 を市 民 や市 出 身 者 、 有 志 企 業 か ら
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の募 金 で 賄 っている。 昭 和 53年 ( 1978) には、 飫 肥 城 下 町 の一 大 イベ ントとして「 飫 肥 城 下 まつ
り」 が華 々 しく 始 まり、 本 市 を代 表 する大 きな祭 りとなった。
一 方 、 油 津 地 区 で は、 高 度 経 済 成 長 期 に 堀 川 運 河 の 水 質 が悪 化 し、 昭 和 50 年 ( 1975) に
埋 立 が計 画 された。 し かし、 歴 史 的 資 産 であ る堀 川 運 河 の 埋 立 を惜 しむ市 民 は、 昭 和 63 年
(1988) に堀 川 運 河 を考 える会 を結 成 して 、運 河 の価 値 をアピールし 始 めた。やがて 、市 民 の声
に押 されて行 政 も運 河 の埋 立 中 止 を決 定 し、 平 成 5 年 ( 1993)から 県 事 業 として歴 史 的 港 湾 環
境 創 造 事 業 によ り、 整 備 するこ ととなった。
同 じ年 に、市 民 の 手 に よる地 域 の 歴 史 と文 化 を再 発 見 運 動 ともいえ る『 油 津 ― 海 と光 と風 と
― 』 が出 版 されて、 こ れ以 後 の 油 津 地 区 のまちづ くり活 動 の基 本 文 献 となった。 この 本 を刊 行
した中 心 メンバーは、 油 津 みな と街 づ くり委 員 会 を発 足 させ、『 蘇 れ油 津
港 と運 河 の まちづ
くり計 画 』を策 定 するとともに 、平 成 9 年 (1997) には、その計 画 の 対 象 となった赤 レンガ倉 庫 が
取 り壊 しの危 機 に 瀕 し た時 、 全 国 的 に も珍 し い市 民 自 ら 1 人 100 万 円 ず つ出 し合 って、 31 人
が買 取 保 存 を行 うこととなる。 さらに、 伝 統 的 な木 造 の 漁 船 「 チョロ 船 」 の 復 元 を、 やはり 市
民 の寄 付 で行 う など、 市 民 主 導 の まちづ くりが進 んでいた。
こうした動 きに 後 押 しさ れて、 大 正 から 昭 和 初 期 の歴 史 的 建 造 物 や 堀 川 運 河 石 積 み 護 岸 等
が、 登 録 有 形 文 化 財 となる( 現 在 31 件 ) とと もに、 平 成 14 年 ( 2002) からは、 東 京 大 学 篠 原
教 授 ( 当 時 ) の 指 導 の下 、 歴 史 的 港 湾 環 境 創 造 事 業 の計 画 見 直 しを行 い、 石 積 み 護 岸 等
の本 物 の 歴 史 的 資 源 を活 かすこ とを整 備 方 針 とした。
同 じ年 に、 本 市 も油 津 地 区 を対 象 に「 身 近 なまちづ くり支 援 街 路 事 業 ( 歴 みち事 業 ) 」 に
着 手 して、 県 事 業 と市 事 業 を一 体 的 に検 討 するために、 行 政 関 係 者 と市 民 、 学 識 経 験 者 等
からなる「 油 津 地 区 都 市 デ ザイン 会 議 」 を発 足 さ せた。
景 観 法 の 施 行 に よ り 、 宮 崎 県 で 最 初 の 景 観 行 政 団 体 となっ た 旧 日 南 市 は 、 平 成 18 年
(2006)に「 日 南 市 美 し い まちづ くり景 観 基 本 条 例 」を制 定 し 、翌 年 には「 港 町 油 津 景 観 基 本
計 画 」 を策 定 する とと も に 、 景 観 形 成 推 進 の ための 取 り組 み を開 始 し た。
平 成 18 年 ( 2006)に は 、 第 一 期 工 事 のハ イライト となる 飫 肥 杉 製 の 屋 根 付 き 橋 の 工 事 に 先
立 ち、市 民 によ る「 堀 川 運 河 に 屋 根 付 き 橋 を か く っ か い 実 行 委 員 会 」が結 成 さ れて 、橋 の 名
前 募 集 や 、市 内 小 中 学 生 全 員 に よ る 部 材 へ の メッ セー ジ 記 入 ととも に、市 民 参 加 の 上 棟 式 や
竣 工 式 が開 催 さ れた。 平 成 19 年 ( 2007)には 、 日 本 風 景 街 道 の 日 南 海 岸 き ら めき ラインが 、
油 津 地 区 を舞 台 に 通 り 名 社 会 実 験 を 行 なう など、 官 民 協 働 の まちづ く りが推 進 さ れて き た。
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4
文化財の分布状況及び概要
( 1 ) 指 定 等 文 化 財 の分 布
日 南 市 内 には、 98 件 の指 定 等 文 化 財 が存 在 する。 指 定 区 分 で 見 ると、 以 下 の表 で 明 らか
なとおり、 建 造 物 が最 も多 く、 絵 画 や古 文 書 、 考 古 資 料 、 歴 史 資 料 など、 いわ ゆる動 産 の文
化 財 が指 定 されていない。また、平 成 21 年 ( 2009)に合 併 し た 1 市 2 町 間 の指 定 基 準 が異 なり 、
飫 肥 藩 伊 東 家 の 居 城 があった旧 日 南 市 指 定 文 化 財 が 22 件 なの に対 し、 旧 北 郷 町 では 23 件
の指 定 を行 っている。 一 方 で 、 旧 南 郷 町 指 定 文 化 財 は 1 件 である 。
また、 分 布 状 況 では、 飫 肥 地 区 、 油 津 地 区 、 鵜 戸 地 区 に集 中 していることが大 きな特 徴 と
なっている。
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①国指定等文化財
国 指 定 等 文 化 財 は、 史 跡 として伊 東 と島 津 の抗 争 を示 す
中 ノ尾 供 養 碑 1 件 、 天 然 記 念 物 として、 南 九 州 の地 理 的 特
こ
く
ぞ
う じ ま
徴 を示 す鵜 戸 ヘゴ自 生 北 限 地 帯 、 東 郷 のクス、 虚 空 蔵 島 の
亜熱帯林の 3 件、日南市飫肥重要伝統的建造物群保存地
区 1 件 の 5 件 である。
このうち、 中 ノ尾 供 養 碑 は、 飫 肥 城 を見 下 ろす中 ノ尾 砦 近
くの尾 根 上 にあり 、 天 文 18 年 ( 1549) 、 島 津 軍 が伊 東 軍 300
中ノ尾供養碑
余 名 を討 ち取 ったことで 、島 津 方 が建 てた敵 方 供 養 碑 である。
また、 鵜 戸 ヘゴ 自 生 北 限 地 帯 と虚 空 蔵 島 の亜 熱 帯 林 は、 南
九 州 まで拡 がった亜 熱 帯 植 物 の北 限 を示 すものとして指 定 さ
れた。 さらに、 九 州 で 最 初 に 重 要 伝 統 的 建 造 物 群 保 存 地 区
に選 定 された飫 肥 地 区 は、 江 戸 時 代 、 飫 肥 藩 伊 東 家 5 万 1
千 石 の 城 下 町 として栄 えた城 下 町 である 。現 在 でも道 幅 や地
割 りは、 ほぼ当 時 の まま残 されており、 城 下 町 の歴 史 を色 濃
く残 している。
東郷のクス
鵜戸ヘゴ自生北限地帯
虚空蔵島の亜熱帯林
日南市飫肥重要伝統的建造物群保存地区
②県指定文化財
県 指 定 文 化 財 は、 16 件 である 。 内 訳 は、 建 造 物 が 6
件 で、 史 跡 4 件 、 天 然 記 念 物 3 件 、 無 形 民 俗 文 化 財
2 件 、名 勝 1 件 である 。このうち、建 造 物 には 、鵜 戸 神
宮 本 殿 や榎 原 神 社 鐘 楼 、 本 殿 、 楼 門 は、 宮 崎 県 南 部
や ま が り や ず い ど う
を代 表 する神 社 の建 造 物 である。また、山 仮 屋 隧 道 は、
宮 崎 県 内 最 古 の 明 治 28 年 (1891)に 造 られたレンガ造 り
のトンネルである。 大 迫 寺 跡 石 塔 群 は、 県 内 最 古 級 の
板 碑 、 五 輪 塔 などを含 む石 塔 群 で 、 飫 肥 地 区 の中 世 を
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鵜戸神宮本殿
考 える上 で 欠 かせない 。史 跡 では、県 内 最 大 級 の横 穴 式 石 室 をもつ 狐 塚 古 墳 がある。平 成 6
年 ( 1994)の調 査 で 、 馬 具 や勾 玉 、 銅 製 の 椀 や鈴 など、 7 世 紀 前 半 期 の畿 内 色 が強 い副 葬 品
う ど せ ん じょうじき き が ん
を出 土 した。 天 然 記 念 物 は、 鬼 の 洗 濯 板 の 名 で親 しまれている 鵜 戸 千 畳 敷 奇 岩 や、 飫 肥 地
区 のウスギモクセイ、 アカウミガメ及 びその 産 卵 地 である 。 無 形 民 俗 文 化 財 は、 いず れも飫 肥
た い へ い おどり
た
の う え はちまん
地 区 で 伝 承 される 、「 泰 平 踊 」 と「 田 ノ上 八 幡 の弥 五 郎 人 形 行 事 」 である。 こ れらは、 飫 肥
地 区 の 民 俗 を考 察 する 上 で重 要 な 要 素 となっ ている。名 勝 は、飫 肥 城 下 の 武 家 屋 敷 庭 園 で あ
る勝 目 氏 庭 園 である。
山仮屋隧道
鵜戸千畳敷奇岩
泰平踊
大迫寺跡石塔群
飫肥のウスギモクセイ
田ノ上八幡の弥五郎人形行事
28
狐塚古墳
アカウミガメ及び産卵地
勝目氏庭園
③市指定文化財
市 指 定 文 化 財 は、 46 件 である 。このうち、 建 造 物 が 18 件
と最 もその割 合 が高 い 。 建 造 物 には、 日 南 市 飫 肥 重 要 伝 統
的 建 造 物 群 保 存 地 区 内 に所 在 する 振 徳 堂 、 豫 章 館 、 旧 伊
東 伝 左 衛 門 家 、旧 山 本 猪 平 家 、海 田 家 住 宅 などがある。次
に多 いのは、 史 跡 8 件 である。 城 下 町 の 中 心 である 飫 肥 城
振徳堂
跡 や 山 仮 屋 関 所 跡 や 伊 東 家 累 代 墓 地 、 郷 之 原 城 跡 な どがあ る 。
彫 刻 では、 鵜 戸 山 の 磨 崖 仏 な ど 6 件 である 。 工 芸 品 は、 伊 東 家
及 び浅 野 家 女 乗 物 な ど 4 件 である。 無 形 民 俗 文 化 財 では、 潮 嶽
神 社 の 獅 子 舞 、 棒 踊 り など 3 件 がある 。 天 延 記 念 物 では、 八 幡
神 社 境 内 の クス、松 永 のシイ、願 成 就 寺 のモクセイの 3 件 がある。
よ しょうかん
いの は
え
名 勝 は、 豫 章 館 庭 園 と猪 八 重 滝 群 の 2 件 である 。 無 形 文 化 財 は
四 半 的 1 件 、 書 跡 は 長 持 寺 の勅 額 1 点 であ る。
鵜戸山の磨崖仏
豫章館庭園
猪八重滝群
四半的
④登録有形文化財
登 録 有 形 文 化 財 は、 市 内 に 31 件 存 在 する。 このうち、
21 件 は市 内 南 東 部 の 港 町 である 油 津 地 区 に所 在 する。油
津 地 区 は、 古 来 より 天 然 の良 港 として 、 交 易 や漁 業 の中
心 地 であ り、 昭 和 初 期 には東 洋 一 のマグロ基 地 と称 される
ほどのマグロの水 揚 げ を誇 った。杉 村 金 物 本 店 主 屋 や杉 村
金 物 本 店 倉 庫 、油 津 赤 レンガ 館( 旧 河 野 宗 泰 家 倉 庫 )、
杉村金物本店主屋
29
鈴 木 旅 館 本 館 、 鈴 木 旅 館 西 本 館 、 鈴 木 旅 館 北 離 れ、 鈴
木 旅 館 東 離 れ、鈴 木 旅 館 土 蔵 、満 尾 書 店 、旧 外 山 医 院 、
渡邊家住宅主屋、渡邊家住宅酒蔵、渡邊家住宅西蔵、
渡 邊 家 住 宅 小 蔵 などの 登 録 有 形 文 化 財 は、大 正 期 から 昭
和 初 期 にかけての 、 油 津 地 区 が最 も栄 え た時 期 の建 造 物
で あ る 。 また 、 明 治 3 6 年 ( 19 0 3 ) 建 造 の 堀 川 橋 ( 乙 姫 橋 )
や、 明 治 時 代 から昭 和 初 期 にか けて築 造 された堀 川 運 河
護 岸 など、いず れも油 津 地 区 がマグロ と飫 肥 杉 で栄 えた頃
油津赤レンガ館(旧河野宗泰家倉庫)
の近 代 化 遺 産 である。 一 方 、 飫 肥 地 区 には、 五 百 禩 神 社 本 殿 、 五 百 禩 神 社 神 楽 殿 及 び 拝
殿 、五 百 禩 神 社 石 塀 、 五 百 禩 神 社 石 橋 及 び石 垣 、高 橋 家 住 宅 主 屋 、高 橋 家 住 宅 離 れ及 び
台 所 、 高 橋 家 住 宅 東 蔵 、 高 橋 家 住 宅 西 蔵 、 高 橋 家 住 宅 納 屋 など、 伊 東 家 や飫 肥 本 町 の 豪
商 に縁 のある 建 造 物 で ある。
堀川橋(乙姫橋)
渡邊家住宅主屋
( 2 ) 未 指 定 文 化 財 の現 況
本 計 画 では、「 文 化 遺 産 」を 原 則 として 50 年 以 上 前 から存 在 する 真 正 性 のあるもので 、そ
の価 値 が認 めら れるも の とする 。また、食 文 化 や動 植 物 等 は 、50 年 以 上 経 ていないもので も、
地 域 で その価 値 が認 識 され、 認 められているものについては、 文 化 遺 産 として とらえることとす
る。
文 化 遺 産 の多 くは、 人 が地 理 的 条 件 の中 で 、 環 境 と折 り合 いを付 けながら 育 んできたもの
であり、 また、 政 治 や 行 政 的 なまとまりの中 で 生 み出 してきたものであ る。 本 市 では、 平 成 20
年 度 から 22 年 度 までの 文 化 財 総 合 的 把 握 モデ ル事 業 の 中 で、市 内 文 化 財 の 悉 皆 調 査 を実 施
した。 現 在 、 台 帳 に 登 録 した文 化 遺 産 は、 指 定 文 化 財 も含 め 、 1,000 件 を超 える 。
守永家主屋及び洋館(旧飯田医院)
小村寿太郎生家
30
勝目氏庭園
市指定文化財
拡大図 P35
31
県指定文化財
国指定文化財
指定等文化財及び登録有形文化財位置図(日南市北部)
指定等文化財及び登録有形文化財位置図(日南市南部)
32
登録有形文化財
市指定文化財
県指定文化財
国指定文化財
拡 大 図 P34
拡 大 図 P33
33
登録有形文化財
市指定文化財
県指定文化財
国指定文化財
指定等文化財及び登録有形文化財位置図(飫肥地区拡大図)
登録有形文化財
指定等文化財及び登録有形文化財位置図(油津地区拡大図)
34
国指定文化財
県指定文化財
市指定文化財
指定等文化財及び登録有形文化財位置図(鵜戸地区拡大図)
35
(3 )関連文化財群
日 南 市 歴 史 文 化 基 本 構 想 では、 文 化 遺 産 を単 体 としてではなく、 人 との関 わ りや置 かれた
環 境 の 中 で総 合 的 に把 握 するため、 次 の条 件 に適 合 する文 化 遺 産 の まとまりを関 連 文 化 財 群
として設 定 した。
・ ストーリー性 がある こと( 群 として把 握 する ことにより価 値 が明 確 になること)
・ 歴 史 的 に 共 通 項 があること
・ 地 域 の 歴 史 や 文 化 、 伝 統 をよく表 してい ること
・ 地 区 住 民 が誇 りに 思 うこと
また、 設 定 した関 連 文 化 財 群 を中 心 に歴 史 文 化 保 存 活 用 区 域 を設 定 し 、 今 後 の文 化 遺 産
の保 護 活 用 に資 するこ ととし た。
以 下 に、市 内 を地 理 的 5 類 型 と、旧 町 村 10 区 に分 けて、設 定 し た関 連 文 化 遺 産 群 との 関
係 を示 す。
ア
北部山稜地帯
⇒
北郷・酒谷
飫 肥 の北 側 や西 側 か ら、 都 城 や宮 崎 の南 部 にかけて広 がる 飫 肥 杉 植 林 地 で、 河 川 流 域 に
水 田 や棚 田 が 点 在 する 。 飫 肥 街 道 や志 布 志 街 道 、 都 城 往 還 など、 飫 肥 と宮 崎 や都 城 を結 ぶ
道 と、 山 稜 を開 く酒 谷 川 ・ 広 渡 川 の水 運 で 、 人 の往 来 や杉 の 運 搬 などが行 わ れた。
・飫 肥 杉 林 に囲 まれた坂 元 棚 田 ~ 飫 肥 杉 林 と坂 元 棚 田 の 文 化 的 景 観 及 びその 関 連 文 化 財 群
・ 飫 肥 街 道 と山 仮 屋 関 所 ~ 交 通 関 連 文 化 財 群
イ
東部海岸地帯
⇒
鵜戸
急 峻 な山 稜 が東 の海 岸 線 に 迫 り、近 代 ま で は交 通 不 便 で 周 辺 と隔 離 された特 異 な環 境 に あ
った。 この地 誌 的 環 境 から修 験 の 場 、 剣 法 発 祥 の地 である とともに、 神 話 ・ 伝 承 にまつわ る話
が多 い。 近 世 以 降 は鵜 戸 神 宮 が飫 肥 藩 主 の 庇 護 を受 け、 南 那 珂 郡 ( ※ ) 内 外 からの 多 く の
鵜 戸 山 参 りの人 で 賑 わ った。
・ 鵜 戸 山 信 仰 と日 向 神 話 ~ 地 域 の 信 仰 と伝 承 関 連 文 化 財 群
※ 南 那 珂 郡 は 、 現 在 の日 南 市 ・ 串 間 市 にあたる地 域
ウ
南部丘陵地帯
⇒
細田・榎原
日 南 市 南 部 西 側 は、 比 較 的 緩 やかな丘 陵 地 形 が続 き、 シ ラス台 地 を利 用 した畑 作 ・ 畜 産
を生 業 とする 集 落 が点 在 する。 江 戸 時 代 前 期 に鵜 戸 神 宮 から祭 神 を 分 祀 した榎 原 神 社 がこ の
36
地 域 の 信 仰 の 中 心 であり、 近 世 から 近 代 にか けて 周 辺 の 集 落 だ けでなく 南 那 珂 郡 内 外 から の
参 拝 客 で賑 わ った。
・ 榎 原 神 社 と門 前 町 ~ 地 域 の 信 仰 と景 観 関 連 文 化 財 群
エ
東南部海岸地帯
⇒
油津・細田・南郷・東郷
中 世 ヨーロッパ の地 図 にも 記 載 された外 浦 をはじめ、天 然 の 良 好 に恵 まれた東 南 部 海 岸 は、
古 来 よ り海 と関 わ る文 化 ・ 生 業 ・ 生 活 ・ 流 通 の集 積 地 であった。 地 域 の 発 展 ・ 振 興 のために
造 られた港 湾 干 拓 地 や 運 河 、護 岸 、大 規 模 な土 木 構 造 物 等 の 海 に関 連 する産 業 遺 産 が集 中
する。
中 でも油 津 は日 明 貿 易 の拠 点 、山 林 資 源 の 積 み出 し 港 で、ここを巡 る制 海 権 は伊 東 と島 津
の抗 争 の 原 因 ともなっ た。 昭 和 初 期 には 東 洋 一 のマグロ水 揚 げを誇 り、 往 時 の 繁 栄 を物 語 る
建 造 物 が町 の随 所 に 現 存 する。
・ 港 町 油 津 と堀 川 運 河 ~ 地 域 経 済 を支 えた産 業 関 連 文 化 財 群
・ 外 浦 ・ 目 井 津 ・ 大 堂 津 と町 並 み~ 地 域 経 済 を支 え た産 業 関 連 文 化 財 群
オ
酒 谷 川 ・ 広 渡 川 流 域 平 野 部 とそれを望 む丘 陵 地 帯 ⇒ 飫 肥 ・ 吾 田 ・ 東 郷 ・ 酒 谷 ・ 北 郷
酒 谷 川 ・ 広 渡 川 の 中 ~ 下 流 域 は日 南 市 に とって 限 られた 平 野 部 となっており、 この流 域 を
見 下 ろす丘 陵 尾 根 には 多 くの中 世 城 郭 が造 ら れた。中 でも、100 余 年 に渡 り抗 争 を繰 り広 げた
伊 東 と島 津 に関 する 城 の多 くが集 中 し、 信 仰 に関 わ る石 造 物 や社 寺 跡 も分 布 する 。
中 世 から近 世 にか けて 日 南 地 域 の 中 枢 であ った飫 肥 城 とその周 囲 は 、近 代 以 後 も南 那 珂 の
政 治 の 中 心 として繁 栄 した。 城 下 町 としての 地 割 りや歴 史 的 風 致 が良 好 に保 存 されている 。
・ 飫 肥 城 とその 城 下 ~ 飫 肥 城 の歴 史 的 風 致 を構 成 する関 連 文 化 財 群
・ 伊 東 と島 津 の 中 世 城 郭 群 ~ 地 域 の歴 史 を示 す中 世 城 郭 と関 連 文 化 財 群
No.
1
2
関連文化財群名
内
容
飫肥城とその城下
飫肥城の歴史的風致を構成する関連文化財群
飫肥杉林に囲まれた坂元棚田
飫肥杉林と坂元棚田の文化的景観及びその関
連文化財群
3
港町油津と堀川運河
地域経済を支えた産業関連文化財群
4
鵜戸山信仰と日向神話
地域の信仰と伝承関連文化財群
5
榎原神社と門前町
地域の信仰と景観関連文化財群
6
外浦・目井津・大堂津と町並み
地域経済を支えた産業関連文化財群
7
飫肥街道と山仮屋関所
交通関連文化財群
8
伊東と島津の中世城郭群
地域の歴史を示す中世城郭と関連文化財群
37
地区及び地誌特性による分類
38
① 飫 肥 城 とその 城 下
~ 飫 肥 城 の 歴 史 的 風 致 を構 成 する 関 連 文 化 財 群 ~
【 概 要 と構 成 】
飫 肥 の地 名 は、 平 安 時 代 中 期 の 和 名 類 聚 抄 に宮 﨑 群 飫 肥 郷 として記 されている。 その 範
囲 は現 在 の 日 南 市 とほぼ同 じ と考 えら れる。
そのうち、 現 在 の飫 肥 地 区 は古 くから、 飫 肥 の中 心 地 であった。 南 北 朝 期 には、 城 郭 が築
かれ、 荘 園 領 主 や在 地 領 主 間 の抗 争 が激 化 し ている。
15 世 紀 後 半 以 降 は、 日 向 の都 於 郡 ( 現 在 の西 都 市 ) 中 心 に宮 崎 平 野 一 帯 に勢 力 を拡 げ
てきた伊 東 氏 は 、 琉 球 や明 との交 易 利 権 を求 めて、 飫 肥 を勢 力 下 におく豊 州 島 津 氏 と何 代 に
もわ たって争 いを繰 り 広 げる。なかでも、伊 東 義 祐 は、天 文 10 年( 1541)から永 禄 11 年( 1568)
までの 28 年 の歳 月 をか けて飫 肥 を攻 略 して飫 肥 領 主 となり、 次 男 の 祐 兵 を飫 肥 城 主 とし た。
この時 期 から飫 肥 城 を中 心 とした丘 陵 一 帯 は城 砦 として 整 備 され、 町 家 や寺 院 、 神 社 も 配
された城 下 町 が形 成 さ れはじめたとみられる 。 その後 、 元 亀 3 年 ( 1572 ) の 木 崎 原 合 戦 で伊
東 氏 は島 津 軍 に大 敗 し 飫 肥 を追 わ れる。 しかし、 天 正 15 年 ( 1587 ) の豊 臣 秀 吉 の九 州 攻 め
において、 祐 兵 は案 内 役 を務 めた功 により飫 肥 の地 を与 えられる 。 以 後 、 幕 末 まで 伊 東 氏 が
飫 肥 を支 配 するこ ととな った。
飫 肥 に入 った祐 兵 は、 本 格 的 な 城 下 町 の 建 設 に取 りかかっている 。 江 戸 初 期 の絵 図 によ る
と、現 在 の 飫 肥 城 下 町 とほとんど 変 わ りない町 割 りが成 立 している。明 治 期 以 降 も、飫 肥 の 町
は南 宮 崎 の 政 治 経 済 の 中 心 地 で 、 城 下 には官 公 署 が集 中 した。 しか し、 第 2 次 世 界 大 戦 後
の昭 和 25 年 ( 1950) 、 飫 肥 町 は油 津 町 、 吾 田 町 、 東 郷 村 と合 併 し、 市 役 所 や県 の 総 合 庁
舎 は吾 田 へ と移 った。
しかし、 長 期 に渡 っ て地 域 の政 治 的 中 心 で あったことから 、 城 郭 や 歴 史 的 建 造 物 に加 え 、
社 寺 や祭 り 、名 物 など の信 仰 、習 俗 、文 化 等 に関 連 する多 様 な文 化 財 が 重 層 的 に存 在 して 、
飫 肥 城 下 町 の歴 史 的 風 致 や景 観 を 形 成 されている。
昭 和 49 年 ( 1974)から 飫 肥 城 復 元 事 業 に取 り組 み、 藩 校 振 徳 堂 の 改 修 、 大 手 門 の 復 元 、
歴 史 資 料 館 の建 設 、 書 院 造 り 御 殿 の 松 尾 ノ 丸 建 設 など歴 史 的 資 源 を活 かしたまちづ くりが進
められている。 昭 和 52 年 ( 1977)には九 州 で 最 初 の重 要 伝 統 的 建 造 物 群 保 存 地 区 の 選 定 を受
けて以 後 、修 理 ・ 修 景 事 業 を継 続 しており、 旧 伊 東 伝 左 衛 門 家 、 旧 山 本 猪 平 家 、 小 村 寿 太
郎 生 家 等 の 公 開 施 設 も 整 備 した。平 成 5 年 (1993)には国 際 化 に対 応 で きる人 材 育 成 や文 化 活
動 に寄 与 するこ とを目 的 とし た「 国 際 交 流 センター小 村 記 念 館 」も開 館 し 、郷 土 の 偉 人 で ある
小 村 寿 太 郎 に 関 する 資 料 館 としてまた、 各 種 文 化 活 動 拠 点 として活 用 されている。
【 構 成 する 要 素 】
・ 飫 肥 城 内 の縄 張 り と石 垣 、 土 塁 等 の 城 郭 構 成 要 素
39
・ 飫 肥 城 下 町 の地 割 り
・ 飫 肥 城 下 町 の武 家 屋 敷 ( 建 造 物 ・ 石 垣 ・ 生 垣 ・ 門 ・ 庭 園 等 )
・ 飫 肥 藩 から 各 地 へ延 びる道
・ 近 代 になって飫 肥 城 下 町 につくられたもの
・ 飫 肥 城 下 町 に関 連 し た神 社 ・ 寺 院
・ 伊 東 家 の 菩 提 寺 や 家 臣 団 の墓 地 、 地 域 住 民 の 信 仰 や 祭 事 、 民 俗 に関 わ るもの
・ 近 世 もしくは近 代 か ら続 く地 域 の 名 産 品 、 伝 統 産 業
・ 飫 肥 城 及 び城 下 町 、 変 遷 等 に関 する 歴 史 資 料
② 飫 肥 杉 林 に 囲 まれた坂 元 棚 田 ~飫肥杉林と坂元棚田の文化的景観連及びその関連文化財群~
【 概 要 と構 成 】
日 南 市 北 部 の 急 峻 な山 地 は、その大 半 が飫 肥 藩 を上 げて推 進 し た飫 肥 杉 植 林 地 で、近 代
以 降 は、 飫 肥 杉 弁 甲 材 の需 要 拡 大 に 応 じて 、 搬 出 や運 搬 のための 道 や石 橋 などが整 備 さ れ
た。 索 道 による 飫 肥 杉 搬 出 や切 り出 しの 様 子 が古 写 真 などに残 されている。
昭 和 初 期 にはこの飫 肥 杉 美 林 の 中 に国 の耕 地 整 理 事 業 で坂 元 棚 田 がつくられた。石 垣 を積
み上 げ規 格 的 に 仕 切 ら れた連 綿 と並 ぶ 水 田 と飫 肥 杉 美 林 が 美 しい景 観 を形 成 しており、 平 成
11 年 ( 1999) 7 月 に 日 本 の棚 田 100 選 に 選 定 さ れた。 平 成 18 年 (2006)10 月 には「 全 国 棚 田 サ
ミット」 が開 催 され、 こ れに伴 い、 展 望 台 や駐 車 場 、 標 識 などが整 備 された。
近 年 、 棚 田 で の農 作 業 の厳 しさに 加 え 地 区 住 民 の 高 齢 化 や後 継 者 不 足 により、 棚 田 の 維
持 が困 難 な状 態 になってきている中 で、この美 しい日 本 の 原 風 景 を 地 域 の財 産 として 後 世 に 伝
えるために、保 全 活 動 やグリーンツーリズムを通 じて多 くの人 々 に「 農 業 と自 然 の大 切 さ」を伝
える「 棚 田 オーナー制 度 」 が 平 成 17 年 ( 2005) から 行 わ れている。
棚 田 周 辺 には、かつての集 落 規 模 を示 す屋 敷 跡 や耕 作 地 跡 が点 在 している。また、都 城
往 還 沿 いには、 道 路 関 連 の石 橋 や吊 り橋 、 地 域 の小 学 校 跡 や炭 窯 などが残 されている。 さら
に、 神 社 や石 造 物 等 の 信 仰 関 連 の 文 化 遺 産 も各 所 に点 在 している。
【 構 成 する 要 素 】
・ 杉 美 林 や 棚 田 な ど生 業 に関 わ る文 化 的 景 観 を構 成 するもの
・ 景 観 形 成 の経 緯 や 変 遷 に 関 する 公 文 書 、 古 写 真 他 の 記 録
・ 植 林 や流 通 を目 的 として造 られた産 業 遺 産 等
・ 山 間 地 での 生 活 の中 で生 まれた信 仰 や民 俗 に関 するもの
40
・ 山 間 地 での 産 業 や生 活 文 化 に 関 するもの
③ 港 町 油 津 と堀 川 運 河
~ 地 域 経 済 を支 え た産 業 関 連 文 化 財 ~
【 概 要 と構 成 】
油 津 は、 外 浦 ととも に天 然 の 良 港 であることから、 中 世 以 降 、 日 明 貿 易 や琉 球 との交 易 中
継 地 として栄 えていた。 近 世 には 、 堀 川 運 河 が開 削 され、 北 部 山 稜 か ら発 した酒 谷 川 と広 渡
川 が合 流 し、日 向 灘 に 注 ぐ地 の 利 から、江 戸 時 代 を通 じて飫 肥 杉 などの山 産 物 の 積 み出 し 港
として繁 栄 し、明 治 時 代 には、関 西 と鹿 児 島 を結 ぶ 大 阪 商 船 の寄 港 地 となる とともに、漁 港 と
しても昭 和 初 期 には東 洋 一 のマグロ 基 地 とし て発 展 した。
そのため堀 川 運 河 沿 いには、 飫 肥 杉 の 集 積 場 として 、 石 積 み護 岸 や傾 斜 スロープなどの 土
木 構 造 物 が造 られた。 また、 大 正 6 年( 1917 )に九 州 で唯 一 の 漁 港 指 定 をうけて港 湾 整 備 に
着 手 し 、 防 波 堤 や 突 堤 が整 備 された。 前 後 し て、 飫 肥 油 津 間 に宮 崎 県 で最 初 の軽 便 鉄 道 が
大 正 2 年 ( 1913) に開 通 するととも に、 大 正 10 年 ( 1921) には、 宮 崎 県 最 初 の 上 水 道 が完
成 した。
飫 肥 杉 とマグロで 栄 えた油 津 は 、 林 業 、 水 産 関 係 の仕 事 に従 事 する労 働 者 や取 引 関 係 業
者 が全 国 各 地 か ら 集 ま り 、 飲 食 業 や 旅 館 、 娯 楽 施 設 なども 活 況 を呈 し て 、 人 口 が急 増 し た 。
そのために海 に 面 した旧 市 街 地 では 土 地 が足 りなくなり、堀 川 運 河 以 北 にも商 工 業 地 が拡 大 し
て、 現 在 の 岩 崎 商 店 街 や三 間 通 が形 成 された。
また、 大 正 から 昭 和 初 期 にか けて、 飫 肥 杉 やマグロで栄 えた油 津 の商 工 業 者 は競 って店 舗
や住 宅 を建 設 しており 、 現 在 も当 時 の 建 造 物 が数 多 く 残 されている。
このように油 津 では、 地 域 外 から流 入 した人 や文 化 の影 響 が濃 く、 開 放 的 で変 化 を受 け入
れる気 風 とともに 、漁 業 関 係 者 と商 業 関 係 者 の 気 風 が相 互 に影 響 し 合 った油 津 独 自 の 気 風 が
育 ち、 航 海 安 全 、 商 売 繁 盛 の社 寺 や信 仰 、 祭 祀 も数 多 い 。
終 戦 直 前 に 市 街 地 一 部 は空 襲 で 焼 失 したが、国 鉄 油 津 駅 周 辺 を中 心 に商 店 街 は発 展 し 続
け、 日 南 市 の中 心 市 街 地 として発 展 した。
【 構 成 する 要 素 】
・ 油 津 の産 業 発 展 に 関 わ った 土 木 構 造 物
・ 油 津 の繁 栄 を今 に 伝 える町 並 み と建 造 物
・ 地 域 の信 仰 や民 俗 に 関 するもの
・ 港 に集 まる 人 々 の 憩 いの場 、 娯 楽 に関 する もの
・ 林 業 や漁 業 など 伝 統 産 業 ・ 産 物 にかんする もの
41
・ 地 域 発 展 や変 遷 に 関 する記 録
④ 鵜 戸 山 信 仰 と日 向 神 話
~ 地 域 の信 仰 と伝 承 関 連 文 化 財 ~
【 概 要 と構 成 】
鵜 戸 神 宮 は南 日 向 を代 表 する神 社 で、 古 来 より 鵜 戸 山 大 権 現 とし て 日 向 国 内 外 の厚 い 信
仰 を集 めていた。 近 世 には藩 主 伊 東 氏 の庇 護 のもとで造 替 や改 修 が行 わ れ ており、 本 殿 が県
指 定 文 化 財 ( 建 造 物 ) になっている他 、 鵜 戸 崎 全 体 に県 、 市 の 指 定 文 化 財 が所 在 する 。
鵜 戸 神 宮 の立 地 する 日 南 市 北 部 は、 西 側 に急 峻 な山 稜 を背 負 い、 海 岸 線 は入 り組 んでい
ることから、 陸 路 の 整 備 は遅 れ、 外 と隔 絶 さ れていた。 こうした 環 境 から 、 修 験 道 の 場 とな り 、
念 流 ・ 陰 流 の剣 法 発 祥 の地 となった。
また、 海 幸 彦 山 幸 彦 の舞 台 と なり 、 速 日 峯 陵 、 伝 玉 依 姫 陵 ( 宮 浦 古 墳 ) や亀 石 、 お 乳 岩
など数 多 くの伝 承 も伝 えられている。 鵜 戸 神 宮 と関 連 する日 向 神 話 としては、 海 幸 彦 を祀 る潮
嶽 神 社 ( 北 郷 ) 、 鵜 戸 山 を分 祀 した榎 原 神 社 ( 榎 原 ) にも伝 えら れている。
また、鵜 戸 山 大 権 現 のうち仁 王 護 国 寺 も中 世 には大 きな勢 力 となっていた。江 戸 時 代 には 、
飫 肥 藩 から寺 領 5 0 0 石 余 を給 され保 護 されて繁 栄 を誇 り、近 隣 の 集 落 をあ らゆる面 で まとめ
ていた。
鵜 戸 山 大 権 現 と別 当 寺 を一 山 とする山 容 は 明 治 維 新 の 廃 仏 毀 釈 によって 、神 話 と信 仰 と修
行 伝 承 の霊 地 から 崇 敬 と景 観 の観 光 地 へ 変 貌 した。 【 構 成 する要 素 】
・ 鵜 戸 山 信 仰 の 核 とな るもの、 場 所
・ 鵜 戸 山 信 仰 に関 わ る祭 事 や習 俗
・ 鵜 戸 神 宮 に 関 わ る日 向 神 話 や伝 承
・ 鵜 戸 神 宮 を構 成 する 建 造 物 等
・ 鵜 戸 山 の 起 源 もしくは鵜 戸 神 宮 と共 存 していた信 仰 関 連 文 化 財
・ 参 道 や店 など 門 前 町 の景 観 構 成 要 素
・ 神 社 に関 連 の 深 い産 物 等
・ 神 社 立 地 に 至 った地 形 ・ 自 然 、 環 境 など
・ 潮 嶽 神 社 、 榎 原 神 社 など 日 向 神 話 関 連 の 伝 承 地
⑤ 榎 原 神 社 と門 前 町
~ 地 域 の信 仰 と景 観 関 連 文 化 財 ~
42
【 概 要 と構 成 】
榎 原 神 社 は飫 肥 藩 主 伊 東 祐 久 によ り鵜 戸 神 宮 を分 祀 して創 建 さ れた神 社 で 、鵜 戸 神 宮 とと
もに、 歴 代 飫 肥 藩 主 か らも崇 敬 されていた。 また、 縁 結 びの神 として 広 く地 域 の 信 仰 を集 め大
いに賑 わ った。 境 内 に は本 殿 、 鐘 楼 、 楼 門 の 3 つの建 造 物 が県 指 定 文 化 財 となっており 、 建
築 学 的 にも価 値 が高 い 。
かつては、 飫 肥 杉 の 大 木 が境 内 をおおっていたが、 近 年 の 台 風 や 落 雷 で 枯 れてしまった。
なお、 境 内 に接 してクスの巨 木 ( 夫 婦 楠 ) が社 叢 林 を形 成 している 。
例 大 祭 には獅 子 舞 や 神 輿 の 行 列 で 賑 わ い、女 子 小 学 生 による 浦 安 の舞 いが奉 納 され るな ど、
伝 統 行 事 が受 け継 がれている。また、榎 原 神 社 の創 建 に関 わ った内 田 万 寿 姫 は本 殿 に接 し た
桜 井 神 社 に祀 られ、 奇 行 、 奇 跡 の 伝 承 も多 い 。
神 社 創 建 以 前 から 、この地 に豊 州 島 津 家 にゆかりの深 い 地 福 寺 があったことから 、地 福 寺 関
連 僧 侶 の墓 地 や慰 霊 碑 が今 も残 る 。
桜 門 前 には往 時 の 賑 わ いを忍 ばせる門 前 町 が一 直 線 に約 400m 続 き、 石 垣 や建 造 物 が残
る。
【 構 成 する 要 素 】
・ 榎 原 神 社 を構 成 する 建 造 物 等
・ 榎 原 神 社 に 伝 わ る伝 統 芸 能
・ 社 叢 の景 観 を形 成 し ている樹 林 ・ 樹 木
・ 門 前 町 の 景 観 を構 成 している要 素 ( 建 造 物 ・ 石 垣 等 )
・ 榎 原 神 宮 に 関 わ る伝 承
・ 榎 原 神 社 創 建 以 前 の地 域 信 仰 に関 わ るもの
・ 地 域 住 民 信 仰 に 関 わ るもの
⑥ 外 浦 ・ 目 井 津 ・ 大 堂 津 と町 並 み
~ 地 域 経 済 を支 えた産 業 関 連 文 化 財 ~
【 概 要 と構 成 】
日 南 市 東 南 の 海 岸 は、 中 世 ヨーロッパ にも知 られた 外 浦 をはじめ、 目 井 津 、 大 堂 津 と天 然
の良 港 が並 び、 海 上 交 通 ・ 交 易 の要 所 とし て 古 くから栄 えた。 近 代 以 降 は 漁 業 基 地 とし て繁
栄 し、港 湾 ・ 灯 台 な ど の 漁 港 や海 上 交 通 のための施 設 が整 備 された。明 治 6 年 (1873)に宮 崎
県 の設 置 に伴 い大 堂 津 が下 方 村 に 併 合 される までは、外 浦 ・目 井 津 ・大 堂 津 はともに南 郷 筋
に属 して おり、 同 じ 地 区 とされていた。
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近 世 には、 耕 地 拡 大 による食 糧 増 産 の必 要 性 が高 まり、 外 浦 の干 拓 が開 始 され、 平 野 の
乏 しい当 地 方 において 、 貴 重 な水 田 となった。 埋 立 は近 代 以 降 も継 続 され て、 入 り江 の 過 半
が耕 地 化 した。
また、 外 浦 、 目 井 津 、 大 堂 津 は 油 津 とともに 外 洋 に面 し た交 通 の 要 衝 であったこ とから 、 幕
末 に飫 肥 藩 が海 岸 線 に 砲 台 を築 いた。明 治 17 年( 1884 )には 、国 内 最 古 の無 筋 コンクリ ート
灯 台 が築 かれ、 第 2 次 大 戦 時 には回 天 や震 洋 の格 納 庫 が設 置 される など 、 海 上 交 通 や軍 事
関 連 の 文 化 遺 産 も多 い 。
なお、 細 田 村 ( 大 堂 津 ) においては、 大 正 元 年 ( 1910 ) 、 全 国 に先 がけて 、 公 益 質 屋 が
設 置 されて全 国 に 広 まった。 さらに、 大 堂 津 の集 落 内 では、 醸 造 業 が盛 ん で、 現 在 も明 治 時
代 から大 正 時 代 にか けての店 舗 や蔵 が残 されている。
【 構 成 する 要 素 】
・ 漁 港 、 港 湾 施 設 及 び灯 台 等 の 施 設
・ 干 拓 事 業 、 耕 地 拡 大 に関 するもの
・ 陸 上 交 通 に 関 わ るもの
・ 海 浜 軍 備 に 関 わ るもの
・ 伝 統 産 業 ・ 産 物 に 関 するもの
・ 埋 立 や耕 地 整 理 等 の地 域 変 遷 に関 する 記 録
・ 地 域 の信 仰 や民 俗 に 関 するもの
・ 人 々 の生 活 や教 育 を支 援 した施 設 、 文 化 に関 するもの
⑦ 飫 肥 街 道 と山 仮 屋 関 所
~交通関連文化財群~
【 概 要 と構 成 】
きよたけ
さ
ど
わ ら
飫 肥 藩 では 飫 肥 城 を中 心 に 、 北 は 清 武 ・ 佐 土 原 、 西 は都 城 、 南 は串 間 方 面 へ 各 街 道 が
延 びていた。 中 でも 飫 肥 から 清 武 ・ 佐 土 原 方 面 へ向 かう 道 は、 参 勤 交 代 の 道 でもあり、 北 へ
の押 さえとして重 要 視 さ れ、 山 仮 屋 には関 所 が設 けられた。
明 治 時 代 後 期 に 入 る と陸 上 交 通 が活 発 となり、 人 ・ 物 の動 きも盛 んになったが、 海 岸 ルー
トは道 路 整 備 が遅 れたことから、 馬 車 道 としての付 け替 えられた 飫 肥 街 道 はさらに重 要 度 を増
した。 人 力 車 や馬 車 な どの交 通 手 段 に合 わ せて、 狭 小 な幅 員 の山 仮 屋 峠 に 長 さ約 56m の 煉
瓦 造 りの隧 道 が造 られた。 この隧 道 は当 時 最 良 の煉 瓦 を使 用 して造 られ、 工 事 設 計 を記 載 し
た当 時 の 文 書 が県 の 文 書 セン ターに 保 管 されている。
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飫 肥 街 道 沿 いの 北 河 内 の 宿 野 にある潮 嶽 神 社 は 、 日 向 神 話 に関 係 した 海 幸 彦 を祀 る 神 社
で あ る 。 潮 嶽 神 社 で は 、 神 楽 ・ 御 神 子 舞 ・ 獅 子 舞 ・ 棒 踊 りなどの 伝 統 芸 能 が 受 け 継 が れ 、
春 大 祭 には、 豊 作 、 豊 漁 を祈 願 する 「 福 種 下 ろしの神 事 」 が行 わ れ、 海 の 幸 と山 の幸 を象
徴 するイノシシの 頭 とマ グロが供 えら れる。この ほかにも火 闌 降 命 の陵 といわ れる大 塚 古 墳 な ど、
海 幸 彦 と山 幸 彦 の 日 向 神 話 に 関 わ る文 化 遺 産 が多 い。
なお、関 連 文 化 財 群 の名 称 にお ける飫 肥 街 道 とは、近 世 の旧 飫 肥 街 道 、近 代 以 降 の 飫 肥
街 道 、 水 運 など を含 む 飫 肥 と 宮 崎 ( 清 武 ・ 佐 土 原 ) を結 んだ みちの総 称 として用 いる。
【 構 成 の要 素 】
・ 近 世 の交 通 に 関 する もの
・ 近 代 の交 通 に 関 する もの
・ 水 上 交 通 に 関 するも の
・ 交 通 発 展 の要 因 とな ったもの
・ 飫 肥 街 道 沿 いの 集 落
・ 交 通 の発 展 や地 域 の 変 遷 に 関 する 記 録
・ 神 話 ・ 伝 承 に関 する もの
・ 信 仰 ・ 習 俗 ・ 祭 に 関 するもの
⑧ 伊 東 と島 津 の 中 世 城 郭 群
~ 地 域 の 歴 史 を示 す中 世 城 郭 と関 連 文 化 財 ~
【 概 要 と構 成 】
中 世 飫 肥 は豊 州 島 津 氏 が支 配 する土 地 で あったが、 豊 か な山 林 資 源 と海 上 交 通 の 支 配 を
めぐって、 長 い間 伊 東 氏 との 間 で 覇 権 争 いが繰 り返 された。 そのため、 飫 肥 領 内 各 所 に 多 く
の中 世 城 郭 や 砦 が築 か れた。長 期 にわ たる戦 乱 で、戦 死 者 を悼 む 石 塔 や社 寺 も 各 所 に 造 ら れ
た。
中 世 城 郭 や砦 の 分 布 が特 に集 中 するのは 広 渡 川 、 酒 谷 川 の 流 域 平 野 部 及 びそれを見 下 ろ
す丘 陵 部 であるが、 市 南 部 の 細 田 川 や南 郷 川 、 潟 上 川 流 域 や 、 鵜 戸 地 区 の 海 岸 線 に張 り出
した山 上 にも分 布 が見 られる。 南 北 朝 期 以 降 の在 地 有 力 者 の成 長 や 、 伊 東 と島 津 の 抗 争 の
長 期 化 や拡 大 とともに 、 各 地 区 に 城 郭 が築 か れ、 結 果 として市 内 ほ ぼ全 域 に城 郭 が分 布 する
こととなった。
城 郭 の分 布 状 況 は 、 伊 東 氏 と島 津 氏 の抗 争 の場 のみならず 、 通 行 権 や各 集 落 の支 配 権 の
掌 握 等 、 当 地 方 の 中 世 史 を考 えるうえで 欠 か せない歴 史 的 な意 味 がある。
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このうち飫 肥 城 や酒 谷 城 の よう に 、シラス台 地 に立 地 する 大 規 模 な城 郭 は深 い 空 堀 で 区 画 さ
れた曲 輪 が並 ぶ 、 南 九 州 独 特 の形 態 をとる。 今 回 の 中 世 城 郭 調 査 で は 、 伊 東 氏 と島 津 氏 の
抗 争 と関 わ る特 徴 的 な 縄 張 りが確 認 され、 今 後 の調 査 が期 待 される 。
【 構 成 の要 素 】
・ 広 渡 川 上 流 域 に 分 布 する城 郭
・ 広 渡 川 下 流 域 に 分 布 する城 郭
・ 酒 谷 川 上 流 域 に 分 布 する城 郭
・ 酒 谷 川 下 流 域 に 分 布 する城 郭
・ 市 南 部 の 河 川 流 域 に 分 布 する城 郭
・ 市 北 東 の 海 浜 部 に 分 布 する城 郭
・ 伊 東 と島 津 の 抗 争 に 関 わ る社 寺
・ 中 世 に建 立 された石 仏 ・ 石 塔 群
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