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1 九鬼一人 「超越的当為(transcendentes Sollen)を考えるための
九鬼一人 「超越的当為(transcendentes Sollen)を考えるためのスキーム=カント的義務 論的認識論」の中の、アイヒマンに関する補足について その他 香月恵里 アイヒマンはユダヤ人虐殺をカント倫理学によって正当化しようとしたのか? アーレントは『イェルサレムのアイヒマン』で、次のように書いている。 「(ユダヤ人虐殺は、 犯罪的な軍人の問題だけではないことは)警察による訊問のあいだ、自分はこれまでの全生 涯をカントの道徳の格律、特にカントの義務の定義にのっとって生きてきたと彼が突然ひ どく力をこめて言明した時に生じた」(『イェルサレムのアイヒマン』邦訳 107 頁 人々が驚いたのは、アイヒマンがカントの格律に従ってユダヤ人移送を行った、と言った からではなく、無教養なナチとされていた彼がカントの格律のほぼ正しい定義を下すこと ができたからである。彼が行ったことは、 「カントの定言命法を歪曲するもの」 (牧野雅彦、 「アーレントと「根源悪」 」 『思想』2015 年 10 月号、p.51)である。アイヒマンももしかし たらそのことを知っていたのかもしれない。彼は、 「「最終的解決」の実施を命じられたとき から自分はカントの原則に従って生きることをやめた」 (『イェルサレムの・・・』邦訳 108 頁)と述べているからである。それは、 「自分がもはや「みずからの行為の主」ではな」 (同) いことを正しく認識していたからである。ということは、アイヒマンは、もはや自分の実践 理性をたよりに行動することはできないし、それはカントの定言命令が言っていることと も違うと知っていたのであろう。 九鬼論文には、補足として、 「彼(アイヒマン)は上からの命令に従ったのではない。内 なる呼びかけに従って、悪への積極的コミットに、 (道徳的愛という)傾向性にあらがって まで、忠実たらんとしていた」とある。 ここで九鬼論文が引用しているのは、アーレントの、以下の箇所である。 「第三帝国における「悪」は、それによって人間が悪を識別する特性―誘惑という特性を 失っていた。ドイツ人やナチの多くの者は、おそらくその圧倒的多数は、殺したくない、盗 みたくない、自分らの隣人を死におもくかせたくない(中略)という誘惑を感じたに相違な い。しかし、ああ、彼らはいかにして誘惑に抵抗するかということを学んでいたのである」 ( 『イェルサレムの…』邦訳 118 頁) しかし、私はこう考える。ドイツ人やナチの多くの者がユダヤ人殺しについて黙殺し、あ 1 るいは消極的に加担した理由は、悪をなしたくないという誘惑に抵抗したからではない。彼 らはユダヤ人から収奪した住居や家具、その他金品をわがものにしたい、自分たちの物質的 困窮をわずかでも楽にしたいという誘惑にさからうことができなかったのであり、ユダヤ 人をかくまったり、ユダヤ人虐殺におおっぴらに反対して密告されたり、彼らと交際を続け ることによって自らの身を危険にさらしたくない、という自然な誘惑に従ったのである。 アイヒマンの場合、彼は一般的なドイツ市民とは違って、ユダヤ人移送に責任ある立場だ った。彼は誘惑にさからってユダヤ人を移送し続けたのだろうか。アイヒマンは一度、特務 部隊が犠牲者たちを大量射殺した場面に立ち会ったことがあるという。その時の彼は吐き 気を覚え、その凄惨な光景に耐えられなかった、と語っている。それでもアイヒマンは自分 の自然な傾向に逆らい、ユダヤ人移送を続けたのだろうか。 重要なのは、彼自身はそうした殺人行為を自分で行う必要がなかったということだ。彼は、 たまたま入ったSD(SS情報部)でユダヤ人問題を扱う部門に配属され、移送にともなう 事務的な仕事(ユダヤ人を首都のゲットーに集める、過酷な環境に置いて海外への移住を強 要する、財産を没収する)を体系化して成功をおさめ、出世の階段を上がることができた。 Akademiker が大多数であり、博士号を持っている者も珍しくなかった SD において、いわ ばアウトサイダーであるアイヒマンが出世するための方法が、当時中心的問題であったユ ダヤ人問題においてスペシャリストとなることであった。おそらく彼は、権力をふるいたい、 もっと出世したい、できれば大佐になりたい、という誘惑にさからうことができなかったの だ。ナチの世界観に従えば劣等人種であるユダヤ人が悲惨な死に方をしていることについ て思いを巡らすより、出世への誘惑の方がはるかに大きかったのではないかと想像できる。 「アイヒマンが反ユダヤ主義者であったことは間違いない」となぜいえるのか、というメー ルでのご質問に対して 従来の研究においては、アイヒマンは果たして従順な小役人であったのか、それとも反ユ ダヤ主義者であったのか、ということが論議されてきたが、最近では、彼はその両方であっ たのだという考え方が優勢となっている(いわゆる sowohl als auch 論)。 アイヒマンはエルサレムにおいて、自分は単なる小役人に過ぎなかった、と強調した。ア イヒマンの従順さについて、彼はもし赤毛の人間を全員殺せと命令されればそれに従った であろうし、もし病気の黒人を救えと命令されればそれに熱心に従いもしただろう、と考え た者もいる(裁判を傍聴した作家ハリー・ムリシュ)が、おそらくそうではない。彼の熱心 さ、従順さは犯罪的組織の中でのみその発露を見出す類のものである。彼が反ユダヤ主義者 であったことは、逃亡先のアルゼンチンにおける、その地のナチたちとの討論でもあきらか である。しかし、単なる反ユダヤ主義者がユダヤ人大量虐殺の責任者となって権力をふるい、 数百万ともいわれる犠牲者を出すことになったのは、全体主義の社会においてのみ可能だ 2 ったことである。 アイヒマンには、積極的にユダヤ人に悪意を懐く理由はなかった。それどころか、就職そ の他に際してユダヤ人の世話になってさえいる。それでもなお彼が反ユダヤ主義者であっ たのは、とくにイデオロギー上の確信あってのことではない。彼はドイツ生まれだが、7歳 でオーストリアのリンツに移住し、そこで成長している。オーストリアにおいてはドイツ以 上に反ユダヤ主義が顕著であり、彼はそれを空気のように呼吸して育った。また、彼が厳し いプロテスタントの両親に育てられたことも関係しているかもしれない(ルターの反ユダ ヤ主義はよく知られている) 。リンツはカトリックが優勢を占め、ドイツ出身、かつプロテ スタントであるアイヒマン家は、ただ反ユダヤ主義という点においてのみ、リンツという環 境にあって受け入れられていたと考える者もいる(アイヒマン伝を書いた D. セサラニ) 。 3