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和歌山県文化財センター年報 2010 - 公益財団法人 和歌山県文化財
埋蔵文化財発掘調査と文化財建造物保存修理 2010 1 古代の瓦窯(平窯) 北西から 北山廃寺・北山三嶋遺跡 2 古代の瓦窯(登窯) 北から 北山廃寺・北山三嶋遺跡 3 弥生時代・古墳時代の遺構 北東から 神前遺跡 5 古墳時代前期の土坑 遺物出土状況 神前遺跡 4 弥生時代前期末葉の溝 北から 神前遺跡 6 古墳時代中期の青銅製鈴 神前遺跡 7 木製品出土状況 北から 立野遺跡 8 出土木製品(弓) 立野遺跡 9 金剛三昧院客殿及び台所 檜皮屋根 10 熊野本宮大社 右より第四殿、第三殿、左が第一殿・第二殿 目 次 平成 22(2010) 年度 受託業務一覧 …………………… 2 平成 22(2010)年度 受託業務所在地図 ……………… 3 埋蔵文化財の発掘調査・出土遺物整理 文化財建造物の保存修理技術指導 粉河寺遺跡の発掘調査…………………………………… 4 重要文化財 熊野本宮大社の保存修理…………………21 根来寺遺跡の確認調査…………………………………… 5 国宝 長保寺大門ほか2棟の保存修理…………………23 北山廃寺・北山三嶋遺跡の発掘調査 …………………… 6 神前遺跡の発掘調査……………………………………… 8 重要文化財 金剛三昧院客殿及び台所ほか1基の保存修理………24 井辺遺跡の発掘調査………………………………………10 湯浅町湯浅伝統的建造物群保存地区の保存修理………25 福田下遺跡の発掘調査……………………………………11 岩野河遺跡の発掘調査……………………………………12 蛭田坪遺跡の発掘調査……………………………………13 八丁田圃遺跡・目座遺跡の発掘調査 ……………………14 塗屋城跡の発掘調査………………………………………15 立野遺跡の発掘調査………………………………………16 神野々Ⅰ遺跡の出土遺物整理 ………………………………18 京奈和自動車道(紀北東道路)遺跡の出土遺物整理 ……18 粉河寺遺跡の出土遺物整理 ………………………………19 北山廃寺、北山三嶋遺跡の出土遺物整理 ………………19 秋月遺跡の出土遺物整理…………………………………20 坂田遺跡の出土遺物整理…………………………………20 関連研究・資料紹介 西飯降Ⅱ遺跡の竪穴建物の変遷…………………………26 立野遺跡の植物遺体について……………………………32 神前遺跡出土の青銅製鈴…………………………………30 礎石に転用されていた五輪塔について…………………34 普及活動 センター概要 平成 22 年度の普及啓発事業 ……………………………37 平成 22(2010)年度概要 …………………………………41 巻頭写真 1 古代の瓦窯(平窯) 北西から 北山廃寺・北山三嶋遺跡 6 古墳時代中期の青銅製鈴 神前遺跡 2 古代の瓦窯(登窯) 北から 北山廃寺・北山三嶋遺跡 7 木製品出土状況 北から 立野遺跡 3 弥生時代・古墳時代の遺構 北東から 神前遺跡 8 出土木製品 (弓) 立野遺跡 4 弥生時代前期末葉の溝 北から 神前遺跡 9 5 古墳時代前期の土坑 遺物出土状況 神前遺跡 10 例 金剛三昧院客殿及び台所 檜皮屋根 熊野本宮大社 右より第四殿、第三殿、左が第一殿・第二殿 言 1 本書は、財団法人和歌山県文化財センターが平成 22 年度受託業務として行った埋蔵文化財の発掘調査・出土遺物等整理業務、 文化財建造物の保存修理技術指導業務、および普及活動の成果をまとめたものである。 2 掲載した地図は、和歌山県教育委員会が発行する『和歌山県埋蔵文化財包蔵地所在地図』2004 ∼ 2006 年度(地図は国土地理院 発行の数値地図 1:25,000 の複製) 、および数値地図 1:25,000 の複製を一部加筆し引用した。また各自治体の発行する 1:2,500 都市計画基図を一部加筆し引用したほか、電子国土(http://cyberjapan.jp/)提供図の複製を用いた。 3 掲載写真・図面は、基本的に調査および整理中に撮影・作成したものであり、出典が異なる場合は個別に記した。また、本文中 の所見は、調査・整理作業中のものであり、今後の作業の進展により変更する可能性がある。 4 掲載した座標値は、平面直角座標系第Ⅵ系(世界測地系)による。 5 原稿執筆は職員が分担して行い、文末に執筆者名を記した。編集・組版は、井石好裕・御船達雄・田村収子が担当した。 平成 22(2010)年 度 財団法人和歌山県文化財センター受託業務一覧 埋蔵文化財の発掘調査・出土遺物整理業務 受託業務の名称 所在地 契 約 期 間 調査面積 委託機関等 1 県道山田岸上線道路改良工事に伴う発掘調査 [神野々Ⅰ遺跡] 橋本市神野々 2009.09.30∼ 2010.07.15 256㎡ 和歌山県 2 長屋川通常砂防工事に伴う粉河寺遺跡発掘調査業務 紀の川市粉河 2010.03.03∼ 2011.02.08 116㎡ 和歌山県 3 町道福田松瀬線道路改良工事に伴う福田下遺跡発掘調査業務 海草郡紀美野町福田 2010.10.01∼ 2010.12.28 555㎡ 紀美野町 4 平成 22 年度旧県会議事堂移転予定地における根来寺遺跡確認調査業務 岩出市根来 2010.06.04∼ 2010.11.04 695㎡ 和歌山県 平成 22 年度旧県会議事堂移転予定地における根来寺遺跡発掘調査等業 5 務 岩出市根来 2011.03.02∼ 2011.10.31 764㎡ 和歌山県 中山間総合整備事業(北山地区)に伴う工事監理及び北山廃寺・北山三嶋 紀の川市貴志川町北山 6 遺跡出土遺物等整理業務 2010.05.27∼ 2011.03.22 3,394㎡ 和歌山県 7 発掘調査等支援業務 [特別史跡岩橋千塚古墳群] 和歌山市岩橋 2010.09.30∼ 2011.03.25 46㎡ 和歌山県 8 都市計画道路湊神前線道路改良事業に伴う井辺遺跡発掘調査業務 和歌山市神前 2011.02.22∼ 2011.06.30 1,711㎡ 和歌山県 都市計画道路松島本渡線(神前南)道路改良事業に伴う井辺遺跡発掘調査 9 業務 和歌山市神前 2010.07.23∼ 2011.03.25 650㎡ 和歌山県 都市計画道路松島本渡線(神前南)道路改良事業に伴う井辺遺跡及び神前 和歌山市神前 10 遺跡発掘調査業務 2011.02.22∼ 2011.09.22 4,091㎡ 和歌山県 11 和歌山橋本線道路改良事業に伴う神前遺跡発掘調査業務 和歌山市神前 2010.03.18∼ 2010.10.29 4,644㎡ 和歌山県 12 和歌山下津港 港湾改良発掘調査業務 [県指定史跡水軒堤防] 和歌山市西浜 2010.03.26∼ 2010.10.15 − 13 国道480号道路改良調査 (岩野河遺跡発掘調査) 業務 有田郡有田川町岩野河 2010.06.08∼ 2011.02.18 241㎡ 和歌山県 14 江川小松原線道路改良事業に伴う蛭田坪遺跡発掘調査業務 御坊市湯川町小松原 2010.06.10∼ 2010.09.17 65㎡ 和歌山県 15 近畿自動車道紀勢線事業に伴う八丁田圃遺跡発掘調査業務 田辺市秋津町 2010.06.22∼ 2011.01.31 国土交通省 1,546㎡(近畿地方整備局) 16 近畿自動車道紀勢線事業に伴う塗屋城跡発掘調査業務 西牟婁郡上富田町朝来 2010.10.09∼ 2011.03.25 2,759㎡ 国土交通省 (近畿地方整備局) 17 近畿自動車道紀勢線事業に伴う立野遺跡発掘調査業務 西牟婁郡すさみ町周参見 2010.06.22∼ 2011.03.25 8,526㎡ 国土交通省 (近畿地方整備局) 一般国道24号京奈和自動車道出土遺物整理業務[中飯降遺跡、西飯降 伊都郡かつらぎ町中飯降、 2010.04.22∼ 西 飯 降、 大 谷、 大 藪、 紀 18 Ⅱ遺跡、大谷遺跡、重行遺跡、加陀寺前経塚] 2011.03.18 の川市重行 − 和歌山県 国土交通省 (近畿地方整備局) 19 山田岸上線道路改良調査業務 [神野々Ⅰ遺跡] 橋本市神野々 2010.04.21∼ 2011.03.18 − 和歌山県 20 向陽高校体育館建設事業に伴う秋月遺跡出土遺物等整理業務 和歌山市太田 2010.05.14∼ 2011.03.25 − 和歌山県 21 三田三葛線道路改良工事に伴う坂田遺跡出土遺物等整理業務 和歌山市坂田 2010.09.30∼ 2011.03.25 − 和歌山県 22 元町新庄線道路改良調査 (田辺城下町遺跡出土遺物等整理) 業務 田辺市南新町∼湊 2009.10.27∼ 2010.06.10 − 和歌山県 実施期間 棟数 文化財建造物の設計監理業務等 受託業務の名称 所在地 委託機関等 A 重要文化財 金剛三昧院客殿及び台所ほか 1 基保存修理技術指導業務 伊都郡高野町高野山 2010.04.01∼ 財団法人 1 棟・1 基 高野山文化財保存会 2011.03.31 B 県指定文化財 慈尊院多宝塔保存修理に伴う技術指導業務 2010.04.01∼ 2011.03.31 1棟 宗教法人 慈尊院 C 重要文化財 熊野本宮大社第一殿・第二殿ほか2棟保存修理技術指導 田辺市本宮町本宮 業務 2010.06.01∼ 2011.03.31 3棟 宗教法人 熊野本宮大社 湯浅町湯浅伝統的建造物群保存地区保存修理技術指導 有田郡湯浅町湯浅 D 伝統的建造物群 保存地区 業務 2010.06.01∼ 2011.03.31 − 湯浅町 E 国宝 2011.01.20∼ 2 棟・1 基 宗教法人 長保寺 2011.03.31 長保寺大門ほか2棟保存修理技術指導業務 2 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 伊都郡九度山町慈尊院 海南市下津町上 4,5 根来寺遺跡 18 中飯降遺跡、西飯降Ⅱ遺跡、大谷 遺跡、重行遺跡、加陀寺前経塚 7 岩橋千塚古墳群 20 秋月遺跡 8,9,10 井辺遺跡 1,19 神野々Ⅰ遺跡 10,11 神前遺跡 3 福田下遺跡 2 粉河寺遺跡 12 水軒堤防 21 坂田遺跡 6 北山廃寺・北山三嶋遺跡 13 岩野河遺跡 14 蛭田坪遺跡 22 田辺城下町遺跡 15 八丁田圃遺跡 16 塗屋城跡 17 立野遺跡 E 長保寺 D 湯浅町伝統的建 造物群保存地区 B 慈尊院多宝塔 A 金剛三昧院 C 熊野本宮大社 平成 22(2010) 年度受託業務◎ 3 受託業務一覧 平成 22 (2010)年度 受託業務所在地図 粉河寺遺跡の発掘調査 れており、堆積状況から整地土と考えられる。第3層・ 4層と呼称した堆積層には古代∼中世に至る多くの遺 物が包含され、下位の第5層にも僅かな遺物が確認さ れた。 遺 跡 の 時 代 :平安時代∼江戸時代 所 在 地:紀の川市粉河 調 査 の 原 因 :長屋川通常砂防工事 調 査 期 間:2010.11 ∼ 2011.01 調 査 コ ード:09-07・022 右岸の調査 右岸の調査では、現有護岸の建設時に 深くまで掘削がおよんで層序は左岸と著しく異なる。 従って、左岸で検出した上位の各層とは対比すること ができず、無遺物層となる基盤層が左岸と連続する層 はじめに であることを確認するにとどまった。 粉河寺は、紀の川支流の中津川とその支流長屋川に 挟まれた位置に建立された古刹名刹である。遺跡はこ 出土遺物 の粉河寺の境内地にあり、これまでに粉河寺遺跡に関 出土遺物は、左岸の第3層・4層から出土した平安 係する発掘調査は、昭和 34 年の産土神神社経塚群の 時代後期とみられる椀・坏・鉢類、鎌倉・室町時代の瓦 調査を端緒として9回行われている。今次の調査に当 器椀・土師器の小皿、土製紡錘車、白磁の四耳壺片な たっては、 表土層及び現代整地層を重機により掘削し、 どがある。また、河床の堆積層からは、近現代の瓦、 以下を人力にて各層毎に掘り下げ、左岸と右岸、更に 陶磁器など少量の遺物が出土した。 長屋川の河床について実施した。調査終了後は、カゴ マットにより仮設の護岸を復旧し埋め戻しを行った。 小結 今次の調査地点の南東側には、 「南紀補陀落山粉河 調査の成果 左岸の調査 左岸の調査では、南東側平坦地から押 し出された土砂が堆積する状況が確認できた。 護岸の石垣等についても現有の護岸を設置する際に ほとんどが取り除かれたと考えられ、その痕跡として 寺四至伽藍之図」 (粉河寺蔵)に記載された文字注記か ら、中院谷に面した「北室院」の建物が表現されている。 当該地は、昭和 57 年 (1982)に旧粉河町史編纂事業 に絡んで試掘調査が行われ、鎌倉時代を主体とした多 くの遺物が発見されている。 僅かに裏込めの礫が散見できる状態であった。調査区 今次の調査では、遺構は検出できなかったが、11 南東壁の観察では、ほぼ水平に堆積する土砂で構成さ 世紀∼ 15 世紀の良好な遺物包含層を調査することが できた。このことから、先の調査と併せて調査区南東 側の平坦地には複数期にわたる塔頭が存在した蓋然性 は極めて高いと思われる。 Ⅲ区と既住の調査位置(『粉河町史』第一巻から転載・加筆) 4 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 左岸の調査状況(南西から) (土井孝之) 根来寺遺跡の確認調査 は確認できなかったが、丘陵部西側縁辺部から西側斜 面部にかけて階段状遺構を検出した。この階段状遺構 は石積み、側石、踏石から構成される石造遺構である。 m∼ 0.9m を測る3段の石積みが残存し、その南北両 側では約 0.8 mの石材を用いた側石の一部が残存し、 南北の側石の間には扁平な石材を3∼6石並べた踏石 を2段分検出した。 調査の概要 〔C トレンチ〕B トレンチ斜面部で検出した階段状 調査地は東側に蓮華谷川、西側に大門から敷設され 遺構の連続状況や、削平されていないと見られる西側 た岩出市道とに挟まれた丘陵である。北側には大規模 斜面部の遺構の残存状況を確認することを目的に新設 農道が隣接し、この大規模農道に伴う発掘調査では3 したトレンチである。 段の子院敷地を確認している。 丘陵部西側縁辺部にあたる箇所で石列(石列1)を検 調査対象地全体の埋蔵文化財の残存状況を確認する 出した。石列1は B トレンチ階段状遺構の天端部分 ことを目的として、丘陵頂部中央から北東にL字形の の石積みと同一の方向性であることから、同一遺構の トレンチ (A トレンチ)と南西側に逆L字形にトレンチ 基底部である可能性が高いものと思われる。また、石 (B トレンチ)を配置した。確認調査の進展に伴い、B 列 1 の東側に当たる丘陵頂部では遺構の痕跡は確認さ トレンチ東西方向の西側斜面部で遺構が検出された。 れず A・B トレンチ同様に削平されているものと考え そのため、西側斜面部の移行の残存状況を確認するこ られる。 とを目的として B トレンチの北側に併行する方向性 石列1西側は傾斜の急な岩盤露出斜面となり、斜面 で新たなトレンチ (C トレンチ)を設定した。結果、調 直下では焼土に被覆された石列(石列2)を検出した。 査対象地 4,050㎡に対し、確認調査面積 (調査区底面 この石列2の西側で平面規模、東西長約8m、南北長 積)407㎡の調査を実施した。 約2m以上を測る半地下式倉庫を検出した。 調査の成果 まとめ 〔A トレンチ〕現地表面から表土・盛土・地山 (岩盤 調査対象地の丘陵頂部はAトレンチ、Bトレンチ、 層)の堆積を確認し、子院を構成する遺構は一切確認 及びCトレンチ東端部では遺構は皆無であったほか、 できず、削平されていると考えられる。 地山(岩盤上)では機械掘削等による削平痕が認められ 〔B トレンチ〕 丘陵頂部は A トレンチ同様に表土・盛 た。ただし、盛土内からは石材や石造遺物(墓石)が出 土・地山 (岩盤層) の堆積を確認し子院を構成する遺構 土することから頂部にも子院が存在していたと推測さ れる。一方、丘陵頂部西側縁辺部から西側斜面部では、 Bトレンチ、Cトレンチで階段状遺構、石積み、石列 及び半地下式倉庫などが検出された。 これらの遺構はかつて丘陵頂部に存在していた子院 に伴うものと考えられ、頂部が削平される際に標高の 低い縁辺部のみが残存したと考えられる。 なお、本確認調査で検出した遺構の帰属時期は、 遺物包含層等から出土した中国製磁器や焼締陶器か ら 16 世紀前半までの所産であることから天正の兵火 (1585)以前に求められる。 (佐伯和也) B トレンチ斜面 階段状遺構(西から) 埋蔵文化財の発掘調査・出土遺物整理 ◎ 5 埋蔵文化財の発掘調査 丘陵部頂部縁辺部に位置する天端部分には高さ約 0.8 遺 跡 の 時 代:室町時代 所 在 地:岩出市根来 調 査 の 原 因 :旧県会議事堂の移転 調 査 期 間:2010.07 ∼ 2010.10 調 査 コ ード :10-05・16 北山廃寺・北山三嶋遺跡の発掘調査 調査の成果 7-2 区 調査区の北及び南東に向かって地山が傾斜し ている範囲には整地が行われている。整地が行われて いない調査区中央部では、削平により全く遺構は遺存 遺 跡 の 時 代 :弥生時代、古代、中世 所 在 地:紀の川市貴志川町北山 調 査 の 原 因 :中山間総合整備事業 (北山地区) 調 査 期 間:2010.07 ∼ 2011.01 調 査 コ ード :10-10・27・49 しておらず、僅かに水田耕作に伴う鋤溝を数条検出し たのみである。南東部の整地層下で古代と中世の柱穴・ 土坑・井戸・溝を検出した。 8-6 区 はじめに 本調査は、和歌山県 (那賀振興局地域振興部農地課) 4310 窯 調査区中央部南端で検出した瓦窯である。 半地下式の登窯で、全長 5.54 m、床面の最大幅は 1.34 の計画した中山間総合整備事業(北山地区)に起因す mである。煙道部は赤変し堅く焼け締まった長さ 0.7 る。平成 20・21 年度の2箇年は、中山間総合整備事業 mの範囲を確認したのみである。焼成部はほぼ平行に (北山地区) に伴う北山廃寺・北山三嶋遺跡発掘調査等 掘削され、長さは約 3.00 m、幅は 1.30 m前後である。 業務として、 今年度は、 中山間総合整備事業 (北山地区) 側壁は床面から約 0.7 mが遺存していた。床面の傾斜 に伴う工事監理として、整備事業の工事で施工される 角は 19°前後で段は設けられていない。複数回操業し 掘削作業の監理を行うことで遺跡の記録保存を実施し たと考えられるが、確認できたのは1面のみである。 た。今年度の調査 (記録保存) 対象地は3箇所で、調査 燃焼部は長さ約 1.40 mで、幅は 1.20 m、高さ約 1.00 面積は 3,394㎡である。 mが遺存している。焚口は幅 0.60 mで、左右側壁に 調査位置図 S=1:25,000 7-2 区(東から) 調査区 6 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 8-6 区(上空南から) 粘土を使用して平瓦を貼り付けている。 出土した瓦は、 桶巻き造りで凸面のタタキをスリ消す北山廃寺では最 も古い段階の技法で造られていることから、創建時の 瓦を焼いた可能性が考えられる。 4308 窯 4310 窯の西で検出した瓦窯である。半地下 式の登窯で、焼成部の一部のみが遺存していた。出土 した瓦は 4310 窯出土の瓦と同様に創建期のものであ る。 10 区 4515 窯 窯は、池西側の水田東端部に築かれた半地 10 区(上空東から) 下式の平窯で、煙道も含めた全長は約 4.9 mである。 天井部の多くは破壊されているが、煙道部・焼成部・ 隔壁・燃焼部・焚口が極めて良好な状態で遺存してい た。焼成部は、奥行き約 1.5 m、幅 2.0 m、最大残存 高は 1.2 mである。側壁は厚さ 0.2 m前後の粘土と半 裁した平瓦を使用して構築している。分焔牀(ロスト ル・桟道)は5条設けられている。スサ入り粘土と瓦 を積上げて作られ、幅は約 0.2 m、火床からの高さは 0.25 mである。隔壁は、厚さ約 0.3 mで、構築方法は 側壁等と同じくスサ入り粘土と平瓦を使用し、表面を 4515 窯 焼成部(南西から) 粘土で塗り固めている。 分焔孔は4孔設けられている。 燃焼部の平面形は逆梯形を呈し、奥行きは約 2.0 m、 幅は隔壁付近で約 1.7 mである。床面から黒色土器の 椀が1点出土している。焚口は幅 0.5 mで、両側壁に 石 (結晶片岩) を立てて置き、その間を塞ぐかのように 平瓦を積上げている。窯壁の構築に使用されている瓦 から奈良時代中期以降に構築されたと考えられこと、 燃焼部から出土した完形の黒色土器の年代などから、 当該窯が長期に亘って操業されていた可能性が考えら れる。 (井石好裕) 4515 窯 焼成部奥壁(南東から) 4515 窯 燃焼部断面(北西から) 4515 窯 焼成部側壁(北西から) 埋蔵文化財の発掘調査・出土遺物整理 ◎ 7 神前遺跡の発掘調査 流れており、一部分岐する溝を確認していることか ら、これらの溝は水路の可能性が高い。調査地東側で 行われた市3次調査A区においても、弥生時代前期末 から中期初頭の水田と畦畔を確認しており、調査地東 遺 跡 の 時 代 :弥生時代∼江戸時代 所 在 地:和歌山市神前 調 査 の 原 因:和歌山橋本道路改良事業 調 査 期 間:2010.06 ∼ 2010.10 調 査 コ ード :10-01・307 から南東にかけては水田が広がっていたものと考えら れる。また、今回の調査では、遺物・遺構の数は減少 するが、弥生時代中期中葉の溝や土坑等も確認するこ とができた。その後、弥生時代中期後葉、弥生時代後 期の遺構・遺物は皆無となり、集落は断絶を迎えると 調査の概要 考えられる。 神前遺跡は、和歌山平野の南東、標高約102m の福飯ヶ 再び、神前遺跡で遺構・遺物が検出されるのは庄内 峯を最高峰とする井辺前山丘陵の西麓に位置する。伊 式期であり、溝、井戸、土坑、ピット等が存在する。 太祈曽盆地から西流する和田川の北岸、標高約1 ∼2 弥生時代中期後葉から弥生時代後期まで集落の断絶期 mの微高地上に立地しており、遺跡の範囲は南北約 間が見られ、再び庄内式期に集落が形成されることは、 500 m、東西約700 mである。今回の調査は和歌山橋本 他の和歌山平野の集落と同じ動向を示す。 線道路改良事業に伴い4,644㎡の発掘調査を行った。 古墳時代 古墳時代前期には弥生時代終末期から継 続して、竪穴建物・井戸・土坑・ピットが築かれる。竪 調査の成果 弥生時代 調査区5区・6区を中心に、南北方向へ 穴建物は、近世の撹乱により削平を受けるが、南北4 m、東西 3.8 mを測り、隅丸方形の平面形を呈する。 流れる溝を 14 本以上検出している。そのほとんどは 建物床面の中央には、主柱穴を2本もち、方形2本柱 弥生時代前期末葉∼中期前葉のもので、県 1 次調査で の構造を持つ。その他、直径 1.5 mの掘形を持つ素掘 検出した溝の延長部分に当たる。溝のさらに下層には りの井戸が検出されており、小型丸底壺等が出土して 幅 15 m程の自然流路を確認しており、弥生時代前期 いる。 中葉∼前期末葉の遺物が多量に出土している。 古墳時代中期以降には再び溝が掘削されるようにな 今回検出した溝は、確認できたもので、総延長 150 り、小規模な溝が調査区5区の東側に認められる。こ m以上を測り、いずれも調査区の北から南へ東側に弧 のうち古墳時代の溝 5140 からは、5世紀後半の土師 を描き流れていたと考えられる。溝の詳細な時期の決 器・須恵器とともに青銅製の鈴が出土している。鈴の 定は出土遺物の整理を待たねばならないが、短い期間 出土は、主に古墳や横穴で多く見られることから、周 の中で頻繁に場所を変え溝が掘削されたものとみられ 辺に埋没古墳、または鈴をもちえた有力者の館が存在 る。周辺には、土坑、ピット群が確認されており、い する可能性がある。 ずれも溝と同時期のものである。複数の溝が並行して 調査位置図 S=1:25,000 8 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 平安時代 3区では、平安時代前期の井戸、溝を検 3 区全景(北から) 出することができた。井戸は横板を組んだ方形の井戸 で、県内での検出例は少ない。おそらく調査地西側に は、 井戸に関連する居住域が広がるものと考えられる。 なお、周辺一帯は良好な条里型地割が残存する河南条 里に含まれるが、条里に伴う遺構等は検出されなかっ た。 鎌倉時代・室町時代・江戸時代 調査区3区・4区を 中心に室町時代から江戸時代の遺構を検出した。 また、 5区では土地境界の溝や、掘割と考えられる大溝、6 区では鎌倉時代の掘立柱建物などを検出している。3 区西側では、江戸時代以降に造成されたとみられる段 と、石垣を検出している。段・石垣に沿って区画溝も 掘られており、調査地西側には、屋敷地の中心部分が 展開しているものと考えられる。その他、室町時代の 溝や、大甕埋設土坑、江戸時代の地割溝や、石組井戸、 溜桝、大型土坑、埋桶などを検出し、石垣に囲まれた 屋敷地周辺の状況を明らかにすることができた。出土 遺物の中には、焼塩壺や土人形、唐津大皿などが出土 しており、和歌山城下と同じ様相がみられ、遺物から 見ても屋敷の規模をうかがい知ることができる。さら に、市 1 次調査では、中世 (鎌倉時代)の石組井戸や溝 を検出しており、周辺には、中世から継続した、屋敷 地が存在した可能性が高い。 屋敷地の規模から推測すると、この人物は雑賀五組 のうち、社家郷に属する神前氏に関係する者と考えら れる。神前氏に関わる文献資料をみると、湯河直春起 請文 (室町時代) の雑賀五組に関する記述の中には、 「神 前中務丞」 という人物があり、別の文献では、 「神前中 務丞」は、織田信長の雑賀攻めにおいて織田方に便宜 を図っていることが示されており、中世末期の有力者 とみられる。 一方、調査地北西に存在する丘陵は 「中務の築山(塚 山) 」と呼ばれている。調査地西に存在した屋敷地跡 は、明治期以降に別の人物の所有となったが、それ以 前は中務氏の所有であったことが聞き取りにより判明 した。この中務氏は、江戸時代に神前氏から中務氏へ 苗字を変更しているが、家系図には室町時代から続く 家系であったことが記されているという。直接この人 物と関わるかは分からないが、 今回検出した屋敷地は、 神前郷の有力者である神前中務丞の末裔と関連する可 能性が高い。 (田中元浩・津村かおり) 神前遺跡 調査区全体図 S=1:1,000 埋蔵文化財の発掘調査・出土遺物整理 ◎ 9 井辺遺跡の発掘調査 の埋没時期は、古墳時代前期であり、当該時期には周 辺は低湿地として陸地化したものとみられる。 谷状地形の北側肩部の状況については、試掘・確認 調査で、今回の調査区よりさらに北側で谷状地形の肩 遺 跡 の 時 代 :弥生時代∼古墳時代 所 在 地:和歌山市神前 調 査 の 原 因:都市計画道路松島本渡線道路改良事業 調 査 期 間:2010.10 ∼ 2011.03 調 査 コ ード :10-01・308 部と考えられる落ち込みを確認している。また、市2 次調査においても谷状地形を検出しており、これらを 一連のものと考えるならば、井辺遺跡南西部にかけて 大規模な谷状地形が存在すると考えられる。 調査の概要 井辺遺跡は、 紀ノ川下流域南岸の平野東部に位置し、 井辺遺跡の集落動向を考えると、弥生時代後期後半 以降に遺構・遺物が確認され、庄内式期、古墳時代前 福飯ヶ峰の北西麓に立地する弥生時代・古墳時代の集 期へと集落が継続する。弥生時代中期の集落について 落遺跡である。今回の調査は、都市計画道路松島本渡 は、わずかな出土遺物からその存在が予想されるが、 線 (神前南)道路改良事業に伴い、約 650㎡の発掘調査 現在のところ遺構は検出されていない。弥生時代後期 を行った。 後半、井辺遺跡の出現と同時に谷状地形が埋没し、周 辺が陸地化することから、遺跡の出現背景には何らか 調査の成果 の地形環境の変化が存在するものと考えられる。 今回の調査では、弥生時代後期後半から古墳時代前 (田中元浩) 期のピット・土坑・南北方向の溝、 谷状地形を検出した。 溝は、数条の溝が谷状地形に向かって流れており、水 路または排水溝とみられる。 谷状地形は、グライ化した灰色シルトや黒褐色の有 機質層が厚く堆積し、 埋土中に自然木等を含んでおり、 流水・滞水を繰り返し次第に埋没していく状況がうか がえる。また、谷状地形の下層では流水堆積を示す河 砂を検出しており、本来は大規模な自然流路であった とみられる。この河砂の上部からは、弥生時代後期後 半から庄内式期の土器片が多量に出土しており、この 自然流路の時期を示す。谷状地形の埋土中層から上層 へは、庄内式期、古墳時代前期の遺物が含まれており、 弥生時代後期後半から古墳時代前期にかけて、この谷 状地形の埋没していくことがわかる。谷状地形の最終 調査位置図 S=1:25,000 10 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 井辺遺跡調査区全体図 S=1:600 福田下遺跡の発掘調査 遺 跡 の 時 代:奈良・鎌倉時代∼江戸時代 所 在 地:海草郡紀美野町福田 調 査 の 原 因:町道福田松瀬線道路改良工事 調 査 期 間:2010.10 ∼ 2010.12 調 査 コ ード :10-05・08 はじめに 039 落ち込み 土器出土状況(西から) 福田下遺跡は海草郡紀美野町福田に所在する。紀ノ 川支流の貴志川とその支流の真国川の合流地点の東側 に周囲を森林に囲まれた山間地域に位置する遺跡であ 出土遺物は、瓦器や土師器の破片が出土しており、 2条の溝は共に鎌倉時代と考えられる。 る。調査地周辺では、昭和 55・56 年に道路整備を行 039 落ち込みは、調査区北端で検出し、深さは約 0.6 う際に、遺跡範囲や周辺の遺跡等の確認調査とあわせ mである。調査地北東に位置する山間の谷により形成 て、発掘調査が行われている。 された沼状のものと考えられる。埋土は褐灰色のシル 今回の発掘調査は、町道福田松瀬線道路改良工事に ト質土で、下層からほぼ完形の須恵器の杯・蓋杯が出 伴い道路用地 555㎡を実施した。昭和 55 年に実施さ 土している。また、一部で石が集積し、そこから短頸 れた調査の隣接地にあたる。 壷が出土しており、奈良時代に埋没したと推測される。 そのほかに、複数のピットが検出されている。建物跡 調査の成果 調査地は、1区・2区・3区に分けて実施した。1区 と断定することは出来なかったが、周辺に何らかの建 物が存在した可能性が考えられる。 は現代の盛土が厚く堆積しており、明確な遺構は検出 されなかった。 2区では削平が著しいものの遺構の深度が深かった 土坑や溝と推定される遺構を検出した。 3区は、耕作地として削平されているものの、1区・ 2区に比べ遺構の残存状況は良好で、南北方向の溝を まとめ 福田下遺跡は、縄文時代の遺跡とされたものの、昭 和 55・56 年に実施された調査同様、縄文時代の遺構 や遺物は確認されなかった。 また鎌倉時代の平行した 2 条の溝は、現在の耕作地 2条、土坑、ピット、落ち込み遺構などを検出した。 とほぼ同方向に掘削されている。このことから、現代 2条の溝は平行して検出され、 幅約 1 m・深さ約 0.3 m・ の地割りの基礎が中世段階で形成されたことが明らか 断面形はU字型とほぼ同じである。 になった。 調査位置図 S=1:10,000 3 区全景(北から) (津村かおり) 埋蔵文化財の発掘調査・出土遺物整理 ◎ 11 岩野河遺跡の発掘調査 調査の成果 調査区1においては、上層の遺構面で中世に帰属す ると思われる土坑などの遺構をいくつか検出した。ま たその下層、第5層としている地山面において縄文時 遺 跡 の 時 代:縄文時代∼江戸時代 所 在 地:有田郡有田川町岩野河地内 調 査 の 原 因:国道 480 号線道路改良 調 査 期 間:2010.10 ∼ 2010.12 調 査 コ ード :10-22・18 代後期に帰属すると思われる遺構・遺物を確認するこ とができた。 調査区2については、全体に遺構密度も低く、上層 において江戸時代の水田区画をなす高さ 40cm ほどの 石垣および水溜めに用いられたと思われる石積みの溜 枡状遺構を確認したが、下層面においては試掘調査で 確認された溝状の遺構を除けば確実に縄文時代に帰属 する遺構・遺物は確認することができなかった。 はじめに 岩野河遺跡は有田郡有田川町岩野河に所在する縄文 まとめ 時代の遺跡である。遺跡は有田川右岸の標高 100 m前 今回の調査成果のみを捉えて当遺跡の範囲云々に言 後の河岸段丘上に位置する。古くから遺物の散布地と 及することはできないであろうが、調査区2は谷筋に して知られていたが、昭和 28 年(1953)7 月 18 日の 当る位置にある。これと比べて調査区1は、山際から 紀南地方を襲った大水害で遺跡の表土が流失し、多数 有田川の段丘に接する位置にあり、両者の比高差を見 の土器片が発見された。採取された遺物は縄文時代中 てみても、わずか 1.5 mほどではあるが南に位置する 期の土器片で、東日本に分布の中心をもつ橋状把手の 調査区1の方が高くなっている。 ある土器も出土していることが知られている。 こうしたことから、縄文時代の遺跡の範囲としては、 今回の調査地は、前述した有田川右岸の河岸段丘上 調査区1から有田川までの南東方向に展開していた可 であるとともに、その支流である谷口川下流の右岸に 能性が考えられよう。このことは上流部に所在する粟 あたり、周辺には丘陵が迫る位置に所在している。遺 生遺跡の立地をみても首肯できるものと思われる。 跡の範囲は南北 250 m、東西 100 mほどを測る。 いずれにせよ今回の調査においてこれまで散布地と 周辺の遺跡としては、上流 500 mほどに所在する粟 してのみ知られ、実態の不明であった岩野河遺跡の一 生遺跡が知られている。なお、今回の調査地は国道を 端が明らかにされたことの意義は大きく、今後の有田 挟んで二箇所にわかれており、南側を調査区1、北側 川上流域の縄文時代を考える上で貴重な資料を得たも を調査区2としている。 のと言えよう。 調査地遠景 (北から) 調査区1下層全景(北西から) 12 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 (村田 弘) 蛭田坪遺跡の発掘調査 確認しえた範囲では流れを示すラミナ状の堆積は見ら れず、遺構の性格は、溝・流路などではないと考えら れる。 遺物は上層から古代の須恵器・土師器、結晶片岩が、 遺 跡 の 時 代 :弥生∼室町時代 所 在 地:御坊市湯川町小松原 調 査 の 原 因 :県道江川小松原線道路改良事業 調 査 期 間:2010.07 ∼ 2010.09 調 査 コ ード :10-24・027 下層から古代の須恵器・土師器、弥生土器のほか木錘 などの木製品が出土している。 遺構2 調査区の中央付近で検出した溝状遺構で、 調査区内で約2mを検出している。幅 40㎝、深さ 10 ㎝で、東西方向に走り、遺構1の肩部が延びる方向と はじめに 蛭田坪遺跡は、 日高川が形成した沖積平野に位置し、 同じである。遺物は土師器あるいは弥生土器の細片が 出土している。 昭和の後半代にJR御坊駅近くにある病院前で、用水 遺構5・7・8 調査区の西端付近で検出したピット 路建設工事中に土師器などが採集されことにより周知 で、直径 40 ∼ 60㎝、深さ約 35㎝を測る。3基のピッ された。 これまで、 小規模な発掘調査が十数次にわたっ トとも柱の痕跡は確認できなかったが、約2mの間隔 て実施され、弥生時代から室町時代にかけての各時代 で、ほぼ一直線に並ぶ状況から掘立柱建物を構成する の遺構・遺物がみつかっている。 柱穴であった可能性がある。どのピットからも遺物が 調査区は歩道部分の幅 1.5m、 長さ約 43mの区間で、 出土しないことから時期は不明である。 住宅への進入路を確保するため3分割 (調査区1∼3) にして発掘調査を実施した。 まとめ 蛭田坪遺跡は、東に接する小松原Ⅱ遺跡と一連の遺 調査の成果 跡であると考えられ、二つの遺跡は、大まかにJR御 調査区の東で谷状の落ち込み (遺構1) を、それより 坊駅前通りを境に東西に分けられている。既往の調査 西側では、溝やピット(遺構5∼8)などを検出した。 から御坊駅周辺には弥生時代中期と古墳時代の集落が すべての遺構は第2層上面で検出している。 展開していることや古代の遺構も広範囲に広がってい 遺構1 調査区内で北方向に下る肩部を検出してい ることが予想できる。また、隣接して室町幕府の奉公 る。長さは 13.0 m以上、深さ 1.0 m以上で、県文化遺 衆である湯川氏の小松原館が存在するなど、各期にお 産課がおこなった立会調査の結果からも更に北・東方 いて当地方の中心的な地域であったことが想定でき 向に拡がっていると考えられる。堆積土はシルト層か る。今回の調査では検出された遺構、出土した遺物も らなる上層と有機物を多く含む下層とに分けることが 少なく、調査区周辺は集落の縁辺部に相当すると考え できる。安全面を考慮して底まで掘り下げていないが、 ることができる。 調査位置図 (川崎雅史) 調査区1(東から) 埋蔵文化財の発掘調査・出土遺物整理 ◎ 13 八丁田圃遺跡・目座遺跡の発掘調査 面では、この遺構面が緩やかな波状のラインを描きな がら東西に延びていることが把握でき、これらは南北 方向に浅く緩やかな流れが幾つもあったことを示すも のと思われる。 遺 跡 の 時 代 :弥生時代・古代∼鎌倉時代 所 在 地:田辺市秋津町東八丁・目座 調 査 の 原 因 :近畿自動車道紀勢線の建設 調 査 期 間:2010.7 ∼ 2010.12 調 査 コ ード :10-35・64 以上のことから、この浅い谷状地形の範囲において は、調査区 1 で検出した流路またはこの付近を流れる 河川の増水により浸水する状況にあったことが推定さ れる。 № 254(写真)は土器の埋設遺構である。土層の状 調査の概要 況から、土器の下半部分はしっかりと掘り込み内に据 八丁田圃遺跡と目座遺跡が所在する田辺市秋津町一 え置かれていることがわかるものの、その上半部は確 帯は、古代に整備されたと思われる条里の痕跡が現在 認できなかった。また遺構面上に現れていた土器胴部 でもよく残るところであり、今回の調査においても現 の断面は水平に激しく摩滅している状態であり、当初 在の水田耕作土の下に、古代から鎌倉時代にかけての から上半部は地表面上に出ていた可能性が高い。 遺物包含層を確認することができた。さらにその遺物 今回の調査では集落の確認には至らなかったもの 包含層の下には水成堆積層を挟んで弥生時代前期と考 の、当時の人々が水の流れのそばに残した、その生活 えられる遺構面があり、土坑等の遺構を検出した。ま の一端を窺うことの出来る資料を得た。 たこの遺構面直上より多数の弥生土器片のほか、石斧 (寺西朗平) ( № 240)、石鏃等の石器が出土している。 調査の成果 弥生時代前期と考えられる遺構面では、調査区 1 で 流路、調査区 2,3 で土坑等の遺構を検出した。 調査範囲を全体的に見てみると、東西約 250m にわ たる、比高差 1m 未満の浅い谷状地形を呈する遺構面 を検出したことになる。その上に堆積するシルトは炭 化物を多量に含むもので、これは遺構面上に複数箇所 検出した炭化物の集中部分 (直径 0.5 ∼ 2.0m 程度)に 由来するものと考えられる。また調査区壁面の土層断 石器(遺物№ 240) 遺跡位置図 S=1:2,5000 14 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 埋設土器(遺構№ 254) 塗屋城跡の発掘調査 かった。堀切の平面図及び断面図を作成した他、調査 地全体の地形測量を実施した。 堀切は調査地の南東部に位置する。曲輪のある丘陵 から調査地南西の丘陵地に延びる尾根に直行する北西 遺 跡 の 時 代:中世 所 在 地 :西牟婁郡上富田町朝来 調 査 の 原 因 :近畿自動車道紀勢線の建設 調 査 期 間:2011.01 ∼ 2011.03 調 査 コ ード :10-39・035 ∼南東方向に掘削されている。幅は、上端部で 4.8 ∼ 5.2 m、下部で 1.6 ∼ 2.8 m、深さは最大 2.4 mである。 底面は南東から北西に向かって下降しており、標高差 は 5.0 m前後ある。底部の形態は現状ではほぼ平坦と なっている。 はじめに 調査範囲北側の平坦部では表土層の直下は粘土層と 塗屋城跡は JR 西日本紀勢線朝来駅の南西約 200 m に位置する。天正 13 年に豊臣秀吉軍の紀州攻めの際 なり、植栽痕等があるのみで遺構遺物とも全く存在し ていない。 に豊臣方が築いた最前線の城である。標高 60 m前後 今回の調査で遺物が出土したのは、西側斜面の丘陵 の南北に延びる丘陵地から北東に突出した標高 49 m 裾部からのみである。城に直接関連した時期の遺物は 前後の小丘陵の頂部に構築されている。頂部に曲輪を 出土していない。古墳時代初頭と考えられる土師器と 築き、曲輪に続く尾根線上に堀切を配していることが 近世の磁器が出土している。 (井石好裕) 確認されている。 調査の成果 数箇所トレンチを設定して堆積状況を確認した。表 土層である腐植土の下には浅黄色∼淡黄色のシルト層 が堆積し、その下は岩盤層である。確認できた地点で の厚さは、表土層は 10 ∼ 20㎝、シルト層が 40㎝前 後である。今回の調査で掘削を行なったのは基本的に は表土層のみである。 調査対象地内の表土を掘削排土し、遺構の有無につ いて調査を行なったが、堀切以外の遺構は確認されな 調査地遠景(北から) 塗屋城跡 調査位置図 S=1:50,000 堀切(北西から) 埋蔵文化財の発掘調査・出土遺物整理 ◎ 15 立野遺跡の発掘調査 ることが明らかになったことから、調査範囲を拡張し た。その結果、調査面積は 8,526㎡となった。 検出した遺構 遺 跡 の 時 代 :弥生∼古墳時代 所 在 地 :西牟婁郡すさみ町周参見 調 査 の 原 因 :近畿自動車道紀勢線の建設 調 査 期 間:2010.06 ∼ 2011.03 調 査 コ ード :10-41・02 検出した遺構には、中世と古墳時代前期頃の水田状 の区画、弥生時代・古墳時代と奈良時代の自然流路、 杭列などがある。 遺構302 調査区3の西端で検出したもので、山裾 に沿って南流する弥生時代前期の自然流路である。調 はじめに 査区の南では、流れをやや西方に変えている。幅は約 立野遺跡は、和歌山県南部の周参見湾に注ぐ周参見 15m、深さ1.2∼1.5mで、調査区内で長さ約40mを確 川の下流域に位置する。湾の入口に浮かぶ稲積島は防 認した。層位は大きく3層に分かれ、2層は地山と同 波堤の役目を果たし、天然の良港をつくっている。遺 一のシルトのブロックを含む層で、一気に埋まった層 跡は、海岸から約 2.5㎞遡った低地部に展開する。こ であると考えられる。3層は木屑・葉・木の実・木材等 こは、古い時期の周参見川が穿入蛇行した後に形成さ を含む有機物層で、純粋な前期中段階の層位となる。 れた谷底平野にあたる。 遺物は3層を中心に弥生土器・石器・木製品が多量に出 遺跡の発見は、昭和 51 年、水田の深掘中に須恵器壺・ 凹石などが見つかったことによる。 土している。 遺構313・314 遺構 314 は、調査区3で遺構 302 と重複するように検出した古墳時代の自然流路で、幅 調査の概要 8∼10 m以上、深さ 0.7∼1.0mで、調査区内で長さ約 近畿自動車道紀勢線事業に伴う田辺−すさみ間の建 60 mを確認している。遺物は古墳時代前期から後期 設工事により、県文化遺産課がおこなった試掘確認調 にかけての土師器や須恵器が出土している。また、流 査の結果を受けて、本発掘調査が実施されることに 路がある程度埋まった段階で丸太杭を打ち込んだ堰状 なった。 遺構(遺構 313)が構築されている。 調査区は道路や水路によって画され、排土置場を確 遺構410・510 調査区4− 1・調査区5− 1 に跨る 保する都合もあって、大きく5つに分かれ (調査区1 ように検出した二つの方形区画で、周囲より 10㎝程 ∼5)、更に調査区3∼5は小地区に分かれる。 度落ち込んでおり、水田の区画であると考えられる。 現地調査は8月から実施したが、調査途中に遺物を 両区画は南北に並び、間には幅約 50㎝の高まりが認 多く含む自然流路 (遺構 302)が調査区域外に延びてい められることからも畦畔であると考えられる。規模は 遺跡位置図 調査区 16 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 遺構 410 が南北 23m、東西 18m以上で、遺構 510 が から出土したものであり、これらは一括性が高いと言 南北 14m以上を測る。周辺で検出している杭列など える。 の方向からも、整然と区画された水田が並んでいた可 能性があり、時期は出土遺物などから中世前半頃であ ると考えられる。 まとめ 調査では弥生時代前期から中世にかけての各期の土 遺構404・405・406 調査区4−2 で検出した水田状 器類などが出土し、住居跡などは見つかっていないも 遺構で、わずかな高まりで区切られた3つの区画であ のの、調査区の隣接地で長期にわたって集落が営まれ る。各区画は不整方形で、規模は一辺が7m前後を測 ていたことが明らかになった。 り、区画内には踏込状の窪みが周囲より多く認められ 自然流路 302 からは、木材などとともに県下最古 る。畦畔と考えられる高まりは、幅 50㎝前後を測る。 段階の弥生土器や石器・木製品などが多量に出土した。 これらの時期は出土遺物などから古墳時代前期頃であ 農具や容器などの木製品には未成品が多く、木材加工 ると考えられる。 に使われたと考えられる石器類もあることなどから、 流路付近で木製品の製作をおこなっていたことが窺え 出土した遺物 る。一方、使用痕のある広鍬や泥除の存在から、農耕 遺構などから出土した遺物には、弥生土器・突帯文 をおこなっていたことも明らかである。また、土木用 土器・土師器・須恵器・黒色土器・瓦器・青磁・国産陶磁 の道具と考えられる平鍬が多量に製作され、消費され 器、石器 (石鍬・石棒・磨製石斧・石包丁・スクレイパー・ ていることからも、恵まれた森林資源を求めて入植し 凹石・石錘) 、木製品 (容器・農具・楽器・武器・建築部材 た集団が、水田開発と経営をおこないながら木製品の 等) 、金属製品 (銅環・鉄斧)などがある。 製作をおこなっていたことが窺える。 (川崎雅史) 遺物の大半は弥生時代前期の流路である遺構 302 遺構 410・510 遺構 302 木製品出土状況(広鍬) 遺構 404・405・406 遺構 302 木製品出土状況(容器・杓子) 埋蔵文化財の発掘調査・出土遺物整理 ◎ 17 神野々Ⅰ遺跡の出土遺物整理 遺 跡 の 時 代 :弥生時代∼鎌倉時代 所 在 地:橋本市神野々 調 査 の 原 因 :県道山田岸上線道路改良工事 整 理 期 間:2010.11 ∼ 2011.03 対 象 コ ード:07-12・055、09-12・055 中期弥生土器(大和の甕) 後期弥生土器(土製装飾品) 奈良時代の軒丸瓦 鎌倉時代の下駄 平成 19 年度と平成 21 年度に行った神野々Ⅰ遺跡の 調査では、南側約 200 mに位置する神野々廃寺との関 係を想起させる奈良時代の多くの土器や瓦などの遺物 がある。これらの内、大半の遺物は、調査地の東側に 位置する開析谷へ押し出された堆積層の中から出土し たものである。 遺物整理の結果、弥生時代中期前葉の土器 (母数 121 点) は、地元 (不明含む) ・大和(盆地南西部) ・河内 遺物の内、開析谷への遺物の埋積が神野々Ⅰ遺跡の (生駒山西麓) ・紀伊 (紀の川下流域) の物が混在し、河 西側一帯に広がる応其条里の土地開発の時期と密接に 内産が約半数 (46%)を占めることが明らかとなった。 関係し、鎌倉時代の遺構・遺物の混在状況の有無から、 その他、弥生時代後期後半から庄内式併行期、奈良時 土地開発の一端が奈良時代と鎌倉時代にあることが明 代、鎌倉時代などの総数 9,624 点の遺物がある。 らかとなった。 (土井孝之) 京奈和自動車道(紀北東道路)遺跡の 出土遺物整理 遺 跡 の 時 代:縄文時代∼中近世 所 在 地 :伊都郡かつらぎ町西飯降・中飯降・大谷、 大藪、紀の川市重行 調 査 の 原 因:京奈和自動車道(紀北東道路)建設 整 理 期 間:2010.05 ∼ 2011.03 対 象 コ ード :07-13・02 6 、 0 8 -13・02 6 、 0 8 -13・014 、 0 9 -13・014 、 0 9 -13・03 0 、 0 8 - 0 6・0 4 8 、 09-06・048 京奈和自動車道 (紀北東道路) の改築に伴う発掘調査 土器の整理作業風景 が、平成 18 年度第1次から平成 21 年度第7次にかけ 調査面積は合計 37,005㎡、遺物の総量は土器・石器 て行われ、そのうち第1次西飯降Ⅱ遺跡と第2次丁ノ が 28ℓコンテナ 660箱、木器 26点である。遺物の内 町・妙寺遺跡については、平成 20・21 年度に出土遺物 容は、縄文土器・弥生土器・土師器・須恵器・瓦器・陶磁 等整理業務が実施され、 発掘調査報告書が刊行された。 器・石鏃などの石製品・土錘などの土製品、井戸側板な 当業務は、平成 19 年度に実施した西飯降Ⅱ遺跡と、 どの木製品である。 平成 20 年度に実施した西飯降Ⅱ遺跡、中飯降遺跡、 今年度は2箇年の整理作業の初年で、出土遺物の水 大谷遺跡、重行遺跡、平成 21 年度に実施した重行遺跡、 洗・注記・登録・接合・復元・実測・トレース作業等、及び 中飯降遺跡、加陀寺前経塚の発掘調査業務で出土した 遺構埋土洗浄を実施した。 遺物及び現地調査記録等の整理作業である。 18 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 (冨永里菜) 粉河寺遺跡の出土遺物整理 遺 跡 の 時 代 :平安時代∼江戸時代 所 在 地:紀の川市粉河 調 査 の 原 因 :長屋川通常砂防工事 整 理 期 間:2010.06 ∼ 2011.02 対 象 コ ード:09-07・022 平成 21 年と平成 22 年に行った粉河寺遺跡の調査で は、 平安時代から江戸時代にかけて断続的に続く遺構・ 堆積層に伴い多数の遺物が出土した。遺物の中には、 平安時代後期の遺物群 平安時代後期の纏まりのある遺物群も発見され、粉河 台1点を始め、平安時代の土師器・瓦、室町∼江戸時 寺の坊院建立の画期を探る上で重要な遺物群であるこ 代の遺物に混じって、溶解炉の破片1点・粗型の破片 とが明らかとなってきた。 数点が出土している。 出土遺物の大半は、主に各地区の屋敷地側整地土や 遺物内容から今回の調査地では、11 世紀代・12 世紀 河川自然堆積層から出土した鎌倉・室町時代の土器類、 前半・13 世紀後半・14 世紀後半∼15世紀前半・15 世紀 鎌倉時代から江戸時代にかけての様々な瓦類で占めら 後半∼16 世紀前半・18 世紀中葉∼後半・19 世紀を画期 れる。 出土遺物には、 土師器・瓦器・東播系須恵器・陶器・ と位置付けることが可能となった。今後は、発掘成果 磁器、瓦、石造物、石製品、金属製品、木質遺物、自 で得られた画期の段階と文献史料の内容との対比が必 然遺物などがある。その他、古墳時代後期の須恵器器 要不可欠である。 (土井孝之) 北山廃寺、 北山三嶋遺跡の出土遺物整理 遺 跡 の 時 代:弥生時代∼室町時代 所 在 地:紀の川市貴志川町北山 調 査 の 原 因 :中山間総合整備事業(北山地区) 整 理 期 間:2010.06 ∼ 2011.03 対 象 コ ード:08-10・27・49、09-10・27・49、10-10・27・49 平成 20 年度から 22 年度に実施された北山廃寺、北 山三嶋遺跡の発掘調査では、古代と中世の瓦窯や粘土 採掘穴などが確認されるなど、大きな成果をあげるこ とができた。遺物も、遺物収納コンテナ 1,000 箱以上 と多量に出土した。 今年度の整理業務は、これらの発掘調査で出土した 北山廃寺出土軒丸瓦(古代) 出土遺物は、古代瓦が大半を占める。それ以外では、 遺物を対象としたものである。今年度は、 遺物の洗浄、 7世紀から8世紀代の須恵器、13世紀代の瓦器が目 登録、 注記、 接合、遺物実測、 遺構・遺物のトレースなど、 立つ。15 世紀以降の遺物は、僅少である。 報告書刊行に向けた基礎的な作業を中心に業務を実施 した。 このことは、遺跡内での土地利用の変遷過程を示唆 しているとみられる。 (岩井顕彦) 埋蔵文化財の発掘調査・出土遺物整理 ◎ 19 秋月遺跡の出土遺物整理 古代末から中世末の遺構は大溝・土坑・井戸等があ り、土器と瓦が出土した。これらの瓦は文献で存在が 知られている貞福寺の瓦と考えられ、今回の調査で軒 丸瓦 18 型式・軒平瓦 19 型式が確認された。 遺 跡 の 時 代:古墳∼室町時代 所 在 地:和歌山市太田 調 査 の 原 因:向陽中・高校の体育館建設 整 理 期 間:2010.06 ∼ 2011.02 対 象 コ ード:09-01・331 整理作業では、古墳周溝から出土した土器群の接合・ 復元や、瓦の拓本・実測作業を中心に作業を行った。 また、玉類については、原材産地同定作業を遺物材料 研究所へ委託した。 平成 21 年度に発掘調査した秋月遺跡 (県第9次調 査)の出土遺物を対象として、整理作業を行い報告書 これらの出土遺物は 207 箱にまとめ、和歌山県教育 委員会へ移管した。 (丹野 拓) を刊行した。 整理対象は古墳時代・古代・中世の3つに区分でき る。古墳は4基確認し、秋月9∼ 12 号墳として報告 した。墳丘や主体部は削平を受けているが、周溝から は古墳時代前期後半と中期後半の土師器のほか、大量 の後期の須恵器・土師器が出土した。このほか、土壙 墓等から滑石製勾玉などの玉類、包含層から埴輪片が 出土している。 古代の遺構は掘立柱建物跡3棟と溝があり、土管・ 畿内系暗紋土師器等が出土している。 坂田遺跡の出土遺物整理 整理作業風景 整理内容は土器の注記、接合・補強、復元、遺物実測、 遺物写真撮影等を行った。洗浄作業は発掘調査時に応 急整理として殆んど終えていたため2箱分を行った。 台帳類はコンテナ台帳、遺物登録台帳、遺構登録台 遺 跡 の 時 代:古墳時代・鎌倉時代・室町時代 所 在 地:和歌山市坂田 調 査 の 原 因 :県道三田三葛線道路改良工事 整 理 期 間:2010.11 ∼ 2011.03 対 象 コ ード :10-01・435 帳、遺物実測図台帳、写真台帳などの作成を行った。 写真整理の状況は、発掘調査で撮影した写真につい ては使用フィルム毎(4×5M・4×5R・6×7M・6 ×7R・35㎜)に1カット毎に通し番号を付して地区・ 整理の概要 坂田遺跡の発掘調査は平成 21 年 11 月半ばから平成 22 年3月半ばまで実施した。出土した遺物は弥生時 遺構名・方向などを記入してアルバムに収納している。 整理作業で遺物撮影に使用したフィルム(6×7M・ 6×7R)も実測番号順にアルバムに収納している。 代の壷・甕、古墳時代の土師器壷・甕・高坏、須恵器杯・ 遺物の最終収納状態は、報告書掲載遺物がコンテナ 壷・甕・高坏・ハソウ・提瓶、土錘、古代 (奈良時代・平安 9箱分あり、コンテナに番号・報告書掲載番号・報告書 時代) の須恵器杯・黒色土器・土師器椀、中世の (鎌倉時 図版番号を明記したラベルを貼っている。他の遺物は 代・室町時代) 瓦器椀・土師器皿・東播系捏ね鉢・中国製 調査終了時の中身 (登録番号)を変えずに収納してい 磁器・備前焼擂鉢・甕などがある。他に、 琴柱形石製品、 る。従って、コンテナ番号は報告書掲載遺物1∼9、 勾玉、有功円板などの石製品がある。この調査でコン 掲載外遺物 10∼41となる。 テナ 32 箱の遺物が出土し、これらの遺物を整理対象 とし、報告書を刊行した。 20 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 (佐伯和也) 重要文化財 熊野本宮大社の保存修理 殿は正面の向拝が取れて大破している状況が、見て取 れる。 第一・二殿は、桁行五間、梁問四間、入母屋造、 ひわだ 檜皮葺屋根で、平入で、正面に五間の向拝を設けてい る。平面は、中央の三間分を内陣として囲い、三室に 建 築 年 代:江戸時代後期 所 在 地:田辺市本宮町本宮 修理の種類:屋根葺替・部分修理 修 理 期 間:2010.6 ∼ 2012.9 区切るもので、東西の二室内に檜皮葺屋根の宮殿を造 り付け、御祭神を祀る。 第三殿と第四殿は、構造形式や規模が全く同じ建物 である。桁行三間、梁問正面一問・背面二間、正面切 熊野本宮大社は田辺市本宮町本宮に所在する神社 妻造、背面入母屋造、檜皮葺屋根、妻入で、正面に一 で、熊野三山の一つである。境内の建造物のうち、第 間の向拝が取り付く構造である。後方の二間を内陣と 一殿・第二殿、第三殿、第四殿の三棟が国の重要文化 し、内部に檜皮屋根の宮殿を造り付け、御祭神を祀る。 財に指定されている。熊野本宮大社では、平成 22 年 熊野造ともいわれる入母屋造屋根や腰の浜縁の造り 6 月より平成 24 年 9 月までの予定で、これら重要文 に特徴があり、規模が大きく木柄が太い建物である。 化財建造物の保存修理事業を行うこととなり、当セン 全国の神社建築に影響を与えた熊野三山の社殿形式を ターでは修理技術指導業務 (設計監理) を受託した。平 伝えるものとして、神社建築史上貴重なもので、平成 成 22 年度では第三殿と第四殿の屋根葺き替え工事を 7 年 12 月 26 日に国の重要文化財に指定された。近年 行い、併せて第三殿の縁まわりの修理を実施した。 檜皮葺屋根が経年で摩耗し、葺き替えが必要となり、 今回の修理事業が興されることになった。 建物の概要 熊野本宮大社の境内は、もとは現在地より南の、熊 おおゆのはら 野川に音無川が注ぐ中州状の地、大斎原にあった。今 回修理を行っている三棟の社殿は、明和 7 年 (1770) の火災で焼失した後に再建されたもので、棟札が残さ れている。第一殿・第二殿、第三殿が享和 2 年 (1802) に建立され、第四殿はやや遅れ、文化 7 年(1810)建 立されたものである。しかし明治 22 年(1889)の大洪 水で、大変な被害を受け、明治 24 年に新たな社地と して構えられた現在地に、 大斎原から解体移築された。 当社に残る古写真からは、第三殿は大きく傾き、第四 修理前の第一殿・第二殿外観 ● 熊野本宮大社の位置 出典:「電子国土」URL http://cyberjapan.jp/ 修理前の第三殿外観(後方が第四殿) 文化財建造物の保存修理 ◎ 21 文化財建造物の保存修理 保存修理事業 平成 22 年度の修理 れた前回の屋根修理も、同じ仕様であった。 三棟の社殿の檜皮屋根は、昭和 43 年(1968)に葺き 檜皮葺きと平行し、腐朽した勝男木を新調し、軒先 替えられもので、以来、約 40 年が経過していた。長 や箱棟まわりの飾り金具も金箔押し修理をした。屋根 年の風雨で摩耗や腐朽が進み、箱棟や野地も一部が腐 を葺き終えたところで、箱棟まわりを組み付け、飾り 朽していた。建物の構造体じたいは健全であるが、周 金具を取り付け、屋根工事を完了した。 囲の切目縁や縁下の浜縁まわり、木階などが、経年に 第三殿の屋根工事が完了したのに続き、第四殿の工 より、緩みや腐朽が生じている状態であった。 事に取りかかった。第四殿もおおかた第三殿と同様に 修理は第三殿の屋根工事からとりかかった。9 月中 進んだが、箱棟まわりは第三殿より傷んでおり、勝男 旬より第三殿に素屋根 (仮設足場) を建設し、屋根の檜 木 4 本、千木 3 本を取り替え、千木 1 本と鬼板は矧木 皮を解体した。箱棟や棟飾りも屋根葺き替えのため、 補修することとなった。 部分的にいったん解体した。棟飾りのうち勝男木は、 また第三殿の縁まわり工事も進めた。勾欄と木階、 四本とも包んである銅板内で木部が蒸れて腐ってい 浜床を全ていったん解体し、その他、切目縁の縁板や た。 浜縁は補修が必要な部分を解体した。切目縁は縁束に 第三殿の檜皮屋根をめくりとると、表面は腐朽して 飼い木を入れて不陸を修正した。縁まわり修理は平成 いたが、 中は比較的健全で、 屋根の野地もほとんど腐っ 23 年度までかけて行う。 ていなかった。また軒先に積まれた軒付も良好な状態 であった。檜皮は主に 2 尺 5 寸皮(75cm)に拵えたも 発見事項 のを用い、4 分足 (12mm 間隔)で葺いた。これは文化 修理でいくつか発見があった。下に列記する。 財として標準的な仕様であるが、文化財指定前に葺か ・第三殿、第四殿には小屋組内に野屋根が造られて いた ・第三殿と第四殿は外観が同一だが、小屋組は全く 異なっていた ・大斎原から当地へ移築したさいの番付墨書が各所 にあった ・第三殿の破風板飾り金具に享和元年、二年の各 年代と錺屋「弥市」と彫られていた これらの事項は、第一殿・第二殿の調査と合わせ、 修理工事報告書にまとめて行く予定である。来年度は 残る第一殿・第二殿の屋根葺き替えと、縁まわりの修 屋根修理中の第三殿 第四殿屋根葺完了状況 22 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 理を進めて行く。 (御船達雄) 第三殿破風板飾り金具 国宝長保寺大門ほか 2 棟の保存修理 修理の概要 大門は、三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺の建物で、 嘉慶 2 年(1388)に建立されたものである。各時代に 維持修理が行われ、明治 43 年(1910)に国庫補助事業 建 築 年 代:鎌倉時代後期、南北朝時代 所 在 地:海南市下津町上 修理の種類:半解体修理・屋根葺替修理 修 理 期 間:2011.1 ∼ 2012.12 で解体修理が行われた。しかし 100 年あまりが経過し、 近年屋根瓦の乱れが顕著になり、また屋根荷重で軒が 垂下し、根本的な保存修理が必要となった。 大門の修理は、屋根全面を葺き替え、小屋組内に軒 事業の概要 垂下防止の補強を施す計画である。小屋組はレベル調 長保寺は海南市下津町にある古刹で、紀州徳川家の 整、補強のため、必要箇所を部分的に解体するが、上 墓所として知られる。記録によれば、一条天皇の勅 層組物の垂下は解体せずに、修正と構造補強をする予 願所として長保 2 年 (1000)に造営を始め、寛仁元年 定である。 (1017)に完成したとされる。江戸時代には紀州徳川 多宝塔は一間多宝塔、本瓦葺の建物で、正平 12 年 家の支持を受け、五百石の寺領が与えられ、紀州徳川 (1357)に建立されたものである。昭和 2 年 (1927)か 家の菩提所となった。以来、歴代の藩主が葬られるこ ら昭和 3 年にかけ、国庫補助事業で解体修理された。 ととなった。 近年になり北面下層屋根から雨漏りを来し、茅負が腐 山裾の南を切り開いた上壇に本堂、多宝塔などが建 朽折損して、修理が必要となった。また相輪も腐食し ち、そのさらに上に鎮守堂が建つ。鎮守堂の東には徳 てきている。このため多宝塔の修理は、下層北面屋根 川家墓所が広がっている。本堂の下には御霊屋、 客殿、 瓦の破損部を葺き替え、雨漏りで腐朽した軒廻り木部 庫裏が建ち、南へ延びる参道上には大門が建つ。これ も修理する計画である。また上層亀腹の漆喰塗りと、 ら堂塔のうち、本堂、大門、多宝塔が国宝、鎮守堂が 相輪の修理も行う。 重要文化財に指定されている。 鎮守堂は一間社流造、檜皮葺の小祠である。鎌倉時 近年、大門、多宝塔、鎮守堂の傷みが著しくなって 代後期の建立と考えられている。多宝塔と同じ昭和 2 きたため、長保寺によって保存修理事業が計画され、 年に解体修理され、昭和 54 年(1979)に屋根修理がな 当センターは技術指導業務 (設計監理) を受託した。 された。近年、檜皮葺屋根の経年劣化が目立つように 修理事業は平成 23 年 1 月に着手し、平成 24 年 12 なってきており、屋根を全面葺替修理する。また併せ 月に完了する予定で始まった。国庫補助対象事業で、 て白蟻とムササビ対策も施す予定である。 和歌山県、海南市からも補助が支出される。平成 22 平成 22 年度は事業に着手したところまでであった 年度は 3 か月の期間で、大門修理のための素屋根 (仮 が、いよいよ平成 23 年度は各建物の本格的な修理に 設足場・屋根) と、工事事務所・休憩所を建設した。 取りかかっていく。 (御船達雄) ● 長保寺の位置 出典:「電子国土」URL http://cyberjapan.jp/ 素屋根建設中の大門 文化財建造物の保存修理 ◎ 23 重要文化財 金剛三昧院客殿及び台所 ほか1基の保存修理 玄関及び中門、取り合い廻り 客殿と同様に、建具の建て込みなど造作工事を中心 に施工した。 玄関及び中門では漏水による変色が顕著であった天 建 築 年 代:江戸時代前期 所 在 地:伊都郡高野町高野山 修理の種類:半解体修理・屋根葺替 修 理 期 間:2008.1 ∼ 2013.3 井を清浄して補色を施した。取り合い東面北側壁部分 は中古の改変に起因して部材が破損していたため、補 強策を講じて納まりを改善した。 この他檜皮屋根の葺き替え、箱棟の補修を進めた。 概 要 台 所 本年度は、平成 20 年 1 月から開始した事業の 4 年 客殿に引き続き、軸部の建て起こしに伴って解体し 度目にあたる。これまで客殿及び台所の軸部の調整を ていた床組や柱間装置、縁廻りなどの組立を進めた。 主眼とした木工事を実施するとともに、建物の変遷に また台所部分には水廻りの設備などが集まり、宿坊の 関する調査も進めてきた。昨年度末にはその成果を反 施設の一部としても利用されていることから度重なる 映する形で現状変更許可がおりたため、復原箇所の施 改変を受けており、現状変更による復原を実施した。 工も行った。また、檜皮材の確保に努めてきた屋根工 柱間装置に関しては、当初部分の他、寺務所東西室の 事も現地での施工に着手し、台所屋根を中心に葺き替 床の間構え等、江戸期の改変による部分も破損箇所を えを進めた。この他建具、表具、土壁など造作類の修 修理した上で組み直したが、明治以降に改変された部 理、安全通路の撤去や軒足場建設などを行った。 分は原則として現状変更により復原整備した。修理前 客 殿 に雪見障子が入れられていた寺務所南広縁境は舞良戸 昨年度までに木部の主要部分の修理が完了してお に、ガラス窓に改変されていた炊事場明り取り境は腰 り、本年度は造作部分を中心とした施工を進めるとと 高障子にと、客殿部分の仕様に準じて建具を新調し もに、屋根工事の着手準備を行った。 た。また炊事場は新建材の壁や天井を撤去することに 部材の欠損やズレ、垂下が生じていた天井廻りや長 より、天井が張られず小屋組が露出する開放的な空間 押などを補修し、軸部の建て起こしに伴い畳寄せの納 の中心に大きな土室がそびえるという、高野山におけ まりを調整した。また、次年度に予定している表具工 る台所建物の特徴的な姿に復した。同時に切断・撤去 事に先立ち貼付壁の下地を組み立てた。この他補修し されていた柱や柱間装置を復することで、寺務所背面 た建具の建て込みを進め、障子紙を張り替え、南広縁 に、方1間の小区画が4つ並立していた状況を復原し などを参詣者の経路として利用出来るように整えた。 た。これらの詳細な用途は不明であるが、金剛峯寺大 現状変更に伴う工事としては、引き違い襖の構えを 主殿では、同位置に竈で使用する薪材などを納める小 復原する会奥柱間に鴨居や内法壁下地を組み立てた 部屋が配されており、同様に使用されていたものと推 他、欠失していた明障子を新調した。 察される。 写真1 客殿上段天井支輪の補修状況 写真2 復原した台所寺務所北側の小区画 つちむろ かまど 24 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 え か 台所の東には大正時代に建てられた会下と呼ばれる 台所正面では、東端部に増築されていた小玄関を台 建物が隣接しており、この建物との取り合い部が宿坊 所本体と直接取り合わない位置に移動し、正面の柱間 施設の水場として利用されたことに伴い、軒桁や柱が 装置を一連のものに整備した。また小玄関屋根との取 繰り返し改変されていたていた。また、この建物の2 り合いで欠損・腐朽していた軒廻りを補修した。 階へと続く階段部分により台所東軒の南端部が切断さ 檜皮葺き工事は、東面屋根より着手し、現在銅板な れていたため、階段を移動して軒廻りを復原した。 どで覆われている部分を除いて台所全面の葺き替えが 取り合い部は現在も活用されているが、近代的な設 完了した。箱棟は健全であったが北面の鬼板が腐朽し 備が露出している状況であったため、東縁境に腰高障 ていたため、寺の山から切り出した高野槙を使用し、 子を整備して見え隠れとした。 旧材に倣って新調した。 (多井忠嗣) 写真3 台所東面軒の復旧状況 写真4 新調した台所屋根北側鬼板 湯浅町湯浅伝統的建造物群保存地区の 保存修理 このハード面の事業が継続して実施され、伝統的な 景観がよみがえり住環境の改善がすすむと共に、町や 住民による まちづくり が大きくすすみ、昨年はま ちなみと隣接する近世の熊野古道へ、5 万 6 千人以上 建 築 年 代:江戸時代から昭和前期 所 在 地:有田郡湯浅町湯浅 修理の種類:修理、修景 修 理 期 間:2010.6 ∼ 2011.3 の来訪者が訪れ、町に活気が戻ってきている。 今後も、伝統的技能者の継承・伝統的工法の復活と 伝承・伝統的材料の確保・文化財としての価値を損な わない構造補強の策定と実施・各種データの集約とそ 湯浅の伝建は平成 18 年に国の選定を受け、町は翌 の活用などの対策が必要である。 (山本新平) 年度から国及び県の補助を受け保存修理と修景等の事 業を継続して実施しており、センターはその技術指導 を受託している。この事業は通常の文化財保存修理事 業とは異なり、所有者が行う修理・修景事業に対して 町が間接補助を行う制度である。この制度が有効に進 展するにつれ、事業実施の要望が非常に多くなってき ているという。 本年度は津浦家住宅の座敷 (屋根葺替と部分) 及び土 蔵 (半解体) ・河村家住宅 (屋根葺替と部分) ・中家店舗 及び蔵 (屋根葺替と部分) の修理と濱橋家住宅の修景を 行った。 中家の店舗及び蔵の修理状況 文化財建造物の保存修理 ◎ 25 前期 19 棟、中期 12 棟、後期 54 棟であり、38 棟は 西飯降Ⅱ遺跡の竪穴建物の変遷 時期不明である。 前期の竪穴建物は、平面形は方形もしくは隅丸方形 で、規模は一辺 4m 前後、構造は中央炉1基、主柱4 本である。屋内高床部を設けるものが4例あり、主柱 概要:かつらぎ町西飯降Ⅱ遺跡では、弥生時代から古墳時代 から壁溝に向かって間仕切り状の溝がある。 にかけて多数の竪穴建物跡が発見された。遺跡の各時期の具 中期前半は一旦、遺構が減少する傾向にある。竪穴 体的な様相を明らかにするために、竪穴建物の変遷を確認し 建物が存在する可能性があるが、断定できない。 てみたい。 中期後半の竪穴建物は、前期と同様に中央炉があるも 遺跡の概要 西飯降Ⅱ遺跡は、伊都郡かつらぎ町西飯 のが1例あるほかは、ほとんどが一辺 4m 前後の方形 降に位置し、紀ノ川中上流域北岸の低位段丘上に立地 で、北辺から北西辺にカマドを設ける。 する。平成 19・20 年度の計 13,228㎡の調査区で、特 後期は遺構密度が最も高くなる。後期前半が 20 棟、 に弥生時代から古墳時代、古代にかけての遺構が密集 後半が 18 棟で、ほかに後期の可能性があるものが 25 しており、当該期にこの地域の中心的な集落であった 棟ある。 ことがわかった。 後期前半は、カマドは北辺から北西辺に設置する傾 弥生時代 弥生時代中期中葉から後期にかけての遺構 向がある。また中期に引き続き支脚に砂岩円礫を使用 が調査区全面にわたって展開し、両端にそれぞれ南流 するものが多く、そのほかに土師器高杯1例、土師器 する溝があり、西側の溝は中期中葉∼後葉、東側の溝 小型壷1例がある。それに対し後期後半はカマドを北 は中期後葉∼後期の土器が大量に出土した。 東辺に設置するものが多く、続く飛鳥時代の傾向と近 竪穴建物は 20 棟あり、そのうち中期が 12 棟、後 くなる。支脚には砂岩を使用する例が多いが、後期後 期の可能性があるものが 4 棟、時期不明 4 棟である。 半から飛鳥時代にかけて、支脚に結晶片岩を使用する 竪穴建物は、平面形は円形・隅丸方形・方形があり、 ものが6例あり、構造変化が認められる。 飛鳥時代の可能性がある竪穴建物が 12 棟ある。カ め、時期を細分して構造変化を追うことが難しい。後 マドを北辺もしくは東辺に設置する傾向がある。支脚 期の竪穴建物の分布は調査区東半に偏り、続く古墳時 に片岩を使用し、焚口から燃焼部まで片岩を並べるも 代前期の遺構分布と共通する。 のが1例ある。また飛鳥∼奈良時代の可能性がある掘 古墳時代以降 古墳時代は全期を通じて調査区全面に 立柱建物が 25 棟あり、竪穴建物と合わせて建物配置 遺構が分布する。竪穴建物は 123 棟あり、そのうち を検討する必要がある。 Y-43,600 (冨永里菜) Y-43,700 Y-43,800 規模は径 3.7m ∼ 11.0m である。出土遺物が少ないた -43750 0 西飯降Ⅱ遺跡 遺構平面図 S=1:1,500 26 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 20m X-187,700 1222: 弥生時代 中期 1220: 弥生時代 中期 1001:弥生時代後期 1230: 弥生時代後期 2800:弥生時代中期 6060:弥生時代中期 270:古墳時代 5300:古墳時代前期 6650:古墳時代 後期前半 277:古墳時代 後期後半 1301:弥生後期∼ 古墳前期 5080:古墳時代 後期前半 300:古墳時代 後期 230: 古墳時代 後期 200: 古墳時代 後期前半 255: 古墳時代 後期後半 6600:古墳時代後期 6770:飛鳥時代 5070: 古墳時代 後期 6160:古墳時代 5140:古墳時代 後期後半 5770:飛鳥時代 0 10m 西飯降Ⅱ遺跡 竪穴建物遺構図 S=1:200 関連研究・資料紹介 ◎ 27 関連研究・資料紹介 6700:古墳時代 後期後半 1002:古墳時代前期 西飯降Ⅱ遺跡 竪穴建物一覧表 時期 弥生時代 中期∼後 期 古墳時代 前期 古墳時代 中期後半 古墳後期 前半 遺構番号 平面形 2800 3402 600 90 99 1001 2020 1180a 1220 1222 1230 2400 3111 6100 6680 6690 6850 5170 6060 6280 210a 166 188 80 1000 1002 1003 1400 1410 1560 1570 1300 1301 1180b 1210a 2999 5300 5310 6270 120 140 1580 1610 2222 5200 5270 5280 5320 5420 6310 6330 210b 200 222 330 160 180 3888 3200 6130 6650 6800 6810 6880 5060 5080 5110 5120 5150 5250 5930 円形 円形 円形 円形 円形 円形 円形 円形 円形 円形 円形 円形 円形 方形 円形 円形 円形 円形 円形 円形 東西 南北 主柱 (m) (m) 9.8 9.5 8.0 9.0 9.0 9.5 4.4 5.3 5.1 6.7 6.4 5.0 4.7 6.3 5.9 4.9 4.9 4.8 4.5 7.3 6.5 4.0 4.0 10.3 10.0 7.9 8.5 9.7 9.7 8.2 8.3 3.7 3.5 11.0 11.0 隅丸方形? 5.6 方形 3.9 方形 3.6 3.5 方形? 隅丸方形? 4.7 方形 4.8 4.7 方形 4.5 4.8 方形 4.5 4.4 方形 4.0 4.0 方形 3.3 3.3 方形 4.1 4.0 方形 3.0 3.0 方形 5.0 5.2 方形 方形 方形 3.9 方形 4.5 4.5 方形 4.0 3.8 方形 7.4 7.0 方形 4.7 4.2 方形 4.2 3.7 方形 3.0 2.5 方形 3.8 方形 方形 3.6 4.2 方形 2.4 2.4 方形 4.3 4.3 方形 4.0 4.0 方形 4.2 3.9 方形 5.4 5.5 方形 4.0 4.0 方形 4.6 方形 4.3 4.2 方形 4.3 4.0 方形 4.7 方形 3.8 4.0 方形 4.0 4.2 方形 3.3 方形 5.0 4.1 方形 4.8 5.0 方形 5.3 4.3 方形 3.0 方形 2.5 方形 3.6 3.8 方形 4.0 4.2 方形 4.7 4.9 方形 2.6 3.6 方形 4.0 3.5 方形 3.5 5.0 方形 5.5 方形 3.8 8 8 8? 4 4 6 4 5? 4 4 8? 4 8? 6? 8? 4 8 ? 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4? ? 4 4 4 4 4 4 4? ? 4 4 ? 4 4 4 4 炉,カマド 炉 炉 炉2 炉 炉 炉 炉 炉 炉 炉 炉 炉 炉 炉 1 炉 ? 炉 炉? ? 炉 炉 炉 炉? 炉 炉 ? 炉 炉 炉? 炉? 炉? 炉? 中央 中央 中央 中央 中央 中央 中央 中央 中央 中央 中央 中央 中央 中央 中央 中央 中央 中央 中央 中央 中央? 中央 中央 中央 中央 中央 中央 その他 時期 古墳時代 後期後半 炉堤あり 焼土3 焼土3 焼土3 古墳時代 (不明) 屋内高床部 屋内高床部 屋内高床部 中央東 中央東? 屋内高床部 カマド カマド 北辺 支脚:砂岩 カマド 東辺 支脚:砂岩 カマド 北東辺 ? 炉? ? ? 中央東 礫多数出土 カマド 北辺 カマド 北西辺 支脚:砂岩 カマド 北西辺 支脚:砂岩 ? カマド 北西辺 4 4 4 4 4 ? 4 4 4 4 4 - 28 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 ? カマド カマド カマド? 北辺 支脚:砂岩 北辺 支脚:土師器小型壺 北辺? 北辺 カマド カマド 北西辺 カマド 北辺 支脚:砂岩 ? - カマド カマド カマド カマド カマド カマド カマド 北西辺 北西辺 北辺 北辺 北辺 煙道:砂岩 北辺 支脚:砂岩 北辺 支脚:土師器高杯 飛鳥時代 遺構番号 平面形 270 277 500 150 250 255 380 400 100 2700 3100 6660 6670 6830 7170 5140 5230 5240 280 290 299 300 230 240 260 3400 3777 310 350 440 450 677 3875 3880 110 130 1620 1550 2288 1210b 1210c 3101 2500 6140 6160 6600 6610 6620 6630 6730 6740 6760 6790 6972 5070 5100 5130 5160 5210 5220 5800 5820 5830 5910 5330 6250 6260 340 5770 5900 6010 6020 6030 6640 6700 6750 6770 6780 6950 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形? 方形? 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 方形 東西 南北 主柱 (m) (m) 4.3 4.8 4.1 6.4 6.5 4.5 5.0 4.0 6.0 3.4 2.0 4.5 3.2 4.5 2.5 3.7 2.7 4.5 3.6 3.7 4.4 4.3 5.2 4.5 3.4 3.7 5.0 4.8 4.0 5.2 3.3 3.7 7.0 3.9 3.6 3.3 3.0 4.0 4.2 4.5 2.2 4.1 3.8 3.0 3.5 3.5 5.1 4.1 5.4 2.7 3.7 4.0 5.4 4.0 3.5 4.5 6.0 2.8 4.2 3.7 4.5 6.0 2.5 4.2 4.0 5.4 4.7 4.8 4.3 6.3 3.8 5.0 5.1 4.3 4.5 2.0 4.5 2.8 3.3 3.5 4.5 3.3 4,2 4.7 2.2 3.2 3.2 4.0 3.4 7.0 3.7 4.2 3.2 3.5 3.2 4.0 2.5 5.0 3.5 3.5 3.3 3.7 3.2 5.4 4.4 5.4 4.5 3.7 5.0 3.0 3.7 4.5 4.2 3.0 4.3 4.6 5.0 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ? 4 ? 4 4 4 4 4 4? 4 4 4? ? ? 4 4 4 4 4 4 4 4 ? 4 4 4 4 4 4 4 - 炉,カマド 炉 その他 中央 カマド 北西辺 カマド 北西辺 カマド2 ? カマド カマド カマド カマド カマド カマド カマド カマド カマド カマド カマド カマド カマド ? カマド ? カマド カマド ? 北辺 支脚:砂岩 北西辺 支脚:砂岩 東辺 支脚:片岩 北辺? 支脚:砂岩 北辺 北辺 北西辺 支脚:片岩 東辺 支脚:片岩 東辺 北辺 北辺 焚口:片岩,支脚:砂岩 北辺 東辺 北辺 北辺 北辺 支脚:砂岩 北西辺 支脚:砂岩 北辺 カマド カマド カマド カマド 北東辺 カマド? 北辺 カマド 北辺? カマド 北辺 カマド? - カマド 北東辺? 支脚:砂岩 ? ? カマド 北辺 支脚:砂岩 カマド 北辺? 支脚:砂岩 カマド? カマド 東辺 カマド 北辺 支脚:砂岩 ? - カマド 北西角 カマド 北辺 - - カマド 北辺,西辺 カマド 東辺 ? - カマド 東辺 - - カマド 北辺 カマド 北辺 支脚:砂岩 ? - カマド 北辺 カマド 北東辺 カマド カマド カマド カマド - 東辺 北辺 東辺 北辺 南辺 東辺 東辺 カマド 支脚,袖部:片岩 カマド カマド カマド 北西辺 カマド 東辺 ? カマド カマド カマド カマド カマド 北辺 支脚:砂岩 東辺 東辺 焚口,支脚:片岩 北辺 北辺 焼土1 弥生時代中期∼後期 6200 5400 6400 3111 6280 5170 1230 1220 6300 2400 6060 6850 1222 6180 1 1085 6690 6170 2800 90 2020 600 1001 99 古墳時代前期 2999 6270 2222 199 90 1 250 280 5270 5280 5290 1000 1180 1003 166 120 188 270 80 6310 1300 1560 230 1301 160 260 古墳時代中期∼後期 2200 6630 5830 6890 5120 5060 6900 66006620 3200 5160 5150 5110 6640 6650 5070 5900 5910 6660 6700 5130 6670 6780 3160 1230 6760 6950 2500 3110 5080 6610 5470 1210 5140 27003100 3101 1220 6770 5220 6730 5200 6750 6020 6010 6740 577057905230 5210 6690 6800 5800 6030 5250 199 177 101 140 2830 3010 3005 130 111 330 166 380 1580 188 222 340 180 255 1620 230 350 1610 3400 160 450 260 150 6130 6160 1 277 300 500 290 210 6250 5300 5310 5320 5420 6330 1550 飛鳥・奈良時代 6900 3017 5900 6700 6070 6670 6780 6760 6610 6770 3019 7120 6730 7110 7140 7150 30153014 330 6950 5170 5470 6790 5220 6750 6020 5770 5790 6030 3010 3006 4011 4010 3005 3003 350 204 3777 西飯降Ⅱ遺跡 遺構変遷図 S=1:1,500 関連研究・資料紹介 ◎ 29 ∼TK 47 型式期と考えられる。調査においては、同 神前遺跡出土の青銅製鈴 時期の溝を数条検出しており、古墳時代中期後葉に再 び溝が掘削されたと考えられる。 代から江戸時代にかけての各時代の遺構を検出した。 2.7㎝、鈕穴を正面にした正面幅 3.0㎝、側面幅 2.4㎝、 中でも古墳時代の遺構では、井戸・土坑・ピット群の 鈕は高さ 0.5㎝、正面幅 1.2㎝、側面幅 0.3㎝を測る。 他、溝を検出しており、このうち 5140 溝からは青銅 高さ3㎝前後の小形銅鈴に分類できる。 製鈴が出土した。 鈴体部は、正面幅が高さ、側面幅に比して大きく、 古墳時代の青銅製鈴は、そのほとんどが古墳や横穴 楕円形を呈する。表面は欠損・剥離箇所があり、腐食 などから出土しており、 集落遺跡からの出土は珍しい。 が進み研磨痕等は観察できていない。鈴口は腹部中ほ 県内では、和歌山市大谷古墳例に次いで2例目の出土 どまで切れあがるが、埋没時の土圧により閉じた状態 例となり貴重な出土例となった。 で、端部の形状は不明である。内部に残存する土は除 遺構の概要と出土状況 調査の概要については、本文 去しておらず、鈴内部の状況は不明であるが、石製の を参照されたいが、ここでは青銅製鈴の出土状況を中 丸が存在すると考えられる。 心に述べる。 鈕は環形の鈕が取りつき、やや傾いた形態を示す。 青銅製鈴は、調査区の5−3区・5−5区で検出し 鈕と鈴口の方向は一致し、鈴本体と鈕を一括で鋳造し た 5140 溝から出土した。溝は、北東方向から南西方 たことがうかがえる。また、側面から見た場合、鈕の 向へと東側に流れ、弥生時代の溝、鎌倉時代の耕作跡 中心線と鈴口の中心線が若干ずれていることから、鈴 が重複する。幅 1.2 m、深さ 0.2 mを測り、断面形は 口を中心にして左右の鋳型を合わせ、一方の型には 緩やかなU字形を呈する。埋土は上下2層に分かれ、 鈕と体部を一体で鋳造したものと考えられる (田中裕 上層は鉄分・マンガンを多く含む褐灰色の細砂、下層 1992・白木原 1997)。 は黄灰色シルトが堆積し、溝底部には溝掘削痕であろ 青銅製鈴の類例とその特徴 古墳時代中期の鈴の出土 うか不明瞭な凹凸が存在する。青銅製鈴は溝の下層、 例は限定され、管見では二十数ヶ所しか出土しておら 溝底面の上部より出土した。 溝からは、須恵器蓋杯・甕、 ずその数は少ない。古墳時代の青銅製鈴を検討した田 土師器甕・甑把手・高杯が出土しているが、いずれも 中裕の分類によれば、神前遺跡出土の青銅製鈴は、無 細片である。5140 溝の時期は出土土器から、TK 23 文で鈕が鈴体部に比して小さく、幅・高さ3㎝前後の 鋳造鈴であることから、無文2類に分類される(田中 < ༊ < 青銅製鈴の観察 神前遺跡出土の青銅製鈴は、高さ < はじめに 和歌山市神前遺跡の発掘調査では、弥生時 裕 1992)。環状の鈕をもち、鈕と鈴口の方向が一致す る特徴も同様である。 ; 無文2類に分類された鈴の類例を見てみると、大阪 府羽曳野市峯ヶ塚古墳、滋賀県高島市鴨稲荷山古墳、 福井県若狭町西塚古墳、石川県加賀市二子塚狐山古墳、 栃木県小山市桑 57 号墳、韓国月松里造山古墳などの ; ༊ 出土例が挙げられ、いずれも、古墳時代中期後葉から 中期末葉で、鴨稲荷山古墳のみが古墳時代後期前半に 下る。その他にも、奈良県天理市タキハラ 1 号墳、千 葉県館山市大寺山洞穴等でも同時期の鈴が出土してお ; ༊ り、同様の特徴をもつ。神前遺跡例は、溝に伴う土器 から古墳時代中期後葉から末葉のものと考えられ、無 㟷㖡〇㕥ฟᅵ 青銅製鈴出土位置図 S=1:800 30 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 文2類の他の類例と時期の矛盾は見られない。 これらの一群に対し、県内の類例では、やや小形の 0 5㎝ 土残存範囲 神前遺跡出土 青銅製鈴 S=1:1 鈴で方形の鈕がつく大谷古墳石棺出土例5点が存在す 須恵器片が採取された箇所が複数存在する (和歌山県 る (京都大学編 1959) 。大谷古墳例は、馬具を含めて 1987)。青銅製鈴の出土を勘案すれば、井辺前山古墳 舶載品と考えられており、 時期は古墳時代中期後葉と、 群のさらに広い範囲で古墳が存在する可能性が高い。 神前遺跡例とほぼ同時期と考えられる。 神前遺跡の青銅製鈴が当該時期の古墳に伴うもので 鈴の用途については、装身具、装飾品、馬具・帯金 あれば、紀ノ川流域の古墳群の動向を探る上で興味深 具等の付属品等が考えられる。しかし、神前遺跡例 い検討材料を提供する。古墳時代中期末葉には、紀ノ は、単独での出土で、祭祀に伴うような特殊な出土状 川河口域で北岸では大谷古墳が、岩橋千塚古墳群では 況ではなく、その用途を推定しにくい。ただし、馬具 再び前方後円墳の築造が開始される時期に当たり、井 や帯金具の付属品はさらに小形のものであり、神前遺 辺前山古墳でも、再び古墳の築造が活発となる時期と 跡例とは大きさが異なる。また、大谷古墳では、棺外 なる。大谷古墳例とともに、日本列島に数少ない青銅 からは馬具と付属品の鈴が、棺内からは馬具を伴わな 製鈴の出土例が神前遺跡でも見られることから、井辺 い鈴が出土しており、馬具以外にも鈴の用途が見られ 前山古墳群とその周辺に未知の有力古墳が存在するの る。峯ヶ塚古墳例は太刀の鞘尻部分に接して出土して だろうか。 (田中元浩) おり、装飾品と考えられている。以上の類例から、神 ※神前遺跡の青銅製鈴については、片山健太郎氏、廣瀬覚氏、 前遺跡例は装身具・装飾具の用途が考えられる。 前田敬彦氏から有益な御教示をいただいた。また、調査時の まとめ 神前遺跡出土の青銅製鈴については、鈴の類 所見では、金銅製鈴として発表したが、今回青銅製鈴として 例と特徴から判断しても古墳時代中期後葉から中期末 訂正したい。 葉のものと考えられ、日本列島において数少ない時期 参考文献 のものと判断される。 一方、古墳時代の鈴の出土は古墳・横穴・洞穴墓と 加古千恵子 1975「古墳出土の鈴について」 『二見谷古墳群− 但馬における家型石棺を内蔵する古墳の調査−』城崎町教 育員会 いった墓に限定され、神前遺跡例のみが集落遺跡から 京都大学考古学研究室編 1959『大谷古墳』和歌山県教育委 の出土となる。鈴の出土傾向から、神前遺跡出土の 員会 青銅製鈴についても、古墳に関連するものと考えら 白木原 宣 1997「古墳時代の鈴−主に鋳造鈴について−」 『H れ、周辺に埋没古墳または、消滅古墳が存在し、何ら OM INIDS』1 Congress of Reconstructing Archaeology かの要因により溝に流れこんだものと考えられる。古 墳との関わりを裏付ける材料として、和歌山県教育委 田中 裕 1992「小型埋葬施設出土の日本初期の鈴」 『史跡森 将軍塚古墳−保存整備事業発掘調査報告書−』更埴市教育 委員会 員会が行った分布調査において、神前遺跡に隣接する 吉澤則男 2002「青銅鈴について」『史跡古市古墳群 峯ヶ塚 井辺前山古墳群の存在する福飯ヶ峯の南斜面から丘陵 古墳後円部発掘調査報告書』羽曳野市教育委員会 裾では、古墳の分布は認められないものの、埴輪片や 和歌山県教育委員会 1987『井辺前山古墳とその関連遺跡』 関連研究・資料紹介 ◎ 31 立野遺跡の植物遺体について 辺の古環境について検討したので報告する。 これまでに同定した大型植物遺体については、材を 除き、種実類、葉、枝類が産出している。種実類では ドングリ類としてイチイガシ、ツブラジイの堅果、オ はじめに ニグルミの核が産出、シダ植物の中軸も産出した。他 すさみ町立野遺跡で検出された弥生時代前期の自然 にも未同定の植物遺体もあるため、全体について考察 流路 (遺構 302)から、県内最古段階の弥生土器のほか したものではないことをお断りしておく。大型植物遺 木製品・石器類が多量に出土した。自然流路の堆積は、 体で量的に多く産出している代表として、ドングリ類 地山が崩壊したと想定される青灰色シルトのブロック がある。この遺跡の特徴として堅果の破片の密集やイ を含む層を中層として、大きく上・中・下の3つの層 チイガシやツブラジイの堅果が多数産出することであ に明確に分層が可能である。各層とも弥生時代前期の る。もちろん、今回産出したドングリ類の全てがイチ 遺物を包含するが、とりわけ下層に関しては前期中段 イガシとツブラジイからなるかは同定の途中でもある 階に限定できるものと考えられる。下層は多量の有機 ため、不明ではある。特に堅果の破片については種名 物を含むシルト層で、常時水に浸るような条件でシル は不明であるが、現時点での同定されたものを考慮す ト層にパックされていたことからも木製品をはじめ、 ると、イチイガシなどの破片という可能性が高い。 木材や木の実、葉、小枝など豊富な植物遺体が良好に まだ少ない産出種類であるが、これまでの同定でき 残存していた。このことから発掘調査段階で、植物遺 た植物遺体から、当時の古環境について検討する。ま 体や花粉化石から古環境解析をおこなっている和歌山 ず、イチイガシとツブラジイが多く産出しているが、 大学の此松昌彦教授に植物遺体・土壌の採集とその分 これらの植物について説明すると、イチイガシはカシ 析をお願いしていた。今回、その速報と言う形で執筆 の仲間である、ブナ科コナラ属アカガシ亜属に分類さ していただいた。なお文責は、 「はじめに」と 「まとめ れる常緑高木の広葉樹である。分布は関東地方から西 にかえて」 が川崎、 「植物遺体の同定」 が此松である。 に分布し、四国、九州、台湾、中国に分布する樹木で (川崎雅史) ある。気候帯では現在の遺跡が立地しているような暖 温帯に属する。またツブラジイはイチイガシと同じブ 植物遺体の同定 ナ科であるがシイノキ属に分類される常緑高木の広葉 立野遺跡においては、弥生時代前期の堆積物から材 樹である。分布は関東から以西で、四国、九州、及び などを含めて、多くの植物遺体を含んだ有機質シルト 朝鮮半島南部に分布する。気候帯ではイチイガシと同 の地層がある。その層から採取した一部の試料から洗 じ暖温帯に属する。なおオニグルミはクルミ科クルミ い出しを実施し、肉眼で判別できる大型植物遺体を拾 属に分類される落葉高木の広葉樹である。分布は北海 い出し、同定を行ったので報告する。その結果、多く 道から九州にまで分布している。温帯に属し、川沿い の量の植物遺体が産出し、その種類により予察的に周 に多い傾向がある。このことからまず産出している種 遺跡の位置 (矢印) 遺構 302 木材の出土状況 32 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 れない。これらの調査を含めて、周辺の常緑樹林を人 間がどのように利用してきたのか、今後の調査で明ら かにしていきたい。 (此松昌彦) まとめにかえて 調査では、流路の肩口付近で堅果類の破片の密集し た箇所を確認し、それらは本稿でも食用にされた後に 廃棄されたものと類推されている。ここで触れられて いるイチイガシ・ツブラジイ・オニグルミ以外にも、 クリやトチなどの堅果類も採取しており、クリに関し 堅果類の破片 ては大粒のものであることからも、栽培種であった可 実類はイチイガシとツブラジイは暖温帯であり、クル ミも付近に存在しても不思議ではないこともあり、遺 跡の付近で生育していた樹木である可能性は高い。 能性も考えられるところである。 立野遺跡の時期は弥生時代前期前半で、県下に稲作 が伝播した当初の集落であり、農具などの存在から確 今回の植物遺体の産出状況で、堅果類の破片の密集 実に稲作をおこなっていたことも明らかになってい があると述べたが、これは自然では破片だけが密集し る。ただ、主食が堅果類から米に移行していたとは言 てたまることは考えにくく、人為的に捨てた場所であ え、当時はまだ稲の収量も安定しておらず、堅果類も る可能性がある。また完全な形態の堅果は、破片には 米の代用として補食されていたことが窺える。実際、 ほとんど含まれておらず、散在的に産出していた。で 出土した石器には凹石や叩石などの多量の礫石器があ は人為的に利用されていたのであれば、何に利用され り、これらは木材を割る折の楔を打ち込むハンマーと ていたのかと推定すると、イチイガシとツブラジイは しての用途以外にも、本来の用途とされる堅果類を割 食の方法で共通性を持っていた。 つまりこの2種類は、 るために用いられたと推定される。 あく抜きをしなくて食べることが可能である。これは 今回、植物遺体・花粉化石の分析以外にも、樹種同 オニグルミにおいても同様である。このことから、こ 定をおこなうため多くの木材サンプルも採集している の遺跡付近で食した後の堅果の破片を捨てたものと類 ことから、弥生時代前期の植生・古環境がより鮮明に 推できる。また今回の遺跡発掘では、大量の材も産出 なると考えられる。 (川崎雅史) したというが、イチイガシの材も含まれているかもし イチイガシ ツブラジイ オニグルミ 関連研究・資料紹介 ◎ 33 礎石に転用されていた五輪塔について −金剛三昧院客殿及び台所− はじめに 金剛三昧院客殿及び台所の修理工事を進めるなか で、数カ所で五輪塔の一部が礎石などに転用されてい ることが確認できた。その内、年号が記されたものが 写真 2 地輪 A 写真 3 地輪 B 2つあり、1つには銘文も刻まれていた。この文面を 良好な状態を維持しているが、これは室内に存置され 精査したところ、内容自体も資料的に高い価値を有す ていたことが大きく影響していると考えられる。 ることが明らかとなった。 木下氏によると、外見により五輪塔の時代判定を行 本稿では、銘文の刻まれていた五輪塔を中心に、金 う際のポイント(主に地輪部分に関して)は、 剛三昧院客殿及び台所に転用されていた五輪塔につい 1、縦横比 て述べる。なお、五輪塔の所見作成にあたっては、石 2、上面ホゾ穴の形状及び有無 造物の研究者である高野山大学図書館の木下浩良氏に 3、仕上げ面の細かさ ご指導頂いた。 4、梵字の形状及び大きさ 5、銘文の書き方 地輪の使用状況及び来歴について などがあるとされる。1については、地輪は一般的に 寺務所北側柱筋の寺務所東室中央柱と寺務所東西室 古い時代の方が、幅に対して高さが低く横長だが、時 境柱の礎石に、五輪塔の地輪が転用されていた。 (写 代が降るにつれて縦に伸び、正方形に近くなる。地 真1、図1) 東室中央の地輪 (写真2、以下 「地輪A」と 輪 A、B は共に横長に作られており、古い形式を残す。 する)には側面にア字 (梵字)と、その反対面に銘文が また、横幅に対する高さの比は、地輪Aで 0.74、地 彫られており、東西室境の地輪 (写真3、同 「地輪B」) 輪Bで 0.71 と近い値を示すことから、製作年代も近 にはア字のみが彫られていた。地輪Aの外形は、幅・ いと推定出来る。2の上面のホゾ穴は、古いものほど 奥行き共に 35㎝、高さ 26㎝で、上面中央に直径 6.8㎝、 大きく、時代が降ると小さく作られる傾向があり、近 深さ 1.8㎝のホゾ穴が彫られている。地輪Bは、幅・ 世に入るとホゾ穴自体が設けられなくなる。3の仕上 奥行き共に 38㎝、高さ 27㎝で、同じく上面中央には げ面は、鎌倉期がもっとも丁寧に仕上げられており、 直径 7.8㎝、深さ 1.2 センチメートルのホゾ穴が彫ら 時代が降るにつれて荒くなる傾向がある。両地輪の仕 れている。また、共に下面は中央が凹状に欠き取られ 上げ面に差異を認めることは難しく、共にきめの細か ており、地輪Bはア字面の左右上角が欠損していた。 い丁寧な仕上げが為されている。4の梵字については、 石材は共に砂岩。表面は風喰や劣化が少なく、非常に 写真 1 現状の地輪転用状況 34 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 図 1 客殿及び台所見取図(○は五輪塔転用箇所) 時代によって書かれ方が異なり、鎌倉期の特徴は面に 対して字の割合が大きく、 梵字も優美で立派とされる。 5の銘文は地輪Aのみに書かれているが、楷書で丁寧 に刻まれている。これは鎌倉期の特徴とされ、室町頃 になるとやや字体が乱れる傾向にあるという。 以上を地輪A、Bに当てはめて検討すると、共に鎌 倉期の特徴から逸脱する点は認められない。また地輪 Aの銘文には元亨元年(1321)の年号が記されている ことからも、地輪Aは元亨元年に建立された五輪塔で 相異なく、地輪Bもまたそれに近い時期に制作された ものと推定した。i 写真 4 地輪 A の銘文 地輪Aの銘文について 次に、地輪Aに記されている銘文 (写真4・5)につ いて検討する。内容は以下の通りとなる。 <原文> 為待三會之暁 卜居於高野山 造立供養斯 元亨改元辛酉 三月廿一日沙弥契明 写真 5 同拓本 <書き下し文> いている。この銘文では、 「卜居」つまり「あえて高野 さんねのあかつき 三會之暁ヲ待ツ為 山に場所を定め」て、 「三会の暁による功徳を得るため」 ぼっきょ 高野山ニ於テ卜居シ に「五輪塔を造立する」というように、弥勒信仰と大師 これ 斯ヲ造立供養ス 信仰の結びつきがはっきり読み取れる形で記述されて 元亨改元辛酉 おり、同時に五輪塔建立の目的も明示している。また、 しゃみ 三月廿一日 沙弥契明 建立日が3月21日と記されるが、この日は空海が入 定した日であることからも、空海との結縁を強く意識 <意訳> して五輪塔を建立したことが伺える。銘文の内容から、 三会の暁による功徳にあやかるため 自身への功徳を期待しての五輪塔建立と理解出来るこ 他でもなく高野山をその場所と定め とから、生前に行う、自身による自身の為の建立、即 この五輪塔を造立供養する ち「逆修」による建立と考えられる。 元亨元年 (1321) 辛酉 このように、五輪塔の建立目的が三会の暁による功 三月二一日 沙弥 契明 徳であると銘文に示す例は非常に珍しく、この点で当 五輪塔(地輪)が非常に貴重な資料であると言える。 三会の暁とは、釈迦入滅の五六億七千万年後に弥勒 次に、建立した契明なる人物について考察する。残 菩薩が現世に現れ、三度の説法を行い、衆生を救うと 念ながら、現時点で素性は詳らかでない。ただし銘文 いう思想である。高野山では特に、奥の院に入定して から「沙弥」つまり、出家在俗の男性であることが判る。 いる弘法大師空海が、弥勒菩薩と共に現れて衆生を救 ⅱ また、地輪には極めて良質の砂岩が使用され、全 うとされており、弥勒信仰と大師信仰が密接に結びつ 体の姿形は不明なものの、推定しうる五輪塔全体の規 関連研究・資料紹介 ◎ 35 模は比較的大きい部類に属することから、一定の地位 ④中門北面(前身建物礎石か・火輪裏返し・存置) や財力を有した人物が想定出来る。 ⑤中門北面(同上、2 段重ね) 金剛三昧院は、鎌倉期には安達一族や足利一族をは ※発掘調査により発見 じめとした関東御家人と繋がりが深いことを考える と、契明もこれら一族に関する人物、あるいはその他 の御家人等であった可能性が伺える。 その他の五輪塔転用材について 上記2箇所の地輪以外に、客殿及び台所では図1に 示す通り、5カ所(計6個)で五輪塔の転用が確認でき た。以下に概要を記す。 【記載例:場所(用途・種別・措置) 】 ①上段の間西面(大引束礎石・火輪・存置再用) ⑥台所南広縁(前身建物関係か・一石五輪塔・存置) ※礎石据え直し時に発見 ②持仏の間 (旧柱礎石・火輪裏返し・存置再用) まとめ このように、金剛三昧院客殿及び台所では、多くの 五輪塔(部分)が礎石などに転用されていた。これらは 完形では残されていないため、五輪塔としての価値は 高いとは言えないものの、建物や寺院の歴史を知る上 では貴重な史料となりうるだろう。 (結城啓司) ③持仏の間 (賢瓶台座・地輪半割・摘出保存) i (参考)日本で最古の有紀年銘石造五輪塔は、中尊寺釈尊院にある仁 ※発掘調査により発見、応永 24 年の銘あり 安 4 年(1169)の銘文があるもので、高野山に現存する最古の有紀年銘 石造五輪塔は、西南院に所在する建長 8 年(1256)のものである。ま た、木下氏がこれまでに確認した高野山に現存する在銘石造五輪塔の員 数は、13 世紀後半に 13 基、1301 年∼ 1320 年の間に 16 基ある。1321 年以降の 14 世紀中には各年 10 数基確認されている。これより、元亨 元年は、五輪塔の建立が増加し始める時期にあたると言えるだろう。 ii 広辞苑(第四版)によると、「沙弥」は ①出家して十戒を受けた少年僧。わが国では、少年に限らず、一般に、 出家して未だ正式の僧になっていない男子。 ②わが国で、剃髪しても妻子があり、在家の生活をする者。 とされるが、五輪塔の建立を発願していることや時代背景を合わせて 考えると、この場合、「沙弥」は出家在俗者と理解できる。 36 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 平成 22 年度の普及啓発事業 出前授業 6月1日に、和歌山市川永小学校6年1・2組で出 前授業を行った。パネルや実際に遺跡で出土した遺物 展 示:「紀州のあゆみ」「田辺城下町遺跡」 報告会:「地宝のひびき」「寺を造る」 「和歌山平野の集落遺跡」 見学会:「高野山奥の院をめぐる」 出前授業:川永小学校 発掘調査現地説明会:神前遺跡、北山廃寺、立野遺跡 文化財建造物:「見て知る伝統技術」 その他:報告書掲載写真のデジタル化 を使って、川永小学校周辺の歴史を分かりやすく紹介 した。 はじめに 平成 22 年度の普及啓発事業として、埋蔵文化財関 連 11 件、文化財建造物関連 1 件の業務を実施した。 埋蔵文化財関連業務は、報告会(シンポジウム) ・見 学会を中心に国庫補助金を受けて実施しており、シン 出前授業の様子 ポジウムの資料集や見学会の地図を作製して、参加者 や関係機関に配布している。 文化財報告会「地宝のひびき」 また例年同様、当センターの情報誌「風車」51 ∼ 6月 26 日に、県民文化会館大会議室で「地宝のひ 54 号の刊行のほか、出土遺物・写真の貸出等の業務 びき」を開催した。県内で前年度に発掘調査された史 を行っている。 跡和歌山城の二の丸西部(大奥) ・秋月遺跡・粉河寺 遺跡・史跡旧名手宿本陣・要害山城と安宅本城の調査 速報展「紀州の歩み」 報告を、各市町村及び当センターの調査担当者が紹介 5月 19 日から7月 11 日まで、和歌山県民文化会 した。 館1階ロビーにて、平成 21 年度の発掘調査成果の速 記念講演は、和歌山大学教授の海津一朗氏による「中 報展を行った。 世の開発と災害―フィールドミュージアム垰田荘の試 かつらぎ町中飯降遺跡の縄文土器や和歌山市坂田遺 み―」であった。参加者数は 49 名。 跡の琴柱形石製品など8遺跡の出土遺物と、和歌山市 参加者は和歌山市・岩出市・紀の川市に在住する 旧中筋家住宅で使用されていた襖唐紙を展示した。見 50 ∼ 70 代が中心で、ちらしを見て参加された方が多 学者数は 316 名であった。 かった。各発表時間は 30 分であったが、もう少し話 を聞きたいという声が多かった。 普及活動 土器や玉の展示状況 発表風景 普及活動 ◎ 37 文化財ウォーク「高野山奥の院をめぐる」 10 月 30 日に、 「―歩いて知る紀の国歴史探訪―高 野山奥の院をめぐる」を開催した。 高野山の石造物研究の第一人者である木下浩良氏ら による解説を聞きながら、奥の院の石製霊廟や五輪塔 を回った。天候が悪かったにもかかわらず、71 名の 参加者があった。 奥の院入口付近での解説 展示・講演「田辺城下町遺跡の発掘調査成果」 12 月4・5日に、田辺市駅前の商店街にあるJA 紀南田辺支所で、田辺城下町遺跡の出土遺物を展示し た。5日には同会場で講演会を開催し、商店街の下に 地宝のひびきの参加者内訳 眠る田辺城下町遺跡について紹介をした。参加者は 75 名であった。 神前遺跡現地説明会 9月 11 日と 10 月 15・16 日に、和歌山市神前遺跡 の発掘調査現地説明会を開催した。 遺跡では弥生時代の水路などを検出し、弥生土器や 石庖丁、古墳時代の鈴などが出土している。見学者数 は9月 11 日が 208 名、10 月 15・16 日が岡崎小学校 の生徒を含めて 237 名と盛況であった。 講演風景 北山廃寺・北山三嶋遺跡現地公開 12 月 17・18 日に、紀の川市北山廃寺・北山三嶋遺 跡の現地公開を行った。 遺跡では北斜面で3基、南斜面で2基の窯跡が確認 現地説明会風景 38 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 されており、古代・中世の平窯・登窯跡がある。残存 状態の良好な古代の平窯(3号窯)では、瓦を焼いた 弥生時代の研究者である森岡秀人氏が記念講演「近 場所(燃焼部)や燃料である薪を燃やす場所(焼成部) 畿地方における集落構造の変革―古墳時代への胎動 がほぼ完全に残っており、見学者は熱心に見入ってい ―」で概要を話し、4名の発表者が和歌山平野の集落 た。見学者数は 73 名であった。 遺跡の事例発表を行った。シンポジウムでは、和歌山 平野の開拓の様子が、旧地形や水路の展開とともに紹 介された。参加者数は 109 名で、県外からの参加者 が全体の 14%を占めた。 平窯の見学 シンポジウム風景 シンポジウム「寺を造る」 立野遺跡の現地説明会 1月 23 日に、 紀の川市貴志川コミュニティセンター 2月5日に、すさみ町立野遺跡で発掘調査現地説明 で、 「寺を造る―北山廃寺を支えた古代の技術―」を 会を開催した。弥生時代前期の流路から木製品及び木 開催した。 材が多量に出土し注目を集めた。参加者数は 142 名 記念講演は、 近畿大学教授大脇潔氏による 「寺を造っ であった。 た人々―紀ノ川流域の寺院を中心に―」である。3名 の発表者による発表の後、寺院と地域社会について考 えるシンポジウムを行った。参加者数は 54名であった。 現地説明会風景 報告書掲載写真のデジタル化 シンポジウム風景 報告書に掲載された遺跡・遺構の写真フィルムにつ いて、劣化防止及び活用の観点からフォト DVD へ保 シンポジウム「和歌山平野の集落遺跡」 存した。今年度は、1987 年から 1990 年までに当セ 1月 30 日に、 和歌山市和歌の浦アートキューブのホー ンターが編集・発行した報告書 16 冊を対象として実 ルで「和歌山平野の集落遺跡―弥生時代から古墳時代 施した。 (丹野 拓) へ―」を開催した。 普及活動 ◎ 39 重要文化財金剛三昧院客殿ほか修理現場 重要文化財熊野本宮大社修理現場 金剛三昧院においては、平成 19 年度より 6 ヵ年と 平成 22 年 9 月より始まった熊野本宮大社の保存修 長期に及ぶ修理事業を進めている。特に客殿及び台所 理は、檜皮屋根の葺き替えを中心に進められた。世 は、檜皮屋根の葺き替えとともに柱の建て起こしなど 界遺産の一つである当神社社殿の本格的な修理を迎 木部の解体を伴う工事を実施しているため、期間中仏 えるにあたり、神社側からは、修理の状況を多くの 像などは別の建物に移動し、仮安置先で必要な法事な 人に見てもらいたい旨の強い要望があった。 どが執り行なわれている。しかし、客殿及び台所は隣 当センターとしても、文化財保存の大切さを一般 接する本堂や宿坊施設の玄関、接客空間、移動経路と に知って頂く良い機会になるため、積極的に協力す しても機能し、寺院全体を運営する上で欠かすことが ることで計画したものである。しかし留意しなけれ 出来ない施設であるため、工程を調整し、必要に応じ ばならないのが、神社瑞垣内が聖域であり、、常に参 て仮設経路を設置することなどにより、工事期間を通 詣者が参拝しているという点と、屋根工事は木部まで して参詣者が建物を利用し続けることが出来るよう配 解体する工事とは異なり、比較的簡便な仮設足場で、 慮して事業を進めている。実際に作業を行なっている 見学上安全確保に懸念があったことである。後者は 部分とは、仮設的な間仕切りなどで区画されてはいる 工事請負会社の配慮で、見学に対応した安全な足場 が、ごく身近に作業の様子を目にすることが出来るた が仮設された。これは事前に見学の計画が神社側か め、修理事業に対する質問や感想が寺院関係者に多数 ら示され、請負会社が協力してくれたためである。 寄せられるなど、参詣者の反響は大きい。 11 月 13 日には和歌山県文化財保護協会が主担し、 工事の進捗に伴い、大広間など主要な居室部分が参 和歌山県教育委員会、田辺市教育委員会、当センター 詣者にも立ち入り可能な状況になったため、寺院側か との共催で、「見て知る伝統技術」として現場見学会 らの要望もあり、客殿内部において工事の内容を紹介 を行った。県内外から 35 人あまりの参加があった。 するパネル展示を常設する運びとなった。実際に手で ちょうど第三殿平葺を終える頃で、檜皮を並べ、竹 触れられるように檜皮葺きの材料や模型も用意したほ 釘を使って打ち留める檜皮葺替の作業が見学できた。 か、特に関心の高かった柱足元の補強金具をライト 当センター担当職員が解説したほか、屋根葺師も解 アップし、床の点検口から取り付け状況が確認出来る 説に協力して下さり、見学者は熱心に見学した。修 ようにした。 理現場の他、これから工事にかかる第一・二殿、第 簡素な展示内容ではあるが、実際に作業が進められ 四殿も、神社のはからいにより瑞垣内で間近から見 ている建物内で、これまで文化財修理に関心を持って 学できたので、参加者には非常に好評であった。 いなかった一般の参詣者にも、自然と事業に触れても このほかにも、適時、神社により修理現場の見学案 らえている。この静かな試みは、普及活動のひとつの 内がなされ、数十年に一度の屋根替えの状況が、多 あり方を示唆しているように思われる。 (多井忠嗣) くの人たちの目にするところとなった。 (御船達雄) 金剛三昧院客殿内部での写真パネルと床下展示 40 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 「見て知る伝統技術」見学会風景(熊野本宮大社第三殿) (財)和歌山県文化財センター平成 22(2010)年度概要 Ⅰ 受託業務 埋蔵文化財発掘調査等受託業務 17 件 埋蔵文化財遺物整理等受託業務 6件 文化財建造物保存修理技術指導業務 5件 Ⅱ 理事会・調査委員会・会議など 理事会・評議員会 理事会・評議員会 22.05.28 プラザホープ 公益法人に向けた最初の評議員選考委員会 22.08.02 アバローム紀の国 臨時理事会 22.11.20 プラザホープ 理事会、評議員会 23.03.30 アバローム紀の国 23.02.18 立野遺跡 調査委員会 平成 22 年度 第1回調査委員会 現地調査指導 森 郁 夫 帝塚山大学 名誉教授 22.12.01 北山廃寺・北山三嶋遺跡 工 楽 善 通 大阪府立狭山池博物館 館長 23.01.26 立野遺跡 此 松 昌 彦 和歌山大学 教授 23.02.05 立野遺跡 村上由美子 人間文化研究機構 総合総合地球環境学研究所 23.02.10 立野遺跡 平成 22 年度第1回全国埋蔵文化財法人連絡協議会役員会 22.05.20-21 主催: (財)和歌山県文化財センター 第 31 回全国埋蔵文化財法人連絡協議会総会 22.06.10-11 主催: (公財)愛知県教育・スポーツ振興財団 愛知県埋蔵文化財センター 平成 22 年度第1回全埋協近畿地区OA委員会 22.06.25 主催: (財)八尾市文化財調査研究会 平成 22 年度第1回全国埋蔵文化財法人連絡協議会 近畿ブロック主担者会議 22.07.09 主催: (財)滋賀県文化財保護協会 平成 22 年度全国埋蔵文化財法人連絡協議会研修会 22.11.11-12 主催: (公財)徳島県埋蔵文化財センター 平成 22 年度第2回全埋協近畿地区OA委員会 22.12.17 主催: (財)八尾市文化財調査研究会 第 25 回全国埋蔵文化財法人連絡協議会近畿ブロック 事務担当者会議 23.01.25 主催: (財)大阪府文化財センター 平成 22 年度全国埋蔵文化財法人連絡協議会近畿ブロック会議 23.02.18 主催: (財)長岡京市埋蔵文化財センター 22.09.0122.09.03 主催:文化庁、香川県教育委員会 22.09.2122.11.30 主催:「関西・考古学の日」実行委員会 (全国埋蔵文化財法人連絡協議会近畿ブロック) 全国埋蔵文化財法人連絡協議会関係 埋蔵文化財課関係 平成 22 年度第 1 回埋蔵文化財担当職員等講習会 「関西・考古学の日 2010」スタンプラリー 八丁田圃遺跡発掘調査現地公開 文化財建造物課関係 22.04.12 主催:文化庁 平成 22 年度文化財建造物保存事業幹部技術者研修会 22.04.13 主催: (公財)文化財建造物保存技術協会 平成 22 年度文化財建造物保存事業中堅技術者研修会 22.07.20-22 主催: (公財)文化財建造物保存技術協会 第2回日中韓建築文化遺産保存国際学術会議 22.09.03-04 主催:(独行)奈良文化財研究所 平成 年度概要 平成 22 年度重要文化財建造物保存修理事業等監督者会議 22 平成 22 年度概要 ◎ 41 平成 22 年度文化財建造物保存事業技術者養成研修 22.09.06-17, 10.18-29, 11.29-12.10, 23.01.17-28 主催:(公財)文化財建造物保存技術協会 平成 22 年度文化財建造物保存修理関係者等連絡協議会 22.10.12 主催:文化庁 平成 22 年度文化財建造物保存事業主任技術者研修会 22.10.13-14 主催: (公財)文化財建造物保存技術協会 委員委嘱 川崎 雅史 御坊市文化財保護審議委員 21.04-23.03 御坊市 川崎 雅史 みなべ町文化財保護審議委員 21.04-23.03 みなべ町 鳴海 祥博 伝統的構法の設計法作成及び性能検証実験 構法 22.04-23.03 歴史部会 鳴海 祥博 丹生都比売神社境内保存管理計画策定委員会 22.06.18,08.09 主催:丹生都比売神社 鳴海 祥博 平成 22 年度第1回海南市文化財保護審議会 22.08.18 主催:海南市 村田 弘 紀の川市文化財保護委員会 22.12.08 主催:紀の川市 鳴海 祥博 和歌山県文化財保護審議会有形第 1(建造物)部会 22.12.20 主催:和歌山県 主催:特定非営利活動法人 緑の列島ネットワーク Ⅲ 講師派遣・執筆など 講師派遣等 埋蔵文化財課関係 井石 好裕 冨永 里菜 紀の川ぶらり見て歩きウォーキングイベント 「北山廃寺と桃の里をたずねて」 平成22年度 向陽キャリアゼミナール 22.06.30 於:紀の川エリア まちおこし実行委員 会 22.07.13 於:和歌山県立向陽高等学校 土井 孝之 2010 年度 弥生時代入門講座 聞いてなっとく弥生の世界 「弥生土器にみる和泉との地域間交流」 22.11.27 於:大阪府立弥生文化博物館 近畿弥生 の会 田中 元浩 平成 22 年度 和歌山県文化財研究会 第3回文化財講座 「紀伊における古墳時代のはじまり」 22.12.04 於:和歌山県立美術館小ホール 22.12.05 田辺市商店街振興組合連合会 川崎 雅史 平成 22 年度全国商店街実践活動事業講演会 文化財建造物課関係 多井 忠嗣 歴史フォーラム「歓喜寺の歴史とそのあゆみ」 21.05.09 於:有田川町 きびドーム 結城 啓司 平成 22 年度第1回高野山大学図書館文化講座 22.05.27 於:高野山大学 鳴海 祥博 和歌山県町村教育長会研修会 修復現場見学 22.07.07 於:金剛三昧院 御船 達雄 本陣アカデミー「名手市場」物知り爺婆塾 22.07.07 於:旧名手本陣妹背家住宅 22.08.30 (社)日本建築学会 建築会館 於: 鳴海 祥博 「平成 22 年度文化財建造物修理主任技術者講習会」 鳴海 祥博 平成 22 年度日本伝統建築技術保存会 高等技術研修会 22.09.12,10.1 於: (社)日本建築学会 建築会館 7,12.12,23.01. 23,02.13 鳴海 祥博 高野山学 22.09.18 於:高野山大学 22.11.05 於:高野山 鳴海 祥博 (社)日本建築家協会近畿支部大会 下津健太朗 (社)和歌山県文化財研究会平成 22 年度第4回文化財めぐり 22.11.05 於:霊山寺・唐招提寺・大安寺 鳴海 祥博 軒規矩研究会第2回 中世と近世の扇垂木の軒規矩 22.11.20 於:永保寺 鳴海 祥博 軒規矩研究会第3回 近世の軒規矩と原寸図 23.01.29 於:慈尊院 御船 達雄 平成 22 年度第2回海南市文化財保護審議会 修理現場視察 23.03.23 於:長保寺 鳴海 祥博 国際交流基金 文化協力(助成)プログラム 22.09.19-29 於:ベトナム社会主義共和国 村田 弘 重要文化財名手本陣妹背家住宅・史跡旧名手宿本陣の整備と活用 22.12.23, 23.03,23 指導・協力等 42 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 於:旧名手宿本陣 執筆等 冨加見泰彦 ・ 山本新平 「京都・安楽寿院と紀州・あらかわ −木食応其とともに活躍した僧・覚栄の事績を中心に−」 22.09 和歌山県立博物館特別展図録 Ⅳ 刊行図書・出版物等 年報 『財団法人 和歌山県文化財センター年報 2009』 22.06.16 発行 埋蔵文化財課関係 調査報告書等 『田辺城下町遺跡』−元町新庄線外1線道路改良事業に伴う発掘調査報告書− 22.06.10 発行 『蛭田坪遺跡』−江川小松原線道路改良事業に伴う発掘調査報告書− 22.09.15 発行 『県指定史跡水軒堤防』−和歌山下津港本港1号線交差点改良工事に伴う発掘調査報告書− 22.09.30 発行 『粉河寺遺跡』−長屋川通常砂防工事に伴う発掘調査報告書− 23.02.08 発行 『神野々Ⅰ遺跡』−県道山田岸上線道路改良工事に伴う発掘調査報告書− 23.03.18 発行 『秋月遺跡(県第9次調査)』−県立向陽中・高等学校体育館建替事業に伴う発掘調査報告書− 23.03.23 発行 『坂田遺跡』−県道三田三葛線道路改良工事に伴う発掘調査報告書− 23.03.25 発行 現地説明会等資料 「紀州の歩み」 (財)和歌山県文化財センター速報展 リーフレット 22.05.19 発行 「神前遺跡」現地説明会資料 22.09.11 発行 「神前遺跡」現地公開資料 22.10.15 発行 「北山廃寺、北山三嶋遺跡」現地公開資料 22.12.17 発行 「立野遺跡の発掘調査」現地説明会資料 23.02.05 発行 報告会・シンポジウム資料 『地宝のひびき ―和歌山県内文化財調査報告会―』資料集 22.06.26 発行 『歩いて知るきのくに歴史探訪 ∼高野山奥の院を巡る∼』古地図で歩く高野山文化財マップ−奥の院地区− 22.10.30 発行 『田辺城下町遺跡の発掘調査』 平成 22 年度全国商店街実践活動講演会及び遺物展示資料 22.12.04 発行 公開シンポジウム『寺を造る−北山廃寺を支えた古代の技術−』発表要旨集 23.01.23 発行 公開シンポジウム『和歌山平野の集落遺跡−弥生時代から古墳時代へ−』資料集 23.01.30 発行 埋蔵文化財と文化財建造物のミニ情報誌 (財)和歌山県文化財センター通信『風車』 第 51 号 特集 「重要文化財金剛三昧院保存修理工事客殿及び台所の修復トピックス」 22.06.30 発行 第 52 号 特集 「和歌山橋本線道路改良事業に伴う神前遺跡の発掘調査」 22.11.19 発行 第 53 号 特集「北山廃寺・北山三嶋遺跡の発掘調査」 23.01.31 発行 第 54 号 特集「すさみ町 立野遺跡の発掘調査」 23.03.31 発行 平成 22 年度概要 ◎ 43 Ⅴ 組織 組織図 理 事 長 副理事長 専務理事 事務局長 管 理 課 埋蔵文化財課 文化財建造物課 役員 (理事) 理 事 副理事 専務理 理 理 理 理 理 理 理 長 長 事 事 事 事 事 事 事 事 役員 (監事) 風神 正典 井上 誠 鈴木 嘉吉 山口 裕市 白藤 正和 工楽 善通 櫻井 敏雄 林 宏 前田 孝道 森 郁夫 西川 秀紀 水田 義一 元 奈良国立文化財研究所 所長 和歌山県教育委員会 教育長 和歌山県文化財センター 専務理事 大阪府立狭山池博物館 館長 元 近畿大学 教授 社団法人 和歌山県文化財研究会 会長 宗教法人 護国院(紀三井寺) 代表役員 帝塚山大学 教授 宗教法人 東照宮代表 役員 和歌山大学 教授 税理士・風神会計事務所 代表 和歌山県教育庁生涯学習局 局長 評議員 井藤 徹 小野 成寛 加藤 容子 佐々木公平 立花 秀浩 千森 督子 黒田 吉廣 辻本 勝 額田 誠規 津井 宏之 和田 晴吾 元 日本民家集落博物館 館長 宗教法人 道成寺 代表役員 元 和歌山県教育委員会 教育委員 宗教法人 広八幡神社 代表役員 元 和歌山県立文書館 館長 和歌山信愛女子短期大学 教授 和歌山県教育庁総務局 総務課長 和歌山県立紀伊風土記の丘 副館長 和歌山県立博物館 副館長 和歌山県教育庁生涯学習局文化遺産課 課長 立命館大学 教授 職員 事務局長 田中 洋次 管理課 課 主 副 主 埋蔵文化財課 課 課長補 主 主 副 主 長 査 査 冨加見泰彦 松尾 克人 出口由香子 長 佐 任 任 査 村田 弘 井石 好裕 土井 孝之 佐伯 和也 丹野 拓 44 ◎ (財) 和歌山文化財センター年報 2010 技 師 技 師 技 師 専門調査員 任期付職員 任期付職員 任期付職員 文化財建造物課 主 査 副 主 査 参 与 参 与 技 師 技 師 技術補佐員 技術補佐員 表紙図案 岩井 顕彦 冨永 里菜 田中 元浩 山野 晃司 川崎 雅史 寺西 朗平 津村かおり 多井 忠嗣 御船 達雄 山本 新平 鳴海 祥博 下津健太朗 結城 啓司 増野 真衣( H 2 2 . 0 5 . 3 1 田村 収子 退職) 表紙右上 神前遺跡出土 青銅製鈴 表紙左下 熊野本宮大社第三殿 正面図 平成 22 年度概要 ◎ 45 財団法人 和歌山県文化財センター年報 2010 2011 年 5 月 26 日 【発行】 公益財団法人 和歌山県文化財センター 〒640-8404 和歌山市湊 571-1 TEL 073-433-3843 FAX 073-425-4595 http: //www.wabunse.or.jp/ E-mail: [email protected] 【印刷】 白光印刷株式会社