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禅との出会い

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禅との出会い
<禅との出会い>
禅との出会い
福原 慶雲
私と人間禅との出会いはそんなに早いとは申せません。
ここでは、それまでの私自身のいわゆる「禅」との関わりについて述べたいと
思います。
今思えば私の生まれ故郷、現神戸市東灘区で幼稚園にも行かぬ幼少期、毎朝、
父母が揃って「般若心経」を唱えているのを寝床で兄と二人で聞いていたことが
仏教との最初の関わりだと思います。
それから後のことと思いますが、床の間に達磨さんの絵の軸が掛かっており、
それを右から見ても左から見ても、その達磨さんが自分の方を見ているのが妙に
気になり、何度も色んな角度から達磨さんの眼を飽きもせず眺めていたこともあ
りました。尚、当時の家は、昭和 20 年の最初の神戸大空襲で壊れましたが、家族
全員無事でした。
中学のころクラスの図書係に選ばれて、教室に並んだ本の中で子供でも分かり
易い禅の本があり、その中に「随処に主となれば 立処皆真なり」と書いてあり、
深い意味など分かる筈はありませんでしたが、その言葉には感じるものがあった
のか、今でもその時のことはよく覚えています。
多くの仲のよい友達(そのうちの一人が脇田圭堂居士です)と一緒に、野球で
全国優勝を果たした直後の兵庫県立芦屋高校に入学しましたが、クラス担任の先
生との出会いが、更に禅を身近に感じる契機になりました。
先生は兵庫の船大工の棟梁の末裔で、神戸一中・七高・東大を出られ、陸軍経
理将校で終戦となり、縁あって芦屋高校の日本史の教師として奉職され、教師仲
間からも生徒間からも名物教師の一人と目される存在でした。しかし、われわれ
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本山中学からの仲間の間では何の違和感もなく、先生のご自宅にしょっちゅうお
邪魔していました。何時ともなく同類生徒が増えて、高校時代だけでなく、卒業
後も続きました。戦後に無理して建てられて、お母さんとお二人で暮らされてい
た比較的広めの居間には、
「一日不作 一日不食」と半割の孟宗竹に彫られた壁掛
けが唯一の装飾品として目立っていました。
先生は、妙心寺系の専門道場として有名な祥福寺に足を運んでおられたことは、
ご自分から話されたことは殆んどなく、ごく一部の人にしか知られていませんで
した。また、禅に関することは学校でも自宅でもあまり話されたことはありませ
んでした。
今思えば、言葉には出されなかったけれど、生活態度や行動は普通人の域を超
えた感があったように思っております。少なくとも「禅学の徒」でなかったこと
だけは間違いないと思っています。この先生のことについては、われわれ同期生
手作りの文集『あるがまま』(2006 年4月発行・芦高 11 期卒業生編集)の教え子
多数の文に明らかです。東西の国立図書館に寄贈していますので、どなたでもご
覧いただけると思います。
滋賀県彦根市での学生時代には剣道部に入りました。入学の前年に全国大学剣
道選手権大会で優勝した直後の余熱で、練習はことのほか厳しく、初めて竹刀の
握り方から教えられた者にとっては大変な経験でした。しかし、禅に関心を持つ
ようになった要因の一つであるとも思っています。
彦根は井伊家 35 万石の城下町で、井伊家ゆかりの清凉寺(曹洞系)・龍潭寺(臨
済系)それに五百羅漢で有名な天寧寺(曹洞系)の名刹があり、私の学生当時、清
凉寺には村瀬さんと言われる老師様がおられて、市内の有志の方に日を決めて禅
のお話をされていましたが、たまたま私がその会に出席させていただいた時、有
名な『無門関』の「牛過窓櫺」の話をご提唱されていました。終わった後、お話
は何となく興味あるお話でしたが、お話の中身はサッパリ分りませんでした。そ
の老師様に直接お願いして、できたら僧堂の中で坐禅をさせてほしいとと申し出
た処、何時でも来てお坐りなさいと許可いただき、一人勝手に坐らせていただく
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ことができました。50 年後のある日、同期生の集まりがあった翌日、久しぶりに
清凉寺を訪ねましたが、当然のことながら、すべて鍵がかかっており、管理棟へ
廻ったが生憎誰も居られず、入ることは諦めて、当時のままの立派な建物を外か
ら眺めて当時を偲んだだけで帰宅の道を辿りました。
ご提唱を一緒に聞いたお方のうちのどなたかから、村瀬老師はお亡くなりにな
られたとのご通知と、
「王三昧」と書かれた色紙一枚を随分前にお送りいただき、
ご親切で優しかった老師様をお偲びし、ご冥福をお祈りしました。
昭和 36 年3月に卒業後、経済人で茶人としても知られている、耳庵、松永安左
ヱ門さん創立の岡山県備前市に本社のある耐火煉瓦メーカーに入社し、営業部に
配属されました。たまたま剣道に堪能な方がおられ、剣道部を創設し、有志を集
めて、空いていた社宅の一軒を剣道場に改装して稽古を始め、岡山県東部地区の
剣道大会に出場したりしましたが、
入社1年半で大阪営業所に転勤となりました。
それ以後、昭和 41 年 10 月の結婚に際し、大阪府高槻市にあった小さな建売住宅
を社宅としての新婚生活が始まることになりました。昭和 45 年の大阪万博には、
友人たちの万博行きの拠点として便利がられたこともありました。
当時の日本は、戦後空前の高度経済成長期で、日本全国にあらゆる新設工場の
ほぼ全てには動力源としてのボイラーが新設され、ボイラー用の耐火煉瓦専門商
社相手の仕事をしておりました。受けた注文品の製造納期が間に合わないケース
が頻繁に発生して、今では信じられないような全国が活気に溢れる時代でした。
やがて、新工場建設ラッシュも峠を迎え、製造業は新技術の導入・開発の時代
を迎え、耐火物業界自体も技術開発競争に明け暮れるようになり、各社も特色の
ある新製品を製造し販売し始めるようになりました。
わが社は、化学製品メーカー向けの反応炉用煉瓦、火力発電所ボイラー用煉瓦
やコークス炉やその他の都市ガス製造炉用の耐火煉瓦の製造を得意とするメーカ
ーでした。当時も今も鉄鋼メーカーが耐火物の最大の需要先ですが、中でも操業
条件の厳しい製鋼転炉用の耐火物の技術開発競争が最も熾烈でした。この分野は
後発ながら新製品が画期的な成績を出すに到り、技術陣の充実に見るべきものが
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ありました。
耐火物メーカーの営業マンとして営業実績を挙げる決め手は、通り一片の製品
知識だけでなく、相手先の技術者と互角に対応できる能力があるか無いかである
と気づき、猛烈に耐火物工学や物性論のほか熱力学や構造力学の基礎的知識の習
得にチャレンジし、社内技術者からの協力や独学によって、セールス・エンジニ
アのレベルには何としても到達したいものと頑張り始め、幸いにも耐火物分野は
技術全般の中では限られた狭い分野であるため、大手耐火物メーカーのセール
ス・エンジニアに負けないレベルには何とか到達することができました。
メーカーの営業マンは商社とは違い、単なる商品知識だけあればよいのではな
く、相手先の技術者と情報交換したり、製造現場に直接立ち入って現場の作業員
や技術者と親しく話し合えるかどうかが受注成約への大きな要因であると思いま
す。実際にそれが効果を上げて、他社の営業マンに負けない自信を得て、それが
営業成績にも表れることになり、いよいよ忙しさの度合いも増してきたのがこの
頃でした。
日本の製造技術は技術導入の段階から自主技術の開発の段階に移りつつあり、
あらゆる製造装置は単なる更新から新技術による新設備に移行し始め、その新設
備にマッチした新製品の開発競争に後れを取らぬことが求められ、何にも増して
あらゆる素材メーカーは日進月歩の開発競争に明け暮れる毎日でした。
この時期は、禅の世界には飛び込む余裕すらない時期でした。
当時の耐火物メーカーの主力製品は、鉄鋼メーカー向けの製品でしたが、私は
化学工業に目を向け、当時尿素肥料工場の能力向上新設計画が数社の各メーカー
で進められており、近くの泉北工業コンビナートに出入りしていた化学肥料工場
でも、
日産製造能力 500 トンから 1000 トンの新技術による能力アップが図られ具
体化しつつあったので、本格的に取り組むこととなりました。
ここで、現場での情報交換がものを言って、競争他社を遥かに引き離すことが
出来、反応炉用高付加価値耐火煉瓦と煉瓦積み工事の一括受注に成功することが
できました。これが国内の1号機であったため、その他の新計画の各工場の設備
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も次々と受注できました。この実績が認められ、当時のソ連向けの 30 基以上の同
種煉瓦の輸出案件が出た時、関係商社・エンジニアリング会社・プラントメーカ
ーからいっぱしのエンジニアと認められて、これも1号機の現地工事にスーパー
バイザーとして北コーカサス地方の天然ガス産出地、ネビンノムィスクという所
へ3か月半の間、派遣されました。これは 1971 年の 10 月末から翌年の2月末ま
でのことで、現地に居る間に円が急騰し、日本人最初の円高差損を体験し、札幌
のオリンピックで日の丸飛行隊が大活躍したのを現地の人たちが教えてくれまし
た。
長々と仕事の内容を書いたのは、この時期の数年間は多忙の極みにあって、禅
には関心を持ち続けていましたが、新展開は望めませんでした。
サラリーマン時代も後半を迎え、1975 年8月に大阪営業所から東京営業所に
転勤になり、経済の中心地で大口の客先が相手の仕事に変わりました。住所も武
蔵野市、JR 武蔵境駅にほど近い社宅に一家4人揃って住むこととなりました。
東京営業所には専任の技術員が常駐しており、本来の営業活動主体の仕事にな
ったことから、やや心の余裕もできたこともあり、1978 年8月頃から、中野区中
央1丁目の山岡鉄舟ゆかりの高歩院で関精拙老師を継がれた大森曹玄さんの主催
される「鐡舟会」という由緒ある禅会を知り、日曜日ごとに坐禅や曹玄老師の法
話を聞いたり、寺山旦中さんの指導による筆禅道に参加したり、直心影流「法定」
の形を見学したり、
「法定」の呼吸法の練習にも参加したりしました。このまま東
京営業所での勤めが続いていたら、この「鐡舟会」にそのまま入会していたかも
知れません。
しかし、住友金属の鹿島製鉄所に近い場所に出張所を開設され、単身赴任で
製鋼工場の転炉内張煉瓦や吹付補修材を納入し、直接陣頭に立ち、転炉の補修技
術サービス業務に変わり、現場技術者と息を会わせて、生産性向上のための共同
作業に当たる仕事に従事することとなりました。1981 年に家族全員が鹿島に移住
し、長女が現地の中学1年生、長男が小学1年生として通学し始めました。長男
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には剣道の本場中の本場である鹿島神宮の立派な剣道場で稽古をしている剣道ス
ポーツ少年団に参加させ、私も指導者の端くれとして久しぶりに竹刀を握ること
になりました。長男が2年生に成ったころ、長男を送り迎えしていた家内が、剣
道場の向かい側の神官の養成施設でもある建物で、修禅会が行われるという看板
を見たと教えて呉れたのが契機となって、それに初参加しました。これが、私の
「人間禅」との出会いとなり、鹿島禅会に受け入れられ、その頃はまだ道場の無
い房総支部の百姓家を借りての摂心会にも参加し、初めて公案を頂戴し、正式に
は未入会員のまま、8月の飯田禅会の柏心寺での摂心会に参加したとき、磨甎庵
老師の室で初関を突破することができました。
思えば禅に関心を抱いてから、永い年月を経て今北洪川老師、釈宗演老師、釈
宗活老師の法系を経た耕雲庵英山老大師の「人間禅」に辿り着き、房総支部での
磨甎庵老師、一宇庵老師、雲龍庵老師、千獃庵老師、洪濤庵老師を経て、それに
現在の巖光庵老師に至るご指導・ご鉗鎚のお蔭で修行できたことは正に法喜禅悦
の極みというべきであります。
後進の修行者のことを思うと、私より少しでも早くこの正しく法を伝えてきた
「人間禅」に出会えることを切に願うものであります。
「人間禅」の側から言えば、その存在を広く遍く世に知らしめることを真剣に
考えなければならないと思います。
合掌
■著者プロフィール
福原慶雲(本名/幸雄)
昭和 12 年、兵庫県生まれ。元九州耐火煉瓦KK勤務。昭和 58
年、人間禅白田劫石老師に入門。現在、人間禅布教師。
(関西支
部)
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