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オペラの風景(37)「パルジファル」同情を巡って 本文 マチルデ・ヴェー

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オペラの風景(37)「パルジファル」同情を巡って 本文 マチルデ・ヴェー
オペラの風景(37)
「パルジファル」同情を巡って
本文
マチルデ・ヴェーゼンドンク
ワーグナーによれば、
「パルジファル」は、
「トリスタンとイゾルデ」同様、
内面の物語が、本来の物語であり、外面的な物語はただ演劇的な楽しみだ
けのためです。その内面の物語は「同情」というキリスト教的な考えに入
るものです。
楽劇「パルジファル」では3段階の同情を取り扱っています。第1幕では
同情はまだ抽象的でぼんやりとした予感めいたものに過ぎません。第2幕
では、クンドリの口づけで世界を見通す力、即ち、省察と状況を把握する
力へと変化し、第3幕では同情が救済行為として具体的な形をとるのです。
第 3 幕でパルジファルはアムフォルタス王に
「その役に立つ武器は、唯一つ。
傷をふさぐのは、
その傷を負わせたこの槍ばかり。
幸いあれ。罪をあがなわれ、罪を浄められよ。
お務めは、わたしが代わって果たしましょう。
お悩みも、いまはどうか祝福されるように。
同情《共悩》の最高の力と
至純な知の力が、
臆病だったこの愚か者に、そのお悩みを共にさせたのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・」
(同情の説明)
「同情」の考え方に目覚めたのは大変古く、1858 年で、当時の恋人マチ
ルデ・ヴェーゼンドンクへの手紙に詳しく説明しているので、引用しなが
ら話しを進めます。
「同情」は愛情のように道徳的な感情ですが、両者には際立った違いがあ
るとワグナーは考えています。同情心は苦しんでいる対象の性質で決めら
れる感情ではないということです。首を切られる鶏を例にあげていますが、
鳥をみて同情心は起こると彼は考えます。
ところが「愛情」では事情が違っていて、喜びを分かち合う状態にまで達
し、相手の特性が極めて好感のもてるもので、違和感を抱かないときにだ
け、我々は相手と喜びを分かちあうことができる。相手が低俗な存在の場
合、このことは比較的容易で、何故なら、そこに殆んど性的な問題しかな
いからです。性質が高貴になればなるほど、喜びを分かちあう状態に達す
ることは難しくなる。
・・・・
之に対し「同情」は、極めて低俗で卑俗な存在の場合にも可能であるが、
こういう存在は、彼等のくるしみのほかには共感を呼び起こさすものはな
に一つ所有しておらず、そればかりか、彼らが喜びを見出すものはわれわ
れが反感を抱くものばかりである。その原因は極めて深いところに潜んで
おり、この原因を認識すると、我々はそれによって自分の人格を越えるこ
とができる。なぜなら、こういう形で苦しむことによって、各自の人格を
こえて苦悩そのものに出合うからである。 ―中略-
他人が苦しんでいることではなく、他人が苦しんでいるのを知って私が苦
しむことが問題なのである。(1958 年 10 月ヴェネチアからの手紙)
ワグナーが言いたいのは《「同情」が相手に関係なく変化していき、自分
が苦しむということに特色があるということ》でしょう。だからこそ、パ
ルジファルの同情は第1幕、第2幕、第3幕と変化していき、最終的には
救済行為として具体的な形がとれるのです。
(「同情」の外面的オペラ化)
神話としての特徴をもちながら、
「愛」の「死」への深まりをオペラ化し
たのが「トリスタンとイゾルデ」とすれば、「同情」の異次元への深まり
をオペラ化したのが「パルジファル」といえそうです。
神話のオペラ化に特別の方法として使ったワグナーの言葉として前に述
べました。
「近代劇と違って、会話が対立して発展するのではなく、作者
が設計図を予め書いておき、それに従って役者が喋る、というやりかたで、
いわば相手が何を言おうと、筋は決まっているという仕方で劇をつくる、
」
という方法がそれです。
ワグナーはこう言っていました。
「従来のオペラ・・・モーツアルト、ヴ
ェルディ、プッチーニ・・・では、音楽はもっぱらその瞬間に行動してい
る登場人物の表現なのです。しかしこの音楽劇の構想では、音楽は《全て
を知る》作者のメガホンなのです。
」
「パルジファル」でも、似た方法が大勢をしめているようです。
有名な評論家エドゥアルト・ハンスリックはこう言っています。
「ワグナ
ーの大部分の作品では、登場人物が自分の意思からというよりもむしろ、
超自然的な力の命じるままに行動するため、きらびやかな衣をまとったド
ラマのまさに核心部が病的で貧弱なのだが、このことは《パルジファル》
についてもいえる。しかもこの作品の場合、それ以前のワグナーのどの作
品にもはるかに増してそういえる。
・・・・・」この言葉は私が神話オペ
ラの台本独特のものとして上に書いたことを別の言いまわして言ってい
ると思います。
(同情の変質)
「パルジファル」が舞台作品として優れているのをハンスリックはこう述
べています。
「ワグナーは安定した澱みなく展開していく、物語を獲得した。この物語
では3つのたくみに構成された幕において、それぞれ2場ずつ、計6場の
絵画さながらの場面が描きだされている。
・・・・きらびやかな場面や新
しい効果的な技法が《パルジファル》ではなんと豊富に使われていうこと
だろう。第1幕の早変わりの場面と晩餐の儀式、第2幕の生きた花たちと
槍の奇蹟、瓦解していく魔法の城、さらに第3幕のテイトウレルの葬儀と
最後の場面全体。これらはまぎれもなく、ワグナーのこんこんと湧き出る
驚くべき舞台の才能を改めて説明しているのである。」
クンドリの口づけ
このように作品を褒めたたえたハンスリックは、核心である第2幕のパル
ジファルの行動について重大な疑義をとなえています。清らかな愚か者が
クンドリの性的誘惑に耐えただけで、救世主への道を歩むのが理解できな
いと、彼はいいます。上に説明したように、ここで「同情」の質が変わっ
たのですが、それが台本に十分表現されていないと私にも思えます。そこ
は台本にはこうあるだけです。
クンドリ「・・・お母さんの祝福の、さいごの挨拶としての、この愛の、
最初の口づけよ。
」
ト書きがあって(「パルジファル」は極度におどろいたさまで、はっと身
をおこす。彼の態度はおそろしいほどの変化を表して来る。両手で力強く
心臓を押さえつけながら、あたかも断腸の苦しみをこらえているさま
パルジファル「おお、アムフォルタス王。
あの傷。あの傷。
おれのなかでも、あの傷はもえている。
あの嘆き声、なげきごえ。
おそろしい嘆き声、なげきごえ。
・・・・」
これで《同情》が質的変化をした、とワグナーは言いたいのでしょう。随
分不連続な話です。口づけまで、パルジファルはは病める王のことなど、
皆目頭になかったのですから、罪の意識もなかったかのようだったから不
思議だと、ハンスリックは指摘します。クンドリだって、こんな台詞をは
きます。
「それじゃ、あたしの接吻が世界に対して、あなたの目をひらか
せたっていうわけね」
(音楽表現の劇的変化)
この場面が音楽でどう変化するか、ブロッホはこう述べています。
「第2幕において、第 1 幕の協和的なハーモニーの構造が突如として崩れ
る。あらあらしい導入のあとに、叫び声とクリンゾルの半音階的威嚇の動
機が現れる。これらはみなやがて一度は鎮まるが、魔法の園の花の乙女た
ちの、心をとろけさせる妙なる歌声と、クンドリのヴェヌースの歌の中で、
又もえあがる。ちょうどこのとき突然、思いがけないことが起こり、対立
はふたたび消える。クンドリの愛の口づけで、パルジファルがアムフォル
タスの傷を感じ取るところだ。ここでけたたましく下降していく半音階が
流れる。ワグナーの作品ではこの突然の聖化に際して、この口づけがたん
に聖杯の呪縛ばかりでなく、色欲的な世俗の災いまでもことごとく悟らせ
るのである。
・・・・・・パルジファルは忘我の瞬間に突如として回心を
とげる。
まったく異質のものがこれほど、唐突に、心地よい物語の流れに逆らって
出現したことはほとんどない。
・・・」第 2 幕に入ったあと此処までが「パ
ルジファル」唯一劇的な部分です。
(他は儀式といえます)この場面で音
楽的に従来のワグナー作品にはなかった対立、クンドリとパルジファルと
の対決が取り扱われている、とブロッホを主張します。
(トリスタンでも
オランダ人でも、男女の対立はこれとは異質なものでした)
。この時点で
はクンドリはヴェヌースではない。彼女はありとあらゆる女の性を一身に
体現し笑いつつも絶望しており、音楽的な形象としてパルジファルより謎
を秘めた人物です。結果として起こるできごとは従来のワグナー作品の男
女対立からではない全く独特の音楽形象を生んだと、これは若干ブロッホ
皮肉です。
(楽劇というより祝典劇)
「同情」を中心に発展させて、楽劇は作られてました。キリスト教に近い
立場で。これがワグネリアンには大好評だったのはいうまでもありません。
しかし舞台で行われる事柄は楽劇というより、大部分が儀式でした。その
こともあって、「舞台神聖祝典劇」と名前をつけたして、ワグナーはバイ
ロイト以外では 30 年間演奏禁止を国王ルードイッヒに申し出、認められ
ました。
こんな一連の流れが批判を、ワーグナーとキリスト教という、いわばオペ
ラのイデオロギーに向けさせました。ハンスリックは上記の論文のなかで、
このオペラの内容を批判する優れた論説を展開していますし、ブロッホは
最初から批判的ですが、最大の批判者はニーチェです。この内容は次回紹
介します)
この楽劇は舞台神聖祝典劇と名づけられ、舞台のないCDだけの発売は
長い間控えられていたようで、1960 年代初頭の案内書にもそうありまし
た。当時は 1951 年のクナッパーブッシュ指揮バイロイトのライブ録音だ
けという時期が長い間続いたそうです。1962 年の同指揮者のCDがでて、
以後続々と発売されています。私のは、62 年のものです。画なしに音だけ
250 分聞くのは楽ではありません。しかし一度聴く価値がある芸術性があ
ります。なおクナッパーブッシュの録音は(51,56,58,60,62,64 年)とあり
ます。
アムフォルタス王
1)CD『パルシファル』1962 年ステレオ録音。
クナッパーツブッシュ指揮のライヴ!
パルシファル:ジェス・トーマス、グルネマンツ:ハンス・ホッター
アンフォルタス:ジョージ・ロンドン、ティトゥレル:マルッティ・タル
ヴェラ
クリングゾール:グスタフ・ナイトリンガー、クンドリー:アイリーン・
ダリス
第 1 の聖杯騎士:ニールス・メラー、第 2 の聖杯騎士:ゲルト・ニーンシ
ュテット
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