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来日したザクセン関係者 - 岡山大学学術成果リポジトリ

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来日したザクセン関係者 - 岡山大学学術成果リポジトリ
岡山大学経済学会雑誌 3
0(
1
),
1
99
8,1
1
7-1
5
8
来 日したザクセン関係者
松
目
尾
展
成
次
(
1
) 初めに
(
2) 来 日したザ クセン関係者
(
3
) 注引用文献 目録
(
4) Na
me
nve
r
z
e
i
c
hni
svo
n5
0'
'
Sa
c
hs
e
n"i
nJ
a
pa
n,1
6
4
9
-1
9
9
8
(
1
)初
め
に
本稿 の 目的は ,日本 とザ クセ ンの文化交流史(
1
)を解 明す るための基礎的作
業 の一つ として ,来 日したザ クセ ン関係者 の氏名 と経歴 ・業績 を ,簡潔 に紹
介す ることである.本稿 において 「
ザ クセ ン」 は ,1815年 の ヴ ィ-ソ会議 に
よって領土 の縮小 したザ クセ ン王 国,両大戦 間期 のザ クセ ン邦 ,第二次大戦
後 の ドイ ツ民主共和 国時代 の ドレースデ ソ,カルル ・マル クス ・シュタ ッ T
L
とライブツィヒの 3県 ,お よび ,1990年 の ドイ ツ再統一 以後 のザ クセ ン州を
5
年 以後 のプ ロイセ ン王国ザ クセ ン州 の領域 (
お よび ,その後継行
指 し,181
64
9年 に 出島蘭 館 に着 任 した 医師 シ ャムベル
政 区域) を含 まない .また ,1
来 日したザ クセ ン関係者」は ,来 日 ドイ ツ人 の中で ,吹
ガーを最初 とす る,「
の 3条件 の一つ以上に該 当す る人を指す .第 1は ,ザ クセ ンで生 まれた人 ,
第 2は,来 日前にザ クセ ンで職業活動 を行な った人 ,第 3は ,離 日後 にザ ク
セ ンで職業活動 を行 な った ,あるいは ,現に行 な っている人であ る(2). した
が って ,ザ クセ ンの教育機 関に在籍 ,あるいは ,そ こで学位 あるいは教授資
格を取得 しただけの ドイ ツ人は除外 され る.
-
117-
11
8
来 日したザ クセン関係者は,日本側資料 あるいは先行業績におけ る表記法
に従 って,その姓の五十音順に配列 され る.場合に よっては,生没年の後に
9
9
5に記載 され てい る人物 の経
私の表記法が ( ) 内に示 され る.武 内 1
歴 ・業績 ・参考文献については,同書を参照 されたい.また,来 日ザ クセン
人の著作 も,日本に関連す るものに限定 され る.
本稿 の意味におけるザ クセン関係者を確定す ることは,私に とって容易で
,ない し,「ドイ ツ人」 と一括 され
なか った .邦語文献では 「ドイツ生 まれJ
る場合が ,きわめて多いか らである.また ,本稿で取 り上げたザ クセン関係
者の生地 ・生年 ,没地 ・没年 ,経歴 ・業績についても,多 くの不明な事項が
残 っている.とくに,テンツラーについては名ばか りでな く,姓の原綴 も確
定できなか った .さらに,私の調査が不十分であるために,本稿 に含 まれて
いないザ クセン関係者 も,少な くないであろ う.そのために私は先学 ・同学
諸氏の教示を切望 している.そ して,コル シェル トに関す る加茂詮 ,藤原隆
男両教授の,また ,シャムベルガ-とマイスターに関す るヴォルフガング ・
ミヒェル教授の,伝記研究の一層 の進展を期待 している.
本稿の作成に際 して数多 くの教示を与えられた, ミヒャ-ル ・ラウック助
教授 ,荻慎一郎教授 ,高橋輝和教授 と日本 の多 くの個人 ・機関に,そ してま
た,ザ クセン州立中央文書館 ,ザ クセン州立 ライブツィヒ文書館付属 ドイツ
系譜学センター, ドレースデ ン市立文書館 ,ケムニ ッツ市立文書館 ,フライ
ベル ク鉱業大学文書館 ,テ ユービングソ大学図書館 ,バイエル ン州立図書館
な ど, ドイツの諸機関に,さらに,文献の検索 と収集に配慮 された岡山大学
経済学部資料室に,心か ら感謝す る.これ らの教示に よって,従来知 られて
いたザ クセ ン関係者数人について,生地 ,没年な どが明確にされ ,また,従
来紹介 されていなか った相当数 のザ クセン関係者の氏名が解 明された.ちな
みに,本稿で取 り上げたザ クセン関係者 5
0
人の うち,武 内 1
9
9
5
所収は2
1
人で
ある.
(
注 1) ライブツィヒ大学 は 1
9世紀 末か ら第二次大戦 直後 まで 日本学講座 を設置 してお
-1
1
8
-
来 日 したザ クセ ン関係者
11
9
り,1
9
9
6
年に再興 した (
1
9
3
2
年か ら4
5
年 までは 日本学研究所 で,所長は初代 ユーバ ーシャー
ル ,次いで- ミッチ ュであった). ドレースデ ン工業大学は.日本 とザ クセ ンお よび ドレー
スデ ン市 との関係の改善に寄与 した元佐賀県知事鍋 島直紹 (
1
9
81
年没)を記念 して, ドレ一
スデ ソ大公園の傍 らにあって,水道設備を研究 してい る-建物を ,1
9
8
2
年に鍋 島館 と命名 し
た .8
3
年には鍋島家 旧蔵 の江戸時代の工芸品 (
漆器な ど)が同大学に寄贈 された (ドレース
デ ン工業大学文書館回答).
ザ クセ ンにある日本美術工芸品の コレクシ ョンで,最 も著名な ものは ,ドレースデ ソ磁器
博物館の近世肥前磁器である.これは現在では ,1
8
世紀前半のアウダス ト強健侯当時 と比較
す ると,その数を減 じた として も,世界有数の,そ して,ヨーロッパ最大の,近世肥前磁器
コレクシ ョンである.シ ョイベの民族学関係 コレクシ ョンはライ ブ ツ ィヒ ・グ ラ ッシ工 芸
博物館に収め られている.ズスマ ンがグラ ッシ博物館に寄贈 した ものは ,現在 どの よ うに
な っているであろ うか .私の質問に対 して同博物館か らは回答がない.ドレースデ ソ銅版画
美術館は小沼隆一郎画伯の現代版画 1
2
点を所蔵 している,
ザ クセンに関係のある ドイ ツ人の蔵書で,日本に請来 された ものは ,私の知 るかぎ り,吹
の とお りである.生計費のエ ンゲル係数で知 られ る,ザ クセ ン,後にプ ロイセ ン統計局長エ
ンゲル (
Er
ns
tENGEL)の蔵書は東大経済学部にあったが ,関東大震災に よって灰憶 に帰 し
た (
高野 1
9
61,pp.
7,l
l,1
1
2
-1
1
3,1
1
5,1
3
0
).歴史派経済学 の巨匠 ,ライブツィヒ大学
教授 ビューヒャ- (
Ka
r
lBt
J
CHER) の蔵書は京大経済学部に ,ライブツィヒ大学 の植物 学
教授で,留学生 ,後の東大教授三好学を指導 した プフ ェッファー (
Wi
l
he
l
m PFEFFER)の
それは,岡山大学資源生物科学研究所 (
大原孫三郎創設の大原農業研究所 の後身)に ,ライ
ブツィヒ大学法学部教授 「ワッ-」(
Ado
l
fWACH)のそれは東大法学部にある.この ヴァッ
ノ
、については,シュ ミッ ト 1
9
9
5,pp.
4
6,81,1
4
7を参照 されたい.
日本 とザ クセンとの関係を示す事例を,さらに挙げてお く.第 1は ,1
9
7
9
年 に佐賀県有田
町 とマイセン市が姉妹都市の関係を結 んだ ことである.有田は 日本におけ る磁器生産 の,マ
イセ ンは ヨー ロッパにおける硬質磁器生産の ,発祥地である (ドレースデ ソは製作突抜成功
の地).第 2は, ドレースデ ソ中心部か らェルべ河をす こし遡 った所に ,ピル ニ ッツ宮殿 が
あるが ,そ この庭園に誓える日本種椿 (
c
a
me
l
i
aj
a
po
ni
c
a
)の古木である.これは,オランダ
東イ ン ド会社か ら長 崎 ・出島に派遣 され た ス ウ ェーデ ンの植 物学者 トゥソベル ク (
Ca
r
l
7
7
6
年に ヨー ロッパに持ち帰 った 4本の中の 1本で あ る .他 の 3本
Pe
t
e
rThunbe
r
g)が ,1
(ロン ドンのキ ュー植物園 ,ヴィーン,- ノーファー) は次 々に枯 れ てい った の で , ピル
ニ ッツの椿は ヨー ロッパの樹木 の中で貴重な ものである.この椿は ,当初は鉢 に植 え られ ,
冬には温室に移 されていたが ,1
8
01
年に現在地に定植 され ,冬にはガラス製 の覆いで保護 さ
れ るようにな った .今では高 さ 9メー トルに近 い大木 とな り,毎年約 2万 5千 の花を咲かせ
ている (
ザ クセン州大蔵省城館管理部回答).
(
注 2) 以下の人物を来 日ザ クセ ン関係者 とす る見解があるが ,誤 りである.
(
a
)
ベル ゲ ィヒ (
Chr
i
s
t
i
a
nBERWI
G,1
77
7
11
77
7
).1
7
3
9
-4
5
年に長崎 ・出島蘭館の医師助
手であった彼は,ザ クセンのヴィーゼ ンフェル ト (
Wi
e
s
e
nf
e
l
d)出身 とされてい る (
Kr
a
a
s
a
s
c
hke1
9
5
7
,S5
9
*.
1
9
9
2
,S5
).しか し,この名前の集落 はザ クセ ンには ない .VglBl
8
0
3
年 までマイ ソツ大司教領 (
以後 プ ロイセン)に属 したテ ェー リングソの
Wi
e
s
e
nf
e
l
dは ,1
-1
1
9-
1
20
村である .Be
r
wi
g とい う姓の家族は,現在では この村 と周辺 にいない .- イ リグ ソシ ュ
タッ7
.市立文書館回答 .
(
b
)
ホエルべ (
Ant
o
nHe
r
ma
nHORDE,1
8
81
-1
7
7
?
)(
--ルベ).陸軍雇独逸人 ,個人略
9
73,p2
3
6
)に よれば,彼 は 「
サ クセ ソ州 ライ- ェソバ ッ-市」に生 まれ ,ボン
歴 (
中村 1
9
0
6
-0
9
年に陸軍砲工学校 ・語学教師 とな った,とされている.ボン大学文
大学を卒業 し,1
Do
r
f
e
l
)生 まれで ,ボ書館回答に よれば,彼はオース ト1
)ア国籍 ,ボ- ミアのデルフ ェル (
ミアの ライ ヒェソベル ク (
Re
i
c
he
nbe
r
g) の高等学校を卒業 している .
C
)
ジェニン (
Al
e
xi
sJ
ANI
N,1
87
7
-1
8
9
7
)(ジャニソ).招聴 されて ,1
8
7
3
-7
6
年に佐渡金
(
J
ANI
N)は ,フライブル ク大学の助教授であっ
山の技術改良に尽力 した米国人のジェニン (
9
6
8,pp.1
3
6
-1
3
7
).ただ し,武内 1
9
9
5,p.1
74では ,ジ ェニ ソ
た ,との説がある (
吉田 1
(
J
ENI
N)紘-イデルベル ク大学助教授 とされている.ジャニソ (
J
ANI
N)が優秀な成蹄で
8
6
8
年に卒業 したのは,事実 であるが ,卒業直後 に彼は米国に帰 っ
フライベル ク鉱業大学を 1
た .Sc
hi
f
f
ne
r1
9
3
5
,S.
2
8
9.なお,植 田 1
9
9
0,p.
1
0を参照 .
(
d
)レ-デブール (
Ado
l
fLEDEBUR,1
8
3
7
-1
9
0
6
) (レ-デブ-ア).フライベル ク鉱業大
学冶金学教授の彼 は,多 くの 日本人留学生を指導 したばか りでな く,官営八幡製鉄所 の建設
9
8
5,pp3
8
3
9
)と,日
にも協力 した.彼については,東大を訪問 した,とい う説 (
佐 々木 1
9
7
4,p.
1
5
2;上村 1
9
8
4,p7
5
)がある.フライベル ク
本には来ていない,とい う説 (
吾妻 1
鉱業大学文書館の回答に よれば ,彼 は来 日していない.
そのために,上記 の 4人は本稿では取 り上げ られない.ただ し,本稿には ,
「
ザ クセ ン生 ま
ェ クスネル ,ユ ンカー.
れ」 とのみ記 されていて,正確な生地が判明 しない ドイ ツ人 2人 (
さらにオーヴァ-カンプ,フラツケを加えると 4人),お よび,ザ クセンで活動 したが ,生地
テンツラー,-ルテ ィヒ,マルテ ィン) も,含 まれている.
不明の ドイツ人 3人 (
なお, ドイツ人以外では,私の知 るかぎ り,次の 2人がザ クセ ンか ら日本に来ている.
Mi
kha
i
lAl
e
ks
a
ndr
o
ic
v
hBAKUNI
N,1
81
4
11
8
7
6
).ロシア人の彼は 1
8
4
8
年
(
A)
バ クーニン (
9
年 5月には ドレースデ ソ蜂起を指導 した .蜂起鋲
か らザ クセ ンに住んで,三月革命末期 ,4
1
年 に脱出
圧後 ケムニ ッツ市で逮捕 され ,ロシアに引 き渡 された .彼 は流刑地 シベ リアか ら6
して,函館に着 き,W.-イネ (
本稿参照) と同 じ船で横浜か らア メ リカに渡 った .ただ
9
7
9,pp.
2
2
2
4,3
5
3
8.
し,彼 は この時に 日本人 と接触 していない.木村 1
(
B)
プ ロムシュテ ッ ト (
He
r
be
r
tBROMSTEDT,1
9
2
8
-).ス ウェーデ ン人で ,1
9
7
5
-8
5
年
6
年か ら NHK交響楽団名誉指揮者
に国立 ドレースデ ソ交響楽団主席指揮者であった彼は ,8
9
91,p.
1
6
8
9;NHK 交響楽団回答 .
である.音楽辞典 1
(
2
) 来 日したザ クセ ン関係者
(
1
) アルノル ト (
Wi
do ARNOLD,1
965- )
彼は文芸評論家の子 として ドレースデ ンで生 まれ , ドレースデ ソ工業大学
卒業後 ,1993年に岡山大学大学院修士課程 (
土木工学専攻)に入学 した .95
-1
20-
来目したザクセソ関係者 1
21
年か ら博士課程に在学 している(
1
)
.
(
注 1)本人回答 .
(
2
) ヴ ェンチ ッヒ (
Hei
nr
i
chWANTI
G,1
8
70
-1
94
3
)(
ヴ ェンツ ィヒ)
彼 は,ザ クセ ン宗教省局長 を父 と して ,西 南ザ クセ ンの ツゲ ィ ッカ ウ
(
Zwi
ckau)市 で生 まれ ,1
893
年にライブツィヒ大学で学位を取得 した .グ
1
8
99
年)などを経 て ,1
90
4年に- レ大学教授 と
ライフスヴァル ナ大学教授 (
なった.0
9
年東大法学部に招かれ ,経済学 と財政学を講義 し,
「
東京帝国大学
二於 ケル経済学教授法改良意見」を各方面に提出 した .この意見書は,東大
4
年に- レ大
法学部か らの経済学部の分離 ・独立に相当の役割を果た した .1
学教授に復帰 し (
27
年 まで),21
-2
8
年 にプ ロイセ ン邦議会議員 (
社会民主
7-3
0
年にプ ロイセ ン弗ザ クセン州長官 ,3
0
年に半年余 りオ ッ トー ・
党),2
年に社会民主党を離れ ,
ブラウン内閣でプ ロイセ ン邦 内務大臣 となった.31
西 ドイツのバーデ ン ・バ ーデ ンで没 した(
1
)
.
(
注 1)武内 1
9
9
5,p
.
4
6;高野 1
9
6
1
,p
p8-9,1
2
2
-1
3
0;東大 ・経 済 1
9
7
6,p
p
.
1
5,
6
1
6,6
2
0;Re
i
c
h
s
h
a
n
d
b
u
c
h1
9
3
1
,S.
1
9
6
7
1
9
6
8:Ko
s
c
h1
9
6
3
,S.
1
1
7
0
.
(
3
) エキスネル (
Ot
t
omarEXNELL,1
849-17
??
)(
エクスネル)
彼は鍛冶屋の子 としてザ クセン (
詳細不明)で生 まれた .京都府営 「
梅津
87
5
年か ら7
7年 まで (
あるい
パ ピール ・ファブ リ-ク」 の技師に招かれて ,1
紘 ,7
3
年か ら76
年 まで)滞在 し,洋式製紙技術 の導入に尽力 した .来 日前の
1
)
.
経歴 と帰国後 の消息は不明である(
(
注 1)青田 1
9
6
8,p
p
.
1
9
5
1
9
7;宮永 1
9
9
3,p
.
4
1
2:Me
i
s
s
n
e
r1
9
6
1
,S.
4
8
.
(
4
) オーヴ ァーカンプ (
Chr
i
s
t
i
anHendr
i
kOVERKAMP,1
777
-1?
??
)
1
781
-84
年に長崎 ・出島蘭館の上級医師であった彼は,ザ クセ ンのダー レ
ン (
Dal
en)出身 とされている(
1
)
.それ以外は不明である.しか し,ザ クセン
en とい う集落はな い
には Dal
.私は,ダー レンが北ザ クセンの Dahl
en市
(
2)
である可能性を考慮 して,同市立文書館に照会 したが,回答がない.
(
注 1)Kr
a
a
s1
9
9
2
,S.
6
.
-
121-
1
2
2
(
注2
)Vg
l
.B
l
a
s
c
h
k
e1
9
5
7
,S.
11*.
(
5
) ゲスナー (
Ge
s
i
neGOSSNER,1
9
61
-)
彼女は北ザ クセ ンの リーザ (
Ri
e
s
a
)市で肉屋の子 として生まれ ,同市 の高
9
9
2
年に現代 オランダ女性文学に
等学校を経て,ライブツィヒ大学で学び ,1
関す る論文に よって ライブツィヒ大学哲学博士 となった .91
年か ら同大学で
現代オランダ文学を講義 した後 ,9
2
年に来 日した .それ以来 ,九州工業大学
1
)
.
工学部で ドイツ語を担当 している(
(
注 1)大学職員鐘 1
9
9
6
(
1
)
,p
.
9
4
7;本人回答 .
(
6
)高
(
高
へテ ィ (旧姓 ヴ ェー ケル) (
He
d
yKOU,geb.WEKEL,1
908-)
へデ ィ)
彼女は ライブツィヒで生 まれ ,同市の歌劇場のバ レリーナ とな った .ライ
ブツィヒ音楽大学でチ ェロを学んでいた高勇吉 と1
9
2
7
年に出会い,帰国す る
勇吉に伴われて,翌年に来 日し,東京で結婚 した .彼女は間 もな くバ レエを
教 え始め ,また ,勇吉 とともに 日本各地で,さらに,アジア諸国で コンサー
トを開いた.第二次大戦が始 まると,二人はスパイとして監祝 されたので,
勇吉は満州国に移 り,放送局で音楽 の仕事に従事 した .敗戦後 ,勇吉は家族
9
年に 日
とともに,音楽教育のために国民党政府に よって北京に移 された .4
本に帰国 して間 もな く,勇吉は没 した .その後-デ ィは非常に苦 しい生活を
送 った .午前中は ドイツ人のための幼稚園で教え,午後はジーメンス社のた
めに働 き,夜は 日本人に ドイツ語を,週末には知人宅の洋間でバ レエを教え
た(
1
)
.
(
注 1)F
o
r
e
i
g
nwi
v
e
s1
9
9
6
,p
p
.
8
9,1
7
1
9.
(
7
) コルシェル ト (
Os
c
a
rKORSCHELT,1
8
5
3
-1
9
4
0
)
彼は小学校教師の子 として東 部ザ クセ ンのベル テル ス ドル フ (
Be
r
t
he
l
s
-
dor
f
)村で生まれた.1
8
71
-7
5
年に ドレースデ ソ工業専門学校 (ドレースデ
6
年 までベル リーン大学哲学部な どで化学を
ソ工業大学の前身) で,その後 7
学んだ .短期間 ドレースデ ソとライブツィヒの ビール工場で化学技師を勤め
-
1
22-
来日したザクセン関係者 1
2
3
た後 ,来 日した.彼は1876年か ら東京医学校 ,次いで東大医学部で化学を教
授す るとともに,日本酒の化学分析を行ない,北海道におけ るビール醸造を
指導 し,防腐剤サルチル酸 の効用を解説 した.80年に内務省地理局地質課分
析係長に転 じ,精力的に調査 ・研究を行なった .彼は,数 カ所 の土壌の化学
分析に基づいて,西欧農法の移入ではな く,在来農法の改良を提案 した (「日
本農業 ノ目途上 『
地質調査所年報』,明治 15年第 1号 ,1882年 .農林省農務局
(
蘇),『明治前期勧農事蹟輯録』,下巻 ,長崎出版 1975に復刻).「日本海塩
製造論」 (『
地質調査所報告』,明治 16年第 2号 ,1883年 .『日本塩業大系
料編
資
近 ・現代 2』,日本専売公社 1975に復刻)は,後の塩業に大 きな影響
を与えた .「日本陶業」は,日本陶磁器 とその原料に関 して非常に多 くの資料
を分析 している.この論文は後に 『
窯業協会誌』,38- 41
号 (1930- 33年)
に,さらに,『
窯技』,15- 22号 (1965-68年)に公表 された.彼は 1884年に
日本を離れ ,帰国 した .85年に香港で事業を計画 したが,成功 しなか った.
ライブツィヒで太陽エーテル光線器具の販売に よって,あるいは,化学技師
として長 く生活 し,そ こで没 した.滞 日中に囲碁を習い覚え,『
碁 .チ ェスに
対 抗 す る 日本 と中 国 の遊 技 』Dasj
a
pani
s
c
hc
hi
ne
s
i
s
c
heSpi
e
lGo.Ei
n
co
nc
ur
r
e
ntde
sSc
hac
h,Yokohama1881(
1
)
を著 した(2).藤原隆男教授の示唆
に基づいて,ツィッタウ市立文書館 とライブツィヒ市史博物館に質問状を出
した ところ,回答があった .それに よれば,コル シェル トは東部ザ クセ ンの
ツィッタウ (
Zi
t
t
au) 市で1
887年に工場の建設を計画 し,1
900年 まで同市 の
刊行住所録に記載 されていた .他方では彼 は ,1892年にライブツィヒの刊行
Fabr
i
kant
) であった .
住所録に初めて記載 された .この時の職業は工場主 (
Th
eTh
eo
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ya
n
dPy
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i
c
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fGo
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,Ru
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nd/To
k
y
o1
9
6
6
.
(
注 2)武 内 1
9
95,p.
1
53;橋本 1
9
70,p
p.
5
39
-5
43;友 田 1
97
8,p
p.
24
-3
8;平 田
1
9
8
3,pp24
-2
7;加茂 1
99
3,pp2
40
-2
47;藤原 1
9
94,pp.
2-6, 9-ll;藤原
1
9
9
5,pp,
9
5
-1
1
0;太 田 1
9
9
6,p
p.
4
1
51.
(
注 1)GV (
1
)
,Bd.
7
9
,S.
1
5
4.英訳本は
1
123 -
1
24
(
8
) サイモン (
EdmundSI
MON,1
8
8
2
-1
9
4
7
) (ジーモン)
彼は商人の子 として ドレースデ ソで生 まれた .ベル リー ン大学 な どで法
9
0
8
年に ドイツ帝国外務省か ら日本に派遣 され ,神戸 ,
学 ,日本語を学び ,1
年か ら1
4
年 まで長崎高商講師 とし
次いで長崎駐在の ドイツ領事 となった .11
904年
て ドイツ語を教えた .『
外国人への 日本の土地の無期限譲渡に関す る 1
5月2
2日付け-ーグ常設裁判所 の判決 の本質 と国際法 的意義 』Nat
urand
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904b
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UT
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f
s
wal
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1
9
0
8に よって法学博士 ,『
琉球諸島に関す る研究』Be
i
t
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gez
uKe
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ni
sde
r
Ri
e
k
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ur
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al
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s
c
hi
c
ht
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,Bd.
2
8
)に よって哲学博士 となった .琉球については後年 ,
別の著書 ,『
琉球 .古代 日本の鏡 』Ri
uk
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u.Ei
nSpi
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lfurAl
t
j
aPan,Ber
l
i
n1
9
2
3も発表 した.1
4
年末か ら ミュソヒェン ・南バイエル ン商工会議所 に
勤務 し,2
2
年か ら没す るまで,その法律顧問ない し専務理事であった(
1
)
.
(
注 1)武 内 1
99
5,p.1
6
2;長崎大 1
9
75,p.340;GV (
1
)
,Bd.1
3
5,S.
56;GV (
2
)
,Bd.
me
rf
u
rMu
n
c
h
e
nu
n
dOb
e
r
b
a
y
e
m)回答 .
(
9
) シャムベルゲル (
Cas
parSCHAMBERGER,1
6
2
3
-1
7
0
6
) (シャムベル
ガー)
彼 は商人の子 としてライブツィヒで生まれ ,1
6
3
7
年か ら同市で理髪外科を
0
年に修業 の旅に出た .4
3
年にはオランダ東イ ン ド会社の理髪外科医
学び ,4
とな り,アジア各地 で同会社船の船医 として勤務 した.オランダ東イ ン ド会
社 の 日本商館には1
6
3
0
年か ら医療関係者が駐在 していたが,シャムベルガー
は 4人 目の ドイツ人 として ,4
9
-51
年に長崎商館に滞在 し,商館長の江戸参
府に二度同行 した.第 1回 目には彼は 日本側の要請で江戸に長期滞在 して,
患者を治療 し,日本人医師を指導 した .これに よって彼 は,彼 の名 カスバル
ー1
2
4-
来日したザクセン関係者 1
2
5
に因むカスバル流外科 (ポル トガル系南蛮医学に続 くオランダ系紅毛医学の
最初の流派)の祖 となった.私の知 るかぎ り,彼が,来 日した最初のザ クセ
ン関係者である.彼は相当の財産を蓄えて ,55年に帰郷 し,ライブツィヒで
羊毛商人 とな り,58年にその市民権を取得 した.彼は,当時 としては稀な長
寿に恵まれ,莫大な遺産を残 して,同市で浸 した(
1
)
.
(
注 1)Mi
c
he
l1
9
9
0
(
1
)
,S.
4ト51;ミヒェル 1
9
9
0
(
2
)
,pp.
1-6;ミヒェル 1
9
9
1,pp.
1
43
-
,
1
5
1;Mi
c
h
e
l1
9
9
3
,S.
1
3
7
-1
5
4,1
71
-1
8
0;Mi
c
h
e
l1
9
9
4
,S.
1
4
9
-1
86:Mi
c
h
e
l1
99
5(
1
)
S.
1
1
1
,1
1
6
-1
1
9;ミヒェル 1
9
9
5
(
2
)
,p
p.
32
6;ミヒェル 1
9
9
5
(
3
)
,pp.
8
5
-92;ミヒェ
ル1
9
9
6
(
1
)
,p
p.
4
ト4
8.なお,宗田 1
9
8
9,p
p.
1
2
3
-1
2
7
を参照 .
8
0
) シャールシュミt
・
J卜 (Cl
emensSCHARSCHMI
DT,1
880- 1
945)
彼は西南ザ クセンのライヒェソバ ッ- (
Rei
chenbach) 市に紡蹟工場主 の
子 として生まれたが ,1899年か ら自活 しつつ,ライブツィヒ大学で学んだ.
1
902年か ら1
1
年 まで彼は,六高 (
岡山)の外国人教師 として ドイツ語を担当
しながら,日本語を学習 し,日本の工芸品を収集 した.帰国後 ライブツィヒ
大学でさらに日本史を研究 した.出雲守明衝の 『明衡往来』 の翻訳 と注解 ,
huSho
s
o
k
uyo
nFu『藤原 明衝 の雲州消息 . 日本 最 古 の書簡 文 範 』Uns
j
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,Di
s
s
.Lei
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i
g 1917に
よって哲学博士 となった.第一次大戦で負傷 し,1
6
年か らベル リーンの東洋
三四郎』,第 1章を翻訳 し,「
東京朝 日新聞
語研究所に勤務 して,夏 目擬石 ,『
の ドイツ論」などを発表 した.戦後は同研究所の日本語担当教師代理 ,21年
)-ソ大学名誉教授 となった.日独防共協定の
教師 ,24年教授 ,34年にベル 1
成立 とともに日本史の科学的研究 と教育は不可能 とな ったけれ ども,彼 は
「
芥川龍之介 と西洋文学に対す る彼の関係 .現代 日本精神史 の一研究」 (35
午)などを発表 した.40年にベル リーン大学外国学研究所の設立に伴 って,
彼は日本学教授に任命 された.しか し,彼はナチスに入党せず ,ナチスと天
皇制の思想に影響 されない著作を発表 した.彼はナチスの監視を受けたが,
ヒ トラーの日本語通訳を勤める時 もあった.44年に彼はついに研究所から罷
天皇制 の歴
免 され,週 3回の豚小屋の清掃を命令 された .その後 ,彼 は 「
-
1 2 5 -
1
2
6
史 .歴史偽造の解 明」に関す る著作を完成 させたが , ドイツ敗戦 の 2週間前
にベル リーンの自宅で殺害 され ,あの原稿は兵士たちに よって持ち去 られ ,
失われた .その他の著書 として,『日本』J
apan,Ber
l
i
n1
9
4
2; 『日本語にお
け る重 要 漢 字 』 Di
ewi
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9
3
8
,3.
Auf
1
.,1
9
4
3な どがある(
1
)
.
(
注 1)六高
1
9
8
0
,p 2
6;
Go
c
h1
9
8
0
,
S.
3
1
2
3
1
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GV(
2
)
,Bd
.
1
1
3
,S.
3
9
.
(
l
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) シャンツ (
Mor
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zSCHANZ,1
8
5
3
-1
9
2
2
)
彼は,商人の子 として西南ザ クセンの トロイェ ソ (
Tr
e
ue
n)市 で生 まれ
た.父 とともにケムニ ッツ市に移 った彼は ,1
8
7
4
年 まではケムニ ッツの-商
会の従業員であ り,7
5
年に南米ブラジルに赴 いて, リオデジャネイ ロで ドイ
8
年か らさまざまな国を旅行 し,多 くの旅行
ツ系の商会の支配人 とな った .8
記を書いた .そのために彼は研究旅行家 ・植民政策論著 と見な されている.
9
6
-9
7
年に ドイツ帝国 ・プロイセン王国な どの政府 ,お よび,い くつかの商
工会議所がアジアに派遣 した通商使節団のザ クセン繊維工業代表 とな って,
nZu
gnac
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e
n.
来 日した .それに基づ く著書 と して ,『
東方 - の旅 』Ei
Re
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n,Japan,Al
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aandCanada,Ha
mbur
g1
897が あ る.
1
9
0
0
年にケムニ ッツに帰 って,引退生活を送 り,同市で浸 した(
日.
(
注1
)Rauck1
9
8
8
,S.
2
4
5
2
4
6;DBJ1
9
3
0
,S.
4
4
6;ケムニ ッツ市立文書館回答 .
(
1
2
) シ ュテ ヒャー (
Ge
o
r
gWa
l
t
erSTECHER,1
8
7
4
-1
97
7
)
彼 は ドレースデ ンで生 まれた . ドイ ツ皇 帝 は , 日本 陸軍 少佐 「ク二親
三m」のプロイセ ン陸軍部隊-の配属を認め,その交換条件 として , 日本陸
907年 4月 にザ クセ ン陸軍省
軍部隊-の ドイツ陸軍士官の配属を求めた .1
は,中尉 (
第 4野戦砲兵連隊) のシュテ ヒャ-を大尉に昇進 させ ,プロイセ
ンの 4人の士官 とともに彼 とバイア- (
下記参照)を 2年間 ,日本に派遣す
ること,を決定 した.シュテ ヒャ-ほ 9月初旬に東京に到着 し,0
7
年11
月に
静岡の ,0
8
年 9月には東京 ・世 田谷の部隊に配属 された .彼の配属期間は0
9
-1
2
6-
来 日したザクセン関係者 1
2
7
年 8月末 で切れ るが ,そ の部隊が09年 9月か ら11
月 まで実施す る予定 の演 習
に参加す るために ,彼 は 3月間 の配属期 間延長 を要望 し,それを認 めたザ ク
セ ン陸軍省 は08
年 11月に , 日本政府 との交渉 を ドイ ツ帝 国外務 省 に対 して要
請 した .彼 は1
909年 の 『
ザ クセ ン国政便覧』 において , ドレースデ ン駐屯第
4野戦砲兵連隊所属 ,日本派遣 中 ,1
91
3
年 には ピル ナ (
Pi
r
na)市駐屯第 5野
戦砲兵連隊 の大尉 と記載 され てい る.1
91
3年 以後 の消息 は不 明であ る(
2
)
.
(
注 1)これは,1
8
7
3
年生まれ,1
9
0
4
年少佐,0
7
-0
9
年 ドイツ派遣,2
9
年没,元帥となった
久遷宮邦彦王を指す.Ra
u
c
k1
9
9
4,p.
2
1
0;日本人名 1
9
7
9,p4
3
2;日本軍 1
9
71,p
9
9
6,p.
3
7.
2
7;華族 1
(
注 2)SAD,Nr
.
4
7
3
3;SHB1
9
0
9
,S.
4
6
5:SHB1
9
1
3
,S.
4
6
8;ザクセン州立中央文書館回
答.
(
1
3
) シ ュピー ス (
Gus
t
av SPI
ESS,1
833「 1
900)
ライ ン地方 デ ュースブル ク市 で高等学校 上級教師 の子 と して生 まれ て ,卸
売商人 とな った彼 は ,プ ロイセ ンのオイ レンブル ク使節 団(
1
)にザ クセ ン商業
会議所全権代表 として同行 した . この体験 に基づ いて ,『1
859- 62年 の プ ロ
イセ ンの東 アジア遠征 』Di
ePr
e
uJ
3
i
s
c
heExpe
di
t
i
onmac
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t
as
i
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rJahr
e1859-62.Re
i
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z
Z
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nauSJa
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na,Si
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c
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nl
ns
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nwe
l
t
,Ber
l
i
n/Lei
pz
i
g 1864 (日本 関 係 部 分 の 翻 訳 は 小 沢 敏
夫 ・訳 ,『シ ュピースの プ ロシアー 日本遠征記』,奥州 書房 1
934) を書 いた .
彼 の ライ ブツ ィヒ居住 が初 めて刊行住所録 に記 載 され た の は ,1863年 で あ
り,最後 は82年 で あ った .1
882年 にノ\ソブル クに移 り,そ こで投 した(
2
)
.
(
注 1)-イネの項を参照.この使節にはザクセン国王も全権を与えていた.シュピース
1
9
3
4,p.
3
4
0.
(
注 2)中井 1
9
6
9,p
p.
3
7
1
3
7
2;今宮 1
9
7
1,p
p
.
5
8,8
4(
シュピースはオランダ語に習熟し
ていたので,日本では通訳として予定されていた.しかし,-イネの項で記すように,
通訳の任務を果たしたのは,ヒュースケンであった) ;宮永 1
9
93,p.
6
7;Ge
s
c
h
1
e
c
h
t
e
r
b
u
c
h1
9
2
6
,S.
3
6ト 3
6
2:-ソブルク州立文書館回答 :ライブツィヒ市史博物館回
答.
(
1
4
) シ ュプ ランガー (
Eduar
dSPRANGER,1
882- 1
963)
彼 はベル 1
)- ソ市郊外 で商人 の子 と して生 まれ ,ベル リー ン大学 で1
905年
-1
271
1
2
8
に学位を取得 した .1
911年か らライブツィヒ大学に勤務 し (
1
2
年か ら教育学
0
年にベル リーン大学に転 じた.3
6
年に来 日し,各地で学術講演を行
教授),2
9
4
4
年 7月2
0日
なった.それ らは 日本語に翻訳 されて,出版 された.彼は ,1
の ヒ トラー暗殺計画に関連 して,逮措 された .第二次大戦後 ソヴィニ トの介
入を避けて,彼はテ ユービングソ大学に移 り,同市で没 した(
1
)
.
(
注1
)武内
1
9
9
5
,p
p
.
1
9
4
1
9
5;長井 1
9
5
7
,p
p
.
3
,1
8
1
9
.
85
) シュミーデル (
Ot
t
oSCHMI
EDEL,1
8
5
8
-1
9
2
6
)
彼はザ クセン王立炭鉱所長の子 として, ドレースデ ソ近郊 ツァウッケp-
Za
u
c
ke
r
o
de
)村 に生 まれ ,ライブ ツ ィヒ大学 な どで神学 を学 ん だ .
デ (
1
8
8
7
年に ドイツ福音教会の宣教師 として来 日し,独逸学協会学校 (
独協学園
の前身) と新教神学校 (
東京) で教え,また,邦訳 された著書に よって 日本
キ1
)ス ト教界に影響を与えた .9
2
年 に帰国 し,ヴァイマル近郊 グ ッテルで牧
eDe
ut
s
c
he
ni
nJapan,
師 とな った .著書 として ,『日本 の ドイ ツ人 』Di
Le
i
pz
i
g1
9
2
0
がある(1).ただ し,私は,ヴァイマル近郊 に ゲ ッテル はな く,
グ ッテル ソ (
G6
t
t
e
r
n
)村だけがあることまでは突 き止めたが,そ こを管轄す
る教会官庁か らは,シュミ-デルに関す る回答が得 られなか った .
(
注 1)武内
1
9
9
5
,p
.
1
9
5;キ 1
)ス 7
1
教 1
9
8
8
,p
p
.
6
6
4
6
6
5;
GV (
2
)
,Bd
.
1
1
5
,S4
1
2
.
(
1
6
) シュー リヒ (
Ar
nd
tHe
r
ma
nnSCHURI
G,1
8
6
0
-1
7
7
?
)(
シ ュー リヒ)
888
年 か ら9
2
年ま
彼は 「
ザ クセン ・ワス ワイン府」在籍 の染 色技 師 で ,1
「ワ
で,陸軍省の管轄に移 った千住製紙所の招聴技術者であった(1).しか し,
ス ワイン」 とい う都市は,ザ クセ ンに存 在 しない(2).中部ザ クセ ンの ロス
ヴァイ ン (
Ro
L
3
we
i
n)市 と考えて,同市に照会 した ところ,同市ル ター沢教
8
6
0
年 6月1
0日の洗礼記録に,上記綴 りの人物が同市 の染色工の子 とし
会の1
て記載 されているが,それ以外は不明である,との回答があった .
(
注 1)千住
1
9
2
8
,p
.
3
6;中村 1
9
7
3
,p
.
2
1
9
.
(
注2
)Vgl
.
Bl
a
s
c
h
k
e1
9
5
7
,S
.
5
8
*
.
-1
2
8一
来日したザクセン関係者 1
2
9
4
や ショイベ (
Bo
t
hoSCHEUBE,1
8
5
3
11
9
2
3
)
彼はプロイセン王国ザ クセン州 ツァイツ (
Ze
i
t
z
)市で工場主の子 として生
まれ,ライブツィヒ大学医学部を卒業 して ,1
8
7
6
年に学位を取得 し,同大学
Ka
r
lWunde
r
l
i
ch,1
81
5
-7
7
)の最後の助手 (
ベルツ
内科 ヴンダー リヒ教授 (
の弟弟子に当た り,ベルツか らも指導を受けた)を勤めた後 ,7
7
年に京都府
療病院 (
京都府立医大の前身)医学教師に招かれた. 4年間在職 し,寄生虫
病の研究な ど京都地方の医学の発展に貢献 した.脚気について彼は,ベルツ
と同 じように伝染病説を主張 した.81
年に療病院は洋風建築を新築 したが,
この建物はライブツィヒ大学 (
病院の意味であろ うか)を摸 した ものであっ
た.日本内外の西洋食推賞論に対 して,彼は論文 ,「日本食」 "
Di
eNahr
ung
c
hi
vfurHygi
e
ne
,Bd.
1,1
8
8
3において,米食を擁護 し
de
rJ
apa
ne
r
"
,i
n:Ar
年に彼は 日本を離れ ,「日本脚気論」で教授資格を取得 した8
3
年か ら,
た.81
8
5
年 までライブツィヒ大学医学部講師 として教えた後 ,故郷に近いグライツ
(
Gr
e
i
z
)の市医兼郡医 とな り,同市で没 した.彼の民族学関係 コレクシ ョン
は1
9
0
9
年にライブツィヒ民族学博物館 (ライブツィヒ ・グラッシ工芸博物館
の前身)に収められた.著書に ,『アイヌ』Di
eAi
no
s
,
Yo
ko
ha
ma1
8
8
2;『
脚
eBe
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Be
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Kr
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he
i
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,J
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na 1894,論 文 と して ,「脚 気 の歴 史 」
気 』Di
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Be
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c
ht
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n:OAGM,H.
2
4,1
8
81; 「日本食
Be
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n:OAGM,H.
27,
論」 "
1
8
8
2; 「日本人 の腸 の長 さ」 "
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8
2; 「日本の脚気」 "
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31
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99,1891; 「脚 気 」 "
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wai
me
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ur
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l
.
1
4,1
8
9
5な どがあ り, 『
脚気病論』,江坂秀三郎 ・ほか
-1
2
9-
1
3
0
釈 ,京都 ,若林茂助 1
884; 『
脚気論』,賀鼻隆書 ・訳 ,東京 ,南江堂 1897な
1
)
,
どが邦訳 された(
(
注 1)武内 1
9
9
5,p.
1
9
7;横 田 1
9
5
6
(
1
)
,pp
.
2
7
3
0;横 田 1
95
6(
2
)
,pp
.
200
12
0
4;横 田
1
9
5
7
(
3
)
,p
p.
1
3
0
-1
3
4;京都医史 1
9
8
0,pp.
8
5
7
8
6
0,91
6,1
0
1
6
-1
01
7;武智 1
9
9
7,p
p.
a
n
d
e
n1985,S.18011
8
5.
5.4
6
4
7;Vi
8
8
) ショルツ (
Pa
u
lSCHOLZ,18891 1944)
彼はライブツィヒで音楽家の子 として生まれ,-ンブル ク,次いで,ベル
リーンの音楽大学で ピアノを学び ,1
91
1
年に コンクールでメンデルスゾーン
賞を獲得 した後 ,12年に卒業 した.1
3年 に東京音楽学校教 師 として来 日し
て,ピアノを教授 し,22年 まで在職 した .その後 も没す るまで東京 にあ っ
1
)
.
て,個人教授や演奏活動を続け,日本の音楽界に大 きく貢献 した(
(
注 1)武内 1
9
9
5,p.
2
0
0;高野 1
9
7
4,p
p.
1
0
9
-1
1
0;音楽辞典 1
9
9
1,p.
9
0
9.
8
g
) スッスマン (
Au
gu
s
tSUSSMANN,18431 1921)(
ズスマン)
彼は靴工の子 としてライブツィヒで生まれ ,1859年に同市の商業学校を卒
Mo
r
i
t
zWe
i
n
o
l
d
)か らヴァイノル t商会 (
皮革取引業)
業 し,73年に妻の父 (
903
を引き継ぎ,事業をさらに拡大 して,同市屈指の富豪 となった.95年 ,1
午 ,そ して ,08年の計 3回,来 日し,日本の風土 と風俗に心を動かされた.
彼は帰国後 ,日本で購入 した美術 ・工芸品をライブツィヒのグラッシ博物館
(
Gr
a
s
s
i
mu
s
e
u
m.ライブツィヒ ・グラッシ工芸博物館の前身)に寄贈 した.
また,演説あるいは新聞-の寄稿によって , 日本 お よび 日本文化 を紹介 し
た.日露戦争に際 して彼は傷病 日本兵のために同市で募金を行 い ,3,000マ
ルクを 日本赤十字社に寄付 した.05年以後は毎年 5月27日に,在留 日本人 と
同市の名士を招いて,日本海海戦戦勝記念祭 を行 な った .08年 の来 日の際
000円を寄付 し,同社か ら有功賞を贈 られた.- 彼は
に,日本赤十字社に1,
1
880年前後か ら,あらゆる日本人を私宅に招いて供応 し,あるいは,集会に
伴 って名士に解介 した.そのために,彼の厚意を受けた 日本人は ,1908年頃
まで㌢
こ数百人に逢 した.08年に彼は日本政府か ら勲五等を贈 られた.なお,
-1
30-
来日したザクセン関係者 1
3
1
彼は同 じ0
8
年にザ クセ ン国王か ら商業参事官の称号を授与 された .彼はライ
ブツィヒで殺 した(
1
)
.-
1
9
0
9
年か ら 2年間 ライブツィヒ大学に留学 した新
見善治 (
後に広 島文理大歴史学教授)の回想に よれば,親 日家 の老富豪ズス
マンは,日本人の 「
父 (
チチ) さん」 と自称 し, 日本人 を ,誰 で も 「
我が
子」 と呼んで歓待 した .新見 も,到着す るとす ぐに昼食に招かれ ,さらに,
3日間のシュレ-ジエ ソ族行に招待 された.新見はその後 もズスマ ンに しば
2
)
.
しば手厚 くもてな された(
(
注1)外交資料 1
2
0
号 ;梅渓 1
9
9
1
,p
.
6
0
6;ライブツィヒ市戸籍部回答 (
生没年はこれに
従 う) ;
ザクセン州立ライブツィヒ文書館付属 ドイツ系譜学センター回答.
(
注2
)新見
1
9
6
9
,p2
0
0
.
C
Z
O
) ゾンダ-マン (
Pe
t
erS
ONDERMANN,1
9
2
0
-)
彼は ドレースデ ンで生 まれ ,1
9
3
6
年 か ら3
9
年 まで同市 の邦立交響楽 団
8
年か ら同校在籍 のまま同交
(シュクーツカペ レ)付属音楽学校で学んだ .3
響楽団の打楽器奏者 とな り,大戦従軍の後 ,4
5
年か ら8
5
年 まで同交響楽団の
主席打楽器奏者 とな った .同時に ドレースデ ソ音楽 大学 で打楽器 を教授 し
た .8
8
-9
3
年に NHK 交響楽団の客演団員 とな り,9
6
年に も来 日した(
1
)
.
(
注 1)NHK交響楽団回答.
倒) テンツレル (TENZLER(?),名は不軌
1
8
7
7
-1
?
?
?
)(
テンツラー)
生地不明の彼は,ケムニ ッツ市の 「
セキジセ ・マシーネ ン ・フアブ 1
)キ」
あるいは 「
ゼクジツシ- ・マシーネソ ・ファブ リック」の技師で,内務省 ・
千住製紙所 の創業 ,紡毛枚 と織機 の据 え付 け のために 日本 に派遣 され ,
1
8
7
8
-7
9
年に雇用 された(
1
)
.ヶムニ ッツ市立文書館の回答に よれば ,彼 の姓
と名を刊行住所録で確定す ることも,その後 の彼 の消息を同市で辿 ることも
できない.マルテ ィンの項を参照 .
9
2
8
,p
p4
5
,3
6;岡本 1
9
8
3
,p
p
.
5
9
,6
3
,7
6
.
(
注1)千住 1
磨) ナウマン (
Ed
mu
n
dNAUMANN,1
8
5
4
-1
9
2
7
)
彼は中部ザ クセンのマイセ ン市で,同市建設技師長の子 として生 まれた .
-
13 1 -
1
3
2
ドレースデ ソ工業専門学校を経て ,1874年に古生物学 の論文に よって ミュン
ヒェソ大学哲学博士 となった .75年に 日本に招噂 され ,文部省金石取調所勤
務 ,76年か ら開成学校 (
東京),さらに東大理学部地質学教師 とな った .79年
か ら内務省地理局地質課 (
82年か ら農商務省地質調査所)技師長に転 じて,
日本列島の地質調査に従事 した .まず ,調査担当者に調査 の指針を与えるた
めに,彼は 「
東奔西走」 して,大 まかな 日本地質図を作成 し,その解説 とし
て 「日本列島構造 ・起源論」を書いた .彼は85年に帰国 して ,87年に ミュソ
ヒェソ大学講師 とな り,98年に退職 し,い くつかの鉱山会社に関係 した .彼
の指導の下で作成が開始 された 日本地質地図は ,100万分 の- の ものが よ う
や く98年に完成 し,1900年のパ リ万国博覧会に出品された.それ よ り前 ,86
年か ら87年にかけて彼は 日本人論について, ドイツ留学中の森鴎外 と論争 し
た .彼 の 日本列島構造論に関 しては東大教授原 田豊吉 (画家原 田直次郎 の
兄)が87-90年に批判 し,ナウマンは90-93年に厳 しく反論 した .彼はフラ
ンクフル ト・アム ・マイソで没 した. 日本 の地質 に関す るナ ウマ ンの業績
は,ナ ウマン (
山下昇 ・編訳),『日本地質の探究』,東海大学 出版会 1996に
まとめ られている(
1
)
.ナウマン関係資料 の多 くは現在 ,糸魚川のフ ォ ッサマ
グナ ミュージアムに展示 されている(
2
)
.なお ,1943年 (!
)に も日本鉱業会名
誉会員 とされている E.Naumann は,彼であろ う(3).
(
注 1)武内 1
9
9
5,p.
2
7
8;山下 1
9
91
(
1
)
,pp
.
57
-5
9;山下 1
9
92
(
2
)
,p
p.
48
-5
6;山下
1
9
9
2
(
3
)
,pp
.
5
1
5
4,6
3;山下 1
9
9
2
(
4
)
,pp3
7
4
9;池守 1
9
9
3,p
p.
4
8
-5
2:山下 1
99
3
9
9
3
(
2
)
,pp
.
4
8
4
9;山下 1
9
9
3
(
3
)
,p
p.
9
3
7
-9
39,9
42
-9
48;山
(
1
)
,pp
.
2
0
9
2
2
6;山下 1
下 1
9
9
5,pp.
2
4
5
2
6
7;小堀 1
9
6
9,p
p.
1
8
5
2
9
3;五十嵐 1
9
86,pp
.
1
47
-1
5
9;山崎
1
9
8
9,p
p.
1
51
-1
7
4.
(
注 2)竹之内 1
9
9
5,pp
.
6
7
6
9.
(
注 3)鉱業会 1
9
4
3,p.
1
0.
C
3
) ナホ ・
t
Jド (
Os
karNACHOD,1
858- 1
933) (
ナーホ ト)
彼は商人の子 として ライブツィヒで生 まれ ,1876年に商業学校を卒業 し,
2年 あま り欧米各地を旅行 した後 ,家業に従事 した.94年にベル 1
)-ソ大学
に入学 して,-ーグでオランダ東イ ン ド会社の文書を研究 し,ロシュ トック
ー
132-
来 日したザクセン関係者 1
3
3
大学哲学博士 とな った .1
926
年 に来 日し,金銀 島探 険につ いて講演 した .著
1
7
世紀 のオ ラ ンダ東 イ ン ド会社 と日本 の関係』Di
eBe
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書 として ,『
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ock1
897 (
富永牧太 ・訳 ,『
十七世 紀 日蘭 交 渉
史』,義徳社 1
95
6- 『天理 図書館参考資料
5』) ; 『未発見 の黄金 国』Ei
n
une
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an,Tokyo1
900; 『日本史 』Ge
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Bd.1,Got
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06 (
Ur
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s645 n.Chr
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930 (
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nahmed.chi
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850
); 『日本帝 国関 係 欧 文 文 献 目
録 』Bi
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nJapan.1
906-1
926.Ent
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pz
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9
28;Bd.
3,Lei
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9
31
(
1
92
7-1929) ;Bd.
4,Le
i
pz
i
g1
935(
1930-1932.Ausd.Nac
hl
af
5hr
s
g.
vonHansPr
a
s
ent
)が あ る.彼 は 1
930
年頃に ドレースデ ソに移 った .3
8
年の
ドレースデ ン刊行住所録 に未亡人が記載 され てい るか ら,彼 の没地 は ドレー
スデ ンであろ う(
2
)
.また , ライ ブ ツ ィヒ留学 中の石橋智信 (
後 に東 大 文 学 部
宗教史教授) を一時 ,助手 としていた 「
ナホ ッ ド」 氏 (3)は ,彼 であろ う.
(
注 1) ベル ツは 1
9
0
7
年にこの書物の書評を書き,これが内容的に優れ てい るに もかかわ
らず ,文章が難解すぎるために,広 く一般に読 まれないことを,悲 しんでいる. シ ョ ッ
トレンダー 1
9
7
1
,p
.
1
6
2.
1
9
9
5,p
.
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3
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1
5
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Me
i
s
s
n
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9
6
1
,S6
6:ザクセン州立ライブツィヒ文書館付属 ドイツ系譜
(
注 2)武内
学センター回答 :ドレースデソ市立文書館回答.
(
注 3)新見
朗
1
9
6
9,p
p
.
2
0
2
2
0
3.
ネ ッ ト- (
Cur
tNETTO,1
847
-1
90
9
)
彼 は フ ライベル ク市 で ,同地 の鉱 山監督 の子 と して生 まれ ,フ ライベル ク
8
69
年 に卒業 した .普仏戦争 に従軍 し,南ザ クセ ンの シ ュネ -ベ
鉱業大学 を 1
ル ク市 の染料会社 で化学技 師 と して勤務 した後 ,7
3
年 に秋 田県小坂鉱 山の技
-1
33-
1
3
4
師に招かれ ,7
7
年に東大理学部採鉱冶金学教師に転 じた.8
5
年に帰国す るま
で,多 くの優れた学生を育成す るとともに,日本鉱山業の振興策を提示 し,
さらに,日本の採鉱 ・冶金学界 と母校フライベルク鉱業大学 との関係を密に
した.-
帰国の途次 ,彼は,日本滞在中に預金 していた中国の銀行の破産
を知 った.彼はパ リで東京時代の友人バイア,ベアあるいはパイル (
Ma
r
t
i
n
l
,1
8
41
-1
9
0
4.1
8
7
0
年から8
5
年 まで大体において東京滞在 .一時
Mi
cha
e
l
Ba
i
は東京駐在名誉領事 .バイア商会 [
Fi
r
maBa
i
一&Co.
]社主) とその義兄弟
Sa
mue
lBi
ng,1
8
3
8
-1
9
0
5
)に会 った.8
0
-81
年に日本に滞在 し,ベ
ビング (
ルツな どとも会食 した ビングは,ネ ットーに勧められて,日本の美術 とくに
浮世絵に関心を抱 くようになっていた.優れた水彩画家でもあったネ ットー
は,彼が収集 していた多数の浮世絵を,銀行破産のためにパ リで ビングに売
却 した (
ネ ットーの遺品の中に浮世絵はまった くなかった).7
0
年代 の初め
か ら東洋の物産を輸入 し,パ 1
)で販売 していた ビングは,8
6
年か ら (
一説で
5
年か ら) 日本の美術品を取 り引 きす るよ うにな った .彼 の店 に
はすでに7
紘,ゴソクール兄弟など多 くのジャボニザ ソが集まった.とくに画家 ゴッホ
はここで浮世絵を研究 し,ビングか ら借 りた浮世絵でもって,パ リで最初の
浮世絵展を- カフェで開いた.ヨーロッパ美術に対するアジアの影響の最初
中国趣味 (シノアズ 1
)-)」にヴァ-グナ- (
後述)がい くらか関
のもの ,「
与 していたとすれば,第 2回 目のそれ ,
「ジャポニスム」にはネ ット-がなに
が しか関連 しているわけである.-
ところで,上記バイアは 日本軍へのク
ル ップ社の武器の販売を仲介 してお り,ネ ットーをクル ップに紹介 した.こ
7
年か らクル ップ社で,彼 自身の特許に基づいてアル ミニ
うしてネ ットーは8
ウムの精錬を開始 した.しか し,ネ ットーは,彼の精錬方式 よりも優れた電
解方式が開発 されると,クル ップ社を去 った.9
0
年頃に彼は,フライベルク
Cl
e
mensWi
nkl
er
,1
8
3
8
-1
9
0
4
)教授の推薦で,鉱物商
の恩師ヴィソクラー (
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ge
s
e
l
L
人の設立 した ,フランクフル トの 「メタル ゲゼル シ ャフ ト」Me
s
c
ha
f
tの技術部門の責任者 とな り,9
7
年には,この部門を分離 して設立 され
-1
3
4-
来日したザクセン関係者 1
3
5
た会社 の社長 に就任 した .米国か らロシア まで各 地 を視 察 旅 行 して きた彼
90
2
年 に技術者 としての活動を停止 し,上記 「メタル ゲゼル シ ャフ ト」
は ,1
の監査役 に就任 した .彼 は1
889
年か らフランクフル ト・アム ・マイ ン市に住
衣 ,同市 で没 した .ただ し,同市 の刊行住所録 に は ,彼 は 1
904年 か らネ ッ
t
t
o
Not
hwang の姓 で記載 され てい る (
Not
hwang
トー-ノー トヴァソグ Ne
は夫人の旧姓).-
彼 の専門的著作 に ,今井巌 ・ほか訳 ,『日本鉱 山編』,東
大 ・刊 1
880 (
復刻 ,三枝博音 (
宿),『日本科学古典全集』,第 9巻 ,朝 日新
聞社 1
94
2
) ;「
鉱業試験所設立 ノ必要」,『日本鉱業会誌』,3
3
-3
4号 ,1
8
89な
』
どが あ る . 日本 の風 俗 習 慣 に 関 して は ,『日本 の 紙 の蝶 々[折 り紙 ]
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geausJ
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pan,Lei
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g1
888
(
1
)(
水彩画を含む)(
東野紅に よる部分訳 と絵 57点 は鹿 島卯 女 (
編),『明治 の夜 明け-
クル ト・ネ ッ
トーの ス ケ ッチ よ り』,鹿 島出版会 1
974,pp.1-88に あ る), ワ グ ネ ル
[ヴ ァ ー ゲ ナ - Go
t
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r
i
ed Wagener
] と の 共 著 と し て ,J
a
pani
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,Lei
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g1
901 (
高山洋書 ・訳 ,『日本 のユーモア』,刀江書院 1
9
71
)
Humo
r
がある(2). -
なお ,上記バイアは ,1
879年 に小銃実 包 製 造機 械 な どを受
0-81
年 には東京砲兵工廠 の 「
金属薬簡機械建設 ・運転活用」
注 ・納入 し,8
のために雇用 された 「
器具機械類 の輸入商」,「
ペール社主」「
ペ ール」 (
陸軍
雇独通人 ,個人略歴) である(3).
(
注 1)これは古い日本関係文献の中で最も優れている.Me
i
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1
,S.
4
7
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8.
(
注 2)武 内 1
9
9
5,p
.
2
8
3;鎌 田 1
9
4
3,p
p
.
4
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9;吾妻 1
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7
4,p
p
.
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5;大島 1
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511;池
上 1
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4;植 田 1
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2:植 田 1
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,S3
8
6
3
8
7:フランクフル ト・アム・マイソ大学図書館回答 ;フランクフル7
.1アム ・マイン
市史研究所回答.
(
注 3)Ra
u
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9
8
8
,S3
8
7.なお,中村 1
9
7
3,p
p
.
1
4
6
1
4
7,2
3
5
ではベールとされている.
0
年に大阪砲兵工廠製砲所の建設を依頼されたが,知人を紹介した.
彼はそのほかに,8
e
S
) バイアー (
J
ohannesAl
ber
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EYER,1874-197?)
彼 はベルギーのアン トウェルペ ンで生 まれた .1
90
8年 8月にザ クセ ン陸軍
-
13 5 -
1
3
6
省は,上記 シュテ ヒャ-と同 じように,彼 (
第 8歩兵連隊中尉)の大尉 (
第
7歩兵連隊)昇進 と,2年間の 日本派遣を決定 した .彼は同年 1
2
月初めには
東京に到着 し,最初の 1年間は ドイツ公使館付 きとな り,2年 目には 日本 の
部隊 (
所在地不明)に配属 され るべきである.彼は1
9
0
9
年の 『
ザ クセ ン国政
便覧』において,上記第 7歩兵連隊 (ライブツィヒ)所属 ,日本勤務 とされ
9
1
4
年
ている.なお,第 8歩兵連隊の駐屯地 もライブツィヒであった .彼 は1
には第 7歩兵連隊の大尉であった.1
9
1
4
年以後 の消息は不明である(
1
)
.
(
注 1)SAD,Nr
.
4
7
3
3;SHB 1
9
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9
,S.
4
5
4
4
5
5;SHB 1
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4
,S.
41
6;
ザクセン州立中央文書
館回答 .
鍋
ハイゼ ンベ ルク (
We
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SENBERG,1
9
01
-1
9
7
6
)
ビザ ソテ ィン学者 ,後 の ミュソヒェソ大学教授の子 としてヴェル ツブル ク
市に生 まれた彼は, ミュソヒェン大学を卒業 し,1
9
2
4
-2
5
年に コペ ン--ゲ
ンのニールス ・ボーア教授の下で研究 した後 ,量子論を発展 させ ,不確定性
原理を確立す るとともに ,2
7
年か ら4
1
年 まで ライブツィヒ大学物理学教授 と
して,多 くの研究者を養成 した (
3
2
年度 ノーベル物理学賞受賞).彼 は社会的
にはナチスに批判的であったが, ドイツのウラン計画に参画 した .4
2
年か ら
ベル リーンの物理学研究所 の ,5
5
年か ら ミュソヒェソの天体物理学研究所の
所長であ り, ミュンヒェソで浸 した.2
3
-2
8
年に同 じボーアの下で学 んだ ,
8
9
0
-1
9
5
1
)に招かれて ,2
9
年に来 日し,請
理化学研究所の仁科芳雄 (
岡山 1
演 した (
6
9
年にも再来 日).理研の関係者な ど多 くの 日本人研究者が ,ライブ
1
)
.
ツィヒの彼 の研究室に留学 した(
(
荘 1)朝永 1
9
8
2,pp.2
7
5
-2
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51.
を
7
) ハイネ (
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2
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-1
8
8
5
)
彼は ドレースデ ンで生まれた .父は宮廷劇場所属俳優であ り,当時 ドレー
スデ ンの宮廷楽長であった作 曲家 リヒァル T
l・ヴァ-グナ-の幼友達であっ
845
年 か ら 3年 間パ リに留学 し
た .子の-イネは同市の美術学校で学び ,1
た .パ リ二月革命か ら強烈な印象を受けて帰郷 し, ドレースデ ソ宮廷劇場の
-1
3
6-
来日したザクセン関係者 1
37
舞台装置画家 となった,ヴァ-グナ-や上記バ クーニンと同 じように,三月
9
年 ドレースデ ソ五月蜂起 に参加 したが ,蜂起が蘇圧 されたため
革命末期の4
に ,ハイネはパ リに亡命 し,さらに同年秋 ,米国に渡 った .米国国籍を取得
して ,5
2
年に米国海軍にはい り,ペ 1
)-提督 の 日本派遣艦隊に,提督付 き下
1
8
5
3
-5
5
年).彼が措いた絵のい くらかは,ペ リーの公
士官 として参加 した (
9年 に彼 はベル リー ンに赴 き,オイ レンブル ク
式報告書 に収 め られ た .5
(
Fr
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g)伯爵を全権公使 とす る,プ ロイセ ンの東洋派遣使
5
9
-6
2
年) のスケ ッチ画家 とな った .アメ リカ公使 - リスは通訳官
節団 (
ヒュースケンを派遣 して,オ ランダ語に よるプロイセン使節団の対幕府交渉
を援助 した .-イネは,オ ランダ語に堪能であったが ,使節団に よって無視
0
年 9月か ら半年に も及んだ
された .また ,日普修好通商条約締結の交渉が6
ので,この間-イネは陸上で多 くのスケ ッチを措いた .しか し,彼 の措いた
スケ ッチ と撮影 した写真は,同使節団の公式報告書におそ ら く収録 されてお
らず ,彼は画家 として も無視 された .6
1
年 1月に ヒュ-スケンが湊夷派の薩
摩浪士に襲撃 されて,アメ リカ公使館に担 ぎ込 まれた時 ,最初に駆け付けた
ドイ ツ人が-イネであった .条約締結後の 5月にノ
、イネは,中国でプ ロイセ
ン使節団 と別れて,長崎 ・横浜経 由でアメ リカに向か った.南北戦争が勃発
していたので,三月革命挫折後 アメ リカに亡命 していた ドイツ人の多 くと同
じように ,-イネは北軍に投 じ,最後 には准将 に まで昇進 した .戦後 はパ
年 の ドイツ帝国成立後 ,彼
リ,次いで リグァプールの領事に任ぜ られた .71
は故郷に帰 り,ドレースデ ソ近郊 レースニ ッツ (
Lof
3
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)村で没 した .著作
世界周航 日本へ の旅 』Re
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として ,『
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8
5
6(日本関係部分の翻訳 :中
井晶夫 ,『
-イネ世界周航 日本-の族』,雄松堂書店 1
9
8
3
) ;『日本 とその住
民 』 Japanands
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860; 『
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界旅行』Ei
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860 und 1861,2 Bde.
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864; 『日本 .国土 と住民 の研究 』J
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873,3.
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ke,1
904 (これにはプロイ
セン使節団時代の彼のスケッチ50点が含 まれる)がある.しか し,彼の日本
関連記述には誤 りが多い,とされている(
1
)
.
(
荘 1)武 内 1
9
9
5,p・
2
8
9;宮永 1
9
9
3,p
p
.
5
7
6
0;佐藤 1
9
8
5,p
p.
80
-9
9;中井 1
9
69,
pp
.
3
7
0
3
71;中井 1
9
8
3
(
1
)
,pp
.
2
6
4
5;中井 1
9
83(
2
)
,p
p36339
8;今宮 1
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1,pp.
5
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5;佐藤 1
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(
1
)
,p
p,
8
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11
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1;佐藤 1
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8
(
2
)
,p.
8
7:宮
永 1
9
8
6,pp
.
1
8
5,1
9
0.
鯛 ハース (
HansHAAS,1
868-1
9
34)
彼はバイエル ンの ドン ドルフ (
Donndo
r
f
)村で建築家の子 として生まれ ,
-ルラングソ大学で神学 と古典哲学を学んだ.東洋話語の研修を 2年間受け
て ,1
898年に来 日し, ドイツ福音教会牧師 (
東京 と横浜),また,新教神学校
903年には東大文学部で ドイツ語を教えた.同年に
(
東京)校長 となった.1
シュ T
tラースブル ク大学か ら神学博士の学位を取得 した.09年に帰国 して,
1
5年にライブツィヒ大学神学部教授 となった.論文 ,
「
天理教 .現代 日本の複
Tenr
i
kyo:ei
n neuess
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et
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undeundRe
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s
s
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c
haft
,Bd.
25,1
91
0(
富永牧太 ・訳 , 『
天理教』,天理図書館 1
933- 『
天理図書館参考資
料
2』),著書 ,『日本 キ リス ト教 史 』 Ge
s
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hi
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Japan,Tokyo1902; 『日本仏教 の諸 宗 派 』Di
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Buddhi
s
mus
,Hei
del
ber
g1
905など,日本の諸宗教 (
神道 ,儒教を含む)につ
1
)
.
いて,多 くの著作を発表 し,ライブツィヒで没 した(
(
琵 1)武 内 1
9
9
5,p.
2
9
8;富永 1
9
3
3,pp
.
1-3,
'大久保 1
9
7
6,p
p.
91
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NDB,
Bd.
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,S,
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5.GV (
1
)
,Bd3
9
,S.
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1
)
,Bd5
3
,S.
3
9
.
ー1
38-
来日したザクセン関係者 1
3
9
位
9
) ハ ミッチ ュ (
Ho
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tHAMMI
TZSCH,1
9
0
9
-1
9
9
1
)
彼 は ,建築家 の子 として ,そ して, ア ドル フ ・ヒ トラーの義 弟 の甥 と し
て , ドレースデ ンで生 まれた .1
9
2
9
年か らライブツィヒ大学 で学 び ,
『
倭姫命
世 記 』 Yamat
o
Hi
meNoMi
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9
3
7に よって哲学博士 とな った .3
3
年 か ら八
高 (
名古屋) ドイ ツ語講師 ,4
1
年か らライブツ ィヒ大学助教授 ・日本学研究
所所長 (
4
4
-4
5
年 には同教授),大戦後 には ミュソヒェソ大学 を経 て ,6
6
年か
らボーフム大学 日本学教授 とな った .最後 の住所 は ヴ ェス トフ ァー レンのユ
ニガ- p- (
Enni
ge
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h)であ ったが ,没地 は不 明である.代表 的な著 書 と
して ,『茶 道 に お け る 禅 』 Ze
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4(これは英語 ,ポル トガル語 ,オ ランダ語 に翻訳 され
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81
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.
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た),編 著 と して ,『日本 便覧 』J
がある(
1
)
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(
荘 1)H
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8;テユービングソ大学回答 ;ボーフム大学回答.
(
3
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) ハルティヒ (
Ge
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G,1
8?
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-1
?
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)
生地不 明の彼 は ドレースデ ソの羊毛紡績工業 の代表 として ,1
8
9
6
-9
7
年の
アジア通商視察 団 (シャンツの項 を参照)に参加 した(
1
)
.ただ し,ドレースデ
ソ市立文書館か らの回答に よれば ,彼 の名は 1
8
9
4
-1
9
0
5
年 の刊行住所録に記
載 されていない .
(
注
1)Ra
u
c
k1
9
8
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,S2
4
5
.
㈹ ヒルゲン ドル フ (
Fr
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LGENDORF,1
8
3
9
-1
9
0
4
)
彼 は商人 の子 としてブランデ ンブル ク州 ノイダム (
Ne
ud
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mm)市 で生 ま
れ ,1
8
6
3
年 にテ ユービング ソ大学 で哲学博士 の学位 を得 た .ベル リー ン動物
学博物館 ・館員 な どを経 て ,71
年に ,当時 ドレースデ ソにあった皇帝 レオポ
ル ド・カルル記念 ドイ ツ自然科学院 (
Ka
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-
139-
1
4
0
Deut
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cheAkademi
ederNa
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ur
f
or
s
cher
)の図書館長 とな り,ドレースデ ソ工
業専門学校動物学講師を兼ねた.73年に東京医学校 (
東大医学部の前身)予
科教師 として来 日し,76年 まで動物学な どを教授 した .彼は74年夏の北海道
g
旅行 の際に ,旧秋 田藩士 に よる函 館 駐 在 ドイ ツ領 事 - -バ ー (Ludwi
Haber
,1
84
3-74
) の暗殺に遭遇 した.帰国後は再びベル リーン動物学博物
館 ・館員 ,80年には主事 とな り,没す るまでその職にあった .彼は93年には
教授の称号を与えられた.彼 の動物学論文のあるものは,日本滞在中に収集
1
)
.
した標本を基に している(
(
注 1)武内 1
9
9
5,p
p
.
3
4
1
3
4
2;磯野 1
9
8
6,p
p
.
2
5
3
5;上野 1
9
9
1
,p
p
.
3
4
3
3
51;官永
1
9
9
3,p
p
.
4
1
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1
2;We
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9
0
6
,S.卜 肌
(
3
2
) フェルマー (
Hel
mutFELLMER,1
90
8-1
97
7)
彼は ドレースデ ンで生まれ ,1
92
8
年 に ドレースデ ソ音楽 大学 を卒 業 し,
ヴァイマルの ドイ ツ国民劇場 ・副指揮者 ,テ ユー リングソ邦立 アルテ ソブル
ク劇場指揮者を経て ,38
年か ら45
年 8月まで東京音楽学校教師 (
指揮法お よ
び作 曲) となった .帰国後は州立 カッセル劇場指揮者 ,グ ッパ ータール ・
ゾ- リンデン市立劇場指揮者 ,プ レーマ -- -フ ェソ市立劇場指揮者 を経
年 まで- ンブル ク州立歌劇場の合唱指揮者であった(
1
)
.
て ,65年か ら74
(
注 1)音楽大事典 1
9
8
2,p.
2
0
7
6;音楽辞典 1
9
91,p.
1
5
6
8;高野 1
9
7
4,p
p
.
1
1
6
-1
1
7
(
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) ;Ku
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9
5
6
,S.
1
6
4
1
1
6
5;東京芸術大学 回答 :プ レーマ- ーフ ェソ市立文書館 回答 ;- ソブル ク州立歌劇場回答 .
(
3
3
) フープ リヒ ト (
Manf
r
edHUBRI
CHT,1
930-)
彼 は電 工 の子 として ドレースデ ソに生 まれ ,同市 の高等学校 を経 て ,
1
94
9-53
年にベル 1
)-ソ ・フンボル ト大学 で 日本学な どを学び ,53年に- ソ
eHai
kur
Po
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t
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kde
sMas
ao
k
a
ブル ク大 学 に移 り,『正 岡子 規 の俳 論 』Di
Shi
k
i
,Di
s
s
.Hambur
g1
95
5に よって哲学博士 となった.寺山修司の長編小説
『ああ荒 野』(
現代評論社 1966) の翻訳 .
‥vo
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nAuge
n.
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dni
s.
.
.
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manを ,71
年に Fi
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her出版社 (
Fr
ankf
ur
t/M.
)か ら出版 し
-1
40-
来日したザクセン関係者 1
41
た .721 75年に岡山大学法文学部の ,75- 80年に京大教養部の, ドイツ語担
当外国人教師 とな った .85年に京都産業大学世界問題研究所 ・教授 とな り,
87年か ら同大学法学部 ・教授 (
法社会学) に転 じた(
1
)
.
(
注 1)文部省 1
9
7
2,p.
1
0
50;文 部省 1
9
74,p.
1
1
40:文 部省 1
97
5,p.
97
8;文部 省
1
9
7
9,p.
1
2
5
0;
大学職員録 1
9
8
5
(
2
)
,p.
1
1
3
4;大学職員録 1
9
8
7
(
2
)
,p.
11
8
9;大学磯貞
操 1
9
9
6
(
2
)
,p,
1
0
9
1;-ソブルク大学図書館回答 ;寺山修司記念館回答.
銅
ブラッケ (
J
o
ha
nGe
o
r
gFLACKE,17??- 1777)
彼は ライブツィヒ出身で ,1
785-86年に長崎 ・出島蘭館の上級医師であっ
た(
1
)
,それ以外のことは不明である.なお ,J
oha
nは J
o
ha
nnであろ う.ただ
し,ザ クセン州立 ライブツィヒ文書館付属 ドイ ツ系譜学セ ンターに よれば,
ライブツィヒ市の教会記録簿に Fl
a
c
ke姓 の家族 は記録 されていない.
(
注 1)Kr
a
a
s1
9
9
2
,S.
6
.
(
3
5
) フランク (
Lo
ui
sFRANK,1886- 1973)
彼は商人の子 としてライブツィヒで生まれ ,1
909年に化学に関す る論文で
ベル リーン大学哲学博士 とな り,10年に同大学工芸学助教 , 13年 に来 日 し
て,小樽高商 ・講師 とな り,13年間 ,商品学 と商品実験を,後には ドイツ語
や英語を教授 した.彼は,我が国における商品理化学 の実質的創始者であっ
7
年 あま り電気化学 と ドイツ語を
た .26年か ら山梨高等工業 ・講師 とな り,1
教 えた.43年にユダヤ系 として実質的に罷免 され ,後には収容所に収容 され
た .49年に米国に移住 して,アーカンソー州 の フ ィラソダ ー ・ス ミス ・カ
レッジ教師 とな り,サ ンフランシス コで没 した(
1
)
.
(
注 1)武 内 1
9
9
5,p.
3
8
0:斎藤 1
985,p
p.
1
7
-1
8;フランク先生 1
9
86,p.
52;石井
1
9
8
6,p.
71;鎌倉 1
9
9
0,p
p.
4
6
4
7;Fr
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k1
9
0
9,Le
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.
(
3
6
) ヘ リテルあるいはヘルテル (
Fr
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Fr
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dr
ic
h]HARTEL,1877- 1940)
(
ヘルテル)
Pl
a
ue
n
)市で生まれ ,
彼は建築家 の子 として西南ザ クセンのプラウエ ソ (
ミュソヒェソ大学な どで法学 と医学を学び, ミュソヒェソ大学で医学博士の
-1
41-
1
4
2
学位を得た.1
91
3
年か ら- レ大学外科教室に医局長 として勤務 (
1
7
年に教授
2
年に来 日して ,大 阪医大 (
阪大 医学部 の前 身)請
資格取得) したのち ,2
師 ・第-外科主任 として,多 くの優れた医師を養成 した.講義の ドイツ語は
ザ クセン謙 りが甚だ しか った とい う.3
0
年に帰国 して,ベル リーン市立 オス
s
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Zi
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Kr
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ke
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u
s
)外科部長 と
カル ・ツィ-テン病院 (
な り, リヒテンベル グで没 した(
日.
1
9
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5
,p
p4
2
1
4
2
2;-ルテル先生 1
9
5
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,p
p
.
1
6
1
7,1
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,2
8,6
9;
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3
5
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5
7
7.このリヒテンベルクは,旧東ベルリーン市の一部の Li
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Br
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1
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9
0
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.
3
6
5
)であろ うか
(
注 1)武 内
.
(
3
8 ベルツ (
Er
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n(
1
9
0
5:Yo
n
)BALZ,1
8
4
9
-1
91
3
)
彼は西南 ドイツの ビーテ ィヒ-イム (
Bi
e
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i
ghe
i
m)市で建築家の子 と して
8
6
6
年にテ ユービングソ大学入学 ,69
年 に ライ ブツイ ヒ大学 に転
生 まれ ,1
2
年に博士号を取得 し,ヴ
じ,内科教授 カルル ・ヴンダー リヒに師事 した.7
ンダー リヒの助手 ,次いで ,7
6
年に誇師 とな った .そ の76年 に東京 医学校
0
年代後半に,東京生 まれの荒井
(
東大医学部の前身)教師に招聴 された .8
はつ (
後に花 と呼ばれた) と結婚 した .ベル ツはル ター派 で あ った ので ,
1
9
0
5
年 ,日本を離れ る直前に ,花はルター派の洗礼を受け ,ベル ツ夫妻は改
めて教会で結姫式を挙げた .これを執 り行なった牧師は,上述の--スであ
る.ベル ツは東大に2
6
年間勤務 して,日本医学 の父 と称 された ,1
9
0
2
年に東
大を退任 したが,さらに 3年間,宮 内省侍医を勤めた .彼は 日本滞在中に寄
生虫病 ,脚気 (
彼は これを伝染病 と考えていた),温泉の効用 ,日本人の人類
学的特徴 などについて,多 くの著書 ・論文を発表 した.彼は外国人 としては
破格の旭 日大綬章を0
5
年に授与 されて,帰国 し,主 として民族学者 として活
動 し,シュ トゥッtガル T
.で没 した .彼 の 日本研 究 の成果 は 『ベル ツの 日
記』 (
岩波文庫)に記録 されている.彼は,日本で収集 した美術 ・工芸品を,
シュ tゥッ トガル トのヴユルテンベルク邦立産業博物館 とベル リーンの民俗
博物館に寄贈 した(1).なお,『
ザ クセ ン国勢便覧』では,彼は 1
8
9
4
年 まで継続
-
1 4 2
-
来日したザクセン関係者 1
43
して,ライブツ ィヒ大学医学部講師 と記載 され ている(
2
)
.
(
注 1)武 内 1
9
9
5,p
p.
4
2
4
4
2
6:ショットレンダー 1
9
71
,p
p.
2
7
-3
4,73
-8
2,9ト1
21,
1
2
4
-1
7
6;ヴェスコヴィ 1
9
7
4,p
p.
1
2
11
4,4
4
47,56,64
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-73,92,9と
卜96,
1
0
6
-1
0
9,1
2
9,1
4
4
1
4
7(
著作 目錠) ;安井 1
9
9
5,p
pl
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1
3,1
4
1
5:2
3
2
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1
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3
1
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5
8,3
6
1
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2,3
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7,3
70
-421;NDB,Bd.
1
,S.
5
2
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1
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,S.
1
3
4.
(
荘 2)Vg
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.
SHB1
8
9
4
.S5
9
7
(
3
8
) ベル リーナ- (
Si
egf
r
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ed [
Si
gf
id]BERLI
r
NER,1
8841 1
961
)
彼 は商業学校校長 の子 として北 ドイ ツの- ノーフ ァー市 で生 まれ ,ライブ
906
ツィヒ大学な どで数学 と経済学 を学 び ,鋳鉄 の負荷反応 に関す る論文で 1
年 にゲ ッテ ィンゲン大学哲学博士 とな り,08年 に ライ ブ ツ ィ ヒ大 学講 師 と
な った .13年 に東大法学部教師に招かれた .1
4年 に彼 は第一次大戦 のために
帰国 したが ,20年 に再 び来 日して ,東 大経 済学 部 ・国際金 融論 教 師 とな っ
38年
た .25年 に帰国 して ,ライブツ ィヒの ドイ ツ- ロイ ド生命保険 ・重役 (
まで) とな り,2
7
年か らは ライブツ ィヒ商業大学教授 を兼任 した .彼 は38年
に米国に亡命 し,39年 に ワシン トン特別 区の- ワー ド大学教授 とな り,シカ
ゴな どの保険会社 の重役 を兼ねた .52年 に名誉教授 とな った後 ,オ レゴン州
フ ォレス トグ ロウヴ (
For
es
tGr
ove) で没 した .著書 として ,『日本輸入貿易
gani
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s
,
の魁織 と経営』Or
Hannover1
920がある(
1
)
.
(
注 1)武 内 1
9
9
5,p.
4
2
8;東大 ・経済 1
9
7
6,pp622
-6
23,11
2
3
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1
2
4:Be
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9
8
3
,pp.
9
3
9
4.
(
3
g
) ベ- レン ト (
Mar
t
i
nBEHREND,1
8651 1
926)
彼 はプ ロイセ ン東部 のケ一二 ヒスベル ク市近郊で生 まれ ,ライブツィヒ大
学な どで学 んだ後 , ドレースデ ソで統計実務家 として ,次 いで ,ツィッタウ
市で商工会議所書記 として勤務 した .1896年 にマ クデブル ク商業会議所法律
顧 問 ,1909年 にマ ン-イ ム商業大学経済学 教 授 とな った .彼 は 13年 に来 日
し,満鉄 ・調査部 ・顧 問 , ドイ ツ東 アジア博物学 ・民族学研究協会
-
1
43-
(
OAG)
1
4
4
会長 とな った .第一次大戦 の勃発のために帰国 して,旧職に復帰 し,同地で
1
)
.
没 した(
(
注 1)Wh
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1
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) マイステル (
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STER,1
6
5
3
-1
7
1
3
)(マイスター)
彼はテ ユー リングソのゾンダース- ウゼ ン (
Sonder
s
haus
en)市で生 まれ ,
1
675年 か らザ クセ ンの フ ォン ・エ ー バ ー シ ュ タ イ ン (Al
br
echtYon
Eber
s
t
ei
n)元帥に庭師 として仕えた後 ,77
年にオランダ東イ ン ド会社船でア
ジアに出航 した. ドイツ人 (カ ッセル 出身) 医師 で ,植物 収集家 の クライ
アー (
Andr
easCl
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yer,1
6
3
4
-9
7
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9
8
)は,オランダ東イン ド会社 の長崎商館
長 として1
6
8
2
-8
3,8
5
-8
6
年に二度来 日した.二度 とも彼は庭師 としてマイ
スターを同行 させた .二人は植物を採集 し,あるいは,日本人か ら多 くの植
物園を入手 し,植物 の利用法について質疑応答を重ねた.マイスターは8
8
年
9
年にはザ クセン選帝侯 (
9
4
年か らはアウグス ト強健侯) の 「
東
に帰郷 し,8
洋風造園家」に任ぜ られて, ドレースデ ンの庭園の外来植物の管理を委ね ら
れ ,没す るまで,その職にあった .彼の書物 ,『
東洋 -イ ン ド風造園家』De
r
,Dr
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6
9
2
は版 を重
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7
3
1
年に第 5版が出版 された (
復刻版 Wei
mar1
9
7
2
).この書物 の植物
園はその後 しば しば引用 された .また ,この書物は,簡単な独和辞書 と独和
対照会話文を含み,仮名 と数字の 日本語発音を示 している(
1
)
.
(
注 1)宮永 1
9
9
3,p
p
.
3
0
3
1
,3
3:ADB,Bd.
2
1
,S.
2
5
4;Mi
c
h
e
l1
9
8
6
,p
p
.
15
0(独和会話
文の詳細な分析を含む).
(
4
D マルチン (
C.
F.
MARTI
N,1
8
3
2
-1
7
7
?
)(マルチィン)
生地不明の彼は,上記テ ンツラーと同 じよ うに ,チ ユ ムニ ク (ケムニ ッ
ツ)市の 「
セフジセ磯械製造場」 あ るいは 「
サ キ ソニー (あ るいはサ キ ソ
ン)器械製作所」あるいは 「
ゼクジツシ- ・マシーネソ ・ファブ リック」の
機械技師であった.まず ,1
8
7
6
年か ら7
7
年 まで内務省 ・新 町紡績所 (
群馬
年か ら7
9
年 まで内務省 ・千住製錬所で,同社製の蒸気磯
県)で,次いで ,77
-1
4
4-
来日したザクセン関係者 1
4
5
閑 (
新町で40馬力 ,千住で70馬力)据え付けを指導 した(
1
)
.この壊械製作所が
a
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eMa
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G.であるとすれ
(
秩)ザ クセン機械製作所 S
Ri
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t
ma
n
n,1809- 1878) が創設 した,当
ば,これは,-ル トマ ン (
東京)
時のザ クセ ンで最大の機械製作工場であった(2).陸軍省小銃製造所 (
に1923年に使用 されていた工作機械の中で,購入時期最古 (1872年) の旋盤
2台 とフライス盤 2台を含め ,1
892年 (
大部分は1881
年) までに合計 28台を
納入 した 「リシャル ド・- ン トマ ン(
3
)
」は,この工場 のことであろ う.また ,
千住製紙所は創業に当た って,ケムニ ッツの 「
サ ツキセソ号織機製造場」 あ
るいは 「
ゼクジツシ- ・ウエブスツール ・ファブ リック」か ら紡毛機 6台,
整紡機 6台 と織機 42台を購入 し,マルチ ィソほテンツラーとともに横桟 の据
え付けを指導 した(
4
)
.ヶムニ ッツ市立文書館の回答に よれば,マル テ ィンの
名を同市の刊行住所録で確定す ることも,同市におけ るその後 の彼 の経歴を
年 の機械据え付け
知 ることもできない.なお,東京砲兵工廠 における80-81
に関 して,ペールあるいはベール (
ネ ットーの項を参照) とともに同工廠に
出入 りしたが,陸軍省 ・雇いか どうか不明の 「
機械師マルチ ン」(
陸軍雇独通
人 ・一覧表)は,上記マルテ ィンと同一人物であろ う(5).
3
6
,田 沢
60 季 長
,) )
44 2 3
併催
(
注 1)陸軍雇独通人,個人略歴 ;千住 1
9
2
8,pp.
4,3
6:岡本 1
9
8
3,p
p.
2
9
3
0,3
4,4
2
7
6,1
3
7,1
41,1
4
4
-1
4
6,1
5
8,1
81
1
9
9
4,p.
6
4.
9
9
4,p9
0
を参照
1
9
5
3,pp.
3
9
3
3
9
4.さらに,幸田 1
(
注 4)千住 1
9
2
8,pp.
4
5;岡本 1
9
8
3,p
p.
3
0
3
4,4
2,5
9.
(
注 5)中村 1
9
7
3,p.
2
3
9
.
(
4
2
) ミュラー
(
Ma
xMULLER,1870-1977)
彼は農業者の子 として南ザ クセンのマルバ ッ- (
Ma
r
b
a
c
h
)村で生 まれ ,
父の遺産 の農場を経営 した後 ,1
898年にライブツィヒ大学農学士 とな り,翌
99年 まで同大学獣医学研究所助手を勤 めた .さらにベル リー ン大学 とベル
1
)-ソ農業大学で学び ,1903年に哲学博士の学位 ,07年に教授資格を得た.
04-08年にはベル リーン農業大学助手であった .1
1
年 に東北大学農学部 (
礼
-
145-
1
4
6
幌) ・畜産学教師に招かれた
(
1
4
年 まで)
(
1
)
.帰国後の消息は不明である.棉
国直後の彼の論文 ,「
北海道 あ るいは蝦夷 の研究」 "
Be
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urKennt
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n,J
g.
1
91
511
6,では,ベル リーン農業大学講師 と記 され
ている.この大学は,フンボル ト大学文書館の回答に よれば,後にフンボル
ト大学農学部 となったが,同学部の文書は第二次大戦の戦災で失われた.
(
注
1)Mu
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9
0
3
,Cu
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u
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u
mv
i
t
a
e;北海道大学北方資料室拭答 .
(
4
3
) メッゲルあるいはメ ッツゲル (
Ado
l
fMEZGER,1877-1899) (メツ
ガー)
彼は-イデルベル ク市の医師の子 として生まれた.1
856
年か ら5
8年 までフ
Or
enbur
g)で
ライベル ク鉱業大学で学んだ後 ,彼はロシアのオ レンブル ク (
8
年か ら8
2
年 まで工部省お雇い外国人 として秋 田県阿
鉱山官吏 として働 き,7
2
年の夏には,三菱商会吉岡銅山 (
岡山県成羽
仁鉱山の近代化を指導 した.8
町)の近代化に関与 した.同年 9月か ら翌年 まで約 1年 間 ,一時帰国中の
ネ ッT
t- (
上記参照)の代理 として,彼は東大理学部で採鉱 ・冶金学を講義
した.8
3
年の帰国か ら8
5
年 まで,西南ザ クセンのツゲィッカウ市で ,9
0
年か
阿仁の気
ら米国で活動 した.没 したのはフライベルクである.論文 として ,「
T̀agl
i
chemet
e
or
ogi
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cheBeoba
cht
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880
-1
881,a
nges
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象」 `
Ani
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n:OAGM,H.
25,1
881,H.
2
7,1
88
2;「日本鉱山 ・冶金論」 E
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(
注 1)武 内
(
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)モスレ (
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MOSL豆],1
863-1
949
)
彼はブ レーメン市の商人の子で ,1
8
84
年に東京に来て,最初は ドイツ系企
8
年に 自立 した.クル ップ社 とベルギーの コックリル社の代理
業に勤務 し,8
-1
4
6-
来日したザクセン関係者 1
4
7
人 として,日本 の弾薬輸入において重要な役割を果た した .1
90
7
年に帰国 し
て,ライブツィヒに住み,日本の名誉領事 とな った .1
935年 に米 国 に移住
し,ニューヨークで没 した .著作 として ,
「日本 と世界政策 におけ るそ の地
位」 "
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(
4
5
) ヤーン (
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890
-1
964
)
彼はライブツィヒで生まれ ,1
90
9
年か らライブツィヒ大学で哲学 と歴史を
学んだ.1
4
年にライブツィヒ大学か ら学位 を取得 し,同市実科商業学校教授
兼 ライブツィヒ大学新聞研究所講師 となった .彼は2
4
年に来 日し,山 口高 ,
静岡高 (この時か ら東大文学部講師兼務),一高で ドイツ語を教授 した.3
9
年
か ら京大文学部講師兼三高講師 となった.51
-5
9
年には南山大学文学部教授
であった.離 日後 ,南 ドイツの トl
)-ア市に隠棲 した.彼 は 日本文化 ,とく
に俳句を愛 した.著書に ,『日本 と三人の ドイツ人-
ケーベル ,シーボル
ト,ベル ツ』 (白水社 1
943
年) な どがある(
1
)
.
(
注 1)武内 1
9
9
5,p
.
5
0
5;星野 1
9
8
5,p
p
.
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2;古賀 1
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p
.
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7.ただし,彼の
学位論文
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4
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aには,父の職業が記載されていない.
(
4
6
) ユーバーシャール (
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]UBERSCHAAR,1
8
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96
5
)
彼はマイセン市で商人の子 として生 まれ ,1
9
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年か らライブツィヒ大学で
学び ,『日本におけ る天皇 の地位』Di
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91
2に よって哲学博士の学位 を受けた.1
2
年に来 日して ,大 阪高等
1
4
年 まで).1
9-30年 に再 び大
医学校 の ドイツ語 ・ラテン語教師 とな った (
阪高等医学校教師 ,2
5-32
年には京大文学部講師 となった .彼は3
2
年に帰国
して,ライブツィヒ大学教授 ,同大学 日本学研究所 ・初代所長 とな った.3
7
年にナチスを避けて来 日し,天理外国語学校講師 ,3
9
年か ら甲南高校講師 と
2
年か ら死去す るまで ,甲南大学文学部教授 であった .著書に ,
『日本
な り,5
政治の特性 』Di
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『
芭蕉 と奥の細道』 Ba
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注1)ユーバーシャール教授 1
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92
7) (
ユンカー)
彼はザ クセ ン (
詳細不明)で生 まれ ,1
88
6
年に来 日して,神戸 の商会の社
負 ,間 もな く四高 (
金沢)の ドイツ語教師 とな った .さらに,神戸 のジャパ
ン ・クロニクル紙の支配人を経て,東京に移 り,一高 ,独逸学協会学校 ,拓
殖大学な どで ドイツ語を教えた .彼は長期に亘 って 日本の ドイツ語教育界に
貢献 し,東京で没 した(
1
)
.
(
注 1)武内 1
9
9
5,p
.
5
0
9;ユンケル氏 1
9
2
7,p
.
3
6
1.
(
4
8
) レックス伯爵 (
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85
6-1
926
)
彼は, ドレースデ ンの南方 ,ピルナ市近郊の騎士農場 ツェヒス タ (
Zehi
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t
a) を所有す る,ザ クセ ンの名門貴族の退役中尉 を父 として, ドレースデ ン
で生まれ ,ライブツィヒ大学な どで法律を学んだ後 ,1
8
82
年に ドイツ帝国外
911
年に 日本駐在公使 とな り,第一
務省にはいった .中国駐在公使を経て ,1
次大戦勃発のために1
4
年に帰国,間 もな く退職 し,スイスのフ リムス ・ヴァ
ル トノ、ウス (
Fl
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) で没 した(
1
)
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(
注 1)Sc
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) レー ンホルム (
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92
8
年以後)
DTLONHOLM)は,西南ザ クセンのマル ク-ノイ キル
彼 (旧姓 SCHMI
ヒェソ (
Mar
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chen)市で生 まれ ,1
87
8年に ライブツィヒ大学法学部
年に第二次試験に合格 して,ペ-ガウ (
Pe
gau) 区
における国家試験に ,83
年には ライブツィヒ地方裁判所判事 (
9
8
年に同地方裁
裁判所 の判事補に ,85
判所部長の ,1
90
6年に枢密参事官の称号賦与) に任ぜ られたが ,89
年に来 日
年か ら東大法学部 ドイ ツ法教師
し,独逸学協会学校 の法学教師 とな った .90
-1
48-
来日したザクセン関係者 1
4
9
とな り,その後 21
年 間在職 した .彼 はまた ,司法省顧 問を兼任 し,日本 の民
法 ・商法 ・刑 法 な どを 英 語 ・ ドイ ツ語 ・フ ラ ンス語 に 翻 訳 した .Bi
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(
1
)な どである.東
大退職後 ,米国に移住 したが ,1
928
年 には ロサ ンジ ェル スで経済的に困窮 し
2
)
.
ていた .その後 の消息は不 明である(
(
注1
)GV (
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)
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(
注 2)武 内 1
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)の子 として ドレースデ ンで生 まれ ,鋼版
彼 は ,都市裁判官 (
画家を志 して ,1
633
年 に故郷 を離れ ,アムステル ダムに赴 いた .3
4
年 には南
米 ブラジルに行 って ,オ ランダ酉イ ン ド会社 の画家 とな り,41
年 に帰郷 し
た .翌年 に再び故郷 を出て ,オ ランダか らイ ン ドネ シア ・バ ク ビアに渡 っ
て ,オランダ東 イ ン ド会社 の書記 とな った .彼 は51
年 にバ タ ビア総督 の法務
顧問官に ,5
6-5
7
年 と5
8-59
年 の 2回 ,長崎 (
出島)商館長 に任ぜ られた .
彼 は第 1回江戸参府 の際に ,明暦 の大火に遭遇 した .約2
5
年後 に出島に来た
マイスター (
上記参照) に よれば ,ヴァーグナ-は短気 な 「
育男」 として 日
-6
6年に ヴ ァーグナ-は南 アフ リカ ・希望峰
本人になお記憶 されていた .61
植民地 の第二代 司令官 に任命 された .6
8
年 に ,オ ランダに帰 って間 もな く,
アムステル ダムで没 した(
1
)
.ォ ランダ東 イン ド会社 は1
6
50
年 に肥前 磁 器 の輸
出を開始 したが ,それを本格化 させ ,と くに ,オランダ本 国への輸 出を開始
600
点で ,その4
5% は五彩磁器) したのは ,1
65
9
年 であった .5
9
年 の商
(
約5,
-1
49-
1
5
0
館長 ヴ ァ-グナ -の送 り状 (
合計約 34千 点) が そ れ を立 証 して い る(
2
).
ヴァ-グナ-が5
7
年にバ タビアに送 った 日本磁器の見本 1箱は,本国に転送
された .58
年にヴァーグナーは ,
「
以前には 日本人は磁器 を中国人か ら入手
しなければならなか ったにもかかわ らず上 本年には1
5
隻 の中国船 が大量 の
日本産 「
粗製」磁器をアモイに輸出 した,と報告 している.59
年に彼は,さ
まざまな種類 の最 も美 しく最 も上質の 日本製品を,折 々に買い集めてきた こ
と,バ タグィアに今回送 られ るすべての種類 の 日本磁器に関 して,同種の製
品がオ ランダあるいはバタグィアか ら買い付けを要求 され る場合に備 えて,
番号を付けた見本 1点を出島に残 していること,を報告 した.さらに彼は以
下の ことも報告 した .オランダ人ばか りでな く,中国人 も上質の磁器を毎年
求め,船積みす ることを知 っている日本人は,上質の白色粘土が得 られ る肥
前地方で,全力を尽 くして,磁器を生産 し,販売を開始 した .彼 らが年毎に
技術を改良 し,さらに熟達 しつつあることも,自分は知 っている,と.磁器
見本の一つは,ヴァ-グナ-自身の図案で,青地に銀彩の唐草文を描いた も
のであった .しか も,彼が驚博 した ことには,それの納入期限 より 1カ月 も
前に,ほぼ同 じ種類 の磁器が,彼の発注 した陶工以外か ら,出島に移 しく運
び込 まれたのであった(
3
)
.この ように してヴァ-グナ-は肥前磁器興 隆史 の
証言者 となったが,この肥前磁器が半世紀余 り後に ヨーロッパ最初 の硬質磁
寡 -マイセン磁器に影響を与えるとは ,彼 は想像 も していなか った で あろ
う.
(
注 1)ADB,Bd,
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1
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(
注 2) 山脇 1
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8,pp.
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2
9
8,4
0
2.
(
注 3)ザンドフリート 1
9
8
7,p.
1
6;ヨルグ 1
987,pp.
43-44;Vo
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2
6
),p60;1
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2
7
),pp.64,67;
1
2
8,1
3
2,1
3
6
-1
3
7.さらに,フォルカ- 1
1
9
8
2(
2
8
),pp.
6ト6
2を参照 .
- 150-
釆 目したザ クセン関係者
1
51
(
3
) 注引用文献 目録
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)
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,「故 フランク先生の生誕百年記念に よせて」,『山梨工業会会 報』,
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明治前期我国鉱業近代化 とお雇 い外人 の系譜」,『平成 2年 度資
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2
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木村 1
9
7
9- 木村毅 , 『日本に来た五人の革命家』,恒文社 .
京都医史 1
9
8
0- 京都府医師会 (
編),『
京都の医学史』,思文閣出版 .
キ リス ト教 1
9
8
8- 『日本キ リス ト教歴史大事典』,教文館.
鉱業会 1
9
4
3- 『日本鉱業会会員名簿』,昭和 1
8
年版 .
幸田 1
9
9
4- 幸田亮一 ,『ドイツ工作横桟工業成立史』,多賀出版 .
古賀 1
9
8
0- 古賀保夫 ,「
E.ヤーン教授の滞 日回想」,『中京大学教養論叢』,21
巻 1号.
小城 1
9
6
9- 小城桂一郎 , 『若 き日の森鴎外』,東京大学出版会 .
斎藤 1
9
8
5- 斎藤要 ,「日本における自然科学的商品学の肇明期」,日本商品学会北海道部会
(
宿),『
北海道部会二十年史』,所収 .
佐 々木 1
9
8
5- 佐 々木正男 ,「フライベルク鉱山学校の 日本人留学生」,『研究紀要』(日本大
学人文科学研究所),3
1
号.
佐藤 1
9
8
5- 佐藤林平 ,「ヰル-ル ム ・-イネをめ ぐる諸問題」, 『慶応義塾大学 日吉紀要
言語 ・文化 ・コミュニケーシ ョン』, 1号.
佐藤 1
9
8
8
(
1
)
,(
2
)- 佐藤林平 ,「
He
us
ke
nの死をめ ぐって」,『慶応義塾大学 日吉紀要 英語
英文学』,8号 ,1
0
号.
ザ ソ ド7 1
)- T
11
9
8
7- Ke
e
sZa
n
dv
l
i
e
t(鳥井裕美子 ・訳),「
ザ- 1
)アス .ワ--ナール
(
1
6
1
4
-1
6
6
8
)
」,ワ--ナール展 1
9
8
7
,所収 .
シュピース 1
9
3
4- Gu
s
t
a
vSp
i
e
L
3(
小沢敏夫 ・訳),『シュピースの プ ロシ ャー 日本遠征
紀』,奥州書房 .
-
15
4
-
来 日したザ クセ ン関係者
1
55
シュミット 1
995- Ger
har
dSchmi
dt(
松尾展成 ・編訳), 『
近代ザ クセン国制史』,九州大
学出版会 .
シ ョットレンダー 1
971- Fel
i
xSchot
t
l
ander(
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ル ツ.日本に於ける- ドイツ人医師の生涯 と業蹟』,日本新薬 (
樵).
新見 1
9
69 - 新見善治 , 『
分け登 る歴史学の山路』,新見善治先生頒寿記念刊行会 .
瀬木 1
9
81- 瀬木慎一 ,「
美術商 としてのビング』,ビング 1
9
81,所収 .
千住 1
9
28 -
『
千住製紙所五十年略史』,千住製紙所 .
宗田 1
8
89 - 宗田一 , 『図説
日本医療文化史』,思文閣出版 .
1
)
,(
2
)- _『
全国大学職員軌 (
1
)
国公立大学乱 (
2
)
私立大学篇』,広潤社 ・
大学職員録(
9
61- 高野岩三郎 , 『
か っばの庇』,法政大学出版局.
高野 1
高野 1
974 - 高野紀子 ,「ドイツ人音楽家 と日本」, 日独協会 (
宿), 『日独文化交流 の史
実』,日独協会,所収 .
武内 1
9
9
5 - 武内博 (
宿), 『
増補改訂 来 日西洋人名事典』,日外 アソシエーツ.
武智 1
997 - 武智秀夫 ,「ライブチ ッヒでの衛生学研修」, 『
鴎外』,61
号.
竹之内 1
9
95 - 竹之内耕 ・宮島宏 ,「フォッサマ グナ ミュージアム」
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486号 .
東大 ・経済 1
97
6- 『
東京大学経済学部五十年史』,東京大学出版会 .
富永 1
9
33- 富永牧太 ,「
著者小伝」,Ha
ns‖aa
s(
富永 ・訳),
『
天理教』,天理図書館 (
『
天
理図書館参考資料
2』),所収 .
友田 1
97
8- 友 田清彦 ,「
わが国の草創期土性調査事業に関する考察- Ma
xFe
s
c
aの先行
者 Os
c
arKor
s
chel
tを中心に」, 『
農村研究』,4
7号 .
朝永 1
9
8
2 - 朝永振一郎 ,「
-イゼンベルク教授のこと」,『
朝永振一郎著作集』,第 2巻 ,衣
すず書房 .
中井 1
9
69- 中井晶夫 ,「
解説」,Fr
i
edr
i
chGr
a
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uEul
e
nbur
g(
中井 ・訳),『オイ レンブル
ク日本遠征紀』,(
下),堆松堂 ,所収 .
中井 1
9
83
(
1
)- 中井晶夫 ,「
1
84
9
年 ドレスデンの五月蜂起におけるワーグナー,バ クーニソ
とW.-イネ」, 『ドイツ語圏研究』,1号.
中井 1
9
83
(
2
)- 中井晶夫 ,「
解説」,Wi
l
hel
m Hei
ne (
中井 ・訳),『-イネ世界周航 日本-の
旅』,雄松堂出版 ,所収 .
長井 1
9
57●
- 長井和雄 ,『シュプランガー』,牧書店 (
長田新 (
編),『西洋教育史』,第 1
2
巻).
長崎大 1
9
75- 魯林会 (
編),『
暁星挽 く瞬 きて 長崎高等商業学校 ・長崎大学経済学部七十
年史』.
長沢 1
9
53 - 長沢寸美遠 ,「
創立5
0
年余の工場に現存する機械の購入 された年 と製作者」,
『マシナ リー』,1
953
年 4月号 .
中村 1
9
73- 中村赴 , 『
新説明治陸軍史』,梓書房 .
日本軍 1
9
71- 日本近代史料研究会 (
宿),『日本陸海軍の制度 ・組織 ・人事』,東京大学出
版会 .
日本人名 1
9
79 -
『日本人名大事典』,第 2巻 ,平凡社 .
-
155-
1
5
6
橋本 1
9
7
0- 橋本謙一 ,「
オスカー ・コルシェル トの業蹟」,『
化学 と工業』,2
3
巻 5号 .
八田 1
9
8
2- 八田伸祐 , 「
異人館主 メッツゲル」, 『
朝 日新聞 秋田版』,1
9
8
2
/3/1.
『
遥かなる波の音 外国人妻達の歳月』- Fo
r
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9
9
6を見 よ.
平田 1
9
8
3- 平田寛 .「ヨー ロッパ最初 の愛碁家-一 化学者 オス カー ・コル シ ェル ト」,
『
本』,8巻 2号.
ビング 1
9
8
1- SamuelBi
ng (
宿) (
大島清二 ・枚か訳),『
芸術の 日本』,美術公論社 .
フォルカ- 1
9
8
1
,1
9
8
2- T.
Vo
l
ke
r(
前田正明 ・訳),「
磁器 とオ ランダ連合東 イ ン ド会
社」,(
2
6
),(
2
7
),(
2
8
), 『陶説』,3
4
5
号 (
1
9
81
),3
4
7
号 (
1
9
8
2
),3
4
8
号 (
1
9
8
2
).
藤原 1
9
9
4- 藤原隆男 , 「
オスカー ・コルシェル トの 『
酒の製造について』」,『
酒史研究』,
1
2
号.
藤原 1
9
9
5- 藤原隆男 , 「
オスカー .コルシェル トと開拓使」,『
岩手大学文化論集』,3号 .
フランク先生 1
9
8
6-
「
ルイス ・7-ゴ ・フランク先生略歴」,『山梨工業会会報』,6
3
号.
-ルテル先生 1
9
5
0- 大阪大学医学部第-外科教室 (
蘇), 『-ルテル先生追想録』.
星野 1
9
8
5- 星野慎一 , 「
ヤーン先生 と俳句」, 『
文芸春秋』,6
3
巻1
2
号.
ミヒェル 1
9
9
0
(
2
)- Wol
f
ga
ngMi
c
he
l
,「
出島蘭館医カスバル ・シャムベルゲルの生渡につ
いて」, 『日本医史学雑誌』,3
6
巻 3号.
ミヒェル 1
9
91- Wol
f
ga
ngMi
c
he
l
,「カスバル ・シャムベルゲルの 『弔辞』について」,『日
本医史学雑誌』,3
7
巻 4号.
ミヒェル 1
9
9
5
(
2
)- Wo
l
f
ga
ngMi
c
he
l
,「日本におけるカスバル ・シャムベルゲルの活動に
ついて」, 『日本医史学雑誌』,4
1
巻 1号 .
ミヒェル 1
9
9
5
(
3
)- Wol
f
ga
ngMi
c
he
l
,「
1
7
世紀の平戸 ・出島蘭鋸の医薬関係者について」,
『日本医史学雑誌』,4
1
巻 3号 .
ミヒェル 1
9
9
6
(
1
)- Wol
f
ga
ngMi
c
he
l
,「カスバル ・シャムベルゲル とカスバル流外科(
1
)
∴
『日本医史学雑誌』,4
2
巻 3号 .
ミヒェル 1
9
9
6
(
2
)- Wol
f
ga
ngMi
c
he
l
,「出島蘭館医- ソス ・ユ リアー ソ ・- ソコについ
て」,
『
言語文化論究』,7
号.
宮島 1
9
8
4- 宮島久雄 , 「
サ ミュエル ・ビングと日本」, 『
国立国際美術館紀要』,1号.
官永 1
9
8
6- 官永孝 , 『開国の使者
- リスとヒュ-スケソ』,雄松堂出版 .
宮永 1
9
9
3- 宮永孝 , 『日独文化人物交流史』,三修社 .
文部省
-
『
文部省職貞禄』,文教協会 .
安井 1
9
9
5- 安井広 , 『ベルツの生産 近代医学導入の父』,思文閣出版 .
山崎 1
9
8
9- 山崎国紀 , 「ナウマン論争の性格」,同著 , 『
森鴎外- 基層的論究』,八木書
店 ,所収 .
山下 1
9
91
(
1
)- 山下昇 , 「
ナウマン博士のゆか りの人 と所をたずね て∴ (
1
), 『
地質 ニ ュー
ス』,4
4
6号 .
山下 1
9
9
2
(
2
)
,(
3
)
,(
4)- 山下昇 ,「
ナウマン博士のゆか りの人 と所をたずねて」,(
2
)
,(
3
)
,
(
4)
,『地質 ニュース』,4
51
号 ,4
5
4
号 ,4
5
5
号.
山下 1
9
9
3
(
1
)- 山下昇 ・アン ドレアス キ ュッパース (
Andr
e
a
sN.
Kuppe
r
s
),「
E.ナウマ
ンの博士号取得について」, 『
地質学雑誌』,9
9
巻 3号 .
-
1
5
6-
来 日したザ クセ ン関係者
1
5
7
山下 1
9
9
3
(
2
)
,(
3
)- 山下昇 .「
ナウマンの地質構造研究- (
2
)
日本地質像の総合 ,(
3
)
日本地
地質学雑誌』,9
9
巻 1号 ,9
9
巻1
1
号.
質像の補整 と擁護」,『
山下 1
9
9
5- 山下昇 (
蘇),『フォッサマグナ』,東海大学出版会.
山脇 1
9
8
8- 山脇悌二郎 ,「
唐 ・蘭船の伊万里焼輸出」,『
有田町史 商業編』,第 1巻,有田
町,所収 .
9
6
8- 「
故ユ-バーシャール教授略歴 ・著作 目録 」,『甲南大学文学
ユーバーシャール教授 1
7
号 (
故ユーJ
(-シャール教授追悼特集号).
会論集』,3
ユンケル氏 1
9
2
7- 「
ユンケル氏逝 く」,『
英語青年』,5
7
巻1
0号.
横田 1
9
5
6
(
1
)
,(
2
)
,1
9
5
7
(
3
)- 横 田構 ,「
京都府療病院教師 He
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t
hoSc
he
ube
∴ (
1
)
,
(
2
)
,(
3
)
,『
京都医学会雑誌』,7巻 1号 ,3号 ,8巻 3号.
吉城 1
9
81- 吉城文雄 ,「
秋 田県阿仁鉱山の近代化構想について」,半田市太郎先生退官記念
会 (
編),『
秋 田地方史論集』,み しま書房 ,所収 .
吉田 1
9
6
8- 吉田光邦 , 『お雇い外国人
2 産業』,鹿島出版会 .
ヨルグ 1
9
8
7- C.
∫.
A.
J
o
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g(
井垣春雄 ・訳),「
1
7
世紀前半期のオランダ東イ ン ド会社の磁
器取引」,ワ--ナール展 1
9
8
7,所収 .
陸軍雇独逸人 - 陸軍省 (
蘇),「
雇独逸国人名調査表 .付 ,個人略歴 (明治 4
3年調査)J,
n.J
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hnYoung.Ch
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9
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1
9
5
9.
レーンホルム氏 1
9
2
8- 「
赤貧に苦 しむ レ氏に養老年金を送 る 本邦の友人門弟か ら」,『帝
国大学新聞』,1
9
2
8
/7/9,「
友情 と師恩に酬ゐて 在米の レンホル ム氏か ら」,同紙 ,
1
9
2
8
/1
2
/1
0.
六高 1
9
8
0- 藤井駿 (
宿),『
六高同窓会会員名簿』,岡山六高同窓会本部 .
ワー-ナ-ル展 1
9
8
7- 長崎オランダ村博物館 (
宿),『オランダ村博物館第 3回展- オラ
ンダ東イン ド会社出島商館長 ワー-ナール-
目録』.
(
4
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1
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1
5 7 -
158
@~
Beyer, Johannes Albert (25)
Müller, Max
Exnell, Ottomar (3)
Nachod, Oskar (23)
Fellmer, Helmut (3~
Naumann, Edmund
Fracke, Johan Georg (34)
Frank, Louis (35)
Netto, Curt (24)
Overkamp, Christian Hendrik (4)
Gößner, Gesine (5)
Rex, Arthur Graf von
Haas, Hans (W
Schamberger, Capsar (9)
Härte!, Fritz [Friedrich] (3@
Schanz, Moritz on
Scharschmidt, Clemens (l@
Hammitzsch, Horst (2~
Hartig, Georg (3@
(2~
@~
Scheube, Botho 01)
Heine, Wilhelm I:PJ
Schmiede!, Otto 05)
Heisenberg, Werner (2@
Scholz, Paul
Hilgendorf, Franz (3n
Schurig, Arndt Hermann o@
(l~
Hubricht, Manfred (33)
Simon, Edmund (8)
Jahn, Erwin @5)
Sondermann, Peter (2@
Junker, Emil @1)
Spieß, Gustav 03)
Korschelt, Oscar (7)
Kou, Hedy, geb. Wekel (6)
Spranger, Eduard 04)
Länholm [Schmidt-Länholm], Ludwig
Hermann @9)
Sußmann, August
Tenzler (?) 12n
Martin, C. F. @n
Meister, Georg [George] @@
Überschaar, Johannes [Hans]
Wäntig, Heinrich (2)
Mezger, Adolf @3)
Wagner, Zacharias $@
Stecher, Georg Walter
Mosle [Mosle], Alexander Georg @4)
-158-
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Fly UP