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すこ しユニークな履歴書

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すこ しユニークな履歴書
す こ しユニー クな履歴書
増
田
彰
正 (化 学教室 )
申 し出 た。
名古屋大学 の大学院で地球化学 を専攻する こと
になったが,研 究意欲 は前 にもま して燃 えなかっ
た。 しか し,次 の二つの仕事 をまとめてい る間だ
けは非常 に燃 えた。その一つ は,希 土類元素 の存
在度比 の変化 と原子番号 との間 の規則性 に関す る
もの。 もう一つ は,地 球 の原始時代 の鉛 の同位体
組成 の推定,で あつた。 これ は,共 に,紙 と鉛筆
ニー
蒻
と手回 し計算機 によるもので あ る。両研究 は,非
昭和 24年 7月 に新制東京大学 の学 生 として入
常 に優れ た仕事 であ る と今 も自負 で きるが,自 前
学 した。敗戦後 まだ 4年 目の当時,ひ もじい駒場
のデータによるもので はないた め,実 験 を重視す
寮 での生活 だった。進学志望学科で は大 いに迷 っ
る伝 統 を持 つ化学 の世界 で は,大 学院生 の仕事 と
たが,最 終的 に化学 にした。昭和 26年 4月 か ら
しては別枠
本郷 での学生生活 が 始 まる。友人達 の多 くは化学
実験 を大 い に楽 しんで い たが,私 はな じめず
(ノ
ー・ カウン ト)と なった。
実験的実績 がない とい う点 で は競争力 に全 く欠
“実験下手 コンプ レ ックス"に 悩 んだ。 これ は
け る私 を東京大学理学部化学教室 の助手 に採用 し
て下 さつた斎藤信房先生 には感謝 し切れな い もの
ひそかに不安 に思つてい た ことで あった。文学部
がある。5年 ぶ りに もどった東大 で は,気 体用 の
心理学科な どへ の転部・ 転科 も心 の中を よぎった
質量分析計 を使 って鉛 の同位体組成 を測定 した。
が,当 時の私 に とって は,ぜ い た く過 ぎる考 えで
とにか く斎藤先生 には文字通 り迷惑のかけっ放 し
あった。
で,何 のお返 しもして いない。汗顔 の至 りである。
,
,
就職 が うま く行 かなかった 4年 次 の晩秋 の あ る
斎 藤研 究室 に四 年半世話 になってか ら,昭 和
日,南 英 一 先生 に呼 ばれた。先生 は,「 名古屋大
37年 東大 の原子 核研究所 の助手 となった。 ここ
学理 学部 に最近 ,地 球科学科 とい う新 しい構想 の
で は,固 体用質量分析計 のイオ ン源 を自分で試作
学科 がで きたが,そ の学科 に地球 化学 の研 究室 が
し, これを使 って,安 定同位体希釈法 による希 土
ある。地球化学 の講座 は,日 本 で は これが唯一で
類元素 の定量 に成功 した。 しか し,私 が属 して い
ある。」 と,言 われ,私 に名古屋行 きを強 く勧 め
た書6「 5は 共 同利用へのサ ービスが主な業務であ り
られた。 しか し,私 は,地 球化学 にほ とん ど関心
私 の活動の大部分 は本来 の私 の業務 か らは全 く逸
がなかったので,数 日後 にその 旨を伝 えた。 (そ
脱 して い た。周囲 の人達 は暖 く親切 にして下 さつ
の時 の南先生 の部屋 は,私 の現在 の部屋 くらい に
たが,そ の限界 の到来 の 日の ことを考 え始 めて い
雑然 としていて,い ろい ろなものがあち こちにあっ
た。 それ を回避 す る意 味 を こめて,昭 和 41年
て,ほ とん ど腰 を下す空間 もなかった。)そ の時
NASAの
,
,
,
研 究所 に暫 く行 くことにな る。原子核
南先生 が どの ような表情 をなさったか記憶 して い
研究所 で は,現 東大総長有馬朗人先生 ,現 理化学
くして,前 言 を撤 回 し,再 考 したい と
研究所理事長小田稔先 生 はじめ,原 子核物理学 や
ないが,暫
-28-
宇宙線物理学 での鈴 々たる多 くの学者 と知 り合 う
7年 滞在 し,最 長記録 とな る。7年 目の秋 に雨上
機会 を得 た。
りの庭石 に足 を滑 らせ,頭 蓋骨 に細 い亀裂 が生 じ
NASAの 研 究所 に は二 年半滞在 した。無論
この期間 は,私 に とって非常 に有意義 な,思 い出
,
た。亀裂 の解消 には少 くとも 3年 はかか るとい う
医師の予言 は間違 って いなかつた。
昭和 56年 か ら東京大学理学部化学科 の教授 と
多 い ものであった。滞米中 に一つの事故 が起 った。
正確 に言 えば,そ れ は,ハ イ・ ウ ェイで起 った は
な り,11年 在勤す ることにな り,不 倒距離 (?)
ずの,し か し,起 らなかった自動車事故 の ことで
の記録 を更新。 (し か し,5年 目 の変動 はここで
ある。その責任 の大部分 は私 にあると判定 された
も起 り,理 化学研究所主任 を兼任す ることになっ
であろう。 あの状況下でその事故 を免 れ得 た可能
た。)赴 任当初 ,実 験室 の改造 な どに出費 を要 し
性 は 0.1パ ーセ ン ト以下 だつた と思 う。彼 が死 ぬ
相 当な赤字 を作 った。やがて実験装置 も拡充 され
か,私 が死 ぬか,多 分 ,両 方 が死 ぬか,し かなかっ
充実 した研究生活 を学生諸君や ス タッフと共 に分
た。両方 の車 が衝突 して,メ チャメチャにつぶれ
か つ ことがで きた。一 方 ,そ の間,緊 張 と不安 と
た可台旨性が 断然高 く,さ もなければ,彼 の車 が横
重圧 に悩 んだ日々 もあった。私 は,国 外 に対 して
転 してメチ ャメチャになったに違 い ない。 この惨
鎖国政策 を取 ってい たが,開 国 に踏 み切 った途端
事 を免れ得 たのは,彼 の強運 と私 の強運 と,そ し
に外国 か らの留学生や研究者が急増 した。 スペ ク
て,彼 のアクロバ ッ ト的な運転技術 の なせ る業 と
トル化学研究 セ ンターの設置 に至 るまでの苦労 も
しか言 い様 が ない。思 いが けぬ時 にこの思 い出が
,
,
感慨深 い ものがある。
ふ と湧 いて来 る ことが ある。 あの瞬時の シー ンを
私 にとっては最長滞在期間 の 11年 間であった。
思 い出す と,今 生 きて い るだけで も有難 い と思わ
な くて は・・ 。とい った気持 になるのである。 ア
大変 お世話 になった東大理学部 の多 くの方々に心
メ リカか ら帰国後一年 して,東 京理科大学 の応用
には在職 中大変 お世話 にな りました。
か らお礼 申 し上 げます。特 に理 学部事務部 の方々
化学科 の助教授 とな り,こ こに四年半お世話になっ
大学 に入学 してか ら今 までの人生 を振 り返 って
た。国家公務員 の資格 が切れ ることは損 にな り得
見 ると,主 観的 には,綱渡 りの連続 だったように
る ことは知 っていたが,流 れ に身 を任 せた。 ここ
で初 めて学 生か ら “セ ンセ イ"と 言われ る身分 と
思われ ます。 (多 くの人 に とって,人 生 とはそ う
なる。質量分析計か ら離れ ることになったため
友人 の励 ましと支 えがなかった ら何本 かの綱 を渡
仕事 の継続性 な どで は苦 労 があった。
り終 える こ とはで きなかった ことで しょう。綱 か
,
い うものなのか もしれ ません。)師 ,先 輩 ,知 人
,
神戸大学 に地球科学科 が新設 され,地 球化学講
ら完全 に落 ちかかった時 には,一 度 な らず,一 羽
座 の教授 となった。宝塚劇場 の近 くの,立 派 な洋
の鳥 が何処 か らか飛んで来て私の命運 を拾 い上 げ
館 を借 りる ことになる。私 は,意 図的 にで はない
て くれたようにさえ思われ ます。誰 がその鳥 を遣
が,4年 半 か 5年 で 身分 が変 って来 たが,神 戸 に
わ されたのか,私 は知 る由 もあ りません。
-29-―
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