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高精度量子化学計算による大気環境科学とのコラボレーション
高精度量子化学計算による大気環境科学とのコラボレーション 徳江郁雄1 平成19年度には、高精度量子化学計算によって、次の3個のテーマについて研究を 行った。(1) 大気環境科学上重要な硫黄化合物の光吸収励起・解離過程の速度論的・ 動力学的解明、(2) 非断熱現象を利用した水素吸蔵物質の設計と探査、(3) 生体タン パクの情報伝達機能のモデル化合物としての7-アザインドール二量体における二重 水素原子移動過程の機構解明、である。これらのうち、本報告ではテーマ(1)の結果に ついて述べる。 大気環境中の物質変化の動態を調べる手段として、安定同位体比の測定は、精度が 良くまた一般的で応用範囲が広いため、非常に重要である。大気中の同位体分離にお ける光解離の役割について、YungとMiller(1997)は零点振動エネルギー(ZPE)モデ ルを提案した[1]。このモデルによれば同位体種とのゼロ点エネルギー(ZPE)の差異に よるバンド位置のシフトにより、重い同位体種の光分解速度を遅らせることとなる。 ところが最近、ZPEモデルによる同位体濃縮効果と観測値とが2倍程度の差異を生じ ていることが判ってきた。そこで、大気環境科学上重要な硫黄化合物(H2S、SO、 SO2)の光吸収励起・解離過程の速度論的・動力学的解明を目指し、存在比の多い H232S、H234S、DH32Sについて波束伝搬法により得た光吸収解離断面積における同位 体効果を見出した。また、SO2について同様の効果を確認するため、量子化学計算 によって励起状態を含めた3次元ポテンシャルエネルギー曲面(PES)の精密決定を行 った。 1 計算方法 H2Sのポテンシャルエネルギーの計算にはmolpro2006.1ライブラリープログ ラムを使用し、aug-cc-pVQZ基底関数を用いてMCSCF/MRCI法[2,3]により、 Jacobi座標系(r:HH距離、R:SとHHの重心間の距離、θ:rとRのなす角)を 用いて約6000点の原子配置についてCs対称性の下で、1重項のA′状態を3個とA″ 状態を2個、3重項のA′状態を2個とA″状態を2個含めた計算により断熱近似の エネルギーを求め、Davidsonの補正を加えた[4]。X 1A1、A 1B1、B 1A2の3状態 について、IMLS/Shepard法[5−7]により内挿して、3次元のPESを得た。また、 光吸収とケイ光過程の実験結果を解析するため、X−A、X−B遷移について遷移双 1 新潟大学理学部化学科、電子メールアドレス:[email protected] 極子曲面(TMS)を決定し、それぞれの電子状態について振動準位のエネルギーと 振動波動関数を求めた。量子振動準位の計算はDVR法[8−11]により、X、B状態に ついてそれぞれ80個を計算して帰属した。A状態はPESが解離性なため振動波動 関数は求めなかった。次に、光励起解離過程H2S(X) → H2S(A) → SH(X) + Hを明 らかにするため、実数波束時間発展法を用いて解離過程の動力学的情報を得ると ともに、初期波束と時間発展した波束との相関関数のフーリエ変換から光吸収解 離の断面積を求めて、同位体種の比較を行った。また、ポテンシャルエネルギー についてスピン軌道相互作用の影響を調べた。 SO2については、基底関数aug-cc-pVTZを用いて、3200点の原子配置について、 1重項(A′を3個、A″を3個)と3重項(A′を3個、A″を3個)を含めてポテンシャ ルエネルギーと遷移モーメントの計算を同様に行って、IMLS/Shepard内挿法により、 X 1A1、A 1B1、B 1A2、C 1B2の4状態について3次元のPESと、X−A、X−B、X−C遷 移についてTMSを得た。 2.結果と考察 図 1 に H2S のポテンシャルエネルギーの<HSH 角による変化を示す。ここでは SH 原 子 間 の 距 離 を 基 底 状 態 の 平 衡 距 離 0.134 nm に 固 定 し て い る 。 基 底 状 態 の Franck−Condon 領域付近で A 1B1、B 1A2 状態が conical intersection を示している。 これから解るように Cs 対称性の下では、A 状態と B 状態は avoided-crossing により A 状態が下に来て解離性となり、B 状態は極小を生じる。このため、両状態の振動準 位は非断熱近似では相互作用をする可能性があるが、本計算では断熱近似のもとで A、 12 1 B1 V(Ref. -398.9583 au) /eV 10 8 1 2- A1 B 1A 2 6 3 1 A B1 3 a B1 4 A1 3 b A2 2 X 1A 1 r(SH) = 1.34 Å 0 30 60 90 120 α(H-S-H) / degrees 150 180 図 1:H2S のポテンシャルエネル ギー(eV)の角度変化 図 2:A 状態の PES(eV) B 状態について振動状態の計算をおこなって 10 -16 いる。図2に H2S(A)の2次元 PES を示す。 10 -17 ここでは基底状態の平衡距離 r = 0.19 nm に 10 -18 10 -19 10 -20 10 -21 いが、基底状態における H232S、H234S、DH32S 10 -22 の振動エネルギーの計算値と実測値[12,13]の 10 -23 cross section / cm2 固定し、横軸を(R、θ )、縦軸をポテンシャル エネルギーで示してある。 振動エネルギーは回転角運動量 J = 0、1 に ついて計算した。ここでは計算結果は示さな 30000 差が殆ど 1%以内であり一致は非常に良い。こ HHS(0,0,0) HHS(0,1,0) 40000 h t di 50000 t T 0 / cm HH 60000 70000 -1 32 S 70K の結果から今回得られた PES が極めて精度 図 3:H2S の光解離断面積の波長 の高いものであることが解った。 依存性 H232S、H234S、DH32S について、X 状態の振動波動関数と X−A の遷移モーメント の積を初期波束として A 状態の PES 上に置き、その時間発展から断面積を得た。初 期波束として H232S の振動基底準位(000)、変角振動第1励起準位(010)を用いたとき の断面積(σ32)を図 3 に示す。H234S の断面積(σ34)の同位体効果を表すため、300 K の 平均分布を考慮して同位体濃縮度(Enrichment)、(σ34 − σ32)/σ32、を‰で表示したの が図 4 左、同様に DH32S について%で表したのが図 4 右である。これから大気環境 上重要な波長領域(250−300 nm)では H232S に対し H234S が約 2%濃縮されること、 H232S に対して DH32S が 100%程度濃縮されることが解った。 次に波束の時間発展について、まず H232S の(000)を初期波束としたときの、波束の二次 元画像を図 5 左に示す。ここで、横軸は R、縦軸はθである。図 2 の A 状態のθ = 90°にある 10 0 Enrichment / % Enrichment / ‰ 0 -10 -50 -100 -20 -150 -30 -200 -40 40000 50000 60000 Excitation energy / cm -1 70000 40000 50000 60000 Excitation energy / cm -1 図 4: 硫化水素の同位体濃縮度の励起エネルギー変化、(左) H234S、(右) HDS 70000 鞍点付近の反発型の急斜面に初期波束が生成し、上下方向に分裂して谷に沿って解離し 図 5: 初期波束の時間発展(0∼20 fs)の様子、H232S(左側)と DH32S(右側) ていく様子が解る。直接解離の時間は非常に速くて 17 fs でほぼ終了し、そのうち大部分は R = 0.4 nm 付近で消えるのに対し、わずかに R = 0.1 nm 付近で消える成分がある。前者 は SH + H 直線形、後者は HS + H 直線形の解離に対応し、どちらの成分も SH の回転状 態が強く励起されることを示唆する。 一方、図 5 右に示す DH32S の初期波束は D 原子側に偏った非対称の位置(中心が下 側θ = 60°付近)に出現する。その後、一部は直接解離するが、大部分は外側の壁で反射 してから内側で反転して、また外側の壁で 反射することを繰り返しながら、周期 的に一部が上下斜め方向に解離していく。 これらの波束の干渉から断面積に振動構 造が現われる(図 4)と考えられ、また波束 のダイナミックスの違いが、DH32S につ いて大きな同位体効果が生じる原因と結 論できる。さらに、以上のような解離の動 力学的解析から解離過程が非常に速いこ とが解ったので、解離過程をより精密に明 らかにするためには非断熱効果を考慮す る必要がある。このため、平成 20 年度に 図 6:SO2 の2次元 PES、電子基底状態 は A、B 状態について非断熱近似のエネル (左上)、A 状態(左下)、B 状態(右下)、C 状態(右上) ギー計算を行う予定である。 SO2 については、記述するスペースがなくなったが、X 1A1、A 1B1、B 1A2、C 1B2 の4状 態について、r(SO)=0.1455 nm(基底状態の平衡距離)に固定した2次元 PES を図 6 に示 す。X 1A1 の Franck−Condon 領域で A 1B1 と B 1A2 が交差して conical intersection し ている。Cs 対称性の下で A、B 状態はともに A″となるため avoided-crossing し、断熱近似 では常に A 状態が下側で B 状態が上側となる。 参考文献の問い合わせは連絡先まで。 3.謝辞 本研究は九州大学情報基盤研究開発センター(RI2T)の南部伸孝准教授との共同研究で ある。また、RI2T の計算機利用について、スタッフの方々にはいろいろお世話になったの で、ここに謝意を表する。 参考文献 [1] Y. 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