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浄土楓724早8毎 {毎月 1 固 1 日発行} 平成18年 10月 18先行個利均年 5 月 20日目~ 31量郵便絢U可 mqnthly JODO October2006 念偽にいさみある人は、 無辺の悟りを開くべき人なり 0 相かまえて願往生の心にて 念悌を相続すべきなれ 7 。 ( 十二問答 ) 2∞6/10月号目次 日本仏教の再生は可能か ・.. •.・. . . .・ H ・. ••..・ H ・-…・・ … H ・ H ・..…・・ 上田紀行 2 熊谷次郎直実… H ・ H ・ - …・・. . . . ••••. .・ H ・-… H ・H・ 伊藤唯真 1 0 法然上人 の再来を求めて 念仏人 と歴史 仏教 コ ラ ム ……… H・ H ・-一一…・. •...•••. ..……… H ・ H ・. •••••. .・ H ・- 大童了時 日 1 6 Illl 説直実異聞! 日…・・ H ・ H ・...・ H ・. •.… H ・ H ・.....・ H ・...…・・… H ・ H・・・佐々木美冬 2 3 会いたい人五十嵐喜芳さん … H ・ H ・-… H ・ H ・-…H ・ H ・. . .… H ・ M ・- 関 容子 27 響流十万 . •.一一. •. •.・H ・. •.…・・・・・・・・・・・・・・・ e ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 0 ・・・ 0 ・・・ 小村正孝 3 4 シ ネマ 随想 -……………・……・… H ・ H ・-・・ H ・ H ・. •. •. .・ H・- 袖山聾翼 3 8 上品上生を願 っ た男 …・・・…・・・…・・・・… H ・ H ・.. .• ......・ H ・・・吉井戸秀夫 』フォ ー ラム …-………………………一一………………………… 4 3 H ・ H ・. •. .・ H ・-… H ・H ・-… H・ H ・. . . . . . . . . . . . . ..…蜘=増 田河郎子 44 ……. . .・ H ・. . .・ H ・. . . .・ H ・-… かまちよしろう 4 5 編集後記 …………. . . .・ H ・.....…. . . .・ H ・-……. . . .・ H ・....... .・ H ・-… . •. .・ H ・-…… H・ M・. 48 浄土誌上句会 マンガ さ っ ちゃんはね つ 表紙題字=浄土門主 中村康隆狽下 アートテ' ィレクシ ョ ン =近藤十四郎 箇カ= 迦陵頻伽合 主| 法 催| 然 講| 上 のご i寅| 人 会| 鎖 仰 A Z三 ,、、、 て E│ 己也、‘ め ~然 l二人の l 呼米 を求めて ここから仏教の話にしたいと思います 。 。 。 ったようなものがあ そして、そういう苦悩があるというときに、私が思い返されるのは、やはり、日本 現代の 「条件付きの私だけが愛されている 」、あるいは、 「あるがままの私 」 が愛されて いる 仏教史の中では、法然上人ということになると思います まさにその当時比叡山では、宗教的なエリート、あるいは地位とい 。 る人間のほうが、成仏に近い、あるいは救われるのだというような考え方があ ったことは 主 義が蔓延していた 。 まさに条件付きというわけです 。 何の条 。 ですから、位の高い人間のほうが、やはり、救いに近いのである、というようなエリー どうも間違いないようです ト その時代に法然上人は、人間はこの併に生を受けているだけで存在な義がある 。 件もなく救われるという、究極の無条件の救いを説いて、 qa のごとくあらわれたのです これはどういうことなのかと、私は考えてしまうのです 。 そして、法然 上 人が 「 専修念仏 」 をお説きにな ってから、何回も、弟子たちまでもが同 じ質問を法然上人にしたわけです って いない 」 。 と 言っ と て、執劫にそ 」 「やはり、念仏をたくさんやっていた 人 のほうが救われるんでしょう 修行をたくさんや 「いや、あなたはわか って いた人のほうが、念仏を 一回だけ 言 った人間よりも救われて当たり前じゃないか 。 いうことを、質問してくる中で、 れを符定なさ って います 。 3 法然上人の現代性 。 つまり、この世の中の人間は、位が高い者、位が低いもの、普人であろうが悪人であろ うが、平等に、弥陀の本願の前では全く平等なのだ、ということなのです「救いの中の 、 救いの中の平等性 」 ということを述べられた宗教者というのは、日本の宗教 民主主 義 」 「 。 史の中で果たして存在しているのだろうかと問われたとき、私には法然上人以外にはいな いのではないかと思わ れるわけです ですから、比叡山のほうからは、 。 有名 な明恵上人なども、法然 上 人のことに傍然としてしま ったと思います それは、恐ろしい現代性を持っていて、その時代においては、非常に革新的というか、 。 気が狂ったとし か思えないような発 言 だ 。 繰り返し弾 圧され たわけです ったということです ったわけです 。 というのは、そこか いる 。 っているということです 。 つまり、私は生まれてきただけでは祝福されてないんだ、 トすると思われるのは、まさに、現在が条件付きの私、というもの 。 っ し ゃっ ら世 界中にいろいろな 平等、とい しかし、それは、自力ということで行くのではなく、ひたすら他力で行くんだというこ とを、終始崩さなか このとてつもない、平等への意志 う思怨が生まれましたが、世 界の思想の中でも、あの時代にそ のような ことをお ィッ たというのは、とてつもなく飛び抜けているというふうに、私には思えるわけです それが現代とフ でがんじがらめになって ということを、多くの子供たちが思 4 法然上人の iヰヨ経 を求め て そのような時代において、本 当 にあなたは ま 当 におめでと ったにしても、あなた 生まれてきただけで祝福され、そして、生 れてきただけで、そして、どんな挫折をして、悪に 手 を染めてしま 。 一人 一人に 言っ てくれる思想というものが、今必要とされているよう は既に生まれているというだけで救われているのだ、ということを説く、本 う、というふうに、 に、私には恩われるのです ったら、ただ 「専修念仏 」 だけをお っしゃるかどうか 。 当 にそこを真正面から撃ち抜く思想だ 『 生きる意味 」 (岩波新書)の中で書 そういう意味で 言えば、日本仏教史の中では、法然上人のその革命的な 主 張というのは、 ダイレクトに現代に届いてくると思いますし、この 。 っ しゃ かせていただいた私の現代の苦悩というものは、本 と思われます もし法然上人が 今 いら あるいは日本が って、 って、この社会の構 。 っている人がいることを、そこの社会改革などをすることによ あるいは、他力ということに対しては、救いに向か っての他力であ 造の中で、本 当 に闘 。 。 ト・ハンなど世界を動かしている仏教者たちはどうい ッ った場合、果たして、仏教者としてそこで何をおっしゃるであろう それを直していこうというのを自力だとは、おっしゃらないと思います これだけ豊かな固にな かということを考えたりいたします 縁起の思想 今、ダライ・ラマやティク・ナ ・うたい ったことは、四聖諦という、四つの聖なる教え、つまり LL う教えを説いているかというと、仏教の中心は縁起の思想ではないかということです 仏陀が最初に法をお説きにな 5 。 。 生老病死は 。 。 。 っ て、そ そして、 「集」、それには原因があ ったわけです つまり、縁起がわか ッ っているわけです 。 。 縁起の法という っていないからで っ ていないとと そして、 「道 」、そこには道があ 「苦 」 である そして、 「 滅 」、それは滅することができる 「苦、集、滅、道 」 でした る の道のごとく 生 きていけば救われる、という教えだ 。 我々は苦しみを 生 み出しているものは、 「諸行無常 」 であることがわか っ ていない プにな ッ 。 と並んでいれば、だれもコ ッ ッ プだと プというのも関係性の中にあ 私たちは、すべてが関係性の中にあるということがわか っ ていない 。 もに、 「 諸法無我 」 であることがわか す のは、私がこんなところで 言う必要もなく、関係性です って、私との関係においてこれはコ 例えば、私たちはこれをコ ップだと思いますが、このコ るのであ しかし、これが何とか病院の泌原路科の前にズラ そうすると、病人が治 病院でも治らない病気を治そうとして、悪魔払いをするわけですが、楽 。 つまり、お釈迦様の力で恕魔が払われて、治るという ったりして、徹夜でやるんです 。 っ っ てしまうのは、 」 と、秘尿持科の検査 室 の前で飲む人 。 っても、水を飲むものだと思 「おいしそうな麦茶だな 思わないと思います 。「ご自由にお取りください 」 ということで、そこに変茶とかがズラ と入 っ ていたとしても、 ッ 。 ップというのはどこにあ は余りいないと思います つまり、このコ 私たちの誤謬であって、これは器にしかすぎないわけです 。 私はスリランカで、 「悪魔払い 」 という民衆儀礼を研究したんですが、それも縁起と関 わりがあります しい祭で、太鼓をたたいたり歌 。 てしまうという民族儀礼なんです わけです 6 tま然上人の再来を求め て どんな人に悪魔がつくんですか、と州聞いたら、 言 、つんです。 「 孤独な人に悪魔がつく な人に悪魔の眼差しがくるんだ 」 と、スリランカの人たちは 。 。 そして、孤独 。 人間 おまえなんかは 」 と思 って いただけれ どういうことかというと、皆さんが村人だとしますと、皆さんの眼 差 しが溢かければ、 。 「おまえなんか死ね 私には悪魔がこないんです 。「きょうはいいお話が附けているわね ば私には悪魔はこないんです 同じことが、学校のクラスだとすると、みんなが 。 村八分なんだ 」 というような目で見られると、私は絶対に皆さんを刺すと思います というのはそういうものじゃないでしょうか っていることじゃないでしょうか 。 。 それが、どのような生まれ育ちであ 。 って も、 今ど 私の中には仏のような部分もあるけれども、とてつもなく怒もあります それはだれで も知 のような 仲間に聞まれ ているかということで、出てくるわけです 。 私が皆さんから 「死ね 」 とか 「おまえなんかは生きてる価値がない」 という自で見られ ると、私は絶対にみんなの不幸を願うような人間になるという確信があります 。 っていたでしょう 。 ったのか、 今の アメリカを見ていれば、本当に爆弾 もし私が盗賊 の家に生 まれていて、育 っていれば、 まさに親孝行をするため 縁起というのは、もし私があそこのあの時代の、あの親に育てられていれば、どうな っ ていたのか に、私は盗人にな 。 私が本当に貧乏な固に 生 まれていて、そして、 を投げていたかもしれません なぜこのような暴力が 生 まれているのか、なぜテロリストはテロリストにな ということを考えなければならないし、私の中にもテロリストがいるんだということを、 7 。 ッ 出 デイズムの仏教 十分認謙してから、どうするんだということを考えなければならないということを教えて いるわけです ですから、その中で、ティク・ナット・ハンとかのエンゲ l ジド・プ 者たちがみんな 言 っているのは、その 人たちを悪と切り捨てるのではなく、それを 生み 。 。 した縁起の中に悪があるということを見て、その縁起というものを、いい縁起に変えてい そして、その見方で現在の社会を見るとしたら、その人が救われな かなければならない い、というよりも、構造自体が救われないからじゃないかというわけです 慈悲から働きかける 。 暴力を生み出してしまうような構造がある あるいは、人をねたんでしまうような構造 そここそ見ていかなければならないのではないか、という主張をしているわけ 。 があるわけですが、今はだれに対しても働きかけることもできるし、 一人 一人がまさに働 きかけをすれば、貧富の 差 の問題とか 人間の問題 であるということは、解決ができるので 。 はないか です 。 まさに、ダライ・ラマにせよ、ティク・ナット・ハンにせよ、現代を動かすようないろ いろな人は、まさに世界というものを、仏教の縁起、そして、慈悲ということから動き出 さなければならないのではないかということを 言っ ているわけです 。 。 それ もし仏教というものが、私とは何なのかという問いを与えるだけでそ、 れに答えるだけ でいいのであれば、仏陀は人に説かなかったと思います お釈迦様は、自分が悟ってから、人に説き出すまでの問、タイムラグがあります 8 法然上人の将来を求めて れたわけです は、私はわか 。 ったけれども、 なぜ人に説かなければならない のかということを考え て お 。 「専修念仏 」 ということに の 人々は 言っ て います 、 。 「 南無阿弥陀仏 」 をお称えになるだけでよか の心があ ったわけです ら ったのに、あ 救うという構造におい 。 ったというふうにしか、私には恩われ て、救いというものが、この世の中にま ったのでしょうか 気づ かれたの しかし、それを人に説かれたということは、この教えというものが広まることで、 が救われるという慈悲によるものだと、後世 ったら、自分が 法然 上人はなぜ 「弥陀の本願 」 に気 づ かれ て に、ただそれだ ってほしいという慈悲 ら かに、そこには慈悲があり、そし のように、法難を受けながらも、人にお説きにな それは、明 。 さにあまねく行き渡 ません まさに、それを救うという行動においては自力だ 。 っても、生きるということを捨てないで、あき ら ては他力であ ったけれども、たくさんの人が教われてほしい この教えに気づいてほしい そし て、まさに貧絹孤独な状況の中にあ 。 。 9 めないでほしいという、そのことを広めたいということに関しては、大きな社会運動であ ったと思います (つづく) 共事ir生きるカとしての仏数J (PHP新.} 人 々 よ由紀行(うえだのリゆき) 1958年東京生まれ。 東京大学大学院文化人類学専攻1・土E星稜修了。 専攻は文化人類学。 現在 . 東 京工業大学大学院助事責綬 (社会理工学研究科・価値システム専攻)。 蕃.に 『生きる愈嫁J(岩波新 .>.rがんばれ仏教 J (NHK ブックス)、 r. しの時代を ひらくJ(法JlM). r宗教クライシスJ(岩波. 店). r ス リランカの1'.紛 いJ(徳間・16). r1t霞のネットワークJ(カ タツムリ社) など。匂因宗.と '‘ 京都文教短期大学長 崎問教大学名誉教団奴 も 唯 念仏人と歴史 ,喝円~ 熊谷次郎直笑 「坂東の阿 上人も、信心堅 固 なる念仏の行 者 のため 家人では甘糟の太郎忠綱、熊谷の次郎 直実 御家人では 宇 都宮の弥 三 郎頼綱、武蔵国の御 あまかずくまがい会おざね しには、常におもひ出給て、 津の 戸 の 三 郎為 守 などである も 大 胡の 彼らの 信 仰の 。 。 1 二 七三 土信 仰に 生 (『 勅修御 伝』二 五 ら 消息による教化を得て浄 った 。 御家人が果した役割は大きく 、 法然上人もか 関東地 方 の念仏弘通にこれら在 地領主たる とさえ 云 われている 、 「聖 人根本の弟 子」(『西方指南抄 』 巻 下 末 ) 人は 大胡の太郎、 津 の 戸 の 三郎、しのやの 玄一 きた人であ 上 人か 小四郎隆義の子息太郎実 秀およびその妻 室 影響は 子 息、 一族郎党にまで及んだ 。 みだほとけ 」とぞ仰られける (『 勅修御伝 』ニ 七) 会っ ては眠 悉 のほむらを つては 罪悪 をほし った 。 武 士 は鎌倉時代という新世紀の開拓者であ ったが、執敵怨類に 燃やし、人 畜 のいのちを断 憎悪の機 (人間 ) 」 であ いままにする 「 この悪人たる武士に救済の 手 をさしのべたの が法然 上 人である 。「弓 箭の家 業 をもすてず、 往生の素意をもとむる道 」 は専修念仏のほか 士 の閲でこの 「機と教の 。 れらに大きな期待を寄せられていた 津の 戸 ったから、武 ったときには、 法然上人は 書 状をつかわし、 「さても専修念 で念仏 者 を 三 十人以 上 もつく になか 園。 の 三郎が熊谷 直実 の支援もあ って、武蔵圏内 Z ごけにん ( 鎌倉 幕府の将軍の家 臣) のな 相応せる法門 」 浄 土宗 に 帰 依する者があいつ 、 しゃム 関東御家人 仏の人はょにありがたき 事 にて候に、その 一 く かにも、大番役 ( 宮廷の 警固) などで 上 治し 国に 三 十余 人まで候はんこそ、まめやかにあ ばん や お ha て法然上人に接し、熱心な専修念仏者となる お ha たとえば上野 国 の御家人では大 候な ら 、又くま はれに候へ ( 略 ) ひとへに御ちか 。 ものが出た かやの入道なんどのはからひにてこそ ごそのだ 胡の小四郎隆義、薗田の太郎成家、下野 国 の 1 1 れ」 ( 『 黒谷上人語燈録 ( 和語)』 第六巻(元 っ ておられる 。 亨版 )と、専修念仏の興隆をよろこび、その 労を稿 法然 上人が直接勧化し、その内容がはっ き 領争いともな なったのである 源頼朝が挙兵したとき、彼 って、直実が隠退することにも 。 。 しかし間もなく頼朝方 は郷里に下向しており、石橋山の合戦には平 家方として従軍した に加わり、治承四年 (一一八O) 十一 月の常 (一一八 二 ) 五 月、熊谷郷の地頭となった りしている教化の対象者は、特定の僧侶貴族 法然上人を 法然上人と武士との関係は、貴族な 陸の佐竹秀義攻めには 手 柄をたて、養和 二年 。 を除けば、実は関東御家人やその出身者なの である 。 寿永 三年 (一一八四) 二 月、 一の谷の合戦で った 。 やぷ 文治 三 年 (一一八 ったが、 こ どよりもはるかに密接であ 。 。 平敦盛を斬 った 七) 八月、鶴岡八幡宮放生会で行なわれた流 宮仕えは不得手であ ったことはよく知られている とりまく数多い武士のなかで、また右にあげ そこで熊 ののち幕府に出仕することが多くな 。 た関東御家人のなかでも、異色の門弟はなん 。 とい っても熊谷次郎直実であろう 谷直実に焦点をあててみよう とた 騎射の 一種)で的立ての役を割当てら 鏑馬 ( きめま 直 実 は、永治元年 (一一四 こ 武蔵国大里 れたが、射手が騎馬で的立 てが歩行であるの 。 早く父と死別し、おじの久下直光に養 。 この頃、五十歳の半ば にこだわ って頼朝の命を聞かず、所役過怠の 法然 上 人より八歳若か 。 郡熊谷郷に 生 まれた った 剛勇の聞えがあり、平家の全盛時代 搾で領地を削られた 。 われた に達した法然上人は大原問答で名を挙げ、専 。 法然上人が兼実公に招かれてその邸に出入 ていた に、直光に代わって京都大番役をつとめたが、 直光はこれを心よく思わず、後年こ 修念仏の積極的な布教をはじめられようとし 。 傍輩に侮辱されて代役をことわり、平知盛に 仕えた のことがもとで両者の対 立 となり、はては所 12 熊谷次郎直笑 りしていた建久 三年( 一一九 二)は、直実に この年 来て頼朝に仏道、兵法を語り、そのまま留ま 。 。 元 久元年( 一二O 四)五月十 三 日、彼は鳥羽に ひとえに上品上生の往生の望みを持った そして、念仏往生の信心決定してからは、 。 るよう懇請した頼朝をふりきって帰京した 。 とって生涯最大の転機の年であった 直実は性格が剛直であるだけに、 『 熊谷家文 一端信仰の 十 一月 二十五日、直実は頼朝から直接、直光 火が点じられるや、その宗教的実践も熱烈で、 。 との所領堺相論について尋問を受けた 直実 「ふた心なき専修の行者」(向上)となった しかし と はこの席上、梶原最時が直光をかばったのを 。 『 吾妻鏡 』 によれば自ら万で援を断ち、 ののしり、頼朝の下した不利な判決を不 当 して そのまま出奔したという おいて、上品上生の来迎印をもっ阿弥陀仏の れん必定い 「地頭僧蓮生 」 の立願のことを述べた直実自筆の審願文は今 響 』 によればこのときすでに しかし、私宅 入道の原因はやは 盈茶羅の前で上品上生往生の願を立てた。こ 。 と号しているから、入道したのはこの裁判が 直接の原因ではなかった 。 法然上人が末代の衆生で上品上生する者は 一 。 生でも限りない楽しみであるが、上品上生以 外の往生ではふたたびこの土に生まれて衆生 を極楽に導くことはできないとされている 。 現に嵯峨の清涼寺に伝えられている それに ったことであろう り敦盛を討 よると蓮生は、われらが身にとっては下品下 。 に婦らず上京して法然上人の門下に入った直 接のきっかけはこの裁判にあった 手足をも切り命をすててこそ後世は助かる 「罪の軽重をいは ものと思っていた直実は、聖覚の手引で法然 上人に初めて出会ったとき 人もないと仰有っているのをよく知っている 別 ず、たた念仏だにも申せば往生するなり が、弥陀の本願、 三部経の文、普導の釈があ 。 の様なし 」 ( 『 勅修御伝 』二 七)と教えられて る以上、同じことなら自分は上品上生を果し 。 建久五年( 一一九四)彼は鎌倉に 感泣した 1 3 。 直実が上品上 生 を願 て有縁はもとより無縁の者までも浄土に迎え たい、と 立 願している ったのは、死後再びこの土 に生まれて念仏の 。 悦びを有縁無縁の者に拡げ、 一切の人を浄 土 に導こうとする志が強聞なためであった しかし 直実は上品上生を願うあまり、専修念仏か 。 三年半 。 直実の往生の様子 った が承 元 二年 ご二 O 八) 九月十四日、東山の こと 草 庵で往 生 したと伝える 。六十八歳であ 上 人に先 立つ 。 は 一ヶ月後、東平太重胤から将軍実朝にも報 ぜられた 『 勅修御伝 」 によると承元はじめの(一二O 七)年九月四日、武蔵国村岡で上人秘蔵の迎 接是茶離を前に高声念仏のうちに往生したと ら逸脱した行業に走る懸念があった 法然上人から 「又迎接の受茶羅は大切におは 上 人は 信 心堅固な念仏者の手本として いう 。 しまし候、それも次の事に候、ただ念仏を三 但し 。 ったとき、四国配流中であ った 。 。 その よ 人は、 常に直実を思い出され、彼を 「 坂東の阿弥陀 一心に申させおは 。 っ ていた 万もしは五万もしは六万、 清涼寺蔵 彼がなくな ほとけ 」だと仰せにな 。 (異)普根は念仏のいとまあらばの事に しまし候はむぞ、決定往 生 の行ひにては候、 こと 候」(熊谷宛上人 直筆書 状 漢字に直した箇所あり ) と、あくまで念仏を 往生業の中心に据えるべきことを諭され、ま 幕府顧問の大江広 。 すます念仏に励んで 霊夢 や奇瑞を感ずること 。 もあ って、往 生 疑いなき確 信 を深めた 直実は死期を予告した 元 はこれを開いて、権化の 言 だ、仰いで 信ず べきだと云った 。『吾妻鏡 』 は、 予告 通り彼 1 4 三門はのこった 了 大 l 。 。 。 で消したと、 言 大本山増上寺の 三 門は東京都内で最大 最古の木造建造物で国の重要文化財だ この 三 門を仰いでは、あの空襲によく ぞ残ったものかなと感慨しきりである 通行人がバケツリレ う人がいたが虚 言 である 。 私の身内の者が消した」と増上寺に来 「 ては金品を強要する人達もあった 」 とい った真相を採 私は増上寺に居てその人述との対応に 苦慮していたので、焼け残 。 っていたが、「私がその場にいた う人に巡り合うことができた 当時の増上寺では養老院のようなこと もしていたが、火の吹く 三門を見上げて 。 。 いる老人の中に鳶職経験者がいた 「 俺がや ってみよう 」 と駆け出し 三 門隣 の建物に取り付き、下の屋根から漸く 上 瓦屋根の急 の大蔵棋の端に笠り付いた 。 。 。 斜面だ 下で見守っている人達の口から お念仏が出て、大屋根まで響いていった 火は 三門の練木から出ていたが棟木は 銅版で覆われていた その銅版の上に鳩 の糞が積もりそれが燃えていたのだ 。 。 彼は軍手で擦り擦って見事に消した お畳屋からの飛び火らしい 閥黒の夜 って詳しい説 。 か、その方と 三 門の前に立 。 。 空だったので、大きな火に見えたのだろ 芝消防署のポンプ車が来たが水が上 う まで届かず消防手が悔しが ったという どの様にして大屋根に笠 ったのだろう 明を受け私の疑念は晴れた 。 (故人 )。今も感 。 お金をせびる人からも解放され、私は ひと安堵した 。 その方は北川有光師 謝している (二十年前 「三 縁』 紙掲載 ) 、 口 ,、、、 日日 った男 古i 井 戸き /6 歌舞伎『熊谷陣屋』 歌舞伎の 「熊谷陣屋」、正式なタイトルを 期の歌舞伎で活躍をした大坂の 三代日中村歌 右衛門、江戸の七代目団十郎、 二人の工夫し た演出を踏まえて明治の九代目団十郎が完成 平家の 公達平敦盛卿の身替りとして、体小次郎の首 。 『一谷搬寧記 」 といいます 。主 人公の熊谷次 を討 したものを団十郎型と呼んでいます 郎直実は、明治の劇聖と称えられた名優九代 上 人を師と頼み出家を決 意し ました いものたにふたぱぐん会 目市川団 十郎の当り役で初代中村吉右衛門に に丸坊主姿にな には見られなか 幕切れ 。 と つたひとり花道 」 った歌舞伎の名優たちの工夫 言っ て剃り 立 ての顕を撫でる潰出も人形芝居 った熊谷がた った熊谷は世の無常を悟り、黒谷の法然 受け継がれました 吉右衛門は戦後亡くなる に残り、 「十 六 年はひと昔、ああ夢じゃ 。 まで 「 熊谷陣屋 」 を上演し続けたので、その っしゃるのでは 吉右衛門の娘婿で故人の白 。 名調子を覚えている方もいら ないでしょうか とくに団十郎型では幕外に 三味線弾 でした 。 鶴こと八代目松本幸四郎、孫に きが登場し、踏み台に右足を乗せ「愁い 三重」 当 たる現在の 九代目幸四郎と 二代目 吉右衛 門をはじめ、昭 江 戸時代の後期、文化文政 チチチン、チン、チン 。 。 そのと 」 その 音 に 「ドドン、ジャンジヤン という激しい音が聞こえてきます ともに、陣太鼓の き突如として、戦場で吹かれる法蝶貝の音と 客の胸にも泌み入るように感じます 谷の愁いに満ちた悲しさが、わたくしたち観 。 という曲を弾きます っ 和・平成の歌舞伎を代表する座頭役者によ :・と弾かれる寂しい音色を 開いていると、熊 。 て繰り返し上演されている歌舞伎の人気狂 言 です 江戸時代の中期、宝暦元年 。 歌舞伎に移されて大輪の花を咲かせる に大坂の人形芝居で初演されま もともとは、 。 (一七 五こ した ことになります 1 7 反応して、き っと身構えてしまう熊谷 。 いや 団十郎 型。 芝翫型では、熊谷を追い 詰 めてい く人間関係 ||主君 義経から 与 えられた秘密 って遁世を寄 いや、自分はもう世捨て人とな の使命、かつて敦盛卿の母藤の方に命を助け られた恩、そのような人間関係の桂桔に縛ら った身なのだと思い返しても、武士の習い性 なのでしょうか、員がね太鼓の 音 がすると身 熊谷次郎直 実 は網笠を 。 熊谷は、 誇張した姿でなければ耐えられない過酷な運 。 手 な衣裳を着て 登 場します 芝翫の熊谷には、 錦に金綱の持、 黒ビロードの着付けという派 芝翫の熊谷は、 赤 地 れて身動きのできない状態へ追い込まれてい 。 九代目団 十 郎の先輩格にあ 。 構えてしまう悲しさ 。 く熊谷の姿を見せます っていきます 折り曲げて耳を塞ぎ、戦場から逃れるように 花道を走り去 。 一方、江戸時代の古風な演出を伝えるのが 「芝翫型 」 です 一昨年、現芝 命が待ち受けているからでしょう 日中村芝翫の演出で、 たる四代 体小次郎を失 った悲しさだけで出家を決意し 翫家のプリンス中村橋之助が久しぶりに「芝 出家を願う熊谷 「そもそも武 士( もののふ ) 。 たのではありませんでした 丸坊主にはならない 翫型 」 を復活しました の真意を察した義経は、次のような 言 葉を熊 。 原作どおりの 「有髪の僧 」 の姿、 「十 六 年は 谷に掛けます 。 ひと 昔 :・」の幕切れの引 っ込みもないのが の高名 誉 れを 望 むも、子孫に伝えん家の面目、 熊谷次郎 直実 陣屋の中央には源氏 「芝翫型 」 の特色です その伝うべき子を先 立 て、軍に 立 たん 望 みは 。 の御大将源義経、上手に平家方の弥陀六こと あるまい 」 。 ったなあ 」 その 言 葉を聞いた熊谷は、 「一 と 言っ て、ほろりと涙を零しまし 念弥陀仏無 量 罪消、十六 年 もひと昔、夢であ 。 与え 弥平兵衛 宗 清と敦盛の 母 藤の方、下 手 に熊谷 るのでした い交わして幕になります と 言 って、義経は熊谷に暇を 夫婦とその郎党、 三者が 三様に別れのせりふ を言 という個人の孤独な内面を表現しようとする 1 8 た った初 って融けているようだと舎 熊谷のその姿は、まるで柊に積も 。 雪 が日の光にあた 。 「 高名誉れ」を確認す 軍功に拠り先祖相伝の所領を で目覚しい働きをした るものでした 安堵するという御判を据えたお墨付の 書 類が 鋸の歯のようにぎざぎざした 。 。 江戸時代の儒者で兵法家としても知られ 。 にいた って は 二 十 一通を数えると言っていま 「箪忠御感状 」 かれています そ 七通、軍功を誉め称えられた 。 柊の葉は、伴小次郎を敦盛卿の身替りに殺し た熊谷のことを暗 示 しているのでしょう 一滴の 一 恨 す った初 雪 が、 のような柊の業に積も た山鹿素行は、この遺訓を見て深い感銘を受 。 山鹿素行は ったようです 。 素行の燕陶を った、という素 「士( もののふ )の 志 (こ の精神は伝えられたのでしょう 。 。 ま 熊谷が体小 得た赤穂の大石内蔵助にも、そのような武士 行の 言 葉が記録されています ころざし ヒ だけは忘れなか 熊谷は出家しても 山鹿素行の 言 行を記録した 『 山鹿語録 』 には、 に武 士 としての共感を感じ取 その点 のようにほろりと融けて落ちると、白い小さ 父の直 実 が出家 、 けたと伝えられています 俗世を捨てて出家 。 。 。 芳香を放つ、その花の な花が咲いています クションでした と 直家を は執心を残しています したはずの熊谷ですが、熊谷家の本領にだけ 。 香りを出家しようとする熊谷の決意に轡えて いるのではないでしょ、っか フィクションの背景 熊谷が敦盛卿の身替りに小次郎直家の首を ィ 討ったとする物語は、 『一谷撒軍記 』 で創作 されたフ 、 したのちも、体の直家は鎌倉幕府の御家 人 出家した直実は ったのだと思います 次郎を殺して出家する物語は、このような江 。 れたものだ して仕えています 冒頭 の第 一条には、熊谷が多くの戦場 戸時代の侍に共通する心情に支えられて 生 。 はじめとする子孫に 三箇条の遺訓を残してい ます 1 9 も 「 平家物語 』 平家の武 によ って創ら 熊谷が敦盛を 討っ て世の無常を感じ出家す る、という物 語 。 なか った、と書かれています 。「これよりし て熊谷が発心の思いはすすみける 」 というの が、 『 平家物語 』 が 語 ろうとしたフィクショ ったようです れたフィクションだ 関東武 士 を代表するつわも ンの物語でした 。 将斎藤実盛は東国の武士と西国の武 士 を比べ 西国の武士 の熊谷次郎直 実 をも魅惑する平家の公達のや 。 て、興味深い分析をしています さしさ 。 に思います 。 美 しさを語ろうと する、 『 平家物語 』 の姿勢が現れているよう った平家の公達の 軍では破れても、精神では滅びるこ は親が討たれたといえば供養し、子が討 たれ っ てい 東国の武 士 は、親も討たれよ、子も 討 た とがなか 。 たといっては嘆き、そのあいだは軍を中断す る れよ、死骸を乗り越えて戦うのだと 言 鎌倉幕府の編纂した 『 吾 妻鏡 』 には、熊谷 ったという記録は残されてい 『平 家物 語」 「敦盛最期」 の 一段は、そ が敦盛を討ち取 『 平家物 語』 でも関東の武 士 。 おなじ ます のように死骸を乗り越えてまで戦 った東国の ません 源平闘諦録 』 たちに 語り伝えられたとされる 『 。 荒武者が西国の貴公子の洗練された美しさに ったとする 心を打たれ発心を決意するにいた では、敦盛を 討ち取るのは皆輸の次郎・八郎 敦盛をやむなく討ち取 った熊谷 。 物 語 でした ました 霊 で、出家して蓮 れん 。『平家物語 』 に取材した能 熊谷は、それを見届ける脇役でしか 。 くまでも敦盛の最期を描くことに 主 眼があり の兄弟です 。『 平家物語』「敦盛最期 」 は、あ ひたた れ 一本の笛を見つけまし 鎧の直 垂 で 首 を包もうとした熊谷は、 。 の眼からは、思わず涙がひとしずく流れ落ち ました 錦の袋に入れられた ったのです なか 命がけの戦場に笛を持ち込む、やさしい 。 た って現れる敦盛の亡 『 敦盛 』 でも、 主 人公のシテは草刈の青年の 姿とな 。 心に熊谷は打たれます 義経をはじめ、この 笛の物語を聞いたひとびとで涙を流さぬ人は 2 0 。 M法 U師とな った熊谷は文 字通 りワキ役でしか ありませんでした 坂東の阿弥陀ほとけ 黒谷 の源空こと法然上人のもとで出家し、 役目をボイコットし、それ 。 のか、熊谷の自尊心は、それを許すことがな かったようです ゆえに所領の 一部を没収されることになりま 。 決定的な事件は、そのあとに起こりま した 。 親族の久下直光との所領争いになり、 した 頼朝公の御前で弁明を求められた熊谷は潔し って出奔したと記録 とせず、みずから嘗を切 『法然上 。 った熊谷の発心の理由を 建 生 と名乗 されています この事件が、熊谷次郎直実の 法 上 人絵伝 」)では、 「幕下 人行状絵図 』 (「然 ったと考えるのが妥当ではない 。 こと 熊谷は、上品上生を願い、その願いどおり上 黒 谷の法然 上 人のもとで出家した蓮 生 でしょうか 出家の原因だ 幕 下将 鎌 倉 幕府が編纂 。 」 将 軍を恨み申すことありて、心を起こし出家 。 したと腕曲的な表現で記しています 軍とは、源頼朝のことです した 『 吾妻 鏡』 では、その聞の事情が具体的 第 一の事 件は、鎌倉の 品 上生の 成仏を果たした男として語り継がれ 。 ほん £う ちゅ 今ほん げほ ん 臨終の際に阿弥陀さまがお迎え に記録されています い ζ うじ 。 てきました ら 鶴ケ岡八幡 宮の 流鏑馬の神事のおりに起こり 源 平の合 戦で手柄を 立て た御家人の 三 品、 に来る来迎には、上品・中品・下品の 。 げ・しよう ました 。 の来迎を強く望みました 上品上生でなければ、 蓮生の大望を笑う 。 ることはできないと知った蓮生は、上品 上生 とを蓮生は学びます それぞれに上 生 ・中生 ・下生の 三生があるこ aA h・AqL ヲ 成仏したのちひとびとを救うために帰ってく じ・ 与し &aq 多くが馬に乗って流鏑馬の的を射る役を仰せ や ぶき め つかったのにもかかわらず、熊谷には流鏑馬 かち の的を立てる徒歩の役目が与えられました。 おなじ御家人でありながら、一方は騎馬の役、 なぜ自分は徒歩の役目をしなければならない 2 1 古き伝統技 三刊にかたる信頼 、 その教えを頑なに守ろうとして熊 。 そのような蓮 生 の心がけを見て る姿が 諮 られています 。 、 法 に は、熊谷が 望 みどおり上品 上生 の来迎を遂げ と仰せられました 。『法然上人行状絵図 』 然 上 人は熊谷のことを 「 坂東の阿弥陀ほとけ 」 歌です ねば 」 という歌は、そのおりに熊谷が 読 んだ 合巧法ゑ恋 浄土宗法衣専門 っ 谷 ひとびとのなかで、法然上人は ただひたす 。 らに西方に向かい念仏を唱えなさいと教えて います は、京から関東に 下 る馬 上 でも、西を向いて 念仏を唱えるために馬の背に後ろ向きにな て乗り続けたと伝えられます 。「浄 土 にも剛 の者とや沙汰すらん、西に向かいて後ろ見せ 有限 会社 熊谷次郎直実 • 里一間 をめ ぐっ て =口 佐々木美冬 。 。 。 だが、 直実 はかえ 。 ってそれを 望 。 。 。 念仏者蓮 生 H熊谷直実は承元 二(一二O 七 ) 年、六十七年に捗った波乱の生涯を終えた すなわち 今 年は直実の八 百年 遠忌にあたる が、大方の記述は来年を八 OO 年と骨く 回忌は「数え 」 「満 」で 数えているのである で数えるべきで、たとえば今年の 一大イベン トとな ったモーツァルト 生 誕 二五 O年などと 一緒にするべきではない 直実は往生の予告などという派手な ことが 大好きで、本 当 は半年ほど早く死ぬ 予定 だ っ た 。一 度、現在の熊谷市村岡のあたりに高札 を掲げたのに果たせず、夏を越して九月十四 日、間取予告してようやく見事に念仏往生した 気性の激しい男で、捕らえた犯罪者に馬の 飼い葉桶をかぶせたり、質巻きにしたり、念 仏に熱心でない者を縛 ったりした 法然上 人 が勢観 房 源智に 与えた大事な 金 色の名号を奪 い取ったりもしたため、法然上 人は、時には 怠状を出させたりして、きつく謎質せざるを 得なかった 。 。 。 外の 喜びと した 師に怒られることで愛情を 確認するのである 実 に厄介な男だ などということを、近所の呑み屋で友人と 2 3 曲 酔談していると、その店のママ 。 (三 十 二歳) が乗り出して来て、熊谷市の出身だという 熊谷には「直実節 (ぶし こ という踊りがあ って、小学校中学校の生徒はそれをみな踊る 。 。 、 。 というのである 「秩父の峰も」という歌詞 で始まるが、例の「 一の谷のいくさ敗れ」で 青葉の箇」が聞に挟まるという 始まる名曲 「 から、明らかにあの直実ゆかりの踊りである 熊谷駅前には馬上の直実の像があり 二十歳 の成人式の帰り、酔っ払ってそれに登ったは いいが、怖くて降りられなくなってしまって、 わんわん泣いたことがある、というママの話 から、熊谷市民にとっては、いまでもたいへ ん身近で親しい存在なのだということがよく わかった ところで、ちょっといいお香を求めようと したり、なにか大事な知人に気の利いた贈り 物をしようと思ったとき、東京なら銀座四丁 目の和文 具、香道具の鳩居堂を思い浮かべる 人は多いだろう 。 京都に本店がある老舗中の 老舗 。 この鳩居堂は熊谷直笑と縁が深い 。 直実から数えて 二十代目、熊谷直心(じき しん ) という末商があ っ た 。 この人が京都 寺 。 。 。 。 。 。 。 。 町の本能寺門前に、薬種商「鳩居堂」 を始め たのである 屋号は儒学者 ・室鳩巣(むろき ゅうそう)の命名 屋号の由来は『詩経』の 召南の篇にある「維鵠巣有、維鳩居之」で、 鳩は鵠 ( かささぎ ) の巣に託卵する すなわ ち 「 店はお客様のもの」という謙譲の意を込 めたものという はて託卵 郭公や時鳥、筒 不思議な話である むしろ 鳥ではなく鳩 「鳩」の 字 は、室鳩巣という雅号にあり、そ して熊谷家の家紋 「 向かい鳩 」 にもあり、ま 鳩が居る 」 ことによる命名 さに何処にでも 「 と考えたほうが自然である この時、寛文 三 (一六六三)年。 そういえば頼朝挙兵の治承四 (一一八O) 年、石橋山の戦いで頼朝の逃走を助けた軍功 によって、直実は「向かい鳩 」 の家紋を賜っ た 。二 年後、常陸の佐竹氏討伐の実績で熊谷 郷を安堵された 。 。 。 元来が武蔵七党のなかの、私市(きさい) たん ) 党の庶流の出 党あるいは丹 ( 屈強の 関東武者として頼朝の信頼は厚かったが、口 下手、直情 平氏討伐が 一段落したのち、鶴 岡八幡宮の流鏑馬の役配を不服として出仕せ 2 4 。 育ての親であり 。 村の横蔵寺等々 また、直実の像の傍には敦盛の像が併置さ ず所領の 一部を没収される 叔父の家でもある久下氏との境界論争でうま れていることが多く、平家物語の という 。 。 を防ぐために背に着けた布の軍装である 首の中に残 。 っ ている 。 た蓮 生作の和歌が新和歌集五百十九 。 そ 下る際、直実にとっての西方浄 土 、つまり法 然上人に背を向けては礼を失すると の思いから、馬に逆向きに乗り続け 。 れが風を苧んだところに似ているため、とい うのである 荒武者熊谷草の花は緑 若武者 敦盛草の花は赤 浄土にも剛の者とや沙汰すらん 西に向いて後見せねば 法然上人のもとをしばし離れ東海道を東へ 。 その袋状の花が母衣 (ほろ )に似ているため、 母衣とは、往時の武者が馬上流れ矢 。 直実と敦盛といえば、蘭の 一種にクマガイ ソウとアツモリソウの名がある 茎も葉もま るで違うが、ともに球形で袋状の花をつける 誰がこんな風雅な名を付けたかは不明だが、 一の谷の涙 く弁明 できず、不利な採決が下ると証拠瞥類 。 を投げ捨 て、その場で留を切り落とし、行 方 った 、 の 一件が、広く人口に胸表されていることが わかる 。 不明とな H 津 戸 三郎や伊 豆 走湯山 法然 上 人に帰依していた関東武者は多く、 武蔵七党は猪俣党の甘糟忠綱、あるいは国立 あたりの出身の尊願 ったのか、聖覚、 上 人に帰依し、門流中、 の尼僧妙其などの伝手もあ 澄愈等の案内で法然 。 晩年は熊谷入道と称 。 な った 批も勇ましい念た 仏緒 法名は、法力房越 生 IU れ~。 。 。 基は熊谷市の熊谷 寺(ゅうこくじ )にあり、 閉山忌が催される 直実ゆかりの寺院として は、鳥 寺 といわれる専定 寺 、あるいは尼寺の 宝樹 寺 に蓮生の木像がある 蓮 生 開山といわれる 寺 は多く、法然上人の 生地岡山県久米南町の誕生寺、京都府長岡町 の西山冷 土宗総本山梨生光明寺、兵庫県日高 町の蓮 生寺 、静岡県藤枝市の蓮生 寺 、京都市 の 一念寺や法然寺、長野市の仏導 寺 や蓮 生寺 河野山 の熊谷寺、中興したという岐阜県谷汲 連破 関容子 4・彫/ 9 カオカ邦彦 会いたい人 五十嵐夫妻がイタリアに渡って. 夏、ローマで女の赤ちゃんが生まれた l 。 それ 一 年目の 。 ナというクリニックに 言 い出して、夕方、 がソプラノ歌手の五卜嵐麻利江さん アメリカ ・ 「 家内がおなかが痛いと アングロ 連れて行ったら、今夜は生まれないからと 言 。 ・ ってるんです カラスにあや いい声が出るのも 当 然だわ 」 人の体格は 生 まれるときから違 よね 麻利江という名は、マリア 。 かつて、というのを昔向かの記事で読んだ気 がするが、違うとのこと 「 世界に共通する呼びやすい名前、というこ とですよ。イタリアでは女はマリア、男なら 」 それでマリアじやそ われて、帰って寝ちゃった 。で、翌日寝坊し 。 マリオというのが最もポピュラーで、まあ花 とにか 子 と太郎みたいなもの 。 ・ 。 だから『ロメオと なるほどヴエロ 。 l ナの観光名所 カラスは舞台姿が美しくて、日本 っンュリエッタの家 」 だ ことがある は 「マリア カン ・ ( 唱法 〉 を 学 んだ人じゃないですからね では圧倒 的な人 気だけど、本当のベル ト 。 なる、とずっと以前に五十嵐さんから聞いた ジュリ エット』では 二 人とも男ということに 。 ナは女の子、パ らこれは生涯 言 われそうです(笑) 」 l のまますぎるから、麻利 江 としたわけです l だいた 普通名前でもパンピ くイタリア人というのは何事も大らかという チュ 。 っ て、日 。 イタリアでは女の名はアで、男の名はオで l 終る チュ こんなに痛い自に遭ってる、なんて前の晩に のか、よその夫鍋を見てると、お前のせいで て昼近くに行くと、もう生まれでて、家内か 、 ンピ!ノは男の子のこと l 干 夫を賀めてた奥さんが、翌日行ってみると幸 せそうにチュ!チュ 直代さんが続ける。 「 日本ではまだ産後の食事はおかゆと梅 っくりしました といった時代に、いきなりトリのローストと ワインが出てきてび い向うの新生児は 六 キロくらいもあ 本の赤ん坊の約倍はあるんですから、欧米の 27 織の麻利江さんとの一級. 麻利江さんは昭和音大 でオペラを教えてい る 〈 しかしマリア おん・1 。 それ カラスの素晴しさは、いろい ・ ろの音色の声を出すことができたこと で大指揮者のセラフィンが、そのオペラに合 う声を彼女に要求したけど、カラスは類い稀 。 歌い手側には、オペラをよく知っ な才能の持ち主だったからそれに応えられた んですね ていて、声のことがよくわかる耳を持つ人が 。 ・ カント信奉者 いなくてはならない、ということだと思いま すよ それでもイタリア 人 はベル が多いですから、完壁な歌唱法を身につけて ・ カラスの歌唱 いるテパルディの 人気が結 構 高くて、ミラノ スカラ座なんかにはマリア ・ 2 8 会 い たい 人 に何かあったら、と身構えて聴いてるマニア 舞台に真っ赤なトマトを投げ すると、全国各地の 夫妻は生後四 十日 の麻利江さんを伴い、昭 。 和 三 十四年八月に帰国 。 l ・ ニ、ベツリ テパルディはベル 月です l 。 一家 麻利 江はまだ 三 つやそこらなのにオ マの今度のアパートの近くにソプラノの ペラのアリアなんかをすぐ憶えて歌ってね ロ 山口和 子さんが住んでて、この方が 一時帰国 。 でまたイタリアへ行ったのが昭和三 十七年 一 も帰れず、自分を見失いそうになって、 「 あまりの過密スケジュールにほとんど家に 立て続けだった。 ペラも『マノン』『リゴレット』『ルチア』と がかなりいる それが有難いとも リサイタルは目白押しで、都民劇場主催のオ 。 つけて、カラスを引っこませた話は有名で、 向 うのお客は厳しいです 」 カント(美しい歌唱法の意)は、十 ・ 言 えるけど ペル 。 カントがロッシ ・ 八世紀から十九世紀初頭にかけてイタリアで 極められた 「 しかしベル . ーニ、ドニゼッティの時代だけのもの、と思 ったら大間違いですよ カントで徹底的に歌曲を勉強したからこそ、 中にぼくと『ルチア』で共演したものだから、 ぼくは近ごろ名歌 。 オペラがあんなに歌えた のだ、と考えはしなかったか 。 ・ スキ l パが娘 ったら、『締姫 』 など同じ舞台に立ちたいも 五十嵐さんは将来もしこの子が歌い手にな 」 麻利 江を可 愛が ってくれていろんな 歌を教え パパロッティにしても、若いころの 」 アリアなんかも歌ってましたよ 手と言われる人たちがどういう成長のし方を をよくよく聴いてみる こむ。それこそ『ルチア』狂乱の場の難しい CD してきたか、ということに興味があって、テ パルディの歌曲の 。 と、ベツリ!こなんてたまらないほどうまい ですよ 歌曲は繊細で実に美しいですしね 「 でもぼくの先生のティ!ト 2 9 テレビドラマ「 コメ ッ トさんJに出演してい た五十嵐さん . 告は..願手さん. をは大 場久美子さん 五十嵐さんの鍵線、 直代さん {ち} と筆者のl1li8子さん. 198?f字、 イタリアのベローナでの一枚 3 0 会 い た い人 互 さんとオペ ラをやって、観た人はあまり感動 しなかったそうですし、綿子というのはお いに気を使いすぎるし、観るほうも悲人役が それで将 私も麻利江もあのころは結構 主 人に気を使 っ った私は、その後何かと理由を たものですよ 。今 は 全 然 ( 笑 )」 雑誌記者だ つけては五十嵐 夫妻の取材を重ね、仕事を離 。 親 子じゃのめりこめないと思うし 麻利 れても親しくお会いするようになった 直代さんが続ける 。 気にかかる課題みたいに思えてきた 。 ふれて形を変えてくるようで、私にとっても ・ コンサートの夢も、折に 。 来の夢は父と娘のコンサート、くらいがちょ 江さんとのデュオ 一年 うどいいかと思ってね 」 。 五十嵐さんは 二度目のイタリアからは で帰国。再び超多忙の生活に戻った 実はそのころの五十嵐 央婆と、私は偶然伺 (田園調布の名門嬰葉 ) の 「 麻利江は幼稚同 。 普通より じ列車に乗り合せたことがあった 桐朋学 つ ころからトスカご 。 。 って、顕 きあわされる友だちこそいい迷惑で、幕引き とかいろいろさせられていましたね っ こやカルメンごっこ は多少高めの咳払いの連発が気にな っ くりし 。 り向くと話題のテノールなのでび た 。 園の声楽科に進むころは、それまであんまり う ミ ラノへ音楽 あの咳払いについて、直代さんが 言 。 クラシックにどっぷりだったせいか、ニュー 一転 「 当時は年間百五十回以上も演奏活動があっ でも七年間で心機 ミュージックに興味が移 って、テレビ番組の 。 って 」 麻利江さんの先 生はソプラノの林康子さん の勉強に行くことにな です て、声がくたびれるものですから、家ではし 咳払いをするのは、声に響き 司 会 とか、ちょ っと追う方向へ行きかけたん 。 当る 。 ゃぺらないし、機嫌はよくないし、かなり神 経質でしたね がつけられるかどうか、声が思う場所に かどうか、絶えず気にして試してるんです 3 1 の恩師、グアリ l ニさん。もう老 婦人だが、 。 五十嵐さんによれば、 ィプス王』『トスカ』『マノン』 リ『 ゴレ ット』 』『 仮面舞踏会 』『 ルチア』 『 締姫 』『ファウスト った 歌唱指導は 一流だ 『ドン この時代の五十嵐さんのこ大成果 つとめる 。 任し、その後は新国立劇場の芸術監督を 二期 が、昭和六十年には藤原歌劇団の総監督に就 れが素晴しかった!)と枚挙にいとまがない ・ セヴィリアの理髭師』 パ スクワ!レ』 『 歌はまず 言葉が大切で、イタリア語の 美 しさ 。 司愛の妙薬』『友人フリ ッツ』『真珠採り 』(こ カントなのだという ・ とメロディの美しさが揮然 一体となり、 一つ に溶け合うのがベル スカラ座でタ ・ 「 ええ、林康子さんとか、若くして亡くなっ た渡辺葉子さんとか、ミラノ ロールが歌えるようなプリマドンナ ・ イトル ナ . これで日本のオペラ愛好者が ときどきちょっと歌ってくれた) ( が挙げられる 。 . l ルは自由席だ 「 テノールの饗宴 」 が、九月に聞 かれた 。会 場の パ !シモンホ 七人による え、その記念コンサート、藤原歌劇団の中堅 さて、五十嵐さんは今年めでたく喜寿を迎 で教えている コンサート活動の傍ら、同じ音大のオペラ科 現在は昭和音楽大 学学 長で、麻利江さんも ぐんと 増えた 演目解説 の導入(オペラが身近になる)、上演前の として、オペラの原語上演に伴う字幕スーパ 1 ム 』 のムゼ ニ)などは素晴しいキ ー には、それぞれにイタリア人の歌い手の日 一 那 」 横にうるさい先生がつきっきりなわけ 。 さんがいて、発音がおかしいといちいち注意 する だから、いい歌い手になるわけですよ l l ザ(アミ l 麻利江さんは帰国後、オペラ歌手としてデ 、 ビュー .『夢遊病の女 』 のリ 。 (ミミ役はフレ 役はアリベルティ ) 『ラ ・ポユ ッタ ャリアと 言 える 五十嵐さんのオペラ歌手としての全盛時代 は、昭和四、五十年代の『カルメン』『エデ 3 2 会 い たい 人 ったが、友人が先に行って最前列中央差 し向 った。ピアノの前のスッとした立ち姿からし ていたら、今宵の主役五十嵐さんの登場とな 。 」「可愛い口許 」の二 曲を聴いた て品格がある いの席を取っておいてくれた。 麻利江さんの軽妙な司会に笑わされなが 「 すみれ 聴きながら、人間の声というものがどんなに ら、客席の背にもたれ、耳なれたテノールの 名曲の数々に聴き入っていたら、これまでの ニ宮殿(『ロ l マの休日 』 舞台の陰で た 。 落葉松の 小鳥の雨に私の乾いた眼が濡れ 。 。 落葉松の日のある雨に私の思い出が.濡れる 落葉松の夜の雨に私の心が濡れる 落葉松の秋の雨に私の手が濡れる 「 落葉松 」(作詞野上彰、作曲小林秀雄)だっ アンコールに応えた 三 曲目はしみじみとした 人の心をつかむものか、改めてまた 実 感した 深く人の心にしみ入るものか、どんなに強く 。 五十嵐家との交流の場面が次々と思い浮んで きた l ン 王女宿舎の舞台)で聞かれた マのパルベリ 中でも忘れられないのは、平成 二年夏、ロ ー l 」 への それぞれが歌曲、カンツォーネ、 「 父と娘のデュオ・コンサート のヘップパ 第 一回 。 、 一幕終盤のアリアになって アリアと歌い進み、最後に麻 利 江さ ・ 追っかけ オペラ んの『椿姫』第 「 花から花へ 」 にさしかかると ドの声が不意を l る・ 言葉とメロディが美しく溶け合い、そこに 歌う五十嵐さんのアルフレ 突くように私の耳を 打 ち、ああ、永年の夢が あたたかい涙が溢れてきた。 私のさまざまな感慨が混じり合って、 幸 せな 。 歌い手ってすごい、と思う。 (おわり) 今 形にな ったのだ、と感激して、涙が止まら なくなったつけ あれから十六年・ ・・・ ・ ・とぼんやり指折り数え 3 3 ••••• こうるじっ ぽう 響涜+方 も 、 、 、 【御遺跡 につき法蓮 坊 に示さ れ ける 御 詞} 身 分の 商 い低 いにかかわらず な小 屋にいたるまで 。 。 念仏を修せんところは 、貴 賎を論ぜず 海人漁人がとまやまで みなこれ予が遺跡なるべしとぞおおせられける 、 う簡単 お念 仏 の声することろは、たとえ 海 人 や漁師 などが 使 どこもみな 私 の遺跡 となるのです 祈りの真実 響流十方 っ てきた 。 。 。 取材を 事前に書物など 住職からお話をうか 某紙上で、各地の法然上人の遺跡を訪ねる連載企画を担当している はじめてから足掛け四年、五十箇所近くをめぐ がい、関係する仏像や絵画、墓塔などを撮影させていただく を 大 阪、 。 そ 兵庫を経由して香 った 七十五歳の上人が、弟子の起こした不祥 。 。 上 の、「もうひとつの」ともいうべ である程度の情報は 詰 め込んでいくのだが、実際に耳にし、目にすると、伝記 に記されている 上 人の生涯、ひととなり以 。 った きお顔、生のお姿を間近に拝したようで、深くあたたかな感慨に包まれる のたびに新しい発見がある 四国では、それがひとしおだ 。 。 プを果たしたか ッ ここには、上人が布教された場所に後世聞か ( 岡山方向 ) へ小型フェリーで 三 十分ほどのところに 七九九年前の「そのとき、その場所」にタイムスリ ったのとほぼ時期を同じくし 戸内沿 岸 事の責任をとるかたちで配流された香川県に、 二度取材に行 一度目は今年の春、上人が、京都から瀬 しあく 。 川・塩飽諸島の 一つ大 島 へと、小船に揺られて渡 ていた のように思われた 大島は丸亀港から真北 浮かぶ、周囲十六キロほどの島 。 過疎化が進み、住職不在の 寺 院 れた浄 土宗 寺院 ニ カ寺のほか、真 言宗寺 院 一カ寺が遺跡寺院としての長い歴史 をひ っそりと、しかし確 実 に刻み続けていた 3 5 とな 。 った八月下旬には、 高 松市や仲多度郡まんのう町にあ った った方々の真撃な 志 には、ただただ敬服するばかりだ 各寺院で我々取材班の到着を笑顔で迎えてくださり、そして興味深 。 ってはいるが、変わることのない檀信徒の篤い信仰心がそれを支えている のである いお話をしてくださ 二度目の香川取材とな る数カ 寺 のほか、点在する遺跡、神社など数箇所を訪ねた 。 った 熱心な信者により講が結ば 。 。 。 「香川の地に蓮生坊の・:」などと 生 坊の 寺院以外の遺跡の中、たとえば香川郡香南町の田園地区には「熊谷蓮 住 居 跡 」 と伝わる、 三畳ほどの小 堂 がある 。 二 十五 日 言 葉に、 堂 も講員の寄進で建てられたという ってきてくださ 感嘆しつつお参りをしていると、ここを管理されているという、すぐそばに住 む酪農家のご夫婦がお茶を持 った つてはいますが、私が生きている限りは譲り続けます」との れ、定例の念仏会が聞かれており、お 「講員は滅 思わず頭が下が 国の重要無形文化財にも指定され、毎年八月 菅原道真公を舵る綾歌郡綾南町の滝宮天満宮には、上人の振り付けと伝わる 。 っ ている 念仏踊りが残 。 。 ちょうど取材最終日、躍動感あふれるこの踊りを観る に盛大に行われている ことができた 同町の細い農道脇に、頭を垂れた稲穂に包まれるようにしてたたずんでいた 36 理事流十方 言 い伝えを持 。 っ ている 。 、つ こうした民間伝承をもっ遺跡はま こと 一つ 一つに浄土 一二 部経の経文を 一文 「亡霊済度の経塚」は、女人の亡霊に悩まされているとの村人からの相談を けた上人が、川から小石を集めさせ、その ったという 字ずつ舎かれ、これを塚として供養したところ、 亡 箆は成仏、以後現れる がなくな だほかにもあるという 驚き、そして感激したのは、今回訪れた遺跡はどこも質素ではあるが、きれ 。 っていなか った、と もちろん、寺院以外は我々が取材に行くことなど誰に 。 否、誰に連絡すればよいかすらわか った いに清掃がゆきとどき、香炉などが具えられ、みずみずしい花が生けられてい る、ということだ 。 も連絡してはいない 言うのが正しい 。 近隣の人々をはじめとする熱心な信者方が、お念 なんとかして史実との整合性をつけようとする行為は、こうしたところでは 必要とされていないようだ 。 。 。 { 小村正直事} 漂うお線香の香りは、そ 仏の灯を絶やすことなく護り続けておられるというその事実は、史実をも越え た、「祈りの真実」をまざまざと見せつけている った 黄金色の稲田をわたる風が汗ばんだ肌に心地よい のまま法然上人のお念仏の芦とな 3 7 袖山 楽員 監督 ロバン・カンビヨ 9月 23日よりユーロスペ ースにでロードショー中 〈 配給〉 パ ッ プ+ロングライド った往時 外国映画が本国よりも、かなり遅れて「本 邦初公開」されるのが、ごく普通だ はさておき、二 OO 四年「ヴェネチア国際映 画祭正式出品」作が、今ごろ封切りされるの 。 「この世に一戻って来た人々」つまり には何かワケがありそうだ:::このような下 す 衆の勘ぐりを誘われるのも原題 『レ・ルヴナ ン』 とは よみ , .・.. 「黄泉かえり」にほかならないからだ ニ OO 三年正月いらいロングランを記録 し、年間興行ランキング第四位という赫々た よみ 。 。 『黄泉がえり 』 っては、いかなる自信作といえど る実績を誇る、塩田明彦監督 の直後とあ も「柳の下の泥鎗」視を免れなかっ ただろう 対比から筆を起こさざるを得ないのだから った 現に三年を経た今日に至るも、塩田作品との 吋 ぴあシネマクラブ 』 の 「三週間だけ匙 死者と家族の再会と別れの情棄を、多彩なエ ピソードを効果的に配しながら綴る」との要 約とは裏腹に、草甥剛、竹内結子、伊勢火口友 介のトリオと、哀川湖、石田ゆり子、山本圭 って演じられる、他のエ ットに比べて、縞羅星の如き 壱のトリオに東新良和をからませた四人組に よる二つのプロ 多彩なキャストによ 必ずしも「効果 、 ピソード群は、柴咲コウの野外ライヴのイン パクトを唯一の例外として 、 。 鮮明な三つのプ 的に配」されているとはいえぬ、散漫な情成 ッ である トが、常に全体との緊張感を保ちつつ、 であ ったのに対して、明確 ロ 着実な展開を示すのが 『 奇跡の朝 』 って 「明断でないものはフランス的でない」との 古諺のとおり、一万三千人と市役所によ 公表される 「黄泉がえり」たちの中から、メ イン・キャラクターとして選ばれる三人の年 。 六歳のシル 齢は、六歳、たぶん三十歳前後、たぷん七 十 代後半と、載然たる配分である ヴァンと両親、青年マチウと恋人ラシェル、 老婦人マルタと失である 「市長」とその家族、 「黄泉がえり」 と生者との聞に生まれる三組 、 の「私的」エピソード群が この異常事態の 対処に第一線に立つ 「公人 」 としての市長が 3 9 . .・.・.............・. .. .・............ ・. . ・ .............・.......... . . . . . . . .. . . ・. .・・ - ・. . ・・ ・・・・・ . . . . .. . -・・・・・・・・・ ・ ・ ・・・・ ・ ・・・・・・・・・・・ ・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・ ・・ ・・・・.... 奇跡の靭 ッ 精確に対応しつつ三組 、 トとして組立てられて行く手際を体 把握する最新情報と のプロ ・ クール」なる製作会社のロ 。 感する だ けでも、「柳の下:::」の偏見を一 ・工 掃するのに充分である 冒頭 「オ ゴの直後、 「サン・ルイ霊園 」 表門から陸続 と連なる 「 黄泉がえり」たちの徐やかな行進 f あ 地下道入口 、 に始まり、カタストロフといえば磁石に引き 寄せられる無数の鉄粉さながら ワークの冴え ・ に収数して行く彼らの、ためらいを知らぬ速 歩を鳥臆する、カメラ 、 の 『ジュラシ ッ ク ・パーク 』 で ハンター恐 竜ヴェラキラプトルの幼生たちが、軍隊の隊 、 当事 列の如き位置関係を保ちつつ、同一方向に進 み続ける無気味なシーンを連想させる ェ ラキラ 者の与り知らぬ目に見えぬ不可思議なエネル ギーの存在が実感されるのだが、ヴ プトルにおいては「渡りの本能 」と憶測され、 、 梶尾真治原作 『 黄泉がえり 』 では或る宇宙的 生命体 「彼」の存在自体とされ 映画では山 . . . . . . . . . . . .. . . . ・・ーー ・・・・ ー ・・・ ・・・・・・・・ ー ・ ー . ・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・ ・ -・・ ・ ー . . ・ e ・ ・・・・ ・ ・ ・ ・・・・・・ e ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・- ・ ・ ・ ・ 中に突如出現したクレーターとの関連が、科 。 『奇跡の朝 』 におい 学的に裏付けられている、このエネルギーの 根源が、明噺である筈の ては、なぜか明かされていない 、 、 豪邸の石塀に梯子を掛け脱出に 二階のヴェランダから身を投げる 閉じられたドアを一時間以上も叩き続けた 揚句の果 六歳の少年 再び戻 、 ェ って っ てラシ 成功した老婦人、同じ衝動に駆られて目的地 セージを伝えようと ッ に急ぐ、引き潮の如き人の浪に逆ら ェルにメ 来るマチウの行動は、たとえ一時的にせよ っ てラシ あのエネルギーの呪縛から彼が解き放たれて いることを示し、かれの告白によ 、 「還相回向 」 浄土教において阿弥陀如来の大慈 、 ルが長い 「生ける屍 」 の生活から解放される あたりに 大悲による洗錬を経て、やがて 。 に昇華を遂げる、原エネルギーの知きものの 存在が垣間見られる、と思うのだが::: 4 0 シ ネマ随想 例によ 、 って蛇足を四本 。 文牽にして大念 、 に に記録されている 佐藤春夫氏の短篇 『永く相おも ふ|| 一、「 遺相回向」の一例が 仏者 或は 「ゆめみるひと 「われひと かれが恩師と愛慕してやまない与謝野品子さ んが、七回忌を経て聞もないころ り穣土に遊びぬなかなかに浄土にまさる思 。 この 、 久しくフィクシ ョ ンと信じられて ひ出のため 」 の一首を直慢したとの物語 で あ る 関容子さんのお手 || いたエピソードが、事実であるとの証言を当 。 、 事者の一人から引出したのは、 『日 本 の鴛 った 堀口大学問書き 』 の著者 柄であ 、 。 一一 『 南伝大蔵経 』『相応部 』 の 「 諸天相応 」 「 すばやく立ち去りたいと 疑問に対して大註釈 ったままで質問す などに登場するインドの神々が、坐っておい l サは う でになる釈尊の傍らに、立 ッダゴ るのはなぜか?とい 者ブ 患 っ ていたからである 。 , :::人間界は悪臭か っていたので」と説明 このかた 浄土から遇来なさる 「往生人 」 た 。 「送り盆 」 が設定さ これを逐はん 、 するので厭わしいので:::任務を果して、は 。 やく立ち去りたいと思 している ちにと っても事情は同一であろう がたは恒に還かに護念しつつも、具体的な 。 。 っ 「還相回向」は短めに切上げたくて、いら で ある しゃるに違いあるまい れるゆえん 一二、一五六一年八月十七日付のイエズス会布 教 報告書に活写される孟蘭盆会の習俗の中 に、 「送り盆の夜、家に帰ると屋根の上に多 、 くの石を投げる 」それは 「去ることを欲せず 屋上に留るものあらんを恐れ 。 い っぽう う なタイプの、いわ 「いつまでも居られて 。 がため」だと記されている 前項の記述の如 く「長居は無用」のはずの祖霊の 中 にも、未 っ ても 練 がましいかたもおられるらしい 裟婆の子孫にと は迷惑 だ」 と思われるよ 41 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .. . - ・ ・・ ・ ................................................................ . 奇跡の朝 ぱ「無神経な」「黄泉がえり」たちの存在を、 。 実感することができるのも、 『奇跡の朝 』 の 余録の一つであろう 四、これは文字どおりの蛇足かもしれないし、 我が身の無知を天下に曝すことにもなろう が、この機会に小説 『 黄泉がえり 』 を読んで 初めて、「蘇り」が「黄泉がえり」から転化 った 。 っ 大槻の 『 大 した言葉であり、小説友び映画の題名は「造 語」などではないことを知 よみ 言海 』 いらい由緒正しき国語辞典は、こぞ 。 〔 長野・十念寺住・3 て「蘇る」の語源として「黄泉から帰ること」 を掲げている -・・・・・・・..................................................................................................... .. .... . ............................................... . . . . . . . -・・・・・ ・ ・・・・・・ .・・・・・・・・. 4 2 FORUM 浄土 広場 4. 梅雨湿り品鉄の錆びし掲示板 〈 建〉 。 。 。 。 。 中島富士子 雨期である じめじめした日が続く そん な時、掲示板の画鋲の錆びているのが目に入 った この頃粘着性のもので止 めることが多 くな ったから、隅のほうに残 っているものだ 錆が見付けどころである ろうか ヤホテルの裏の急梯子 河合富美枝 5 雨足の速くなリ けリ 花入手 伊藤寿美子 〈 佳作〉梅雨め 五月雨や一宇の援ねにこだわリぬ 。 天野 ひどりでに止まりし絵筆目借り時 霊〉 〈 。 一心に絵筆を持つ どの辺まではかど った 睡魔に襲われてふと筆が止まって のだろう 。 大きく 伸びをしてまた描き続けよ しま った 佳 春 淑子 口 4 4 雨 絵 浜 • • うか、もう筆を置いて寝ょうか 事 。 もちろん島 言葉は丸出しだ 。 。 に入る 。 「 蛙の目借 。 。 島に育 ってぬで働いているのである 漁師 だったら天候によって休みになる そういう 張羅存着込んで靴はぴかぴか、 外出 たろう 一 それに色眼鏡を掛ければもう立派なものであ る T -bれぬ百円の 里 。 石原 朱 り時」 のひとこまである 〈 佳作〉お見舞いは絵本と決め T夜の秋 絵の道具並べT浜の自の昼リ のしじま 信 子 原 色眼鏡かけて丸虫し烏言葉 丹念に 島 濠 -自由題 田 保 〈 佳作〉犬抱いて獣医に向かう台風裡 捨 菖蒲園尻会』並べT 寺下 忠至 4 5 新 市 東 野 村 新 増 昭 輝 〈 特選 〉 選者=僧回河郎子 浄土露土句会の お知らせ 蓄 雨 双つ子のボ l ル蹴る音雨あがリ 雨・来ると経鳴きだす里舎れて 雨続き所在なき白や髪洗・フ 雨蛙草裏に潜み静ま リぬ 中島宮士子 絵 匙る武岩絵艶枚夏祭 河令官美枝 締切・ 二OO 六年十月二十日 発表 ・ 「 浄土 』 ニOO 六年十二月号 選者 -m田河郎子 (南 『風 』主宰) 応募方法 1 名・佳作各 3 名 ・ いずれの題とも数の制限はありません . 特選各 子子子子 さい 宛先 。 〒 叫ヤoo-- 月刊『浄土』箆上句会係 東京都港区芝公園 4 1714 明照会館内 葉書に俳句 ( 何句でも可 )と、住所・氏名を必ずお.き下 。 五月宮士野絵のかく暮れにけリ 信義信絵 佐蔵総子 ロ角因縁 進策の絵に織捜しをリ幼な児ら 、L 大増佐 …絵の道具並べて浜の自の盛リ …方般に絵の品帰国品〈雪解川 L じま …向付金に普披措〈絵筆夜の … 自由 題 …漏川娃夜通L 鳴きて想ふこと 裏返る下駄占いや線漏じめリ 河令官美技 井村暗号也 … …竹とんぼくるリピ巡る雲の峰 増田信子 山口信子 …箱階段取手を鳴らす夏衣 浜ロ俊春 っくぱいに苔の花咲く寺の庭 …夕立や地下街へ人押込めぬ 伽仰木曳の法放に纏う忠岡田風 節団信郁子 順風に船足軽きヲットかな 沖あ いに湧く雲夏の色を成す じゃがいもの花の紫風の嫁 西井正 池田伊吹 宮崎美和子 日 新也子 ...信 佐藤絵子 原村田 長生きをせよど子が言ふ豆の飯 中島宮士子 … 石井増 4 6 函 η、 t. 1 目 ゃゐ183挙 1 ) ¥= j :t,勺 F土ろう ゑ :tzt 企 I 。 I すF ル 日以 I Iり 1 1 ' ' ' I l ð\ 私 1-;; I 3 昔迂 q; ザ ‘'抽ザ, U 勺 .‘ 恥ば fmLC d川崎 の庭む T 恥品川つ 作, zJ rhg l 占ドキイモtザ ヰ hぢ v い z 守、刑, ←1 パvρ 』 占 1'hhh 牛十 日立弘、 叶 2ン 三 j, レ、J 、." a 、.. . ‘・・ . 勺,マ m 712 bA 刊つらの OY セいたく 、 ・ ,,‘ ,a ,‘, z、 L. 編集後記 日入りし後雲 聞に寄せる秋思かな 八月の末、冥王星が惑星から除外され ・ 星 」になるという 。 たというニュースが飛び込んできた 「 緩感 「水金地火木土 天海奨」と覚えてきた惑 星が八つになり、 「冥 」 が消える これ から冥王星は 。 。 ことが後でわかったりすると、 悲しい気 分にさえなる 崎玉県熊谷の熊谷寺では、今月 二十四 。 、 今号では 三 法然上人より 五 年も早く往生さ 日に熊谷直突の八 OO 回忌遠忌法袈をつ とめる れた直実 ( 蓬生 ) について 直実は百円度此の土に生まれてきた時 本の特集 記事を掲載した。 覚えてきたことが、会議での多数決で替 に、多くの人に念仏の教えを伝えたいと 教科書で羽田ったこと、 今 まで常識として ってしまう様を見たとき、何かとても わ 我々の持 っ て いう 一途の思いから、上品上生を強く願 . 寂々たる気持ちになった 直実は自らの 反省 ったといわれている 。 。 いる知識や常織なんて、所 詮 この稜度の ものなのだろうなと思えてきたのである 後厳司~. (鎌倉・高徳院) 佐蔵成順 (品 川 ・願行寺) 佐.良純 (小石川・光岡寺) 東海事事良 型I (滋~.~上寺) 須藤隆仙 (函館 ・ 称名寺) 舗山鍍鍵 (長野 ・ 十念寺) 高 白書量行 (大阪・ 一心寺) 田中光成 (町悶・養速寺) 中島.Jt (青山・梅窓際) 中村康猿 (消氷・実相寺) 中村民進 (仙台・態鈍院) 野上智徳 (静岡・宝台続) 舗口隆1I (石巻・西光寺) 私たちに 。 をパネに願いに生きた人だった 武士を輔衆てた前 実は 回、国ではなく人を 、 長) (Ø称略・五+音順) .回得三 (鴻巣 ・ 勝願寺) 繍図阜爾 (静岡・撃隊院) 本多事島敏 (両国・悶向院) 真野飽海 (芝・天光院) 幽鱒之 (網代 ・教安寺) 水科書事隆 (長野・ 覚廃寺) 宮本本昭彦 (大本 山 光明寺) 宮本車錐彦 (横浜 ・ 大光院) 山田和鍾 (諏訪・貞松院) 編集チ l フ 七十 二 f Illl || 妹式 48 人 Il-- 害人 g 発 桜嘗 z 岱湖 亮道 山哲郎 木照憲 田洋一 大室 了時 頒側室内 年会 帽H六千円 シ l ティ l イ 1 掛川 静岡O 三 { 三五七八}六九四七 F A XO 三 ( 三五七八)七O 三 六 QU 一八0 ・八・8 = 八ヒ 行所法然上人鎖仰 会 干 一O 五・OO 一一 耐Mm 港区芝公 附 閥 ・七・ 市車 四明照会館 内 印刷 所 真野龍海 佐藤良純 昭 和 十年五月 二 十日第 三回 開郵便物総可 印刷 平成十八年九月 二十日 平成十八年十月 - u 発行 浄土 編集スタ ッ フ hnp:lIgekkanてjodo.info ホームページ 岱 潤 特に歴史的認識などというものは、そ 北山大趨 (焼~1t . 光心寺) 熊谷鋪彦 (佐賀・本!I!寺) 粂原恒久 (川越 ・ 遂容寺) 愛し、願いに 生 きる 美 しさを 大江田同導 (仙台・西方寺) 大国秀三 (大本 山 消浄華院) の時の権力者による政治的思感などが絡 飯回 実緩 (駒ヶ娘・安楽寺) .谷腸正 ( 目黒・祐天寺) 江口定1I (浦安・大蓮寺) 教えてくれている 。( 特別 、 維持 、 賛助会員の方 々 み、教科告で溜ったことが真実ではない 雑誌 『浄土j 4 8 J・ 月刊 し 抑会 HOUNENSYOUN刷 SANGOUKAI | 釘知らせ 1 ~会i.H主総 l ⑮ E山側おふと知山一 法然上人 会のホーム ペ ージご紹 介 法然上人鏑仰会の機関誌月刊 『 浄土 』は 会員の皆篠方のお力添えで本年の 2/3 月合併号で通巻 800 号を迎えました。執筆に携わっていただいた先達善 知識は 1700 名を超えております。 鏑仰会ではこれら創刊号から現在に至る月干IJ ~浄土~ 800 冊以上、総 35000 ページあまりの貴重な財産を PDF 化しインターネットを通して全国の 会員の皆織に自由にお読みいただけますように準備しております. 現在 400 冊ほどがお読みいただけます. 効果的な使用方法といたしましては rhttp: //gekkan-jodo .infoJ に アクセ スし 、 月干IJ r浄土』 検索から目次検索で氏名やタイトル名で検索し、表示され た検索結果から読みたい『浄土』 を選択すれば目次一覧がでてきます. そのペー ジの表紙下部の b> PDFJ をクリ ックすれば PDF ファイ ルが表示されます。 お読みいただくには PDF ビューアなどのアプリケーションが必要です。 鮮しく は、月干IJ ~浄土~ PDF 一覧 rhttp://pdf.gekkan -jodo.infoJ を ご覧くだ さい。 これを機会にお近くの一人でも多くの方々に月刊『浄土』 をお勧めいただき、 法然上人鑓仰会の会員にご勧誘いただければ甚だ幸いに存じます. 法然上人鎌仰会スタ ッ フ一同 47・ }030 20 コニ 会の 法然 念仰説本 Neop-c 発行人/真野総海 録集人/佐藤良純 月刊 f浄土』 パッ クナンバー -上 瞳璽霊園 L_ 軍 i j h ; iJ u l E f念傍踊本I 完全復刻版 1.ωo円 Ft相13占・1・it 1 7x59cm f差出人は渚然さんj ωo円 編集チ l 遭郷集十六・之図 {額入り ) I ;ll事集絵解き物詩j 合む 20.似)()ドJ (別途欄抱料300円) ~ フ/長谷川岱潤 「法然上人鎗伝...J (8 ~女セ ッ ト ) 800円 --R z . . 四 ゆら必 'eh 品S 盟't。 寝間鰭 上人絵伝 泊補版 f浄土への道 f ブ ッダ 法然上人法路紗1 知れば知 るほ どj 1.0ωP~J 1.似)()円 曲 欠二 世本相 ・ ,. m絹 Kぷ耐. 委託販売 一一 ※浄土3it 大本山J{'I t守正義 ril~然 1: 人絵伝. f.l!欠 て谷本J より 当会へお申し込みください。 なお、月 ・l 刊浄土を除手年価裕・ー一料は吉ー 、(arOW 1 1 1 1fIIi;jl!!!!瓦r.....'fI~u_;r-ヨ ch r _ ....,--:n. . _..ーー ・l ー. 園田 ておりまぜん。 別途実費を申し受けます。 ・1 法然上人鍛仰会 圃l 電話 p.ICI・[ëJe'"YL:I*~~ 圃l