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2016.06.12「主の教えを口ずさむ幸いな人」 詩篇1

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2016.06.12「主の教えを口ずさむ幸いな人」 詩篇1
2016/06/12
礼拝
「主の言葉を口ずさむ幸い」
詩篇1
○
わたしの家内は料理が上手です。ですから、食べたときには「おいしい」とよく言いま
す。娘に言わせると、「パパはなんでも、『おいしい』という。」ということです。でも、
おいしいものはおいしいし、作ってもらった感謝のこころから「おいしい、ありがとう」
といいます。
「ありがとう」ということばは何と幸いなことばでしょうか。
聖書には記されていませんが、人類の最初に「ありがとう」と言ったのは、アダムとエ
バだと思います。」
神様の愛を受けて、互いに愛し、感謝し、ねぎらいのことばを言っていたと思います。
「ありがとう」こんなすばらしいことばによって、私たちは生き生きと生活をすること
ができるのでしょう。
○
南場良文先生が旧約聖書をこのように分けてくださっています。
歴史
17巻
創世記ーエステル記
詩篇
5巻
預言
17巻
神の民の過去
ヨブー箴言
預言
神の民の現在
イザヤーマラキ
実際生活に役立つ
神の民の未来
今日は詩篇を開きました。詩篇1篇、私たちの生活に役立つことばが記されています。
この詩篇1篇を見てみますと、人生には二つの生き方ができるということがあ分かります。
1、正しいものの人生
を生きる
2、悪者の人生
を生きる
1,
正しい者の人生
1-3
幸いなことよ。一時的に恵まれた状態にあるもののすぐにおわってしまうというも
のではない。
持続するもの
A.その行い(1-2)節
1、消極的(1節)
・・・・「~しない」
さきほど「ありがとう」ということばの幸いを話しました。
ことばというのはとても大切ですし、また私たちはこのことばをどのよ
うに用いるか、神様から委ねられています。
最初に「~しない」ということが書かれています。
a,悪者のはかりごとに歩まない
b,罪人の道に立たない
・・・常習的
c.あざける者のざにつかない
a.はかりごと
意図的に誰かをおとしめよう、引き下げようという思い
計画、ことば、
b.罪人の道
なんだろうと通りすがり
神様の喜ばれないこをする
-1-
なんだろうとそこに立ち止まり
c.あざける者
神様をあざける、神様のことばをあざける
なんだろうとこんどはそこに座ってしまう。
人をあざける、
ゴシップ、
差別、
みことば、
人を自分よりも勝っていると思いなさい。
人の目のゴミをとるのに、自分の目に梁
が入っているのに気づかないのか。
さばいてはいけません、さばかれないためで
す。
2、積極的(2 節)・・「~する」」
主の教えを口ずさむ
神の言葉を
喜びとする
自分の人生の興味の中心とする。
for us イエス様によって救われた喜び
今日まで守られたよろこび
会社から帰るとき、詩篇 103:1 - 2
滅び失せなかったのは主の恵み、
主の憐れみはつきないからだ。
讃美歌 476
救い主イエス
坂道に強き御手を差し伸べ
試みの時は恵みを給う
弱気わが魂、渇く折しも
目の前の岩は避けて水湧く
聖書に親しむ
日々の聖言
魚を自分で獲ってみる
とった魚を皆で味わってみるのもおつなもの
日々のみことば
サウル王が義理の息子
ダビデに嫉妬し
何度も殺そうとします。
そのきっかけは
戦いから帰って来たとき
に女達がこう歌っていたのを聞いたときから
です。
サウルは1000を
ダビデは万を
自分は王から引きずり降ろされ、王は息子ヨナ
タンではなくダビデになる。
嫉妬、高ぶりはコインの両面
サウル王は嫉妬心が強くなり、段々狂った人
-2-
格になって行ってしまうのです。
詩篇 37 篇はダビデが義父サウルに追われて
荒野、山谷をさまよっているときのもの
私はあらゆるときに、主を誉めたたえる。
私の口にはいつも主へのほめ歌がある。
私たちは何も悪い事していなくても、ある
ときには優秀だから、何かできるから、何か
買いものしたから、何かどこかに行ったら、
家を買った、車を買った、服を買った。何も
悪い事を為ていなくても、嫉妬の対象になっ
て、悪口を言われたり、無視されたりするこ
ともあります。
それは丁度サウルがダビデに嫉妬して、追
いかけているようなものです。
ダビデが言ったように、あらゆる時に主を
誉めたたえる、私の口には主への讃美がある。
と、言ってみると、心の中にゆとりが起こり
ます。というのは、今受けている試練は、自
分一人ではない、
「あなたがたのあった試練は、
皆人のしらないようなものではありません。
神は真実な方ですから、試練とともに脱出の
道を備えてくださっています。」
B.その祝福
水路のそばに植わった、
植えかえられた
いつも葉っぱが青々としている
神様が私たちの人生を配慮しておられる。神様がおられるから大丈夫。
3節
その人は何をしても栄える
xl;c'
栄`創世記のヨセフのよう
彼も嫉妬されて、信じられないような経験をする
⒑人の兄たちに嫉妬されて、エジプトに奴隷。
苦しみ、悲しみ、涙があったでしょう。苦しみを知っている
からこそ
主がともにおられたので、彼は栄えるものとなった。これは成
功するものとなったということです。難しい問題、課題なのに、ヨ
セフのところに行くとそれがうまくいく。
良き関係性をもっていて、うまくいろいろな方の助けをいた
だいて乗り越えていく。
-3-
聖書にはヨセフが愚痴や他人の批判、主人への不平を言って
いたということは記録がありません。
ポティパルの家で奥さん以外を任されます。
奥さんが誘惑して、不倫をしようといざなうけれども、
ヨセフは No と断る。
ストーカー犯罪ではありませんが、自分の思い通りにならな
いと以外な行動をすることがあります。ポティパルの妻はヨセフが
自分に性的暴力をしようとしたけれども、私が大声を出したので逃
げていったと、偽りをいって、ヨセフはとらえられてしまいました。
その牢獄の中でも、ヨセフは違っていたのです。神様にお祈りをし
ていたでしょう。父ヤコブが教えてくれた、神様がいつも見守って
いてくださるということばをきっと思い出して、口ずさんでいたの
ではないでしょうか。
無実の罪で捕えられ、そこで 2 年過ごすのですが、そこでも、ヨ
セフは神様を見上げ、神様に仕えるように、そこで仕えたのです。
神はヨセフとともにおられたので、彼を栄えるものとしてくださっ
た。そして 2 年後にそこだからでて、エジプトの王のところに行き、
これから起こる 7 年の豊作と 7 年の飢饉を預言します。王は彼を食
料管理の庁のトップにします。
ヨセフの手元には
私たちが手にするような聖書がありませんでした。
きっと、ひるもよるも主の教えを口ずさんでいたのだと思います。
困難の中にあっても、神様は見守りをあたえてくださった。
何をしても栄えるものとなった。
何をしても栄えるというのは、彼が神様の御臨在のもとにいるので、
不思議と道が開かれる。言い換えるなら、彼を通して神様が御計画
が力強く進んで行くと言えるでしょう。
段々暑くなって来ますが、
その人は、水路のそばに植わった木のようだ
時がくると実がなり、その葉は枯れない。
その人は何をしても
栄える。
素晴らしい約束ですね。
Ⅱ,悪者の道4-5
-4-
こんなふうじゃないんだ、悪者は。と英語の聖書には書かれています。
*1
こちらは、幸いな人、
その人は
その人は、水路のそばに植わった木のようだ
時がくると実がなり、その葉は枯れない。
その人は何をしても
栄える。
一方では、こちらは悪者という人がいます。
その人は 風がふきとばす、もみがらのようだ。
うちばというところがあって、脱穀するのです。
それから籾ともみ殻のものを分けるために、大きなフォークのようなもので
空中に籾を上げるのです。すると風によって籾だけが残る、それを繰り返して
いきます。
悪者は吹き飛ばされてしまう。
悪者は長続きしない。
Ⅲ.結論(6節)
v6
「まことに、主は正しい者の道を知っておられる、しかし悪者の道は滅びる。」
二種類の人生、
正しいものの人生はこんなにすばらしい。悪者は、こんな、長続きしない。
どちらの道を選ぶのか選択をするように。
私たちの二つの道がある。
そしてその行き着く先は
知っておられる
永遠の天国から
永遠の滅びか。とても厳粛
頭のなかではなく、神様が間断なく見ておられる。ケアーしてお
られる。
○
1,みことばを口ずさむ幸い・・・神様との会話
クリスチャンになって、聖書を覚え始めた。
新しい人生
Ⅱコリント5:17
誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。
古いものは過ぎ去って、みよ、すべてが新しくなりました。
Ⅱコリント5:17
いつも喜ぶ
*1The wicked are not so,
ESV
-5-
Ⅰテサロニケ5:16-18
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって
神があなたがたに臨んでおられる事です。
Ⅰテサロニケ5:16-18
小さなカードにして読んでいたり、聖書に線を引いて、その聖書をしばしば広げて、線
のあるところを見ていたりしていました。私が東京で学生生活をしているときには、テレ
ビが置かないことにしていたので、ちょっとした時間を作る事が出来て、御言を思い巡ら
すことができました。
今は、テレビも、インターネットも、がらけい
youtube
ガラパゴスの携帯、ネットラジオ、
いろいろな情報が入ってきます。それを意志をもって使わない時を作れれば良
いのですが、情報を使うのではなく、気づいてみたら情報に使われていることもあります。
ミヒャエルエンデの
モモ
に時間泥棒がでてきます。いつのまなにか時間泥棒に時間
を取られてしまっていることもあるでしょう。
御言を心の中に入れ始めると、考え方が変わっていきました。
あるときに
ガラテヤ書2:20
わたしはキリストともに十字架につけられました。もはやわたしが生きているのではな
く、キリストがわたしのうちに生きているのです。
大学時代
いつも黒板をきれいにしていました。それは予備校のときに、短時間で黒板
清掃をする作業員の方をみていて、大学にはいったら、私もやってみようとおもって、
講義の始まる前に黒板をきれいにしていました。ちょっとしたこつがあって、きれいにな
るのはうれしいものです。
ある講義のときに、いつものように黒板をきれいにしていました。
その時に
ガラテヤ2:20を心の中で暗唱していました。
友人が言いました「野田くんは、いつもどうしてそんなににこにこして黒板そうじして
いるの」そのときに、「だって、うれしいんだ。イエス様が僕の心の中に入っていてくだ
さっているから、
わたしはキリストとともに十字架につけられました。もはやわたしが
生きているのではなく、キリストがわたしのうちにあって生きておられるからって聖書に
書いてある。」
そんな応えをしました。それは台本があって言ったようなことばではなく、心の内から
ふと出たことばでした。その友達はクリスマスに毎年お子さんと富士見台教会に来てくれ
ています。
2,神様はいつも見守っていて下さる
まことの神様なんか関係ない、と思って生きていて、とても栄えている人、知識も、
富みも、いろいろなものを持っていて満足している人、充実している人達もいます。
詩篇1からすると、正しいものと悪者のどちらに属しているかというと、やはり、悪
者の側にいつのまにか入っているのです。
悪者が栄えるのを見て、うらやましがる必要はありません。
神様と一緒の生涯がどんなにすばらしいか。なぜなら、それは永遠の天国につながっ
ている
-6-
○
升崎外彦さんのことをお話しします。
明治の時代、
出雲に伝道をした伝道者です。
地元は耶蘇(キリスト教徒)が来た
と部屋を貸すことを拒否。そこで山の洞窟で寝起き、郵便配達をしました。
村人がその洞窟までやってきては意地悪。お茶碗を割り、汚物をいれたりしました。
その近くに村人が良く通る山道がありました。そこには木で作った簡易な橋。とこ
ろが一部が壊れていたのです。このままでは、村人が夜道、穴にはまっては大けが
をすると思い、橋の下にいって
直していたときです。肥だめ(人糞のはいったおけ)
を天秤にして通りがかった村人がいました。下を見ると、耶蘇の舛崎。わざと揺ら
して汚物を彼の顔にかけたのです。升崎さんは何か言おうとした口にその汚物が入
る。その時、
「父よ彼らを赦したまえ
彼らは何をしているのか分からないからです」
それをかごはいった庄屋さんのお嬢様、かよさんが見ていた。
彼女はひどく感動したのです。
升崎さんは
日頃から
このみことばを口ずさんでいたから、とっさのときに出た
のでしょう。
このかよさんが肺の病気になり、医者から余命を大切にするように。お嬢様の好き
なことをさせ、食べたいものを食べさせてあげなさい。といわれます。お父さんは
かよさんに聞きます。「何でもかなえてやる、何がいい、言ってごらん」
かよさんはこう言います。「升崎先生に会いたい」と
升崎がつれて来られて、イエス様の話し、そしてかよさんはイエス様を信じたので
す。
不思議な事に日ごとに元気になってくる。イエス様のことを家人に伝えるかよさん
を父親は快く思わない。これはかよがヤソになったからだ。
ある人に相談すると、
ヤソ狐、ヤソ狸がついたからだと、いぶったり、縄でしばったりして祈念してもら
うありさま。
折角良くなっていたのが悪くなっていくのです。そしてかよさんは蔵牢に入れられ
てしまう。
朝起きると、食事の前に手を合わせイエス様にお祈りするかよ。
ある朝のこと、世話をしているばあやが見るとお祈りが長い、どうしてか?手を合
わせて祈っている。またしばらくして来るが、まだ手を合わせて祈っている。
何かおかしいので、中に入って、よく見ると
手を合わせたまま息を引き取ってい
た。
村を挙げての葬儀、皆ヤソ教の升崎がかよを殺したと思っている。
お暇をだされたばあやが
かよさんの布団の中と分冊にされた本とノートを見つけ、
ご主人にもっていって、驚く。
それはかよさんの聖書、没収されてしまうとおもって、分冊にして布団の綿の中に。
そしてノートには日記。今日だれが来たか、家族の一人ひとりの祝福をお祈りして
-7-
あった。ひどいことをされたのに、ひとことも、恨めしいとか、憎いということば
はない。すべてが祝福のことば
それを見て、父初めてわかった。
「かよを殺したのは、私だった」
それで升崎さんに詫びとお願いをする。
もう一度キリスト教で葬儀をして欲しいと。
村中の人たちがきて今度はキリスト教で葬儀がいとまれる。
その時、升崎さんは
胸がつまって、とてもメッセージをすることができず、かよ
さんのノートを幾つか読んだだけ。
かよの父が進み出て、
「かよを殺したのは私。こんなに心の聖いかよを殺したのは私。
今日から、私はヤソ教徒になる」と宣言した。
それが
升崎さんの自伝、「草履履きの伝道者」に書かれています。
舛崎さんも
かよさんも
みことばを思いめぐらし
口ずさんでいたのでしょう。
その人は水路のそばに植わった木のよう、
困難があっても、しっかりと根を下ろし
その葉は枯れない
日照りのようなときに、周りの人たちに木陰をあたえるよう
になったのです。
水路のそばに植わった木のように、
時が来ると実を結び、その葉は枯れない、
その人は何をしても栄える
という人生
と、
人生で何かやったし、物は持っているし、なにもかもあるかもしれないけれど、
風が吹いたら飛ばされてしまう、もみ殻の人生
どちらを私たちは選ぶでしょうか。
神様の実を結ぶ人生ですよね。
みことばを口ずさむ幸い。聖書に書かれていることを思いめぐらしながら日々を暮
らせるということは、素晴らしい人生です。
私たちにできることがあります。
1、イエス様に対して
「ありがとう」人に対して「ありがとう」と言ってみる
2、神のことばである
聖書
日々のみ言葉を読み、書き記してみましょう
3、みことばの光に応答しましょう。
-8-
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