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専修6(05)/専修6(05) [ 6ページ ]
寄 稿 そこに足を踏み入れるとブォーブォーと凄まじ いブブゼラの音と人々の明るい声が鳴り響いてい た。今回、6月7日から9日の3日間、ポートエ リザベスで学会発表があり、初めて南アフリカの 地を踏むこととなった。 ちょうどこの時期、南ア フリカ大会が6月 日か ら7月 日までの約1カ 月間開催されていた。学 会発表の後、南アフリカ 「「虹虹のの国国」」 のの光光とと影影 したホテルは白人地区の れ た 部 屋 が 広 が っ て い てられている。地域的に 出場で優勝したことだ。 手・指導者などは、世界 わか ホテルであったが、外見 た。ただ周囲の塀の上は 旧白人地区であれば大学 この時、大統領であった のサッカー市場を移動し 白人の象徴である代表 体が一段と似てきてお はホテルとは判らず、車 有刺鉄線が張り巡らされ にラグビースタジアムを ネルソン・マンデラは、 ている。そのため戦術自 ているのが現状だ。すべ に渡している。それは、 うと空き地?)で行われ のフランソワ・ピナール 人中、 人が移民系選 またドイツ代表などは ラウンド(どちらかとい トロフィーをキャプテン る。 んどが貧しい地区の土グ ニフォームを着て、優勝 進 ん で き た よ う に 思 え 一方、サッカーはほと (スプリングボクス)ユ り、その意味で同質化が 皆さんは世界地図から アフリカーンス語という ということである。この が1台しか通れない門か て お り 、 こ の あ た り に 有しているほどだ。 パッと南アフリカの位置 独自の言葉を作り上げて 政策から有色人種が解放 ら中に入っていくと、そ も、この国の持つ歴史が にじ されたのは、1990年 こには中庭を中心とした 滲み出ていた。 南アフリカの スポーツとサッカー 原住民は奴隷とされ、 に黒人指導者であるネル コテージのように分けら を指し示すことができる いく。 だろうか。ここは 世紀 以後、インド洋と大西洋 その他アジア(特にイン ソン・マンデラ氏が釈放 をつなぐ(すなわちヨー ド)などからも奴隷とし された影響による。それ ロ ッ パ と ア ジ ア を つ な て入植させられ、白人と を受けてこの体制が撤廃 てのスポーツはアパルト 反目していた白人と黒人 手となっていたのも今の たた この国はイギリスの影 ーはというと他のスポー ヘイト政策終了まで、あ とが国民統合した瞬間と 世界の状況を現している いまだに白人と黒人の住 れるスポーツであるが、 ができる大学施設などに が、1995年に開催さ 民は何を求めたのか、と 手がますます輩出されな 「虹の国」と呼ばれるよ いた。街を車で走ると、 は、世界的な活躍がみら ウンドを外から見ること なインパクトを与えたの 会開催に国は、そして国 ッカー市場で活躍する選 り、以後イギリス人の街 パルトヘイト が形成されていく。オラ 政策と呼ばれ ン ダ 人 は 内 陸 部 に 移 動 る人種差別が し、アフリカーナーと呼 国によって徹 ばれ、現地語と融合した 底されていた 年大会までは、フ ベ ン ト 」へ と 変 容 し て き """"""""""""""""""""""""""""""""""" せられる。 デ ン マ ー に活力を与える「記憶に カ メ ル ー ン 」を T V 観 方 、「 日 本 サ ッ カ ー 界 に しながらサッカー 人 )の ウ エ イ タ ー / ウ エ ?」このテーマに関して は、母国の応援を 戦 し た 。勝 利 後 、現 地( 黒 は何が残ったのだろうか 3、4回の大会 あ っ た が 、 こ こ ー ル を 飲 み な が ら「 日 本 はないだろうか。その一 のを感じることが ク」を観戦後、バーでビ 残る大会」になったので はナショナルなも 「 オ ラ ン ダ ァンの観戦行動に たのかもしれない。実は、 表の活躍により、日本中 最後に、今回は日本代 ◇ もう一つ、南アフリカ む地区が分かれているこ 基本的には白人社会中心 はサッカーゴールではな れた第3回ワールドカッ 考 え を 及 ぼ す と 興 味 深 いと困難だろうと感じさ ウンを占領することにな は、 世紀の直前までア 我々がプレトリアで宿泊 にイギリス人がケープタ で忘れてはいけないこと とがすぐに理解できる。 で行われている。サッカ く、ラグビーポールが立 プラグビーにおいて、初 い。 人が入植し、1806年 1652年にオランダ うになったのだ。 ある。 カ最大の経済大国なので 成 さ れ て き た こ と か ら なところで見え隠れして ト、テニス、ゴルフなど ったようだ。確かにグラ 政策終了後、世界に強烈 今回の南アフリカでの大 るなら、グローバルなサ ープ州)を有するアフリ まざまな人種によって構 る影はいまだにさまざま り、ラグビー、クリケッ を中心として広がってい 出されていた。そのため そのような背景のなか、 界で上位進出を目標にす 点とされた喜望峰(西ケ れている。このようにさ だが、この人種政策によ 響 を 色 濃 く 反 映 し て お ツとは異なり、黒人社会 らゆる国際大会から閉め 今でも讃えられている。 ように思える。日本も世 ぐ)通商航路の重要な地 の混血はカラードと呼ば させられることになるの 23 ン グ ラ ン ド 」、 そ し て 最 を楽しみ、それ以上にそ イトレスが「おめでとう は紙面の都合上、ここで (水) ただし、 月 日 後にヨハネスブルクの決 の開催国自体を楽しんで ! 」 と 声 を か け て く れ 述べるのは差し控える。 勝会場で「オランダ デ いるように思われた。だ た。きっと彼/彼女たち 人々の熱気が入り交じっ が集い、その国の文化を た独特の空間が形成され 含めて楽しむイベントに 守られているということ ていた。いままでに3回 なっている。その意味で ただ観戦者は、 楽しみでもある。 試合は、ケープタウン わうのは4年間の 6月7日、日本から約 空港で6時間過ごさなけ によると、この大会のた 率は世界トップクラス) 。 るので、それを味 いうことでもある(犯罪 により異なってい り、トランジットのため おり一安心。聞くところ はなかったが、その場が ルグでの「アメリカ イ 感じる。1990 ス ポ ー ツ 〕)、中 西 哲 生 氏(サッカージャーナリ スト) 、後藤健生氏 (サッ カージャーナリスト) 、 宇 一方でサッカーのフィ 都宮徹壱氏(サッカーフ バル化が一段と進行した し、シンポジウムを開催 受けているか判らないと 気は地元の受け入れ状況 し む た め の ビ ジ ネ ス・イ ロサッカー市場のグロー ご 活 躍 の 面 々 を お 招 き から 「楽 ールドへ目を移すと、プ ォトライター)の各界で るということは何が待ち 戦してきたが、この雰囲 ナル・イベント」 であって、そこ以外へ出 ほどワールドカップを観 は「国家のためのナショ サッカー市場の グローバル化 者と受け入れ側の地元の た。とにかく世界の人々 願っていたのだろう。 には世界中から来た観戦 な と こ ろ で 見 受 け ら れ 味での大会自体の成功を (NHK解説委員〔専門 はりどの会場でも、そこ ン同士の交流がさまざま 気持ちを含むすべての意 の テ ー マ で 内 山 俊 哉 氏 戦することができた。や 穏な空気感がなく、ファ く、ホスピタリティーの 所の公開講座として前記 ンマーク」の3試合を観 から試合が終わっても不 も 試 合 の 勝 利 だ け で な 5時限目に社会体育研究 20 の街々を巡り、熱気であふれるアフリカ大陸初の 11 10 ワールドカップ試合観戦の機会を得ることができ vs 飯田 義明 たので、その様子を南アフリカの歴史的背景を含 デンマークのファン ▲ 経済学部教授 め報告をさせてもらおうと思う。 ワワーールルドドカカッッププをを観観戦戦ししてて vs 大会であったように感じ 予定。興味のある方はぜ られた。現在、多くの選 ひそちらにご参加を。 社会論、スポーツ文化論ほか。 チームのコーチなどを歴任。主な担当科目はスポーツ 学会などに所属。ユニバーシアードサッカー日本代表 修了。日本フットボール学会(理事)、スポーツ社会 いいだ・よしあき ∥経済学部教授。筑波大学大学院 ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! 時間かけて南アフリカ ればならなかった。南ア め、あらゆる場所に通常 国際空港のヨハネスブル 旅行経験者から、空港自 の5倍の警察官が配置さ で開幕戦の「フランス ウ ル グ ア イ 」、 ヨ ハ ネ ス そのためか、試合会場 ブルクから100㌔程内 この 年で変わっ クに入った。学会会場は 体が危険だと言われ、緊 れたそうである。 vs vs オランダのファン ▲ ポートエリザベスという 張していたのだが非常に vs 21 ナショナル・イベントからビジネス・イベントへ 各国ファンの熱気が入り交じったスタジアム ▲ スラム街と空き地 ▲ 11 16 イ ン ド 洋 側 の 都 市 で あ 多くの警官が配備されて などで危険を感じること 陸部に入ったルステンブ てきているように 20 20 11 テーブルマウンテンの山頂から望むスタジアム ▲ ヨハネスブルクの中心地 ▲ (6) 2010年(平成22年)8月15日 修 専 ス ー ュ ニ (昭和44年10月14日第3種郵便物認可) 第479号