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わが国の高山植物の遺伝的多様性と脆弱性: 温暖化条件下で氷期遺存

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わが国の高山植物の遺伝的多様性と脆弱性: 温暖化条件下で氷期遺存
わが国の高山植物の遺伝的多様性と脆弱性:
温暖化条件下で氷期遺存種の南限集団が示すこと
Genetic diversity and vulnerability of alpine plants in Japan:
Tales of southern rear-edge of a glacial relict under climate change
平尾 章
*
Akira S. HIRAO
*
筑波大学菅平高原実験センター
Sugadaira Montane Research Center, University of Tsukuba
摘 要
日本の高山,特に本州中部山岳は,北方の高緯度地域に分布中心を持つ高山植物の
南限となっていることが多く,温暖化に対する脆弱性が危惧される。そこで氷期遺存
種として知られる高山植物チョウノスケソウ(Dryas ocotopetala)について,高緯度
地域から南限の日本までの遺伝的多様性を集団レベルで明らかにし,日本産の高山植
物の脆弱性を検討した。その結果,本州中部山岳では遺伝的多様性が顕著に減少して
いることが示された。特に最南地の南アルプスでは,高緯度地方と比べて遺伝的多様
性の約 90%が喪失していた。これまでの日本産高山植物に関する分子系統地理学の
成果として,本州中部山岳は過去の間氷期から集団が維持された逃避地と推定されて
いるが,分布南限の氷期遺存集団は遺伝的に脆弱であり,温暖化における「抗道のカ
ナリヤ」と言えよう。
キーワード:遺伝的多様性,温暖化,高山植物,周北極植物,氷期遺存種
Key words:genetic diversity, climate change, alpine plants, circumpolar plants,
glacial relict
1.温暖化に対する生物センサーとしての高山植物
日本の高山帯には,極域ツンドラなどの高緯度地
域と共通する生物種
(チ ョ ウ ノ ス ケ ソ ウ
(Dryas
octopetala)やクロマメノキ
(Vaccinium uliginosum)
,
ライチョウ
(Lagopus mutus japonicus)
,エゾナキウ
サギ
(Ochotona hyperborea yesoensis)などの動植物)
が分布しており,これらは氷期遺存種と呼ばれてい
る。現在,氷期遺存種は,日本のような中緯度地方
では高標高地に,高緯度地方では低標高地に分布し
ているが,過去の氷期には北半球の各地に広く分布
1)
していたことが化石記録などから示されている 。
つまり氷期遺存種とは,もともと高緯度寒冷地に起
源する生物群が,寒冷な氷期に中緯度地方まで南下
して分布を広げ,その後の温暖な間氷期を迎えて分
布域が縮小した際に,一部が高山などの寒冷地に取
り残されたものと理解されている。したがって氷期
遺存種は,地史的な分布変遷の歴史を内包する貴重
な生物遺産であると言える。中緯度高山に氷期遺存
的に分布する生物集団は,ヨーロッパや北米の高山
2)- 4)
,地球規模での気候変動を反
においても存在し
映した現象といえるが,日本の高山について生物地
理学的に特筆すべきこととして,いくつかの氷期遺
存種における分布南限地ということが挙げられる。
一般論として,温暖化に対する影響は寒冷地に適応
した生物で深刻とされているが,特に分布の南限地
5)
での応答が注目されている 。現在,急速に進行し
つつある地球温暖化は “ 疑いのない事実 ” と指摘さ
6)
れており ,氷期遺存種の分布南限地である日本の
高山生態系は,その影響を検知するための鋭敏なセ
ンサーと言うこともできよう。
温暖化に対する高山生態系の影響として,高山植
物の分布の変化が報告されており,ヨーロッパ・ア
ルプスでは 20 世紀から現在に至るまでに分布域が
7)
,8)
,日本国内では 10 ~ 20
実際に上昇していたこと
年前に記録のあったキバナシャクナゲ群落が消失し
9)
た などの事例がある。しかしながら高山生態系に
残存する氷期遺存種は,すでに 1 万年前からの最終
氷期以降の温暖化の歴史の中で,集団サイズの縮
小,局所集団の絶滅といった衰退を経験してきてい
ると考えられる。したがって,氷期から現在に至る
温暖期までを生き抜いてきた氷期遺存種についてそ
受付;2013 年 10 月 31 日,受理:2014 年 2 月 3 日
*
〒 386-2204 長野県上田市菅平高原 1278-294,e-mail:[email protected]
2014 AIRIES
63
平尾:高山植物の遺伝的多様性
の集団の変遷を知ることは,今後の地球温暖化が生
物に与える影響を考える上で有益な情報が得られる
と期待される。このような生物の歴史を理解する上
で強力なツールとなるのが,急速に発展しつつある
DNA 解析であり,種内の遺伝的多様性や系統関係
を推定することで,分布変遷の歴史や集団動態など
の解明が試みられている。さらに遺伝的多様性は,
10)
11)
集団レベルの適応度 や環境ストレスへの耐性 ,
12),13)
などと相関することが知ら
潜在的な適応能力
れており,集団の脆弱性の評価に用いることもでき
よう。生物種に含まれる遺伝的変異は,生物が進化
していく際の素材であり,それゆえ生物多様性の礎
をなす。地球温暖化は長期にわたって漸次進行する
現象であり,生態系の遺伝子レベルからの影響を検
討することで,集団の持続性,局所適応,さらに種
分化といった進化的な時間スケールでの議論が可能
14)
になるであろう 。
本稿では,まず日本列島の高山植物における遺伝
的特徴として,これまでに最も研究が進んだ系統地
理学分野の成果を概説する。次いで,日本の高山帯
に氷期遺存的に分布する植物種に焦点を絞って,そ
の集団の遺伝的多様性パターンを高緯度地域と比較
することで,北半球レベルでの視点から日本の高山
植物の脆弱性を検討する。
本論に入る前に,日本の高山植物と氷期遺存種の
関係について,整理しておきたい。日本では,森林
限界より上部に位置して草原が優占する領域を高山
帯,そして高山帯に生育の中心を持つ植物のことを
高山植物と呼んでおり,約 440 ~ 580 種の高山植物
15)- 17)
。高緯度地方に起源を持つ
が報告されている
氷期遺存種は,高山植物種の全体の約 25%であ
16)
り ,同一の種または近縁分類群が北極を囲むよう
な広範囲の分布パターンを示すことから,周北極要
素とも呼ばれている。その他の類型要素として,生
物地理学的な分布パターンから,アジア要素および
北太平洋要素と呼ばれる植物群が存在し,日本列島
が分布南限に相当するものの,ユーラシアや北米の
山地に由来する植物種が日本の高山帯に侵入した可
18)
能性が議論されている 。さらに日本や極東の低地
に由来することから低山要素と類型化される高山植
16)
物群も存在する 。つまり,ひとくくりに高山植物
といっても,高緯度地方や山地,低地といった異な
る起源に由来する多様な植物群が含まれている。
本稿では,その中で周北極的に広域分布する氷期
遺存種に焦点をあてることで,日本産高山植物の遺
伝的多様性を北半球レベルの視点から理解しようと
試みる。
2.系統地理学が明らかにした日本産高山植物の
分布変遷
日本列島は,第四紀更新世の寒冷期にはアジア大
64
陸と陸続きになったため,サハリンや朝鮮半島を経
19)
由した植物の移動が可能であり ,日本産高山植物
の多くは,過去の寒冷な時期に北から日本列島に侵
入し,それらが遺存的に残っているものと考えられ
ている。こうした植物地理学的な課題を解明するた
めに,系統地理学的解析が進められてきた。主に葉
緑体 DNA を用いた解析から得られた興味深い結果
として,日本に分布する多くの高山植物種
(ヨツバ
シ オ ガ マ(Pedicularis chamissonis), エ ゾ コ ザ ク ラ
(Primula cuneifolia), ミ ネ ズ オ ウ(Loiseleuria
procumbens)
,ミヤマキンバイ
(Potentilla matsumurae)
など)では,北海道から東北にかけての “ 北方系統 ”
と本州中部山岳に分布が限られる “ 本州中部系統 ”
20),21)
。このような 2
に大別されることが示された
大系統がさまざまな分類群で認められる理由とし
て,氷期・間氷期の気候変動サイクルを通して本州
中部系統が北方系統よりも先に日本列島に侵入した
可能性(時間差侵入仮説)と,本州中部地域の山岳が
高山植物の逃避地(refugia)として機能した可能性
20)
- 22)
。
(本州中部山岳逃避地仮説)
が提示されている
本州中部系統と北方系統が分岐した年代は,葉緑体
DNA に基づく分子時計では 10 ~ 380 万年前の第三
20)
紀鮮新世-更新世に相当するとされていたが ,ミ
ヤマタネツケバナ(Cardamine nipponica)の核 DNA
マーカーを対象とした詳細な推定では,約 10 万~
23)
11 万年前の間氷期であることが示されている 。
本州中部系統は,少なくとも最終氷期より古い氷期
に日本列島に侵入してきた集団の生き残りと考えて
いいようである。一方で,少数ながらもツガザクラ
(Phyllodoce nipponica)のように国内で明瞭な地理的
構造が存在しない種も認められており,上記とは異
24)
なる分布変遷過程も指摘されている 。
日本の高山のみならず国外の高緯度地方まで広く
分布する周北極植物については,欧米の研究グルー
プによって,北半球レベルでの網羅的な系統地理学
25)- 30)
,いく
的パターンがさまざまな種で解明され
つかの種で共通する逃避地としてベーリンジアが指
摘されている。ベーリンジアはユーラシア大陸北東
部と北米大陸北西部にまたがる地域であり,寒冷な
氷期では陸橋化した。ベーリンジアは更新世を通し
て氷床に覆われることがなかったため,重要な逃避
地であった可能性が植生分布パターンから指摘され
31)
ていた 。近年の DNA 解析や化石記録もベーリン
32),33)
。日本
ジア逃避地仮説を支持するものが多い
の高山に氷期遺存的に分布する周北極植物の北方起
源地を検証するため,日本産クロマメノキのハプロ
タイプを,周北極域を網羅的にサンプリングした試
料のものと比較したところ,日本産のハプロタイプ
はベーリンジア系統に属することが明らかになっ
34)
た 。日本産の周北極植物の起源地としてのベーリ
ンジア逃避地仮説について,他の植物種においても
類似の結果が得られるかを検証し,仮設の一般性に
地球環境 Vol.19 No.1 63−70
(2014)
ついて検討を行う必要がある。また,日本固有の高
山植物であるミヤマタネツケバナが周北極的に分布
するヒメタネツケバナ(Cardamine bellidifolia)から
35)
種分化したことが示されており ,北半球レベルで
の系統地理学的なアプローチは,日本産の高山植物
の種の多様化を理解する上でも有効であろう。
氷期・間氷期の気候変動のサイクルが高山植物の
分布変遷,特に逃避地に与えた影響は,過去に大陸
氷床が発達した欧米と,そうでなかった日本では対
照的であったと考えられている。ヨーロッパのよう
に大陸氷床が発達した地域では,氷期には氷河の発
達によって生物相が一掃され,低標高や低緯度の氷
河周辺部の逃避地へと後退したものや氷床を突き出
た岩峰などで存続したものが,最終氷期以降の新規
移住によって現在の分布へと広がったと推定されて
36),37)
。そこで逃避地と有力視される地域では,
いる
それ以外の地域に比べて高い遺伝的多様性を持つ集
38)
団が分布する傾向が示されている 。一方,日本で
は,氷期に山岳氷河は発達したものの氷床に覆われ
ることがなかったため,高山植物にとって生育が困
難な温暖期,つまり間氷期の生存が重要であり,低
温環境である高標高域が逃避地を提供したと考えら
れる。前述のとおり,本州中部山岳は過去の間氷期
から集団が維持された重要な逃避地と提唱されてい
る。しかしながら本州中部山岳は,間氷期の分布縮
小によって,南方の分布周縁に断片化された小規模
逃避地
(microrefugia)と 見 な す こ と が で き る。 だ
が,ヨーロッパの逃避地で認められたように本州中
部山岳では遺伝的多様性は保持されているのであろ
うか?また,集団が小さな逃避地に隔離されると,
遺伝的浮動によって逃避地集団間で遺伝的分化が進
みやすくなるという予測も成り立つ。はたして日本
の高山に氷期遺存的に分布する高山植物では,集団
の遺伝的多様性はどのように特徴づけられるのであ
ろうか?
ソ ウ と し て D. octopetala L. var. asiatica(Nakai)
39)
Nakai とする場合もあるが,本稿では欧州産とア
ジア産を区別せずに,両変種を含めた D. ocotopetala
sensu lato をチョウノスケソウと呼ぶことにする。
分布の中心をなす高緯度地域では群落主構成種とし
て連続的に分布するが
(図 1 上)
,日本などの中緯度
温帯域では高山帯に離散的に分布し,小面積のパッ
チが稜線上の風衝地にしがみつくようにして生育し
40)
ている(図 1 下) 。
日本列島の 7 集団(北海道の大雪山;北アルプス
の杓子岳,雪倉岳,鉢ヶ岳;中央アルプスの木曽駒
ヶ岳;八ヶ岳;南アルプスの悪沢岳)および国外の
6 集団(中国の長白山;アラスカの 14 レイクとトゥ
ーリック・レイク;カナダのカナナスキス;スウェ
ーデンのケブネケーゼ,スバールバル諸島のニーオ
ルスン(図 2))から,遺伝解析試料を採取し,チョ
ウノスケソウに対して開発されたマイクロサテライ
41)
ト DNA マーカー を用いて遺伝的多型を検出した。
集団間の系統関係は遺伝距離に基づいた NJ 系統樹
から評価した。また集団の遺伝構造を STRUCTURE
42)
解析 で評価した。
STRUCTURE 解析の結果,2 つの遺伝子プールが
推定され,一方は日本列島の 7 集団で構成されるク
ラスターに,もう一方は国外の 6 集団からなるクラ
3.氷期遺存種チョウノスケソウの集団遺伝構造:
日本における遺伝的な独自性
寒帯から亜寒帯にかけて周北極的に分布し,日本
では高標高域に氷期遺存的に分布する高山植物チョ
ウノスケソウを対象として,集団の遺伝的変異に関
する調査を実施した。氷期の寒冷期気候に適応して
広く分布していた周北極植物群を,チョウノスケソ
ウ属のラテン語名 Dryas にちなみドリアス植物群と
も呼ぶように,チョウノスケソウは代表的な氷期遺
存種である。また古気候学において最終氷期最盛期
以降の亜氷期をヤンガードリアス期と呼ぶように,
チョウノスケソウは過去の寒冷期イベントを象徴す
る 植 物 種 で も あ る。 分 類 学 的 に は 欧 州 産 の D.
octopetala L. をキョクチチョウノスケソウとし,日
本・朝鮮・中国の東アジア産を狭義のチョウノスケ
図 1 チョウノスケソウ(Dryas octopetala )の生育地.
上 : 北極圏(スバールバル諸島),下:日本の高山(白馬岳).
65
平尾:高山植物の遺伝的多様性
スターに対応した
(図 3 右)
。さらに各クラスターの
下位構造を解析すると,日本列島クラスターには 5
つの遺伝子プール,国外クラスターには 7 つの遺伝
子プールが推定され,それぞれの遺伝子プールにお
いて地理的なまとまりが認められた。ここで注目す
べき点は,北半球レベルの視点において日本集団の
遺伝的な独自性が際立っていたことである。しかし
ながら大雪山集団に注目すると,日本集団に基盤を
持つ遺伝子プールが,国外集団に基盤を持つものと
混合しており,大雪山において系統の二次的接触が
起こったと考えられた。また,本州中部集団と最も
系統的に近い集団は大雪山であり,長白山集団とは
より遠い関係を示した
(図 3 左)
。寒冷な氷期に,チ
ョウノスケソウが北方の高緯度地域から日本列島に
侵入する際に,サハリン・千島列島経由および朝鮮
半島経由の両ルートが想定されていたが,これらの
図 2 チョウノスケソウの分布と遺伝解析の対象集団.
①悪沢岳(南アルプス),②八ヶ岳,③木曽駒ケ岳(中央アルプス),
④杓子岳(北アルプス),⑤鉢ヶ岳(北アルプス),
⑥雪倉岳(北アルプス),⑦大雪山(北海道),⑧長白山(中国),
⑨カナナスキス(カナダ),⑩ケブネケーゼ(スウェーデン),
⑪トゥーリック・レイク(アラスカ),⑫ 14 レイク(アラスカ),
⑬ニーオルスン(スバールバル諸島)
図 3 チョウノスケソウ集団の系統関係と遺伝構造.
左 : 遺伝距離に基づく NJ 樹.右 :STRUCTURE 解析(最適な
遺伝子プール数 K は 2 と推定され,日本列島と国外の集団は
各々に異なるクラスターを構成する).
66
結果はサハリン・千島列島ルートの有効性を示すも
のである。
4.日本産チョウノスケソウの遺伝的多様性:
本州中部での顕著な遺伝的喪失
北半球に幅広い分布域をもつチョウノスケソウを
対象種とすることで,氷期遺存的な日本集団の遺伝
的多様性を,高緯度集団のものと比較することがで
きる。遺伝的多様性は高緯度集団で高く,緯度が低
くなるにつれて徐々に減少する傾向を示し,分布南
限の日本列島に至ると遺伝的多様性が大きく喪失し
ていることが明らかになった(図 4)。
日本列島の中では,本州中部地域,とくに南アル
プスにおける遺伝変異の喪失が顕著であった。南ア
ルプス集団では高緯度集団と比較すると遺伝的多様
性の 90%以上が喪失しており,高緯度地域では多
型性を示す遺伝子座のほとんどが固定していた。ま
た日本集団では遺伝的多様性の低さと対応するよう
に近交係数が高くなっていた。小集団化に起因する
近親交配によって遺伝的多様性の消失が促されたと
考えられる。一方で,最も遺伝的多様性が高かった
集団は,高緯度に位置するアラスカの 2 集団であ
り,ベーリンジア逃避地仮説が想起される。しかし
ながら,AFLP マーカーを用いて同種の系統地理的
パターンを検討した先行研究では,ヨーロッパ北部
とロシア北部の少なくとも 2 箇所の逃避地が推定さ
れているものの,ベーリンジア逃避地仮説は支持さ
28)
れておらず ,今後に検討すべき課題である。最も
高緯度に位置する北極圏スバールバル諸島のニーオ
ルセン集団では,他の高緯度集団よりも遺伝的多様
性レベルが低くなっていた。スバールバル諸島は,
最終氷期には全島が氷河に覆われていたため,現在
の集団は最終氷期以降に稀な長距離分散がもたらし
43)
た新規移住に由来する 。最終氷期以降の分布拡大
図 4 緯度傾度に沿ったチョウノスケソウ集団の
遺伝的多様性.
緯度が低くなるほど集団内の遺伝的多様性は減少し,分布
南限の日本列島では遺伝的多様性が大きく喪失していた.
地球環境 Vol.19 No.1 63−70
(2014)
の最前線にあるニーオルスン集団では,創始者効果
によって遺伝的多様性が減少したと考えられてい
41)
る 。
日本の高山帯に飛び石状に隔離分布する集団は,
天空の島々
(mountain sky islands)に生育する孤立
集団とも言える。集団間の遺伝的分化の程度を推定
してみると,日本列島の 7 集団の遺伝分化係数(FST)
は 0.549 であったのに対して,同じ地理的スケール
な が ら 高 緯 度 に 位 置 す る 北 欧 の 集 団 間 の FST は
41)
0.264 であり ,日本列島に隔離分布する集団では
遺伝的分断化が進んでいることが明らかになった。
一般的に,集団間の遺伝子流動に制限がある場合,
地理的に近い集団ほど遺伝的に近縁になり,地理的
に遠い集団ほど遠縁になるようなパターンを示すこ
とが多い。しかしながら日本列島に遺存的に分布す
るチョウノスケソウでは,集団間の遺伝距離と地理
的距離には有意な相関は認められなかった
(図 5)。
これは集団間の遺伝子流動が全く機能しておらず,
隔離された集団内において遺伝的浮動が卓越するこ
とで,集団間の遺伝的分化が促進されたことを示唆
する。
今回の研究によって,周北極植物チョウノスケソ
ウでは,本州中部山岳,特に分布最南端である南ア
ルプス集団において遺伝的多様性が顕著に喪失して
いることが明らかになった。これまでの日本産高山
植物に関する分子系統地理学の研究成果として,本
州中部山岳は過去の間氷期から集団が維持された逃
避地と推定され,多様化を進めた重要な場であった
可能性が議論されている。チョウノスケソウのマイ
クロサテライト DNA の結果では,大雪山集団では
国外系統との二次接触が認められるが,本州中部系
統は日本にユニークな遺伝子プールが保たれてお
り,本州中部山岳逃避地仮説が支持される。また葉
緑体 DNA マーカーを用いた解析では,チョウノス
図 5 チョウノスケソウ集団の地理的距離と遺伝距離
の関係 41).
ケソウの本州中部系統は,北海道や中国の系統とは
44)
異なるユニークな存在であった 。しかしながら,
長期間にわたって集団が存続した逃避地において遺
伝的にユニークな系統が認められた場合でも,遺伝
子プールが単純化することで遺伝的多様性が減少す
ることは起こりうる。南方の分布周縁で断片化され
ている日本集団では遺伝的分断化が進んでおり,卓
越した遺伝的浮動によって遺伝変異が喪失したと考
えられる。南方の分布域の周縁で断片化された小規
模逃避地は,中核的な逃避地とはその特徴が異な
り,遺伝的脆弱性が高い状況にある。日本産高山植
物として分布南限地で生育する氷期遺存集団況は,
その遺伝的脆弱性から温暖化の影響を鋭敏に検出す
るための「抗道のカナリヤ」であると言えよう。
5.おわりに
本稿では,中立的な遺伝変異に基づいて,日本産
の高山植物の遺伝的多様性について議論したが,温
暖化条件下での遺伝子レベルの応答として適応進化
について触れておきたい。気候条件への応答とし
て,局所的な気候に応じた生活史特性の分化といっ
た集団の適応進化の事例が知られている。この事実
は,過去の分布変遷の歴史を背負った生物集団の環
境応答が地域特異的であること,そして現在進行中
の地球温暖化によっても集団の遺伝的変化が遅かれ
早かれ確実に起こることを意味している。しかしな
12),13)
は集団の遺伝的多様
がら,潜在的な適応能力
性と相関することが知られており,氷期遺存的な高
山植物における遺伝的脆弱性は,温暖化に対して適
応進化するための制約になっている可能性がある。
チョウノスケソウの適応進化の実例として,高い遺
伝的多様性が示されたアラスカにおいて,局所環境
に適応して風衝地型と雪田型のエコタイプに分化し
45)
ていることが報告されている 。一方で日本の山岳
において多様なハビタットは存在するものの,チョ
ウノスケソウは風衝地にのみ分布しており,雪田や
その他のハビタットでの生育が認められない。新た
な環境に進出できるような潜在的な適応能力が失わ
れているのかもしれない。
近年のゲノムレベルでの遺伝子解析技術の進歩に
よって,機能遺伝子の多型が地理的にどのような広
46)
がりをもっているのか ,さらには地域間で異なっ
た環境への局所適応を遺伝子レベルから解明するこ
とが可能になってきた。高山生態系には多様なハビ
タットがモザイク状に分布し,標高という明瞭な環
境傾度が含まれるため,地球規模の環境変動下にお
ける適応現象を遺伝子レベルから理解するために
も,重要な研究テーマを提供するだろう。
日本を含む極東アジアでは集団間の遺伝的分化が大きく,遺伝的
.一方,
な距離と地理的な距離の相関は認められない
(P > 0.05)
北欧では集団間の遺伝的分化は小さく,遺伝的な距離と地理的な
.
距離の相関が認められる
(P < 0.05)
67
平尾:高山植物の遺伝的多様性
謝 辞
D. Ghosn, J. I. Holten, R. Kanka, G. Kazakis, J. Kollar,
ここで紹介した研究は,長野県科学振興会平成
22 年度科学研究費助成金,環境省地球環境研究総
合推進費
(D-0904)
および文部科学省特別教育研究経
費「中部山岳地域の環境変動の解明から環境資源再
生をめざす大学間連携事業」の支援により実施され
た。また国内外からのチョウノスケソウの試料収集
は,次の共同研究者および研究協力者のご協力とご
尽力の賜物である(以下,五十音順)。内田雅巳
(極
地研)
,大原雅
(北大),神田啓史(極地研),工藤岳
(北大)
,下野綾子(筑波大),露崎史郎(北大),増沢
武弘
(静岡大)
,劉琪璟(北京林業大),李雪峰(中科
院・応生研)
,和田直也(富山大),渡邉幹雄(愛知教
育大)
。ここに深く感謝申し上げる。
Molero Mesa, L. Nagy, G. Pelino, M. Puscas, G. Rossi,
P. Larsson, P. Moiseev, D. Moiseev, U. Molau, J.
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平尾 章
Akira S. HIRAO
北海道大学地球環境科学研究科修了。
博士
(地球環境科学)
。
専門は植物生態学,
分子生態学。筑波大学菅平高原実験セン
ターに研究員として勤務。現在は,環境
適応の遺伝的基盤に興味をもち,幅広い
標高帯に分布するシロイヌナズナ近縁野生種を材料にした研
究に取り組んでいる。高山生態系が主なフィールドだが,今
は,専ら標高 1,300 m にある勤務先で DNA 実験などに勤し
んでいる。
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