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上松「姫宮伝説」

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上松「姫宮伝説」
上松「姫宮伝説」
研究者名
担当教諭
増 澤
増 澤
鈴 木
駿
遼
綾 先生
1.研究の動機
「上松に残っている伝説」をみなさんは知っているだろうか?
実は上松には、木曽の中でも一番といっていいほどたくさんの伝説が残っているのだ。上松に住んでい
るのに、僕たちはそんなことは今まで全く知らなかった。「上松の伝説」に興味を持った僕たちは、調べてい
くうちにある伝説を知った。それが悲話「姫宮伝説」である。
僕たちはこの「姫宮伝説」について調査することで郷土上松をもっと知ることができるのではないか、また、
あまり知られていないこの伝説を多くの人に知ってもらいたいと思ったので研究の題材として選んだ。
2.伝説の詳細
「姫宮伝説」が伝わる姫宮神社には、かつて次のように記された板があった。
(原文) 高倉八幡社境内安置姫宮社祠内木板ニ記載セルモノ
此姫宮大明神ト申奉ル御神体ハ、後白河院ノ皇子以仁王ノ御女ナリ御母ハ伊豫守盛章ノ女御父以仁王
美濃国恵那郡小川庄ニ座シマスト聞テ御同母ノ若宮ヲ伴ヒ御父ノ許ニ致ラント御潜行ノ処平氏ノ?□□某
落人ト察シ、擒ニセント其従士支ヘ防ク其間ニ其所遁レ姫宮ハ麻畑
ノ中ニ隠レ給フ〔其ノ地今ニ此麻(シマ)ト言フ〕土地ノ者共追ヒ奉ル姫宮ハ詮方ナク西ヲ指テ谷間ニ遁レ柴
草ノ中ニ遁レタマフ□□某間近ク追ヒ来ルヲ見賜ヒテ、尚山深ク西ニ遁レタマフ所ニ、谷川満水渡ヘキ様
ナシ。姫宮ハトテモ免レガタクヤ思召ケン其谷川ノ深キ渕ニ御身ヲ投ジ薨シ給フ(此渕ヲ以来姫渕ト云フ)カ
カル后此渕辺ヲ夕暮ヨリ通行スレバ美麗ナル姫ヲ木間ニ見奉ルコト屢々アリケレハ里人其見給奉ル所ニ祠
ヲ建テテ姫宮神霊ヲ鎮座シ姫宮大明神ト崇メ奉ル、右□□某ハ大イニ驚キ此病カナラズ姫宮ノ崇リナラント
先非後悔恐怖シ姫宮ノ霊ヲ同郡ヒザワニ祠ヲ建テテイワヰマツリテ其罰ヲ謝ス。尚事由ヲ子孫ニ伝ヘ今ニ
祭祀怠ルコトナシ。又姫宮ノ神慮ト申伝ヘタリ
慶長八年癸卯年九月吉日
※ 「?」は、字を解読できず
(内容) 源平の争いが続く平安時代末期、宇治川の合戦で敗れた後白河上皇の皇子・以仁王の娘である
姫宮は、父が美濃国へ逃れてきている(一説には源頼政とともに上松に来て隠れ住んでいたとも言われる)
ということを聞き、弟の若宮を連れて美濃国へ向かったのだが、道中の上松で平氏に落人と見破られてしま
った。平氏の襲撃を逃れた姫宮は麻畑に身を隠した。(その地は今、此麻=島と呼ばれている)土地の者は
姫宮をかくまったことによって自分たちにも被害が及ぶことを恐れて姫宮を追い返してしまったため、しかた
がなく姫宮は平氏から逃れるために西を目指した。
姫宮が山奥まで逃れてくると、水量が多くとても渡れそうにない川にたどり着いてしまった。その時、平氏
の追っ手が再びやってきた。
もはや追っ手から逃れるすべはないと思った姫宮は、逃げてくる途中で見た、京都ではあまり見かけなか
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った田園風景を思い出し、せめてもの想い出にと田植えのまねをして、田植え歌を歌った。その美しい声の
こだまが消えないうちに、姫宮は川の深い渕に身を投げて、自らの生命を絶ってしまった。(以来、その渕は
姫渕と呼ばれるようになった)
…というのが伝説の流れである。後日談として、姫宮をかくまうことを拒んだ集落では麻が育たなくなった
とか、夕暮れに渕のそばを通ると美しい姫を木々の間に見ることが度々あったので里人が祠を建てて姫宮
の霊を供養したとか、姫宮を追った平氏の一人が崇りを恐れて祠を建てて自らの罪を謝ったなどの話があ
る。
3.伝説の背景
この悲しい伝説には歴史上実際に起こったある合戦が関連している。その合戦と登場する人物の詳細を
調査してみた。
みなもとのよりまさ
① 源頼政
皆さんがよく知っている鎌倉幕府を開いた源頼朝と同じく清和天皇の子
孫の一人だが、頼朝一族は河内源氏、頼政一族は摂津多田源氏と呼ばれ
ている。摂津多田源氏の一族は、どちらかと言えば歴史の裏舞台を歩いた
ために、大した活躍をしなかったように思われているが、特に弓術に優れ、和
歌をたしなみ、戦いの知恵、時代にあった判断力は人並みならぬものを持っ
ていたといわれている。
源頼政像→
頼政もその一人で、近衛天皇に怪鳥「鵺(ぬえ)」の退治を命じられ、黒雲に
潜む鵺を見事に弓矢で射落として退治をし、天皇から褒美をもらったという
逸話も残っている。
鵺退治の図→
※2度の戦乱と頼政
頼政が以仁王を奉じて打倒平氏を目指す以前に2度の大きな
戦乱が起きた。一つめは 1156 年、後白河天皇(弟)と崇徳上皇(兄)
の権力争いにより、保元の乱が起こった。このとき「兵庫頭(ひょうごのかみ)」という地位にいた頼政は、頼朝
の父である義朝、平氏の平清盛とともに天皇方に加わり、勝利を収めた。また二つめは、保元の乱から 3 年
後の 1159 年、ついに源氏と平氏の対立が表面化し、摂関家(藤原氏)の内部対立(通憲vs信頼)と合わさっ
て起こった平治の乱である。このとき、頼政は源氏が味方する信頼方に加わることをためらっていた。「義朝
は保元の乱のときに上皇方に加担した多くの身内を処刑した。きっと運も尽きているだろう。」と周囲に話し
ていたそうだ。しかも、戦火を避けるために二条天皇が平氏側に行幸(ぎょうこう)したため、朝敵(朝廷・天皇
の敵)になることを恐れ、頼政は平氏側に加わった。そして、頼政は勝利を収め、1166 年には乱での活躍が
認められ、「三位(さんみ)」の位を得て昇殿が許された。このことからも「時代にあった判断力」がうかがえる。
もちひとおう
② 以仁王
後白河天皇の第二皇子。三条高倉に居宅があったので、三条宮・高倉宮とも称した。才学に優れ、人望
も厚かったが、母親の身分がそれほど高くなく、政権を掌握した平氏の縁にも繋がらなかったため不遇で、
2人の兄弟が次々に天皇になる中、親王宣下(せんげ)も受けられず、王にとどまった。
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③ 宇治川の戦い
高倉天皇が退位し、上皇になられたとき、「天皇譲位後は八幡、加茂、春日でなければ比叡山の山
王寺へ行幸する」という先例を破り、平氏一門の尊崇を集めていた安芸の厳島神社への行幸に踏み切っ
たことにより、叡山、春日、興福寺・園城寺の衆徒がついに驕(おご)る平氏に憤慨した。そして、以仁王に
平氏追討を持ちかけ、その令旨を全国に出すことに成功し、頼政もこれに応じた。
…ちなみに、『平家物語』では、「頼政の嫡男である源仲綱の愛馬を清盛の息子の平宗盛が無理に
取り上げ、馬に『仲綱』という名をつけて数々の恥辱を与えたことに頼政が憤慨、以仁王に平氏追討を持ち
かけた」というストーリーになっているが、このときすでに 76 歳で、百戦錬磨の頼政が一時の感情で行動を
起こしたのかどうか、疑わしいものである…。
(歴史旅紀行 源頼政と以仁王の挙兵より)
しかし、この計画は清盛に漏れてしまう。清盛はすぐに以仁王を
捕らえようと追捕士(ついぶし)を派遣するが、その中に頼政の次男
の源兼綱がいた。清盛は首謀者が頼政であることに気づいておら
ず、兼綱はこのことを頼政に伝え、以仁王は園城寺へ落ち延びた。
そして 1180 年 5 月 16 日、頼政は敵に老いた武将だと悟られ
ないようにその白髪を黒く染め上げ、仲綱、兼綱以下 300 騎を率い
て園城寺にはせ参じた。しかし、園城寺の衆徒は少なく、興福寺
の兵は到着していない、同調していた叡山が変心して参加を取りやめた…と、
↑京都・宇治川
百戦錬磨の頼政に誤算が生じた。「この数では平氏の攻撃を防ぎきれない」と判断した頼政は、興福寺へ
避難することにしたが、その途中平氏の一軍が追いつき、宇治川を挟んでの合戦になった。
平氏の軍勢は残らず川を渡って、近くの平等院の門の内まで攻め入り、戦った。この混乱に紛れ、頼政
は以仁王を先に興福寺へ落ち延びさせ、平氏の追撃を防いだ。しかし、仲綱と兼綱は討たれ、頼政も齢七
十を越える身であり、戦で左膝を射られて重傷を負った。そして、今は静かに自害しようと、門の内へ退き、
「扇の芝」で切腹をしたとされている。
以仁王も興福寺へ落ち延びる途中に、光明山寺の鳥居の前で追手の流れ矢
に当たって亡くなったとされている。
しかし、この以仁王が平家追討の令旨を出したことにより、各地の源氏が「打
倒平氏」を合言葉に平氏を追い詰めていくのである。
右:平等院「扇の芝」
左:伝源頼政の墓 →
4 .関連する隠れた名所
上松には「姫宮伝説」の言い伝えが残っている名所がある。
・ 姫渕‥‥姫宮が身を投げた場所。
・ 姫宮神社‥‥姫宮が祀られている祠がある。
・ 麝香沢(じゃこうざわ)‥‥姫宮が通り過ぎるときにふところに入れた麝香の袋を落とした場所。その香り
がもとで平氏の追っ手に見つかった。麝香の香りがヒノキに移ったと伝えられ
ている。
※麝香とは、今でいう香水のようなもの
・ 高倉‥‥地名。高倉の宮以仁王が住んでいたので高倉と呼ぶのだという言い伝えが残っている。
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↓麝香沢
↑↓姫渕
↑姫宮神社
・ 亡霊供養塔‥‥高倉にあり、以仁王が建てた源頼政の墓だと伝えられている。
・ 高倉にある塚‥‥「高倉の消えずの灯」という伝説が残る。
明治中期まで、毎日高倉の付近に一点の灯が輝くのが見えた。その灯は大きくボー
ッと光り、夜明けとともに消えていったという。村の人々は不思議に思い、灯の正体を
つかもうとした。そして、ついに村人の一人が灯がどの地点で光っているのかをつきと
めて、その場所を盗掘してしまった。そこは、方形の塚であった。それから、この消え
ずの灯は高倉の地から永久に消えてしまった。
盗掘された塚からは、金の玉が出たとか、その金の玉は姫渕で身投げした姫の埋め
たものであったとか、数多くの話が残っている。
亡霊供養塔→
・ 高倉神社↑
・
島‥‥平氏から逃れるために姫宮が麻畑に身を隠した場所一帯の地区の名称。
・
御室‥‥地名。木曽福島にある以仁王が移り住んだという場所。
その他にも、「王屋敷」や「天皇坂」など関係のありそうな地名が存在しているという。
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↑名所周辺の地図
5 .伝説が知られていないのはなぜか
僕たちもそうだったように、この「姫宮伝説」は上松の人にはそんなに知られていない。特に、若い世代の
人はほとんどと言っていいほど知られていないことがわかった。その理由を自分たちなりに考えてみた。
①源平の戦いは有名だが、その発端となった以仁王と源頼政の挙兵自体が一般には知られていないとい
うことにより、以仁王と関連のある「姫宮伝説」も知られていない。
②僕たちは伝説にゆかりがある場所に直接行ってみたが、どの場所も町の中心部から遠いかなりの山奥に
あったし、交通量も少なかった。伝説に関する立て看板があったが、それを目にする人も少ないのでは
ないかと思った。
③伝説の語り部の減少。
以上のような理由を推測したが、結局はっきりとした理由はわからなかった。
6.考察
平氏を倒そうと源頼政とともに挙兵をしたが失敗に終わって敵に討ち取られてしまった父親が、東国の
山奥へ落ち延びているということを聞いた姫宮はどんなことを思ったのだろうか?きっと、すぐにでも父親に
会いたいと思ったのだろう。「姫宮伝説」では、道中の危険を顧みず父親のもとへと急ぐ姫宮の様子がうか
がえる。この親への愛というものが、悲しい結末に終わってしまった「姫宮伝説」というものをより一層引き立
てているように思えてならかった。
約 5 年にもわたった源平の争乱の中で最も有名な物語は「平家物語」であり、平氏の衰退を描いた、言わ
ば「悲話」であるが、自分たちの身近にあった「姫宮伝説」も短くて簡単な文章の伝説ではあるけれど、そん
な物語に匹敵するといっても過言ではないくらい単純ではない哀しみが感じられる伝説なのである。
2-5
また、以仁王は身分が低かったといえども皇族であり、皇族殺害をとがめられることを恐れた平清盛が以
仁王に源姓を賜与し、名も「源以光(みなもとのもちてる)」と改めて生き延びさせたという話は広く伝わってお
り(そのため、以仁王の平氏追討の令旨は本人生存のため有効であるとみなされたらしい)、以仁王が木曽
まで落ち延びてきたというストーリーは伝説だとは言い切れないのである。
反省点としては、伝説に関連した名所が町の中心地から離れた山奥に位置していたので、現地へ行って
調査をする機会が少なくなってしまったことが挙げられる。もっとその地域の方々に話を聞く機会などを設
けることができたら、資料には記されていなかった詳細を知ることができたかもしれない。
7.感想
この研究によって、姫宮伝説をはじめ、その背景にある多くの伝説が郷土の上松にあることを知ることが
できた。自分は十数年上松に住んでいるけれど、今までその上松が木曽で一番伝説が残っている場所と
は全然知らなかったので、これをきっかけに郷土の伝説について興味を持っていきたいと思った。
(駿)
「姫宮伝説」について調査を進めるごとに、自分の知らなかった「上松の神秘」みたいなものを知ることが
できたような気がする。
それぞれの名所にはその云われが記してある立て看板があったが、高倉神社や姫宮神社の境内は落ち
葉に埋もれていたし、亡霊供養塔とその横にある祠もさびれている感じがした。伝説を風化させないために
もこのような地元の伝説を誇りに思い、語り継いでいくことが大切なことなのではないかと思った。
(遼)
8.参考文献
歴史旅紀行 源頼政と以仁王の挙兵
http://www3.coara.or.jp/~primrose/yorimasa.html
Kyoto Simbun 探訪 京滋の庭
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/niwa/55.html
福島県二本松市 指定文化財
http://www.city.nihonmatsu.fukushima.jp/history/bunkazai/top.html
上松町の神社と仏閣 〔上松町教育委員会〕
木曽―歴史と民俗を訪ねて― 〔木曽教育会郷土館部〕
新詳日本史 〔浜島書店〕
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