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バーゼル大学

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バーゼル大学
だけなら、ヨーロッパは今やまるで一つの国というよ
み、国境は事実上存在しないので、単に旅行している
バーゼル大学
二〇〇〇年の春から在外研究を頂き、一年半をスイ
うな感じもするが、スイスだけはいまだに厳然と国境
田 村 久 男
スのバーゼル大学、残りの半年はチューリヒで過ごし
クス三国、ドイツあるいはフランスから、スイスを通
ってイタリアへと抜ける大動脈の北のチェックポイン
が存在し税関も機能し続けている。バーゼルはベネル
ト、文字通り表玄関となっている。そのため、文化的
い、おかげで様々な体験ができ、また新しい知識を得
バーゼル市は人口は十七万、ジュネーブと並んで、
にはフランス、ドイツとの関係は密接で、国境を越え
た。延長をふくめて二年間、非常に貴重な機会をもら
チューリヒに次ぐスイス第二の都市である。スイスの
て通勤通学する人も少なくなく、えてして閉鎖的と批
ることができたと心から感謝している。
ン河が、一度ボーデン湖に注ぎ、そこからしばらく西
北端、ほぼ中央部にあり、アルプスを源流とするライ
判されるスイスでは比較的開かれた国際的な性格をも
市街の周囲には、世界的に有名な製薬会社ノヴァルテ
ンハーフェンをもつため、多分に中世の面影を残す旧
い﹂といわれる理由の一つでもある。国際貿易港ライ
った町である。しばしば﹁バーゼルはスイスではな
に向かって流れた後、バーゼルでほぼ直角に曲がり、
今度は北上して北海に注ぐ。バーゼルはこのライン河
を挟んだ形で位置し、市街を一歩出ればもう西岸はド
の町である。現在、周辺のEU諸国は通貨統合も済
イツ領、左岸はフランス領であり、文字通り三国国境
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ルや工場も建ち並び、ラインのメトロポリスと呼ばれ
イスやホフマンーーラ・ロッシュ、UBS銀行などのビ
ることさえある。
ここバーゼルに、スイスで最も古い大学が存在して
いる。
そもそもこの町に大学ができたのは一五世紀半ばの
護妻熱霧纂謙嚢癒
一四六〇年にさかのぼる。一四三一年から四八年にか
糊郷醸贋膏卜 ’”い響罵
騰榊総棄羅灘瀞鵬 譲虞 t’”
けて開かれた教会会議、いわゆるバーゼル公会議の
羅
103一
工
難繍・難謬 嚢
バーゼル大学本部1.レー
際、ローマ法王の秘書としてこの町にしばらく滞在し
ローミニが後にピウスニ世として教皇に選ばれる。公
たイタリアの人文学者工ーネアス・シルビオ.ピッコ
に何か贈り物をしたい、また、市民の方でもこの際是
会議の際はバーゼル市民に大変お世話になった、お礼
非とも何か記念になるものを頂戴したい、とお互いの
学がこの町に創設されたのである。﹁文化の町﹂を自
関心が一致し、当時はドイツにもまだ数少なかった大
称するバーゼルで、市民の学問と教育への関心の深さ
ードである。
を表すものとしてしばしば引き合いに出されるエピソ
現在のバーゼル大学は登録学生総数八千人弱の比較
的小さな大学といっていい。私はこの大学のドイツ文
辮
かにも古い伝統と格式ある大学にふさわしく、教授は
ると、広い講義室内はただただ静寂だけが支配し、い
教室に入って来るやおもむろに原稿を広げて淡々と読
学科の聴講生く匠ユコσqωε畠Φ三として三セメスター勉
もつ簡素な建物、コレーギエンハウスは町のほぼ中心
にかく緊張の連続で、授業開始を待つ間にすっかり上
み上げ、学生は黙々とノートを取る。初めのうちはと
強することになった。いかにも大学の講堂という趣を
部のぺータi広場にある。これが大学の本部である。
るが講義が始まっても私語をやめなかったり、授業中
った。しかし回が重なるにつれて、ごくまれにではあ
がってしまい教授の咳払い一つにもおびえたものであ
終戦直後、ドイツの哲学者ヤスパースがハイデルベル
ク大学からここに赴任したとき、職員は十数名しかお
もアットホームな雰囲気に驚いたという話だが、現在
けられ、それほど日本の大学とも違わないのだと安心
うっかり携帯電話を鳴らして叱られる学生なども見か
らず、すぐに名前を覚えてもらえたそうだ。あまりに
でも少なくとも本部職員の数についてはそれほど大き
講堂では大学の授業と並んでしばしば講演会や市民
が、あまり悪いことはできない。
覚えられる。確かにアットホームな雰囲気ではある
も古き良き大学の伝統が感じられた。講義室では四十
け込む学生などは一人もいない。こんな些細なことに
粛々と退席する。自然休講である。もちろん事務に駆
たちはきっかり二十分が経過すると黙って立ち上がり
いつまで待っても教授が現れないこともあった。学生
する。これも極々まれにではあったが、何かの事情で
く変わらないのではないだろうか。高名な哲学者でな
講座も開かれ、また併設する付属の図書館や植物園も
くても、東洋人留学生は数が少ないのですぐに名前を
市民に開放されていて、構内のカフェテリアで若い学
しながら後半戦に臨む。
一方、ゼミナールは本部にほど近い閑静な住宅街の
五分ごとにベルが鳴り休憩の間、疲れた腕をもみほぐ
民にも開かれているので、かなりの数のシニア学生た
天使の像が目印で﹁エンゲルホーフ﹂と呼ばれ、これ
中にあるドイツ文学研究室で行われる。軒下の大きな
生たちに交じってお茶を飲む先輩の市民の姿も数多く
ちが聞きに来ていて、非常にオープンな雰囲気であ
見受けられる。また、文系の授業は大部分が一般の市
る。しかし、ベルの合図とともにいったん授業が始ま
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も古い由緒ありげな建物である。私がバーゼルでお世
話になったリューディガー・シュネル教授の専門はド
イツ中世文学、ヨーロッパ社会発展史、一部ジェンダ
エロス関係であった。文学の最大かつ最重要テーマは
ー論、女性開放関係、しかし授業での話題はもっぱら
エロスであるというのがシュネル先生のこ持論で、授
業は非常に興味深く、講義ではしばしば立ち見が出る
ほどであった。ゼミでも関連テキストを読みながら、
はもともとはドイツ人で、綺麗な解りやすい標準ドイ
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後半は学生たちとの議論に費やされる。シュネル教授
ツ語で話してくれるが、生粋のスイス人の言葉はいわ
ゆるスイスドイツ語で、標準ドイツ語とはかなり異質
な言葉である。ドイツ人はスイスに来てかわいい女の
子に声をかけ、言葉を聞いて逃げ出すという。確かに
しかし耳が慣れるにつれスイスドイツ語の残す由緒正
最初のうちは何をいっているのかさっぱり解らない。
はこれで一つの美しい言葉なのだと感じられてくるよ
しい古風な発音と抑揚豊かでリズミカルな響きにこれ
うになる。ただ、ゼミでは学生たちが何をいっている
のか結局最後までほとんど理解できなかったのがかえ
すがえすも残念だった。あらためて外国語の勉強の重
ドイツ文学ゼミナールが入っている「エンゲルホーフ」
要さを実感させられたのだった。
く、世界的に有名な科学者を輩出している。石を投げ
バーゼル大学は現在ではむしろ理系の研究者が多
ればノーベル賞学者にあたるという話さえある。町が
この小さな町の中に一際高くそびえる州立病院、そし
小さいという意味も込められているのかもしれない。
て主に化学系の研究所が入っているバイオセンターな
どの近代的な高層ビルディングも大学の付属施設であ
る。古い物と新しい物が同居する町、国際性と郷土性
ではないだろうか。
の理想的調和、それがバーゼルの魅力といっていいの
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