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縁故疎開の思い出より 中村正雄(PDF形式:1718KB)

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縁故疎開の思い出より 中村正雄(PDF形式:1718KB)
戦況が不利となって来た昭和十九年の春に学童疎開が始まり、
でした。しかし今と違って、 そ う い う こ と は 口 に 出 し て 言 う こ
るはずはないと教えられて来たので、 ど う い う こ と な の か 疑 問
縁故疎開の思い出より
正雄
私は、静岡県西部の父の田舎へ縁故疎開をしました。東京では
とを、 は ば か ら れ る 時 代 で し た 。 学 校 の 近 く に は 、 東 海 道 本 線
中
昭 和 十 八 年 の 第 一回東京空襲を経験していましたが 、 ここでは
の線路があって、毎日何十両も貨車をつないで列車が通過して
大和町四丁目
最初のうちは、空襲警報もたまにしかなく、時々、戦場に出征
いましたが、何両連結しているかと数えてはいけないと言われ
晴れた夜の空は、灯火管制と公害のない、きれいな空気のお
して行く人を見送ることを除けば、平和な農村地帯という状態
しかし、昭和二 O年になって、毎日、 た ん ぽ の 中 の 道 を 二 キ
陰で、満天降るようなきれいな星空でした。今では、人里離れ
たくらいだったのです。
ロ白歩いて通 っ て い た 学 校 も 、 二 時 間 目 の 授 業 が 終 わ る 頃 に な り
た山頂にでも行かない限り
でした。
ますと、決まったように、空襲警報のサイレンが鳴りました。
でしょ、っ。
東京にいた時は、友達と毎月、有楽町の毎日新聞社のビルに
こういう空は見ることは出来ない
そ し て 、 東 京 や 京 浜 工 業 地 帯 へ 向 か う 敵 の 爆 撃 機Bmの大編隊
が南から北へと頭上を通過して行くのですが、ここは通路なの
あ った、当時、 日 本 に 二 台 し か な か っ た プ ラ ネ タ リ ウ ム に 通 っ
て、野尻抱影きんの解説で宇宙や星の話を聞いて、沢山の星座
で、爆弾は落ちて来ませんでした。
毎日定期便のように、 同じコ l ス を 同 じ 時 間 に 飛 ん で 来 る の
何千年何万年の過去に星を出発した光が、 今地球に届いてい
はなく本物の空を眺めるのが楽しみでした。
を覚えたので、天気の良い夜は、プラネタリウムの偽物の空で
﹁いや本土に引き
に、それを迎撃する日本の戦闘機は滅多に見られませんでした。
日本にはもう飛行機がないのだろうか?
つ け て 攻 撃 す る た め の 戦 略 な の だ ﹂ と か 言 わ れ て 、 日本は負け
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キ
ナ
ます。しかし、 この狭い地球の上で、 今 、 人 類 同 士 が 戦 争 し て
れませんが、 現 在 と は 違 って
、 その時に採れた野菜が主食兼副
例えば、大根が採れた時は、食べる物は朝畳晩とも大根ばか
食物となりました。
戦 争 の 進 行 と と も に 食 糧 事 情 は 悪 く な る 一方 で 、 配 給 に な る
り 。 き つ ま 芋 が 採 れ た 時 は 、 さ つ ま 芋 ば か り と な ってしまうわ
いる最中というのは、何か夢のような気がしました。
米 の 量 も 次 第 に 減 ら さ れ た の で 、 生 ま れ て か ら 鍬 な ど 持 ったこ
けです。
おかずにもなり間食にもなりました。
裏側の山の方は茶畑になっていましたが、その山から一条の煙
終戦になる年の早春の、ある日曜日の畳頃のことです。家の
て主食となり
した。こんな時には、自作のきつま芋が頼りでした。米に混ぜ
わ れ て い る 油 を 搾 った か す で あ る 豆 か す が 配 給 に な った り し ま
米の不足から、米の代わりとして大豆や、今は家畜の餌に使
とのない家族が、みんな手を豆だらけにして、近所の農家から
借りた畑で、米以外の、きつま芋、じゃが芋、とうもろこし、
大根、白菜などの野菜類を、一通り作るようになりました。
そ し て 、 土 地 の 人 が 食 べ るフキ、 ワ ラ ビ な ど の 他 に 、 滅 多 に
食 べ な い ゼ イ マ イ な ど の 野 草 類 も 道 ば た や 山 に 行 って は 、 採 っ
て来て食べました。
そんなある日のことです。自の悪い祖母が、 ヨモギを近くの
が上が っているのを発見しました。
山 火 事 だ と 大 変 な の で す ぐ に 走 り 、 山 を 登 って見に行くと、
土 手 で 摘 ん で 来 た の は 良 か った の で す が 、 う ど ん 粉 を 練 って
、
すいとんを作りみんなで食べたところ、家族全員が中毒にな っ
を集めて何か燃やそうとしているとこ ろ でした。枯れ草に飛び
在のような常設の消防署はなくて、火事の時は、消防団員の人
数人の小学生がいて、茶の木の間に敷いてある枯れ木や枯れ草
てしま って 驚 き ま し た 。 父 が 残 って い た ヨ モ ギ を 良 く 調 べ た と
こ人 、 そ の 中 に 、 若 葉 の 形 が よ も ぎ に 大 変 良 く 似 て い る 毒 草 の
火 す れ ば 山 火 事 に な って し ま い ま す 。 当 時 は 、 町 に も 村 に も 現
父 は 子 供 の 頃 に 兎 を 飼 って い た の で 、 青 い 草 な ら 何 で も 食 べ
た ち が 、 本 業 を 中 断 し て 集 ま って き て 、 ポ ン プ を 押 し て 消 し に
J
キ ン ポ ウ ゲ が 混 じ っていたことがわかりました。
る兎に、これだけは絶対に食べさせてはいけない、と両親から
行くのです。
に集団疎開で来ている、東京都大田区の久ケ原小学校の児童で
こから来て何をしているのかと聞いてみると、隣の町の真如寺
土地の子供は間違ってもこんなことはしないので、君達はど
教えられていた草の一つがこの草であったのでした。
雑草も、兎の食べる草ならば食べられると言うことを父は知
い ろ い ろ な 食 べ 物 が あ った よ う に 思 わ れ る か も 知
っていました。
ずいぶん
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あ れ か ら 五O年 近 く た っ て 、 戦 争 を 知 ら な い 人 が 多 く な っ た
れ る も の と 思 ってい ます。
ま 芋 を 持 た き れ て 数 人 ず つ グ ル ー プ に な って遠足に来て、自分
現在の日本、お金きえ出せば、食べ物はいつでもいくらでも手
あることがわかった。 日 曜 日 な の で 畳 の 食 料 と し て 、 生 の き っ
達で焼き芋を作って食べるように言われて来たことなどが分か
に入る国民総グルメ。そして、食べ過ぎた結果ダイエットだ減
量だと騒いでいる人、主食か間食か分からない食事をしている
りました。
ここで火を燃したら山火事になって
人、柔らかい物、甘い物しか食べない子供、飽食の時代に育っ
僕も東京から来たこと
しまうかも知れないから、 絶 対 に い け な い と い う こ と を 話 し て
た母親に育てられている﹁我慢する﹂ということを忘れてしま
していても頑張った時代が思い出きれるのです。
ったような現代の子ども達を見るにつけ、昔いつもお腹をすか
家まで連れて来ました。
母に事情を話しますと、 江 戸 っ 子 で 気 風 の 良 い 世 話 好 き の 母
は、かわいそうだからと、 子 ど も 達 が 持 っ て い た 、 き つ ま 芋 に
家で作った芋を加えて蒸かしてあげて、充分に食べきせました。
そして、東京の話をしたり、本を見せたりして遊んで帰りまし
た
。
その事件がきっかけとなって、それからは家に、日曜日にな
ると久ケ原小学校の子ども達が遊びに来るようになり、その都
度きつま芋をご馳走したりしました。
そ し て 今 度 は 、 集 団 疎 開 先 の 真 如 寺 に 母 と 二人 招 待 さ れ て 訪
問もしました。
物資が不足の時代で、 写真のフ ィ ル ム も 手 に 入 ら な か った時
代だ った の で 、 写 真 な ど も な く 、 当 時 の 先 生 の お 名 前 や 遊 び に
来た子ども達の名前も忘れてしまいました。
こ の 世 で し て 来 た 善 行 の 一つ と し て 、 閤 魔 様 も 評 価 し て く
世 話 を し た 母 も 、 昨 年 八 五 歳 で あ の 世 へ 行 って し ま い ま し た
カ
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